な・く」【泣く・鳴く・啼く】は、ネ(音)の古形(母音交替形)「ナ」の動詞化したもの。人間・鳥・獣・虫が声を立てる意。人間の場合は「泣く」と書く。「泣く」は、“泣き声を出す。涙を流す。つらく感じる”の意であり、声を出して泣き叫ぶ場合は「哭く」とも書く。人が、悲しみ・苦しみなどのために声を出し、涙を流す。また,喜びなどで涙を流す場合にもいう。
『.万葉集』に山上憶良が筑前守在任中の神亀五年(728)頃、大宰府での宴で詠まれた以下の歌がある(※2参照)。
山上臣憶良、宴を罷(まか)る歌一首
「憶良らは今は罷(まか)らむ子泣くらむそれその母も我(わ)を待つらむぞ」(巻3-337)
万葉集の歌の世界には、柿本人麻呂や、山部赤人をはじめとして、男女の愛を歌った相聞歌が数く作られているが、山上憶良は、仏教や儒教の思想に傾倒していたことから、死や貧、老、病などといったものに敏感で、かつ社会的な矛盾を鋭く観察していた。そのため、官人という立場にありながら、重税に喘ぐ農民や防人に狩られる夫を見守る妻など社会的な弱者を鋭く観察した歌を多数詠んでおり、当時としては異色の社会派歌人として知られている。そのような歌風から他の人のように男女の愛を歌うことはなかったが、そのかわりに子どもを思う歌を多く作っている。
上掲の歌の通釈は「憶良どもは、もうこれで失礼致しましょう。家では子らが泣いているでしょう。ええ、その母も私どもの帰りを待っていることでしょう。」と家で泣いている幼い子やその母親(憶良にすれば女房ともとれる)などが待っていることを理由に宴席を中途で退出するときの歌を詠ったものであろうと解されているが、罷るとは「貴人のもとから、退去する」ことであり、このような理由で宴席を中座するのはちょっと失礼な話であり、※2の【補記】にも書かれている通り、「憶良ら」は、「私憶良以下の者ども」ということで、宴に参加していた下僚たちを代表し、主人の大伴旅人(当時大宰帥)に辞去の歌を捧げたものだろう。憶良はこの時、60歳を遥かに越えていたことから幼い子もその母親もいなかったと思われ、これは一種のユーモアたっぷりな笑わせ歌だったのだろう。
泣く子が待ってたかどうかは別にして、「泣く子と地頭には勝てぬ」の諺がもある。
ききわけのない幼い子供(特にあかちゃん)や横暴な権力者の無理には従うほかはない。道理を尽くしても,理の通じない者には勝ち目がないことをいう。
又、「泣く子は育つ」ともいう。
生まれたばかりの赤ん坊は、言葉がしゃべれないから、体のどこかが痛くて泣く場合も あるかもしれないが、ほとんどの場合は、空腹感や、おむつの違和感、眠気などであり、 大きな声で泣き叫ぶ赤ん坊は、元気なことを意味していて、病気になりにくい 健康な、強い子に育っていくということ。
小さな子供は、自分の満たして欲しい欲求を言葉や仕草で伝えるが、赤ちゃんの頃、空腹やおむつの汚れを「泣くこと」で訴えたことが始まりと云われている。
欲求が満たされないとき、子供は悲しい、寂しい、苦しい、悔しい、怖いといった感情を味わい。これは、欲求が満たされていないことを教えてくれる大切な感情だという。つまり、欲求と感情は表裏一体なので、ある感情が動くときその裏には何かの欲求があるはずであり、また、感情が限界点を超えたとき涙となって表れる。それに気づいたお母さんが優しく抱きしめ欲求を満たしてあげると、涙とともに感情は発散され平静を取り戻し、そして、子供は満ち足りた表情を取り戻すのだという。
子供にとって泣くことは非常に重要なことであり、だから子供がなぜ泣いているのかを注意深く観察しながら泣かせ上手な親を目指してほしいと、臨床心理士の方は言っておられる(※3)。ただ、「今日は様子が変だ」ということに気付いた時には注意して、小児科医と相談することも忘れてはいけないが・・・。
赤ちゃんだけではない。「人間は感情の動物」とよく言われるが、それは、感情が人間の行動の最大の動機となるものだからだろう。
人間にはどのような感情があるのかについては、古来様々に議論されてきた。六情(喜.怒,哀,楽,愛 [いとしみ]、憎)や、中国の五情(喜.怒,哀.楽、怨)、そして、再近よく使われるところの「喜怒哀楽」など(感情の一覧参照)。
喜怒哀楽の喜怒=喜びと怒りの感情。哀楽=悲しみと楽しみ。いずれも相反する言葉の組み合わせである。
この「喜怒哀楽」は、儒学のテキストである四書のなかの一つ『中庸』の一章目に出てくる。
この『中庸』はもともと『礼記』中の一篇、初めて『中庸』を表彰したのは南朝宋の戴顒(たいぎょう)だとされており、彼が書いた礼記中庸篇として伝えられてきたもので、そこには以下のように記されている。
(書き下し文)
喜怒哀楽の未だ発せざる、これを中と謂う。
発して皆節(せつ)に中る(あたる)、これを和(か)と謂う。
中は天下の大本(おおもと)なり。和は天下の達道(たつどう)なり。
中和(ちゅうか)を致して、天地位(くらい)し、万物育つ。
(白文=原文)、現代語訳等は以下参考※4「総合心理相談」の中国古典の解説 『中庸』の書き下し文と現代語訳:7を参照)。
「中庸」という言葉そのものは、『論語』のなかで、「中庸の徳たるや、それ至れるかな」(※4の中国古典の解説『論語 雍也篇』の書き下し文と解説:3の29段参照)と孔子に賛嘆されたのが文献初出と言われており、それから儒学の伝統的な中心概念として尊重されてきた。中庸の徳とは『大きく偏らない考えや判断に宿っている徳』という意味であるが、『中庸』の中に出てくる「中庸」は、必ずしも全体を足して割った平均値や過不足のない真ん中のことを指しているわけではない。
中庸の“中”は『偏らないこと』、“庸”は『普通・凡庸であること』を意味するが、儒教の倫理規範の最高概念である中庸には『その場における最善の選択』という意味も込められているようだ。
何か難しいが、簡単に言えば、喜怒哀楽などの感情が動き出す前の平静な状態を中といい、感情が動いても節度にかなっている状態を和という。中こそは世の根幹であり、和こそは世の習い。中と和を実践すればあらゆるものが順調に進行する。常に、その時々の物事を判断する上でどちらにも偏らず、なにごとにも感情を揺さぶられない強い心の大切さを説いており、それには日頃からの地道な積み重ねが必要であることが書かれているようだ(砕けて判り易い解説は参考※4を参照されたほうがよいかな・・)。
ここで思い出したのが先日の政務活動費から多額の交通費を支出し、記者会見で号泣しながら釈明していた兵庫県議会の野々村竜太郎県議の姿だ。大の男が、それも県会議員のあの尋常を逸した泣きながらの釈明はどのような感情から起こったものだろう。
マスコミ報道によると、遠距離の日帰り出張は初当選した2011年度から3年間で計350回にのぼり、約800万円もの交通費が領収書もないまま支出された。その中には、「特急のグリーン車を使用した」とした昨年の9月2日のものなど当日出張したとする大阪から城崎方面に向かう特急は始発から夕方まで運休していたという。
今まで見たこともない、ヒステリックにわんわんと大声で泣きながらの弁解は、自分のしたことが説明できないことから来る感情の乱れれから来ているのだろう。
同じ兵庫県に住むものとして、あのような人が県議になっていることを非常に恥ずかしく思っている。又、そんな議員の責任問題を追及しようともしない県議会の不思議。恐らく、同じ穴のムジナがいっぱいて、下手に追及すると自分の方にとばっちりが来るのを恐れているのだろう。昔から問題となっていた政務活動費。市民オンブスマンがしっかり監視してゆかなくてはいけないのだろう。
上掲の画像は号泣しながら記者会見の野々村竜太郎県議
ところで、私は野々村県議が「号泣」したと書いた(新聞などでもそう書いてある)が、「号泣」と言えば、どんな泣き方を想像しますか?
文化庁が平成22年度の「国語に関する世論調査」で、「悲しみの余り、号泣した。」という例文を挙げて,「号泣する」の意味を尋ねたところ、本来の意味である「大声をあげて泣く」で使うと答えた人が34.1パーセント、間違った意味「激しく泣く」で使うと答えた人が48.3パーセントという逆転した結果が出ているそうだ(※5参照)。
あの野々村議員の泣き方などテレビで見ていると単に大声で泣くというより、何か訳のわからないことをわめきながら激しく泣いていたよね〜。あの議員のおかげでますます日本語が分からなくなってしまいそうだよ。
人間の 喜怒哀楽」など、このような激しい感情を「情動」いう。
では何故、「感情」といわず、「情動」という言葉を使っているのか?
恐怖、怒り、悲しみ、喜びなどの感情には、その当人にしかわからない主観的な側面と、外部から観察可能な側面があり、感情が生じている時に示す行動を通じて客観的にとらえることができる。
元来、心理学の専門用語で、英語では "emotion" といい、以前は「情緒」という言葉をこの訳語として使っていたが、この「情緒」は「情緒不安定」などという表現に使われるが、他に日本語の表現として「下町情緒」という表現もあり、恐れや怒りなどの激しい心の働きを表現する"emotion "の訳語としては不適切だということで、情動という言葉を使うようになったようだ。
哲学者デカルト(1596年- 1650年)は、自著『情念論』(1649年)で精神の知覚、感覚、感動、すなわち情念(passion)を主題として研究を行い。さまざまな種類の情念を検討しているが、人間の精神が身体を最も強く意識するのは感覚においてであり、感覚には三種類のものがあるという。ひとつは、いわゆる五感を通じて外的な対象を認知するもので、外部感覚という。二つ目は、痛みや快感など自分の身体内部に起源するもので、内部感覚という。三つ目は、普通「情念」といわれるもので、デカルトは、まず基本的な情念として驚き・愛・憎み・欲望、喜び・悲しみの6つであるとして、それらを外的対象の感覚に関係させて分類しようと試みている。
まず、何か新しいあるいは異常な対象が感覚されるとき、直接に起こるのが「驚き」の情念である。ふつうは、そういう対象がわれわれにとって善いか悪いかの感受を付け加える。
そこで出て来るのが「愛」と「憎み」の情念である。「愛」は対象に有意的に合一して一体となろうとする傾向であり、「憎み」は反対に対象を避けようとする傾向である。
。ここへ時間の様態の区別を入れ対象が過去において、または今、現にわれわれの得るところとなっている場合、それが善いものであれば「喜び」の情念が生まれ、悪いものであれば「悲しみ」の情念が生まれる。対象が未来的なものであるときは、それに対する情念は「欲望」であり、それは未来に向かって善きものを求め悪いものを避ける傾向である。・・・と言っている(※6参照。)。
いわば、体と精神が、どのように相互に作用しあうかを論じる必要から書かれたものがこの書であり、「情念」とは、passion=知覚・欲求・感情のことであり、精神の受動を意味しており、簡単に言えば、以下のような構図になる。
感情は、物事に感じて起こる気持ち。外界の刺激の感覚や観念によって引き起こされる、ある対象に対する態度や価値づけ。快・不快、好き・嫌い、恐怖、怒りなど。つまり、まわりからの感覚を受けた時の気持ちである。
情念は、感情が刺激されて生ずる想念(心の中に浮かぶ考え、思い)。深く心に刻みこまれ、理性では抑えることのできない悲・喜・愛・憎・欲などの強い感情である。
つまり感情→外界の刺激→情念 という構図になる。情念とは、いわば「惹き起こされる」ものだ(※7参照)。
情念の働きを抑制するためにデカルトは謙遜、勇気などの徳を守ることを主張しており、知恵とは情念を支配する意義があると分析している。
あの進化論でよく知られるチャールズ・ダーウィン(1809年- 1882年)も感情の研究をしていたそうだ。・・・というよりも、彼が着目したのは感情そのものよりも「感情表出」、つまり感情による表情の変化、泣いたり、怒ったり、喜んだりという顔面等の表現の方に関心を抱いて研究をしていたようだ。
そして、動物での情動研究を基にして情動の表出がネコ、イヌ、サルを経てヒトにいたるまで共通であることを指摘しており、動物での情動研究を基にしてヒトの感情・情動を論ずる根拠を与えてくれている。また、彼は情動を「非常事態にさらされた生物が、適切に対処し、生存の可能性を増加させるもの」であるととらえている。つまり、情動の生物学的意義は、個体維持と種族保存を達成するためにあるのだという。
ヒトでも動物でも、外敵や有害なもの、危険なものに対しては恐怖が生じ、それから逃げる。一方、自分の欲求を満たしてくれるものには接近行動を示す(快情動)。そして、欲求の充足が阻止された場合には、怒りが生じ、攻撃行動が起こる。このように、情動にはヒトや動物を行動に駆り立てる性質があり、こうした適応行動が起こるためには、外界から入ってきた刺激の生物学的意義(たとえば、有害か否か)を評価する過程が働いていると考えられるという(※8参照)。
そういう意味では感情には原因があるというより目的があるといえるのかもしれない。例えば、「怒り」の感情は相手や物事を脅かしたり、怖がらせたりすることで自分の思った通りにしたいという気持ちといえるし、悲しみの感情は「○○してほしかった」とか「○○してほしくなかった」という願いが叶わないときに生じやすいものなのだが、あの野々村県議の号泣しながらの喚くような釈明はこれらの感情がすべて入り混じったものだったのだろう。
長々と難しいことを書いてしまったが最後に、本題の「泣く」に戻ろう。
色々人間の感情について書いてきたが、「ヒトは何で悲しいときに泣くのだろう?」 ,
涙は目の涙腺から分泌される体液のことでり、眼球の保護が主要な役割であるが、人は、悲しいとか嬉しいといった感情的な原因で涙を流す。痛みを感じたときや、吐き気がするときや、大笑いしすぎるときや、あくびをしたときに流れることもある。
感情による涙の場合は通常の排出(涙点=涙の流出口経由のもの)では間に合わず、涙が目の外へ流出する。悲しみによって涙を流し、声を出す一連の動きのことを「泣く」と言う。
涙を流す動物は、他にもいるが、こうした感情的涙(emotional tears)を流すのは、ヒト特有の現象だそうだ。
ところで、「悲しい」から「泣く」のかそれとも、「泣く」から「悲しい」のかどちらだと思いますか?…と聞くと、ほとんどの人は「悲しいから泣く」と答えるだろうと思うのだが。実は、そうではなくて『悲しいから泣くのではなく、泣くから悲しいのだ』する説があり、これを「ジェームズ・ランゲ説」と呼んでいるそうだ。
これは、普通の感情形成過程の理解は、先のデカルトの情念論のところでも触れたように、『外部刺激→感情体験(感情反応)→生理学的変化(涙を流す・血圧の上昇・呼吸数の増加・筋肉の緊張や弛緩・表情の変化)』といった時間的生起の順序を持って理解されているが、ウィリアム・ジェームズとカール・ランゲは『外部刺激→生理学的変化・行動の形成→感情体験(感情の自己知覚)』といった時間的順序で情動の形成過程を捉えなおしたものだという。
ジェームズ‐ランゲ説は、『情動の末梢神経説』とも言われ、末梢神経系の生理学的反応が自覚的な情動経験に先行して起こるという考え方を意味している。
ジェームズ・ランゲ説の興味深いところは、自分自身の情動の生起を経験するよりも早く、涙が流れたり、心臓の鼓動が早くなって発汗したりといった生理学的反応が起こるという事であるが、これは、恐怖体験の瞬間を思い起こすと分かりやすいが、突然、自動車が自分の真横をビュンとぶつかりそうな距離で走り去った時などには、やはり生理的反応が感情の自己認識よりも先に起こっている。
だから生理的反応が先にあって心理が働くという側面もあるということも知ってておかないといけないのだろうね〜。
東邦大学医学部統合生理学教授・有田秀穂氏によると、私たち人間が流す涙は3種類に分けられるそうだ。
ひとつ目は、ドライアイ防止や角膜保護のために常に分泌される“基礎分泌の涙”。
ふたつ目は、玉ねぎを刻んだ時や目にゴミが入った時に防御のために出る“反射の涙”。
そして3つ目が、悲しみや感動で流す“情動の涙”である。
“情動の涙”とは、良きにしろ悪しきにしろ、感情が高まることで流れる涙のこと。その時、コミュニケーションや共感を司り、脳の司令塔とも呼ばれる“前頭前野”(前頭部に位置。※10参照)に血流が増え、激しく興奮することから涙が出るのだそうだ。
「“情動の涙”には、その時の高まっている感情を抑え、心身をリラックスさせる力が秘められている」と有田氏。
いったいなぜ、涙にそんな力があるのだろう?
それについては、人が生きて行く中で出合うさまざまな体験と、涙の変化について知ることが近道だという。この辺りは省略するが、泣くのを我慢するとストレスが溜まる結果にもなるそうで、笑うことも、免疫力が高まり健康につながると言われているが、ストレスを解消するという意味では、泣くことのほうが効果的であるという。いろいろ泣く方法が書かれているが、気持ちよく泣くためには、家で、感動的なDVDの“映画”などおすすめだという(※11参照)
生化学者のウィリアム・フレイ二世(William H. Frey II)が「情が高ぶった時に、人は何故涙を流して泣くのか?」との問いへの答えを探求したそうで、彼によると、感情的な涙の原因の内訳は、女性の場合、悲しみが5割、喜びが2割、怒りが1割で、同情・心配・恐怖がこれに続く。また、女性の85%、男性の73%は、「泣いた後、気分が良くなる」と答えているそうだ。そして、彼も涙に精神的なストレスを解消する働きがあるのではないかと考えた(※12参照)ようなので、今日は、以下参考の※13:TSUTAYAが選んだ 「世界が泣いた映画100選」などで良い映画(泣ける映画)を探して、泣いてみませんか。
参考:
※1:日本記念日協会
http://www.kinenbi.gr.jp/
※2:山上憶良 千人万首
http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/okura2.html
※3:第13回「泣く子は育つ」といわれる理由
https://www.peacemind.com/pm_home_column.php?id=24&dat=754
※4:総合心理相談
http://www5f.biglobe.ne.jp/~mind/index.html
※5:中庸
http://www.h4.dion.ne.jp/~sstm/library/shoshi/chuuyou.html
※6:「心身対話」〜心の在り処を求めて〜
http://www.dokidoki.ne.jp/home2/islam/philo/syuron1.htm
※7:哲学入門6月6日講義思考(精神の働き)について_3
http://www.parsley-pf.jp/kudo/philo/philo_m_0606.html
※8:情動のメカニズムの探求 - RIKEN Brain Science Institute - 理化学研究所
http://www.brain.riken.jp/bsi-news/bsinews3/no3/special.html
※9:シャクターの情動二要因理論と情動の形成機序
http://www5f.biglobe.ne.jp/~mind/knowledge/basic/social002.html
※10:
前頭前野 - 脳科学辞典
http://bsd.neuroinf.jp/wiki/%E5%89%8D%E9%A0%AD%E5%89%8D%E9%87%8E
※11:泣いた後には、笑顔になれる。人だけが持つ「涙」の力
http://fufufu.rohto.co.jp/feature/339/
※12:人はなぜ泣くのか
http://www.systemicsarchive.com/ja/a/cry.html
※13:TSUTAYAが選んだ 「世界が泣いた映画100選」一覧
http://makemyself.blog64.fc2.com/blog-entry-370.html
最近、泣いてますか・・・?感情的な?涙? - Naverまとめ
http://matome.naver.jp/odai/2137454061006937701
脳科学(感情と情動)
http://www.mind-science.jp/pg90.html
痛みと鎮痛の基礎知識
http://www.shiga-med.ac.jp/~koyama/analgesia/react-emotion.html
『.万葉集』に山上憶良が筑前守在任中の神亀五年(728)頃、大宰府での宴で詠まれた以下の歌がある(※2参照)。
山上臣憶良、宴を罷(まか)る歌一首
「憶良らは今は罷(まか)らむ子泣くらむそれその母も我(わ)を待つらむぞ」(巻3-337)
万葉集の歌の世界には、柿本人麻呂や、山部赤人をはじめとして、男女の愛を歌った相聞歌が数く作られているが、山上憶良は、仏教や儒教の思想に傾倒していたことから、死や貧、老、病などといったものに敏感で、かつ社会的な矛盾を鋭く観察していた。そのため、官人という立場にありながら、重税に喘ぐ農民や防人に狩られる夫を見守る妻など社会的な弱者を鋭く観察した歌を多数詠んでおり、当時としては異色の社会派歌人として知られている。そのような歌風から他の人のように男女の愛を歌うことはなかったが、そのかわりに子どもを思う歌を多く作っている。
上掲の歌の通釈は「憶良どもは、もうこれで失礼致しましょう。家では子らが泣いているでしょう。ええ、その母も私どもの帰りを待っていることでしょう。」と家で泣いている幼い子やその母親(憶良にすれば女房ともとれる)などが待っていることを理由に宴席を中途で退出するときの歌を詠ったものであろうと解されているが、罷るとは「貴人のもとから、退去する」ことであり、このような理由で宴席を中座するのはちょっと失礼な話であり、※2の【補記】にも書かれている通り、「憶良ら」は、「私憶良以下の者ども」ということで、宴に参加していた下僚たちを代表し、主人の大伴旅人(当時大宰帥)に辞去の歌を捧げたものだろう。憶良はこの時、60歳を遥かに越えていたことから幼い子もその母親もいなかったと思われ、これは一種のユーモアたっぷりな笑わせ歌だったのだろう。
泣く子が待ってたかどうかは別にして、「泣く子と地頭には勝てぬ」の諺がもある。
ききわけのない幼い子供(特にあかちゃん)や横暴な権力者の無理には従うほかはない。道理を尽くしても,理の通じない者には勝ち目がないことをいう。
又、「泣く子は育つ」ともいう。
生まれたばかりの赤ん坊は、言葉がしゃべれないから、体のどこかが痛くて泣く場合も あるかもしれないが、ほとんどの場合は、空腹感や、おむつの違和感、眠気などであり、 大きな声で泣き叫ぶ赤ん坊は、元気なことを意味していて、病気になりにくい 健康な、強い子に育っていくということ。
小さな子供は、自分の満たして欲しい欲求を言葉や仕草で伝えるが、赤ちゃんの頃、空腹やおむつの汚れを「泣くこと」で訴えたことが始まりと云われている。
欲求が満たされないとき、子供は悲しい、寂しい、苦しい、悔しい、怖いといった感情を味わい。これは、欲求が満たされていないことを教えてくれる大切な感情だという。つまり、欲求と感情は表裏一体なので、ある感情が動くときその裏には何かの欲求があるはずであり、また、感情が限界点を超えたとき涙となって表れる。それに気づいたお母さんが優しく抱きしめ欲求を満たしてあげると、涙とともに感情は発散され平静を取り戻し、そして、子供は満ち足りた表情を取り戻すのだという。
子供にとって泣くことは非常に重要なことであり、だから子供がなぜ泣いているのかを注意深く観察しながら泣かせ上手な親を目指してほしいと、臨床心理士の方は言っておられる(※3)。ただ、「今日は様子が変だ」ということに気付いた時には注意して、小児科医と相談することも忘れてはいけないが・・・。
赤ちゃんだけではない。「人間は感情の動物」とよく言われるが、それは、感情が人間の行動の最大の動機となるものだからだろう。
人間にはどのような感情があるのかについては、古来様々に議論されてきた。六情(喜.怒,哀,楽,愛 [いとしみ]、憎)や、中国の五情(喜.怒,哀.楽、怨)、そして、再近よく使われるところの「喜怒哀楽」など(感情の一覧参照)。
喜怒哀楽の喜怒=喜びと怒りの感情。哀楽=悲しみと楽しみ。いずれも相反する言葉の組み合わせである。
この「喜怒哀楽」は、儒学のテキストである四書のなかの一つ『中庸』の一章目に出てくる。
この『中庸』はもともと『礼記』中の一篇、初めて『中庸』を表彰したのは南朝宋の戴顒(たいぎょう)だとされており、彼が書いた礼記中庸篇として伝えられてきたもので、そこには以下のように記されている。
(書き下し文)
喜怒哀楽の未だ発せざる、これを中と謂う。
発して皆節(せつ)に中る(あたる)、これを和(か)と謂う。
中は天下の大本(おおもと)なり。和は天下の達道(たつどう)なり。
中和(ちゅうか)を致して、天地位(くらい)し、万物育つ。
(白文=原文)、現代語訳等は以下参考※4「総合心理相談」の中国古典の解説 『中庸』の書き下し文と現代語訳:7を参照)。
「中庸」という言葉そのものは、『論語』のなかで、「中庸の徳たるや、それ至れるかな」(※4の中国古典の解説『論語 雍也篇』の書き下し文と解説:3の29段参照)と孔子に賛嘆されたのが文献初出と言われており、それから儒学の伝統的な中心概念として尊重されてきた。中庸の徳とは『大きく偏らない考えや判断に宿っている徳』という意味であるが、『中庸』の中に出てくる「中庸」は、必ずしも全体を足して割った平均値や過不足のない真ん中のことを指しているわけではない。
中庸の“中”は『偏らないこと』、“庸”は『普通・凡庸であること』を意味するが、儒教の倫理規範の最高概念である中庸には『その場における最善の選択』という意味も込められているようだ。
何か難しいが、簡単に言えば、喜怒哀楽などの感情が動き出す前の平静な状態を中といい、感情が動いても節度にかなっている状態を和という。中こそは世の根幹であり、和こそは世の習い。中と和を実践すればあらゆるものが順調に進行する。常に、その時々の物事を判断する上でどちらにも偏らず、なにごとにも感情を揺さぶられない強い心の大切さを説いており、それには日頃からの地道な積み重ねが必要であることが書かれているようだ(砕けて判り易い解説は参考※4を参照されたほうがよいかな・・)。
ここで思い出したのが先日の政務活動費から多額の交通費を支出し、記者会見で号泣しながら釈明していた兵庫県議会の野々村竜太郎県議の姿だ。大の男が、それも県会議員のあの尋常を逸した泣きながらの釈明はどのような感情から起こったものだろう。
マスコミ報道によると、遠距離の日帰り出張は初当選した2011年度から3年間で計350回にのぼり、約800万円もの交通費が領収書もないまま支出された。その中には、「特急のグリーン車を使用した」とした昨年の9月2日のものなど当日出張したとする大阪から城崎方面に向かう特急は始発から夕方まで運休していたという。
今まで見たこともない、ヒステリックにわんわんと大声で泣きながらの弁解は、自分のしたことが説明できないことから来る感情の乱れれから来ているのだろう。
同じ兵庫県に住むものとして、あのような人が県議になっていることを非常に恥ずかしく思っている。又、そんな議員の責任問題を追及しようともしない県議会の不思議。恐らく、同じ穴のムジナがいっぱいて、下手に追及すると自分の方にとばっちりが来るのを恐れているのだろう。昔から問題となっていた政務活動費。市民オンブスマンがしっかり監視してゆかなくてはいけないのだろう。
上掲の画像は号泣しながら記者会見の野々村竜太郎県議
ところで、私は野々村県議が「号泣」したと書いた(新聞などでもそう書いてある)が、「号泣」と言えば、どんな泣き方を想像しますか?
文化庁が平成22年度の「国語に関する世論調査」で、「悲しみの余り、号泣した。」という例文を挙げて,「号泣する」の意味を尋ねたところ、本来の意味である「大声をあげて泣く」で使うと答えた人が34.1パーセント、間違った意味「激しく泣く」で使うと答えた人が48.3パーセントという逆転した結果が出ているそうだ(※5参照)。
あの野々村議員の泣き方などテレビで見ていると単に大声で泣くというより、何か訳のわからないことをわめきながら激しく泣いていたよね〜。あの議員のおかげでますます日本語が分からなくなってしまいそうだよ。
人間の 喜怒哀楽」など、このような激しい感情を「情動」いう。
では何故、「感情」といわず、「情動」という言葉を使っているのか?
恐怖、怒り、悲しみ、喜びなどの感情には、その当人にしかわからない主観的な側面と、外部から観察可能な側面があり、感情が生じている時に示す行動を通じて客観的にとらえることができる。
元来、心理学の専門用語で、英語では "emotion" といい、以前は「情緒」という言葉をこの訳語として使っていたが、この「情緒」は「情緒不安定」などという表現に使われるが、他に日本語の表現として「下町情緒」という表現もあり、恐れや怒りなどの激しい心の働きを表現する"emotion "の訳語としては不適切だということで、情動という言葉を使うようになったようだ。
哲学者デカルト(1596年- 1650年)は、自著『情念論』(1649年)で精神の知覚、感覚、感動、すなわち情念(passion)を主題として研究を行い。さまざまな種類の情念を検討しているが、人間の精神が身体を最も強く意識するのは感覚においてであり、感覚には三種類のものがあるという。ひとつは、いわゆる五感を通じて外的な対象を認知するもので、外部感覚という。二つ目は、痛みや快感など自分の身体内部に起源するもので、内部感覚という。三つ目は、普通「情念」といわれるもので、デカルトは、まず基本的な情念として驚き・愛・憎み・欲望、喜び・悲しみの6つであるとして、それらを外的対象の感覚に関係させて分類しようと試みている。
まず、何か新しいあるいは異常な対象が感覚されるとき、直接に起こるのが「驚き」の情念である。ふつうは、そういう対象がわれわれにとって善いか悪いかの感受を付け加える。
そこで出て来るのが「愛」と「憎み」の情念である。「愛」は対象に有意的に合一して一体となろうとする傾向であり、「憎み」は反対に対象を避けようとする傾向である。
。ここへ時間の様態の区別を入れ対象が過去において、または今、現にわれわれの得るところとなっている場合、それが善いものであれば「喜び」の情念が生まれ、悪いものであれば「悲しみ」の情念が生まれる。対象が未来的なものであるときは、それに対する情念は「欲望」であり、それは未来に向かって善きものを求め悪いものを避ける傾向である。・・・と言っている(※6参照。)。
いわば、体と精神が、どのように相互に作用しあうかを論じる必要から書かれたものがこの書であり、「情念」とは、passion=知覚・欲求・感情のことであり、精神の受動を意味しており、簡単に言えば、以下のような構図になる。
感情は、物事に感じて起こる気持ち。外界の刺激の感覚や観念によって引き起こされる、ある対象に対する態度や価値づけ。快・不快、好き・嫌い、恐怖、怒りなど。つまり、まわりからの感覚を受けた時の気持ちである。
情念は、感情が刺激されて生ずる想念(心の中に浮かぶ考え、思い)。深く心に刻みこまれ、理性では抑えることのできない悲・喜・愛・憎・欲などの強い感情である。
つまり感情→外界の刺激→情念 という構図になる。情念とは、いわば「惹き起こされる」ものだ(※7参照)。
情念の働きを抑制するためにデカルトは謙遜、勇気などの徳を守ることを主張しており、知恵とは情念を支配する意義があると分析している。
あの進化論でよく知られるチャールズ・ダーウィン(1809年- 1882年)も感情の研究をしていたそうだ。・・・というよりも、彼が着目したのは感情そのものよりも「感情表出」、つまり感情による表情の変化、泣いたり、怒ったり、喜んだりという顔面等の表現の方に関心を抱いて研究をしていたようだ。
そして、動物での情動研究を基にして情動の表出がネコ、イヌ、サルを経てヒトにいたるまで共通であることを指摘しており、動物での情動研究を基にしてヒトの感情・情動を論ずる根拠を与えてくれている。また、彼は情動を「非常事態にさらされた生物が、適切に対処し、生存の可能性を増加させるもの」であるととらえている。つまり、情動の生物学的意義は、個体維持と種族保存を達成するためにあるのだという。
ヒトでも動物でも、外敵や有害なもの、危険なものに対しては恐怖が生じ、それから逃げる。一方、自分の欲求を満たしてくれるものには接近行動を示す(快情動)。そして、欲求の充足が阻止された場合には、怒りが生じ、攻撃行動が起こる。このように、情動にはヒトや動物を行動に駆り立てる性質があり、こうした適応行動が起こるためには、外界から入ってきた刺激の生物学的意義(たとえば、有害か否か)を評価する過程が働いていると考えられるという(※8参照)。
そういう意味では感情には原因があるというより目的があるといえるのかもしれない。例えば、「怒り」の感情は相手や物事を脅かしたり、怖がらせたりすることで自分の思った通りにしたいという気持ちといえるし、悲しみの感情は「○○してほしかった」とか「○○してほしくなかった」という願いが叶わないときに生じやすいものなのだが、あの野々村県議の号泣しながらの喚くような釈明はこれらの感情がすべて入り混じったものだったのだろう。
長々と難しいことを書いてしまったが最後に、本題の「泣く」に戻ろう。
色々人間の感情について書いてきたが、「ヒトは何で悲しいときに泣くのだろう?」 ,
涙は目の涙腺から分泌される体液のことでり、眼球の保護が主要な役割であるが、人は、悲しいとか嬉しいといった感情的な原因で涙を流す。痛みを感じたときや、吐き気がするときや、大笑いしすぎるときや、あくびをしたときに流れることもある。
感情による涙の場合は通常の排出(涙点=涙の流出口経由のもの)では間に合わず、涙が目の外へ流出する。悲しみによって涙を流し、声を出す一連の動きのことを「泣く」と言う。
涙を流す動物は、他にもいるが、こうした感情的涙(emotional tears)を流すのは、ヒト特有の現象だそうだ。
ところで、「悲しい」から「泣く」のかそれとも、「泣く」から「悲しい」のかどちらだと思いますか?…と聞くと、ほとんどの人は「悲しいから泣く」と答えるだろうと思うのだが。実は、そうではなくて『悲しいから泣くのではなく、泣くから悲しいのだ』する説があり、これを「ジェームズ・ランゲ説」と呼んでいるそうだ。
これは、普通の感情形成過程の理解は、先のデカルトの情念論のところでも触れたように、『外部刺激→感情体験(感情反応)→生理学的変化(涙を流す・血圧の上昇・呼吸数の増加・筋肉の緊張や弛緩・表情の変化)』といった時間的生起の順序を持って理解されているが、ウィリアム・ジェームズとカール・ランゲは『外部刺激→生理学的変化・行動の形成→感情体験(感情の自己知覚)』といった時間的順序で情動の形成過程を捉えなおしたものだという。
ジェームズ‐ランゲ説は、『情動の末梢神経説』とも言われ、末梢神経系の生理学的反応が自覚的な情動経験に先行して起こるという考え方を意味している。
ジェームズ・ランゲ説の興味深いところは、自分自身の情動の生起を経験するよりも早く、涙が流れたり、心臓の鼓動が早くなって発汗したりといった生理学的反応が起こるという事であるが、これは、恐怖体験の瞬間を思い起こすと分かりやすいが、突然、自動車が自分の真横をビュンとぶつかりそうな距離で走り去った時などには、やはり生理的反応が感情の自己認識よりも先に起こっている。
だから生理的反応が先にあって心理が働くという側面もあるということも知ってておかないといけないのだろうね〜。
東邦大学医学部統合生理学教授・有田秀穂氏によると、私たち人間が流す涙は3種類に分けられるそうだ。
ひとつ目は、ドライアイ防止や角膜保護のために常に分泌される“基礎分泌の涙”。
ふたつ目は、玉ねぎを刻んだ時や目にゴミが入った時に防御のために出る“反射の涙”。
そして3つ目が、悲しみや感動で流す“情動の涙”である。
“情動の涙”とは、良きにしろ悪しきにしろ、感情が高まることで流れる涙のこと。その時、コミュニケーションや共感を司り、脳の司令塔とも呼ばれる“前頭前野”(前頭部に位置。※10参照)に血流が増え、激しく興奮することから涙が出るのだそうだ。
「“情動の涙”には、その時の高まっている感情を抑え、心身をリラックスさせる力が秘められている」と有田氏。
いったいなぜ、涙にそんな力があるのだろう?
それについては、人が生きて行く中で出合うさまざまな体験と、涙の変化について知ることが近道だという。この辺りは省略するが、泣くのを我慢するとストレスが溜まる結果にもなるそうで、笑うことも、免疫力が高まり健康につながると言われているが、ストレスを解消するという意味では、泣くことのほうが効果的であるという。いろいろ泣く方法が書かれているが、気持ちよく泣くためには、家で、感動的なDVDの“映画”などおすすめだという(※11参照)
生化学者のウィリアム・フレイ二世(William H. Frey II)が「情が高ぶった時に、人は何故涙を流して泣くのか?」との問いへの答えを探求したそうで、彼によると、感情的な涙の原因の内訳は、女性の場合、悲しみが5割、喜びが2割、怒りが1割で、同情・心配・恐怖がこれに続く。また、女性の85%、男性の73%は、「泣いた後、気分が良くなる」と答えているそうだ。そして、彼も涙に精神的なストレスを解消する働きがあるのではないかと考えた(※12参照)ようなので、今日は、以下参考の※13:TSUTAYAが選んだ 「世界が泣いた映画100選」などで良い映画(泣ける映画)を探して、泣いてみませんか。
参考:
※1:日本記念日協会
http://www.kinenbi.gr.jp/
※2:山上憶良 千人万首
http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/okura2.html
※3:第13回「泣く子は育つ」といわれる理由
https://www.peacemind.com/pm_home_column.php?id=24&dat=754
※4:総合心理相談
http://www5f.biglobe.ne.jp/~mind/index.html
※5:中庸
http://www.h4.dion.ne.jp/~sstm/library/shoshi/chuuyou.html
※6:「心身対話」〜心の在り処を求めて〜
http://www.dokidoki.ne.jp/home2/islam/philo/syuron1.htm
※7:哲学入門6月6日講義思考(精神の働き)について_3
http://www.parsley-pf.jp/kudo/philo/philo_m_0606.html
※8:情動のメカニズムの探求 - RIKEN Brain Science Institute - 理化学研究所
http://www.brain.riken.jp/bsi-news/bsinews3/no3/special.html
※9:シャクターの情動二要因理論と情動の形成機序
http://www5f.biglobe.ne.jp/~mind/knowledge/basic/social002.html
※10:
前頭前野 - 脳科学辞典
http://bsd.neuroinf.jp/wiki/%E5%89%8D%E9%A0%AD%E5%89%8D%E9%87%8E
※11:泣いた後には、笑顔になれる。人だけが持つ「涙」の力
http://fufufu.rohto.co.jp/feature/339/
※12:人はなぜ泣くのか
http://www.systemicsarchive.com/ja/a/cry.html
※13:TSUTAYAが選んだ 「世界が泣いた映画100選」一覧
http://makemyself.blog64.fc2.com/blog-entry-370.html
最近、泣いてますか・・・?感情的な?涙? - Naverまとめ
http://matome.naver.jp/odai/2137454061006937701
脳科学(感情と情動)
http://www.mind-science.jp/pg90.html
痛みと鎮痛の基礎知識
http://www.shiga-med.ac.jp/~koyama/analgesia/react-emotion.html