日本記念日協会(※1)へ登録の今日・3月24日の記念日に「人力車発祥の日(日本橋人力車の日)」がある。
1870(明治3)年3月24日、人力車の発明グループの3人(鈴木徳次郎、高山幸助、和泉要助)に、東京府より人力車の製造と営業の許可がおり、日本橋のたもとから営業を始めたことから、人力車の営業活動を行っている「くるま屋日本橋」(※2)が制定したそうだ。
人力車は最近各地の観光地やイベントなどで人気があり、また環境を考える乗り物として評価が高いという。「くるま屋日本橋」では、東京の日本橋まつりなどに参加し、人力車の魅力をアピールしているそうだ。
”日本橋まつり”・・・?私は関西の人間だが、若い頃仕事の関係で5年ほど東京に住んでいたのだが”日本橋まつり”・・というのは聞いたことがないのでよく知らない。それで、ネットで検索したら日本橋、京橋間の中央通りと八重洲通りに面した商店、会社、 ビル、 近隣企業などで構成している商店街・東京中央大通会 による日本橋・京橋まつり実行委員会(※3)の主催で毎年10月に開催している”日本橋上を通過する唯一のパレード”のことらしい。
昨年で第41回目を迎えたらしいが、そうであれば、私はもう関西へ帰っていたのでその数年後に始まったようだ。昨年の「第41回日本橋・京橋まつり」のパレードの様子は以下でわかる。よく見ていると確かにパレードには人力車に乗っている人が見られる。
「第41回 日本橋・京橋まつり」開催 - YouTube
さて、人力車のことについては、このブログでは、4年前の2010(平成22)年03月22日に「歴史」の項目で「東京府(現在の東京都)が人力車の営業を許可(?から?)」のタイトルで、人力車の歴史、それと、人力車の俥夫(しゃふ)の生活実態等について2ページ続きで結構詳しく書いた。
ここ(2ページあります)→東京府(現在の東京都)が人力車の営業を許可(?から?の?)
今日はまた同じようなことを書くのは嫌なのだが、このような話は自分が好きなので、多少、前と重複するところもあるが、今回は視覚面を重視して別の切り口で書いてみようと思う。ただ、今日は、日本橋との関連で書こうと思うが、それを退屈と思う人は、前に書いたブログを見てもらうなり、また中間を飛ばし、このページ中断ぐらいから人力車の話題のところへ行ってください。
「日本橋」とは、東京都中央区の日本橋川に架かる橋であり、本橋は、江戸時代(1604年=慶長9年)から日本全国へ続く五街道の起点となり、以降、江戸の中で最も賑わう場所として、浮世絵による風景画に描かれることが多くなる。
明治政府により編纂が始められた類書(一種の百科事典)『故事類苑』(※4)に「江戸ハ武藏國ノ一部ニシテ、其地名ハ鎌倉幕府時代ヨリ既ニ史乘ニ見エタリ」(※4:「古事類苑」地部/附江/名稱参照)とあるように古くは武蔵国豊島郡の一部であったが、平安末期、秩父平氏の一族江戸氏が今の皇居の地(東京・千代田区)に居館を造り、室町時代、上杉氏の将太田道灌が江戸城を築いてから城下町として発達、さらに1590(天正18)年徳川家康が入城して以来、幕府の所在地として繁栄した。
「江戸」の地名の由来は諸説あるが、「江」は「おおきな川」あるいは「入江」とすると、「戸」は「入口」を意味することから「江戸」とは、「江の入り口」つまり「河口」に開けた地と考える説が有力である。
当時の江戸は、武蔵国と下総国の国境である現在「隅田川」と呼ばれている川(もともとは荒川水系の入間川の下流部)の河口の西に位置し、日比谷入江と呼ばれる入江が、後の江戸城の間近に入り込んでいた。そして、現在の東京大学がある本郷台地は南に伸びて東京湾に突きだして半島のような「江戸前島」を形成していた。
その後、1590(天正18)年に江戸に入った家康は、江戸城へ物資を運ぶ船入り堀として、江戸前島の北端を両断するように「道三堀」を造築し、日比谷入江に注いでいた「平川」を道三堀につないで流路を変更し、現在の日本橋川の原型をつくった。 又、開削で出た土砂で日比谷入江が埋め立てられ町割りがなされた。当時の「江戸の原型と神田川の流路」は以下参考の※5:を参照されるとよい。
江戸前島の平川河口につくられていた現在の東京港の前身となる江戸湊は、江戸庶民に必要な消費物資の流通拠点として近世海運史上重要な役割を果たした。
中央区の地名の由来は東京23区のほぼ中央に位置することから、同区の区章は、お江戸の日本橋・京橋の欄干の擬宝珠をデザインしたもの(ここ参照)。中央の小円は日本と東京の中心を表しているという(1948(昭和23)年7月31日制定)。
区域の西側は江戸時代には日本橋や京橋など下町として栄えた地域であり、東側は同時代からの埋め立てによって出来た地域である。
現在の中央区の町名には旧日本橋区の区域にある街の町名は「日本橋○○町・○日本橋」と称している(八重洲を除く)。これは戦後、旧日本橋区と旧京橋区が合併する際に「日本橋」の町名が消えることを避けるために、旧日本橋区の町名に日本橋を冠したことによる。それだけ、江戸以来庶民に愛されている日本橋。そ後に架けられた橋は、一都市である江戸の象徴という範疇を超えて、日本の中心地として認識されていくようになった。
日本橋は『慶長見聞集』巻二「一里塚つき給ふ事」に「日本橋は慶長八癸卯の年、江戸町わりの時節、新敷出來たる橋也」「日本橋を一里塚のもとヽ定め、三十六丁を道一里につもり、是より東のはて西のはて、五畿七道殘る所なく一里塚をつかせ給ふ」(※4:「古事類苑」地部/附江/名稱参照)とあるように1603(慶長8)年徳川家康の全国道路網整備計画に際して初代の橋(木造)が架けられ、翌1604(慶長9)年五街道の基点となる。そして、現在も日本の道路網の始点であることを示す道路元標が日本橋の中央に埋め込まれている。
この橋の下を流れる平川(明治以後に道三堀の西半分と外濠[現在の外堀通り]が埋め立てられた結果、残った流路が現在は日本橋川となっている)は、江戸湊、隅田川と江戸の城下町とを結ぶ水運の動脈で、多種多様の船がひきもきらず、『江戸砂子』一に「北の橋詰室町一丁目、此西側を尼店と云、尼崎屋又右衞門拜領やしきなれば也、ぬり物見世なり、此所に前店とて、庇より又庇をさしくたして見世をかまへ、荷馬の具、其外小間物を商ふ、東の方河岸は大船町也、肴店にて毎日魚市立、」(※4:「古事類苑」地部/附江/名稱参照)とあり、両岸の河岸地には蔵や魚市があり江戸の水上物流の要として賑わった。もちろん、諸街道の基点でもあり、陸上交通の拠点でもあった。橋の規模は、全長28間(約51m)、幅4間2尺(約8m)だった。
上掲の画像は、国立歴史民俗博物館展示の17世紀前半の江戸の町の様子がわかる屏風絵『江戸図屏風』(六曲一双。※6参照)の部分であるが、『江戸図屏風』そのものは江戸幕府3代将軍徳川家光の行ったことを讃える為に描かれたと言われている。この部分は左隻第2扇最下段部分の、“日本橋、日本橋高札場、小網町、江戸の町屋(本小田原町の魚店)、江戸下町の河岸(米俵の荷揚げ)”などを描いている。
又、上掲の画像は、『江戸図屏風』左隻第2扇最下段部分の更に擬宝珠を飾った日本橋の拡大部分である。
この絵が示すようにすでに擬宝珠つきの反り橋が描かれており、橋周辺の賑わいをみることができる。擬宝珠は、橋の格を表すものであり、江戸城内廓(「城廓」)と市街とを結ぶ廓門橋(見付 御門)の他江戸市中で擬宝珠を飾った橋は、東海道筋の日本橋、京橋、新橋の3橋だけであったという。
又、上掲の画像も、同じく「江戸図屏風」左隻第2扇最下段部分の日本橋高札場の描かれた部分の拡大図である。
幕府は人々の往来の激しい地点や関所や港、大きな橋の袂、更には町や村の入り口や中心部などの目立つ場所に高札場(制札場)と呼ばれる設置場所を設けて、諸藩に対してもこれに倣うように厳しく命じたが、人通りの多い日本橋南詰には、高札場が置かれているのが分かる。高札の立てられている柵の向こう側に小さな小屋のように見えるものが、「晒し場」(「さらし首場」)だろう。晒刑では、主殺し、女犯僧、心中者などの犯罪者がそこにつながれ生き恥を晒された。
この『江戸図屏風』全体を見たければ以下参考の※6:「国立歴史民俗博物館-江戸図屏風 〔高精細画像順次拡大版〕」を覗かれるとよい。 各部分の説明付きで拡大図を見ることが出来る。また、出光美術館所蔵の同時代の八曲一双の『江戸名所図屏風』(参考※7)でも大きな画像で見られる。
この木造の日本橋は、明暦の大火(1657年)により全焼。江戸は火事が多く、江戸幕府開府から幕末に至るまでの間に幾度も焼け落ち再建されるが、現在の石造二連アーチ橋が架けられたのは、1911(明治44)年4月3日のこと。今から103年前のことである。
ルネッサンス様式の石橋は太平洋戦争の戦火にも耐えて、当時の姿を今に伝えており、現代でも近代東京の名建造物のひとつだが、今日では橋の上に首都高速都心環状線が造られているため、残念ながら景観は往時のものとは異なる風情となってしまっている。
少々前口上が長くなってしまったがここから本題の「人力車」の話に入る。
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1858年7月29日(安政5年6月19日)に締結された日米修好通商条約(安政五ヶ国条約)に基づき翌・1859年7月1日(安政6年6月2日)に武蔵国久良岐郡横浜村(横浜市中区の関内付近)に横浜港が開港後、さまざまな近代的な交通手段が登場したが、陸上交通の近代化は馬車から始まった。
江戸時代の日本では馬車を含む車の利用は京(京都)における牛車(ぎっしゃ)や、幕末期に主要な街道や江戸で荷車が使われた以外ほとんど利用されなかったが、横浜開港後、外国人が馬車を開港場に持ち込むようになると、物珍しさも手伝ってか馬車は大きな話題になった。ただ、その利用は外国人に限られ、一般の日本人が馬車を利用することはほとんどなかったが、こうした状況が大きく変化したのは明治維新後、京浜間で乗合馬車の営業が始まってからのことだ。
この馬車路線が開設された直後に人力車も実用化され、横浜と東京を結ぶ東海道では馬車や人力車を見ることが珍しいことではなくなった。
人力車とは、人をのせ、車夫がひいて走る一人乗りもしくは、二人乗りの二輪車であり、俥(くるま)。腕車(わんしゃ)。人車(じんしゃ。くるま)。力車(りきしゃ)とも呼ばれ、これを曳く車夫は俥夫(しゃふ)とも書き、また車力(しゃりき)とも言った。
その人力車の日本での発明には諸説あり、本当のところはよくわからないらしいが、広辞苑にも、和泉要助、鈴木徳次郎、高山幸助らの発明と書かれており、又、私の蔵書週間朝日百科 「日本の歴史」106号近代1−?博覧会の“明治の発明品“の中にもこの3人により1870(明治3)年に発明されたと書かれているので、どうもこの3人による共同事業であったらしい。
上掲の画像は同書に掲載されていた絵(国立資料館蔵)を部分カットしたものであるが、その絵には”神田の俥屋らしい”との添え書きがあった。今観光地などで見られるものとは大分様子が違い大八車に四柱を立て屋根を付けたものだ。
日本で発明された人力車は、それまで使われていた駕籠より速かったのと、当時馬よりも人間の労働コストのほうがはるかに安かったことから、すぐに人気の交通手段になったようだ。ここらの事情は、先にも紹介したように以前このブログ東京府(現在の東京都)が人力車の営業を許可(?から?の?)で詳しく書いているでそこで見てほしい。
当時としては文明開化の象徴でもあった「人力車」は、日本橋の高札場の横で営業 を開始して、あっという間に全国に広まったようだ。
もっとも、京浜間で馬車や人力車が盛んに使われたのは鉄道が開通(日本の鉄道史参照)するまでの短期間だったが、馬車にせよ人力車にせよ、当時の人々は現在のタクシーやバスを利用するような感覚で頻繁に利用していたことは間違いない。
.それでは、江戸のランドマークであり、今も変わらず注目されている日本橋とそこに人力車のある光景を、以下参考※8に掲載の「「国立国会図書館のデジタル化資料」日本橋・駿河町の錦絵」より眺めてみよう。
上掲の画像は、歌川芳虎画「東京日本橋風景」大判錦絵 3 枚続 1870(明治3)年のものである。これ以降掲示するものについて、同ページへアクセスすると原寸大まで拡大して美麗画像が見られる。拡大図とあるところをクリックしてください。
歌川芳虎 東京日本橋風景(明治3年)拡大図この画像には、先で紹介した国立歴史民俗博物館-『江戸図屏風』と同じように日本橋の高札場が描かれているが、17世紀前半の家光の時代のもであり、高札場は平地に柵で仕切られた中に立てられている。Wikipediaによれば、「高札は1874(明治7)年に廃止が決定され、2年後には完全に撤去され」とあるが、1870(明治3)年に描かれたというこの絵では石垣の高いところに表示されており、文明開化の速かった東京では、もう、名ばかりのもの、観光名所程度になっていたのではないか。その高札所の横に「人力車」の絵を描いたのぼりを立てた人力車の営業所のようなものが見える。この作品は人力車の営業許可が下りた年のものであり、人力車も、前段に掲載の絵(国立資料館蔵)と同じく、大八車に四柱を立て屋根を付けたものだ。ここが今でいうタクシー乗り場的な場所になっていたのだろう。絵には、絵師の空想も含まれているかもしれないが、人力車や馬車(日本人の営業用のものも見える)他、外人が乗っている自転車とは違って、編笠をかぶった着物姿の日本人が乗っている自転車は木製のような感じであるなど、さまざまな乗り物が描かれていておもしろい。兎に角、二輪車・三輪車の登場する錦絵としては最初のものといわれている。上掲の画像では向かって右端、アクセスした先で画像が逆に配置されているので注意)。
同じく歌川芳虎の1872(明治5)年に描いた以下の絵を見てください。
拡大図
この絵には、日本橋の前を人力車に乗って通り好きようとしている夫人の図が描かれているがその向こうには日本橋三井組ハウスが見える。
この建物「三井組ハウス」は、幕府御用を務め、王政復の発令を経て維新政府の為替方として業界の首位に立っていた三井組は、1868(明治1)年が、新政府の金融事務を命ぜられ、御為替方三井組の名で担当し、当時明治政府を全面的に支えていた。そんな三井組が独自に商業銀行を立ち上げるべく1872(明治5)年、現在の中央区日本橋1丁目及び兜町にかかっていた海運橋際に建設したもの。1873年8月1日に営業を開始した日本初の商業銀行である総工費は約4万7千両、5層の洋館は頂上部に展望台である「物見」が据えられ、世間の話題を集めたという。後に第一国立銀行となる。現在みずほ銀行兜町支店のビルの壁には「銀行発祥の地」のプレートが埋め込まれている。(設立の事情は※9参照)。
「上掲の画像は、兜町の「三井組ハウス」。Wikipediaより。
上の画像は歌川芳虎によって1974(明治7)年に描かれた駿河町の三ツ井正寫(しやううつし)の図である。
拡大図
この絵にも三井呉服店(現三越)と共に、為替バンク三井組が描かれている。
三井組と同じく、く小野組、そして、明治政府も銀行の設立を目指していた。大蔵省で国立銀行の準備にあたっていた渋沢栄一より、三井・小野両組合共同での設立を提案(強要)された三井は、共同経営を避けたかったが、やむなく「三井小野組合バンク」を設立。さらに政府の要求により、三井組は完成したばかりの「海運橋三井組ハウス」を政府に譲渡させられた。
こうして、1873(明治6)年、三井・小野両組合合作の日本初の銀行国立銀行条例による国立銀行第一国立銀行(民間経営)が発足する。渋沢はこの時この銀行の総監督に収まっている。その後いろいろなことがあり、小野組が破綻。三井組は第一国立銀行を三井の銀行とすることを企図するが、渋沢は逆に同行を三井組からの支配から独立させ組織改正を提唱。それでも銀行設立を諦めず、三井組は第一国立銀行から手を引き、1874(明治7)年、三井の本拠地である日本橋駿河町に、銀行業務を行う3階建ての洋館「駿河町為替バンク三井ハウス」を建設。それが、上掲の中央の建物である。屋上にシャチを乗せた瀟洒な洋館には「為替バンク三井組」の看板を掲げた。
この後、1876(明治9)年7月遂に明治政府から認可を得て日本初の民間銀行「三井銀行」が開業することになる。(複雑な設立の事情は※9参照)。
屋根の上に大鯱(しゃちほこ)がひときわ目立つこの3階建て建物は、総建坪620坪(約2,050m2)、地上から鯱の頂上までの高さが80尺(約24m)あるという。外観は木造漆喰塗りのいわゆる土蔵造りで、アーチ形の扉や1・2階のベランダ、3階正面のバルコニー、ポーチとベランダのコリント式列柱などにより、海運橋に建つ第一国立銀行に増して洋風色が濃く表れている。・・・と、参考※10にも書いているように、建物とは、時代や文化、人々の思いを映し出す器であるが、文明開化の一つの象徴ともいえる「為替バンク三井組」は当時、その代表格であったことに間違いないだろう。
この下の画像は、三代広重が1875(明治8)年に駿河町三井銀行になってからのものを正面から描いたものである。
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この下は、二代歌川国輝による日本橋電信局(東京格大区之内)の図である。
拡大
この絵には、人力車に乗った夫人二人が横から飛び出してきた猫らしき動物に驚いた車夫が車を止めたのでびっくりした様子が描かれている。
電信柱が立っている横の建物が日本橋電信局だろう。
明治維新後の1869(明治2)年英国の通信技師を招き、横浜灯明台役所(灯台づくりの拠点とした役所。試験灯台が出来た後は灯台勤務者の訓練所となる)から横浜裁判所までに日本で初めての電信回線を開通させ、同年末には東京築地(明石町)の運上所(現・東京税関)から横浜裁判所までの電信事業が発足した。
1872(明治5)年5月には日本橋の晒場のあった南詰東側に日本橋電信局が開設され、築地から電信線が延長された。両国・浅草橋の電信局も、これと同時に開業したようだ。
以下に掲載されている郵政博物館所蔵の絵を見ると日本橋電信局の全体像が分かる。面白いことに、このころの橋では、人力車などが渡る道と人が渡る道が区別されている。それだけ、人通りが多く、また、人力車の通行も多いことから、危険防止を考えてのことだろう。
東海名所改正道中記 電信局 日本橋 新橋迄十六町 文化遺産オンライン
この下の画像は紅英斎が1882(明治15)年に描いた日本橋京橋間の銕道馬車の様子である。
拡大
紅英斎という人物についてはよくわからないが、銕道馬車の横を多くの馬車や人力車が競うように走っている。これ以上錦絵のアップはしないが、以下のサイト「大江戸データベース - 東京都立図書館」では、「東京銀座煉瓦石繁栄之図・新橋鉄道蒸気車之図」(明治6年、歌川国4代)、「東京八ツ山下海岸蒸気車鉄道之図」(歌川広三3代)明治4年)、「東京銀座要路煉瓦石造真図」(歌川国輝2二代明治6年)、「東京名所之内銀座通煉瓦造鉄道馬車往復図」(歌川広重3三代明治15年)、など時代とともに発展する東京の町で活躍している人力車の姿が大きな拡大画像が説明付きで鑑賞できる。
大江戸データベース - 東京都立図書館
また下の「鉄道錦絵 - 物流博物館」では、「東都高縄蒸気車往来之図」歌川芳虎・立祥([2代]明治4年)、「東京名勝高縄鉄道之図」(歌川広重3代、明治4年)、「京高輪真景蒸気車鉄道之図 」(歌川広重3代、明治6年)、「東京品川海岸蒸汽車鉄道之図」(歌川広重3代明治6年)、「六郷川蒸気車往返之全図」(歌川広重3代、明治4年)の絵に人力車が描かれている。
鉄道錦絵 - 物流博物館
私など、人力車と言えば、阪東妻三郎主演の映画『無法松の一生』(大映・1943年版,白黒)が思い浮かぶ。
上掲の画像は阪東妻三郎主演映画「無法松の一生」DVD
映画は、1897(明治30)年、九州小倉の古船場に博奕で故郷を追われていた人力車夫の富島松五郎が、昔ながらの“無法松"で舞戻ってきて、芝居小屋へ同僚の熊吉と行き、桝席の中で酒のつまみに炭でニンニクを焼いていて人に迷惑をかけ大混乱となるが、そこに現れた地元を取り仕切る侠客の結城重蔵に仲裁され侘びを入れるところから始まる。
その後、友人となった矢先、急病死した陸軍軍人・吉岡の遺族であるか弱い(未亡人・良子と幼い息子・敏雄)の将来を思い、身分差による己の分を弁(わきま)えながらも、無私の献身を行う無法松と、幼少時は無法松を慕うも長じて(自身と松五郎の社会的関係を外部の視点で認識するようになったことで)齟齬(そご)が生じ無法松と距離を置いてしまう敏雄、それでも無法松を見守り感謝の意を表し続けてきた良子との交流と運命的別離・悲しい最後の場面などが描かれている。
再映画化された東宝・1958年版の三船敏郎主演による映画も良かったが、やはりあのような時代背景の中での武骨な明治男の役柄は、同じ明治生まれの阪妻の方がずっと味があった。
余談だが、先日、SMAPの木村卓也が2夜連続のテレビ時代劇「 宮本武蔵」を演じていたが、私も彼は嫌いじゃないので、少し見かけたが、最初から、余りにも様になっていので、もう見なかった。誰が企画したのか知らないがよくも彼にあのような役をやらせたものだ。今アメリカでは西部劇映画を演じられる役者がいないから西部劇を作らないと言われているが、日本でも時代劇を演じられる役者は数少なくなてしまった。それを木村卓也にやらせた。可愛そうに、彼もこれで値打ちを下げたのではないか。三船は時代劇好きの私にとっては大好きな俳優だし、大根役者ではないけれど、やはり無法松のような役では阪妻にかなわなかった。
無法松の映画でも見られたように、人力車の俥夫(しゃふ)の身分は明治時代には低くみられていた。
前のブログでも書いたことだが、1873(明治6)年に、「僕婢馬車人力車駕籠乗馬遊船等諸税規則」が告布されたが、これは財源不足に苦しむ明治政府が歳入増加のため、僕稗を召し使う者や、馬車・人力車などを所有する者に課税したもので、一種の奢侈税であったが、この規則に書かれている「僕碑」(ぼくひ)は、「下男」などをさしていうが、「婢」という用語は、身分の低いことや卑しいことを指しており、今で言う差別用語の1つである。何故、人力車の車夫などを「僕婢」などと呼んでいるのだろう。
先にも書いたが、馬車を引く馬の代わりに人が車を引く。この単純で原初的な都市内交通機関である人力車は、技術も不要であり、当時貧民街に住む下層民には手頃な職業であり、その大部分は車を借りての営業形態であったため、東京では日清戦争期に約4万人余りにまで増加したという。今のアジアでも最も貧しい人達の代表的な職業のようであるが、当時の日本も同じ状況で、車夫こそ当時の女工と並んで明治の低賃金労働の代表だったようだ。そのうえ、貧乏人に対する差別意識は、現在よりはるかに強く、乞食や細民は人間でないかのごとくに扱われていた。だから、僕碑」(ぼくひ)などと言われていたのだ。
このような人力車夫を描いた映画として、もう1つ私の記憶に残る映画があった。織田作之助原作で、川島雄三監督の映画『わが町』。1956 (昭和31) 年の古いモノクロ映画である(※11参照)。
映画は織田が育ったといわれる大阪の河童路地を舞台に、不撓不屈の精神で人力車引きをしながら孫娘を育てあげる男・佐渡島他吉の、明治・大正・昭和にわたる波瀾万丈の生涯を描いた一代記である。
佐度島他吉を演じたのは島田正吾と共に、劇団新国劇の屋台骨を支えた辰巳柳太郎である。
「国元への送金も思うようにならず、これではいったいなんのために比律賓(フィリピン)まで来たのかわけが判らぬと、それが一層「ベンゲットの他あやん」めいた振舞いへ、他吉を追いやっていたが、やがて「お前がマニラに居てくれては……」かえってほかの日本人が迷惑する旨の話も有力者から出たのをしおに、内地へ残して来た妻子が気になるとの口実で、足掛け六年いた比律賓をあとにした。
神戸へ着いて見ると、大阪までの旅費をひいて所持金は十銭にも足らず、これではいくらなんでも妻子のいる大阪へ帰れぬと、さすがに思い、上陸した足で外人相手のホテルの帳場をおとずれ、俥夫に使うてくれと頼みこむと、英語が喋れるという点を重宝がられて、早速雇ってくれた。
給料はやすかったが、波止場からホテルへの送り迎えに客から貰うチップが存外莫迦にならず、ここで一年辛抱すれば、大阪へのよい土産が出来る、それまではつい鼻の先の土地に妻子が居ることも忘れるのだ、という想いを走らせていたが、三月ばかり経ったある日、波止場で乗せた米人を、どう癪にさわったのか、いきなりホテルの玄関で、俥もろともひっくりかえし、おまけに謝ろうとしないのがけしからぬと、その場でホテルを馘首になった。
その夜、大阪へ帰った。六年振りの河童路地(がたろろじ)のわが家へのそっとはいって、
「いま、帰ったぜ」
しかし、返事はなく、家の中はがらんとして、女房や、それからことし十一歳になっている筈の娘の姿が見えぬ。
不吉な想いがふと来て、火の気のない火鉢の傍に半分腰を浮かせながら、うずくまっていると・・・・」(※12 :「青空文庫-織田作之助 わが町」よりの抜粋である)。
1906(明治39)年、フィリピンのベンゲット道路建設に働く佐度島他吉は警官と争ったため追放されるが、そんなフィリピンのペンゲット道路で過酷な労働にたえたことを人生の誇りにしている他吉は、そのせいで妻と、男手ひとりで育てた娘と夫を死なせてしまう。
そしてさいごには、他吉はフィリピンでしか見れない思い出の南十字星を四ツ橋のプラネタリウム(日本ではじめてプラネタリウム[ ドイツ製カール・ツァイス]II型。現在は大阪市立科学館に展示されていて、大阪市有形文化財に指定されている。※13参照)で見ながら死んでゆくという筋立てである。
この他吉の口ぐせは「人間はからだを責めて働かなあかん」・・・・である。
時代の移り変わりにもかかわらず、頑固に俥をhひき続ける他吉を演ずる辰巳も明治時代の武骨な男のよく似合う役者であり、無法松を演じた阪妻を思わせて素晴らしく、特に人力車を引く姿は思わずダブってしまう。
上掲の画像は、映画「わが町」のDVDの判妻。
運送手段としての人力車は、馬車や鉄道、自動車の普及により、都市圏では1926(昭和元)年頃、地方でも1935(昭和10)年頃をピークに減少し、戦後、車両の払底・燃料難という事情から僅かに復活したことがあるが、現在では一般的な交通・運送手段としての人力車は存在していない。
上掲の画像は、マイコレクションより、我が地元神戸出身の木版画家川西英の版画による絵葉書で、神戸港の風景。外人観光客らしい4人が人力車に乗っている。昭和前期の作品だろう。
映画「わが町」の主人公他吉は、フィピンから神戸へ着いて外人相手のホテルの帳場をおとずれ、俥夫に使うてくれと頼み込んで、英語が喋れることから、早速雇ってもらった。給料は安かったが、波止場からホテルへの送り迎えに客から貰うチップが存外莫迦にならず結構稼いだとある。
無法松などとは違い他吉は頭が良い。戦前までの神戸港は日本を代表する港であり、港には外国船がひっきりなしに着いた。外国人の観光客も当然多かった。そんな外国人はチップをくれる習慣がある。いいところに目を付けたものだ。
現在人力車は主に観光地での遊覧目的に営業が行われている。Wikipediaによると、観光に人力車を復活させた元祖は鎌倉の現在の有風亭(※14)であり、テレビ番組等で度々紹介されて各地に普及したという。当初、京都といった風雅な街並みが残る観光地、又は浅草などの人力車の似合う下町での営業が始まり、次第に伊豆伊東、道後温泉といった温泉町や大正レトロの街並みが残る門司港、有名観光地である中華街などに広がっていったそうだ。
明治時代は、仕事がなく収入も少なく、余り良くみられていなかった人力車夫の仕事。豊かになった今の日本では、これで結構いい稼ぎになるのだろうか?
私にはわからないが、昔と違って今の人力車は性能もよくなり、車も楽にひけるようになり、今の若い人の感覚では、レトロブームで、結構恰好いい仕事の一つでもあるのだろう・・・・ネ。
(冒頭の画像は、マイコレクションより、和歌山県 加太淡嶋神社で客待ちする人力車夫。絵葉書には、司令部許可とあり、、加太にも要塞があったので、戦前の要塞地帯では出版物や写真などは、在地司令部の許可を必要とした。このような写真まで・・・)
参考のページへ
1870(明治3)年3月24日、人力車の発明グループの3人(鈴木徳次郎、高山幸助、和泉要助)に、東京府より人力車の製造と営業の許可がおり、日本橋のたもとから営業を始めたことから、人力車の営業活動を行っている「くるま屋日本橋」(※2)が制定したそうだ。
人力車は最近各地の観光地やイベントなどで人気があり、また環境を考える乗り物として評価が高いという。「くるま屋日本橋」では、東京の日本橋まつりなどに参加し、人力車の魅力をアピールしているそうだ。
”日本橋まつり”・・・?私は関西の人間だが、若い頃仕事の関係で5年ほど東京に住んでいたのだが”日本橋まつり”・・というのは聞いたことがないのでよく知らない。それで、ネットで検索したら日本橋、京橋間の中央通りと八重洲通りに面した商店、会社、 ビル、 近隣企業などで構成している商店街・東京中央大通会 による日本橋・京橋まつり実行委員会(※3)の主催で毎年10月に開催している”日本橋上を通過する唯一のパレード”のことらしい。
昨年で第41回目を迎えたらしいが、そうであれば、私はもう関西へ帰っていたのでその数年後に始まったようだ。昨年の「第41回日本橋・京橋まつり」のパレードの様子は以下でわかる。よく見ていると確かにパレードには人力車に乗っている人が見られる。
「第41回 日本橋・京橋まつり」開催 - YouTube
さて、人力車のことについては、このブログでは、4年前の2010(平成22)年03月22日に「歴史」の項目で「東京府(現在の東京都)が人力車の営業を許可(?から?)」のタイトルで、人力車の歴史、それと、人力車の俥夫(しゃふ)の生活実態等について2ページ続きで結構詳しく書いた。
ここ(2ページあります)→東京府(現在の東京都)が人力車の営業を許可(?から?の?)
今日はまた同じようなことを書くのは嫌なのだが、このような話は自分が好きなので、多少、前と重複するところもあるが、今回は視覚面を重視して別の切り口で書いてみようと思う。ただ、今日は、日本橋との関連で書こうと思うが、それを退屈と思う人は、前に書いたブログを見てもらうなり、また中間を飛ばし、このページ中断ぐらいから人力車の話題のところへ行ってください。
「日本橋」とは、東京都中央区の日本橋川に架かる橋であり、本橋は、江戸時代(1604年=慶長9年)から日本全国へ続く五街道の起点となり、以降、江戸の中で最も賑わう場所として、浮世絵による風景画に描かれることが多くなる。
明治政府により編纂が始められた類書(一種の百科事典)『故事類苑』(※4)に「江戸ハ武藏國ノ一部ニシテ、其地名ハ鎌倉幕府時代ヨリ既ニ史乘ニ見エタリ」(※4:「古事類苑」地部/附江/名稱参照)とあるように古くは武蔵国豊島郡の一部であったが、平安末期、秩父平氏の一族江戸氏が今の皇居の地(東京・千代田区)に居館を造り、室町時代、上杉氏の将太田道灌が江戸城を築いてから城下町として発達、さらに1590(天正18)年徳川家康が入城して以来、幕府の所在地として繁栄した。
「江戸」の地名の由来は諸説あるが、「江」は「おおきな川」あるいは「入江」とすると、「戸」は「入口」を意味することから「江戸」とは、「江の入り口」つまり「河口」に開けた地と考える説が有力である。
当時の江戸は、武蔵国と下総国の国境である現在「隅田川」と呼ばれている川(もともとは荒川水系の入間川の下流部)の河口の西に位置し、日比谷入江と呼ばれる入江が、後の江戸城の間近に入り込んでいた。そして、現在の東京大学がある本郷台地は南に伸びて東京湾に突きだして半島のような「江戸前島」を形成していた。
その後、1590(天正18)年に江戸に入った家康は、江戸城へ物資を運ぶ船入り堀として、江戸前島の北端を両断するように「道三堀」を造築し、日比谷入江に注いでいた「平川」を道三堀につないで流路を変更し、現在の日本橋川の原型をつくった。 又、開削で出た土砂で日比谷入江が埋め立てられ町割りがなされた。当時の「江戸の原型と神田川の流路」は以下参考の※5:を参照されるとよい。
江戸前島の平川河口につくられていた現在の東京港の前身となる江戸湊は、江戸庶民に必要な消費物資の流通拠点として近世海運史上重要な役割を果たした。
中央区の地名の由来は東京23区のほぼ中央に位置することから、同区の区章は、お江戸の日本橋・京橋の欄干の擬宝珠をデザインしたもの(ここ参照)。中央の小円は日本と東京の中心を表しているという(1948(昭和23)年7月31日制定)。
区域の西側は江戸時代には日本橋や京橋など下町として栄えた地域であり、東側は同時代からの埋め立てによって出来た地域である。
現在の中央区の町名には旧日本橋区の区域にある街の町名は「日本橋○○町・○日本橋」と称している(八重洲を除く)。これは戦後、旧日本橋区と旧京橋区が合併する際に「日本橋」の町名が消えることを避けるために、旧日本橋区の町名に日本橋を冠したことによる。それだけ、江戸以来庶民に愛されている日本橋。そ後に架けられた橋は、一都市である江戸の象徴という範疇を超えて、日本の中心地として認識されていくようになった。
日本橋は『慶長見聞集』巻二「一里塚つき給ふ事」に「日本橋は慶長八癸卯の年、江戸町わりの時節、新敷出來たる橋也」「日本橋を一里塚のもとヽ定め、三十六丁を道一里につもり、是より東のはて西のはて、五畿七道殘る所なく一里塚をつかせ給ふ」(※4:「古事類苑」地部/附江/名稱参照)とあるように1603(慶長8)年徳川家康の全国道路網整備計画に際して初代の橋(木造)が架けられ、翌1604(慶長9)年五街道の基点となる。そして、現在も日本の道路網の始点であることを示す道路元標が日本橋の中央に埋め込まれている。
この橋の下を流れる平川(明治以後に道三堀の西半分と外濠[現在の外堀通り]が埋め立てられた結果、残った流路が現在は日本橋川となっている)は、江戸湊、隅田川と江戸の城下町とを結ぶ水運の動脈で、多種多様の船がひきもきらず、『江戸砂子』一に「北の橋詰室町一丁目、此西側を尼店と云、尼崎屋又右衞門拜領やしきなれば也、ぬり物見世なり、此所に前店とて、庇より又庇をさしくたして見世をかまへ、荷馬の具、其外小間物を商ふ、東の方河岸は大船町也、肴店にて毎日魚市立、」(※4:「古事類苑」地部/附江/名稱参照)とあり、両岸の河岸地には蔵や魚市があり江戸の水上物流の要として賑わった。もちろん、諸街道の基点でもあり、陸上交通の拠点でもあった。橋の規模は、全長28間(約51m)、幅4間2尺(約8m)だった。
上掲の画像は、国立歴史民俗博物館展示の17世紀前半の江戸の町の様子がわかる屏風絵『江戸図屏風』(六曲一双。※6参照)の部分であるが、『江戸図屏風』そのものは江戸幕府3代将軍徳川家光の行ったことを讃える為に描かれたと言われている。この部分は左隻第2扇最下段部分の、“日本橋、日本橋高札場、小網町、江戸の町屋(本小田原町の魚店)、江戸下町の河岸(米俵の荷揚げ)”などを描いている。
又、上掲の画像は、『江戸図屏風』左隻第2扇最下段部分の更に擬宝珠を飾った日本橋の拡大部分である。
この絵が示すようにすでに擬宝珠つきの反り橋が描かれており、橋周辺の賑わいをみることができる。擬宝珠は、橋の格を表すものであり、江戸城内廓(「城廓」)と市街とを結ぶ廓門橋(見付 御門)の他江戸市中で擬宝珠を飾った橋は、東海道筋の日本橋、京橋、新橋の3橋だけであったという。
又、上掲の画像も、同じく「江戸図屏風」左隻第2扇最下段部分の日本橋高札場の描かれた部分の拡大図である。
幕府は人々の往来の激しい地点や関所や港、大きな橋の袂、更には町や村の入り口や中心部などの目立つ場所に高札場(制札場)と呼ばれる設置場所を設けて、諸藩に対してもこれに倣うように厳しく命じたが、人通りの多い日本橋南詰には、高札場が置かれているのが分かる。高札の立てられている柵の向こう側に小さな小屋のように見えるものが、「晒し場」(「さらし首場」)だろう。晒刑では、主殺し、女犯僧、心中者などの犯罪者がそこにつながれ生き恥を晒された。
この『江戸図屏風』全体を見たければ以下参考の※6:「国立歴史民俗博物館-江戸図屏風 〔高精細画像順次拡大版〕」を覗かれるとよい。 各部分の説明付きで拡大図を見ることが出来る。また、出光美術館所蔵の同時代の八曲一双の『江戸名所図屏風』(参考※7)でも大きな画像で見られる。
この木造の日本橋は、明暦の大火(1657年)により全焼。江戸は火事が多く、江戸幕府開府から幕末に至るまでの間に幾度も焼け落ち再建されるが、現在の石造二連アーチ橋が架けられたのは、1911(明治44)年4月3日のこと。今から103年前のことである。
ルネッサンス様式の石橋は太平洋戦争の戦火にも耐えて、当時の姿を今に伝えており、現代でも近代東京の名建造物のひとつだが、今日では橋の上に首都高速都心環状線が造られているため、残念ながら景観は往時のものとは異なる風情となってしまっている。
少々前口上が長くなってしまったがここから本題の「人力車」の話に入る。
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1858年7月29日(安政5年6月19日)に締結された日米修好通商条約(安政五ヶ国条約)に基づき翌・1859年7月1日(安政6年6月2日)に武蔵国久良岐郡横浜村(横浜市中区の関内付近)に横浜港が開港後、さまざまな近代的な交通手段が登場したが、陸上交通の近代化は馬車から始まった。
江戸時代の日本では馬車を含む車の利用は京(京都)における牛車(ぎっしゃ)や、幕末期に主要な街道や江戸で荷車が使われた以外ほとんど利用されなかったが、横浜開港後、外国人が馬車を開港場に持ち込むようになると、物珍しさも手伝ってか馬車は大きな話題になった。ただ、その利用は外国人に限られ、一般の日本人が馬車を利用することはほとんどなかったが、こうした状況が大きく変化したのは明治維新後、京浜間で乗合馬車の営業が始まってからのことだ。
この馬車路線が開設された直後に人力車も実用化され、横浜と東京を結ぶ東海道では馬車や人力車を見ることが珍しいことではなくなった。
人力車とは、人をのせ、車夫がひいて走る一人乗りもしくは、二人乗りの二輪車であり、俥(くるま)。腕車(わんしゃ)。人車(じんしゃ。くるま)。力車(りきしゃ)とも呼ばれ、これを曳く車夫は俥夫(しゃふ)とも書き、また車力(しゃりき)とも言った。
その人力車の日本での発明には諸説あり、本当のところはよくわからないらしいが、広辞苑にも、和泉要助、鈴木徳次郎、高山幸助らの発明と書かれており、又、私の蔵書週間朝日百科 「日本の歴史」106号近代1−?博覧会の“明治の発明品“の中にもこの3人により1870(明治3)年に発明されたと書かれているので、どうもこの3人による共同事業であったらしい。
上掲の画像は同書に掲載されていた絵(国立資料館蔵)を部分カットしたものであるが、その絵には”神田の俥屋らしい”との添え書きがあった。今観光地などで見られるものとは大分様子が違い大八車に四柱を立て屋根を付けたものだ。
日本で発明された人力車は、それまで使われていた駕籠より速かったのと、当時馬よりも人間の労働コストのほうがはるかに安かったことから、すぐに人気の交通手段になったようだ。ここらの事情は、先にも紹介したように以前このブログ東京府(現在の東京都)が人力車の営業を許可(?から?の?)で詳しく書いているでそこで見てほしい。
当時としては文明開化の象徴でもあった「人力車」は、日本橋の高札場の横で営業 を開始して、あっという間に全国に広まったようだ。
もっとも、京浜間で馬車や人力車が盛んに使われたのは鉄道が開通(日本の鉄道史参照)するまでの短期間だったが、馬車にせよ人力車にせよ、当時の人々は現在のタクシーやバスを利用するような感覚で頻繁に利用していたことは間違いない。
.それでは、江戸のランドマークであり、今も変わらず注目されている日本橋とそこに人力車のある光景を、以下参考※8に掲載の「「国立国会図書館のデジタル化資料」日本橋・駿河町の錦絵」より眺めてみよう。
上掲の画像は、歌川芳虎画「東京日本橋風景」大判錦絵 3 枚続 1870(明治3)年のものである。これ以降掲示するものについて、同ページへアクセスすると原寸大まで拡大して美麗画像が見られる。拡大図とあるところをクリックしてください。
歌川芳虎 東京日本橋風景(明治3年)拡大図この画像には、先で紹介した国立歴史民俗博物館-『江戸図屏風』と同じように日本橋の高札場が描かれているが、17世紀前半の家光の時代のもであり、高札場は平地に柵で仕切られた中に立てられている。Wikipediaによれば、「高札は1874(明治7)年に廃止が決定され、2年後には完全に撤去され」とあるが、1870(明治3)年に描かれたというこの絵では石垣の高いところに表示されており、文明開化の速かった東京では、もう、名ばかりのもの、観光名所程度になっていたのではないか。その高札所の横に「人力車」の絵を描いたのぼりを立てた人力車の営業所のようなものが見える。この作品は人力車の営業許可が下りた年のものであり、人力車も、前段に掲載の絵(国立資料館蔵)と同じく、大八車に四柱を立て屋根を付けたものだ。ここが今でいうタクシー乗り場的な場所になっていたのだろう。絵には、絵師の空想も含まれているかもしれないが、人力車や馬車(日本人の営業用のものも見える)他、外人が乗っている自転車とは違って、編笠をかぶった着物姿の日本人が乗っている自転車は木製のような感じであるなど、さまざまな乗り物が描かれていておもしろい。兎に角、二輪車・三輪車の登場する錦絵としては最初のものといわれている。上掲の画像では向かって右端、アクセスした先で画像が逆に配置されているので注意)。
同じく歌川芳虎の1872(明治5)年に描いた以下の絵を見てください。
拡大図
この絵には、日本橋の前を人力車に乗って通り好きようとしている夫人の図が描かれているがその向こうには日本橋三井組ハウスが見える。
この建物「三井組ハウス」は、幕府御用を務め、王政復の発令を経て維新政府の為替方として業界の首位に立っていた三井組は、1868(明治1)年が、新政府の金融事務を命ぜられ、御為替方三井組の名で担当し、当時明治政府を全面的に支えていた。そんな三井組が独自に商業銀行を立ち上げるべく1872(明治5)年、現在の中央区日本橋1丁目及び兜町にかかっていた海運橋際に建設したもの。1873年8月1日に営業を開始した日本初の商業銀行である総工費は約4万7千両、5層の洋館は頂上部に展望台である「物見」が据えられ、世間の話題を集めたという。後に第一国立銀行となる。現在みずほ銀行兜町支店のビルの壁には「銀行発祥の地」のプレートが埋め込まれている。(設立の事情は※9参照)。
「上掲の画像は、兜町の「三井組ハウス」。Wikipediaより。
上の画像は歌川芳虎によって1974(明治7)年に描かれた駿河町の三ツ井正寫(しやううつし)の図である。
拡大図
この絵にも三井呉服店(現三越)と共に、為替バンク三井組が描かれている。
三井組と同じく、く小野組、そして、明治政府も銀行の設立を目指していた。大蔵省で国立銀行の準備にあたっていた渋沢栄一より、三井・小野両組合共同での設立を提案(強要)された三井は、共同経営を避けたかったが、やむなく「三井小野組合バンク」を設立。さらに政府の要求により、三井組は完成したばかりの「海運橋三井組ハウス」を政府に譲渡させられた。
こうして、1873(明治6)年、三井・小野両組合合作の日本初の銀行国立銀行条例による国立銀行第一国立銀行(民間経営)が発足する。渋沢はこの時この銀行の総監督に収まっている。その後いろいろなことがあり、小野組が破綻。三井組は第一国立銀行を三井の銀行とすることを企図するが、渋沢は逆に同行を三井組からの支配から独立させ組織改正を提唱。それでも銀行設立を諦めず、三井組は第一国立銀行から手を引き、1874(明治7)年、三井の本拠地である日本橋駿河町に、銀行業務を行う3階建ての洋館「駿河町為替バンク三井ハウス」を建設。それが、上掲の中央の建物である。屋上にシャチを乗せた瀟洒な洋館には「為替バンク三井組」の看板を掲げた。
この後、1876(明治9)年7月遂に明治政府から認可を得て日本初の民間銀行「三井銀行」が開業することになる。(複雑な設立の事情は※9参照)。
屋根の上に大鯱(しゃちほこ)がひときわ目立つこの3階建て建物は、総建坪620坪(約2,050m2)、地上から鯱の頂上までの高さが80尺(約24m)あるという。外観は木造漆喰塗りのいわゆる土蔵造りで、アーチ形の扉や1・2階のベランダ、3階正面のバルコニー、ポーチとベランダのコリント式列柱などにより、海運橋に建つ第一国立銀行に増して洋風色が濃く表れている。・・・と、参考※10にも書いているように、建物とは、時代や文化、人々の思いを映し出す器であるが、文明開化の一つの象徴ともいえる「為替バンク三井組」は当時、その代表格であったことに間違いないだろう。
この下の画像は、三代広重が1875(明治8)年に駿河町三井銀行になってからのものを正面から描いたものである。
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この下は、二代歌川国輝による日本橋電信局(東京格大区之内)の図である。
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この絵には、人力車に乗った夫人二人が横から飛び出してきた猫らしき動物に驚いた車夫が車を止めたのでびっくりした様子が描かれている。
電信柱が立っている横の建物が日本橋電信局だろう。
明治維新後の1869(明治2)年英国の通信技師を招き、横浜灯明台役所(灯台づくりの拠点とした役所。試験灯台が出来た後は灯台勤務者の訓練所となる)から横浜裁判所までに日本で初めての電信回線を開通させ、同年末には東京築地(明石町)の運上所(現・東京税関)から横浜裁判所までの電信事業が発足した。
1872(明治5)年5月には日本橋の晒場のあった南詰東側に日本橋電信局が開設され、築地から電信線が延長された。両国・浅草橋の電信局も、これと同時に開業したようだ。
以下に掲載されている郵政博物館所蔵の絵を見ると日本橋電信局の全体像が分かる。面白いことに、このころの橋では、人力車などが渡る道と人が渡る道が区別されている。それだけ、人通りが多く、また、人力車の通行も多いことから、危険防止を考えてのことだろう。
東海名所改正道中記 電信局 日本橋 新橋迄十六町 文化遺産オンライン
この下の画像は紅英斎が1882(明治15)年に描いた日本橋京橋間の銕道馬車の様子である。
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紅英斎という人物についてはよくわからないが、銕道馬車の横を多くの馬車や人力車が競うように走っている。これ以上錦絵のアップはしないが、以下のサイト「大江戸データベース - 東京都立図書館」では、「東京銀座煉瓦石繁栄之図・新橋鉄道蒸気車之図」(明治6年、歌川国4代)、「東京八ツ山下海岸蒸気車鉄道之図」(歌川広三3代)明治4年)、「東京銀座要路煉瓦石造真図」(歌川国輝2二代明治6年)、「東京名所之内銀座通煉瓦造鉄道馬車往復図」(歌川広重3三代明治15年)、など時代とともに発展する東京の町で活躍している人力車の姿が大きな拡大画像が説明付きで鑑賞できる。
大江戸データベース - 東京都立図書館
また下の「鉄道錦絵 - 物流博物館」では、「東都高縄蒸気車往来之図」歌川芳虎・立祥([2代]明治4年)、「東京名勝高縄鉄道之図」(歌川広重3代、明治4年)、「京高輪真景蒸気車鉄道之図 」(歌川広重3代、明治6年)、「東京品川海岸蒸汽車鉄道之図」(歌川広重3代明治6年)、「六郷川蒸気車往返之全図」(歌川広重3代、明治4年)の絵に人力車が描かれている。
鉄道錦絵 - 物流博物館
私など、人力車と言えば、阪東妻三郎主演の映画『無法松の一生』(大映・1943年版,白黒)が思い浮かぶ。
上掲の画像は阪東妻三郎主演映画「無法松の一生」DVD
映画は、1897(明治30)年、九州小倉の古船場に博奕で故郷を追われていた人力車夫の富島松五郎が、昔ながらの“無法松"で舞戻ってきて、芝居小屋へ同僚の熊吉と行き、桝席の中で酒のつまみに炭でニンニクを焼いていて人に迷惑をかけ大混乱となるが、そこに現れた地元を取り仕切る侠客の結城重蔵に仲裁され侘びを入れるところから始まる。
その後、友人となった矢先、急病死した陸軍軍人・吉岡の遺族であるか弱い(未亡人・良子と幼い息子・敏雄)の将来を思い、身分差による己の分を弁(わきま)えながらも、無私の献身を行う無法松と、幼少時は無法松を慕うも長じて(自身と松五郎の社会的関係を外部の視点で認識するようになったことで)齟齬(そご)が生じ無法松と距離を置いてしまう敏雄、それでも無法松を見守り感謝の意を表し続けてきた良子との交流と運命的別離・悲しい最後の場面などが描かれている。
再映画化された東宝・1958年版の三船敏郎主演による映画も良かったが、やはりあのような時代背景の中での武骨な明治男の役柄は、同じ明治生まれの阪妻の方がずっと味があった。
余談だが、先日、SMAPの木村卓也が2夜連続のテレビ時代劇「 宮本武蔵」を演じていたが、私も彼は嫌いじゃないので、少し見かけたが、最初から、余りにも様になっていので、もう見なかった。誰が企画したのか知らないがよくも彼にあのような役をやらせたものだ。今アメリカでは西部劇映画を演じられる役者がいないから西部劇を作らないと言われているが、日本でも時代劇を演じられる役者は数少なくなてしまった。それを木村卓也にやらせた。可愛そうに、彼もこれで値打ちを下げたのではないか。三船は時代劇好きの私にとっては大好きな俳優だし、大根役者ではないけれど、やはり無法松のような役では阪妻にかなわなかった。
無法松の映画でも見られたように、人力車の俥夫(しゃふ)の身分は明治時代には低くみられていた。
前のブログでも書いたことだが、1873(明治6)年に、「僕婢馬車人力車駕籠乗馬遊船等諸税規則」が告布されたが、これは財源不足に苦しむ明治政府が歳入増加のため、僕稗を召し使う者や、馬車・人力車などを所有する者に課税したもので、一種の奢侈税であったが、この規則に書かれている「僕碑」(ぼくひ)は、「下男」などをさしていうが、「婢」という用語は、身分の低いことや卑しいことを指しており、今で言う差別用語の1つである。何故、人力車の車夫などを「僕婢」などと呼んでいるのだろう。
先にも書いたが、馬車を引く馬の代わりに人が車を引く。この単純で原初的な都市内交通機関である人力車は、技術も不要であり、当時貧民街に住む下層民には手頃な職業であり、その大部分は車を借りての営業形態であったため、東京では日清戦争期に約4万人余りにまで増加したという。今のアジアでも最も貧しい人達の代表的な職業のようであるが、当時の日本も同じ状況で、車夫こそ当時の女工と並んで明治の低賃金労働の代表だったようだ。そのうえ、貧乏人に対する差別意識は、現在よりはるかに強く、乞食や細民は人間でないかのごとくに扱われていた。だから、僕碑」(ぼくひ)などと言われていたのだ。
このような人力車夫を描いた映画として、もう1つ私の記憶に残る映画があった。織田作之助原作で、川島雄三監督の映画『わが町』。1956 (昭和31) 年の古いモノクロ映画である(※11参照)。
映画は織田が育ったといわれる大阪の河童路地を舞台に、不撓不屈の精神で人力車引きをしながら孫娘を育てあげる男・佐渡島他吉の、明治・大正・昭和にわたる波瀾万丈の生涯を描いた一代記である。
佐度島他吉を演じたのは島田正吾と共に、劇団新国劇の屋台骨を支えた辰巳柳太郎である。
「国元への送金も思うようにならず、これではいったいなんのために比律賓(フィリピン)まで来たのかわけが判らぬと、それが一層「ベンゲットの他あやん」めいた振舞いへ、他吉を追いやっていたが、やがて「お前がマニラに居てくれては……」かえってほかの日本人が迷惑する旨の話も有力者から出たのをしおに、内地へ残して来た妻子が気になるとの口実で、足掛け六年いた比律賓をあとにした。
神戸へ着いて見ると、大阪までの旅費をひいて所持金は十銭にも足らず、これではいくらなんでも妻子のいる大阪へ帰れぬと、さすがに思い、上陸した足で外人相手のホテルの帳場をおとずれ、俥夫に使うてくれと頼みこむと、英語が喋れるという点を重宝がられて、早速雇ってくれた。
給料はやすかったが、波止場からホテルへの送り迎えに客から貰うチップが存外莫迦にならず、ここで一年辛抱すれば、大阪へのよい土産が出来る、それまではつい鼻の先の土地に妻子が居ることも忘れるのだ、という想いを走らせていたが、三月ばかり経ったある日、波止場で乗せた米人を、どう癪にさわったのか、いきなりホテルの玄関で、俥もろともひっくりかえし、おまけに謝ろうとしないのがけしからぬと、その場でホテルを馘首になった。
その夜、大阪へ帰った。六年振りの河童路地(がたろろじ)のわが家へのそっとはいって、
「いま、帰ったぜ」
しかし、返事はなく、家の中はがらんとして、女房や、それからことし十一歳になっている筈の娘の姿が見えぬ。
不吉な想いがふと来て、火の気のない火鉢の傍に半分腰を浮かせながら、うずくまっていると・・・・」(※12 :「青空文庫-織田作之助 わが町」よりの抜粋である)。
1906(明治39)年、フィリピンのベンゲット道路建設に働く佐度島他吉は警官と争ったため追放されるが、そんなフィリピンのペンゲット道路で過酷な労働にたえたことを人生の誇りにしている他吉は、そのせいで妻と、男手ひとりで育てた娘と夫を死なせてしまう。
そしてさいごには、他吉はフィリピンでしか見れない思い出の南十字星を四ツ橋のプラネタリウム(日本ではじめてプラネタリウム[ ドイツ製カール・ツァイス]II型。現在は大阪市立科学館に展示されていて、大阪市有形文化財に指定されている。※13参照)で見ながら死んでゆくという筋立てである。
この他吉の口ぐせは「人間はからだを責めて働かなあかん」・・・・である。
時代の移り変わりにもかかわらず、頑固に俥をhひき続ける他吉を演ずる辰巳も明治時代の武骨な男のよく似合う役者であり、無法松を演じた阪妻を思わせて素晴らしく、特に人力車を引く姿は思わずダブってしまう。
上掲の画像は、映画「わが町」のDVDの判妻。
運送手段としての人力車は、馬車や鉄道、自動車の普及により、都市圏では1926(昭和元)年頃、地方でも1935(昭和10)年頃をピークに減少し、戦後、車両の払底・燃料難という事情から僅かに復活したことがあるが、現在では一般的な交通・運送手段としての人力車は存在していない。
上掲の画像は、マイコレクションより、我が地元神戸出身の木版画家川西英の版画による絵葉書で、神戸港の風景。外人観光客らしい4人が人力車に乗っている。昭和前期の作品だろう。
映画「わが町」の主人公他吉は、フィピンから神戸へ着いて外人相手のホテルの帳場をおとずれ、俥夫に使うてくれと頼み込んで、英語が喋れることから、早速雇ってもらった。給料は安かったが、波止場からホテルへの送り迎えに客から貰うチップが存外莫迦にならず結構稼いだとある。
無法松などとは違い他吉は頭が良い。戦前までの神戸港は日本を代表する港であり、港には外国船がひっきりなしに着いた。外国人の観光客も当然多かった。そんな外国人はチップをくれる習慣がある。いいところに目を付けたものだ。
現在人力車は主に観光地での遊覧目的に営業が行われている。Wikipediaによると、観光に人力車を復活させた元祖は鎌倉の現在の有風亭(※14)であり、テレビ番組等で度々紹介されて各地に普及したという。当初、京都といった風雅な街並みが残る観光地、又は浅草などの人力車の似合う下町での営業が始まり、次第に伊豆伊東、道後温泉といった温泉町や大正レトロの街並みが残る門司港、有名観光地である中華街などに広がっていったそうだ。
明治時代は、仕事がなく収入も少なく、余り良くみられていなかった人力車夫の仕事。豊かになった今の日本では、これで結構いい稼ぎになるのだろうか?
私にはわからないが、昔と違って今の人力車は性能もよくなり、車も楽にひけるようになり、今の若い人の感覚では、レトロブームで、結構恰好いい仕事の一つでもあるのだろう・・・・ネ。
(冒頭の画像は、マイコレクションより、和歌山県 加太淡嶋神社で客待ちする人力車夫。絵葉書には、司令部許可とあり、、加太にも要塞があったので、戦前の要塞地帯では出版物や写真などは、在地司令部の許可を必要とした。このような写真まで・・・)
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