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疑わしきは罰せず

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上掲の画像は「白鳥事件」犯行声明ともみられるアジビラ
画像クリックで拡大。刑事裁判は、犯罪を起こした疑いのある人が本当に犯罪を行ったのか(有罪か無罪か)。もし行ったとしたのならどの程度の刑罰を与えるのか(懲役や罰金など)などを決める裁判のことである。
「疑わしきは罰せず」(ラテン語:in dubio pro reo)は、ラテン語の直訳から「疑わしきは被告人の利益に」ともいう。
刑事訴訟(刑事訴訟法参照)において、被告人が有罪だということに「合理的な疑い」(※1)が残らないほどまでに、検察官証明しなければ、裁判所は被告人を有罪にしてはならないという原則を示す法諺(ほうげん)なのである。
その萌芽)は、すでにローマ法にみいだすことができるが、刑事訴訟においてこの原則が確立するのは、近代になって人権の尊重が強調されるようになってからであるらしい。被告人は「無罪の推定」(推定無罪参照)を受けるという原則と同じ意味をもつ。
つまり、「疑わしきは罰せず」の言葉は事実認定の過程を裁判官の側から表現したものであり、これを、当事者側から表現した言葉が「推定無罪」であり、ふたつの言葉は表裏一体をなしている。
フランス革命の際に発せられた人権宣言(人間と市民の権利の宣言)は、「すべての者は、犯罪者と宣告されるまでは、無罪と推定されるものである・・・」(9条。ここ参照)と規定し、世界人権宣言(1948年)も、「犯罪の訴追を受けた者は、・・・・法律に従って有罪の立証があるまでは、無罪と推定される権利を有する。」(第十一条の1。※2参照)として、この原則を明言している。
したがって、すべての者は、犯罪者と宣告されるまでは、無罪と推定されるものであるから、その逮捕が不可欠と判定されても、その身柄を確実にするため必要でないようなすべての強制処置は、法律により非常にきびしくに抑圧されなければならない(日本大百科全書(ニッポニカ)の解説)。
このように、刑事訴訟法では、訴える側に立証責任(証明責任)が有り、その証拠がなければ、裁判官は判決を下す事が出来ない。
その証明の程度としては、「合理的な疑いを差し挟まない程度まで」検察官が証明することが要求される。つまり、その証拠証明が、「合理的である」と裁判官が認められない場合、「疑わしきは罰せず」となるのである。
日本の場合、この「疑わしきは罰せず」は、戦後の「白鳥事件」の頃から、目立って来たのではないだろうか。この概念自体は以前から有っただろうが、「合理的である」証拠が重要とされたのは、近代になってから、1975(昭和50)年5月の「白鳥事件」の再審請求で、最高裁が「白鳥決定」で、「疑わしきは被告人の利益に」という原則を再審にも適用するとの判断を示して以降、冤罪の差し戻しが増えたのではないかと言われている。
しかし、皆さんはこの「白鳥事件」についてどのくらいのことをご存じですか?
「白鳥事件」とは、1952(昭和27)年1月21日に札幌市警本部警備課長白鳥一雄警部が射殺された事件である。・・・が、その詳細は、正直、私もよくわからない。
このような近代の歴史的なことについては、私はいつも参考にしている蔵書・朝日新聞出版の分冊百科『朝日クロニクル週刊20世紀』(ここ参照)や毎日新聞社版の『戦後50年史』などを手掛かりにし、これをもとに、ネットなどで調べながら書いているのだが、残念ながらこのどちらにも、詳しいことは何も書かれていない。
「白鳥事件」が発生した1952(昭和27)年の重大ニュー(国内)としては、以下のようなものがある(※4,※5参照)。
(1)4月28日、「サンフランシスコ講和条約」(日本国との平和条約)が発効し、GHQが廃止され、外国軍隊の占領から解放され主権が回復されたこと(ただし、沖縄皇居外苑で「血のメーデー事件」が発生したこと。デモ隊警察部隊とが衝突した騒乱事件であり、事件は一部の左翼団体暴力革命準備の実践の一環として行われたものと見られている(第13回国会本会議において木村篤太郎法務総裁より事件の概況、被害状況、その後の取締り及び背後関係に関する陳述。※3参照)。戦後の学生運動で初の死者を出した事件である。
(3 )4月9日の伊豆大島に旅客機(愛称「もく星号」)が墜落した航空事故「もく星号墜落事故」がある。戦後最初の旅客機として前年10がに就航した日本航空機が乗客乗員37名を載せて伊豆大島に衝突。一時は「全員救助」の情報も流れたが、24時間後原型をとどめない機体の残骸が発見された(乗客乗員全員が死亡)。当時の日本は敗戦による被占領下(日本国との平和条約が締結され占領が解かれたのは月末)[にあり、日本の空を日本人による自主的航空運営が認められていなかったが、アメリカ軍の協力も得られず事故の原因は不明のままである。
上掲の(1)~(3)については、『朝日クロニクル週刊20世紀』の1952年号にも詳しく書かれているが、「白鳥事件」のことについては、(2)5月1日の「血のメーデー事件」を取り上げた“地おメーデー、日本革命の夢はるか”と題して書かれている、2Pから5Pまでの記事の中に、「白鳥事件」としての記事といえるものはなく、冒頭の画像を掲載し、その添え書きとして、以下のように書かれているだけである。
白鳥事件
1月21日に札幌市警本部警備課長白鳥一雄(かずお)警部(36)が射殺されたる。白鳥警部が、労働運動や共産党対策にあたっていたことから、警察は共産党関係者の犯行と判断いた。一方、事件の3日後、犯行声明とも思える日共札幌委員会名義のアジビラ(冒頭の写真。画像クリックで拡大)が札幌市内でばらまかれた。共産党員が逮捕され、75年最高裁で有罪が確定したが、はっきりした証拠はなく、後味の悪い結末となった。97年、当時の容疑者の1人が中国で生存していることが分かった。
・・・と。そして、このページの記事の下の欄外に、白鳥事件の影響として、「最高裁判決では、最審請求について、新証拠などによって確定判決事実認定に合理的な疑いが生じた場合、「疑わしくは被告人の利益に」という刑事裁判の鉄則が適用される、との判断を示した。これが、死刑が確定していた免田財田川松山事件の再審につながった。」・・・・と。
そして、ほかにも詳しく書いたところがないかを他の年度でも調べたが、年表のところに、以下の3件が記載されていただけである。
1952(昭和27)年号、1月21日:札幌市で白鳥一雄警部が射殺される(白鳥事件)。55年8月、容疑者として共産党員村上国治ほか2人を起訴。
1963(昭和38)年号に、10月17日:最高裁が白鳥事件上告審で2審判決(村上国治に懲役20年)を支持して、

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