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映画「ゴジラ」や「ウルトラマン」で知られる特撮の神様・円谷英二の忌日

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1月25日の今日は日本に於ける特殊撮影技術の第一人者であり、独自に作り出した技術で「ゴジラ」や「ウルトラマン」を生み出し、日本の特撮映画をいっきに世界最高峰レベルに押し上げ“特撮の神様”と呼ばれた円谷英二の1970(昭和45)年の忌日である。
第二次世界大戦後、世界各地で大規模な核実験が数多く行われ、偶発的に遭遇した第三者や環境への被害が広がった。その代表的な事件に、1954(昭和29)年3月1日、ビキニ環礁で行なわれたキャッスルブラボー実験の際に、日本のマグロ漁船第五福竜丸の船員23名が実験による放射性降下物の降灰を受け全員被爆した。後に、この水爆実験で放射性降下物を浴びた漁船は、数百隻にのぼるとみられ、被爆者は2万人を越えたといわれている(※1)。
第五福竜丸の水爆災害では、乗組員の被爆だけでなく、築地などで同船から水揚げされたマグロから強度の放射能も検出され、実験が行われた同年3月以降相次いで放射能汚染魚が見つかる。
さらに、日本各地の雨から放射能が検出され、飲料水・農作物・加工食品などの汚染問題に注目が集まった。そして、日本の全国各地で、強烈な反核運動が起こる結果となった。この日本の反核運動が反米運動へ移ることを恐れたアメリカは日本政府との間で被爆者補償の交渉を急ぎ、総計200万ドルの補償金と「米国の責任を追及しないこと」の確約を日本政府から受け、事件の決着を図ったといわれている(※1参照)。
この年(1954年)11月3日、東宝映画ゴジラ」第1作(監督:本多 猪四郎)が公開された。
冒頭の画像が、公開当時の宣伝用ポスターである。
ポスターのサブタイトルに水爆大怪獣映画とあるように、日本最初の怪獣映画であり、また、最初の本格的な特撮映画であった。この特殊撮影に当たったのが円谷英二である。
海底で眠る太古の巨大生物が核実験によって目覚めた。夜の闇の中、ようやく敗戦の傷も癒え復興に向かいつつあった東京を口から放射能を吐き破壊するゴジラ。モノクロの映像がその恐怖を引き立てた。あらゆる武器をものともしない巨大生物ゴジラを撃退する手だてはあるのか。映像の迫力、演出も最高の傑作であるが、この映画は、単なるSFX技術を駆使した怪獣映画ではなく、「第五福竜丸」被爆事件をヒントに、水爆実験反対という強烈なメッセッセージが含まれていた映画である。・・・しかし、その後、日本は、原子力発電所の建設を次々と行い、とうとう、あの東北地方太平洋沖地震により、福島第一原子力発電所事故を発生させてしまったのだが・・・・。
今日は、そんなことがテーマーではないので、本題に入る。
この映画「ゴジラ」の最大の特徴は円谷による特殊撮影にある。現実にはありえない設定や実写が困難な状況をフイルム上に作り出す特殊効果(SFX)にはワイヤーなどで宙吊りにしたりする物理的な“機械効果”と、二重撮影などの光学的な光学効果“とに分かれるが、これらの効果は殆どの映画で既に使われており、忍者が一瞬のうちにドロドロ消えるのも、実際には動かない車の中で演技をしている俳優を、背景を映し出したスクリーンの効果で、まるで市街地をドライブしているかのように似せるのも特殊効果であるが、やはり特殊効果の醍醐味は、空想科学や伝記伝説の世界を描いた作品の中で使われる特殊効果である。
それもこの世に存在しないものを実在するかのように見せる。例えば、このゴジラのような巨獣・怪獣また、恐竜などが人間に襲い掛かる映画は、これまで世界中で繰り返し作られその製作テクニックも様々であるが、円谷が32歳の1933(昭和8)年に、日本で公開されたハリウッド映画「(キング・コング」の特撮技術に驚愕し、フィルムを取り寄せその特撮シーンの全てのコマを研究したといわれるが、この映画に、代表されるように、ミニチュアモデルを使い、その動きを1コマづつ撮影して未知の巨獣をスクリーン上で大暴れさせた。
これはストップモーション・アニメーションと呼ばれるアニメーション作りのテクニックと同じであり、その第一人者レイ・ハリーハウゼンは、「ダイナメーション」(Dynamation、SFXの一種、コマ撮りアニメ)と名づけて、この手法を進化させたものを作っている。
円谷は、俳優が怪獣の着ぐるみ(ぬいぐるみ)を着て、成功につくられたミニチュアの建物などの前で動く姿を撮影するという方法をとった。コストの面では、「ダイナメーション」よりも経済的だが、これを可能にした背景には、精巧なミニチュアを作り出す日本の職人技があったことを忘れてはならないだろう。また、この「ゴジラ」第1作の公開前の1953(昭和28)年に、同じく米国映画で、現代に蘇った恐竜と人間との攻防を描いた「原子怪獣現る」(英:The Beast from 20,000 Fathoms)という作品が公開されており、核実験によって甦った恐竜という点が、「ゴジラ」のヒントとなったとも言われている。
兎に角、従来の特撮の技法に、当時としては画期的な着ぐるみを使うという独特の手法を加えて、創り出した迫真感が観客に受け、映画は大ヒット、映画館には会館前より大行列が出来たものだが私なども並んで見に行った一人だ。
その2年後の1956(昭和31)年に全米公開されたときも大ヒットし、“GOZDZILA”の名を世界に知らしめることになった 。
戦前には、特撮映画の古典とも言うべき「ハワイ・マレー沖海戦」(1942年)の特撮を担当している。
この映画は、日米海戦の翌年に海軍省の至上命令によって東宝映画が製作したものであり、1941年(昭和16年)12月8日の真珠湾攻撃および12月10日のマレー沖海戦の大勝利を描き、国威称揚させることを目的に、開戦一周年記念映画として製作された戦争映画であり、国策プロパガンダ)映画である。
その映像は以下で見ることができえる。
真珠湾攻撃 - YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=tcv1cWtsH_c
マレー沖海戦「攻撃」 - YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=vE6_s1Tg0Ps
この映画で、円谷率いる特技スタッフは、得意のミニチュアモデルにより、精巧な真珠湾の特撮セットを作り上げ、部分的に実際の海戦で撮影された映像を挿入して、真珠湾奇襲等を特撮でリアルに映像化し、臨場感を醸し出すことに成功。高い評価を受けるが、全編にわたって特撮が使用されたわけではない。
「ゴジラ」では、ドラマ部分の本編と特殊効果映像とが均等に扱われた。この成功によって、円谷は、監督と同等の立場の特殊撮影監督という地位を確立した。また、東宝は特撮映画というジャンルを打ち立てることができた。
人気に応えて、翌年には第2作「ゴジラの逆襲」が作られ、ますます人気は高まるが、「ゴジラ」第1作2作公開当時は、まずまずの大人の恐怖映画でもあったのだが、その後すぐに、子供向け映画に変わってゆき、円谷は、ゴジラシリーズに、「モスラ」「ラドン」「キングギドラ」など新しい怪獣のスターを次々送り出し、 1966(昭和41)年には、テレビにも進出。「ウルトラマン」シリーズは、今に続く怪獣ブームを生むことになる。
そして、“世界のツブラヤ”“特撮の神様”とも呼ばれるようになり、多くの弟子を育てたが、彼の特撮技術は、どのようにして生まれたかを少し振り返ってみよう(以下※3やWikipediaを参考にする)。
円谷英二(つぶらや・えいじ)は、1901(明治34)年7月7日、福島県岩須賀川市生まれ(※戸籍上は、7月10日生まれとなっているそうだ)。本名は、円谷英一(つむらや・えいいち)。
1910(明治43)年、9歳のとき、代々木錬兵場(現:代々木公園)で徳川好敏日野熊蔵両大尉が飛行機により日本初の公式飛行に成功、これに強く感銘を受けた円谷は飛行機乗りに憧れを持ち、模型飛行機の制作に没頭するようになり、6年生になると、金属製の飛行機の発動機を製作するほどの飛行機少年だったという。
1916(大正5)年、15歳で尋常高等小学校8年生の課程を終えると、11月、操縦士を夢見て、同年8月に開校したばかりの羽田の日本飛行学校(※2参照)に第一期生として入学するも、翌年には一機しか無い飛行機が墜落し、教官も死亡したことから、学校が閉鎖。同年、神田電機学校(現:東京電機大学夜間部。【東京工科学校=現:日本工業大学の説もあるそうだ】)に入学。叔父の知り合いが経営する玩具会社の考案係嘱託となり、玩具や商品の考案で才能を発揮していたようだ。
1919(大正8)年、18歳の時、ひょんな事から、日本ではまだ珍しい飛行機の知識を持ち玩具で新しいアイデアでの優れた才能もった英一少年に目をつけた、天然色活動写真株式会社(略称天活)の枝正 義郎に見初められ、映画界に入り、枝正から撮影技術を学んだそうだ。
天活はこの年、国際活映(国活)に吸収合併されるが、撮影部に所属していた円谷は1920(大正9)年、飛行機による空中撮影を誰も怖がって引き受けなかったところ、円谷が自ら志願して見事やり遂げたことから、撮影助手から一気に撮影技師に昇進したという。
しかし、1921(大正10)年20歳で兵役に就き会津若松歩兵連隊に配属されるが、1923(大正12)年で除隊後、国活に復帰。復帰直前に起きた関東大震災後、各映画撮影所が京都へ移ったため、翌1924(大正13)年円谷もこれを頼って京都に居を移し、小笠原プロダクションに所属していたが、国活巣鴨で出会った俳優衣笠貞之助、撮影技師杉山公平とともに、翌・1925(大正15)年の「衣笠映画聯盟」の設立に参加し、『狂った一頁』の撮影助手を担当した。
そして、1927(昭和2)年、26歳の時、林長二郎(長谷川一夫)初主演作である『稚児の剣法』(監督:犬塚稔)でカメラマンを担当、林を何重にもオーバーラップ(二重写し。映像用語「フェード」参照)させる特撮手法を採り入れ、映画は大成功したそうだ。この映画には撮影技師円谷英一として本名でクレジットされている(※4参照)。
翌年、正式に松竹京都下加茂撮影所に入社。1930(昭和5)年、29歳で結婚したときから、「円谷英二」と名乗るようになった。理由は、兄のように尊敬する5歳年上のおじの名が「一郎」だったので、遠慮して「英二」を名乗るようにしたとWikipediaにはあるが、※4参照:「日本映画データベース[円谷英二/円谷英一]」の作品リストを見ていると、1932(昭和7)年9月公開の「怪談 ゆうなぎ草紙」( 松竹下加茂)くらいまでは「英一」の名でもクレジットされており、松竹下加茂撮影所時代の作品には「英一」「英二」両方の名が見られる。
1931(昭和6)年、渡欧していた衣笠監督の帰国後一作目となる「黎明以前」を、杉山公平とともに撮影。このとき30歳の円谷は、ホリゾントを考案し、日本で初めてのホリゾント撮影を行ったという。
また、このころ、「アイリス・イン」、「アイリス・アウト」(画面の一点から丸く開きながら、又、閉じながら、画面を映し出す映像像表現)、「フェイド・イン」、「フェイド・アウト」(フェード参照)、「擬似夜景」(※5:のつぶし<晴天潰し>参照)などの撮影手法を、日本で初めて使用したり、セットの奥行を出すために背景画を作る、ミニチュアセットを作る、一部の画面を合成するなど、後の特撮技術に通じることを行なっていたようだ。また、足元から煙を出して臨場感を高める手法で「スモーク円谷」と呼ばれていたとも・・・。
給料の約半分を撮影技術の研究費につぎ込み、さらに、協力者に対してただ酒をおごる毎日だったらしいが、これら特殊撮影技師としての姿は当時、他のカメラマン達にはなかなか理解されなかったようだ。
1932年(昭和7年)、31歳の時、『稚児の剣法』で新人の円谷を撮影カメラマンに登用してくれた監督である犬塚稔とともに日活太秦撮影所に引き抜かれて移籍。日活入社初作品として、大河内傳次郎主演の『長脇差風景』(監督:犬塚稔。同年2月公開)を撮影。この日活作品以降、「英一」の名は使わず「英二」の名前に統一されていったようである(※4参照参照)。
この年4月に公開されたアメリカ映画「キング・コング」(日本公開:同年9月)に感銘を受けた円谷は、特撮の道に進むことを決意したようだ。
この年の末に日活幹部立会いの下、スクリーン・プロセスのテストを行うが不調に終わり、翌年には、「浅太郎赤城颪」でスターだった市川百々之助の顔に「ローキー照明(キーライト)」で影を作り、その撮影手法を巡って日活の幹部と対立、同社を退社。同年、円谷の特殊技術に注目していた大沢善夫の誘いにより、撮影技術研究所主任として、東宝の前身であるJOトーキーに移る。
1935(昭和10)年、34歳の時。2月から8月にかけ連合艦隊の練習鑑「浅間」(※6参照)に乗艦、ハワイからフィリピン、オーストラリア、ニュージーランドを回り、練習生の実習風景の長編記録映画『赤道を越えて』を撮影(公開1936年1月)。これが監督第1作となった。この映画を私は見ていないが、映画の内容等は以下参考の※7:「映画イメージCG作品」(ここ)を見れば判るが、そこでの映画評にある通り、この映画は、完全な国策(プロパガンダ)記録映画であり、映画撮影が出来、特撮に通じていた円谷の才能は、当時の軍部の宣伝活動には貴重なものだったろう。
同年9月、円谷の所属する「JO」が、「株式會社冩眞化学研究所」、「PCL映画製作所」、「東宝映画配給」の3社と合併、東宝株式会社が設立されると、特殊技術課が創設された。そして、ナチス・ドイツとの政治的・軍事的接近を目論んでのものと思われる日独合作映画「新しき土」(1937年。※7も参照)を担当し、日本最初のスクリーンプロセス(バックグラウンド・プロジェクション)の技術を完成した。この装置は日活時代から私費を投じて開発し続け、JOに移って大沢善夫の援助でついに完成させたものだという。
1940(昭和15)年には「皇道日本」、「燃ゆる大空」、そして、「海軍爆撃隊」では、初めてミニチュアの飛行機による爆撃シーンを撮影。長い間、当時劇場公開された「海軍爆撃隊」35ミリフィルムの存在が確認されていなかったが、海軍軍事普及部を介して公共団体などにPR用に売買された16ミリ版プリントが収集家によって保存されていたのが見つかったという(※8:「日本特撮ファンクラブ」の“映画『海軍爆撃隊』実見記”や“海軍爆撃隊・プレスブック”を参照)。
ネットで検索していると以下のものが見つかったが、これがそのフイルムだろうか・・・?。2つ目のものがラスト部分らしい。最後に、海軍爆撃隊 終り の幕字あり。
海軍爆撃隊 - YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=x4xEaF7H1AA
九六式陸上攻撃機の大編隊 - YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=jwz3Ky9XO5g
この映画は、先にも書いた特撮映画の古典とも言うべき、「ハワイ・マレー沖海戦」(1941年)の先駆けとなる作品であり、中国大陸を舞台に、日本海軍の爆撃機が中国軍機の攻撃で被弾しながらも、基地に帰還するストーリーで、実写を交え、空中戦や爆弾投下などで特撮を駆使している。
本作品公開から一年半余り後、我が国は世界を相手とした無謀な戦争、太平洋戦争へと突入(1941年=昭和16年、12月8日)したことに伴い、東宝は本格的に軍の要請による戦争映画を中心とした戦意高揚映画を制作することとなり、俄然特撮の需要が高まり、円谷率いる特技課が以後、「加藤隼戦闘隊」、「雷撃隊出動」、「あの旗を撃て」、「かくて神風は吹く」といった作品など全ての戦争映画の特撮に携わることとなり、戦後そのために公職追放指定を受け、不遇を囲うこととなる。
戦後、フリーとなっていた円谷は東京の祖師ヶ谷の自宅の庭にプレハブを建て、「円谷特殊技術研究所」を設立して、各 映画会社作品の特撮シーンを手掛けるが仕事は多くなかった。 昭和27(1952)年、日本独立後に公職追放が解除され東宝へ復帰。
東宝は、「円谷特技研究所」の者達を正式に撮影所に迎え入れ、特撮スタッフの強化を図った。
太平洋の鷲」「さらばラバウル」等を経て、日本初の本格的特撮怪獣映画「ゴジラ」(日本映画技術賞部門を受賞)に始まる一連のぬいぐるみ怪獣シリーズを生み出し円谷は、特撮界のスター的存在となった。1963(昭和38)年には円谷特技プロを発足させ、「ウルトラQ」「ウルトラマン」などの特撮テレビ映画シリーズを製作放映し、怪獣ブームを巻き起こした。
子供にサインを求められると、自分の名前を図案化した「スキーボーヤ」を描き、大人には「子供に夢を」と書いたという。1970(昭和45)年1月25日、別荘で静養中に狭心症により他界。享年68歳。
最後に、多くの人に惜しまれこの世を去った円谷英二と言うと、多くの人が怪獣映画の「ゴジラ」やウルトラ・シリーズなどのぬいぐるみによる特撮や戦意高揚映画の特撮を手掛け人を連想するであろうが、彼が特撮マンとして手掛けたジャンルはそれだけにとどまらない。SF・怪獣もの、戦記もので見せた特撮の技術は、特撮をメインとしない様々な映画の中でも用いられてきた。そのことを、すこし付け加えておく。
例えば、戦前に創られたエノケン主演の「孫悟空」前・後篇(1940年、東宝。※9参照) は、日米開戦直前に制作された全編オペレッタ形式の映画であるが、緊迫した時代に作成のものとは思えない楽しい映画だ。悟空は金箍棒(きんこぼう、 如意棒という名で知られている)をキント雲ならぬキント飛行機に変身させて飛び回る。クライマックスの空中戦でのミニチュア撮影まで、その才能を思う存分発揮し、その蓄積してきた特撮技能を本格的に開花させたのがこの「エノケンの孫悟空」ではないか。
文芸作品ものでは「白夫人の妖恋」(1956年)は、日本初の総天然色(イーストマン・カラー)による特撮映画であり、日本映画界で初めてブルーバック撮影による合成を用いた作品でもある。この作品は中国民話『白蛇伝』をベースに創られており、この2年後に東映動画(現・東映アニメーション)で作られた長編アニメ「白蛇伝」(1958)と同じストーリーだ。
円谷の特撮は冒頭の西湖の情景描写から登場。緑の美しい山林の手前に優雅な西湖の水面が広がる。中国の情景は、ジオラマと屋外セットによって再現されているが、円谷初のカラー作品ということもあり、緻密なカラー設計がされておりとても美しい画像であった。中盤、白娘と道人の妖術合戦にも特撮が見られた。
又、日本神話を扱ったカラー・シネスコによる「日本誕生」(1959年、東宝)は、東宝映画1,000本目の記念作品で、東宝のオールスター総出陣による芸術祭参加作品であるが、神話が題材ということで特撮の比重が大きく、円谷による密度の濃い特撮シーン満載の作品でもある。
劇中劇として登場する須佐之男八岐大蛇(ヤマタノオロチ)の格闘シーン、ラストの湖の洪水シーン、山の大爆発と流れ出る溶岩のシーンなど。
円谷は密度の高い合成シーンを実現するため、バーサタイル・プロセスという合成用の機材を初めてしようして作成。これは普通の映画用フィルムである35ミリフィルムを70ミリまでブローアップし、合成後に再び35ミリに戻すという手間のかかる方法であり、フィルムが大きいほど合成シーン特有の画質の劣化をなくさせるシステムだそうだ。まるで、「十戒」や「ベン・ハー」など、アメリカの大作映画を見るようなこの大掛かりなスペタクル映画は日本では初めてのものだっだ。この映画は、日本映画技術賞を受賞している。後に円谷のゴジラシリーズに登場する「キングギドラ」は本作の八岐大蛇を参考に創られたという。 この映画の予告編は以下参考※10で見れる。
SF映画の分野では「宇宙大戦争」(1959 年)は、地球防衛軍と宇宙からの侵略者との攻防を描いた「地球防衛軍」(1957年)の続編ともいえる姉妹編である。当時としては「宇宙に関する最新の情報」が盛り込まれた映画で、科学考証的には後に間違いとなってしまった事象も多くあるとはいえ、映画公開当時(1959年)には、ソビエト連邦(ガガーリンによる人類初の有人宇宙飛行、1961年)やアメリカ合衆国のような有人宇宙飛行計画など夢のまた夢だった日本で、アポロ11号の月面着陸(1969年)より4年も前に、月面での無重力状態を表現した歩行シーン(アイディアの発案は俳優の土屋嘉男だとか)や、宇宙空間での戦闘シーンなど、まだCG特撮のなかった時代の特撮ものとしては素晴らしい出来栄えだ。
円谷は当時すでに特撮監督としての世界的名声を得ており、彼の特撮映画は海外でも大評判となっていたので、この映画ではついに、東宝が製作発表した段階で、アメリカの映画バイヤーが買い付け契約を結ぶために来日し、これ以後の恒例となったという(この映画の予告編が参考※11で見れる)。
又、東西冷戦の危機感を強くを反映した反戦思想を前面に出したドラマ「世界大戦争」(1961年。芸術祭参加作品)では、東京、ニューヨーク、ロンドン、パリ、モスクワが核ミサイルによって破壊される衝撃的なクライマックスシーンは、天地を逆にしたミニチュアの下から圧縮空気を吹き出させる方法で撮影されたという。このシーンの映像は完成度が高く、その後様々な作品に流用されるようになったという。
このほか、第二回小川未明文学奨励賞を受賞した児童文学作家宮口しづゑの同名小説を映画化した「ゲンと不動明王」(1961)、方広寺鐘銘事件により、徳川と豊臣の間できな臭い雰囲気が漂い始めた大阪の町を舞台とした「大阪城物語」は、三船敏郎主演の時代劇アクションであり、特撮を売り物の映画ではないが、大阪の町並みや船、大仏など円谷の得意とするミニチュアを使っての見せ場を作っている。
そのほか、娯楽活劇の「大盗賊」(1963年)、クレージーキャッツ結成10周年を記念して東宝と渡辺プロダクションが製作した「大冒険」(1965年)など楽しい映画が数多くある。機会があればこのような作品もDVDなどで見られると良い。映画の粗筋などは参考の※7や※12などを参照されると分かる。

参考:
※1:社会科学者の時評
http://pub.ne.jp/bbgmgt/?entry_id=3832264
※2:羽田飛行場に日本飛行学校があったのは
http://blogs.yahoo.co.jp/takamino55/669114.html
※3:円谷ウルトラファンサイト
http://eiji-tsuburaya.web-reigo.com/index.html
※4:日本映画データベース[円谷英二/円谷英一]
http://www.jmdb.ne.jp/person/p0043090.htm
※5:映画製作用語集 【た】
http://sairin.com/ta.html
※6:装甲巡洋艦 浅間 - FC2
http://mpmc.web.fc2.com/asama01.html
※ 7:映画イメージCG作品:映画評
http://www.ne.jp/asahi/gensou/kan/eigahyou-guide/1930-index.html
※8:日本特撮ファンクラブ
http://g-tokusatsu.com/index.html
※9:エノケンの孫悟空
http://www.geocities.co.jp/SilkRoad/2781/data/movie/movie02.html
※10:日本誕生 - YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=ujopreOSlSM
※11:宇宙大戦争 OP
http://www.dailymotion.com/video/x6x3i0_yyyyy-yy_shortfilms
※12:円谷英二 - goo 映画
http://movie.goo.ne.jp/cast/c103317/index.html
円谷プロダクション公式Webサイト
http://www.m-78.jp/

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