今、安倍晋三政権が経済再生に向けて展開している一連の経済政策 アベノミクス「大胆な金融政策」「機動的な財政政策」「成長戦略」の「3本の矢」(※1のここ参照 )。
その「3本目の矢」の一つ、持続 的な日本の経済成長につなげるための「成長戦略」の中で、女性の力の活用や社会参画の促進が日本の強い経済を取り戻すために不可欠との認識に基づき、全ての女性が生き方に自信 と誇りを持ち、輝けるような国づくりを目指している。
そして、安倍政権は女性の活躍支援を日本の成長戦略の中核ととらえて、女性管理職の数値目標を示すなど企業の取り組みを促しているほか、子育ての負担軽減策や復職支援など幅広いテーマに取り組んでいる。
15〜64歳の生産年齢人口の減少が深刻化する中、政府による女性の社会進出の後押しは、欠かせない状況となっているようだ(※1のここ参照)。
このように、国が政策として女性を活用しようと数値目標を掲げてくれるのは、女性にとっては非常に頼もしいことだろうし、女性の社会進出に異論をとなえる人も、基本的には多くはいないだろう。
しかし、現状の女性管理職は10%。欧米の3〜4割には遠く及ばない。このような現況の中、解決しなければならないことは山と有り、女性だけに単に「頑張れ!!」といっても、中々大変なことだろうとは思う(※2.※3参照)。
日本の社会において、結婚した女性が主婦として家事労働をするか、社会へ出て男性と同じように働くべきかは明治の文明開化以降、さんざん論議されてきたことだが、今では、家事労働をしている主婦がムード的には、マイナー的な存在になっており、社会へ出て、バリバリ働く女性こそが正当な女性である・・・といった考えが主流をなしている。
ただ、今回、このブログで、そういった、女性の社会進出の是非や安倍首相が掲げた政策「女性の活躍」推進に対しての私見を述べるつもりはない。
第二次世界大戦後の激しいインフレの中で、日本共産党と産別会議により労働運動が高揚し、1946(昭和21)年には新聞、放送、国鉄、海員組合、炭鉱、電気産業などで相次いで労働争議が発生し、産業と国民生活に重大な影響を与えるようになっていた。
日本共産党は、労働闘争による吉田内閣(第一次)打倒を公言し、日本の共産化を画策していた。
冷戦の兆しを感じていた米国は、日本をアジアにおける共産化の防波堤にしようと考え始めていたため、全官公労や産別会議等の過半数の労働組合を指導している共産党を脅威と考えるようになった。
連合国の対日政策機関であるワシントンD.C.の極東委員会も、民主化のための労働運動の必要性を確認しながらも、「野放図な争議行動は許されない」とする方針を発表。
ゼネストへの動きが高まる中で、GHQのマッカーサーも当初はゼネストは許されないと、忠告する程度のものだったが、1947年1月31日には「衰弱した現在の日本では、ゼネストは公共の福祉に反するものだから、これを許さない」としてゼネストの中止を指令。
戦後、日本に徹底した民主化方針を示し、財閥解体・農地解放・労働組合育成などの諸改革を断行してきたGHQではあったが、この二・一ゼネストの中止は、日本の民主化を進めてきたGHQの方針転換を示す事件であったとされている。
意図的に労働者の権利意識を向上させつつも、占領政策に抵触する場合、あるいは共産主義の影響力を感じた場合、連合軍は労働者の味方はしないことを内外に誇示したものであり、これは、戦後日本の労働運動の方向を大きく左右したものと言えるだろう。
そして、2月7日、マッカーサーは、総選挙実施を指示した。
このような背景の中、4月25日 新憲法下で行われた、最初の総選挙(「第23回衆議院議員総選挙」1947年4月25日)では、婦人議員が85人中15人当選。前回より24名減少する(1946年戦後初の衆銀選挙では女性が初の参政権を行使し候補者79人中39人が当選していた)が、日本社会党が143人の当選者を得て第一党となり、同党委員長片山哲が5月23日衆議院と参議院で首班に指名された(「2.1ゼネスト」から片山哲内閣の誕生までの日本の状況については、※4:「戦後政治史検証」の1947年上半期の主なできごと.事件年表を参照されるとよい)。
画像は、東京有楽町朝日新聞前、1947年総選挙結果を見守る民衆。日本社会党は戦後最大のゼネスト二・一スト後の総選挙で第一党となったが過半数には満たず、組閣にあたっては、自由党(総裁:吉田茂)からは閣僚を得られず、やむを得ず、民主党(芦田 均総裁)・国民協同党(常任委員会議長:岡田勢一、書記長:三木武夫)3党を中心に6月1日連立内閣を組閣した。
無産政党の議員が首相を務める内閣としては史上初のものであった。しかし、党内の路線対立などから翌1948(昭和23)年2月には総辞職、片山内閣は、わずか9か月の短命に終わっている。
片山内閣総辞職の後、民主党総裁の芦田均が第47代内閣総理大臣に任命されるが、この芦田内閣も、6か月後の同年10月07日には総辞職をしているが、これは、米国の意に反する片山哲内閣、芦田均内閣がGHQの力によってつぶされたものであり、その結果として創設されたのが二度目の吉田茂内閣(第2次吉田内閣)だったようだ(※5 参照)。
上掲画像は、片山内閣初会議の様子。向かって右から数えて2人目三木武夫逓信大臣、9番目中央付近が片山哲首相、その隣10人目が芦田 均外務大臣、左手前から4人目が 無任所大臣米窪満亮である。
労働行政の充実のため、労働省を 設置することを公約として選挙戦を戦った社会党政権の片山内閣は、1947(昭和22 )年9月1日 、 厚生省の労働行政部門を分割し、旧労働省を設置。無任所大臣として入閣していた米窪満亮を初代労働大臣に就任させ、この旧労働省発足と同時に、婦人労働問題、年少労働問題、そして一般の婦人問題に関する総合的な施策を国の責任において実施するために、婦人少年局(現厚生労働省雇用均等・児童家庭局)を設け、その初代婦人少年局長として山川菊栄を就任させた。
この婦人少年局の設置には、GHQが大きな役割を果たしている。女性に参政権を認め、女性の解放を5大改革指令(日本の戦後改革)に掲げていたGHQは、日本政府の中に1920年にアメリカ労働省に置かれた婦人局(Women’s Bureau)のような局を作ることを強く望んでいたようである。
1948(昭和23)年に46都道府県(沖縄県は1972年=昭和47年までは米軍の施政権下に置かれていた)に出先機関として婦人少年局職員室が置かれ、山川菊栄は抵抗を制して、室長を全員女性にしていたという。
この時代に労働基準法が施行され、「男女同一賃金の原則」、「女子保護規定」(深夜勤務の原則禁止や時間外勤務の上限など).が明文化された。
この時、出来た婦人少年局が、日本の官公庁で初めて、女性の問題を専門に取り扱う部署となったが、1951(昭和26)年6月に在職わずか3年半で退任に追い込まれたようだが、この山川菊栄が、戦後の日本の女性労働政策の礎を築いた人ともいえるそうだ。
以後、婦人少年局は、婦人局、女性局、雇用均等・児童家庭局と名称を変えながら、働く女性のより良い環境づくりのために取り組んできた。 そして、今日・2014(平成25)年の9月1日で、婦人少年局が誕生して65年になる。
山川菊栄個人のことについて、私はよく知らないが、Wikipediaによれば、父は森田龍之助、母は水戸藩士で弘道館教授頭取代理・彰考館権総裁を務めた儒学者・史学者の青山延寿の娘・千世で、菊栄自身は青山姓を名乗っていたようだ。
弘道館の初代教授頭取を務めた儒学者・青山延于は母方の曾祖父にあたるという。
1912(明治4)年、女子英学塾(現:津田塾大学)卒業後、1915(大正4)年堺利彦・幸徳秋水らの金曜講演会、大杉栄の平民講演会を通して社会主義を学ぶ。
翌・1916(大正5)年社会主義運動家山川均と結婚し山川性を名乗るようになる。夫山川均は「大逆事件(幸徳事件)」のあったころ、彼も赤旗事件で投獄されており、幸徳事件のことは千葉の監獄で大杉栄から聞いて知ったという。
1918(大正7)年ころから始まった母性保護論争に参加。
平塚らいてうは、国家は母性を保護し、妊娠・出産・育児期の女性は国家によって保護されるべきと「母性中心主義」を唱える。
それに対し、与謝野晶子は国家による母性保護を否定。妊娠・出産を国庫に補助させようとする平塚らいてうの唱える母性中心主義を、形を変えた新たな良妻賢母にすぎないと論評し、国家による母性保護を「奴隷道徳」「依頼主義」と難じた。「婦人は男子にも国家にも寄りかかるべきではない」と主張した。
これに対して、女性解放思想家山川菊栄は、与謝野と平塚の主張の双方を部分的に認めつつも批判し、保護(平塚)か経済的自立(与謝野)かの対立に、差別のない社会でしか婦人の解放はありえないと社会主義の立場から主張。平塚らいてう・伊藤野枝らの運動を批判。
そこへ良妻賢母主義的立場から山田わかが論争に参入。「独立」という美辞に惑わされず家庭婦人(専業主婦)も金銭的報酬はもらっていないが、家庭内で働いているのだから誇りを持つべきと主張したという。
この論争には島中雄三、山田嘉吉(山田わかの夫)ら男性も加わり、新聞にも賛否様々の投書が送られたという。
山川菊栄は、この母性保護論争で論壇に登場して以後、ベーベル(August Bebel)の『婦人論』を初完訳、カーペンター(Clarence Ray Carpente)らの著作を翻訳紹介する一方、『婦人の勝利』(1919年),『婦人問題と婦人運動』(1925年)などの著作で,科学的社会主義(マルクス主義の別称)に基づく婦人論,婦人運動理論を樹立したという。
1962(昭和37)年4月婦人問題の総合的研究団体として田中寿美子らと婦人問題懇話会を設立し、亡くなるまでその代表者として後進の指導にあたったようだ。
そういえば、女性解放思想・運動家・平塚らいてふ(本名:明)が、日本女子大学校時代の友人らと文芸誌『青鞜』を発刊したのも、奇(く)しくも、今から103年前の1911(明治44)年の今日・9月1日のことであった。
上掲の画像は上段『青鞜』創刊号の表紙。下段の画像は、青鞜社、雑誌『青鞜』を発刊した年の12月の集い。前列右から小林哥津子、柳清美、物集和子、田中みさを、後列』右から4人目が、らいてふ。画像は、『朝日クロニカル週刊20世紀』女性の100年より。
「元始、女性は実に太陽であつた。真正の人であつた。今、女性は月である。他に依つて生き、他の光によつて輝く、病人のやうな蒼白い顔の月である」
力強く、挑むような調子で始まる『青鞜』の辞(※6「日本ペンクラブ:電子文藝館 総目次」の、評論・研究:平塚 らいてう 「元始女性は太陽であつた」参照)」。
表紙は長沼智恵(後に彫刻家・詩人の高村光太郎と結婚。夫の光太郎が、彼女の死後に出版した詩集『智恵子抄』で有名)が描いた。
『青鞜』発刊の前年1910(明治43)年には、幸徳秋水ら社会主義者が、天皇暗殺を企てたとして捕まり、1911(明治44)年1月には12人が死刑執行されるという、国家権力の暴走が目に余った時代である。自由な言論は圧殺され、石川啄木の言葉を借りれば「時代閉塞」の状況(※6の評論:石川 啄木 「時代閉塞の現状」)参照)が日本を覆っていたとされるが、女にとっては、むしろ、このときこそ長い幽閉のときから目覚めた人間性回復の年であった。
そのとばりをひらいた明(らいてふの本名)は、この創刊の辞を書き上げた際に、初めて「らいてう」という筆名を用いた。この時彼女は25歳であった。
父・平塚定二郎は明治政府の高級官吏(会計検査院に勤務)、のちに一高の講師も務めた人。
母・光沢(つや)の両親は徳川御三卿のひとつ田安家奥医師の飯島家の夫婦養子となった家柄。娘2人を開校間もない日本女子大学に入れる財もあれば、洋行経験もある高級官僚であり、明はまぎれもない「令嬢」であった。
当時の女性たちは、1899(明治32)年の高等女学校令、高等女学校の設置などで、少しずつ女子教育への門戸が開かれ始めていた頃であったとは言え、当時求められていた女性像は、家族制度の守り手としての「良妻賢母」であった。
それも、これら良妻賢母像が求められていたのは中堅層以上の恵まれた家庭に生まれた女性であり、中堅以下の下層の女は、牛馬同然の労働力であり、また 男性にとっての性のはけ口である娼婦としての肉体ともみなされていた。つまり、当時の女性達の人生は男との関係性によって規定されていたともいえるが、その点からも、「良妻賢母」の予備軍としての「令嬢」を縛る規範の第一は「処女性」であった。平塚明はこの「規範」に挑戦したともいえる。
明は3年前の1908(明治41)年の春、聴講していた閨秀文学講座の森田草平と栃木県塩原で心中未遂事件を起こしている。幸い心中は未遂に終わり、二人は保護され、「文学士と令嬢の情死未遂」事件は、新聞を賑わした(※7参照)。
それにしてもタフな二人であり、森田は心中未遂の後始末として、師・夏目漱石の推薦で翌年小説『煤煙』(※6の小説:森田 草平 「煤煙 抄」参照)を朝日新聞に連載し、これが彼の文壇デビューとなった。
一方、の明も、このスキャンダルにへこたれず、同士たちを糾合して「隠れたる我が太陽を、潜める天才を発現せよ」。釈尊は「実に全自我を解放した大自覚者となったのだ。」(※6の『青鞜』の辞参照)と釈尊を例にだし、女性解放のためには、自分で自分を縛っていることから解放せよ、と訴える。
「規範」破りでは、先輩の、与謝野晶子が、同創刊号に「山の動く日来る」「すべて眠りし女今ぞ目覚めて動くなる」(※6「日本ペンクラブ:電子文藝館の総目次」の物故会員 | 詩: 与謝野 晶子 そぞろごと参照)と、出発を促す詩を寄稿し頼もしい。
これに多くの女性が呼応し、小説や詩や短歌や随筆に自分の思いを表出し始めた。
そして、『青鞜』は、 いわゆる「貞操論争」、 「堕胎論争」、 「売春 (廃娼) 論争」 という三つの論争の 舞台. となっていった。
国家権力は発禁を持ってそのような『青鞜』を葬ろうとしたようだが、「規範」破りは続々と後に続き、かくて、男に都合の良い家族制度の一角が静かに崩壊し始めた。やはり女姓にとっては、1911(明治44)年が、女性解放運動の出発点であり、最も、記念すべき年なのだろうね。
「青鞜」は女性の文芸雑誌から女性解放へ軸足を変え、らいてうも成長、脱皮してゆく。大正、昭和と困難な時代にありながら、ほぼ一貫して女性解放、母性保護を訴え続けた。
戦後も平和運動、婦人団体のリーダーとして先頭に立つた。1970(昭和45)年の安保改定の時、本人が強く要望し、病身をおして東京・成城の自宅周辺で改定反対のデモをしたという。翌年85歳で死去している。
今の時代、口先だけではなく、このような強いリーダーシップを発揮している女性は誰なのだろうか。
参考:
※1:成長戦略で、明るい日本に! 〜「チーム・ジャパン」で力強く実行へ〜 | 首相官邸ホームページ
http://www.kantei.go.jp/jp/headline/seichosenryaku/index.html
※2:女性管理職:キーワード|ダイヤモンド・オンライン
http://diamond.jp/search/word/%E5%A5%B3%E6%80%A7%E7%AE%A1%E7%90%86%E8%81%B7
※3:安倍政権の「女性の活躍」政策に反論続出 | nikkei BPnet 〈日経BPネット)
http://www.nikkeibp.co.jp/article/matome/20130612/354019/
※4:「戦後政治史検証」
http://www.marino.ne.jp/~rendaico/toshi/nihonkiyosanto_nokenkiyu_toshi.htm
※5:植草一秀の『知られざる真実』: 2010年4月
http://uekusak.cocolog-nifty.com/blog/2010/04/
※6:日本ペンクラブ:電子文藝館 総目次
http://www.japanpen.or.jp/e-bungeikan/home.html#Mokuzi
※7:森田草平と平塚らいてう―栃木・塩原温泉 - 朝日新聞デジタル
http://www.asahi.com/travel/traveler/TKY200611110128.html
青鞜における「共同」PDFhttp://dspace.wul.waseda.ac.jp/dspace/bitstream/2065/39230/1/BungakuKenkyukaKiyo1_58_Yauchi.pdf#search='%E5%B0%8F%E6%9E%97%E5%93%A5%E6%B4%A5%E5%AD%90'
第12回 女性労働行政と男女共同参画 - あすばる
http://www.asubaru.or.jp/purpose/websemi/
女性管理職 - ハフィントンポスト
http://www.huffingtonpost.jp/news/joseikanrishoku/
日本の女性史年表 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E5%A5%B3%E6%80%A7%E5%8F%B2%E5%B9%B4%E8%A1%A8
その「3本目の矢」の一つ、持続 的な日本の経済成長につなげるための「成長戦略」の中で、女性の力の活用や社会参画の促進が日本の強い経済を取り戻すために不可欠との認識に基づき、全ての女性が生き方に自信 と誇りを持ち、輝けるような国づくりを目指している。
そして、安倍政権は女性の活躍支援を日本の成長戦略の中核ととらえて、女性管理職の数値目標を示すなど企業の取り組みを促しているほか、子育ての負担軽減策や復職支援など幅広いテーマに取り組んでいる。
15〜64歳の生産年齢人口の減少が深刻化する中、政府による女性の社会進出の後押しは、欠かせない状況となっているようだ(※1のここ参照)。
このように、国が政策として女性を活用しようと数値目標を掲げてくれるのは、女性にとっては非常に頼もしいことだろうし、女性の社会進出に異論をとなえる人も、基本的には多くはいないだろう。
しかし、現状の女性管理職は10%。欧米の3〜4割には遠く及ばない。このような現況の中、解決しなければならないことは山と有り、女性だけに単に「頑張れ!!」といっても、中々大変なことだろうとは思う(※2.※3参照)。
日本の社会において、結婚した女性が主婦として家事労働をするか、社会へ出て男性と同じように働くべきかは明治の文明開化以降、さんざん論議されてきたことだが、今では、家事労働をしている主婦がムード的には、マイナー的な存在になっており、社会へ出て、バリバリ働く女性こそが正当な女性である・・・といった考えが主流をなしている。
ただ、今回、このブログで、そういった、女性の社会進出の是非や安倍首相が掲げた政策「女性の活躍」推進に対しての私見を述べるつもりはない。
第二次世界大戦後の激しいインフレの中で、日本共産党と産別会議により労働運動が高揚し、1946(昭和21)年には新聞、放送、国鉄、海員組合、炭鉱、電気産業などで相次いで労働争議が発生し、産業と国民生活に重大な影響を与えるようになっていた。
日本共産党は、労働闘争による吉田内閣(第一次)打倒を公言し、日本の共産化を画策していた。
冷戦の兆しを感じていた米国は、日本をアジアにおける共産化の防波堤にしようと考え始めていたため、全官公労や産別会議等の過半数の労働組合を指導している共産党を脅威と考えるようになった。
連合国の対日政策機関であるワシントンD.C.の極東委員会も、民主化のための労働運動の必要性を確認しながらも、「野放図な争議行動は許されない」とする方針を発表。
ゼネストへの動きが高まる中で、GHQのマッカーサーも当初はゼネストは許されないと、忠告する程度のものだったが、1947年1月31日には「衰弱した現在の日本では、ゼネストは公共の福祉に反するものだから、これを許さない」としてゼネストの中止を指令。
戦後、日本に徹底した民主化方針を示し、財閥解体・農地解放・労働組合育成などの諸改革を断行してきたGHQではあったが、この二・一ゼネストの中止は、日本の民主化を進めてきたGHQの方針転換を示す事件であったとされている。
意図的に労働者の権利意識を向上させつつも、占領政策に抵触する場合、あるいは共産主義の影響力を感じた場合、連合軍は労働者の味方はしないことを内外に誇示したものであり、これは、戦後日本の労働運動の方向を大きく左右したものと言えるだろう。
そして、2月7日、マッカーサーは、総選挙実施を指示した。
このような背景の中、4月25日 新憲法下で行われた、最初の総選挙(「第23回衆議院議員総選挙」1947年4月25日)では、婦人議員が85人中15人当選。前回より24名減少する(1946年戦後初の衆銀選挙では女性が初の参政権を行使し候補者79人中39人が当選していた)が、日本社会党が143人の当選者を得て第一党となり、同党委員長片山哲が5月23日衆議院と参議院で首班に指名された(「2.1ゼネスト」から片山哲内閣の誕生までの日本の状況については、※4:「戦後政治史検証」の1947年上半期の主なできごと.事件年表を参照されるとよい)。
画像は、東京有楽町朝日新聞前、1947年総選挙結果を見守る民衆。日本社会党は戦後最大のゼネスト二・一スト後の総選挙で第一党となったが過半数には満たず、組閣にあたっては、自由党(総裁:吉田茂)からは閣僚を得られず、やむを得ず、民主党(芦田 均総裁)・国民協同党(常任委員会議長:岡田勢一、書記長:三木武夫)3党を中心に6月1日連立内閣を組閣した。
無産政党の議員が首相を務める内閣としては史上初のものであった。しかし、党内の路線対立などから翌1948(昭和23)年2月には総辞職、片山内閣は、わずか9か月の短命に終わっている。
片山内閣総辞職の後、民主党総裁の芦田均が第47代内閣総理大臣に任命されるが、この芦田内閣も、6か月後の同年10月07日には総辞職をしているが、これは、米国の意に反する片山哲内閣、芦田均内閣がGHQの力によってつぶされたものであり、その結果として創設されたのが二度目の吉田茂内閣(第2次吉田内閣)だったようだ(※5 参照)。
上掲画像は、片山内閣初会議の様子。向かって右から数えて2人目三木武夫逓信大臣、9番目中央付近が片山哲首相、その隣10人目が芦田 均外務大臣、左手前から4人目が 無任所大臣米窪満亮である。
労働行政の充実のため、労働省を 設置することを公約として選挙戦を戦った社会党政権の片山内閣は、1947(昭和22 )年9月1日 、 厚生省の労働行政部門を分割し、旧労働省を設置。無任所大臣として入閣していた米窪満亮を初代労働大臣に就任させ、この旧労働省発足と同時に、婦人労働問題、年少労働問題、そして一般の婦人問題に関する総合的な施策を国の責任において実施するために、婦人少年局(現厚生労働省雇用均等・児童家庭局)を設け、その初代婦人少年局長として山川菊栄を就任させた。
この婦人少年局の設置には、GHQが大きな役割を果たしている。女性に参政権を認め、女性の解放を5大改革指令(日本の戦後改革)に掲げていたGHQは、日本政府の中に1920年にアメリカ労働省に置かれた婦人局(Women’s Bureau)のような局を作ることを強く望んでいたようである。
1948(昭和23)年に46都道府県(沖縄県は1972年=昭和47年までは米軍の施政権下に置かれていた)に出先機関として婦人少年局職員室が置かれ、山川菊栄は抵抗を制して、室長を全員女性にしていたという。
この時代に労働基準法が施行され、「男女同一賃金の原則」、「女子保護規定」(深夜勤務の原則禁止や時間外勤務の上限など).が明文化された。
この時、出来た婦人少年局が、日本の官公庁で初めて、女性の問題を専門に取り扱う部署となったが、1951(昭和26)年6月に在職わずか3年半で退任に追い込まれたようだが、この山川菊栄が、戦後の日本の女性労働政策の礎を築いた人ともいえるそうだ。
以後、婦人少年局は、婦人局、女性局、雇用均等・児童家庭局と名称を変えながら、働く女性のより良い環境づくりのために取り組んできた。 そして、今日・2014(平成25)年の9月1日で、婦人少年局が誕生して65年になる。
山川菊栄個人のことについて、私はよく知らないが、Wikipediaによれば、父は森田龍之助、母は水戸藩士で弘道館教授頭取代理・彰考館権総裁を務めた儒学者・史学者の青山延寿の娘・千世で、菊栄自身は青山姓を名乗っていたようだ。
弘道館の初代教授頭取を務めた儒学者・青山延于は母方の曾祖父にあたるという。
1912(明治4)年、女子英学塾(現:津田塾大学)卒業後、1915(大正4)年堺利彦・幸徳秋水らの金曜講演会、大杉栄の平民講演会を通して社会主義を学ぶ。
翌・1916(大正5)年社会主義運動家山川均と結婚し山川性を名乗るようになる。夫山川均は「大逆事件(幸徳事件)」のあったころ、彼も赤旗事件で投獄されており、幸徳事件のことは千葉の監獄で大杉栄から聞いて知ったという。
1918(大正7)年ころから始まった母性保護論争に参加。
平塚らいてうは、国家は母性を保護し、妊娠・出産・育児期の女性は国家によって保護されるべきと「母性中心主義」を唱える。
それに対し、与謝野晶子は国家による母性保護を否定。妊娠・出産を国庫に補助させようとする平塚らいてうの唱える母性中心主義を、形を変えた新たな良妻賢母にすぎないと論評し、国家による母性保護を「奴隷道徳」「依頼主義」と難じた。「婦人は男子にも国家にも寄りかかるべきではない」と主張した。
これに対して、女性解放思想家山川菊栄は、与謝野と平塚の主張の双方を部分的に認めつつも批判し、保護(平塚)か経済的自立(与謝野)かの対立に、差別のない社会でしか婦人の解放はありえないと社会主義の立場から主張。平塚らいてう・伊藤野枝らの運動を批判。
そこへ良妻賢母主義的立場から山田わかが論争に参入。「独立」という美辞に惑わされず家庭婦人(専業主婦)も金銭的報酬はもらっていないが、家庭内で働いているのだから誇りを持つべきと主張したという。
この論争には島中雄三、山田嘉吉(山田わかの夫)ら男性も加わり、新聞にも賛否様々の投書が送られたという。
山川菊栄は、この母性保護論争で論壇に登場して以後、ベーベル(August Bebel)の『婦人論』を初完訳、カーペンター(Clarence Ray Carpente)らの著作を翻訳紹介する一方、『婦人の勝利』(1919年),『婦人問題と婦人運動』(1925年)などの著作で,科学的社会主義(マルクス主義の別称)に基づく婦人論,婦人運動理論を樹立したという。
1962(昭和37)年4月婦人問題の総合的研究団体として田中寿美子らと婦人問題懇話会を設立し、亡くなるまでその代表者として後進の指導にあたったようだ。
そういえば、女性解放思想・運動家・平塚らいてふ(本名:明)が、日本女子大学校時代の友人らと文芸誌『青鞜』を発刊したのも、奇(く)しくも、今から103年前の1911(明治44)年の今日・9月1日のことであった。
上掲の画像は上段『青鞜』創刊号の表紙。下段の画像は、青鞜社、雑誌『青鞜』を発刊した年の12月の集い。前列右から小林哥津子、柳清美、物集和子、田中みさを、後列』右から4人目が、らいてふ。画像は、『朝日クロニカル週刊20世紀』女性の100年より。
「元始、女性は実に太陽であつた。真正の人であつた。今、女性は月である。他に依つて生き、他の光によつて輝く、病人のやうな蒼白い顔の月である」
力強く、挑むような調子で始まる『青鞜』の辞(※6「日本ペンクラブ:電子文藝館 総目次」の、評論・研究:平塚 らいてう 「元始女性は太陽であつた」参照)」。
表紙は長沼智恵(後に彫刻家・詩人の高村光太郎と結婚。夫の光太郎が、彼女の死後に出版した詩集『智恵子抄』で有名)が描いた。
『青鞜』発刊の前年1910(明治43)年には、幸徳秋水ら社会主義者が、天皇暗殺を企てたとして捕まり、1911(明治44)年1月には12人が死刑執行されるという、国家権力の暴走が目に余った時代である。自由な言論は圧殺され、石川啄木の言葉を借りれば「時代閉塞」の状況(※6の評論:石川 啄木 「時代閉塞の現状」)参照)が日本を覆っていたとされるが、女にとっては、むしろ、このときこそ長い幽閉のときから目覚めた人間性回復の年であった。
そのとばりをひらいた明(らいてふの本名)は、この創刊の辞を書き上げた際に、初めて「らいてう」という筆名を用いた。この時彼女は25歳であった。
父・平塚定二郎は明治政府の高級官吏(会計検査院に勤務)、のちに一高の講師も務めた人。
母・光沢(つや)の両親は徳川御三卿のひとつ田安家奥医師の飯島家の夫婦養子となった家柄。娘2人を開校間もない日本女子大学に入れる財もあれば、洋行経験もある高級官僚であり、明はまぎれもない「令嬢」であった。
当時の女性たちは、1899(明治32)年の高等女学校令、高等女学校の設置などで、少しずつ女子教育への門戸が開かれ始めていた頃であったとは言え、当時求められていた女性像は、家族制度の守り手としての「良妻賢母」であった。
それも、これら良妻賢母像が求められていたのは中堅層以上の恵まれた家庭に生まれた女性であり、中堅以下の下層の女は、牛馬同然の労働力であり、また 男性にとっての性のはけ口である娼婦としての肉体ともみなされていた。つまり、当時の女性達の人生は男との関係性によって規定されていたともいえるが、その点からも、「良妻賢母」の予備軍としての「令嬢」を縛る規範の第一は「処女性」であった。平塚明はこの「規範」に挑戦したともいえる。
明は3年前の1908(明治41)年の春、聴講していた閨秀文学講座の森田草平と栃木県塩原で心中未遂事件を起こしている。幸い心中は未遂に終わり、二人は保護され、「文学士と令嬢の情死未遂」事件は、新聞を賑わした(※7参照)。
それにしてもタフな二人であり、森田は心中未遂の後始末として、師・夏目漱石の推薦で翌年小説『煤煙』(※6の小説:森田 草平 「煤煙 抄」参照)を朝日新聞に連載し、これが彼の文壇デビューとなった。
一方、の明も、このスキャンダルにへこたれず、同士たちを糾合して「隠れたる我が太陽を、潜める天才を発現せよ」。釈尊は「実に全自我を解放した大自覚者となったのだ。」(※6の『青鞜』の辞参照)と釈尊を例にだし、女性解放のためには、自分で自分を縛っていることから解放せよ、と訴える。
「規範」破りでは、先輩の、与謝野晶子が、同創刊号に「山の動く日来る」「すべて眠りし女今ぞ目覚めて動くなる」(※6「日本ペンクラブ:電子文藝館の総目次」の物故会員 | 詩: 与謝野 晶子 そぞろごと参照)と、出発を促す詩を寄稿し頼もしい。
これに多くの女性が呼応し、小説や詩や短歌や随筆に自分の思いを表出し始めた。
そして、『青鞜』は、 いわゆる「貞操論争」、 「堕胎論争」、 「売春 (廃娼) 論争」 という三つの論争の 舞台. となっていった。
国家権力は発禁を持ってそのような『青鞜』を葬ろうとしたようだが、「規範」破りは続々と後に続き、かくて、男に都合の良い家族制度の一角が静かに崩壊し始めた。やはり女姓にとっては、1911(明治44)年が、女性解放運動の出発点であり、最も、記念すべき年なのだろうね。
「青鞜」は女性の文芸雑誌から女性解放へ軸足を変え、らいてうも成長、脱皮してゆく。大正、昭和と困難な時代にありながら、ほぼ一貫して女性解放、母性保護を訴え続けた。
戦後も平和運動、婦人団体のリーダーとして先頭に立つた。1970(昭和45)年の安保改定の時、本人が強く要望し、病身をおして東京・成城の自宅周辺で改定反対のデモをしたという。翌年85歳で死去している。
今の時代、口先だけではなく、このような強いリーダーシップを発揮している女性は誰なのだろうか。
参考:
※1:成長戦略で、明るい日本に! 〜「チーム・ジャパン」で力強く実行へ〜 | 首相官邸ホームページ
http://www.kantei.go.jp/jp/headline/seichosenryaku/index.html
※2:女性管理職:キーワード|ダイヤモンド・オンライン
http://diamond.jp/search/word/%E5%A5%B3%E6%80%A7%E7%AE%A1%E7%90%86%E8%81%B7
※3:安倍政権の「女性の活躍」政策に反論続出 | nikkei BPnet 〈日経BPネット)
http://www.nikkeibp.co.jp/article/matome/20130612/354019/
※4:「戦後政治史検証」
http://www.marino.ne.jp/~rendaico/toshi/nihonkiyosanto_nokenkiyu_toshi.htm
※5:植草一秀の『知られざる真実』: 2010年4月
http://uekusak.cocolog-nifty.com/blog/2010/04/
※6:日本ペンクラブ:電子文藝館 総目次
http://www.japanpen.or.jp/e-bungeikan/home.html#Mokuzi
※7:森田草平と平塚らいてう―栃木・塩原温泉 - 朝日新聞デジタル
http://www.asahi.com/travel/traveler/TKY200611110128.html
青鞜における「共同」PDFhttp://dspace.wul.waseda.ac.jp/dspace/bitstream/2065/39230/1/BungakuKenkyukaKiyo1_58_Yauchi.pdf#search='%E5%B0%8F%E6%9E%97%E5%93%A5%E6%B4%A5%E5%AD%90'
第12回 女性労働行政と男女共同参画 - あすばる
http://www.asubaru.or.jp/purpose/websemi/
女性管理職 - ハフィントンポスト
http://www.huffingtonpost.jp/news/joseikanrishoku/
日本の女性史年表 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E5%A5%B3%E6%80%A7%E5%8F%B2%E5%B9%B4%E8%A1%A8