歓楽的な温泉都市大分県別府市の観光開発に尽力し、田園的な温泉保養地由布院の礎を築いた実業家油屋 熊八は、文久3年7月16日(1863年8月29日)、伊予国、宇和島城下(現愛媛県宇和島市)の裕福な米問屋の長男として誕生した。江戸時代は油問屋を営んでいたことから明治になって油屋の姓にしたと言われている。
15歳の時には家業(米国問屋)に精を出していたといわれ、26歳の時に旧宇和島藩主伊達宗城の側用人戸田義成の娘ユキを娶る。翌、27歳の時、町村制施行(明治22年4月)時の町会議員となる。
しかし、明治24年(1891年)父が没した後、30歳の時、熊八は家業に見切りをつけ大阪に出て、相場や株式市場を学び米相場で富を築き、別名「油屋将軍」として羽振りが良かったらしいが、日清戦争後の経済の大変動のとき、相場で失敗したことを契機に、明治30年(1897年)再起を期して単身アメリカに渡ったという。
渡米中の熊八の詳細は不明だが、ホテルのボーイや皿洗いなど手当たり次第に色々な職業をしていたようだが、明治33年(1900年)春、熊八38歳の時、サンフランシスコ郊外で空腹と疲労で行き倒れとなっていた時、日系人牧師より洗礼を受け。キリスト教徒となり、牧師より帰国を勧められ、3年間の滞米生活に終止符を打ち帰国の途についたという。
しかし、熊八は帰国後、また元の相場の世界に頭を突っ込むが、うまく行かず、熊八のアメリカ渡航時に別府に身を寄せていた妻を頼り、別府港(のちの楠港)開港(明治4年=1871年)以来温泉地として飛躍的に発展していた別府温泉で再起を図ろうと移り住む。
賢明な熊八の妻ユキは熊八渡米時に渡されていた金で古家を買っていた。それを改築し、湯治場に改築して、「亀の井旅館」(後に亀の井ホテルと改称。現在の亀の井ホテル別府店)と名付けた。
熊八はアメリカで助けられ牧師より学んだ、聖書の中にある言葉「旅人をねんごろにせよ」(旅人をもてなすことを忘れてはいけない。※1:「新約聖書」ヘブル人への手紙 13章2節参照)に感銘していたことから、この言葉を思い出し、この言葉を合言葉に、サービス精神の実践として婦人が経営していた亀の井旅館を手伝うところから 別府生活が始まったという。それが明治44年(1911年)のことだとされている。
宿泊客に対する熊八のサービスは徹底していたようで、ロビーに投書箱を置き、「お食事はいかがでございましたか」「女中やボーイに不行き届きはございませんでしたか」など4項目について記入してもらい、客へのサービス改善を怠らなかったという。又、旅館に2メートル四方もある世界各国の国旗を全部揃え、5人以上の外国人団体客が泊まった時は、その国の国旗を玄関前に掲げて歓迎の意を表し、ホテルのホールでは歓迎ダンスパーティーも開いて外国人客を喜ばせた。又、利用客に万が一の急病に対処する為に看護婦を常駐させていたらしく(※2参照)、こうしたきめ細かいサービスで亀の井の名声は高まり、有名人など上客の宿泊も増えていったという。
小旅館の経営から初めて独特の奇知と迫力ある行動力と宣伝力で大正13年(1924年)には洋式ホテルに改装して、亀の井ホテルを開業。
続いてバス事業に進出し、昭和3年(1928年)に亀の井自動車(現在の亀の井バス)を設立して、日本初の女性バスガイドによる案内つきの定期観光バスの運行を開始した。
この間、梅田凡平(口演童話家)らとともに別府宣伝協会を立ち上げ、別府お伽倶楽部のお伽船(※3参照)の活動に参加する中で、自らのもてなしの哲学と様々な奇抜なアイデアで別府の宣伝に努め、大正の広重といわれる盟友吉田初三郎とともに別府の名前を全国へと広めた(※4参照)。さらに、中谷巳次郎とともに由布岳の麓の静かな温泉地由布院に、内外からの著名人を招き接待する別荘(現在の亀の井別荘)を建て「別府の奥座敷」として開発している。
さて、戦後別府 観光の最大の功労者として頌徳碑も建立されている油屋熊八という人物について当ブログでは、Wikipediaをはじめ、ネットで検索されたもの(★印のもの)等を参考として書いたのだが、熊八の確たる足跡となると、本人が遺した日記や資料は意外と少なく、虚実入り混じった伝聞が散見され、それが市井に流布して実像掌握を困難にしているのが現実だそうである(※5参照)。
ひとつ解せぬことがあったのだが、アメリカから帰ってきた熊八が別府のユキを訪れユキの古家を湯治場に改築し「亀の井旅館」と名付け、婦人が経営してい旅館を手伝うところから 別府生活が始まったというが、その旅館の名前「亀の井」は「亀井タマエ」と言う女性の名前をとったとしている者が多く、中には,この女性を熊八の第二夫人とする説もあるようだ。
熊八の女性関係はかなりのものだったらしいことから、そのような説も出ているようだが、調べてみると「亀井タマエ」という人物はおらず、「亀井アイ」という女性が実在していたようで、彼女は「料亭一つ家」の女将で、熊八に旅館経営を教えた重要な人物だったそうだ。
この「亀井アイ」は相当の経済人であり、男女関係の問題はさておき、熊八にとってはビジネス上の先輩であり、また熊八の良き協力者、今風に言えばビジネスパートナーだったようである。とあったが、それなら、苦労を掛けた女房を訪れ旅館業を始めるのに女房以外の名前を旅館名にしてもおかしくないと納得できた気がする。
別府温泉郷は大正時代を迎えると大きく発展を遂げているが、当時の別府観光の発展を支えたのは外来からやってきた人々だそうだが、その中で、別府温泉郷を全国区に押し上げた最大の功労者は「別府観光の父」と呼ばれている油屋熊八であることは疑いの余地はないようだ。しかし、彼が別府で活躍する10年ほど前から様々な人物が別府の魅力に取りつかれて開発を手掛けていたようだ(※6参照)。以下※5.※6を参考にまとめることにしよう。
別府観光の幕開けは、明治維新政府では長崎裁判所参議に任じられていた松方正義が、日田県知事に転任してきて、県内視察の際、海上交通の便を図れば別府発展が期待されるとの発案から明治4年(1871年)、別府(楠)港が築港し整備され、明治6年(1873年)に大阪開商社汽船の「益丸」が就航、大阪との航路が結ばれたのが始まりと言える。
この時は大阪から香川県の多度津・広島県の鞆の津・愛媛県三津浜を経由し別府に至るルートを蒸気船「益丸」18トンが月1往復したのみであったが、これを契機に、次々と就航する船が増え、2年後には大阪と別府を結ぶ瀬戸内航路は競争時代を迎える。激しい競争を展開していた。それが明治44年(1911年)のことだと言われている。
各社の経営環境は厳しさを増し、やがて船首が一体となって、明治17年(1884)大阪商船株式会社 (現:商船三井)が設立された。
大阪商船が別府港に寄港したのは、大阪−細島航路と大阪−宇和島航路の2航路であった。運航日も開設当初の月3回から、6回そして8回と増便し明治30年代には毎日運行となった。当時まだ鉄道は開通していなかったので、大阪商船が観光客の旅客輸送に果たした役割は計り知れないものだったろう。
そして、明治33年(1900年)九州初の路面電車として別大電車が開業。これは、京都電気鉄道、名古屋電気鉄道、大師電気鉄道(神奈川県川崎市)、小田原電気鉄道に続く日本で5番目の電気鉄道として開業したものであった。また、運行のために別府の中心地・中浜に設置された火力発電所は日本で2番目に設置されたものであり、電力は周辺の商店街へも供給され当時としては数少ない街灯も点灯していたという。
そして、明治44年(1911年)には、現在のJR 日豊本線別府駅開業など、交通近代化の影響が計り知れない。
また、次に別府温泉郷が観光地として飛躍する契機となったのは、「上総掘り」(別府では「湯突き」と言う。参考※7のここ参照)と呼ばれる温泉掘削技術の導入であり、この技術は、明治15年(1882年)地元の豪商荒金猪六が掘削したとの記録が最も古いという。
この湯突きによる温泉掘削によって、これまで自然湧出に依存していた温泉資源が人為的に獲得可能となったため、別府各地で源泉掘削が広まり、その湯口数は明治38年(1905年)は198孔であったが、その6年後の明治44年(1911年)には593孔と増加し、さらに大正12年(1923年)になると1,584孔にまで達した。別府温泉郷は次第に温泉観光地として各地からの来客を迎えることになり共同温泉も賑わいを見せてきた。そして、別府および浜脇両温泉は僅か2 年で入浴客数が10倍前後に増加するなど観光地化が劇的にすすんだようだ。
そして、観光施設の開発であるが、今日でも別府観光の目玉商品である「地獄巡り」の自然湧出の源泉「地獄」を観光資源としていち早く着目したのは、鉄道技師であった千寿吉彦(直入郡竹田町出身 在:東京)で、彼は明治の末に日豊本線の敷設工事で別府にやってきた際、その風光明媚な土地に魅かれ開発の夢を膨らませたといわれている。
当時点在していた地獄は「厄介もの」扱いされていたようが、千寿はこのような扱いを受けていた海地獄を別荘地の泉源という全く新しい発想で買収し、温泉付き別荘地の開発を構想し今日の新別府一円を開発したという。
この地獄がさらに新しい局面を迎えることになったのは、明治43年(1910年)に、地獄を覗き見していた湯治客に対して、海地獄の管理人が二銭を徴収したことが始まりとされている。つまり、これまでの「厄介もの」が「見せ物」としてそれなりに価値のあることが判明し、各地獄の所有者も海地獄に続いた。
さらに、所有者たちは競うようにして各地獄に嗜好を凝らしはじめ、これが本格的な観光施設としての地獄めぐりの始まりとなったようである。
地獄ばかりか別府温泉郷の名が一躍全国に知れ渡ったのは、昭和天皇(当時皇太子)による巡幸の報道によるものであった。目的は大正9年(1920年)11月8日から4日間、宇佐平野を中心とした二豊の原野で繰り広げられた陸軍大演習を統監することだったようだ(※8のNo688大正9年11月皇太子行啓参照)。
また、この巡幸に合わせて道路等の環境整備もおこなわれ、大演習後は、これが地獄めぐりの循環道路ともなり、地獄の所有者たちはこれを好機と遊園地化を推し進めていったといわれている。
皇太子の巡幸によって全国的に名が知れ渡ることになった別府温泉郷ならびに地獄であるが、この機を逃さなかったのが油屋熊八であった。先にも述べたように、彼は亀の井バスを設立して、昭和3年(1928年)には全国初の試みとして「ガイド付き遊覧バス」の運行を開始した。
バスガイドは大正14年(1925年)12月、東京乗合自動車が遊覧自動車で採用し、観光案内のため乗務させたのが最初であった。観光案内には豊富な知識が要するとされて、大学を卒業した男性のみを採用した。しかし案内能力は抜群に良かったが、それに見合う手当や待遇を求めていたので、かなりの高コストになってしまった。今日のような女性のバスガイドは熊八が経営する亀の井バスの地獄巡り遊覧バスがはじまりであり、平成21年(2009)年3月30日に亡くなった村上アヤメさんが当時採用された第一号ガイドの一人だそうである。
若い女性の採用と、七五調による観光案内が話題を呼び、連日満員の乗客を乗せて北浜を出発したといわれている。また料金を一周1円で乗り降り自由とした。この価格は同時期の別府と海地獄間のタクシーならびに馬車の往復料金2円50銭と比べても破格なものであったようだ。
以下は、村上あやめさんが、2008年10月トキハ別府店20周年のセレモニーで名調子を披露している様子である。
初代バスガイド村上あやめ - YouTube
別府温泉郷が観光地として全国的に知れ渡るとともに、市内各所に観光施設の整備が相次いだ。まず、大正14年(1925年)に、広島県呉市出身で、呉市長、貴族院議員を務めた松本勝太郎によって温泉と複合した総合的なレジャー施設別府鶴見園を開園。勝太郎は、松本建設を興し、鉄道工事で財を成した人物であるが、明治時代末期に豊州本線(現:日豊本線)の工事に関わった際に別府の魅力に惹かれ、レジャー施設建設を思い立つたという。当時阪神地区で人気を博していた宝塚を模して「鶴見園女優歌劇」を結成し、「九州の宝塚」ともいわれたようだ。
次いで、昭和3年(1928年)には東京の鉱山会社(「木村商事」と言うらしい)によって別府市内を一望できる山上に「ケーブルラクテンチ」が開園した。施設としては、遊園地とともに展望温泉、食堂売店、乙原地獄、ベビーゴルフ場、演舞場などが整備されたようだ。
この当時別府温泉郷は湯治を中心とする鉄輪温泉・明礬温泉、保養的な観海寺温泉そして歓楽色の強い浜脇・北浜温泉とに大まかに区分されていた(温泉のことは別府温泉又※9:「別府八湯まちなみ彩都- ITOデザインの別府八湯フォトアルバム参照)。とりわけ、浜脇温泉と別府(北浜)温泉は別府港と別府駅、東別府駅を中心として大いに賑わっていた。
松原公園(※9の別府市の公園>松原公園参照)は別府(北浜)温泉と浜脇温泉との中間点に位置し、その立地性から公園周辺には劇場、芝居小屋、商店が立ち並んでいた。
このように、昭和初めの別府温泉郷は地獄巡りをメインにしながらも市内各所に大規模な観光施設が点在する一大アミューズメント(娯楽)地帯をなしていたようだ。
この頃、別府温泉郷を舞台として大きな博覧会も開催されている(※10参照)。当時全国各地で地域産業の育成を意図した産業・勧業博覧会が開かれていた。
別府で最初に開かれたのが「中外産業博覧会」で、同博覧会は、別府市制施行(大正13年 4月1日)5周年を記念して、昭和3年(1928年)の4月1日〜5月20日の40日間開催された。地獄めぐり遊覧バスもこの開催に合わせて運行を開始している。会場はメインとなる第一会場として別府公園、第二会場として浜脇海岸埋立地が充てられた。
この開催は別府温泉郷が阿蘇・雲仙・長崎とを結ぶ国際観光ルート(現在の九州横断道路[やまなみハイウェイ]の原型でもある)として構想されたことによるものであった。会場の別府公園には温泉館・観光館・産業本館・大分館・台湾館・朝鮮館・農具機械館・ラジオ館・陸軍館・海軍館といった数々のパビリオンが建ち並び大勢の入場者で賑わった。
●上掲の画像(クリックで拡大)は私の絵葉書のコレクションより、向かって左:別府市主催中外産業博覧会の記念絵葉書セット(袋入り5枚中の1枚。同画2枚と本館、会場正門、温泉館、別府前景色の写真入りのもの)。右:これは記念絵葉書ではなく、顧客招待用また宣伝用に作られた使用済みハガキ。大分県特産・別府名産陳列所が昭和2年7月盛夏として、「暑中見舞い」に使われている。他にも同博覧会の絵葉書はいろいろ出ているが、以下参考の※11:「山口県文書館」で見ることが出来る。
又以下は、大正から昭和初期にかけて活躍した鳥瞰図絵師・吉田初三郎が描いた中外産業博覧会の会場及び周辺案内図である(発行年:昭和3年=1928年、発行元:別府市)。
別府市主催中外産業博覧会
上掲の画像右の葉書には、大谷句仏上人 湯治の歌として「天下第一の湯に入る幸や朝涼し」の句が掲載されている。
この句がいつ詠まれたものかは知らない。大谷句仏上人とは、明治41年(1908年)11月には父光瑩より東本願寺第二十三代法主を継承し、真宗大谷派管長となっていた大谷光演のようだ。
正岡子規の影響を受け、『ホトトギス』誌にて河東碧梧桐、高浜虚子らに選評してもらい、彼らに傾倒して師と仰いでいたが、後に『ホトトギス』誌の影響から脱し独自の道を歩む。「句仏上人」(「句を以って仏徳を讃嘆す」の意)として親しまれるていたそうである。
先に紹介すべきであったが、参考※11:「山口県文書館」の中には、初三郎最大の盟友でもあったらしい油屋熊八の依頼により作成した亀の井ホテルの案内図もある。以下がそれである(発行:昭和2年=1927年、発行元:亀の井ホテル)。
別府温泉御遊覧の志おり「日本第一の温泉別府亀の井ホテル御案内」
スポンサーの亀の井ホテルが別府の大半を占めるという、大胆な構図で描かれている。このコンビで数々のイベント企画や日本新八景(日本八景ともいう)の当選(温泉部門第1位)など観光別府の売り出しに成功しているという。
ちょうど一般の国民が観光に目を向けるようになった時期に行われた日本新八景の選定は、広く国民の関心を集め、投票総数は当時の日本の総人口の1.5倍にもなる約9,300万通に及んだという。投票は全国からの公募で、官製はがきに一枚一景を書くことによるものとされていた。この投票では、一部の地域で、集中的な地元投票がおこなわれたとも言われるが、油屋熊八も別府温泉が八景に選ばれるのに際しては、大いに活躍したようなので、組織的投票運動を繰り広げたことだろう。見事、温泉の部で別府温泉が八景に選ばれた。
選定された景勝地には、著名な文人と画家が訪れ、その紀行文が新聞紙上に掲載されたが、別府温泉の項の筆は過去にも別府を訪れたことのある高浜虚子が執っている。
虚子の別府の旅は、船で別府入りして、さっそく亀の井旅館で一風呂あび、「温泉(ゆ)に入るや瀬戸内海の昼寝覚」と詠んでいるそうだ。
夕方からは、初代別府町長の日名子太郎、市の温泉係の両人の案内で地獄めぐりに出かけ、亀川経由で血の池地獄、竃地獄を見物。明礬の紺屋地獄、坊主地獄、海地獄、鉄輪地獄、さらに鶴見地獄とぐるり一巡し、このうち、鉄輪地獄(現在の陽光荘、※13参照)、鶴見地獄については前に来たとき(大正9年)にはなかったと記しているそうだ。
また、観海寺の住宅分譲をはじめ、文化村(西別府団地の通称)、海岸の埋立地の別荘、新別府の分譲がはかばかしくないという事情にも触れ、「不景気風に吹きまくられて湯の都の発達もちょっと小頓挫の形」とあり、昭和初期の世相がかいまみられるという(※8のNo413 文学散歩、※14など参照)。
虚子は大正9年と今回、そして、翌昭和3年にも冨士屋旅館を訪ねているそうなので相当な別府温泉好きらしい。ひょっとして、先の温泉の句を詠んだ句仏上人も温泉付きの師匠虚子と一緒に来た時の句であろうか・・・。絵葉書一枚でいろいろ想像するのもコレクターなどの楽しみでもある。
又、、虚子が別府へきて、初代別府町長(明治39年=1906年、別府と浜脇両村が合併して別府町となった時の町長)日名子太郎に会っているらしいが、この「日名子」の名前が私には懐かしい。
かつては別府を代表する旅館だったのが日名子旅館であり、別府で一番古いとされる「日名子旅館」(当初は符内屋)の開業は安政年間(1854ー1859年)と云われる。「日名子旅館」は第2次世界大戦後の1945年頃まで営業を続けたがその後岡本忠夫(大分県弥生町出身)が日名子旅館を買収(昭和20年又昭和24年頃とされる)し、合資会社日名子ホテルに商号変更をしていたが高度経済成長期における設備投資の失敗で昭和60年 (1985)年に倒産し、今はデオデオのあるマンションとなっている。
私は、若い頃大阪から東京の会社へ転職し、東京にいる時に見合いをし即、結婚することになったので、地元神戸へ帰ってくる前に、東京の旅行会社で新婚旅行の切符や旅館等の手配をしてもらった。
行程は、初日は神戸で結婚した後疲れるので、夜は大阪の阪急ホテルに泊まり、朝大阪空港から飛行機で九州横断旅行の為に大分空港へ、当時空港はまだ国東半島ではなく、別大興産スタジアム(新大分球場)の位置にエプロンがあった。
別府で地獄めぐり他市内観光の後、日名子ホテルで1泊し、翌日 九州横断バスを利用して久住高原経由で阿蘇へ向かったのを思い出す。
●上掲は日名子ホテルの札(なんというのか知らない荷札かな?)
明治時代は旧国道側が入口だった日名子旅館は大正時代に旧国道から山手側に流川通り(大分県道52号別府庄内線参照)が延びていったため、流川通り沿いに玄関があった。
以下参考※15 :「豊後の日名子一族」によれば、日名子氏の系譜は古代に国東半島を領域とした国前国造の末流とみられるそうで、鎌倉中期の別府温泉には大友頼康によって温泉奉行が置かれた。それが、豊後別府に住みついた日名子太郎左衛門尉清元だそうだ(※16も参照)。
初代別府町長日名子太郎もその末裔だと思うし、日名子旅館の創業者もそうであろう。「日名子旅館」は、当初は「符内屋」と称したそうだが、府内(ふない)は、大分市中心部の明治時代初期までの旧称である。
この歴史ある日名子旅館には初代総理大臣を務めた伊藤博文(号は春畝=しゅんぽ)が名づけた「霊泉館」という別名があり、また政治小説「雪中梅」を書いたことで知られる末広鉄腸も泊まって漢詩を残したようだ。そこにある流川についての解説では、流川の両側に遊郭があったと書いているようだが、のちの近代的な町の様子からは想像がつかないことである(※8のNo1136流川は遊郭街だった!?参照)。
昭和3年(1928年)に始まった別府地獄めぐり遊覧バスの、日本初の女性バスガイドによる七五調の観光案内では
「ここは名高き流川 情けの厚い湯の町を 真直ぐに通る大通り 旅館商店軒並び 夜は不夜城でございます」 と紹介され大いに賑わいを見せていた。
このような歴史ある旅館を吉田初三郎が鳥瞰図で描いていない訳はない。以下は、参考※12:「地図の資料館」の中にあるものである。(発行:日名子旅館 発効日:大正15年夏)
日名子旅館御案内
地獄の観光地化と観光施設の開設が相次ぎ、押しも推されぬ我が国を代表する温泉観光地となった別府温泉郷は別荘地としての開発も盛んに行われた。
別荘開発の先駆者は、前述の海地獄を買収した千寿吉彦である。千寿は前述の通り海地獄を源泉として「温泉付き別荘地」の開発をし、鉄輪温泉に隣接する一帯を新別府と称して進めた。
その後、愛媛県出身の多田次平が大正11年(1922年)六角温泉(※17参照)・荘園地区の開発に着手したが、この開発は資金繰りが行き詰まり途中で頓挫するが、その後を久留米絣で財を成した国武金太郎が継いだ。
これらの別荘分譲地は在阪の政財界をターゲットとしたとも伝えられているが、実際は台湾、朝鮮半島、旧満州で財を築いた人々が多く購入したようだという。
積極的な観光開発により、別府温泉郷における観光客(入浴客)の数は、明治初期と比べると飛躍的に増加しており、明治末には別府村および浜脇村だけでも年間46万人もの観光客(外来入浴客)を数えるまでになった。日清・日露戦争後の好景気など様々な理由で明治期から大正期にかけて別府八湯の旅館数は拡大したと推測される。そして、大正8年(1919年)には別府温泉郷全体の年間入浴客数は100万人を突破したという。
このたように、油屋熊八が別府に来た明治末頃には、初代別府町町となった日名子太郎は既にしたたかに別府宣伝の手を打ち始めていたのだそうである。
日名子太郎は都市計画事業の推進というハード事業と、宣伝と云うソフト戦略をともに意識した都市政策を進めていたようでこの人物の別府進行に果たした役割は非常に大きいという。
上記のような入湯客の増加が需要だとすれば、供給面の宿泊施設の方も別府市誌2005年版には明治35年(1902年)の別府町では名前が分かるだけでも10件の他に数十件の旅館があったこと、また、亀川にも20軒ほどの宿屋があったことが書かれており、それが明治43年になると、別府町の宿屋は175軒にのぼった(『市政洋要覧』)とあり、「大正元年(1912年)には201軒となり、そして、昭和8年(1933年)には296軒を数え、亀川町、朝日村、石垣村が合併した10年には402軒となった。」とあり、こちらも急成長であったことら、別府が明治末から大正期にかけて温泉観光地観光地として飛躍的に発展したのは間違いない。
このような別府発展のための油屋熊八の功績は色々と伝えられているところだが、彼の最大の功績は別府の宣伝にあり、それは民間人としての活躍であり、行政も当然精力的に行っていたようで、むしろ別府発展には官民共同での宣伝戦略の展開こそが功を奏したと考えられているようだ。
熊八が別府へ来る前段階の明治39年時点で、別府、浜脇両町の合併を記念し、別府町長の日名子太郎が大阪方面に出かけ、別府温泉を宣伝したこと、さらには、新聞記者や作家を招き、別府宣伝を仕掛けていたようである。
油屋熊八が別府に来て亀の井旅館を創業したのは、明治44年(1911年)10月1日だとされいるところから、どうやら熊八はこうした別府の動向を睨んでタイミングよく別府での旅館業を企てたのではないかと見られている。ただし、熊八がそのように考えて別府に来たということを実証する裏付けは残念ながらないようだが・・。
ただ、熊八は、相場師として失敗はしたがある程度成功もしており、情報力は持っていただろう。
失意の中での渡米ではあったが、アメリカでの見聞は後の旅館・ホテル業に見事開花したと言える。
「勘がいい男」と云われるが、それは持って生まれた才能ともいえるが、大阪での相場師や、アメリカでの苦労から「時代を見抜く洞察力」を身に着けたと考えられる。
熊八が手掛けた事業は、別府での個性的なホテルの経営。地獄循環道路の整備と地獄遊覧バスの運行。女性バスガイドの登用。手のひらの大きさを競う「全国大掌大会」の開催。「別府宣伝協会」や「別府 オトギ倶楽部」の発足。有名な「山は富士、海は瀬戸内、湯は別府」というキャッチコピーの創出。海外宣伝。『日本新百景』選定への応募活動。宝塚少女歌劇団の誘致活動。九州横断道路構想など。奇抜なアイディア事業であふれかえっているが、この様な奇抜な独創力は今日でもあらゆる企業や地域に求められることであり、大正期において別府の熊八は郡を抜いていたといえる。
私の住んでいる神戸市でも明治・大正・昭和初期は観光客で賑わう活気あふれる都市であったが、今は有馬温泉・南京町(中華街)・異人館街・六甲からの夜景などであるが、かっては、日本を代表する神戸の港は、今はさびれて閑散としている。
港町神戸が再生するにはこの港をどう生かすかにかかっているが、今の助役上がりの神戸市長にそんな能力があるとは思えない。恥ずかしながら、4代続いて助役が市長になっている都市など日本のどこを探してもないだろう。大分の様に独創的な知事もいるが凡そ、公務員の市長に独創的な発想力のある市長はそう多くはいないだろう。
神戸市民でもそれがわかっている人は独創的な発想力を期待して、民間人を推薦するのだが、神戸市議会、市役所、それと市が関係している外郭団体などが一緒になって、候補者つぶしを仕掛けてくる。前回は,3度も助役が市長になるのをなんとか阻止するため日銀神戸支店長他が立候補し多くの票をとった。しかし、助役が市長になることに反対して対抗する民間人に投票する人は多かったのだが多くの人が立候補したために票が割れて助役が当選してしまった。
今回も、民間のIT関係の会社社長に期待をかけていたのだが、低投票率の中、票を稼いで肉薄したものの、それを潰すかのように、神戸市議会の若い女性議員が立候補し、女性票を稼ぎ、結局、会社社長はわずかな票差で、又、助役に敗れてしまった。
いつもいつも選挙のたびに、市長の息のかかった助役が、市議会議員、役所職員をバックに組織ぐるみで臨んでくる選挙に対抗する側がばらばらに戦っていてはこれからも同じ負け方を繰り返すだけだろう。何の改革も期待できない。もう、あきらめの境地です。
ちょっと、愚痴になってしまったが、今日でもあらゆる企業や地域において発展させるのに最も必要なものは、別府の熊八のような郡を抜いた独創力だろう。
ただ、アイディアだけでは仕方がない。それを実行するには賛同者・協力者を得るための説得性に富む企画力がなければならない。この点でも熊八は他に勝っていたと言えよう。そして、それをやり抜く、粘り強い実行力も必要だ。
それに、熊八には広い人的ネットワークカがあった。熊八の回りには当時の経済界では小林一三阪急社長、森永製菓創始者の森永太一郎、後の宝酒造の礎を築いた大宮庫吉、文化人では、口演童話(童話の読み聞かせ)家の久留島武彦、童話作家の巌谷小波、詩人の野口雨情、作曲家の中山晋平などの名が挙げられる。
それに人を引き付ける「愛嬌の良さ」もあったようだ。だから、周りの人が熊八に協力を惜しまなかったのだろう。
別府は、湯量とその質において日本一であったが、明治30年代初頭までは、全国的に知られた観光地とは言えなかった。しかし、我が国の産業革命が軌道に乗り、国土交通網整備が進むとともに、国民の移動が活発化し、「大正期の観光ブーム」が起こる。その時流に別府はタイミングよく乗り、当時の為政者や住民らの努力もあり、全国の他の地方に先がける形で、鉄道整備、港湾整備、都市計画(道路整備・耕地整理)、上水道整備など、いわゆる都市の物的(ハード)整備を完了し、観光に十分対応しえる都市づくりが進んだことと同時に、積極的に別府宣伝活動というソフト事業を進めたことが、大きな飛躍の要因だったといえる。
我が国の近代化過程においては、国土開発や地域開発においてはハード整備が先行した点では、戦後日本の高度経済成長期とよく似ているとも言える。
そして高度経済成長期後は、「ハードからソフトヘ」「文化の時代」が標榜され、地域振興のソフト事業の充実が希求されたように、大正期には地域振興策も地域情報発信に重点が移っていったと考えられ、それをいち早くものにしたのが別府であったようだ。かっての神戸市もそのような時代があった。
また、これは今の時代でもそうあるべきだろう。
今の日本の安倍内閣でも外国人旅行客がもたらす経済効果に注目し 成長戦略の中に観光業の拡大を盛り込んでおり、2003年以降、「訪日外国人旅行者1000万人」を目標にビジット・ジャパン・キャンペーン(VJC)などに取り組んできたが、訪日外国人数はこの10年でほぼ倍増したというのだが・・・(※※18、※19参照)。
冒頭の画像、中央男性は、油屋熊八。昭和2,3年頃の撮影。『朝日クロニクル週刊20世紀』1912年号掲載のもの借用。
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15歳の時には家業(米国問屋)に精を出していたといわれ、26歳の時に旧宇和島藩主伊達宗城の側用人戸田義成の娘ユキを娶る。翌、27歳の時、町村制施行(明治22年4月)時の町会議員となる。
しかし、明治24年(1891年)父が没した後、30歳の時、熊八は家業に見切りをつけ大阪に出て、相場や株式市場を学び米相場で富を築き、別名「油屋将軍」として羽振りが良かったらしいが、日清戦争後の経済の大変動のとき、相場で失敗したことを契機に、明治30年(1897年)再起を期して単身アメリカに渡ったという。
渡米中の熊八の詳細は不明だが、ホテルのボーイや皿洗いなど手当たり次第に色々な職業をしていたようだが、明治33年(1900年)春、熊八38歳の時、サンフランシスコ郊外で空腹と疲労で行き倒れとなっていた時、日系人牧師より洗礼を受け。キリスト教徒となり、牧師より帰国を勧められ、3年間の滞米生活に終止符を打ち帰国の途についたという。
しかし、熊八は帰国後、また元の相場の世界に頭を突っ込むが、うまく行かず、熊八のアメリカ渡航時に別府に身を寄せていた妻を頼り、別府港(のちの楠港)開港(明治4年=1871年)以来温泉地として飛躍的に発展していた別府温泉で再起を図ろうと移り住む。
賢明な熊八の妻ユキは熊八渡米時に渡されていた金で古家を買っていた。それを改築し、湯治場に改築して、「亀の井旅館」(後に亀の井ホテルと改称。現在の亀の井ホテル別府店)と名付けた。
熊八はアメリカで助けられ牧師より学んだ、聖書の中にある言葉「旅人をねんごろにせよ」(旅人をもてなすことを忘れてはいけない。※1:「新約聖書」ヘブル人への手紙 13章2節参照)に感銘していたことから、この言葉を思い出し、この言葉を合言葉に、サービス精神の実践として婦人が経営していた亀の井旅館を手伝うところから 別府生活が始まったという。それが明治44年(1911年)のことだとされている。
宿泊客に対する熊八のサービスは徹底していたようで、ロビーに投書箱を置き、「お食事はいかがでございましたか」「女中やボーイに不行き届きはございませんでしたか」など4項目について記入してもらい、客へのサービス改善を怠らなかったという。又、旅館に2メートル四方もある世界各国の国旗を全部揃え、5人以上の外国人団体客が泊まった時は、その国の国旗を玄関前に掲げて歓迎の意を表し、ホテルのホールでは歓迎ダンスパーティーも開いて外国人客を喜ばせた。又、利用客に万が一の急病に対処する為に看護婦を常駐させていたらしく(※2参照)、こうしたきめ細かいサービスで亀の井の名声は高まり、有名人など上客の宿泊も増えていったという。
小旅館の経営から初めて独特の奇知と迫力ある行動力と宣伝力で大正13年(1924年)には洋式ホテルに改装して、亀の井ホテルを開業。
続いてバス事業に進出し、昭和3年(1928年)に亀の井自動車(現在の亀の井バス)を設立して、日本初の女性バスガイドによる案内つきの定期観光バスの運行を開始した。
この間、梅田凡平(口演童話家)らとともに別府宣伝協会を立ち上げ、別府お伽倶楽部のお伽船(※3参照)の活動に参加する中で、自らのもてなしの哲学と様々な奇抜なアイデアで別府の宣伝に努め、大正の広重といわれる盟友吉田初三郎とともに別府の名前を全国へと広めた(※4参照)。さらに、中谷巳次郎とともに由布岳の麓の静かな温泉地由布院に、内外からの著名人を招き接待する別荘(現在の亀の井別荘)を建て「別府の奥座敷」として開発している。
さて、戦後別府 観光の最大の功労者として頌徳碑も建立されている油屋熊八という人物について当ブログでは、Wikipediaをはじめ、ネットで検索されたもの(★印のもの)等を参考として書いたのだが、熊八の確たる足跡となると、本人が遺した日記や資料は意外と少なく、虚実入り混じった伝聞が散見され、それが市井に流布して実像掌握を困難にしているのが現実だそうである(※5参照)。
ひとつ解せぬことがあったのだが、アメリカから帰ってきた熊八が別府のユキを訪れユキの古家を湯治場に改築し「亀の井旅館」と名付け、婦人が経営してい旅館を手伝うところから 別府生活が始まったというが、その旅館の名前「亀の井」は「亀井タマエ」と言う女性の名前をとったとしている者が多く、中には,この女性を熊八の第二夫人とする説もあるようだ。
熊八の女性関係はかなりのものだったらしいことから、そのような説も出ているようだが、調べてみると「亀井タマエ」という人物はおらず、「亀井アイ」という女性が実在していたようで、彼女は「料亭一つ家」の女将で、熊八に旅館経営を教えた重要な人物だったそうだ。
この「亀井アイ」は相当の経済人であり、男女関係の問題はさておき、熊八にとってはビジネス上の先輩であり、また熊八の良き協力者、今風に言えばビジネスパートナーだったようである。とあったが、それなら、苦労を掛けた女房を訪れ旅館業を始めるのに女房以外の名前を旅館名にしてもおかしくないと納得できた気がする。
別府温泉郷は大正時代を迎えると大きく発展を遂げているが、当時の別府観光の発展を支えたのは外来からやってきた人々だそうだが、その中で、別府温泉郷を全国区に押し上げた最大の功労者は「別府観光の父」と呼ばれている油屋熊八であることは疑いの余地はないようだ。しかし、彼が別府で活躍する10年ほど前から様々な人物が別府の魅力に取りつかれて開発を手掛けていたようだ(※6参照)。以下※5.※6を参考にまとめることにしよう。
別府観光の幕開けは、明治維新政府では長崎裁判所参議に任じられていた松方正義が、日田県知事に転任してきて、県内視察の際、海上交通の便を図れば別府発展が期待されるとの発案から明治4年(1871年)、別府(楠)港が築港し整備され、明治6年(1873年)に大阪開商社汽船の「益丸」が就航、大阪との航路が結ばれたのが始まりと言える。
この時は大阪から香川県の多度津・広島県の鞆の津・愛媛県三津浜を経由し別府に至るルートを蒸気船「益丸」18トンが月1往復したのみであったが、これを契機に、次々と就航する船が増え、2年後には大阪と別府を結ぶ瀬戸内航路は競争時代を迎える。激しい競争を展開していた。それが明治44年(1911年)のことだと言われている。
各社の経営環境は厳しさを増し、やがて船首が一体となって、明治17年(1884)大阪商船株式会社 (現:商船三井)が設立された。
大阪商船が別府港に寄港したのは、大阪−細島航路と大阪−宇和島航路の2航路であった。運航日も開設当初の月3回から、6回そして8回と増便し明治30年代には毎日運行となった。当時まだ鉄道は開通していなかったので、大阪商船が観光客の旅客輸送に果たした役割は計り知れないものだったろう。
そして、明治33年(1900年)九州初の路面電車として別大電車が開業。これは、京都電気鉄道、名古屋電気鉄道、大師電気鉄道(神奈川県川崎市)、小田原電気鉄道に続く日本で5番目の電気鉄道として開業したものであった。また、運行のために別府の中心地・中浜に設置された火力発電所は日本で2番目に設置されたものであり、電力は周辺の商店街へも供給され当時としては数少ない街灯も点灯していたという。
そして、明治44年(1911年)には、現在のJR 日豊本線別府駅開業など、交通近代化の影響が計り知れない。
また、次に別府温泉郷が観光地として飛躍する契機となったのは、「上総掘り」(別府では「湯突き」と言う。参考※7のここ参照)と呼ばれる温泉掘削技術の導入であり、この技術は、明治15年(1882年)地元の豪商荒金猪六が掘削したとの記録が最も古いという。
この湯突きによる温泉掘削によって、これまで自然湧出に依存していた温泉資源が人為的に獲得可能となったため、別府各地で源泉掘削が広まり、その湯口数は明治38年(1905年)は198孔であったが、その6年後の明治44年(1911年)には593孔と増加し、さらに大正12年(1923年)になると1,584孔にまで達した。別府温泉郷は次第に温泉観光地として各地からの来客を迎えることになり共同温泉も賑わいを見せてきた。そして、別府および浜脇両温泉は僅か2 年で入浴客数が10倍前後に増加するなど観光地化が劇的にすすんだようだ。
そして、観光施設の開発であるが、今日でも別府観光の目玉商品である「地獄巡り」の自然湧出の源泉「地獄」を観光資源としていち早く着目したのは、鉄道技師であった千寿吉彦(直入郡竹田町出身 在:東京)で、彼は明治の末に日豊本線の敷設工事で別府にやってきた際、その風光明媚な土地に魅かれ開発の夢を膨らませたといわれている。
当時点在していた地獄は「厄介もの」扱いされていたようが、千寿はこのような扱いを受けていた海地獄を別荘地の泉源という全く新しい発想で買収し、温泉付き別荘地の開発を構想し今日の新別府一円を開発したという。
この地獄がさらに新しい局面を迎えることになったのは、明治43年(1910年)に、地獄を覗き見していた湯治客に対して、海地獄の管理人が二銭を徴収したことが始まりとされている。つまり、これまでの「厄介もの」が「見せ物」としてそれなりに価値のあることが判明し、各地獄の所有者も海地獄に続いた。
さらに、所有者たちは競うようにして各地獄に嗜好を凝らしはじめ、これが本格的な観光施設としての地獄めぐりの始まりとなったようである。
地獄ばかりか別府温泉郷の名が一躍全国に知れ渡ったのは、昭和天皇(当時皇太子)による巡幸の報道によるものであった。目的は大正9年(1920年)11月8日から4日間、宇佐平野を中心とした二豊の原野で繰り広げられた陸軍大演習を統監することだったようだ(※8のNo688大正9年11月皇太子行啓参照)。
また、この巡幸に合わせて道路等の環境整備もおこなわれ、大演習後は、これが地獄めぐりの循環道路ともなり、地獄の所有者たちはこれを好機と遊園地化を推し進めていったといわれている。
皇太子の巡幸によって全国的に名が知れ渡ることになった別府温泉郷ならびに地獄であるが、この機を逃さなかったのが油屋熊八であった。先にも述べたように、彼は亀の井バスを設立して、昭和3年(1928年)には全国初の試みとして「ガイド付き遊覧バス」の運行を開始した。
バスガイドは大正14年(1925年)12月、東京乗合自動車が遊覧自動車で採用し、観光案内のため乗務させたのが最初であった。観光案内には豊富な知識が要するとされて、大学を卒業した男性のみを採用した。しかし案内能力は抜群に良かったが、それに見合う手当や待遇を求めていたので、かなりの高コストになってしまった。今日のような女性のバスガイドは熊八が経営する亀の井バスの地獄巡り遊覧バスがはじまりであり、平成21年(2009)年3月30日に亡くなった村上アヤメさんが当時採用された第一号ガイドの一人だそうである。
若い女性の採用と、七五調による観光案内が話題を呼び、連日満員の乗客を乗せて北浜を出発したといわれている。また料金を一周1円で乗り降り自由とした。この価格は同時期の別府と海地獄間のタクシーならびに馬車の往復料金2円50銭と比べても破格なものであったようだ。
以下は、村上あやめさんが、2008年10月トキハ別府店20周年のセレモニーで名調子を披露している様子である。
初代バスガイド村上あやめ - YouTube
別府温泉郷が観光地として全国的に知れ渡るとともに、市内各所に観光施設の整備が相次いだ。まず、大正14年(1925年)に、広島県呉市出身で、呉市長、貴族院議員を務めた松本勝太郎によって温泉と複合した総合的なレジャー施設別府鶴見園を開園。勝太郎は、松本建設を興し、鉄道工事で財を成した人物であるが、明治時代末期に豊州本線(現:日豊本線)の工事に関わった際に別府の魅力に惹かれ、レジャー施設建設を思い立つたという。当時阪神地区で人気を博していた宝塚を模して「鶴見園女優歌劇」を結成し、「九州の宝塚」ともいわれたようだ。
次いで、昭和3年(1928年)には東京の鉱山会社(「木村商事」と言うらしい)によって別府市内を一望できる山上に「ケーブルラクテンチ」が開園した。施設としては、遊園地とともに展望温泉、食堂売店、乙原地獄、ベビーゴルフ場、演舞場などが整備されたようだ。
この当時別府温泉郷は湯治を中心とする鉄輪温泉・明礬温泉、保養的な観海寺温泉そして歓楽色の強い浜脇・北浜温泉とに大まかに区分されていた(温泉のことは別府温泉又※9:「別府八湯まちなみ彩都- ITOデザインの別府八湯フォトアルバム参照)。とりわけ、浜脇温泉と別府(北浜)温泉は別府港と別府駅、東別府駅を中心として大いに賑わっていた。
松原公園(※9の別府市の公園>松原公園参照)は別府(北浜)温泉と浜脇温泉との中間点に位置し、その立地性から公園周辺には劇場、芝居小屋、商店が立ち並んでいた。
このように、昭和初めの別府温泉郷は地獄巡りをメインにしながらも市内各所に大規模な観光施設が点在する一大アミューズメント(娯楽)地帯をなしていたようだ。
この頃、別府温泉郷を舞台として大きな博覧会も開催されている(※10参照)。当時全国各地で地域産業の育成を意図した産業・勧業博覧会が開かれていた。
別府で最初に開かれたのが「中外産業博覧会」で、同博覧会は、別府市制施行(大正13年 4月1日)5周年を記念して、昭和3年(1928年)の4月1日〜5月20日の40日間開催された。地獄めぐり遊覧バスもこの開催に合わせて運行を開始している。会場はメインとなる第一会場として別府公園、第二会場として浜脇海岸埋立地が充てられた。
この開催は別府温泉郷が阿蘇・雲仙・長崎とを結ぶ国際観光ルート(現在の九州横断道路[やまなみハイウェイ]の原型でもある)として構想されたことによるものであった。会場の別府公園には温泉館・観光館・産業本館・大分館・台湾館・朝鮮館・農具機械館・ラジオ館・陸軍館・海軍館といった数々のパビリオンが建ち並び大勢の入場者で賑わった。
●上掲の画像(クリックで拡大)は私の絵葉書のコレクションより、向かって左:別府市主催中外産業博覧会の記念絵葉書セット(袋入り5枚中の1枚。同画2枚と本館、会場正門、温泉館、別府前景色の写真入りのもの)。右:これは記念絵葉書ではなく、顧客招待用また宣伝用に作られた使用済みハガキ。大分県特産・別府名産陳列所が昭和2年7月盛夏として、「暑中見舞い」に使われている。他にも同博覧会の絵葉書はいろいろ出ているが、以下参考の※11:「山口県文書館」で見ることが出来る。
又以下は、大正から昭和初期にかけて活躍した鳥瞰図絵師・吉田初三郎が描いた中外産業博覧会の会場及び周辺案内図である(発行年:昭和3年=1928年、発行元:別府市)。
別府市主催中外産業博覧会
上掲の画像右の葉書には、大谷句仏上人 湯治の歌として「天下第一の湯に入る幸や朝涼し」の句が掲載されている。
この句がいつ詠まれたものかは知らない。大谷句仏上人とは、明治41年(1908年)11月には父光瑩より東本願寺第二十三代法主を継承し、真宗大谷派管長となっていた大谷光演のようだ。
正岡子規の影響を受け、『ホトトギス』誌にて河東碧梧桐、高浜虚子らに選評してもらい、彼らに傾倒して師と仰いでいたが、後に『ホトトギス』誌の影響から脱し独自の道を歩む。「句仏上人」(「句を以って仏徳を讃嘆す」の意)として親しまれるていたそうである。
先に紹介すべきであったが、参考※11:「山口県文書館」の中には、初三郎最大の盟友でもあったらしい油屋熊八の依頼により作成した亀の井ホテルの案内図もある。以下がそれである(発行:昭和2年=1927年、発行元:亀の井ホテル)。
別府温泉御遊覧の志おり「日本第一の温泉別府亀の井ホテル御案内」
スポンサーの亀の井ホテルが別府の大半を占めるという、大胆な構図で描かれている。このコンビで数々のイベント企画や日本新八景(日本八景ともいう)の当選(温泉部門第1位)など観光別府の売り出しに成功しているという。
ちょうど一般の国民が観光に目を向けるようになった時期に行われた日本新八景の選定は、広く国民の関心を集め、投票総数は当時の日本の総人口の1.5倍にもなる約9,300万通に及んだという。投票は全国からの公募で、官製はがきに一枚一景を書くことによるものとされていた。この投票では、一部の地域で、集中的な地元投票がおこなわれたとも言われるが、油屋熊八も別府温泉が八景に選ばれるのに際しては、大いに活躍したようなので、組織的投票運動を繰り広げたことだろう。見事、温泉の部で別府温泉が八景に選ばれた。
選定された景勝地には、著名な文人と画家が訪れ、その紀行文が新聞紙上に掲載されたが、別府温泉の項の筆は過去にも別府を訪れたことのある高浜虚子が執っている。
虚子の別府の旅は、船で別府入りして、さっそく亀の井旅館で一風呂あび、「温泉(ゆ)に入るや瀬戸内海の昼寝覚」と詠んでいるそうだ。
夕方からは、初代別府町長の日名子太郎、市の温泉係の両人の案内で地獄めぐりに出かけ、亀川経由で血の池地獄、竃地獄を見物。明礬の紺屋地獄、坊主地獄、海地獄、鉄輪地獄、さらに鶴見地獄とぐるり一巡し、このうち、鉄輪地獄(現在の陽光荘、※13参照)、鶴見地獄については前に来たとき(大正9年)にはなかったと記しているそうだ。
また、観海寺の住宅分譲をはじめ、文化村(西別府団地の通称)、海岸の埋立地の別荘、新別府の分譲がはかばかしくないという事情にも触れ、「不景気風に吹きまくられて湯の都の発達もちょっと小頓挫の形」とあり、昭和初期の世相がかいまみられるという(※8のNo413 文学散歩、※14など参照)。
虚子は大正9年と今回、そして、翌昭和3年にも冨士屋旅館を訪ねているそうなので相当な別府温泉好きらしい。ひょっとして、先の温泉の句を詠んだ句仏上人も温泉付きの師匠虚子と一緒に来た時の句であろうか・・・。絵葉書一枚でいろいろ想像するのもコレクターなどの楽しみでもある。
又、、虚子が別府へきて、初代別府町長(明治39年=1906年、別府と浜脇両村が合併して別府町となった時の町長)日名子太郎に会っているらしいが、この「日名子」の名前が私には懐かしい。
かつては別府を代表する旅館だったのが日名子旅館であり、別府で一番古いとされる「日名子旅館」(当初は符内屋)の開業は安政年間(1854ー1859年)と云われる。「日名子旅館」は第2次世界大戦後の1945年頃まで営業を続けたがその後岡本忠夫(大分県弥生町出身)が日名子旅館を買収(昭和20年又昭和24年頃とされる)し、合資会社日名子ホテルに商号変更をしていたが高度経済成長期における設備投資の失敗で昭和60年 (1985)年に倒産し、今はデオデオのあるマンションとなっている。
私は、若い頃大阪から東京の会社へ転職し、東京にいる時に見合いをし即、結婚することになったので、地元神戸へ帰ってくる前に、東京の旅行会社で新婚旅行の切符や旅館等の手配をしてもらった。
行程は、初日は神戸で結婚した後疲れるので、夜は大阪の阪急ホテルに泊まり、朝大阪空港から飛行機で九州横断旅行の為に大分空港へ、当時空港はまだ国東半島ではなく、別大興産スタジアム(新大分球場)の位置にエプロンがあった。
別府で地獄めぐり他市内観光の後、日名子ホテルで1泊し、翌日 九州横断バスを利用して久住高原経由で阿蘇へ向かったのを思い出す。
●上掲は日名子ホテルの札(なんというのか知らない荷札かな?)
明治時代は旧国道側が入口だった日名子旅館は大正時代に旧国道から山手側に流川通り(大分県道52号別府庄内線参照)が延びていったため、流川通り沿いに玄関があった。
以下参考※15 :「豊後の日名子一族」によれば、日名子氏の系譜は古代に国東半島を領域とした国前国造の末流とみられるそうで、鎌倉中期の別府温泉には大友頼康によって温泉奉行が置かれた。それが、豊後別府に住みついた日名子太郎左衛門尉清元だそうだ(※16も参照)。
初代別府町長日名子太郎もその末裔だと思うし、日名子旅館の創業者もそうであろう。「日名子旅館」は、当初は「符内屋」と称したそうだが、府内(ふない)は、大分市中心部の明治時代初期までの旧称である。
この歴史ある日名子旅館には初代総理大臣を務めた伊藤博文(号は春畝=しゅんぽ)が名づけた「霊泉館」という別名があり、また政治小説「雪中梅」を書いたことで知られる末広鉄腸も泊まって漢詩を残したようだ。そこにある流川についての解説では、流川の両側に遊郭があったと書いているようだが、のちの近代的な町の様子からは想像がつかないことである(※8のNo1136流川は遊郭街だった!?参照)。
昭和3年(1928年)に始まった別府地獄めぐり遊覧バスの、日本初の女性バスガイドによる七五調の観光案内では
「ここは名高き流川 情けの厚い湯の町を 真直ぐに通る大通り 旅館商店軒並び 夜は不夜城でございます」 と紹介され大いに賑わいを見せていた。
このような歴史ある旅館を吉田初三郎が鳥瞰図で描いていない訳はない。以下は、参考※12:「地図の資料館」の中にあるものである。(発行:日名子旅館 発効日:大正15年夏)
日名子旅館御案内
地獄の観光地化と観光施設の開設が相次ぎ、押しも推されぬ我が国を代表する温泉観光地となった別府温泉郷は別荘地としての開発も盛んに行われた。
別荘開発の先駆者は、前述の海地獄を買収した千寿吉彦である。千寿は前述の通り海地獄を源泉として「温泉付き別荘地」の開発をし、鉄輪温泉に隣接する一帯を新別府と称して進めた。
その後、愛媛県出身の多田次平が大正11年(1922年)六角温泉(※17参照)・荘園地区の開発に着手したが、この開発は資金繰りが行き詰まり途中で頓挫するが、その後を久留米絣で財を成した国武金太郎が継いだ。
これらの別荘分譲地は在阪の政財界をターゲットとしたとも伝えられているが、実際は台湾、朝鮮半島、旧満州で財を築いた人々が多く購入したようだという。
積極的な観光開発により、別府温泉郷における観光客(入浴客)の数は、明治初期と比べると飛躍的に増加しており、明治末には別府村および浜脇村だけでも年間46万人もの観光客(外来入浴客)を数えるまでになった。日清・日露戦争後の好景気など様々な理由で明治期から大正期にかけて別府八湯の旅館数は拡大したと推測される。そして、大正8年(1919年)には別府温泉郷全体の年間入浴客数は100万人を突破したという。
このたように、油屋熊八が別府に来た明治末頃には、初代別府町町となった日名子太郎は既にしたたかに別府宣伝の手を打ち始めていたのだそうである。
日名子太郎は都市計画事業の推進というハード事業と、宣伝と云うソフト戦略をともに意識した都市政策を進めていたようでこの人物の別府進行に果たした役割は非常に大きいという。
上記のような入湯客の増加が需要だとすれば、供給面の宿泊施設の方も別府市誌2005年版には明治35年(1902年)の別府町では名前が分かるだけでも10件の他に数十件の旅館があったこと、また、亀川にも20軒ほどの宿屋があったことが書かれており、それが明治43年になると、別府町の宿屋は175軒にのぼった(『市政洋要覧』)とあり、「大正元年(1912年)には201軒となり、そして、昭和8年(1933年)には296軒を数え、亀川町、朝日村、石垣村が合併した10年には402軒となった。」とあり、こちらも急成長であったことら、別府が明治末から大正期にかけて温泉観光地観光地として飛躍的に発展したのは間違いない。
このような別府発展のための油屋熊八の功績は色々と伝えられているところだが、彼の最大の功績は別府の宣伝にあり、それは民間人としての活躍であり、行政も当然精力的に行っていたようで、むしろ別府発展には官民共同での宣伝戦略の展開こそが功を奏したと考えられているようだ。
熊八が別府へ来る前段階の明治39年時点で、別府、浜脇両町の合併を記念し、別府町長の日名子太郎が大阪方面に出かけ、別府温泉を宣伝したこと、さらには、新聞記者や作家を招き、別府宣伝を仕掛けていたようである。
油屋熊八が別府に来て亀の井旅館を創業したのは、明治44年(1911年)10月1日だとされいるところから、どうやら熊八はこうした別府の動向を睨んでタイミングよく別府での旅館業を企てたのではないかと見られている。ただし、熊八がそのように考えて別府に来たということを実証する裏付けは残念ながらないようだが・・。
ただ、熊八は、相場師として失敗はしたがある程度成功もしており、情報力は持っていただろう。
失意の中での渡米ではあったが、アメリカでの見聞は後の旅館・ホテル業に見事開花したと言える。
「勘がいい男」と云われるが、それは持って生まれた才能ともいえるが、大阪での相場師や、アメリカでの苦労から「時代を見抜く洞察力」を身に着けたと考えられる。
熊八が手掛けた事業は、別府での個性的なホテルの経営。地獄循環道路の整備と地獄遊覧バスの運行。女性バスガイドの登用。手のひらの大きさを競う「全国大掌大会」の開催。「別府宣伝協会」や「別府 オトギ倶楽部」の発足。有名な「山は富士、海は瀬戸内、湯は別府」というキャッチコピーの創出。海外宣伝。『日本新百景』選定への応募活動。宝塚少女歌劇団の誘致活動。九州横断道路構想など。奇抜なアイディア事業であふれかえっているが、この様な奇抜な独創力は今日でもあらゆる企業や地域に求められることであり、大正期において別府の熊八は郡を抜いていたといえる。
私の住んでいる神戸市でも明治・大正・昭和初期は観光客で賑わう活気あふれる都市であったが、今は有馬温泉・南京町(中華街)・異人館街・六甲からの夜景などであるが、かっては、日本を代表する神戸の港は、今はさびれて閑散としている。
港町神戸が再生するにはこの港をどう生かすかにかかっているが、今の助役上がりの神戸市長にそんな能力があるとは思えない。恥ずかしながら、4代続いて助役が市長になっている都市など日本のどこを探してもないだろう。大分の様に独創的な知事もいるが凡そ、公務員の市長に独創的な発想力のある市長はそう多くはいないだろう。
神戸市民でもそれがわかっている人は独創的な発想力を期待して、民間人を推薦するのだが、神戸市議会、市役所、それと市が関係している外郭団体などが一緒になって、候補者つぶしを仕掛けてくる。前回は,3度も助役が市長になるのをなんとか阻止するため日銀神戸支店長他が立候補し多くの票をとった。しかし、助役が市長になることに反対して対抗する民間人に投票する人は多かったのだが多くの人が立候補したために票が割れて助役が当選してしまった。
今回も、民間のIT関係の会社社長に期待をかけていたのだが、低投票率の中、票を稼いで肉薄したものの、それを潰すかのように、神戸市議会の若い女性議員が立候補し、女性票を稼ぎ、結局、会社社長はわずかな票差で、又、助役に敗れてしまった。
いつもいつも選挙のたびに、市長の息のかかった助役が、市議会議員、役所職員をバックに組織ぐるみで臨んでくる選挙に対抗する側がばらばらに戦っていてはこれからも同じ負け方を繰り返すだけだろう。何の改革も期待できない。もう、あきらめの境地です。
ちょっと、愚痴になってしまったが、今日でもあらゆる企業や地域において発展させるのに最も必要なものは、別府の熊八のような郡を抜いた独創力だろう。
ただ、アイディアだけでは仕方がない。それを実行するには賛同者・協力者を得るための説得性に富む企画力がなければならない。この点でも熊八は他に勝っていたと言えよう。そして、それをやり抜く、粘り強い実行力も必要だ。
それに、熊八には広い人的ネットワークカがあった。熊八の回りには当時の経済界では小林一三阪急社長、森永製菓創始者の森永太一郎、後の宝酒造の礎を築いた大宮庫吉、文化人では、口演童話(童話の読み聞かせ)家の久留島武彦、童話作家の巌谷小波、詩人の野口雨情、作曲家の中山晋平などの名が挙げられる。
それに人を引き付ける「愛嬌の良さ」もあったようだ。だから、周りの人が熊八に協力を惜しまなかったのだろう。
別府は、湯量とその質において日本一であったが、明治30年代初頭までは、全国的に知られた観光地とは言えなかった。しかし、我が国の産業革命が軌道に乗り、国土交通網整備が進むとともに、国民の移動が活発化し、「大正期の観光ブーム」が起こる。その時流に別府はタイミングよく乗り、当時の為政者や住民らの努力もあり、全国の他の地方に先がける形で、鉄道整備、港湾整備、都市計画(道路整備・耕地整理)、上水道整備など、いわゆる都市の物的(ハード)整備を完了し、観光に十分対応しえる都市づくりが進んだことと同時に、積極的に別府宣伝活動というソフト事業を進めたことが、大きな飛躍の要因だったといえる。
我が国の近代化過程においては、国土開発や地域開発においてはハード整備が先行した点では、戦後日本の高度経済成長期とよく似ているとも言える。
そして高度経済成長期後は、「ハードからソフトヘ」「文化の時代」が標榜され、地域振興のソフト事業の充実が希求されたように、大正期には地域振興策も地域情報発信に重点が移っていったと考えられ、それをいち早くものにしたのが別府であったようだ。かっての神戸市もそのような時代があった。
また、これは今の時代でもそうあるべきだろう。
今の日本の安倍内閣でも外国人旅行客がもたらす経済効果に注目し 成長戦略の中に観光業の拡大を盛り込んでおり、2003年以降、「訪日外国人旅行者1000万人」を目標にビジット・ジャパン・キャンペーン(VJC)などに取り組んできたが、訪日外国人数はこの10年でほぼ倍増したというのだが・・・(※※18、※19参照)。
冒頭の画像、中央男性は、油屋熊八。昭和2,3年頃の撮影。『朝日クロニクル週刊20世紀』1912年号掲載のもの借用。
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