かって「中東」一帯には テュルク系(後のトルコ人)のオスマン家出身の君主(皇帝)を戴く多民族国家の「オスマン帝国」(オスマントルコともいう) という名の超どでかい帝国があった。15世紀には東ローマ帝国を滅ぼしてその首都であったコンスタンティノポリスを征服、この都市を自らの首都とした(オスマン帝国の首都となったこの都市は、やがてイスタンブルと通称されるようになる)。
同じ頃(1500年前後)に、ヨーロッパでは「大航海時代」が訪れ、「ポルトガル」 「スペイン(日本などではスベイン語の発音でイスパニアと呼称)」 「イギリス」 「オランダ」 などの国々が、まだ見ぬ世界を探求するために船を出し、貿易船と、それを襲う海賊、そして海賊を倒す艦隊が入り乱れていた。
1600 年頃になると、大航海時代は 探検航海によって世界の姿が解って来ると、その新しい世界を支配しようと、列強国が互いに争いを始める 支配の時代へと移っていき、列強間での争いを始めた。ヨーロッパの軍隊は最新の武器で武装し、世界の国々をどんどんと占領してゆき、地域住民の事などおかまいなしに領土の奪い合い合戦が起こるようになる。このヨーロッパの強国が世界中の国々を 「植民地支配」 していった事が、その後の世界の歴史に大きな影響を及ぼすことになった。
オスマン帝国の17世紀の最大版図は、東西はアゼルバイジャンからモロッコに至り、南北はイエメンからウクライナ、ハンガリー、チェコスロヴァキアに至る広大な領域に及んでいた。
●上掲の画像はオスマン帝国の領土(Wikipedia)。ここクリックで拡大図が見れる。
しかし、1700 年頃 から、オスマン帝国 はヨーロッパの国々との戦争に押され気味となり、徐々にアラビア半島の方に押し込まれ、1800年頃、フランス・ナポレオンの遠征によってエジプトが制圧され、北アフリカの覇権をなくし、その後も敗退を続け、1900年ごろには 「中東地域」 であるアラビア半島のみを支配する国となった。
そして、1900年ごろ中東地域で「石油が発見され、ただの砂漠だった中東地域が 「油田の宝庫」である事が判明すると、各国は一斉にこの地域の利権を求め始めた。ちょうどこの頃は、ガソリンを使ったエンジンや、灯油を使ったストーブ、街灯などが登場し、石油が求められていた頃である。
1914 年、小国同士の争いに大国が介入し、ヨーロッパを中心に起こった戦乱 「第一次世界大戦」で、オスマン・トルコ帝国 は 「ドイツ」 側として参戦するが、先にも書いたようにドイツが敗れてしまった。「石油の油田を持っている国が戦争に負けた」 ということは、戦勝国であった イギリス や フランス にとっては大きなチャンスであった。すかさず イギリス と フランス は極秘に協定を結び、中東の多くの土地を分割して支配し、これらの領土を植民地化した。この時、イギリス や フランス は、自分達の都合の良いように適当に領土分けを行ったり、互いに矛盾する外交を展開したことが、現在のパレスチナ問題やクルド人問題、イスラム国問題といった、いわゆる中東問題へと繋がっていったのである。
中でも、中東問題の諸悪の根源となったのが、イギリスが第一次世界大戦の中でとった三枚舌外交と呼ばれる不誠実な外交施策であり、これがのちの中東を混沌とさせる最大の要因となった。
イギリスは第一次世界大戦中に戦後の中東問題に対して、以下の三つの協定を結んでいた。それぞれ、アラブ・フランス・ユダヤに配慮した内容であった。
1)- フサイン=マクマホン協定
1915年10月にメッカの太守であるフサイン・イブン・アリーとイギリスの駐エジプト高等弁務官ヘンリー・マクマホンとの間でやりとりされた書簡の中で、イギリスはオスマン帝国打倒(対トルコ戦)への協力(アラブ反乱)の見返りにオスマン帝国からのアラブ人独立とアラブ全域をまたぐ大きなアラブ人居住地・統一国家の独立支持を約束した。しかし、これが、遂に守られることはなかった。
2)サイクス ・ピコ協定
第一次世界大戦中の1916年5月16日にイギリス、フランス、ロシアの間で結ばれた大戦後のオスマン帝国領(中東)の分割を約した秘密協定でイギリスの中東専門家マーク・サイクス(Mark Sykes) とフランスの外交官フランソワ・ジョルジュ=ピコによって原案が作成され、この名がついた。主に植民地支配権と、資源利権の分配を意図したもので、フサインの蜂起(アラブ反乱)直前のことであり、内容は以下のようなもの。
・シリア、アナトリア南部、イラクのモスル地区をフランスの勢力範囲とする。
・シリア南部と南メソポタミア(現在のイラクの大半)をイギリスの勢力範囲とする。
・黒海東南沿岸、ボスポラス海峡、ダーダネルス海峡両岸地域をロシア帝国の勢力範囲とする。
この協定は、先に書いたフサイン・マクマホン協定や次にあげるイギリスがパレスチナにおけるユダヤ人居住地を明記したバルフォア宣言 (1917年11月)とイギリスが相矛盾する三枚舌外交をしたとして批判された。
3)バルフォア宣言
第一次世界大戦中の1917年11月に、イギリスの外務大臣アーサー・バルフォアが、イギリスのユダヤ人コミュニティーのリーダーである第2代ロスチャイルド男爵(ライオネル・ウォルター・ロスチャイルド)に対して送った書簡で表明された。バルフォア宣言では、イギリス政府の公式方針として、パレスチナにおけるユダヤ人の居住地(ナショナルホーム)の建設に賛意を示し、その支援を約束している。
1921年3月21日エジプトのカイロでイギリスの当時陸相であったチャーチルの主宰により、イラクの今後の統治について検討する会議がもたれた。この会議ではベルはフランスによってシリア・ダマスカスを追放されていたファイサル一世をイラクの国王に据え、高等弁務官以下イギリス人で構成される国家評議会を廃止、アラブ人の手になる仮政府を樹立させ民政に移管するという案を持ち出した。
第一次大戦中、ファイサルの父でマッカ(メッカ)の太守ハーシム家(預言者ムハンマドの後裔と称していた)のフサインはパレスチナにおいて英仏軍とともに戦い、大戦後は論功行賞としてシリア・パレスチナ・ヒジャーズの王となる事が英仏により保証されていた。いわゆる「フセイン・マクマホン協定」だが、戦後のアラブにおける英仏の勢力圏を画定した前出の「サイクス・ピコ協定」の内容と明らかに矛盾しており、この英仏の二枚舌外交は現在に至るまで尾をひいている。サイクス・ピコ協定の内容を知らないまま、ファイサルは勇躍シリア国王に即位したもののフランスはこれを認めず、追放の憂き目をみていた。チャーチルもベルの案に賛同、本国にベルの案を打電した。
統治形態についてはまとまったものの、イラクの領土画定問題に議題が移った途端に紛糾した。クルド人(スンナ派)の北部、アラブ人(スンナ派)の中部、アラブ人(シーア派)の南部、それにペルシャ人、ユダヤ人、キリスト教徒などの地域が複雑に入り組んでいる地域の国境をどう画定するか?
ベルは上記の3つの地域で一国を構成されるべきという持論を曲げなかった。この会議に同席していたトーマス・エドワード・ロレンス(映画『アラビアのロレンス』の主人公のモデルとして知られる)は、「クルド人地域のみトルコへのバッファーゾーン(緩衝帯)としてイギリスが直接統治を続けるべき」という意見を出したが、ベルはこれに耳を貸さず、ここにイラクの領土は画定された。しかし結果的にはロレンスが抱いた危惧は正しかった。そしてハーシム家の次男でファイサルの兄にあたるアブドゥッラーはヨルダン国王に配され、現在のヨルダン王室へと続く事になる。
以上のようなイラク建国の経緯から、イラクは列強の利害とベルの地政学的見解がリンクした結果、建国された人工国家であるという評価が定着する事になる。この年の6月、ファイサルはイラクに入り、そのわずか2ヶ月後にイラク国王として即位した。
ベルの意見が採用されて不自然な国境線となったことにより、クルド人はトルコ・イラク・イラン・シリア・アルメニアなどに分断され、世界最大の国を持たない3000万人の民族集団となった。また、シリア東部からイラク西部にかけて勢力を拡大している過激派組織「イスラム国」(IS)も、サイクス・ピコ協定に怒りを抱いており、武装闘争を続ける動機の一つとされているという。
パレスチナについてはイギリスの三枚目の舌「バルフォア宣言」とのからみで結論は先送りされたが、結果的に、中東に存在しなかったユダヤ人国家イスラエルの建国を認めた宣言となり、この土地からパレスチナ人を追い出して、イスラエルが建国されることになった。
しかも、それは「国際連合」の決議に基づいておこなわれた。第二次大戦後、処理できなくなったイギリスは国連に問題を丸投げし、1947年に国連でパレスチナをユダヤ国家、アラブ国家、国連関連管理地区の3つに分ける分割案が採択された。本来、その土地の人々が自ら判断する権利を持つべき(民族自決の原理)という考え方は全く無視されてしまったわけである。
このようなことを見ていると、国連の目的達成の一翼を担う専門機関だといわれるILOが唱えている「社会正義」などという言葉もなんともむなしく聞こえてくる。
これに対して、不満を持ったアラブの国々は同盟してイスラエルを攻撃するが、イスラエルは強く、アラブ連合軍は負けてしまう。そしてイスラエルはヨルダン川の西側の地区を完全に支配してしまい、元々パレスチナに住んでいた人々が難民化した結果、現在でも解決しないパレスチナ問題の原因となった。
一方、負けてしまったアラブの国々では、「いまの政府はダメだ」 という声が上がり始めた。そもそも、アラブの多くの国がイギリスとフランス(特にイギリス)の植民地政治を受けていたことから、これへの反発もあって独立しようという動きが一気に高まり、アラビア半島の多くの国が、次々と独立していったのだが・・・
サイクス・ピコ協定により、イラクはオスマン帝国から分割され、フランスとイギリスの勢力下に治められた。 1920年11月11日、イラクは国連からイギリスに委任統治され、イギリス委任統治領イラクと呼ばれることになり、イラクの政体はハーシム家の君主制となった。このとき、クウェートは切り離された。
ハーシム王家はイギリスの支援のもとで中央集権化を進め、スンナ派を中心とする国家運営を始め、1932年にはイラク王国として独立を達成した。その後、1958年共和国革命(7月14日革命)により、ハーシム君主制は終焉。
新政府はアブドルカリーム・カーシムが首相・国防大臣・最高司令官を兼任し、副首相兼内務大臣にアブドッサラーム・アーリフが就任した。
1968年アフマド・ハサン・アル=バクル将軍によるバアス党政権樹立を経て、1979年のイラン革命を切っ掛けに中央条約機構(CENTO/旧中東条約機構)が崩壊すると、中東全体が全く新しい軍事バランスに向かって動き出した。
1979年サッダーム・フセインが大統領に就任。フセイン政権の下、イランとイラクとの国境をめぐり、イラン・イラク戦争(1980年9月ー1988年8月)が勃発。続いて、クウェート侵攻、湾岸戦争(1991年1月ー2月)等が行われた。
湾岸戦争の後にイラクが受諾した停戦決議(決議687)において、イラクは大量破壊兵器の不保持が義務づけられていた。これを確認するため、国連査察団が送られたが、イラクは査察に非協力的とされ、大量破壊兵器を保有しているとの疑いが持たれた。
その後、2001年9月11日、アメリカで同時多発テロ事件が発生した。 これをきっかけに、アメリカ政府は対テロ戦争を宣言し、まずはイスラム原理主義のターリバーンを排除するためにアフガニスタンに侵攻した(不朽の自由作戦)。
続いて、2003年3月19日、国連決議に反して大量破壊兵器を保有しているとの疑いで、アメリカとイギリスの連合軍はイラクに対しての開戦を宣言(イラク戦争)。4月にはバグダッドが事実上陥落,フセイン政権は崩壊した(イラク戦争の年表参照)。
●上掲の画像は、倒されるサッダーム・フセイン大統領銅像である(Wikipedia)。
重いロープを首に巻きつけてイラク市民の歓声の中へと引き摺り下ろされる。この映像は世界中に流され、メディアは、4月9日を"VI(Victory in Iraq)Day"と呼び始めていた。
2004年6月、イラク暫定政権が発足し、2005年1月に選挙を行い、 2005年4月、イラク移行政府が発足した。
ブッシュ大統領は2005年5月1日、イラク戦争から帰還中の空母エーブラハム・リンカーンの艦上からテレビ演説し、「大規模戦闘の終結宣言」を行い、「国民解放」を強調している。
■大統領演説の骨子は以下の通り(※14参照)。
一、 イラクでの主な戦闘作戦は終結し、米国と連合軍は敵を圧倒した。我々は自由の大義と世界の平和のために戦った。
一、 我々はイラクの危険な地域に秩序をもたらす。政権の指導者を追跡している。
一、 隠された化学・生物兵器の捜索を始めた。調査すべき数百カ所を把握している。
一、 独裁から民主主義への移行には時間がかかる。任務が完了するまでイラクにとどまる。
一、 イラク解放はテロとの戦いにおける決定的に重要な前進だ。
一、 我々はアフガニスタン、イラク、パレスチナに自由をもたらす決意がある。 ・・・と。
しかし、その後もテロなどによる死傷者は後を絶たず、同年9月にすでに戦闘中の死者数を上回り、06年8月23日現在、その数は2839人、負傷者は1万9609人に上る(CNN電子版)。イラク民間人の死傷者はその10倍以上とみられている。
戦後は2003年5月から米英の暫定占領当局(CPA)が統治し、同年7月イラク人によるイラク統治評議会が発足、2004年6月末イラクに主権が移譲されたが、治安は相変わらず悪く、当初多国籍軍や外国・国際機関などの民間人が人質やテロの標的となっていたが、治安維持の主体がイラク正式政府になるにつれて、スンニ派とシーア派の対立が激化しており、有志連合軍がイラクに侵攻してから10年が経った今日、イラク国内では内戦に陥りつつあり非常に多くの多くの死傷者が出ていることが指摘されている(※15参照)。
その原因は、国防総省から統治を引き継いだCPA当局代表ジェイ・ガーナーは、イラク国家運営にはフセイン政権下で要職にあった旧バアス党員やスンナ派勢力の協力が不可欠と考え、戦犯をサッダーム・フセイン一族と側近にとどめて、しばらくはフセイン体制を維持したまま、ゆっくりと改革していこうと考えていたそうだが、性急な体制変革を望むブッシュ政権や国防総省、イラク国内のシーア派やクルド人勢力はガーナーの方針に反発、彼は1か月で解任され、後任のポール・ブレマーは就任すると、本国や国内勢力の意を受け、元バアス党員すべてを公職追放した。
官公庁職員・警察官・消防士・軍人など、フセイン時代からの公務員は概ねバアス党に登録していた為、国家機能は失われてしまった上、これらの人材が今勢力を拡大しとるイスラム国(IS)など武装勢力に加わる結果となった。
また、公職や高級な職種についていたのはサッダームに厚遇されたスンナ派に限られていた為、これらを追放すると、失業したスンナ派住民と、それまでの抑圧の恨みを持ったシーア派・クルド人の軋轢が増し、過度な衝突を招いた。
国家運営は、連合軍や連合国の人材が当初から少なすぎたことが災いし、各地で武装勢力や宗教勢力が自治組織を運営して勢力を拡大。当局はクルド人の自治権を大幅に拡大したが、クルド自治区はイラク軍とは別の武装組織が治安維持を行い始め、治安は良いものの、半独立国の様相であり、クルド人組織も独立を望んでいるが、大量のクルド人を抱える周辺諸国は逆に危機感を募らせている。
「内戦状態」といわれるイラクの主要因を生み出したのは、このCPAのおこなったフセイン体制の一掃でもあるが、それを支持したブッシュ政権の失敗でもある。
2001年1月に発足したブッシュ政権は、2001年9月11日の同時テロを、先代(父)のジョージ・H・W・ブッシュ政権時から懸案だったイラクを叩く好機と捉え、素早く動いた。つまり、始めにイラク攻撃ありきといったきらいがある。
イラク戦争でアメリカの勝利をイラクの「解放」とよび、「イラクに自由が訪れた」と誰よりも喜んでいるのはブッシュ政権中枢に食い込んでいるネオコン(「ネオ・コンサーバティヴ」のことで、「新保守主義」と略される)とよばれる人たちだろう。ネオコンは自分達とは違った文化(異文化)を認めない人たちであるが、これをを支えているのは共和党の親イスラエル(シオニズム)政策を支持するアメリカ国内在住のユダヤ(イスラエル)・ロビーである。
かれらには軍産複合体と利害が近い人も多い。ブッシュの父親。ジョージ・H・W・ブッシュ政権の時代から中東の民主化構想が考えられ、ブッシュ政権のイラク戦争もそれに基いているとされている。
「9.11」同時多発テロ後の渾沌とする世界の中で、アメリカ防衛のためには、先制攻撃も辞さずとネオコンが強力に仕向けたものだろう。先にあげたブッシュ大統領の、「大規模戦闘の終結宣言」演説の骨子にある最後の言葉など、ネオコンのユダヤ・ロビーストなどが泣いて喜んだろうね~。
ブッシュ政権は、開戦の理由はイラクが無条件査察を認めないことであって、イラク国内に大量破壊兵器が存在するという理由ではないと主張しているが、開戦前にブッシュ大統領やチェイニー副大統領が「イラクは大量破壊兵器を保有している」とメディアを通して繰り返し広言していたが、開戦後に大量破壊兵器が発見されなかったことでこの戦争の『大義』が失われたという批判も多い。
イラク攻撃にはフランス、ドイツ、ロシア、中国などが強硬に反対を表明し、国連の武器査察団による査察を継続すべきとする声もあったが、それを押し切った形での開戦となった。これら国々の反対の裏には人道的な反対というより、フセイン政権との関係やイラクの石油利権に絡んでいるとする意見もあるが、アメリカ事態が、イラクでの石油利権を確保するとともに、2000年ユーロ の誕生を機にイラクのサダム・フセインが石油の取引代金としてドルの代わりにユーロを用いると宣言したことに対して、米国の基軸通貨であるドル防衛のためにこれを阻止する意向もあったという説がある(※16参照)。、
アメリカ国内の世論は武力介入には高い支持を与えたものの、国連の支持なしの攻撃には必ずしも国論は一致していなかったし、戦争での死傷者が多く出たことに批判も多い。また、アメリカに合わせて武力行使を積極支持したイギリス・ブレア政権では、閣僚が相次いで辞任を表明し、政府の方針に反対した。
イラク戦争後、イラク国内の内乱のほか、さらにイスラエル対ヒズボラ(レバノンのシーア派イスラム主義の政治組織、武装組織)の武力衝突も発生し、アラブとイスラエルの対立、イランの核開発疑惑など、中東をめぐる情勢は混沌としている。
そして、今、米国主導で、有志連合軍は過激派集団・イスラム国壊滅を目指し空爆から地上戦に入ろうとしている(※17)。
この動きに抵抗してのことだろうか、イスラム国(IS)は2015年2月15日に、リビアで誘拐したエジプトのキリスト教の一派コプト教徒(コプト正教会参照)21人を一斉に殺害したとする映像をインターネット上で公開した(※19参照)。ISが、シリアやイラクの支配地域以外で、誘拐した多数の外国人を一斉に殺害したのは初めてのこと。ISは、2010 年にエジプトでイスラム教への改宗を妨害され、コプト教会で拷問を受けた中部ミニヤ県の女性の報復だと主張している。リビアでは2011 年にカダフィ独裁政権が崩壊した後、反カダフィ派が世俗派やイスラム主義者に分裂し、武力闘争を続けている。ISはその混乱に乗じて、東部デルナや中部シルトに進出し、訓練キャンプも設置。豊富な石油資源を狙っているとの見方もある。
これに対して、エジプトは16日朝早くにリビア国内の過激派組織「イスラム国」の拠点を空爆したと発表した。今まで、中東屈指の軍事力を誇るエジプトは、米国主導の対ISの空爆などの作戦には参加していなかったが、この事件を契機に国外で軍事行動に踏みきる可能性もある。
イラクやシリア以外の地域でもISの活動が活発化しそう。ますます混沌としそうだ。あの「アラブの春」はなんだったのだろうか・・・・?
ブッシュはイラク戦争に勝ち「我々は自由の大義と世界の平和のために戦った。 」などと、勝利宣言をしているが、そこには、どんな正義があるのか?
正義」の裏には「価値」の絶対性を主張する論理があり、その論理の後ろには、必ず「利権」がある。アメリカは「大量破壊兵器を保有するテロ国家をやっつける」という「正義」を掲げてイラクに侵攻したが、大量破壊兵器は出てこなかった。イラク戦争の背景が結局は、「お金」と「石油」だったことは、今では誰でも知っている。西洋のほかの国も同様である。
弱いものを犠牲にすることで先進国ビジネスが成り立っているのなら、永遠に世界の平和などつくれるわけはないだろう。
ILO憲章でも「労働は商品ではない」と高らかに歌い上げているが、今、イスラム過激派のなかには、自らの体にダイナマイトを巻きつけて自爆する女性までいる。この悲しい現実はいつなくなるのであろうか。このようなテロ行為が起こる根本原因には貧困が大きいだっろうが、そのような貧困者を生み出しているのは人間の持って生まれた性「貪欲さ」ではないだろうか。・・・これが少しでも抑え、貧しい人の方に回るようにしてあげれば、その分幸せな人が増えるはずなのだがが・・・。欲には限りがないのだろう。
最後に、チャップリンのトーキー映画『独裁者』のラストを飾る壮絶な演説を思い出した。この映画、タイトルの通り、アドルフ・ヒトラーとナチズムの風刺が主なテーマである。
ヨーロッパの大国トメニアの独裁者ヒンケル(チャップリン)は、世界征服とユダヤ人排斥を旗印に、世界に君臨しようとしていた。一方、ユダヤ人のゲットーの床屋であるチャーリー(チャップリン)は、ヒンケルと容貌が似ていた。そして、ふとしたことからチャーリーがヒンケルに間違われてしまうのである。そして、最後に、チャップリンがこの映画を通じて全世界の人々へ最も伝えたかったことが語られる。それは私の言いたいことでもあり、これを聞いて、このブログの締めとして下さい。
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同じ頃(1500年前後)に、ヨーロッパでは「大航海時代」が訪れ、「ポルトガル」 「スペイン(日本などではスベイン語の発音でイスパニアと呼称)」 「イギリス」 「オランダ」 などの国々が、まだ見ぬ世界を探求するために船を出し、貿易船と、それを襲う海賊、そして海賊を倒す艦隊が入り乱れていた。
1600 年頃になると、大航海時代は 探検航海によって世界の姿が解って来ると、その新しい世界を支配しようと、列強国が互いに争いを始める 支配の時代へと移っていき、列強間での争いを始めた。ヨーロッパの軍隊は最新の武器で武装し、世界の国々をどんどんと占領してゆき、地域住民の事などおかまいなしに領土の奪い合い合戦が起こるようになる。このヨーロッパの強国が世界中の国々を 「植民地支配」 していった事が、その後の世界の歴史に大きな影響を及ぼすことになった。
オスマン帝国の17世紀の最大版図は、東西はアゼルバイジャンからモロッコに至り、南北はイエメンからウクライナ、ハンガリー、チェコスロヴァキアに至る広大な領域に及んでいた。
●上掲の画像はオスマン帝国の領土(Wikipedia)。ここクリックで拡大図が見れる。
しかし、1700 年頃 から、オスマン帝国 はヨーロッパの国々との戦争に押され気味となり、徐々にアラビア半島の方に押し込まれ、1800年頃、フランス・ナポレオンの遠征によってエジプトが制圧され、北アフリカの覇権をなくし、その後も敗退を続け、1900年ごろには 「中東地域」 であるアラビア半島のみを支配する国となった。
そして、1900年ごろ中東地域で「石油が発見され、ただの砂漠だった中東地域が 「油田の宝庫」である事が判明すると、各国は一斉にこの地域の利権を求め始めた。ちょうどこの頃は、ガソリンを使ったエンジンや、灯油を使ったストーブ、街灯などが登場し、石油が求められていた頃である。
1914 年、小国同士の争いに大国が介入し、ヨーロッパを中心に起こった戦乱 「第一次世界大戦」で、オスマン・トルコ帝国 は 「ドイツ」 側として参戦するが、先にも書いたようにドイツが敗れてしまった。「石油の油田を持っている国が戦争に負けた」 ということは、戦勝国であった イギリス や フランス にとっては大きなチャンスであった。すかさず イギリス と フランス は極秘に協定を結び、中東の多くの土地を分割して支配し、これらの領土を植民地化した。この時、イギリス や フランス は、自分達の都合の良いように適当に領土分けを行ったり、互いに矛盾する外交を展開したことが、現在のパレスチナ問題やクルド人問題、イスラム国問題といった、いわゆる中東問題へと繋がっていったのである。
中でも、中東問題の諸悪の根源となったのが、イギリスが第一次世界大戦の中でとった三枚舌外交と呼ばれる不誠実な外交施策であり、これがのちの中東を混沌とさせる最大の要因となった。
イギリスは第一次世界大戦中に戦後の中東問題に対して、以下の三つの協定を結んでいた。それぞれ、アラブ・フランス・ユダヤに配慮した内容であった。
1)- フサイン=マクマホン協定
1915年10月にメッカの太守であるフサイン・イブン・アリーとイギリスの駐エジプト高等弁務官ヘンリー・マクマホンとの間でやりとりされた書簡の中で、イギリスはオスマン帝国打倒(対トルコ戦)への協力(アラブ反乱)の見返りにオスマン帝国からのアラブ人独立とアラブ全域をまたぐ大きなアラブ人居住地・統一国家の独立支持を約束した。しかし、これが、遂に守られることはなかった。
2)サイクス ・ピコ協定
第一次世界大戦中の1916年5月16日にイギリス、フランス、ロシアの間で結ばれた大戦後のオスマン帝国領(中東)の分割を約した秘密協定でイギリスの中東専門家マーク・サイクス(Mark Sykes) とフランスの外交官フランソワ・ジョルジュ=ピコによって原案が作成され、この名がついた。主に植民地支配権と、資源利権の分配を意図したもので、フサインの蜂起(アラブ反乱)直前のことであり、内容は以下のようなもの。
・シリア、アナトリア南部、イラクのモスル地区をフランスの勢力範囲とする。
・シリア南部と南メソポタミア(現在のイラクの大半)をイギリスの勢力範囲とする。
・黒海東南沿岸、ボスポラス海峡、ダーダネルス海峡両岸地域をロシア帝国の勢力範囲とする。
この協定は、先に書いたフサイン・マクマホン協定や次にあげるイギリスがパレスチナにおけるユダヤ人居住地を明記したバルフォア宣言 (1917年11月)とイギリスが相矛盾する三枚舌外交をしたとして批判された。
3)バルフォア宣言
第一次世界大戦中の1917年11月に、イギリスの外務大臣アーサー・バルフォアが、イギリスのユダヤ人コミュニティーのリーダーである第2代ロスチャイルド男爵(ライオネル・ウォルター・ロスチャイルド)に対して送った書簡で表明された。バルフォア宣言では、イギリス政府の公式方針として、パレスチナにおけるユダヤ人の居住地(ナショナルホーム)の建設に賛意を示し、その支援を約束している。
1921年3月21日エジプトのカイロでイギリスの当時陸相であったチャーチルの主宰により、イラクの今後の統治について検討する会議がもたれた。この会議ではベルはフランスによってシリア・ダマスカスを追放されていたファイサル一世をイラクの国王に据え、高等弁務官以下イギリス人で構成される国家評議会を廃止、アラブ人の手になる仮政府を樹立させ民政に移管するという案を持ち出した。
第一次大戦中、ファイサルの父でマッカ(メッカ)の太守ハーシム家(預言者ムハンマドの後裔と称していた)のフサインはパレスチナにおいて英仏軍とともに戦い、大戦後は論功行賞としてシリア・パレスチナ・ヒジャーズの王となる事が英仏により保証されていた。いわゆる「フセイン・マクマホン協定」だが、戦後のアラブにおける英仏の勢力圏を画定した前出の「サイクス・ピコ協定」の内容と明らかに矛盾しており、この英仏の二枚舌外交は現在に至るまで尾をひいている。サイクス・ピコ協定の内容を知らないまま、ファイサルは勇躍シリア国王に即位したもののフランスはこれを認めず、追放の憂き目をみていた。チャーチルもベルの案に賛同、本国にベルの案を打電した。
統治形態についてはまとまったものの、イラクの領土画定問題に議題が移った途端に紛糾した。クルド人(スンナ派)の北部、アラブ人(スンナ派)の中部、アラブ人(シーア派)の南部、それにペルシャ人、ユダヤ人、キリスト教徒などの地域が複雑に入り組んでいる地域の国境をどう画定するか?
ベルは上記の3つの地域で一国を構成されるべきという持論を曲げなかった。この会議に同席していたトーマス・エドワード・ロレンス(映画『アラビアのロレンス』の主人公のモデルとして知られる)は、「クルド人地域のみトルコへのバッファーゾーン(緩衝帯)としてイギリスが直接統治を続けるべき」という意見を出したが、ベルはこれに耳を貸さず、ここにイラクの領土は画定された。しかし結果的にはロレンスが抱いた危惧は正しかった。そしてハーシム家の次男でファイサルの兄にあたるアブドゥッラーはヨルダン国王に配され、現在のヨルダン王室へと続く事になる。
以上のようなイラク建国の経緯から、イラクは列強の利害とベルの地政学的見解がリンクした結果、建国された人工国家であるという評価が定着する事になる。この年の6月、ファイサルはイラクに入り、そのわずか2ヶ月後にイラク国王として即位した。
ベルの意見が採用されて不自然な国境線となったことにより、クルド人はトルコ・イラク・イラン・シリア・アルメニアなどに分断され、世界最大の国を持たない3000万人の民族集団となった。また、シリア東部からイラク西部にかけて勢力を拡大している過激派組織「イスラム国」(IS)も、サイクス・ピコ協定に怒りを抱いており、武装闘争を続ける動機の一つとされているという。
パレスチナについてはイギリスの三枚目の舌「バルフォア宣言」とのからみで結論は先送りされたが、結果的に、中東に存在しなかったユダヤ人国家イスラエルの建国を認めた宣言となり、この土地からパレスチナ人を追い出して、イスラエルが建国されることになった。
しかも、それは「国際連合」の決議に基づいておこなわれた。第二次大戦後、処理できなくなったイギリスは国連に問題を丸投げし、1947年に国連でパレスチナをユダヤ国家、アラブ国家、国連関連管理地区の3つに分ける分割案が採択された。本来、その土地の人々が自ら判断する権利を持つべき(民族自決の原理)という考え方は全く無視されてしまったわけである。
このようなことを見ていると、国連の目的達成の一翼を担う専門機関だといわれるILOが唱えている「社会正義」などという言葉もなんともむなしく聞こえてくる。
これに対して、不満を持ったアラブの国々は同盟してイスラエルを攻撃するが、イスラエルは強く、アラブ連合軍は負けてしまう。そしてイスラエルはヨルダン川の西側の地区を完全に支配してしまい、元々パレスチナに住んでいた人々が難民化した結果、現在でも解決しないパレスチナ問題の原因となった。
一方、負けてしまったアラブの国々では、「いまの政府はダメだ」 という声が上がり始めた。そもそも、アラブの多くの国がイギリスとフランス(特にイギリス)の植民地政治を受けていたことから、これへの反発もあって独立しようという動きが一気に高まり、アラビア半島の多くの国が、次々と独立していったのだが・・・
サイクス・ピコ協定により、イラクはオスマン帝国から分割され、フランスとイギリスの勢力下に治められた。 1920年11月11日、イラクは国連からイギリスに委任統治され、イギリス委任統治領イラクと呼ばれることになり、イラクの政体はハーシム家の君主制となった。このとき、クウェートは切り離された。
ハーシム王家はイギリスの支援のもとで中央集権化を進め、スンナ派を中心とする国家運営を始め、1932年にはイラク王国として独立を達成した。その後、1958年共和国革命(7月14日革命)により、ハーシム君主制は終焉。
新政府はアブドルカリーム・カーシムが首相・国防大臣・最高司令官を兼任し、副首相兼内務大臣にアブドッサラーム・アーリフが就任した。
1968年アフマド・ハサン・アル=バクル将軍によるバアス党政権樹立を経て、1979年のイラン革命を切っ掛けに中央条約機構(CENTO/旧中東条約機構)が崩壊すると、中東全体が全く新しい軍事バランスに向かって動き出した。
1979年サッダーム・フセインが大統領に就任。フセイン政権の下、イランとイラクとの国境をめぐり、イラン・イラク戦争(1980年9月ー1988年8月)が勃発。続いて、クウェート侵攻、湾岸戦争(1991年1月ー2月)等が行われた。
湾岸戦争の後にイラクが受諾した停戦決議(決議687)において、イラクは大量破壊兵器の不保持が義務づけられていた。これを確認するため、国連査察団が送られたが、イラクは査察に非協力的とされ、大量破壊兵器を保有しているとの疑いが持たれた。
その後、2001年9月11日、アメリカで同時多発テロ事件が発生した。 これをきっかけに、アメリカ政府は対テロ戦争を宣言し、まずはイスラム原理主義のターリバーンを排除するためにアフガニスタンに侵攻した(不朽の自由作戦)。
続いて、2003年3月19日、国連決議に反して大量破壊兵器を保有しているとの疑いで、アメリカとイギリスの連合軍はイラクに対しての開戦を宣言(イラク戦争)。4月にはバグダッドが事実上陥落,フセイン政権は崩壊した(イラク戦争の年表参照)。
●上掲の画像は、倒されるサッダーム・フセイン大統領銅像である(Wikipedia)。
重いロープを首に巻きつけてイラク市民の歓声の中へと引き摺り下ろされる。この映像は世界中に流され、メディアは、4月9日を"VI(Victory in Iraq)Day"と呼び始めていた。
2004年6月、イラク暫定政権が発足し、2005年1月に選挙を行い、 2005年4月、イラク移行政府が発足した。
ブッシュ大統領は2005年5月1日、イラク戦争から帰還中の空母エーブラハム・リンカーンの艦上からテレビ演説し、「大規模戦闘の終結宣言」を行い、「国民解放」を強調している。
■大統領演説の骨子は以下の通り(※14参照)。
一、 イラクでの主な戦闘作戦は終結し、米国と連合軍は敵を圧倒した。我々は自由の大義と世界の平和のために戦った。
一、 我々はイラクの危険な地域に秩序をもたらす。政権の指導者を追跡している。
一、 隠された化学・生物兵器の捜索を始めた。調査すべき数百カ所を把握している。
一、 独裁から民主主義への移行には時間がかかる。任務が完了するまでイラクにとどまる。
一、 イラク解放はテロとの戦いにおける決定的に重要な前進だ。
一、 我々はアフガニスタン、イラク、パレスチナに自由をもたらす決意がある。 ・・・と。
しかし、その後もテロなどによる死傷者は後を絶たず、同年9月にすでに戦闘中の死者数を上回り、06年8月23日現在、その数は2839人、負傷者は1万9609人に上る(CNN電子版)。イラク民間人の死傷者はその10倍以上とみられている。
戦後は2003年5月から米英の暫定占領当局(CPA)が統治し、同年7月イラク人によるイラク統治評議会が発足、2004年6月末イラクに主権が移譲されたが、治安は相変わらず悪く、当初多国籍軍や外国・国際機関などの民間人が人質やテロの標的となっていたが、治安維持の主体がイラク正式政府になるにつれて、スンニ派とシーア派の対立が激化しており、有志連合軍がイラクに侵攻してから10年が経った今日、イラク国内では内戦に陥りつつあり非常に多くの多くの死傷者が出ていることが指摘されている(※15参照)。
その原因は、国防総省から統治を引き継いだCPA当局代表ジェイ・ガーナーは、イラク国家運営にはフセイン政権下で要職にあった旧バアス党員やスンナ派勢力の協力が不可欠と考え、戦犯をサッダーム・フセイン一族と側近にとどめて、しばらくはフセイン体制を維持したまま、ゆっくりと改革していこうと考えていたそうだが、性急な体制変革を望むブッシュ政権や国防総省、イラク国内のシーア派やクルド人勢力はガーナーの方針に反発、彼は1か月で解任され、後任のポール・ブレマーは就任すると、本国や国内勢力の意を受け、元バアス党員すべてを公職追放した。
官公庁職員・警察官・消防士・軍人など、フセイン時代からの公務員は概ねバアス党に登録していた為、国家機能は失われてしまった上、これらの人材が今勢力を拡大しとるイスラム国(IS)など武装勢力に加わる結果となった。
また、公職や高級な職種についていたのはサッダームに厚遇されたスンナ派に限られていた為、これらを追放すると、失業したスンナ派住民と、それまでの抑圧の恨みを持ったシーア派・クルド人の軋轢が増し、過度な衝突を招いた。
国家運営は、連合軍や連合国の人材が当初から少なすぎたことが災いし、各地で武装勢力や宗教勢力が自治組織を運営して勢力を拡大。当局はクルド人の自治権を大幅に拡大したが、クルド自治区はイラク軍とは別の武装組織が治安維持を行い始め、治安は良いものの、半独立国の様相であり、クルド人組織も独立を望んでいるが、大量のクルド人を抱える周辺諸国は逆に危機感を募らせている。
「内戦状態」といわれるイラクの主要因を生み出したのは、このCPAのおこなったフセイン体制の一掃でもあるが、それを支持したブッシュ政権の失敗でもある。
2001年1月に発足したブッシュ政権は、2001年9月11日の同時テロを、先代(父)のジョージ・H・W・ブッシュ政権時から懸案だったイラクを叩く好機と捉え、素早く動いた。つまり、始めにイラク攻撃ありきといったきらいがある。
イラク戦争でアメリカの勝利をイラクの「解放」とよび、「イラクに自由が訪れた」と誰よりも喜んでいるのはブッシュ政権中枢に食い込んでいるネオコン(「ネオ・コンサーバティヴ」のことで、「新保守主義」と略される)とよばれる人たちだろう。ネオコンは自分達とは違った文化(異文化)を認めない人たちであるが、これをを支えているのは共和党の親イスラエル(シオニズム)政策を支持するアメリカ国内在住のユダヤ(イスラエル)・ロビーである。
かれらには軍産複合体と利害が近い人も多い。ブッシュの父親。ジョージ・H・W・ブッシュ政権の時代から中東の民主化構想が考えられ、ブッシュ政権のイラク戦争もそれに基いているとされている。
「9.11」同時多発テロ後の渾沌とする世界の中で、アメリカ防衛のためには、先制攻撃も辞さずとネオコンが強力に仕向けたものだろう。先にあげたブッシュ大統領の、「大規模戦闘の終結宣言」演説の骨子にある最後の言葉など、ネオコンのユダヤ・ロビーストなどが泣いて喜んだろうね~。
ブッシュ政権は、開戦の理由はイラクが無条件査察を認めないことであって、イラク国内に大量破壊兵器が存在するという理由ではないと主張しているが、開戦前にブッシュ大統領やチェイニー副大統領が「イラクは大量破壊兵器を保有している」とメディアを通して繰り返し広言していたが、開戦後に大量破壊兵器が発見されなかったことでこの戦争の『大義』が失われたという批判も多い。
イラク攻撃にはフランス、ドイツ、ロシア、中国などが強硬に反対を表明し、国連の武器査察団による査察を継続すべきとする声もあったが、それを押し切った形での開戦となった。これら国々の反対の裏には人道的な反対というより、フセイン政権との関係やイラクの石油利権に絡んでいるとする意見もあるが、アメリカ事態が、イラクでの石油利権を確保するとともに、2000年ユーロ の誕生を機にイラクのサダム・フセインが石油の取引代金としてドルの代わりにユーロを用いると宣言したことに対して、米国の基軸通貨であるドル防衛のためにこれを阻止する意向もあったという説がある(※16参照)。、
アメリカ国内の世論は武力介入には高い支持を与えたものの、国連の支持なしの攻撃には必ずしも国論は一致していなかったし、戦争での死傷者が多く出たことに批判も多い。また、アメリカに合わせて武力行使を積極支持したイギリス・ブレア政権では、閣僚が相次いで辞任を表明し、政府の方針に反対した。
イラク戦争後、イラク国内の内乱のほか、さらにイスラエル対ヒズボラ(レバノンのシーア派イスラム主義の政治組織、武装組織)の武力衝突も発生し、アラブとイスラエルの対立、イランの核開発疑惑など、中東をめぐる情勢は混沌としている。
そして、今、米国主導で、有志連合軍は過激派集団・イスラム国壊滅を目指し空爆から地上戦に入ろうとしている(※17)。
この動きに抵抗してのことだろうか、イスラム国(IS)は2015年2月15日に、リビアで誘拐したエジプトのキリスト教の一派コプト教徒(コプト正教会参照)21人を一斉に殺害したとする映像をインターネット上で公開した(※19参照)。ISが、シリアやイラクの支配地域以外で、誘拐した多数の外国人を一斉に殺害したのは初めてのこと。ISは、2010 年にエジプトでイスラム教への改宗を妨害され、コプト教会で拷問を受けた中部ミニヤ県の女性の報復だと主張している。リビアでは2011 年にカダフィ独裁政権が崩壊した後、反カダフィ派が世俗派やイスラム主義者に分裂し、武力闘争を続けている。ISはその混乱に乗じて、東部デルナや中部シルトに進出し、訓練キャンプも設置。豊富な石油資源を狙っているとの見方もある。
これに対して、エジプトは16日朝早くにリビア国内の過激派組織「イスラム国」の拠点を空爆したと発表した。今まで、中東屈指の軍事力を誇るエジプトは、米国主導の対ISの空爆などの作戦には参加していなかったが、この事件を契機に国外で軍事行動に踏みきる可能性もある。
イラクやシリア以外の地域でもISの活動が活発化しそう。ますます混沌としそうだ。あの「アラブの春」はなんだったのだろうか・・・・?
ブッシュはイラク戦争に勝ち「我々は自由の大義と世界の平和のために戦った。 」などと、勝利宣言をしているが、そこには、どんな正義があるのか?
正義」の裏には「価値」の絶対性を主張する論理があり、その論理の後ろには、必ず「利権」がある。アメリカは「大量破壊兵器を保有するテロ国家をやっつける」という「正義」を掲げてイラクに侵攻したが、大量破壊兵器は出てこなかった。イラク戦争の背景が結局は、「お金」と「石油」だったことは、今では誰でも知っている。西洋のほかの国も同様である。
弱いものを犠牲にすることで先進国ビジネスが成り立っているのなら、永遠に世界の平和などつくれるわけはないだろう。
ILO憲章でも「労働は商品ではない」と高らかに歌い上げているが、今、イスラム過激派のなかには、自らの体にダイナマイトを巻きつけて自爆する女性までいる。この悲しい現実はいつなくなるのであろうか。このようなテロ行為が起こる根本原因には貧困が大きいだっろうが、そのような貧困者を生み出しているのは人間の持って生まれた性「貪欲さ」ではないだろうか。・・・これが少しでも抑え、貧しい人の方に回るようにしてあげれば、その分幸せな人が増えるはずなのだがが・・・。欲には限りがないのだろう。
最後に、チャップリンのトーキー映画『独裁者』のラストを飾る壮絶な演説を思い出した。この映画、タイトルの通り、アドルフ・ヒトラーとナチズムの風刺が主なテーマである。
ヨーロッパの大国トメニアの独裁者ヒンケル(チャップリン)は、世界征服とユダヤ人排斥を旗印に、世界に君臨しようとしていた。一方、ユダヤ人のゲットーの床屋であるチャーリー(チャップリン)は、ヒンケルと容貌が似ていた。そして、ふとしたことからチャーリーがヒンケルに間違われてしまうのである。そして、最後に、チャップリンがこの映画を通じて全世界の人々へ最も伝えたかったことが語られる。それは私の言いたいことでもあり、これを聞いて、このブログの締めとして下さい。
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