1931年の今日・2月6日は、チャップリン(チャールズ・スペンサー・チャップリン"チャーリー")の映画『街の灯』(まちのひ、City Lights)がアメリカで封切られた日である。
チャップリンの映画についてはこのブログで、「チャップリンの映画『モダン・タイムス』がアメリカで公開された日」「チャップリンの誕生日」でも書いたので、どうしようかと思ったが、チャップリンは私の大好きな俳優でもあり、少々重複することもあるが、また、違った観点から書いてみることにした。
「そびえ立つ摩天楼、明るく輝く電燈の光、活気にあふれた広告の照明。そうしたものがたちまち希望と冒険心をかきたててくれた。『これだ!』わたしはひとり思った。『これこそ僕が住む街だ!』」
1910年9月半ば「フレッド・カルノー一座」(イギリス・ブロードウエーで、チャップリンはそう思ったという。
20世紀という時代を象徴するこの街で彼を待っていたのは、20世紀の新しい娯楽、映画の世界だった。
チャップリの両親は、ともに19世紀後半のイギリスで大衆娯楽の王座にあったミュージックホール(寄席のようなももだったらしい)の芸人だった。
彼が生まれて1年後に父親(チャールズ・チャップリン・シニア)は母親と別居、そして離婚。以後、舞台芸人の母親(ハンナ・チャップリン)に育てられ、5歳の時、喉頭炎(のどの病気)で、声が出なくなった時、母親の代役で舞台に出たのが、彼の初舞台であった。母親譲りのパントマイムの才能は後に映画で十分に発揮されることになる。
彼の初舞台の後、、母親は二度と舞台に立つことができず、彼は貧窮生活に陥った。しかし、失職した母のもとに父から養育費が届くはずもない。極貧生活の中で母は発狂し、施設に収容されてしまい、4歳違いの異父兄シドニーとともに、救貧院や孤児院を往復する少年時代を送っている。
生きるために床屋、印刷工、ガラス職人、新聞やマーケットの売り子とあらゆる職を転々としながらも、俳優斡旋所に通い、劇団を転々としながら芸を磨き、17歳になると兄の薦めでイギリスの劇団フレッド・カルノーの一座(この劇団には後にローレル&ハーディとして有名になるスタン・ローレルも在籍していた)に入団し、両親と同じミュージックホールの世界でコメディアンとして才能を磨くのだが、やがて、自分の将来に不安を感じるようになる。自伝には、以下のように記されているという。
「私は、寄席向けのコメディアンではない。彼らに必要なあのなれなれしさ、すぐに客の懐に飛び込んでいくあの才能を欠いていることが分かったからである。・・・ほとんど教育を受けていない私としては、もし、ミュージックホールの役者として失敗すれば、残された道は、召使になるぐらいしかなかった。その意味で、アメリカなら、未来が大きく開けている」・・・と(『朝日クロニクス週刊20世紀』1915-16年号)。
カーノー劇団の2度目のアメリカ巡業後の1913年、映画の都としての体裁を整え始めたハリウッドで、彼は人気の喜劇映画監督マック・セネットの目にとまり、週給150ドルの契約でキーストン・コップス(コメディアングループ)で有名なキーストン社に入社。翌1914年、『成功争ひ』で映画デビュー。
2作目『ヴェニスのこども自動車競走』の撮影中、「なにか扮装してこい」というぜネットの言葉に、彼がとっさに思いついた服装こそ、あのスタイルー大きなどた靴に、だぶだぶズボン、山高帽にステッキ、ちょび髭の放浪紳士チャーリー。
小柄で細身、二枚目で若く見られがちという、コメディアンに不向きな素顔を逆手にとった・・。逆転の発想であった。ステッキを振りながらぜネットの前を歩いて見せるわずかな間に、彼の頭の中はすでにギャグとアイデアでいっぱいになったという。以降『独裁者』(1940年)までこの扮装が彼のトレードマークとなった。
1914年、25歳の時からアメリカのドタバタ喜劇に出演したが、12本目から早くも監督と主演を兼ね活躍を始めたという。その頃の映画はその場その場の思いつきで撮影していたが、チャップリンはシナリオを書き、演技を何回もリハーサルしたという。この年だけで撮影された短編映画は35本、『醜女の深情』というマック・セネット監督の長編にも出演している。
ストーリー重視の映画制作を目指すチャップリンは、翌1915年には、キーストンを離れてシカゴのエッサネイ社に週給1250ドルの契約で移籍。自身で監督・脚本・主演した作品を14本作り、チャップリン演じる浮浪者が繰り広げるドタバタコメディは人気が博した。
そして、1916年、彼は、ミューチュアル社と週給1万ドル、ボーナス15万ドルで契約。この破格の待遇がサイレント時代におけるチャップリンのすさまじいまでの成功を物語っている。彼は、ここでは製作の自由を与えられ、よりよい環境とスタッフの下12本の傑作を世に送った。
その後、チャップリンは、初期短編作品に続く『犬の生活』(1918年)でそれまでのドタバタから抜け出す。
食にあぶれ腹を空かした浮浪者チャーリーはホットドック売りからつい1本失敬してしまう。口に入れかけたところへ痩せた犬がやってくる。可愛そうに思い犬にやろうとすると、ブルドックが来てかっさらっていく。人犬一体の笑いと涙の名作である。
この、『犬の生活』・・・て、どんな映画か気になるところだが、以下は、少々いたずら書きが多いが、見ることはできる。貴重な映像なので時間があれば見られるとよい。
犬の生活
タイトルの原題「A Dog's Life」は、「惨めな生活」を意味する英語の慣用句でもあるそうだ。一連のチャップリン映画の中でターニングポイント(重大な転換期)に位置する作品であり、チャップリンの「放浪者」、いわゆる「チャーリー(英語版)」のキャラクターが完全に確立された作品とみなされている。
浮浪者チャーリーのキャラクターについて、チャップリン自身は、「この男は実に複雑なのだ。浮浪者であるかと思えば紳士でもある。詩人にして夢想家、そして、孤独で寂しい男。そのくせ彼のやれることと言ったら煙草の吸殻を拾ったり、子供の飴玉をちょろまかすくらいなもの。事と次第によっては、御婦人の尻を蹴飛ばすかもしれないね」といってる(『朝日クロニクス週刊20世紀』1915-16年号)。
チャップリンは、この『犬の生活』(1918年)、『キッド』(1921年)、『黄金狂時代』(1925年)、『街の灯』(1931年)などで喜劇王の名を不動のものにしていった。
犬と共演している映画は、『犬の生活』の他に、キーストン期の『チャップリンの総理大臣』(1914年)と『チャップリンの拳闘』(1915年)、ユナイテッド・アーティスツ時代に入ってからの『黄金狂時代』(1925年)、そして、『街の灯』(1931年)であり、このほか、戦後の作品『モダン・タイムス』(1936年)にも登場している。
さて最後になってしまったが、肝心の『街の灯』は前作の『サーカス』(1928年公開。同年度の第1回アカデミー賞で特別賞を受賞している)に引き続きユナイテッド・アーティスツで製作・配給した作品で、製作に3年余りの時間を要した。冒頭には「コメディ・ロマンス・イン・パントマイム」というタイトルを掲げている。
本作は、“映画は見れば分かるものだから音は不要”と、ずっとパントマイムと、サイレントにこだわってきた彼があえて、トーキー隆盛の時代にサイレントで、音楽のみサウンド版となっていて、その音楽には並々ならぬ意欲が感じられる。
『街の灯』は、目が見えない花売り娘と浮浪者の恋を描いたロマンティック・コメディであるが・・・・。
チャップリン映画の特徴は、喜劇であっても悲劇的な要素を持っているし、また悲劇であっても喜劇的な部分を必ず見出すことができる。
ここに登場するチャップリンは浮浪者だがスタイルは紳士、つまり「放浪紳士」なのだが、街頭で花を売る少女の美しさに魅せられ、ポケットに残る小銭で一輪の花を買う。だが少女には金持ちの紳士と誤解され、ついその気になって、少女の前では富豪の紳士を演じようとし、彼女の目の治療費を稼ぐため、悪戦苦闘を繰り広げる……。
ここではチャーリーの「放浪紳士」という二重性を帯びた性格が見られる。チャーリーの扮装は貧乏な人が上流の紳士に憧れる姿でもあり、紳士たちの実態を痛烈に皮肉ったものとも言える。そして、チャップリンは先ず、冒頭の場面でもたっぷりと社会風刺をきかせている。
ある街の広場で、「平和と繁栄の像」の除幕式をやっている。記念碑を覆う幕の下には、第1次世界大戦後のアメリカが享受していた永遠に栄える社会の象徴があるはずであったのだが、いざ除幕すると、そこには職を失った浮浪者チャーリーが寝ていた……。
1920年代の繁栄の裏側を歩いてきたチャップリン演ずるひとりの浮浪者の存在が“20年代の繁栄をくつがえしている。この除幕式の場面が撮影された半年後の1929年10月24日にはニューヨーク証券取引所で株価が大暴落ししたことを端緒として、世界大恐慌が始まった。その意味でも「街の灯」は予言的な作品であるが、”31年の公開時、この冒頭場面は、大恐慌発生後の世界に強烈にアピールした。
名士達にどやしつけられながら逃げ出し、街中まで来ると、盲目の美しい娘が花を売っていて、チャーリーに声をかける。そこで、一輪の花を買ったことからその少女に金持ちの紳士と誤解され、このドラマは始まる。
娘が手術代さえあれば目が見えるようになると知ったチャーリーは、たまたま富豪の酔っ払いが自殺しようとしたのを助けてお礼を貰ったので娘に。
次はボクシングの八百長試合に出場するも失敗。失意のまま歩いているとまた、泥酔した例の富豪に出会う。この富豪、泥酔している時にはやたらと気前が良くて、チャーリーを親友扱いするが、しらふになると記憶を失い自分でお金を渡しておきながらチャーリーを泥棒と勘違いする。ここに登場する大富豪にも二重性がある。
やってきた警官からも逃げだして、娘のところに。「これで目の治療をうけなさい」と大金を渡して、街に戻ったところを昨夜の警官に逮捕されてしまう。
月日は流れチャーリーは刑期を終えて出所する。街の新聞売りの少年にからかわれながらも、ふと花屋をのぞくと、そこにはあの花売り娘が笑っていた。彼はガラス越しに彼女を見つめるが、娘は彼が恩人であることを知らない。娘の目に見えているのはボロをまとった浮浪者であった。悲しい断絶をにおわせながら、心優しい娘は彼に花を一輪とお金を手渡そうとする。困ったような表情のチャーリーにお金を握らせた時、娘の表情が変わる。そして、二人が交わす言葉。
「You?」(あなたでしたの?)
「You can see now?」(もう見えるようになったんだね?)
「Yes, I can see now」(ええ、今は見えます.)
盲目だった彼女は恩人の手を覚えていたのだった。
ラストシーンは、この3枚の字幕に挟まれながら、クローズアップでチャップリンが最高の演技をみせて映画は終わる。クロース・アップの何と効果的なことか。
見えない目を覆っていた瞼の向こうに思い描いていた少女の “白馬の騎士”は、実は“小汚い浮浪者”だったわけである。
もし、ここで映画が終わらなければ・・・・。映画はハッピー・エンドで終わらなかったかもしれない。二人が再会し、複雑な笑いを浮かべるラストシーンは、見る者の脳裏にさまざまなことを去来させる。
完璧主義者のチャップリンは、ヴァージニア・チェリル演じる花売り娘との出会いのシーン(正味3分ほど)に342回のNGを出し、1年以上かけて撮り直しをしたという。
トーキーの時代を迎えた映画界で、チャップリンがサイレント映画に対する愛情と自信から、パントマイムとわずかな字幕だけを用いて、鋭い人間観察に裏打ちされた人間の残酷さと無償の愛を描き、世界中で大ヒットしたこの名作。
ラストシーンで流れているフィナーレの曲はチャップリン自身の作曲によるものであり、オーケストラに編曲しているのは映画音楽の巨匠アルフレッド・ニューマン。壮大な美しい音楽が、この感動的なラストシーンを大いに盛り上げている。
見た人が多いだろうが、まずは、そのラストシーンを素敵な音楽を聴きながら再度見てほしい。
この映画に流れているテーマ曲「花売り娘」は、スペインの作曲家ホセ・バディラが作曲し、ラケル・メレエ(RaquelMeller)が唄っていた古い歌曲『LA VIOLETERA』(ラ・ヴィオレテラ。菫の花売り)で、チャップリンが好んでいた曲といわれ、これをアーサー・ジョンストンが編曲したものが使われている。聞いてみると、なるほどと納得することだろう。
上掲は、チャップリンの『街の灯』のサウンド・トラックによる「花売り娘」。以下が、ホセ・バディラ作曲。ラケル・メレエ(RaquelMeller)唄の「LA VIOLETERA」
『街の灯』は、1931(昭和6)年にアメリカ(ユナイト社)で製作公開された。日本でも前評判が高くて、翌1932(昭和7)年6月と7月に早くも和製主題歌が登場した。
ひとつは、矢追婦美子の唄う「花売娘の唄」(作詞:岸 練三郎 、曲は外来曲によるもの)ポリドールより7年6月発売。
もう一つは淡谷のり子の唄う「街の灯」(作詞:浜田広介・作曲:古賀政男)で、コロンビアより、7年7月発売。
しかし淡谷のり子が唄う『街の灯』の主題歌が出たのに、どういうわけか映画の方は日本国内の公開が遅れて、2年後の1934(昭和9)年1月にやっと公開となった。日本で公開もしてないのに、なぜ2社で映画主題歌を出してしまったのかは謎だか、チャップリンは、この映画完成後、1年4ヶ月間にわたる世界一周の旅に出、この1932(昭和7)年5 に初来日しているので、その来朝記念に国内公開の機運が高まっていたのかもしれない。
早まって出したコロムビアは、淡谷のり子に同じ歌詞だが作曲だけ変えて、1934(昭和9)年2月に「街の灯」を改めて出すことになった。
上掲は、浜田広介作詞・古賀政男作曲により淡谷のり子が唄う「街の灯」
以下は、同じく浜田広介作詞であるが杉田良造が作曲したものを淡谷が唄う「街の灯」。聞き比べると面白い。
一方のポリドールの方は渡辺光子を起用して、「街の灯の唄」(作曲:服部竜太郎、曲は外来曲)、「花売娘の唄」(作曲:服部竜太郎、曲は外来曲)の2曲の主題歌を改めて1934(昭和9)年3月に出したというが、こちらはどんなものか聞けないのでよく判らない。とにかく2年遅れの日本での公開は、相当な期待を持って待ち望んでいたらしく、「街の灯」の主題歌は、コロンビア、ポリドールだけでなくビクターとテイチクでも競作で出していたそうだ。
ニューヨークの場末の貧民街の街角で、ふっと出会った浮浪者と盲目の花売り娘の物語『街の灯』は、そのバックミュージックとともに多くの日本人の共感を呼んだようだ。
参考:
昭和初期の映画主題歌あれこれ
http://blog.livedoor.jp/oke1609/archives/2006-06-21.html
週刊シネママガジン:チャールズ・チャップリン
http://static.cinema-magazine.com/new_kantoku/chaplin.htm
チ ャ ッ プ リ ン 映 画 を 語 る
http://homepage1.nifty.com/Kinemount-P/CHAPLIN-TOP.htm
チャールズ・チャップリン - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%81%E3%83%A3%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%82%BA%E3%83%BB%E3%83%81%E3%83%A3%E3%83%83%E3%83%97%E3%83%AA%E3%83%B3
チャップリンの映画についてはこのブログで、「チャップリンの映画『モダン・タイムス』がアメリカで公開された日」「チャップリンの誕生日」でも書いたので、どうしようかと思ったが、チャップリンは私の大好きな俳優でもあり、少々重複することもあるが、また、違った観点から書いてみることにした。
「そびえ立つ摩天楼、明るく輝く電燈の光、活気にあふれた広告の照明。そうしたものがたちまち希望と冒険心をかきたててくれた。『これだ!』わたしはひとり思った。『これこそ僕が住む街だ!』」
1910年9月半ば「フレッド・カルノー一座」(イギリス・ブロードウエーで、チャップリンはそう思ったという。
20世紀という時代を象徴するこの街で彼を待っていたのは、20世紀の新しい娯楽、映画の世界だった。
チャップリの両親は、ともに19世紀後半のイギリスで大衆娯楽の王座にあったミュージックホール(寄席のようなももだったらしい)の芸人だった。
彼が生まれて1年後に父親(チャールズ・チャップリン・シニア)は母親と別居、そして離婚。以後、舞台芸人の母親(ハンナ・チャップリン)に育てられ、5歳の時、喉頭炎(のどの病気)で、声が出なくなった時、母親の代役で舞台に出たのが、彼の初舞台であった。母親譲りのパントマイムの才能は後に映画で十分に発揮されることになる。
彼の初舞台の後、、母親は二度と舞台に立つことができず、彼は貧窮生活に陥った。しかし、失職した母のもとに父から養育費が届くはずもない。極貧生活の中で母は発狂し、施設に収容されてしまい、4歳違いの異父兄シドニーとともに、救貧院や孤児院を往復する少年時代を送っている。
生きるために床屋、印刷工、ガラス職人、新聞やマーケットの売り子とあらゆる職を転々としながらも、俳優斡旋所に通い、劇団を転々としながら芸を磨き、17歳になると兄の薦めでイギリスの劇団フレッド・カルノーの一座(この劇団には後にローレル&ハーディとして有名になるスタン・ローレルも在籍していた)に入団し、両親と同じミュージックホールの世界でコメディアンとして才能を磨くのだが、やがて、自分の将来に不安を感じるようになる。自伝には、以下のように記されているという。
「私は、寄席向けのコメディアンではない。彼らに必要なあのなれなれしさ、すぐに客の懐に飛び込んでいくあの才能を欠いていることが分かったからである。・・・ほとんど教育を受けていない私としては、もし、ミュージックホールの役者として失敗すれば、残された道は、召使になるぐらいしかなかった。その意味で、アメリカなら、未来が大きく開けている」・・・と(『朝日クロニクス週刊20世紀』1915-16年号)。
カーノー劇団の2度目のアメリカ巡業後の1913年、映画の都としての体裁を整え始めたハリウッドで、彼は人気の喜劇映画監督マック・セネットの目にとまり、週給150ドルの契約でキーストン・コップス(コメディアングループ)で有名なキーストン社に入社。翌1914年、『成功争ひ』で映画デビュー。
2作目『ヴェニスのこども自動車競走』の撮影中、「なにか扮装してこい」というぜネットの言葉に、彼がとっさに思いついた服装こそ、あのスタイルー大きなどた靴に、だぶだぶズボン、山高帽にステッキ、ちょび髭の放浪紳士チャーリー。
小柄で細身、二枚目で若く見られがちという、コメディアンに不向きな素顔を逆手にとった・・。逆転の発想であった。ステッキを振りながらぜネットの前を歩いて見せるわずかな間に、彼の頭の中はすでにギャグとアイデアでいっぱいになったという。以降『独裁者』(1940年)までこの扮装が彼のトレードマークとなった。
1914年、25歳の時からアメリカのドタバタ喜劇に出演したが、12本目から早くも監督と主演を兼ね活躍を始めたという。その頃の映画はその場その場の思いつきで撮影していたが、チャップリンはシナリオを書き、演技を何回もリハーサルしたという。この年だけで撮影された短編映画は35本、『醜女の深情』というマック・セネット監督の長編にも出演している。
ストーリー重視の映画制作を目指すチャップリンは、翌1915年には、キーストンを離れてシカゴのエッサネイ社に週給1250ドルの契約で移籍。自身で監督・脚本・主演した作品を14本作り、チャップリン演じる浮浪者が繰り広げるドタバタコメディは人気が博した。
そして、1916年、彼は、ミューチュアル社と週給1万ドル、ボーナス15万ドルで契約。この破格の待遇がサイレント時代におけるチャップリンのすさまじいまでの成功を物語っている。彼は、ここでは製作の自由を与えられ、よりよい環境とスタッフの下12本の傑作を世に送った。
その後、チャップリンは、初期短編作品に続く『犬の生活』(1918年)でそれまでのドタバタから抜け出す。
食にあぶれ腹を空かした浮浪者チャーリーはホットドック売りからつい1本失敬してしまう。口に入れかけたところへ痩せた犬がやってくる。可愛そうに思い犬にやろうとすると、ブルドックが来てかっさらっていく。人犬一体の笑いと涙の名作である。
この、『犬の生活』・・・て、どんな映画か気になるところだが、以下は、少々いたずら書きが多いが、見ることはできる。貴重な映像なので時間があれば見られるとよい。
犬の生活
タイトルの原題「A Dog's Life」は、「惨めな生活」を意味する英語の慣用句でもあるそうだ。一連のチャップリン映画の中でターニングポイント(重大な転換期)に位置する作品であり、チャップリンの「放浪者」、いわゆる「チャーリー(英語版)」のキャラクターが完全に確立された作品とみなされている。
浮浪者チャーリーのキャラクターについて、チャップリン自身は、「この男は実に複雑なのだ。浮浪者であるかと思えば紳士でもある。詩人にして夢想家、そして、孤独で寂しい男。そのくせ彼のやれることと言ったら煙草の吸殻を拾ったり、子供の飴玉をちょろまかすくらいなもの。事と次第によっては、御婦人の尻を蹴飛ばすかもしれないね」といってる(『朝日クロニクス週刊20世紀』1915-16年号)。
チャップリンは、この『犬の生活』(1918年)、『キッド』(1921年)、『黄金狂時代』(1925年)、『街の灯』(1931年)などで喜劇王の名を不動のものにしていった。
犬と共演している映画は、『犬の生活』の他に、キーストン期の『チャップリンの総理大臣』(1914年)と『チャップリンの拳闘』(1915年)、ユナイテッド・アーティスツ時代に入ってからの『黄金狂時代』(1925年)、そして、『街の灯』(1931年)であり、このほか、戦後の作品『モダン・タイムス』(1936年)にも登場している。
さて最後になってしまったが、肝心の『街の灯』は前作の『サーカス』(1928年公開。同年度の第1回アカデミー賞で特別賞を受賞している)に引き続きユナイテッド・アーティスツで製作・配給した作品で、製作に3年余りの時間を要した。冒頭には「コメディ・ロマンス・イン・パントマイム」というタイトルを掲げている。
本作は、“映画は見れば分かるものだから音は不要”と、ずっとパントマイムと、サイレントにこだわってきた彼があえて、トーキー隆盛の時代にサイレントで、音楽のみサウンド版となっていて、その音楽には並々ならぬ意欲が感じられる。
『街の灯』は、目が見えない花売り娘と浮浪者の恋を描いたロマンティック・コメディであるが・・・・。
チャップリン映画の特徴は、喜劇であっても悲劇的な要素を持っているし、また悲劇であっても喜劇的な部分を必ず見出すことができる。
ここに登場するチャップリンは浮浪者だがスタイルは紳士、つまり「放浪紳士」なのだが、街頭で花を売る少女の美しさに魅せられ、ポケットに残る小銭で一輪の花を買う。だが少女には金持ちの紳士と誤解され、ついその気になって、少女の前では富豪の紳士を演じようとし、彼女の目の治療費を稼ぐため、悪戦苦闘を繰り広げる……。
ここではチャーリーの「放浪紳士」という二重性を帯びた性格が見られる。チャーリーの扮装は貧乏な人が上流の紳士に憧れる姿でもあり、紳士たちの実態を痛烈に皮肉ったものとも言える。そして、チャップリンは先ず、冒頭の場面でもたっぷりと社会風刺をきかせている。
ある街の広場で、「平和と繁栄の像」の除幕式をやっている。記念碑を覆う幕の下には、第1次世界大戦後のアメリカが享受していた永遠に栄える社会の象徴があるはずであったのだが、いざ除幕すると、そこには職を失った浮浪者チャーリーが寝ていた……。
1920年代の繁栄の裏側を歩いてきたチャップリン演ずるひとりの浮浪者の存在が“20年代の繁栄をくつがえしている。この除幕式の場面が撮影された半年後の1929年10月24日にはニューヨーク証券取引所で株価が大暴落ししたことを端緒として、世界大恐慌が始まった。その意味でも「街の灯」は予言的な作品であるが、”31年の公開時、この冒頭場面は、大恐慌発生後の世界に強烈にアピールした。
名士達にどやしつけられながら逃げ出し、街中まで来ると、盲目の美しい娘が花を売っていて、チャーリーに声をかける。そこで、一輪の花を買ったことからその少女に金持ちの紳士と誤解され、このドラマは始まる。
娘が手術代さえあれば目が見えるようになると知ったチャーリーは、たまたま富豪の酔っ払いが自殺しようとしたのを助けてお礼を貰ったので娘に。
次はボクシングの八百長試合に出場するも失敗。失意のまま歩いているとまた、泥酔した例の富豪に出会う。この富豪、泥酔している時にはやたらと気前が良くて、チャーリーを親友扱いするが、しらふになると記憶を失い自分でお金を渡しておきながらチャーリーを泥棒と勘違いする。ここに登場する大富豪にも二重性がある。
やってきた警官からも逃げだして、娘のところに。「これで目の治療をうけなさい」と大金を渡して、街に戻ったところを昨夜の警官に逮捕されてしまう。
月日は流れチャーリーは刑期を終えて出所する。街の新聞売りの少年にからかわれながらも、ふと花屋をのぞくと、そこにはあの花売り娘が笑っていた。彼はガラス越しに彼女を見つめるが、娘は彼が恩人であることを知らない。娘の目に見えているのはボロをまとった浮浪者であった。悲しい断絶をにおわせながら、心優しい娘は彼に花を一輪とお金を手渡そうとする。困ったような表情のチャーリーにお金を握らせた時、娘の表情が変わる。そして、二人が交わす言葉。
「You?」(あなたでしたの?)
「You can see now?」(もう見えるようになったんだね?)
「Yes, I can see now」(ええ、今は見えます.)
盲目だった彼女は恩人の手を覚えていたのだった。
ラストシーンは、この3枚の字幕に挟まれながら、クローズアップでチャップリンが最高の演技をみせて映画は終わる。クロース・アップの何と効果的なことか。
見えない目を覆っていた瞼の向こうに思い描いていた少女の “白馬の騎士”は、実は“小汚い浮浪者”だったわけである。
もし、ここで映画が終わらなければ・・・・。映画はハッピー・エンドで終わらなかったかもしれない。二人が再会し、複雑な笑いを浮かべるラストシーンは、見る者の脳裏にさまざまなことを去来させる。
完璧主義者のチャップリンは、ヴァージニア・チェリル演じる花売り娘との出会いのシーン(正味3分ほど)に342回のNGを出し、1年以上かけて撮り直しをしたという。
トーキーの時代を迎えた映画界で、チャップリンがサイレント映画に対する愛情と自信から、パントマイムとわずかな字幕だけを用いて、鋭い人間観察に裏打ちされた人間の残酷さと無償の愛を描き、世界中で大ヒットしたこの名作。
ラストシーンで流れているフィナーレの曲はチャップリン自身の作曲によるものであり、オーケストラに編曲しているのは映画音楽の巨匠アルフレッド・ニューマン。壮大な美しい音楽が、この感動的なラストシーンを大いに盛り上げている。
見た人が多いだろうが、まずは、そのラストシーンを素敵な音楽を聴きながら再度見てほしい。
この映画に流れているテーマ曲「花売り娘」は、スペインの作曲家ホセ・バディラが作曲し、ラケル・メレエ(RaquelMeller)が唄っていた古い歌曲『LA VIOLETERA』(ラ・ヴィオレテラ。菫の花売り)で、チャップリンが好んでいた曲といわれ、これをアーサー・ジョンストンが編曲したものが使われている。聞いてみると、なるほどと納得することだろう。
上掲は、チャップリンの『街の灯』のサウンド・トラックによる「花売り娘」。以下が、ホセ・バディラ作曲。ラケル・メレエ(RaquelMeller)唄の「LA VIOLETERA」
『街の灯』は、1931(昭和6)年にアメリカ(ユナイト社)で製作公開された。日本でも前評判が高くて、翌1932(昭和7)年6月と7月に早くも和製主題歌が登場した。
ひとつは、矢追婦美子の唄う「花売娘の唄」(作詞:岸 練三郎 、曲は外来曲によるもの)ポリドールより7年6月発売。
もう一つは淡谷のり子の唄う「街の灯」(作詞:浜田広介・作曲:古賀政男)で、コロンビアより、7年7月発売。
しかし淡谷のり子が唄う『街の灯』の主題歌が出たのに、どういうわけか映画の方は日本国内の公開が遅れて、2年後の1934(昭和9)年1月にやっと公開となった。日本で公開もしてないのに、なぜ2社で映画主題歌を出してしまったのかは謎だか、チャップリンは、この映画完成後、1年4ヶ月間にわたる世界一周の旅に出、この1932(昭和7)年5 に初来日しているので、その来朝記念に国内公開の機運が高まっていたのかもしれない。
早まって出したコロムビアは、淡谷のり子に同じ歌詞だが作曲だけ変えて、1934(昭和9)年2月に「街の灯」を改めて出すことになった。
上掲は、浜田広介作詞・古賀政男作曲により淡谷のり子が唄う「街の灯」
以下は、同じく浜田広介作詞であるが杉田良造が作曲したものを淡谷が唄う「街の灯」。聞き比べると面白い。
一方のポリドールの方は渡辺光子を起用して、「街の灯の唄」(作曲:服部竜太郎、曲は外来曲)、「花売娘の唄」(作曲:服部竜太郎、曲は外来曲)の2曲の主題歌を改めて1934(昭和9)年3月に出したというが、こちらはどんなものか聞けないのでよく判らない。とにかく2年遅れの日本での公開は、相当な期待を持って待ち望んでいたらしく、「街の灯」の主題歌は、コロンビア、ポリドールだけでなくビクターとテイチクでも競作で出していたそうだ。
ニューヨークの場末の貧民街の街角で、ふっと出会った浮浪者と盲目の花売り娘の物語『街の灯』は、そのバックミュージックとともに多くの日本人の共感を呼んだようだ。
参考:
昭和初期の映画主題歌あれこれ
http://blog.livedoor.jp/oke1609/archives/2006-06-21.html
週刊シネママガジン:チャールズ・チャップリン
http://static.cinema-magazine.com/new_kantoku/chaplin.htm
チ ャ ッ プ リ ン 映 画 を 語 る
http://homepage1.nifty.com/Kinemount-P/CHAPLIN-TOP.htm
チャールズ・チャップリン - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%81%E3%83%A3%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%82%BA%E3%83%BB%E3%83%81%E3%83%A3%E3%83%83%E3%83%97%E3%83%AA%E3%83%B3