文禄3年(1594年)2月27日、豊臣秀吉が吉野で大々的に.花見の宴を行った。
吉野は桜の名所であり、2月27日といってもこれは旧暦であり、新暦に直すと4月17日になるので、まさに花の見頃である。
豊臣秀吉の花見といえば.その最晩年の慶長3年3月15日(1598年4月20日)に、京都の醍醐寺・三宝院裏の山麓において催した花見の宴(醍醐の花見参照)が有名である。
このとき花見は、豊臣秀頼・北政所・淀殿ら近親の者を初めとして、諸大名からその配下の女房女中衆約1300人を召し従えた盛大な催しで、九州平定直後に催された北野大茶湯と双璧を成す秀吉一世一代の催し物として知られている。
しかし、吉野の花見は文禄の役(文禄・慶長の役参照)の真っただ中に行われたものであり、そんな中、秀吉は徳川家康、宇喜多秀家、前田利家、伊達政宗ら錚々たる武将をはじめ、茶人(茶道に通じた人)、連歌師たちを伴い、総勢5千人を引き連れ訪れて吉水院(吉水神社)を本陣とし、盛大な花見の宴を催し、ここには5日間滞在し、そのとき、歌の会、茶の会、お能の会なども開いて豪遊したといわれる。
この時の吉野の花見は、参加の規模から言っても醍醐の花見を大幅に上回るすごいものだった。吉野へは私も三度ほど観光に行ったことがあるが、吉水神社に、一目千本という看板があるところは、その名の通り、中千本、上千本の山桜が一望できる(ここ参照)。おそらく、秀吉もその景色を見て、「絶景じゃ。絶景じゃ。」と子供のように喜んだことだろう。
上掲図版は、この時の吉野の花見の模様を描いたと推定される六曲一双の「豊公吉野花見図屏風」(重要文化財。細見美術館蔵)の部分図。輿に乗った秀吉一行らしき行列が金峯山寺の仁王門にさしかかる。一行の中には朝鮮や南蛮人と思しき人物も見える(画像は『週刊朝日百科日本の歴史32』6-297p掲載のものを借用)。画像はクリックで拡大する。赤丸で囲んでいるところが腰に乗った秀吉。画像全体図を見たい時は以下参照。以下画像も開いた後閲覧モードで表示すれば画像をクリックで拡大することができる。
萌春の美-重要文化財 豊公吉野花見図屏風とともに-細見美術館
先にも書いたように、吉野の花見は「文禄の役」の真っただ中で開催されたものであるが、文禄は天正の後、慶長の前。1593年(グレゴリオ暦。ユリウス暦では1592年)から1596年までの期間を指し、元号は、天正20年12月8日(グレゴリオ暦1593年1月10日)に、天正から文禄に改元された。
この改元の2年前、天正18年(1590年)に秀吉は関東へ遠征し、後北条氏の本拠小田原城を攻め、北条氏政・北条氏直父子を降伏させた。北条氏政、同じく小田原城に籠もっていた北条氏照は切腹させ、氏直は紀伊の高野山に追放。これによって、秀吉の天下統一事業がほぼ完成された。
後北条氏を下し天下を統一することで秀吉は戦国の世を終わらせたが、毛利氏・長宗我部氏・島津氏といった有力大名を滅ぼすことはせず、従属・臣従させるにとどまっていた。また、徳川氏は石高250万石を有し、秀吉自身の蔵入地222万石より多い石高を有するほどであった(ここ注釈 23参照)。
その翌・天正19年(1591年)、秀吉の信頼も厚く、豊臣政権で徳川家康という最大の爆弾を抱えた中での政権運営の調整役であり、政権の安定には欠かせぬ人物だった豊臣秀長(秀吉の異父弟、同父弟説もあるそうだ)が1月22日に死亡、次いで、8月5日には、自らの後継者に指名していた秀吉の嫡男鶴松が僅か3歳で病死した。
後継者を失った秀吉は、甥の秀次を家督相続の養子として関白職を譲り、秀次は聚楽第に入り天下人となった。
秀吉は太閤(前関白の尊称)と呼ばれるようになるが、秀吉は全権を譲らず、依然として統括的立場を保持して二元政治を敷いた。
そして、この年8月、秀吉は来春に「唐入り」を決行することを全国に布告。まず肥前国に出兵拠点となる名護屋城を築き始めている。秀吉の出兵の準備は天正 14 (1586) 年九州征伐の頃からすでにできていたようである。
この年、重用してきた茶人・千利休が突然秀吉の逆鱗に触れ堺に蟄居を命じられている。利休の弟子である
吉野は桜の名所であり、2月27日といってもこれは旧暦であり、新暦に直すと4月17日になるので、まさに花の見頃である。
豊臣秀吉の花見といえば.その最晩年の慶長3年3月15日(1598年4月20日)に、京都の醍醐寺・三宝院裏の山麓において催した花見の宴(醍醐の花見参照)が有名である。
このとき花見は、豊臣秀頼・北政所・淀殿ら近親の者を初めとして、諸大名からその配下の女房女中衆約1300人を召し従えた盛大な催しで、九州平定直後に催された北野大茶湯と双璧を成す秀吉一世一代の催し物として知られている。
しかし、吉野の花見は文禄の役(文禄・慶長の役参照)の真っただ中に行われたものであり、そんな中、秀吉は徳川家康、宇喜多秀家、前田利家、伊達政宗ら錚々たる武将をはじめ、茶人(茶道に通じた人)、連歌師たちを伴い、総勢5千人を引き連れ訪れて吉水院(吉水神社)を本陣とし、盛大な花見の宴を催し、ここには5日間滞在し、そのとき、歌の会、茶の会、お能の会なども開いて豪遊したといわれる。
この時の吉野の花見は、参加の規模から言っても醍醐の花見を大幅に上回るすごいものだった。吉野へは私も三度ほど観光に行ったことがあるが、吉水神社に、一目千本という看板があるところは、その名の通り、中千本、上千本の山桜が一望できる(ここ参照)。おそらく、秀吉もその景色を見て、「絶景じゃ。絶景じゃ。」と子供のように喜んだことだろう。
上掲図版は、この時の吉野の花見の模様を描いたと推定される六曲一双の「豊公吉野花見図屏風」(重要文化財。細見美術館蔵)の部分図。輿に乗った秀吉一行らしき行列が金峯山寺の仁王門にさしかかる。一行の中には朝鮮や南蛮人と思しき人物も見える(画像は『週刊朝日百科日本の歴史32』6-297p掲載のものを借用)。画像はクリックで拡大する。赤丸で囲んでいるところが腰に乗った秀吉。画像全体図を見たい時は以下参照。以下画像も開いた後閲覧モードで表示すれば画像をクリックで拡大することができる。
萌春の美-重要文化財 豊公吉野花見図屏風とともに-細見美術館
先にも書いたように、吉野の花見は「文禄の役」の真っただ中で開催されたものであるが、文禄は天正の後、慶長の前。1593年(グレゴリオ暦。ユリウス暦では1592年)から1596年までの期間を指し、元号は、天正20年12月8日(グレゴリオ暦1593年1月10日)に、天正から文禄に改元された。
この改元の2年前、天正18年(1590年)に秀吉は関東へ遠征し、後北条氏の本拠小田原城を攻め、北条氏政・北条氏直父子を降伏させた。北条氏政、同じく小田原城に籠もっていた北条氏照は切腹させ、氏直は紀伊の高野山に追放。これによって、秀吉の天下統一事業がほぼ完成された。
後北条氏を下し天下を統一することで秀吉は戦国の世を終わらせたが、毛利氏・長宗我部氏・島津氏といった有力大名を滅ぼすことはせず、従属・臣従させるにとどまっていた。また、徳川氏は石高250万石を有し、秀吉自身の蔵入地222万石より多い石高を有するほどであった(ここ注釈 23参照)。
その翌・天正19年(1591年)、秀吉の信頼も厚く、豊臣政権で徳川家康という最大の爆弾を抱えた中での政権運営の調整役であり、政権の安定には欠かせぬ人物だった豊臣秀長(秀吉の異父弟、同父弟説もあるそうだ)が1月22日に死亡、次いで、8月5日には、自らの後継者に指名していた秀吉の嫡男鶴松が僅か3歳で病死した。
後継者を失った秀吉は、甥の秀次を家督相続の養子として関白職を譲り、秀次は聚楽第に入り天下人となった。
秀吉は太閤(前関白の尊称)と呼ばれるようになるが、秀吉は全権を譲らず、依然として統括的立場を保持して二元政治を敷いた。
そして、この年8月、秀吉は来春に「唐入り」を決行することを全国に布告。まず肥前国に出兵拠点となる名護屋城を築き始めている。秀吉の出兵の準備は天正 14 (1586) 年九州征伐の頃からすでにできていたようである。
この年、重用してきた茶人・千利休が突然秀吉の逆鱗に触れ堺に蟄居を命じられている。利休の弟子である