日本記念日協会(※1)には、今日・6月10日の記念日として「夢の日 」が登録されている。
由緒書きを見ると、夢をかなえてくれた人(夢の実現に力を貸してくれた人)に感謝し、自分の夢について考え、語り合う日をと,香川県直島の女性が制定したものだそうだ。日付は6と10で「夢中」(むちゅう=むじゅう)と読む語呂合わせと、「夢は叶う」(む=6+10の字の形)などに由来する。・・・・からだそうである。
この記念日を設定したという香川県直島の女性がどんな夢を持っていて、その夢の実現に力を貸してくれた人が誰のことかは、何も書かれていないのでよく判らないのだが、私には、少し思い当るところがある。まずは香川県の直島という島のことから紹介していくと、皆さんも私と同じようなことを考えるようになるのではないだろうか。
香川県は、瀬戸内海に面し、四国の北東に位置する県であり、令制国の讃岐国に当たる。
県庁所在地は高松市。県名は、讃岐のほぼ中央に存在し、かつて高松が属していた古代以来の郡「香川郡」から取られた。全国一小さい県(※2参照)だが、北部に広がる瀬戸内海には、小豆島など多くの島々が点在している。
本州の岡山県とは島々を伝う形で架けられた瀬戸大橋により、道路・鉄路で結ばれている。瀬戸内海を越えた岡山県や、鳴門海峡を越えた近畿地方との繋がりが深い。
直島町(なおしまちょう)は、そんな香川県香川郡に属する町であり、高松市の北に約13km、岡山県玉野市の南に約3kmの瀬戸内海上に浮かぶ直島本島を中心とした直島諸島の大小27の島々で構成されている。
余段だが、そのような地理的な位置の関係から、1988(昭和63)年10月1日に国土地理院が全47都道府県の面積算定法を見直し、岡山県玉野市との間に境界未定部分がある香川郡直島町の面積(14.2km²)を県全体の面積に算入しないことになったため、面積が減少し、それまで全国一小さい大阪府と逆転し香川県の面積が最下位となった経緯がある。
湖のように静かな海面、点在する多くの島々、白砂青松の浜、段々畑などの親しみ深い景観と豊かな自然が息づいている瀬戸内海。この『瀬戸内海』という言葉や観念は、明治初頭に至るまでは日本人が持っていなかったもののようであり、現代のような『瀬戸内海』(The Seto Inland Sea)の美しい風景を感動的に描写し始めたのは、ドイツ人医師シーボルトら、幕末から明治にかけて来日した欧米人であったようだ(※3:「ART SETOUCHI」のコラム世界第一ノ景 瀬戸内海の再発見また※4参照)。
日本では、1934(昭和9)年には、雲仙国立公園(現・雲仙天草国立公園)、霧島国立公園(現・霧島錦江湾国立公園)とともに、『瀬戸内海国立公園』として、日本初の国立公園に指定された。
その当時の指定区域は東から小豆島の寒霞渓、香川県の屋島、岡山県の鷲羽山、広島県の鞆の浦・沼隈町周辺の備讃瀬戸を中心とした一帯のみであった。その後、過去数回にわたり、区域の拡張がなされ,、現在は、西は北九州市、東は和歌山市にまで及ぶ広大な公園となっている。
また、瀬戸内海は、海上交通路としても重要な役割を果たしてきた。古代から大陸文化が伝わるルートとして、近世には北前船が往来する航路として、人や物資が行き交う大動脈であった。島々や沿岸では、人・もの・情報を柔軟に受け入れながら、それぞれの文化や伝統を形成してきた。瀬戸内海の魅力は、こうした自然と人々の営みとの両方により形作られている。
一方、1960年代以降、この美しい風景地の一部では、高度経済成長とともに、大規模な工業開発が進められ、経済発展と引き換えに深刻な環境汚染を引き起こす・・・と、いった負の側面もあった。
例えば、香川県の直島町の直島本島の面積は7.81平方km、人口が約3,400人。島内にはフェリーの発着港を擁する宮ノ浦(※5参照)、日本戦国時代の海城村を原型とした本村(ほんむら・高原家の城下町。※5 のここ参照)、古くからの漁港である積浦(※5のここ参照)という3つの集落がある。
本島北部では、大正時代から三菱マテリアル直島製錬所(※6)が操業。銅の製錬が行われており、周辺の関連企業と合わせて大規模な工業地帯となっている。その為、直島町のいくつかの島は煙害で禿山となっていたが、戦後まもなくから植林の努力が続いている。特に荒神島の緑は近年見事なまでに復活しており、北側一帯の木が枯れたように見えるのは2004(平成16)年1月の山林火災のためであり、現在は、煙害は無いに等しいようだ。(※7参照)。
中部は直島小学校、直島中学校のある文京地域。南部は、緑豊かな海岸となっており、同島南部は、隣の同じ直島諸島の豊島( 1990年代に産業廃棄物の不法投棄問題があった[豊島問題参照])と、男木島、女木島などと共に瀬戸内海国立公園に指定されている景観の地となっている。
失われた20年と云われる長い経済の沈滞の中で、地方自治体が苦労を重ねるなか、地方改革に取り組んでいる自治体があった。
直島町は、島の南端の風光明媚な地区を秩序だった文化的な観光地にしようと藤田観光を誘致し、キャンプ場を1960年代後半の観光ブームの時期にオープンさせたが、瀬戸内海国立公園内のため大規模レジャー施設にするには制約があり、石油ショック後は業績が低迷し撤退した。
その後に島を文化的な場所にしたいという意向で当時の町長・三宅親連(ここ参照)と福武書店(現:ベネッセコーポレーション)創業者の福武哲彦との間で意見が一致。急逝した福武哲彦の跡を継いだ息子で、2代目社長の福武總一郎が1987(昭和62)年に一帯の土地を購入し、1989(昭和64)年に研修所・キャンプ場を安藤忠雄のマスタープランでオープンした。
福武總一郎は「直島南部を人と文化を育てるエリアとして創生」するための「直島文化村構想」を発表し、1992(平成4)年に安藤忠雄が全体設計した直島文化村プロジェクト「ベネッセアートサイト直島」の中核施設となるホテル・美術館の「ベネッセハウス」(英名:Benesse House)建設などへと拡大した。尚、直島南部、通称・琴弾地と呼ばれる地区の丘の上の本館・ミュージアム棟(旧称直島コンテンポラリーアートミュージアム)は1992(平成4)年、宿泊専用棟「オーバル」は1995(平成7)年、海辺の宿泊専用棟「パーク」「ビーチ」は2006(平成18)年に開館した。
●(冒頭の画像は、ベネッセハウス・ミュージアム棟屋上庭園から瀬戸内海を望む光景)。
当初美術館は浮き気味で町民の関心も薄かったが、島全体を使った現代美術展(スタンダード展)、本村の無人の古民家を買い上げて保存・再生し現代美術のインスタレーションの恒久展示場とする家プロジェクトなどを重ねることで、徐々に活動が町内の理解を得られるようになったという。
現在は、ベネッセハウスは町民の宴会や結婚式場の二次会場ともなっている(家プロジェクト第1弾の本村で一番大きい家屋「角屋(かどや)」)を創る時、アーティストの宮島達男は町民125人を公募して、作品を構成する125個のデジタル・カウンターの点滅速度を一人一人にセッティングしてもらい、地域住民参加という手法を取ることで現代アートという異質なものが保守的な土地に入って来ることに対する町民の反感、抵抗を払拭したという。
その後、2004(平成16)年にはクロード・モネ、ウォルター・デ・マリア、ジェームズ・タレルの3名の作品を収めた地中美術館が建設されるにいたっている。
●上掲の画像は、角屋(山本忠司&宮島達男)1998年。
このプロジェクトを通して日本の多様な建物・生活・伝統・美意識を再現。つまり、自然と建築と芸術を共生させた文化産業が直島を観光の名所として発展させ、今やいくつもの雑誌で特集が組まれるアートの聖地となった「直島」は、アメリカの旅行雑誌『コンデ・ナスト・トラベルラー』で「生きているうちに行ってみたい世界7大旅行地の一つ」として紹介されるなど、海外からの注目も集まるようになった。
1969(昭和44)年には直島製錬所が近代化することに決まりに同新製錬所が稼動。この頃を境に金属製錬事業の高度化と平行して合理化が進み、以来従業員数や島の人口は減少し続けていた。そんなかつての過疎化と産業廃棄物(豊島からの受け入れ)に悩まされていた直島(※8参照)が、アートの聖地としての今の姿になるまでには、元町長・三宅親連、福武書店(現 ベネッセ・コーポレーション)、そして地域住民によって築き上げられた20年の歳月があった(※9:「朝日新聞社 :AJWフォーラム :アジア人記者の目」の地域社会の生存戦略(3)参照)という。
恐らく、今日の記念日を制定した直島の女性の「夢をかなえてくれた人(夢の実現に力を貸してくれた人)」というのは、今の直島を築くのに努力した先に挙げた人たちのことを言っているのではないだろうか。
古来より人々が行き交い、文化交流の舞台となった瀬戸内海で、アートの島として、多くの人々が訪れるようになった「直島」。
この「直島」という名は昔、崇徳上皇がこの島を訪れた際、島民の素直さ・素朴さを賞賛されたことに由来しているのだとか。
小倉百人一首の中でも、もっとも有名な恋の歌「瀬をはやみ岩にせかるる滝川のわれても末にあはむとぞ思ふ」。
これを詠んだのが崇徳上皇である。
●上掲が小倉百人一首77番「崇徳院」
【歌意】滝の水は岩にぶつかると二つに割れるが、すぐにまた一つになるので、現世では障害があって結ばれなかった恋人たちも、来世では結ばれましょう。・・といったところ。ロマンチックなこの歌とは裏腹に崇徳上皇は悲運な運命を辿る。
崇徳天皇は、歴史の教科書では保元の乱を扱う際に登場するため、崇徳上皇と記載されることが多く、退位後は崇徳院・讃岐院などとも呼ばれる。
<ahref=http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B3%A5%E7%BE%BD%E5%A4%A9%E7%9A%87>鳥羽天皇と中宮・藤原璋子(待賢門院)の第一皇子として生まれるが、『古事談』には、白河法皇と璋子が密通して生まれた子であり、鳥羽は崇徳を「叔父子」と呼んで忌み嫌っていたという逸話が記されている。
崇徳上皇は鳥羽天皇の譲位を受けて5歳にして即位し第75代天皇となる。幼少で曾祖父の白河法皇が実権を握っていたが、大治4年(1129年)白河法皇が崩じ鳥羽上皇が実権を握ると情勢は一変し、鳥羽上皇が院政を開始した。
院政開始後の鳥羽上皇は藤原得子(美福門院)を寵愛し、保延5年(1139年)得子が体仁親王(後の近衛天皇皇)を出産すると、即、崇徳天皇の皇太子とし、2年後の永治元年(1141年)には鳥羽上皇は崇徳天皇に譲位を迫り、わずか2歳の体仁親王を即位させた(近衛天皇)。これなど、鳥羽上皇が崇徳天皇を実子ではなく、白河法皇のご落胤だと信じていたためだろうが、崇徳院にとって、この譲位は大きな遺恨となった。この時から崇徳天皇は鳥羽上皇(本院)に対し新院と呼ばれたりした。
久寿2年(1155年)近衛天皇が17歳で崩じると、崇徳上皇は皇子重仁親王を即位させようと画策したが、鳥羽上皇によって、美福門院のもう一人の養子である守仁親王(後の二条天皇)が即位するまでの中継ぎとして、その父の雅仁親王(崇徳の同母弟)が、立太子しないまま29歳で後白河天皇として即位した。
鳥羽法皇や美福門院は、崇徳院に近い藤原頼長の呪詛により近衛天皇が死んだと信じていたといい(『台記』)、背景には崇徳院政によって自身が掣肘されることを危惧する美福門院、父・藤原忠実と弟・頼長との対立で苦境に陥り、崇徳院の寵愛が聖子から兵衛佐局に移ったことを恨む藤原忠通、雅仁親王の乳母の夫で権力の掌握を目指す信西らの策謀があったと推測されている。
夢破れた崇徳は、保元元年(1156年)に鳥羽法皇が崩御すると摂関家の藤原頼長、源為義、平忠正(平忠盛の弟、平清盛の叔父)らと語らい後白河天皇から皇位を取り返すべく蜂起した。しかし、備えをしていた後白河天皇側に源義朝や平清盛らが参集し、源義朝の献策により素早く夜襲をかけた(これが「保元の乱」である)。
崇徳上皇は、平清盛と同じ乳母に息子を預けたほど縁が深かっただけに、清盛の支援を待ち望んでいたが、清盛は後白河天皇に味方してしまった.。これが最大の誤算であった。
敗れた崇徳上皇は捕らえられ、武士数十人が囲んだ網代車(牛舎の一。車の屋形に竹または檜の網代を張ったもの。)に乗せられ、讃岐国に配流された。
天皇もしくは上皇の配流は、藤原仲麻呂の乱における淳仁天皇の淡路国配流以来、およそ400年ぶりの出来事だった。同行したのは寵妃の兵衛佐局と僅かな女房だけだったという。崇徳上皇は都に帰りたいと切望しながらもその後、二度と京の地を踏むことはなく、8年後の長寛2年(1164年)8月26日、46歳で崩御した。
遺体は白峯御陵(坂出市。.白峯寺、白峰宮、参照)に葬られた。帰京を許されなかった崇徳上皇への後ろめたい思いが、のちに「怨霊」という形で、後白河天皇と清盛を悩ませることになったと言われている。
怨霊として定着した崇徳院のイメージは、近世の文学作品である『雨月物語』(「白峯」)、『椿説弓張月』などにおいても怨霊として描かれ、現代においても様々な作品において怨霊のモチーフとして使われることも多い。
●上掲は、讃岐に流された崇徳上皇.歌川国芳画。
その一方で後世には、四国全体の守り神であるという伝説も現われるようになる。承久の乱で土佐国に流された土御門上皇(後白河院の曾孫)が途中で崇徳天皇の御陵の近くを通った際にその霊を慰めるために琵琶を弾いたところ、夢に崇徳天皇が現われて上皇と都に残してきた家族の守護を約束した。その後、上皇の遺児であった後嵯峨天皇が鎌倉幕府の推挙により皇位に就いたとされている。また、室町幕府の管領であった細川頼之が四国の守護となった際に崇徳天皇の菩提を弔ってから四国平定に乗り出して成功して以後、細川氏代々の守護神として崇敬されたと言われている(ともに『金毘羅参詣名所図会』・『白峰寺縁起』、※10、※11又金毘羅権現参照)。
保元の乱は、兄・崇徳と弟・後白河との権力の座を賭けた争いに、貴族の藤原一門と、源氏・平家の武士たちが参戦したいわば、政治的パワーゲームだった。この後、勝った後白河天皇は清盛とともに力を伸ばしてゆくが崇徳上皇は讃岐に廃瑠され当時は、配流先の地名をとり「讃岐院」と称されていたのであり、崇徳院とは、崩御後、怨霊鎮魂のために与えられた諡号である。
漢風の諡号(帝号)は平安期の光孝天皇まで続いたが、その後、律令政治の崩壊と共に途絶えていた。これ以降の天皇では、平安末期から鎌倉初期における75代崇徳院(讃岐院から改める)、81代安徳天皇、82代顕徳院(隠岐院から改め、後に後鳥羽院に改める)、84代順徳院(佐渡院から改める)の4例を見るのみである。
崇徳天皇は応仁の乱で敗れ、讃岐の地で悲惨な死に方をしたが、安徳天皇は平清盛の外孫で、8歳にして壇の浦に沈んだ。順徳天皇は承久の乱に敗れ、北条義時によって佐渡に流されたまま亡くなった。この3人は平安後期から江戸中期までの諡号が絶えた時代にあって、わざわざ例外的に諡号を贈られた天皇である。彼らに贈られた「徳」諡号は、霊を慰め、怨霊化を防ぐために贈られた諡号であり、「徳」をもって威を張るな、民を安んじてくれ、という願いが込められていたのではないだろうか。
明治天皇は慶応4年(1868年)8月18日に自らの即位の礼を執り行うに際して勅使を讃岐に遣わし、崇徳天皇の御霊を京都へ帰還させて白峯神宮(京都市上京区)を創建した。
後白河法皇は、朝廷の威信保持のために政治的計略を巡らし、源頼朝からは「日本一の大天狗」と評される一方で、仏教を深く信仰し、熊野詣は34度にわたったという。また今様を熱愛し、『梁塵秘抄』(※12参照)を編纂するとともに、その解説書ともいうべき『梁塵秘抄口伝集』を著しているが、その歌詞集である『梁塵秘抄』の中には以下の歌が掲載されている。
(406)侍藤五君、召(め)しし弓矯はなど問(と)はぬ、
弓矯(ゆだめ)も箆矯(のだめ)も待ちながら、
讃岐の松山へ入りにしは。
(431:)讃岐の松山に、松の一本歪みたる、
捩(もじ)りさの捩(よじ)りさに、嫉(そね)うたるかとや、
直島の、さばかんの松をだにも直さざるらん。
侍五藤君とは、従者(おもに武士系)の藤原氏の五男坊。弓矯とは、弓の調整具。曲がりを直す。箆矯(のだめ)とは矢の調整具。同じく、曲がりを直す。・・・ことで、歌意は、以下のようになるようだ(以下現代役等は※13:「今様ラプソディ」梁塵秘抄ものづくし篇(その五)参照)。
(406)従者藤原の五郎君 お持ちの弓矯をどうして確かめないの
弓を直す弓矯も 矢を直す矢矯も持ってたのに
あんな戦にあっさり負けて 讃岐の松山へ行っちゃったの
(431:)讃岐の松山に 性根の歪んだ松が一本
ねじまがって身もだえして 妬んでるんだってさ
直しま(直島)しょうとか 天の裁きを待つ(松)とかいうのに
歪んだ生え方は何で直さないんだろう
406番の讃岐(現・香川県)の松山は、崇徳院の流刑地のことであり、保元の乱で負けて流され、生き残りの重臣たちもそれぞれ土佐などに配流された。この歌は崇徳院方についた摂関家の一系統をはじめとする藤原氏を揶揄したものだろう。なお、実際の戦闘はわずか数時間で決している。
431番も、同じく、崇徳院にまつわる諷刺歌。「性根の曲がった松」は、都に向けて恨みをつのらせると讃岐配流中の崇徳院を皮肉ったもの。
直島は、松山に近い瀬戸内の小島で、崇徳院が立ち寄った際、出迎えた島民の素直さ素朴さに感動して「直島」と命名した。しかし、ひそかに「世直し」の意味を込めたのではないかと言われていた。これに対してこの歌は、「直したいのなら、まずはアンタの性根から」と、痛烈なツッコミを入れている。もし後白河の作詞だったらけっこう恐い。・・というが、そうかもしれない。
そう考えると、以下の歌も意味深であろう。
(405 )鷲(わし)の本白(もとじろ)を、
くわうたいくわうの箆(の)に矧(は)ぎて
宮の御前を押し開き、
ふとう射させんとぞ思ふ。
「箆」は「矢の竹で出来た枝の部分」。「矧ぐ」は「竹と羽根を合わせて弓矢を作る」の意味で、「くわうたいくわう」はよく判らない(※14参照)そうだが、これは、「皇太后」と読めて、それなら崇徳天皇が父の鳥羽天皇に嫌われ、ひいては保元の乱の遠因ともなった、崇徳・後白河両天皇の生母の待賢門院璋子ではないかという推測も成り立つ。そうすると、この歌(405)の歌意は以下のようになる。
鷲の羽根の元白の矢羽根を
皇大神宮の竹でもって
箆(の)に矧いで
宮のとびらを押し開いて
道理をわきまえない無道者を
射させようとこそ思う
崇徳院は、後白河院と母を同じくする実の兄であるが、この兄を、弟は保元の乱で打ち敗かして、断乎島流しにして生涯都へ帰さなかった。また、崇徳天皇は、鳥羽院の祖父白河法皇が、養女であり自身で鳥羽天皇の中宮にした待賢門院璋子その人 に産ませた「子」であったらしいという噂もあった。それで鳥羽院は息子である崇徳天皇を「叔父御」「祖父子」とかげで言っていたという。嫌われる道理であるが、そうすると、「宮のとびらを押し開いて道理をわきまえない無道者を射させようとこそ思う」・・とは、如何にも意味深な歌ではある。
なにか回りくどい話になってしまったが、最後は、「夢」の話で締めくくろう。
保元の乱その後の平治の乱勝利後の平家の栄華と没落を描いた『平家物語』は、巻第一冒頭の「祇園精舎の鐘の声……」の超有名な文で始まるが、それに続く最初の物語(6祇王)には、以下のような言葉が出てくる。
「つくづく物を案ずるに、娑婆(しゃば)の栄華は夢の夢、楽しみ栄えて何かせん。」
妓王とは、平清盛に寵愛されていた白拍子であるが、ある日、名を仏と名乗る年16の舞の上手な遊女が飛び込みで清盛の前に現れ、芸を売り込もうとしたが清盛の逆鱗に触れ門前払いをくらうところを祇王に取りなしてもらったのだが、それが裏目となり、以降、清盛の寵愛は仏御前に移り、妓王を寄せ付けづ、ついには追い出してしまった。そんな祇王は、清盛からの経済的援助も打ち切られ困窮の果て自殺を図ろうとしていたが母に説得され母と妹とともに出家し嵯峨往生院(現・祇王寺)へ仏門に入った。当時21歳だったとされている。
そんな哀れな祇王の前に現れた仏御前の言葉である。『平家物語』に出てくる文としては長めなのでここでは詳しく書けないので以下参考の※15:「祇園精舎」の妓王9のところを参照するとよい。
上記の訳文は、「つくづく物思いにふけってみると、俗世の栄華は夢の夢で(人間世界の栄華はきわめてはかないもので)、裕福になり栄えても何になろう、いや、何もなりはしない。」・・・といったところで、『平家物語』の祇園精舎と同じく仏教(『仁王経』)にある人生観で、この世の無常を表している言葉「盛者必衰の理(ことわり)」を表しているのだろう。
古来、日本では、数え切れぬ人々が、幸福を求め、悩み、苦闘し、生きてきた。 しかし、生涯を振り返り、夢や幻のごとし、と述懐する人が、あまりにも多い。それは、家康と同様、「生きがい」を「人生の目的」と誤認した悲哀にほかならない(家康公遺訓)。
貧しい農民のせがれから、一躍、天下人に上りつめた男、豊臣秀吉。世界史をひもといても、彼ほどの成功者は少ない。
しかし、秀吉は、最期に意外な言葉を残している。
「露とおち 露と消えにし わが身かな 難波のことも 夢のまた夢」(秀吉辞世句)
「露」とは、早朝、葉の上につく水滴である。太陽が昇ると、瞬く間に蒸発し、どこに露があったのか、跡形も残らない。 「難波」とは、自分が威勢を張った大坂のことである。天下を統一し、関白になった、大坂城を造り、聚楽第を築いた。そして、金と女にたわむれて遊んだ……。
それは、夢の中で夢を見ているような、はかない一生だった、とのこの告白。彼の辞世は、一体何を意味しているのだろうか。武士を目指し、家出した貧農の子が、一国一城の主となり、時流に乗って天下の主へと上りつめた。それでも満足せず、次には、唐、天竺へと、野望は尽きず、事実、2度も朝鮮半島へ大軍を送り、非道な殺戮を繰り返している。彼は求めても、求めても満足しない心、一時の満足は、さらに大きな欲望を生む。人は、を得たら、いつまでも離したくない、と願う。しかし、現実には長続きしない。いや、頂上まで上れば、あとは落ちるしか道のないことを、知っているがゆえに、不安、苦悩(苦しみ悩むこと)はつのるのである。
秀吉は、人間の本性を赤裸々に見せている。五欲(欲も参照)に追い回され、あくせくしている我々の姿と、重なるところがないだろうか。求めても、求めても満足しない心、一時の満足は、さらに大きな欲望を生む。秀吉の辞世は、「人生の目的」は、これら「生きがい」のほかにあることの明証であるのだが・・・・。あなたはどこにその生きがいを求めますか・・・。
今NHKの朝の連続テレビ小説「まれ」が始まっている。東京で生まれ育った10歳の津村希は夢を追う父・徹に振り回される苦労のため、子供ながらすっかり「夢」を持つことが大嫌いになり、幼児期に抱いていたケーキ職人への夢を封印。そして津村一家は父の事業失敗に伴い、夜逃げ同然で能登半島の外浦村(架空の漁村)にやってくる。地名は能登半島の日本海に面した海岸を指す「外浦」に由来しており、外部から来た人々を「まれびと」として歓迎し優しく接する文化のある土地柄であるとして設定されている。
稀に来る人と言ふ意義から、珍客をまれびと、マレビト(稀人・その転化からまらうど=客人)は、時を定めて他界から来訪する霊的もしくは神の本質的存在を定義する折口学の用語。民俗学者折口信夫の思想体系を考える上でもっとも重要な概念の一つであり、日本人の信仰・他界観念を探るための手がかりとして民俗学上重視されている。
陸の交通網は発達しており、幹線道路から外れた「半島や島」というと、行き止まりという感覚が強いが、だからこそ昔ながらのものがたくさん残っているとも言える。それは目に見えるものばかりでなく、むしろ目には見えない精神的な土壌が人々の身ぶりや遠い記憶の中に残されているともいえる。秋田の男鹿半島や日本海側の村々や、九州や沖縄の島、そして、瀬戸内の香川県直島他の島々もそうである。陸地から見ると辺境であるが、海から見るとそこは入り口としてネットワークの基点になっている。日本列島に暮らす人たちは、海の彼方からやってくる見知らぬ他者を拒絶したり排除したりするのではなく、恐れながらも言葉を交わし、時に受け入れてきた。そうした身ぶりが、日本列島に伝わる、数多の来訪神を迎える儀礼に表れている。香川県地方に守護神として崇敬された崇徳院信仰もその一つであろう(※15、※16参照)。
朝ドラの津村希は外浦村へきて夢に向かっている若い人たち人たちと接しているうちに、また封印してきたケーキ職人への夢を求めて苦労して横浜のケーキ店に務めることができた。しかも稀のアイデアが採用されて何とかクリスマスケーキを作ることができたのだが、稀は自分は作ってはいけないといわれていたので友人のアイデアとしてケーキを作った。それを聞いた大悟社長からは不合格を宣告された。日本一のケーキ屋を目指している稀にたいして「何かを得るためには、何かを捨てろ」と言われたのだ。家族や友だちを大事にしてきた希にとって、「何かを捨てろ」というのは理解できなかった。そして、店を首になり意気消沈してまた輪島の親の家に帰ってくる。稀の母親藍子は、家族生活のために、自分の夢も捨てだらしなく不本意な仕事をしている、夫徹に離婚を要求する。家族から離れて思う存分自分の求める夢に向かって仕事をして欲しいとの愛情からであった。そんな姿や高校生の弟が高校を出たら大学にはゆかず結婚して自分のしたい仕事をやろうとする姿など見て、ケーキ屋の大悟社長が言いたかったのは、「今やらなければいけないことに覚悟をもって集中しろ」ということではないかと気づいてまた、横浜のケーキ屋へとでいったのだが・・・・。
さて、どういう展開になってゆくのか・・・。
もし、人生に夢や目的がなかったら、どうなるか。 生きる意味も、頑張る力も消滅してしまうだろう。1度きりしかない人生、後悔しないためにも、まず、どう生きるかを考えることは大切だ。
「夢」とは、睡眠中にみる一連の観念や心像、幻覚などは別として、人の将来実現させたいと思っていることや願望。願いをいうが、夢には、はかないこと、たよりないこと、という意味もある。そして、その内容があまりに現実から遠く、はかないことを形容するためにしばしば用いられている。
稀の父親・徹も駄目人間の代表で、実体のない大きな夢ばかり見ては失敗を繰り返し、ちっとも地道にコツコツできない性分であった。女房から離縁され、東京へ出て本当に「夢」を実現できるだろうか。このドラマ、私にはあまり面白くないドラマだが、これからの展開は気になるところである。
「為せば成る為さねばならぬ何事も、成らぬは人の為さぬなりけり」。
どんなことでも強い意志を持ってやれば必ず成就するというこの言葉、米沢藩主の上杉鷹山が言った言葉である(※17参照)。幕末の長州藩士、思想家、教育者、明治維新の精神的指導者でもある、吉田松陰も
「夢なき者に理想なし、理想なき者に計画なし、計画なき者に実行なし、実行なき者に成功なし。故に、夢なき者に成功なし。」・・と言っている。
他にも世界の有名人の名言格言がある(※18参照)が、その中で、一番わかりやすく好きなのが米国のエンターテイナー、実業家ウオルト・ディズニーの以下の言葉である。
・夢見ることができれば、それは実現できる。
・夢をかなえる秘訣は、4つの「C」に集約される。それは、「Curiosity ? 好奇心」「Confidence ? 自信」「Courage ? 勇気」そして「Constancy ? 継続」である。
・成功する秘訣を教えてほしい、どうすれば夢を実現することができますかとよく人から尋ねられる。自分でやってみることだと私は答えている。
・若者の多くは、自分たちに未来はない、やることなど残っていないと思っている。しかし、探検すべき道はまだたくさん残っている。
どうか良い「夢」を見つけて行動してください。
夢の日(参考)へ
由緒書きを見ると、夢をかなえてくれた人(夢の実現に力を貸してくれた人)に感謝し、自分の夢について考え、語り合う日をと,香川県直島の女性が制定したものだそうだ。日付は6と10で「夢中」(むちゅう=むじゅう)と読む語呂合わせと、「夢は叶う」(む=6+10の字の形)などに由来する。・・・・からだそうである。
この記念日を設定したという香川県直島の女性がどんな夢を持っていて、その夢の実現に力を貸してくれた人が誰のことかは、何も書かれていないのでよく判らないのだが、私には、少し思い当るところがある。まずは香川県の直島という島のことから紹介していくと、皆さんも私と同じようなことを考えるようになるのではないだろうか。
香川県は、瀬戸内海に面し、四国の北東に位置する県であり、令制国の讃岐国に当たる。
県庁所在地は高松市。県名は、讃岐のほぼ中央に存在し、かつて高松が属していた古代以来の郡「香川郡」から取られた。全国一小さい県(※2参照)だが、北部に広がる瀬戸内海には、小豆島など多くの島々が点在している。
本州の岡山県とは島々を伝う形で架けられた瀬戸大橋により、道路・鉄路で結ばれている。瀬戸内海を越えた岡山県や、鳴門海峡を越えた近畿地方との繋がりが深い。
直島町(なおしまちょう)は、そんな香川県香川郡に属する町であり、高松市の北に約13km、岡山県玉野市の南に約3kmの瀬戸内海上に浮かぶ直島本島を中心とした直島諸島の大小27の島々で構成されている。
余段だが、そのような地理的な位置の関係から、1988(昭和63)年10月1日に国土地理院が全47都道府県の面積算定法を見直し、岡山県玉野市との間に境界未定部分がある香川郡直島町の面積(14.2km²)を県全体の面積に算入しないことになったため、面積が減少し、それまで全国一小さい大阪府と逆転し香川県の面積が最下位となった経緯がある。
湖のように静かな海面、点在する多くの島々、白砂青松の浜、段々畑などの親しみ深い景観と豊かな自然が息づいている瀬戸内海。この『瀬戸内海』という言葉や観念は、明治初頭に至るまでは日本人が持っていなかったもののようであり、現代のような『瀬戸内海』(The Seto Inland Sea)の美しい風景を感動的に描写し始めたのは、ドイツ人医師シーボルトら、幕末から明治にかけて来日した欧米人であったようだ(※3:「ART SETOUCHI」のコラム世界第一ノ景 瀬戸内海の再発見また※4参照)。
日本では、1934(昭和9)年には、雲仙国立公園(現・雲仙天草国立公園)、霧島国立公園(現・霧島錦江湾国立公園)とともに、『瀬戸内海国立公園』として、日本初の国立公園に指定された。
その当時の指定区域は東から小豆島の寒霞渓、香川県の屋島、岡山県の鷲羽山、広島県の鞆の浦・沼隈町周辺の備讃瀬戸を中心とした一帯のみであった。その後、過去数回にわたり、区域の拡張がなされ,、現在は、西は北九州市、東は和歌山市にまで及ぶ広大な公園となっている。
また、瀬戸内海は、海上交通路としても重要な役割を果たしてきた。古代から大陸文化が伝わるルートとして、近世には北前船が往来する航路として、人や物資が行き交う大動脈であった。島々や沿岸では、人・もの・情報を柔軟に受け入れながら、それぞれの文化や伝統を形成してきた。瀬戸内海の魅力は、こうした自然と人々の営みとの両方により形作られている。
一方、1960年代以降、この美しい風景地の一部では、高度経済成長とともに、大規模な工業開発が進められ、経済発展と引き換えに深刻な環境汚染を引き起こす・・・と、いった負の側面もあった。
例えば、香川県の直島町の直島本島の面積は7.81平方km、人口が約3,400人。島内にはフェリーの発着港を擁する宮ノ浦(※5参照)、日本戦国時代の海城村を原型とした本村(ほんむら・高原家の城下町。※5 のここ参照)、古くからの漁港である積浦(※5のここ参照)という3つの集落がある。
本島北部では、大正時代から三菱マテリアル直島製錬所(※6)が操業。銅の製錬が行われており、周辺の関連企業と合わせて大規模な工業地帯となっている。その為、直島町のいくつかの島は煙害で禿山となっていたが、戦後まもなくから植林の努力が続いている。特に荒神島の緑は近年見事なまでに復活しており、北側一帯の木が枯れたように見えるのは2004(平成16)年1月の山林火災のためであり、現在は、煙害は無いに等しいようだ。(※7参照)。
中部は直島小学校、直島中学校のある文京地域。南部は、緑豊かな海岸となっており、同島南部は、隣の同じ直島諸島の豊島( 1990年代に産業廃棄物の不法投棄問題があった[豊島問題参照])と、男木島、女木島などと共に瀬戸内海国立公園に指定されている景観の地となっている。
失われた20年と云われる長い経済の沈滞の中で、地方自治体が苦労を重ねるなか、地方改革に取り組んでいる自治体があった。
直島町は、島の南端の風光明媚な地区を秩序だった文化的な観光地にしようと藤田観光を誘致し、キャンプ場を1960年代後半の観光ブームの時期にオープンさせたが、瀬戸内海国立公園内のため大規模レジャー施設にするには制約があり、石油ショック後は業績が低迷し撤退した。
その後に島を文化的な場所にしたいという意向で当時の町長・三宅親連(ここ参照)と福武書店(現:ベネッセコーポレーション)創業者の福武哲彦との間で意見が一致。急逝した福武哲彦の跡を継いだ息子で、2代目社長の福武總一郎が1987(昭和62)年に一帯の土地を購入し、1989(昭和64)年に研修所・キャンプ場を安藤忠雄のマスタープランでオープンした。
福武總一郎は「直島南部を人と文化を育てるエリアとして創生」するための「直島文化村構想」を発表し、1992(平成4)年に安藤忠雄が全体設計した直島文化村プロジェクト「ベネッセアートサイト直島」の中核施設となるホテル・美術館の「ベネッセハウス」(英名:Benesse House)建設などへと拡大した。尚、直島南部、通称・琴弾地と呼ばれる地区の丘の上の本館・ミュージアム棟(旧称直島コンテンポラリーアートミュージアム)は1992(平成4)年、宿泊専用棟「オーバル」は1995(平成7)年、海辺の宿泊専用棟「パーク」「ビーチ」は2006(平成18)年に開館した。
●(冒頭の画像は、ベネッセハウス・ミュージアム棟屋上庭園から瀬戸内海を望む光景)。
当初美術館は浮き気味で町民の関心も薄かったが、島全体を使った現代美術展(スタンダード展)、本村の無人の古民家を買い上げて保存・再生し現代美術のインスタレーションの恒久展示場とする家プロジェクトなどを重ねることで、徐々に活動が町内の理解を得られるようになったという。
現在は、ベネッセハウスは町民の宴会や結婚式場の二次会場ともなっている(家プロジェクト第1弾の本村で一番大きい家屋「角屋(かどや)」)を創る時、アーティストの宮島達男は町民125人を公募して、作品を構成する125個のデジタル・カウンターの点滅速度を一人一人にセッティングしてもらい、地域住民参加という手法を取ることで現代アートという異質なものが保守的な土地に入って来ることに対する町民の反感、抵抗を払拭したという。
その後、2004(平成16)年にはクロード・モネ、ウォルター・デ・マリア、ジェームズ・タレルの3名の作品を収めた地中美術館が建設されるにいたっている。
●上掲の画像は、角屋(山本忠司&宮島達男)1998年。
このプロジェクトを通して日本の多様な建物・生活・伝統・美意識を再現。つまり、自然と建築と芸術を共生させた文化産業が直島を観光の名所として発展させ、今やいくつもの雑誌で特集が組まれるアートの聖地となった「直島」は、アメリカの旅行雑誌『コンデ・ナスト・トラベルラー』で「生きているうちに行ってみたい世界7大旅行地の一つ」として紹介されるなど、海外からの注目も集まるようになった。
1969(昭和44)年には直島製錬所が近代化することに決まりに同新製錬所が稼動。この頃を境に金属製錬事業の高度化と平行して合理化が進み、以来従業員数や島の人口は減少し続けていた。そんなかつての過疎化と産業廃棄物(豊島からの受け入れ)に悩まされていた直島(※8参照)が、アートの聖地としての今の姿になるまでには、元町長・三宅親連、福武書店(現 ベネッセ・コーポレーション)、そして地域住民によって築き上げられた20年の歳月があった(※9:「朝日新聞社 :AJWフォーラム :アジア人記者の目」の地域社会の生存戦略(3)参照)という。
恐らく、今日の記念日を制定した直島の女性の「夢をかなえてくれた人(夢の実現に力を貸してくれた人)」というのは、今の直島を築くのに努力した先に挙げた人たちのことを言っているのではないだろうか。
古来より人々が行き交い、文化交流の舞台となった瀬戸内海で、アートの島として、多くの人々が訪れるようになった「直島」。
この「直島」という名は昔、崇徳上皇がこの島を訪れた際、島民の素直さ・素朴さを賞賛されたことに由来しているのだとか。
小倉百人一首の中でも、もっとも有名な恋の歌「瀬をはやみ岩にせかるる滝川のわれても末にあはむとぞ思ふ」。
これを詠んだのが崇徳上皇である。
●上掲が小倉百人一首77番「崇徳院」
【歌意】滝の水は岩にぶつかると二つに割れるが、すぐにまた一つになるので、現世では障害があって結ばれなかった恋人たちも、来世では結ばれましょう。・・といったところ。ロマンチックなこの歌とは裏腹に崇徳上皇は悲運な運命を辿る。
崇徳天皇は、歴史の教科書では保元の乱を扱う際に登場するため、崇徳上皇と記載されることが多く、退位後は崇徳院・讃岐院などとも呼ばれる。
<ahref=http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B3%A5%E7%BE%BD%E5%A4%A9%E7%9A%87>鳥羽天皇と中宮・藤原璋子(待賢門院)の第一皇子として生まれるが、『古事談』には、白河法皇と璋子が密通して生まれた子であり、鳥羽は崇徳を「叔父子」と呼んで忌み嫌っていたという逸話が記されている。
崇徳上皇は鳥羽天皇の譲位を受けて5歳にして即位し第75代天皇となる。幼少で曾祖父の白河法皇が実権を握っていたが、大治4年(1129年)白河法皇が崩じ鳥羽上皇が実権を握ると情勢は一変し、鳥羽上皇が院政を開始した。
院政開始後の鳥羽上皇は藤原得子(美福門院)を寵愛し、保延5年(1139年)得子が体仁親王(後の近衛天皇皇)を出産すると、即、崇徳天皇の皇太子とし、2年後の永治元年(1141年)には鳥羽上皇は崇徳天皇に譲位を迫り、わずか2歳の体仁親王を即位させた(近衛天皇)。これなど、鳥羽上皇が崇徳天皇を実子ではなく、白河法皇のご落胤だと信じていたためだろうが、崇徳院にとって、この譲位は大きな遺恨となった。この時から崇徳天皇は鳥羽上皇(本院)に対し新院と呼ばれたりした。
久寿2年(1155年)近衛天皇が17歳で崩じると、崇徳上皇は皇子重仁親王を即位させようと画策したが、鳥羽上皇によって、美福門院のもう一人の養子である守仁親王(後の二条天皇)が即位するまでの中継ぎとして、その父の雅仁親王(崇徳の同母弟)が、立太子しないまま29歳で後白河天皇として即位した。
鳥羽法皇や美福門院は、崇徳院に近い藤原頼長の呪詛により近衛天皇が死んだと信じていたといい(『台記』)、背景には崇徳院政によって自身が掣肘されることを危惧する美福門院、父・藤原忠実と弟・頼長との対立で苦境に陥り、崇徳院の寵愛が聖子から兵衛佐局に移ったことを恨む藤原忠通、雅仁親王の乳母の夫で権力の掌握を目指す信西らの策謀があったと推測されている。
夢破れた崇徳は、保元元年(1156年)に鳥羽法皇が崩御すると摂関家の藤原頼長、源為義、平忠正(平忠盛の弟、平清盛の叔父)らと語らい後白河天皇から皇位を取り返すべく蜂起した。しかし、備えをしていた後白河天皇側に源義朝や平清盛らが参集し、源義朝の献策により素早く夜襲をかけた(これが「保元の乱」である)。
崇徳上皇は、平清盛と同じ乳母に息子を預けたほど縁が深かっただけに、清盛の支援を待ち望んでいたが、清盛は後白河天皇に味方してしまった.。これが最大の誤算であった。
敗れた崇徳上皇は捕らえられ、武士数十人が囲んだ網代車(牛舎の一。車の屋形に竹または檜の網代を張ったもの。)に乗せられ、讃岐国に配流された。
天皇もしくは上皇の配流は、藤原仲麻呂の乱における淳仁天皇の淡路国配流以来、およそ400年ぶりの出来事だった。同行したのは寵妃の兵衛佐局と僅かな女房だけだったという。崇徳上皇は都に帰りたいと切望しながらもその後、二度と京の地を踏むことはなく、8年後の長寛2年(1164年)8月26日、46歳で崩御した。
遺体は白峯御陵(坂出市。.白峯寺、白峰宮、参照)に葬られた。帰京を許されなかった崇徳上皇への後ろめたい思いが、のちに「怨霊」という形で、後白河天皇と清盛を悩ませることになったと言われている。
怨霊として定着した崇徳院のイメージは、近世の文学作品である『雨月物語』(「白峯」)、『椿説弓張月』などにおいても怨霊として描かれ、現代においても様々な作品において怨霊のモチーフとして使われることも多い。
●上掲は、讃岐に流された崇徳上皇.歌川国芳画。
その一方で後世には、四国全体の守り神であるという伝説も現われるようになる。承久の乱で土佐国に流された土御門上皇(後白河院の曾孫)が途中で崇徳天皇の御陵の近くを通った際にその霊を慰めるために琵琶を弾いたところ、夢に崇徳天皇が現われて上皇と都に残してきた家族の守護を約束した。その後、上皇の遺児であった後嵯峨天皇が鎌倉幕府の推挙により皇位に就いたとされている。また、室町幕府の管領であった細川頼之が四国の守護となった際に崇徳天皇の菩提を弔ってから四国平定に乗り出して成功して以後、細川氏代々の守護神として崇敬されたと言われている(ともに『金毘羅参詣名所図会』・『白峰寺縁起』、※10、※11又金毘羅権現参照)。
保元の乱は、兄・崇徳と弟・後白河との権力の座を賭けた争いに、貴族の藤原一門と、源氏・平家の武士たちが参戦したいわば、政治的パワーゲームだった。この後、勝った後白河天皇は清盛とともに力を伸ばしてゆくが崇徳上皇は讃岐に廃瑠され当時は、配流先の地名をとり「讃岐院」と称されていたのであり、崇徳院とは、崩御後、怨霊鎮魂のために与えられた諡号である。
漢風の諡号(帝号)は平安期の光孝天皇まで続いたが、その後、律令政治の崩壊と共に途絶えていた。これ以降の天皇では、平安末期から鎌倉初期における75代崇徳院(讃岐院から改める)、81代安徳天皇、82代顕徳院(隠岐院から改め、後に後鳥羽院に改める)、84代順徳院(佐渡院から改める)の4例を見るのみである。
崇徳天皇は応仁の乱で敗れ、讃岐の地で悲惨な死に方をしたが、安徳天皇は平清盛の外孫で、8歳にして壇の浦に沈んだ。順徳天皇は承久の乱に敗れ、北条義時によって佐渡に流されたまま亡くなった。この3人は平安後期から江戸中期までの諡号が絶えた時代にあって、わざわざ例外的に諡号を贈られた天皇である。彼らに贈られた「徳」諡号は、霊を慰め、怨霊化を防ぐために贈られた諡号であり、「徳」をもって威を張るな、民を安んじてくれ、という願いが込められていたのではないだろうか。
明治天皇は慶応4年(1868年)8月18日に自らの即位の礼を執り行うに際して勅使を讃岐に遣わし、崇徳天皇の御霊を京都へ帰還させて白峯神宮(京都市上京区)を創建した。
後白河法皇は、朝廷の威信保持のために政治的計略を巡らし、源頼朝からは「日本一の大天狗」と評される一方で、仏教を深く信仰し、熊野詣は34度にわたったという。また今様を熱愛し、『梁塵秘抄』(※12参照)を編纂するとともに、その解説書ともいうべき『梁塵秘抄口伝集』を著しているが、その歌詞集である『梁塵秘抄』の中には以下の歌が掲載されている。
(406)侍藤五君、召(め)しし弓矯はなど問(と)はぬ、
弓矯(ゆだめ)も箆矯(のだめ)も待ちながら、
讃岐の松山へ入りにしは。
(431:)讃岐の松山に、松の一本歪みたる、
捩(もじ)りさの捩(よじ)りさに、嫉(そね)うたるかとや、
直島の、さばかんの松をだにも直さざるらん。
侍五藤君とは、従者(おもに武士系)の藤原氏の五男坊。弓矯とは、弓の調整具。曲がりを直す。箆矯(のだめ)とは矢の調整具。同じく、曲がりを直す。・・・ことで、歌意は、以下のようになるようだ(以下現代役等は※13:「今様ラプソディ」梁塵秘抄ものづくし篇(その五)参照)。
(406)従者藤原の五郎君 お持ちの弓矯をどうして確かめないの
弓を直す弓矯も 矢を直す矢矯も持ってたのに
あんな戦にあっさり負けて 讃岐の松山へ行っちゃったの
(431:)讃岐の松山に 性根の歪んだ松が一本
ねじまがって身もだえして 妬んでるんだってさ
直しま(直島)しょうとか 天の裁きを待つ(松)とかいうのに
歪んだ生え方は何で直さないんだろう
406番の讃岐(現・香川県)の松山は、崇徳院の流刑地のことであり、保元の乱で負けて流され、生き残りの重臣たちもそれぞれ土佐などに配流された。この歌は崇徳院方についた摂関家の一系統をはじめとする藤原氏を揶揄したものだろう。なお、実際の戦闘はわずか数時間で決している。
431番も、同じく、崇徳院にまつわる諷刺歌。「性根の曲がった松」は、都に向けて恨みをつのらせると讃岐配流中の崇徳院を皮肉ったもの。
直島は、松山に近い瀬戸内の小島で、崇徳院が立ち寄った際、出迎えた島民の素直さ素朴さに感動して「直島」と命名した。しかし、ひそかに「世直し」の意味を込めたのではないかと言われていた。これに対してこの歌は、「直したいのなら、まずはアンタの性根から」と、痛烈なツッコミを入れている。もし後白河の作詞だったらけっこう恐い。・・というが、そうかもしれない。
そう考えると、以下の歌も意味深であろう。
(405 )鷲(わし)の本白(もとじろ)を、
くわうたいくわうの箆(の)に矧(は)ぎて
宮の御前を押し開き、
ふとう射させんとぞ思ふ。
「箆」は「矢の竹で出来た枝の部分」。「矧ぐ」は「竹と羽根を合わせて弓矢を作る」の意味で、「くわうたいくわう」はよく判らない(※14参照)そうだが、これは、「皇太后」と読めて、それなら崇徳天皇が父の鳥羽天皇に嫌われ、ひいては保元の乱の遠因ともなった、崇徳・後白河両天皇の生母の待賢門院璋子ではないかという推測も成り立つ。そうすると、この歌(405)の歌意は以下のようになる。
鷲の羽根の元白の矢羽根を
皇大神宮の竹でもって
箆(の)に矧いで
宮のとびらを押し開いて
道理をわきまえない無道者を
射させようとこそ思う
崇徳院は、後白河院と母を同じくする実の兄であるが、この兄を、弟は保元の乱で打ち敗かして、断乎島流しにして生涯都へ帰さなかった。また、崇徳天皇は、鳥羽院の祖父白河法皇が、養女であり自身で鳥羽天皇の中宮にした待賢門院璋子その人 に産ませた「子」であったらしいという噂もあった。それで鳥羽院は息子である崇徳天皇を「叔父御」「祖父子」とかげで言っていたという。嫌われる道理であるが、そうすると、「宮のとびらを押し開いて道理をわきまえない無道者を射させようとこそ思う」・・とは、如何にも意味深な歌ではある。
なにか回りくどい話になってしまったが、最後は、「夢」の話で締めくくろう。
保元の乱その後の平治の乱勝利後の平家の栄華と没落を描いた『平家物語』は、巻第一冒頭の「祇園精舎の鐘の声……」の超有名な文で始まるが、それに続く最初の物語(6祇王)には、以下のような言葉が出てくる。
「つくづく物を案ずるに、娑婆(しゃば)の栄華は夢の夢、楽しみ栄えて何かせん。」
妓王とは、平清盛に寵愛されていた白拍子であるが、ある日、名を仏と名乗る年16の舞の上手な遊女が飛び込みで清盛の前に現れ、芸を売り込もうとしたが清盛の逆鱗に触れ門前払いをくらうところを祇王に取りなしてもらったのだが、それが裏目となり、以降、清盛の寵愛は仏御前に移り、妓王を寄せ付けづ、ついには追い出してしまった。そんな祇王は、清盛からの経済的援助も打ち切られ困窮の果て自殺を図ろうとしていたが母に説得され母と妹とともに出家し嵯峨往生院(現・祇王寺)へ仏門に入った。当時21歳だったとされている。
そんな哀れな祇王の前に現れた仏御前の言葉である。『平家物語』に出てくる文としては長めなのでここでは詳しく書けないので以下参考の※15:「祇園精舎」の妓王9のところを参照するとよい。
上記の訳文は、「つくづく物思いにふけってみると、俗世の栄華は夢の夢で(人間世界の栄華はきわめてはかないもので)、裕福になり栄えても何になろう、いや、何もなりはしない。」・・・といったところで、『平家物語』の祇園精舎と同じく仏教(『仁王経』)にある人生観で、この世の無常を表している言葉「盛者必衰の理(ことわり)」を表しているのだろう。
古来、日本では、数え切れぬ人々が、幸福を求め、悩み、苦闘し、生きてきた。 しかし、生涯を振り返り、夢や幻のごとし、と述懐する人が、あまりにも多い。それは、家康と同様、「生きがい」を「人生の目的」と誤認した悲哀にほかならない(家康公遺訓)。
貧しい農民のせがれから、一躍、天下人に上りつめた男、豊臣秀吉。世界史をひもといても、彼ほどの成功者は少ない。
しかし、秀吉は、最期に意外な言葉を残している。
「露とおち 露と消えにし わが身かな 難波のことも 夢のまた夢」(秀吉辞世句)
「露」とは、早朝、葉の上につく水滴である。太陽が昇ると、瞬く間に蒸発し、どこに露があったのか、跡形も残らない。 「難波」とは、自分が威勢を張った大坂のことである。天下を統一し、関白になった、大坂城を造り、聚楽第を築いた。そして、金と女にたわむれて遊んだ……。
それは、夢の中で夢を見ているような、はかない一生だった、とのこの告白。彼の辞世は、一体何を意味しているのだろうか。武士を目指し、家出した貧農の子が、一国一城の主となり、時流に乗って天下の主へと上りつめた。それでも満足せず、次には、唐、天竺へと、野望は尽きず、事実、2度も朝鮮半島へ大軍を送り、非道な殺戮を繰り返している。彼は求めても、求めても満足しない心、一時の満足は、さらに大きな欲望を生む。人は、を得たら、いつまでも離したくない、と願う。しかし、現実には長続きしない。いや、頂上まで上れば、あとは落ちるしか道のないことを、知っているがゆえに、不安、苦悩(苦しみ悩むこと)はつのるのである。
秀吉は、人間の本性を赤裸々に見せている。五欲(欲も参照)に追い回され、あくせくしている我々の姿と、重なるところがないだろうか。求めても、求めても満足しない心、一時の満足は、さらに大きな欲望を生む。秀吉の辞世は、「人生の目的」は、これら「生きがい」のほかにあることの明証であるのだが・・・・。あなたはどこにその生きがいを求めますか・・・。
今NHKの朝の連続テレビ小説「まれ」が始まっている。東京で生まれ育った10歳の津村希は夢を追う父・徹に振り回される苦労のため、子供ながらすっかり「夢」を持つことが大嫌いになり、幼児期に抱いていたケーキ職人への夢を封印。そして津村一家は父の事業失敗に伴い、夜逃げ同然で能登半島の外浦村(架空の漁村)にやってくる。地名は能登半島の日本海に面した海岸を指す「外浦」に由来しており、外部から来た人々を「まれびと」として歓迎し優しく接する文化のある土地柄であるとして設定されている。
稀に来る人と言ふ意義から、珍客をまれびと、マレビト(稀人・その転化からまらうど=客人)は、時を定めて他界から来訪する霊的もしくは神の本質的存在を定義する折口学の用語。民俗学者折口信夫の思想体系を考える上でもっとも重要な概念の一つであり、日本人の信仰・他界観念を探るための手がかりとして民俗学上重視されている。
陸の交通網は発達しており、幹線道路から外れた「半島や島」というと、行き止まりという感覚が強いが、だからこそ昔ながらのものがたくさん残っているとも言える。それは目に見えるものばかりでなく、むしろ目には見えない精神的な土壌が人々の身ぶりや遠い記憶の中に残されているともいえる。秋田の男鹿半島や日本海側の村々や、九州や沖縄の島、そして、瀬戸内の香川県直島他の島々もそうである。陸地から見ると辺境であるが、海から見るとそこは入り口としてネットワークの基点になっている。日本列島に暮らす人たちは、海の彼方からやってくる見知らぬ他者を拒絶したり排除したりするのではなく、恐れながらも言葉を交わし、時に受け入れてきた。そうした身ぶりが、日本列島に伝わる、数多の来訪神を迎える儀礼に表れている。香川県地方に守護神として崇敬された崇徳院信仰もその一つであろう(※15、※16参照)。
朝ドラの津村希は外浦村へきて夢に向かっている若い人たち人たちと接しているうちに、また封印してきたケーキ職人への夢を求めて苦労して横浜のケーキ店に務めることができた。しかも稀のアイデアが採用されて何とかクリスマスケーキを作ることができたのだが、稀は自分は作ってはいけないといわれていたので友人のアイデアとしてケーキを作った。それを聞いた大悟社長からは不合格を宣告された。日本一のケーキ屋を目指している稀にたいして「何かを得るためには、何かを捨てろ」と言われたのだ。家族や友だちを大事にしてきた希にとって、「何かを捨てろ」というのは理解できなかった。そして、店を首になり意気消沈してまた輪島の親の家に帰ってくる。稀の母親藍子は、家族生活のために、自分の夢も捨てだらしなく不本意な仕事をしている、夫徹に離婚を要求する。家族から離れて思う存分自分の求める夢に向かって仕事をして欲しいとの愛情からであった。そんな姿や高校生の弟が高校を出たら大学にはゆかず結婚して自分のしたい仕事をやろうとする姿など見て、ケーキ屋の大悟社長が言いたかったのは、「今やらなければいけないことに覚悟をもって集中しろ」ということではないかと気づいてまた、横浜のケーキ屋へとでいったのだが・・・・。
さて、どういう展開になってゆくのか・・・。
もし、人生に夢や目的がなかったら、どうなるか。 生きる意味も、頑張る力も消滅してしまうだろう。1度きりしかない人生、後悔しないためにも、まず、どう生きるかを考えることは大切だ。
「夢」とは、睡眠中にみる一連の観念や心像、幻覚などは別として、人の将来実現させたいと思っていることや願望。願いをいうが、夢には、はかないこと、たよりないこと、という意味もある。そして、その内容があまりに現実から遠く、はかないことを形容するためにしばしば用いられている。
稀の父親・徹も駄目人間の代表で、実体のない大きな夢ばかり見ては失敗を繰り返し、ちっとも地道にコツコツできない性分であった。女房から離縁され、東京へ出て本当に「夢」を実現できるだろうか。このドラマ、私にはあまり面白くないドラマだが、これからの展開は気になるところである。
「為せば成る為さねばならぬ何事も、成らぬは人の為さぬなりけり」。
どんなことでも強い意志を持ってやれば必ず成就するというこの言葉、米沢藩主の上杉鷹山が言った言葉である(※17参照)。幕末の長州藩士、思想家、教育者、明治維新の精神的指導者でもある、吉田松陰も
「夢なき者に理想なし、理想なき者に計画なし、計画なき者に実行なし、実行なき者に成功なし。故に、夢なき者に成功なし。」・・と言っている。
他にも世界の有名人の名言格言がある(※18参照)が、その中で、一番わかりやすく好きなのが米国のエンターテイナー、実業家ウオルト・ディズニーの以下の言葉である。
・夢見ることができれば、それは実現できる。
・夢をかなえる秘訣は、4つの「C」に集約される。それは、「Curiosity ? 好奇心」「Confidence ? 自信」「Courage ? 勇気」そして「Constancy ? 継続」である。
・成功する秘訣を教えてほしい、どうすれば夢を実現することができますかとよく人から尋ねられる。自分でやってみることだと私は答えている。
・若者の多くは、自分たちに未来はない、やることなど残っていないと思っている。しかし、探検すべき道はまだたくさん残っている。
どうか良い「夢」を見つけて行動してください。
夢の日(参考)へ