上掲の画像は 近世人物誌やまと新聞 第二百六十三号附録 月岡 芳年 「花井お梅 」(早稲田大学図書館:古典籍総合データベース: :[近世人物誌]中泉政太郎、 編集※1よりここクリックで画像がみられる。
『やまと新聞』は、1886(明治19)年から1945(昭和20)年にかけて発行されていた日刊新聞であり、明治後期には東京の有力紙のひとつであり、錦絵新聞や講談筆記の連載などで好評を博していたようだ。
錦絵新聞とは、明治初期の数年間に発行されていた視覚的ニュース・メディアであり、一つの新聞記事を浮世絵の一種である錦絵一枚で絵説きしたもの。グラフィックとしての錦絵に着目して新聞錦絵と呼ばれることもあるようだ。
明治初期に東京で創刊された「新聞」は東京土産になるほど流行したが、知識人層向けで振り仮名や絵もなく、一般大衆には読みにくいものであった。この「新聞」を浮世絵の題材に取り上げて、当時まだ平仮名しか読めない大衆も絵と平易な詞で理解できるようにしたものが錦絵新聞である。土屋礼子は「非知識人層を読者対象とした小新聞に連なるニュース媒体であった」と位置づけているそうだ。
錦絵新聞は近代ジャーナリズムの勃興期に、新聞というものを一般大衆の身近なものにしたメディアであった。1874(明治7)年に、東京の版元「具足屋」が『東京日日新聞』の記事を題材に、落合芳幾の錦絵にふりがなつき解説文を添えて錦絵版の『東京日日新聞』として売り出したものが最初だそうである(※2参照)。錦絵というグラフィックを用いてセンセーショナルな事件を報じるメディアは、「猟奇的・煽情的な内容」は「現代の写真週刊誌に似た性格のものであったともいえる。
錦絵版『東京日日新聞』は、錦絵のわかりやすさと「新聞」の目新しさ、トピックの面白さで大変な人気を得た。これに倣って、『郵便報知新聞』の記事に月岡芳年の錦絵を添えたもののほか、東京、大阪、京都などの版元から約40種もの錦絵新聞が続々と誕生したという。しかし、錦絵新聞同様の平易な文章と内容に、錦絵より作成に時間のかからない単色ずりの挿絵を組み合わせた小新聞が発行されるようになると、これに押されて錦絵新聞は誕生から10年もたたないうちにほとんど姿を消した。
、『やまと新聞』も同様である。同紙は1886(明治19)年10月7日、『東京日日新聞』の創始者でもある條野伝平(採菊)によって創刊された『警察新報』(明治17年創刊)を改題して発刊されたもののようである。
同紙は雑報や論説も載せたが、庶民向けの娯楽趣味の宣伝に努めたいわゆる小新聞であり、花柳界や芸能界の記事、続き読み物、ゴシップ記事などが中心的な記事であったようだ。月岡芳年・水野年方らの挿絵でも知られ、時折つけた付録には、芳年の描いた色鮮やかな大判新聞錦絵「近世人物誌」シリーズもある。
1887(明治20)年6月9日、日本橋浜町の待合茶屋・酔月楼の女将だった花井お梅が、使用人の八杉峰三郎を刺殺する事件があった。
冒頭の画像は、、同事件「花井お梅事件」(別名箱屋事件)を題材にした、同年8月20日付の近世人物誌 『やまと新聞』 第二百六十三号附録である(「近世人物誌」以下参考の※1:「早稲田大学図書館:古典籍総合データベース」で見ることができる)。
明治の文学史にいわゆる「毒婦物」というジャンルが成立したのは明治初期のことである。”富や力あるいは異性など、男の欲望を掻き立てるものは女にとっても同じであるが、異なるのは、欲望の追求がときに英雄的行為として賞賛される男に対して、欲望をあらわにした女には懲罰が待っているというところだろう。
人は一方で、そうした女に対する恐怖や嫌悪を感じるとともに、他方では彼女に誘惑されてみたい、あるいはそのような魅力を分かち持ってみたいというひそかな欲望や憧憬を抱いている。
自らが隠し持つ欲望に対する社会的、道徳的な嫌疑を欲望の対象になすり付け、欲望を抱いた自己の代わりに処罰する。つまるところ、そのような、「毒婦の物語」とは、「処罰の物語」でもあった。
そのような毒婦物の代表的なものに「夜嵐お絹」、「高橋お伝」、そして、この「花井阿梅」などもその一人として描かれている。
1912年(明治45)6月12日から3日間、東京・浅草駒形町の蓬莱座(浅草座参照)で浅草公園の芸妓による慈善演芸会が華々しく催されていた。出し物は、「花井お梅浜町河岸峯吉殺し」。
芸妓玉桜家小花が主人公花井お梅、待合浜野家が峯吉、幇間桜川呂孝(〔注1〕参照)が車引きに扮している。
23日、舞台が峯吉殺しの山場に差し掛かったときだった。平土間(ここ参照)で見物していた本物の花井お梅が舞台に駆け上がり、小花をひっつかまえて息巻いた。「誰に断ってこの狂言を出した」
見物人総立ちの騒ぎになり、座主関三十郎(5代目と思われる)、松永忠吉が仲裁に入ってその場は引き取らせ、25日蓬莱座でお梅に渡りをつけて手打ちした。.
本物のお梅は、1887(明治20)年6月9日、日本橋区浜町・箱屋(三味線の箱をもって、客席へ出る芸者の伴をする男)の八杉峯吉(34)を刺殺した。
「白薩摩(白薩摩焼泥染白大島。画像ここ参照。紬のことは※3参照)の浴衣の上に藍微塵の お召の袷(あわせ)、黒繻子に八反の腹合せの帯をしどなく締め、白縮緬の湯具踏みしだきて降りしきる雨に傘をもささず鮮血の滴る出刃包丁を掲げたる一人の美人」(東京日日新聞)が、大川端に開いた酔月楼の門を叩き、父に、「私しゃ、今箱屋の峯吉を突き殺したよ」と言い残し、久松町警察署へ自首した。
当時お梅は24歳。15歳で芸妓になり、18歳で独り立ちして、事件の一ヵ月前に、実父花井専之助の名義で酔月楼という待合茶屋を開いた。しかし、営業をめぐって、父娘はしばしば衝突した。専之助は一旦お梅に任せたのに、5月27日朝、自分が仕切るといって突然休業の札を貼り出したという。
お梅は家を飛び出して、池上の温泉や京橋の知人宅を泊まり歩いたが、身の置き所もなく困り果て、つらつら考えるに、峯吉こと八杉峯三郎は自分が芸妓をしていた頃から雇い置き、専之助を助けるような顔をして利益を図っている、おかげで父と不仲になった、と思い当たったようだ。
6月9日に仲裁の者が酔月楼に出かけたが、父は留守で、峯吉が「あんな者はいてもいなくてもいい」といったと聞くに及び、お梅は怒りを抑えきれなくなった。
そして、午後9時過ぎ、楼近くに行き、車引きに梅吉を呼び出させた。
「専之助が立腹しているから急に帰る訳にもいかない、ともかく知り合いの家へ行っている」と峯吉。果てはお梅への恋慕を打ち明け、意に添うよう強要した。それで、お梅は持っていた出刃包丁を峯吉の背に刺した。
同年(明治20)11月の公判には傍聴人が1000人以上詰めかけ、邸内は身動きもならず、ガラス窓が破損したという。過半は、窓外で人山を築いて、何時静まるとも知れない騒ぎなので、警官が追い払い、門を閉ざして開廷したそうだ。
冒頭掲載の近世人物誌 『やまと新聞』 第二百六十三号附録の画像は、1887(明治20)年11月の公判開始以前の8月20日付で書かれたものであり、まだ事実関係がはっきりしていないために、事件の原因についても二説の風聞を併記して、「種々入込たる事情もあらんか」と推測するにとどまっている。以下その全文である。
今ハ酔月の女房お梅故は柳橋では小秀、新橋でハ秀吉とて三筋の糸に総を掛け、三弾の何でも宜と気随気まぐれで鳴らした果、五月の闇の暗き夜に、以前ハ内箱今ハ食客の峯吉を殺せし事ハ普く人の知る所ながら、彼を殺せしといふ原因に二様あり、一は峯吉が平生よりお梅に懸想し言寄ることも数度なりしが、流石に面恥かかするも気の毒とて風の柳に受居りしを、或る夜兇器をもつて情欲を遂んと迫りしより止を得ず之を切害せしといふにあり、一ハ世にも人にも包むべき一大事を峯吉に洩せしに、彼の同意をせざるより事の爰に及びしともいふ二者何れが是なるか公判の上ならでハ知るによしなし、唯お梅は是迄も情夫の自己につれなかりしを憤り之を害さんと威したる事二度に及ベり、されバ此度の峯吉殺しも想ふに種々入込たる事情もあらんか兎にかく凄き婦人なりかし
・・・・と。
市ヶ谷監獄(現在の新宿区住吉町にあった「市谷谷町囚獄役所」が明治36年「市谷監獄」と改称。近くにあった東京監獄、大正11年市谷刑務所と改称とは別物)に収監されていた花井お梅(このとき40才)が1903(明治36)年4月10日に満期になって出獄した。夜12時を期して、看守長が出獄の旨を申し渡すと、お梅は満面の笑みをたたえて、恭(うやうや)しく長年の行為を感謝したという。
午前零時半、差し入れの黒縮緬花菱三つ紋付き二枚重ねの小袖に繻珍(しゅちん)の丸帯をしめ、新調の駒下駄をはいて15年ぶりに刑務所から出てきた。
降りしきる雨の中、出迎えの兄や親類の人たちと日本橋浜町にある兄の家に落ち着いた。
ばか騒ぎをもくろんだ多数の出迎え人や物見高い見物人は午前4時ごろから押し寄せたが、すでに深夜に出獄したと係官から聞かされて、一同「アッとばかりに失望したのもおかしい。・・と同年4月11日付東京朝日新聞にはあるようだ。
「出獄後の花井お梅が堅気な稼業に心を込め、罪を滅さんともがくことは世間に隠れもなき話になるが、とかく耳たぶが薄い(運が悪い)と見えて、何の商売もヤンヤと行かず」、汁粉屋に失敗して牛込岩戸町で小間物店を開いたが、これも断念して、浜町へ舞い戻り、再び汁粉屋に転業と、明治38年2月25日付の東京朝日新聞は伝えているそうだ。
その後も、豊島銀行頭取と称する鈴木某に騙され無一物になり、進退窮まって俳優を志願したので、横浜、横須賀、桐生などから買い込みが来た。
峯吉殺しから鈴木某に逃げられるまでを芝居に仕立てて登場すると意気込んでいる、と報じられるなど、今でいうワイドショーの主役のようであったらしい。しかし、蓬莱座の一件を最後にお梅はゴシップ記事から姿を消したという(朝日クロニクル週刊20世紀1912年号)。彼女は、その後旅回りの役者などもしていたそうだが、1916(大正5)年夏、53歳の頃には、、新橋の芸妓に戻り、秀之助を名乗っていたそうだが、その年、12月13日、肺炎のため、蔵前片町(現、台東区蔵前1丁目)にあった病院で没したという。
この花井お梅の起こした事件は、河竹黙阿弥作『月梅薫朧夜』(役者絵、明治劇散切物の画は以下でみられる)の題で上演、評判となったほか、真山青果が脚色した『仮名屋小梅』(※4参照)、そして、川口松太郎の『明治一代女』として、新派劇の名狂言となった。
月梅薫朧夜 - 早稲田大学演劇博物館 浮世絵閲覧システム
川口松太郎の、『オール読物』誌に連載された小説『明治一代女』(昭和10年)は、「鶴八鶴次郎」「風流深川唄」と併せて"第1回直木賞を受賞している名作であるが、自身の脚色による新派劇は1935(昭和10)年、明治座にて初演され、また、日活:入江プロで映画化もされているそうだ。このときの映画は見ていないのでよく知らないが、19558昭和30)年公開の伊藤大輔監督による同名映画(大映)は見たことがある(※5参照)。
最初の日活入江プロの時に作られた藤田まさと作詞による同名の主題歌(作曲は大村能章)はよく流行ったな~。
(歌詞一番)
浮いた浮いたと 浜町河岸に
浮かれ柳の はずかしや
人目しのんで 小舟を出せば
すねた夜風が 邪魔をする
このときの歌手は元芸者の新橋 喜代三。このころは、葭町(藤本)二三吉、市丸、小唄勝太郎などの芸者歌手全盛の時代だったな~。
明治一代女の歌もいろいろな歌手にカバーされているが、その中に、私の大好きな美空ひばりのものもある。
彼女は、どんな曲を歌ってもうまいね~。さすが天才歌手だ。今日はこのひばりの歌を聴いて終わることにしよう。ここでは、初代、新橋 喜代三の他いろんなカバー歌手の歌も聞けるよ。
明治一代女 - 美空ひばり - 歌詞&動画視聴 : 歌ネット動画プラス
参考
〔注1〕明治41年幇間の桜川忠考に入門し、大正6年より桜川忠七を名乗っていた人物がいる。この桜川忠考が、桜川呂孝の弟子だろうか。また、桜川忠考の弟子?かどうかは知らないが、その忠七の流れを汲むと思われる人たちが桜川米七、七光、九助 七太郎(女幇間)と名乗り今も幇間芸を広めているようだ。以下参照参照。
花柳界雑学 - 全国花街・花柳界情報専門サイト ざ・花柳界
リンク
※1早稲田大学図書館:古典籍総合データベース: :[近世人物誌]
※2:コラム:明治の錦絵 | 錦絵でたのしむ江戸の名所 - 国立国会図書館
※3:よくわかる!大島紬(総集編) | きもの知るほど
※4: 「伝統歌舞伎保存会」 葉月会のアルバム(第十四回)
※5:明治一代女 | Movie Walker
ニュースの誕生:かわら版と新聞錦絵の情報世界:目次
二木紘三のうた物語7:マ行の歌