(語り)
私生まれも育ちも葛飾柴又です
帝釈天でうぶ湯を使い
姓は車 名は寅次郎
人呼んで フーテンの寅と発します
1)
俺がいたんじゃ お嫁に行けぬ
(*どうせ俺らは ヤクザな兄貴)
わかっちゃいるんだ 妹よ
いつかおまえの よろこぶような
偉い兄貴になりたくて
奮闘努力の甲斐もなく
今日も涙の
今日も涙の 日が落ちる 日が落ちる
2)
ドブに落ちても 根のある奴は
いつかは蓮の 花と咲く
意地は張っても 心の中じゃ
泣いているんだ 兄さんは
目方で男が 売れるなら
こんな苦労も
こんな苦労も かけまいに かけまいに
(間奏)
男とゆうもの つらいもの
顔で笑って
顔で笑って 腹で泣く 腹で泣く
3)
どうせおいらは 底抜けバケツ
わかっちゃいるんだ 妹よ
入れたつもりが すっぽんのぽんで
何もせぬより まだ悪い
それでも男の 夢だけは
なんで忘れて いるものか いるものか
4)
あても無いのに あるよな素振り
それじゃ行くぜと 風の中
止めに来るかと あと振り返りゃ
誰も来ないで 汽車が来る
男の人生 一人旅
泣くな嘆くな 影奉仕 影奉仕
星野哲郎作詞、山本直純作曲 『男はつらいよ』の主題歌である。
歌は主役の寅を演じている渥美清。1968(昭和43)年に全26話(一話45分)の連続テレビドラマ(フジテレビ)の主題歌として作られ、1969(昭和44)年から松竹映画でも使われた。映画5作目以降は歌詞1行目が(*印)の様になった。
しかしこの歌の冒頭の語りなど良いね〜。その後に続く歌詞にしても語調が良くて歌いやすい。日本の歌謡曲の良さがすべて出ていると言ってもいいだろう。
この寅さんの主題歌を聞いているとまるで、寅さんの映画を見ているようにそのシーンが蘇えってくる。私の大好きな歌の一つである。
映画『男はつらいよ(第1作)』の製作は、1969(昭和44)年春に始まった。テレビドラマの映画化だったことから製作する松竹内の空気は冷ややかで、前評判も注目度もそれほど高くなくシリーズ化など当初は考えられてもなかったようだ。
テレビ版『男はつらいよ』シリーズの放映がフジテレビで開始されたのは、前年(1968=昭和43年)の今日・10月3日から半年間であった。
主役の寅さんこと車寅次郎は渥美清、異母妹のさくら役は長山藍子。このテレビ版『男はつらいよ』シリーズはヒットしたが、最終回で寅次郎が奄美大島へハブを取りに行って、逆にハブに噛まれ、毒が回り死んだという結末に視聴者から局に多数の抗議が殺到し、これが映画化につながったという。以下は、1969(昭和44)年3月27日の最終話である。
[TVドラマ] 男はつらいよ(1969)最終話 ー YouTube
そして、映画『男はつらいよ』シリーズは、1969(昭和44)年8月に記念すべき第1作が上映された(冒頭の画像は『男はつらいよ』第1作のポスター)。
結果は大当たり、すぐに続編が製作され、第2作『続・男はつらいよ』は約3ヶ月後、第3作『男はつらいよ フーテンの寅』(森崎東)はその2ヶ月後、第4作『新・男はつらいよ』(監督:小林俊一)にいたっては、その1ヶ月後に公開されている。映画が予想外のヒットをしたことから松竹側が作れ作れと急かしていたようで、寅次郎というキャラクターの発案者である山田洋次自身が十分に演出をする余裕がなっかたと聞いている。
そして、第5作『男はつらいよ 望郷篇』(1970年8月公開)以降、山田が監督し、映画界一番の書き入れ時である盆と正月の年2回公開が定番となっていく。
映画の筋は極めて単純である。
テキ屋稼業を生業とする「フーテンの寅」こと車寅次郎(渥美清)は、毎度美女(マドンナ」)と出会い惚れつつも、失恋するか身を引くかして成就しないまま旅に出る。そんな、寅さんを、故郷の葛飾柴又に住む妹のさくらやおいちゃん、おばちゃんが温かく見守っていく。映画は、そんな寅次郎の恋愛模様を、日本各地の美しい風景を背景に描かれる。
●上掲の画像は、映画『男はつらいよ』映画第1作の1シーン(画像は、『朝日クロニクル週刊20世紀』映画の100年より借用)。
渥美が演じる下町育ちの風来坊・車寅次郎とその一家や旅行先で出会った人々が繰り広げる人情喜劇は、1995(平成7)年公開の第48作『寅次郎紅の花』が、渥美清の遺作となった。
この最後の48作目の作品で、寅さんは阪神・淡路大震災の被災地に立った。わが地元である神戸市の人々から「寅さんに来てもらえれば被災した人々も勇気づけられる」として、松竹サイドに依頼。山田洋次監督がそれに応えて実現したもの。
●上掲の画像:神戸市長田区の菅原市場でのロケは1995年10月24日のもの。
地元では看板や店舗、エキストラの手配まで全面的に協力した。1000人近い見物人が集まり「ほんまに寅さんや、うれしい、最高や」などと大喜びであった(画像は『朝日クロニクル週刊20世紀』1996年号より)。以下では、当時の御蔵通・菅原通の被災状況や菅原商店街での山田洋次監督の「男はつらいよ」ロケ風景などが見られる。
震災記録写真(大木本美通撮影) :御菅地区
世代を超えて親しまれてきた当シリーズの総本数48は世界最高。実に、26年間の長きにわたって公開された国民的人気シリーズは、世界長寿のシリーズとしてギネスブックにも掲載された。
映画に登場したマドンナ役は36人。最後のマドンナは浅岡ルリ子。最多出演4回を誇り、寅次郎といわば「相思相愛」だったリリーが最後というのは何かの因縁のようだ。
●上掲の画像は、寅さんとリリー役の浅岡ルリ子。最後の『寅次郎紅の花』の撮影中のツーショット。奄美諸島の加計呂麻島で撮影したもの。浅岡ルリ子はリリー役を「私の一番好きな役と言ってもいいくらい」と言っていたそうだ。(画像は『朝日クロニクル週刊20世紀』1996年号より)
映画に登場するマドンナも様々だが、この映画の主題歌の方もいろいろと変化を遂げた。
テレビドラマ版『男はつらいよ』の放映が開始されたのは今日から46年も前のことであるが、フジテレビのプロデューサーだった小林 俊一は、渥美清と東京・原宿で渥美の好物にんにくソバを食べに行ったとき、渥美が「ケッコー毛だらけ猫灰だらけ」と声を張り上げ、テキ屋の話をしたのを聞いて、この時の話から渥美主演のテレビドラマを企画したという(2009年5月23日付朝日新聞be)。
ところで、若い人は「ケッコー毛だらけ猫灰だらけ」って何か知っていますか。これは、露天商などが巧みな話術で客引きの為にしゃべる啖呵売(たんかばい)と呼ばれる商売手法の一つであり、昔のと言っても私たちが子供の頃までは縁日や路上販売などで、よく行われていたもの。 渥美演じる寅さんがテンポ良く、巧みな話術で客を楽しませたうえで、ありきたりのものを売りさばく。・・・映画でも見せ場の一つだった。
この啖呵売には、いろいろある(※2:「さすらいの月虎■「男はつらいよ」独尊記」の8.寅さんの啖呵売参照)。そのうちの一つ、寅さんの映画の中での啖呵売が以下で見られる。
男はつらいよ寅さん啖呵売 - YouTube
話は元に戻って、テレビドラマの企画・監督をした山田洋次は渥美演じる主人公「寅」さん(車寅次郎)の名は落語の熊さんから発想し、熊より寅の方が良い言うことで決めたという。
又、テレビ版『男はつらいよ』には、当初、「愚兄賢妹」というサブタイトルが付いていたが、当時、TBS系列で放送されていた山田洋次監督、渥美清主演の人気テレビドラマ『泣いてたまるか』の最終回が「男はつらい」というタイトルであったことと、その頃の北島三郎が唄う演歌「意地のすじがね」の歌詞に「つらいもんだぜ男とは」という一節があったことに目を留めた小林が、この1節を上下逆にして番組のタイトルを『男はつらいよ』に決定したという。
そして、この歌の作詞が星野哲郎であったことから、自然の流れとして「じゃあ、このテレビドラマの主題歌の作詞は星野先生にお願いしよう」ということで当時面識もなかった星野に依頼したとそうだ。
しかし、突然面識のない小林俊一から、「愚兄賢妹」と云った内容のドラマの粗筋を送るから物語をどう展開しても良いように作詞してください」との作詞依頼を受けた星野は面食らったようだが、そのころちょうど仕事に飢えていた時で、「なんでもやります」と引き受けたという。
星野が最初に浮かんだのは、「俺がいたんじゃお嫁に行けぬ」だったという。そして、当時、主人公を演じる渥美の世間一般のイメージがエーザイ製薬のCF(CMと同様)でのキャッチコピーが「丈夫で長持ち」という形容であったこと。また、このドラマの主人公・フーテンの寅さんはどこかそんな渥美のイメージとダブるところがあったことなどから、「目方で売ったらどうだろう」と考えたという(3番まで書いた原稿用紙が残っているようだ)。
作曲は星野より「あいつは音楽家の寅次郎だから」とクラシックの大衆化を目指していた親友の山本直純に頼んだ。頼まれた山本は、「誰にでも歌えるメロディーに」と即興に近い型で作曲したという。一流の作詞家と一流の作曲家によって作られた歌だ。良いのにきまっている。
歌は声の良い渥美が唄うことになった。渥美は歌手として「浅草日記」(1977年発売。作詞:星野哲郎、 作曲:山田つぐと 、編曲:高橋信之)などの持ち歌がある。この歌もいい歌なので興味があれば以下で聞いてみるとよい。役者でも歌手でも声の良いのが絶対条件だ。
「浅草日記」渥美清 - YouTube
寅さんの主題歌はイントロが長いので、急遽セリフ(語り)をいれたという。出来上がった主題歌について山田監督は「奮闘努力って寅には似合わないが俺なりに努力しているというユーモアがある。名曲だし、僕も好きです」と満足したという。
先にも書いたように人気のテレビドラマ版は26回の最後で寅さんがハブにかまれて死に、これに「なぜ、寅さんを殺す!」との抗議が多数寄せられたことから、山田監督は、1話完結で映画化を決意し、妹さくらを結婚させた。
ところが、映画第1作が予想外の好評を受けて続編(『続・男はつらいよ』)も作ることになった。
しかし、「お嫁に行けぬ」(1番)の歌詞ではまずいので2番の「ドブに落ちても」をつかった。そして本作から寅次郎は腹巻きにお守りぶら下げて素足に雪駄のスタイルとなっている。
第2作から2ヶ月後に公開の第3作『男はつらいよ フーテンの寅』では、1番と2番の両方が流れた。この映画、監督は山田洋次から森崎東に変わっている。この映画では、森崎自身がリアルな香具師の差別の世界をテーマに脚本を書いたのだが、それが没になり、脚本は山田洋次、小林俊一、宮崎晃の共同執筆で森崎が監督のみをすることになったのだという。
山田監督に戻った第5作からは、1番の出だしを「どうせ俺らは ヤクザな兄貴」に変えた。
更に、第17作から第19作までは4番の「あても無いのに」を使った。2番の次に「男と言うものつらいもの」が加わる作品(第2作)などもある。他にも細かい変化は多いようだ(※1:「【連載】『男はつらいよ』」の5-3 「男はつらいよ」主題歌物語や、※2:「さすらいの月虎■「男はつらいよ」独尊記」の4.「男はつらいよ」の主題歌など参照)。
この映画が受けた理由を小林俊一は「働け働けの高度成長の時代に一人逆らったのが寅。誰もがうらやましいと思った」からだろうという。
渥美は寅さんのように面白い話で周囲を笑わせたが、普段は寡黙な人だったという。
渥美が青春時代をはいずり回っていたのは 東京の浅草である。
浅草寺の隣に浅草六区が広がる。その中央の交差点に浅草演芸ホールが立つ。何人もの芸人が輩出したかっての浅草フランス座である。
Wikipediaによれば、渥美清(本名:田所 康雄)は1928(昭和3)年、東京市下谷区車坂町(現・上野7丁目)に生れた。家庭が貧乏で小学校時代は欠食児童で、しかも、病弱で様々な病気を患い学校も欠席しがちであったが、欠席中は、日がな一日ラジオに耳を傾け徳川夢声や落語を聴いて過ごし、覚えた落語を学校で披露すると大変な評判だったという。
第二次世界大戦中の1942(昭和17)年に巣鴨中学校に入学するが、学徒動員で軍需工場へ駆り出される。1945(昭和20)年に同校を卒業するも、3月10日の東京大空襲で自宅が被災し焼け出される。
卒業後は工員として働きながら、一時期、担ぎ屋やテキ屋の手伝いもしていたそうだ(親友の谷幹一に、かつて自分は霊岸島桝屋一家に身を寄せていた、と語った事があるという)。どうやら、ここで、啖呵売の手伝いをしていたようだ。啖呵売は渥美の得意とするものだったらしい。
この幼少期に培った知識が後の『男はつらいよ』シリーズの寅次郎のスタイルを産むきっかけになったともいえるようだ。
1946(昭和21)年、中学を卒業すると、高校に入学するための学力も金もなく、職を転々とした後、友人の父の新派軽演劇の座長の誘いでその一座に入り『阿部定一代記』という芝居でのチョイ役で初舞台を踏んだ。
その後、喜劇俳優の道を目指し、さまざまな劇団を渡り歩き、1951(昭和26)年6月、「渥美清」という芸名で浅草六区のストリップ劇場(百万弗劇場→観音劇場参照)の専属コメディアンになる。
しかし、翌年、同劇場が倒産し、他の劇場(川崎セントラルと云われるが・・)に移るが、1953 (昭和28)年には再び浅草に戻り、フランス座に入り、本格的にコメディアンとして活躍を始める。コメディアン仲間には、谷幹一、関敬六、八波むと志、佐山俊二、南利明などがいた。
しかし、当時のフランス座はストリップ(ストリップティーズ【Striptease】の略)が中心でコメディアンは刺身のツマのような存在で、給料も安かった。踊り子に向きがちな観客の目を自分に向けようと渥美は必死に努力した。ここで大いにアドリブの才を磨いたようだ。
しかし、無理がたたって肺結核で入院、右肺を摘出し、3年の療養後復帰した時、フランス座で舞台の振興係をしていたのが当時上智大学の学生だった作家の井上ひさしだった。井上は渥美の為に必死に台本を書いた。この井上のおかげで渥美が世に出たと言っても過言ではないという。
井上は著書『浅草フランス座の時間』(※3参照)に、「いい喜劇役者は矛盾したものを二つ以上持っている。渥美さんは顔が空前絶後の面白さで、声が実に二枚目だ」と書いていると云う。
又、渥美と交友の長かった永六輔の手記によると、戦後の焼け跡の中から鉄くずや銅線を掘り出して現金に換える悪さをしていた子供のグループのボスとして、渥美清(田所康男)がいた。ある時、田所少年は警官に捕まって説教される。「お前みたいな一度見たら忘れられない顔は泥棒に向かないんだ。ここは浅草なんだから、役者になった方がいい。一度見たら忘れられない顔は役者に向いているんだ」と勧められたという(「週刊朝日」1996年8月30日号)。
その後、1959(昭和34)年にフランス座は改装し「浅草新喜劇」を目指したが、1964(昭359)年の東京オリンピックで普及したテレビに浅草の芸人が引き抜かれる。
渥美もNHKの「夢で逢いましょう」に出演(1961年)。更に映画『背景天皇陛下様』(1963年)に出演している。これに注目したのが、フジテレビの小林俊一であり、ここから寅さんが産まれることになった。
寅さん映画について井上は「渥美清は渥美清に扮した時が一番面白い。暴れん坊で、おっちょこちょいで気が良くて、すぐかっとなるが、相手が可愛そうになって舌鋒が鈍る。そういう自分を演じている時が最も輝く」といっているそうだ。
寅さんの映画を支えたのは、渥美と山田監督だった。渥美は寅さんのキャラクターと違い物静かな人物として知られている。「怒ったり、声を荒げたりするところなんかは見たこともないと言われている。そして、仕事とプライバシーのけじめをきっちりとつける役者だったとも・・・。
『男はつらいよ』シリーズのすべての脚本に携わり、初期の作品2本を除きメガホンをとってきた山田監督は、ヒットの理由について、「進歩を競い合っていた時代だからこそ、それに背を向けた停滞そのものの人物が受け入れられた。何か大切なものを失っていくという不安がみんなをこの映画に駆り立てたのでしょう」と分析している(朝日クロニクル週刊20世紀1996年号)。
思い起こせば、『男はつらいよ』の映画第1作が公開された1969(昭和44)年には、「東大粉砕」を叫ぶ学生たちが恐怖と闘いながら東大・安田講堂に立てこもるという事件があった(東大安田講堂事件参照)。
安田講堂を巡る学生と機動隊の攻防戦は35時間続き、籠城学生全員の逮捕に終わった。体制や権力や高度経済成長や生き残り競争を支配する価値観から見ればまことに馬鹿な生き方であったと思うのだが・・・。
このような団塊の世代が大学紛争の最中にあった1960年代後半、怒れる学生たちは革命家ゲバラに憧れる一方で任侠映画に熱い思いを託していたのではないか。
全共闘の若者たちには、そこに、玉砕の美意識みたいなものが見られたのだろう。
この年の記憶に残るのは映画では、高倉健の「任侠もの」や藤純子「お竜さん」であり、歌謡曲では藤圭子の「恨み節」(※4参照)であり、劇画の「あしたのジョー」だった。
藤圭子は、「バカだなバカだなだまされちゃって」と「新宿の女」(※4参照)を歌い、翌1970年「十五、十六、十七と 私の人生暗かった」と「圭子の夢は夜ひらく 」(※5参照)を歌い人気が爆発する。このころは「はぐれもの」が受けた時代だった。
藤圭子は9歳のころから浪曲師の父母と旅をし巷に生きてきた。
『網走番外地』(映画は※6参照)の健さんも「女ざかりを渡世にかけて/張った体に緋牡丹燃える・・・」の主題歌(※4参照)にのってゆく『緋牡丹博徒』シリーズ(映画は※6参照)の女渡世人お竜(藤純子)さんも裏街道を行く「はぐれもの」だし、チンピラ出身、一匹狼のボクサー・ジョーは、死を覚悟した最後の試合で燃え尽きた。
恐らく勝てないであろうことを予測しながらも安田講堂を巡る実力闘争に入った若者達・・・。抑圧された者がやむにやまれず決起したしたときには美しく負けよう・・・。そういった美学を全共闘の精神につなげたのではないだろうか。そこには浪花節的価値観が見られる。
一方、『緋牡丹博徒』シリーズものなどとはかなり様相を異にするが、その後30年にわたって、連作がことごとくヒットした『男はつらいよ』シリーズもこの年第1作が公開されたのだが、、こちらの方の通称寅さん映画は東京の下町に義理人情の世界を描いて日本人の共感を得た。、
そもそも映画や演劇を見る楽しみの一番大きなもののひとつは、いいセリフが朗々とした、いい調子で心行くまで語られるのを聞くことだといわれている。歌舞伎や新派劇はそういうものだったし、映画では主に時代劇や任侠ものがその役割を受け持っていた。
現代劇の映画は残念ながらそうはゆかなかった。現代日本語は、歌舞伎や新派、講談、落語のような雄弁術は生み出せなかったからである。
ところがその名調子のセリフの源泉である時代劇映画は1960年代に大幅に衰退し、以後は細々としか残っていない。
一時それを肩代わりしたのが任侠映画で、ヤクザの仁義や啖呵をはじめ、異様なまでにメリハリの利いた美辞麗句でファンを喜ばせてくれたものであったが、約10年でその流行も終わった。
この任侠映画の流行が峠を越した1969年から、それとオーバーラップするような形で現れて、同じような名調子のセリフの雄弁術を存分に楽しませてくれたのが、寅さん映画『男はつらいよ』シリーズであった。
任侠映画が悲愴美を謳いあげるものだったのに対し、寅さん映画は喜劇だったが、時代劇が大幅に衰えて、芝居がかった七五調やそれに近い名調子は映画では、もうそこにしか残っていなかったのである。
そして任侠映画が終わった1970年代の半ば以降には、『男はつらいよ』シリーズは七五調的名せりフの最後の砦になって、以後20年間もその孤塁を守ってきたというわけだ。
孤塁というとわびしいがこのシリーズ48作がこの時代の日本映画の例外的なドル箱だったことは誰でも知っていることだろう。何故このシリーズが名せりフ、名調子の砦であり得たか。
それは、寅さんを演じる渥美清の特技がテキヤの啖呵売の話術だったからである。時代劇や歌舞伎、講談ゆずりの名セリフは、いかに名調子であっても現代に応用することはできない。任侠映画は時々現代を扱うが、これは暗黒街のものだからそのセリフは堅気の普通の人々の生活には使えない。
その点、フーテンの寅のテキ屋と云う職業は、親分子分の絆が強かったり、かってはガセネタと呼ばれるインチキ商品を売ることが多かったり、縄張り争いなどの暴力沙汰があったりで、半ばヤクザと見られていたが、基本的には、街道行商人という正業だから、普通の庶民生活の中に入ってきてもおかしくはない。
それどころか、規則づくめのサラリーマンには対極の自由気ままな風来坊にさえも見える。実際にはテキヤと云う商売も、親分子分関係の規律と全国祭礼のスケジュールに追われる厳しいものらしいが、世間の目には実態がよく判らないだけに、現代にも可能な唯一の庶民的な自由業のような錯覚も成り立たせることが出来る。
そして、そこには、講談以上にメリハリが利いて、落語以上に下世話(俗なこと)で、意表を突くボキャブラリーが止どめなく出てくる七五調の口上がある。もちろんそれは、特殊な実用話芸であって、日常会話の言葉ではないが、山田洋二と渥美清は、啖呵売の口上のセリフを『男はつらいよ』シリーズで日常会話に持ち込むことに成功した。
そして、そのことが、時代劇が衰え、任侠映画が消えた後に、唯一、七五調やそれに近い詩的言語による大衆映画、しかも現代風俗を存分に語る映画にしたのである。
一見したところ、『男はつらいよ』シリーズは、ごくありきたりな下町人情喜劇である。古くからよくある定型のものであるが、それにしては良くできている。しかし、新しい要素は何もないと評されることが多い。確かに、新しいものは特にないが、忘れられた古い庶民的雄弁術の伝統を現代に蘇らせ、それに磨きをかけ、伝統と云うものは意外なところから再発見できるものだと教えてくれた・・・という点では希有の創造性を発揮した作品だったと言えるようだ(1996年8月25日号『朝日グラフ』増刊寅さん逝くの渥美清の話芸より)。
難しいことは、ともかくとして、この映画は、家族、故郷、思いやり、心のゆとり・・・など現代の、私たちが豊かさと引き換えに失った物を描いているだけに、今も変わらぬ人気を誇るのだろう・・・。
渥美は、1996(平成8)年8月4日、転移性肺癌のため病院でこの世を去ったが、死後、日本政府から渥美に国民栄誉賞が贈られた。
『男はつらいよ』シリーズを通じて人情味豊かな演技で広く国民に喜びと潤いを与えたことが受賞理由である。俳優で国民栄誉賞が贈られるのは、1984年に死去した長谷川一夫に次いで2人目であった。
かっての本当の意味での芸人と言われる人たちがが次々といなくなって、言葉だけは洋風で立派なタレントなどと呼ばれる人ばかりになってきたのが寂しいことだ。
参考:
※歌詞説明などは以下参考と2009年5月23日付朝日新聞be「変化重ねた寅さんの歌」を参考にしている。
※1:【連載】『男はつらいよ』
http://www.gavza.com/nikoniko/tora/tora_index.shtml#menu
※2:さすらいの月虎■「男はつらいよ」独尊記
lhttp://www.asahi-net.or.jp/~vd3t-smz/torasan.html
※3:『浅草フランス座の時間』/井上ひさし - 寅さんとわたし
http://dear-tora-san.net/?p=59
※4::歌ネット-全文検索結果表示画面
http://www.uta-net.com/user/index_search/search2.html
※5:二木紘三のうた物語
http://duarbo.air-nifty.com/songs/2013/08/post-0eb9.html
※6:昭和史に残る不滅の日本映画
http://nihon.eigajiten.com/fumetu%20100sen.htm
男はつらいよ・松竹公式サイト
http://www.tora-san.jp/index.html
拝啓渥美清様
http://z-atu.zeicompany.co.jp/index.html
【連載】『男はつらいよ』
http://www.gavza.com/nikoniko/tora/tora01.html
男はつらいよ - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B7%E3%81%AF%E3%81%A4%E3%82%89%E3%81%84%E3%82%88
私生まれも育ちも葛飾柴又です
帝釈天でうぶ湯を使い
姓は車 名は寅次郎
人呼んで フーテンの寅と発します
1)
俺がいたんじゃ お嫁に行けぬ
(*どうせ俺らは ヤクザな兄貴)
わかっちゃいるんだ 妹よ
いつかおまえの よろこぶような
偉い兄貴になりたくて
奮闘努力の甲斐もなく
今日も涙の
今日も涙の 日が落ちる 日が落ちる
2)
ドブに落ちても 根のある奴は
いつかは蓮の 花と咲く
意地は張っても 心の中じゃ
泣いているんだ 兄さんは
目方で男が 売れるなら
こんな苦労も
こんな苦労も かけまいに かけまいに
(間奏)
男とゆうもの つらいもの
顔で笑って
顔で笑って 腹で泣く 腹で泣く
3)
どうせおいらは 底抜けバケツ
わかっちゃいるんだ 妹よ
入れたつもりが すっぽんのぽんで
何もせぬより まだ悪い
それでも男の 夢だけは
なんで忘れて いるものか いるものか
4)
あても無いのに あるよな素振り
それじゃ行くぜと 風の中
止めに来るかと あと振り返りゃ
誰も来ないで 汽車が来る
男の人生 一人旅
泣くな嘆くな 影奉仕 影奉仕
星野哲郎作詞、山本直純作曲 『男はつらいよ』の主題歌である。
歌は主役の寅を演じている渥美清。1968(昭和43)年に全26話(一話45分)の連続テレビドラマ(フジテレビ)の主題歌として作られ、1969(昭和44)年から松竹映画でも使われた。映画5作目以降は歌詞1行目が(*印)の様になった。
しかしこの歌の冒頭の語りなど良いね〜。その後に続く歌詞にしても語調が良くて歌いやすい。日本の歌謡曲の良さがすべて出ていると言ってもいいだろう。
この寅さんの主題歌を聞いているとまるで、寅さんの映画を見ているようにそのシーンが蘇えってくる。私の大好きな歌の一つである。
映画『男はつらいよ(第1作)』の製作は、1969(昭和44)年春に始まった。テレビドラマの映画化だったことから製作する松竹内の空気は冷ややかで、前評判も注目度もそれほど高くなくシリーズ化など当初は考えられてもなかったようだ。
テレビ版『男はつらいよ』シリーズの放映がフジテレビで開始されたのは、前年(1968=昭和43年)の今日・10月3日から半年間であった。
主役の寅さんこと車寅次郎は渥美清、異母妹のさくら役は長山藍子。このテレビ版『男はつらいよ』シリーズはヒットしたが、最終回で寅次郎が奄美大島へハブを取りに行って、逆にハブに噛まれ、毒が回り死んだという結末に視聴者から局に多数の抗議が殺到し、これが映画化につながったという。以下は、1969(昭和44)年3月27日の最終話である。
[TVドラマ] 男はつらいよ(1969)最終話 ー YouTube
そして、映画『男はつらいよ』シリーズは、1969(昭和44)年8月に記念すべき第1作が上映された(冒頭の画像は『男はつらいよ』第1作のポスター)。
結果は大当たり、すぐに続編が製作され、第2作『続・男はつらいよ』は約3ヶ月後、第3作『男はつらいよ フーテンの寅』(森崎東)はその2ヶ月後、第4作『新・男はつらいよ』(監督:小林俊一)にいたっては、その1ヶ月後に公開されている。映画が予想外のヒットをしたことから松竹側が作れ作れと急かしていたようで、寅次郎というキャラクターの発案者である山田洋次自身が十分に演出をする余裕がなっかたと聞いている。
そして、第5作『男はつらいよ 望郷篇』(1970年8月公開)以降、山田が監督し、映画界一番の書き入れ時である盆と正月の年2回公開が定番となっていく。
映画の筋は極めて単純である。
テキ屋稼業を生業とする「フーテンの寅」こと車寅次郎(渥美清)は、毎度美女(マドンナ」)と出会い惚れつつも、失恋するか身を引くかして成就しないまま旅に出る。そんな、寅さんを、故郷の葛飾柴又に住む妹のさくらやおいちゃん、おばちゃんが温かく見守っていく。映画は、そんな寅次郎の恋愛模様を、日本各地の美しい風景を背景に描かれる。
●上掲の画像は、映画『男はつらいよ』映画第1作の1シーン(画像は、『朝日クロニクル週刊20世紀』映画の100年より借用)。
渥美が演じる下町育ちの風来坊・車寅次郎とその一家や旅行先で出会った人々が繰り広げる人情喜劇は、1995(平成7)年公開の第48作『寅次郎紅の花』が、渥美清の遺作となった。
この最後の48作目の作品で、寅さんは阪神・淡路大震災の被災地に立った。わが地元である神戸市の人々から「寅さんに来てもらえれば被災した人々も勇気づけられる」として、松竹サイドに依頼。山田洋次監督がそれに応えて実現したもの。
●上掲の画像:神戸市長田区の菅原市場でのロケは1995年10月24日のもの。
地元では看板や店舗、エキストラの手配まで全面的に協力した。1000人近い見物人が集まり「ほんまに寅さんや、うれしい、最高や」などと大喜びであった(画像は『朝日クロニクル週刊20世紀』1996年号より)。以下では、当時の御蔵通・菅原通の被災状況や菅原商店街での山田洋次監督の「男はつらいよ」ロケ風景などが見られる。
震災記録写真(大木本美通撮影) :御菅地区
世代を超えて親しまれてきた当シリーズの総本数48は世界最高。実に、26年間の長きにわたって公開された国民的人気シリーズは、世界長寿のシリーズとしてギネスブックにも掲載された。
映画に登場したマドンナ役は36人。最後のマドンナは浅岡ルリ子。最多出演4回を誇り、寅次郎といわば「相思相愛」だったリリーが最後というのは何かの因縁のようだ。
●上掲の画像は、寅さんとリリー役の浅岡ルリ子。最後の『寅次郎紅の花』の撮影中のツーショット。奄美諸島の加計呂麻島で撮影したもの。浅岡ルリ子はリリー役を「私の一番好きな役と言ってもいいくらい」と言っていたそうだ。(画像は『朝日クロニクル週刊20世紀』1996年号より)
映画に登場するマドンナも様々だが、この映画の主題歌の方もいろいろと変化を遂げた。
テレビドラマ版『男はつらいよ』の放映が開始されたのは今日から46年も前のことであるが、フジテレビのプロデューサーだった小林 俊一は、渥美清と東京・原宿で渥美の好物にんにくソバを食べに行ったとき、渥美が「ケッコー毛だらけ猫灰だらけ」と声を張り上げ、テキ屋の話をしたのを聞いて、この時の話から渥美主演のテレビドラマを企画したという(2009年5月23日付朝日新聞be)。
ところで、若い人は「ケッコー毛だらけ猫灰だらけ」って何か知っていますか。これは、露天商などが巧みな話術で客引きの為にしゃべる啖呵売(たんかばい)と呼ばれる商売手法の一つであり、昔のと言っても私たちが子供の頃までは縁日や路上販売などで、よく行われていたもの。 渥美演じる寅さんがテンポ良く、巧みな話術で客を楽しませたうえで、ありきたりのものを売りさばく。・・・映画でも見せ場の一つだった。
この啖呵売には、いろいろある(※2:「さすらいの月虎■「男はつらいよ」独尊記」の8.寅さんの啖呵売参照)。そのうちの一つ、寅さんの映画の中での啖呵売が以下で見られる。
男はつらいよ寅さん啖呵売 - YouTube
話は元に戻って、テレビドラマの企画・監督をした山田洋次は渥美演じる主人公「寅」さん(車寅次郎)の名は落語の熊さんから発想し、熊より寅の方が良い言うことで決めたという。
又、テレビ版『男はつらいよ』には、当初、「愚兄賢妹」というサブタイトルが付いていたが、当時、TBS系列で放送されていた山田洋次監督、渥美清主演の人気テレビドラマ『泣いてたまるか』の最終回が「男はつらい」というタイトルであったことと、その頃の北島三郎が唄う演歌「意地のすじがね」の歌詞に「つらいもんだぜ男とは」という一節があったことに目を留めた小林が、この1節を上下逆にして番組のタイトルを『男はつらいよ』に決定したという。
そして、この歌の作詞が星野哲郎であったことから、自然の流れとして「じゃあ、このテレビドラマの主題歌の作詞は星野先生にお願いしよう」ということで当時面識もなかった星野に依頼したとそうだ。
しかし、突然面識のない小林俊一から、「愚兄賢妹」と云った内容のドラマの粗筋を送るから物語をどう展開しても良いように作詞してください」との作詞依頼を受けた星野は面食らったようだが、そのころちょうど仕事に飢えていた時で、「なんでもやります」と引き受けたという。
星野が最初に浮かんだのは、「俺がいたんじゃお嫁に行けぬ」だったという。そして、当時、主人公を演じる渥美の世間一般のイメージがエーザイ製薬のCF(CMと同様)でのキャッチコピーが「丈夫で長持ち」という形容であったこと。また、このドラマの主人公・フーテンの寅さんはどこかそんな渥美のイメージとダブるところがあったことなどから、「目方で売ったらどうだろう」と考えたという(3番まで書いた原稿用紙が残っているようだ)。
作曲は星野より「あいつは音楽家の寅次郎だから」とクラシックの大衆化を目指していた親友の山本直純に頼んだ。頼まれた山本は、「誰にでも歌えるメロディーに」と即興に近い型で作曲したという。一流の作詞家と一流の作曲家によって作られた歌だ。良いのにきまっている。
歌は声の良い渥美が唄うことになった。渥美は歌手として「浅草日記」(1977年発売。作詞:星野哲郎、 作曲:山田つぐと 、編曲:高橋信之)などの持ち歌がある。この歌もいい歌なので興味があれば以下で聞いてみるとよい。役者でも歌手でも声の良いのが絶対条件だ。
「浅草日記」渥美清 - YouTube
寅さんの主題歌はイントロが長いので、急遽セリフ(語り)をいれたという。出来上がった主題歌について山田監督は「奮闘努力って寅には似合わないが俺なりに努力しているというユーモアがある。名曲だし、僕も好きです」と満足したという。
先にも書いたように人気のテレビドラマ版は26回の最後で寅さんがハブにかまれて死に、これに「なぜ、寅さんを殺す!」との抗議が多数寄せられたことから、山田監督は、1話完結で映画化を決意し、妹さくらを結婚させた。
ところが、映画第1作が予想外の好評を受けて続編(『続・男はつらいよ』)も作ることになった。
しかし、「お嫁に行けぬ」(1番)の歌詞ではまずいので2番の「ドブに落ちても」をつかった。そして本作から寅次郎は腹巻きにお守りぶら下げて素足に雪駄のスタイルとなっている。
第2作から2ヶ月後に公開の第3作『男はつらいよ フーテンの寅』では、1番と2番の両方が流れた。この映画、監督は山田洋次から森崎東に変わっている。この映画では、森崎自身がリアルな香具師の差別の世界をテーマに脚本を書いたのだが、それが没になり、脚本は山田洋次、小林俊一、宮崎晃の共同執筆で森崎が監督のみをすることになったのだという。
山田監督に戻った第5作からは、1番の出だしを「どうせ俺らは ヤクザな兄貴」に変えた。
更に、第17作から第19作までは4番の「あても無いのに」を使った。2番の次に「男と言うものつらいもの」が加わる作品(第2作)などもある。他にも細かい変化は多いようだ(※1:「【連載】『男はつらいよ』」の5-3 「男はつらいよ」主題歌物語や、※2:「さすらいの月虎■「男はつらいよ」独尊記」の4.「男はつらいよ」の主題歌など参照)。
この映画が受けた理由を小林俊一は「働け働けの高度成長の時代に一人逆らったのが寅。誰もがうらやましいと思った」からだろうという。
渥美は寅さんのように面白い話で周囲を笑わせたが、普段は寡黙な人だったという。
渥美が青春時代をはいずり回っていたのは 東京の浅草である。
浅草寺の隣に浅草六区が広がる。その中央の交差点に浅草演芸ホールが立つ。何人もの芸人が輩出したかっての浅草フランス座である。
Wikipediaによれば、渥美清(本名:田所 康雄)は1928(昭和3)年、東京市下谷区車坂町(現・上野7丁目)に生れた。家庭が貧乏で小学校時代は欠食児童で、しかも、病弱で様々な病気を患い学校も欠席しがちであったが、欠席中は、日がな一日ラジオに耳を傾け徳川夢声や落語を聴いて過ごし、覚えた落語を学校で披露すると大変な評判だったという。
第二次世界大戦中の1942(昭和17)年に巣鴨中学校に入学するが、学徒動員で軍需工場へ駆り出される。1945(昭和20)年に同校を卒業するも、3月10日の東京大空襲で自宅が被災し焼け出される。
卒業後は工員として働きながら、一時期、担ぎ屋やテキ屋の手伝いもしていたそうだ(親友の谷幹一に、かつて自分は霊岸島桝屋一家に身を寄せていた、と語った事があるという)。どうやら、ここで、啖呵売の手伝いをしていたようだ。啖呵売は渥美の得意とするものだったらしい。
この幼少期に培った知識が後の『男はつらいよ』シリーズの寅次郎のスタイルを産むきっかけになったともいえるようだ。
1946(昭和21)年、中学を卒業すると、高校に入学するための学力も金もなく、職を転々とした後、友人の父の新派軽演劇の座長の誘いでその一座に入り『阿部定一代記』という芝居でのチョイ役で初舞台を踏んだ。
その後、喜劇俳優の道を目指し、さまざまな劇団を渡り歩き、1951(昭和26)年6月、「渥美清」という芸名で浅草六区のストリップ劇場(百万弗劇場→観音劇場参照)の専属コメディアンになる。
しかし、翌年、同劇場が倒産し、他の劇場(川崎セントラルと云われるが・・)に移るが、1953 (昭和28)年には再び浅草に戻り、フランス座に入り、本格的にコメディアンとして活躍を始める。コメディアン仲間には、谷幹一、関敬六、八波むと志、佐山俊二、南利明などがいた。
しかし、当時のフランス座はストリップ(ストリップティーズ【Striptease】の略)が中心でコメディアンは刺身のツマのような存在で、給料も安かった。踊り子に向きがちな観客の目を自分に向けようと渥美は必死に努力した。ここで大いにアドリブの才を磨いたようだ。
しかし、無理がたたって肺結核で入院、右肺を摘出し、3年の療養後復帰した時、フランス座で舞台の振興係をしていたのが当時上智大学の学生だった作家の井上ひさしだった。井上は渥美の為に必死に台本を書いた。この井上のおかげで渥美が世に出たと言っても過言ではないという。
井上は著書『浅草フランス座の時間』(※3参照)に、「いい喜劇役者は矛盾したものを二つ以上持っている。渥美さんは顔が空前絶後の面白さで、声が実に二枚目だ」と書いていると云う。
又、渥美と交友の長かった永六輔の手記によると、戦後の焼け跡の中から鉄くずや銅線を掘り出して現金に換える悪さをしていた子供のグループのボスとして、渥美清(田所康男)がいた。ある時、田所少年は警官に捕まって説教される。「お前みたいな一度見たら忘れられない顔は泥棒に向かないんだ。ここは浅草なんだから、役者になった方がいい。一度見たら忘れられない顔は役者に向いているんだ」と勧められたという(「週刊朝日」1996年8月30日号)。
その後、1959(昭和34)年にフランス座は改装し「浅草新喜劇」を目指したが、1964(昭359)年の東京オリンピックで普及したテレビに浅草の芸人が引き抜かれる。
渥美もNHKの「夢で逢いましょう」に出演(1961年)。更に映画『背景天皇陛下様』(1963年)に出演している。これに注目したのが、フジテレビの小林俊一であり、ここから寅さんが産まれることになった。
寅さん映画について井上は「渥美清は渥美清に扮した時が一番面白い。暴れん坊で、おっちょこちょいで気が良くて、すぐかっとなるが、相手が可愛そうになって舌鋒が鈍る。そういう自分を演じている時が最も輝く」といっているそうだ。
寅さんの映画を支えたのは、渥美と山田監督だった。渥美は寅さんのキャラクターと違い物静かな人物として知られている。「怒ったり、声を荒げたりするところなんかは見たこともないと言われている。そして、仕事とプライバシーのけじめをきっちりとつける役者だったとも・・・。
『男はつらいよ』シリーズのすべての脚本に携わり、初期の作品2本を除きメガホンをとってきた山田監督は、ヒットの理由について、「進歩を競い合っていた時代だからこそ、それに背を向けた停滞そのものの人物が受け入れられた。何か大切なものを失っていくという不安がみんなをこの映画に駆り立てたのでしょう」と分析している(朝日クロニクル週刊20世紀1996年号)。
思い起こせば、『男はつらいよ』の映画第1作が公開された1969(昭和44)年には、「東大粉砕」を叫ぶ学生たちが恐怖と闘いながら東大・安田講堂に立てこもるという事件があった(東大安田講堂事件参照)。
安田講堂を巡る学生と機動隊の攻防戦は35時間続き、籠城学生全員の逮捕に終わった。体制や権力や高度経済成長や生き残り競争を支配する価値観から見ればまことに馬鹿な生き方であったと思うのだが・・・。
このような団塊の世代が大学紛争の最中にあった1960年代後半、怒れる学生たちは革命家ゲバラに憧れる一方で任侠映画に熱い思いを託していたのではないか。
全共闘の若者たちには、そこに、玉砕の美意識みたいなものが見られたのだろう。
この年の記憶に残るのは映画では、高倉健の「任侠もの」や藤純子「お竜さん」であり、歌謡曲では藤圭子の「恨み節」(※4参照)であり、劇画の「あしたのジョー」だった。
藤圭子は、「バカだなバカだなだまされちゃって」と「新宿の女」(※4参照)を歌い、翌1970年「十五、十六、十七と 私の人生暗かった」と「圭子の夢は夜ひらく 」(※5参照)を歌い人気が爆発する。このころは「はぐれもの」が受けた時代だった。
藤圭子は9歳のころから浪曲師の父母と旅をし巷に生きてきた。
『網走番外地』(映画は※6参照)の健さんも「女ざかりを渡世にかけて/張った体に緋牡丹燃える・・・」の主題歌(※4参照)にのってゆく『緋牡丹博徒』シリーズ(映画は※6参照)の女渡世人お竜(藤純子)さんも裏街道を行く「はぐれもの」だし、チンピラ出身、一匹狼のボクサー・ジョーは、死を覚悟した最後の試合で燃え尽きた。
恐らく勝てないであろうことを予測しながらも安田講堂を巡る実力闘争に入った若者達・・・。抑圧された者がやむにやまれず決起したしたときには美しく負けよう・・・。そういった美学を全共闘の精神につなげたのではないだろうか。そこには浪花節的価値観が見られる。
一方、『緋牡丹博徒』シリーズものなどとはかなり様相を異にするが、その後30年にわたって、連作がことごとくヒットした『男はつらいよ』シリーズもこの年第1作が公開されたのだが、、こちらの方の通称寅さん映画は東京の下町に義理人情の世界を描いて日本人の共感を得た。、
そもそも映画や演劇を見る楽しみの一番大きなもののひとつは、いいセリフが朗々とした、いい調子で心行くまで語られるのを聞くことだといわれている。歌舞伎や新派劇はそういうものだったし、映画では主に時代劇や任侠ものがその役割を受け持っていた。
現代劇の映画は残念ながらそうはゆかなかった。現代日本語は、歌舞伎や新派、講談、落語のような雄弁術は生み出せなかったからである。
ところがその名調子のセリフの源泉である時代劇映画は1960年代に大幅に衰退し、以後は細々としか残っていない。
一時それを肩代わりしたのが任侠映画で、ヤクザの仁義や啖呵をはじめ、異様なまでにメリハリの利いた美辞麗句でファンを喜ばせてくれたものであったが、約10年でその流行も終わった。
この任侠映画の流行が峠を越した1969年から、それとオーバーラップするような形で現れて、同じような名調子のセリフの雄弁術を存分に楽しませてくれたのが、寅さん映画『男はつらいよ』シリーズであった。
任侠映画が悲愴美を謳いあげるものだったのに対し、寅さん映画は喜劇だったが、時代劇が大幅に衰えて、芝居がかった七五調やそれに近い名調子は映画では、もうそこにしか残っていなかったのである。
そして任侠映画が終わった1970年代の半ば以降には、『男はつらいよ』シリーズは七五調的名せりフの最後の砦になって、以後20年間もその孤塁を守ってきたというわけだ。
孤塁というとわびしいがこのシリーズ48作がこの時代の日本映画の例外的なドル箱だったことは誰でも知っていることだろう。何故このシリーズが名せりフ、名調子の砦であり得たか。
それは、寅さんを演じる渥美清の特技がテキヤの啖呵売の話術だったからである。時代劇や歌舞伎、講談ゆずりの名セリフは、いかに名調子であっても現代に応用することはできない。任侠映画は時々現代を扱うが、これは暗黒街のものだからそのセリフは堅気の普通の人々の生活には使えない。
その点、フーテンの寅のテキ屋と云う職業は、親分子分の絆が強かったり、かってはガセネタと呼ばれるインチキ商品を売ることが多かったり、縄張り争いなどの暴力沙汰があったりで、半ばヤクザと見られていたが、基本的には、街道行商人という正業だから、普通の庶民生活の中に入ってきてもおかしくはない。
それどころか、規則づくめのサラリーマンには対極の自由気ままな風来坊にさえも見える。実際にはテキヤと云う商売も、親分子分関係の規律と全国祭礼のスケジュールに追われる厳しいものらしいが、世間の目には実態がよく判らないだけに、現代にも可能な唯一の庶民的な自由業のような錯覚も成り立たせることが出来る。
そして、そこには、講談以上にメリハリが利いて、落語以上に下世話(俗なこと)で、意表を突くボキャブラリーが止どめなく出てくる七五調の口上がある。もちろんそれは、特殊な実用話芸であって、日常会話の言葉ではないが、山田洋二と渥美清は、啖呵売の口上のセリフを『男はつらいよ』シリーズで日常会話に持ち込むことに成功した。
そして、そのことが、時代劇が衰え、任侠映画が消えた後に、唯一、七五調やそれに近い詩的言語による大衆映画、しかも現代風俗を存分に語る映画にしたのである。
一見したところ、『男はつらいよ』シリーズは、ごくありきたりな下町人情喜劇である。古くからよくある定型のものであるが、それにしては良くできている。しかし、新しい要素は何もないと評されることが多い。確かに、新しいものは特にないが、忘れられた古い庶民的雄弁術の伝統を現代に蘇らせ、それに磨きをかけ、伝統と云うものは意外なところから再発見できるものだと教えてくれた・・・という点では希有の創造性を発揮した作品だったと言えるようだ(1996年8月25日号『朝日グラフ』増刊寅さん逝くの渥美清の話芸より)。
難しいことは、ともかくとして、この映画は、家族、故郷、思いやり、心のゆとり・・・など現代の、私たちが豊かさと引き換えに失った物を描いているだけに、今も変わらぬ人気を誇るのだろう・・・。
渥美は、1996(平成8)年8月4日、転移性肺癌のため病院でこの世を去ったが、死後、日本政府から渥美に国民栄誉賞が贈られた。
『男はつらいよ』シリーズを通じて人情味豊かな演技で広く国民に喜びと潤いを与えたことが受賞理由である。俳優で国民栄誉賞が贈られるのは、1984年に死去した長谷川一夫に次いで2人目であった。
かっての本当の意味での芸人と言われる人たちがが次々といなくなって、言葉だけは洋風で立派なタレントなどと呼ばれる人ばかりになってきたのが寂しいことだ。
参考:
※歌詞説明などは以下参考と2009年5月23日付朝日新聞be「変化重ねた寅さんの歌」を参考にしている。
※1:【連載】『男はつらいよ』
http://www.gavza.com/nikoniko/tora/tora_index.shtml#menu
※2:さすらいの月虎■「男はつらいよ」独尊記
lhttp://www.asahi-net.or.jp/~vd3t-smz/torasan.html
※3:『浅草フランス座の時間』/井上ひさし - 寅さんとわたし
http://dear-tora-san.net/?p=59
※4::歌ネット-全文検索結果表示画面
http://www.uta-net.com/user/index_search/search2.html
※5:二木紘三のうた物語
http://duarbo.air-nifty.com/songs/2013/08/post-0eb9.html
※6:昭和史に残る不滅の日本映画
http://nihon.eigajiten.com/fumetu%20100sen.htm
男はつらいよ・松竹公式サイト
http://www.tora-san.jp/index.html
拝啓渥美清様
http://z-atu.zeicompany.co.jp/index.html
【連載】『男はつらいよ』
http://www.gavza.com/nikoniko/tora/tora01.html
男はつらいよ - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B7%E3%81%AF%E3%81%A4%E3%82%89%E3%81%84%E3%82%88