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第1回カンヌ国際映画祭が開催された日(2-1)

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1946年の今日・9月20日は第1回カンヌ国際映画祭開催された日である。
世界各地で開催される映画業界の祭典「映画祭」の中で、最も有名ななものは「国際映画祭」であり、同映画祭は、多様な作品の上映を中心に、優れた作品の選考や、映画売買のマーケットとしての機能も備えている。、
世界23か国・26の映画製作者団体で構成され、フランスパリに本部の置かれている国際映画製作者連盟(Fédération Internationale des Associations de Producteurs de Films, 英語:International Federation of Film Producers Associations, 略称:FIAPF)が公認している国際映画祭では、各映画祭を「コンペティティブ」(Competitive)、「コンペティティブ・スペシャライズド」(Competitive Specialised, あるジャンルに特化した映画祭)、「非コンペティティブ」(Non-Competitive, 賞の選考を目的としない映画祭)と「ドキュメンタリー/短編」(Documentary/Short Film) の4つに分類している。
因みに、「コンペティティブ」(competitive)は、名詞:「コンペティショ(competition)」の形容詞で、競争率が高い。つまり、同映画祭では、パルム・ドールグランプリ、監督賞、男優賞、女優賞などの審査対象になる作品のことで、一般的に「カンヌ映画祭○○賞受賞」と言われるものはこのカテゴリの受賞作品のことを指しているようだ。
FIAPF公認の映画祭の中で、イタリアのベネチア国際映画祭、フランスのカンヌ国際映画祭、ドイツのベルリン国際映画祭が世界3大国際映画祭として知られている。
映画祭は政治や社会の動きともかかわりが深く、1932(昭和7)年にスタートした最も歴史が長いベネチア国際映画祭は、第2次世界大戦中にファシズム政権に利用され、「ムッソリーニ杯」が設けられた時期もあった。
FIAPFが公認している国際映画は、世界三大映画祭以外にチェコのカルロビバリ、ロシアのモスクワ、スペインのサンセバスチャン、中国の上海、日本の東京、エジプトのカイロ、スイスのロカルノ、アルゼンチンのマルデルプラタ、など、合計52もあるそうだ。
その中でも、世界最大の映画祭、「カンヌ国際映画祭」は独特である。
世界最古の歴史を持つ映画祭イタリアの「ヴェネチア国際映画祭」は、最も歴史の古い国際美術展であるヴェネツィア・ビエンナーレの第18回(1932年)の際に、その一部門(映画部門)「ベネチア映画芸術国際展」として開始された。
初回の最優秀賞は観客の投票で決められた。
2年後の1934年第2回が開催され、この年からコンペティション部門がスタート。自由な作品上映を目指して始まったが、1936年にはムッソリーニ賞が設定されるなど、独裁政治家だったムッソリーニのプロバガンダとして映画祭が開催されるようになるなど、1930年代後半からファシスト政府の介入を受け、次第に政治色を強めた「ヴェネツィア国際映画祭」に対抗し、自由な映画祭をつくろうという発想のもと、フランス政府の援助を受けて開催される事になったのが「カンヌ国際映画祭」である。
1939年から開催の予定だった第1回は、当日に第二次世界大戦勃発のため中止。
結局、「第1回カンヌ国際映画祭」(La première édition du Festival international du film)は終戦後1年が経過した1946(昭和21)年の今日・9月20日 から 10月5日の間に開催された。しかし、映画祭はまだ「カンヌ」の名を冠していない(正式名=仏: Festival International du Film de Cannes)。又、この時は、古いカジノを改装して上映会場としたという。

上掲の画像第1回の会場近辺。
この「第1回カンヌ国際映画祭」には、長篇映画40本、短篇映画68本、21か国が参加した。現在の最高賞は「パルム・ドール」、次点が「グランプリ」であるが、まだこの時には「パルム・ドール」という名称は生まれておらず、同賞に当たる最高賞「グランプリ」該当作が11本選ばれた(ここ参照)。
審査員は、フランスのエコール・デ・ボザール学長で本映画祭の創立者のひとりであるジョルジュ・ユイスマンを委員長に、18か国から選出された。開会宣言は、当時の国務大臣が行なったという。
その後も、会場設備・予算などの問題などから第2回は1947(昭和22)年9月12日 〜 同25日に、第3回は1949(昭和24)年9月2日から17日にかけて開催されたが、1948年、1950年と中止が相次ぐなど当初は混乱も見られたものの、1951年(第4回)からは映画祭としての環境が整備され、この頃から1946年に完成したパレ・デ・フェスティバルが会場として使用され、世界最大の国際映画祭へと成長していった。

掲の画像がパレ・デ・フェスティバル・エ・デ・コングレ。
カンヌ国際映画祭で賞の対象となるのは、先にも述べたコンペティション部門に出品された作品のみ。審査するのは、映画祭事務局によって選出された著名な映画人や文化人などのシネフィルであり、この審査団がどのような作品を選んでくるかが、この賞の最大の面白味のようである。また、世界最大の所以(ゆえん=いわれ、理由)は、映画祭と併行して行われる「国際批評家週間」と「監督週間」にあるという。
前者はフランス映画批評家組合(SC)が主催するカンヌ映画祭とは独立した並行部門で、1962年から新人監督の作品を、後者もフランス監督協会が主催するカンヌ映画祭とは独立した並行部門で、1969年から世界中の映画監督の作品を、映画ジャーナリストたちに公開している。
 1968年の第21回にはパリの五月革命に呼応したフランスヌーヴェルヴァーグの旗手ジャン=リュック・ゴダール監督らによる実力行使により、各賞選出が中止に追い込まれるといった事件(カンヌ国際映画祭粉砕事件)が起きたり、あるいは1979年(第32回)には、この年の審査委員長を務めた作家のフランソワーズ・サガンからフランシス・コッポラの『地獄の黙示録』がグランプリをとったが、それには“審査に実行委員会から圧力がかかった”と衝撃発言が後日フランス社会党系新聞『ル・マタン』紙に発表され、スキャンダルとなる(※001:「French Mania」のカンヌ映画祭とスキャンダル参照)など、カンヌはスキャンダルにも事欠かなかったようだが、むしろ、様々なスキャンダルとともに成長してきた映画祭とも言えるようだ。
カンヌ国際映画祭は当初9月開催であったが、1951年の第4回頃からは4月から5月にかけて開催されるようになり、1957年(第10回)から5月に開催されるようになったようだ。
併設されている国際見本市「カンヌ・フィルム・マーケット」(Marché du Film)は、イタリア・ミラノの「ミフェド」(MIFED)、「アメリカン・フィルム・マーケット」(American Film Marke)と並び世界三大マーケットのひとつである。マーケットには例年800社、数千人の映画製作者(プロデューサー)、バイヤー、俳優などが揃い、世界各国から集まる映画配給会社へ新作映画を売り込むプロモーションの場となっている。
とりわけ、世界三大映画祭と世界三大マーケットが同時に開催されるのはカンヌだけであるため、世界中のマスメディアから多大な注目が集まり、毎回全世界から数多くの俳優、映画製作者が出席。毎年春の映画祭開催時期、南フランスの小さな観光都市カンヌは映画一色となる。
開催期間中は、メイン会場を始め各映画館では映画が上映され、見本市では各製作会社によるブースでプレゼンとパーティが行われる。これから公開される映画はもちろんのこと、予告編しかできていない映画やまだ脚本すらできていない企画段階の映画までが売り込みに出され売買されるようだ。

戦後アメリカの影響を大きく受けている日本の若者などには、世界三大映画祭の中でも最大の映画祭であるカンヌなどよりもアメリカのアカデミー賞の方に関心があるのではないだろうか。
アカデミー賞は、「アメリカ映画の祭典」という冠詞を付けられることが多い事からも分かる通り、基本はアメリカ映画を対象とした映画賞であり、作品の選考対象も「1年以内にロサンゼルス地区で上映された作品」と比較的狭義である。つまり、あくまでもアメリカの映画人の内輪の大会なのである。
従って、カンヌ等と違い、賞レースには、プロダクション関係のロビーストロビー活動が盛んであり、結果的に、映画の優秀さより、ロビー活動での成否が大きく影響するとも云われている。
それに対して、カンヌは、映画祭と併催される映画関連の巨大マーケットであり、権威と・見識によって各賞が決定され、アカデミー受賞作と比較しても、誰もが納得出来る優秀な作品が選抜されているといわれている。
しかし、アカデミー賞は、その知名度と世界三大映画祭よりも古い歴史(初回は1929年5月16日)を持つ権威ある賞であるため、マーケットへの影響力は国際映画祭の各賞以上に大きく、受賞結果が各国の興行成績に多大な影響を与えていることはまちがいない。このため各国のマスコミは「映画界最高の栄誉」と報道することが多い。

さて、肝心の映画のことだが、最初の1946(昭和21)年の第1回カンヌ国際映画祭開催時は社交界の集まりのようなものであり、ほぼ全ての映画に賞が授与され、世界のスターがレッドカーペットに登場した。「グランプリに選ばれた受賞作(ここを参照)。
11作品中で、私の記憶にあるのは、デヴィッド・リーン監督の『逢びき』(原題::Brief Encounter。セリア・ジョンソントレヴァー・ハワードが主演)くらいか。
互いに配偶者を持つ身でありながら道ならぬ恋に惑う男女の出会いと別れを描いた恋愛映画である。当時jまだ子供であった私が見たのは、大人になってからで、1974(昭和49)年にリチャード・バートンソフィア・ローレンの主演によるテレビ映画化でリメイクされたものだ。日本では1976(昭和51)年に劇場公開された。

上掲の画像はDVD映画「逢びき」(1974年公開)
映画の内容は、不倫してる男女の出会い・・・、邦題タイトルそのままの映画である。日本ではまだ、デートなど、不道徳なこととされていた時代、“相愛の男女が人目を避けてこっそりと会うこと(密会)”を、「逢いびき」などと云う言葉で表していた。江戸後期から使われ始めた語のようであるが、男女の出会いをなんでもデートの一言で言い表す今の時代には、懐かしい言葉ではある。
もう一つ私は映画を見ていないので詳しく語れないが当時話題になった作品が1つある。ロベルト・ロッセリーニ監督による『無防備都市』であるが、この映画のことは、この後簡単に触れる。
第2回映画祭(1947年)では、グランプリは発表されず、部門ごとの受賞となったようだ(受賞結果はここ参照)。その中で知っているのは「アニメーション賞」を受賞した (Best Animation Design)に、ディズニーの子象を主人公にした長編アニメ『ダンボ』(1941年公開映画)ぐらいである。日本では『空飛ぶゾウ ダンボ』という題名で1954(昭和29)年に公開されている。
ダンボが公開された1941年10月の時点で、既に欧州第二次世界大戦が始まっており、日米間の緊張がピークに達し太平洋戦争の勃発(12月)が間近に迫っていた時期でもあった。
Wikipediaによると、真珠湾攻撃直後のアメリカを舞台にしたスティーヴン・スピルバーグのコメディ映画『1941』(1979年)では、米陸軍のジョセフ・スティルウェル将軍が劇場で公開中の『ダンボ』を鑑賞し、母子の愛情に涙するシーンがあるそうで、日本公開当時のパンフレットによると、映画に感動して涙する件(くだ)りはスティルウェルの回顧録にヒントを得たものだという。
MGMMGMカートゥーンの『トムとジェリー』に、本作のパロディである「ジェリーとジャンボ(Jerry and Jumbo)」という短編作品が存在する。同作では子象が「ジャンボ」を名乗っている。
私の家はケーブルテレビJ:KOM(ZAQ)に加入しているが、子供たちの夏休みである8月には、602チャンネル(カートゥーンワークHD)で、日本上陸50周年記念として「トムとジェリー」の漫画を毎週放送していた。数が非常に多いのでタイトル名はいちいち覚えていないが確かその中に、小象の出てくるものがあった。久しぶりに、楽しませてもらった。

1948年は、カンヌ国際映画祭が開催されず、1949(昭和24)年第3回のグランプリ(最高賞のパルム・ドール賞)に輝いたのはキャロル・リード監督の『第三の男』.。原作・脚本を書いたのが、戦後イギリス文壇で代表的な位置に立つカソリック作家グレアム・グリーンである。
第二次世界大戦直後のウィーンを舞台にしたフィルム・ノワール。光と影を効果的に用いた映像美、戦争の影を背負った人々の姿を巧みに描いたプロットで高く評価されている。翌・1950年度のアカデミー賞では監督賞、撮影賞(白黒部門)、編集賞の3部門でノミネートされた。そのうちロバート・クラスカーが撮影賞(白黒部門)を受賞している。
この映画は、オーストリアの民俗楽器、チターが奏でるテーマ音楽と相まって20世紀屈指の古典的名作として現在でもよく知られている。私も非常に印象に残っている映画であり、また、若い頃、この曲でギターの練習もよくしたものだ。
大好きなこの映画のことは、前にこのブログ『グレアム・グリーン (英:小説家『第三の男』) の忌日』 でも詳しく書いた。
1950年もカンヌ国際映画祭は開催されず、1951(昭和26)年第4回、のグランプリにはスエーデンの監督:アルフ・シェーベルイの『令嬢ジュリー』と、ネオ・リアリズモの嚆矢(こうし)で、代表作『自転車泥棒』(1948 年)などで知られるイタリヤの監督ヴィットリオ・デ・シーカの.『ミラノの奇蹟』が入賞している。
又、審査員特別賞(女優賞)に入賞の米国『ジョセフ・L・マンキウィッツ監督のイヴの総て』は、実在の女優エリザベート・ベルクナーをモデルとしたものだそうで、主役のマーゴ・チャニングをベティ・デイヴィス)が演じ、ブロードウェイの裏側を見事に描ききったとして、アカデミー賞では、作品賞をはじめとして6部門で受賞している。
カンヌ国際映画祭はこの第4回から、毎年開催さるようになり、その様子が絶えずメディアに報道され、急速に国際的、伝説的な評判となった。
1950年代には,カーク ダグラス、ソフィア ローレン、グレース ケリーブリジット バルドーケーリー グラントロミー シュナイダーアラン ドロンシモーヌ シニョレジーナ ロロブリジーダ…といった有名人の出席により知名度を上げていった。
創設以来、カンヌ映画祭は、設立時の開催目的を忠実に守り続けているという。その目的とは、映画の発展に貢献するために作品を紹介し、援助すること、世界中の映画産業発展の援助をすること、第7芸術を国際的に称揚することだという(※002参照)。

第1回カンヌ国際映画祭が開催された日ー参考
第1回カンヌ国際映画祭が開催された日ー(2-2)


冒頭の画像はレッドカーペット

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