日本記念日協会(※1)登録の今日(2月23日)の記念日に「富士山の日」がある。
登録をしているのは、オンラインを通じて、全国一斉に富士山の見え具合をネット上で報告し合うなど、富士山をテーマとした活動を活発に行っているパソコン通信上の「山の展望と地図のフォーラム」(※2)で、1996(平成8)年1月1日に制定したものらしい。日付は2と23で「富士山(ふじさん)」と読む語呂合わせと、この時期は富士山がよく望めることから。・・・。とか。
実は、2005(平成17)年の今日2月23日に「富士山の日」という記念日があるということだけはこのブログで紹介していたが、それ以外特に何も書いていなかったので、今回改めて、書きなおしてみたものである。
1996(平成8)年「富士山の日」が登録されて、その後、2001(平成13)年12月17日に、日本のシンボル「富士山」の恵みを受けている観光立町である山梨県富士河口湖町(当時は河口湖町)が「富士山の恩恵に対する感謝を表すとともに、富士山の環境保全(※3のここ参照)並びに観光資源としての重要性を認識する機会として」、この日(2月23日)を富士山の日に制定し、2003(平成15)年11月15日からは条例として施行(※4)。その後、静岡県が、2009(平成21)年に「富士山の世界文化遺産登録に向け県民運動を盛り上げるため」に、同趣旨でこの日を富士山の日として県条例で制定(※5)したことを受けて、山梨県も同趣旨で「山梨県富士山の日条例」(梨県条例第55号)に、設定したようだ(※6)。
富士山(ふじさん、英語表記:Mount Fuji)は、山梨県(富士吉田市、南都留郡鳴沢村)と静岡県(富士宮市、裾野市、富士市、御殿場市、駿東郡小山町)に跨る活火山であり、標高3,776 m、日本最高峰(剣ヶ峰の独立峰である。
懸垂曲線の山容を有した玄武岩質成層火山で構成され、その山体は駿河湾の海岸まで及ぶ。
古来霊峰とされ、特に山頂部は浅間大神(浅間神)が鎮座するとされたため、神聖視された。
噴火を沈静化するため立律令国家により浅間神社が祭祀され、浅間信仰(富士浅間信仰)が確立された。また、富士山修験道の開祖とされる富士上人により修験道の霊場としても認識されるようになり、登拝が行われるようになった。これら富士信仰は時代により多様化し、村山修験や富士講といった一派を形成するに至る。
現在、富士山麓周辺には観光名所が多くある他、夏季には富士登山が盛んである。
日本三名山(三霊山)、日本百名山、日本の地質百選に選定されている。また、1936(昭和11)年には富士箱根伊豆国立公園(※3のここ参照)に指定され、その後、1952(昭和27)年に特別名勝に、2011(平成23)年には史跡に登録されている。
現在日本最高峰の富士山。その優美な風貌は日本国外でも日本の象徴として広く知られている。古来富士信仰が育まれた霊峰であるとともに、日本の代表的な画家葛飾北斎(1760年1849年)の『富嶽三十六景』など(※7参照)に代表される芸術上の主要な題材として、日本国内のみならず国際的にも大きな影響を及ぼした文化的景観を形成していることから、昨・2013(平成25)年6月22日には、関連する文化財群とともに「富士山-信仰の対象と芸術の源泉」の名でユネスコの世界文化遺産に登録された(※8:「世界遺産富士山」参照)。尚同※8:「世界遺産富士山」にリンクの「富士山ライブカメラ」では、富士吉田市、山中湖村、富士河口湖町(4ヵ所)、富士川町に設置したライブカメラ(Webカメラ)からの富士山の映像を見ることが出来る。
富士山ライブカメラ
『富嶽三十六景』は、稀代の天才絵師・葛飾北斎の代表作であり、巨大な波と舟の中に富士を描いた「神奈川沖浪裏」、赤富士を描いた「凱風快晴」などが代表的な作品として知られる。
画像クリックで拡大します。
●上掲の画像向かって左:「神奈川沖浪裏」、右:「凱風快晴」。画はWikipediaより。尚『富嶽三十六景』の画すべてを、以下参考にリンクの※7:「山梨県立博物館:かいじあむ」で見ることが出来る。
「富嶽」(ふがく)とは富士山のことであり、富嶽三十六景』は各地から望む富士山の景観を描いている。このシリーズは天保初年ごろより、西村永寿堂から出版された。
初め、題名の通り36図出版されたが、非常に好評であったため、後から10図が追加され、最終的に46図のシリーズ(連作)となった(当初の36図を「表富士」、追加の10図は「裏富士」と呼ばれている)。
発表当時の北斎は72歳と、晩年期に入ったときの作品である。全図に富士山が描かれているが、「凱風快晴」や「山下白雨」(画像)のように、富士山を画面いっぱいに描いた作品から、「神奈川沖浪裏」や「甲州伊沢暁」 (画像)のように遠景に配したものまであり、四季や地域ごとに多彩な富士山のみならず、画の多くは、各地での人々の営みを生き生きと描写している。
当時、人々の間には、富士山に対する篤い信仰があった。富士山に集団で参拝する「富士講」が盛んに行われ、富士山に見立てた築山「富士塚」が江戸の各地に作られている。こうした社会的風潮の中で『富嶽三十六景』は生まれ、爆発的なヒットをとばした。いつの時代も日本人の心の中にある富士山の姿。『富嶽三十六景』は、単なる風景画の域を超え、日本人の心の風景を描き出している。
中でも、巨大な波が人々を乗せた小舟を翻弄(ほんろう)し、大きく盛り上がって崩れんとする波の下に、遠く小さく富士山の望まれる「神奈川沖浪裏」の絵は、画家ゴッホによって賞賛され、さらにドビュッシーの売り出した交響詩「海」のスコアの表紙に使用されるなど、世界の芸術家にも大きな影響を与えたことでよく知られている。
浮世絵の風景画は当時「名所絵」と呼ばれており、このシリーズの商業的成功により、名所絵が役者絵や美人画と並ぶジャンルとして確立したと言える。
名所絵とは、日本各地の名所とされる場所を描いた絵のことであり、街道の風景を描いた名所絵としては、ほかに歌川広重(1797年 - 1858年)の保永堂版『東海道五十三次続絵』(55枚 。53の宿場と江戸と京都)があげられる。
この作品は広重の出世作であり、広重が1832(天保3)年、東海道を初めて旅した後に作製したといわれているが、この絵の中でも、江戸から、16番目の宿場「由比宿」までに富士山が描かれている。
江戸から2番目の宿場「川崎宿:六郷渡船」(画)は、品川宿を出て六郷川を渡ると川崎に入る。その左後方に富士山が描かれている。江戸中期から弘法大師信仰が盛んになると、川崎にある真言宗の寺「川崎大師」は流行佛(はやりぼとけ)として、江戸をはじめ近郊から参詣者が訪れた。
7番目の宿場「平塚宿:縄手道 」(画)では、中央のまん丸とした山「高麗山」(こまやま)の後ろに小さく富士が描かれている。高麗山へ続く縄手道すなわちあぜ道は「く」の字に大きく曲がって描かれ、そのことによって画面に奥行きをもたせようとしている。
10番目の宿場「箱根宿:湖水図」(画)。小田原を過ぎると箱根八里の天下の嶮へ。芦ノ湖畔の箱根町まで海道一の難所であり、旅人は馬の背や駕篭で、また草鞋の足も重く登っていく。そして芦ノ湖畔へ達する。画の中央には駒ヶ岳がそそり立つ。向かって左一望にひらける芦ノ湖、その遠山の上に富士の白雪が聳え立っている。
13番目の宿場「原宿:朝の富士」(画)。
原宿は北側に浮島沼が広がって おり、南側は駿河湾に挟まれた細長い州にあった。絵は宿場でなく浮島ヶ原のあたりが描かれているようだ。この絵では富士山の偉容が中心である。朝日に白雪は紅に染まり、遠い西の空は藍色に晴れている。沼津を出るとが右手に外れ、富士山が大きく中空にそびえて目近く見え、その絶景が海道をいく人々をなぐさめてくれる。
14番目の宿場「吉原宿:左富士」。原から吉原にかけ、富士の姿が最もよく眺められる。吉原宿から駿河湾田子の浦は程近い。平坦な街道には松並木がつづき、道は曲がりくねって今まで右手に見えていた富士山が左手に見えるところから、「左り富士」と呼ばれる景勝地となった。曲折する松並木の街道を描き、富士の姿を左手に見せている。
吉原宿、蒲原宿の次は、16番目の宿場「由井宿:薩多嶺」
●●上掲の画像は、広重の東海道五十三次「由比:薩多嶺」の画である(画像はWikipediaより)。
蒲原宿を過ぎると山は海に近くせまる。この海が清見潟である。古くは海の干潮の時に海岸ずたいに通った危険なところであったが、1655(明暦元)年に朝鮮から使節がきた時、山を切り開いて街道を通した。これが薩多峠であり、東海一の難所であった。
しかし、『東海道名所図会 巻之四』「駿河 興津」には、「田子の浦」の記述は特にないが、「由井まで二里十二町。この道は山水の風景真妙にして 東海道第一の勝地なり。」とあり、その前の「江尻」には、「田子浦」と題する漢詩が掲載されていることから、広重は、まさに田子の浦の海岸線から、(三保もしくは清見の)松原、船の帆、愛鷹山そして富士へと続く眺望を絵にしているのだろうという(※9:浮世絵に聞く!の「興津」 歌川広重 遠州屋又兵衛参照)。
広々と開けた駿河湾、沼津から続く曲汀の眼を見晴らす素晴らしい景色。その左手の峠道の断崖には、こわごわと絶景を眺める旅人が描かれている。
富士山は千年の昔から、万葉集などでも様々な形で歌われてきたが、ここの眺めは、『小倉百人一首』に掲載されている山部赤人の歌にもある。
●●上掲の画像は、山部赤人(歌川国芳画)
田子の浦にうち出でて見れば白妙の富士の高嶺に雪は降りつつ
この赤人の歌は、『新古今和歌集』巻第六冬歌に「題しらず」として収められているのが、その出所である。『新古今集』は、『万葉集』に載っている、長歌と反歌から成る一組の富士山の歌のうち、反歌だけを切り離し、雪が詠まれているということで、冬の歌という扱いで、巻六に入れたもののようだ。
『万葉集』巻第三「雑歌」には以下のように詠われている。
山部宿禰赤人、不尽(ふじ)の山を望(み)る歌一首 并せて短歌
あめつち)の 分かれし時ゆ 神さびて 高く貴(たふと)き 駿河なる 富士の高嶺(たかね)を 天(あま)の原 振り放(さ)け見れば 渡る日の 影も隠ろひ 照る月の 光も見えず 白雲も い行(ゆ)きはばかり 時じくぞ 雪は降りける 語り継ぎ 言ひ継ぎゆかむ 富士の高嶺(たかね)は (3-317)
[反歌]
田子(たこ)の浦ゆ打ち出(いで)て見れば真白にぞ富士の高嶺に雪は降りける(3-318)
【通釈】
[長歌]天と地が別れて出来た時からずっと、神々しく、高く壮大な、駿河の富士の高嶺――その高嶺を、天空はるか振り仰いでみれば、空を渡る太陽もその背後に隠れる程で、夜空に輝く月の光も見えない。雲もその前を通り過ぎることを憚る程で、季節にかかわらず雪が降り積もっている。いつの代までも語り継ぎ、言い継いでゆこう。霊妙な富士の高嶺のことは。
[反歌]田子の浦を通って、視界の開けた場所に出ると、真っ白に、富士の高嶺に雪が降り積もっていた。(歌の解説詳しくは※10:「千人万首」山部赤人 参照)
◇「富士の高嶺」=富士山について、万葉集では「不尽(不盡)」の表記が最も多く、「布士」「布時」「布仕」「不自」などの万葉仮名表記も見える。「富士」の表記が一般的になるのは中世以降と言われているようだ。
この歌では、「時じくそ雪は降りける」というのは、時の区別なく、つまり「季節にかかわらず、雪は降っている」ということだから、その反歌を冬の歌とすることは、作者の意図とは違うことになる。◇「ま白にそ富士の高嶺に雪は降りける 」という下句も『新古今集』での形とはひどく異なる。万葉集の「白妙の」は「富士」に掛かる枕詞であるが、「ま白にそ」は文字通り、真白にの意で、雪が降り積もっている形容を具体的、視覚的に表現していることになる。真白に雪を戴く富士山の姿を捉えているのは、やはり『万葉集』のこの反歌であり、その意味では、この歌を参考に書いたのが、広重の保永堂版『東海道五十三次続絵』の「由井宿」(薩多嶺)ではないだろうか。
ただ、◇田子の浦 は、『続日本紀』に「廬原郡多胡浦」とあるのと同一地と思われ、現在の庵原(いはら)郡蒲原町あたりに比定されている(尚、蒲原町は2006年に、静岡市に編入合併し、清水区の一部となっている)。したがって、赤人の歌の場面は、一般的にいわれている富士市南部の田子の浦とは別だとする学説があるようだ。◇「うち出てみれば」の 「うちいで」は広いところへ出る意。奈良時代は古代・中世でも、一番、海上交通が発達していたことを失念してはいけないだろう。
同じく万葉の歌人高橋虫麻呂 并せて短歌(反歌)2首がある。(長歌原文をここに書くのは省略するが詳しくは※10:「千人万首」高橋虫麻呂参照)。
[長歌]【通釈】
甲斐の国と、駿河の国と、あちらとこちら、二つの国の真ん中に、聳える富士の高嶺は、天高く行き交う雲もその前をおずおずと通り過ぎる程大きく、空を飛ぶ鳥もその頂までは飛び上がれぬ程高く、燃える火を雪で消し、降り積もる雪を火で消し続けている。言いようもなく、形容のしようもなく、霊妙にまします神であるよ。石花海と名付けてあるのも、その山が塞き止めた湖である。富士川と呼んで人が渡るのも、その山の地下水が溢れ出た川である。日本の国の、重鎮としてまします神であるよ。国の宝ともなっている山であるよ。駿河にある富士の高嶺は、いくら見ても見飽きないことよ。
..反歌
富士の嶺(ね)に降り置く雪は六月(みなつき)の十五日(もち)に消(け)ぬればその夜(よ)降りけり(3-320)
【通釈】富士の嶺に積もっている雪は、六月十五日に融けて消えると、その夜すぐまた降ったのだった。
富士の嶺(ね)を高み畏(かしこ)み天雲(あまくも)もい行きはばかり棚引くものを(3-321)
【通釈】 富士の嶺があまり高くて畏れ多いので、天雲さえも通り過ぎるのをためらって、たなびいているのだよ。
【補記】課題の左注に「右一首高橋連虫麻呂之歌中出焉以類載此」とあり、「以類載此」とあるのは、山部赤人の富士を詠んだ歌の後に、同じ山を詠んだ歌として載せたことを示す注記である。長歌の中で、◇「なまよみの 甲斐の国」とある 「なまよみの」は枕詞。掛かり方未詳(「黄泉(よみ)」と関係あるとする説などがあるようだ)。甲斐の国は今の山梨県に相当する。◇長文「うち寄する 駿河の国」 の「うち寄する」は「駿河」の枕詞。南方の常世の国から波が打ち寄せる、の意であろうという。また「する」が同音から「駿河」を起こすことにもなるようだ。
◇「<ahref= http://kotobank.jp/word/%E7%9F%B3%E8%8A%B1%E6%B5%B7 >石花海」は 富士五湖の一つ西湖と精進湖。一つの湖であったのが、864 (貞観6)年の富士山噴火により二つに別れたという(詳細は富士山の噴火史の中の「貞観大噴火」を参照)。
先にも書いたように、万葉の時代富士はもっぱら、「不尽山」と歌われているが、これは、当時、富士山は盛んに噴火を繰り返しており、「神代の時代から活動を続ける永遠に命の尽きない山」=不尽山だったからだろう。
それが、時代が下り、平安後期になると、「人知れぬ思いをつねに駿河なる 富士の山こそ我が身なりけれ」(古今集=905年, 読人しらず )というように「富士」の表記が出てくる。この頃になると、富士山の活動もおさまっており、その秀麗さに関心が集まるようになったようだ。富士山は今でも活火山であることは忘れてはいけないだろうね。
これらの歌を見ると、高橋連虫麿は富士山を陸上の箱根足柄方面から見たようだが、山部赤人は駿河から相模に向かう途中の海上から富士山を眺めたようだ。それは、ちょうど、葛飾北斎が描く『冨嶽三十六景』の内の36.「東海道江尻田子の浦略圖」(画)に相当するような風景である。逆に、葛飾北斎は集歌318の歌の真意を知っていて、それで当時の東海道では渡海をしない江尻宿だが、田子の浦の海上からの富士山を描いたのかも知れない。
広重は保永堂版『東海道五十三次続絵』によって、浮世絵界に不動の地位を築き、その後広重がはじめて手がけた富士の連作『不二三十六景』(1852年刊。版元:佐野屋嘉兵衛)、やはり富士の連作『冨士三十六景』(1858年刊。版元:蔦谷吉)で、『名所江戸百景』(1856年-1858年)と同様に風景を竪に切り取り、近景、中景、遠景を重ねた構図のものをはじめとした風景版画の数々を世に送り出すようになる。
広重が日本全国の名所を描いた浮世絵木版画の連作『六十余州名所図会』(1854年-1856年)の、12駿河( 三保のまつ原)では、羽衣伝説の舞台でもあり、日本三大松原のひとつとされ、国の名勝に指定されており、ユネスコの世界文化遺産「富士山-信仰の対象と芸術の源泉」の構成資産にも登録された「三保松原」を通しての富士山が描かれている。
ただ、広重の保永堂版『東海道五十三次続絵』を書くにあたっては、伝手(つて)を頼って幕府の行列に加えてもらったとの伝承が伝わるが、実際には旅行をしていないのではないかなどという説もあるようだ(※9や※11参照)が・・・、その真偽はよくわからない。
ただ広重の前には、既に多数の東海道五十三次ものがあったので、版元の要請などもあって、現地を観ずに先輩たちの東海道物を見て、その集大成をした…と言ったことはあるのかもしれないね・・・・。北斎の絵の中に、広重がヒントにしたと思われるようなものもある感じがする。
因みに、広重より先に東海道五十三次を書いた北斎の絵があるが、北斎の五十三次は人物が主体で風景はあまり描いていない。一方、広重の五十三次は風景が中心である。以下参考の※12:「四日市の館:広重&北斎の東海道五十三次」を見られるとよい。絵の美味さに関しては、広重の大先輩北斎がずっと上だね。
ところで、小説家太宰治(1909年6月19日 - 1948年6月13日)の短編小説に『富嶽百景』がある。1933(昭和8)年に作家デビューするが、1935(昭和10)年には東京帝国大落第・都新聞入社試験の失敗から鎌倉で自殺未遂を起こし、パビナール(アヘンアルカロイドを成分とする鎮痛剤で、薬物依存の危険性があるという※13参照)中毒にも陥り、東京の武蔵野病院に入院していた。1937(昭和12)年には愛人の女性と再び自殺未遂を起こしている。
1938(昭和13)年30歳の時、9月から11月かけて太宰は、井伏鱒二の勧めで山梨県南都留郡河口村(富士河口湖町河口)の御坂峠にある富士山が間近に見える土産物屋兼旅館である天下茶屋(※14)に原稿執筆のために逗留し、この間に同じ茶店に先に間借りしていた井伏鱒二の紹介で知り合った一女性と婚約した。
彼は翌1939(昭和14)年発表の「富嶽百景」で、この天下茶屋滞在時に日々眺めていた富士山へアンビヴァレントな気持ちを、例の曲折に富む文章で語りつくしている。
また折りしも日中戦争開始の翌年で、ナショナリズムの渦が国民を巻き込み、富士山も又、その巻き添えをくっていた時代なのであろう。そのような時代を背景にして、冒頭からいきなり?聖化?され?俗化?された富士山像に以下のようにいちゃもんをつける。
「富士の頂角、広重ひろしげの富士は八十五度、文晁(ぶんてう。江戸時代後期の画家)の富士も八十四度くらゐ、けれども、陸軍の実測図によつて東西及南北に断面図を作つてみると、東西縦断は頂角、百二十四度となり、南北は百十七度である。広重、文晁に限らず、たいていの絵の富士は、鋭角である。いただきが、細く、高く、華奢である。北斎にいたつては、その頂角、ほとんど三十度くらゐ、エッフェル鉄塔のやうな富士をさへ描いてゐる。けれども、実際の富士は、鈍角も鈍角、のろくさと拡がり、東西、百二十四度、南北は百十七度、決して、秀抜の、すらと高い山ではない。
たとへば私が、印度インドかどこかの国から、突然、鷲にさらはれ、すとんと日本の沼津あたりの海岸に落されて、ふと、この山を見つけても、そんなに驚嘆しないだらう。ニツポンのフジヤマを、あらかじめ憧れてゐるからこそ、ワンダフルなのであつて、さうでなくて、そのやうな俗な宣伝を、一さい知らず、素朴な、純粋の、うつろな心に、果して、どれだけ訴へ得るか、そのことになると、多少、心細い山である。低い。裾のひろがつてゐる割に、低い。あれくらゐの裾を持つてゐる山ならば、少くとも、もう一・五倍、高くなければいけない。・・・・と(※15:「太宰治 富嶽百景 - 青空文庫」より)。
「頂角」は、三角形の底辺に対する角。二等辺三角形では、等辺でない辺に対する角のこと。太宰は、「陸軍の実測図によつて東西及南北に断面図を作つてみると、東西縦断は頂角、百二十四度となり、南北は百十七度である。」と書いているが、以下参考の※16:「富士が聳えて見える方角の調査結果」では、どの地点から見る富士が最も聳えて見えるか、あらゆる角度から写真を撮り、分度器で計測したところ。大体113度〜130度の範囲にあるという。確かに、太宰が云うように、「たいていの絵の富士は、鋭角である」。太宰に言わせると「北斎にいたつては、その頂角、ほとんど三十度くらゐ」と云うから、恐らく、『富嶽三十六景』の「凱風快晴」の富士を言っているのだろう。もし、同じ方角から撮った写真の富士山を、パソコンなどで、北斎の「凱風快晴」の富士の鋭角に合わせて作り直してみたら随分とおかしなものになるだろう。
浮世絵は、やはり浮世のことなので、富士山の「頂角」を過小に描き、スラリと、美しく描いたということだろう。それが写真との違いだろう。
御坂峠の天下茶屋は富士の名所として知られており、茶屋からも河口湖に抱かれた見事な富士を見ることができる。しかし太宰は、いかにも典型的な富士の姿を見て、「風呂屋のペンキ画だ」と馬鹿にする。なかなか執筆がはかどらない中、太宰は茶屋の人々や、あるいは峠の下の町から太宰を訪ねてきた若者などと交流して行くうちに、彼は、その時々に、新たな富士の表情を発見し、やがて彼は、いつも変わらずそこに佇む素朴な姿の富士に頼もしさを感じるようになる。
そういえば、銭湯と聞くと富士山の壁絵を思い浮かべる人は少なくはないと思われるが、Wikipediaによれば、その歴史はそんなに古いものではなく、1912(大正元)年に東京神田猿楽町にあった「キカイ湯」の主人が、画家の川越広四郎に壁画を依頼したのが始まりで、これが評判となり、これに倣う銭湯が続出し、銭湯といえばペンキ絵という観念を生じるに至ったという。なお、正確には東日本、特に関東地方の銭湯に特有のものであり、西日本の銭湯では浴槽が浴室の中央に設計されることが多いこともあり、壁面にペンキ絵はほとんど無いという。
富士山は万葉の昔から 「不二山」 「不尽山」 と書かれ、日本人の憧れと崇高を集める「信仰の山」 であった。秀麗な山容の富士山は文化的・歴史的・宗教的にみても,、日本人にとっては欠く ことのできない, まさに, 「心のふるさと」 「誇りの山」 であった。しかし、 東京オリ ンピックが開催された1964(昭和39) 年に、山梨県側の富士山5合目まで車で容易に行く ことができる 「富士スパルライ ン」(富士山有料道路)が建設されて以降、現在の富士山は, 「観光の山」 に変容している。
又、建設にあたり道路の造りやすさが優先されたことから、貴重な原生林が伐採され、道路周辺の山肌に大きな傷も残り、辺の木々 の立枯れが進み, 土砂災害の頻繁な発生や、生態系への悪影響な ど、富士山の環境に与えるダメージも甚大なものとなっているという。その後, 環境悪化の再生に30年以上の歳月 と多くの税金が投入され、富士山を愛するボランティア達の努力により、5合目以上のゴミ・し尿問題などはほとんどなくなり、何とか、2013(平成25)年6月22日、ユネスコ世界遺産委員会が開かれ、富士山の世界遺産登録が決定した。
しかし悲しいことに、山麓部へのごみの不法投棄等は今も続いており、夏のピーク時の登山者受け入れ態勢も決して十分とは言えない状況であり、また、ごみ問題のほかにも、登山者の安全対策、景観整備、開発の抑止など課題はまだまだ多く残っていると聞く。
ユネスコから世界遺産登録を受けた富士山。本来あるべきは自然遺産としての登録であったが、このような環境問題等もあり、文化遺産として登録された。
その文化を育んできたのが美しい自然であることは間違いないが、富士山を「日本の象徴」、「日本人の心の原風景」として、何時まで守り続けられるであろうか。世界遺産にとうろくされたところには、どっと観光客が押し寄せている。維持管理費がかかるとの理由で、多額の入山料や、入場料を徴収しようとしているところが増えている。今まで、自然や、文化をを愛し、ルールを守り、環境を守ってきた人達にとっては本当にいい迷惑だろう。「世界遺産登録の取り消し」・・・なんて、ことにだけはなってほしくないよあ〜。
それと、1707(宝永四)年10 月 28 日、宝永東海地震が発生した時に起きた宝永大噴火以降現在まで、富士山の噴火(※17参照)は起こっていないが、近い将来、起こる可能性が高いという。この様な大自然の災害に対して、人の力で予防できることは限られているだろうから、これは、怖いな〜。(冒頭に掲載の画像は、宝永山と宝永第一火口.。Wikipediaより。)
※1:日本記念日協会
http://www.kinenbi.gr.jp/
※2:山の展望と地図のフォーラム - FYAMAP
http://fyamap.jizoh.jp/
※3:国立公園-環境省
https://www.env.go.jp/park/index.html
※4:富士山の日(毎年2月23日) [富士河口湖町] - 富士河口湖町役場
http://www.town.fujikawaguchiko.lg.jp/info/info.php?if_id=442
※5:02月23日静岡県/富士山の日
http://www.pref.shizuoka.jp/bunka/bk-223/fujisannohi/top.html
※6:山梨県/富士山の日
https://www.pref.yamanashi.jp/kankou-sgn/fujisannohi.html
※7:山梨県立博物館かいじあむ:富士山
http://www.museum.pref.yamanashi.jp/2nd_fujisan.html
※8:世界遺産富士山
http://www.fujisan-3776.jp/index.html
※9:浮世絵に聞く!
http://ukiyoe.cocolog-nifty.com/
※10:千人万首 目次
http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin_f.html
※11:広重東海道五十三次の 成立
http://koktok.web.fc2.com/hom_page/53Travel/yobi/53hiro2.htm
※12:四日市の館:広重&北斎の東海道五十三次
http://asake.sakura.ne.jp/02asake/ukiyoe/8.html
※13:【雑学】太宰治、パビナール中毒、精神病院: ぽん太のみちくさ精神科
http://ponta.moe-nifty.com/blog/2007/12/post_4835.html
※14:御坂峠|天下茶屋
http://www.tenkachaya.jp/
※15:太宰治 富嶽百景 - 青空文庫
http://www.aozora.gr.jp/cards/000035/files/270_14914.html
※16:富士が聳えて見える方角の調査結果
http://mohsho.image.coocan.jp/fugakuhyakukei3.html
※17:富士火山噴火:災害の教訓- 内閣府防災担当(Adobe PDF)
http://www.bousai.go.jp/kyoiku/kyokun/kyoukunnokeishou/14/pdf/shiryou4.pdf#search='%E6%9D%B1%E6%B5%B7%E9%81%93%E4%BA%94%E5%8D%81%E4%B8%89%E6%AC%A1+%E9%8E%8C%E5%8E%9F+%E5%AF%8C%E5%A3%AB'
東海道五拾三次-国立国会図書館デジタル化資料
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1302479?tocOpened=1
浮世絵のアダチ版画
https://www.adachi-hanga.com/ukiyo-e/category/8
富士登山オフィシャルサイト
http://www.fujisan-climb.jp/
富士山 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%8C%E5%A3%AB%E5%B1%B1
登録をしているのは、オンラインを通じて、全国一斉に富士山の見え具合をネット上で報告し合うなど、富士山をテーマとした活動を活発に行っているパソコン通信上の「山の展望と地図のフォーラム」(※2)で、1996(平成8)年1月1日に制定したものらしい。日付は2と23で「富士山(ふじさん)」と読む語呂合わせと、この時期は富士山がよく望めることから。・・・。とか。
実は、2005(平成17)年の今日2月23日に「富士山の日」という記念日があるということだけはこのブログで紹介していたが、それ以外特に何も書いていなかったので、今回改めて、書きなおしてみたものである。
1996(平成8)年「富士山の日」が登録されて、その後、2001(平成13)年12月17日に、日本のシンボル「富士山」の恵みを受けている観光立町である山梨県富士河口湖町(当時は河口湖町)が「富士山の恩恵に対する感謝を表すとともに、富士山の環境保全(※3のここ参照)並びに観光資源としての重要性を認識する機会として」、この日(2月23日)を富士山の日に制定し、2003(平成15)年11月15日からは条例として施行(※4)。その後、静岡県が、2009(平成21)年に「富士山の世界文化遺産登録に向け県民運動を盛り上げるため」に、同趣旨でこの日を富士山の日として県条例で制定(※5)したことを受けて、山梨県も同趣旨で「山梨県富士山の日条例」(梨県条例第55号)に、設定したようだ(※6)。
富士山(ふじさん、英語表記:Mount Fuji)は、山梨県(富士吉田市、南都留郡鳴沢村)と静岡県(富士宮市、裾野市、富士市、御殿場市、駿東郡小山町)に跨る活火山であり、標高3,776 m、日本最高峰(剣ヶ峰の独立峰である。
懸垂曲線の山容を有した玄武岩質成層火山で構成され、その山体は駿河湾の海岸まで及ぶ。
古来霊峰とされ、特に山頂部は浅間大神(浅間神)が鎮座するとされたため、神聖視された。
噴火を沈静化するため立律令国家により浅間神社が祭祀され、浅間信仰(富士浅間信仰)が確立された。また、富士山修験道の開祖とされる富士上人により修験道の霊場としても認識されるようになり、登拝が行われるようになった。これら富士信仰は時代により多様化し、村山修験や富士講といった一派を形成するに至る。
現在、富士山麓周辺には観光名所が多くある他、夏季には富士登山が盛んである。
日本三名山(三霊山)、日本百名山、日本の地質百選に選定されている。また、1936(昭和11)年には富士箱根伊豆国立公園(※3のここ参照)に指定され、その後、1952(昭和27)年に特別名勝に、2011(平成23)年には史跡に登録されている。
現在日本最高峰の富士山。その優美な風貌は日本国外でも日本の象徴として広く知られている。古来富士信仰が育まれた霊峰であるとともに、日本の代表的な画家葛飾北斎(1760年1849年)の『富嶽三十六景』など(※7参照)に代表される芸術上の主要な題材として、日本国内のみならず国際的にも大きな影響を及ぼした文化的景観を形成していることから、昨・2013(平成25)年6月22日には、関連する文化財群とともに「富士山-信仰の対象と芸術の源泉」の名でユネスコの世界文化遺産に登録された(※8:「世界遺産富士山」参照)。尚同※8:「世界遺産富士山」にリンクの「富士山ライブカメラ」では、富士吉田市、山中湖村、富士河口湖町(4ヵ所)、富士川町に設置したライブカメラ(Webカメラ)からの富士山の映像を見ることが出来る。
富士山ライブカメラ
『富嶽三十六景』は、稀代の天才絵師・葛飾北斎の代表作であり、巨大な波と舟の中に富士を描いた「神奈川沖浪裏」、赤富士を描いた「凱風快晴」などが代表的な作品として知られる。
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●上掲の画像向かって左:「神奈川沖浪裏」、右:「凱風快晴」。画はWikipediaより。尚『富嶽三十六景』の画すべてを、以下参考にリンクの※7:「山梨県立博物館:かいじあむ」で見ることが出来る。
「富嶽」(ふがく)とは富士山のことであり、富嶽三十六景』は各地から望む富士山の景観を描いている。このシリーズは天保初年ごろより、西村永寿堂から出版された。
初め、題名の通り36図出版されたが、非常に好評であったため、後から10図が追加され、最終的に46図のシリーズ(連作)となった(当初の36図を「表富士」、追加の10図は「裏富士」と呼ばれている)。
発表当時の北斎は72歳と、晩年期に入ったときの作品である。全図に富士山が描かれているが、「凱風快晴」や「山下白雨」(画像)のように、富士山を画面いっぱいに描いた作品から、「神奈川沖浪裏」や「甲州伊沢暁」 (画像)のように遠景に配したものまであり、四季や地域ごとに多彩な富士山のみならず、画の多くは、各地での人々の営みを生き生きと描写している。
当時、人々の間には、富士山に対する篤い信仰があった。富士山に集団で参拝する「富士講」が盛んに行われ、富士山に見立てた築山「富士塚」が江戸の各地に作られている。こうした社会的風潮の中で『富嶽三十六景』は生まれ、爆発的なヒットをとばした。いつの時代も日本人の心の中にある富士山の姿。『富嶽三十六景』は、単なる風景画の域を超え、日本人の心の風景を描き出している。
中でも、巨大な波が人々を乗せた小舟を翻弄(ほんろう)し、大きく盛り上がって崩れんとする波の下に、遠く小さく富士山の望まれる「神奈川沖浪裏」の絵は、画家ゴッホによって賞賛され、さらにドビュッシーの売り出した交響詩「海」のスコアの表紙に使用されるなど、世界の芸術家にも大きな影響を与えたことでよく知られている。
浮世絵の風景画は当時「名所絵」と呼ばれており、このシリーズの商業的成功により、名所絵が役者絵や美人画と並ぶジャンルとして確立したと言える。
名所絵とは、日本各地の名所とされる場所を描いた絵のことであり、街道の風景を描いた名所絵としては、ほかに歌川広重(1797年 - 1858年)の保永堂版『東海道五十三次続絵』(55枚 。53の宿場と江戸と京都)があげられる。
この作品は広重の出世作であり、広重が1832(天保3)年、東海道を初めて旅した後に作製したといわれているが、この絵の中でも、江戸から、16番目の宿場「由比宿」までに富士山が描かれている。
江戸から2番目の宿場「川崎宿:六郷渡船」(画)は、品川宿を出て六郷川を渡ると川崎に入る。その左後方に富士山が描かれている。江戸中期から弘法大師信仰が盛んになると、川崎にある真言宗の寺「川崎大師」は流行佛(はやりぼとけ)として、江戸をはじめ近郊から参詣者が訪れた。
7番目の宿場「平塚宿:縄手道 」(画)では、中央のまん丸とした山「高麗山」(こまやま)の後ろに小さく富士が描かれている。高麗山へ続く縄手道すなわちあぜ道は「く」の字に大きく曲がって描かれ、そのことによって画面に奥行きをもたせようとしている。
10番目の宿場「箱根宿:湖水図」(画)。小田原を過ぎると箱根八里の天下の嶮へ。芦ノ湖畔の箱根町まで海道一の難所であり、旅人は馬の背や駕篭で、また草鞋の足も重く登っていく。そして芦ノ湖畔へ達する。画の中央には駒ヶ岳がそそり立つ。向かって左一望にひらける芦ノ湖、その遠山の上に富士の白雪が聳え立っている。
13番目の宿場「原宿:朝の富士」(画)。
原宿は北側に浮島沼が広がって おり、南側は駿河湾に挟まれた細長い州にあった。絵は宿場でなく浮島ヶ原のあたりが描かれているようだ。この絵では富士山の偉容が中心である。朝日に白雪は紅に染まり、遠い西の空は藍色に晴れている。沼津を出るとが右手に外れ、富士山が大きく中空にそびえて目近く見え、その絶景が海道をいく人々をなぐさめてくれる。
14番目の宿場「吉原宿:左富士」。原から吉原にかけ、富士の姿が最もよく眺められる。吉原宿から駿河湾田子の浦は程近い。平坦な街道には松並木がつづき、道は曲がりくねって今まで右手に見えていた富士山が左手に見えるところから、「左り富士」と呼ばれる景勝地となった。曲折する松並木の街道を描き、富士の姿を左手に見せている。
吉原宿、蒲原宿の次は、16番目の宿場「由井宿:薩多嶺」
●●上掲の画像は、広重の東海道五十三次「由比:薩多嶺」の画である(画像はWikipediaより)。
蒲原宿を過ぎると山は海に近くせまる。この海が清見潟である。古くは海の干潮の時に海岸ずたいに通った危険なところであったが、1655(明暦元)年に朝鮮から使節がきた時、山を切り開いて街道を通した。これが薩多峠であり、東海一の難所であった。
しかし、『東海道名所図会 巻之四』「駿河 興津」には、「田子の浦」の記述は特にないが、「由井まで二里十二町。この道は山水の風景真妙にして 東海道第一の勝地なり。」とあり、その前の「江尻」には、「田子浦」と題する漢詩が掲載されていることから、広重は、まさに田子の浦の海岸線から、(三保もしくは清見の)松原、船の帆、愛鷹山そして富士へと続く眺望を絵にしているのだろうという(※9:浮世絵に聞く!の「興津」 歌川広重 遠州屋又兵衛参照)。
広々と開けた駿河湾、沼津から続く曲汀の眼を見晴らす素晴らしい景色。その左手の峠道の断崖には、こわごわと絶景を眺める旅人が描かれている。
富士山は千年の昔から、万葉集などでも様々な形で歌われてきたが、ここの眺めは、『小倉百人一首』に掲載されている山部赤人の歌にもある。
●●上掲の画像は、山部赤人(歌川国芳画)
田子の浦にうち出でて見れば白妙の富士の高嶺に雪は降りつつ
この赤人の歌は、『新古今和歌集』巻第六冬歌に「題しらず」として収められているのが、その出所である。『新古今集』は、『万葉集』に載っている、長歌と反歌から成る一組の富士山の歌のうち、反歌だけを切り離し、雪が詠まれているということで、冬の歌という扱いで、巻六に入れたもののようだ。
『万葉集』巻第三「雑歌」には以下のように詠われている。
山部宿禰赤人、不尽(ふじ)の山を望(み)る歌一首 并せて短歌
あめつち)の 分かれし時ゆ 神さびて 高く貴(たふと)き 駿河なる 富士の高嶺(たかね)を 天(あま)の原 振り放(さ)け見れば 渡る日の 影も隠ろひ 照る月の 光も見えず 白雲も い行(ゆ)きはばかり 時じくぞ 雪は降りける 語り継ぎ 言ひ継ぎゆかむ 富士の高嶺(たかね)は (3-317)
[反歌]
田子(たこ)の浦ゆ打ち出(いで)て見れば真白にぞ富士の高嶺に雪は降りける(3-318)
【通釈】
[長歌]天と地が別れて出来た時からずっと、神々しく、高く壮大な、駿河の富士の高嶺――その高嶺を、天空はるか振り仰いでみれば、空を渡る太陽もその背後に隠れる程で、夜空に輝く月の光も見えない。雲もその前を通り過ぎることを憚る程で、季節にかかわらず雪が降り積もっている。いつの代までも語り継ぎ、言い継いでゆこう。霊妙な富士の高嶺のことは。
[反歌]田子の浦を通って、視界の開けた場所に出ると、真っ白に、富士の高嶺に雪が降り積もっていた。(歌の解説詳しくは※10:「千人万首」山部赤人 参照)
◇「富士の高嶺」=富士山について、万葉集では「不尽(不盡)」の表記が最も多く、「布士」「布時」「布仕」「不自」などの万葉仮名表記も見える。「富士」の表記が一般的になるのは中世以降と言われているようだ。
この歌では、「時じくそ雪は降りける」というのは、時の区別なく、つまり「季節にかかわらず、雪は降っている」ということだから、その反歌を冬の歌とすることは、作者の意図とは違うことになる。◇「ま白にそ富士の高嶺に雪は降りける 」という下句も『新古今集』での形とはひどく異なる。万葉集の「白妙の」は「富士」に掛かる枕詞であるが、「ま白にそ」は文字通り、真白にの意で、雪が降り積もっている形容を具体的、視覚的に表現していることになる。真白に雪を戴く富士山の姿を捉えているのは、やはり『万葉集』のこの反歌であり、その意味では、この歌を参考に書いたのが、広重の保永堂版『東海道五十三次続絵』の「由井宿」(薩多嶺)ではないだろうか。
ただ、◇田子の浦 は、『続日本紀』に「廬原郡多胡浦」とあるのと同一地と思われ、現在の庵原(いはら)郡蒲原町あたりに比定されている(尚、蒲原町は2006年に、静岡市に編入合併し、清水区の一部となっている)。したがって、赤人の歌の場面は、一般的にいわれている富士市南部の田子の浦とは別だとする学説があるようだ。◇「うち出てみれば」の 「うちいで」は広いところへ出る意。奈良時代は古代・中世でも、一番、海上交通が発達していたことを失念してはいけないだろう。
同じく万葉の歌人高橋虫麻呂 并せて短歌(反歌)2首がある。(長歌原文をここに書くのは省略するが詳しくは※10:「千人万首」高橋虫麻呂参照)。
[長歌]【通釈】
甲斐の国と、駿河の国と、あちらとこちら、二つの国の真ん中に、聳える富士の高嶺は、天高く行き交う雲もその前をおずおずと通り過ぎる程大きく、空を飛ぶ鳥もその頂までは飛び上がれぬ程高く、燃える火を雪で消し、降り積もる雪を火で消し続けている。言いようもなく、形容のしようもなく、霊妙にまします神であるよ。石花海と名付けてあるのも、その山が塞き止めた湖である。富士川と呼んで人が渡るのも、その山の地下水が溢れ出た川である。日本の国の、重鎮としてまします神であるよ。国の宝ともなっている山であるよ。駿河にある富士の高嶺は、いくら見ても見飽きないことよ。
..反歌
富士の嶺(ね)に降り置く雪は六月(みなつき)の十五日(もち)に消(け)ぬればその夜(よ)降りけり(3-320)
【通釈】富士の嶺に積もっている雪は、六月十五日に融けて消えると、その夜すぐまた降ったのだった。
富士の嶺(ね)を高み畏(かしこ)み天雲(あまくも)もい行きはばかり棚引くものを(3-321)
【通釈】 富士の嶺があまり高くて畏れ多いので、天雲さえも通り過ぎるのをためらって、たなびいているのだよ。
【補記】課題の左注に「右一首高橋連虫麻呂之歌中出焉以類載此」とあり、「以類載此」とあるのは、山部赤人の富士を詠んだ歌の後に、同じ山を詠んだ歌として載せたことを示す注記である。長歌の中で、◇「なまよみの 甲斐の国」とある 「なまよみの」は枕詞。掛かり方未詳(「黄泉(よみ)」と関係あるとする説などがあるようだ)。甲斐の国は今の山梨県に相当する。◇長文「うち寄する 駿河の国」 の「うち寄する」は「駿河」の枕詞。南方の常世の国から波が打ち寄せる、の意であろうという。また「する」が同音から「駿河」を起こすことにもなるようだ。
◇「<ahref= http://kotobank.jp/word/%E7%9F%B3%E8%8A%B1%E6%B5%B7 >石花海」は 富士五湖の一つ西湖と精進湖。一つの湖であったのが、864 (貞観6)年の富士山噴火により二つに別れたという(詳細は富士山の噴火史の中の「貞観大噴火」を参照)。
先にも書いたように、万葉の時代富士はもっぱら、「不尽山」と歌われているが、これは、当時、富士山は盛んに噴火を繰り返しており、「神代の時代から活動を続ける永遠に命の尽きない山」=不尽山だったからだろう。
それが、時代が下り、平安後期になると、「人知れぬ思いをつねに駿河なる 富士の山こそ我が身なりけれ」(古今集=905年, 読人しらず )というように「富士」の表記が出てくる。この頃になると、富士山の活動もおさまっており、その秀麗さに関心が集まるようになったようだ。富士山は今でも活火山であることは忘れてはいけないだろうね。
これらの歌を見ると、高橋連虫麿は富士山を陸上の箱根足柄方面から見たようだが、山部赤人は駿河から相模に向かう途中の海上から富士山を眺めたようだ。それは、ちょうど、葛飾北斎が描く『冨嶽三十六景』の内の36.「東海道江尻田子の浦略圖」(画)に相当するような風景である。逆に、葛飾北斎は集歌318の歌の真意を知っていて、それで当時の東海道では渡海をしない江尻宿だが、田子の浦の海上からの富士山を描いたのかも知れない。
広重は保永堂版『東海道五十三次続絵』によって、浮世絵界に不動の地位を築き、その後広重がはじめて手がけた富士の連作『不二三十六景』(1852年刊。版元:佐野屋嘉兵衛)、やはり富士の連作『冨士三十六景』(1858年刊。版元:蔦谷吉)で、『名所江戸百景』(1856年-1858年)と同様に風景を竪に切り取り、近景、中景、遠景を重ねた構図のものをはじめとした風景版画の数々を世に送り出すようになる。
広重が日本全国の名所を描いた浮世絵木版画の連作『六十余州名所図会』(1854年-1856年)の、12駿河( 三保のまつ原)では、羽衣伝説の舞台でもあり、日本三大松原のひとつとされ、国の名勝に指定されており、ユネスコの世界文化遺産「富士山-信仰の対象と芸術の源泉」の構成資産にも登録された「三保松原」を通しての富士山が描かれている。
ただ、広重の保永堂版『東海道五十三次続絵』を書くにあたっては、伝手(つて)を頼って幕府の行列に加えてもらったとの伝承が伝わるが、実際には旅行をしていないのではないかなどという説もあるようだ(※9や※11参照)が・・・、その真偽はよくわからない。
ただ広重の前には、既に多数の東海道五十三次ものがあったので、版元の要請などもあって、現地を観ずに先輩たちの東海道物を見て、その集大成をした…と言ったことはあるのかもしれないね・・・・。北斎の絵の中に、広重がヒントにしたと思われるようなものもある感じがする。
因みに、広重より先に東海道五十三次を書いた北斎の絵があるが、北斎の五十三次は人物が主体で風景はあまり描いていない。一方、広重の五十三次は風景が中心である。以下参考の※12:「四日市の館:広重&北斎の東海道五十三次」を見られるとよい。絵の美味さに関しては、広重の大先輩北斎がずっと上だね。
ところで、小説家太宰治(1909年6月19日 - 1948年6月13日)の短編小説に『富嶽百景』がある。1933(昭和8)年に作家デビューするが、1935(昭和10)年には東京帝国大落第・都新聞入社試験の失敗から鎌倉で自殺未遂を起こし、パビナール(アヘンアルカロイドを成分とする鎮痛剤で、薬物依存の危険性があるという※13参照)中毒にも陥り、東京の武蔵野病院に入院していた。1937(昭和12)年には愛人の女性と再び自殺未遂を起こしている。
1938(昭和13)年30歳の時、9月から11月かけて太宰は、井伏鱒二の勧めで山梨県南都留郡河口村(富士河口湖町河口)の御坂峠にある富士山が間近に見える土産物屋兼旅館である天下茶屋(※14)に原稿執筆のために逗留し、この間に同じ茶店に先に間借りしていた井伏鱒二の紹介で知り合った一女性と婚約した。
彼は翌1939(昭和14)年発表の「富嶽百景」で、この天下茶屋滞在時に日々眺めていた富士山へアンビヴァレントな気持ちを、例の曲折に富む文章で語りつくしている。
また折りしも日中戦争開始の翌年で、ナショナリズムの渦が国民を巻き込み、富士山も又、その巻き添えをくっていた時代なのであろう。そのような時代を背景にして、冒頭からいきなり?聖化?され?俗化?された富士山像に以下のようにいちゃもんをつける。
「富士の頂角、広重ひろしげの富士は八十五度、文晁(ぶんてう。江戸時代後期の画家)の富士も八十四度くらゐ、けれども、陸軍の実測図によつて東西及南北に断面図を作つてみると、東西縦断は頂角、百二十四度となり、南北は百十七度である。広重、文晁に限らず、たいていの絵の富士は、鋭角である。いただきが、細く、高く、華奢である。北斎にいたつては、その頂角、ほとんど三十度くらゐ、エッフェル鉄塔のやうな富士をさへ描いてゐる。けれども、実際の富士は、鈍角も鈍角、のろくさと拡がり、東西、百二十四度、南北は百十七度、決して、秀抜の、すらと高い山ではない。
たとへば私が、印度インドかどこかの国から、突然、鷲にさらはれ、すとんと日本の沼津あたりの海岸に落されて、ふと、この山を見つけても、そんなに驚嘆しないだらう。ニツポンのフジヤマを、あらかじめ憧れてゐるからこそ、ワンダフルなのであつて、さうでなくて、そのやうな俗な宣伝を、一さい知らず、素朴な、純粋の、うつろな心に、果して、どれだけ訴へ得るか、そのことになると、多少、心細い山である。低い。裾のひろがつてゐる割に、低い。あれくらゐの裾を持つてゐる山ならば、少くとも、もう一・五倍、高くなければいけない。・・・・と(※15:「太宰治 富嶽百景 - 青空文庫」より)。
「頂角」は、三角形の底辺に対する角。二等辺三角形では、等辺でない辺に対する角のこと。太宰は、「陸軍の実測図によつて東西及南北に断面図を作つてみると、東西縦断は頂角、百二十四度となり、南北は百十七度である。」と書いているが、以下参考の※16:「富士が聳えて見える方角の調査結果」では、どの地点から見る富士が最も聳えて見えるか、あらゆる角度から写真を撮り、分度器で計測したところ。大体113度〜130度の範囲にあるという。確かに、太宰が云うように、「たいていの絵の富士は、鋭角である」。太宰に言わせると「北斎にいたつては、その頂角、ほとんど三十度くらゐ」と云うから、恐らく、『富嶽三十六景』の「凱風快晴」の富士を言っているのだろう。もし、同じ方角から撮った写真の富士山を、パソコンなどで、北斎の「凱風快晴」の富士の鋭角に合わせて作り直してみたら随分とおかしなものになるだろう。
浮世絵は、やはり浮世のことなので、富士山の「頂角」を過小に描き、スラリと、美しく描いたということだろう。それが写真との違いだろう。
御坂峠の天下茶屋は富士の名所として知られており、茶屋からも河口湖に抱かれた見事な富士を見ることができる。しかし太宰は、いかにも典型的な富士の姿を見て、「風呂屋のペンキ画だ」と馬鹿にする。なかなか執筆がはかどらない中、太宰は茶屋の人々や、あるいは峠の下の町から太宰を訪ねてきた若者などと交流して行くうちに、彼は、その時々に、新たな富士の表情を発見し、やがて彼は、いつも変わらずそこに佇む素朴な姿の富士に頼もしさを感じるようになる。
そういえば、銭湯と聞くと富士山の壁絵を思い浮かべる人は少なくはないと思われるが、Wikipediaによれば、その歴史はそんなに古いものではなく、1912(大正元)年に東京神田猿楽町にあった「キカイ湯」の主人が、画家の川越広四郎に壁画を依頼したのが始まりで、これが評判となり、これに倣う銭湯が続出し、銭湯といえばペンキ絵という観念を生じるに至ったという。なお、正確には東日本、特に関東地方の銭湯に特有のものであり、西日本の銭湯では浴槽が浴室の中央に設計されることが多いこともあり、壁面にペンキ絵はほとんど無いという。
富士山は万葉の昔から 「不二山」 「不尽山」 と書かれ、日本人の憧れと崇高を集める「信仰の山」 であった。秀麗な山容の富士山は文化的・歴史的・宗教的にみても,、日本人にとっては欠く ことのできない, まさに, 「心のふるさと」 「誇りの山」 であった。しかし、 東京オリ ンピックが開催された1964(昭和39) 年に、山梨県側の富士山5合目まで車で容易に行く ことができる 「富士スパルライ ン」(富士山有料道路)が建設されて以降、現在の富士山は, 「観光の山」 に変容している。
又、建設にあたり道路の造りやすさが優先されたことから、貴重な原生林が伐採され、道路周辺の山肌に大きな傷も残り、辺の木々 の立枯れが進み, 土砂災害の頻繁な発生や、生態系への悪影響な ど、富士山の環境に与えるダメージも甚大なものとなっているという。その後, 環境悪化の再生に30年以上の歳月 と多くの税金が投入され、富士山を愛するボランティア達の努力により、5合目以上のゴミ・し尿問題などはほとんどなくなり、何とか、2013(平成25)年6月22日、ユネスコ世界遺産委員会が開かれ、富士山の世界遺産登録が決定した。
しかし悲しいことに、山麓部へのごみの不法投棄等は今も続いており、夏のピーク時の登山者受け入れ態勢も決して十分とは言えない状況であり、また、ごみ問題のほかにも、登山者の安全対策、景観整備、開発の抑止など課題はまだまだ多く残っていると聞く。
ユネスコから世界遺産登録を受けた富士山。本来あるべきは自然遺産としての登録であったが、このような環境問題等もあり、文化遺産として登録された。
その文化を育んできたのが美しい自然であることは間違いないが、富士山を「日本の象徴」、「日本人の心の原風景」として、何時まで守り続けられるであろうか。世界遺産にとうろくされたところには、どっと観光客が押し寄せている。維持管理費がかかるとの理由で、多額の入山料や、入場料を徴収しようとしているところが増えている。今まで、自然や、文化をを愛し、ルールを守り、環境を守ってきた人達にとっては本当にいい迷惑だろう。「世界遺産登録の取り消し」・・・なんて、ことにだけはなってほしくないよあ〜。
それと、1707(宝永四)年10 月 28 日、宝永東海地震が発生した時に起きた宝永大噴火以降現在まで、富士山の噴火(※17参照)は起こっていないが、近い将来、起こる可能性が高いという。この様な大自然の災害に対して、人の力で予防できることは限られているだろうから、これは、怖いな〜。(冒頭に掲載の画像は、宝永山と宝永第一火口.。Wikipediaより。)
※1:日本記念日協会
http://www.kinenbi.gr.jp/
※2:山の展望と地図のフォーラム - FYAMAP
http://fyamap.jizoh.jp/
※3:国立公園-環境省
https://www.env.go.jp/park/index.html
※4:富士山の日(毎年2月23日) [富士河口湖町] - 富士河口湖町役場
http://www.town.fujikawaguchiko.lg.jp/info/info.php?if_id=442
※5:02月23日静岡県/富士山の日
http://www.pref.shizuoka.jp/bunka/bk-223/fujisannohi/top.html
※6:山梨県/富士山の日
https://www.pref.yamanashi.jp/kankou-sgn/fujisannohi.html
※7:山梨県立博物館かいじあむ:富士山
http://www.museum.pref.yamanashi.jp/2nd_fujisan.html
※8:世界遺産富士山
http://www.fujisan-3776.jp/index.html
※9:浮世絵に聞く!
http://ukiyoe.cocolog-nifty.com/
※10:千人万首 目次
http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin_f.html
※11:広重東海道五十三次の 成立
http://koktok.web.fc2.com/hom_page/53Travel/yobi/53hiro2.htm
※12:四日市の館:広重&北斎の東海道五十三次
http://asake.sakura.ne.jp/02asake/ukiyoe/8.html
※13:【雑学】太宰治、パビナール中毒、精神病院: ぽん太のみちくさ精神科
http://ponta.moe-nifty.com/blog/2007/12/post_4835.html
※14:御坂峠|天下茶屋
http://www.tenkachaya.jp/
※15:太宰治 富嶽百景 - 青空文庫
http://www.aozora.gr.jp/cards/000035/files/270_14914.html
※16:富士が聳えて見える方角の調査結果
http://mohsho.image.coocan.jp/fugakuhyakukei3.html
※17:富士火山噴火:災害の教訓- 内閣府防災担当(Adobe PDF)
http://www.bousai.go.jp/kyoiku/kyokun/kyoukunnokeishou/14/pdf/shiryou4.pdf#search='%E6%9D%B1%E6%B5%B7%E9%81%93%E4%BA%94%E5%8D%81%E4%B8%89%E6%AC%A1+%E9%8E%8C%E5%8E%9F+%E5%AF%8C%E5%A3%AB'
東海道五拾三次-国立国会図書館デジタル化資料
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1302479?tocOpened=1
浮世絵のアダチ版画
https://www.adachi-hanga.com/ukiyo-e/category/8
富士登山オフィシャルサイト
http://www.fujisan-climb.jp/
富士山 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%8C%E5%A3%AB%E5%B1%B1