9月24日〜9月30日は「結核予防週間」である。
1949(昭和24)年から厚生省(現在の厚生労働省)と結核予防会(JATA)が実施している。
結核についての正しい知識を普及し、これからの活動を考える週間として、結核予防会では周知ポスターやパンフレット「結核の常識」等を作成配布するとともに、「全国一斉複十字シール運動キャンペーン」として全国各地で街頭募金や無料結核検診、健康相談等を実施して、結核予防の大切さを伝えている(参考※1「公益法人結核予防会」HPの結核予防週間参照)。
「みちのくの母のいのちを一目見ん一目みんとぞただにいそげる」
上掲の短歌は、日本を代表する短歌結社誌『アララギ』の中心人物として明治・大正・昭和と長く活躍した歌人・斎藤茂吉の処女歌集で、1913(大正2)年に刊行された『赤光』(死にたまふ母 其の一)に所収のものである(※2参照)。
茂吉は、1882(明治15)年、山形県守谷家の三男に生まれる。生家には経済面の余裕が無く、茂吉は、15歳の頃より東京に出て浅草で精神科医院を開業するも跡継ぎのなかった同郷の医師、斎藤紀一の家に養子候補として厄介になっていた。
上京してからの茂吉は開成中学(現・開成高校)から旧制第一高校(現:東京大学の前身)へと進学、このころから歌を詠むようになり、幸田露伴、森鴎外などを愛読。とくに露伴の影響は大きかったようだ。
1902(明治35)年第三学部((現:東京大学教養学部)の学生となった茂吉は、発行されたばかりの正岡子規の遺稿集第一篇『竹の里歌』(※3参照)を読んで強い感銘を受け、作歌を志すようになる。
しかし、養家の医師である斉藤家を継ぐため、同年、第一高等学校卒業後、東京帝国大学医科大学>(現在の東大医学部医学科)に入学し,1910(明治43)年に卒業している。
その翌・1911(明治44)年には、東大医科大学副手となり、精神病学を学ぶかたわら付属病院に勤務。7月より東京府巣鴨病院勤務し、授業と診療の生活が始まっていた。この時茂吉29歳。
その間1906(明39)年、子規の流れを汲む伊藤左千夫に入門し、本格的に短歌の道を歩み初めていた。
そして、茂吉が31歳の時、生母いくが1913(大正2)年5月に亡くなっている。上掲の短歌は臨終を迎えようとしている郷里山形の母に対する想いを詠んだ短歌である。東京に住んでいた茂吉。今のように飛行機も新幹線もなかった時代。 おそらく夜行列車に揺られているときに浮かんできた短歌だろう。
「一目見ん一目見んとぞ」と反復させることで、作者の願いや祈り、あせりが強く表現されている。
そんな茂吉のエッセイ(随筆)『結核症』(1926=大正15年)がある。
日本を代表する歌人でありながら、精神科医を本業としていた茂吉が、ここでは肺結核の病状が作風に影響を及ぼす例を分析している。一般的に結核性の病に罹(かか)ると神経が研ぎ澄まされ、健康な人の目に見えないところも見えて来るようになり、更に末期になると病に平気になり呑気になるものの依然として鋭い神経を持つ傾向にあるそうだ。
そして、肺結核患者は健康の人が平気でやっていることに強い厭味(いやみ)を感じたり、細かい粗(あら)が見えたりすることがあるそうで、その例として子規が若い頃は傾倒していた幸田露伴の作品に対して嫌味というか細かい指摘をしたことを挙げている。
そして子規の末期の作品を「センチメンタリズムから脱却しているが、感慨が露(あら)わでなく沈痛の響に乏しい」のは、俳人としての稽古によるものでなく、末期の肺結核特有の症状から来たものと結論づけている(参考※4:「青空文庫」参照)。
茂吉の『結核症』に出てくる正岡子規や、国木田独歩の他、高山樗牛(ちよぎう)、綱島梁川(りやうせん)、石川啄木 、森鴎外など結核で亡くなった文豪等が登場する。
正岡子規は、1894(明治27)年夏に日清戦争が勃発すると、翌1895(明治28)年4月、近衛師団つきの従軍記者として遼東半島に渡ったものの、上陸した2日後に下関条約が調印されたため、同年5月、第2軍・兵站部軍医部長の森林太郎(鴎外)等に挨拶をして帰国の途についたが、その船中で喀血して重態に陥り、神戸病院(現:神戸大学医学部附属病院)に入院。その後7月には、療養のために須磨保養院へ移り、故郷の松山へ行くまでの1ヶ月間、須磨に滞在していた。
当時須磨には、鶴崎平三郎博士によって解説された日本最初のサナトリウム「須磨浦療養院」(現:須磨浦病院。※5参照)があり、紛らわしいことに、隣接して「須磨保養院」もあった(須磨浦療養院より須磨駅方向。同じ須磨浦公園内の東端)。後者は療用にも保養にも利用されていた施設で、子規はこの「須磨保養院」に滞在し、サナトリウムの医師の診察を受けていたようだ。
松山に帰郷した子規は、1897(明治30)年に俳句雑誌『ホトトギス』を創刊しているが、その4年後 1902(明治35)年9月に肺結核が悪化し34歳 の若さで死去した。辞世の句「糸瓜咲て痰のつまりし仏かな」「痰一斗糸瓜の水も間にあはず」「をとゝひのへちまの水も取らざりき」を残している、苦しんで死んだことだろう。
国木田独歩は、1905(明治38)年5月の日本海海戦で、日露戦争 の勝利がほぼ確実になると、戦後にそなえ翌1906年初頭にかけて、新しい雑誌を次々と企画・創刊して、12誌もの雑誌の編集長を兼任していた。そして、日露戦争の終結後自ら独歩社を創立したが、1907(明治40)年には破産。その上独歩は肺結核にかかる。
しかし皮肉にも、前年に刊行した作品集『運命は』(「運命論者」など9編を収める第3著作集、うち「運命論者」は※4:「青空文庫」参照)が高く評価され、独歩は自然主義運動の中心的存在として、文壇の注目の的になった。
神奈川県茅ケ崎にある結核療養所の南湖院で療養生活を送る。「竹の木戸」「窮死」「節操」などを発表するが、病状は悪化していき、1908(明治41)年6月、満36歳で死去している。
高山樗牛は、明治時代の文芸評論家、思想家である。1871年2月28日(明治4年1月10日) 現在の山形県鶴岡市に生まれた。父は庄内藩士・斎藤親信。生後高山家の養子になった。樗牛の号は『荘子』の巻頭に載せられている「逍遥遊」(何ものにも拘束されない全く自由の境地。伸びやかに遊ぶ荘子の意か・・※6参照)からという。
樗牛がこの号を用いるようになったのは、彼が仙台の旧制第二高等学校に在学中のことであったという。彼は自分の性格を良く知っていたのだった。若輩の身で天下国家を論じるような、良く言えばスケールの大きな話、悪く言えば大風呂敷と見做されるような話を好んでする性格を、樗牛は自覚していたのだった。
1896(明治29)年に東京帝国大学文科大学哲学科卒業後、第二高等学校の教授になったが、翌年、校長排斥運動をきっかけに辞任。博文館に入社し『太陽』編集主幹になった。
当時は三国干渉後で国粋主義的な気運が盛り上がっており、「日本主義」を鼓吹する評論を多く書いていたようた。一方で『わがそでの記』のようなロマン主義的な美文を書いたり、美学をめぐっては森鴎外と論争を行っていたという。
1900(明治33)年、文部省から美学研究のため海外留学を命じられた。夏目漱石・芳賀矢一らと同時期の任命であり、帰国後は京都帝国大学(現:京大)の教授が内定していたが、洋行の送別会後に喀血し、入院。療養生活に入った。
翌・1901(明治34)年、留学を辞退。病中に書いた『文明批評家としての文学者』ではニーチェの思想を個人主義の立場から紹介した。また、田中智學の影響を受け日蓮研究を進めていたという。
当時病気で喀血で入院と云えば結核であった。樗牛は、24 歳の時に結核を発症してからは、時として頭をもたげてくるこの病をなだめながら、評論活動を続けたのだったが、病床に臥していたある時(1897年=明治 30年)、次のように述べているという。
「われ病にかかりて、ここにまことの人生を見そめき。あだ波たてる世の常にかけはなれて、ここに静かなる寂しきまことの世相を観じそめき。利に走り名にあこがるるともがらの外に、真の友情の貴むべき事を覚えそめき。あだにすごせし幾とせの、偽り多くつみ深きを想ひて、ここに青春の移ろひやすく、勝事のとこしへならざるを嘆きそめき。(『わがそでの記』)
この文章は、友人の姉崎嘲風との交友について、樗牛が書いたものだそうである(※7、※8参照)
1902年(明治35年)、論文『奈良朝の美術』により文学博士号を授与されたが、病状が悪化し、前年東大の講師になり週1回、日本美術を講じていたが、これを辞任、12月24日に31歳の若さで死去している。
綱島梁川 、本名:栄一郎は、1873(明治6)年5月年岡山県上房郡有漢村(現:高梁市)生まれの宗教思想家、評論家である。
1890(明治23)年に岡山の高梁教会で牧師より洗礼を受ける。1892(明治25)年に東京専門学校(後の早稲田大学)に入学。
坪内逍遥、大西祝の教えを受ける。逍遥の『早稲田文学』の編輯に加わり、文藝・美術評論を書く。
横井時雄の本郷教会や植村正久の一番町教会(後の富士見町教会)に出席する。この頃正統的な神学に懐疑的になり、倫理に傾倒するようになった。
肺結核で神田の吉田病院に入院しているときに、副院長の橋本善次郎、神戸教会牧師の海老名弾正と出会って信仰を回復。
文芸評論家として活動すると同時に、倫理学者としても活動した。病身になってからは、主に宗教の論評を発表するようになり、明治38年(1905年)に『新人』に発表した『病間録』「余の見神の実験」は大きな反響を呼んだ。この宗教的な思索は、安部能成、斎藤勇らに大きな影響を与えたという。綱島も肺結核のため満34歳で死去している。
岩手県出身の歌人、詩人石川啄木は、曹洞宗日照山常光寺住職の長男として生まれる。戸籍によると1886年2月20日の誕生だが、1885(明治18)年10月28日に誕生したともいわれているそうだ。
盛岡中学校(現:岩手県立盛岡一高)時代に、のちに妻となる堀合節子や、親友の岡山不衣、金田一京助らと知り合う。
『明星』を読んで与謝野晶子らの短歌に傾倒し、また上級生の野村長一(のちの野村胡堂)や及川古志郎らの影響を受け、文学への志を抱くようになる。
1901(明治34)年12月から翌年にかけて友人とともに『岩手日報』に短歌を発表し、啄木の作品も「翠江」(すいこう)の筆名で掲載された。これが初めて活字となった啄木の短歌だったという。
しかし、翌1902(明治35)年文学で立身することを決意し、盛岡中学校を中退し、11月9日、雑誌『明星』への投稿でつながりがあった新詩社の集まりに参加、10日には、当時、歌壇ではきら星の如き存在であった与謝野鉄幹・晶子夫妻を訪ねる。
東京滞在は続き作歌もするが出版社への就職がうまく行かず、結核の発病もあり、1903(明治36)年2月、父に迎えられて故郷に帰る。
1903(明治36)年 5月から6月にかけ『岩手日報』に評論を連載、11月には『明星』に再び短歌を発表し新詩社同人となる。この頃から啄木のペンネームを使い始め、12月には啄木名で『明星』に長詩「愁調」を掲載、歌壇で注目されるようになる。
啄木は貧窮と病に冒された漂白の生活の中、1910(明治43)年)には、処女歌集『一握の砂』(※4「青空文庫」で読める)を発表。新しい光を世に放つ551首が納められたこの歌集を残して、2年後の1912(明治45)年わずか26歳で夭逝した.。
森鴎外は、東京大学医学部卒業後、陸軍軍医になり、陸軍省派遣留学生としてドイツで4年過ごして、帰国後、訳詩編{於母影』、小説『舞姫』、翻訳[『即興詩人』を発表する一方、同人たちと文芸雑誌『しがらみ草紙』(※:「青空文庫」の55柵草紙の山房論文参照)を創刊して文筆活動に入った。
その後、日清戦争出征や小倉転勤などにより、一時期創作活動から遠ざかったものの、『スバル』創刊後に『ヰタ・セクスアリス』『雁』などを発表。乃木希典の殉死に影響されて『興津弥五右衛門の遺書』を発表後、『阿部一族』『高瀬舟』など歴史小説や史伝『澁江抽斎』等も執筆した。
晩年、帝室博物館(現在の東京国立博物館・奈良国立博物館・京都国立博物館等)総長や帝国美術院(現日本芸術院)初代院長なども歴任するなど幅の広い文芸活動とともに幅広い交際もしてきた鷗外も、1922(大正11)年、親族と親友の賀古鶴所らが付きそう中、腎萎縮、肺結核のため60歳で死去している。
森鴎外の死については、鴎外の妹で、訳詩集『於母影』の共訳者として、紅一点で名をつらねる等、女性文学者として明治期に若松賤子(バーネットの『小公子』の名訳で知られる)と並び称された歌人・随筆家でもある小金井喜美子が、『鴎外の思い出』の中で、以下のように書いている(※3:「青空文庫」参照)。
「近親中で長生したのは主人の八十七、祖母の八十八でした。祖母は晩年には老耄(ろうもう)して、私と母とを間違えるようでした。主人は確かで、至って安らかに終りました。この頃亡兄は結核であったといわれるようになりましたが、主人も歿(ぼつ)後解剖の結果、結核だとせられました。解剖家は死後解剖するという契約なのです。医者でいる子供たちも、父は健康で長命して、老衰で終ったとばかり思っていましたら、執刀せられた博士たちは、人間は老衰だけで終るものではない、昔結核を患った痕跡(こんせき)もあるし、それが再発したのだといわれます。解剖して見た上でいわれるのですから、ほんとでしょう。つくづく人体というものを不思議に思います。」・・・と。
喜美子の兄、鴎外の直接の死はやはり結核によるものだったようだ.
続いて「割合に早く終った兄は気の毒でした。何も長命が幸福ともいわれませんけれど、その一生に長命の人以上の仕事をせられたのですから。・・・長年の間、戦闘員でこそなけれ、軍人として戦地に行き、蕃地(ばんち)にも渡り、停年までその職に堪えた上、文学上にもあれだけの仕事をされたのですから、確かに過労に違いありません。よくもなされたと驚くばかりですが、それにつけても、晩年にはもっと静養させたかったと、ただそれだけが残念です」・・・と。
結核で亡くなったその他の文豪たちの中では鴎外の60歳での死は湯治としては早い方ではないが、長生きの家系の中では意外と早死した兄の働き過ぎを惜しんでいる。
又、喜美子の夫は日本解剖学会初代会長などをつとめた小金井良精であり、その夫も、当時としては長生きの88歳で亡くなったがその死因は老衰ではなく解剖の結果死因は結核だったそうだ。
上記以外にも明治以降、とされる主な文豪、樋口一葉(24歳と6ヶ月)、•二葉亭四迷(45歳)、•宮沢賢治(37歳)梶井基次郎(31歳)などは、肺結核で亡くなっていると言われている。
特に梶井基次郎氏は、京都の三高在学中、四条大橋の上で文学仲間に「肺病になりたい、肺病にならんとええ文学はでけへん。」と叫んだそうだ(祖母も弟も肺病で先に亡くしている)。その直後、肺結核を発病、その後名作『檸檬』を残し、31歳で生涯を閉じたという(※9参照)。
明治時代から昭和20 年代までの永い間、「国民病」「亡国病」と恐れられた結核は、年間死亡者数も10数万人に及び死亡原因の第1位であった。
医療や生活水準の向上により、今では薬を飲めば完治できる時代になったが、過去の病気と思っていたら、結核の集団感染が学校や病院、老人ホームなどで続き、1999(平成11)年には厚生省から「結核緊急事態宣言」が出された((※10:「厚生労働省」のここ参照)。
1997(平成9)年の国内の結核新規登録患者数は42,715 人で、前年比243人増。1998(平成10)年は44,016人で、さらに1,301 人増加と、確実に増えてきた。
世界的に見ると、日本は先進国中で図抜けた罹患率( 平成10年34.8)であった(※10:「厚生労働省」のこのページの参考資料-1参照) 。
この状況は、現在でも同様である。「平成24年結核登録者情報調査年報集計結果(概況)」(※10:「厚生労働省」のこのページの参考資料 1参照)を見ても、日本の結核罹患率16.7は、米国(3.4)の4.9倍、ドイツ(4.3)の3.9倍、オーストラリア(5.4)の3.1倍である。、欧米諸国と比較すると、日本の結核罹患率は依然として高い。
このような状況から判断して、結核罹患率が、10人以下となっている欧米先進国に比べ日本はまだまだ結核は多く、現在でも世界の中では依然「“中”蔓延国」とされている状況である。
人口10万人あたり10人以下の「“低” 蔓延国」になるにはまだまだ相当年数かかるだろうし、100万人あたり1人以下の「制圧」までには50年以上かかるのではないかという予測もあるようだ。
それには、結核を知ることが予防への第一歩であり、早期発見・早期治療は本人の重症化を防ぐためだけではなく、大切な家族や職場等への感染の拡大を防ぐためにも重要である。
結核は明治前期の資本主義経済の発展と共に増え続けたと言われている。
貧しい農村か若い女性を製糸、紡績工場に集め、低賃金、重労働で働かせた。作業場も住宅も不潔で栄養不良が重なると、徐行は結核に倒れ、故郷に帰りひっそりと暮らした。このような過酷な労働条件下で働く女工について語るとき、これを「女工哀史」などともいった。
結核を患い故郷に帰った女性は、親や兄弟に厄介者扱いされるケースもあった上、家族に菌を移し、農村に結核を広げた。死亡率が高かった頃は、病名「結核」はあまりにも直接的で人々の口に出しづらかった面があったからだ。
折しも、1908(明治41)年6月、結核菌の発見をしたドイツの細菌学者コッホ夫妻が来日した。
上掲の写真はその折の記念写真。前列左がコッホ、後列右端が弟子の北里柴三郎である(画象『朝日クロニクル週刊20世紀』1913-1914 年号より。
コッホは来日時の談話で、イギリス、プロシアなどで結核が減少している理由として、
1)伝染を恐れ注意するようになった。2)一般に衛生思想が発達した。3)貧民の住宅事情を良くした。4)療養所を増やし、感染源を隔離できるようになった。・・・ことを指摘したという。これを機に日本でもようやく本格的な結核対策を講じる機運が高まったようだ。
そして、1913(大正2)年は、このような結核予防史上重要な年となった。財団法人日本結核予防協会が発足したからだ。発会式は2月11日の紀元節に行われ、会頭に芳川顕正、理事長に北里柴三郎が就任した。
それまでは北里柴三郎らの大日本私立衛生会(日本公衆衛生協会の前身、※11参照)と、2年前にクリスチャン医師ら数名により出来た白十字会(※12、※13参照))があったが、国家的な取り組みが求められていた。
同協会の事業を1939(昭和14)年に引き継いだのが、今の結核予防会である。
日本結核予防協会は啓発活動の小冊子を発行し、翌1914(大正3)年には東京大正博覧会で大がかりな展示をし、「結核征伐の歌」を製作、その後も映画、劇で広く大衆に予防を訴えた。
1、そも肺病は目に見えぬ 結核菌の襲ひ来て
強と見ゆる體(からだ)にも 呼吸に障(さわ)りあるときは
その弱點(じゃくてん)につけ入りて ついに発するものぞかし
2、されば豫防(よぼう)の第一は 結核菌を近づけず
常に體を養ひて よしかの菌の襲ふとも
打ちかつ程の體力(たいりょく)を 備へおくこそ秘訣なれ
上掲は「結核征伐の歌結核征伐の歌」1、2番、 歌詞は10番まであるようだ。
また、冒頭に掲載のものは、大正末期に作られた結核予防協会の宣伝ポスター。このころは3月27日が結核予防デーだったのだろうか。歌も、ポスターも時代を感じさせるよね〜。、
政府の方針で1917(大正6)年初めて結核療養所・大阪市立刀根山病院(現:国立病院機構刀根山病院)が開院した。
この施設は結核専門の診療所であると同時に根本的な治療方法のない結核という病気の研究機関でもあった。結核治療という分野に関していえば日本国内で最古の歴史を持つと言える。
個人の結核療養所としては、先にも書いた通り、神戸の須磨浦療病院が1889(明治22)年に設立されているが、その2年前の1887(明治20)年に、鎌倉海浜院が設立されているが,翌年ホテル(鎌倉海浜院ホテル)に転向しているので、本格的な日本最初の結核サナトリウムは須磨浦療病院といってよいであろう。
開設者は鶴崎平三郎博士で,湘南と同様,景勝の気候温暖な海浜が建設地として選ばれている。
湘南地方にはその後1892(明治25)年に鎌倉養生院、1887(明治30)年に杏雲堂平塚分院、1899(明治32)年に中村恵風園療養所と南湖院が次々と開設され、最も多い時代には12のサナトリウムが湘南地方にあったという。
この中で,医師高田畊安によって開院された南湖院は最初は5千坪強の土地から発足し、最後には5万坪の土地に総病床数200床強の施設に発展し、当時東洋一と云われた施設であったらしい。東京の医科大学の学生が施設見学にくるなど、診療の他に医学教育にも貢献している施設であったという(※1:「公益法人結核予防会」HPのここ参照)。
上掲の画像は神奈川県・茅ケ崎にあった民間の結核療養所「南湖院」。写真は、1931(昭和6)年南湖院海浜会場で衛生講和をしている様子(写真は鶴田蒔子氏蔵のもので、『朝日クロニクル週刊20世紀』1913-1914年号掲載のものより借用した)。
しかし,入院料は1939(昭和14)年に一番安い病床でも1日3円であり、1カ月入院すると100円弱かかり、当時大学出の初任給が100円くらいであったことを考えると、庶民には長く入院することは困難であったようだ。それは、湘南と同様、景勝の気候温暖な海浜が建設地として選ばれた「須磨浦療病院」も同様であった。
そのようなことから公的な療養所として最初に大阪市、そして、東京市に続いて、第3番目に建設されたのがわが地元、神戸市立療養所であったという。
須磨浦療病院のある須磨公園駅から山陽電鉄で板宿まで行き、市営地下鉄で2駅目の名谷で下車、車で数分の国立神戸医療センターが、今は旧神戸市立療養所跡に建てられた施設である。1918 (大正7)年創立の神戸市立屯田療養所を伝統的母体として、1941(昭和16)年にこれを統合して現在の地(多井畑)に神戸市立多井畑療養所として開設されたものである。
1919(大正8)年には、旧結核予防法が施行され、人口5万人以上の市に結核療養所の設置が命じられ,強く蔓延していた結核に対応するために,公立の結核療養所は急速に増えていった。そして、患者の家の消毒、有業制限、結核療養所への収容や生活保護などを定め、性病やらい病などその後に次々とできる予防法の手本となった。
しかし、この当時は、まだ、患者の救済・援助よりは感染から社会を防衛する意識が強かったようだ。
先にも書いたように、かって、結核は若き天才が倒れる病気であった。1898(明治31)年徳富蘆花の『不如帰』は上流階級のモデル小説で、結核に倒れ、離縁される薄幸の新妻、浪子(大山 巌元帥の娘信子がモデルとされる)を通じて結核の残酷さを浮き彫りにした。このことは目にこのブログ蘆花忌で詳しく書いた(※14参照)。
結核とは、「結核菌」という細菌が引き起こす「おでき」のようなものだという。最初は炎症から始まり、肺ならば肺炎のような症状になる。
炎症が進むと、組織がだめになって「化膿」に似た状態になる。肺結核ではこの状態がかなり長く続き、レントゲンなどに写る影の大半がこの時期の病巣で、その後、だめになった組織がドロドロにとけて、咳(せき)やくしゃみと一緒に気管支を通って肺の外に出され、病巣は空洞(穴のあいた状態)になる。
空洞なので空気も肺からの栄養も十分にあり、結核菌には絶好のすみかとなって菌はどんどん増殖するのだという。
ここから菌が肺の他の部分に飛び火したり、リンパや血液の流れに乗って他の臓器でも結核菌が悪さを始めたりすることもある。こうして結核は肺全体、全身に拡がって行く。最後には肺の組織が破壊され呼吸困難や、他の臓器不全を起こして生命の危機を招くことになるという。
こう書けば怖い病気だが、予防法や治療法の発達により、現在の結核の罹患率などは明治大正、昭和前期の結核の壮絶さとはとうてい比較にならないほど低くはなっている。
しかし、先進国中でも高い水準にあるのは、日本が諸外国と比べて湿気が多いという結核になりやすい気候条件のあることが大きな理由のようでもある。加えて戦前は、衛生面で劣悪(これは日本に限ったことではないが)だったことも、感染に拍車をかけていた。
日本結核予防協会の「結核征伐の歌」じゃないけれど、「結核予防の第一は 結核菌を近づけず、常に身体を養って 結核菌に打ちかつだけの体力を備へおくことが最も基本的に大事なことではあるのだが、今後日本は更なる高齢化により、患者数が再び増加に転じる恐れが強まっており、これを食い止めるため厚生労働省や結核予防会などが結核予防の啓発活動を進めているわけである。
結核を撲滅するためには、なによりも、だれもが結核について正しい知識を持っていることが大切であり、この機会に、結核について少し学んでみるのも良いのではないだろうか(※15、※16参照)。
冒頭の画像は、結核予防会の2014年度結核予防週間のポスター。
参考:
※1:公益法人結核予防会
http://www.jatahq.org/index.html
※2:小さな資料室:資料91 斎藤茂吉「死にたまふ母」(初版『赤光』による)
http://www.geocities.jp/sybrma/91syakkou.syohan.html
※3:近代デジタルライブラリー - 竹の里歌
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/873702
※4:青空文庫
http://www.aozora.gr.jp/
※5:須磨浦病院HP
http://www5c.biglobe.ne.jp/~sumaura/
※6:(逍遥遊篇)のすべて [ 原文・読み下し・訳]
http://www.1-em.net/sampo/sisyogokyo/souji/soushi1.htm
※7:明治三十年代の文明論 : 文明批評の成立と展開<1>- 北海学園大学(Adobe PDF)
http://hokuga.hgu.jp/dspace/bitstream/123456789/1256/1/JINBUN-6-13.pdf#search='%E6%96%87%E6%98%8E%E6%89%B9%E8%A9%95%E5%AE%B6%E3%81%A8%E3%81%97%E3%81%A6%E3%81%AE%E6%96%87%E5%AD%A6%E8%80%85'
※8:高山樗牛と「冥想の松」 - 東北薬科大学(Adobe PDF)
http://www.tohoku-pharm.ac.jp/laboratory/germany/PDF%20chogyu.html.pdf#search='%E9%AB%98%E5%B1%B1%E6%A8%97%E7%89%9B+%E7%B5%90%E6%A0%B8'
※9:肺結核と文豪、文学 - やさしイイ呼吸器教室
http://tnagao.sblo.jp/article/60254385.html
※10:厚生労働省
http://www.mhlw.go.jp/kouseiroudoushou/shozaiannai/
※11:「北里柴三郎博士と日本私立衛生会」(PDF )
http://www.kitasato.ac.jp/kinen-shitsu/data/download/syonaihou_52.pdf#search='%E5%A4%A7%E6%97%A5%E6%9C%AC%E7%A7%81%E7%AB%8B%E8%A1%9B%E7%94%9F%E4%BC%9A'
※12:連載 - 結核予防会結核研究所(Adobe PDF)
http://www.jata.or.jp/rit/rj/2010_1.pdf#search='1911%E5%B9%B4+%E7%B5%90%E6%A0%B8+%E7%99%BD%E5%8D%81%E5%AD%97%E4%BC%9A'
※13:社会福祉法人白十字会
http://fields.canpan.info/organization/detail/1159347721
※14:今日のことあれこれと・・・蘆花忌(小説家・冨蘆花の忌日)
http://blog.goo.ne.jp/yousan02/e/2b06b2e4bd2f1732efd5dae461deadd1
※15:結核ってこんな病気
http://www.jazzday.net/
※16:結核(BCG) |厚生労働省
http://www.mhlw.go.jp/stf/seisakunitsuite/bunya/kenkou_iryou/kenkou/kekkaku-kansenshou03/
結核 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B5%90%E6%A0%B8
1949(昭和24)年から厚生省(現在の厚生労働省)と結核予防会(JATA)が実施している。
結核についての正しい知識を普及し、これからの活動を考える週間として、結核予防会では周知ポスターやパンフレット「結核の常識」等を作成配布するとともに、「全国一斉複十字シール運動キャンペーン」として全国各地で街頭募金や無料結核検診、健康相談等を実施して、結核予防の大切さを伝えている(参考※1「公益法人結核予防会」HPの結核予防週間参照)。
「みちのくの母のいのちを一目見ん一目みんとぞただにいそげる」
上掲の短歌は、日本を代表する短歌結社誌『アララギ』の中心人物として明治・大正・昭和と長く活躍した歌人・斎藤茂吉の処女歌集で、1913(大正2)年に刊行された『赤光』(死にたまふ母 其の一)に所収のものである(※2参照)。
茂吉は、1882(明治15)年、山形県守谷家の三男に生まれる。生家には経済面の余裕が無く、茂吉は、15歳の頃より東京に出て浅草で精神科医院を開業するも跡継ぎのなかった同郷の医師、斎藤紀一の家に養子候補として厄介になっていた。
上京してからの茂吉は開成中学(現・開成高校)から旧制第一高校(現:東京大学の前身)へと進学、このころから歌を詠むようになり、幸田露伴、森鴎外などを愛読。とくに露伴の影響は大きかったようだ。
1902(明治35)年第三学部((現:東京大学教養学部)の学生となった茂吉は、発行されたばかりの正岡子規の遺稿集第一篇『竹の里歌』(※3参照)を読んで強い感銘を受け、作歌を志すようになる。
しかし、養家の医師である斉藤家を継ぐため、同年、第一高等学校卒業後、東京帝国大学医科大学>(現在の東大医学部医学科)に入学し,1910(明治43)年に卒業している。
その翌・1911(明治44)年には、東大医科大学副手となり、精神病学を学ぶかたわら付属病院に勤務。7月より東京府巣鴨病院勤務し、授業と診療の生活が始まっていた。この時茂吉29歳。
その間1906(明39)年、子規の流れを汲む伊藤左千夫に入門し、本格的に短歌の道を歩み初めていた。
そして、茂吉が31歳の時、生母いくが1913(大正2)年5月に亡くなっている。上掲の短歌は臨終を迎えようとしている郷里山形の母に対する想いを詠んだ短歌である。東京に住んでいた茂吉。今のように飛行機も新幹線もなかった時代。 おそらく夜行列車に揺られているときに浮かんできた短歌だろう。
「一目見ん一目見んとぞ」と反復させることで、作者の願いや祈り、あせりが強く表現されている。
そんな茂吉のエッセイ(随筆)『結核症』(1926=大正15年)がある。
日本を代表する歌人でありながら、精神科医を本業としていた茂吉が、ここでは肺結核の病状が作風に影響を及ぼす例を分析している。一般的に結核性の病に罹(かか)ると神経が研ぎ澄まされ、健康な人の目に見えないところも見えて来るようになり、更に末期になると病に平気になり呑気になるものの依然として鋭い神経を持つ傾向にあるそうだ。
そして、肺結核患者は健康の人が平気でやっていることに強い厭味(いやみ)を感じたり、細かい粗(あら)が見えたりすることがあるそうで、その例として子規が若い頃は傾倒していた幸田露伴の作品に対して嫌味というか細かい指摘をしたことを挙げている。
そして子規の末期の作品を「センチメンタリズムから脱却しているが、感慨が露(あら)わでなく沈痛の響に乏しい」のは、俳人としての稽古によるものでなく、末期の肺結核特有の症状から来たものと結論づけている(参考※4:「青空文庫」参照)。
茂吉の『結核症』に出てくる正岡子規や、国木田独歩の他、高山樗牛(ちよぎう)、綱島梁川(りやうせん)、石川啄木 、森鴎外など結核で亡くなった文豪等が登場する。
正岡子規は、1894(明治27)年夏に日清戦争が勃発すると、翌1895(明治28)年4月、近衛師団つきの従軍記者として遼東半島に渡ったものの、上陸した2日後に下関条約が調印されたため、同年5月、第2軍・兵站部軍医部長の森林太郎(鴎外)等に挨拶をして帰国の途についたが、その船中で喀血して重態に陥り、神戸病院(現:神戸大学医学部附属病院)に入院。その後7月には、療養のために須磨保養院へ移り、故郷の松山へ行くまでの1ヶ月間、須磨に滞在していた。
当時須磨には、鶴崎平三郎博士によって解説された日本最初のサナトリウム「須磨浦療養院」(現:須磨浦病院。※5参照)があり、紛らわしいことに、隣接して「須磨保養院」もあった(須磨浦療養院より須磨駅方向。同じ須磨浦公園内の東端)。後者は療用にも保養にも利用されていた施設で、子規はこの「須磨保養院」に滞在し、サナトリウムの医師の診察を受けていたようだ。
松山に帰郷した子規は、1897(明治30)年に俳句雑誌『ホトトギス』を創刊しているが、その4年後 1902(明治35)年9月に肺結核が悪化し34歳 の若さで死去した。辞世の句「糸瓜咲て痰のつまりし仏かな」「痰一斗糸瓜の水も間にあはず」「をとゝひのへちまの水も取らざりき」を残している、苦しんで死んだことだろう。
国木田独歩は、1905(明治38)年5月の日本海海戦で、日露戦争 の勝利がほぼ確実になると、戦後にそなえ翌1906年初頭にかけて、新しい雑誌を次々と企画・創刊して、12誌もの雑誌の編集長を兼任していた。そして、日露戦争の終結後自ら独歩社を創立したが、1907(明治40)年には破産。その上独歩は肺結核にかかる。
しかし皮肉にも、前年に刊行した作品集『運命は』(「運命論者」など9編を収める第3著作集、うち「運命論者」は※4:「青空文庫」参照)が高く評価され、独歩は自然主義運動の中心的存在として、文壇の注目の的になった。
神奈川県茅ケ崎にある結核療養所の南湖院で療養生活を送る。「竹の木戸」「窮死」「節操」などを発表するが、病状は悪化していき、1908(明治41)年6月、満36歳で死去している。
高山樗牛は、明治時代の文芸評論家、思想家である。1871年2月28日(明治4年1月10日) 現在の山形県鶴岡市に生まれた。父は庄内藩士・斎藤親信。生後高山家の養子になった。樗牛の号は『荘子』の巻頭に載せられている「逍遥遊」(何ものにも拘束されない全く自由の境地。伸びやかに遊ぶ荘子の意か・・※6参照)からという。
樗牛がこの号を用いるようになったのは、彼が仙台の旧制第二高等学校に在学中のことであったという。彼は自分の性格を良く知っていたのだった。若輩の身で天下国家を論じるような、良く言えばスケールの大きな話、悪く言えば大風呂敷と見做されるような話を好んでする性格を、樗牛は自覚していたのだった。
1896(明治29)年に東京帝国大学文科大学哲学科卒業後、第二高等学校の教授になったが、翌年、校長排斥運動をきっかけに辞任。博文館に入社し『太陽』編集主幹になった。
当時は三国干渉後で国粋主義的な気運が盛り上がっており、「日本主義」を鼓吹する評論を多く書いていたようた。一方で『わがそでの記』のようなロマン主義的な美文を書いたり、美学をめぐっては森鴎外と論争を行っていたという。
1900(明治33)年、文部省から美学研究のため海外留学を命じられた。夏目漱石・芳賀矢一らと同時期の任命であり、帰国後は京都帝国大学(現:京大)の教授が内定していたが、洋行の送別会後に喀血し、入院。療養生活に入った。
翌・1901(明治34)年、留学を辞退。病中に書いた『文明批評家としての文学者』ではニーチェの思想を個人主義の立場から紹介した。また、田中智學の影響を受け日蓮研究を進めていたという。
当時病気で喀血で入院と云えば結核であった。樗牛は、24 歳の時に結核を発症してからは、時として頭をもたげてくるこの病をなだめながら、評論活動を続けたのだったが、病床に臥していたある時(1897年=明治 30年)、次のように述べているという。
「われ病にかかりて、ここにまことの人生を見そめき。あだ波たてる世の常にかけはなれて、ここに静かなる寂しきまことの世相を観じそめき。利に走り名にあこがるるともがらの外に、真の友情の貴むべき事を覚えそめき。あだにすごせし幾とせの、偽り多くつみ深きを想ひて、ここに青春の移ろひやすく、勝事のとこしへならざるを嘆きそめき。(『わがそでの記』)
この文章は、友人の姉崎嘲風との交友について、樗牛が書いたものだそうである(※7、※8参照)
1902年(明治35年)、論文『奈良朝の美術』により文学博士号を授与されたが、病状が悪化し、前年東大の講師になり週1回、日本美術を講じていたが、これを辞任、12月24日に31歳の若さで死去している。
綱島梁川 、本名:栄一郎は、1873(明治6)年5月年岡山県上房郡有漢村(現:高梁市)生まれの宗教思想家、評論家である。
1890(明治23)年に岡山の高梁教会で牧師より洗礼を受ける。1892(明治25)年に東京専門学校(後の早稲田大学)に入学。
坪内逍遥、大西祝の教えを受ける。逍遥の『早稲田文学』の編輯に加わり、文藝・美術評論を書く。
横井時雄の本郷教会や植村正久の一番町教会(後の富士見町教会)に出席する。この頃正統的な神学に懐疑的になり、倫理に傾倒するようになった。
肺結核で神田の吉田病院に入院しているときに、副院長の橋本善次郎、神戸教会牧師の海老名弾正と出会って信仰を回復。
文芸評論家として活動すると同時に、倫理学者としても活動した。病身になってからは、主に宗教の論評を発表するようになり、明治38年(1905年)に『新人』に発表した『病間録』「余の見神の実験」は大きな反響を呼んだ。この宗教的な思索は、安部能成、斎藤勇らに大きな影響を与えたという。綱島も肺結核のため満34歳で死去している。
岩手県出身の歌人、詩人石川啄木は、曹洞宗日照山常光寺住職の長男として生まれる。戸籍によると1886年2月20日の誕生だが、1885(明治18)年10月28日に誕生したともいわれているそうだ。
盛岡中学校(現:岩手県立盛岡一高)時代に、のちに妻となる堀合節子や、親友の岡山不衣、金田一京助らと知り合う。
『明星』を読んで与謝野晶子らの短歌に傾倒し、また上級生の野村長一(のちの野村胡堂)や及川古志郎らの影響を受け、文学への志を抱くようになる。
1901(明治34)年12月から翌年にかけて友人とともに『岩手日報』に短歌を発表し、啄木の作品も「翠江」(すいこう)の筆名で掲載された。これが初めて活字となった啄木の短歌だったという。
しかし、翌1902(明治35)年文学で立身することを決意し、盛岡中学校を中退し、11月9日、雑誌『明星』への投稿でつながりがあった新詩社の集まりに参加、10日には、当時、歌壇ではきら星の如き存在であった与謝野鉄幹・晶子夫妻を訪ねる。
東京滞在は続き作歌もするが出版社への就職がうまく行かず、結核の発病もあり、1903(明治36)年2月、父に迎えられて故郷に帰る。
1903(明治36)年 5月から6月にかけ『岩手日報』に評論を連載、11月には『明星』に再び短歌を発表し新詩社同人となる。この頃から啄木のペンネームを使い始め、12月には啄木名で『明星』に長詩「愁調」を掲載、歌壇で注目されるようになる。
啄木は貧窮と病に冒された漂白の生活の中、1910(明治43)年)には、処女歌集『一握の砂』(※4「青空文庫」で読める)を発表。新しい光を世に放つ551首が納められたこの歌集を残して、2年後の1912(明治45)年わずか26歳で夭逝した.。
森鴎外は、東京大学医学部卒業後、陸軍軍医になり、陸軍省派遣留学生としてドイツで4年過ごして、帰国後、訳詩編{於母影』、小説『舞姫』、翻訳[『即興詩人』を発表する一方、同人たちと文芸雑誌『しがらみ草紙』(※:「青空文庫」の55柵草紙の山房論文参照)を創刊して文筆活動に入った。
その後、日清戦争出征や小倉転勤などにより、一時期創作活動から遠ざかったものの、『スバル』創刊後に『ヰタ・セクスアリス』『雁』などを発表。乃木希典の殉死に影響されて『興津弥五右衛門の遺書』を発表後、『阿部一族』『高瀬舟』など歴史小説や史伝『澁江抽斎』等も執筆した。
晩年、帝室博物館(現在の東京国立博物館・奈良国立博物館・京都国立博物館等)総長や帝国美術院(現日本芸術院)初代院長なども歴任するなど幅の広い文芸活動とともに幅広い交際もしてきた鷗外も、1922(大正11)年、親族と親友の賀古鶴所らが付きそう中、腎萎縮、肺結核のため60歳で死去している。
森鴎外の死については、鴎外の妹で、訳詩集『於母影』の共訳者として、紅一点で名をつらねる等、女性文学者として明治期に若松賤子(バーネットの『小公子』の名訳で知られる)と並び称された歌人・随筆家でもある小金井喜美子が、『鴎外の思い出』の中で、以下のように書いている(※3:「青空文庫」参照)。
「近親中で長生したのは主人の八十七、祖母の八十八でした。祖母は晩年には老耄(ろうもう)して、私と母とを間違えるようでした。主人は確かで、至って安らかに終りました。この頃亡兄は結核であったといわれるようになりましたが、主人も歿(ぼつ)後解剖の結果、結核だとせられました。解剖家は死後解剖するという契約なのです。医者でいる子供たちも、父は健康で長命して、老衰で終ったとばかり思っていましたら、執刀せられた博士たちは、人間は老衰だけで終るものではない、昔結核を患った痕跡(こんせき)もあるし、それが再発したのだといわれます。解剖して見た上でいわれるのですから、ほんとでしょう。つくづく人体というものを不思議に思います。」・・・と。
喜美子の兄、鴎外の直接の死はやはり結核によるものだったようだ.
続いて「割合に早く終った兄は気の毒でした。何も長命が幸福ともいわれませんけれど、その一生に長命の人以上の仕事をせられたのですから。・・・長年の間、戦闘員でこそなけれ、軍人として戦地に行き、蕃地(ばんち)にも渡り、停年までその職に堪えた上、文学上にもあれだけの仕事をされたのですから、確かに過労に違いありません。よくもなされたと驚くばかりですが、それにつけても、晩年にはもっと静養させたかったと、ただそれだけが残念です」・・・と。
結核で亡くなったその他の文豪たちの中では鴎外の60歳での死は湯治としては早い方ではないが、長生きの家系の中では意外と早死した兄の働き過ぎを惜しんでいる。
又、喜美子の夫は日本解剖学会初代会長などをつとめた小金井良精であり、その夫も、当時としては長生きの88歳で亡くなったがその死因は老衰ではなく解剖の結果死因は結核だったそうだ。
上記以外にも明治以降、とされる主な文豪、樋口一葉(24歳と6ヶ月)、•二葉亭四迷(45歳)、•宮沢賢治(37歳)梶井基次郎(31歳)などは、肺結核で亡くなっていると言われている。
特に梶井基次郎氏は、京都の三高在学中、四条大橋の上で文学仲間に「肺病になりたい、肺病にならんとええ文学はでけへん。」と叫んだそうだ(祖母も弟も肺病で先に亡くしている)。その直後、肺結核を発病、その後名作『檸檬』を残し、31歳で生涯を閉じたという(※9参照)。
明治時代から昭和20 年代までの永い間、「国民病」「亡国病」と恐れられた結核は、年間死亡者数も10数万人に及び死亡原因の第1位であった。
医療や生活水準の向上により、今では薬を飲めば完治できる時代になったが、過去の病気と思っていたら、結核の集団感染が学校や病院、老人ホームなどで続き、1999(平成11)年には厚生省から「結核緊急事態宣言」が出された((※10:「厚生労働省」のここ参照)。
1997(平成9)年の国内の結核新規登録患者数は42,715 人で、前年比243人増。1998(平成10)年は44,016人で、さらに1,301 人増加と、確実に増えてきた。
世界的に見ると、日本は先進国中で図抜けた罹患率( 平成10年34.8)であった(※10:「厚生労働省」のこのページの参考資料-1参照) 。
この状況は、現在でも同様である。「平成24年結核登録者情報調査年報集計結果(概況)」(※10:「厚生労働省」のこのページの参考資料 1参照)を見ても、日本の結核罹患率16.7は、米国(3.4)の4.9倍、ドイツ(4.3)の3.9倍、オーストラリア(5.4)の3.1倍である。、欧米諸国と比較すると、日本の結核罹患率は依然として高い。
このような状況から判断して、結核罹患率が、10人以下となっている欧米先進国に比べ日本はまだまだ結核は多く、現在でも世界の中では依然「“中”蔓延国」とされている状況である。
人口10万人あたり10人以下の「“低” 蔓延国」になるにはまだまだ相当年数かかるだろうし、100万人あたり1人以下の「制圧」までには50年以上かかるのではないかという予測もあるようだ。
それには、結核を知ることが予防への第一歩であり、早期発見・早期治療は本人の重症化を防ぐためだけではなく、大切な家族や職場等への感染の拡大を防ぐためにも重要である。
結核は明治前期の資本主義経済の発展と共に増え続けたと言われている。
貧しい農村か若い女性を製糸、紡績工場に集め、低賃金、重労働で働かせた。作業場も住宅も不潔で栄養不良が重なると、徐行は結核に倒れ、故郷に帰りひっそりと暮らした。このような過酷な労働条件下で働く女工について語るとき、これを「女工哀史」などともいった。
結核を患い故郷に帰った女性は、親や兄弟に厄介者扱いされるケースもあった上、家族に菌を移し、農村に結核を広げた。死亡率が高かった頃は、病名「結核」はあまりにも直接的で人々の口に出しづらかった面があったからだ。
折しも、1908(明治41)年6月、結核菌の発見をしたドイツの細菌学者コッホ夫妻が来日した。
上掲の写真はその折の記念写真。前列左がコッホ、後列右端が弟子の北里柴三郎である(画象『朝日クロニクル週刊20世紀』1913-1914 年号より。
コッホは来日時の談話で、イギリス、プロシアなどで結核が減少している理由として、
1)伝染を恐れ注意するようになった。2)一般に衛生思想が発達した。3)貧民の住宅事情を良くした。4)療養所を増やし、感染源を隔離できるようになった。・・・ことを指摘したという。これを機に日本でもようやく本格的な結核対策を講じる機運が高まったようだ。
そして、1913(大正2)年は、このような結核予防史上重要な年となった。財団法人日本結核予防協会が発足したからだ。発会式は2月11日の紀元節に行われ、会頭に芳川顕正、理事長に北里柴三郎が就任した。
それまでは北里柴三郎らの大日本私立衛生会(日本公衆衛生協会の前身、※11参照)と、2年前にクリスチャン医師ら数名により出来た白十字会(※12、※13参照))があったが、国家的な取り組みが求められていた。
同協会の事業を1939(昭和14)年に引き継いだのが、今の結核予防会である。
日本結核予防協会は啓発活動の小冊子を発行し、翌1914(大正3)年には東京大正博覧会で大がかりな展示をし、「結核征伐の歌」を製作、その後も映画、劇で広く大衆に予防を訴えた。
1、そも肺病は目に見えぬ 結核菌の襲ひ来て
強と見ゆる體(からだ)にも 呼吸に障(さわ)りあるときは
その弱點(じゃくてん)につけ入りて ついに発するものぞかし
2、されば豫防(よぼう)の第一は 結核菌を近づけず
常に體を養ひて よしかの菌の襲ふとも
打ちかつ程の體力(たいりょく)を 備へおくこそ秘訣なれ
上掲は「結核征伐の歌結核征伐の歌」1、2番、 歌詞は10番まであるようだ。
また、冒頭に掲載のものは、大正末期に作られた結核予防協会の宣伝ポスター。このころは3月27日が結核予防デーだったのだろうか。歌も、ポスターも時代を感じさせるよね〜。、
政府の方針で1917(大正6)年初めて結核療養所・大阪市立刀根山病院(現:国立病院機構刀根山病院)が開院した。
この施設は結核専門の診療所であると同時に根本的な治療方法のない結核という病気の研究機関でもあった。結核治療という分野に関していえば日本国内で最古の歴史を持つと言える。
個人の結核療養所としては、先にも書いた通り、神戸の須磨浦療病院が1889(明治22)年に設立されているが、その2年前の1887(明治20)年に、鎌倉海浜院が設立されているが,翌年ホテル(鎌倉海浜院ホテル)に転向しているので、本格的な日本最初の結核サナトリウムは須磨浦療病院といってよいであろう。
開設者は鶴崎平三郎博士で,湘南と同様,景勝の気候温暖な海浜が建設地として選ばれている。
湘南地方にはその後1892(明治25)年に鎌倉養生院、1887(明治30)年に杏雲堂平塚分院、1899(明治32)年に中村恵風園療養所と南湖院が次々と開設され、最も多い時代には12のサナトリウムが湘南地方にあったという。
この中で,医師高田畊安によって開院された南湖院は最初は5千坪強の土地から発足し、最後には5万坪の土地に総病床数200床強の施設に発展し、当時東洋一と云われた施設であったらしい。東京の医科大学の学生が施設見学にくるなど、診療の他に医学教育にも貢献している施設であったという(※1:「公益法人結核予防会」HPのここ参照)。
上掲の画像は神奈川県・茅ケ崎にあった民間の結核療養所「南湖院」。写真は、1931(昭和6)年南湖院海浜会場で衛生講和をしている様子(写真は鶴田蒔子氏蔵のもので、『朝日クロニクル週刊20世紀』1913-1914年号掲載のものより借用した)。
しかし,入院料は1939(昭和14)年に一番安い病床でも1日3円であり、1カ月入院すると100円弱かかり、当時大学出の初任給が100円くらいであったことを考えると、庶民には長く入院することは困難であったようだ。それは、湘南と同様、景勝の気候温暖な海浜が建設地として選ばれた「須磨浦療病院」も同様であった。
そのようなことから公的な療養所として最初に大阪市、そして、東京市に続いて、第3番目に建設されたのがわが地元、神戸市立療養所であったという。
須磨浦療病院のある須磨公園駅から山陽電鉄で板宿まで行き、市営地下鉄で2駅目の名谷で下車、車で数分の国立神戸医療センターが、今は旧神戸市立療養所跡に建てられた施設である。1918 (大正7)年創立の神戸市立屯田療養所を伝統的母体として、1941(昭和16)年にこれを統合して現在の地(多井畑)に神戸市立多井畑療養所として開設されたものである。
1919(大正8)年には、旧結核予防法が施行され、人口5万人以上の市に結核療養所の設置が命じられ,強く蔓延していた結核に対応するために,公立の結核療養所は急速に増えていった。そして、患者の家の消毒、有業制限、結核療養所への収容や生活保護などを定め、性病やらい病などその後に次々とできる予防法の手本となった。
しかし、この当時は、まだ、患者の救済・援助よりは感染から社会を防衛する意識が強かったようだ。
先にも書いたように、かって、結核は若き天才が倒れる病気であった。1898(明治31)年徳富蘆花の『不如帰』は上流階級のモデル小説で、結核に倒れ、離縁される薄幸の新妻、浪子(大山 巌元帥の娘信子がモデルとされる)を通じて結核の残酷さを浮き彫りにした。このことは目にこのブログ蘆花忌で詳しく書いた(※14参照)。
結核とは、「結核菌」という細菌が引き起こす「おでき」のようなものだという。最初は炎症から始まり、肺ならば肺炎のような症状になる。
炎症が進むと、組織がだめになって「化膿」に似た状態になる。肺結核ではこの状態がかなり長く続き、レントゲンなどに写る影の大半がこの時期の病巣で、その後、だめになった組織がドロドロにとけて、咳(せき)やくしゃみと一緒に気管支を通って肺の外に出され、病巣は空洞(穴のあいた状態)になる。
空洞なので空気も肺からの栄養も十分にあり、結核菌には絶好のすみかとなって菌はどんどん増殖するのだという。
ここから菌が肺の他の部分に飛び火したり、リンパや血液の流れに乗って他の臓器でも結核菌が悪さを始めたりすることもある。こうして結核は肺全体、全身に拡がって行く。最後には肺の組織が破壊され呼吸困難や、他の臓器不全を起こして生命の危機を招くことになるという。
こう書けば怖い病気だが、予防法や治療法の発達により、現在の結核の罹患率などは明治大正、昭和前期の結核の壮絶さとはとうてい比較にならないほど低くはなっている。
しかし、先進国中でも高い水準にあるのは、日本が諸外国と比べて湿気が多いという結核になりやすい気候条件のあることが大きな理由のようでもある。加えて戦前は、衛生面で劣悪(これは日本に限ったことではないが)だったことも、感染に拍車をかけていた。
日本結核予防協会の「結核征伐の歌」じゃないけれど、「結核予防の第一は 結核菌を近づけず、常に身体を養って 結核菌に打ちかつだけの体力を備へおくことが最も基本的に大事なことではあるのだが、今後日本は更なる高齢化により、患者数が再び増加に転じる恐れが強まっており、これを食い止めるため厚生労働省や結核予防会などが結核予防の啓発活動を進めているわけである。
結核を撲滅するためには、なによりも、だれもが結核について正しい知識を持っていることが大切であり、この機会に、結核について少し学んでみるのも良いのではないだろうか(※15、※16参照)。
冒頭の画像は、結核予防会の2014年度結核予防週間のポスター。
参考:
※1:公益法人結核予防会
http://www.jatahq.org/index.html
※2:小さな資料室:資料91 斎藤茂吉「死にたまふ母」(初版『赤光』による)
http://www.geocities.jp/sybrma/91syakkou.syohan.html
※3:近代デジタルライブラリー - 竹の里歌
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/873702
※4:青空文庫
http://www.aozora.gr.jp/
※5:須磨浦病院HP
http://www5c.biglobe.ne.jp/~sumaura/
※6:(逍遥遊篇)のすべて [ 原文・読み下し・訳]
http://www.1-em.net/sampo/sisyogokyo/souji/soushi1.htm
※7:明治三十年代の文明論 : 文明批評の成立と展開<1>- 北海学園大学(Adobe PDF)
http://hokuga.hgu.jp/dspace/bitstream/123456789/1256/1/JINBUN-6-13.pdf#search='%E6%96%87%E6%98%8E%E6%89%B9%E8%A9%95%E5%AE%B6%E3%81%A8%E3%81%97%E3%81%A6%E3%81%AE%E6%96%87%E5%AD%A6%E8%80%85'
※8:高山樗牛と「冥想の松」 - 東北薬科大学(Adobe PDF)
http://www.tohoku-pharm.ac.jp/laboratory/germany/PDF%20chogyu.html.pdf#search='%E9%AB%98%E5%B1%B1%E6%A8%97%E7%89%9B+%E7%B5%90%E6%A0%B8'
※9:肺結核と文豪、文学 - やさしイイ呼吸器教室
http://tnagao.sblo.jp/article/60254385.html
※10:厚生労働省
http://www.mhlw.go.jp/kouseiroudoushou/shozaiannai/
※11:「北里柴三郎博士と日本私立衛生会」(PDF )
http://www.kitasato.ac.jp/kinen-shitsu/data/download/syonaihou_52.pdf#search='%E5%A4%A7%E6%97%A5%E6%9C%AC%E7%A7%81%E7%AB%8B%E8%A1%9B%E7%94%9F%E4%BC%9A'
※12:連載 - 結核予防会結核研究所(Adobe PDF)
http://www.jata.or.jp/rit/rj/2010_1.pdf#search='1911%E5%B9%B4+%E7%B5%90%E6%A0%B8+%E7%99%BD%E5%8D%81%E5%AD%97%E4%BC%9A'
※13:社会福祉法人白十字会
http://fields.canpan.info/organization/detail/1159347721
※14:今日のことあれこれと・・・蘆花忌(小説家・冨蘆花の忌日)
http://blog.goo.ne.jp/yousan02/e/2b06b2e4bd2f1732efd5dae461deadd1
※15:結核ってこんな病気
http://www.jazzday.net/
※16:結核(BCG) |厚生労働省
http://www.mhlw.go.jp/stf/seisakunitsuite/bunya/kenkou_iryou/kenkou/kekkaku-kansenshou03/
結核 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B5%90%E6%A0%B8