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人力車発祥の日(日本橋人力車の日)

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日本記念日協会(※1)へ登録の今日・3月24日の記念日に「人力車発祥の日(日本橋人力車の日)」がある。
1870(明治3)年3月24日、人力車の発明グループの3人(鈴木徳次郎、高山幸助、和泉要助)に、東京府より人力車の製造と営業の許可がおり、日本橋のたもとから営業を始めたことから、人力車の営業活動を行っている「くるま屋日本橋」(※2)が制定したそうだ。
人力車は最近各地の観光地やイベントなどで人気があり、また環境を考える乗り物として評価が高いという。「くるま屋日本橋」では、東京の日本橋まつりなどに参加し、人力車の魅力をアピールしているそうだ。

”日本橋まつり”・・・?私は関西の人間だが、若い頃仕事の関係で5年ほど東京に住んでいたのだが”日本橋まつり”・・というのは聞いたことがないのでよく知らない。それで、ネットで検索したら日本橋、京橋間の中央通りと八重洲通りに面した商店、会社、 ビル、 近隣企業などで構成している商店街・東京中央大通会 による日本橋・京橋まつり実行委員会(※3)の主催で毎年10月に開催している”日本橋上を通過する唯一のパレード”のことらしい。
昨年で第41回目を迎えたらしいが、そうであれば、私はもう関西へ帰っていたのでその数年後に始まったようだ。昨年の「第41回日本橋・京橋まつり」のパレードの様子は以下でわかる。よく見ていると確かにパレードには人力車に乗っている人が見られる。

「第41回 日本橋・京橋まつり」開催 - YouTube

さて、人力車のことについては、このブログでは、4年前の2010(平成22)年03月22日に「歴史」の項目で「東京府(現在の東京都)が人力車の営業を許可(?から?)」のタイトルで、人力車の歴史、それと、人力車の俥夫(しゃふ)の生活実態等について2ページ続きで結構詳しく書いた。

ここ(2ページあります)→東京府(現在の東京都)が人力車の営業を許可(?から?の?)

今日はまた同じようなことを書くのは嫌なのだが、このような話は自分が好きなので、多少、前と重複するところもあるが、今回は視覚面を重視して別の切り口で書いてみようと思う。ただ、今日は、日本橋との関連で書こうと思うが、それを退屈と思う人は、前に書いたブログを見てもらうなり、また中間を飛ばし、このページ中断ぐらいから人力車の話題のところへ行ってください。

「日本橋」とは、東京都中央区日本橋川に架かる橋であり、本橋は、江戸時代(1604年=慶長9年)から日本全国へ続く五街道の起点となり、以降、江戸の中で最も賑わう場所として、浮世絵による風景画に描かれることが多くなる。
明治政府により編纂が始められた類書(一種の百科事典)『故事類苑』(※4)に「江戸ハ武藏國ノ一部ニシテ、其地名ハ鎌倉幕府時代ヨリ既ニ史乘ニ見エタリ」(※4:「古事類苑」地部/附江/名稱参照)とあるように古くは武蔵国豊島郡の一部であったが、平安末期、秩父平氏の一族江戸氏が今の皇居の地(東京・千代田区)に居館を造り、室町時代、上杉氏の将太田道灌が江戸城を築いてから城下町として発達、さらに1590(天正18)年徳川家康が入城して以来、幕府の所在地として繁栄した。
「江戸」の地名の由来は諸説あるが、「江」は「おおきな川」あるいは「入江」とすると、「戸」は「入口」を意味することから「江戸」とは、「江の入り口」つまり「河口」に開けた地と考える説が有力である。
当時の江戸は、武蔵国と下総国の国境である現在「隅田川」と呼ばれている川(もともとは荒川水系の入間川の下流部)の河口の西に位置し、日比谷入江と呼ばれる入江が、後の江戸城の間近に入り込んでいた。そして、現在の東京大学がある本郷台地は南に伸びて東京湾に突きだして半島のような「江戸前島」を形成していた。
その後、1590(天正18)年に江戸に入った家康は、江戸城へ物資を運ぶ船入り堀として、江戸前島の北端を両断するように「道三堀」を造築し、日比谷入江に注いでいた「平川」を道三堀につないで流路を変更し、現在の日本橋川の原型をつくった。 又、開削で出た土砂で日比谷入江が埋め立てられ町割りがなされた。当時の「江戸の原型と神田川の流路」は以下参考の※5:を参照されるとよい。
江戸前島の平川河口につくられていた現在の東京港の前身となる江戸湊は、江戸庶民に必要な消費物資の流通拠点として近世海運史上重要な役割を果たした。
中央区の地名の由来は東京23区のほぼ中央に位置することから、同区の区章は、お江戸の日本橋・京橋の欄干の擬宝珠をデザインしたもの(ここ参照)。中央の小円は日本と東京の中心を表しているという(1948(昭和23)年7月31日制定)。
区域の西側は江戸時代には日本橋や京橋など下町として栄えた地域であり、東側は同時代からの埋め立てによって出来た地域である。
現在の中央区の町名には旧日本橋区の区域にある街の町名は「日本橋○○町・○日本橋」と称している(八重洲を除く)。これは戦後、旧日本橋区と旧京橋区が合併する際に「日本橋」の町名が消えることを避けるために、旧日本橋区の町名に日本橋を冠したことによる。それだけ、江戸以来庶民に愛されている日本橋。そ後に架けられた橋は、一都市である江戸の象徴という範疇を超えて、日本の中心地として認識されていくようになった。

日本橋は『慶長見聞集』巻二「一里塚つき給ふ事」に「日本橋は慶長八癸卯の年、江戸町わりの時節、新敷出來たる橋也」「日本橋を一里塚のもとヽ定め、三十六丁を道一里につもり、是より東のはて西のはて、五畿七道殘る所なく一里塚をつかせ給ふ」(※4:「古事類苑」地部/附江/名稱参照)とあるように1603(慶長8)年徳川家康の全国道路網整備計画に際して初代の橋(木造)が架けられ、翌1604(慶長9)年五街道の基点となる。そして、現在も日本の道路網の始点であることを示す道路元標が日本橋の中央に埋め込まれている。
この橋の下を流れる平川(明治以後に道三堀の西半分と外濠[現在の外堀通り]が埋め立てられた結果、残った流路が現在は日本橋川となっている)は、江戸湊、隅田川と江戸の城下町とを結ぶ水運の動脈で、多種多様の船がひきもきらず、『江戸砂子』一に「北の橋詰室町一丁目、此西側を尼店と云、尼崎屋又右衞門拜領やしきなれば也、ぬり物見世なり、此所に前店とて、庇より又庇をさしくたして見世をかまへ、荷馬の具、其外小間物を商ふ、東の方河岸は大船町也、肴店にて毎日魚市立、」(※4:「古事類苑」地部/附江/名稱参照)とあり、両岸の河岸地には蔵や魚市があり江戸の水上物流の要として賑わった。もちろん、諸街道の基点でもあり、陸上交通の拠点でもあった。橋の規模は、全長28間(約51m)、幅4間2尺(約8m)だった。

上掲の画像は、国立歴史民俗博物館展示の17世紀前半の江戸の町の様子がわかる屏風絵『江戸図屏風』(六曲一双。※6参照)の部分であるが、『江戸図屏風』そのものは江戸幕府3代将軍徳川家光の行ったことを讃える為に描かれたと言われている。この部分は左隻第2扇最下段部分の、“日本橋、日本橋高札場、小網町、江戸の町屋(本小田原町の魚店)、江戸下町の河岸(米俵の荷揚げ)”などを描いている。

又、上掲の画像は、『江戸図屏風』左隻第2扇最下段部分の更に擬宝珠を飾った日本橋の拡大部分である。
この絵が示すようにすでに擬宝珠つきの反り橋が描かれており、橋周辺の賑わいをみることができる。擬宝珠は、橋の格を表すものであり、江戸城内廓(「城廓」)と市街とを結ぶ廓門橋(見付 御門)の他江戸市中で擬宝珠を飾った橋は、東海道筋の日本橋、京橋、新橋の3橋だけであったという。

又、上掲の画像も、同じく「江戸図屏風」左隻第2扇最下段部分の日本橋高札場の描かれた部分の拡大図である。
幕府は人々の往来の激しい地点や関所や港、大きな橋の袂、更には町や村の入り口や中心部などの目立つ場所に高札場(制札場)と呼ばれる設置場所を設けて、諸藩に対してもこれに倣うように厳しく命じたが、人通りの多い日本橋南詰には、高札場が置かれているのが分かる。高札の立てられている柵の向こう側に小さな小屋のように見えるものが、「晒し場」(「さらし首場」)だろう。晒刑では、主殺し、女犯僧、心中者などの犯罪者がそこにつながれ生き恥を晒された。
この『江戸図屏風』全体を見たければ以下参考の※6:「国立歴史民俗博物館-江戸図屏風 〔高精細画像順次拡大版〕」を覗かれるとよい。 各部分の説明付きで拡大図を見ることが出来る。また、出光美術館所蔵の同時代の八曲一双の『江戸名所図屏風』(参考※7)でも大きな画像で見られる。
この木造の日本橋は、明暦の大火(1657年)により全焼。江戸は火事が多く、江戸幕府開府から幕末に至るまでの間に幾度も焼け落ち再建されるが、現在の石造二連アーチ橋が架けられたのは、1911(明治44)年4月3日のこと。今から103年前のことである。
ルネッサンス様式の石橋は太平洋戦争の戦火にも耐えて、当時の姿を今に伝えており、現代でも近代東京の名建造物のひとつだが、今日では橋の上に首都高速都心環状線が造られているため、残念ながら景観は往時のものとは異なる風情となってしまっている。
少々前口上が長くなってしまったがここから本題の「人力車」の話に入る。


1858年7月29日(安政5年6月19日)に締結された日米修好通商条約安政五ヶ国条約)に基づき翌・1859年7月1日(安政6年6月2日)に武蔵国久良岐郡横浜村(横浜市中区の関内付近)に横浜港が開港後、さまざまな近代的な交通手段が登場したが、陸上交通の近代化は馬車から始まった。
江戸時代の日本では馬車を含む車の利用は京(京都)における牛車(ぎっしゃ)や、幕末期に主要な街道や江戸で荷車が使われた以外ほとんど利用されなかったが、横浜開港後、外国人が馬車を開港場に持ち込むようになると、物珍しさも手伝ってか馬車は大きな話題になった。ただ、その利用は外国人に限られ、一般の日本人が馬車を利用することはほとんどなかったが、こうした状況が大きく変化したのは明治維新後、京浜間で乗合馬車の営業が始まってからのことだ。
この馬車路線が開設された直後に人力車も実用化され、横浜と東京を結ぶ東海道では馬車や人力車を見ることが珍しいことではなくなった。
人力車とは、人をのせ、車夫がひいて走る一人乗りもしくは、二人乗りの二輪車であり、俥(くるま)。腕車(わんしゃ)。人車(じんしゃ。くるま)。力車(りきしゃ)とも呼ばれ、これを曳く車夫は俥夫(しゃふ)とも書き、また車力(しゃりき)とも言った。
その人力車の日本での発明には諸説あり、本当のところはよくわからないらしいが、広辞苑にも、和泉要助鈴木徳次郎、高山幸助らの発明と書かれており、又、私の蔵書週間朝日百科 「日本の歴史」106号近代1−?博覧会の“明治の発明品“の中にもこの3人により1870(明治3)年に発明されたと書かれているので、どうもこの3人による共同事業であったらしい。

上掲の画像は同書に掲載されていた絵(国立資料館蔵)を部分カットしたものであるが、その絵には”神田の俥屋らしい”との添え書きがあった。今観光地などで見られるものとは大分様子が違い大八車に四柱を立て屋根を付けたものだ。
日本で発明された人力車は、それまで使われていた駕籠より速かったのと、当時馬よりも人間の労働コストのほうがはるかに安かったことから、すぐに人気の交通手段になったようだ。ここらの事情は、先にも紹介したように以前このブログ東京府(現在の東京都)が人力車の営業を許可(?から?の?)で詳しく書いているでそこで見てほしい。
当時としては文明開化の象徴でもあった「人力車」は、日本橋の高札場の横で営業 を開始して、あっという間に全国に広まったようだ。
もっとも、京浜間で馬車や人力車が盛んに使われたのは鉄道が開通(日本の鉄道史参照)するまでの短期間だったが、馬車にせよ人力車にせよ、当時の人々は現在のタクシーやバスを利用するような感覚で頻繁に利用していたことは間違いない。

.それでは、江戸のランドマークであり、今も変わらず注目されている日本橋とそこに人力車のある光景を、以下参考※8に掲載の「「国立国会図書館のデジタル化資料」日本橋・駿河町の錦絵」より眺めてみよう。

上掲の画像は、歌川芳虎画「東京日本橋風景」大判錦絵 3 枚続 1870(明治3)年のものである。これ以降掲示するものについて、同ページへアクセスすると原寸大まで拡大して美麗画像が見られる。拡大図とあるところをクリックしてください。
歌川芳虎 東京日本橋風景(明治3年)拡大図この画像には、先で紹介した国立歴史民俗博物館-『江戸図屏風』と同じように日本橋の高札場が描かれているが、17世紀前半の家光の時代のもであり、高札場は平地に柵で仕切られた中に立てられている。Wikipediaによれば、「高札は1874(明治7)年に廃止が決定され、2年後には完全に撤去され」とあるが、1870(明治3)年に描かれたというこの絵では石垣の高いところに表示されており、文明開化の速かった東京では、もう、名ばかりのもの、観光名所程度になっていたのではないか。その高札所の横に「人力車」の絵を描いたのぼりを立てた人力車の営業所のようなものが見える。この作品は人力車の営業許可が下りた年のものであり、人力車も、前段に掲載の絵(国立資料館蔵)と同じく、大八車に四柱を立て屋根を付けたものだ。ここが今でいうタクシー乗り場的な場所になっていたのだろう。絵には、絵師の空想も含まれているかもしれないが、人力車や馬車(日本人の営業用のものも見える)他、外人が乗っている自転車とは違って、編笠をかぶった着物姿の日本人が乗っている自転車は木製のような感じであるなど、さまざまな乗り物が描かれていておもしろい。兎に角、二輪車・三輪車の登場する錦絵としては最初のものといわれている。上掲の画像では向かって右端、アクセスした先で画像が逆に配置されているので注意)。
同じく歌川芳虎の1872(明治5)年に描いた以下の絵を見てください。
拡大図
この絵には、日本橋の前を人力車に乗って通り好きようとしている夫人の図が描かれているがその向こうには日本橋三井組ハウスが見える。
この建物「三井組ハウス」は、幕府御用を務め、王政復の発令を経て維新政府の為替方として業界の首位に立っていた三井組は、1868(明治1)年が、新政府の金融事務を命ぜられ、御為替方三井組の名で担当し、当時明治政府を全面的に支えていた。そんな三井組が独自に商業銀行を立ち上げるべく1872(明治5)年、現在の中央区日本橋1丁目及び兜町にかかっていた海運橋際に建設したもの。1873年8月1日に営業を開始した日本初の商業銀行である総工費は約4万7千両、5層の洋館は頂上部に展望台である「物見」が据えられ、世間の話題を集めたという。後に第一国立銀行となる。現在みずほ銀行兜町支店のビルの壁には「銀行発祥の地」のプレートが埋め込まれている。(設立の事情は※9参照)。

「上掲の画像は、兜町の「三井組ハウス」。Wikipediaより。

上の画像は歌川芳虎によって1974(明治7)年に描かれた駿河町の三ツ井正寫(しやううつし)の図である。
拡大図
この絵にも三井呉服店(現三越)と共に、為替バンク三井組が描かれている。
三井組と同じく、く小野組、そして、明治政府も銀行の設立を目指していた。大蔵省で国立銀行の準備にあたっていた渋沢栄一より、三井・小野両組合共同での設立を提案(強要)された三井は、共同経営を避けたかったが、やむなく「三井小野組合バンク」を設立。さらに政府の要求により、三井組は完成したばかりの「海運橋三井組ハウス」を政府に譲渡させられた。
こうして、1873(明治6)年、三井・小野両組合合作の日本初の銀行国立銀行条例による国立銀行第一国立銀行(民間経営)が発足する。渋沢はこの時この銀行の総監督に収まっている。その後いろいろなことがあり、小野組が破綻。三井組は第一国立銀行を三井の銀行とすることを企図するが、渋沢は逆に同行を三井組からの支配から独立させ組織改正を提唱。それでも銀行設立を諦めず、三井組は第一国立銀行から手を引き、1874(明治7)年、三井の本拠地である日本橋駿河町に、銀行業務を行う3階建ての洋館「駿河町為替バンク三井ハウス」を建設。それが、上掲の中央の建物である。屋上にシャチを乗せた瀟洒な洋館には「為替バンク三井組」の看板を掲げた。
この後、1876(明治9)年7月遂に明治政府から認可を得て日本初の民間銀行「三井銀行」が開業することになる。(複雑な設立の事情は※9参照)。
屋根の上に大鯱(しゃちほこ)がひときわ目立つこの3階建て建物は、総建坪620坪(約2,050m2)、地上から鯱の頂上までの高さが80尺(約24m)あるという。外観は木造漆喰塗りのいわゆる土蔵造りで、アーチ形の扉や1・2階のベランダ、3階正面のバルコニー、ポーチとベランダのコリント式列柱などにより、海運橋に建つ第一国立銀行に増して洋風色が濃く表れている。・・・と、参考※10にも書いているように、建物とは、時代や文化、人々の思いを映し出す器であるが、文明開化の一つの象徴ともいえる「為替バンク三井組」は当時、その代表格であったことに間違いないだろう。
この下の画像は、三代広重が1875(明治8)年に駿河町三井銀行になってからのものを正面から描いたものである。

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この下は、二代歌川国輝による日本橋電信局(東京格大区之内)の図である。

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この絵には、人力車に乗った夫人二人が横から飛び出してきた猫らしき動物に驚いた車夫が車を止めたのでびっくりした様子が描かれている。
電信柱が立っている横の建物が日本橋電信局だろう。
明治維新後の1869(明治2)年英国の通信技師を招き、横浜灯明台役所(灯台づくりの拠点とした役所。試験灯台が出来た後は灯台勤務者の訓練所となる)から横浜裁判所までに日本で初めての電信回線を開通させ、同年末には東京築地明石町)の運上所(現・東京税関)から横浜裁判所までの電信事業が発足した。
1872(明治5)年5月には日本橋の晒場のあった南詰東側に日本橋電信局が開設され、築地から電信線が延長された。両国・浅草橋の電信局も、これと同時に開業したようだ。
以下に掲載されている郵政博物館所蔵の絵を見ると日本橋電信局の全体像が分かる。面白いことに、このころの橋では、人力車などが渡る道と人が渡る道が区別されている。それだけ、人通りが多く、また、人力車の通行も多いことから、危険防止を考えてのことだろう。
東海名所改正道中記 電信局 日本橋 新橋迄十六町 文化遺産オンライン
この下の画像は紅英斎が1882(明治15)年に描いた日本橋京橋間の銕道馬車の様子である。

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紅英斎という人物についてはよくわからないが、銕道馬車の横を多くの馬車や人力車が競うように走っている。これ以上錦絵のアップはしないが、以下のサイト「大江戸データベース - 東京都立図書館」では、「東京銀座煉瓦石繁栄之図・新橋鉄道蒸気車之図」(明治6年、歌川国4代)、「東京八ツ山下海岸蒸気車鉄道之図」(歌川広三3代)明治4年)、「東京銀座要路煉瓦石造真図」(歌川国輝2二代明治6年)、「東京名所之内銀座通煉瓦造鉄道馬車往復図」(歌川広重3三代明治15年)、など時代とともに発展する東京の町で活躍している人力車の姿が大きな拡大画像が説明付きで鑑賞できる。
大江戸データベース - 東京都立図書館
また下の「鉄道錦絵 - 物流博物館」では、「東都高縄蒸気車往来之図」歌川芳虎・立祥([2代]明治4年)、「東京名勝高縄鉄道之図」(歌川広重3代、明治4年)、「京高輪真景蒸気車鉄道之図 」(歌川広重3代、明治6年)、「東京品川海岸蒸汽車鉄道之図」(歌川広重3代明治6年)、「六郷川蒸気車往返之全図」(歌川広重3代、明治4年)の絵に人力車が描かれている。
鉄道錦絵 - 物流博物館

私など、人力車と言えば、阪東妻三郎主演の映画『無法松の一生』(大映・1943年版,白黒)が思い浮かぶ。

上掲の画像は阪東妻三郎主演映画「無法松の一生」DVD
映画は、1897(明治30)年、九州小倉の古船場に博奕で故郷を追われていた人力車夫の富島松五郎が、昔ながらの“無法松"で舞戻ってきて、芝居小屋へ同僚の熊吉と行き、桝席の中で酒のつまみに炭でニンニクを焼いていて人に迷惑をかけ大混乱となるが、そこに現れた地元を取り仕切る侠客の結城重蔵に仲裁され侘びを入れるところから始まる。
その後、友人となった矢先、急病死した陸軍軍人・吉岡の遺族であるか弱い(未亡人・良子と幼い息子・敏雄)の将来を思い、身分差による己の分を弁(わきま)えながらも、無私の献身を行う無法松と、幼少時は無法松を慕うも長じて(自身と松五郎の社会的関係を外部の視点で認識するようになったことで)齟齬(そご)が生じ無法松と距離を置いてしまう敏雄、それでも無法松を見守り感謝の意を表し続けてきた良子との交流と運命的別離・悲しい最後の場面などが描かれている。
再映画化された東宝・1958年版の三船敏郎主演による映画も良かったが、やはりあのような時代背景の中での武骨な明治男の役柄は、同じ明治生まれの阪妻の方がずっと味があった。
余談だが、先日、SMAP木村卓也が2夜連続のテレビ時代劇「 宮本武蔵」を演じていたが、私も彼は嫌いじゃないので、少し見かけたが、最初から、余りにも様になっていので、もう見なかった。誰が企画したのか知らないがよくも彼にあのような役をやらせたものだ。今アメリカでは西部劇映画を演じられる役者がいないから西部劇を作らないと言われているが、日本でも時代劇を演じられる役者は数少なくなてしまった。それを木村卓也にやらせた。可愛そうに、彼もこれで値打ちを下げたのではないか。三船は時代劇好きの私にとっては大好きな俳優だし、大根役者ではないけれど、やはり無法松のような役では阪妻にかなわなかった。

無法松の映画でも見られたように、人力車の俥夫(しゃふ)の身分は明治時代には低くみられていた。
前のブログでも書いたことだが、1873(明治6)年に、「僕婢馬車人力車駕籠乗馬遊船等諸税規則」が告布されたが、これは財源不足に苦しむ明治政府が歳入増加のため、僕稗を召し使う者や、馬車・人力車などを所有する者に課税したもので、一種の奢侈税であったが、この規則に書かれている「僕碑」(ぼくひ)は、「下男」などをさしていうが、「」という用語は、身分の低いことや卑しいことを指しており、今で言う差別用語の1つである。何故、人力車の車夫などを「僕婢」などと呼んでいるのだろう。
先にも書いたが、馬車を引く馬の代わりに人が車を引く。この単純で原初的な都市内交通機関である人力車は、技術も不要であり、当時貧民街に住む下層民には手頃な職業であり、その大部分は車を借りての営業形態であったため、東京では日清戦争期に約4万人余りにまで増加したという。今のアジアでも最も貧しい人達の代表的な職業のようであるが、当時の日本も同じ状況で、車夫こそ当時の女工と並んで明治の低賃金労働の代表だったようだ。そのうえ、貧乏人に対する差別意識は、現在よりはるかに強く、乞食や細民は人間でないかのごとくに扱われていた。だから、僕碑」(ぼくひ)などと言われていたのだ。
このような人力車夫を描いた映画として、もう1つ私の記憶に残る映画があった。織田作之助原作で、川島雄三監督の映画『わが町』。1956 (昭和31) 年の古いモノクロ映画である(※11参照)。
映画は織田が育ったといわれる大阪の河童路地を舞台に、不撓不屈の精神で人力車引きをしながら孫娘を育てあげる男・佐渡島他吉の、明治・大正・昭和にわたる波瀾万丈の生涯を描いた一代記である。
佐度島他吉を演じたのは島田正吾と共に、劇団新国劇の屋台骨を支えた辰巳柳太郎である。

「国元への送金も思うようにならず、これではいったいなんのために比律賓(フィリピン)まで来たのかわけが判らぬと、それが一層「ベンゲットの他あやん」めいた振舞いへ、他吉を追いやっていたが、やがて「お前がマニラに居てくれては……」かえってほかの日本人が迷惑する旨の話も有力者から出たのをしおに、内地へ残して来た妻子が気になるとの口実で、足掛け六年いた比律賓をあとにした。
 神戸へ着いて見ると、大阪までの旅費をひいて所持金は十銭にも足らず、これではいくらなんでも妻子のいる大阪へ帰れぬと、さすがに思い、上陸した足で外人相手のホテルの帳場をおとずれ、俥夫に使うてくれと頼みこむと、英語が喋れるという点を重宝がられて、早速雇ってくれた。
給料はやすかったが、波止場からホテルへの送り迎えに客から貰うチップが存外莫迦にならず、ここで一年辛抱すれば、大阪へのよい土産が出来る、それまではつい鼻の先の土地に妻子が居ることも忘れるのだ、という想いを走らせていたが、三月ばかり経ったある日、波止場で乗せた米人を、どう癪にさわったのか、いきなりホテルの玄関で、俥もろともひっくりかえし、おまけに謝ろうとしないのがけしからぬと、その場でホテルを馘首になった。
 その夜、大阪へ帰った。六年振りの河童路地(がたろろじ)のわが家へのそっとはいって、
「いま、帰ったぜ」
 しかし、返事はなく、家の中はがらんとして、女房や、それからことし十一歳になっている筈の娘の姿が見えぬ。
 不吉な想いがふと来て、火の気のない火鉢の傍に半分腰を浮かせながら、うずくまっていると・・・・」(※12 :「青空文庫-織田作之助 わが町」よりの抜粋である)。
1906(明治39)年、フィリピンのベンゲット道路建設に働く佐度島他吉は警官と争ったため追放されるが、そんなフィリピンのペンゲット道路で過酷な労働にたえたことを人生の誇りにしている他吉は、そのせいで妻と、男手ひとりで育てた娘と夫を死なせてしまう。
そしてさいごには、他吉はフィリピンでしか見れない思い出の南十字星四ツ橋プラネタリウム(日本ではじめてプラネタリウム[ ドイツ製カール・ツァイス]II型。現在は大阪市立科学館に展示されていて、大阪市有形文化財に指定されている。※13参照)で見ながら死んでゆくという筋立てである。
この他吉の口ぐせは「人間はからだを責めて働かなあかん」・・・・である。
時代の移り変わりにもかかわらず、頑固に俥をhひき続ける他吉を演ずる辰巳も明治時代の武骨な男のよく似合う役者であり、無法松を演じた阪妻を思わせて素晴らしく、特に人力車を引く姿は思わずダブってしまう。

上掲の画像は、映画「わが町」のDVDの判妻。
運送手段としての人力車は、馬車や鉄道、自動車の普及により、都市圏では1926(昭和元)年頃、地方でも1935(昭和10)年頃をピークに減少し、戦後、車両の払底・燃料難という事情から僅かに復活したことがあるが、現在では一般的な交通・運送手段としての人力車は存在していない。

上掲の画像は、マイコレクションより、我が地元神戸出身の木版画家川西英の版画による絵葉書で、神戸港の風景。外人観光客らしい4人が人力車に乗っている。昭和前期の作品だろう。
映画「わが町」の主人公他吉は、フィピンから神戸へ着いて外人相手のホテルの帳場をおとずれ、俥夫に使うてくれと頼み込んで、英語が喋れることから、早速雇ってもらった。給料は安かったが、波止場からホテルへの送り迎えに客から貰うチップが存外莫迦にならず結構稼いだとある。
無法松などとは違い他吉は頭が良い。戦前までの神戸港は日本を代表する港であり、港には外国船がひっきりなしに着いた。外国人の観光客も当然多かった。そんな外国人はチップをくれる習慣がある。いいところに目を付けたものだ。

現在人力車は主に観光地での遊覧目的に営業が行われている。Wikipediaによると、観光に人力車を復活させた元祖は鎌倉の現在の有風亭(※14)であり、テレビ番組等で度々紹介されて各地に普及したという。当初、京都といった風雅な街並みが残る観光地、又は浅草などの人力車の似合う下町での営業が始まり、次第に伊豆伊東、道後温泉といった温泉町や大正レトロの街並みが残る門司港、有名観光地である中華街などに広がっていったそうだ。
明治時代は、仕事がなく収入も少なく、余り良くみられていなかった人力車夫の仕事。豊かになった今の日本では、これで結構いい稼ぎになるのだろうか?
私にはわからないが、昔と違って今の人力車は性能もよくなり、車も楽にひけるようになり、今の若い人の感覚では、レトロブームで、結構恰好いい仕事の一つでもあるのだろう・・・・ネ。

(冒頭の画像は、マイコレクションより、和歌山県 加太淡嶋神社で客待ちする人力車夫。絵葉書には、司令部許可とあり、、加太にも要塞があったので、戦前の要塞地帯では出版物や写真などは、在地司令部の許可を必要とした。このような写真まで・・・)


参考のページへ

「エープリルフール」は新年度。今年は消費税アップの日:参考

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参考
※1:日本記念日協会
http://www.kinenbi.gr.jp/
※2:八月一日という名字 - 日本実業出版社
http://www.njg.co.jp/blog_morioka.html?itemid=575
※3:近童弐吉プロデュース『四月の魚 Poisson d'avril』 - 閑人手帖
http://otium.hateblo.jp/entry/2013/04/04/000000
※4:会計年度と財政立憲主義の可能性 −松方正義の決断− (PDF)
https://m-repo.lib.meiji.ac.jp/dspace/bitstream/10291/11753/1/horitsuronso_83_2-3_97.pdf
※5:消費税とその種類
http://www.bunsan0020.info/ao5017/
※6:直接税と間接税について:税金の基礎知識
http://税金対策節税.com/tax/about_tax/tax2.html
※7:昭和37年法律第48号【改正履歴等】(物品税法について)
http://hourei.hounavi.jp/seitei/enkaku/S37/S37HO048.php
※8:消費税の逆進性と物品税1 - ISFJ日本政策学生会議(Adobe PDF)
http://www.isfj.net/ronbun_backup/2004/ronbun/zaiseiA_yagi.pdf#search='%E6%B6%88%E8%B2%BB%E7%A8%8E+%E5%B0%8E%E5%85%A5%E4%B8%AD%E5%89%8D%E3%81%AE%E7%89%A9%E5%93%81%E7%A8%8E%E7%8E%87'
※9:細川首相「佐川急便問題」は、自民と、社会・さきがけの裏切りによる、謀略
http://yaplog.jp/kenchicjunrei/archive/96
※10:細川護煕(護熙)の佐川急便1億円借金事件 元自民党議員らが真相を語る
http://1000nichi.blog73.fc2.com/blog-entry-4586.html
※11:社会保障・税一体改革大綱について(平成24 年2月17 日閣議決定)(Adobe PDF)
https://www.mof.go.jp/comprehensive_reform/240217kettei.pdf#search='2011%E5%B9%B46%E6%9C%88%E3%81%AB%E3%80%8C%E7%A4%BE%E4%BC%9A%E4%BF%9D%E9%9A%9C%E3%83%BB%E7%A8%8E%E4%B8%80%E4%BD%93%E6%94%B9%E9%9D%A9%E6%88%90%E6%A1%88%E3%80%8D'
※12:社会保障制度改革国民会議 報告書(Adobe PDF)
http://www.kantei.go.jp/jp/singi/kokuminkaigi/pdf/houkokusyo.pdf
※13:「平成9年のトラウマ」 終止符打てるか-msn産経ニュース
http://sankei.jp.msn.com/economy/news/131003/fnc13100318160016-n1.htm
※14;社会保障への効果疑問 道筋厳しい財政再建-msn産経ニュース
http://sankei.jp.msn.com/economy/news/131002/fnc13100210470013-n1.htm
※15:社会保障制度改革国民会議報告書のポイントと評価 - 日本総合研究所(Adobe PDF)
https://www.jri.co.jp/MediaLibrary/file/report/researchfocus/pdf/7028.pdf
※16: 平成26年度 税制改正大綱 | 政策トピックス | 政策 | 自由民主党
https://www.jimin.jp/policy/policy_topics/123161.html
※17:消費税の複数税率導入に反対する意見-日本経済団体連合会2013年11月20日
http://www.keidanren.or.jp/policy/2013/105.html
※18:岩本沙弓オフィシャルサイト
http://www.sayumi-iwamoto.com/
※19:岩本沙弓『バブルの死角 日本人が損するカラクリ』を読む
http://daisyoninn.asablo.jp/blog/2013/07/06/6891435※20:輸出企業に消費税が還付されるしくみ(Adobe PDF)
http://hb8.seikyou.ne.jp/home/o-shoudanren/hayasi.pdf.pdf#search='%E6%B6%88%E8%B2%BB%E7%A8%8E+%E8%BC%B8%E5%87%BA%E6%88%BB%E3%81%97%E7%A8%8E'
※21:PRESIDENT 2013年9月30日号:米国が今も消費税を導入しない「もっともな理由」
http://president.jp/articles/-/10632
※22:世界の消費税率ランキング!日本は本当に低いの? - NAVER まとめ
http://matome.naver.jp/odai/2133545150938873201
※23:Web漢文大系:論語
http://kanbun.info/keibu/rongo00.html

特集〜消費税増税は必要ない!
http://rh-guide.com/tokusyu/syohizei.html
消費税などの税に関する情報 - 全国間税会総連合会
http://www.kanzeikai.jp/index.asp?page_no=154
日経 12月12日 自公、14年度与党税制大綱決定 軽減税率導入、実施年月明示せず
http://www.nikkei.com/article/DGXNASFL120Q0_S3A211C1000000/
消費税-国税庁HP
http://www.nta.go.jp/taxanswer/shohi/shouhi.htm
消費税を巡る議論 - 国立国会図書館(Adobe PDF)
http://www.ndl.go.jp/jp/data/publication/issue/0609.pdf#search='%E5%A3%B2%E4%B8%8A%E7%A8%8E%E6%B3%95%E6%A7%8B%E6%83%B3'
こよみのページ
http://koyomi.vis.ne.jp/
面白い苗字 読めない苗字
http://lexxus.web.fc2.com/myouji.htm
消費税 – Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B6%88%E8%B2%BB%E7%A8%8E

「エープリルフール」は新年度。今年は消費税アップの日:本文へ戻る

「エープリルフール」は新年度。今年は消費税アップの日。

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4月1の今日は、何の日ですか?
そう聞いたら殆どの人は「エイプリルフール」(April Fool's Day)・・・と答えるだろうほどに、この日は有名。
興味のある日なので、私も「エイプリルフール」関連のことは、このブログで既に3度も書いている。
第1回目は「エープリルフール」のタイトルで簡単に。
第2回目「四月馬鹿」のタイトルで、横溝正史のデビュー作 『恐ろしき四月馬鹿』に絡めてのお話を。
第3回目は「ピノキオの鼻とうそ」のタイトルで、「嘘(うそ)」についての話を。
にもかかわらず、過去3回の中で、肝心のエイプリルフールの起源については書いていなかったが、いつ、どこでエイプリルフールの習慣が始まったかはよくわかっていないらしい。たた有力とされる起源説として、その昔、ヨーロッパでは3月25日を新年とし、4月1日まで春の祭りを開催していたが1564年にフランスのシャルル9世が1月1日を新年とする暦を採用した。
それまで慣れ親しんだ年初の概念を覆すシャルル 9世の突然の年初変更は、民衆の間には強い反発を生み出し、これに反発した人々が、4月1日を「嘘の新年」とし、馬鹿騒ぎをはじめた。・・・・これがエイプリルフールの始まりだと言われているようだが、あくまで仮説の域を出ていないようだ。
全国的な風習として、この日は一般に“軽いいたずらや、まことしやかなで他人をかついだり、無駄足を踏ませても良い日として知られており、騙された人のことを日本語では直訳で「四月馬鹿」と呼んでいる。
フランス語ではエイプリルフールを「プワソン・ダヴリル」(Poisson d'avril, 四月の魚)と呼び、子供達が紙に書いた魚の絵を人の背中にこっそり張る付けるいたずらをするそうだ。この『4月の魚』とはサバのことを指すと言われ、ちょうどこの頃にサバがよく釣れるためこう呼ばれるとされているようだ。
そういえば、エイプリルフールをあらわすフランス語からタイトルをつけた大林宣彦監督の同名タイトルの『四月の魚』(1986年)というラブコメディ映画があった(冒頭の画像はそのチラシ)。
映画の中で根本昌平(高橋幸宏主演)が万理村マリ(今日かの子)に、フランスでは4月1日を「ポワソン・ダブリル (Poisson d'avril)」といい、魚の形をしたチョコレートを贈ると恋愛が成就するという嘘をつくシーンがある。この映画の主題歌を担当したのは主演の高橋幸宏。映画と同名の主題歌『POISSON D'AVRIL -四月の魚』は出だしだけは日本がだがあとはフランス語で歌っているのでよく意味が解らなかったが良い曲であったので紹介しておきたい。以下がそれ。
POISSON D'AVRIL -四月の魚- / 高橋幸宏 - YouTube
フランス語の歌詞の部分が知りたいと検索していて見つけた。以下の参考※3:「近童弐吉プロデュース『四月の魚 Poisson d'avril』 - 閑人手帖」の「四月の魚」のフランス語歌詞部分の翻訳を参照。

いずれにしても今日「四月馬鹿」の日の話は、どこの誰がどこまでが本当のことを言っているか?
一応疑ってみなければ・・・。もし、それを真に受けて聞いているようなら・・・。ひょっとして、このブログだってどこまでが・・・ホントカナー?(¬з¬)

日本記念日協会(※1)に登録されている」4月1日の記念日で、「エイプリルフール」以外のものには、「第2の成人式」「資格チャレンジの日」「携帯ストラップの日」「釜飯の日」「オンライントレードの日」「あずきの日」「熊本甘夏の日」「トレーニングの日」などがあるが、「釜飯の日」は毎月1日が記念日なので、この記念日については、昨・2013(平成25)年9月1日に書いた。→ここ
それで、他の記念日について書こうかと思ったのだが、余り気が乗らなかったので、今日のような可笑しなタイトル“「エープリルフール」は新年度。今年は消費税アップの日。”なんて長いタイトルでで書くことにした。
4月の「1日」。この「1日」とは、暦上の各月における1日目であり普通は「ついたち」と読む。これ以外に「朔日」、「朔」とも表記し、朔日については「さくじつ」とも読む。
」とは新月のことであり、元は旧暦太陰太陽暦)の1日のことを指した。
旧暦の一日は、「朔」(新月)の日、つまり、月の1か月の旅立ちの日、「月立ち(つきたち)」が変化したものが「ついたち」だと言われている。
そして、旧暦四月一日を称して「綿抜の朔日」といった。
「綿抜」(わたぬき)とは、かつては、冬の間に防寒として着物に詰めていた綿を旧暦4月1日に抜いて、(あわせ)に縫いなおしたもの」をいった。要するに「更衣」(衣替え)である。そういえば、この「衣替え」についても2009(平成21)年に書いたのでそこを見てください(→ここ)。
そのようなことから、 「四月一日」「四月朔日」、と書いて「わたぬき」と読む姓も存在する。例えば、四月朔日 義昭(わたぬき よしあき。ギタリスト、作曲家、編曲家、プロデューサー)の如きである。同様に「八月一日」「八月朔日」と書いて、「ほつみ」或いは「ほづみ」と読む苗字も存在するらしい。この頃に実る早稲(わせ)は、当年最初の稲穂つまり初穂である。その穂を摘み、恩人などに贈る風習が古くから農民の間にあったことに因むもの。なお、この風習の詳細は2006(平成18)年に書いたブログ「八朔(はっさく)。田の実の節句」を見てください。
現在日本では、4月が政府機関や多くの企業などの新年度会計年度)とされており、この様な暦の年度と会計年度の2つの年度のあることに何の疑問も感じずに慣れっこになっているのだが、それが昔からそうであったかというとそうではない。
「会計年度」という言葉は無かったものの、国家の会計を1年間で区切る方法は、律令国家の段階から存在していたとみられ、7世紀末期には、「旧暦1月 - 旧暦12月制」が導入され、これに基づいた租税の徴収や予算配分などが実施されており、明治政府における「会計年度」も、明治元年(1868年)においては、従来の慣例に従って「旧暦1月 - 旧暦12月制」だった。今でもその習慣が残っており、年も押し迫った大晦日には、その年の借金の返済を済ませ、清々しい気持ちで新年を迎えるのが常識であったのだ。
日本で今のように暦年と異なった会計年度が生まれたのは、明治になり、その都度、財政状況の都合で年度の区切りが変えられてきたが、1882(明治15)年の壬午事変により、翌年から帝国海軍の拡充計画が進んだため、財政赤字の穴埋めの必要から明治18年度(1885年度)の酒造税を明治17年度(1884年度)に繰り入れしてしまった。
翌年度の税収を繰り入れてしまったこの状況を改善するには、明治19年度(1886年度)より酒造税の納期(第1期が4月)に合わせて年度変更するほかに方法がないことになり、明治17(1884)年10月に「4月 - 3月制」の導入が決定され、明治19(1886)年4月から実施された。つまり、明治17年松方正義により提出された「会計年度改定趣意書」上、形式的には会計年度を租税年度に適合させることを趣旨としているように見えるが、結局は、軍事費増強に対して、大蔵省のやりくりが破綻してしまった結果であったのだ。この辺の事情は、以下参考に記載の※3:「会計年度と財政立憲主義の可能性 −松方正義の決断」に詳しく書かれているので参照されるとよい。
会計原則の一つである発生主義に照らしても「会計年度は4月1日から開始するが、課税年度は暦年の1月1日から開始する」といった不自然な会計制度の変更は、まだ、民主主義的な政治が確立していなかった時代だからこそ成し得たことである。
インターネット百科事典『ウイキペディア』(英: Wikipedia)aによれば、会計年度の始期・終期を変更しようとする議論は、実際に変更がなされた以外にも明治時代から何度も提起されているらしいが、いずれも見送られており、1972(昭和47)年には当時の田中角栄首相が会計年度の暦年制移行を訴えたが、結局、大蔵省(当時)などの反対により暦年制への移行は実施されなかったという。
従って、我々の税金は課税年度(1月-12月)で徴収され、その所得配分である年度予算の編成は会計年度で行われているのである。
そして、会計年度の初日である今日4月1日は、政府機関や企業等で多くの制度変更や、新設、発足が行われ、個人レベルでも異動や新入学など大きな変化が起こる日である。
だから、私がこのブログで大いに利用させてもらっているWikipediaの4月1日の「できごと」を見ても、実にいろいろなできごとが見られる。ここ参照→4月1日-Wikipedia
だから、私も、過去の4月1日の出来事の中から、以下のブログを書いた。
「「新学年」。学年度始めの日」では、新学期の成立について。→ここ参照。
「明治政府が男子の満20歳以上を丁年(成年)と定める」では、明治政府がなぜ男子の20歳を成年と公的に定めたのかなどについて。→ここ参照。
「神戸市」誕生」では、我が地元神戸市誕生秘話を。→ここ参照。
「地域団体商標制度」スタートの日」では、全国各地で取り組んでいる差別化を図るための地域ブランド作りについて。→ここ参照。

これら過去の出来事の中には、当然、一番の関心事消費税の導入や税率のアップも含まれている。
消費税とは、消費に対して課される租税であり、特定の物品・サービスを課税対象とする個別消費税(※5のここ参照)と、原則としてすべての物品・サービスを課税対象とする一般消費税(※5のここ参照)とに分けられる。
また、納税義務者(※5のここ参照)と担税者(実際に税を負担する者。直接税[所得税・法人税・相続税など]では納税義務者と同一であるが、間接税[酒税・有価証券取引税など]では異なる。)とが、一致して消費者であることが予定されている直接消費税と、納税義務者が事業者であって租税負担の消費者への転嫁が予定されている間接消費税とに分けられる(詳しくは※6参照)。
さて、その消費税の歴史を簡単に辿ってみよう。

日本においては、戦前から戦後において物品税と言う消費税があった。
1937(昭和12)年に特別税法に規定された北支事件特別税(1938年から1940年まで支那事変特別税)の一つとして創設された物品特別税が前身となり、1940(昭和15)年に恒久法として物品税法が制定されて物品税となり、さらに1962(昭和37)年に全文改正が行われ今日にまで至っていた(物品税法の改定内容については※7参照)。
この物品税の特徴は2つあり、その一つは、この物品税が他の消費税と異なる点であり、課税対象が酒税や揮発油税のように1種類の消費財ではなく、物品税という単独税目の形態をとりながら課税対象が多種多様な物品に及んでいることであり、その意味においては、複数税的な特質を有している消費税であるといえる。
そして、もう1つは、Wikipediaにも記載されている。
間接税についての伝統的な考え方は、生活必需品に対しては課税を差し控え、贅沢品には担税力が認められるからこれを重く課税するというものである。
戦後の混乱期から高度経済成長を迎える日本においても、前述の考え方は一般的に肯定されていた。具体的には、宝石、毛皮、電化製品、乗用車あるいはゴルフクラブといったものが物品税の対象とされていた。日本の「物品別間接税」は世界に先駆けて導入され、現在欧米で導入されている間接税の物品別軽減税率は日本のこの間接税システムを真似したものと言われている。
物品税は低所得者でも購入せざるをえない生活必需品などが非課税になっており、かわりに高所得者が購入する贅沢品に課税されるという税制であるため、一億総中流社会の原動力になったシステムといえる。・・・・と。この考え方は、基本的に正しいだろう。

しかし、物品税は課税対象の品目をあらかじめリストアップしておく必要があるが、商品の多様化により生活必需品か贅沢品の判定自体が困難なものもあり、奢侈度で税率が異なっていたため、物品税そのものが執行困難性を内包する税制であった。また基本的には蔵出し課税であり、一部を除いてサービスなどには課税されない(問題点参照)。

このような背景もあり、1978(昭和53)年、第1次大平内閣時に、財政再建のため一般消費税導入案を閣議決定したが、総選挙の結果(大敗)を受け撤回。1986(昭和61)年 第3次中曽根内閣時には、「売上税」法案を国会に提出するが、世論の反発にあい廃案となる。
しかし、高齢化に伴う社会保障費用の増大に備え、経済活力を高め、安定的な歳入構造を実現するため、直間比率の見直しを含めた税制改革が必要との認識は定着してゆき、10年に及ぶ議論の末に1988(昭和63)年、竹下内閣時に、消費型付加価値税型である一般消費税導入(昭和63年12月30日法律第108号)が成立し、翌・1989(平成元)年4月1日に施行された。この時に、物品税は廃止され、土地や住宅家賃などの非課税資産やサービスを除き、幅広い資産の譲渡又は役務の提供が課税対象となった。
この時の消費税率は3%であった。当時ちょっとしたものを買おうと思えば20%ほどの税を負担しなければならなかったとき食料品など全商品に「広く浅く」掛けることになっても3%ぐらいなら国民も納得しようという気になった(当時の種別、品目別税率は、※※8を参照)。
その後、1994(平成6)年2月 - 細川内閣で消費税を廃止して福祉目的の税率を7%とする“国民福祉税”構想がマスコミなど世論の批判を浴びたため、即日白紙撤回した。この背景には、日米間の経済問題を協議する日米包括協議でアメリカは日本の内需拡大とそのための所得税減税を日本に求めており、所得税減税分を埋める財源確保の必要に迫られていたのであった。
高い支持率を背景にした連立政権の細川は就任当初から、行政改革、規制改革、地方分権、景気対策等の懸案に取り組んでいく姿勢を見せ、税制改革にも意欲を示していた。
また、 赤字国債を発行しないことが細川政権の公約の柱の一つだったこともあって、当時新生党小沢一郎代表幹事と大蔵省は財源を赤字国債に頼らず、消費税の増税に求めることにしたが、当時の社会党は消費税増税に絶対反対の姿勢であった。しかも、この構想は厚生大臣や官房長官にも知らせていないもので、政権内外の反発を呼び。翌日の連立与党代表者会議で撤回が合意されるに至ったのであった。そのため、日米首脳会談は決裂し、結局3兆円余の赤字国債発行を盛り込む平成6年度予算案が2月15日に編成された。
昭和55年度をピークに、その後は赤字国債発行額は減少。赤字国債依存体制脱却が財政目標となり、平成3年度(1991年)から平成5年度(1993年)まで、赤字国債の発行実績はゼロとなり、赤字国債依存体制から脱却していたのだが、この細川政権での減税特例公債(特例公債法参照)という名前で赤字国債の再発行が開始され、発行残高は200兆円を超えてしまった。以後平成10年度(1998年)から赤字国債の無制限発行体制へ移行し、今日のような結果を招くことになったのである(日本国債推移参照)。
当時野党に落ちていた自民党の執拗な東京佐川急便事件の追及に嫌気した細川は予算編成時に退任。これは野党に落ちた自民党の余りにも人気のあった細川政権への嫌がらせとも思われるが、それにマスコミが加担した感じであった。そして、細川政権は1年に満たない短命政権で終わった(※9。※10を参照)。
どうせ今頃8%の消費税を導入するなら、理想に燃えていた細川政権に“国民福祉税”構想をやらせていたら、本当に良いものが出来ていたのではないかと思うのだが、野党に落ちた自民党の嫌がらせ、自民党に味方して世間に反対をあおったマスコミ、いつもそんなマスコミに騙され続けている日本国民がつぶしてしまったといえるのではないかな〜。
細川内閣の退陣後の羽田政権での「ワン・ワン・ライス」が主導する政権運営に強く反発した社会党が政権を離脱したため羽田政権は少数与党政権となり、内閣不信任決議が衆院に提出されて、自民党・社会党の賛成多数で可決される見込みとなったため、平成6年度予算成立後、自発的に内閣総辞職した(在任期間64日間であった)。
羽田内閣が総辞職後、政権復帰を目指した自民党(河野洋平総裁)は、社会党(村山富市委員長)・新党さきがけ武村正義代表)との自社さ連立政権を組み、村山富市社会党委員長を内閣総理大臣とする村山内閣(平成 6 年-平成 8 年)を成立。
細川政権時代から消費税率アップを強硬に反対していたはずの村山だが、自分が首相となった村山内閣にて、所得税を減税して消費税率を引き上げる「所得税法及び消費税法の一部を改正する法律」(平成 6 年法律第 109 号)を、平成6年(1994年)11月第130回国会で成立させた。
所得税は、累進構造が緩和され、人的控除の見直しによって課税最低限度が引き上げられ、そのかわり、消費税は、3%から新たに導入した地方消費税を含めて 5%(国 4%、地方 1%=国の消費税率の25%)に税率が引き上げられた。この時の消費税の増税は「福祉を充実させる」という名目であった。
この改正では一時的な国民負担を増やさないために、村山内閣の1995(平成7)年度から所得減税と社会保障支出増加が実施された一方、村山内閣で内定していた消費税等の税率引き上げと地方消費税の導入は、橋本内閣で1997(平成9)年4月1日より実施された。
所得税収、法人税収はそれぞれ1998(平成10)年度、1999(平成11)年度と減少し続けているが、法人税は両年にわたって、所得税は1999年度に減税が実行されている。他の先進国の基準にあわせる方向で、所得税は高所得者の負担が軽減、法人税は税率が引き下げられているため、減税による税収減も含まれている。
そして、この1997(平成9)年の消費税増税、健康保険の自己負担率引き上げ(10%→20%へ)、特別減税(所得税・住民税)廃止など、総額約10兆円の緊縮財政の影響や金融不況(アジア通貨危機の影響によるもの)の影響もあり、1998 (平成10) 度には名目GDPは前年度比マイナス2%の503兆円まで約10兆円縮小し、GDPデフレーターはマイナス0.5%に落ち込んで、深刻なデフレ経済が蔓延する結果になった。
産経新聞の田村編集委員は、消費増税を実行したせいで、増税実施の翌年から日本がデフレ不況に突入したことを指摘したうえで、消費増税を実施した1997(平成9)年度においては消費税収が約4兆円増えたが、2年後の1999(平成11)年度には、1997(平成9)年度比で、所得税収と法人税収の合計額が6兆5千億もの税収減にとなったと指摘し、消費増税の効果が「たちまち吹っ飛んで現在に至る」と評している。
さらに、「橋本元首相は財務官僚の言いなりになったことを亡くなる間際まで悔いていたと聞く。」と述べている.(2010年6月15日“【経済が告げる】編集委員・田村秀男 カンノミクスの勘違い (1/3ページ)”産経新聞)。また、2001(平成13)年に自民党総裁選挙に出馬した際、橋本は自身のホームページにて、財政再建を急ぐあまり経済の実態を十分に把握しないまま消費税増税に踏み切り、結果として不況に陥らせたことを謝罪している(岩本沙弓『バブルの死角 日本が損するカラクリ』2013年、集英社新書p.83)という。

ちょっと、下記の「消費税の逆進性と物品税1 - ISFJ日本政策学生会議」の図4「国税収入、消費税収入及び税収に占める消費税収入の割合」のグラフを見てください。
消費税の逆進性と物品税1 - ISFJ日本政策学生会議(Adobe PDF)
同図を見ると国税収入に占める所得税収入は減少しているが、消費税収入の割合が毎年じわじわとアップしている。所得税は所得が多い人ほど税金が高く、所得の低い人ほど税金を支払わなくていいという累進性を持っている。
それに対して、消費税が3%の1990年と1995年は所得の大小に関わらず消費税負担率にさほど変わりはなかったが、消費税が5%に上げられた後の1999年と2002年は見事に右下がりのグラフであり3%時より逆進性が強まっている。税率が2%上がっただけで負担率は1%上昇し差が拡大しているのである。このグラフを見ても分かるように、今後もし消費税のアップをすると、消費税負担率の問題はもっと深刻化し、逆進性もより強くなるだろうということを考えなければならないし、単に税収を増やす為の増税ではなく、国民の負担を如何に軽減すべきかを考えないといけないことが分かるだろう。
そのようなことから、今後の消費税率引き上げに関する議論の中で、「複数税率が必要」という議論が出てきた。つまり、一般の商品やサービスの税率とは別に、生活必需品に対する税率を軽減税率ないしゼロ税率とし、複数の税率を設定するというものである。

その後の日本の消費税論議は民主党によって起こる。民主党は2009(平成21)年の衆議院総選挙において、消費税を4年間は引き上げないとの公約を掲げて圧勝した。しかしながら、政権獲得後の翌2010(平成22)年には消費税引き上げを示唆し始め、直後の22回参議院選では大敗を喫する。それにもかかわらず、野田首相は2011(平成23)年11月の主要20カ国・地域(G20)首脳会議では、財政再建のために消費税率を10%に引き上げるとした。
消費税増税は2011(平成23)年6月に民主・自民・公明の3党による「社会保障・税一体改革成案」で決定し、与党内での協議を経て、消費税を2014(平成26)年4月1日より8%、2015(平成27)年10月1日より10%へ段階的に引上げを行うことを明記した「社会保障・税一体改革大綱」(※11参照)を2012(平成24)年2月に決定した(消費税増税問題参照)。
その後、社会保障・税一体改革の関連法案が国会へ提出され、国会にて審議が開始された。審議が続けられる中、2012(平成24)年6月8日から6月15日まで民主、自民、公明の三党による修正協議が行われ、この三党合意を基にした消費税増税法案を含む関連法案が同年6月26日に衆院本会議にて、同年8月10日に参院本会議にて可決された。社会保障改革については、子ども子育て分野など、一部のみ可決され、残りの社会保障改革の多くの分野については「社会保障制度改革国民会議」で議論されることとなった。
その後政権交代などがあったが、「社会保障制度改革国民会議」での議論は、2013年8月5日に報告書(※2参照)として取りまとめられた。
ただ、この2014(平成26 )の消費税率を8%に引き上げるべきか否か−。「総理は本当に悩んでいた…」。ある政府関係者はこの報告書の出来た昨年8月下旬の安倍晋三首相の様子をこう振り返る。その迷いの背景にあったのは、政治が長く払拭できなかった「平成9年のトラウマ」だった。安倍首相はこのトラウマに終止符を打とうとした。そのために何としても「デフレ脱却」の道筋をつける必要があった。そこで、「企業減税→賃上げ→家計の消費拡大」の好循環でデフレ脱却を図ろうという政治的メッセージを示した。
そして、ある日銀首脳は、平成9年の消費税増税前後と現状を比較し、「金融システムの安定度が全く違う。増税しても景気の腰折れはない」と断言。17年前とは経済環境が違うし、打つべき手も打った。デフレ脱却への手応えを得て、首相は増税への「断」を下した。・・・と(※13参照)。

しかし同時期に「苦心の経済対策とのセットでようやく決まった消費税率引き上げだが、少子高齢化で増大する社会保障費の財源の手当てや財政再建という消費税増税の本来の目的を果たせるのか、疑問視される。社会保障制度改革の遅れや5兆円規模の大型経済対策の追加で、昨年の自民、公明、民主の3党合意時点とは大きくシナリオが変わったためだ。
消費税増税は社会保障費の安定財源確保が目的で、3党による「社会保障と税の一体改革」の中で決まった消費税に関しては、既に、「年金、医療、介護などへの給付費は平成24年度予算ベースで約110兆円。これに対し、財源となる社会保険料などは60兆円程度。差額のうち40兆円を国税、地方税、国債発行(借金)でまかなっている。国の税収が40兆円台で推移する中、社会保障関係費は今後も毎年1兆円規模で膨らみ続ける。大和総研の市川正樹主席研究員は『負担と財源の差が毎年約1兆8千億円広がってきたことを考えると、消費税率が10%になっても7年程度で食いつぶす」との指摘もあった(※14参照)。
又、「社会保障制度改革国民会議」報告書については、総論および少子化対策、医療・介護、年金の各論で構成されているが、日本総合研究所では、これらの主なポイントを整理するとともに、評価を試みているが、例えば、医療については、医療提供体制の改革について、これを医療提供側の自主性にほぼ任せており、報告書の目指すところが実現するのか不透明である。消費税収が医療機関へのばら撒きとなる危険がある。又、現在は市町村が保険者となっている国民健康保険(国保)の都道府県への移行について、財政責任の軽くなった市町村のインセンティブ低下も懸念される。そして、医療保険財政全体の長期的な持続可能性に対する関心が希薄な点もある。他にも、年金に関して殆ど時間が割かれておらず、報告書もそれを反映している。そのなかで、年金財政健全化に向け、政府に決断を迫っている、また、わが国の年金制度体系は、依然として 60%を割り込んでいる国民年金保険料納付率、第3号被保険者制度に代表されるように今日の家族・就労形態と必ずしも合致しない仕組みなど抱える課題は少なくないものの、報告書は、制度体系のあり方については解を示せていない。…といったことが指摘されている(※15参照)。

自民、公明両党は、昨年12月12日に「2014年度(平成26年度)「与党税制改正大綱」を正式決定した。ここで先にも書いた低所得者の税負担率を低減するため、消費税に欧州のような「軽減税率」が導入されることとなった。ただ、導入時期は「消費税率10%時」と記すにとどめ、以下のようなあいまいな書き方となっている。
消費税の軽減税率制度については、「社会保障と税の一体改革」の原点に立って必要な財源を確保しつつ、関係事業者を含む国民の理解を得た上で、税率10%時に導入する。このため、今後、引き続き、与党税制協議会において、これまでの軽減税率をめぐる議論の経緯及び成果を十分に踏まえ、社会保障を含む財政上の課題とあわせ、対象品目の選定、区分経理等のための制度整備、具体的な安定財源の手当、国民の理解を得るためのプロセス等、軽減税率制度の導入に係る詳細な内容について検討し、平成26年12月までに結論を得て、与党税制改正大綱を決定する。・・・と。(※16「平成26年度 税制改正大綱」6ページ参照)
そして、何故か、経団連は企業側の利益追求団体であるのに、最近では消費税の増税に賛成意見を述べるようになってきた。過去に消費税の増税が行われた際には、すべからく消費を減退させて景気を冷え込ませている。にもかかわらず、なぜ経団連は、売上減少が確実である増税に賛成するのだろうか?
そしてこの消費税の複数税率についても、平成25年度与党税制改正大綱において「本年12月予定の2014年度与党税制改正決定時までに、関係者の理解を得た上で、結論を得るものとする。」とされているが、以下の理由により、複数税率制度は導入せず、単一税率を維持すべきであるといろいろ理由を挙げて消費税の単一税率にこだわっているI(反対の理由等は※17参照)。これはなぜなのだろうか?
これに対しては、先にも挙げた金融コンサルタントで大阪経済大学経営学部客員教授 岩本沙弓さん(※18参照)の『バブルの死角 日本が損するカラクリ』(2013年、集英社新書)「第一章 消費税というカラクリ」(※19参照)に書かれているように、「輸出還付金」(正式には「輸出免税」=「輸出戻し税」による益税)というものがあるからなのである。
消費税法7条に、「本邦から輸出として行われる資産の譲渡又は貸付については、消費税を免除する」という規定があり、消費税が免除されている。これが「輸出免税」といわれる規定である。そのカラクリ(還付の仕組み)は以下参考の※20:「輸出企業に消費税が還付されるしくみ」を見られるとよい。このしくみを利用し、例えば、2003 年分輸出上位 10 社の輸出戻し税(還付税額)の試算をすると、
、輸出大企業には巨額の消費税が還付され、トヨタ自動車1社で輸出割戻し税は1710 億円、輸出上位 10 社で 6842 億円にもなるという(※20表 1参照)。
これは2003年のものだから10年も前のこと、この優遇税制が改善されたという話は聞かないので、今ならその額は1兆円にもぼるのではないだろうか。「広く浅く国民全体から集めたお金を特定企業に渡してしまうわけであるから輸出大企業優遇制度とも言えるだろう。
大多数の国民に向けては、「増税しなければ、社会保障費がパンクする」「日本の消費税は国際的に非常に低い」と言い募り、消費増税がやむを得ないような空気を醸成し、集めた税を大企業へ補助金として出す。消費税率が上がれば上がるほど、大企業の「益税」は増え、中小下請け企業の負担は増えていくのである。
安倍首相は経団連に対して、この隠れた企業優遇税は別にして、消費税率引き上げと同時に打ち出した経済対策は「企業優遇」に重点が置かれた。企業がため込んだ手元資金など280兆円にのぼる内部留保を賃上げや設備投資に向かわせ、消費、雇用の拡大を生む好循環につなげるにはまず経営者に行動を促す仕掛けが欠かせないと判断したためだが・・・実効性をどれほど上げられるか。
今年安倍首相は2014年度税制改正大綱では、2014年度末までとされていた復興特別法人税を1年前倒しで廃止する、「民間活力の活用」などの口実に大企業の交際費や設備投資に減税するとしている。また、財界が強く要求した法人実効税率についても引き下げを検討するとしている。
安倍首相は経団連に対して、賃上げ要請をした・・・。これにこたえてというか輸出大企業がほんのわずか従業員の賃上げをしたようだが、円安の影響で莫大な為替差益も出している企業にとってはお愛想のようなものであろう。
経団連はマスコミを通じて、消費税増税のプロパガンダ戦略を打ちだしている。テレビや新聞に「消費税増税やむなし」という報道をさせる事で、国民に増税が必要な事であるかのように洗脳し、法人税減税などの必要性への布石もしている。大スポンサーの広告がなくては困るテレビや新聞は、彼らの意向に沿うような報道しか行わないので、メディアは増税やむなしという報道一色になっていた。これに多くの庶民が洗脳されている。

先にも書いた金融コンサルタントの岩本沙弓さんは、PRESIDENT2013年9月30日号:米国が今も消費税を導入しない「もっともな理由」(※21参照)で今回の「消費税の集中点検会合の人選はあまりにも偏向しすぎではないか。特に最終日の8月31日の第2回目の経済・金融の有識者の会合のメンバーに、増税そのものへの反対を明確に唱える人は1人もいなかった」。・・「これでは増税を実施するか否かの判断ではなく、増税を前提にその方法論が話し合われているだけである」・・・とあきれ返っている。そしてこの中で、
「財政難の米国がいまだに消費税(付加価値税)を採用していないことは、意外と知られていない。米国が採用しているのは通称州税といわれる小売売上税で、消費税とはまったく違うタイプの税制だ。
実は、米国議会では過去何十年にもわたって、付加価値税の導入について議論が持たれてきた。法人税や所得税に代表される直接税に比べて、消費税・付加価値税など間接税が優れているとは見なせないという理由で採用は見送りとなっている。ちなみに、米国の国税における直間比率は9対1だ。付加価値税の場合は特に、輸出に還付金が渡され、輸入には課税される点、法人税引き下げとセットにされやすい点などが議論の焦点となってきたことが米公文書に多く残る。」。。。という。
「例えば法人税がなぜ有効で、消費税・付加価値税と代替させるべきではないと考えるのか。1960年代の米財務省の報告書には、すでにこんな記述がある。
消費税は売り上げにかかるために赤字の企業でも支払いの義務が生じるが、「赤字企業が法人税を支払わなくて済むことは、その企業にとっても経済全体にとっても有効である。たとえどんなに効率的で革新的な新規ビジネスであっても、収益構造が確立するまではある程度の時間がかかる」とし、さらに仮に、赤字の繰り越し機能付きの法人税をなくし付加価値税を導入するほうが、付加価値税なしで高い法人税を設定するよりも企業を助けるという前提について「これでは急激な景気後退局面では、たとえ効率的な企業であったとしても、単に一般需要が落ち込んだという理由だけで多くの企業が赤字企業となってしまう」と記す。こうした記述を見るにつけ、米国はやはりフロンティア精神の国家なのだと認識を新たにする。新しい挑戦の芽を潰すことはしない、それが消費税・付加価値税採用を見送り、法人税に依存する理由とするのはいかにも米国らしいではないか。」と、そして、最後に、
「アベノミクスが成長戦略にベンチャー企業の育成を掲げるなら、法人税こそ引き上げ、消費税は凍結、あるいは引き下げが筋というものではなかろうか。」・・・と提言しているが私もそう思う。
政治家の決まり文句は「日本は世界に比べて消費税率は低い」であるが本当にそうなのだろうか?なにか疑問が残りそう(※22参照)。
消費税率が高い北欧諸国は、高福祉・高負担を国民が選択した結果である。日本の場合、年金や医療への国民の期待は大きいものの、先ずは消費税増税前に、行政改革の余地が大きいとの見方が強く、消費税率の引き上げについての世論は割れている。仮に消費税率の改定を行う際には、国民の批判が強い税金の無駄遣いを正し、国民負担と政府の役割についての国民的な合意を形成した上で、財政と社会保障が持続するための負担増に理解を求めているか?
負担増においては、消費税だけではなく、所得税や法人税を含めた税制全体を見直し、公平と活力の両面から望ましい税制を構築する必要があるのだが・・・・。
多くの国民は安倍政権の経済政策「アベノミクス」の効果を実感しているどころか、消費税増税でさらに支出を切り詰めようとしている。所得や雇用は改善しているとは言えず、増税前の駆け込み需要の終わった4月から消費が冷えこめば経済が悪化し財政の足も引っ張られるのではないか。円安で物価も上がり、医療費から何から何まで値上がりしているときに増税し、年金の支給などは引き下げられる。こんな状況の時に消費税増税は、暮らしと経済をいよいよ破壊して行くのでは・・・。
今は、増税よりも税収がどれだけ必要なところに正しく使われているか・・・その使われ方をもっともっと厳しくチェックした上で、経済の活性化に集中すべきと思うのだが・・・。何か、政治家や官僚が信用できないのである。
最後に、「政治にとって何が大事な問題なのか」・・・。
論語』の顔淵第十二の中に孔子とその弟子の子貢の次のような会話があるので書いておこう。尚、顔淵(がんえん)とは子貢同様孔子(孔丘)の弟子(孔門十哲の一人で随一の秀才)顔回のこと。字(あざな)は子淵(しえん)である。
【原文】
子貢問政。子曰。足食。足兵。民信之矣。
子貢曰。必不得已而去。於斯三者何先。
曰。去兵。子貢曰。必不得已而去。於斯二者何先。
曰。去食。自古皆有死。民無信不立。
【読み下し】
子貢(しこう)、政(まつりごと)を問う。子(し)曰(いわ)く、食を足らし、兵を足らし、民(たみ)之(これ)を信ず。
子貢曰く、必ず已むを得ずして去らば、斯(こ)の三者に於いて何をか先にせん。
曰(いわ)く、兵を去らん。子貢曰く、必ず已むを得ずして去らば、斯(こ)の二者に於いて何をか先きにせん。
曰く、食を去らん。古(いにしえ)より皆な死有り、民、信無くんば立たず。
【通釈】下村湖人(1884〜1955)の『現代訳論語』による。
「子貢が政治の要諦についてたずねた。先師はこたえられた。食糧をゆたかにして国庫の充実をはかること、軍備を完成すること、国民をして政治を信頼せしめること、この三つであろう。子貢がさらにたずねた。その三つのうち、やむなくいずれか一つを断念しなければならないとしますと、まずどれをやめたらよろしゅうございましょうか。先師――むろん軍備だ。子貢がさらにたずねた。あとの二つのうち、やむなくその一つを断念しなければならないとしますと?
先師――食糧だ。国庫が窮乏しては為政者が困るだろうが、昔から人間は早晩死ぬものときまっている。国民に信を失うぐらいなら、飢えて死ぬ方がいいのだ。信がなくては、政治の根本が立たないのだから」
(原文・読み下し、通釈等は以下参考の※23:「Web漢文大系:論語」の顔淵第十二 7参照)
ここでは、「食の確保」は現代でいうと「社会保障とその資金源の税金・社会保険料の確保」の問題を含む。だが孔子はそれよりもなお政治に対する信頼が重要だというのである。解釈を加えるならば、税金の増減よりも税金が正しく使われるかどうかということに対する信頼の方が重要だということになる。・・・、政治家はどう読むのだろう。


「エープリルフール」は新年度。今年は消費税アップの日  参考へ

ロータス(蓮)デー :別表インドの大地

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別表:インドの大地(宇宙観)

マハーバーラタ』第VI巻の巻頭は、開戦直前の場面を描いている。
クル族(Kuru )の長老でもある聖仙 ヴィヤーサ(vyaasa) が、盲目の老王ドゥリタラーシュトラ( Dhrtarstra)に大戦の帰趨に関して予言を与えて去った後、王とスータ (suta.。王の車に陪乗し補佐役・伝令役を勤める)のサンジャヤ(Sanjaya)の対話が始まる。その始めの部分 は、大地のありさまに関する王の問いに、ヴィヤーサによって特殊な眼力を与えられたサンジャヤが答える体裁をとっている。
サンジャヤは先ず生物(二元論)の分類と五大元素説を語り、次いで大地の形態や山岳・河川・民族の名称等を詳細に述べているがプラーナ文献。「第5のヴェーダ」とも呼ばれている)で陸海は次のように描かれる。
中央に円形の大陸ジャンブー・ドヴィーパ( Jambudvipa)がある。その中心にメル山(Meru山=須弥山。) がそびえ、大陸を東西に横断して六つの山脈が地を区切っている。中央の区画は、 メル山の東西にそれぞれ一つの山脈が南北に延びることによって三分される。山脈によってジャンブー・ドヴィーパは九つの領域 (varlila)に区切られていることになり、南端のバーラタヴァルシャ(Bharatavarsa)が「我々の領域である。
又、 ジャンブー・ドヴィーパの周囲は、ドーナツ形の海陸が順次同心円状に取り巻いており、大陸の数はジャンブー・ドヴィーパ を含めて七つである。これらのさらに外郭には黄金の土地があって、その上を "Lokaloka山"が巡っている。・・・と(※1参照)。
ここに描かれている "Lokaloka山"がよくわからないが、まさに古代インドの世界観=宇宙観宇宙論)が描かれたものである。
古代インドで編纂された一連の宗教文書ヴェーダ(紀元前1000年頃から紀元前500年頃)の時代から、すでにからの発生、原初の原人の犠牲による創造、苦行の熱からの創造、といった宇宙生成論があったという。また、地上界・空界・天界という三界への分類もあったという(仏教用語の三界についてはここ参照)。後の時代、繰り返し生成・消滅している宇宙という考え方が成立したという。これには(ごう、カルマン)の思想が関連しているという。
ごう【業】は行為を意味するサンスクリットの漢訳語。善人も悪人も死んでしまえばみな同じだというのは不公平だという考えをもとに、インドでは業はその善悪に応じて果報を生じ、死によっても失われず、輪廻転生に伴って、アートマンに代々伝えられると考えられた。
これに関し、ブラーフマナ文献あたりから因果応報思想が見え始め、ウパニシャッド文献で、輪廻思想の成立とともに急速に理論化され、のちに一種の運命論となった。
行為は,身体的な行為(身業),語るという行為(口業),思うという行為(意業)に分類されるが,それらの行為はその場かぎりで消えるのではなく、不可見のいわば潜勢体(功徳と罪障,法と非法)として行為の主体につきまとう(※2)。
この無限の反復の原因は、比較的初期の仏教においては、衆生の業の力の集積として理解されていたという。それが、ヒンドゥー教においては、創造神ブラフマーの眠りと覚醒の周期として表象(シンボライズ)されるようになったという(ブラフマーは後にヴィシュヌに置き換わった)。
このインド仏教の宇宙観の体系を示す書物の1つに、インド5世紀の仏僧ヴァスバンドゥ(世親)の『倶舎論 』(※3参照)があるが、この論書が書かれたのは釈尊入滅後900の事であり、『マハーバーラタ(Mahabharata)』 第VI巻(Bhi~maparvan) の巻頭でサンジャヤが述べているような宇宙観を仏教的に整理し体系化したものと思われる。冒頭の画像は須弥山の概念図。
因みに、『倶舎論』の中の1章 「世品(せほん)」に述べられているいわゆる須弥山(しゅみせん)説は以下のとおりである。

『倶舎論』によれば、世界は相重なる三輪、つまり、風輪の上に水輪、その上に金輪がある。また、その最上層をなす金輪の最上面が大地の底に接する際となっており、これを金輪際(こんりんざい)という。なお、このことが俗に転じて、物事の最後の最後までを表して金輪際と言うようになった。
我々が住むのは海水をたたえた金輪に浮かぶジャンブー・ドヴィーパ(閻浮提)であり、須弥山中腹には日天と月天(どちらも天部十二天の一人)がまわっている。須弥山の高さは八万由旬(yojana)といわれ、中腹に四大王天(とう利天主・帝釈天の外臣)がおり四洲を守る。
さらにその上の山頂のとう利天欲界における六欲天の第2の天部である。意訳して三十三天ともいう)にはインドラ帝釈天)が所有し住居とする善見城がある。
尚、須弥山の四洲を守る四大王天のうちの一人、東勝神洲を守護する持国天 の梵名はドゥリタラーシュトラ・・・・冒頭の『マハーバーラタ(Mahabharata)』・・・つまり、 第VI巻の巻頭に登場している盲目の老王のことである。
この 須弥山には甘露(アムリタ,amṛta)の雨が降っており、それによって須弥山に住む天たちは空腹を免れる。・・・という。

上掲の画像は、アンコール・ワット第1回廊、浅浮き彫りにみられる乳海攪拌(一部)。中央にヴィシュヌ、その下に彼の化身の亀クールマがいる。ヴァースキを引っ張っているアスラが左側に、神々が右側に描かれている。
また、釈迦の母が死後とう利天こに生まれたため、釈迦が彼女に説法するため一時ここに昇り、帰りに三道の宝階によって地上へ降ったといわれる(※4参照)
三道の宝階について、
僧院を持つ都城で、ウッタル・プラデーシュアーグラの東にあるサンカーシャは、仏教の八大聖地の一つだが、ここだけが伝説に基づいた聖地だそうだ。
ここに、三道宝階降下の地とされる丘の上には、何かが崩れてできた煉瓦の小さな山と、釈迦の生母マヤ夫人を記念する小さな祠、ヒンドゥ教の神ハヌマーンを祀った小さな祠がある。
釈迦は、生後7日目に死別して天界にいる母マヤ夫人に無上の法(※5)を説くことを念願していた。ある時、祇園精舎サヘート)を訪れていた釈迦は、祇園精舎近くのオラジハール(Orajhar)の丘から三十三天(忉利天)に昇天して、雨安居の3ヶ月間、マヤ夫人に法を説き、報恩を果たしたと伝えられている。
釈迦は、三道の宝階を下って、再び、地上界のサンカシャに帰ってきたといわれている(※5)。降下する時、インドラが造らせた天界と地上界を結ぶ三つの階段が築かれた。釈迦は中央の金の階段を通り、右側の白金の階段をブラフマ神(梵天)が白い払子(ホッス)を手にして降下し、左側の瑠璃の階段をインドラ神(帝釈天)が天蓋を釈迦にかざして、多くの天人たちを従えて降下したとされている。
釈迦が地上に降り立つ時、少し先に降下したブラフマ神とインドラ神が合掌して、また、比丘尼が仏足の所で跪いて迎えたと伝えられているそうだ。

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参考:
※1:Maha bha rata VI.5-13の世界観
http://ir.library.osaka-u.ac.jp/dspace/bitstream/11094/10785/1/mrp_031-043A.pdf#search='%E3%83%97%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%83%8A+%E4%B9%9D%E3%81%A4%E3%81%AE%E
5%9C%B0%E5%9F%9F%E4%B8%96%E7%95%8C'

※2:永遠のダルマと顕在化(Adobe PDF)
http://www2.lit.kyushu-u.ac.jp/~kkataoka/Kataoka/Kataoka_1999d.pdf#search='%E6%BD%9C%E5%8B%A2%E4%BD%93'
※3:倶舎論 (くしゃろん)
http://www.sakai.zaq.ne.jp/piicats/kusharon.htm
※4:【補註10】Saṅkassa(サンカッサ) - 原始仏教聖典資料による釈尊伝の研究(Adobe PDF)
http://www.sakya-muni.jp/pdf/mono15_s02_10.pdf#search='%E4%B8%89%E9%81%93%E5%AE%9D%E9%9A%8E'
※5:大乗無上の法
http://www.geocities.jp/fuw145/01-busseki-10.html
%8C%81%E5%9B%BD%E5%A4%A9/>http://busson.jp/busson/%E6%<8C%81%E5%9B%BD%E5%A4%A9/</a>
※6:仏跡 聖地 表紙
http://www.geocities.jp/fuw145/01-busseki-10.html
持国天 | 仏尊.jp - 仏像

仏教の宇宙観
http://rikanet2.jst.go.jp/contents/cp0320a/contents/rekishi/answer01/main.html#top

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ロータス(蓮)デー

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日本記念日協会(※1)に4月8日の記念日として登録しているものに「ロータス(蓮)デー」がある。
ロータス(蓮)は、仏教では泥水の中から生じ清浄な美しい花を咲かせる姿が智慧慈悲の象徴とされ様々に意匠されている。例えば、如来像の台座などの三昧耶形は蓮の花(金剛界曼荼羅では開花した蓮華)をかたどった蓮華座である。
日本の各地の寺では、4月8日に、釈迦の誕生を祝う仏教行事潅仏会」(花祭り、仏生会、浴仏会)の法要などが行われる(寺によっては月遅れの5月8日に行われるところもある)。
日本各地の寺院で行われる潅仏会では、いろいろな花で飾った花御堂という小堂を境内に設け、その中に銅製の誕生仏を潅仏盤と呼ぶ水盤上に安置し、その像の頭上から柄杓で甘露(アムリタ,amṛta)にみたたて甘茶を注ぐのが一般的。
釈迦様は摩耶夫人の右脇から生まれると、七歩すすんで右手を挙げてを指し、左手を垂下してを指し、「天上天下唯我独尊」と唱えられたといわれるが、誕生仏とか誕生釈迦仏とか呼ぶ仏像は、この姿をあらわしたもの。
誕生仏に甘茶を注ぐのは釈迦の誕生時、産湯を使わせるために八大竜王が天から清浄の水を吐きそそいで産湯をつかわせたという伝説に由来すると言われている。
インドでは王の即位や立太子での風習であった灌頂の一例であろう。
一方、花御堂の謂れについては、摩耶夫人がお釈迦様を出産したのは、釈迦の父である釈迦族 (シャーキャ族)の王シュッドーダナ(浄飯王)の居城、カピラヴァストゥ(カピラ城)の東方にあった藍毘尼園(ルンビニー園)の無憂樹の下であったとの伝説があり、花御堂は、これになぞらえたものであると考えられている。(冒頭に掲載の画像は奈良東大寺 誕生仏)。

その釈迦族の王子、シッダールタ(釈迦の出家以前の名前)の僧としての生涯を描きあげた仏教物語の大作が、潮出版社の少年漫画雑誌『希望の友』(後に『少年ワールド』→『コミックトム』と改題)に連載された漫画『ブッダ(BUDDHA)』であった。
この漫画『ブッダ』は、Wikipedia によれば、2010(平成22)年12月時点で単行本の発行部数が2000万部を超える売上となっており、アメリカでも高い評価を受け、2004年および2005年のアイズナー賞最優秀国際作品部門を受賞しているそうだ。
その超大作が、2010(平成22)年7月に『手塚治虫のブッダ』の題名で全3部作として東映でアニメ映画化されることが発表され、2011(平成23)年5月に第1部『手塚治虫のブッダ 赤い砂漠よ!美しく』が公開され、翌・2012(平成24)年第35回日本アカデミー賞の優秀アニメーション作品賞に選ばれている。そして、今年・2014(平成26)年2月8日に第2部『BUDDHA2 手塚治虫のブッダ −終わりなき旅−』が公開された。以下はそのカンヌ国際映画祭用特別映像である。
『BUDDHA2 手塚治虫のブッダ −終わりなき旅−』カンヌ国際映画祭用特別上映=YouTube

この仏教の祖であり、人々をしあわせへと導くお釈迦様の誕生日(花まつり)であるこの日を「し(4)あわ(8)せを分かち合い、感謝する日」として、その象徴の蓮から「ロータスデー」として記念日登録をしたのは映画『手塚治虫のブッダ 赤い砂漠よ!美しく』(※2)を手がける東映(株)だそうである。今日の記念日「ロータス(蓮)デー」は、この映画の宣伝用のものなのだろう。

インドは仏教発祥の地であり、その仏教の開祖と呼ばれる「釈迦」は、釈迦牟尼(しゃかむに、[zaakya-muni](Śākyamuni)、シャーキャ・ムニ)の略で、彼の部族名もしくは国名でもあり、牟尼は聖者・修行者の意味。つまり釈迦牟尼は、「釈迦族の聖者」という意味の尊称であり、他にもいろいろな称号で呼ばれるが、称号だけを残し、世尊、仏陀、ブッダ、如来とも略して呼ぶが、日本では、一般にお釈迦様と呼ばれることが多い。
その本名(俗名)は、パーリ語形 ゴータマ・シッダッタ(Gotama Siddhattha)またはサンスクリット語形 ガウタマ・シッダールタ([Gautama Siddhārtha])、漢訳では瞿曇 悉達多(クドン・シッダッタ)と伝えられる。シッダッタ」とは古代インドパーリ語で「目的を成就した者」という意味だそうである。
ただ、釈迦の生きた古代インドの状況もよくわからない上に、余りにも神格化された為、ブッダがその時代にどのような苦悩や喜びの感情を持って生きていた人なのか、そして何を悟ったのか等、その歴史的な人間としての面がよくわからず、一時期はその史的存在さえも疑われたことがあった。
日本のインド哲学、仏教学の権威であった中村元(はじめ)は、パーリ語聖典『スッタニパータ』の韻文部分が恐らく最も成立が古いとし(『ブッダのことば スッタニパータ』 中村元訳注・解説、岩波書店)、日本の学会では大筋においてこの説を踏襲しているが、釈迦の伝記としての仏伝にはこれと成立時期が異なるものも多い。
しかし、1868年、イギリスの考古学者A・フェラーがネパール南部のバダリア(現在のルンビニー、Lumbini、藍毘尼)で遺跡が発見され、そこで出土した石柱には、インド古代文字で、「アショーカ王が即位後20年を経て、自らここに来て祭りを行った。ここでブッダ釈迦牟尼が誕生されたからである」と刻まれていたそうで、この碑文の存在で、釈迦の実在が史上初めて証明され、同時にここが仏陀生誕の地であることが判明している(仏教の八大聖地の一つとされている)。
ただ、釈迦の没年、すなわち仏滅年代の確定についてアショーカ王の即位年を基準とするが、仏滅後何年がアショーカ王即位年であるかについて、異なる伝承があり、いずれが正確かを確認する術がなく、よって歴史学の常ではあるが、伝説なのか史実なのか区別が明確でない記述もあるようだ。
従来、釈迦の生涯を取り扱った著書は多いが、そんな中に中村元博士の『ゴータマブッダ ?・?』(※3参照)があり、この著書は、仏典だけでなく、ジャイナ教文献、ウパニシャッド文献などを援用して生々しい釈迦の実像を描き出ししており、その研究成果の果たした役割は非常に評価されているようであり、恐らく、手塚治虫もこの著書を参考にしているものと思われる。

手塚の漫画『ブッダ』は、実在した人物と手塚の創作した人物が入り乱れ独自の世界観で貫かれているが、元々は、手塚の漫画『火の鳥』の一編として「火の鳥 東洋編」の名前で潮出版社から企画されたものであったらしい。
『火の鳥』は、手塚が漫画家として活動を始めた初期の頃(1954=昭和29年)から晩年(1986=昭和61年)まで手がけられており、手塚がライフワークと位置付けた漫画作品であり、古代からはるか未来まで、日本を主とした地球や宇宙を舞台に、生命の本質・人間が、手塚自身の独特な思想を根底に壮大なスケールで描かれたもの。物語は「火の鳥」と呼ばれる鳥が登場し火の鳥の血を飲めば永遠の命を得られるという設定の元、主人公たちはその火の鳥(不死鳥)と関わりながら悩み、苦しみ、闘い、残酷な運命に翻弄され続ける。
『火の鳥』の連載は1954(昭和29)年の「黎明編」を初めとする「〇〇編」と名の付く複数の編から成り立っている。
しかし、漫画雑誌『 COM』が休刊時に、連載の『火の鳥』をそのまま中断してしまうか、どこか別の雑誌へ移すかが問題となった時、『希望の友』編集者より、連載希望があったが、同誌は少年雑誌であり、連載するには内容の程度をすこし下げねばならず『火の鳥』のような漫画マニア向けのものは、『希望の友』のほかの作品とは全然あわず「火の鳥」のカラーが変わってしまうだろうから、それでは、テーマは同じだが、別のほかの作品の大河ドラマを描いてみようということになったようである。
そして、「お釈迦様の伝記」を書こうということになったが、仏教臭くならないよう、少しフィクションを入れた手塚流の釈迦、つまり,シッダルタをめぐる人間ドラマを描こうということになり、タイトルも釈迦ではなく英語タイトルの「ブッダ」にしたという。この件に関して、手塚は、以下のように語っているという。
「シッダルタのありがたさとか、シッダルタの教えよりも人間そのものを掘り下げたい。
仏陀の生きざまを、ぼくなりの主観を入れて描きたかった。
しかし、仏陀の生きざまだけでは、話が平坦になってしまうでしょう。
その時代の色々な人間の生きざまというものを並行して描かないと、その時代になぜ仏教がひろまったか、なぜシッダルタという人があそこまでしなければならなかったか、という必然性みたいのものが描けません。ですから、仏陀とまったく関係ないような人を何十人も出して、その人たちの生きざまをもあわせて描く。そのことによって、あの時代にどうしても仏教が必要だったというところまでいきたいのです。
そして、仏教と人間が生きるということを結びつけて、一つの大河ドラマ、大げさにいえばビルドゥングス・ロマン(主人公の内面的な人間形成の過程を描いた作品のこと)のようなものを、描きたいと思っています。」・・・と(参考※4:潮出版社-手塚治虫「ブッダ」の手塚治虫と「ブッダ」より引用)。
そのため漫画『ブッダ』は『火の鳥』と作風・テーマ性が共通し、鼻が大きな人物(猿田彦)など共通の登場人物が数人出てくる。
『ブッダ』は、シャカ族の国の王子として生まれたゴータマ・シッダッタが、その身分を捨てて29歳で出家し、6年間の激しい苦行を行い、そして、苦行を捨てた後に35歳で悟りを得て、人々に教えを広め、80歳で亡くなるまでの一代記を描いている。
全12巻からなる漫画『ブッダ』第1巻 背表紙には、
紀元前6世紀、今のネパールの小族シャカ族の王族として生まれた釈尊。だが、彼の周りにはカースト制の厳しい身分差別の中で苦しむ人々がいた。「身分を決めたのは人間、身分で苦しむのも人間」人はなぜ生きるのか、人はなぜ苦しむのか・・・。命の神秘な謎を解くため、彼は修行にはげんだ。」とあり、
第1章 バラモン の冒頭プロローグとして、バラモンによる差別の発生とバラモンの堕落、人々が新しい教えを待ちのぞんでいることが語られる。
そして、いきなり、次のような物語が語られている。
吹雪の中で行き倒れになった僧を、熊とウサギと狐が発見し、熊は魚を、狐は木の実を僧に与えるが、ウサギは何も持ってくることができなかったので、みずからを火の中に投じて僧に与え、神となって天にのぼった。アシタの師ゴシャラは、この体験によって悟りをひらいた。アシタは弟子のナラダッタに、ウサギが自分で身を焼いたナゾがとける偉大な人を探してくるよう命じた。そして、ナラダッタはあてのない救世主探しの旅に出た・・・・。(物語あらすじは※4参照)、このウサギの話は、仏教説話 『ジャータカ』(※6の兎の話参照) や 『今昔物語』(※7の三の獣、菩薩の道を行じ、兎身を焼く話を参照)に出てくる。
『ブッダ』全体のストーリーは仏典に沿いながらも、仏典に登場する人物の改変を行ったり、また、手塚が創造した架空の人物を登場させたりして、物語がドラマチックに進行する中で、ブッダの悟りとは何か、ブッダの教えとはどういうものなのか・・・が、自然に語られていく展開となっている。
歴史上実在した人物であるゴータマ・ブッダの一生が、手塚の卓越したストーリー展開で、生き生きと描かれており、先にも手塚が語っていたように、抹香くさいと敬遠されがちな一般のブッダ伝をこの漫画『ブッダ』 はそれを打ち破り、壮大な、大河ドラマに仕立てあげているのは流石だ。

古代インドは、インド・アーリア人の部族のひとつバラタ族が征服したとも言われており、インド人は自分たちの住む国のことを彼らの名でもある「バーラタ」とか「バラタ族の地」という意味で「バーラタヴァルシャ」と呼んでいた。
「古き物語」を意味する言葉の略称で呼称される一群のヒンドゥー聖典の総称である『プラーナ』(prāṇa)は、その多くの著述を、天の啓示を受けて伝えた大叙事詩『マハーバーラタ』((Mahabharata) の登場人物でもあり、著述者でもあるとされる伝説上のリシ(聖仙)ヴィヤーサ (vyaasa) のものとされている。


上掲の画像はヴィヤーサ。

この大叙事詩『マハーバーラタ』(※8参照) はヒンドゥー教の聖典のうちでも重視されるものの1つで、グプタ朝(西暦320年-550年)ごろに成立したと見なされている。
「マハーバーラタ」はパーンダヴァ族とカウラヴァ族族(この二つを合わせてバラタ族=バーラタ)の争い・・・つまり、バラタ族の王位継承問題に端を発して同族の間で起こった対立と抗争と戦闘を綴ったものである(※11 参照 )。
同叙事詩は、世界の始まりから始まる。その後、物語はバラタ族=バーラタの争いを軸に進められ、物語の登場人物が誰かに教訓を施したり、諭したりするときに違う物語や教典などが語られるという構成で、千夜一夜物語と似た構成になっているが、大きな相違点としては、バラタ族の王位継承問題に端を発して同族のあいだでおこった対立と抗争と戦闘を綴った“戦記物語”である。しかし、同門が骨肉相争ったとはいえ、全体としては王族バラタの波瀾万丈・栄枯盛衰の物語なので「マハー」(大いなる)と形容され、「マハーなるバラタの一族の物語」と名付けられてきた。

画像:クルクシェートラの戦いを描いた図 。五王子と百王子の戦いを表現している。

『マハーバーラタ』は、全部で18巻10万詩節20万行から成る長大な物語となっているが、その理由はこの叙事詩の成立にはおそらく紀元前4世紀ごろから紀元後4世紀くらいまでの、ざっと800年もの編集がかかっており、その間に数多(あまた)の尾鰭がついた。
聖書や仏典の場合は、それらを創世記、民数記、ヨブ記、般若経、華厳経、法華経などとクラスターごとに切り出して自立させたが、ヒンドゥイズム(狭義では宗教=ヒンドゥー教を意味するが、広義では、インドの社会、インドの心ともいうべき概念である。※9参照)はそれをせず、そのまま延々と繋げていったからだという(※10:「松岡正剛の千夜千冊」の1021夜『インド古代史』1512夜『バガヴァッド・ギーター』等参照)。
インドの民族主義者で、教師、社会改革者、そして、最初期のインド独立運動で活躍した政治指導者であるティラクやインド独立の父として知られるグジャラート出身の弁護士、宗教家、政治指導者ガンジーの座右の書だったというヒンドゥー教の重要な聖典の一つで古代インド至高の「神の歌」ともいわれる『バガヴァッド・ギーター』は、『マハーバーラタ』(全18巻)の第6巻に編入されている短い一章分の詩編である(※12の原作台本、※8の24.クルクシェートラの戦い1参照)。
この『マハーバーラタ』はヒンドゥー教におけるヴィシュヌ神の第8の化身(アヴァターラ)であるクリシュナと主人公でパーンダヴァ兄弟5人のうちの第3子アルジュナ王子の対話の形を取る。
クリシュナは戦いに迷う王子アルジュナに「戦え、行動せよ、」と激励。
『バガヴァッド・ギーター』はクリシュナ(=ヴィシュヌ)と一体化し、我を捨て持って生まれた義務(ダルマ)を遂行すること。放擲(ほうてき)を説いた。神が激しく道徳の危機に瀕した人間を宥め、導く様を記録したものであり、クリシュナが王子アルジュナに説いてみせた格別のギーターになっている。
ギーターは神がもたらした詩歌のこと。「バガヴァッド」はサンスクリット語で「神」をいう意味。クリシュナはインドの神統譜では最高のバガヴァッド(=崇高神。ヴィシュヌ神)が変身した神格であるから、このギーターはすなわち「バガヴァッドのギーター」であり、ここではクリシュナがそのギーター「神の歌」を説いた。
インドにおいては『バガヴァッド・ギーター』の占める地位は大きく、時にヴェーダより重要とされることもある。バガヴァッド・ギーターの成立年代は定かではないが、世紀後一世紀頃として大過はないといわれる。
また、ヴィシュヌ派の創世神話によると、宇宙が出来る前にヴィシュヌは竜王アナンタの上に横になっており、ヴィシュヌの臍(へそ)から、蓮の花が伸びて行きそこに創造神のブラフマー(Brahmā)が生まれ、ブラフマーの額から破壊神シヴァが生まれたとされている。ということはヴィシュヌが天地創世以前の最高神なのである。以下YouTubeの画像は、アンコール遺跡の中でも人気の高いクバールスピアン。その魅力は川底に彫刻があること.。その中に、横たわるヴィシュヌ神の彫刻がある。
Cambodia Kbal Spean 川底に眠る遺跡「クバールスピアン」 - YouTube

静止画は以下参照。
聖地クバールスピアンの神々 - クメールの誘惑 

アナンタ竜の上に横たわるヴィシュヌ神。妻であり神妃であるラクシュミー(Laksmi)と臍から生えた蓮の花の上でブラフマー神が瞑想している。ラクシュミーの顔ガ盗掘されてないのが残念。

このヴィシュヌには多神教独特の性質がある。アヴァターラと呼ばれる10の姿に変身して地上に現れる。これは、偉大な仕事をした人物や土着の神を「ヴィシュヌの生まれ変わり」として信仰に取り込む為の手段であったと考えられており、よく「化身」と訳されるが「権化」「権現」「化現」と言った方が正しいようだ。『マハーバーラタ』のなかではいろいろと身を変じて、戦争や人生の戦略家あるいは指南役としての相貌を与えられている。

『マハーバーラタ』第VI巻の巻頭には バラタ大戦争(英:クルクシェートラの戦い)開戦直前の場面で、盲目の老王ドゥリタラーシュトラ( Dhrtarstra)とサンジャヤ(Sanjaya)の対話があり、サンジャヤが古インドので大地の形態や山岳・河川・民族の名称等を詳細に述べているがそれはインドの古代の宇宙論でもあるが、そのことはここでは、省略する。別表を作っているので興味のある人は以下で見てください。

別表:『マハーバーラタ(Mahabharata)』 第VI巻の巻頭で述べられるインドの大地(宇宙観)へ

しかし、そこに書かれているインドは途方もなく広い。その王がバラタである。『リグ・ヴェーダ』ではバラタ王はアーリア人の一族だということが、はやくも謳われている。母がシャクンターラだった。そのバラタ王の統治する世界が、すなわちバラモン教発祥の地となった。ということは、この国は政治領域として確立されたのではなく、宗教領域として形成されていったのだということをあらわす。
ヴェーダには多数の神が登場するが、神々はまとめてデーヴァ(天)である。ヴェーダという名詞は「ヴィッド」(知る)という動詞の語根から派生した言葉で、知識を意味するそうで、そのころの知識といえば、すべからくが聖なる知識だそうだ。
やがて天の恩恵を司るデーヴァ神族と宇宙の法を預かるアスラ神族とに分かれた。
デーヴァは現世利益を司る神々とされ、人々から祭祀を受け、それと引き換えに恩恵をもたらす存在とされた。代表的なデーヴァは雷神インドラ(日本では帝釈天)であり、実に『リグ・ヴェーダ』全讃歌の4分の1が彼を讃えるものである。
アスラ神族を代表するのはヴァルナであった。現在では前述のヴィシュヌ神等に押されて影が薄い。ヴェーダの宗教がバラモン教と呼ばれる。
現在のヒンドゥー哲学の基本となる「因果応報」「霊魂不滅」「輪廻転生」などの諸観念の淵源は、ウパニシャッドが完成した頃まで遡れる。ウパニシャッドの時代では、そのヴァルナとミトラが社会の原理として称揚された。ウパニシャッドは紀元前800 - 500年頃にガンジス川流域で作られたインド古代哲学の総称である。
バラモン教はインドを支配するアーリア人の祭司階級バラモンによる祭儀を重要視する宗教であった。紀元前5世紀頃に、バラモン教の祭儀重視に批判的な仏教とジャイナ教が成立した。
更にインド北西部は紀元前520年ころにはアケメネス朝ペルシア、前326年にはアレクサンダー大王に支配された。その後仏教はアショーカ王(在位紀元前268年頃 - 紀元前232年頃)の帰依などにより一時期バラモン教を凌ぐ隆盛を示した。この時期にヴェーダを基本とする宗教であるバラモン教は「支配者の宗教」からの変貌を迫られ、インド各地の先住民族の土着宗教を吸収・同化して形を変えながら民衆宗教へ変化していった.。
紀元後4世紀頃、グプタ朝がガンジス川流域を支配した。グプタ朝はチャンドラグプタ2世(在位紀元385年 - 413年)に最盛期を迎えるが、このころに今もヒンドゥー教徒に愛されている叙事詩『マハーバーラタ』と『ラーマーヤナ』がまとめられるなど、ヒンドゥー教の隆盛が始まった。
バラモン教は具体的な目的に対して神に「供犠」を捧げる、いわば「ギヴ・アンド・テイク」の宗教であったのに対し、ヒンドゥー教ではヴィシュヌ神のような至高の神への絶対的帰依(「バクティ」と呼ぶ)に基づく信仰態度が多くの大衆に受け入れられ始めた。この時期に六派哲学と呼ばれるインドの古典哲学が確立し、互いに論争を繰り広げた。
5世紀〜10世紀の南インドでは「至高の神への絶対的帰依」、「自己犠牲をいとわない神への奉仕」を信仰の柱とするバクティと呼ばれる信仰形態が顕在化し始めた。このバクティに関して、12世紀から13世紀にかけてヴェーダーンタ学派の学匠達によって「ヴィシュヌ神」を崇拝する信仰が理論化された。、
バクティー(信仰行法)とは、無条件の心の状態になることだそうである。無条件になるために、自己を他に捧げることであり、理屈抜きですべてを行なうことなのだそうである。
そして、正確なことはわからないが西暦紀元前5世紀頃、シャーキャ族王・シュッドーダナ(漢訳名:浄飯王 じょうぼんのう)の男子として、釈迦が現在のネパールのルンビニにあたる場所で誕生したとされている。
釈迦の生涯や釈迦が何を悟り説いたか、又、日本の法華経など仏教で説かれているものと教えがどのように違うかなどほとんど何もかけていないが、以下参考の※13:「環境イーハトープの会」で、いろいろ詳しく書かれているので興味のある人は、そこを見られるとよい。

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参考:
※1:日本記念日協会
http://www.kinenbi.gr.jp/
※2:映画「手塚治虫のブッダ−赤い砂漠よ!美しく−」オフィシャルサイト
http://wwws.warnerbros.co.jp/buddha/
※3:山陰中央新報 - 中村元・人と思想(27) 「人間ブッダの発見」
http://www.sanin-chuo.co.jp/edu/modules/news/article.php?storyid=534797249
※4:潮出版社-手塚治虫「ブッダ」
http://www.usio.co.jp/html/buddha/
※5:マンガ「ブッダ」1「うさぎが火に飛び込んだ理由」/私の読書録(あらすじ・感想)
http://readingbookcom.seesaa.net/article/386913649.html
※6:ジャータカ物語 目次 jataka index - 日本テーラワーダ仏教協会
http://www.j-theravada.net/jataka/
※7:今昔物語集
http://yamanekoya.jp/konzyaku/index.html
※8:U−DARA’S YARD
http://www.geocities.jp/u_dara/udara/index.html
※9:インド理解のキーワード---ヒンドゥーイズム - 京都産業大学
http://www.cc.kyoto-su.ac.jp/~yamakami/hinduism.html
※10:松岡正剛の千夜千冊:全読譜INDEX
http://1000ya.isis.ne.jp/souran/index.php?vol=102
※11:マハーバラの概要:マハーバラタの主要登場人物の紹介とあらすじ
http://www.tufs.ac.jp/blog/ts/g/aoyama/seaclcul-20111201.pdf#search="%E3%82%AF%E3%83%AB%E3%82%AF%E3%82%B7%E3%82%A7%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%A9%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84"
※12:『バガヴァッド・ギーター』とはなにか
http://chitobunmei.com/bhagavadgita/index02.html
※13:環境イーハトープの会
http://kankyo-iihatobu.la.coocan.jp/index.html
倶舎論 (くしゃろん)
http://www.sakai.zaq.ne.jp/piicats/kusharon.htm
※10:【補註10】Saṅkassa(サンカッサ) - 原始仏教聖典資料による釈尊伝の研(Adobe PDF)
http://www.sakya-muni.jp/pdf/mono15_s02_10.pdf#search='%E4%B8%89%E9%81%93++%E5%AE%9D%E9%9A%8E'
手塚治虫『ブッダ』の世界
http://60.43.152.48/buddha/buddha.html
漫画で学ぶ【仏陀・仏教】 - NAVER まとめ
http://matome.naver.jp/odai/2133615721793721501

ひよ子の日

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何時もこのブログを書くのに参考にさせてもらっている「今日は何の日〜毎日が記念日〜」(※1)に毎月15日「ひよ子の日」があった。由緒が書かれていないのでネットで「ひよこ」を検索すると、Wikipediaで見つかった。
福岡には辛子明太子などとともに博多(福岡市)土産の定番となっている「ひよ子饅頭」がある。愛くるしいひよ子の形をした立体形の饅頭であることが特徴。
製造・販売をしているのは現在本社を福岡市南区(工場は飯塚市など)に置く株式会社ひよ子(ひよ子本舗吉野堂。※2参照)。記念日の日付は、毎月14日と15日となっているが、ひ(1)よ(4)こ(5)」の語呂合わせらしい。本当は14日にこのブログアップしたかったのだが出来なかったのが残念。
私も現役時代仕事でよく福岡へは出張する機会も多かったし、後半の2000(平成12 )年くらいまで約5年ほどは福岡へ転居して、仕事をしていたので、神戸へ帰る時などよく土産に買ったものだ。
上掲の画像がそのひよ子饅頭。画像は同社HP掲載のものを借用した。
同社HPなどによると、元々は筑豊炭坑地帯であった飯塚市の菓子屋で、屋号である「吉野堂」は、福岡から飯塚に抜ける八木山に咲く「染井吉野」に由来したものだという。私も福岡に住んでいた時、八木山展望公園の桜を見に行ったことがあるが、ミニ吉野と言った感じの素晴らしい景観だったのを記憶している。
江戸時代に、現在の飯塚市域に長崎街道が整備された。現在の飯塚市中心部に飯塚宿が、市南部(旧・筑穂町町域)に内野宿が整備され、それぞれ宿場町として栄えた。
長崎街道(正式には長崎路)とは、江戸時代に整備された脇街道の一つで、豊前国小倉(現:福岡県北九州市小倉北区)の常盤橋を始点として、筑前六(む)宿(黒崎・木屋(こやの)瀬(せ)[北九州市]、飯塚・内野[飯塚市]、山家(やまえ)・原田(はるだ)[筑紫野市])を経て、肥前に入り、天領の日見(ひみ)、長崎に至る25宿、57里(228キロ)の道のりは、筑前・筑後・肥前・肥後・薩摩の諸大名の参勤交代のほか、長崎奉行や西国筋郡代の交代、さらにはオランダ人や中国人の江戸参府や交易・献上品の運搬にも用いられたほか、様々な物・技術・文化を海外から日本へ、また、日本から海外へと伝えていった街道でもあった(長崎街道マップは、※3参照)。
例えば、食文化に大きな影響を与えた「砂糖」。南蛮貿易で長崎に入ってきた砂糖は、この街道を通り、大阪や江戸など日本各地へと広まった。
この砂糖が船運によって、経済発展していた長崎街道地域に大量に運ばれてきたため、この一帯は、菓子文化が他の地域と比べて発達しており、南蛮菓子を起源に持つ「丸ぼうろ」「カステラ」「鶏卵素麺」といった菓子が誕生した。
また、広義の長崎街道周辺には小城や飯塚といった菓子製造業が盛んな地域や、伝統行事に砂糖をふんだんに使う地域が多く、この事から、長崎街道は俗に「砂糖の道」「シュガーロード」とも呼ばれている(※4参照)。
長崎街道飯塚宿があった飯塚は、このような伝統に加えて、炭鉱開発で大手資本が進出し、豊富な財力を使った贅沢な文化が栄えた。また、炭鉱での重労働の疲労を回復するために甘いものが求められたことも、菓子の発達につながったようだ。
1897(明治30)年より飯塚で菓子屋をしていたというひよ子本舗吉野堂の2代目が夢で見たという“ひよこ”にヒントを得て、立体的なひよこの形をした饅頭がこの飯塚でうぶ声をあげたのは1912(大正元)年だ・・というから、2年前の2012(平成24)年に100周年を迎えていた勘定になる。
吉野堂は、1957(昭和32)年に、福岡市内(天神)に進出、ここでも人気となり福岡市内一円に進出、辛子明太子などとともに博多(福岡市)土産の定番に育っていったというわけだ。
ひよ子発祥の地吉野堂飯塚本店は、現在は、旧長崎街道飯塚宿の街道筋がそのままアーケードになっていると云う本町通り商店街の中にある(※4参照)。
1964(昭和39)年に開催された東京五輪をきっかけに東京へも進出し、東京駅や羽田空港などターミナルを中心に出店、現在では東京土産としても有名になり、関東以北では「東京銘菓 ひよ子」と宣伝して知名度を獲得した経緯から、福岡発祥の菓子であることを知らない者も多く「東京から来た人が福岡の人に東京土産として『ひよ子』を持ってきた」などという笑い話もあるそうだ。

1963(昭和38)年、詩人・作詞家のサトウハチローに依頼し作られた 『ひよこの歌』は、当時提供した天気予報(RKBテレビ)のバックミュージックとして、テレビを通じて親しまれ、またソノ・シートを製作して、幼稚園や保育園などにも配布し、子どもたちや先生方からたいへん喜ばれたという(ここ参照)。
又、1965(昭和40)年には それまで「ひげ文字」で表現されていた ひよ子の文字も その当時の 女性書道家 町春草により かわいい 「ひよ子文字」 (ここ参照)となり高度経済成長の中での 広告デザインの 先駆けともなった。
先に書いたサトウハチローの 『ひよこの歌』、作曲は、あの有名な童謡『ちいさい秋みつけた』や『めだかの学校』の作曲家中田喜直のものであり、一度聞いてみたいと思ったが、同社HPにも掲載がなく聞けないのが残念。
そういえば、サトウハチロー(作詞)と、中田喜直(作曲)による童謡に『可愛いかくれんぼ』(1951年)があった。1番の歌詞だけを以下に書こう。

「ひよこがね
お庭でぴょこぴょこ かくれんぼ
どんなにじょうずに かくれても
黄色いあんよが 見えてるよ
だんだん だれが めっかった」

この歌今もよく歌われているようだが、歌は以下で聞ける。↓
かわいいかくれんぼ - YouTube
【童謡】かわいいかくれんぼ-

貝原益軒の『日本釈名』(元禄12年)には、「卵(カヒコ) 鳥の玉子也、かへる子也、かへるとは玉子の変わりて、ひよことなるを云」とあり、又、寺島良安の『和漢三才図絵』(正徳2頃年)四十四 鳥の用には、「卵 和名 加比古 音敷 (ふ)・・とある(※5:「古事類苑.」 動物部のコマ番号62−63参照)
卵を玉子とも書くのは形が丸いところからきたと思われるが、魂(たま)の入ったものと考えたためとも解されている。古語は「カヒコ」で、カヒコは単にカヒとも云つた。其のカヒと云ふは、『和名抄』によると貝や虫の皮甲などをも云ひ、要するに、殼である。故にカヒコは「カヘルコ」のつまったものと、貝のような石灰質の殻に入った子という意味からきたとも解されているようだ(ここ参照)。

上掲の画像は循環する原因と結果

ところで、 鶏が卵を産みヒナになりそれがひよこになる。この循環を繰り返しているが、どちらとも判定がつかないことの「たとえ」に「タマゴが先かニワトリが先か」という言葉がある。
現在家禽となっている鶏(ニワトリ)の祖先は今でも、インドからマレー半島、スマトラ、フィリピンなど東南アジア熱帯地域のジャングルに生息している「野鶏(ヤケイ)」と呼ばれる野生のニワトリのひとつである「セキショクヤケイ」だとする説(単元節)とセキショクヤケイとハイイロヤケイの雑種の子孫であるとする多元説(交雑説)があるようだ。
いずれにしても、ニワトリの身体的特徴の一つとして、ニワトリの足をよく見ると「鱗(ウロコ)」の跡が観察できる。これは、鳥類爬虫類から進化したことを物語っているそうだ。そうであれば、爬虫類の産んだタマゴから鳥類の祖先が生まれたと考えるのが自然だとされている。
また、現在のように様々な種類のニワトリ(鶏種)に分かれたのは、あるタマゴから新しい種類のニワトリが産まれたからで、生物の進化からいうとニワトリとタマゴでは、やはり「タマゴが先」ということになりのだそうだ(ここ参照)。

ニワトリ(鶏)は肉と卵を食用に、羽を衣服(特に防寒具)や寝具に利用するため、世界中で飼育されている家禽である(養鶏)であり、東南アジアから中国南部において家畜化された後、日本においては4世紀から5世紀ごろに伝来したと言われる。
ただ、天武天皇 4年4月17日(675年5月19日)の肉食禁止令において、ウシ・ウマ・イヌ・ニホンザル・ニワトリを食べることが禁じられている(※6参照)が、ニワトリは神の使いとする神道に配慮したからだと考えられており、その後は時を告げる鳥として神聖視され、また、愛玩動物としても扱われていた。
武士の誕生とともに鍛練として狩猟が行われ、野鳥の肉を食すようになったが、まだ、ニワトリは生んだ卵も含めて食用とは看做されていなかった。
江戸時代でも、人間の食料がやっとという時代。貴重な穀物をエサとする鶏を「鶏肉」として飼育するのは至難の業。中期以降野山に生息する野鳥を捕食していたところ、乱獲で野鳥が絶滅することを恐れた幕府によって野鳥の食用を禁止する措置がとられた。そしてこのころには、無精卵孵化しない事が知られるようになると、鶏卵を食しても殺生にはあたらないとして、ようやく食用とされるようになり、採卵用としてニワトリが飼われるようになった。しかし、江戸時代でも鶏の肉はまだあまり食べられてはいなかったようだ。

上掲の画像は、『和漢三才図会』の巻第四十二の原禽類 鶏の項。

先に紹介した1712(正徳2)頃年に出版された寺島良安著図説百科事典『和漢三才図会』の巻第四十二の原禽類 鶏の項、冒頭には、以下のように書かれている。

鶏 (ニワトリ)和名加介 又云う久太加介 又云う木綿附(ユフツケ)鳥 俗云庭鳥。
本綱に鶏は者也 能く時を稽(カンカフ)也 其の大なる者を蜀と日ふ 、小なる者を荊と日ふ、其の雛をヒヨコ(日與子)と日ふ…(以下略)・・と(詳細は参考※7のコマ番号81。また※8のここ 参照)。
ここで、和名加介 又云う久太加介についてはよく判らないが、何故「綿附(ユフツケ)鳥」と言ったかは参考※9 :「ゆふつげどり【木綿付鳥】 | 情報言語学研究室」には、いろいろと、「木綿付鳥」の現れる文献を例示し、《補助》として、小学館『日本国語大辞典』第二版、角川『古語大辞典』を引用しているが、それらによると、
「ゆうつけ‐どり[ゆふつけ:]【木綿付鳥】〔名〕(後世「ゆうづけどり」「ゆうつげどり」とも。古代、世の乱れたとき、四境の祭といって、鶏に木綿(ゆう)をつけて、京城四境の関でまつったという故事に基づく。木綿をつけた鶏。また、鶏の異称。木綿付の鳥。*古今集〔九〇五(延喜五)〜九一四(延喜一四)〕恋一・五三六「相坂のゆふつけどりもわがごとく人やこひしきねのみなくらむ〈よみ人しらず〉」の歌がある(小学館『日本国語大辞典』)。
鶏は鬼気や妖怪の活躍する夜の時間の終る晨(あした)を告げる鳥として、古くから邪気を払う力があるとされた。中世の霊気祭には、鶏の絵に唾をかけて祓(はらへ)をしたり(看聞御記・永享八・三・二七)、近世にも節分の夜、厄払(やくはらひ)が厄を払った後に鶏の鳴き声をなして去ったという(日次紀事・十二月)。院政期以後「逢坂のゆふつけ鳥」の形が多く用いられるが、「たがみそぎゆふつけとりか唐衣たつたの山にをりはへてなく(古今集・雑下)」の竜田山(たつたやま)も、平城京への西の入り口にあり、古く鶏に木綿を付けて祓をすることが行われたのであろう(角川『古語大辞典』)。・・・ということであり、結論としては、古くニワトリに木綿を付け、ニワトリの鳴き声をなして祓をすることが行われていたことからつけられた名前ということのようだ。
又、『和漢三才図会』に出てくる蜀・荊・・と呼ばれる鳥は何か?

以下参考※10の【鷄】では、『塩鉄論』には以下のようなことが記されているという。
郭璞曰く、「鷄大なる者蜀とは、今の蜀鷄なり。鷄、蜀魯荊越の諸種有り。越鷄は小、蜀鷄は大。魯鷄は又其の大なる者なり」と。『荘子』に曰く、「越鷄は鵠卵を伏する能はざるも、魯鷄固より能くす」と(ことわざ辞典参照)。成玄英(※10の【鷄】の注釈5参照)曰く、「越鷄は荊鷄なり。魯鷄は今の蜀鷄なり」・・・と。
中国ではニワトリは「時を告げる鳥として神聖視されていたので「蜀鷄」は体も大きいが大きな声で長く時を告げたので珍重されたのだろう。それに反して、越鷄は体も小さく鳴き声も小さかったのだろう。江戸前期の食物本草『本朝食鑑』巻5 禽之二原禽類十三種の鶏項には、「大なる者を唐麻呂と称す 是れ素華自り来るの之謂ひか乎 麻呂は者古へ男子の之通称也」とあり、江戸初期には「大唐丸」(蜀鶏)他、数種のニワトリが中国大陸から日本へ渡ってきて在来種と混じり合ったのだろう(参考※11のコマ番号25。また、※8のここ参照)。

現在の日本の家禽(※12のここ参照)に、世界的に有名な天然記念物の長鳴鶏「蜀鶏(トウマル)」がいる。三長鳴鶏(唐丸、東天紅、声良)の中で、最もニワトリらしい鳴き声をする。主たる飼育地は新潟県で、中国渡来の大唐丸と小国系統の長鳴鶏種とを交配したものという、体重は雄3,750gと大型だ。以下で一度その鳴き声聞いてみたら・・・、すごく長い間鳴いているよ・・・。

蜀鶏

『和漢三才図会』巻第四十二の原禽類の項の最後には、以下のようなことも書かれている。
「小児五歳以下にして鶏を食えば、かい虫を生ず。鶏肉と糯米(もちごめ)と同じく食えばかい虫を生ず。鶏肉を葫(にんにく)・蒜(ねぎ)・芥(からし)・李(すもも)と合わせて之を食ふベからず。鶏肉と生葱(なまねぎ)と同じく食えば虫痔となる。鶏肉を鯉魚と同じく食へば癰癤(ようせつ。ここ参照))と成る」・・・と。
これらの記述から、今では常識のようになっているニワトリとネギを一緒に食べると寄生虫を生ずると信じられていたようだ。これらの食い合わせのほとんどは迷信だろう。現在では食用の鳥といえばニワトリだが、江戸時代にはニワトリは中国同様、「時を告げる家禽」として食用にすることを忌避する傾向があり、食用の鳥といえば鴨が一般的で、また最も美味しいものとされていたようだ。しかし、先にも書いたように、採卵用としてニワトリが飼われるようになり、卵は食べられるようになっていた。そして、天明年間(1781年-1789年)には「万宝料理秘密箱」という鶏卵の料理書も出版されているという(※13参照)。
又、江戸時代後期の『守貞漫稿』(喜多川守貞著、 嘉永5年-1853年)の近世風俗志 第五遍生業下 “揚出し鶏卵売” には、以下の記載がある。(参考※14の.109コマ参照)。 
「鶏卵の水煮売る。価大約廿文。
詞に「たまごたまご」と云。必ず二声のみ。
一ト声も亦三声も云はず。
因に云。
四月八日には鶏とあひるの玉子を売る。
江俗云ひ伝ふ。
今日家鴨(あひる)の卵を食する者は
中風を不病(やまざる)の呪と。京阪此事無き也」。
とあり、文化年間以降京都や大阪、江戸においてニワトリとあひるの玉子が食されるようになったとの記述がある。また、文化以来、京阪はかしわという鶏を葱鍋にして食べているが江戸では、しゃもという闘鶏を同じように煮て食べていたことが書かれている(※※14の80コマ参照)。

「苞にする十の命や寒鶏卵(かんたまご)」 (太祗 「太祗句集後篇」)
江戸時代中期の俳人 炭太祇の作で、句集として『太祇句選』、『太祇句選後編』(※15参照)などがある。
寒卵は寒玉子のことで、季語は、三冬。「にする」は、「お土産にする」でもよいが、「藁苞(わらほう」にして卵を包み込んだもの」と解したほうがよさそう。まだ生きている寒卵、ほのかに温いのかもしれない。寒の卵は滋養があると言われている。太祇は、藁苞に10個玉子を包んでどこの土産にするのだろうか。ひょっとしたらその相手は病気でもしていたのだろうか・・・。
当時のニワトリは、今のブロイラーのように毎日卵を産まなかった。卵は、江戸近郊の百姓家が、庭で放し飼いにしている地鶏が自然に産んだ卵を、野菜の商いのついでに売りに来るものだったようで、価格も今とは違って高価であったようだ。江戸末期には生卵やゆで卵の行商人もいたが、八百屋の一角などにもみ殻を敷き詰めた板箱を置き、そこに卵を一つずつ立てて売られている様子が当時の浮世絵に描かれていたのを見たような気もする。
『守貞謾稿』には、「うどんの上に卵焼き、かまぼこ、しいたけ、慈姑(くわい)などを具に食べる」「卵とじうどんにする」などといったことも書かれており。卵の値段も書かれているが、かけそばやうどんが一杯十六文のところ玉子とじうどんとなると三十二文と、ぜいたくな食べ物だったのかも・・。。

さて、「ひよこ」の語源は、先に書いたサトウハチローの 動揺『可愛いかくれんぼ』の歌詞「お庭でぴょこぴょこ かくれんぼ」の「ぴょこぴょこ」は「ひょこひょこ」と同じこと。小きざみにはねるさまや気軽に出歩くさま(ひょいひょい)をいう。だから、そんな「ひょこひょこ」から「ひよこ」になった・・・なんて説も聞くが、あまり信ぴょう性はないようだ。
広義では、「ひよこ」は、孵化して間もない鳥の子。狭義では、特にニワトリ(鶏)のひな鳥のことを言う。だから、「ひよこ」は漢字で「雛」と書く。『和漢三才図絵』には、和名比奈(ヒナ)、今比興古(ヒヨコ)と云うとある。
「雛」は雛人形の「ひな」で、「雛人形」は鳥の雛のごとく小さい人形の意。古くはひひな、あるいはひいなといった。生まれたばかりの鳥の子がヒヒと鳴く、即ち「ヒヒナク」のつまったのが語源という。したがって、幼い子の意味から、幼稚な者や未熟な者をさす言葉としても使われている。また、広義では、他の鳥(特にアヒル)のひな鳥の呼称としても用いられることがある。
 
現代は、鶏の肉は、焼鳥や、唐揚げ(フライド・チキン)、ロースト・チキン、水炊きや親子丼の具などに、また、卵はゆで卵だけでなく、目玉焼き、オムレツ、玉子焼き、だし巻卵、茶碗蒸しや、各種卵とじなどに、そして、最近では新鮮な生たまごも美味しいと評判だ。この様に、鶏肉と鶏卵は、今の私たちの食生活には、無くてはならない食材となっており、重要なタンパク質源でもある。
この様な、鶏肉として食べているニワトリも卵を産むニワトリも、かつては、卵肉兼用種(※16のここ参照)の同じニワトリであった。
戦時中、私は母方の田舎徳島のへ疎開をしていたが疎開先は徳島では大手の農家で、田畑だけではなく山も持ち、家には牛やニワトリなども買っていた。それで、卵をとるだけではなく、祭りの時など飼っているニワトリを家の庭先で首を締めてさばいているのを見て、都会育ちの私など、しばらく鶏肉を食べるのが嫌になったのを思い出す。また、戦後神戸へ帰ってきても焼け野原となっているところにバラックを建てて鶏を飼っているところが家の近所にあった。
戦後のアメリカ駐留軍の影響から鶏肉料理の需要が増大し、農家が内職的に食肉用としてニワトリを飼育するようになったのをきっかけとして昭和20年代後半からブロイラー産業が開始され、昭和40年にはアメリカからブロイラー用(肉専用種)のヒナ鶏が輸入され、それに伴い生産量も急速に増加。
ブロイラーは、ひなを殆ど運動させず、配合飼料で育てた若鶏を言い、その生育がとても早い。したがって価格も安くなる。それに、自然のニワトリに比べれば肉が柔らかいことも特徴で、かえってその肉の柔らかさが気に入られ、鶏肉用としては、今では、一部地鶏のもの以外卵肉兼用種は鶏肉用としての役割を失い、鶏肉用としてはアメリカ発祥のブロイラーがすっかり日本に定着し、日本人の食を支えるようになった。
ところでニワトリは交尾をしてもしなくても卵を産むのですよ・・・。
ニワトリは交尾をしてもしなくても約25時間に1個の割合でたまごを産むそうだ。 交尾をしていれば「有精卵」(受精した卵)が産まれ、交尾をしていなければ「無精卵」(未受精卵)が産まれる。
最近は有精卵が特殊卵(※のここ参照)として売られているが、スーパー等で売られている普通のタマゴは、ニワトリが「ケージ」と呼ばれる(鳥かご)の中に1羽ずつ入れられて、無精卵を産んでいる(ケージ飼い) 。
「有精卵」を産ませるためには、オス鶏1羽にメス鶏10羽くらいの割合で混飼(こんし)する放し飼いまたは平飼いが行われる(養鶏、また、※17のQ&A参照)。
一般に鶏卵は調理後のものを「玉子」とし、生の場合「卵」としていうるようだ。だから、これ以降は、タマゴをこの呼び方で書く。上記で説明したように、今では、料理で単に「卵」と言う場合は鶏卵の無精卵を指していると思えばよい。

それでは、日本全国で、一体どれくらいの採卵用ニワトリが飼育されているのだろう。
平成25年2月1日現在の農林水産省統計「畜産統計」平成25年7月2日公表によれば、
全国で卵鶏の飼養戸数は2,650個で、飼料価格の高騰による廃業等で前年に比べ160戸(5,7%)減少している。又、使用羽数は1億7,223万8,000羽で前年に比べて271万1,000羽(1,5%)減少しているそうだ。尚1戸当たり成鶏めす飼養羽数は5万2,000羽で、前年に比べて239万2,000羽増加している。
又、ブロイラーの飼養戸数は2,420戸で、飼養羽数は1億3,162万4,000羽で、一戸当たり飼養羽数は5万4,400羽。出荷戸数は2,440戸で、出荷羽数は6億4,977羽で、1戸当たり出荷羽数は26万6,3000派であった。なお採卵鶏の飼養戸数、羽数の多い地域上位4か所を見ると以下のようになっている(単位:羽数は千羽、飼育戸数は戸)
飼育戸数では、愛知県 186、鹿児島県147、千葉県14茨城県 144の順。
飼養羽数では、茨城県13, 151、千葉県11,757、鹿児島県9,539、愛知県9,222  の順となっている。

上記統計を見ても分かるように、採卵用のニワトリは当然全て雌鳥(めんどり)である。雌鶏は、先にも書いたように約25時間に1個の割合でタマゴを産むというから、雌鳥は狭い折に入れられてほぼ毎日1個の卵を産まされていると言ってよいだろう。全国でブロイラーの飼養羽数は1億3,162万4,000羽もいるというから日本の人口とほぼ同じであり、日本人は毎日1人あたり玉子1個は食べている勘定になる。それに、地鶏も食べているのだからすごい量を消費していることになる。

上掲の画像は近代的なブロイラー飼育場。

ニワトリは孵化(ふ化)して4ケ月前後でたまごを産みだすそうだが、初玉子は、その産み始めの小さい卵のことをいい、地方によっては、お産をする女性に食べさせると安産になるということで親しまれているようだ。
受精した卵をふ卵器に入れ、摂氏38度位で温めると、21日目位に、自らの力で殻を割り、ヒナが誕生をする。それがひよこというものだ。生まれたばかりの元気良くピヨピヨと鳴いているひよこは実にかわいらしい。

「苗売のとなり子どものひよこ売 」(星野麥丘人。※18参照)

私たちが子供の頃、戦中戦後など、縁日ではよくひよこを箱に入れて売っていた.小さい頃の話なのでよくは覚えていないが、1度は買ったものの、数日は可愛い可愛いと言いながら遊んでいたものの数日で冷たくなって死んでいた記憶がある。可愛そうなことをしたものだ。 以来、余り動物や昆虫類など生き物は買わなくなった。
この様な縁日などで売られていたひよこは、卵を産めない雄(おす)ばかりだということを知ったのは成人してからのことである。卵を産むことのできない雄が子供のおもちゃのように売られていた。大きくなると、世話に困るし餌代もかかる哀れな雄のひよこであった。
買ったひよこの値段などとんと記憶にないが、いずれにしても小さな子供が買うのだから大した値段ではない。そんなひよこを1日で何匹売っていたかしれないが大した額にならないだろう。江戸時代の卵売りの方がよほど商売になったかもしれない。そんなひよこを売ってひよこ売はどんな暮らしをしていたのだろうか。そんなことでしなければ生きられなかった戦後は誰もが非常に貧しかった。

雌は卵を産む鶏だ、生まれて卵が産める間は大事にされる。しかし、卵が産めなくなるとどうなるのだろう・・・。
孵卵場は「卵をヒナに孵化させる所」であるが、卵の孵化は養鶏場がしていると思われがちなのだが、今の時代専門化が進み、卵の孵化は孵卵場と言う専門の業者が担当している事がほとんどのようだという。
そんな孵卵場では、卵からひながかえると、まず、「雌雄鑑別」が行われ、雌のひな(雄鶏)が、選り抜かれる。孵ったひなの約半数は雄である。卵を産むことのできない雄は、塩化ビニール製の箱の中にポイポイと放り込まれ、箱がひなで一杯になると、その箱は場内の片隅に無造作に積み重ねられ、次々と重ねてゆくと下段に積み重ねられた箱は重みで、押しつぶされて行くだろう。何段も重ねられた箱の中にいるひよこの運命は・・?考えただけでゾットする。
人間の都合で、どんどん卵を産まされ、役に立たない雄は食用にもされず育てるだけ無駄と圧死させられ、最後は廃棄物処理されるそうだ。
圧死させられるひよこ
一方処分されずに残った雌のニワトリも卵を産みはじめてから、養鶏場では約1年6ケ月ほどの間、卵を産ませられる。
その養鶏場の雌のニワトリの一生は、誕生してから約2年という短い期間で幕を閉じ、最終処分業者が引き取るらしい。これを「淘汰(とうた)する」といい、処分される鶏を「淘汰鶏」と呼ぶのだとか。
毎日健康の為とかなんとか言って食用にされている玉子。その卵からかえった可愛いひよこは雄・雌ともに可愛そうな運命が待っている。なんたる人間の身勝手さか・・・。
人が生きるということは・・・、他の生あるものを食べるということに通じる。人が生きてゆくために多くの生物が犠牲になって、人を生かしてくれているのだ、そう思うと、生きていけることに心から感謝しなければいけないだろう。「有難う!」。この感謝気持ちだけは忘れてはいけないだろう(卵のことは参考の※17を参照)。


※1:今日は何の日〜毎日が記念日〜
http://www.nnh.to/04/15.html
※2:ひよ子本舗吉野堂
http://www.hiyoko.co.jp/
※3:長崎街道内野宿:長崎街道マップ
http://www.nagasakikaido-uchinoshuku.jp/nagasaki-kaidou.html
※4:シュガーロード長崎街道(1)〜飯塚生まれのお菓子たち
http://futatsumekusa.air-nifty.com/blog/2005/12/post_62de.html
※5:古事類苑. 動物部3-近代デジタルライブラリー
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/897896
※6:日本の肉食禁止の歴史 食の雑学 補足12
http://www.in-ava.com/hosoku11.html
※7: 和漢三才図会. 中之巻(第37巻-54巻)-近代デジタルライブラリー
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/898161
※8:高知のにわとり:サイトマップ
http://ameblo.jp/tachibana2007/theme1-10006420121.html#main
※9:ゆふつげどり【木綿付鳥】 | 情報言語学研究室
http://club.ap.teacup.com/hagi/1064.html
※10:加納喜光研究室: {土+卑}雅の研究−中国博物誌の一斑−
http://chubun.hum.ibaraki.ac.jp/kano/peper/piya/index.htm
※11:本朝食鑑 12巻-国立国会図書館目次
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2607234?tocOpened=1
※12:日本家禽学会
http://jpn-psa.jp/index.html
※13:余録:「万宝料理秘密箱」。何やら… - 毎日新聞
http://mainichi.jp/opinion/news/20131218k0000m070156000c.html
※14:類聚近世風俗志 : 原名守貞漫稿-近代デジタルライブラリー
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1444386/065
※15:太祇句選後編
http://www.geocities.jp/haikunomori/taigi2.html
※16: 畜産Zoo鑑:鶏
http://zookan.lin.gr.jp/kototen/tori/index.htm
※17:たまご博物館
http://homepage3.nifty.com/takakis2/index.htm
日本釈名(原本)
http://base1.nijl.ac.jp/iview/Frame.jsp?DB_ID=G0003917KTM&C_CODE=XYA8-04801&IMG_SIZE=&IMG_NO=2
ひよ子 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%B2%E3%82%88%E5%AD%90



大人の日

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日本記念日協会の今日・4月22日の記念日に「大人の日」があった。
ケチャップ、デミグラスソースなど、洋食の分野の世界的ブランドとして知られるハインツ。その日本における企業、ハインツ日本株式会社(※2)が制定。
自社商品の「大人むけパスタ」「大人むけスープ」などをPRし、「大人な時間・気分」の演出を食卓から応援していくことが目的だとか。日付は4月22日が「よい夫婦の日」、11月22日が「いい夫婦の日」として知られている「大人の日」であることから、この両日を記念日に登録している。
同社HPを覗くとこのようなことが書かれていた。
「「大人むけ」のブランドは、誰もがもっている“大人な気分を楽しみたい”というニーズに着目し、“食にこだわる楽しみを知っている大人が満足するクオリティー”というコンセプトで展開するブランドです。
こうした“大人ニーズ”に注目し、「夫婦でも大人同士」の楽しみ方を提案するため、この度、“よい(いい)夫婦の日”として知られる4月22日と11月22日を『大人の日』という新しい記念日として、日本記念日協会に登録しました。
『大人の日』は夫婦やパートナー同士が日頃の子育て等を離れ、2人で“ちょっと大人な気分”を味わい、互いの関係をより良好なものにするための記念日です。夫婦が大人同士でちょっとだけ贅沢な時間を過ごす、そんなおしゃれな演出を食卓から応援します。将来は家族の役割を記念する「父の日」や「母の日」と同様に、社会的に重要な記念日として認知されることを目指します。」・・・と。

ケチャップ(英: ketchup)とは、野菜、キノコ、または魚などを原料にした調味料であり、トマトを用いたものはトマトケチャップと呼ばれる。
このトマトケチャップは、現在ケチャップを代表するものとなっており、単に「ケチャップ」と言えばトマトケチャップを指すことが多いが、これは海外でも同様のようである。
歴史的に「ケチャップ」という言葉は、必ずしもトマトケチャップのみを意味してきた用語ではなく、過去にはキノコなどで作られたソースや魚醤などを含む、ソース全般を指していた言葉であったようだ。
そんなケチャップがトマトと劇的な出会いをしたのが新天地アメリカで、18〜19世紀にアメリカに渡ったヨーロッパ人たちが、当時ようやく食用として普及し始めていたトマトでケチャップを作ったという。
Wikipediaによれば、最古のレシピは1795年の "Receipt Book of Sally Bella Dunlop" とされているが、切ったトマトに塩を振り、2・3日置いてからしみ出した果汁を香辛料と煮詰めたもので、酢も砂糖も加えていない(現在とは違い、調理中に隠し味として使ったと考えられている)ものだったという。
その後、1876年に世界で初めて、アメリカのハインツ社(H.J.Heinz)の創業者であるヘンリー・ジョン・ハインツ(ドイツ系アメリカ人。ここ参照)が瓶詰めトマトケチャップを販売し、広く普及した結果、これが、ケチャップの代表になったといわれている。
日本にケチャップが登場するのは明治時代。当時すでにトマトケチャップが主流になっていたアメリカから伝わったため、日本では当初からケチャップといえばトマトケチャップであった。
トマトケチャップの国産製品は、1896(明治29)年に横浜で清水與助が創業した清水屋が、1903年(明治36年)に製造販売を開始したという記録が横浜開港資料館所蔵の資料に残っており、これが最初の国産ケチャップであると考えられているそうだ。
1908(明治41)年には現在のカゴメがトマトケチャップの発売を開始(※4)。
トマトケチャップの世界流通・販売量世界第1位と云われているハインツだが、国内シェアでは、カゴメ(50%)と「デルモンテ」ブランドのキッコーマン(30%)の2社が大勢を占めており、ハインツは日本では約3%と苦戦しているのが現状だという(Wikipedia)。
世界の偉人の名言格言集(※5の中の創業者参照)を見ていると、ハイツ社の創業者ヘンリー・ジョン・ハインツ(H. J. Heinz )の名言が掲載されていた。

「地道に普通のことを行っていれば、驚くほどの成功がもたらされる」

良い言葉だね〜。私はいろいろな名言がある中でもこのような言葉が大好きだ。何事を成すにも日ごろの小さな努力の積み重ねが大事であることを説いている。大きな成功を収めている人が、必ずしも特異な才能を持っているわけではない。きっちりとした自分なりのヴィジョンを持ち、地道な努力や苦労を惜しまない。そのような姿勢こそが成功者に必要なのだろう。
ただ、そのような地道な努力でケチャップの販売量世界第1位となったハイツでも、日本国内でのシェアーがこれほど低いというのは、やはり、日本人の嗜好にはあっていないということなのだろうね〜。今日は、トマトジュースの話を書くのが趣旨ではないので、この話はこれまでにしよう。

今日の本題の記念日「大人の日」ではハインツは「大人むけパスタ」「大人むけスープ」などをPRし、「大人な時間・気分」の演出を食卓から応援していくことが目的としている」・・・というのだが、ここでいう「大人」・・・ってどんなことを言っているのだろう。
ハインツでは、大人の日のページに以下のようなことも書いている。

「たまには、夫婦ふたりだけで、ちょっと贅沢な大人の時間を過ごして欲しい。
そんな時間を叶える新たな記念日として、「大人の日」が制定されました。
その日は、父でも母でもなく、夫でも妻でもなく、大人同士として、いつもとはひと味違う過ごし方をしてみるのはいかがでしょう。
もちろん、大人のためのパスタやスープをいただきながら・・・。
普段は照れくさくてできない、夢や生き方の話をするのもいいかもしれません。
ちょっといいワインを空けたりして、大人同士の特別なひとときを。」・・・と。

「大人」とは、もともと日本の固有語の「和語」である「おとな」に漢字をあてた熟字訓であるが、造語成分(語素)と結合して、「大人ぶる」「大人びる」「大人っぽい」「大人しい」などの動詞や形容詞として使われたりもする。和語は一部を除き音読みはなく、また、身近な基礎的な言葉に多く、漢字と違って一般に意味が広いのが特徴である。
日本では、「大人=おとな」は、一般には、子供に対して、成人した人を意味する。さらには、精神構造が熟成していて目先の感情よりも理性的な判断を優先する人、もしくは自立的に行動し自身の行動に責任の持てる人の事を指す場合もある。また、理性を優先するという点から、妥協や周囲への迎合、事なかれ主義などを、「大人の考え」「大人の都合」「大人の事情」「大人になれよ・・・。」などと揶揄して言う場合もある。

もともと「大人」は、日本固有の「和語」であった「おとな」に「大きな人」と書く漢字をあてたものだが、中国語の「大人」(たいじん、ダーレン[daren])とは、日本語の「大人」(おとな)とは少々概念が違う言葉、名詞 (尊敬語) で、「立派な人=人格者」というのが本来の意味であり、転じて、目上の人に対する敬称として使われている。したがって、歳を取っているだけでは中国語の「大人」にはなれないのだ。
弱肉強食の論理が優先される戦国時代に、軍事力による覇道政治を戒めて、による王道政治の理想を説いたのが儒家孟子であった。

●上掲の画像は孟子。

孟子と戦国諸侯の含蓄のある対話や孟子と高弟たちの言行・思想を集積して編纂した『孟子』の『離婁章句(りろうしょうく)下』には「大人」への言及が3ヵ所見られ、以下のように書かれている(読み下しは※6、読み直しは※7を参照)。
第六章
「孟子曰、非禮之禮、非義之義、大人弗爲。」
【読み下し】孟子曰く、非禮の禮、非義の義、大人はせず、と。
(読み直し)孟子は言った。礼に似ているが礼でないことや、義に似ているが義ではないことを、立派な人格者(大人)は決してしないものだ。
第十一章
「孟子曰、大人者言不必信、行不必果、惟義所在。」
大人は、言信[まこと]あらんことを必とせず、行果たさんことを必とせず、惟義の在る所のままにす、と。
(読み直し)孟子は言った。大徳のある人(大人)といわれる人は、云ったことを必ずしも実行するとは限らないし、やりかけたことを是が非でもやり遂げるとは限らない。ただ、義に従って適宜に行うまでのことだ。
第十二章
「孟子曰、大人者、不失其赤子之心者也。」
【読み下し】孟子曰く、大人は、其の赤子の心を失わざる者なり、と。
(読み直し)孟子は言った。大徳の人と言われる人(大人)は、いつまでも赤子のような純真な心を失わずに持っている者だ。

上記中、第十一章の「言不必信、行不必果」“言ったことを必ずしも実行するとは限らないし、やりかけたことを是が非でもやり遂げるとは限らない”という言葉には、少し、引っかかる人もいるかもしれないが、何事も“義に従って適宜に行う”のであって、一度言ったことにいちいち拘束されない。やりかけていたことであろうとも効果がないと見切ればスッパリと中断するのが大人だと言いたいのだろう。
孟子の考え方は、『離婁章句上』第四章に書かれていることでわかる。
第四章
「孟子曰、愛人不親、反其仁、治人不治、反其智、禮人不答、反其敬、行有不得者、皆反求諸己、其身正而天下歸之、詩云永言配命、自求多福。」
【読み】孟子曰く、人を愛して親しんぜざれば、其の仁に反る。人を治めて治まらざれば、其の智に反る。人を禮して答えざれば、其の敬に反る。行うて得ざること有れば、皆反って諸を己に求む。其の身正しうして天下之に歸す。詩に云く、永く言[おも]うて命に配す。自ら多福を求む、と
(読み直し)
孟子は、「人を愛しても相手から親しまれない時には、じぶんの仁愛の心が足りないからではないかと反省するがよい。人を治めてもうまく治まらない時には、自分の知恵が足りないからではないかと反省するがよい。人に礼を尽くしても相手が答礼しない時には、自分の敬意が足りないからではないかと反省するがよい。このようにすれば、自分の身も心も真に正しくなって、必ず天下の人もみな帰服してくるものだ」と言った。
詩経に言う、
とこしえに、天命に従い、自らの手で、福を呼び寄せなさい。・・・と。

孟子は、「人の性の善なるは、猶(なお)水の下(ひく)きに就くがごとし」(※6、※7の『告子章句上』第一章、第二章参照)と述べ、人の性は善であり、どのような聖人も小人(しょうじん=「君子」「大人」の対義語。)もその性は一様であると主張した(性善説)。そして、
『告子章句上』第十五章では、大人、と小人について以下のようなことが書かれている。
告子章句上 十五
「公都子問曰、鈞是人也。或爲大人、或爲小人、何也。
孟子曰、從其大體爲大人。從其小體爲小人。
曰、鈞是人也。或從其大體、或從其小體、何也。
曰、耳目之官不思、而蔽於物。物交物、則引之而已矣。心之官則思。思則得之、不思則不得也。此天之所與我者。先立乎其大者、則其小者弗能奪也。此爲大人而已矣。」
【読み下し】
公都子問うて曰く、鈞[ひと]しく是れ人なり。或は大人爲り、或は小人爲ること、何ぞ、と。
孟子曰く、其の大體に從うを大人とす。其の小體に從うを小人とす、と。
曰く、鈞しく是れ人なり。或は其の大體に從い、或は其の小體に從うは、何ぞ、と。
曰く、耳目の官は思わずして、物に蔽わる。物物に交わるときは、則ち之を引くのみ。心の官は則ち思う。思うときは則ち之を得、思わざるときは則ち得ず。此れ天の我に與うる所の者なり。先ず其の大いなる者を立つるときは、則ち其の小しきなる者奪うこと能わず。此れを大人とするのみ、と。
(読み直し)
公都子が孟子にたずねた。「同じ人間でありながら、偉大な人物(大人)となったり、つまらぬ人物(小人)となったリするのはどういうわけでしょうか」
「良心に従っていけば偉大な人物(大人)となり、欲望のまま従っていけばつまらぬ人物(小人)となるのだ」
同じ人間で、良心に従う者もあり、欲望に従うものもあるというのは、どういうわけでしょうか」
「耳や目は考える働きがないので誘惑されやすく、心で考えさえすれば、物の道理が分かるのである。よって、心をしっかりと確立してさえおけば、偉大な人物(大人)になれるのだ。・・・と。

このように、孟子は、性が善でありながら人が時として不善を行うことについては、この善なる性が外物によって失われてしまうからだとした。そのため孟子は、『離婁章句下』第十二章でも書いているように、「大人(たいじん、大徳の人の意)とは、其の赤子の心を失わざる者なり」とも述べているのである。

ここらで、中国の大人(たいじん)の話は横において、別の話へ行こう。
大人(おとな)のことを、アパレルファッション関係などでは、英語(adultのカタカナ語)の「アダルト」を好んで使う。これは、子供服に対して成人向けの衣類を指す他、成熟したイメージを演出するデザインについて用いており、子供と大人の中間を「ヤングアダルト(英:Young Adulthood)」などともいう。
普通は「ヤングアダルト」とは、発達心理学では成人期前期のこと。自分は子供ではないと思い始めているが、周囲からは大人と認められない時期。思春期を過ごす年代で、自我の芽生え、進路の選択、大人や社会との葛藤がある時期でもある。
以下参考※8:「Aとは(YAの定義) - 静岡市立図書館」では、以下のように書いている。
「ヤングアダルト(以下YAと呼ぶ)の定義について、日本では公式の規定はないものの「公共図書館におけるヤングアダルト(青少年)サービス実態報告」(日本図書館協会・1993)では、13歳から18歳(中学生と高校生にあたる学齢)の利用者とみなしている。
この年代は「第二の誕生」(ルソーの言葉※9参照)とされるように、子どもから大人への脱皮を遂げなければならない。にもかかわらず身体的、知的、社会的な発達がそれぞれ並行して進行せずに、葛藤と矛盾が共存する特異な時期といえる。
具体的には、自分を子どもとは思っていないのに、社会からはまだ大人ではないと思われている年齢の利用者であり、YAは周囲の世界が非常に気になるのに、同時に激しく内省的であり、自己中心的である。誰にも負けないと思う一方で、物凄く不安でもある。親から自由になりたいと願った次の瞬間には、もう両親や大人の指導を求めているということがあげられる。」・・・と。
それに対して、以下参考の※10、「ファショコン通信」のファッション用語集には、「ヤング‐アダルト」( young adult)について、こう書いている。
「“若い大人”の意。ファッション業界では男女でやや違いがあり、男性が23〜35歳くらい、女性が23〜27歳くらい。最近では、女性のこの年代を「OL」と称する傾向にある。」・・・と。
国語辞書には、「ヤングアダルト」とは、
1、10代後半の若者。20代前半を含めることもある。
2、若々しい雰囲気をもった大人。
と言ったように年代的には結構幅が広いようだが、用語に対する公式の規定がなければ、それぞれの業界によって、対象年齢が違ってくるのも仕方がないだろう。
日本図書館協会でいう「ヤングアダルト」は子供から大人への脱皮を遂げなければならないにもかかわらず身体的、知的、社会的な発達がそれぞれ並行して進行せず、子供自身は自分は大人だ・・・と思っているのに、社会からはまだ大人と認められていないと感じている年代を言っているようだが、ファッション業界の場合は、本人はまだ大人と自覚していない子供じみた人達(青年世代)、・・・年齢的にはもう十分大人のはずなんだが…と言える世代を言っているのかも・・・。
そんなこと考えていると、日本では2012年公開のアメリカ映画『ヤング≒アダルト』(※11)が思い出される。
●上掲のものはマイコレクションより映画『ヤング≒アダルト』のチラシ。
この映画の内容は解説にもある通り以下のようなもの。
仕事も恋愛もうまくいかない30代の女性が、妻子のいる元恋人と復縁しようと大騒動を繰り広げる人間ドラマであり、2007年公開のアメリカ・カナダ合作映画『JUNO/ジュノ』の監督・脚本コンビ、ジェイソン・ライトマンディアブロ・コーディが再びタッグを組み、「真の幸せとは何か」というテーマを辛らつな笑いと共に描き出したもの。大人に成り切れずイタい言動を繰り広げるヒロインを、オスカー女優シャーリーズ・セロンが熱演している。
この映画の中でセロン演ずるメイビスは「田舎町は、大嫌い」と田舎から都会へ出て来て、本を書いているキャリアと、自分の容姿に絶対の自信を持っているバツイチの37歳。今の日本でも多く見かけられる女性像ではないか。
しかし、自称作家といっても、実はヤングアダルト向け小説のゴーストライターであり、今はその仕事も行き詰まり、しかも、恋人もできず何もうまくいかない。こんなはずではなかった。高校時代は憧れの的だったのにッ。
落ち込んでいる時、何故か届いた元カレからの子供の誕生を祝うパーティーの案内状。
高校時代の人気者気分がアラフォーになっても抜けきらない見栄っ張りの彼女には、「自分が思う現実」と「他人から見た事実」の間に落差があった。精神が大人になりきれていない彼女は、こともあろうに妻子もおり、子供が生まれて幸せいっぱいの高校時代の元彼・バディとヨリを戻すために帰郷し、大騒動を巻き起こす。果たして、真実から逃れられなくなったメイビスが、たどり着いた境地とは・・・?
以下参考の※12の映画感想に書かれている。
この映画では、デブという理由だけでいじめられ、暴行を受けて下半身不随になったという暗い過去をもつメイビスの同級生だったマットの存在が大きい。
元彼バーディーの誘惑に失敗し大暴走するメイビス。自分の行動がうまくいかないと、メイビスはすぐにマットを飲みに誘い、愚痴りまくる。心優しいマットはそんなメイビスの誘いを断らない。ボロボロに傷ついたメイビスは、マットを訪ね、戸惑うマットと一夜を過ごす・・・。メイビスを心の底から理解し、受け入れてくれるのはマットだけだった・・・。
マットの妹に、「あなたの気持ちは分かるし憧れている。こんな田舎町から私も連れ出して」と懇願されるメイビス。
その言葉を拒絶するメイビスのハッとした表情・・・。メイビスが自分の生き方にひとつの答えを出した瞬間である。幸せは何か?それは映画を見た人が感じること。
この映画ではタイトルを『ヤングアダルト』ではなく『ヤング≒アダルト』としている。数字記号「≒」はほぼ等しい。だから、「x ≒ y」は x と y がほぼ等しいことを表す。その意味するところは?・・・よく判らないが、見かけは大人でも大人になっていない人の映画ということだろうか。
最近の流行語「アラフォー」。なにか、得意げに「私はアラフォーよ」などと言っている人を見ているとこの映画の主人公とダブってくるのだが・・・。
先日(4月19日土曜)に、NHKテレビ「週刊ニュース深読み」で「“配偶者控除”見直し? どうなる女の生きる道」と題し、“日本に“専業主婦”がいなくなる!?政府は成長戦略の一つ「女性の就労拡大」を実現させるため、「所得税の配偶者控除」などの制度見直しを検討しています。これまで女性に期待されてきた「家事、子育て、介護の担い手」という役割が、「働き手」へと大きく転換していくかもしれません。 でも本当に企業や社会で女性を支援する仕組みがつくれるの?男性の意識は変えられるの?そして、女性たちはどう生きていくことが幸せなの?“・・・について、視聴者からのメールなど受け付けながら専門家やゲストを交えて討議をしていた(ここ参照)。
私は、用事があり途中の一部しか見ることが出来なかったので、どのような結末になったのかはわからないが、NHKらしい非常に良いテーマーを討議してると思った。
見た範囲の中で、最近の若い女性は社会で頑張っているアラフォー世代の人達を見て、「自分達はそのようになりたくない。早く結婚して主婦になりたい」と願っている人たちが増えてきているのだと言っていた。そのような意見は確かに多いようだ。以下参照。
配偶者控除 | ついっぷるトレンド HOTワード
実際、内閣府が、2012年12月、「男女共同参画社会に関する世論調査(10月調査)」(※13)をした結果を発表しているが「夫は外で働き、妻は家庭を守るべきだ」という考え方について、賛成が51,6%、反対は45,1でこの質問を始めた1992年から前回調査の2009まで一貫して賛成が減り、反対は増える傾向が続いていたが、この年初めて反転している(参考※13の2.家庭生活等に関する意識について(1) 家庭生活に関する意識。図14 を参照)。面倒であれば、以下参照。
時事ドットコム:「妻は家庭」5割が賛成=初の増加、反対上回る−内閣府調査

少子高齢化社会の今の時代、高齢化が悪いことではない。医療も発達し元気で長生きできるなら、みんなが長生きできるようにすべきだろう。根本的な問題は少子化である。
男女機会均等法に従って、女性の社会進出は進んだが、子供を産み・育てることのできる社会環境・生活環境の整備が出来ていない。そのような環境整備が出来ていない現状で、だれもかれもが仕事仕事と言っていたら、誰が家庭を守り、子供を産み育てるのか?
そして、今のように、結婚もせず子供も産まないまま、年を取り、高齢化社会の中で、安心して老後を過ごせる社会も、社会保障の整備もできていない中で、孤独な一人暮らしをしながら80歳、90歳までも生きている姿を想像してごらんなさい。若い女性が早く結婚して家庭で子供を育てたいと専業主婦願望になるのもごく自然なことだろう。女性の社会進出には、男子の働き方や賃金も含めて働きながら子供を育てられる土壌づくりこそが急がれるべき問題であろう。

人は生まれ年と共に身体は大きくなり、社会経験を積みながら精神的にも成長する。
戦中・戦後の食べるものに不自由した時代に幼・少期を過ごしてきた私たちの世代と比較すると、今の豊かな時代に育った子供たちは、もう中学生くらいになると身体的には私たちと同じ位に成長している。また、私たちの世代の者では、戦後5年経った昭和30年頃でも、義務教育である中学生を卒業する(15歳)と社会人として就職してゆく人がクラスに何人かはいた。
『学校基本調査:年次統計』(参考※14の9 高等教育機関への入学状況参照)を見ても分かるように、高校を卒業する18歳人口のうち昭和30年には、大学・短期大学、高専4年制等、専修学校などの高等教育機関への入学状況(過年度卒業者等含む)は10,1 %であったものが、昨・2013(平成25)年には77,9%(内大学。短期大学55,15%、高専4年制等0,9%、専修学校21,9%)となっているなど、私たちの年代の人達よりは知識も多く身につけている人が増えている。また、メディアも発達し情報も豊かになって知りたいことは何時でも調べればわかる時代になった。
そのような中で、20歳になると成人式を迎え、この日を境に、法的には、単独で法律行為も行えるようになり、酒を飲もうがタバコを吸おうが自由となる。世間的には、一人前の大人になった・・ということになっている。
しかし、私は時代劇ファンでよく時代劇を見るが、昔の男の子はおおよそ数え年で12 - 16歳で元服していたが、もうその頃になると、精神的にはしっかりとした大人に成長していたと言える。
今の時代はどうだろう。年齢的にも教養(知識)的には昔の人よりも成長しているかもしれないが、年齢に応じて精神的にも大きくなっていなければならないと思うのだが、こちらの方は少々未熟な人が多い様な気がする。これは、20歳を過ぎて、30代40代の人にも言える気がする。
戦前というか戦後間なしまでの、まだ豊かでないだれもが貧乏な時代に生きた人間は、小さい子供のころから家の手伝いなどをしながら苦労して苦労して育った。そんな苦労をしてゆく中で精神面でも鍛えられ、また、自分が苦労しているからこそ、人の苦労も自然と理解が出来るようになり人間的に成長していった。
しかし、戦後の高度経済成長と共に、家庭も随分と豊かになり、子供は何の不自由もなく欲しいものを買い与えられ自由にのびのびと育ち、就職も今の時代、「3K」と呼ばれる「きつい、汚い、 危険」な仕事には見向きもしなくなり、思う仕事がないと愚痴ばかり言っているのを聞くが、労力さえ惜しまなければ仕事は十分にあるのである。
高学歴化した故に、望みが高く、自分が満足できない仕事には見向きもしないだけのこと。これは、就職だけのことではなく他のどのようなことにも言えそうだ。就職した後の職場での仕事への取り組み方、会社内での上司や同僚との付き合い方、ひいては、結婚しようとする相手や友人、親などのとの間でも。いわんや、地域社会との付き合いにおいておやある。
人間年を取り成長するにつれ知識も増えるが、また社会における責任も増し、要求されることも高くなってゆく。つまり立場はますます複雑かつ難解になっていく。
そのような中にあって問題なのは、「大人とはどうあるべきか」・・・ということではないだろうか。逆に言えば、どうある人が「大人」というに値するかであろう。
私には、これが「大人」だなんていう資格はない。ただ、なにかあればすぐに切れてしまったり、気に入らないことがあればふてくされてしまう。いつも欲なことばかり考えている、そして 自己中な人、また、人に対する慈しみの気持ちや気遣いも持たない人を、単に年をとっているからといって私は、その人を「大人」とは呼びたくない。
理想的な大人とは、孟子が言うように、いつまでも赤子のような純真な心を失わず、現実とまともに向かい合って生きている人だと言えるかもしれない。
そうすれば、一緒に生活をしている夫婦もご互いに相手の立場を理解しあって、仲よく老後を過ごせるだろう・・・。私も、これを肝に銘じてこれから「自分のわがまま」ばかり云わないように気を付けよう。

冒頭の画像はマイコレクションよりJR西日本のチラシカット:グリーン車が乗り放題となる、熟年および老年夫婦(2人の年齢合計が88歳以上の夫婦)を対象とした特別企画乗車券(「トクトクきっぷ」)「フルムーン夫婦グリーンパス」の俳優二谷 英明と同じく俳優でもある白川由美夫妻。
参考:
※1:日本記念日協会
http://www.kinenbi.gr.jp/
※2:ハインツ日本株式会社
http://www.heinz.jp/
※3:トマトケチャップの歴史
http://www.dole.co.jp/5aday/about/column/column_104.html
※4:国内初の「トマトケチャップ」を再現−横浜・清水屋-. ヨコハマ経済新聞
http://www.hamakei.com/headline/2922/
※5:名言の王国:名言格言集
http://meigennooukoku.net/blog-category-175.html
※6:黙斎を語る:朱子学の基本となる書
http://mokusai-web.com/shushigakukihonsho/shushigakukihonsho.html
※7:孟子:離婁章句上・下他
http://www006.upp.so-net.ne.jp/china/book8-2.html
※8:Aとは(YAの定義) - 静岡市立図書館
http://www.toshokan.city.shizuoka.jp/?page_id=206
※9:青年期の特徴とは / 倫理
http://manapedia.jp/text/index?text_id=2205
※10:ファショコン通信
http://www.tsushin.tv/
※11:ヤング≒アダルト - Yahoo!映画
http://info.movies.yahoo.co.jp/detail/tymv/id341318/
※12:「ヤング≒アダルト」 - 浪花のゾンビマン、映画館に現る!!
http://blogs.yahoo.co.jp/room304zombie/29595464.html
※13:男女共同参画社会に関する世論調査 −内閣府
http://www8.cao.go.jp/survey/h24/h24-danjo/index.html?utm_medium=referral&utm_source=pulsenews
※14:学校基本調査:年次統計
http://www.e-stat.go.jp/SG1/estat/List.do?bid=000001015843

「あーやんなっちゃった」(牧伸二忌日)

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1960〜70年代、「あゝやんなっちゃったあゝ驚いた」というフレーズで社会風刺したウクレレ漫談「やんなっちゃった節」で一世を風靡し お茶の間の人気者になったウクレレ漫談家牧伸二(本名:大井 守常)が亡くなったのは、今からちょうど1年前・2013(平成25)年4月29日のことであった。
彼は、15年戦争の只中、1934(昭和9)年9月26日、東京・目黒区に生まれる。
定時制高に通いながら東亜計器製作所に勤務。高校1年の頃牧野周一漫談をラジオで聞き、浅草の話術同好会「話術クラブ」に入る。この頃は楽器を持たない声帯模写を得意としていたようだ。
高校卒業後の1957(昭和32)年にラジオ東京(現TBSラジオ)の『しろうと寄席』で7週連続で名人位を獲得。この実績をもって牧野に正式入門を許され、牧伸二の芸名をもらう。
当初の芸名は「今何度」(いま なんど)。当時勤務していた東亜計器が温度計を製造していることに由来する。貰った芸名は、「俺より脳(野)が少ないからな」と云われ、数も「二」。だが「伸」の字に師匠の期待が込められていたようだ(2013・6・22朝日新聞)。そして、ウクレレ漫談を薦められ、ウクレレは自己流で習得したようだ。
そして、1960(昭和35)年には、文化放送の『ウクレレ週刊誌』でレギュラー司会者を任され歌うボヤキ漫談『やんなっちゃった節』が爆発的な人気を呼ぶ。早くも1960(昭和35)年に文化放送でレギュラー番組『ウクレレ週刊誌』を持たされる。
1963(昭和38)年には日本教育テレビ(NET、現テレビ朝日)の人気演芸番組『大正テレビ寄席』の司会に起用され、番組終了の1978(昭和53 )年まで15年にわたり司会を務めた。
一世を風靡した、ボヤキ漫談『やんなっちゃった節』。山手線の中で耳にした乗客のぼやきがヒントになったという。
ハワイアン風の旋律に軽妙な社会風刺を乗せて、最後は「あ〜あんあ やんなっちゃった あ〜あんあ おどろいた」と朗らかに締める。
『やんなっちゃった節』は、『タフア・フアイ』(TAHUWAHUWAI)をアレンジしたもので、時世に応じ「2000曲近く作った」が自慢だったそうだ。
因みに、この『タフア・フアイ』別名(英題)“Hawaiian War Chant"(ハワイの戦争の歌)という題名がついている。
なぜ 戦争なのかというと実は、原曲は「Kaua I Ka Huahuai」(二人はしぶきにぬれて)というラブソングで、ハワイ王国最後の女王(第8代)リリウオカラニの弟、レレイオーホク王子が1860年頃作曲したメロディだそうだ。
ハワイ王国時代、カラカウア王をはじめ、兄弟はいずれも音楽の才能に優れ、宮廷内で「音楽合戦」をでやっていたそうで、<ハワイの戦争>とは、宮廷内の音楽大会のことだったそうだ。
この原曲のラブソングの訳は パライ(パラパライ、Palapalai。ハワイ語で「黒い茎」を意味する、ハワイ固有のシダ植物)の茂みで愛する二人が抱き合って…といったベタベタのラブソングなのだだそうだ(※1参照)。
『タフア・フアイ』は、2006(平成18)年9月公開の日本映画「フラガール」でも、ウリウリというマラカスの様な楽器を振りながら踊っている。
この映画は、1965(昭和40)年、大幅な規模縮小に追い込まれた福島県いわき市常磐炭鉱。危機的状況の中、炭鉱で働く人々が職場を失う現実・苦悩に立ち向かい、町おこし事業として立ち上げた常磐ハワイアンセンター(現:スパリゾートハワイアンズ)の誕生から成功までの実話を元に描いたもの。ハワイアンミュージックと本格的なフラダンスショーが描かれている。第80回キネマ旬報ベストテン・邦画第1位、第30回日本アカデミー賞最優秀作品賞受賞作品にも選ばれている。
のりの良い曲で、よく聞くと確かに『やんなっちゃった節』と似たところがあるね〜。以下で聞いてみるとよい。

フラガール タフワフワイ Ta-Hu-Wa-Hu-Wai - YouTube

●上掲の画像は、リリウオカラニ女王。
リリウオカラニ女王といえば、あの『アロハ・オエ』の作曲者としても知られている。ハワイ音楽ではカラ−カウア王、リリウオカラニ女王、リケリケ王女、レレイオーホク王子は、ハワイ王室の四天王と呼ばれている。

牧伸二は、1965(昭和40)年に第2回日本放送作家協会賞・大衆芸能賞を受賞し、喜劇映画・バラエティ番組などにも活躍の場を広げた。
1989(昭和64)年には、デビュー以来在籍した佐藤事務所の解散に伴い、株式会社牧プロダクション(社長は弟子の牧ひろし)に所属(※2参照)。1999(平成11)年には、同年3月に死去した前会長・桜井長一郎の後を受け、東京演芸協会(※3)の第6代会長に就任していた。
2002(平成14)年に脳出血で入院。左半身が動かなくなっていたが懸命のリハビリで復帰し、2003(平成15)年に文化庁長官賞を受賞している。
そして、昨・2013年4月28日、に上野広小路亭で舞台に出演し、その後午後4時10分から浅草東洋館でも舞台に出演する予定だったが、「少しお茶を飲んでくる」と言って席を立ち、午後3時頃に喫茶店を出た後行方不明に・・・、それが、生きている最後の姿であった。
その10時間後、翌・4月29日自宅近くを流れる多摩川に飛び込み、78歳の人生に幕を下ろした。死因についてはよく判らないが、警視庁は自殺とみている。不名誉な話としては、会長を引き受けた「東京演芸協会」の使途不明金(500万円)問題が死因に関連しているといった話もあるようだが、彼には、十分な資産もあり、そんなにお金には困っていなかったという(※4、※5参照)。
ただ、退院後も病気(脳出血)の後遺症で、指が思うように動かず満足な演奏ができなかった。また、高齢からの認知症にも悩んでいたと云う。
漫談の歌からは楽天家のようにもみえるが、彼とは50年来の友人という漫談家のケーシー高峰は「外見とは裏腹にナイーブな人だった」・・と言っている(20123・6.22朝日新聞)。
遺書も残さずの突然死には、第三者には判らないさまざまな要因が入り混じっているのだろう。
厳しい世の中を風刺した、人生を生き抜くための歌だったが、本当に世の中が「やんなっちゃった」と嫌気がさしての自殺だとしたらとても悲しいことである。
くしくも亡くなった日の4月29日は「昭和の日」。昭和の日本で、多くの人に愛された茶の間のスターの最後としては、なんともやるせない思いである。
「東京演芸協会」の使途不明金問題についてもその責任を牧さんに押し付けようとする何ともきな臭い匂いがするという(※4、※5参照)。ひょっとしたら認知症状を利用されているのかも・・・・?そんな話を聞くと余計に「「やんなっちゃった」・・・・よ。

Wikipedia-によると、日本における自殺者数は、諸外国と比べ大きく、2002(平成14)年の水準では日本の自殺率はアメリカの2倍に相当するという(※6参照)。
主要国G8諸国、OECD加盟国、双方でも日本は上位で、国別の自殺率でみると日本は4位、日本以外の上位は旧社会主義国(旧ソ連)が占めているようだ。特に日本の男性中高年層の自殺率は世界でもトップレベルであるという(※7参照)。
そこで、最近のデーター「平成25年中における自殺の状況」を警察庁の統計(※8参照)で調べてみると以下のようになっている。

平成25年中における自殺者の総数は27,283人で、前年に比べ575人(21%)減少。平成10年以来、連続して3万人を超える状況が続いていたが、一昨年15年ぶりに3万人を下回り、昨年は一昨年よりさらに減少したという(参考図表参照)。
しかし、この数字は、余りマスコミなどでも報道されていないのでよく知られていないが同年中の交通事故死亡者数4,373人(昨年4,411人0,9%減)の6,24倍にもなるのである(※8の交通事故死者数について参照)。
自殺者の性別では男性が1万8, 787人で68,9%を占めており、年齢階層別では「60歳代」が4,716人で全体の17,3%を占め、次いで「40歳代」(4,586人16,8%)、「50歳代」(4,484人16,4%)、「70歳代」(3,785人13,9%)の順となっており、60歳代、70歳代の高齢者が8371人(31,2%)と3割に達しているのである。
職業別自殺者数では「無職者」が1万6465人で全体の60,3%を占め最も多く、次いで、「被雇用者・勤め人」(7,272人26,7%)、「自営業・家族従業者」2,129人13,9%)、「学生・生徒等」(918人、3,4%)の順となっており、この順位は前年と同じである。
原因・動機別自殺者数では、原因・動機が明らかなんもののうち、その原因・動機が「健康問題」にあるものが1万3,680人で最も多く、次いで「経済・生活問題」(4,636人)、「家庭問題」(3,930人)、「勤務問題」(2,323人)の順となっており、この順位は前年と同じである(※8の資料参照。年齢階級別、原因・動機別自殺者数は※8付録参照)。
各国の経済・社会・文化・宗教などでの違いは見られているものの、自殺の大きな要因(原因)として近年あげられるのは、うつ病などの精神疾患との因果関係だと言われている(日本の自殺も参照)。
先の警察庁の統計の付録を見ても21,3%とうつ病による自殺が最も多い。中でも060歳代が4%と最も高い。ただし、うつ病は自殺の根本要因ではなく、他の根本要因がうつを引き起こしているようである。
今の時代、年寄は住み難い時代になってきた。高度経済成長期以降、核家族化が進み、夫婦だけ、また、孤独な一人住まいの生活者が増えてきた。
体が不自由になっても、周りには、面倒を見てくれる人もおらず、老人ホームへ入りたくても入れない。孤独な暮らしに耐えているうちに、うつになったり、認知症になったり・・・。
誰も面倒見てくれない一人暮らしの老人が誰にも看取られず孤独死していく人も増えている。また、老老介護に疲れ果て、病床で苦しんでいる夫を妻が、妻が夫を殺すなどという悲劇さえ生まれている。そんな老人を、振り込め詐欺などの悪質業者が狙っている。
2013(平成25)年の特殊詐欺全体の認知件数11,998件は前年(8,693件)に比べて約4割増加し、被害総額約486億9,325万円は、前年(約364億3,611万円)に比し約3割増加しているという(※10参照)。
平成の元号の由来は、『史記』五帝本紀(五帝参照)の「内平外成(内平かに外成る)」(※11:「史記」五帝本紀の舜帝参照)、『書経』虞書3大禹謨(だいうぼ)の「地平天成(地平かに天成る)」(※12参照)からで「内外、天地とも平和が達成される」という意味なのだが、この平成の世の老後社会は、老齢者にとって、けっして、住みやすい社会とは言えなくなった。

♪あ〜あんあ やんなっちゃった あ〜あんあ おどろいた
 牧伸二は77歳 高齢社会の仲間だよ
 だけど虫歯が1本も無いよ だから全部入れ歯だよ
 あ〜あんあ やんなっちゃった あ〜あんあ おどろいた♪
 
藤村俊二から年賀状
今年は辰年立つように たつたつたつといいましょう
いってみたらだめだった                                  
あ〜あんあ やんなっちゃった あ〜あんあ おどろいた♪

♪日本はこれからどうなるの? ヨタヨタしている自民党
 モタモタしている民主党 参議院じゃなくて養老院
 あ〜あんあ やんなっちゃった あ〜あんあ おどろいた♪
(以下省略)
2012(平成24)年2月6日渋谷区神宮前のライブハウス 「クロコダイル」(※12)での公演時のもの。
牧が亡くなる前年2012年は77歳の時のもの。もう高齢社会の仲間入りだが、虫歯が1本も無い、だから全部入れ歯だ・・・なんて、ジョークを云ってる。
又,牧とは同じ「昭和九年会」の仲間で俳優の藤村俊二。「おヒョイ」とあだ名のある女性からモテモテの枯れオヤジも彼と同い年だから77歳。辰年にあやかって立つ立つと言ってみても年で立たないとからかいもする。
そして、2012(平成24)年2月と言えば、まだ、モタモタとして何とも頼りにならない、ちょっとうんざりとした民主党野田佳彦内閣の時代。しかも、野党に落ちていた自民党総裁谷垣禎一がなんとも頼りない。そんな時代の参議院は養老院だと批判している。なかなか痛快で面白い。この時の動画を以下で見ることが出来る。

あ〜あぁ やんなっちゃった - 牧伸二 - YouTube

この動画では、『やんなっちゃった節 』に続いて、『 アロハ フラ』(作詞、作曲 牧伸二) と『朝日のあたる家』の2曲を歌っている。

牧は、漫談の『やんなっちゃった節 』だけでなくレゲエ (reggae)やロックンロールのシンガーソングライターそして歌手としての顔も持っている。ロックンローラーとして、「クロコダイル」などのライブハウスのステージに立つ時は、シンジ・マッキーを名乗りサングラスをかけたりして歌っている。
『The House Of The Rising Sun』(邦題:朝日のあたる家)は、イギリスのロックバンドアニマルズが1964年にシングルとしてリリースしたものが最大のヒット曲として知られている。
これはアメリカの伝統的なフォーク・ソング(作者不詳)を、ブルース的な解釈でカバーしたもの。娼婦に身を落とした女性が半生を懺悔する歌で、暗い情念に満ちた旋律によって注目された。"The House of the Rising Sun" とは、19世紀に実在した娼館、または刑務所のことを指すという説もあるそうで、「朝日楼」とも表記する。
カヴァーは多く、日本でもダニー飯田とパラダイス・キングをはじめ浅川マキちあきなおみなどが日本語詩によってレコーディングしている。しかし、やっぱり、ちあきなおみは上手いね〜。本家アニマルズも含めて、興味があれば聞いてみるとよい。

朝日のあたる家 (アニマルズ) - YouTube

朝日楼(朝日のあたる家) ちあきなおみ UPC‐0003 - YouTube

浅川マキ - 朝日のあたる家 (House of the Rising Sun) - YouTube

ダニー飯田とパラダイスキング のものは以下のHPで聞ける。、
【パラキン】ダニー飯田とパラダイス・キング関連の曲 - nicozon
http://www.nicozon.net/watch/sm2216709

♪フランク永井は低音の魅力
 神戸一郎も低音の魅力
 水原ヒロシも低音の魅力
 漫談の牧伸二低脳の魅力
 ・・・
  やんなっちゃったあ やんなっちゃったあ やんなっちゃったあ おどろいた♪

今日は、牧伸二が主人公なので最後に彼の若かりし頃の歌など聞いて、在りし日を偲ぶことにしよう。

ダンスホールでヤンナッチャッタ / 牧伸二 - YouTube

レゲエあ〜やんなっちゃった / シンジー・マーキー - YouTube

牧伸二だよ!- YouTub


冒頭の画像は、ウクレレ漫談家牧伸二。(2013・6・22朝日新聞掲載のもの借用)
参考:
※1:タフアフアイTAHUWAHUWAIの成り立ち 訳!
http://huladance.seesaa.net/article/162865818.html
※2:株式会社牧プロダクション-牧 伸二
http://www.maki-pro.com/talent/s_maki.html
※3:東京演芸協会ホームページ
http://www16.ocn.ne.jp/~tek/
※4:牧さんの死で闇に葬られる?使途不明金の真相 | 東スポWeb
http://www.tokyo-sports.co.jp/entame/entertainment/140339/
※5:「あーやんなっちゃった」牧伸二、自殺の理由
http://blog.livedoor.jp/aokichanyon444/archives/54473438.html
※6:自殺対策支援センター ライフリンク 「自殺実態白書2008」第三章 (PDF)
http://www.lifelink.or.jp/hp/Library/whitepaper2_1.pdf
※7:内閣府経済社会総合研究所「自殺の経済社会的要因に関する調査研究報告書」報告書本文1 (PDF) 、p15
http://www.esri.go.jp/jp/archive/hou/hou020/hou18a-1.pdf
※8:統計|警察庁
http://www.npa.go.jp/toukei/index.htm
※9:【統計表一覧】(警察庁)
http://www.npa.go.jp/toukei/koutuu48/ichiran.htm
※10:警察庁振り込め詐欺対策HP
https://www.npa.go.jp/safetylife/seianki31/1_hurikome.htm
※11:史記(五帝本紀・楚元王世家・司馬穣苴列伝・田単列伝)中国最初の紀伝
http://www.1-em.net/sampo/siki/#五帝
※12:書經虞書_メイン
http://mokusai-web.com/shushigakukihonsho/shokyou/shokyou_1_gusho_main.html
※12:LIVE PERFORMANCE___CROCODILE
http://crocodile-live.jp/index2.html
文祥堂フォーラム 第299回 ウクレレ人生(2010年8月18日)
http://www.bunshodo.co.jp/pre/forum/backnumber/299.html
牧伸二 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%89%A7%E4%BC%B8%E4%BA%8C

新茶の日

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日本記念日協会(※1)に登録されている5月2日の記念日に「新茶の日」がある。
登録しているのは、静岡県掛川市にあるお茶を扱う山啓製茶の山啓会が制定したものらしい。
立春から数えて八十八日目の日となる雑節の「八十八夜」。
この日に摘んだ新茶は上等なものとされ、この日に新茶を飲むと長生きすると伝えられていることから、新茶の試飲や販促活動を行うのが目的とか。

1.夏も近づく八十八夜
野にも山にも若葉が茂る
「あれに見えるは茶摘みぢやないか
あかねだすきに菅(すげ)の笠」
2.日和(ひより)つづきの今日このごろを
心のどかに摘みつつ歌ふ
「摘めよ摘め摘め摘まねばならぬ
摘まにゃ日本(にほん)の茶にならぬ」

文部省唱歌『茶摘み』。
1912(明治45)年に刊行された『尋常小学唱歌 第三学年用』が初出らしい。2007(平成19)年に「日本の歌百選」に選ばれている。
また、小児が2人組で向かい合って行う、「せっせっせーのよいよいよい」で始まる手遊び歌としてもしばしば用いられる。この手遊びでの繰り返しの動作は、茶葉を摘む手つきを真似たものとも言われる。
1・2番とも、第3・4節は京都府綴喜郡宇治田原村(現:宇治田原町)に伝わる茶摘み歌「向こうに見えるは茶摘みじゃないか。あかねだすきに菅の笠」、「お茶を摘め摘め摘まねばならぬ。摘まにゃ田原の茶にならぬ」から取られたのではないかという説があるそうだ。
しかし、その根拠となっているのは『日本の唱歌(上)』(明治篇講談社 1977年金田一春彦編)らしいが、この本も、実際に宇治田原を取材したりした結果 に基づくものではなく、人の話の聞き書きであり、宇治田原起源説を後押しするような有力な証拠(「事実」)の裏付けがあるわけではないという。同じような茶摘み歌は京都府内に限らず各地に伝承されている。
そして、宇治田原町の隣り、京都府内産「宇治茶」の最大の生産量を誇る町、相楽郡和束町や、同じく隣りの滋賀県大津市田上(高砂町)、宇治田原ではなく、奈良県奈良市の田原地区、そして、宇治茶の本場とされている宇治市に残る民謡などに、この唱歌の引用によく似た表現が見られるという(各地に伝わる歌の内容などは※3「宇治田原ふるさと歴史クラブ」の茶摘み歌の考察参照)。
上掲の宇治田原町「お茶を摘め摘め摘まねばならぬ。摘まにゃ田原の茶にならぬ」は、京都宇治田原村ではなく、奈良田原の茶摘み歌(奈良県)の伝承歌に出てくるものであり、宇治田原にも伝承の残る「田原天皇(施基皇子)」の陵墓があったり、お茶の産地であったりと共通点がある。又、「和束の茶摘み歌」では、「摘まにゃ田原の茶にならぬ」ではなく、「摘まにゃ和束の 茶にならぬ」になっている。
そして、宇治市の茶摘み歌では文部省唱歌に見られる「 あれに見えるは茶摘みぢゃないか 茜襷に菅の笠」が見られる。大津市田上の歌の「 お茶をつめつめ つまねばならぬ つまにゃ日本の茶にならぬ 」とあわせてこれらが唱歌に採用されたのではないかという。
昔は各地を渡り歩き農作業などを手伝う人々がいて、茶摘みの時期が早い地区から遅い地区へと渡り歩いていた。そういう人たちが作業時に歌っていた歌がその土地に合わせた歌詞にアレンジされて歌われていたと思われる。そうした人から人に伝承されていた茶摘み歌を基に文部省唱歌が作られたのだということだろう。

さて、茶摘み歌には「茜襷に菅の笠」とあるように、茜(あかね)色の襷(たすき)を懸けて、 菅(すげ)の笠(かさ)を被って作業することを歌っているのだが、よく民謡踊りでも見かける赤い色の襷は、単なるファッションではなく、アカネ(茜)は、止血剤として知られているそうだ(※4参照)。茶摘みは素手の作業なので、指先にケガを負いやすい。そのため、ケガに効く茜の成分を擦り込みながら作業を続けるといううのだが・・・。
このような知恵が広まり、民謡踊りの衣装として定着してしまったのかどうかは知らないが、茜の襷は静岡の『ちゃっきり節』を踊るときにも見られる。
北原白秋:作詞、町田嘉章:作曲『ちゃっきり節』は、現在では静岡県民謡と見なされているが、新民謡のひとつで静岡市の花柳界のお座敷唄であり、1927(昭和2)年に、静岡市近郊に開園した狐ヶ崎遊園地(後の狐ヶ崎ヤングランド 1993年閉園)のコマーシャルソングとして、静岡電気鉄道(現・静岡鉄道)によって制作されたものである。
大正時代から昭和時代初期にかけては、地域おこしや観光宣伝のため、旧来からの民謡を広く紹介し、あるいはPRソングとして民謡風の新曲を作るなどの動きが日本の各地で見られた。ちゃっきり節もその一つとして作成されたものである。
作詞依頼を受けた白秋は、当初、「私は民謡をつくったことがないから」と断っていたらしいが、当時の、静岡電気鉄道の遊園部長より、「園内には料亭兼旅館(翠紅苑[すいこうえん])があり、名産のお茶やミカンの買い付けのため、全国各地から訪れる人々にも広く利用されるよう願っていること、したがって、その利用客や入園者にも愛唱されるサービス用の唄が、どうしても必要なこと、その唄を通じて特産品が認識され、輸出産業として発展すれば国策にもかなうこと」などじっくりと熱意をこめて説明した結果引き受けてもらったという(※5参照)。なんとこの歌30番まである長い歌だ。その全歌詞は※5「静鉄グループHP」のちゃっきりぶし全歌詞を参照されるとよい。
この『ちゃっきり節』。北原白秋作詞によるものにもかかわらず作成当時は、座敷を中心に、花柳徳太郎振り付けによる踊りと合わせて歌われている程度で、それほど広く歌われはしなかったようだ。それは他の民謡とちがって『ちやっきり節』が手拍子では歌いづらく、三味線で聞く調子の唄だったせいかもしれないという。それが全国的に大流行するようになったきっかけは、戦後、芸者歌手市丸がレコードに吹き込んで以来のことという。私たち年代には懐かしいきれいな声だ。以下で聞ける。

ちゃっきり節(市丸) - YouTube

ただ、この『ちやっきり節』、先にも述べたように、その起源は、静岡ではなく、京都の宇治茶の産地周辺である。
『ちゃっきり節』は「茶切節」ないし「茶切ぶし」「などと表記されることもあるが、「ちゃっきり、ちゃっきり、ちゃっきりよ」、という軽快な囃子ことばからの命名であり、この「ちゃっきり」とは静岡の言葉で、茶を刈る鋏(はさみ)の音に因んだものだそうだ。
この歌は絣(かすり)の着物に赤いたすきの茶摘み娘が踊るように振り付けられているから、伝統的な茶摘み風景を歌ったものと思われがちだが、その所作をよくみると、お茶を摘む手つきではなく、両手を前にだして大きな鋏(はさみ)を使う様子を表していることに気がつく。以下参照。

金谷茶まつり総踊り20120415「ちゃっきり節」1 - YouTube

白秋は静岡周辺の方言や伝説を参考にして作詞したようだが、まさにその頃、静岡の茶畑では、従来の手摘みにかわって、効率のよい鋏の使用が増えていた。白秋の故郷の九州ではあまり見ることのなかった茶鋏に興味を抱いた白秋が、早速にその様子を織り込んだものと思われるという(※6:「お茶百科事典」:「ちゃっきりぶし」は時代の子参照)。茶鋏の刃先には切り取った茶葉が収まるように布袋が取り付けられている。茶鋏での茶刈りの光景を以下で見られる。

茶鋏1 - YouTube

それでは以下の絵葉書を見てみよう。
静岡 日本茶 茶摘み娘 - 鵜の目・鷹の目・絵葉書の目

同絵葉書説明文にもあるように、時代はわからないが、雄大な富士山をバックに広々とした茶畑ということで静岡の茶畑の様であるが、合成写真のようにも見える。そして、この絵葉書は手彩色を施したものであるが、娘たちのつけている襷(たすき)には赤く色が付けられている。正に、風景としては『ちゃっきり節』の情景なのだが・・・。
この娘達は出稼ぎの”茶摘み”かもしれないが、下部のタイトル(NATIVE GIRLS PICKING TEA LEAVES)にもあるように、娘たちは茶葉を鋏を使わず手で摘んでいる。この絵葉書が『ちゃっきり節』のできたと同年代であれば鋏で刈っていたはずだが、それ以前のものであれば手で摘んでいてもおかしくない。
当時、日本茶もシルク同様に立派な輸出品だった様であるし、右上に ”JAPAN TEA” とあり、下部のタイトルも英語で書かれており外人向けの絵葉書であると思われる。当時、静岡茶は輸出策を取っていたという話を私は聞いた記憶がある。何となく演出された感のある絵葉書ではある。

『日本三大茶』と云われるのは、静岡茶と宇治茶狭山茶のことであるが、狭山茶は生産量が少なく、省かれる事もあり、宇治茶が、静岡茶と共に『日本二大茶』とも言われている。
宇治茶は、宇治市を中心とする京都府南部地域で生産される日本茶の高級ブランドをいう。
一般的に「宇治のお茶」とイメージされているが宇治市の茶園面積は80ha未満であり、「自治体内に100haの茶園面積を有すること」が条件となっている「全国茶サミット」には特例でメンバーとなっている。現在の京都府内における「宇治茶」の生産について、以下参考の※7:「茶業統計/京都府ホームページ」の平成25年度京都府茶業統計を見れば、昨・平成25年の京都府内の茶園面積は 1,624,2ha、在来種茶157,7ha、優良品種茶園率90,3%。平均経営面積148,8 aであり、茶園面積を地域別に見れば以下の通りとなっている。
1位、相楽郡和束町在来種茶21,4ha、優良品種551,8ha、計573,2ha
2位、相楽郡南山城村在来種茶28,0 ha, 優良品種258,4 ha計286,4ha
3位、綴喜郡宇治田原町在来種32ha,優良品種197,6ha計229,6ha
4位、木津川市在来種茶25,1ha、優良品種133,3ha計137,5ha
5位、宇治市 在来種17,3ha、優良品種58,4ha計75,7ha
このように現在、京都府内における「宇治茶」の主産地は、相楽郡和束町・相楽郡南山城村、綴喜郡宇治田原町などの周辺地域であり、宇治市の生産量は5位と、意外に少ないことが分かるだろう。

わが国のお茶は、遣唐使が往来していた奈良・平安時代に、留学僧が、唐よりお茶の種子を持ち帰ったのが始まりとされているが、平安初期(815年)の『日本後記』には、「嵯峨天皇に大僧都永忠が近江の梵釈寺において茶を煎じて奉った」と記述されているのが、わが国における日本茶の喫茶に関する最初の記述といわれている(※8 :「お茶街道」・ お茶の書物と記録2 参照)。しかし、このころのお茶は非常に貴重で、僧侶や貴族階級などのごく限られた人々だけが口にすることができたものであった。
このお茶の栽培は鎌倉初期に栄西(えいさい)禅師が宋(南宋)から帰国する際、茶を持ち帰り、その種子を佐賀県脊振山に植えたのが始まりだといわれている。
その後、京都の明恵(みょうえ)上人が栄西より種子を譲り受け、京都栂尾(とがのお)に蒔き、宇治茶の基礎をつくるとともに、全国に広めたとされている。
南北朝時代の成立になるとされる『異制庭訓往来』(虎関師錬著とされる)には以下のように書かれている。
「我が朝の名山は梶尾を以て第一となすなり。仁和寺・醍醐・宇治・葉室・般若寺・神尾寺は是れ補佐たり。此の他、大和室尾・伊賀八鳥・伊勢河居・駿河清見・武蔵河越の茶、皆是れ天下指言するところなり。仁和寺及び大和・伊賀の名所を処々の国に比するは、瑪瑙(メノウ)を以て瓦礫(がれき)に比するが如し・・・。」(※8:「お茶街道」お茶の歴史年表参照)とある。
また、「分類草人木」(利休時代の茶書)に宇治七名園の存在が記されており、宇治七園までの流れと当代の茶風を説き、茶道具の名が出てくることから、 この当時、既に、今日で言う抹茶を用いた喫茶法が行われていたことが判るという。
栄西は『喫茶養生記 』の中で茶の種類や抹茶の製法、身体を壮健にする喫茶の効用などを説いているが、その栄西が宋で身近に体験した抹茶法は、お茶の葉を蒸して乾燥させるという単純なものであり、これが日本国内に普及し、のちに茶の湯(茶道)となったことは、以前このブログ「お茶漬けの日」でも書いた。
栄西禅師が宋から持ち帰った茶の実を明恵につたえ、山内で植え育てたところ、修行の妨げとなる眠りを覚ます効果があるので衆僧にすすめたという。その最古の茶園は清滝川(京都府北区・右京区を流れる淀川水系桂川支流の一級河川)の対岸、深瀬(ふかいぜ)三本木にあった。
中世以来、京都栂尾の茶を本茶、それ以外を非茶と呼ぶそうだ。「日本最古之茶園」碑が立つ現在の茶園は、もと高山寺の中心的僧房・神護寺の別院とされる、神護寺十無尽院(じゅうむじんいん)があった場所と考えられている。現在も、5月中旬に茶摘みが行われるようだ(※9参照)。

1690(元禄3)年、オランダ商館付きの医師であるエンゲルベルト・ケンペルは、約2年間出島に滞在中、将軍徳川綱吉に謁見するため長崎と江戸を往還している。その行程の詳細については『江戸参府旅行記』(※10)に記されているが、元禄4年(1691)2月28日の条にはこの日夜明けより大阪方面から京に向かい宇治に入り、「宇治の村は開放的の小さき市にして、日本にて最佳茶を産ずるによりて名高し。(△□茶の風味世の常ならず美にして、且多量に製出するを以て)毎年将軍の宮廷に献上す。」(※10のコマ番号193参照)とあるように、この記述からも、宇治茶が将軍家に献上される高級茶の産地として広く知られていたことがわかる。おそらくはオランダ人たちに随行した役人らがわざわざこのように紹介したのだろう。宇治=茶どころのイメージは江戸時代中頃にはすでに定着していたのである。
それから100年ほど後、1780(安永9)年に出版された京都に関する地誌『都名所図会』(全6巻11冊。※11参照)は(秋里籬島)による文章と竹原春朝斎による挿画によって宇治の名所を紹介している。


●先ず上掲の画像を、見てください。『都名所図会』の巻之五 「前朱雀再刻」 宇治の里 (宇治里)の図である(※11の49頁で原寸大の図が見られる)。
将軍家に献上されるような良質の茶を育てるために、上掲画像に見られるように宇治の茶園の多くは、茶摘み前に茶園を日覆いを掛けてすっぽりと隠す、覆下(おいした)と呼ばれる栽培が行われ、他の茶産地と違う茶園風景を作り出している。
この独特で手間のかかる栽培方法を継承し、宇治茶は安土桃山時代から天下にその名声をはせてきたのであった。
宇治茶の覆下栽培は、新芽が育つ4月頃に茶園に覆いを施して日光を遮ることで、茶葉の渋み成分であるタンニン生成を抑え旨味成分テアニン生成を促進させる方法で、宇治茶伝統の碾茶抹茶の原料)や玉露などの高級茶に製茶される。これに対して、露天園は主に煎茶用の茶葉を栽培することとなる。
覆下は、本来丸太杭と竹で棚を作り、その上に葦簀(よしず)を広げて藁(わら)を敷くものであり、「本簀(ほんず)」と呼ばれる。現在は効率化の中で、化学繊維製の黒い寒冷紗の覆いが普及したが、伝統的な本簀も全体の1割ほどで継承されているという。
覆下栽培の初期の様子を知る史料に、安土桃山時代のイエズス会宣教師ジョアン・ロドリゲスが書き残した『日本協会史』があり、この中に、宇治では茶園に「棚をつくり、葦か藁(わら)かの蓆(むしろ)で全部をかこう」とういう記述があり、これが、現在の覆下栽培の史料所見となっているようだ。
ロドリゲスは、覆下の目的は、繊細な新芽を 霜害から防ぐためと記しているようだが、確かに遅霜は茶葉の大敵であり、覆いによる霜害対策は説得力があるが、現在状況を踏まえるとこの覆いによる味の変化を経験的に知ることにより宇治では品質向上を主目的として覆下栽培が改良されつつ継承されてきたと考えられているようだ。宇治の茶摘み見物は、宇治を代表する初夏の風物詩として知られており、今なおこの季節になると、多くの「茶摘みさん」が覆下園に集まり、朝早くから日暮れるまで覆下の中で茶摘みに勤しむ姿がうかがえるという(※12参照)。
尚、余談だが、『都名所図会』の巻之五 「前朱雀再刻」 宇治の里 (宇治里)の図には以下の芭蕉の句が書かれている。

「木がくれて茶摘(ちゃつみ)も聞(きく)や子規(ほとゝぎす )」
句意としては、「いま一声鳴いて渡っていったホトトギスの声を、茶畑の茶ノ木に隠れて見え隠れする茶摘女達も聴いたであろうか。 」と言ったところらしい(※14)。
本来茶摘みと時鳥(ホトトギス.)は季重なりなのだが、夏の季語(初夏五月)の「時鳥」と春の季語(四月上旬)の「茶摘み」を芭蕉は「木がくれて」で「季と季との時候の取り合わせ」としているのだそうだ。
宇治市の西側には、かつて宇治川、木津川、桂川が流れ込んでいた巨椋池があり、現在は干拓田としての広大な農地と自動車交通の要所となっている。
宇治の場合、茶摘みの風景のほかに、宇治川での鮎汲みの挿画(※11の宇治川の網代 59p参照)や、蛍狩りの挿画(※11の宇治川の蛍狩り55p参照)が収載されている。宇治は茶どころであるばかりでなく、当時の人びとを惹きつけるに足る遊興の地として認知されていたことがわかる。
こうした『都名所図会』にみられるような宇治のイメージは、幕末期の1861(文久元)年に出版された地誌『宇治川両岸一覧』(乾,坤 / 暁晴翁 著、松川半山 画)の最所の絵にもあらわれている。特に、宇治川に関して「当国(山城)第一の大河」としたうえで、「まことに当国南方の奇観なり」と紹介している。
●以下の画像は『宇治川両岸一覧』の宇治の茶摘み風景。
ところで、先に紹介した『都名所図会』や『宇治川両岸一覧』の図に見られる宇治茶の茶摘み風景には、「白い襷」あるいは「白手ぬぐい」をしているが、1917(大正6)年5月.26日付の国民新聞には「山城宇治の茶摘は今が丁度盛りである、「君に別れて何時又逢うぞ明けて五月の茶摘時」、と鄙びた名物の茶摘歌は絣の着物に赤襷白手拭を姉様冠りの若い女の群から茶園の●●(字不明)を透して聞えて来る・・・」・・・とあるように、このころには、赤い襷をするようになっていたようだが、やはり、『ちゃっきり節』の影響があったのだろうか?。
また、この新聞には、このようなことが書かれている。
後陽成天皇(1571年-1617年の頃より宇治の献茶は恒例であった。
目下本邦以外宇治から茶の輸出される販路は支邦各地印度南洋方面より墨西哥まで及んで名声を馳せている、この多量の茶は彼の姉様冠りの若い女の手で一葉々々と摘まれ小さな焙炉(ばいろ)に蒸芽八百目宛をいれ大の男が一時間もかかって漸く出来上るのである、若葉の風薫る宇治郷の昨今は野も山も見渡す限り●●の藁屋根が架けられ、例の茶摘歌が聞え焙炉小屋からは「お茶よ揉め揉め」と焙炉師がどら声を挙げ新茶の香りが鼻を衝く 。
久世郡だけでも茶摘女が約一万人、焙炉師が千四百人その七割が土地の者で三割が河内大和丹波地方から輸入されてくる、それが例年定った雇主を需(もと。漢字の意味は※16参照)めて五月の始めから入込んで来る、賃銭は女の手職として賃金は上の部である、故に茶摘女はそれで陽気に歌いさざめいて宇治一帯の地を賑わしている。
製茶家は久世郡で約七百、茶商人は約九十戸ある、これが全国及び海外へ供給する、かくして名物宇治茶は世界の人々の前に黄金の色を出し、高き香りを発するのである、今や五月の光りは若葉の上に照り渡り、宇治郷一帯の地は一年の書入時として陽気にさざめいている、新緑の候この地に●を曳き茶摘歌を聞くも一興である」・・・と(●は不明字)。なかなかの名文である。

●上掲の画像は、『日本山海名物図会』(平瀬補世著、蔀関月挿画。1799年刊5巻5冊。※17参照)第二巻に掲載されている焙炉の図である(拡大図は※17焙炉参照)。
茶摘みでは、摘んだ芽や葉を、蒸して、焙炉で熱を加えて乾燥する。乾燥する間に揉んで葉を巻く。刈茶は洗ってから大鍋で炒(い)る。洗った時の水気で葉もじくも茹でたように柔らかくなるが、柔らかくならぬじくは取り捨てる。上掲の図の右は、焙炉で乾かす作業で左上は石臼で挽いて抹茶にする作業をしているところである。
同図には、茶名物大概宇治茶摘茶製法などの図が説明入りで描かれている。

この頃の一般の人たちが飲んでいたのは煎じ茶(煎茶)であった。これは覆いのない茶園の若葉・古葉を残らず摘み取って、 灰汁 あく で湯がいて冷水で冷やし、よく絞って筵に干し、筵の上であらく揉んでつくった。今から見れば番茶のようなもの。しかし、 永谷宗円 は煎茶の製法に工夫を凝らし,抹茶の製法に則り、若芽だけを摘んで蒸籠で蒸し、焙炉で揉みながら乾かして、香味ともによい青色の煎茶の製造に成功した。
この宗円が発明した「青製煎茶製法」はその後の日本緑茶の主流となる製法となった。宗円は完成した茶を携えて江戸に赴き、茶商の山本嘉兵衛(現:山本山の先祖であり、現社長は9代目)に販売を託したところ、たちまち評判となり、以後「宇治の煎茶」は日本を代表する茶となった。
宗円の煎茶を販売し大きく利益を得た「山本山」では、明治8年(1875年)まで永谷家に毎年小判25両を贈ったという(Wikipedia)。
宗円は自身が発明した製茶法を近隣にも惜しみなく伝えたため、「永谷式煎茶」「宇治製煎茶」は全国に広がることとなった。また、宗円の子孫の一人が東京で「永谷園」を創業したのだという。
日本の文化の一つともいえる「日本茶」。
この日本茶も紅茶ウーロン茶も植物としては、すべて同じツバキ科の常緑樹チャノキ。違うのは茶を作るときの「発酵の違い」だけ。茶という植物、つむと同時に発酵を開始する特殊な酵素が含まれている。
ぼやっとしていると発酵が進み、十分に発酵させると紅茶に、発酵をとめると緑茶(日本茶)に、その中間でウーロン茶やジャスミン茶など半発酵茶となる。
日本茶の多くは、蒸すことで加熱処理をして酸化・発酵を止めたのち、揉んで(揉まないものもある)、乾燥させる製法をとる。この方法は日本独自で発展したものであり、世界的にみても製茶過程で"蒸し"という工程が行われている国は他に類を見ないという。一説によると、時代の古代中国において少数派であった製法を、たまたま日本が持ち帰ったものだといわれている。
渋み、苦み、旨みなどの独特な味わいをもつ緑茶には、人間の健康によい影響を与えるとされる成分が多く含まれており、実に多様な効果・効能があるという(※20のお茶(緑茶)の成分と効果・効能参照)。
私はお茶が大好きなので、若い頃、少しお点前を習っていたこともある。焼き物も好きなので、茶碗類も古いものや新しいものを少しはもっているのだが、最近は、自分で茶をたてることはなく、家人に入れてもらった物を飲むだけ。今、食事券などをくれる株主優待のある株を少しづつ買っているが、去年買った株に、静岡県を地盤に、神奈川・山梨・愛知で展開するイオングループの食品チェーンマックスバリュー東海がある。ここは、最低単位の株式数で5000円相当の「静岡県産銘茶セット」がもらえる。今月中には届くはずなので、それを楽しみに待っているところだ。これから、また、これを機会に、ちょっと、品質の良いお茶を飲むようにしようかな〜・・・。

冒頭の画像は、茶摘5円切手(1949年発行)。当時(1948年〜1950年50頃)の通常切手は戦後復興期の日本を支えた様々な産業、農婦・炭鉱夫・印刷女工 ・紡績女工・捕鯨・植林などを図案にした切手が発行された。これは収集家の間では“産業図案切手”と総称されている。他の切手図案などは※21を参照。

参考:
※1:日本記念日協会
http://www.kinenbi.gr.jp/
※2:二十四節気および雑節 平成26年 (2014) - 国立天文台 天文情報センター
http://eco.mtk.nao.ac.jp/koyomi/yoko/2014/rekiyou142.html
※3:宇治田原ふるさと歴史クラブ 
http://www.geocities.jp/uji_tawara/
※4:艾葉,茜根及び三七根の止血作用に就て - J-Stage
https://www.jstage.jst.go.jp/article/fpj1925/39/3/39_3_328/_pdf
※5:ちゃっきり節誕生秘話-静鉄グループHP
http://www.shizutetsu.co.jp/column/column_cya_story_01.html
※6:お茶百科事典
http://www.o-cha.net/japan/dictionary/japan/culture/culture10.html
※7:茶業統計/京都府ホームページ
http://www.pref.kyoto.jp/nosan/11700012.html
※8:「お茶街道」
http://www.ochakaido.com/index.htm
※9:日本最古の茶園 - 世界遺産 栂尾山 高山寺 公式ホームページ
http://www.kosanji.com/chaen.html
※10:『ケンプェル江戸参府紀行』 - 近代デジタルライブラリー
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1876448
※11:都名所図会データベース - 日本文化研究センター
http://www.nichibun.ac.jp/meisyozue/kyoto/c-pg1.html
※12:第2章(変更) - 宇治市(Adobe PDF)
http://www.city.uji.kyoto.jp/cmsfiles/contents/0000011/11321/2syou-1.pdf#search='%E9%83%BD%E5%90%8D%E6%89%80%E5%9B%B3%E4%BC%9A+%E5%AE%87%E6%B2%BB%E3%81%AE%E8%8C%B6%E6%91%98%E3%81%BF'
※13:『宇治川両岸一覧』
http://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/ru04/ru04_03762/index.html
※14:木隠れて茶摘みも聞くやほととぎす-芭蕉db
http://www2.yamanashi-ken.ac.jp/~itoyo/basho/haikusyu/tyatumi.htm
※15:宇治の茶摘 - 神戸大学 電子図書館システム
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?METAID=00717235&TYPE=IMAGE_FILE&POS=1
※16:「もとめる(求、索、需、要…)」の漢字の違いを使い分ける
http://mmm-o.seesaa.net/article/225466323.html
※17:日本山海名物図会 - 九州大学デジタルアーカイブ
http://record.museum.kyushu-u.ac.jp/meibutu/
※18:文献資料に見る製茶
http://www.geocities.jp/uji_tawara/chabunka/bunken.html
※19:山本嘉兵衛撰 九代目商品 - 山本山
http://www.yamamotoyama.co.jp/products/kudaime.html
※20:お茶百科(伊藤園)
http://ocha.tv/varieties/
※21:郵便学者・内藤陽介のブログ 茶摘み
http://yosukenaito.blog40.fc2.com/blog-entry-339.html

宇治新茶・八十八夜茶摘みの集いが開催されます/京都府ホームページ
http://www.pref.kyoto.jp/yamashiro/ocha/news/ujicha-news2.html
茶 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8C%B6

コクの日

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日本記念日協会に、登録されている5月9日の記念日に「コクの日」があった。同協会由緒書には以下のように記されている。
「コクとは複雑に折り重なった心地良い味わいのこと。コクのあるコーヒーとして知られるBlendyブランド(ここ参照)などを手がける味の素ゼネラルフーヅ株式会社が制定。コクのあるコーヒーが毎日のほっとひといきタイムを演出してくれることを知ってもらうのが目的。日付は5と9で「コク」と読む語呂合わせと、初夏の穏やかな日にBlendyでリラックスしてもらいたいとの願いから。」・・・と。

一杯の コーヒーから
夢の花咲く こともある
街のテラスの 夕暮れに
二人の胸の ともしびが
ちらりほらりと つきました

1939(昭和14)年3月コロムビアレコードから発売された流行歌『一杯のコーヒーから』。
我々のような戦前に生まれた年代の者には、コーヒーと云うとこの歌が出てくる。作詞は藤浦洸で、作曲は服部良一。歌は霧島昇ミス・コロムビア(本名・松原操=後に本名を芸名とする)。全歌詞はうたまっぷ.cpmを参照。また、歌は以下YouTubeで聞ける。

一杯のコーヒーから 霧島昇・ミスコロムビア - YouTube

この歌を作詞した藤浦洸は、酒の飲めないコーヒー党であったそうだが、一方の作曲をした服部は酒好きなビール党で、当初この曲のタイトルは「一杯のビールから」というタイトルであったが、お酒の飲めない藤浦が「一杯のコーヒーから」と直してしまったという裏話が残っているそうだ。曲調は、この時代には珍しくジャズ調のモダンな歌である。
歌を歌った霧島とミス・コロムビアはこの曲を歌った1939(昭和14)年に結婚している。まだコロムビアに入社したばかりの霧島が、前年に公開され大ヒットした川口松太郎原作の松竹映画『愛染かつら』(主演:田中絹代、上原謙)の主題歌『旅の夜風』を当時既に大スターだった彼女と吹き込み、当時としては80万枚を超す驚異的なヒットを飛ばした。これにより、霧島とミス・コロムビアの名が全国的に広まるとともに、2人を結びつけるキッカケにもなった。

旅の夜風-霧島昇 ミス・コロムビア- YouTube


上掲の画像は、右:霧島昇と左:ミス・コロムビア(松原操)
コーヒーを題材にした音楽は多く、私たちの年代なら次に懐かしく思いだされるのが、『コーヒールンバ』(Moliendo Café, 作詞・作曲:Jose Manzo Perroni)だ。ベネズエラアルパ奏者ウーゴ・ブランコ(Hugo Blanco)が録音し世界的にヒットした曲である。
多くのカバー曲があるが、日本では1961(昭和36)年に西田佐知子(作詞:中沢清二)がルンバのリズムで歌ったものが大ヒットしたが、実際には曲のリズムはルンバではなく、オルキデア(Orquidea:ウーゴ・ブランコが生み出したリズム形式)である。
なんでも、「コーヒールンバ」のヒット当時、西田本人はコーヒーを飲む習慣がなく「(歌詞中の)モカ・マタリって何?」といった調子だったのが、結婚後は夫の影響で飲むようになった・・・、という。
モカコーヒーは、フルーティーな香りと強い酸味が特長で、比較的高価なイエメン産のものは「モカ・マタリ」(Mokha Mattari)と呼ばれ、日本では人気が高く、比較的高価なモカ・マタリはストレートで飲まれることが多い。
ウーゴ・ブランコの曲は以下で聞ける。西田の曲と聞き比べてみるのもいいね。

西田佐知子-コーヒー・ルンバ(1961) - Pideo
ウーゴ・ブランコの楽曲は「コーヒー・ルンバ」だけじゃない

コーヒーは歌曲の中で取り上げられることも多く、コーヒーそのものを題名に入れた曲も少なくないようだが、特によく知られているのが、おしゃべりはやめて、お静かに』(独:Schweigt stille, plaudert nicht、別名:コーヒー・カンタータ、BWV 211)のようだ。Wikipediaなどによれば、J. S. バッハにより1732年から1734年にかけて作曲された世俗カンタータであり、小喜歌劇でもある。バッハは歌劇を書いておらず、このカンタータも演奏会形式のために書かれたものであるが、今日では衣裳を着込んでの上演が多いようだ。
本作の初演は、ゲオルク・フィリップ・テレマンが1702年に設立したコレギウム・ムジクムによって、ライプツィヒの街にあったゴットフリート・ツィンマーマンの経営するコーヒーハウスで執り行われたという。
18世紀当時、本作の初演地のライプツィヒではコーヒー依存症が喫緊の社会問題となっており、本作はこれを題材としたものだそうだ。
作詞は、当時の人気詩人・ピカンダー(Picander。本名:クリスティアン・フリードリッヒ・ヘンリーツィ 1700-1764)によるもので、「日に3度のコーヒーを欠かせば、苦しさのあまり、干からびた山羊肉のように萎んでしまう」などといったような歌詞が書かれている。歌詞は、教会オルガニストの神学者川端 純四郎歌詞対訳カンタータ第211番(参考※1:「バッハ・平和・教会音楽」のA.バッハのページ)また、※2:「アンサンブル・バッハ」の楽曲解説:BWV21=Schweigt stille, plaudert nicht カンタータ211番などを参照されるとよい。

さて、日本記念日協会には、10月1日の記念日として「コーヒーの日」も登録されている。設定したのは、全日本コーヒー協会(※3)で、国際協定によって、コーヒーの新年度が始まるのが10月で、この日がコーヒーの年度始めとなることからだという。
記念日の「コーヒーの日」については、既にこのブログでも取り上げ、その時には、コーヒーについての一般的なことや世界のコーヒー需要、コーヒの生産地の現状、などについて書いたので、そのようなことについては前のブログ(ここ→「コーヒーの日」)を見てください。
コーヒーはアラビア語でコーヒーを意味するカフワ(qahwa) が転訛したもので、元々ワインを意味していたカフワの語が、ワインに似た覚醒作用のあるコーヒーに充てられたのがその語源だそうである。一説にはエチオピアにあったコーヒーの産地カッファ (Kaffa) がアラビア語に取り入れられたものとも云われているようだ。
この語がコーヒーの伝播に伴って、トルコ(トルコ語: kahve)、イタリア(イタリア語: caffè)を経由し、ヨーロッパ(フランス語: café、ドイツ語: Kaffee、英語: coffee)から世界各地に広まったという。
コーヒーの生豆には多糖を中心とする糖類、アミノ酸タンパク質脂質の他、コーヒーに含まれるポリフェノールであるクロロゲン酸アルカロイドであるカフェイン(豆重量の1%程度)やトリゴネリンジテルペンであるカフェストールカーウェオールなど、特徴的な成分が含まれている。
これらの成分は焙煎されることによって化学変化を起こし、その結果数百種類にのぼる成分が焙煎豆に含まれるようになるという(※3のコーヒーの成分も参照)。冒頭に掲載の画像は、焙煎したコーヒー豆。

朝の“目覚めの一杯”としても愛飲している人も多いコーヒーは、発見当初からコーヒーに含まれるカフェインの効果により眠気防止や疲労回復などの覚醒作用を持つことに注目され薬用植物として扱われてきた。
しかし、『コーヒー・カンタータ』の曲に見られるように、コーヒーにはカフェイン中毒があり、知らず知らずのうちに軽度の習慣性や依存症に陥りやすいと言われている。また一日に300mg以上(コーヒー3杯に相当)のカフェインを常用する人には、カフェイン禁断頭痛と呼ばれる一種の禁断症状が現れることもあるようだ。だから、コーヒーの飲みすぎには注意しなければいけないだろう。
※3「社団法人 全日本コーヒー協会」の「コーヒーと健康」の中では、毎日飲むコーヒーが、脂肪肝を抑制する」、「コーヒーで下がる、脳卒中のリスク。」「コーヒーを飲む人は糖尿病になりにくい」「コーヒーを飲めばシミは防げる!」・・・といった具合に、コーヒーに含まれる、カフェインによる脳の覚醒作用や利尿作用などの他、さまざまな効果(おいしい)が書かれている。
血糖を下げるインスリンが不足することにより持続的に高血糖がみられる慢性の病気である糖尿病は、1型と2型に分類されるが、生活習慣と遺伝的な素質が影響して発病し、糖尿病患者の多くを占めているのは、この「2型糖尿病」であるとされているが、近年、この2型糖尿病の予防に効果的としてコーヒーが注目を集めている。
そのため、私も、最近は、食前にブラックコーヒーを1杯飲むようにしているのだが、本当にその効果はあるのだろうか・・・?次のメタポ検診の結果を楽しみに待っているのだが・・。(※4、※5、※6等参照)。
いずれにしても、コーヒーなどというものは、本来が嗜好品であり、何がよくって何が悪いのかの効能などは、人ぞれぞれ、自分の体のことも考え、カフェイン摂取のメリット・デメリットを知ったうえで、ティータイムを楽しむのが本筋だろう。
ところで、人にとっての「美味しさ」って、なんだろう。人はなぜ、美味しいと感じるのだろうか?
最近はテレビ番組などでも、タレントなどを使っての、うまいものの食べ歩き番組が流行っており、食べた人の多くが口にする味の表現は、ただ、目をむいて「うま!」とか「おいしい!」、「メッチャウマ」、人によっては「マイウー」などと感嘆詞の連発はしていても、それがどのようにおいしいのか、どんな味に感激したのかなどほとんど伝わってこない。食べ物の美味しさの表現を言葉にする難しさはわかるが、せめて何か表現できないのか・・・と毎回感じているところではある。
そんな場面での殺し文句としてよく使われるのが「コクがある」とか「キレがある」とかいった言葉だろう。「あの人はコクのある人だ」などと言われたりするように「コクがある」と言われれば、何となく、単なる美味しさよりも、もう少し深みのある味なのだろうと、また、反対に「あの人はキレる人だ」などともいわれるように、「キレ」と言えば刃物の鋭い切れ味を連想し、しつこさを残さないちょっと冴えた味なのだろ・・・と、納得した気になっているが、じゃ〜その「コクって何なの?」と突っ込んで聞かれるとなかなか一言では説明が出来ず、なんとなく暗黙の了解で使われているといった感じだろう。
では、味とは何か?。甘味、酸味、塩味、苦味、辛味、渋味、刺激味、無味、脂身味、アルカリ味、金属味・・・など、様々な形容でそれは示される.が、食べ物の味については昔からケンケンガクガク議論が戦わされてきた歴史がある。
前漢代に編纂されたもので、現存するものでは中国最古の医学書と呼ばれている『黄帝内経』では、陰陽五行説にのっとって記述されており、この書のなかで、味は鹹味(かんみ=塩味)、甘味、酸味、苦味、辛味の五味 からなることが記されている(参考※7、※8参照)。
又、西洋では、ギリシャのアリストテレス(紀元前4世紀)が味を7つに分類した。塩味、甘味、酸味、苦味、厳しさ、鋭さ、荒さである。この最初の4つの味は生き残り、ドイツの心理学者ヘニング(Hans Henning)は、1916年に、塩味、甘味、酸味、苦味の4つの味とその複合ですべての味覚を説明する4基本味説を提唱した。つまり、彼は、すべての味は4基本味のブレンドなのだと考えたのであった。
この説に異議を唱えたのが1908年に旨味物質グルタミン酸モノナトリウム塩(クエン酸一ナトリウム)を発見した日本の化学者・池田菊苗であった。
西洋ではこのうま味が長らく認められなかったが、今では認められ、現在の生理学的定義では、狭義の味覚とは味覚受容体細胞にとって適刺激である甘味酸味塩味苦味旨味(umami)の5種(5基本味)が位置付けられている。
前述のアリストテレスの7つの味の最初の4つ以外の3つは、厳しさ、鋭さ、荒さとしているが、これを、辛味、収斂味(渋味に相当する味)、ざらざらした味と訳しているところも多く見かける(※9参照)。むしろ味の説明としては、こちらの方が判り易いように私は思う。また、荒さは粗さ(舌触り)のことではないか・・・とも考える。
辛い物好きの人などこのような基本味の話を聞いて、「どうして辛みが含まれていないの?・・と、不思議に思う人もいるだろう。
約5千年の歴史があると言われるインド医学の古典『アーユルヴェーダ』による味の種類は、甘、酸、鹹、辛、苦、渋の6種類に分けられている(※10参照)ように、東南アジアなど、辛みに対して長い食の歴史を持つ地域では、「辛み」は、主要な「味覚」の一つである。
多くの脊椎動物とヒトにおいて、味覚の感知には「」が最も重要な役割を担っている。
舌上面(舌背)の表面には、舌乳頭と呼ばれるざらざらした小さな突起が多数存在し、実際に味を感知する器官である味蕾(みらい)は、この舌乳頭の部分に集まっている。


上掲の画像は、舌や軟口蓋にある食べ物の味を感じる小さな器官「味蕾」

実はこの「辛み」というのは、生理学的には味蕾で感じ取る他の味の要素とは異なり、舌や口腔に存在するバニロイド受容体(カプサイシン受容体)という味蕾とは別の受容体で感じる痛覚(痛みの感覚。疼痛参照)に由来する5味とはまた別のカテゴリーにあるものなのである。
また、その食べ物の温度によっても辛さの感じ方は違い、熱ければ辛味を強く、冷めていれば弱く感じる。このように、私たちが総合的に感じている「味」というものは、必ずしも味蕾が感じ取っている基本味だけで説明できるものではなく、例えば、歯応えや舌触り、また、においなどもおいしさを形成する重要な要素であることは、皆様もご存知の通りである。そして、味を最終的に判断しているのが脳である以上、その人の体調や心理的要因(・見た目の印象,・食べる場所,・食べ物を盛りつける食器類、その食べ物に関する情報[誰が作ったか、どんな材料が使われているか,価格など])。と言った具合で、味覚というのは、それを引き起こす食べ物の成分とは必ずしも1:1で対応しない、曖昧で主観的な要素を含んだものである。この辺の詳しいことについては、日本うま味調味料協会のサイト(※11)の「旨みってなんだろう?」などに詳しく書かれているので、参考にされるとよいだろう。

最初は不快感を感じても、何回か口にするにしたがって「おいしさ」を感じ、クセになる「味わい」とも言うものがある。コーヒー、ビール、ウイスキー、チーズ、納豆、コーラ、からし、燻製・・・ などなど数え上げればきりがない。このような 「苦味」「酸味」「辛み」「臭み」という成分を持った食品の味覚を「アクワイアード テイスト」(英語: Acquired Taste =後天的味覚)と言うそうだ(※12参照)。
動物は本来生まれながらにして自ら食べ物を選択し、獲得する能力を備えていると言われている。
例えば、大腸菌などを含む生物群である真正細菌、つまりバクテリア(Bacteria)と呼ばれる単細胞生物は苦い物質から逃げ、甘い物質に近寄っていくという。
苦い物質は一般にそれが毒だからであり、甘い物質は分などの取り込み可能なエネルギー(生理的熱量)源だからだそうである。
高等動物であるヒトにも先天的に好きな味がある。子供の頃、文句なしに「うまい!」と感じるのは、「甘み」と「塩み」だと」いう。「甘み」は、ネルギー源」だ。エネルギーがなければ人間だって生きて往くのに必要だし、また、「塩み」も同様に生命維持に不可欠だからだ。
だが、苦味と酸味は先天的にその味を楽しむことが出来ない。理由は、苦味が意味するのは毒であり、酸味が意味するのは腐敗で、これらを拒絶するように身体が反応することによる。
しかし、ヒトの場合はその上に、より強い身体を得ようとエネルギーとして効率のいいものを求め、色々なものを「食べること」を覚えていった。つまり、学習によって、味覚が少しづつ発達してきたと考えられている。
赤ちゃんも苦いものを避けていたが成長にしたがって好むようになる。味覚が後天的な学習によって形成されるということは、離乳期の頃から親に何をたべさせられてきたかによって形成されるともいえる。食べ物の種類が多ければ、子供は多くの味覚の体験が出来、食体験が乏しければ味覚は貧しくなり、食べ物に対する適応性も低くなる(※13参照)。大人になっても好き嫌いの多い人は、生まれたときからの食に対する学習経験が少ないからだという。
そうして、大人になると本来嫌いだった、コーヒーなどの苦いものも好きになる。しかも、コーヒー依存症になるほど一日に何杯も飲まないとすまない人さえ出てくるのだから不思議なものだ。
それでは5基本味以外の「コク」とはどんなものか?なかなか説明するのが難しい。これについては、以下参考の※13:「農林水産省」HPの“食文化” >我が国の食文化 > 日本人の味覚と嗜好 “IV 日本の食の特徴:たべものの「こく」”のところで以下のように書かれている。

「コク」という言葉は日本では非常によく使われる。「コク」は日本の食嗜好を理解するための最も重要なキーワードの1つである。特定の成分や物質ではなくて複合的な味わいである。食べ物の味わいに「厚みがある」「ボディ感がある」「濃厚である」などがやや近い表現である。「コクのある」という形容詞は、熟成、豊富な経験、豊潤、円熟などからもたらされる複雑な深みと浅薄でない魅力のようなものをイメージして使われる。「コクがある」というのは料理を褒める言葉である。曖昧ではあるが、おおよそのニュアンスを国民が共有している。
一般的にコクがあるという場合、多くの成分が複雑に絡み合って、味わいの厚みをもたらしている場合を指すことが多い。単独の味が強く感じられてしまうとコクでは無くなる。酸味を加えると食べ物はさっぱりすると言うが、酸味の突出でコクが消えるとも言える。
コクがあると認められている食材や料理はいくらでもある。フォアグラ、あんこうの肝等の内臓、生クリーム、チーズ、バターなどの乳製品、生ウニ、キャビアやからすみ、イクラなどの魚卵。味噌や醤油、カレー粉、マヨネーズなどの調味料、霜降り牛肉、鮪のトロなどの動物脂、日本で流行しているラーメンの複合的なダシや背脂(豚の背の部位の脂。ラード参照)など無数にある。
コクの特徴に、時間的および空間的な拡がりがある。空間的な拡がりは、口のなかの多くの部位や神経経路で味わいが感じられていることで説明できる。食品を口にしたときに、舌の先ですぐに感じられる甘味や塩味は鼓索神経(顔面神経が3番目の分枝する神経(1番目、大錐体神経、2番目、アブミ骨筋神経。※15参照)を介した味覚、舌の奥やその両側で感じるうま味や油脂のおいしさは舌咽神経で伝えられる味である。舌触りには舌だけでなく歯茎なども動員される。味わいの感覚や部位が総動員されることが、コクにとって重要のようである。
コクには時間的な拡がりも大切である。口を近づけるだけで香る匂いから始まり、舌の前半部分で瞬時に立つシャープな味わいと、一呼吸おいてから舌の奥で感じられる味わい。さらには口のなかに留めている間にじわりと顔を出す味わい。飲み込んでからも続く余韻のような心地よい味わい。時間をかけて得られる味わいが十分に納得させられると、コクがあると強く感じる。
日本人の使うコクという言葉には様々な対象やニュアンスがあるが、整理すると三層の構造をしていると考えている。中心部はエネルギーに富む油脂や砂糖の甘味。栄養素そのものの味で、動物ならば誰でもうまいと感じる。実際に、食品開発の立場から見ると、砂糖と油脂は食品にコクを与える切り札である。したがって、コクの本義は生きてゆく上で生理的に大事な栄養の味わいであると言える。動物はこれらにやみつきになる。いわゆる報酬系を刺激する物質である。
その外側に第2層のコクとして、粘度、魅力的な香り、重厚感、うま味、濃厚な色調などが、栄養素のリッチな分厚い感じを想起させるコクとして存在する。それ自体は「中心のコク」のように強いコクではないが、人間の食体験によってコクを強める作用がある。いわば、学習によって濃厚さを連想する仮想的なコクである。
最も外側の第3層には、実体を離れた比喩的なコクが位置する。コクのある演技とかコクのある表情とか、コクのある生き方などである。感性に依存する抽象の世界であり、極度に洗練された吸い物の風味のコクなどは第2層と第3層にまたがるのかも知れない。
ラーメンやカレーや焼き肉などは中心部のコクを有する。誰にでもわかりやすい濃厚さである。一方、日本の伝統的な料理のコクは香りや食感、色合いなどが関わる第2層に集中している。第2層や第3層のコクは外側に行くほど実体が薄れる。極限まで削ぎ落として無駄なものがなくなったなかに残る豊かな味わいを高い品位として日本の料理は重視してきた。誰にでもわかるような濃厚なコクを高く評価してこなかった点は欧米の料理と大きく異なる。日本の料理が「引き算の味わい」であるという言葉はここから生まれる。・・・・と。

日本の料理の味わいとして最も重要なのは出汁(ダシ)であり、このダシは、昆布と鰹節を使うことによって、うま味を相乗的に強化したものである。そして、ダシは吸い物のベースとしてだけでなく、煮ものなど様々な日本の料理の下地として使われている。日本料理のコクの本体は油分と糖分とダシ成分であるということのようだ。そして、コクというのは、単一の成分ではなく、多くの成分が複雑に混ざり合ったものであり、いわばコク本体そのもので、ここではそれを「コアーのコク」とし、その正体は油、糖、ダシの3つの成分とのこと。第2層は、食感や香りなど、コアーのコクのおいしさを倍増させる役目をするものであり、第3層には、さらに抽象的で文化的な要素が存在しているとしているのである。つまり、コクとは「味の総和」であり、これらの組み合わせがやみつきになる味になるということのようだ。
しかし、一口に「コク」「キレ」と表現している内容も決して一様ではない。「ダシのコク」「味噌のコク」「ビールのコク」「コーヒーのコク」、あるいは「ビールのキレ」「日本酒のキレ」「コーヒーのキレ」などは、おそらくそれぞれ別々の要因から成り立つ、別々の「味わい」だと考えた方がよく、すべてを統合して考えるのには無理があるだろう。
ただ、コクとは「味の総和」のことだから、ひとつひとつの味は濃くなくても、これらがうまく合わされば、結果的には濃い味になり、コクがあることになるが、逆に、味が濃くても何かひとつの味だけが強く、その他の味がしないような場合は、コクがあるとはいえない。一方のキレは「後味がどれだけ早く消えているかで測る味」のことを指すようだ。この言葉は、もともとは、日本酒の醸造技術者が使っていた表現で、後味がスッと消えればキレがあり、長く残るようであればキレが悪いということになる・・・・。
よく判らないが、こういうことで、納得しておこう。

参考:
※1:バッハ・平和・教会音楽
http://www.jade.dti.ne.jp/~jak2000/index.html#総目次
※2:アンサンブル・バッハ
http://www.ebach.gr.jp/index.html
※3:社団法人 全日本コーヒー協会
http://coffee.ajca.or.jp/
※4:コーヒーの飲みすぎは危険?カフェイン依存症|ヘルスケア情報|eo健康
http://eonet.jp/health/healthcare/health59.html
※5:コーヒーの飲みすぎは、カフェイン中毒? [依存症] All About
http://allabout.co.jp/gm/gc/302152/
※6:[79]循環器病と気になる嗜好品 - 国立循環器病センター
http://www.ncvc.go.jp/cvdinfo/pamphlet/general/pamph79.html
※7:おいしさの科学 1) 五つの基本味 -- 都甲 潔
http://www.natureinterface.com/j/ni08/P080_081/
※8:食治と営養学
http://www.kanpow.net/index.php?data=./data/cl1/
※9:苦味から味覚を考える
http://www.bitby-bit.com/~gohyah/bariki/bariki1-03.html
※10:アーユルヴェーダの六つの味
http://www.ayurvedalife.jp/column_201303_003.aspx
※11:日本うま味調味料協会
https://www.umamikyo.gr.jp/
※12:そのウィスキーをもう一杯: なぜウィスキーは最初から美味いと思えないか? 前編 (via petapeta)
http://onemore-glass-of-whisky.blogspot.jp/2013/02/blog-post_11.html
※13:子どもの味覚【前編】食べ物の好き嫌いはどうして起こるのか ...
http://benesse.jp/blog/20121213/p2.html
※14:農林水産省: 食文化
http://www.maff.go.jp/j/keikaku/syokubunka/index.html
※15:顔面神経[?]
http://www.anatomy.med.keio.ac.jp/funatoka/anatomy/cranial/cn7.html
『うま味とコク』
http://www7b.biglobe.ne.jp/%257erakusyotei/sawakai50.html
AGF:コーヒー大事典
http://www.agf.co.jp/enjoy/cyclopedia/index.html
「コーヒーの日」-今日のことあれこれと・・・
http://blog.goo.ne.jp/yousan02/e/0787254be10974f1a4c0cd54fe36a6a0
コーヒー - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B3%E3%83%BC%E3%83%92%E3%83%BC

日本初の号外『別段中外新聞』が発行された日

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号外 (ごうがい。英:newspaper extra)とは、突発的な事件、事故、災害やスポーツの試合結果など、世間の関心度が高いと判断されるニュースを逸早く伝えるために、街頭で販売または配布されている新聞であり、その性質上、発行は不定期であり、日本では通常無料で配布される。
通常の新聞とは異なり、特定のニュースのみを報道する目的で発行されるため、2ページないし多くて4ページとなるのが大半で、片面のみの印刷である場合もある。そして、新聞は通常、発刊の度に通し番号が付番されるが、号外の場合は緊急特別の発刊であるため、発刊番号の対象外であるとされ、このため「号外」と呼ばれ、本紙では発刊番号が記載されている欄などには「号外」と記載されている。
日本には現在の新聞と似たものとして瓦版(読売とも呼ばれていた)が江戸時代以前から存在し、木版製のものが多かった。現存する最古の瓦版は1614年〜1615年(慶長19年~20年)の大坂の役(大坂の陣)を記事にしたもののようである(※1:「かわら版のはじまり」の図1、6参照)。
現在の紙媒体の新聞は、幕末から明治時代に欧米を真似て作り、国民に広まった。新聞という言葉は明治時代に作られた造語である(ここ参照)。
江戸時代後期の幕末には、手書きの回覧文章を「新聞」と称するケースがあった。1861年6月22日(文久元年5月15日)には英字新聞として『ナガサキ・シッピング・リスト・アンド・アドバタイザー』、同じ年の11月23日(10月21日)には横浜で英語の週刊新聞『ジャパン・ヘラルド』が発行された。この新聞が本邦最初のものということになる。
そして、1862年1月1日(文久元年12月2日)には初の日本語の新聞として『官板バタビヤ新聞』が刊行される。これはバタビヤ(インドネシアの首都ジャカルタのオランダ植民地時代の名称)にあったオランダ総督府の機関誌『ヤパッシェ・クーランド』を、幕府の蕃書調所が和訳し、海外事情を国別に紹介したもので、3月には『官板海外新聞』と改名するが、一般には「バタビヤ新聞」として知られている。これが日本人発行の最初の新聞とされている。また、播州(播磨)の水夫であったジョセフ・ヒコ(浜田彦蔵)が、1864年(文久3年)に出した『海外新聞』(のちに『新聞誌』に改名)が、日本での新聞第2号とされている。
明治時代に入ると、文明開化の流れに乗って新聞が多数創刊されるが、その中で1868年(慶応4年)2月、幕府の開成所(蕃書調所を改称)頭取・柳河春三ここも参照)が木版の小冊子形態の新聞『中外新聞』を創刊した。
最初は、外字紙、外国紙の日本記事の抄訳が多かったが、やがて幕府や新政府・官軍の動向、布令、人事などの国内情報を載せるようになった。新聞の名称は、外国新聞を翻訳して外国事情を紹介しつつ国内事情をも報道するという意味で「中外」と名づけたようだ。形こそ冊子型だが戊辰戦争が緊迫するなか国内のニュースに重点を置いた内容、売れ行き、影響力から見て日本人発行の初の本格的新聞と言えるものであった(※2参照)。
なお、この年の閏4月3日には、福地桜痴(本名:福地 源一郎等による『江湖新聞』も創刊された。そして、1870年(明治3年)には日本最初の日刊紙である『横浜毎日新聞』が創刊されるようになる。この間の新聞事情は、参考※3:「新聞と神奈川」を読まれるとよい。

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上掲の画像は、1868年(文久2年)発行の『官板バタビヤ新聞』と1868年(慶応4年)2月に創刊した中外新聞(第1号)である。画像は、朝日クロニクル週刊20世紀“メディアの100年”より借用。
明治という年代は、1868年1月25日(明治元年1月1日=慶応4年1月1日)から始まるが、実際に改元詔書が出されたのは明治天皇が即位した慶応4年9月8日(グレゴリオ暦1868年10月23日)で、慶応4年1月1日に遡って明治元年とすると定めたものである。
慶応4年1月1日(1868年1月25日)は、江戸幕府最後の第15代将軍徳川慶喜が討薩表を朝廷に提出した日であり、これが契機となり、王政復古を経て明治政府を樹立した薩摩藩・長州藩らを中核とした新政府軍と、旧幕府勢力佐幕派)および奥羽越列藩同盟が戦った内戦・戊辰戦争が始まる。
この緒戦となった戦い・鳥羽・伏見の戦いが1868年1月27日(慶応4年1月3日)に、翌1月28日(慶応4年1月4日)には阿波沖海戦が始まるが、慶応4年1月4日には旧幕府軍は淀方向への後退が続き、同日、仁和寺宮嘉彰親王を征討大将軍と為し錦旗節刀を与え出馬する朝命が下った。
これにより、薩長軍などは正式に官軍とされ逆に、旧幕府の中の反乱勢力は賊軍と認知されるに及び、佐幕派諸藩は大いに動揺した。
こういった背景により慶応4年1月5日、藩主である老中・稲葉正邦(当時江戸詰)の留守を守っていた山城淀藩賊軍となった旧幕府軍の入城を受け入れず、旧幕府軍は淀城下町に放火し、石清水八幡宮の鎮座する男山・橋本方面へ後退した。また、この戦闘で新選組隊士の3分の1が戦死した。
1月6日、旧幕府軍は八幡・山崎で新政府軍を迎え撃ったが、山崎の砲台に駐屯していた津藩が朝廷に従い旧幕府軍への砲撃を始めた。旧幕府軍は山崎以東の京坂地域から敗北撤退し大坂に戻った。
この時点では未だに総兵力で旧幕府軍が上回っていたが、開戦に積極的でなかったといわれる慶喜は1月6日夜、自軍を捨てて大坂城から少数の側近を連れ大坂湾に停泊中の幕府軍艦開陽丸で海路江戸へ退却した。
慶喜の退却により旧幕府軍は戦争目的を喪失し、各藩は戦いを停止して兵を帰した。また戦力の一部は江戸方面へと撤退した。
江戸へ到着した徳川慶喜は、慶応4年1月15日、幕府主戦派の中心人物・小栗忠順(小栗上野介)を罷免。さらに2月12日、慶喜は江戸城を出て上野の寛永寺に謹慎し、明治天皇に反抗する意志がないことを示した。
一方、明治天皇から朝敵の宣告を受けた松平容保は会津へ戻った。容保は新政府に哀訴嘆願書を提出し天皇への恭順の姿勢は示したが、新政府の権威は認めず、武装は解かず、求められていた出頭も謝罪もしなかった。
その一方で、先の江戸での薩摩藩の騒乱行為(江戸薩摩藩邸の焼討事件)を取り締まったため新政府からの敵意を感じていた庄内藩主・酒井忠篤と会庄同盟を結成し、薩長同盟に対抗する準備を進めた。旧幕府に属した人々は、あるいは国許で謹慎し、またあるいは徳川慶喜に従い、またあるいは反新政府の立場から会津藩等を頼り東北地方へ逃れた。
新政府は有栖川宮熾仁親王を大総督宮とした東征軍をつくり、東海道軍・東山道軍・北陸道軍の3軍に別れ江戸へ向けて進軍。旧幕府軍は近藤勇らが率いる甲陽鎮撫隊(旧新撰組)をつくり、甲府城を防衛拠点としようとしたが、新政府軍の板垣 退助が率いる迅衝隊が甲陽鎮撫隊より先に甲府城に到着し城を接収していた。
甲府城へ向かっていた甲陽鎮撫隊は慶応4年3月6日(同3月29日)新政府軍と戦い完敗。近藤勇は偽名を使って潜伏したが、のち新政府に捕縛され処刑されている。一方、東山道を進んだ東山道軍の本隊は、3月8日に武州熊谷宿に到着、3月9日に近くの梁田宿(現・足利市)で宿泊していた旧幕府歩兵隊の脱走部隊(後の衝鋒隊)に奇襲をかけ、これを撃破した。
駿府に進軍した新政府は3月6日の軍議で江戸城総攻撃を3月15日としていたが、その後の幕府の全権を委任さていた陸軍総裁の勝海舟と東征大総督府参謀の西郷隆盛の江戸開城の交渉により、15日の総攻撃は中止となった。
結果、慶応4年4月4日 (同4月26日)に勅使(先鋒総督・橋本実梁、同副総督・柳原前光)が江戸城に入り、「慶喜は水戸にて謹慎すること」「江戸城は尾張家に預けること」等とした条件を勅諚として伝え、4月11日(同5月3日)に江戸城は無血開城され、城は尾張藩、武器は肥後藩の監督下に置かれることになった。同日、慶喜が水戸へ向けて出発。4月21日(同5月13日)には東征大都督である有栖川宮熾仁親王が江戸城に入城して江戸城は新政府の支配下に入った。
日本の新聞の先駆者の1人である柳川春三が『中外新聞』を創刊したのは、慶喜が江戸城を出て上野寛永寺に謹慎し、明治天皇に反抗する意志がないことを示した1868年(慶応4年)2月のことであるが、その後も江戸無血城に従わぬ旧幕臣の一部が千葉方面に逃亡、船橋大神宮に陣をはり、閏4月3日(5月24日)に市川鎌ヶ谷船橋周辺で両軍が衝突した(市川・船橋戦争)。
又、宇都宮藩兵をはじめ野州(下野国の異称)世直しを鎮圧するために板橋から宇都宮に派兵された東山道総督府軍を中心とする新政府軍と、下総市川の国府台から次期戦闘地日光廟へ向けて行軍中の伝習隊を中心とする旧幕府軍の間で起きた「宇都宮城の戦い」などが起こっている( ※4:「上杉家の戊辰戦争」の野州戦争第一章〜第五章参照)。
又、江戸城の無血開城を決定して官軍による江戸総攻撃は回避されたが、抗戦派の幕臣や一橋家家臣の渋沢成一郎( 渋沢栄一の従兄)、天野八郎らが彰義隊を結成していた。
彰義隊は当初本営を本願寺に置いていたが、後に上野に移した。旧幕府の恭順派は彰義隊を公認して江戸市内の警護を命ずるなどして懐柔をはかっていたが、徳川慶喜が水戸へ向かい渋沢らが隊から離れると彰義隊では天野らの強硬派が台頭し、旧新選組の残党(原田左之助が参加していたといわれる)などを加えて徳川家菩提寺である上野の寛永寺に集結して、輪王寺公現入道親王(後の北白川宮能久親王)を擁立した。
そして、慶応4年5月15日(1868年7月4日)、長州藩の大村益次郎が指揮した新政府軍が攻撃し1日で彰義隊を撃破した。上野戦争と呼ばれるものである。
戦争後、逃走した彰義隊残党の一部は、北陸や常磐、会津方面へと逃れて新政府軍に抗戦し、転戦を重ねて箱館戦争に参加した者もいる。

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上掲の画像は、「本能寺合戦之図」 さくら坊芳盛(歌川 芳盛)画 1969年(明治2年)錦絵3枚続き。
上野戦争を明智光秀織田信長を襲撃した本能寺合戦に名を借りて描いた錦絵である。右手の黒門口はすでに破られ、新政府軍は既に奥まで侵攻している。

上野戦争で新政府軍が彰義隊を攻撃し撃破したその翌日の慶應4年5月16日(旧暦。グレゴリオ暦1868年7月5日)に『中外新聞』は、本紙とは別の『別段 中外新聞』と外題した上野東叡山(寛永寺)に立て篭もった彰義隊を撃破する様子を、8 ページにわたる記事で報道している。この角書きの別段が号外を意味しており、これが日本最初の号外であるといわれている(冒頭掲載の画像が日本初の号外である)。
形態は当時の日本の他の新聞と同じく和紙に木活字刷りの冊子型で本文は 4 丁(ちょう=綴じた紙の一葉)、そこに「一昨日 大総督府より左の通り御内達ありしよし風聞の侭写し留む・・・(以下略)」として本文は、以下のような書き出しで書かれている.。
「昨十五日朝未明より太鼓の音処々に聞えて、官軍繰出しに相成り、御門々々皆〆 切となり出入を止めらる。間も無く砲声少々相きこえ、湯島通り出火あり、此頃中 の大雨にて十分しめり之有る折柄なれば、手過ちの出火にはあるべからず、何様只 事ならずと思えども往来留なれば火元見の者を出す事も叶わず、只あつまりて此頃 中の風聞を語り合い出火方角を眺め居たり。 ・・・・以下略」(旧漢字、旧かな使いは変えてある。)
尚、5月16日付『別段 中外新聞』の原文は以下参考の※5:「早稲田大学-古典籍総合データベース」の別段中外新聞. 戊辰五月十六日 / [柳川春三 編]にて、また、その現代文での読み下し文は、参考※6:「会津の歴史」の戊辰戦争百話・第五話之二:上野の戦争で読むことが出来る。
また、先にも書いた福地 桜痴(福地 源一郎)が発行した『江湖新聞』第 20 号(5月18日付)では、「去ル十五日東叡山の始末ハ中外新聞に記し別号として之を刊行せり故に我新聞には之を載せず」と書かれているという(※7参照)。
福地は、江戸開城後の慶応4年閏4月3日(1868年5月)に『江湖新聞』を創刊したが、その翌月彰義隊が上野で敗れた後、同誌に「強弱論」を掲載し、「ええじゃないか、とか明治維新というが、ただ政権が徳川から薩長に 変わっただけではないか。ただ、徳川幕府が倒れて薩長を中心とした幕府が生 まれただけだ」と厳しく述べたという。これが新政府の怒りを買い、新聞は発禁処分、福地は逮捕されたが、木戸孝允が取り成したため、無罪放免とされたという(Wikipedia)。明治時代初の言論弾圧事件である。
法学者(専門は法制史)であり、明治文化研究者でもある尾佐竹猛が、1920年(大正9年)に、柳川春三を論じた論文「(新聞雑誌之創始者)柳川春三」(※8参照)を発表し、その中で、柳川春三の功績を讃えている。
この中で、「中外新聞は大体4日めぐらい間隔をおいて発行し、創刊の年1868年(慶応4年)6月8日出板の第45号限りで消滅し、明治2年には『官准中外新聞』と改題し、号を新にして発行しているが、これは『江湖新聞』の福地 源一郎の筆過事件以来新聞は厳禁せられ、其の後禁は解かれたが厳重なる 新聞紙条例の発布があったからで、此時は幾多の新聞社が倒産しているが、中外新聞独りが異彩を放って居た」・・・ことなどが書かれている。
新聞紙条例は、自由民権運動の高揚するなか、新聞・雑誌による反政府的言論活動を封ずるため制定したものだが、この条例に準拠して発行したのが『官准 中外新聞』である。
各紙は、新聞を再刊する為に、政府の許可を得て、このように新たに「官許」「官准」を誌名に冠して発行したのであった。つまり、官の規制下で再生メディアとして登場した種々の官許新聞等は、ジャーナリズムとしての活力=反権力性を失ったと言える。
以降佐幕的傾向の記事は全く跡を絶ち、新政府の施策を謳歌し、政府系新聞への対抗性を喪失したメディアとして、新聞の通史では序章されており、『中外新聞』についても条例の監視下で慶応4年当時の「柳川の筆勢がすっかりキバを抜かれた」感じになったという(※9参照)。
ただ当初『中外新聞』を筆頭に、江戸の新聞がいずれも佐幕的にならざるを得なかったのはその地理的条件もさることながら発行責任者が会訳社開成所など幕府関係のブレーン的要職にあったことや海外事情に詳しいエリートであったこと、などのほかにこの内戦は薩長両藩による幕府打倒の戦いであると見て、開国策をとる幕府を心情的に支持したものだったとも云われている(※10参照)。
江戸時代末期、日本に定期性を持った新聞が誕生して以降、何か大きなニュースや事件が起った際に、それをいち早く報道するための手段として、その定期発行の枠を外して臨時に発行される「号外」というものが誕生した。号外は朝刊や夕刊発行までの時間差を埋めるための速報媒体として、また新たな読者を獲得するための手段として、様々な変化を遂げつつ発展してきた。日本の新聞史の中で、新聞が商業的に成功するために号外は必要不可欠な存在であったといっても過言ではないともいう。
そして、日本の新聞史上、最も号外で報じられたニュースは「戦争」であった。特にラジオが登場する以前は、遠く離れた戦場の様子を知ることができるのは新聞だけであり、とりわけその中でも号外は、刻一刻と変わる戦地の状況をいち早く知ることができることで人々に歓迎されてきた。
しかし、大衆に宣伝し、煽動し、組織するためには新聞を発行しなければ、といった新聞の機能については国民は、全然と言ってよいくらい無知なものが多かった・・・とも言えるだろう。
号外による競争が最も激しかったのが1904年〜1905年(明治37年〜明治38年)の日露戦争だろう。このときの『大阪朝日新聞』と『大阪毎日新聞』の号外合戦はすさまじいもので戦争中の両社の号外発行回数は『大阪朝日新聞』が389回、『大阪毎日新聞』が498回という記録が残っているという(※7参照)。
大衆に宣伝し、煽動し、組織するための報道は、そのマス媒体が、新聞からラジオ、テレビへと変わってきた現代でも意識的に行われているように思われる。
例えば「安倍政権集団的自衛権の行使容認に向けた姿勢を強めるなか、朝日新聞社は憲法に関する全国郵送世論調査を行い、有権者の意識を探ったところによると、集団的自衛権について「行使できない立場を維持する」が昨年の調査の56%から63%に増え、「行使できるようにする」の29%を大きく上回った」・・・と伝えられている(※11参照)が、一方、「政府が目指す集団的自衛権の行使に関して、「必要最小限の範囲で使えるようにすべきだ」とした“限定容認論”を支持する人は63%に上ることが、読売新聞社の全国世論調査で分かった。「全面的に使えるようにすべきだ」と答えた8%と合わせて計71%が行使を容認する考えを示した」・・・とも報じられている(※12参照)。
このように、同じような国民の世論の調査でさえ、マスコミの機関によって、全く違った意見が取り上げられ報道されているのである。この様に、当初より、政府側を後押ししようとする機関と、それに批判的な機関では、同じような世論調査でも、その機関の恣意的な質問書によって行えば、その機関の期待する意見が導き出され、それを国民の声として報道されることになるのである。つまり、マスコミがよく使う「世間の意見」など質問書の作成の仕方や、アンケートのやり方でどうにでもなるということである。この様なことは、新聞、雑誌、ラジオ、テレビなど、毎日接している報道の中で、それとなく如何にも真面目顔で報道されていることを、心しておかなければいけないだろうと私は思うのだが・・・。

(冒頭の画像は日本最初の号外と云われる慶應4年5月16日付『別段 中外新聞』)

参考:
※1:かわら版のはじまり - 東京大学総合研究博物館  
http://www.um.u-tokyo.ac.jp/publish_db/1999news/02/0201.html
※2:柳河春三 - 日本新聞博物館 NEWSPARK(Adobe PDF)
http://newspark.jp/newspark/data/pdf_shinbunjin/b_30.pdf#search='%E6%9F%B3%E6%B2%B3%E6%98%A5%E4%B8%89'
※3:新聞と神奈川- 有隣堂
http://www.yurindo.co.jp/static/yurin/back/395_1.html
※4:上杉家の戊辰戦争
http://www7a.biglobe.ne.jp/~soutokufu/index.html
※5:早稲田大学-古典籍総合データベース-中外新聞
http://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/search.php?cndbn=%92%86%8AO%90V%95%B7
※6:会津の歴史
http://aizu.sub.jp/index.html
※7:戦争と号外(1) - 立命館大学(Adobe PDF)
http://www.ritsumei.ac.jp/acd/gr/gsce/ce/2012/km02.pdf#search='%E5%88%A5%E6%AE%B5%E4%B8%AD%E5%A4%96%E6%96%B0%E8%81%9E.+%E6%88%8A%E8%BE%B0%E4%BA%94%E6%9C%88%E5%8D%81%E5%85%AD%E6%97%A5'
※8:近代デジタルライブラリー - 新聞雑誌之創始者柳河春三
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/958097/2
※9:官許・官准」新聞の成立と機能 : 明治2年(1869)刊『中外新聞』を軸に
http://hermes-ir.lib.hit-u.ac.jp/rs/bitstream/10086/18821/1/shomotsu0000900230.pdf
※10:近代新聞への胎動-中外新聞から内外新聞まで(Adobe PDF)
http://www.kwansei.ac.jp/s_sociology/kiyou/20/20-ch04.pdf#search='%E8%BF%91%E4%BB%A3%E6%96%B0%E8%81%9E%E3%81%B8%E3%81%AE%E8%83%8E%E5%8B%95%E4%B8%AD%E5%A4%96%E6%96%B0%E8%81%9E%E3%81%8B%E3%82%89%E5%86%85%E5%A4%96%E6%96%B0%E8%81%9E%E3%81%BE%E3%81%A7'
※11:集団的自衛権、行使容認反対63%に増 朝日新聞調査:朝日新聞デジタル
http://www.asahi.com/articles/ASG3L72L6G3LUZPS007.html
※12:集団的自衛権、行使容認71%…読売世論調査 : 政治 : 読売新聞
http://www.yomiuri.co.jp/politics/20140512-OYT1T50017.html
新聞・雑誌の部屋
http://www.nagumosyoten.jp/image1top/bunya/(14)sinbun.2014.2.12.pdf
江湖新聞【PDF】
://newspark.jp/newspark/data/pdf_yokoso/a_008.pdf
近代デジタルライブラリー - 彰義隊戦史(著者: 山崎有信 隆文館出版)
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/773365/127

伊藤博文が 初代兵庫県知事に就任した日

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天智天皇の治世に兵の武器の倉庫の意味である「つわものぐら(兵庫)」があったことが地名の由来とも言われる「兵庫」(兵庫県のことは※1を参照)の地に、国際貿易港としての「神戸港」が開港(「兵庫」として開港)したのは、1868年1月1日(慶応3年12月7日)のことであった(神戸港のことは※2参照)。
この開港は、1858年(安政5年)、日米修好通商条約により、1863年1月1日(文久2年12月7日)に開港が定められていたが、兵庫は天皇のいる京都御所に近かったこともあり、朝廷の反対によりなかなか開港が許可されなかったがロンドン覚書によって5年後のこの日、「兵庫津」(かつての大輪田泊)より東にある「海軍操練所」があった辺りを事実上の「兵庫港」として開港が実現したものであった(兵庫開港要求事件)。
1868年(明治元年)鳥羽・伏見の戦い- の勃発(慶応4年1月3日[1868年1月27日])、幕府軍の敗北((慶応4年1月27日[1868年1 30日])、を知った徳川慶喜はまだ兵力を十分に保持しているにも関わらず大坂城を脱出し、開陽丸に乗り込み、海路を執って江戸へ向かった。
鳥羽での薩摩との衝突が戊辰戦争の始まりであり、五稜郭落城(
詳細は箱館戦争を参照)をもって終わりをつげるが、「鳥羽伏見の戦い」は、3 倍以上の兵力を擁する幕府軍が惨敗に終わったが、これを機に近畿以西の諸藩の殆どが新政府方につき、世に言う「三百年の天下をたった三日でつぶした」戦いであり、正に、NHKで放送されていた歴史情報番組『そのとき歴史が動いた』・・・であった。その敗因等は以下を参照。

「鳥羽・伏見の戦い - 旧幕府軍の敗北」 そのとき歴史が動いた(1/4 .)(
「鳥羽・伏見の戦い - 旧幕府軍の敗北」 そのとき歴史が動いた(2/4 .)
「鳥羽・伏見の戦い - 旧幕府軍の敗北」 そのとき歴史が動いた(3/4 .)
「鳥羽・伏見の戦い - 旧幕府軍の敗北」 そのとき歴史が動いた(4/4 .)

「鳥羽・伏見の戦い」の敗戦を知った知ったイギリス公使ハリー・パークスは、幕府から各国外交団の保護不可能との通達があったため兵庫へ移動した。
この時、「神戸事件」(備前事件とも呼ばれる)が勃発した。
神戸事件とは(1868年2月4日(慶応4年1月11日)に神戸(現・神戸市)三宮神社前において備前藩(現・岡山県)兵が隊列を横切ったフランス人水兵ら2人を負傷させた事件である。
この時、自らも現場に居合わせたイギリス公使ハリー・パークスは激怒し、折しも兵庫開港を祝って集結していた各国艦船に緊急事態を通達、アメリカ海兵隊、イギリスの警備隊、フランスの水兵が備前藩兵を居留地(現・旧居留地)外に追撃し、生田川の河原で撃ち合いとなった。
そして、神戸に領事館を持つ列強諸国は、同日中に、居留地防衛の名目をもって神戸中心部を軍事占拠し、兵庫港に停泊する日本船舶を拿捕(だほ)した。
この事件は、兵庫開港(現・神戸港)に伴い、大名行列と外国人の衝突を避けるために徳川幕府によって作られた「徳川道」(=西国往還付替道)を通らず、西国街道を進んだことが事件の引き金の一つとなってしまった。以下参照。

徳川道 〜幻の西国街道のバイパス〜

このパークス駐日英国公使とは下関での会談等もあり知己関係にある長州藩士の伊藤俊輔(後の伊藤博文)が、下関発の小蒸気船で兵庫港に着いたのは、その翌日のことだった。
この事件が起きた時点では、既に大政奉還していたとは言え、まだ朝廷は諸外国に対して徳川幕府から明治政府への政権移譲を宣言しておらず、伊藤俊輔(博文)が折衝に当たるも決裂するに至るが、伊藤は事の重大さを正確に掴んだでいた。
この事件で、フランス人水兵らが武家の行列を横切ろうとした行為「供割り」は不吉な行為として固く禁じられていた行為であった。日本側から見ると禁を犯した無礼者は切り捨て御免、つまり、切り殺してもよいと武家諸法度に定められていたことをしただけのことであった。したがって、この事件の外交交渉において、日本の武士社会の慣習と国際慣例(万国公法)に無知な誕生したばかりの政権の中にあって、如何に対処すべきかは非常に難しい問題があったのである。
伊藤は、国禁を破って、藩命(萩藩の命令)で攘夷実行のために西欧列強の軍事を学ぶために英国へ留学する途中、上海アヘン戦争に負けた清国の人民が奴隷のように酷使されている様をみて、強い衝撃を受けていた。
そのようなことから、彼は、この神戸事件でも、まかり間違えば、清国同様の憂き目をみることになりかねないと憂慮していた。
同年1月15日(2月8日)、急遽、開国和親を朝廷より宣言した上で明治新政府への政権移譲を表明、東久世通禧を国の代表として、兵庫島上町(神戸市兵庫区。)の運上所(開港と同時に開所していた諸問屋会所においた仮事務所「兵庫役所」)にて交渉が開始された。
東久世は、京都の新政府で参与兼外国事務取調掛で、外国との間に起こった事件の最高責任者であった。その東久世に、いちはやく事件を知らせ、外国に王政復古を宣言し、事件を解決にむかわせたのは伊藤であり、元論この交渉メンバーの中に、英語の堪能な伊藤も参加しており、中心的役割も果たしたことだろう。
一戦を辞せずとする備前藩を説得し、2月9日(3月2日)事件関係者の滝善三郎永福寺において切腹させるにあたり、外国公使にも処刑に立ち合わせると共に、今後の外交問題は、万国公法にのっとって対処することを宣告して、何とか神戸占領を解除させることに成功した。ただ、結果として諸国列強に押し切られる形で滝善三郎という1人の命を代償として問題を解決する形にはなったが、これ以降、明治政府が対外政策に当たる正当な政府であるということを諸外国に示すことになった。
明治新政府ができると、外国と交渉を行い、神戸港や神戸港周辺の旧幕府領を管理するために、慶応4年1月11日、兵庫島上町の諸問屋会所においた仮事務所「兵庫御役所」(運上所)は、1月19日になると神戸港や神戸港周辺の旧幕府領を管理するために兵庫切戸町(兵庫区)の旧大阪町奉行の兵庫勤番所へ移転。
軍隊のあるところが役所にふさわしいとして慶応4年(明治元年)1月22日には兵庫鎮台と改称され、兵庫鎮台東久世が外国事務総督を兼務。伊藤は英語が堪能なことから東久世の下で参与兼外国事務掛となり、2月政府の職制改革に伴って兵庫鎮台が兵庫裁判所と改称されると東久世が兵庫裁判所総督に任命(摂津播磨河内の旧幕府領谷町代官支配地を統治)されると、伊藤は、外国事務局判事に任ぜられた。
さらに、慶応4年5月23日(西暦1868年7月12日)には、兵庫裁判所を廃し、兵庫県を設置。第1次兵庫県が発足した。
江戸時代の末期、現代の兵庫県域には大名が支配していた大名領の外、幕府直轄領(天領)、旗本領(旗本知行所)、公家領寺社領など、130を超える領主によって支配されていた。
慶応4年(1868)5月、旧幕府直轄領等を管轄地として兵庫県(第1次)が設置されたが、配地は徳川天領の域をでていない。多くの大名領は明治4年(1871)まで存続していた(※1の幕末の大名領参照)。
現在の兵庫県庁(神戸市中央区下山手通五丁目10番1号)は繁華街近くにあるが、当時は、江戸時代兵庫津と呼ばれていた神戸市兵庫区中之島周辺にあった兵庫城のあったところである。
兵庫城は花隈城の戦い織田信長に謀反した荒木村重を破り落城させた信長軍の武将池田恒興がその功により、兵庫の地を与えられ築城したものであるが、池田恒興はわずか2年で美濃国大垣城に移封され、兵庫城下は豊臣秀吉の直轄地となり片桐且元が代官として入城していた。そのとき呼称も兵庫城から片桐陣屋と称されていた。
1615年(元和元年)大坂城落城後は尼崎兵庫津一帯は尼崎藩に組み込まれ兵庫城址には陣屋(兵庫津奉行所)が置かれていた。
1769年(明和6年)、上知令により兵庫津一帯は天領となり、尼崎藩の兵庫陣屋は与力同心の勤番所に改築されていた。以下参照。
兵庫勤番所絵図(写)|神戸市立中央図書館 貴重資料デジタルアーカイブズ
明治になってこの勤番所のあった城跡の一部に兵庫鎮台を設け、それが兵庫裁判所に名前が変更、「兵庫県」が成立すると、これが初代の兵庫県庁になったということである。ただし、同年9月に県庁は現在の神戸地方裁判所がある所(神戸市中央区橘通二丁目2番1号)に移動、更に明治6年に現在の兵庫県公館の所に移動している。戦後県庁は違う建物に移り、こちらは現在でも兵庫県の迎賓館として利用されている(現県庁は公館の目の前にあるビルである)。

当時の県域は、先にも書いたように「、神戸港を中心にした小さなもので、いくつもの飛地からなる島のような形をしていた兵庫県。
初代知事に任命されたのは後に初代総理大臣となる伊藤俊輔(博文)であった。英国留学で体得した英語を生かし、開港事務を取り仕切ってきた実績を評価されての登用だったが、任期は1年余りと短かった。
冒頭の画像は兵庫県知事当時の伊藤博文(山口県光市伊藤公資料館蔵。)画像は、2009・6・10付、朝日新聞「ひょうごを託す09知事選」特集記事掲載時のものより借用。
憲政2年目の1969年は、2〜5代目まで4人の知事(久我通城中島錫胤陸奥宗光税所篤)が次々と送り込まれた(兵庫県知事一覧参照)。当時、港のある長崎、兵庫、神奈川の知事を次々とこなすのが外交畑の出世コースの様であったらしいが、中には1度も兵庫を訪れなかった知事もいたようだ(第5代、税所は、権知事となっているが、権知事は知事がいないところへ置かれたようで、兵庫県には居なかったということだろう)。第4代の陸奥宗光は知事退任後、第2次伊藤内閣で外務大臣として活躍している。
伊藤博文は、天保12年9月2日(1841年10月16日)周防国に出生。したがって、伊藤が、兵庫県知事になったときは、まだ27歳という若さであった、伊藤は、ニツ茶屋村の庄屋 橋本藤左衛門の別邸である橋本花壇(後の花隈の料亭吟松亭)を仮住居としていたそうだ。橋本花壇の所在地は、旧住居表示では神戸市生田区北長狭通6-78(現:中央区花隈町3に該当)。明治2年 (1869年)7月 伊藤が知事を辞し神戸を去るまでの間この地で風雅な生活を送っていたようである(※3参照)。
以前このブログ「首相官邸で伊藤博文主催による仮面舞踏会が開催された」でも書いたが、JR元町の少し西北あたり、「花隈」(もと花隈城の跡地)には明治時代から昭和40年代くらいまでは賑ぎわいだ料亭街であった。そこには、料亭、お茶屋、仕出屋など戦前は120軒を超える店があり、最盛期には「千人近い芸者衆で華やだいといわれる。初代兵庫県令であった伊藤も毎晩花隈に入り浸っていたといい、伊藤に贔屓にしてもらっていたという元芸者のお婆さんのインタビュー記事を神戸新聞で読んだことがある。
何でも、伊藤の妻・梅子は賢夫人のほまれ高かったそうだが、元々は下関の芸者「お梅」だったという。伊藤には英国留学前に結婚した「おすみ」という女がいたが離婚して、お梅を正妻にして梅子と名のらせた。伊藤が思いきって女道楽のできたのは、梅子の内助のおかげで、梅子は女遊びについて一切文句をいわなかったという。伊藤は、私的蓄財はほとんど残さなかったとされているが、女遊びには相当入れ込んでいたのであろう。
そんな伊藤だが、兵庫県知事に抜擢されてからの1年余の短い期間だが色々なことに着手している。
貿易の振興が、国家隆盛の唯一の手段と考えていた伊藤は神戸での国際貿易の振興をはかり、その為、工事なかばの居留地建設の再開と待遇改善、さらに第二の運上所(税関)を作った。また、神戸開港で、外国人との取引を商いにする人もでてくる。
先に開港した横浜では、手真似による意思表示で契約したことで、違約金をとられるなど困ったことのあることは知られていたことから、県は官吏に外国語を身に着けさせるため、早くも洋学傳習所(英学校)を開設した(8月)。校舎は、鳥取藩が藩士教育のため使っていた神戸村(海岸通西ノ町。※4参照)の校舎が兵庫裁判所へ寄付されたものを利用したようだ。資金難から、兵庫町会所(岡方総会所)に移転し明治5年10月明親館に併合されている(※5参照)。
また、宇治野村(現中央区下山手通7丁目)に貧院を建設している。福澤諭吉は『西洋事情』初編 巻之一の中で、老院(今の老人ホーム)、幼院(今の保育園や幼稚園のこと)又、 それに加えて、「身体不具なるか、若(も)しくは虚弱なる者」(今の障害者センターの機能も合わせて持っていた)もの]のことを貧院とっている.(※6参照)。
神戸ではこの時、神戸病院(神戸大学附属病院の前身)を開設し、医学伝習所(のち神戸医学校と改称)を併設している。兵庫県公館の県政資料館(歴史資料部門)には、神戸病院を建てるために寄附金を集めた「病院購金録」に「伊藤俊介」の名前が見られる(※1の病院購金録参照)。
開港により内外人の流入で、新開港場神戸の風紀と治安は乱れ勝ち。居留地外国人の慰安所として「福原遊郭」が開設されたといわれている。又、伊藤の知り合いのイギリス人から馳梅院を建てること注意されたことが病院建設の動機だったらしい。兎に角、神戸における伊藤の行動と治績はスピーディーであり、めざましいものがあった。しかし、政府に提出した郡県制の建白書『国是綱目』(兵庫論とも)がいれられられなかったことから、わずか11ヶ月の在任期間で憤然と辞表を叩きつけ辞職(明治2年4月10日)した。
今は亡き米花稔氏(べいか・みのる=神戸大名誉教授、経営学)が、神戸新聞に寄せた「まちづくりのちえ」と題する一文には、五つの特徴をとらえ、
「第一は、新興の都市としてのまちづくりが、多様な人々のかかわりあいのなかで進められたこと」
「第二は、古くからの都市に、新しい機能によって規模の大きい新しい部分が加わる時の新旧対立のおそれを、新旧都市の接点を中核とすることによって克服、一体として発展へ進めたこと」
「第三は、まちづくりに区画整理という手法を、地元の人々みずからはじめたこと」
「第四は、まちづくりに必要で、かつ厄介な公的事業のいくつかを、資金の乏しい中で他からの思惑を防ぎつつ進めるために、当時としては新しい株式会社制度を活用するという、一種のシステム化を工夫したこと」
「第五は、港湾都市であり、港湾関連の産業をもって、経済変動の振幅がとりわけ大きいことによって、このような難題が結果的には市民生活の安定、福祉向上についてのきわめて特徴的なとりくみ方を創出することとなったこと」
をあげており、とくに第二のなかで
「すなわち兵庫という古くからの人口二万五千の都市の東に、開港場を中心とする新しいまちづくりが始められた時、旧湊川(今日の新開地)と宇治川との間、当時の坂本村など新旧地域の中間地域をこれからの都市の中核として、ここに次々と公共的施設を設置するという工夫をした。このことは神戸の歴史の中で印象深い部分のひとつである」・・・・それを伊藤俊輔は実行した。・・・と(※7:「海鳴りやまず」の開港と伊藤博文参照)。
当時まだ、27歳の青年がやったことである。立派なものだ。それを讃えて神戸には、伊藤町(いとうまち)の名も残っている。
又、JR神戸駅から楠正成を祀る湊川神社を北上すると大倉山公園と呼ばれるところがある。名称は、明治維新の動乱の中で御用商人として活躍し一代で財閥を築いた大倉喜八郎が、日清戦争後、安養寺山の約八千坪の土地を買い取り広大な別荘を建てた後、神戸市に寄贈したことに由来している.(※8参照)。
当時の安養寺山は松の木が繁り、瀬戸内海や淡路島が望めたそうだ。しかし、この景勝地に建てた別荘に、喜八郎自身はあまり滞在せず、彼と懇意であった伊藤博文が、「昼夜涼風不断、神戸第一の眺望且避暑地に有之」と専ら利用していたという。
その伊藤博文が、明治42年(1909年)ハルピンで射殺され、喜八郎は、伊藤が愛したこの地に彼の銅像を建てて公園として市民に解放する条件で、土地と別荘を神戸市に寄付した。2年後の明治44年10月銅像が建設され、大倉山公園が開園。
湊川神社に立っていた伊藤博文の銅像が明治38年、日露戦争の講和に不満の暴徒に持ち去られていたものを大倉山のシンボルとして再建したものだ。彼の銅像台座には階段状ピラミッドのモチーフが使われている。そして伊藤博文の銅像台座のモチーフは、彼が初代内閣総理大臣であったことから、国会議事堂の屋根の形に採用されるまでになる。
銅像は戦時中に供出されて今はないが、銅像の台座と大倉山の名称が当時を偲ばせている。

上掲の画像は、在りし日の大倉山公園の伊藤博文の銅像(絵葉書。年代不明)である。


参考:
※1:兵庫県HP:歴史資料
http://web.pref.hyogo.jp/pref/cate3_642.html
※2:神戸市HP:神戸港の歴史
http://www.city.kobe.lg.jp/life/access/harbor/rekishi.html
※3:初代兵庫県知事 伊藤博文寓居跡
(Adobe PDF)
http://osaka-siseki.cocolog-nifty.com/blog/files/vol.2-2006-5-21-6.pdf#search='%E4%BC%8A%E8%97%A4%E5%8D%9A%E6%96%87+%E6%A9%8B%E6%9C%AC%E8%8A%B1%E5%A3%87'
※4:神戸の歴史とその歩み:神戸の歴史とその歩み: 「神戸」という地名の由来について
http://haikara.kimec.ne.jp/01/001.html
※5:神戸元町商店街>HISTORY:洋学伝習所
http://www.kobe-motomachi.or.jp/cont08/cont08-165.htm
※6:情. 初編 巻之1貧院 - 近代デジタルライブラリー - 国立国会図書館
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/761234/42?tocOpened=1
※7:海鳴りやまず
http://singetu.ddo.jp/uminaritamazu/
※8:神戸市:KOBEの本棚 第20号
http://www.city.kobe.lg.jp/information/institution/institution/library/bunkodayori/hon_20.html

お掃除の日

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日本記念日協会(※1)の今日5月30日の記念日に「オーガナイズの日 」というのがあった。
由緒を見ると、「片付けや整理、収納が楽になる仕組みづくりである「ライフオーガナイズ」を普及させることを目的に、一般社団法人日本ライフオーガナイザー協会(※2)が制定。
オーガナイズ(organize)とは住居・生活・仕事・人生などのあらゆるコト、モノを効果的に準備・計画・整理することで、アメリカでは以前から認知されている概念。日付は5と30で「ゴミゼロ」と読む語呂合わせと、一年で最も片付けや整理に適した季節であることから。」・・・・とあった。
よく判らないので、同協会HPを覗いてみると、同社「理念」には、
「もっと楽に、もっと生きやすく 」
ライフオーガナイズにより、捨てるからはじめない心地いい暮らしづくりを応援する
ライフオーガナイザーを職業として確立することにより、日本人の幸福度を向上させる」・・・とあった。
どうやら、オーガナイズや整理収納の仕事を職業としようとする人たちに協会認定のライフオーガナイザーの資格者養成講座等を開催しているところらしい。
又、日本記念日協会の今日・5月30日の記念日には、「お掃除の日」もあった。
由緒を見ると、「5月30日で530(ゴミゼロ)の語呂合わせから、関東地方知事会空き缶対策推進委員会が1982 (昭和57)年に設けた日。また、日本電機工業会のお掃除を見直す会でも、1986 (昭和61 )年から同様の日を設定している。空き缶公害や梅雨時に向けて掃除の大切さを呼びかける。」・・・とあった。
5月30日は、その後、「530(ゴミゼロ)の日」として、1993(平成5)年に厚生省(当時)が制定したごみ減量化推進週間の初日とされている。
当初は空き缶の持ち帰り及び不法投棄防止の呼びかけと一斉清掃の実施を呼びかけていたが、社会情勢の変化から廃棄物の再生利用(リサイクル)推進の啓発も併せて行われるようになったようだ。

物余りの昨今、家には物が溢れている。最近、テレビなどで、よく、余り使用しないもの(使用頻度の少ないもの)などは捨ててしまうなどして、家の中をすっきり整理し、居住空間を広げて快適な生活をしようといった女性の整理屋さんのような人が、TV番組などでよく紹介されているが、あのような整理の専門家をライフオーガナイザーとか云うのだろうか・・・?
なにか、あのような整理屋さんたちなどにかかると、普段余り使われていないものは、まるでごみのように扱われているが、私の家など、そんなごみといわれるものに埋もれているという感じ・・・。
私の趣味で苦労して集めたコレクション類などでも、家人や息子:孫達に言わせれば、まるで塵(ごみ)扱い、買うときは高い値で買った骨董品類にしても、売るときは余程の価値あるもの以外は二束三文の屑物扱いで買われてしまう。残念だが、私が死ぬまでには、整理して、売れるものは売ってあとは塵(ごみ)として処分するしかないのだろうね〜。骨董品とかコレクション類はそうして処分されてゆくから年数がたつほどに価値は上がるのだがね〜。
空き缶の不法投棄など、最近の日本人は、マナーも悪くなって、何でもかんでも、ポイポイと町や川などどこにでも捨てる人が多くなっている。
そのようなことで、今日は何を書こうかと迷ったが、これらいずれにも共通する課題お掃除(「 お掃除の日」)について書くことにした。

掃除は、ある対象からゴミや汚れを取って綺麗にする事で清掃とも言われる家事労働のうちの一つでもある。
昔からといっても文献に見られる江戸時代の掃除は、水拭き、(ほうき)かけと現在と同じようであった。
商家や町屋では、毎朝必ず掃除をしたが、農家では毎日ではなかったようだ。箒は,屋内用、土間用、庭用と三種類に分かれていた。(わら)、もろこしほうき草href=http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BA%A7%E6%95%B7>は、座敷用、スベ(藁の芯)、棕櫚(しゅろ)などが土間用、竹は庭用とされていた。
箒売りなども来たが、長屋や農家では柄のつかないものが使用されたようで竹やほうき草を束ねたものを自分で作り、背をかがめながら無理な姿勢で掃除をした。はたきも現在と同じであるが、使う部分は使い捨ての和紙を縦に細く切って束ねて作った。
●冒頭の画像は、黒川真道著、西川祐信画、『日本風俗図絵』(大正3-4年)の中の『絵本鏡百種』に見られる雑巾拭きの光景である。この中で、『影映る鏡のがごとく磨きなさい』・・と言っている。拡大画像等は以下参考※3:「近代デジタルライブラリー 『日本風俗図絵』の第4輯のコマ番号100にて見ることが出来る。
『日本風俗図絵』第4輯

●上掲の画像は山東庵京山著、 香蝶楼国貞画『大晦日曙草紙』の煤(すす)払いの様子。
江戸では、師走13日が大方の煤払いの日であった。大きな商家では出入りの鳶職などの職人の手を借りて大がかりな煤払いを行う。この図は家じゅう総動員で働く様子を描いている。画像は、参考※4:「早稲田大学図書館 古典籍総合データベース-大晦日曙草紙. 初,2-25編」の右から3冊目九ヨリ十二(十二編下の巻)90カットで見ることが出来る。
編山東庵京山著、香蝶楼国貞画大晦日曙草紙. 初,2-25 3冊目九ヨリ十二

この画には作業用のさまざまな服装が描かれているが、女たちはいずれも姉さんかぶりに襷(たすき)がけ、粗末な着物を着て煤払いに精を出した。間食には甘い餅が出されたようだ。掃除が終わると手伝い人一同に馳走を出すが、食事は下の図(参考※5:「東京都立図書館:江戸東京デジタルミュージアム」の江戸の催事記>[ 冬(10月〜12月) ]に掲載の三代歌川豊国(=初代歌川国貞)画『冬の宿 嘉例のすゝはき』)のように、手軽な握り飯、煮しめ、そばなどが準備されたようである。最後には、その家の主人の胴上げをして〆たとも・・・。
この画像の拡大図は以下のページの[ 冬(10月〜12月)]のところで見ることが出来る。
江戸東京デジタルミュージアム:江戸の催事記

また、伝統的な煤払いの際には、『大晦日曙草紙』図の畳に立てかけてあるような大型の箒が笹や藁などで新調され、天井をはじめとした家屋の構造物、器物の掃除などにハタキのごとく用いられ、役目が終わった箒は、川に流されたり小正月のときに燃やされたりした。

思い起こせば、子供の頃、私が通っていた神戸の中学校は、六甲連山須磨アルプスの麓にあり、たしか有馬男爵屋敷跡に建てたと聞いている(同中学校の校庭近くに有馬家墓所もある【※6参照】し、有馬 頼咸の八男有馬頼多は分家し、男爵に叙せられたというが・・・これがそうであるとの確証はない)。ただ、校庭の庭には築山や小川が流れており、桜他、色々多くの種類の木々が周りの山と一体になって植えられており、校庭だけ見ていると、とても学校とは言えない素晴らしい庭園と言えるものであった。しかし、そのため運動会のできるようなスペースのグラウンドがなく、運動会は毎年市民球場を借りてしていた。
そして、自慢の校庭の枯れ木の掃除や夏場の水やりなどの手入れは、学生が交代でしなければならなかった。また、同校校舎は、学舎としては2階建ての木造建物が2棟あったが、学舎には靴を脱いで上がらなけれなならなかった。この廊下の手入れも又、生徒が交代で担当し、『絵本鏡百種』に見られる雑巾拭きのごとく、ピカピカに磨き上げられ、廊下を走ったりしようものならよく足をすべらせてひっくり返ったものであった。
春など前に小川のせせらぎのある築山の桜の木の下で昼の弁当を食べたり、季節によっては隣接する山の中にちょっと入るとヤマブドウの実や野イチゴなども採れ、掃除の苦労など忘れさせてくれた。都会の中学校にいながらまるで、別天地にいるようであった。
このような、雑巾拭きや、ハタキがけ、箒での掃除は、私たちが若い頃は原則、毎日のようにしていた。昭和30年代初め、私が大阪の商社にに入ったころ等、男子でも新入社員は交代で、毎朝出勤すると自分たちの課の全テーブルなどをぞうきん掛けするのが日課になっていた。
れっきとした一流の商社であったが、伝統的な習慣を大切にし、仕事場は、きっちりと清掃した後仕事を始めるのが当然と考えられていた。床などの清掃は夜のうちに業者がしているので、仕事のためのテーブルぐらいは自分たちで毎朝清掃しろということであった。

掃除(そうじ)は、ある対象から(ほこり)やゴミなどによる汚れを取って綺麗にする事で,清掃とも言われる家事労働のうちの一つでもあったが、年末などに行われる大掃除と呼ばれるものは、一年分の汚れを除去し、新たな年に歳神を迎える準備をし、新年を新たな心持ちで始められるようにする意味がある。
近年は掃除用具の多岐や高機能化により、掃除も楽になり、また、日頃から多くの場所を掃除できるようになったためか、大晦日前の住宅街などでも、私たちが若いころ見た家族総出の大掃除風景も見られなくなり、大掃除をしない家庭も増えてきた。これは常に掃除し、汚れをすぐに綺麗にしておけば大晦日前に慌てて掃除をする必要はないという考えによるものだろう。
今、学校での「掃除教育」が脚光を浴びているようだ。小学校で児童が掃除に1日に15分ほど取り組む。しかし年間で考えると約60時間になり、1つの教科に相当する時間になるとのこと。
糞尿や雑菌の繁殖元、動植物の遺骸などは「きたないもの」として忌避すべきことは幼少のきわめて初期に教育されるが、一方で「触れたくないもの」「忌避すべきもの」を適正に処置したり管理することは社会的協調性を獲得する手段として重要なことであり、その体験を通じて自己育成させてゆくことも教育目標としてあってよいことだと私は思う。
いま、学校における校舎・教室の掃除を、単なる清掃技術の習得だけではなく、ものを大切にする意識や仲間と協力する気持ちを養い、道徳感美意識の醸成にも繋がる重要な活動とされているようだ。
このような、学校の生徒が毎日学校を掃除している国は日本はじめ韓国、中国タイ、インドなど仏教的な思考を持つ国が多いようで、仏教の教えからくる掃除をすることによって自分を磨く・心を磨く意味で、掃除をするということを修行(教育)として考えていたことによるようだ。(※7、8参照)。

釈迦の弟子の一人(また十六羅漢の一人でもある)で、釈迦の弟子中、もっとも愚かで頭の悪い人だったと伝えられている周利槃特(チューラ・パンタカ)の以下のような話がある。。
兄・摩訶槃特(マハー・パンタカ)が資質聡明なのに対し、周利槃特は愚かであったといわれるが、その因縁は、過去世の昔、彼は迦葉仏(かしょうぶつ)という如来が出世された時、賢明な弟子であったが、迦葉仏の説法を暗誦できなかった他の比丘を嘲笑した業報(前世や過去におこなった善悪の行為による報い。果)により、釈迦如来の出世の時には、愚鈍に生れついたといわれる。
仏弟子となったのは兄・摩訶槃特の勧めであるが、四ヶ月を経ても一をも記憶できず、兄もそれを見かねて精舎から追い出し還俗せしめようとした。
釈迦仏はこれを知って、彼に一本の箒(あるいは一枚の布とも)を与え、東方に向かって、「塵や垢を除け」と唱えさせ、精舎(もしくは比丘衆の履物とも)を払浄せしめた。彼はそれにより、汚れが落ちにくいのは人の心も同じだと悟り、ついに仏の教えを理解して、阿羅漢果を得たとされている(参考※9,、※10も参照)。
菷は掃除の道具ではあるが、日本では祭祀等にも用いられてきた神聖な道具でもあり、又、日本の庶民の間においては菷神(ははきがみ・ほうきがみ)という神が宿るとされた。
菷神は産神(うぶがみ)のひとつである。掃除の行為である「掃き出す」ということが出産と結びついたためといわれるが、古名である「ははき」が「母木」に通じるところからともいわれる。また箒の形が依代(よりしろ。神道において神事の際に一時的に神が宿るもの。たとえば榊の束)に似ているために信仰対象になったともいわれる(詳しくは参照)。
昔は、家庭でも毎日のように掃除がされ、掃除の大切さなどは親からも教えられてきた。しかし、最近は、エアコンなども整備され部屋の環境は昔に比べてよくなり、毎日家庭で掃除をしているところも少なくなったし、同時に、、掃除の大切さなど教えている家庭も少なくなっただろう。
それに、家庭用の掃除道具の改良などによって箒や雑巾などの扱いに慣れていない子どもが増えたことに教員の多忙化も重なり、しっかりとした掃除の指導が行われているとは言いがたい現状から、清掃関係のいろいろな企業も掃除指導に協力しているようであり、例えば、今では清掃業務を中心に、外食産業なども展開しているダスキンは小・中学校における掃除教育の独自の「掃除教育カリキュラム」を開発し、教員向けのセミナーや学校への出張講義もしているようだ(※11参照)
Wikipediaによれば、「ダスキン」は、英語の「ダストクロス(dust cloth)」と日本語の「雑巾」の合成語だそうで、当初は「株式会社ぞうきん」という社名にしたらどうかという提案も創業者の鈴木清一から出たといわれるが、社員の「人に言いにくい」「嫁が来ない」などの反対により、この社名になったという。これに対して、鈴木は、「自分が汚れた分だけ人が綺麗になる『ぞうきん』で何が悪いのか」とも言ったといわれる。
もう一つの説は創業者の経営理念『喜びのタネをまこう』(ダスキン経営理念)の中にある一節、「新しく生まれ変わるチャンスです」=「脱皮」から脱(だ)+皮(スキン)=ダスキンになったとも言われている。・・・そうだ。
業績を上げている優良企業は、立派な経営理念を掲げ、その理念達成の為に全社員が一丸となって行動している企業である。私が現役時代務めていた企業も同様で経営理念追求の為に全社挙げて行動してきたお蔭で、地方の一中小企業が、東証一部上場を果たし、今ではその業界で日本を代表する企業となり、国際化の波に乗って世界のトップ企業を目指して行動している。
優良企業とそうでない企業との差は、理念や政策を掲げているだけではなく、どれだけ全社挙げてそれに取り組んでいるかであろう。要するに、企業の経営理年、政策の徹底度と行動力で差が出てくるものである。ここのところ、日本の政治がうまくゆかないのも、ただ念仏を唱えているだけで、本気でやる気がないから出来ていないだけのことだろう。

近年、社会では「ノーマライゼーション(normalization)」の理念が普及しつつる。
ノーマライゼーション」とは、人々が社会生活を送るうえで障がい者や健常者など区別をされないことが本来のあるべき姿であり、そうした社会の実現を目指す取り組みなどをいう。
こうした考えを後押しする形で2004(平成16)年には障害者基本法が一部改正され、その後、障碍者自立支援法が成立した。
これに合わせて2007(平成19)年には学校教育法が改正され、従来の養護学校から特別支援学校へと名称が変更となり、教育内容も「特別支援教育」が学校教育法に位置づけられ、現在、「特別支援教育」の一環としては、様々な職種が職業教育(作業学習、「キャリア教育」)として取り入れられているようだが、「清掃作業」もその中の一つとして採用されているようだ(※12参照)。
そして、経済産業省は、文部科学省、厚生労働省との共同主催により、「キャリア教育」の推進に向けたシンポジウムを開催して、産業界による優れた教育支援活動を表彰。最も優れた取組には、経済産業大臣賞が授与されている。
そのような流れの中で、清掃業務を専門としているところが、特別支援教育に従事する教員のほか、民間企業で障がい者を雇い入れた際の参考となるよう支援活動をしており、※12の東京ビルメンテナンス協会も特別支援教育「清掃マニュアル」を発刊しているようだが、ダスキンは、第4回キャリア教育アワードで活動名「学校掃除教育支援活動~みんなでつくろう キレイをいっしょに~」により【優秀賞】(大企業の部 )を受賞している(※14参照)。
また、環境整備の技術を高めることと、良い習慣づくりをすることを目的」としてつくられた日本そうじ協会(横浜市 今村暁理事長※15参照)が、全国で「掃除教育」「おそうじ教室」を広めており、同協会が「おそうじの全国大会」なども主催している。
同協会では『掃除道』を掲げており、同教会は「社会的意義」の中で以下のように書いている。
「掃除に関わる認定講師」を増やすということは、世の中で掃除教育の啓蒙活動をする人が増えるということです。その結果、掃除に対する意識が高い人が増え、生活習慣が改善され、個人も組織もより豊かな未来につながっていくことでしょう。

自分の部屋を掃除すると、自分が輝く。
家を掃除すると、家庭が輝く。
職場を掃除すると、職場が光り輝く。
地域を掃除すると、地域コミュニティが光り輝く。
街を掃除すると、街が光り輝く。
国を掃除すると、国が光り輝く。

この連鎖によって、個人も家庭も職場も街も国も、キレイであたたかくなることでしょう。」・・・と(ここ参照)。

この言葉を聞いた気のする人は結構いるかもしれませんね。私は、この言葉を聞いて、私の良く知っている、ある地方の食品スーパーマーケットチェーンストアー。今は上場会社)の創業社長がいつも口癖のように言っていた『ヒンズー教の教え』を思い出した。その教えは以下のようなもの。

『心が変われば、態度が変わる。
態度が変われば、行動が変わる。
行動が変われば、習慣が変わる。
習慣が変われば、人格が変わる。
人格が変われば、運命が変わる。
運命が変われば、人生が変わる。』

幸せのヒントは、「まず心を変えることから」始めなさい。そうすればこの連鎖によって、あなたの人生も良い方向へ変わってゆきますよ・・・という教えである(※16:名言から学ぶ幸せのヒントのここ参照)。
幸せには、幸せであろうと、一生懸命努力した人がなれるもの。汗をかく努力もせずに
一攫千金を夢見るような人に本当の幸せは来ないだろう。
私の知っている先にも述べたスーパーの社長は、店の清掃には非常にうるさかった。特に客用の便所の掃除は「客が便器内に10円玉を落としたら何のためらいもなく拾えるようにピカピカに磨け」と指示し、ひどい汚れがなくても、1日3回以上は当番制で掃除をさせていた。
そして、客用のトイレは、営業終了後店舗入口を閉めていても、店の前を通った人がいつでも使用できるように店舗外側に設置するようにしていた。細かな気遣いである。
トイレの掃除と言えばトイレ掃除を歌って大ヒットした歌があったね。

「トイレ掃除だけが苦手な私に
おばあちゃんがこう言った

トイレには
それはそれはキレイな女神さまがいるんやで
だから毎日キレイにしたら
女神さまみたいにべっぴんさんになれるんやで」

植村花菜トイレの神様」の歌詞の一部である(歌詞は以下参考の※17参照)。
以前このブログで、天台密教台密)において五大明王の一尊とされている烏枢沙摩明王(うすさまみょうおう)や濱口國雄(国鉄詩人連盟 詩人)作詞「便所掃除」(※18参照)など紹介しながら『トイレの神様』について書いたが、不浄とされている便所を綺麗に掃除すればその大きな功徳(普遍的に意味のある善行為結果)として、心の浄化と共に、不浄なものをすべて取り去り、清浄な心と、体を得る事が出きるのだという仏教の教えは、十分に納得の出来る教えであり、昔から、お寺などでは、トイレ掃除はとても大切な仕事として修業僧のトップが率先してやってきたことだと聞いている。
私と家人の見合い話を持ってきてくれたのは家人の叔母であったが、その叔母とわたしの母は親友で、その叔母が私の家へ来た時にはいつでも、玄関に入り挨拶をした後は、いきなり「はばかり」をお借りしますと便所に行っていた。「便所}とあからさまに口にする ことが「はばかられる」ために昔の人は「はばかり」という人が多かった。家人の叔母も古いタイプの人間であり、まず不浄とされているトイレがいつでもきれいに掃除されてているかを点検していたようである。
私の母も三井本家で花嫁修業などして来てるので、そのようなことはしっかりとしていたので、そんな母親に育てられた子と言うことで自分の姪の結婚相手に私を選んだのだろう。
そんなトイレの掃除を率先して企業が行ったのは、1987(昭和62)年4月、国営の国鉄が法律によってJR7社に分割・民営化された時である。JR各社がまず取り組んだのが、利用客に対する挨拶とトイレの清掃であった。此の時以来多くの会社がJRを見習えと会社のトイレ掃除を徹底するようになった。
もう27年も前のことである。もし、いまだに出来ていない会社があったら、そんなところはいつまでも存続するのは難しいだろう。
部屋は、心の状態を映すもの。物を捨てられないことの背景には、人間関係で悩んでいたり、過去のことが潜んでいたりすることがあるようだ。以下で、掃除のこといろいろ取り上げている。参考にされるとよい。
掃除 - NAVER まとめ


参考:
※1:日本記念日協会
http://www.kinenbi.gr.jp/
※2:一般社団法人日本ライフオーガナイザー協会
http://jalo.jp/
※3:近代デジタルライブラリー 日本風俗図絵
http://kindai.ndl.go.jp/search/searchResult?searchWord=%E6%97%A5%E6%9C%AC%E9%A2%A8%E4%BF%97%E5%9B%B3%E7%B5%B5&facetOpenedNodeIds=1%3A00&filters=1%3A00%7CK%3A%E9%BB%92%E5%B7%9D
※4:早稲田大学図書館 古典籍総合データベース-大晦日曙草紙. 初,2-25編
http://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/he13/he13_03049/index.html
※5:「東京都立図書館:江戸東京デジタルミュージアム」
http://www.library.metro.tokyo.jp/Portals/0/edo/tokyo_library/index.html
※6:川上地蔵 : 散策とグルメの記録
http://seiyo39.exblog.jp/tags/%E5%B7%9D%E4%B8%8A%E5%9C%B0%E8%94%B5/
※7:学校だより
http://www.hatsukaichi-edu.jp/miyauchi-e/data/h2509gakkoudayori.pdf#search='%E6%8E%83%E9%99%A4+%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E6%95%99%E8%82%B2%E3%81%AE%E4%B8%80%E7%92%B0'
※8:学校掃除も大切な学習時間! 掃除教育の広がり - 明治図書出版
http://www.meijitosho.co.jp/eduzine/kaigi/?id=20100177
※9:法話:周利槃特
http://www.gujo-tv.ne.jp/~tyouzenji/syurihanndoku.htm
※10:松下幸之助はなぜ掃除を勧めたのか - PHPビジネスオンライン
http://shuchi.php.co.jp/article/908
※11:掃除教育カリキュラム | 学校教育支援活動 | 株式会社ダスキン
http://www.duskin.co.jp/torikumi/gakko/curriculum/soujikyouiku/
※12:東京ビルメンテナンス協会―特別支援教育「清掃マニュアル」を発刊(Adobe PDF)
http://www.tokyo-bm.or.jp/syougaisya-jigyou/pdf/sienseisou.pdf#search='%E6%8E%83%E9%99%A4+%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E6%95%99%E8%82%B2%E3%81%AE%E4%B8%80%E7%92%B0+%E3%83%8E%E3%83%BC%E3%83%9E%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%82%BC%E3%83%BC%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%B3'
※13:キャリア教育(METI/経済産業省)
http://www.meti.go.jp/policy/economy/jinzai/career-education/
※14:キャリア教育アワード
http://www.career-award.com/
※15:掃除道 日本そうじ協会
http://www.soujikyoukai.jp/
※16:名言から学ぶ幸せのヒンート-幸せのホームページ
http://meigen.shiawasehp.net/
※17:トイレの神様 植村花菜 歌詞情報 - goo 音楽
http://music.goo.ne.jp/lyric/LYRUTND88524/index.html
※18:詩  便所掃除-住職日記
http://www.hasedera.net/blog/2011/01/post_256.html
国際障害者年
http://tamutamu2011.kuronowish.com/yougoipaan4.htm
トイレの日 - 今日のことあれこれと・・・
http://blog.goo.ne.jp/yousan02/e/9ce2dd8787ae63efb361b716dae81188
トイレの神様-今日のことあれこれと・・・
http://blog.goo.ne.jp/yousan02/e/33241d32c5878b2d4773536feae09c4d

梅の日

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今年は暑くなったり寒くなったりと可笑しな天候続き。
秋・冬物から春・夏物への衣替えをしたついでに、非難用リュックの衣料品も春・夏物へと詰替えをし、リュックの中身だけではなく、防災用の備蓄用食料品等全ての賞味期限切れを点検していた時、今年2月の朝日新聞「天声人語」で『うめぼしの歌』なるものが皮肉たっぷりに紹介されていたのを思い出した。面白い記事は何時もスクラップを保存しているので、それを探すと以下のように書かれていた。

『うめぼしの歌』なるものを去年の小欄で紹介したら、懐かしむ御年配からずいぶん便りをいただいた。
花が咲き、実がなって漬け込まれ、保存食として役に立つまでをユーモラスにつづる歌詞だ。
その梅干しが、少し胸を張っているかもしれない
▼災害に備えた家庭の食料備蓄リストを農水省が作り、先ごろ公表した。
主食、主菜、副菜、その他に分けたうち、梅干しは初めは「その他」で影が薄かった。
それが副菜の最上位に昇格したという
▼絵つきで紹介される優遇には、主産地の和歌山県議らの働きかけがあったらしい。・・・と(2014年2月11日朝刊)。

『うめぼしの歌』の初出は、1910年(明治43年)発行の『尋常小学読本 巻五』だそう(ここ.参照)で、この詩に曲をつけ、一部詩を変えたり、続きができたりした歌が複数作られ、歌い継がれているようだ。

二月・三月花ざかり、
うぐひす鳴いた春の日の
たのしい時もゆめのうち。
五月・六月実がなれば、
枝からふるひおとされて、
きんじよの町へ持出され、
何升何合はかり売。
もとよりすつぱいこのからだ、
しほにつかつてからくなり、
しそにそまつて赤くなり、
七月・八月あついころ、
三日三ばんの土用ぼし、
思へばつらいことばかり、
それもよのため、人のため。
しわはよつてもわかい気で、
小さい君らのなかま入、
うんどう会にもついて行く。
ましていくさのその時は、
なくてはならぬこのわたし。

『梅干しの歌』(「尋常小学読本巻五」所収)
上掲の詩は、以下参考※1:「小さな資料室」の資料58 詩「うめぼし」(「尋常小学読本巻五」所収)に掲載のものを借用したものである。詳しくは、同HPを見てください。
1993(平成5)年9月までフジテレビで放送された幼児教育番組「ひらけ!ポンキッキ」では、関田昇介がこの詩を一部変更したものに曲をつけ、鈴木玲子の歌唱で放送されていた。
又、この詩を紀州 若梅会(紀州田辺梅干協同組合と紀州みなべ協同組合の合同の青年部会)が現代風にアレンジしてつくった『紀州バージョン梅ぼしの歌』が以下のものである。

2月3月花ざかり きれいに咲いたよ梅の花
うぐいす鳴いた春の日の たのしいときも夢のうち
5月6月実がなれば 枝からころがりカゴの中
タルの中に つけられて もとよりすっぱいこの体
おにぎり弁当 梅ぼし入れて おなかもからだも絶好調
朝からひと粒 梅ぼし梅ぼし やわらか梅ぼし 紀州の梅ぼし
ひと粒ふた粒 梅ぼし食べて みんな元気ね 健康ね〜
いつでもどこでも 梅ぼし梅ぼし〜
おいしい梅ぼし 紀州の梅ぼし〜

『紀州バージョン梅ぼしの歌』は2番まであるが、1番のみを掲載した。2番が知りたければ以下参考の※2のうめぼしのうた参照。
又、『紀州バージョン梅ぼしの歌』がどんな歌い方になるかは以下を参照。ここでは、「尋常小学読本巻五」所収のものに近い詩のものやポンキッキで歌われたものなども聞ける。比較して聞いてみるのも面白いだろう。

南部梅林PRムービー(うめぼしのうたバージョン).wmv - YouTube

花が咲いて実がなって、収穫されると、 塩につかり、しそにつかり、土用干しをして梅干しが完成・・・と、梅干しの作り方が、 海や山の遠足、運動会のお弁当としておにぎりの中に入れて食される。・・・と。その利用方法まで織り込んだ歌は口ずさみやすい七・五調のリズムに乗せて、梅干しを擬人化し、人生において華やかな時、艱難辛苦の時もあるが、苦労が報われる時もあるといった人生への応援メッセージが込められており、梅干しの産地のPR用にはもってこいの歌だ。
思い起こせば、私たちが子供の頃育った食糧難の戦後、昼食用の弁当と言えば弁当箱に詰めたご飯の真ん中に梅干し1つだけが入った日の丸弁当(見た目が日の丸に似ていることから呼ばれた)が普通だった。おかずは梅干だけ。それも毎日ゝ同じもの。だから当時使われていたアルマイトで造られた弁当箱など、同じ場所に梅干しを入れることを繰りかえした場合、酸によって蓋が溶けることがあったという体験をした人も多くいるのではないか。
農水省の公表している『緊急時に備えた家庭用食料品備蓄ガイド』(※3参照)を見てみた。そこには、

「梅干し  不測の事態が発生した場合には、不便な生活を強いられることから、例えば、塩類の補充、殺菌作用や疲労回復の効能が期待できる「梅干し」や、精神的ストレスを和らげ、エネルギー補給効果もある。チョコレート・ビスケットといった「おやつ」などを適宜、備えておくと良いでしょう。」・・・と、確かに、梅干しが副菜の最上位に掲載されている。
このガイドに絵つきで紹介される優遇には、「うめ(梅)には、食中毒予防、ウイルス増殖・感染抑制、疲労回復、食欲増進、熱中症予防、高血圧予防等様々な効能が認められており、災害に遭った場合の被災者等の健康保持効果も期待できる。…と言ったことから、天声人語で皮肉たっぷりに言っているように農水省への“主産地の和歌山県議らの働きかけがあったらしい”・・・という話も事実のようだ(参考※4参照)。
私も家人も梅は大好物なので、我が家では梅干しをそのまま食べるだけではなく、色々な料理に使っており、在庫を切らしたことはないのだが、この『家庭用食料品備蓄ガイド』 をみて、確かに梅干は日持ちもするし、保存食として常備しておくのによい(※5参照)と思い、改めて、非常用常備食として、もう少し多くの梅干を保存しておくことにした。

日本記念日協会には、今日・6月6日の記念日として「梅の日 」が登録されている。この記念日の登録をしているのが、和歌山県みなべ町など紀南の梅産地の各団体でつくる紀州梅の会でありこの日を中心として、産地の梅を全国の消費者に向けてPRしているようだ。紀州梅の会の『梅の日』の由緒(※2のここ参照)を見ると以下のように書かれている。

「今をさかのぼること460余年、日本中に晴天が続き、作物が育たず、田植えもできず人々が困り果てていた。
神様のお告げにより、後奈良天皇が京都の賀茂神社に詣で、梅を
賀茂別雷神に奉納して祈ったところ、たちまち雷鳴とともに大雨が降りはじめ、五穀豊穣をもたらしました。
人々は、その天恵の雨を「梅雨」とよび、梅に感謝するとともに、災いや疫病を除き、福を招く梅を梅法師と呼んで、贈り物にするようになったといわれています。
この話が、宮中の日記「御湯殿上の日記」に記されていたことから、紀州梅の会によって6月6日が「梅の日」と定められました。」・・・と。

この梅の日の設定にちなんで、和歌山県日高郡みなべ町清川の紀州薬師乃里が、京都賀茂神社献上梅園に認定され、2006(平成18)年から、紀南地方の梅関係団体でつくる「紀州梅の会」が、賀茂神社(上賀茂神社下賀茂神社)へ青梅(梅干用の梅は少し完熟しかけのもの。青梅は主にジュース、梅酒等に使われる完熟前の青い梅)や梅干の奉納を続けているようだ。
そして、梅干の効能を、子どもにもわかりやすく伝えようとゆうこと『おにぎりになった梅法師』『うぐいすになった梅法師』といった絵本もつくられているようだが、この絵本は、梅干を加工・販売している紀州薬師梅? の社長であり、みなべ町清川 本誓寺の和尚でもある、地元では梅干和尚として有名だという赤松宗典氏が、みなべ町内のイラストレーター松下恭子さんと協同で作ったものらしい。どうも、『梅の日』の最初の提案者もこの赤松氏の様である(※6:森本ゆうの【紀州ほんまもん経営者】の■紀州の梅干 紀州薬師梅? 赤松宗典さまvol.1,vol.2 のところ参照)。
下の動画は、上賀茂神社・下鴨神社への献上紀州梅道中の様子。献梅使を始め、先導されている和尚さんも、行列に参加されている人々は皆、紀南地方の梅加工を営む会社の社長さんや社員など、梅の仕事に携わる人々だそうだ。

『紀州梅の会』 6月6日 上賀茂神社 梅の日の行事、その? - YouTube
下鴨神社 献上紀州梅道中 2012年6月6日 梅の日 記念行事 ... - YouTube

以下は、絵本『おにぎりになった梅法師』と『うぐいすになった梅法師』を見ることが出来る。
おにぎりになった梅法師 - YouTube
第2話「うぐいすになった梅法師」

紀州梅の会には「梅を賀茂別雷神に奉納して祈ったところ、たちまち雷鳴とともに大雨が降りはじめ、五穀豊穣をもたらしました。」とあるが、その真実については、『御湯殿上の日記』を私は読んでいないのでよく判らない。
加茂神社とは、賀茂別雷神社(上賀茂神社)と賀茂御祖神社(下鴨神社)の2つの神社の総称であり、ともに古代氏族の賀茂氏氏神を祀る神社であり、上賀茂神社の祭神・賀茂別雷大神(かもわけいかづちのみこと)の「別雷」は「若雷」の意味で、若々しい力に満ちた雷(神鳴り)の神という意味。つまり、神名の「ワケ」は「分ける」の意であり、「雷を別けるほどの力を持つ神」という意味であり、「雷神」というわけではない。
又、下鴨神社は、賀茂別雷命(上賀茂神社祭神)の母である玉依姫命の父の賀茂建角身命を祀るため「賀茂御祖神社」と呼ばれている。
そのため、下鴨神社の祭神は、東殿で、賀茂別雷命(上賀茂神社の祭神)の母玉依姫命 を、西殿で、玉依姫命の父賀茂建角身命をお祭りしている。
農耕民族にとって水は最も重要なものの一つであり、水の状況によって収獲が左右されることから、日本においては水神田の神と結びついた。
下鴨神社のことは以前このブログ「みたらしだんごの日」で詳しく書いたが、そこでも書いたように、下鴨神社境内の(糺の森賀茂川高野川の間に挟まれるように広がっていることから、この森は「河合の森」とも呼ばれている。
この糺の森に御手洗川の源泉となる霊水が沸き神の池とされている御手洗池(みたらしのいけ)の上に建つ・井上社(通称:御手洗社)に祀られている瀬織津比売命祓神かつ水神で、罪、穢を祓い除く神である.ことから、井上社の夏越の例祭として、土用の丑の日に、御手洗祭(みたらしまつり)が行なわれ、御手洗川に足を浸し無病息災を祈願してきたという。
後奈良天皇が祈願したのがこの井上社に祀られている瀬織津比売命だとすると私にはよく判るのだが・・・。いや、ただ、普通に祖霊神への祈願ということだったのだろうか・・・・?。
また,祈願して、「その天恵の雨を「梅雨」とよび、梅に感謝するとともに、災いや疫病を除き、福を招く梅を梅法師と呼んで、贈り物にするようになったといわれています。」・・とあるが、なにか、ここに出てくる「梅法師」は、紀州では梅干和尚として有名だという赤松氏が作った童話の絵本『おにぎりになった梅法師』に出てくる梅(梅法師)の様だ。
童話では、「紀州の美しいお姫様が都で鬼がひどいことをしているのを知って熊野神様にお参りし、お祈りしていると、3本足の神様のカラスが梅の種をくわえてきた.。その種を蒔いて出来た梅を干して、できた梅を6月6日に都に運ぶと鬼が邪魔しに出てくるが嫌いな梅を見て逃げてしまう。都人は其の梅干を食べて病気が治る。そして、姫が持ってきたうめぼしを「梅法師」とよんだ」・・・といった内容だ。
日本神話で、神武東征の際に、高皇産霊尊によって神武天皇のもとに遣わされ、熊野国から大和国への道案内をしたとされる3本足のカラス・八咫烏は、賀茂御祖神社(下鴨神社)の祭神賀茂建角身命の化身だとされている。
童話が、この話と、梅干しとを結び付けて作ったPR用の話だとすると、『梅の日』の由緒も、なにかよくできた作り話・・・て感じがするのだが・・・。
また、「人々は、その天恵の雨を「梅雨」とよび・・」とあるが、気象庁の用語説明では、梅雨は、「晩春から夏にかけて雨や曇りの日が多く現れる現象、またはその期間」とし、梅雨入りは「梅雨の期間に入ること。」といった曖昧な表現になっている。
その上で、先日今年の梅雨入りを発表している(※7)が、今年は地域により例年より2〜7日早く、近畿の場合(代表地点大阪)、梅雨入りは6月4日頃で、平年は『梅の日』と同じ6月6日か7日ぐらいなので3日〜4日位梅雨入りが早いことになる。
しかし、「梅雨入り」「梅雨明け」について、実は明確な定義はないようだ。これはあくまでマスコミ用語であるらしい。
一応、「だいたいこうなれば梅雨」と言った曖昧な決まりはあるが、「曇り、又は雨が1週間以上続くと予想された時、梅雨入りとなり、梅雨明けは晴れが1週間以上続くと予想された時」 ・・・としている。気象庁もこのような判断で発表しているようだがそれは確定ではなくあくまで予測であり、発表も○月○日頃。と「頃」の字をつけており、確かな梅雨入り梅雨明けはその後になって発表されるのが常である。
何故梅雨になるかと言うと、北にある冷たい空気(オホーツク海気団)と、南にある暖かい空気(小笠原気団)とが衝突すると、そのぶつかった部分(梅雨前線)に雲が発生しやすくなり、その結果として、雨が降りやすくなる。. やがて小笠原気団の勢力が拡大すると、オホーツク海気団とともに梅雨前線が北へ追いやられ、梅雨明けとなる。
ただ、この梅雨前線の動きを予想する事は、現在の科学をもってしてもかなり難しく、そのため梅雨入り、梅雨明けを気象庁は正式に発表しないのである。
しかし、昨日2月5日、民間のTBSテレビの天気予報では、気象庁は早々と梅雨入り宣言しているが今年は梅雨入りは遅れ気味だと言っていた。
その理由は、現在、北の寒気が入りやすい状態で、その影響により南にある梅雨前線が日本に近づけなくなっており、前線はまだ日本の南の位置にある。来週、後半になると南にある気圧が高くなるので、前線が押し上げられ、梅雨入りが近づきそうだ。梅雨入りが遅れると梅雨明けも遅れる傾向なので農作物などにもしかしたら影響があるかも知れない・・・と(※8参照)。以下で寒気予想が見られる。
?吉田産業海洋気象事業部[天気」HP

この梅雨、日本だけに起こる「独特なもの」と思われがちだが、朝鮮半島南部、中国の華南華中の沿海部などでも起こる特有の気象現象で、あり、逆に日本でも北海道には「梅雨」はない。
日本では「梅雨」と書いて「つゆ」と読むが、それはなぜか?
やまとことばの「つゆ(梅雨)」は、「つゆ()」に由来する。露は草木の葉などにできる水滴のことである。梅雨は梅の実のなるころに降る雨。
梅は中国の四川省から湖北省あたりが原産地であるが、中国語でも「つゆ」は日本語と同じ「梅雨」と書く。ただし発音は「バイウ」ではなく、「メイユー」。中国では古くは黴(かび)の生えやすい時期の雨という意味で、もともと「梅雨(ばいう)」と同音の「黴雨(ばいう)」と字が当てられており、現在も用いられることがあるという。
梅は中国文化とともに薬木として渡来したものらしい。奈良時代以前には日本ですでに植栽されていたという。おそらく「梅雨」という語もこのころに中国から入ってきたらしい。
日本歳時記』には「此の月淫雨(いんう)ふるこれを梅雨(つゆ)と名づく」とあるらしい(※9参照)。
「淫雨」・・・「淫らな雨」と書くが、「」の字には「物事に深入りする」とか「度が過ぎる」という意味もあることから、度が過ぎて長期間にわたる雨という意味らしい。度を過ぎて長期間雨は降ると黴(かび)も生えるだろう。
黴の生える時期の黴雨(ばいう)というよりも、梅の実が熟す頃に降る雨だから梅雨(ばいう)と書いて、「露(つゆ)からの連想で「つゆ」と読ませる方が語感も良く、きれいだよね。万葉人(万葉集に登場するさまざまな人々)ならそう考えると思うよ。しかし、他にも、「黴によって物が損なわれる「費ゆ(つひゆ)」に由来」「梅の実が熟して潰れる頃という意味の「潰ゆ(つゆ)」に由来」とする説もあり、梅雨の語源は判らないことが多いようだ。
こうして梅雨(つゆ)という言葉が定着したが、日本には素敵な梅雨時に降る雨には他にも素敵な異称がある。梅霖(ばいりん)」(「」とは「長々と降り続く雨をいう」。麦の実る頃であることに由来する「麦雨(ばくう)」、また、旧暦5月に降るので「五月雨(さみだれ)などの別名がある。五月雨は特によく知られているが、「さつきあめ」ともいう。
「さ」は旧暦の5月(現在の6月ごろ)をさし、「みだれ」は「水垂れ」という意味からとか・・・。きれいな言葉であるがこれもやまとことばである。
「五月雨を あつめて早し 最上川 」(奥の細道・最上川・松尾芭蕉。※10参照)
訳: 最上川(もがみがわ)は、五月雨を集めて勢いよく流れる。初案は「あつめて涼し」だったらしい。

「さみだれや 大河を前に 家 二軒 」(蕪村句集・与謝蕪村。※11参照)
訳: 水かさを増して濁流が迫る大河の岸辺に家が二軒、心細げに建っているよ。蕪村は俳人・画家であり、この句は「さみだれ」「大河」「家」を絵画的に構成した趣がある。

梅のPR用に『梅の日』を設定した和歌山県は日本一の梅の生産量を誇り(※12参照)、国内生産量の半分以上を占めている。中でも和歌山県日高郡にあるみなべ町は、日本一の梅の里として知られ、梅の代表品種として知られる「南高梅」発祥の地である(原種「高田梅」および地元にある「南部高校」の略称から生まれた名前だそうである)。また、青梅とともに、梅干しの生産は日本一であり、和歌山県全体の4割超を占めているという(※13参照)。
梅はもともと中国が原産であり、本来梅干は梅酢を作った後の副産物であり、利用法としてはこれを黒焼きにして腹痛の治癒・虫下し・解熱・腸内の消毒の効用を目的に、食用よりもむしろ漢方薬として用いていた。紀元前200年頃のものという馬王堆からも、梅干しが入っていたと考えられる壷が出土しており、これは日本に伝えられたものであるという。
平安時代には村上天皇が梅干しと昆布茶で病を治したという言い伝えが残っているそうだ(※14:「六波羅蜜寺」の年中行事参照)。
梅には多くの効能があるが、これからの梅雨時、食中毒の危険性も多いが、梅干しには食中毒を予防する働きもあることが分かっているという。
『梅の日』は、概ね梅雨入りの日もある。この機会に、一度、梅干しの効能等見直して見るのも良いだろう(参考の※5、※15参照)。


参考:
※1:小さな資料室
http://www.geocities.jp/sybrma/
※2:紀州田辺梅振興協議会HP
http://www.tanabe-ume.jp/
※3:緊急時に備えた家庭用食料品備蓄ガイド - 農林水産省
http://www.maff.go.jp/j/zyukyu/anpo/pdf/pdf/gaido-kinkyu.pdf#search='%E9%A3%9F%E6%96%99%E5%82%99%E8%93%84%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%88+%E8%BE%B2%E6%B0%B4%E7%9C%81+%E6%A2%85%E5%B9%B2%E3%81%97'
※4:「緊急時に備えた家庭用食料品備蓄ガイド」(備蓄食料品リスト)に「梅干し」-わかやま県政ニュース
http://wave.pref.wakayama.lg.jp/news/kensei/shiryo.php?sid=18790
※5:梅干しの栄養、効能効果-健康に良い免疫力を高める食べ物
http://kenkou-tabemono.info/index.php?%E6%A2%85%E5%B9%B2%E3%81%97%E3%81%AE%E5%8A%B9%E8%83%BD%E5%8A%B9%E6%9E%9C
※6:森本ゆうの【紀州ほんまもん経営者】5つのタイプ診断
http://ameblo.jp/morimotoyuu/theme-10015773455.html
※7:気象庁|平成26年の梅雨入りと梅雨明け(速報値)
http://www.data.jma.go.jp/fcd/yoho/baiu/sokuhou_baiu.html
※8:梅雨入り 遅れ気味 - TBSのお天気番組
http://www.tbs.co.jp/tenki/weekend20100605.html
※9:語源由来辞典-梅雨(つゆ)
http://gogen-allguide.com/tu/tsuyu.html
※10:芭蕉db 奥の細道最上川
http://www2.yamanashi-ken.ac.jp/~itoyo/basho/okunohosomichi/okuno24.htm
※11:与謝蕪村・俳人列伝 - 日本俳句研究会
http://jphaiku.jp/haizinn/busonn.html
※12:農林水産省:特産果樹生産動態等調査
http://www.maff.go.jp/j/tokei/kouhyou/tokusan_kazyu/index.html
※13:紀州南高梅クラスター
https://www.pref.aomori.lg.jp/soshiki/kikaku/tokei/files/hakusho18-5.pdf#search='%E3%81%BF%E3%81%AA%E3%81%B9%E7%94%BA+%E6%A2%85%E3%81%AE%E7%94%9F%E7%94%A3'
※14:六波羅蜜寺
http://www.rokuhara.or.jp/
※15:
梅(梅干し)・梅リグナンの効能
http://www.umekounou.com/
日本記念日協会
http://www.kinenbi.gr.jp/
梅干し - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A2%85%E5%B9%B2%E3%81%97

わんにゃんの日

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日本記念日協会に登録されている今日・6月12日の記念日に「わんにゃんの日 」がある。由緒を見ると以下のように書いてあった。

国内最大級のペット写真共有SNS「パシャっとmyペット」を運営する株式会社サイバーエージェント(※1)が制定。
一般社団法人アニマル・ドネーション(※2)と共同で行う「パシャっとLOVEドネーション」プロジェクトの一環で、毎月12日には動物愛護関連団体への寄付を呼びかけるなどの活動を行う。日付は犬と猫の鳴き声である「わん(1)」と「にゃん(2)」から。・・・と。

もういい歳をとった私などは、今の時代にはなかなかついてゆけず、ここに出てくるサイバーエージェントやアニマル・ドネーションと言ったハイカラ?なカタカナ英語の名前の会社のことなど何も知らなかったし、写真共有SNS「パシャっとmyペット」や「パシャっとLOVEドネーション」と言ったものも何をしているところかはこのブログを書くまでは全く知らなかった。
今回調べてみると、(社)アニマル・ドネーション(Animal donation )は、動物福祉の啓発活動や、迷い動物や飼い主に放棄されたペットを保護したり、補助犬の育成に努めたりといった、“ 動物のために活動する団体(動物愛護団体等”への支援を募るオンライン寄付サイトの運営を行っているところらしい。

今や日本もペットブームであり、昔は家畜として飼われていた動物や珍しい動物などもペットとして飼われ始め、ペットの種類も多種にわたっている。
日本のペットブームは、1980 年代以降のバブル時代に重なり、収入が増え、ペットにお金をつぎ込む余裕ができたからだろう。
内閣府の「動物愛護に関する世論調査[平成22年9月調査] 」(※3参照)の“1. ペットの飼育状況について”を見てみると、ペットを飼うのが「好き」とする者が72.5%(「大好き」23.4%+「好きなほう」49.1%)に達している。年齢別に見ると、「好き」とする者の割合は20歳代、30歳代で、「嫌い」とする者の割合は70歳以上で、それぞれ高くなっているそうだ。
家庭でなど、ペットを飼っているかどうか聞いたところ、「飼っている」と答えた者の割合が34.3%あり、「飼っていない」と答えた者の割合が65.7%となっているが、「飼っていない」と答えた者の割合は、大都市で高くなっているのは、マンションなど共同住宅では飼いづらい理由があるからだろう。それでも、3人に1人がペットを飼っているというのはすごいことである。
ペットを「飼っている」と答えた者が飼っているのはやはり「犬」を挙げた者が58.6%と最も高く、以下,「猫」(30.9%),「魚類」(19.4%)などの順となっている。
それでは、どれくらいの犬や猫が飼育されているのだろうか。
一寸、猫のことについてはよく判らないが、犬については、1950(昭和25)年に制定された狂犬病予防法第四条(ここ参照)により、犬の所有権者は犬を取得した日から30日以内に厚生労働省令の定めるところにより、その犬の所在地を管轄する市町村長(特別区にあっては区長)に犬の登録申請をしなければならないことになっている。
この法律に基づいて登録されている平成24度(2012年)の畜犬は、 6,786千頭となっており、平成2年(1990年)の3.890千頭の3,9倍にもなっている(※4参照)。しかし、飼育されている犬がすべて登録されているわけではないため、実際の頭数はもっと多いはずだ 。
ペットフード事業者を中心とした98社で組織する(社)ペットフード協会(※5)による平成25年度の「国内犬猫飼育実態調査」では、犬は、10,872千頭(前年11,534千頭)、猫は、9,743千頭(前年9,748千頭)も飼われていると推測している(ここ参照)。
犬の場合で見るとこの数字は、狂犬病予防法により、登録されている頭数の1、7倍(平成24年度で比較)もの数の犬が飼われているということであり、裏を返せば、多くの犬が、同法に元ずく措置などされままに飼われているということであろう。

しかし、どうして、こんなに多くの人がペットを飼うようになったのだろうか・・・。
先に挙げた内閣府の「動物愛護に関する世論調査」の “2. ペット飼育に関する意識について”の(1)ペットを飼育が良い理由を見ると、「生活に潤いや安らぎが生まれる」「家庭がなごやかになる」「子どもたちが心豊かに育つ」といった癒しを求めて飼育している人が断然多く、このような理由でペットを飼っている人は、都市規模別に見ると大都市で多くみられるという。
一方、 ”(2) ペット飼育の問題点”では、「最後まで飼わない人がいる」(58.22%) ,「捨てられる犬やねこが多い」 (55.5%)を挙げた者の割合が高く、以下、「他人のペットの飼育により迷惑がかかる」(30.6%),「ペットの習性などを知らないで飼っている人がいる」(22.7%)などの順となっている(複数回答)。この中で、「最後まで飼わない人がいる」を挙げた者の割合は、大都市、中都市で、それぞれ高くなっており、年齢別に見ると、「最後まで飼わない人がいる」を挙げた者の割合は、20歳代から40歳代で、「ペットの習性などを知らないで飼っている人がいる」を挙げた者の割合は、30歳代、40歳代で、それぞれ高くなっているようだ。
”(3) ペット飼育による迷惑”では、「散歩している犬のふん(糞)の放置など飼い主のマナーが悪い」を挙げた者の割合が58.1%と最も高く、以下、「ねこがやって来てふん尿をしていく」(40.9%)、「鳴き声がうるさい」 (36.1%)、「犬の放し飼い」(30.9%)などの順となっている。
それでは、今後、少子高齢化や核家族化が進む中で、人とペットの関係はどのようになっていくと思うかについては、「家族の一員同様に共に生活する世帯が増える」を挙げた者の割合が43.3%と最も高く、以下, 「老後のパートナーとしてのペットの重要性が増す」(39.8%)、「高齢者が病気などにより飼育できなくなるペットが増える」(31.8%)などの順となっている([4] 少子高齢化や核家族化の進展とペット飼育参照)。

このような犬や猫などペットに関連することは以前このブログでも、猫の日招き猫の日、「忠犬ハチ公像が完成」の中でも触れてきたし、「犬の日」や、「ペットたちに「感謝」する日」などでは、その飼い方などにも触れ、かなり詳しく書いてきた。
従って、今日、又、犬や、猫など、ペットのことについて書くかどうか迷ったのだが、昨今のペットブームの陰で飼い主から捨てられた犬や猫の存在が問題となっているとの話をテレビなどの報道で耳にしたことからまた書く気になった。

飼い主に見放された放浪犬や迷い犬、野良犬などは狂犬病予防法に基づく自治体条例によって捕獲される。
これら引き取られた犬や猫の処分については1975(昭和50)年公布の「犬及びねこの引取り並びに負傷動物の収容に関する措置要領」(※6参照)により定められていて(1)出来るだけ新しい飼い主に譲渡すること、(2)動物の実験用として払い下げること、(3)、(1)(2)に該当しないものは殺処分されることになっている。
環境省から、「平成24年度(平成24年4月〜平成25年3月)の犬猫収容状況(殺処分数含む)」の統計資料が発表された。
東日本大震災の被災動物の報道などもきっかけとなって、飼い主のいない犬猫たちがおかれている状況が広く知られるようにもなり、これらの犬や猫などの保護動物への理解も少しは深まったようだ。
この資料を見ると、犬や猫の引き取り数や殺処分数は年々減少し、引き取られたもののうち、返還・譲渡されたものも年々増えてはいるものの、それでも、平成24年度に殺処分された犬は38,447頭、猫は123,420頭、計209,388頭に及んでいる。
特徴的なのは、犬が引き取られたうちの約半数弱が返還・譲渡されているものの、猫の場合は、引き取られた数の約10,8%しか返還・譲渡されず、残りの約90%弱が殺処分されていることだろう(※7参照)。

どうしてこのように多くの犬猫が殺処分されるのだろうか?
ペットが高齢だから、離婚するから、子供がアレルギーだから、吠えるから、ブリーダー崩壊・・・、といった理由で、ペットとして飼っていた犬や猫が公園に捨てられたり、保険所へ持ち込まれる理由はいろいろとある。
捨てられた犬や猫は野良犬、野良猫となり繁殖を繰り返し数を増やしていくが、それでも生きて行ければよいが、その多くは事故や病気で死んでしまい、また、生き残った多くも人の手により保健所へ連れて行かれ殺処分されていくことになる。

このようなペットの増加してゆく背景には、日本の深刻な社会現象である少子・高齢化社会やストレス社会が影響しているようだ。
核家族化した日本で、子育ても終わった孤独な高齢者が生活のパートナーとしてペットを飼育している。又、外に出て働く女性の増加により、未婚で単身生活を送っている女性などが安らぎを求めてペットを飼うケースも増えてきているという。
ペットに癒やされていることが“結婚しない女性”の増加に拍車をかけているのではないかと心配する声さえもある。
このような家族を構成するメンバーの心のつながりかたが薄れるなど、生活の基盤である家族形態が変化するなかで、人が動物に求める役割も、癒しの対象へと変化させてきた。
ネットで、犬や猫の飼い主のホームページなどを見れば、ペットを「娘」「息子」と呼ぶなど動物を擬人化した表現も多くみられるように、今の日本では、ペットがコンパニオン(生活して行く上での伴侶動物)化している。
しかし、高齢化の進行により、高齢者のみの世帯が増加すると、それに伴って一人暮らしの高齢者も増えてくる。そんな、飼い主が孤独死したり、認知症になったり、病気などで入院したりするなどによって、ペットが取り残されてしまうといったことも今では問題視され始めている。
家族の一員として愛情をたっぷり受け、幸せに暮らすペットが多くいる反面、色々な理由はあるものの飼えなくなったからという人間の都合で不幸な道をたどる動物たちがいることを忘れてはならないだろう。

飼い主にとって犬や猫などのペットは可愛くて仕方がないだろう。犬や猫に触れると、柔らかく、温かくてとてもここち良い感触である。それに、ペットは成長してからも親の愛情を必要とする幼児のように純粋である。
犬や猫などのペットにも感情はあるようだけれど、口をきかないし、よほどのことがない限り、飼い主に対して反論もせず、飼い主の思うがままになってくれる。実の子どもであっても自分の気に入らないことには反抗し、憎まれ口の一つもたたくのだが、ペットにはそれがない。飼い主たちはそんなペットに癒されるのだろう。
先日TVのニュースで、全国の大学の食堂で、テーブルをついたてで仕切るなどした「1人用席」を設ける動きが広がっている。と報じていた。「周囲の目が気になり1人で食事がしづらい」と相席を嫌がる学生の声に応えたものだという(※8参照)。
私も現役時代感じたものだが、最近の若い人は、会社の慰安旅行、運動会、宴会を始め、会社の上司や先輩との酒のお付き合いなども拒否する人が増えてきている。そのような付き合いが煩わしいのであろう。
自分とは違う年代や、趣味、考え方、性格の人とは付き合わない。同類項の仲間としか付き合うことのできない人が増えてきている。同じ学校の学生同士でも、知らないものとは、食事の席を共にするのを嫌う。私たちの年代の者からするとちょっとゾットする存在だが、そのような自分の世界に閉じこもっている人たちにとって、自分の言うことなら何でも聞いてくれるペットは唯一安心して一緒に生活できる相手だと言えるのかもしれない。可愛いがれば、可愛がるだけ自分になついてくれるから・・・。
考えてみると、現代社会でペット以外で、自分の思い通りに牛耳れるものは、そうなかなかありはしないだろう。会社で、学校で、友だちでも思い通りには運ばない。それは、愛し合った恋人であっても、結婚した後の夫婦でも・・・・。
それが出来るのは唯一ペットぐらいのものかもしれない。だから、そんなペットは飼主にとってこの上なく可愛く、愛すべき存在だろう。愛を誓ったはずの恋人でも、夫婦でも、なにかあれば今は簡単に離れていく時代だ。

一般社団法人ペットフード協会の第15回(平成20年度) 全国犬猫飼育率調査時の史料(ここ参照)によると、2003年(平成15年)度を境に犬、猫の数が15歳以下子供総数を逆転(犬猫飼育頭数:約1,922万頭 15歳以下子供総数:1,791万人.)し、その関連市場(ペット及び、ペットフード、ケージなど関連商品)も1兆円をこえるといわれている。
高齢化社会では高齢化した人間が痴ほう症になり徘徊したり行方不明になったりする人が増え、そんな高齢者を介護する子供なども高齢化てしていることから、そんな老老介護が今話題になっている。
しかし、犬や猫などペットの高齢化も進んでおり、一般にシニアと言われている7歳以上の犬が全体の55.3%(昨年度:51.0%)、猫が47.4%(昨年度: 45.8%)を占め、更に、老齢と言われる10歳以上の犬は29.3%(昨年度:29.0%)、猫が31%(昨年度:28.3%)を占めていることが分かったという。高齢化の要因としては、栄養バランスの取れたペットフードの普及や獣医療の更なる進化、室内飼いの増加などが考えられという。
結構なことだが、ペットも高齢化すると人間同様、徘徊したり、行方不明になったりもする。そして、高齢者が高齢ペットを看る“老老介護”も珍しくなくなったという。
それに、飼い主のところからいなくなった迷い犬や迷い猫などを見つけるペット捜しの会社も忙しそうだ(※9参照)。無事見つかれば良いが、もし、見つかっても、そのあと、高齢者が飼ってゆけるのだろうか?
ペットの老齢化が進んでいる要因に、栄養バランスの取れたペットフードの普及や獣医療の更なる進化があるというが、これらペットを飼うのにどのくらいの費用がかかっているのだろうか。
以下参考※10:「ペット関連ビジネス調査」によると、犬にかける年間費用は病気や怪我の治療にかかる費用が最も多く約18,6万円、猫にかける年間費用は犬に比べて少ないもののそれでも約11,9万円を要している。
家族同然のペットに要する費用だからこれくらいは安いものと考えるべきか。しかし、動物の場合保険がきかないので人によっては治療費の負担は大変だろう。
中には、歳をとった犬や猫がマッサージをしてもらったり、鍼治療を受けていたりしているという。人間でも歳を取るとからだ全体の骨格や関節の歪み・ズレなどから整体の医院や鍼灸院の通っている人が多く、年寄の人が多く住むわが町でもこのような医院の数が多くどこも大流行である。犬や猫でも歳をとれば同じような状況に陥るだろう。
ペットの場合、人間のように健康保険はなく自由診療だが、動物だって人間なみに腹もこわすし、風邪もひき、怪我もするし、不眠にもおちいるだろう。人間と同じで年をとれば、ちょっとしたことで骨折もするし、その時の手術費は高いのだろう。
人間社会では今、デフレと不況で健康保険料も支払いができない保険料支払困難者が社会問題化されている。
その一方で、ペット愛好者はペット保険に加入して、金を惜しまない。つまり、人間社会だけではなくペットの世界でも二極化現象が起こっているのである。
自分の病気治療のための医療費も大きな負担となってきている多くの老いた年金生活者にとって、ペットを我が子同様に可愛がっていればいるほど、そのペットの医療費の負担は重くのしかかってきていることだろうと推測している。
最近よく聞く言葉に「ペットロス症候群」というものがある。ペットロスとは文字通り「ペットを失う事」である。
人間とペットの関係が密接になってきたことを背景に生まれた新たな現象であり、ペットと死別したり、ペットが行方不明になったり、その他の事情でペットを手放さなければならない状況などに遭遇したことなどを契機に発生する疾患ないし心身(精神的・身体的)の症状のことをいう。
もし、自分がちゃんとペット保険に入っていれば、愛しているペットを死なせずに済んだかもしれない・・・などと考えたらいたたまれないだろう。そして、このようなペットロス症候群に落ちってしまったりすることになる。
このような精神的・身体的障害が起こる原因として、飼い主のペットを伴侶動物(コンパニオンアニマル)としての位置づけが挙げられている。つまり、ペットと共に過ごす事によって培われた余りにも深いペットへの愛着や愛情から引き起こされる症状と言ってもよい。
日本では2000年代頃から注目を集めるようになったが、ペット産業の盛んな米国では1990年代頃より精神疾患の契機として重要視されるようになったという。
日本では、内田 百間が居なくなってしまった愛猫ノラを探し、一喜一憂する日々を書いたエッセイ集『ノラや』(1957年)が、ペットロス症候群という言葉さえなかったころの、同症候群らしき記述として注目されている。猫付きの猫かわいがりは特別だというが以下参考※11の読書感想文を読んでみるとよい。

日本のペットトブームは、バブル時代に始まり、それに関連した種々のペット産業が生まれた。そうして、ペットフードから、ペット保険、専用の医療施設、訓練サービスなどのほか、ペットファッションからペットシッターサービス(※12参照)、ペット用温泉まで出来ている。
世界には飢えた子どもが大勢いる(※14参照)中、犬や猫に高価な化学療法を受けさせる飼い主がいることについては批判さえもあると聞く(※13参照)。
兎に角、飼い手側の人間と、飼われている動物。人間の方が絶対的に有利である。 ペットの気持ちを斟酌するとしても、しょせんは人間の都合で行われることとなる。極端な言い方だが、絶対者がもたらす慈悲と、対等な関係での思いやりとは違う。残念なことだが、今見られるような異常とも思えるペットブームは、人間同士の対等な付き合い方が出来なくなっていることを象徴しているようにも思われる。
いま世界で、力のある者とない者、金のあるものとない者、その極端な差、二極分化が進行している。力のあるものからすると、「自分の甲斐性で得た金でなにをしようが自由であろう」・・。そう言いたいだろう。しかし、力のないものは黙って力のある者に気に入られるようにして生きていく世界が出来上がってしまうと、余りも哀しいことではないだろうか。
自由主義の国を代表するアメリカ、共産主義を代表する中国でさえ、その格差社会が、行き詰まりを見せ、破局に向かっているような気がする。
人間とペットとの関係においても、本当に犬や猫は本来の役割も果たさず餌を与えられ、人間に気に入られるよう、媚を売った生き方をすることを望んでいるのだろうか。私が子供の頃でも、犬は、家の番犬であり、子供の遊び相手としての役割を果たしていた。
私には、人間と同じように服を着せられたり、可愛い可愛いと抱きしめられている犬や猫が本当に喜んでいるようには思えないのだが・・・。
いずれにしても、このデフレの日本にあって、異常なほどのペットブームでほくそえんでいるのはペット産業の人達であろう。そこには、獣医や、ペット用の医薬品の開発をしている人も含まれるが・・・。
人間界でも、高齢化社会の中で元気に長生きしようと頑張っている私たち老人を最も歓迎してくれているのは、恐らく自分の息子のような若い人たちではなくて、私たちを最高の上得意としている医療業界の人達と、それにつながっている官僚や政治家なのだろうね〜。 

●冒頭の画像は内田 百間著『ノラや』 (中公文庫)
参考:
※1:パシャっとmyペット | 株式会社サイバーエージェント
http://www.cyberagent.co.jp/service/detail/id=3843
※2:アニマル・ドネーション
http://www.animaldonation.org/
※3:内閣府:動物愛護に関する世論調査[平成22年9月調査]
http://www8.cao.go.jp/survey/h15/h15-doubutu/index.html
※4:厚生労働省-犬の登録頭数と予防注射頭数等の年次別推移
http://www.mhlw.go.jp/bunya/kenkou/kekkaku-kansenshou10/02.html
※5: 一般社団法人ペットフード協会
http://www.petfood.or.jp/
※6:犬及びねこの引取り並びに負傷動物の収容に関する措置要領 - 環境省
http://www.env.go.jp/hourei/syousai.php?id=18000007
※7:統計資料 「犬・猫の引取り及び負傷動物の収容状況」 [動物の愛護と適切な管理] .. - 環境省
http://www.env.go.jp/nature/dobutsu/aigo/2_data/statistics/dog-cat.html
※8:相席イヤ…学食に1人用「ぼっち席」設置広がる
http://www.yomiuri.co.jp/osaka/news/20140606-OYO1T50035.html
※9:迷子動物、保護動物リンク集 - 獣医師広報板
http://www.vets.ne.jp/link/pc/6100.html
※10:ペット関連ビジネス調査 - 地方経済総合研究所(Adobe PDF)
http://www.dik.or.jp/?action=cabinet3_action_main_download&block_id=57&room_id=1&cabinet3_id=1&file_id=49&upload_id=411
※11:今月の読書 内田百? 「ノラや」「百鬼園随筆」「冥途・旅順入場式」
http://www013.upp.so-net.ne.jp/mayalibrary/niki/niki141.htm
※12:ペットシッターとは/日本ペットシッターサービス
http://hwbb.gyao.ne.jp/cupet-a5w/question.html
※13:2012 Japanese First Language Written examination
http://www.vcaa.vic.edu.au/Documents/exams/japanese1st/2012/2012japFL-w.pdf#search='%E3%83%9A%E3%83%83%E3%83%88%E3%83%96%E3%83%BC%E3%83%A0++%E4%BA%BA%E9%96%93%E5%90%8C%E5%A3%AB'
※14:《ユニセフ》募金にご協力を[胎児の時から、営統が足りません。]
http://www.unicef.or.jp/special/13win/?utm_source=yahoo&utm_medium=cpc&utm_campaign=13win
動物福祉について | 公益社団法人日本動物福祉協会
http://jaws.or.jp/welfare01/
ペット - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9A%E3%83%83%E3%83%88

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理化学研究所設立 参考

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参考:
※1:理化学研究所
http://www.riken.jp/
※2:独立行政法人理化学研究所法
http://law.e-gov.go.jp/htmldata/H14/H14HO160.html
※3:岸輝雄 プロフィール - あのひと検索スパイシー
http://spysee.jp/%E5%B2%B8%E8%BC%9D%E9%9B%84/1048949
※4:研究不正再発防止のための提言書 - 理化学研究所(Adobe PDF)
http://www3.riken.jp/stap/j/d7document15.pdf#search='%E7%90%86%E5%8C%96%E5%AD%A6%E7%A0%94%E7%A9%B6%E6%89%80%E3%81%AE%E6%94%B9%E9%9D%A9%E5%A7%94%E5%93%A1%E4%BC%9A+2014%E5%B9%B46%E6%9C%8813%E6%97%A5'
※5:STAP細胞、小保方氏の問題ってなんですか?- YAHOO!知恵袋
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q13128469713
※6:高橋 政代 氏 インタビュー『この人に聞く』(1) : Trend ... - 科学技術振興機構
http://www.jst.go.jp/ips-trend/column/interview/10/no01.html
※7:再生医療とIPS細胞の医療情報ニュースサイト「エヌオピ」
http://n-opi.com/news/clinical/
※8:神戸医療産業都市構想 神戸医療産業都市構想とは? - 神戸市
http://www.city.kobe.lg.jp/information/public/online/photo/number21/special_features/
※9:神戸市HPスーパーコンピュータ「京(けい)」
http://www.city.kobe.lg.jp/information/project/supercomputer/
※10:特定国立研究開発法人(仮称)の 対象法人候補について - 内閣府
http://www8.cao.go.jp/cstp/siryo/haihu118/sankou1.pdf#search='%E7%89%B9%E5%AE%9A%E5%9B%BD%E7%AB%8B%E7%A0%94%E7%A9%B6%E9%96%8B%E7%99%BA%E6%B3%95%E4%BA%BA'
※11:年表 - 癌研究会
http://www.jfcr.or.jp/about/history/timeline.html
※12:小川正孝新元素「ニッポニウム」の発見者
http://www.chart.co.jp/subject/rika/scnet/19/sc19_1.pdf#search='1908+%E5%B9%B4+9%E6%9C%88++%E5%B0%8F%E5%B7%9D%E6%AD%A3%E5%AD%9D'
※13:原子構造の変遷
http://www.geocities.jp/ikuro_kotaro/koramu/gensi.htm
※14:戦前の日本天文学会
http://www.asj.or.jp/geppou/archive_open/1997/pdf/19970703c.pdf#search='%E4%B8%AD%E6%9D%91%E6%B8%85%E4%BA%8C+%E5%B8%9D%E5%9B%BD%E7%90%86%E5%AD%A6%E7%A0%94%E7%A9%B6%E6%89%80%E8%A8%AD%E7%AB%8B%E3%81%AE%E5%BF%85%E8%A6%81%E3%80%8F%E3%82%92%E3%80%8E%E6%99%82%E4%BA%8B%E6%96%B0%E5%A0%B1'
※15:原子(原子核)
http://www15.wind.ne.jp/~Glauben_leben/Buturi/Gensi/Gensibase4.htmhref=http://www.ajinomoto.com/jp/aboutus/history/pdf/his00_2.pdf#search="%E6%B1%A0%E7%94%B0%E8%8F%8A%E8%8B%97+%E5%8F%96%E5%BE%97%E3%81%97%E3%81%9F%E7%89%B9%E8%A8%B1+%E3%81%86%E3%81%BE%E5%91%B3%E4%BB%A5%E5%A4%96">http://www.ajinomoto.com/jp/aboutus/history/pdf/his00_2.pdf#search='%E6%B1%A0%E7%94%B0%E8%8F%8A%E8%8B%97+%E5%8F%96%E5%BE%97%E3%81%97%E3%81%9F%E7%89%B9%E8%A8%B1+%E3%81%86%E3%81%BE%E5%91%B3%E4%BB%A5%E5%A4%96'
※17:理化学研究所の誕生と軌跡(Adobe PDF)
http://www.riken.jp/~/media/riken/pr/publications/riken88/riken88-1-1-1.pdf#search='%E5%89%B5%E7%AB%8B%E6%99%82%E3%81%AE%E7%90%86%E7%A0%94'
※18:度 辺 渡 の 生涯 と 日 本鉱 業 会*(Adobe PDF)
http://ir.nul.nagoya-u.ac.jp/jspui/bitstream/2237/17244/3/206.pdf#search='%E6%B8%A1%E8%BE%BA%E6%B8%A1++%E5%86%B6%E9%87%91%E5%AD%A6%E8%80%85+%E7%90%86%E5%8C%96%E5%AD%A6%E7%A0%94%E7%A9%B6%E6%89%80'
※19:白金よりも高い稀有金属を日本で発見 - 神戸大学 電子図書館:新聞記事文庫
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?METAID=10071834&TYPE=IMAGE_FILE&POS=1

理化学研究所のまとめ検索結果(89件)-NAVERまとめ
http://matome.naver.jp/search?q=%E7%90%86%E5%8C%96%E5%AD%A6%E7%A0%94%E7%A9%B6%E6%89%80&slot=4&sf=1
小保方晴子・理化学研究所研究ユニットリーダー
http://hashigozakura.wordpress.com/tag/%E5%B0%8F%E4%BF%9D%E6%96%B9%E6%99%B4%E5%AD%90%E3%83%BB%E7%90%86%E5%8C%96%E5%AD%A6%E7%A0%94%E7%A9%B6%E6%89%80%E7%A0%94%E7%A9%B6%E3%83%A6%E3%83%8B%E3%83%83%E3%83%88%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%80%E3%83%BC/
理化学研究所 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%90%86%E5%8C%96%E5%AD%A6%E7%A0%94%E7%A9%B6%E6%89%80



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上掲の画像向かって左:北里柴三郎明治43年撮影。右:晩年の志賀潔と孫の岡明(立っている人。ここ参照)と研究室でのもの。(朝日クロニクル 週刊20世紀紀掲載のもの借用)画像クリックで拡大。

志賀は、その後ドイツのエールリッヒのもとに留学し、1904(明治37)年に化学療法剤トリバンロートを共同で開発。秦も同伝染病研究所に勤め、ここからエールリッヒのもとに留学して、1909(明治42)年サルバルサンの発見を助けた。このように、留学した年若い医学者たちが多くの成果をあげて世界中から感謝、称賛された。
この頃。日本では脚気病も軍部で特に問題になっていた。
ドイツのフィッシャーにタンパク質科学(タンパク質の化学的特性質を研究する学問分野)を学んで帰国した鈴木梅太郎は、栄養障害説をとり、1910(明治43年)年米ぬかの中にある脚気に効く成分(ビタミンB1)を抽出し、「オリザニン」と命名する(日本の脚気史参照)。当時脚気の原因については、伝染病説、中毒説、栄養障害説が対立していた。
がん(癌)も問題であった、細胞 病理学説を唱えるドイツのウイルヒョーに学んで帰国した山極勝三郎は師の説に従って、刺激によるがんの発生を考え、イエウサギ(ペット用に品種改良されたウサギ)の耳の内側に毎日コールタールを塗布し、1915(大正4)年、がんの実験的発生に世界で初めて成功する。
高峰譲吉が早々とタカジアスターゼやアドレナリンの研究(1901年発見)で成果を上げたのは、アメリカにおいてであった。アドレナリンは世界で最初のホルモン抽出、結晶化であった。当時の日本ではそれが行えるだけの条件はなかった。
ただ、池田菊苗の「味の素」の発明は一味違った発明であった。東京大学とドイツのオズワルドのもとで純正化学を学び1901(明治34)年東大教授となった池田が1907(明治40)年、昆布から「うま味」のもとであるグルタミン酸塩を取り出す仕事を始め、鈴木三郎助と組んで工業化に成功した。
ここで見落とせないのは、成功の基礎に物理化学があったことと、池田が取得した特許は「うま味」の素以外にも多数あったことである(彼が生涯において取得した特許は、国内で32件、海外で17件もあるという。※16参照)。
池田と対照的なのが長岡半太郎や木下季吉の研究である。磁気歪の研究(長岡)や原子構造の土星型有核模型(長岡。※13参照.)などは、日本の物証物理学も早くも国際水準に及びつつあったことを示している。ただ、こうした優れた人材は育ちつつあったが、社会的基盤が弱かったということである。

高峰譲吉は1913(大正13)年に築地精養軒にて日本の学術・工業を盛んにするには創造的科学研究を可能にする大研究所が必要だと説き、これが、理化学研究所誕生の契機となった。高峰が必要だと説いた研究所は、1911(明治44)年に創設されたドイツの「カイザー・ヴィルヘルム協会」を模して構想されたものらしい。
これは、1908(明治41)年に中村清二が『時事新報』に書いた、『帝国理学研究所設立の必要』という所論と同様のものであったようだ。
この理研設立の経緯については、以下参考に記載の※17:「理化学研究所の誕生と軌跡」に非常に詳しく書いてあるので、理研誕生の経緯についてはこれ以降、この記事を参考に書かせてもらう(一部捕捉をしているが)。

この計画は、当時で、およそ2,000万円(現在では約320億円に相当=米価換算)の資金で研究所を設立しようとするものであったが、まず500万円くらいの資金で差し当たり最も急務とする「化学研究所」の設立を企画した。翌1914(大正3)年、実業界の大御所渋沢栄一と池田菊苗、鈴木梅太郎ら化学、応用化学、農芸化学、薬学界の長老が連名で議会に化学研究所設立の請願書を提出した。
この請願は、議会の解散もあって目的を達成することはできなかったらしいが、研究所設立に追い風が吹いた。1914(大正3)年6月に第1次世界大戦が勃発、わが国は西欧からの医薬品や工業原料の輸入が絶たれ、また制限されたりしたことから産業上、多大な障害を来すこととなった。そこで、農商務省は化学研究所設立を農商務大臣(大浦兼武)に建議したが、ただ化学だけでは範囲が狭すぎるため、化学と物理学の両面を包含した「理化学研究所」を設立すべきとの意見が出された。
日本薬学会初代会長長井長義冶金学者の渡辺渡(※18参照)、工学博士・東京工業試験所の所長高松豊吉、物理化学者・東京化学会(日本化学会の前身)の会長桜井錠二、農学博士古在由直が特別委員となって協議し、渋沢栄一、菊池大麓、渋沢の盟友で官僚出身の政治家・実業家中野武営らも加わって新たな草案を練り上げ、設立計画の大要、研究事項などを決めた。これを主な実業家や関係者に送り、賛同を求めることになった。
渋沢、中野らは三井家総領家である北家当主三井八郎右衛門三菱財閥の4代目総帥岩崎小弥太をはじめ、財界・民間から研究所設立に必要な資金の寄付金を募る一方、時の総理大臣大隈重信が内務、大蔵、文部、農商務各省の大臣および学者、実業家を招いて設立発起協議会を開くなど、設立への準備は整い始めた。さらに、政府の補助も認められ、これに基づき、「理化学を研究する公益法人に対し、国庫補助を為す法律案」が可決され、1916年(大正5年)3月6日に公布された。
これを受けて、創立委員長に渋沢栄一、常務委員に桜井錠二、当時の三井財閥総帥団琢磨、中野武営ら7名が就き、研究所の建物・設備については、物理関係は長岡半太郎、大河内正敏、化学関係は池田菊苗、井上仁吉(?後東北帝国大学工科部長から2代目総長になった人?)に委嘱された。そして、委員長らの寄付の勧誘が功を奏し、設立に必要な額200万円を上回る寄付金を集め、「財団法人理化学研究所」が1917(大正6)年3月20日に設立された。
つまり、理研は、政府の補助金、皇室の御下賜金、産業界の寄付金を基に設立されたのである。
ところで、ここでは「理化学研究所が3月20日に設立された」と書いてあるが、冒頭に書いたように、「今日は何の日〜毎日が記念日〜」では、「6月19日、、この日、理化学研究所が、東京都文京区本駒込に設立された。」・・・とある。
蔵書の『朝日クロニクル 週刊20世紀』には、3月20日「理化学研究所の設立認可」とあるので、法人組織として登記し、スタートした日(設立)は3月20日だと思うのだが、ひょっとしたら理研としての活動を始めた日、営業開始(創業)を設立日と勘違いしたのか?それとも何か他の理由による単純な誤りなのだろうか?・・・・。そのような日付の問題は、この際、ここでは無視して以下話を続ける。

この創立当時の理研の最もユニークなところは、参考※17:「理化学研究所の誕生と軌跡」にも記されているように、今でいうところの新技術の研究開発や、新事業の創出を図ることを目的として、大学などの教育機関・研究機関と民間企業が連携した「産学連携」、それに、政府・地方公共団体などの「官」をも加えた、大規模な「産学官連携」を実現したことにあるのだろう。

理研は、1917(大正6)年、伏見宮貞愛親王殿下を総裁に奉載(1917〜1923Sし、副総裁に渋沢と菊池大麓帝国学士院長、元文部大臣)を迎え、初代所長に菊池が就任して活動を開始した。
物理部の研究員として東京帝大の大河内(造兵学)、鯨井恒太郎(電気工学)、化学部は鈴木梅太郎(農芸化学)、田丸節郎、和田猪三郎(純正化学。※19参照)の各教授、東北帝大から真島利行(有機化学)らが選ばれた。しかし、初代所長の菊池が就任5カ月で急逝、その後を継いだ古市公威(土木学界の長老)も1921(大正10)年9月、健康上の理由で辞任し、大河内が第3 代所長に就任したが、この大河内こそが、理研の黄金期を作り上げた人物であった。
当時第1次世界大戦後の戦後不況で、予定していた財界、産業界からの寄付金はなかなか集まらなかった。大河内は、研究成果の実施企業を自ら設立し、財政的に自立する方途を講じようと2つの改革を実行した。
その第1が研究体制の一新、つまり、研究室制度を打ち出した(1922年=大正11年)ことであり、第2が、研究成果の実用化であった。
当時の研究体制は、長岡を部長とする物理学部と池田を部長とする化学部の2つしかなく、しかも、2つの部は激しく対立していたらしい。
そこで、部制を廃止して主任研究員制度を新設し、主任研究員は大学教授との兼任も可能とし、長岡や池田をはじめとする14の主任研究員が研究室をもち、所長の直下に同列に並べられ、敵対していた両部の部長も、一主任研究員となった。
そして、主任研究員に研究テーマ、予算、人事の裁量権を持たせ、研究者の自由な創意を育む環境を作り上げ、すべての主任研究員には、同等の権限を与え、平等にすることを基本に置いたのである。
ところがWikipediaに寄れが、この研究室制度は理化学研究所を活性化したのだが、湯水のごとく研究費が投入され財政難に陥ったという。同年、鈴木梅太郎研究室所属の高橋克己が長岡半太郎や寺田寅彦の助力を得て魚のタラの肝油から世界で初めてビタミンAの分離と抽出に成功し、試作品として売り出したところ、肺結核の特効薬との噂が広まり患者の家族らが殺到する事態となった。
大河内所長はその様子を見てこれを製品化することを決断し、鈴木梅太郎研究室をせきたてて4ヶ月で製品化にこぎつけた。既存の医薬品企業と提携せずに理化学研究所の自主生産で「理研ヴィタミン」を販売し財政難を乗り切った。1924年(大正13年)には理化学研究所の作業収入の8割をビタミンAが稼ぎ出す結果となったという。
上掲の画像は、ビタミンA製剤「理研ヴィタミン」の雑誌広告(1938年=昭和13年)。こうした商品の収益が「科学者たちの楽園」を支えた。ビタミンAの1カプセルあたりの製造原価は1,2銭だったが、理化学研究所はこれを10銭で直接販売したため利益幅は大きかったというが、そりゃあそうだろう、薬九層倍と云われる世界。製造直販ならもうかってしかたがないだろう。
1927(昭和2)年には、理化学研究所の発明を製品化する事業体として理化学興業を創設し大河内所長が会長に就任。理化学興業と理化学研究所は工作機械、マグネシウム、ゴム、飛行機用部品、合成酒など多数の発明品の生産会社を擁す理研産業団(理研コンツェルン)を形成していった。
最盛期には会社数63、工場数121の大コンツェルンとなったという。そして、1939(昭和14)年の理化学研究所の収入370万5000円のうち、特許料や配当などの形で理研産業団各社が納めた額は303万3000円を占めたという。その年の理研の研究費は231万1000円だったので、理化学研究所は資金潤沢で何の束縛もない「科学者たちの楽園」だったようだ。のちに理研コンツェルンの事業を継承した会社には事務機器、光学機器などの製造を行っているメーカーのリコー理研グループと呼ばれる企業群がある。
1937(昭和12)年にには、仁科芳雄研究室が日本で最初のサイクロトロンを完成させた(1944年には大型のサイクロンも完成)。
1941(昭和16)年には、陸軍の要請を受け、仁科が中心となって原子爆弾開発の極秘研究(ニ号研究)さえ開始していたようである。

上掲の画像は、1950年8湯川秀樹博士(向かって左)と仁科芳雄。「技術的には可能であっても、大規模な施設や技術者養成などで巨額の経費と時間がかかる。…大量生産せざるをえないことなど考えあわせると無駄が多い」−1943年6月原爆について陸軍首脳から問われ、こう書いたメモを渡している。という。『朝日クロニクル 週刊20世紀』1939年号より。

1946(昭和21)年、太平洋戦争終結とともに連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の指命により理化学研究所、理研工業(理化学興業の後身)、理研産業団は解体され、仁科研究室のサイクロトロンも海中に投棄された。そして、公職追放された大河内所長に代わって仁科が第4代所長に就任している。
GHQは1947年(昭和22年)12月、過度経済力集中排除法の施行により、理研産業団を財閥とみなし、解体した。
そして、一時は、産業団だけでなく理研本体も解体すべきという意見も出されたが、「日本再建のためには、理研本体は必要不可欠」という仁科の主張に、マッカーサー占領軍司官の科学顧問であったハリー・ケリーらGHQ科学技術課が理解を示したことから、辛うじて理研本体は残り、戦後、株式会社「科学研究所」、特殊法人時代を経て、2003年(平成15年)10月に文部科学省所轄の独立行政法人理化学研究所として再発足したのが現在の理研である。

組織として研究所が存在する意義は、相互作用に他ならない。規模が大きいほど、その知が織りなす「総力」を高める仕組みが求められる。
だが、理研はバブル崩壊後、資金量を膨張させながらも、人材と組織の分散を繰り返してきた。今の理研は設立当時の理研とは違う。
研究不正が起きた原因には、CDBおよび理研本体の「貧弱すぎるガバナンス体制」があるとされている。小保方氏とSTAP論文問題は、理研の組織の片隅で起きた特異な事件ではないように思う。
もう一度、これを機会に、創業精神に立ち返りこれからの理研のあるべき姿を再構築すべきだろう。決して、「理研」が「利権」にだけはならないようにして欲しいものだ。


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理化学研究所設立(参考)





理化学研究所設立(2−1)

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理化学研究所設立(2−2)
理化学研究所設立(参考)


何時もブログを書くのに参考にさせてもらっている「今日は何の日〜毎日が記念日〜」の6月19日のところに、
「1917(大正6)年のこの日、理化学研究所(理研。※1)が、東京都文京区本駒込に設立された。
1958(昭和33)年に「理化学研究所法」(※2)にもとづく特殊法人になり、1957(昭和32)年から1966(昭和41)年の10年間かけて、現在の埼玉県和光市に移転した。」・・・とあった。

現在、ノーベル化学賞を受賞(2001年)した野依良治が理事長を務めるなど、多数の科学者を擁し、物理学化学工学生物学医科学など基礎研究から応用研究まで広い分野での研究を行ってきた日本有数の巨大研究機関である理化学研究所は、3年後の2017年には創立100年を迎える古い歴史をもつ日本を代表する研究機関の一つである。
創設以来、鈴木梅太郎寺田寅彦中谷宇吉郎長岡半太郎嵯峨根遼吉池田菊苗本多光太郎湯川秀樹朝永振一郎仁科芳雄菊池正士など多くの優秀な科学者を輩出してきた理化学研究所は、国際的にも高い業績と知名度を持ち、日本国外では、“RIKEN”の名称で知られている。
日本国内には和光市以外に、仙台市、つくば市、名古屋市、神戸市など全国に8つの主要拠点を持ち職員の数は3502人を数える(平成26年4月1日現在)。
あらゆる分野の研究をしている理研であるが、我が地元神戸では、現代の科学技術の発展にとって不可欠なツールとして文部省のイニシアティブにより開発主体の理研を中心にしたプロジェクトにより開発された「スーパーコンピュータ(京)」が供用を開始している(※1:理研の計算科学研究機構(AiCS)参照)。
兵庫県佐用町播磨科学公園都市内には世界最高の性能を誇る大型放射光施設「SPring-8(スプリングエイト)」を擁している(※1の放射光科学総合研究センター参照)。
この理研、日本だけでなく、海外の4ヵ所の施設(アメリカ、イギリス、シンガポール、北京)にも職員が665人いる。
そんな日本を代表する巨大な機構である理研が、小保方晴子ユニットリーダー(あるユニット[編成単位]のリーダー)の「研究不正」問題で揺れに揺れている。
理研などが、マウスを使っての実験により、外からの刺激で体細胞を初期化することにより、どんな細胞にでもなれるまったく新しい「万能細胞」の作製に成功した・・・と発表したのは、今からまだ、約5ヶ月ほど前の今年(2014年)1月28日のことであった(※1理研Hの2014年1月29日60秒でわかるプレスリリース参照)。
この新しい細胞を発見した理研の発生・再生科学総合研究センター(CDB。神戸研究所。※1のここ参照)の小保方晴子ユニットリーダーらは、この新たな万能細胞にSTAP(スタップ)細胞(刺激惹起性多能性獲得細胞)と名付けた。
いったん役割が定まった体の細胞を外からの簡単な刺激(酸による刺激らしい)だけで万能細胞に変わることはありえないとされていた。そんな生命科学の常識を覆す画期的なこの成果が、翌29日、英科学誌ネイチャー電子版のトッ プ記事として掲載された。

上掲の画像は、2014年1月29日、STAP細胞について説明する理研 発生・再生科学総合研究センター(神戸市)の小保方晴子研究ユニットリーダー。

しかし、ネイチャーに発表したSTAP細胞の論文が外部から不自然との指摘を受けて後、3月10日には小保方氏らとのSTAP細胞の共同研究者である若山照彦・山梨大教授が論文に問題があるとして論文撤回を呼びかけたことから、小保方氏らによるSTAP細胞論文に改ざん捏造(ねつぞう)疑惑があるといった問題が浮上し、日本中に激震が走った。
それに対して小保方氏は「論文に誤りがあることは認めるが、STAP細胞はある。200回以上作成に成功した」として、論文を撤回する意思のないことを記者団に表明。その後ほとんどの論文の共著者が撤回に同意するも、小保方氏は論文撤回に同意せず理研側と対立していた。
世間の一番の関心事は、論文の捏造問題などより、「STAP細胞が本当にあるのかないのか」・・ということであった。
しかし、結局、6月3日、小保方氏が論文撤回勧告に同意したため、STAP細胞の研究成果はその根拠を失い白紙となった。
そして、STAP細胞が存在するかどうかについては、ゼロから検証するために理研が再現実験をすることになった。

上記に掲載の画像は、STAP細胞を巡る経緯と主な論文著者の発言(6月5日付朝日新聞朝刊より)
論文問題で、6人の外部有識者で作る理化学研究所改革委員会(委員長・岸輝雄[※3]東京大名誉教授)は6月12日、「研究不正に至った経緯と背景を分析し、再発防止策を盛り込んだ提言をまとめ公表した。
そして「小保方晴子ユニットリーダーが所属する発生・再生科学総合研究センター(CDB。神戸市)を “構造的な欠陥がある”として早急に解体することを求めた」との報道があった。
提言書は組織内部に問題の背景があったとし、小保方氏の採用では、通常実施する英語による公開・非公開のセミナーをせず、推薦状もない状態だったのに内定を決めるなど「にわかには信じがたい杜撰さ」と批判。
IPS細胞を凌駕する画期的な成果を獲得したいというCDBの強い動機が、成果主義の負の側面として問題化したと認定。又、論文作成に関わった笹井芳樹副センター長については、「研究の秘密保持を重視するあまり、外部からの批判や評価が遮断された閉鎖的な状況を作り出した」・・・とした。
そして、2000(平成12)年の発足以来センター長を務める竹市雅俊ら幹部の責任は重大だと指摘。人事異動などでは構造的な欠陥を取り除くのは難しく「早急にCDBを解体すべきだ」として、竹市・笹井両氏を後退させ人事を一新するよう求めた。
また、理化学研究所本体についても、「事実の解明に対する積極性を欠き、問題をわい小化しようとしている」などと厳しく批判。 そして新たに見つかった疑義についても十分な調査を行うよう要請するとともに、その上で京都大学IPS細胞研究所との協力関係を構築するなどして研究体制を作り直すことを提案した。
一方、STAP細胞の存在を調べる為に理研が実施している再現実験について「いまのやりかたでは小保方氏が作成に成功していたのかが明らかにできない」などと問題視。専門家の監視のもと、小保方氏が加わって実施すべきだとした。

「理研改革委の提言骨子」は以下のようなもの。ここでは6月13日朝日新聞朝刊記事を引用したが、詳しい提言内容は以下参考の※4を参照されるとよい。
その、2週間後6月12日には、またも、STAP細胞論文の共著者の一人若山照彦教授が、記者会見し、小保方氏の「STAP細胞」から作られた細胞を調べた結果、細胞の元になったマウスと遺伝情報が一致しなかったと明らかにした。ただ、「絶対にないと言い切ることはできない」としているが、これで、「STAP細胞」があるという証拠はなくなり、存在を否定する結果が次々出ている以上、小保方氏の作製に成功したという「STAP細胞」は他の種類の万能細胞であった疑いが更に強まったことになる。
さて、この問題の中心人物である小保方氏は引き籠もったまま出て来ないが、これに対してどう説明するつもりなのか。
ただ、小保方氏らが作ったとするSTAP細胞がES細胞などから作ったとは見られない面もあると言われており、まだまだ判らない点は多い。
小保方氏にとっては、もう、専門家の監視のもと「STAP細胞」を再現して見せるか、作ったということがもし虚偽であったのなら、すべての真実を明らかにするしかないだろう。
今回の問題が起こった本当の理由はなんだったのだろうか・・・。誰もが感じている原因は、「何となくこんなことだろう」と思うことがYAHOO!知恵袋(※5参照)に書かれていた。真実か否かは知らないが凡そはそのようなことだろうとは私も思っている。
ただ、神戸の発生・再生科学総合研究センター(CDB)は阪神・淡路大震災(1995年=平成7年1月17日発生)後に、神戸復興のために神戸市が医療産業都市のポートアイランドに誕生させものた。現在世界で初めてIPS細胞を患者に使う臨床研究などのプロジェクトも進んでいる(※6のここ他※7参照)。
若し、このCDBを解体するとなると、神戸医療都市(※8参照)の柱が失われ、産業集積効果は損なわれる(※6のここ参照)。
小保方氏のような人が一人ここから出たからと言って、若い優秀な研究者を育てるためにも、組織を潰してしまうようなことがないことを願っている。
この論文改ざん問題が発生した時の理研の対応には異常さが見られたが、そこには、YAHOO!知恵袋(※5参照)にも書かれているように国からの予算の獲保の問題があったと考えられている。理研の平成26年度予算は834億円で、約人口20万人の自治体に匹敵する(例:熊谷市人口202千人で、一般+特別会計予算合計は約900億円。熊谷市HP参照)。理研の場合、その予算の9割以上が税金から捻出されている。これはすごく恵まれた条件にあることは間違いない。
昔と言っても、2009(平成21)年11月、理研の「次世代スパコン事業」(京)が行政刷新会議事業仕分けの対象事業として取り上げられ、民主党蓮舫議員から「2位じゃダメなんですか」の指摘で大論議となったことはマスコミで面白おかしく報道されたので、国民の誰もが知っている通りであるが、結果的には「限りなく見送りに近い縮減」となった。その後の大臣折衝などを経て、要求額よりかなり減額されたうえ予算がつき、理研により神戸ポートアイランドに整備された(※9参照)。
更に理研そのものに関しても2019(平成22)年4月の事業仕分け第2弾の「独法(独立行政法人通則法による法人)仕分け」でも取り上げられ「研究実施体制のあり方について抜本的見直し」が指摘されていた。そのようなことから国からの莫大な予算確保のためには それなりの成果を挙げなくてはならない・・・との意識が過剰になったのではないかと思われる。

上掲の画像は、「京」が設置された理化学研究所計算科学研究機構(神戸市)

安倍晋三政権が、政府予算の面で優遇する「 特定国立研究開発法人」(仮称※10参照) の導入が昨年12月に閣議決定している。
「特定国立研究開発法人」に指定されると、国から巨額の予算がつき、国際的に優秀な「スター研究者」を億単位の報酬で招けるなど、資金を自由に使えるようになり、その分自由な研究もやりやすくなる。
従って、これに指定されたいが為に、理研がよく調べもせずに小保方氏に論文を発表させ、成果をアピールして「特定国立研究開発法人」になろうという魂胆があったとしか思えない。
発表後、すぐに論文の疑惑問題が発生したが、今度は、慌てて、ノーべ―賞級の世界的偉業と言われた新しい「STAP細胞」が本当に発見されていたのか否かの検証を行うこともなく、その障害となる「小保方ユニットリーダーだけが論文を捏造、改ざんした」と一方的にしかも拙速に決めつけ、露骨な「トカゲの尻尾切り」をしてでも、その場を切り抜けようとしたドタバタ劇であったように思われる。
結局この不祥事から、当初は「産業技術総合研究所」と一緒に決定する予定だった理研の「特定国立研究開発法人」決定を政府は見送ることにしたが、こうなってしまったのは理研の自業自得である。この問題で小保方氏の責任は非常に大きいが、彼女も理研に所属する以上理研の方針に従い踊らされてしまった人物ではないかと私は思っているのだが・・・。
この論文が発表された当初、NHKを始めとする日本の大手マスコミは、こぞって「日本の女子力はたいしたものだ」「世界に誇れる日本の女子力」「リケジョ」など苛烈なまでの賛辞を送ったものだ。そして、小保方氏のような「リケジョ」になりたいと張り切っていた若い女性も多くいたが、その人たちの夢を破ってしまった。ただ最近、民間会社でも阿部政権でも「若い女子」の活用とかいって人気取りしている節があるが、何かブームに便乗するような形で「若い女子」だけを特別扱いして騒ぐのはどうだろう?。
男女平等の世の中、力のある人は男でも女でも公平に扱えばよいだけのことである。もしそれが出来ていないところがあればそのような企業や団体を指導すればよいだけのことではないか・・・。。

ところで、このSTAP細胞の論文問題で世界中から注目を浴びることになった理化学研究所(理研)って、この問題が発生するまで「どんな組織で何をしているところ・・?」と聞かれても、よく知らない人が多くいたのではないだろうか。
我が家の女房殿も「理研って、“ふえるわかめちゃん”や“わかめスープ”など(ここ参照)を作っているところ・・・」と言ったことぐらいしか知らなかった。
そこで、今日は今話題になっている、理研のことをこのブログで取り上げた。
理化学研究所は、明治維新(1868年)からほぼ50年後、日本の科学技術近代化の黎明期に当たる1917(大正6)年、日本における資本主義の父とも呼ばれる大実業家、渋沢栄一の呼びかけで創設された伝統ある研究組織であるが、其の理研の設立された当時の状況を見てみよう。
日清(1894年〜1895年)・日露(1904年〜1905年)の両戦争の中で進んできた日本的産業革命は1908・9年(明治41・42年)頃には確立され不況の中で資本の集積が進みつつあった。
こうしたなか、日本の科学の状況は、まだ西洋の模倣が主であったと言ってよい。創造的な研究成果もあがり始めてはいたが、主に欧米に出向いての仕事であり、国内での創造的科学研究を可能にする基礎づくりが強く求められていた。
1908(明治41)年〜1909(明治42)年頃の創造的成果につながりのありそうな出来事を蔵書の『朝日クロニクル 週刊20世紀紀』1908−9年号を参考に書けば以下のようなものである。
1908年
4月、癌研究会発会式(会長青山胤道男爵..。評議員に山極勝三郎がいる。※11参照)。
6月、陸軍、臨時脚気病調査会を設置し7月4日発足式(初代会長:森林太郎[=森鴎外]。委員に鈴木梅太郎も在籍)。
6月細菌学者ロベルト・コッホ夫妻が北里 柴三郎に招かれて来日。
7月、池田菊苗が、グルタミン酸塩を主成分とする調味料製造法の特許を取得。
9月小川正孝が新元素「ニッポニューム」(Nipponium: Np。「原子量が約100の43番目の元素」)発表(ただし、原子番号75のレニウムの誤認。※12参照).
この他、この年長岡半太郎が、ゼーマン効果の実験研究開始(※13参照)。又、中村清二が、『帝国理学研究所設立の必要』を『時事新報』に書く(※14の参考文献のところ参照)。
1909年
3月、木下季吉(在英)が、α粒子写真作用発見(※15参照)。
4月、秦佐八郎が留学先のドイツで、パウル・エールリヒとともに、梅毒の特効薬サルバルサンを発見。第27回ドイツ内科学会で発表。
同4月、高峰譲吉(在米)、タカジアスターゼの日本での特許取得。
5月鈴木三郎助うま味調味料味の素」を工場生産して、売り出しを開始した。

恐るべき伝染病の原因が特定の病原微生物(細菌)によって起こることが明らかになったのは1870年代からで、予防法、治療法も次々開発された。
開拓者はドイツのコッホエールリッヒ、フランスのパスツールらであった。
彼らのもとへ19世紀末から北里柴三郎志賀潔秦佐八郎ら、日本の青年医学者たちが留学し、北里は、留学先のコッホのもとでベーリングと共同で破傷風の純粋培養に成功(1889年)し、翌年破傷風血清療法を開発し、帰国後は、香港でペスト菌を発見(1894年)した。そして、帰国してすぐ、日本に伝染病研究をする必要があることを訴えた。直ちに私財を投じて応えたのは、福沢諭吉であった。
北里は私立伝染病研究所(現:東京大学医科学研究所)の初代所長となり、所員らと共に華々しい成果を上げる。後に同研究所の東京大学への移管が通告されたとき辞職し、北里研究所を作った。
北里と同じく私立伝染病研究所に勤めた志賀は、1897(明治30) 年に、ここで赤痢菌を発見した。

理化学研究所設立(2−2)

理化学研究所設立(参考)

(冒頭の画像は大正期の理化学研究所、画像はWikipediaより)

床屋さんのサインポール

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「床屋さんはどこも赤青白の3色の回転灯が店の前にあるけれど、どうしてかな〜?」

子育てしたことのある人なら、だれもが小さな子供の質問にどきまぎさせられた経験を持っているのではないだろうか。
北極と南極の氷、どう違う?(03/15)
植物にも体温はあるの?(03/29)
クモの巣はどう作る?(04/05)
好奇心の旺盛な子供に、このような質問を次々とされたらどうします?
私は新聞などちょっと面白いと思った記事を見つけるとスクラップを残してあるのですが、冒頭の質問は、2011(平成23)年の今日・6月25日付朝日新聞朝刊 be 連載の「ののちゃんのDO科学」欄に掲載されていたののちゃんの疑問である。以下の質問も同様。以下参照。
朝日新聞デジタル:ののちゃんのDO科学一覧

さて、先に書いた床屋さんの赤・白・青の三色の縞模様がクルクルと回転する細長い円柱形の看板はサインポール(signpole)と呼び、今では、理容店を 示すシンボルともなっている。
営業中であることを表すため回しているが、この三色の「サインポール」は、世界共通のマークだという。
サインポールの由来には諸説あるようで、Wikipediaには4種類の説を上げている(※1参照)が、「ののちゃんのDO科学」ではののちゃんの質問に対して、その中の一説を藤原先生が、確からしいところの話として以下のように説明していた。
中世のヨーロッパでは、歯を直したり傷を手当てしたりする人たちが理髪外科医と呼ばれ、髪を整える仕事もしていた。
その治療法の中に「瀉血(しゃけつ)」というのがあり、体の悪い部分に、悪い血が集まるから、病気を治すためにその血を体外に出そうとした。当時はこのような方法が盛んだったようで、患者に棒を握らせて、血が棒を伝わって受け皿へ落ちるようにしていた。
だから血が目立たないように棒は赤く塗られていたらしい。治療後に巻く白い包帯が棒に巻きついたことがあり、そんな様子から赤と白が理髪外科医の看板に使われるようになったという。
「では、青は何なの?」というののちゃんの説明に、
いろいろな看板が使われるうちに青も加わったみたい。その後、専門性が高まって外科と理髪が分けられるようになり、イギリスで、1745年に仕事別に組合を作った時、外科は赤白、理髪は赤青白を使うようになったんだって。理髪店の団体の人に聞いてもこの説が有力だって教えてくれた。
お医者さんがやっていたことと関係づけて、赤は、動脈、青は静脈、白は包帯を表すという説明も聞く。ただ動脈を赤、静脈を青で表すのは、1628年の発表で用いられたのが最初らしい。
しかし、赤青白を使った看板はその前からあったので、この説は後から広がっただけと言えそうだ。この説は
日本心臓財団のHP※2:「赤いハートは聖杯から」に、もう少し詳しく書かれているのでそこを読まれるとよい。

上掲の画像は、Wikipediaに掲載の「中世ヨーロッパの瀉血」の様子を描いた画像。これを見ると、瀉血をするのに棒をもっているようには見えないが・・・。

それでは、「サインポール」は、何時日本でも使われるようになったのか?
日本には、髪結いという仕事が江戸時代にもあったが 、西洋風の理髪店は1869(明治2)年に横浜が開かれたのが最初。その2年後、赤青白に塗り分けた看板の記録が残っているらしいので、西洋の理髪技術とともに入ってきたようだ。このことは この後でまた書くことにしよう。
「美容院」では赤青白の「サインポール」を使っていないが、「美容院」が法律で区別されたのは第二次世界大戦の後のことであり、その時に、赤青白の「サインポール」は、理髪店が継いだらしい。
よく見るといろんなタイプの「サインポール」があり、型の違いだけでなく、緑やオレンジを使った色変わりタイプ、また、店頭に立てているような大きいものは、存在感はあるが、出し入れが大変と、最近は壁に取り付ける小型のものに人気があるようだ。
では、とりあえず「サインポール」の話はこれまでにして、次は床屋の話に移ろう。
現在の理容店(理髪店)は、一般的に散髪屋、床屋という呼び名が用いられ、「理容室」は男性用であり、「美容室」は女性用といったイメージを持つ人が多いかもしれないが、美容と理容の意味は似ているが、これは男女の区別ではなく、法律で次の通り、業務内容が明確に区別されている。
○理容:頭髪の刈込、顔そり等の方法により容姿を整えること(理容師法第1条の2第1項)
○美容:パーマネントウエーブ、結髪、化粧等の方法により容姿を美しくすること(美容師法第2条第1項)
そもそも、理容の場合、仕事のなりたちは、文明開花散髪脱刀令(明治4年8月9日太政官第399)が発布されたあたりに遡る。しかし、この法令は一般に「断髪令」という名称で知られているが、実際は、髪型を自由にして構わないという布告であり、髷を禁止して散髪を強制する布告ではなかった。
この断髪令が布告される3ヵ月前に、
半髪頭をたゝいてみれば因循姑息の声がする
惣髪頭をたゝいてみれば王政復古の音がする
ザンギリ(斬切)頭をたゝいてみれば文明開化の音がする
という俗謡が新聞に掲載され、流行したが、これは新政府の木戸孝允が新聞の果たす役割が大きいことに着目し掲載させたもので、文明開化にザンギリ頭が欠くことのできないものであるという観念を国民に植え付けたのだそうだ(※3:「全国理容生活衛生同業組合連合会」の理容の歴史のここ参照)。
男性が髪型改革で混乱した影響からか、女性の中から黒髪をバッサリと切ってしまう人が現れた。これに対し、政府部内でもこの現象を問題視して、明治5 年4月5日(1872年5月11日)に「婦女子のザンギリと男装はひっきょう『散髪の儀は勝手たるべし』とのかねての布告の趣旨のとり違えであるから婦女は従前のとおりにせよ」という布告を出すに至り、ついには、明治6年(1873年2 月13日には「婦人断髪禁止令」が出されている。
そののち「婦人束髪会」(著者:豊原国周。※4参照)は、男性の断髪に対する政府の「散髪七徳の広告」(大坂新聞・明治6年1月20付け。※3のここ参照)と同様に、「女子の今日の結髪は、実に無駄遣いである」と結髪の不経済さを説くなどして、執拗に日本髪廃止に力を入れた(※3のここ参照)。以後、新しく開発された近代束髪は明治の女性の間に多く見られるようになるが、 基本的に女性は明治時代になっても髪を結うのが普通であって、「カットでそろえる」という概念はなかったようだ。
そのため、最初は理容美容が一緒だった法律「理容師法」が昭和23年(1948年)1月につくられ、徐々に成熟してきたことによって、昭和32年(1957年)に、単独の法律「理容師法」「美容師法」に分かれたのだという。※3また理美容を参照)。

現在の理容店は、一般的に床屋という呼び名を用いるが、これは江戸時代から明治にかけての理髪業に従事する人を総称し、髪結いといったが、男の髪を結ったり、ひげやさかやき(月代)をそったりするのを職業とした店を「髪結い床」と呼んだことに由来する。

床屋発祥の地は山口県下関市といわれており、髪結職の業祖に関しては江戸時代中期につくられたといわれる「一銭職由緒書」という史料が各地に伝えられているそうで、同書によれば、藤原鎌足の子孫である藤原晴基(または基晴)の三男ともいわれる藤原采女亮政之新羅人から技術を学び髪結所を開業したのが始まりとされているそうだ。
店の中に床の間を設け亀山天皇と藤原家を奉る祭壇があり、人々は“床の間のある店”から転じて“床屋”という屋号で呼ぶようになったという。采女之亮はその後鎌倉に移り、幕府からも重用されるほどになったといわれている。
そして、日本における理美容業の祖として、昭和のはじめ頃まで全国の理美容業者は采女亮の命日である17日を毎月の休みとしていたようだ(※3のここ参照)。

髪を結う場合、自分で髪を結う場合と人に結ってもらう場合がある。
雑用をこなす召使がいる武士と違い、庶民は自分で、月代(さかやき)を剃ることができず髪結いに頼んでいた(貧しい人は月代を伸ばしっぱなしにしたり妻に剃ってもらうなどした)。
江戸時代になって髪結い職というのが、社会的要求から男子の場合は公に許された鑑札制となり、慶長末(17世紀初頭)の高札には「一銭剃り」とか「一文剃り」とあるという(NHKデーター情報部編ヴィジュアル百科『江戸事情』第六巻服飾編)。
男性の髪結いは月代が広まった室町後期位から江戸初期に永楽銭一文程度の料金で髪を結い月代を剃った「一銭剃」が起源だといわれている。髪結いは町や村単位で抱えられ、床と呼ばれる仮店で商売を行ったため床屋とも呼ばれる。
床屋が特に多かったのは独身男性が多い江戸だったが万治年間(17世紀中頃)、江戸市中に髪結床の株を設け、1町内に1か所、八百八町に1件ずつとして八百八株と定めた。床屋の数はこれ以後増え続け、幕末には2400余り開業されているという。
1軒の店舗を構えたりせず江戸初期は江戸も京阪も大きな橋の袂など往来の多い所へ床を置き、葦簀(よしず)や幕の類を巡らして、通行人の求めに応じて月代を剃ったり髪を結った。
江戸の男性はかなり頻繁に床屋に通っていたらしく床屋は番所や社交場としても利用された。
江戸や大阪・京都では、髪結い職人の数を限定して営業保障をする一方、髪結いに対して交役を課し、床屋は幕府に届出して開業した後は町の管理下で見張りなどの役割を果たしており番所会所と融合したものを内床、橋のそばや辻で営業するものを出床、また髪結いの道具一式を納めた道具箱を持って得意先回りをするものは廻り髪結いと呼ばれた(大坂では床髪結は牢番役を務めその中核には一人の組頭がいたという)。
当時の床屋は現在の美容院と違って客の髭を剃ったり眉を整えたり耳掃除までしていたため、かなり長い年月の修行が必要になる技術職でもあったようだ。床屋の料金は天明年間でおおよそ一回280文前後で、月代・顔剃り、耳掃除、髪の結いなおしをする。
一方、得意先と年季契約して出張する「廻り髪結い」は大店などに抱えられており、主人からは一回100文前後、ほかの従業員はその半額程度の料金を取ったという。決められた料金のほかに、「あごつき」といって得意先に食事を出してもらう契約のところもあり、また祝い事のご祝儀なども届けられるなど、腕のよい髪結いならそれなりに余裕のある暮らしを送っていたようである。

上掲の画像は「(洛中)と郊外(洛外)の景観や風俗を描いた江戸時代以降の屏風絵『洛中洛外図屏風』(舟木本、屏風六曲一双)東京国立博物館蔵に、描かれている「床屋と番人」である。原画は以下でみられる。向かって左から2曲目橋の袂に描かれている。

東京国立博物館 - コレクション 名品ギャラリー 館蔵品一覧 洛中洛外図


上掲の画像は、式亭三馬の滑稽本『浮世床』に描かれている「髪結い床」の図である。
この図に出てくる床屋は、長屋の一角に店を構え、客は上り框の板敷に座り、月代や顔をそり、髷を結いなおしてもらっている。親方のほかに下職も何人かいた。湯屋の二階(※5参照)と同様、順番待ちの客にとっては良い社交場でもあった。

上掲の画像は場所回りの髪結床(出床)の図である。向かって左:山東京伝作・画『青楼晝之世界錦之裏国立国会図書館蔵。右:英泉画 「髪結い床の図」名古屋市博物館蔵である。
左図は、遊郭などを回り、夫人の髪を結っている(女髪結い)。女の人の髪は遊女以外は自分で結うことを原則とし、髪を結えれば一人前と言われた。女性の髪を手がける女髪結いは明和年間(1764年から1771年)あたりから登場したようだ。奢侈を戒めることから何度か禁令が出たようだ。また、右図、英泉の『青楼晝之世界錦之裏』の原画は以下でみられる。

電子図書 戯場訓蒙図彙 - 文化デジタルライブラリー


上掲の画像は、歌舞伎を題材とした読み物『戯場訓蒙図彙』(享保3年=1803年 初代(歌川豊国画)に出てくる芝居の楽屋裏に設けられた「床山」の図である。役者の髪を専門に結う職人を床山と呼び、現代もその名は続いている。(※ここに掲載の画像等はいずれも私の蔵書NHKデーター情報部編ヴィジュアル百科『江戸事情』第一巻生活編、第六巻服飾編のものを使用した)。
 
江戸時代までの月代を剃り、髷を結う床屋ではなく、現代的な西洋理髪をする床屋を、明治の初めころは西洋床と呼んでいた。その最初の西洋床は、外国との通商条約(日米修好通商条約を参照)が締結されたことにより開港された港町から始まるが、特に江戸に近い横浜で始まった。
その祖は南京町で開業した小倉虎吉や松本定吉という人物等だとされている。
そして、一般の人たちが、散切り(ざんぎり)頭になったのは、散髪脱刀令が出された後の1873(明治6年)3月明治天皇が西洋風に断髪したことで、官吏を中心にこれに従う者が増え、一般の国民も同様にする者が増えていったが、それでも保守的な男髷姿を選ぶ人を(半ば揶揄して)「丁髷頭」と呼ぶようになった。そして、1887(明治20)年頃には、殆どの人が散切り頭になったといわれている。

これで床屋とサインポールの話は終わるが、「なぜ?」「なぜ?」を連発するののちゃん・・・いや、多くの小さな子供の質問に辟易している人も多いのではないかと思うが、大変なことではあるが、その質問にちゃんと答えてやるのが一番の教育なのだろう。
古代ギリシアの哲学者であるソクラテスは、「知らないのに知っていると思っている人より、知らないので知らないと思っている人(無知の知)のほうが優れている」と言っており、弟子のプラトン等への教育方法としては“相手に問いかけて、答えを相手の言葉で相手の中から引き出す”=“問答法”が有名。
ソクラテスは「 私は自分が何も知らないということを知っている 」と主張して いるのだからソクラテス自身は何も教えはしない。
ただ、知らないから教えてと「問うこと」だけをする。問われた相手の回答に納得できなければ更に問いを出す。
これを繰り返し最後には、相手は自分の納得できる回答をする。この答は 相手の中で出来たもの。だからソクラテスは教えていないことになるのだ。
ソクラテスの場合は「これはなにか?」と問答しながら、結局最後には相手に自らその真実を気づかせている。
これとは逆に、仕事でも勉強でも疑問があった時には、 知らないことは知ったふりをせずに人に聞くことが大切である。
ところが最近の若者は、聞くのが恥ずかしい。まあよくわからないけどいいやと解決しないことが多くあるようだ。
そういうことを積み重ねていると、後々痛い目を見ることになる。
『聞くは一時の恥、聞かぬは一生の恥』・・・という諺もある。
私も現役時代感じたことであるが、学生時代とは異なり、一般社会では仕事のできる人と頭の良し悪し(この場合、一流の大学を出たとか、なんでも良く知っているとか)はあまり関係ない。
仕事のできる人とできない人は「、知らないことを知らないとわきまえているか否か」で決まる。
仕事でも勉強でもできる人ほど、判らないことは判らないと疑問点は質問していることが多い。つまり、知ったかぶりはしていない。
彼らは、聞くことを恥ずかしいなどと思わず、わからないままにしておいて、成果が出ないことを恥ずかしいと思っている人達である。
若いうちは特に誰にでもなんでも聞けるという特権を持っている。年を重ねるほどに聞きづらいことも、若いうちなら許される。そしてチャレンジし、失敗することも・・・・。

生涯に約1300もの発明をしたアメリカの発明家・起業家であるトーマス・エジソンは、発明王また、エジソンの研究所が置かれたニュージャージー州のメンロパークにちなんで「メンロパークの魔術師」とも呼ばれるが、彼の功績は、伝記などに記されている“発明”ではなく“発明”という行為を大勢の人間に認知させたことが何よりも重要なことであったと言われている。
それまでの発明と言うものは「立派な学校を出た一流の科学者が作り出すもの」という既成概念があった。しかしエジソンは幼いころから正規の教育を受けられないという困難に見舞われたが、図書館などで独学し、新聞の売り子(販売員)として働くことでわずかなお金をコツコツと貯め自分の実験室を作った逸話などでも知られている。16歳ころには電信技士として働くようになり、さまざまな土地を放浪しつつも、自力で様々な科学雑誌を読破して学び続けた。耳が不自由になったにもかかわらず、それに負けず、努力を積み重ね成功したことでも知られている。
エジソンは成功した人物として知られているが、その一方で、それと同じくらい、あるいはそれ以上に数々の失敗・敗北を経験したことでも知られいる。
そんな努力の積み重ねで身に付けた科学知識で様々な発明を作り上げていった。そして発明を一般人にも手の届く、アメリカンドリームを実現する手段へと多くの人たちに夢を与えた人であった。
数多くの発明の中では「電球を発明した」人物としても有名だが、実際には電球の原理はエジソン以前にすでに知られ、エジソンの独創ではない。彼は、電球などの家電を含めて発電から送電までを含む電力の事業化をして普及させ、その電気の流れに乗せてさまざまな電化製品を開発・製造・販売した偉大なイノベーターであったのである(※7参照)。
そんなエジソンの名言・格言(※8参照)には、
「失敗したわけではない。それを誤りだと言ってはいけない。勉強したのだと言いたまえ。」
「私は失敗したことがない。ただ、1万通りの、うまく行かない方法を見つけただけだ。」
「私たちの最大の弱点は諦めることにある。成功するのに最も確実な方法は、常にもう一回だけ試してみることだ。」
・・・といったように失敗を恐れないチャレンジする姿勢こそが、成功の条件だと言っている。ただ、当然、判らないことをわからないままにしていたわけではないだろう。自分で知らべ、判らないことは当然誰にでも相談しながら実験した事だろうと私は思っている。
無論、人にものを聞くのに、全く考えずに、質問していてはいけないが、独りで考えても解決しないことは、質問すべきだろう。
何も考えずに質問しても実力はつかない。自分なりに論理を組み立て、ここまではわかるが、この部分がわからない。この部分について、自分はこう思うのだが、なぜこうなのか。といったような自分なりの見解を持って、質問をしなければいけないだろう・・・。
経営の神様と言われる松下幸之助も質問することの大切さを説いている。「成功した秘訣は何か」と聞かれた時に彼は「わからないことがあったら人に尋ねることだ」と答えているのである(※9参照)。

ただ、今日の「床屋さんとサインポール」の質問をしたののちゃんのような小さな子供は好奇心の塊のようなもの。子どもにとってはなにごとも初体験で、自分が知らないことはストレートに素直に聞いてくる。それに対して、「そんなことはもう少し大きくなればわかる・・」などと拒否せずに、なんでも真面目に答えてやることが大切だろう。
そして、ソクラテスじゃないけれど、「それでこれはどうなると思う?」と新たな質問を投げかけて考えさせたり、一緒に百科事典などで調べてみて一緒に勉強してやることがその子の成長へのより動機づけとなるのではないか。
それやこれやで、今日は、「ののちゃんのDO科学」過去記事(※9)などについて、一緒に子供と話しをしてみても面白いかもしれないね。

参考:
※1:サインポール - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%9D%E3%83%BC%E3%83%AB
※2:日本心臓財団HP−赤いハートは聖杯から
http://www.jhf.or.jp/bunko/mimiyori/14.html
※3:全国理容生活衛生同業組合連合会
http://www.riyo.or.jp/
※4: 国立国会図書館デジタル化資料 - 婦人束髪会
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1305531
※5:世風呂:江戸の湯屋・ページ5
http://www5.ocn.ne.jp/~ukiyo26/yuya5.html
※6:自己成長のチャンスは質問力にあった!経営の神様・松下幸之助も認めるその重要性 ...
http://u-note.me/note/47485774
※7:電力事業と計測の歴史 (その1) - 日本電気技術者協会
http://www.jeea.or.jp/course/contents/02102/
※8:トーマス・エジソンの名言・格言集。失敗は勉強である!
http://iyashitour.com/archives/20390
※9:asahi.com:過去記事一覧 - ののちゃんのDO科学 - NIE
http://www.asahi.com/edu/nie/tamate/index2.html


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