皆さんお正月はいかがお過ごしでしたでしょうか。
私は1月ほどブログも休みゆっくりと休養しました。これからまたぼちぼちとこのブログを書こうと思っていますので宜しくお願いします。
2012(平成24)年の今日・1月17日で、神戸市ほか兵庫県内を中心に死者6434人、負傷者約4万4千人にのぼる戦後最大の自然災害をもたらした阪神・淡路大震災から、丸17年を迎えることになった。そして、あと2ヵ月後の3月11日には、現代に生きるわれわれの想像をはるかに超える規模の地震と津波で多くの方々が犠牲になった東日本大震災から1年となる。
17年前の阪神・淡路大震災では、大勢の若者がボランティアとして被災地へと駆けつけてくださり、今時の若者・・・が見直され、被災地神戸のみならず全国に共同体感情のようなものが生まれ、この年は、日本の本格的ボランティア元年と言われるようにさえなった。
丸17年目を迎えた今日も各地で、被災者を悼む追悼行事がおこなわれるが、昨年暮れのマスコミなどの報道によると、ボランティア団体やNPO法人の代表らでつくる「市民による追悼行事を考える会」(神戸市)調べによると、毎年1月に行なわれてきた被災者を悼む様々な行事も15年の節目となった2010(平成22)年には102件も行なわれたが、昨年は遺族等の意向で参加型行事は減少したが、今年(2012年)も更に減少し、地元の人たちだけで粛々と行なわれる形のものに変わってきたようだ。そこには、遺族等の高年齢かもあるだろう。
しかし、一方、東日本大震災の被災地・東北地方などに場所を移したり、追悼の対照を変えたりして行事を継続させる動きが増えてきており、追悼行事そのものは、今なお減らない点を考えると、関係者の方の思いの強さがよくわかる。
阪神・淡路大震災の起こった翌・1996(平成8)年以降、日本付近で発生した主な被害地震(平成8年〜平成23年11月の人的被害を伴った地震)の状況は、※1:「気象庁 | 地震・津波」のここを見れば詳しく判るが、これを見ると我が国はなんと地震の多い国かと言うことがよくわかるであろう。中でも、最近のものでは、平成16年(2004年)新潟県中越地震では死者68人負傷4,805人を出した他、負傷者1000人以上の平成17年(2005年) 3月20日の福岡県西方沖地震(死者:1名)、平成19年(2007年)新潟県中越沖地震(死者15人、負傷者 2,346人)と大地震が続き、昨年の東日本大震災(死者16,146 不明者3,333人負傷者6,052人【平成23年12月12日現在】)へと繋がったわけであり、防災に関する文章などによく用いられる物理学者にして随筆家・寺田寅彦の言葉・警句として有名な「天災は忘れられたる頃来たる」(※2参照)どころではない。地震大国とも言われる日本では、ここのところ、周期的大地震が頻繁に来ているのである。
私が子供の頃、戦後暫くまでは使われていた言葉であるが、科学も発達し、家庭では亭主(親父)の権威も失墜してしまった今の時代には余り耳にもしなくなった言葉、「地震、雷、火事、親父(オヤジ)」にもあるように、かって、怖いものの筆頭に地震が挙げられていたのは昔人の教訓でもあった。
「地震」と言う字は「地が震える」と書くが、「地震」のことは、古くは「なゐ」と言い、鴨長明が1212年(建暦2年))に書き上げたとされる『方丈記』には、自らが経験した天変地異に関する記述を書き連ねており、その中のひとつに1185年(元暦2年)に都を襲った元暦の大地震があり、ここで、「地震」を意味する言葉として「なゐ」が出てくる。
その原文及び現代語訳等は、以下参考の※3:「古典に親しむ 「方丈記」鴨長明」の【元暦の大地震】の項で読めるが、その現代語訳のものを引用すると、長明はその恐ろしさを以下のように書いている。
“また、同じころだったか、ものすごい大地震(現文では、「おおなゐ」と表記)があったことがある。そのさまは尋常ではなかった。山は崩れ、その土が河をうずめ、海が傾いて陸地に浸水した。大地は裂けて水が湧き出し、大きな岩が割れて谷に転がり落ちた。波打ち際を漕ぐ船は波の上に漂い、道行く馬は足の踏み場に惑っている。都のあたりでは、至るところ、寺のお堂や塔も、一つとして無事なものはない。あるものは崩れ、あるものは倒れている。塵や灰が立ち上って、もうもうとした煙のようである。大地が揺れ動き、家屋が倒れる音は、雷の音とそっくりだ。家の中にいると、あっという間に押しつぶされかねない。かといって、外に走り出れば大地が割れ裂ける。羽がないので、空を飛ぶこともできない。竜であったなら、雲にでも乗るだろうに。これまでの恐ろしかった経験の中でも、とりわけ恐ろしいのは、やはり地震(現文では「なゐ」と表記)だと思った。“・・・・・と。
その後余震も長く続き地震の恐さを書き、最後に、
”その直後には、だれもかれもがこの世の無常とこの世の生活の無意味さを語り、いささか欲望や邪念の心の濁りも薄らいだように思われたが、月日が重なり、何年か過ぎた後は、そんなことを言葉にする人もいなくなった。”・・・と。又、”そんな恐い目をした人達も、年月を重ねると、地震のことは忘れ去られてしまう・・・・と、書かれている。
この『方丈記』に登場する1185年(元暦2年)の大地震では、「大地は裂けて水が湧き出し」とあり、正にこれは、液状化現象ではないか?日本の内陸部京都で何故液状化が起こるのか?不思議に思うが、調べてみると、京都府の南部、現在の京都市伏見区、宇治市、久御山町にまたがる場所には巨椋池という巨大な池があったそうで、規模からいえば池よりも「湖」の方がふさわしく、現在「池」と称する最大の湖沼である湖山池よりも広かったそうだ。
上掲の画像が在りし日の巨椋池である(画像はWikipediaより借用)
京都は、扇状に堆積した地形上に古都を作って、鴨川や木津川の流れなど自然を利用して暮らしてきた。
そんな京都府下には、主要な活断層として、滋賀県境付近から奈良県境付近にかけて三方・花折断層帯が、南東部には、三重県・滋賀県から延びる木津川断層帯が、南部には兵庫県・大阪府から延びる有馬−高槻断層帯と、それに直交するように大阪府・奈良県の県境付近から延びる生駒断層帯が、中央部の丹波高地の西部から京都盆地西縁にかけては三峠・京都西山断層帯が、北部には山田断層帯と・・いくつもの断層帯が延びており、当時大きな地震が頻発していたようである(※4:「地震調査研究推進本部」の近畿地方>京都府 参照)。
そんな中、琵琶湖西岸の断層帯で、約800年前、栄華を誇った平家が滅亡に至った治承・寿永の乱の最後の戦いである壇ノ浦の戦いの時に起きた地震が、『方丈記』に記載されている地震であり、この時のマグニチュードは7.4だったという(※5も参照)。
内陸部でも軟弱な地盤は崩れ、あるいは地割れして水が噴き出る液状化が起こっても不思議ではない状況であったのではないか。これを見ると、安全だと思っている内陸部だからといって、場所によっては液状化がないという保証はないことになる。いわんや阪神・淡路大震災時の神戸ポートアイランド、東日本大震災時の千葉県浦安市など、自然界のときの概念からに見れば、昨日・今日埋め立てたばかりの地域での液状化は、大地震が来れば当然起こることが想定していなければいけないことであったろう。
「なゐ」の言葉の文献による初出は、もっと古く、『日本書紀』巻第十六(武烈紀)の歌謡の中にも「なゐ(那為)」(那為我与釐拠魔=那為【なゐ】が震【よ】り来【こ】ば=地震が来れば。6:日本書紀【朝日新聞社本】のここ参照)として出てくる。
以下参考の※7:「公益社団法人日本地震学会」によれば、大地が突然震動することを、昔の人は「なゐふる」と言い。「な(土地のこと)」+「ゐ(居)」で「大地」を表わす古語「なゐ」に、「ふる(震動する)」が加わったものが、転じて「なゐ」だけでも大地の震動(地震)を指すようになったらしい(※3の広報紙名「なゐふる」についてを参照)。
今年、年初めのブログに「地震」を選んだのは、今日が阪神淡路大震災の丸17年目であるからだけではない。今年の「えと(干支)」と関係があるからである。
今年・2012(平成24)年は、辰年(たつどし)であるが、ただ「干支(えと)は辰(たつ)」というのは正しくない。
今日では、「干支」(えと)と言えば「十二支(じゅうにし)」のことを指すことが多いが、「十二支」は古来、「甲子(きのえね)」「乙丑(きのとうし)」のように、十干と組み合わせて用いられてきた。字音から言えば、十干は「幹」、十二支は「枝」であり、この十干十二支を合わせたものを、干支(「かんし」または「えと」)といい、干支を書くとき干は支の前に書かれる。
「えと」という呼称は本来、十干を「きのえ」「きのと」のように、陰陽説でいう陽と陰を表した言葉兄(え)、と弟(と)の組み合わせとして訓読したことに由来するが、この逆転現象は干支のうち、五行思想とともに忘れ去られつつある十干に対して、「ネ」「ウシ」「トラ」「ウ」など動物イメージを付与されることによって具体的で身近なイメージを獲得した十二支のみが、現代の文化の中にかろうじて生き残っていることによるようだ。
今年・2012(平成24)年の場合、干支では29番の「壬辰(みずのえたつ・じんしん)」となる。
十干の壬は陽の水(水の兄)であり、その本義は「“妊”に通じ、陽気を下に姙(はら)む意」(植物の内部に種子が生まれた状態。水のように自由に適応していく等の意味を持ったもの)だとしている(干支について詳しくは、 Wikipedia-干支 また、※1参照)。
干支は、「竜」や「龍」(竜を参照)ではなく、「辰」と書き本来「しん」と読む。
「辰」の字源は、部首「虫」と「辰」(音符)からなる会意形声文字「蜃」で、部首「虫」は、今日では主に水中以外の節足動物を指しているが、もとは、ヘビをかたどった象形文字で、本来はヘビ、特にマムシに代表される毒を持ったヘビを指していたが、それ以外の小動物に対して用いる文字へと変化していった。そのことから、貝の種類を表す漢字には虫偏のものが多い(「蛤(ハマグリ)」など)。
Wikipediaによれば、蜃(しん)とは、蜃気楼を作り出すといわれる伝説の生物。古代の中国と日本で伝承されており、巨大なハマグリとする説と、竜の一種とする説があるそうで、蜃気楼の名は「蜃」が「気」を吐いて「楼閣」を出現させると考えられたことに由来するという。
中国の古書『彙苑』では、ハマグリの別名を蜃といい、春や夏に海中から気を吐いて楼台を作り出すとあり、この伝承が日本にも広く伝わったようだ。
そのようなことから、一般的に部首「辰」(しん)は、二枚貝から、びらびらとした肉がのぞく様(象形)であり、唇(「口とともに小刻みにびらびらとに動く肉)、振・震(ぶるぶるふるえる)などと同系の意を含み、『漢書』律暦志によると「振」(しん:「ふるう」「ととのう」の意味)で、草木の形が整った状態を表しているとされる。後に、覚え易くするために辰には唯一の神話上の動物である竜(龍)が割り当てられたが、干支で辰だけが実在の動物ではなく、伝説上の生き物を割り当てられている。
龍(竜)は神獣・霊獣であり、麒麟・鳳凰・霊亀とともに四霊のひとつとして扱われる。
その中でも、一説によると、龍の姿は「角は鹿、頭は駱駝、眼は兎、身体は蛇、腹は蜃、背中の鱗は鯉、爪は鷹、掌は虎、耳は牛」。つまり、他の部族と融合した結果、次々と相手のトーテムの一部を取り入れ、平和的な統合(融合)を繰り返した結果、あのような複雑な姿(シンボル)姿になってしまったものであり、他のものより「龍は平和の象徴」を最も表現しているものであり、縁起のよい動物であるという(※8のここ参照)。
長々と書いたが、今年の干支「辰」が震(ふるえる)と同系の文字であり、「辰」の関連語「賑」も「人や財貨が頻繁に動く・・・つまり、にぎわい」が字源。
2012年辰年のキーワードはこの「震」になるのではないか。
辰年は俗に昇り竜(昇竜)とも称し、勢いの良い様に例えられる。昨年は大地震もあり、激動の一年であったので今年はその辛さや悲しさに、震える心を、奮い立たせて、より成長してゆきたいものと願ってはいるのだが・・・・。
今年の干支の「壬辰」は、陰陽五行では、十干の壬は陽の水、十二支の辰は陽の土で、相剋(土剋水)だそうである。
相剋とは、国語辞書にあるように、”対立・矛盾する二つのものが互いに相手に勝とうと争うこと。「理性と感情が―する」”を言い、その意味で、今年は、相矛盾したことが衝突する年であるということになる。
昨・2011(平成23)年の幕開けは中東のジャスミン革命であり、後半はギリシャ問題(ギリシャの経済参照)に代表されるユーロ圏の金融危機で先進諸国の脆弱ぶりが炙り出され、米国など日本を含む幾つかの国の国債格下げの動きとなった。また、世界の各地では相次で天災が発生している(※9参照)が、そんな渾沌とした状況の中、我が国もデフレ経済からの脱却が出来ず景気も低迷している中、3月11日未曾有の東日本大震災により、チェエイノブイリ原子力発電事故以来の福島第一原子力発電所事故まで引き起こしてしまうなど大揺れの年であった。
今年は、世界的金融不安の中、世界一巨大な財政赤字(※10参照)を抱える日本は、震災からの復興と原発事故によるエネルギー問題(※11参照)の解決、格差社会の是正、年金・医療問題・・・と、余りにも多くの問題を抱えているが、それを解決しなければならない現政権政党を見ていると、本当に今年は、昇り竜にあやかって、希望の持てる年になるのだろうか?・・・不安を感じざるを得ない。
私は易の事など分からないが、“対立・矛盾する二つのものが互いに相手に勝とうと衝突する”ことを意味する五行の相剋は、その年が平和的な年でなく、その時に有能な良きリーダーが現れ上手く時流に対応できるか否かで良くも悪くもなるものと解釈している。
言いかえれば干支の波動は60年周期で、新しい波動は前波動の対極に向かうべく動いていく、つまり、分水嶺にいるのだと思う。その動きは分水嶺を境にして一気に高まり、もし、社会や政治、経済の変革を推し進める衝動(外からの強い力や刺激)が良い方向に向かえば、その進展や改革が早まることになると言うことかもしれないが・・・・。
今世界を襲っている激震は、直ぐに収まらずその余震は長く続きそうな気配だ。今年は米国大統領選ほか主要国の多くのトップが入れ替わるかも知れない。日本の場合も、その可能性が大である。今の日本の状況で、政局を誤り、根幹の問題で、改革すべきことを改革しないと、坂道を転げる落ちるようなことにもなりかねない危険状態の年だと言えるだろう。
それに、歴史上、記録に残っている大きな地震は辰年に発生しているという。例えば、1952壬辰年(07/21 カリフォルニア: マグニチュード7. 5(、11/04 カムチャツカ半島付近: マグニチュード8.25 )、1964甲辰年(03/27 アラスカ: マグニチュード9.2、06/16 新潟: マグニチュード7.6 )、1976丙辰年(07/28 唐山 中国: マグニチュード7.8 )、1988戊辰年(08/21 ネパール: マグニチュード6.6、12/07 レニナカン ロシア: マグニチュード6.9) 、2000庚辰年(11/25 アゼルバイジャン: マグニチュード7、06/04 スマトラ: マグニチュード7.9 )等(※12参照)。
日本では昨年大震災があったから今年はないだろうとは言えない。洪水や地震などの自然災害が今年も場所を変えて何処であるかも知れない。防災への備えを怠ってはいけないだろう!
最後に、先にも紹介した、寺田寅彦の伝説の警句 「天災は忘れた頃に来る”」の言葉は寺田の随筆や手紙や手帳なども含めて本人が書いたものの中には見当たらず、今村明恒著『地震の国』によると、“天災は忘れた時分に来る。故寺田寅彦博士が、大正の関東大震災後、何かの雑誌に書いた警句であったと記憶している。”・・とあるそうだ(※2参照)。
因みに、地震の神様とも呼ばれている地震学者今村明恒の予想通り1944(昭和19)年に東南海地震、1946(昭和21)年に南海地震が発生した。東南海地震後には南海地震の発生を警告したものの、被害が軽減できなかったことを悔やんだと言われる。また、1933(昭和8)年に三陸沖地震が発生した際には、その復興の際に津波被害を防ぐための住民の高所移転を提案したという(Wikipedia)のだが、今村の提案に対して地元民はどう対応したのだろう・・・?
寺田も『天災と国防』の中で、
“戦争はぜひとも避けようと思えば人間の力で避けられなくはないであろうが、天災ばかりは科学の力でもその襲来を中止させるわけには行かない。その上に、いついかなる程度の地震暴風津波洪水(こうずい)が来るか今のところ容易に予知することができない。(中簡略)
文明が進むほど天災による損害の程度も累進する傾向があるという事実を充分に自覚して、そして平生からそれに対する防御策を講じなければならないはずであるのに、それがいっこうにできていないのはどういうわけであるか。そのおもなる原因は、畢竟(ひっきょう)そういう天災がきわめてまれにしか起こらないで、ちょうど人間が前車の顛覆(てんぷく)を忘れたころにそろそろ後車を引き出すようになるからであろう。
しかし昔の人間は過去の経験を大切に保存し蓄積してその教えにたよることがはなはだ忠実であった。過去の地震や風害に堪えたような場所にのみ集落を保存し、時の試練に堪えたような建築様式のみを墨守して来た。それだからそうした経験に従って造られたものは関東震災でも多くは助かっているのである。“・・・と、
書いていることなどから、寺田の著作に、「天災は・・・」という言葉が使われていなくても、「天災は・・・」の言葉そのものはしばしば使っていたことは想像出来る。
『天災と国防』のなかに書かれているところを見ても、寺田が真に憂えていたのは天災が起こることではなくて、起こった天災を教訓とした次の天災への備えが進まないことであったろう。
有り難いことに、今の時代、寺田の随筆は、青空文庫(※13「作家別作品リスト:No.42寺田寅彦」)で何時でも読むことが出来るが、同リストにざっと目を通しただけで、「天災と国防」の他、災害や防災に関する記述のあるものは、「芝刈り」、 「断水の日」、「怪異考」、「時事雑感(地震国防)」、「函館の大火について」、「からすうりの花と蛾」 、「Liber Studiorum」、「地震雑感」 「災難雑考」 「静岡地震被害見学記」 「震災日記より」 「塵埃と光」 、「津浪と人間」など多数あり、これらを読んでいると、寺田は、歴史を振り返れば“天災が来る事は想定外のことではないのだよ”“天災はその備えを忘れた頃に必ずやって来るものなのだよ”と言うことを警告しているのだと私は思っている。
そして、「津浪と人間」では東北日本の太平洋岸で起こった津波のことに触れているので、最後に、そこで書かれていることをそのまま以下に抜粋する。
“昭和八年三月三日の早朝に、東北日本の太平洋岸に津浪が襲来して、沿岸の小都市村落を片端から薙(な)ぎ倒し洗い流し、そうして多数の人命と多額の財物を奪い去った。明治二十九年六月十五日の同地方に起ったいわゆる「三陸大津浪」とほぼ同様な自然現象が、約満三十七年後の今日再び繰返されたのである。
同じような現象は、歴史に残っているだけでも、過去において何遍となく繰返されている。歴史に記録されていないものがおそらくそれ以上に多数にあったであろうと思われる。現在の地震学上から判断される限り、同じ事は未来においても何度となく繰返されるであろうということである。
こんなに度々繰返される自然現象ならば、当該地方の住民は、とうの昔に何かしら相当な対策を考えてこれに備え、災害を未然に防ぐことが出来ていてもよさそうに思われる。これは、この際誰しもそう思うことであろうが、それが実際はなかなかそうならないというのがこの人間界の人間的自然現象であるように見える。
学者の立場からは通例次のように云われるらしい。「この地方に数年あるいは数十年ごとに津浪の起るのは既定の事実である。それだのにこれに備うる事もせず、また強い地震の後には津浪の来る恐れがあるというくらいの見やすい道理もわきまえずに、うかうかしているというのはそもそも不用意千万なことである。」
しかしまた、罹災者(りさいしゃ)の側に云わせれば、また次のような申し分がある。「それほど分かっている事なら、何故津浪の前に間に合うように警告を与えてくれないのか。正確な時日に予報出来ないまでも、もうそろそろ危ないと思ったら、もう少し前にそう云ってくれてもいいではないか、今まで黙っていて、災害のあった後に急にそんなことを云うのはひどい。」
すると、学者の方では「それはもう十年も二十年も前にとうに警告を与えてあるのに、それに注意しないからいけない」という。するとまた、罹災民は「二十年も前のことなどこのせち辛い世の中でとても覚えてはいられない」という。これはどちらの云い分にも道理がある。つまり、これが人間界の「現象」なのである。
災害直後時を移さず政府各方面の官吏、各新聞記者、各方面の学者が駆付けて詳細な調査をする。そうして周到な津浪災害予防案が考究され、発表され、その実行が奨励されるであろう。
中略
(追記) 三陸災害地を視察して帰った人の話を聞いた。ある地方では明治二十九年の災害記念碑を建てたが、それが今では二つに折れて倒れたままになってころがっており、碑文などは全く読めないそうである。またある地方では同様な碑を、山腹道路の傍で通行人の最もよく眼につく処に建てておいたが、その後新道が別に出来たために記念碑のある旧道は淋(さび)れてしまっているそうである。それからもう一つ意外な話は、地震があってから津浪の到着するまでに通例数十分かかるという平凡な科学的事実を知っている人が彼地方に非常に稀だということである。前の津浪に遭った人でも大抵そんなことは知らないそうである。“・・・・と。
寺田のどうしようもない苛立ちが痛いほど感じられないだろうか・・・。もう、自然災害に対して、想定外という言葉は、ただの言い訳に過ぎなくなったといえるかもしれない。
(冒頭の画像は、私のコレクションで平戸焼きの酒器・玉を追う竜です。)
参考:
※1:気象庁 | 地震・津波
lhttp://www.jma.go.jp/jma/kishou/know/jishin.html
※2:寺田寅彦の伝説の警句 天災は忘れた頃に来る
http://www5d.biglobe.ne.jp/~kabataf/torahiko/torahiko.htm
※3:古典に親しむ 「方丈記」鴨長明
http://www.h3.dion.ne.jp/~urutora/houjouki.htm
※4:地震調査研究推進本部
http://www.jishin.go.jp/main/index.html
※5:災害の歴史 - 京都市市民防災センター
http://web.kyoto-inet.or.jp/org/bousai_s/history/index.html
※6:日本書紀(朝日新聞社本)
http://www.j-texts.com/sheet/shoki.html
※7:公益社団法人日本地震学会
http://www.zisin.jp/modules/pico/index.php
※8:干支(えと・かんし)///_十干十二支_///_漢字家族
http://1st.geocities.jp/ica7ea/kanji/kanshi.html
※9:災害ニュース 国際ニュース : AFPBB News
http://www.afpbb.com/category/disaster-accidents-crime/disaster
※10:リアルタイム財政赤字カウンター 11
http://www.kh-web.org/fin/
※11:エネルギー問題 エネルギー - 環境用語集
http://eco.goo.ne.jp/word/energy/S00080.html
※12:2012年壬辰年の運勢-レイモンド・ロー 日本公式ウェブサイト
http://raymond-lo.five-arts.com/articles-2012dragon.html
※13:作家別作品リスト:No.42作家名: 寺田 寅彦
http://www.aozora.gr.jp/index_pages/person42.html
阪神・淡路大震災教訓情報資料集(内閣府)
http://www.bousai.go.jp/1info/kyoukun/hanshin_awaji/index.html
東洋の歴史から学ぶ 〜時代を生き抜く知恵と思考〜
http://www.jpc-net.jp/cisi/mailmag/m116_pa2.html
ギリシャ問題が終息しない理由
http://www.gci-klug.jp/ogasawara/2011/09/15/013788.php
PIIGSとは何か?ギリシャ問題とは何か? [外国株] All About
http://allabout.co.jp/gm/gc/44500/
防災システム研究所
http://www.bo-sai.co.jp/index.html
地震年表
http://homepage2.nifty.com/yyamasaki/SHEEP1.TXT
大地震、京都では30年以内に震度6の可能性(YOMIURI ONLINE)
http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20110424-OYT1T00267.htm
干支(えと)情報 〜2012年・辰(たつ)年版
http://www.nengasyotyuu.com/nenga/ninfo/ninfo_01.html
私は1月ほどブログも休みゆっくりと休養しました。これからまたぼちぼちとこのブログを書こうと思っていますので宜しくお願いします。
2012(平成24)年の今日・1月17日で、神戸市ほか兵庫県内を中心に死者6434人、負傷者約4万4千人にのぼる戦後最大の自然災害をもたらした阪神・淡路大震災から、丸17年を迎えることになった。そして、あと2ヵ月後の3月11日には、現代に生きるわれわれの想像をはるかに超える規模の地震と津波で多くの方々が犠牲になった東日本大震災から1年となる。
17年前の阪神・淡路大震災では、大勢の若者がボランティアとして被災地へと駆けつけてくださり、今時の若者・・・が見直され、被災地神戸のみならず全国に共同体感情のようなものが生まれ、この年は、日本の本格的ボランティア元年と言われるようにさえなった。
丸17年目を迎えた今日も各地で、被災者を悼む追悼行事がおこなわれるが、昨年暮れのマスコミなどの報道によると、ボランティア団体やNPO法人の代表らでつくる「市民による追悼行事を考える会」(神戸市)調べによると、毎年1月に行なわれてきた被災者を悼む様々な行事も15年の節目となった2010(平成22)年には102件も行なわれたが、昨年は遺族等の意向で参加型行事は減少したが、今年(2012年)も更に減少し、地元の人たちだけで粛々と行なわれる形のものに変わってきたようだ。そこには、遺族等の高年齢かもあるだろう。
しかし、一方、東日本大震災の被災地・東北地方などに場所を移したり、追悼の対照を変えたりして行事を継続させる動きが増えてきており、追悼行事そのものは、今なお減らない点を考えると、関係者の方の思いの強さがよくわかる。
阪神・淡路大震災の起こった翌・1996(平成8)年以降、日本付近で発生した主な被害地震(平成8年〜平成23年11月の人的被害を伴った地震)の状況は、※1:「気象庁 | 地震・津波」のここを見れば詳しく判るが、これを見ると我が国はなんと地震の多い国かと言うことがよくわかるであろう。中でも、最近のものでは、平成16年(2004年)新潟県中越地震では死者68人負傷4,805人を出した他、負傷者1000人以上の平成17年(2005年) 3月20日の福岡県西方沖地震(死者:1名)、平成19年(2007年)新潟県中越沖地震(死者15人、負傷者 2,346人)と大地震が続き、昨年の東日本大震災(死者16,146 不明者3,333人負傷者6,052人【平成23年12月12日現在】)へと繋がったわけであり、防災に関する文章などによく用いられる物理学者にして随筆家・寺田寅彦の言葉・警句として有名な「天災は忘れられたる頃来たる」(※2参照)どころではない。地震大国とも言われる日本では、ここのところ、周期的大地震が頻繁に来ているのである。
私が子供の頃、戦後暫くまでは使われていた言葉であるが、科学も発達し、家庭では亭主(親父)の権威も失墜してしまった今の時代には余り耳にもしなくなった言葉、「地震、雷、火事、親父(オヤジ)」にもあるように、かって、怖いものの筆頭に地震が挙げられていたのは昔人の教訓でもあった。
「地震」と言う字は「地が震える」と書くが、「地震」のことは、古くは「なゐ」と言い、鴨長明が1212年(建暦2年))に書き上げたとされる『方丈記』には、自らが経験した天変地異に関する記述を書き連ねており、その中のひとつに1185年(元暦2年)に都を襲った元暦の大地震があり、ここで、「地震」を意味する言葉として「なゐ」が出てくる。
その原文及び現代語訳等は、以下参考の※3:「古典に親しむ 「方丈記」鴨長明」の【元暦の大地震】の項で読めるが、その現代語訳のものを引用すると、長明はその恐ろしさを以下のように書いている。
“また、同じころだったか、ものすごい大地震(現文では、「おおなゐ」と表記)があったことがある。そのさまは尋常ではなかった。山は崩れ、その土が河をうずめ、海が傾いて陸地に浸水した。大地は裂けて水が湧き出し、大きな岩が割れて谷に転がり落ちた。波打ち際を漕ぐ船は波の上に漂い、道行く馬は足の踏み場に惑っている。都のあたりでは、至るところ、寺のお堂や塔も、一つとして無事なものはない。あるものは崩れ、あるものは倒れている。塵や灰が立ち上って、もうもうとした煙のようである。大地が揺れ動き、家屋が倒れる音は、雷の音とそっくりだ。家の中にいると、あっという間に押しつぶされかねない。かといって、外に走り出れば大地が割れ裂ける。羽がないので、空を飛ぶこともできない。竜であったなら、雲にでも乗るだろうに。これまでの恐ろしかった経験の中でも、とりわけ恐ろしいのは、やはり地震(現文では「なゐ」と表記)だと思った。“・・・・・と。
その後余震も長く続き地震の恐さを書き、最後に、
”その直後には、だれもかれもがこの世の無常とこの世の生活の無意味さを語り、いささか欲望や邪念の心の濁りも薄らいだように思われたが、月日が重なり、何年か過ぎた後は、そんなことを言葉にする人もいなくなった。”・・・と。又、”そんな恐い目をした人達も、年月を重ねると、地震のことは忘れ去られてしまう・・・・と、書かれている。
この『方丈記』に登場する1185年(元暦2年)の大地震では、「大地は裂けて水が湧き出し」とあり、正にこれは、液状化現象ではないか?日本の内陸部京都で何故液状化が起こるのか?不思議に思うが、調べてみると、京都府の南部、現在の京都市伏見区、宇治市、久御山町にまたがる場所には巨椋池という巨大な池があったそうで、規模からいえば池よりも「湖」の方がふさわしく、現在「池」と称する最大の湖沼である湖山池よりも広かったそうだ。
上掲の画像が在りし日の巨椋池である(画像はWikipediaより借用)
京都は、扇状に堆積した地形上に古都を作って、鴨川や木津川の流れなど自然を利用して暮らしてきた。
そんな京都府下には、主要な活断層として、滋賀県境付近から奈良県境付近にかけて三方・花折断層帯が、南東部には、三重県・滋賀県から延びる木津川断層帯が、南部には兵庫県・大阪府から延びる有馬−高槻断層帯と、それに直交するように大阪府・奈良県の県境付近から延びる生駒断層帯が、中央部の丹波高地の西部から京都盆地西縁にかけては三峠・京都西山断層帯が、北部には山田断層帯と・・いくつもの断層帯が延びており、当時大きな地震が頻発していたようである(※4:「地震調査研究推進本部」の近畿地方>京都府 参照)。
そんな中、琵琶湖西岸の断層帯で、約800年前、栄華を誇った平家が滅亡に至った治承・寿永の乱の最後の戦いである壇ノ浦の戦いの時に起きた地震が、『方丈記』に記載されている地震であり、この時のマグニチュードは7.4だったという(※5も参照)。
内陸部でも軟弱な地盤は崩れ、あるいは地割れして水が噴き出る液状化が起こっても不思議ではない状況であったのではないか。これを見ると、安全だと思っている内陸部だからといって、場所によっては液状化がないという保証はないことになる。いわんや阪神・淡路大震災時の神戸ポートアイランド、東日本大震災時の千葉県浦安市など、自然界のときの概念からに見れば、昨日・今日埋め立てたばかりの地域での液状化は、大地震が来れば当然起こることが想定していなければいけないことであったろう。
「なゐ」の言葉の文献による初出は、もっと古く、『日本書紀』巻第十六(武烈紀)の歌謡の中にも「なゐ(那為)」(那為我与釐拠魔=那為【なゐ】が震【よ】り来【こ】ば=地震が来れば。6:日本書紀【朝日新聞社本】のここ参照)として出てくる。
以下参考の※7:「公益社団法人日本地震学会」によれば、大地が突然震動することを、昔の人は「なゐふる」と言い。「な(土地のこと)」+「ゐ(居)」で「大地」を表わす古語「なゐ」に、「ふる(震動する)」が加わったものが、転じて「なゐ」だけでも大地の震動(地震)を指すようになったらしい(※3の広報紙名「なゐふる」についてを参照)。
今年、年初めのブログに「地震」を選んだのは、今日が阪神淡路大震災の丸17年目であるからだけではない。今年の「えと(干支)」と関係があるからである。
今年・2012(平成24)年は、辰年(たつどし)であるが、ただ「干支(えと)は辰(たつ)」というのは正しくない。
今日では、「干支」(えと)と言えば「十二支(じゅうにし)」のことを指すことが多いが、「十二支」は古来、「甲子(きのえね)」「乙丑(きのとうし)」のように、十干と組み合わせて用いられてきた。字音から言えば、十干は「幹」、十二支は「枝」であり、この十干十二支を合わせたものを、干支(「かんし」または「えと」)といい、干支を書くとき干は支の前に書かれる。
「えと」という呼称は本来、十干を「きのえ」「きのと」のように、陰陽説でいう陽と陰を表した言葉兄(え)、と弟(と)の組み合わせとして訓読したことに由来するが、この逆転現象は干支のうち、五行思想とともに忘れ去られつつある十干に対して、「ネ」「ウシ」「トラ」「ウ」など動物イメージを付与されることによって具体的で身近なイメージを獲得した十二支のみが、現代の文化の中にかろうじて生き残っていることによるようだ。
今年・2012(平成24)年の場合、干支では29番の「壬辰(みずのえたつ・じんしん)」となる。
十干の壬は陽の水(水の兄)であり、その本義は「“妊”に通じ、陽気を下に姙(はら)む意」(植物の内部に種子が生まれた状態。水のように自由に適応していく等の意味を持ったもの)だとしている(干支について詳しくは、 Wikipedia-干支 また、※1参照)。
干支は、「竜」や「龍」(竜を参照)ではなく、「辰」と書き本来「しん」と読む。
「辰」の字源は、部首「虫」と「辰」(音符)からなる会意形声文字「蜃」で、部首「虫」は、今日では主に水中以外の節足動物を指しているが、もとは、ヘビをかたどった象形文字で、本来はヘビ、特にマムシに代表される毒を持ったヘビを指していたが、それ以外の小動物に対して用いる文字へと変化していった。そのことから、貝の種類を表す漢字には虫偏のものが多い(「蛤(ハマグリ)」など)。
Wikipediaによれば、蜃(しん)とは、蜃気楼を作り出すといわれる伝説の生物。古代の中国と日本で伝承されており、巨大なハマグリとする説と、竜の一種とする説があるそうで、蜃気楼の名は「蜃」が「気」を吐いて「楼閣」を出現させると考えられたことに由来するという。
中国の古書『彙苑』では、ハマグリの別名を蜃といい、春や夏に海中から気を吐いて楼台を作り出すとあり、この伝承が日本にも広く伝わったようだ。
そのようなことから、一般的に部首「辰」(しん)は、二枚貝から、びらびらとした肉がのぞく様(象形)であり、唇(「口とともに小刻みにびらびらとに動く肉)、振・震(ぶるぶるふるえる)などと同系の意を含み、『漢書』律暦志によると「振」(しん:「ふるう」「ととのう」の意味)で、草木の形が整った状態を表しているとされる。後に、覚え易くするために辰には唯一の神話上の動物である竜(龍)が割り当てられたが、干支で辰だけが実在の動物ではなく、伝説上の生き物を割り当てられている。
龍(竜)は神獣・霊獣であり、麒麟・鳳凰・霊亀とともに四霊のひとつとして扱われる。
その中でも、一説によると、龍の姿は「角は鹿、頭は駱駝、眼は兎、身体は蛇、腹は蜃、背中の鱗は鯉、爪は鷹、掌は虎、耳は牛」。つまり、他の部族と融合した結果、次々と相手のトーテムの一部を取り入れ、平和的な統合(融合)を繰り返した結果、あのような複雑な姿(シンボル)姿になってしまったものであり、他のものより「龍は平和の象徴」を最も表現しているものであり、縁起のよい動物であるという(※8のここ参照)。
長々と書いたが、今年の干支「辰」が震(ふるえる)と同系の文字であり、「辰」の関連語「賑」も「人や財貨が頻繁に動く・・・つまり、にぎわい」が字源。
2012年辰年のキーワードはこの「震」になるのではないか。
辰年は俗に昇り竜(昇竜)とも称し、勢いの良い様に例えられる。昨年は大地震もあり、激動の一年であったので今年はその辛さや悲しさに、震える心を、奮い立たせて、より成長してゆきたいものと願ってはいるのだが・・・・。
今年の干支の「壬辰」は、陰陽五行では、十干の壬は陽の水、十二支の辰は陽の土で、相剋(土剋水)だそうである。
相剋とは、国語辞書にあるように、”対立・矛盾する二つのものが互いに相手に勝とうと争うこと。「理性と感情が―する」”を言い、その意味で、今年は、相矛盾したことが衝突する年であるということになる。
昨・2011(平成23)年の幕開けは中東のジャスミン革命であり、後半はギリシャ問題(ギリシャの経済参照)に代表されるユーロ圏の金融危機で先進諸国の脆弱ぶりが炙り出され、米国など日本を含む幾つかの国の国債格下げの動きとなった。また、世界の各地では相次で天災が発生している(※9参照)が、そんな渾沌とした状況の中、我が国もデフレ経済からの脱却が出来ず景気も低迷している中、3月11日未曾有の東日本大震災により、チェエイノブイリ原子力発電事故以来の福島第一原子力発電所事故まで引き起こしてしまうなど大揺れの年であった。
今年は、世界的金融不安の中、世界一巨大な財政赤字(※10参照)を抱える日本は、震災からの復興と原発事故によるエネルギー問題(※11参照)の解決、格差社会の是正、年金・医療問題・・・と、余りにも多くの問題を抱えているが、それを解決しなければならない現政権政党を見ていると、本当に今年は、昇り竜にあやかって、希望の持てる年になるのだろうか?・・・不安を感じざるを得ない。
私は易の事など分からないが、“対立・矛盾する二つのものが互いに相手に勝とうと衝突する”ことを意味する五行の相剋は、その年が平和的な年でなく、その時に有能な良きリーダーが現れ上手く時流に対応できるか否かで良くも悪くもなるものと解釈している。
言いかえれば干支の波動は60年周期で、新しい波動は前波動の対極に向かうべく動いていく、つまり、分水嶺にいるのだと思う。その動きは分水嶺を境にして一気に高まり、もし、社会や政治、経済の変革を推し進める衝動(外からの強い力や刺激)が良い方向に向かえば、その進展や改革が早まることになると言うことかもしれないが・・・・。
今世界を襲っている激震は、直ぐに収まらずその余震は長く続きそうな気配だ。今年は米国大統領選ほか主要国の多くのトップが入れ替わるかも知れない。日本の場合も、その可能性が大である。今の日本の状況で、政局を誤り、根幹の問題で、改革すべきことを改革しないと、坂道を転げる落ちるようなことにもなりかねない危険状態の年だと言えるだろう。
それに、歴史上、記録に残っている大きな地震は辰年に発生しているという。例えば、1952壬辰年(07/21 カリフォルニア: マグニチュード7. 5(、11/04 カムチャツカ半島付近: マグニチュード8.25 )、1964甲辰年(03/27 アラスカ: マグニチュード9.2、06/16 新潟: マグニチュード7.6 )、1976丙辰年(07/28 唐山 中国: マグニチュード7.8 )、1988戊辰年(08/21 ネパール: マグニチュード6.6、12/07 レニナカン ロシア: マグニチュード6.9) 、2000庚辰年(11/25 アゼルバイジャン: マグニチュード7、06/04 スマトラ: マグニチュード7.9 )等(※12参照)。
日本では昨年大震災があったから今年はないだろうとは言えない。洪水や地震などの自然災害が今年も場所を変えて何処であるかも知れない。防災への備えを怠ってはいけないだろう!
最後に、先にも紹介した、寺田寅彦の伝説の警句 「天災は忘れた頃に来る”」の言葉は寺田の随筆や手紙や手帳なども含めて本人が書いたものの中には見当たらず、今村明恒著『地震の国』によると、“天災は忘れた時分に来る。故寺田寅彦博士が、大正の関東大震災後、何かの雑誌に書いた警句であったと記憶している。”・・とあるそうだ(※2参照)。
因みに、地震の神様とも呼ばれている地震学者今村明恒の予想通り1944(昭和19)年に東南海地震、1946(昭和21)年に南海地震が発生した。東南海地震後には南海地震の発生を警告したものの、被害が軽減できなかったことを悔やんだと言われる。また、1933(昭和8)年に三陸沖地震が発生した際には、その復興の際に津波被害を防ぐための住民の高所移転を提案したという(Wikipedia)のだが、今村の提案に対して地元民はどう対応したのだろう・・・?
寺田も『天災と国防』の中で、
“戦争はぜひとも避けようと思えば人間の力で避けられなくはないであろうが、天災ばかりは科学の力でもその襲来を中止させるわけには行かない。その上に、いついかなる程度の地震暴風津波洪水(こうずい)が来るか今のところ容易に予知することができない。(中簡略)
文明が進むほど天災による損害の程度も累進する傾向があるという事実を充分に自覚して、そして平生からそれに対する防御策を講じなければならないはずであるのに、それがいっこうにできていないのはどういうわけであるか。そのおもなる原因は、畢竟(ひっきょう)そういう天災がきわめてまれにしか起こらないで、ちょうど人間が前車の顛覆(てんぷく)を忘れたころにそろそろ後車を引き出すようになるからであろう。
しかし昔の人間は過去の経験を大切に保存し蓄積してその教えにたよることがはなはだ忠実であった。過去の地震や風害に堪えたような場所にのみ集落を保存し、時の試練に堪えたような建築様式のみを墨守して来た。それだからそうした経験に従って造られたものは関東震災でも多くは助かっているのである。“・・・と、
書いていることなどから、寺田の著作に、「天災は・・・」という言葉が使われていなくても、「天災は・・・」の言葉そのものはしばしば使っていたことは想像出来る。
『天災と国防』のなかに書かれているところを見ても、寺田が真に憂えていたのは天災が起こることではなくて、起こった天災を教訓とした次の天災への備えが進まないことであったろう。
有り難いことに、今の時代、寺田の随筆は、青空文庫(※13「作家別作品リスト:No.42寺田寅彦」)で何時でも読むことが出来るが、同リストにざっと目を通しただけで、「天災と国防」の他、災害や防災に関する記述のあるものは、「芝刈り」、 「断水の日」、「怪異考」、「時事雑感(地震国防)」、「函館の大火について」、「からすうりの花と蛾」 、「Liber Studiorum」、「地震雑感」 「災難雑考」 「静岡地震被害見学記」 「震災日記より」 「塵埃と光」 、「津浪と人間」など多数あり、これらを読んでいると、寺田は、歴史を振り返れば“天災が来る事は想定外のことではないのだよ”“天災はその備えを忘れた頃に必ずやって来るものなのだよ”と言うことを警告しているのだと私は思っている。
そして、「津浪と人間」では東北日本の太平洋岸で起こった津波のことに触れているので、最後に、そこで書かれていることをそのまま以下に抜粋する。
“昭和八年三月三日の早朝に、東北日本の太平洋岸に津浪が襲来して、沿岸の小都市村落を片端から薙(な)ぎ倒し洗い流し、そうして多数の人命と多額の財物を奪い去った。明治二十九年六月十五日の同地方に起ったいわゆる「三陸大津浪」とほぼ同様な自然現象が、約満三十七年後の今日再び繰返されたのである。
同じような現象は、歴史に残っているだけでも、過去において何遍となく繰返されている。歴史に記録されていないものがおそらくそれ以上に多数にあったであろうと思われる。現在の地震学上から判断される限り、同じ事は未来においても何度となく繰返されるであろうということである。
こんなに度々繰返される自然現象ならば、当該地方の住民は、とうの昔に何かしら相当な対策を考えてこれに備え、災害を未然に防ぐことが出来ていてもよさそうに思われる。これは、この際誰しもそう思うことであろうが、それが実際はなかなかそうならないというのがこの人間界の人間的自然現象であるように見える。
学者の立場からは通例次のように云われるらしい。「この地方に数年あるいは数十年ごとに津浪の起るのは既定の事実である。それだのにこれに備うる事もせず、また強い地震の後には津浪の来る恐れがあるというくらいの見やすい道理もわきまえずに、うかうかしているというのはそもそも不用意千万なことである。」
しかしまた、罹災者(りさいしゃ)の側に云わせれば、また次のような申し分がある。「それほど分かっている事なら、何故津浪の前に間に合うように警告を与えてくれないのか。正確な時日に予報出来ないまでも、もうそろそろ危ないと思ったら、もう少し前にそう云ってくれてもいいではないか、今まで黙っていて、災害のあった後に急にそんなことを云うのはひどい。」
すると、学者の方では「それはもう十年も二十年も前にとうに警告を与えてあるのに、それに注意しないからいけない」という。するとまた、罹災民は「二十年も前のことなどこのせち辛い世の中でとても覚えてはいられない」という。これはどちらの云い分にも道理がある。つまり、これが人間界の「現象」なのである。
災害直後時を移さず政府各方面の官吏、各新聞記者、各方面の学者が駆付けて詳細な調査をする。そうして周到な津浪災害予防案が考究され、発表され、その実行が奨励されるであろう。
中略
(追記) 三陸災害地を視察して帰った人の話を聞いた。ある地方では明治二十九年の災害記念碑を建てたが、それが今では二つに折れて倒れたままになってころがっており、碑文などは全く読めないそうである。またある地方では同様な碑を、山腹道路の傍で通行人の最もよく眼につく処に建てておいたが、その後新道が別に出来たために記念碑のある旧道は淋(さび)れてしまっているそうである。それからもう一つ意外な話は、地震があってから津浪の到着するまでに通例数十分かかるという平凡な科学的事実を知っている人が彼地方に非常に稀だということである。前の津浪に遭った人でも大抵そんなことは知らないそうである。“・・・・と。
寺田のどうしようもない苛立ちが痛いほど感じられないだろうか・・・。もう、自然災害に対して、想定外という言葉は、ただの言い訳に過ぎなくなったといえるかもしれない。
(冒頭の画像は、私のコレクションで平戸焼きの酒器・玉を追う竜です。)
参考:
※1:気象庁 | 地震・津波
lhttp://www.jma.go.jp/jma/kishou/know/jishin.html
※2:寺田寅彦の伝説の警句 天災は忘れた頃に来る
http://www5d.biglobe.ne.jp/~kabataf/torahiko/torahiko.htm
※3:古典に親しむ 「方丈記」鴨長明
http://www.h3.dion.ne.jp/~urutora/houjouki.htm
※4:地震調査研究推進本部
http://www.jishin.go.jp/main/index.html
※5:災害の歴史 - 京都市市民防災センター
http://web.kyoto-inet.or.jp/org/bousai_s/history/index.html
※6:日本書紀(朝日新聞社本)
http://www.j-texts.com/sheet/shoki.html
※7:公益社団法人日本地震学会
http://www.zisin.jp/modules/pico/index.php
※8:干支(えと・かんし)///_十干十二支_///_漢字家族
http://1st.geocities.jp/ica7ea/kanji/kanshi.html
※9:災害ニュース 国際ニュース : AFPBB News
http://www.afpbb.com/category/disaster-accidents-crime/disaster
※10:リアルタイム財政赤字カウンター 11
http://www.kh-web.org/fin/
※11:エネルギー問題 エネルギー - 環境用語集
http://eco.goo.ne.jp/word/energy/S00080.html
※12:2012年壬辰年の運勢-レイモンド・ロー 日本公式ウェブサイト
http://raymond-lo.five-arts.com/articles-2012dragon.html
※13:作家別作品リスト:No.42作家名: 寺田 寅彦
http://www.aozora.gr.jp/index_pages/person42.html
阪神・淡路大震災教訓情報資料集(内閣府)
http://www.bousai.go.jp/1info/kyoukun/hanshin_awaji/index.html
東洋の歴史から学ぶ 〜時代を生き抜く知恵と思考〜
http://www.jpc-net.jp/cisi/mailmag/m116_pa2.html
ギリシャ問題が終息しない理由
http://www.gci-klug.jp/ogasawara/2011/09/15/013788.php
PIIGSとは何か?ギリシャ問題とは何か? [外国株] All About
http://allabout.co.jp/gm/gc/44500/
防災システム研究所
http://www.bo-sai.co.jp/index.html
地震年表
http://homepage2.nifty.com/yyamasaki/SHEEP1.TXT
大地震、京都では30年以内に震度6の可能性(YOMIURI ONLINE)
http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20110424-OYT1T00267.htm
干支(えと)情報 〜2012年・辰(たつ)年版
http://www.nengasyotyuu.com/nenga/ninfo/ninfo_01.html