映画はその誕生から1世紀そこそこの新興芸術であり、その最初期は、遊園地のアトラクションまたは見世物小屋の呼び物であった。当時、映画は大衆娯楽でしかなく、芸術としては認められてはいなかった。
1908年から映画についての執筆活動を始めたイタリアの若き映画理論家リッチョット・カニュードは、映画を既存の芸術ジャンルと対比しながら、その特性の定義を試み、音楽・舞踏・文学の「時間の芸術」と建築・絵画・彫刻の「空間の芸術」というの既成の6つの芸術をつなぐ第7番目の芸術として、「映画は第七芸術という総合芸術である」と宣言した(『第七芸術宣言』1911年。※003、※004参照)。
第二次世界大戦の影響を受け、フリッツ・ラング(ドイツ)やジャン・ルノワール(フランス)等の多くの映画人がアメリカに亡命した。
亡命ではなく招聘(しょうへい=礼を尽くして人を招くこと)されてあるいは自ら望んでアメリカに行ったマックス・オフュルスやエルンスト・ルビッチ(ドイツ)、ルネ・クレール(フランス)などの作家も含めると、1930年代から1940年代にかけてのアメリカには著名な多くの映画作家が世界中から集まった。
そのため、映画製作本数も年間400本を超え、この頃、質量共にアメリカは世界の映画界の頂点にあった。このことにより、1930年代〜1940年代は「ハリウッド全盛期」、「アメリカ映画の黄金時代」とも呼ばれている。
サイレント映画の黄金時代(1913〜1927)、世界各地で数多くの名作・傑作が生まれ、映画は単なる娯楽から、芸術の一分野としての地位を築きあげるようになった。そして1910代初頭は、イタリア映画の時代でもあった。
この時期に世界に名を轟かしたイタリア映画の大半は歴史映画であったというのも歴史の国イタリアらしい。そうしたイタリア史劇の中で、最高の成功作とも言われているのが、現在唯一ビデオで鑑賞することができるらしい『カビリア』(1913年制作)だと言われている。監督は、すでに『トロイ陥落』で成功を治めていたジョヴァンニ・パストローネ(別名ピエロ・フォスコ。1883〜1959)。映画の内容等は※005,006参照。
無声映画時代に映画界を革新したイタリア製スペクタクル史劇だが、『カビリア』をピークに、以降,イタリアの映画産業自体の衰退と共に下降線を辿っていく。
ちょうど『カビリア』が公開された1914年に、第一次世界大戦(1914年 - 1918年)が勃発する。凄惨な主戦場となったヨーロッパ全体が大きな損害を受け、イタリアも、映画制作どころではなくなった。
その間に,「スタジオ」と称される大手映画会社を次々と設立したり、世界初の長編発声映画(トーキー映画)を制作したりと着々と力をつけるアメリカが、世界の映画産業の中心となっていった。
第二次世界大戦が終わって1950年代に入ると、イタリアとアメリカで大作主義が回帰した。第一次世界大戦以降、低迷の一途を辿っていたイタリアと、世界の映画産業の中心として既に不動の地位を確立しつつあったアメリカ、ハリウッド。
世界の映画産業をリードし、第二次世界大戦では勝戦国ともなり、順風満帆であるかのように思えたアメリカの映画産業だったが、大戦終結と同時に、世界はアメリカとソ連を中心にした東西冷戦の時代に突入。
1947年から、反共産主義活動が本格的に開始され、赤狩り(レッドパージ。詳しくはマッカーシズム参照)が行われた。
共産主義勢力が拡大することを危惧した米政府は、見せしめのため、娯楽産業を代表する映画業界に第一に赤狩りの矛先を向けた。これによって,映画監督、脚本家など、映画産業に関わる者が多数追放された。しかし,この赤狩りによる追放が、イタリアとアメリカの映画産業を繋げるきっかけを作ることとなった。
赤狩りで追放された1人に、ダルトン・トランボという脚本家がいた(運動の最初の標的とされたハリウッド映画界の著名な10人の映画人ハリウッド・テンの一人)。
追放された後、彼はアメリカ国外に出て偽名を使いながら数々の脚本を書きあげた。その代表作が、ローマを舞台にアメリカ制作で映画化され、オードリー・ヘップバーンが主演の名作『ローマの休日』(1953年)である。
そして,トランボはこの後,依頼を受けてハリウッド史劇大作『スパルタカス』(1960年、製作総指揮・主演カーク・ダグラス)の脚本を手がけた。
『スパルタカス』は、豪華絢爛な衣装やセットに、偉大な英雄を主人公に用意した他の典型的な史劇大作とは少し異なり、社会的身分の低い奴隷スパルタカスを主人公に置き、権力に立ち向かう姿を描いた社会派スペクタクル史劇といえ、人間の自由と尊厳の意義を訴えたこの作品は、祖国に迫害されて全てを失ったトランボ自身に重ねられるものなのかもしれないという。
他にも赤狩りによって追放された者の多くが、国外、特にヨーロッパに逃れ、偽名や匿名で映画の仕事に携わっていた。彼らは、再び母国アメリカで日の目を見る時を待ち望みながら、映画人としての誇りを捨てずに、他国でもその才能を存分に発揮させて映画制作に関わり続けていた。
また、同時期の1948年,パラマウントなどのハリウッドのメジャースタジオ8社に対して,独占禁止法(反トラスト法)違反の罪を問う訴訟の判決が下され、事実上、スタジオ側が敗訴する。
力を失った大手映画会社に成り代わり、スタジオに頼らず低予算のロケーション撮影主体で映画を制作する独立系小規模プロダクションの作品や外国の作品が、急速にアメリカの映画市場を大きく占めていくこととなった。
更に、テレビ放送開始に伴うテレビの急速な普及は追い討ちをかけ,たちまち映画館から観客を奪った。他にもレジャーやスポーツ、音楽など人々の関心が他の娯楽文化に移るようになった。戦後の高度経済成長に伴い、人々のライフスタイル(生活の仕方、生活様式)が多様化していったのだ。
娯楽産業としての地位を脅かされていく映画が、テレビや、他の娯楽文化に対抗して観客を集めるためには、大作を制作する必然性が生じた。
また、この頃,テレビへの対抗意識が高まる中で映画の技術も急速に進み、ほとんどの作品でカラーやワイドスクリーンが採用されるようになった。
その為、撮影スタジオでのミニチュア合成や国内のロケーション撮影による背景映像に、観客は満足しなくなる。こうして,アメリカは豪華で迫力のあるスペクタクル史劇制作に力を入れるようになった。
しかし、赤狩りやスタジオ・システムの崩壊で弱体化し、技術費用や人件費も高騰してしまったアメリカには、大作を制作する費用もスタッフも撮影スタジオも足りなかった。
それに第二次世界大戦後、アメリカ映画が世界中に輸出されたが、輸出先の外貨事情が悪いために収益金が凍結していた。映画会社はそれを回収するために海外ロケで映画を製作、又、映画の制作拠点そのものを海外に移す傾向があらわれた。これを当時はランナウェイ方式と呼んだ。
中でもイタリアは好まれた。アメリカ国内よりもヨーロッパで制作するほうが低予算に抑えられる上、ローマには,ヨーロッパ最大級の撮影所、チネチッタがある。
文化遺産が街に多く残っているイタリアは大規模なロケーション撮影が可能であり、神話や聖書などスペクタクル史劇の題材を十分に持っていて、かつてスペクタクル史劇大作の栄華を極めた歴史と伝統もある。
このようにして、イタリアで数々のハリウッド史劇が制作されるようになり、『十戒』(1956年監督:セシル・B・デミル主演:チャールトン・ヘストン)、『ベン・ハー』(1959年,監督ウィリアム・ワイラー。主演:チャールトン・ヘストン)といった名作が生み出された。
日本の大映の協力の下、奈良や京都で撮影が行なわれたマーロン・ブランド主演、日本の京マチ子共演の『八月十五夜の茶屋』(1956年)や、主演のデヴィッド・ニーヴンや当時新進女優であったシャーリー・マクレーンなど数十人の有名な俳優が部分部分に入れ替わり立ち替わり登場し、世界をロケしまくっている『八十日間世界一周』(1956年)なども海外ロケで映画を製作したランナウェイ映画である。
一方のイタリアも、このようなアメリカの影響もあり、歴史を題材。文化遺産を撮影に使った史劇作品の制作に再び乗り出した。
第二次世界大戦後の1940年代後半から1960 年代にかけての時代は、長いイタリアの映画史にとっても大きな転機となった。敗戦し、多くのものを失い、映画制作自体ままならないはずのイタリアは,、すぐに映画産業を復興へ導いていった。
なぜ大戦直後の短期間で成功を収めたのか。その大きなきっかけとなったのが,ネオレアリズモであったという。
ネオレアリズモとは、イタリアで、主に文学や映画において盛んになっていた「新しい現実」を芸術表現した潮流である。
戦後にわかに強まったネオレアリズモは、イタリア国内に留まらず、アメリカなど世界の戦後映画の流れをも大き く変えた。
その特徴としては,ロベルト・ロッセリーニの『無防備都市』に代表されるように、.ドキュメンタリー要素が強く、社会問題や政治問題など現実的なテーマを取り扱ったものが多い。
この映画は、1945年.第1回カンヌ映画祭でグランプリに選ばれた作品の一つである。
敗戦して多くを失った自国の現状を目の当たりにして、映画制作者たちは、より身近に、より重く「現実」に目を向けた。それは本来の人々の姿をありのままに映像に映し出す原点回帰でもあり、新たな手法による新たな価値の創造でもあった。
ネオレアリズモには、芸術を再生させ、新しい時代を自ら築いていこうとする映画制作者たちの、芸術家としての熱く強い意思が感じられる。
しかし,映画界に再生と転機をもたらしたネオレアリズモの潮流は1950年代初頭にはすっかり勢いをなくしてしまう。
それでも,映画産業復興への流れと、原点を顧みるという方向性は変わらず、新たに戦後復興期を支える映画ジャンルが登場する。
正確には,再来というべきだろうか。代表的なものが、喜劇と、そして、歴史や神話が題材となったスペクタクル史劇であった。
共に,初期の無声映画時代から存在するという古い伝統を持つ。とりわけ、アメリカの影響を受けて再び制作するようになったスペクタクル史劇は、異質な存在感を持ち、圧倒的に人気があった。
イタリアのスペクタクル史劇大作といえば,豪華絢爛なセットに衣装、そして何より欠かせないのがワイドスクリーンを悠々と駆け巡る、屈強そうな怪力ヒーローたちであった。
さて、この時期に恰も大作主義を嘲笑うかの様にひたすら作家としての拘りを追求した作家たちがいた。これは二つのそれぞれ起源の異なるものに分けられる。一つがアメリカの内から生まれた1950年代のB級映画の流れを汲むものであり、もう一つがフランスで1960年代に新風を起こした「ヌーヴェル・ヴァーグ」の流れを汲むものである。
1960 年代の後半から1970 年代の初めにかけて、アメリカの映画産業は最悪の状態にあった。
それを打開したのが「アメリカン・ニュー・シネマ」と呼ばれるものであった。
政治の腐敗というところに帰結し、アメリカの各地で糾弾運動が巻き起こった。アメリカン・ニューシネマはこのような当時のアメリカの世相を投影していたと言われる。
しかし、ベトナム戦争の終結とともに、アメリカ各地で起こっていた反体制運動も下火となっていき、それを反映するかのようにニューシネマの人気も下降していくことになる。
このように、映画も時代と共に年々変化をしながら今日に至っている。映画史等以下参考の※007、008などが詳しく、このブログもこれらを参考に第1回カンヌ国際映画開催前後の大きな流れを書いた。
第1回カンヌ国際映画祭が開催された日ー参考へ
第1回カンヌ国際映画祭が開催された日(2-1)へ戻る
1908年から映画についての執筆活動を始めたイタリアの若き映画理論家リッチョット・カニュードは、映画を既存の芸術ジャンルと対比しながら、その特性の定義を試み、音楽・舞踏・文学の「時間の芸術」と建築・絵画・彫刻の「空間の芸術」というの既成の6つの芸術をつなぐ第7番目の芸術として、「映画は第七芸術という総合芸術である」と宣言した(『第七芸術宣言』1911年。※003、※004参照)。
第二次世界大戦の影響を受け、フリッツ・ラング(ドイツ)やジャン・ルノワール(フランス)等の多くの映画人がアメリカに亡命した。
亡命ではなく招聘(しょうへい=礼を尽くして人を招くこと)されてあるいは自ら望んでアメリカに行ったマックス・オフュルスやエルンスト・ルビッチ(ドイツ)、ルネ・クレール(フランス)などの作家も含めると、1930年代から1940年代にかけてのアメリカには著名な多くの映画作家が世界中から集まった。
そのため、映画製作本数も年間400本を超え、この頃、質量共にアメリカは世界の映画界の頂点にあった。このことにより、1930年代〜1940年代は「ハリウッド全盛期」、「アメリカ映画の黄金時代」とも呼ばれている。
サイレント映画の黄金時代(1913〜1927)、世界各地で数多くの名作・傑作が生まれ、映画は単なる娯楽から、芸術の一分野としての地位を築きあげるようになった。そして1910代初頭は、イタリア映画の時代でもあった。
この時期に世界に名を轟かしたイタリア映画の大半は歴史映画であったというのも歴史の国イタリアらしい。そうしたイタリア史劇の中で、最高の成功作とも言われているのが、現在唯一ビデオで鑑賞することができるらしい『カビリア』(1913年制作)だと言われている。監督は、すでに『トロイ陥落』で成功を治めていたジョヴァンニ・パストローネ(別名ピエロ・フォスコ。1883〜1959)。映画の内容等は※005,006参照。
無声映画時代に映画界を革新したイタリア製スペクタクル史劇だが、『カビリア』をピークに、以降,イタリアの映画産業自体の衰退と共に下降線を辿っていく。
ちょうど『カビリア』が公開された1914年に、第一次世界大戦(1914年 - 1918年)が勃発する。凄惨な主戦場となったヨーロッパ全体が大きな損害を受け、イタリアも、映画制作どころではなくなった。
その間に,「スタジオ」と称される大手映画会社を次々と設立したり、世界初の長編発声映画(トーキー映画)を制作したりと着々と力をつけるアメリカが、世界の映画産業の中心となっていった。
第二次世界大戦が終わって1950年代に入ると、イタリアとアメリカで大作主義が回帰した。第一次世界大戦以降、低迷の一途を辿っていたイタリアと、世界の映画産業の中心として既に不動の地位を確立しつつあったアメリカ、ハリウッド。
世界の映画産業をリードし、第二次世界大戦では勝戦国ともなり、順風満帆であるかのように思えたアメリカの映画産業だったが、大戦終結と同時に、世界はアメリカとソ連を中心にした東西冷戦の時代に突入。
1947年から、反共産主義活動が本格的に開始され、赤狩り(レッドパージ。詳しくはマッカーシズム参照)が行われた。
共産主義勢力が拡大することを危惧した米政府は、見せしめのため、娯楽産業を代表する映画業界に第一に赤狩りの矛先を向けた。これによって,映画監督、脚本家など、映画産業に関わる者が多数追放された。しかし,この赤狩りによる追放が、イタリアとアメリカの映画産業を繋げるきっかけを作ることとなった。
赤狩りで追放された1人に、ダルトン・トランボという脚本家がいた(運動の最初の標的とされたハリウッド映画界の著名な10人の映画人ハリウッド・テンの一人)。
追放された後、彼はアメリカ国外に出て偽名を使いながら数々の脚本を書きあげた。その代表作が、ローマを舞台にアメリカ制作で映画化され、オードリー・ヘップバーンが主演の名作『ローマの休日』(1953年)である。
そして,トランボはこの後,依頼を受けてハリウッド史劇大作『スパルタカス』(1960年、製作総指揮・主演カーク・ダグラス)の脚本を手がけた。
『スパルタカス』は、豪華絢爛な衣装やセットに、偉大な英雄を主人公に用意した他の典型的な史劇大作とは少し異なり、社会的身分の低い奴隷スパルタカスを主人公に置き、権力に立ち向かう姿を描いた社会派スペクタクル史劇といえ、人間の自由と尊厳の意義を訴えたこの作品は、祖国に迫害されて全てを失ったトランボ自身に重ねられるものなのかもしれないという。
他にも赤狩りによって追放された者の多くが、国外、特にヨーロッパに逃れ、偽名や匿名で映画の仕事に携わっていた。彼らは、再び母国アメリカで日の目を見る時を待ち望みながら、映画人としての誇りを捨てずに、他国でもその才能を存分に発揮させて映画制作に関わり続けていた。
また、同時期の1948年,パラマウントなどのハリウッドのメジャースタジオ8社に対して,独占禁止法(反トラスト法)違反の罪を問う訴訟の判決が下され、事実上、スタジオ側が敗訴する。
力を失った大手映画会社に成り代わり、スタジオに頼らず低予算のロケーション撮影主体で映画を制作する独立系小規模プロダクションの作品や外国の作品が、急速にアメリカの映画市場を大きく占めていくこととなった。
更に、テレビ放送開始に伴うテレビの急速な普及は追い討ちをかけ,たちまち映画館から観客を奪った。他にもレジャーやスポーツ、音楽など人々の関心が他の娯楽文化に移るようになった。戦後の高度経済成長に伴い、人々のライフスタイル(生活の仕方、生活様式)が多様化していったのだ。
娯楽産業としての地位を脅かされていく映画が、テレビや、他の娯楽文化に対抗して観客を集めるためには、大作を制作する必然性が生じた。
また、この頃,テレビへの対抗意識が高まる中で映画の技術も急速に進み、ほとんどの作品でカラーやワイドスクリーンが採用されるようになった。
その為、撮影スタジオでのミニチュア合成や国内のロケーション撮影による背景映像に、観客は満足しなくなる。こうして,アメリカは豪華で迫力のあるスペクタクル史劇制作に力を入れるようになった。
しかし、赤狩りやスタジオ・システムの崩壊で弱体化し、技術費用や人件費も高騰してしまったアメリカには、大作を制作する費用もスタッフも撮影スタジオも足りなかった。
それに第二次世界大戦後、アメリカ映画が世界中に輸出されたが、輸出先の外貨事情が悪いために収益金が凍結していた。映画会社はそれを回収するために海外ロケで映画を製作、又、映画の制作拠点そのものを海外に移す傾向があらわれた。これを当時はランナウェイ方式と呼んだ。
中でもイタリアは好まれた。アメリカ国内よりもヨーロッパで制作するほうが低予算に抑えられる上、ローマには,ヨーロッパ最大級の撮影所、チネチッタがある。
文化遺産が街に多く残っているイタリアは大規模なロケーション撮影が可能であり、神話や聖書などスペクタクル史劇の題材を十分に持っていて、かつてスペクタクル史劇大作の栄華を極めた歴史と伝統もある。
このようにして、イタリアで数々のハリウッド史劇が制作されるようになり、『十戒』(1956年監督:セシル・B・デミル主演:チャールトン・ヘストン)、『ベン・ハー』(1959年,監督ウィリアム・ワイラー。主演:チャールトン・ヘストン)といった名作が生み出された。
日本の大映の協力の下、奈良や京都で撮影が行なわれたマーロン・ブランド主演、日本の京マチ子共演の『八月十五夜の茶屋』(1956年)や、主演のデヴィッド・ニーヴンや当時新進女優であったシャーリー・マクレーンなど数十人の有名な俳優が部分部分に入れ替わり立ち替わり登場し、世界をロケしまくっている『八十日間世界一周』(1956年)なども海外ロケで映画を製作したランナウェイ映画である。
一方のイタリアも、このようなアメリカの影響もあり、歴史を題材。文化遺産を撮影に使った史劇作品の制作に再び乗り出した。
第二次世界大戦後の1940年代後半から1960 年代にかけての時代は、長いイタリアの映画史にとっても大きな転機となった。敗戦し、多くのものを失い、映画制作自体ままならないはずのイタリアは,、すぐに映画産業を復興へ導いていった。
なぜ大戦直後の短期間で成功を収めたのか。その大きなきっかけとなったのが,ネオレアリズモであったという。
ネオレアリズモとは、イタリアで、主に文学や映画において盛んになっていた「新しい現実」を芸術表現した潮流である。
戦後にわかに強まったネオレアリズモは、イタリア国内に留まらず、アメリカなど世界の戦後映画の流れをも大き く変えた。
その特徴としては,ロベルト・ロッセリーニの『無防備都市』に代表されるように、.ドキュメンタリー要素が強く、社会問題や政治問題など現実的なテーマを取り扱ったものが多い。
この映画は、1945年.第1回カンヌ映画祭でグランプリに選ばれた作品の一つである。
敗戦して多くを失った自国の現状を目の当たりにして、映画制作者たちは、より身近に、より重く「現実」に目を向けた。それは本来の人々の姿をありのままに映像に映し出す原点回帰でもあり、新たな手法による新たな価値の創造でもあった。
ネオレアリズモには、芸術を再生させ、新しい時代を自ら築いていこうとする映画制作者たちの、芸術家としての熱く強い意思が感じられる。
しかし,映画界に再生と転機をもたらしたネオレアリズモの潮流は1950年代初頭にはすっかり勢いをなくしてしまう。
それでも,映画産業復興への流れと、原点を顧みるという方向性は変わらず、新たに戦後復興期を支える映画ジャンルが登場する。
正確には,再来というべきだろうか。代表的なものが、喜劇と、そして、歴史や神話が題材となったスペクタクル史劇であった。
共に,初期の無声映画時代から存在するという古い伝統を持つ。とりわけ、アメリカの影響を受けて再び制作するようになったスペクタクル史劇は、異質な存在感を持ち、圧倒的に人気があった。
イタリアのスペクタクル史劇大作といえば,豪華絢爛なセットに衣装、そして何より欠かせないのがワイドスクリーンを悠々と駆け巡る、屈強そうな怪力ヒーローたちであった。
さて、この時期に恰も大作主義を嘲笑うかの様にひたすら作家としての拘りを追求した作家たちがいた。これは二つのそれぞれ起源の異なるものに分けられる。一つがアメリカの内から生まれた1950年代のB級映画の流れを汲むものであり、もう一つがフランスで1960年代に新風を起こした「ヌーヴェル・ヴァーグ」の流れを汲むものである。
1960 年代の後半から1970 年代の初めにかけて、アメリカの映画産業は最悪の状態にあった。
それを打開したのが「アメリカン・ニュー・シネマ」と呼ばれるものであった。
政治の腐敗というところに帰結し、アメリカの各地で糾弾運動が巻き起こった。アメリカン・ニューシネマはこのような当時のアメリカの世相を投影していたと言われる。
しかし、ベトナム戦争の終結とともに、アメリカ各地で起こっていた反体制運動も下火となっていき、それを反映するかのようにニューシネマの人気も下降していくことになる。
このように、映画も時代と共に年々変化をしながら今日に至っている。映画史等以下参考の※007、008などが詳しく、このブログもこれらを参考に第1回カンヌ国際映画開催前後の大きな流れを書いた。
第1回カンヌ国際映画祭が開催された日ー参考へ
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