世代を超えて愛されているアニメ『アンパンマン』の生みの親として知られる、やなせ たかしが一年前の2013(平成25)年8月に体調を崩して東京都内の病院へ入院していたが、10月13日に心不全で亡くなられて今日ではや1年になる(享年94歳)。
社団法人日本漫画家協会代表理事理事長(2000年5月 - 2012年6月)、同代表理事会長(2012年6月 - 2013年10月)を歴任していた。1990(平成2)年に勲四等瑞宝章を受賞、1995(平成7)年には日本漫画家協会文部大臣賞を受賞している(※1参照)。
やなせたかし(本名:柳瀬 嵩)は1919(大正8)年に東京で生まれるが父親が亡くなって後は、父母の郷里である高知県に移住し、高知で旧制中学を卒業後、中学生の頃から絵に関心を抱いて、官立旧制東京高等工芸学校図案科(現・千葉大学工学部デザイン学科)に進学。
卒業後、田辺製薬(現:田辺三菱製薬)宣伝部に就職するが、1941(昭和16)年に出兵。やなせ自身は、従軍中は戦闘のない地域にいたため、一度も敵に向かって銃を撃つこともなかったというが、弟は、特攻兵器・回天の特別攻撃隊要員となり、台湾とフィリピンの間のバシー海峡で撃沈され戦死したそうだ。
終戦後、高知新聞社に入社し、『月刊高知』編集部で編集の傍ら文章、漫画、表紙絵などを手掛けていたが同僚の小松暢(こまつ のぶ)が転職し上京するのを知り、1947(昭和22)年に自らも退職、上京し小松と結婚。
この時期、やなせは漫画家を志していたが、東京での生活がまだ確立されていなかったために、兼業漫画家という道を選び、同年三越に入社し宣伝部でグラフィックデザイナーとして活躍(三越の包装紙「華ひらく」のmitsukoshi文字はやなせの作だという※2参照)、そして1953(昭和28)年三越を退社しに専業漫画家となる。この時が34歳。
やなせは絵本作家・詩人としての活動が本格化する前までは頼まれた仕事はなんでもこなしたといい、編集者、舞台美術家、演出家、司会者、コピーライター、作詞家、シナリオライターなど様々な活動を行っていたようだ。当時の漫画の代表作にはニッポンビール(のちのサッポロビール)のキャラクターとなった四コマ漫画「ビールの王さま」がある(※2参照)。
そんな中、1960(昭和35)年に、永六輔作演出のミュージカル「見上げてごらん夜の星を」(テーマソング「見上げてごらん夜の星を」が坂本九の歌でヒットしたことでも知られる)の舞台美術を手掛けた際に、作曲家のいずみたくと知り合い、翌1961(昭和36 )年に『手のひらを太陽に』を作詞(作曲:いずみたく)。
ぼくらはみんな 生きている
生きているから 歌うんだ
ぼくらはみんな 生きている
生きているから かなしいんだ
手のひらを太陽に すかしてみれば
まっかに流れる ぼくの血潮(ちしお)
ミミズだって オケラだって
アメンボだって
みんな みんな生きているんだ
友だちなんだ
『手のひらを太陽に』。より1番を抜粋(3番まであり)。
この歌にも、やなせの哲学が滲んでいる。同曲は教科書に載るほどのスタンダードな曲ともなっているが、多くの作詞を手がけたやなせ最大の代表作ともなっている。
手のひらを太陽に tiebao - YouTube
その後、いずみたくとコンビを組み「0歳から99歳までの童謡」シリーズ(ここ)を続け、代表作を詩集『こどもごころの歌』として自費出版している。以下でその試聴が出来る。
やなせたかし・いずみたくからの歌のおくりもの 「0歳から99歳までの童謡」
又、1969(昭和44)年、虫プロダクションの劇場アニメ『千夜一夜物語』(大人のためのアニメーション。「アニメラマ-3部作」の一。「アニメラマ-3部作」については、※3を参照)制作の際に、エロチック路線を求めていた手塚治虫は、やなせの漫画を気に入り美術監督として招き入れたという。
同作がヒットしたお礼として、手塚は、やなせが1967(昭和42)年に手掛けたラジオドラマ「やさしいライオン」をアニメ映画化し、毎日映画コンクールの大藤信郎賞を受賞。同作はやなせの代表作のひとつとなっており、後にフレーベル館より絵本にもなっている(※4のここ参照)。以下では、アニメ映画の一部が見られる。
やさしいライオン - YouTube
このようなメルヘン童話の作り手であったことでも知られているやなせは、この頃、まだ、大人漫画を描く漫画家が中心の団体「漫画集団」に所属していた。
そんな時、NHK総合テレビで放送されていた児童向け番組 『まんが学校』が、1964(昭和39)年4月から1967(昭和42)年3月まで3年間放映された。
今の日本のマンガブームの時代では、子供も)大人も普通にマンガを読んでいるが、60年代はまだ少年マンガというのは一種の「ブーム」であり、親や家によっては読むのを禁じられたりもしていた。
そうしたブームを踏まえての番組だったが、当時のお堅いNHKがまず民放より先に、こういう番組を作ったのが面白い。
司会は、落語家の故立川談志)で、やなせは「漫画指導」という講師役の立場で毎回出演していたが、この出演をきっかけに、大人漫画から子供漫画の方へ変わっていったようだ。
1973(昭和48)年には、雑誌『詩とメルヘン』(ここ参照)を立ち上げ長く編集長を務めたが、このメルヘン童話にはとりわけ思い入れがあったようで、自分が作ったメルヘン作品の中でも「『やさしいライオン』がなければ、アンパンマンは生まれなかったと思う」と述べていたことが、やなせスタジオのHPの中で紹介されている(※4のここ参照)。
又、『詩とメルヘン』の編集長を務める一方で、「漫画家の絵本の会」という同人サークルを立ち上げるなど、詩人・絵本作家としての活動を本格化させた。
アンパンマン誕生のきっかけは、1973(昭和48)年にフレーベル館より刊行された幼稚園・保育園向けの月刊絵本『キンダーおはなし絵本』(※5参照)であり、「あんぱんまん」というタイトル
上掲がその時の『あんぱんまん』である。
しかし、もともとのアンパンマンの原型作品は、『PHP』という雑誌に連載されていた(大人向けの)短編童話『こどもの絵本』(単行本のタイトルは『十二の真珠』)の中の一つ(第10回連載「アンパンマン」10月号)であった。
この時の主人公のアンパンマンは顔がパンとは違い普通の人間であるなど現在と大きく異なる設定が幾つか見られるが、空腹の人のところにパンを届けるという骨子は同一だった。
しかし、主人公アンパンマンの、小太りで不格好な姿には当時、流行し始めていた仮面ライダーやウルトラマンなどの正義のヒーローへの疑問と反発が込められていたとする専門家もいるようだが、京都国際マンガミュージアム 学芸室員 倉持佳代子さんは、以下のように言っている。
「(一般的なヒーローは)マント一つ汚さずに飛び去っていく。壊した町も、どうなったのか分からない。そういうヒーローって、本当の正義なんだろうか。
本当におなかがすいて困って、一人ぼっちで寂しくてって言う人のところには、そういうヒーローは、なぜか現れない。誰をいったい助けているんだろう、そういう疑問があって、それでアンパンマンを思いつかれたんだろうと思います。」・・・と(※7参照)。
そして、このアンパンマンを発展させたキャラクターとして、『キンダーおはなし絵本』には、茶こげたマントに身を包み、あんパンでできた頭部を持つ「あんぱんまん」が登場することになった。
この絵本の『あんぱんまん』は、ひらがなで表記されていたが、それは幼児向け作品であり、カタカナ書きでは違和感があったからだというが、1975(昭和50年)には、キャラクター名を片仮名に変更した続編の絵本『それいけ!アンパンマン』が出版されている。
ここでも主人公のアンパンマンは格好のわるい正義のヒーローだ。得意技のアンパンチ(※8参照)で、バイキンマンをやっつけるが、相手が倒れるほど徹底的には痛めつけない。そして、お腹がすいた子供に自分の顔をちぎって食べさせヨレヨレになる。
「声高に語る正義は嘘くさい」「正義も悪もない。唯一ある正義はひもじい者に食わせることだ」。
飢えた人を助ける新ヒーロー誕生の裏には、飢餓に直面した自身の戦争体験があったようだ。先にも書いたように、やなせは、1941年に入隊し中国大陸で戦争を迎えた。代表作の『手の平に太陽を』の「ミミズだって オケラだって アメンボだって みんな みんな生きているんだ 友だちなんだ」の歌詞は、、戦争で得た死生観に裏打ちされたものだと言われている。
24歳で中国に出征したやなせは、飢えに苦しみながらも、戦争の正義を信じて戦ったことだろう。ところが、敗戦を境に、自分たちの信じた正義は一変し、悪魔の軍隊と呼ばれるようにもなった。
今放送中のNHK連続テレビ小説「花子とアン」でも、敗戦後に、親友であった蓮子から「息子の純平を戦地に送り戦死させたのは戦時中に子供向のラジオ放送で、子供たちを戦争に駆りたてたからだとヒロインの花子が責められ、又、親友の朝市も戦時中に学校で子供を戦争に駆り立てる教育をした。そして、花子の兄吉太郎も憲兵などしていた自分に生きる資格はないとそれぞれが悩んでいた。
やなせも軍人として戦争を経験し、死にはしなかったものの食べるものがなく飢えには苦しんだようだ。地域によっては飢えた兵隊が死んだ人の肉だって食べたという話を聞いたことがある。
先の戦争では内地に残っていた銃後の国民の方がつらい目にあった人の数は圧倒的に多い。戦火に合わなくてもは飢えに苦しんだ。
戦争に正義の為の戦いなどない。正義は或る日突然逆転する。A国にとっての正義がB国にも正義だとは限らない。正義は信じがたいものなのだ。「声高に語る正義は嘘くさい」「正義も悪もない。唯一ある正義はひもじい者に食わせることだ」・・。これが飢餓に直面した戦争から体験したやなせの哲学となったのだろう。
そうだ!嬉しいんだ生きる喜び
たとえ胸の傷が痛んでも
何の為に生まれて 何をして生きるのか
答えられないなんて そんなのは嫌だ!
今を生きることで 熱いこころ燃える
だから君は行くんだ微笑んで。
そうだ!嬉しいんだ生きる喜び
たとえ胸の傷が痛んでも。
嗚呼アンパンマン優しい君は
行け!皆の夢守る為
上掲は「アンパンマンのマーチ 」(1番抜粋)。歌は以下で聞ける。
アンパンマンマーチ -YouTube
「アンパンマンのマーチ」は、テレビアニメ『それいけ!アンパンマン』のオープニングテーマ曲として放送開始以来変わらず使用され続けており、『それいけ!アンパンマン』関連のほぼ全てのアルバムにも収録されている。また、最近の童謡として親しまれている。
しかし、この歌、小さな子供には少々難しすぎる気もするのだが・・・。
これに対して、やなせは「子供に容赦する必要はないというのがぼくの持論。だから、『あんぱんまん』のテーマー曲に『何の為に生まれて 何をして生きるのか』という哲学的な歌詞を入れた」・・と言っているそうだ。この歌の問いかけこそがやなせの人生のテーマーでもあり、以下の様にも言っているとも・・・。
「生きていることが大切なんです。今日まで生きてこられたなら、少しくらいつらくても明日もまた生きられる。そうやっているうちに次が開けてくるのです。」・・と。
東日本大震災が発生した時には、その直後から、被災地支援を続けた。ラジオで繰り返し、「アンパンマンのマーチ」が流れ、被災地の子供達からアンパンマン宛ての手紙が届いたという。
やなせ自身は、アンパンマンのヒットの時期から既に体調は必ずしも良好ではなく、60歳代末期には腎臓結石、70歳代には白内障、心臓病、80歳代には膵臓炎、ヘルニア、緑内障、腸閉塞、腎臓癌、膀胱癌、90歳代には腸閉塞(再発)、肺炎、心臓病(再発)と病歴を重ねていたようで、震災のあった2011年春には、視界もぼやけてきたことを理由に周囲には、漫画家引退の考えを告げていたようだが、「引退はやめた。死ぬまで現役だ」と宣言。
「ああアンパンマンやさしい君はいけ、みんなの夢まもるため」と書いたポスターを配ったという。
岩手県陸前高田市の奇跡の「一本松」には特に暑い思いを抱いていたようであり。枯死した一本松保存の為に1千万を寄付。自ら作詞・作曲した歌「陸前高田の松の木」には、こんな歌詞がある。
「ぼくらは生きる。負けずに生きる。生きていくんだ オー オー オー」・・・。
そういえば、NHK総合テレビ『爆笑問題のニッポンの教養』に出演したやなせが、ぬいぐるみで埋め尽くされたアンパンマン部屋で爆笑問題(太田光・田中裕二)を相手に、この歌を大きな声で熱唱していたのを思い出した。以下でそのシーンが見れる。
「陸前高田の松ノ木」やなせたかしSings~IMG
震災の翌・2012(平成24)年6月の日本漫画家協会賞の贈賞式を最後に、高齢と体調不良を理由に後任の理事長はちばてつやに譲り、自身は会長に就任した。
、アニメ映画の製作はその後も続き被災地の支援に尽力したやなせは、”復興三部作”と名付けた映画シリーズの制作に着手していたが、その第1作震災からの「復興」がテーマの『それいけ!アンパンマン よみがえれ バナナ島』(第24作)は、2012(平成24)年7月に公開された。
第2作目の「希望」をテーマとした、『それいけ!アンパンマン とばせ! 希望のハンカチ』(第25作)は、2013(平成25)年7月に公開された。
この舞台挨拶では、「なんとか今のところは死なないでいるんだけど、まもなくだね。病院からはあと2~3週間しか生きられないって言われてる」「死ぬ時は死ぬんだよ。笑いながら死ぬんだよ。そうすれば映画の宣伝になる。死ぬまで一生懸命やるんだよ」と笑いながら語っていたという。
しかし、2013(平成25)年8月に体調を崩して入院し、同年10月13日、心不全のため94歳で死去してしまったが、その6日後の10月19日にやなせの遺作の詩を掲載した季刊誌『誌とファンタジー 24号』が発売された。
やなせは、入院して闘病中だった9月、遺言のようにも読める誌3編を編集者に託していたという。
「一世紀近く生きてきましたから、もう、おしまいです。・・・・ぼくは、未熟の生まれ 死ぬ時も 未熟のままで かえって かえって よかったような気もします」
同誌巻頭の「編集前誌」は、宙を舞う天子のイラストが添えられていた。
上掲の画像は、季刊誌『誌とファンタジー 24号』の「編集前誌」(鎌倉春秋社)。画像は2013年10月17日付朝日新聞社海面より。
、
「天命」と題した詩は「もはや 無駄な抵抗はせぬ ゼロの世界へ 消えて行くでござる」とつづり、骸骨に向き合って悠々とした表情の老侍が描かれており、もう一遍の「チャーリー」では「ぼくの人生喜劇 シリーズ ついに全巻の終わり」と喜劇王チャップリンを思わせるイラストが微笑んでいるという。
同誌は、やなせの責任編集で2007年創刊。「今の殺伐とした世の中で必要なのは、抒情の復活だ」と話していたそうだ(※9参照)。
やなせが生前に公開できなかった「復興三部作」のラストを飾る「それいけ!アンパンマン りんごぼうやとみんなの願い』 が公開されたのは、今年・2014(平成26)年7月5日のことであった。
上掲の画像は『りんごぼうやとみんなの願い』 の映画のチラシ。
同映画は、やなせによる最後の絵本『アンパンマンとりんごぼうや』が原作。キャッチコピーは「みんなの“ふるさと”は、ぼくが守るよ!」。
この映画には、やなせが最も伝えたかったことが込められている。映画チラシには2種類あるがその説明には以下のように書かれている。
格好いいヒーローに憧(あこがれ)るりんごぼうやの”ふるさと”アップルランド。ある日突然、アップルランドのりんごが何者かに毒りんごにされてしまう。大切な”ふるさと”を守るため”魔法の種”を探すアンパンマンとりんごぼうや、途中、困難にぶつかりながらも諦めないアンパンマンの勇気ある姿を見て、りんごぼうやは、真のヒーローとは何かに気が付く。
途中、アンパンマンと一緒にリンゴちゃんの心を込めたリンゴ作りを手伝ったり、困った人を助けて「ありがとう」と云われると、心の中がぽかぽかすることを知る。
困難にぶつかりながらも決して諦めずにみんなのために頑張るアンパンマンの勇気ある姿を見て、りんごぼうやは、恰好良いだけでない真のヒーローとは何かに気付くのである。大切な”ふるさと”を守るため、アンパンマンとばいきんまん達も力を合わせて戦う。みんなの願いはとどくのだろうか・・・。映画は、「望郷と故郷の再建」をテーマとした内容になっている。
昨2013(平成25)年4月には我が地元神戸市のハーバーランドに「神戸アンパンマン子供ミュージアム&モール」がオープンした.。
阪神・淡路大震災以降、客が減りつ続けていたハーバーランドへの来場者が増えたと聞く。増えた理由はは、このアンパンマン子供ミュージアムの影響大と聞く。うれしいことだ。
神戸アンパンマンこどもミュージアム&モール(神戸市中央区)- YouTube
神戸アンパンマンこどもミュージアム&モール - YouTube
やなせたかしは 、漫画家として国民的ヒーロー・アンパンマンをこの世に送り出したが、年齢的hなものもあるが、私にはそれ以上に偉大な詩人であり、芸術家であったな・・・という印象が強い。
冒頭の画像は、在りし日のやなせ たかし氏。2011年2月朝日新聞インタビュー時のもの。2013年10月16日朝日新聞朝刊より。。
参考:
※1:(社)日本漫画家協会HP
http://www.nihonmangakakyokai.or.jp/
※2:会社員から出発した、やなせたかし94年の人生と作品集-NAVWRまとめ
http://matome.naver.jp/odai/2138209381931941901
※3:アニメラマ三部作
http://columbia.jp/dvd/mushipro/animerama/
※4:アンパンマンショップ(やなせスタジオのHP)
http://www.anpanmanshop.co.jp/
※5:フレーベル館:キンダーブック
http://www.kinder.ne.jp/#header
※6:それゆけアンパンマン
http://anpanman.jp/index.html
※7:アンパンマンに託した夢~人間・やなせたかし - NHKオンライン
http://www.nhk.or.jp/gendai/kiroku/detail02_3423_all.html
※8:アンパンマンとは【ピクシブ百科事典】
http://dic.pixiv.net/a/%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%83%91%E3%83%B3%E3%83%9E%E3%83%B3
※9:やなせさんの“遺言”を季刊誌が掲載―nikkansports.com芸能
http://www.nikkansports.com/entertainment/news/f-et-tp0-20131016-1204891.html
※10:「それいけ!アンパンマン りんごぼうやとみんなの願い」7月5日公開 やなせたかし先生最後のメッセージ | アニメ!アニメ!
http://animeanime.jp/article/2014/02/06/17362.html
ヒョロ松さん・・・今日のことあれこれと・・・
http://blog.goo.ne.jp/yousan02/s/%A5%A2%A5%F3%A5%D1%A5%F3%A5%DE%A5%F3
Template:アンパンマン映画作品 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/Template:%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%83%91%E3%83%B3%E3%83%9E%E3%83%B3%E6%98%A0%E7%94%BB%E4%BD%9C%E5%93%81
やなせたかし記念館
http://anpanman-museum.net/html/prof.html
やなせたかし - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%84%E3%81%AA%E3%81%9B%E3%81%9F%E3%81%8B%E3%81%97
2014年映画「それいけ!アンパンマン りんごぼうやとみんなの願い」公式 ...
http://anpan-movie.com/2014/pc/
社団法人日本漫画家協会代表理事理事長(2000年5月 - 2012年6月)、同代表理事会長(2012年6月 - 2013年10月)を歴任していた。1990(平成2)年に勲四等瑞宝章を受賞、1995(平成7)年には日本漫画家協会文部大臣賞を受賞している(※1参照)。
やなせたかし(本名:柳瀬 嵩)は1919(大正8)年に東京で生まれるが父親が亡くなって後は、父母の郷里である高知県に移住し、高知で旧制中学を卒業後、中学生の頃から絵に関心を抱いて、官立旧制東京高等工芸学校図案科(現・千葉大学工学部デザイン学科)に進学。
卒業後、田辺製薬(現:田辺三菱製薬)宣伝部に就職するが、1941(昭和16)年に出兵。やなせ自身は、従軍中は戦闘のない地域にいたため、一度も敵に向かって銃を撃つこともなかったというが、弟は、特攻兵器・回天の特別攻撃隊要員となり、台湾とフィリピンの間のバシー海峡で撃沈され戦死したそうだ。
終戦後、高知新聞社に入社し、『月刊高知』編集部で編集の傍ら文章、漫画、表紙絵などを手掛けていたが同僚の小松暢(こまつ のぶ)が転職し上京するのを知り、1947(昭和22)年に自らも退職、上京し小松と結婚。
この時期、やなせは漫画家を志していたが、東京での生活がまだ確立されていなかったために、兼業漫画家という道を選び、同年三越に入社し宣伝部でグラフィックデザイナーとして活躍(三越の包装紙「華ひらく」のmitsukoshi文字はやなせの作だという※2参照)、そして1953(昭和28)年三越を退社しに専業漫画家となる。この時が34歳。
やなせは絵本作家・詩人としての活動が本格化する前までは頼まれた仕事はなんでもこなしたといい、編集者、舞台美術家、演出家、司会者、コピーライター、作詞家、シナリオライターなど様々な活動を行っていたようだ。当時の漫画の代表作にはニッポンビール(のちのサッポロビール)のキャラクターとなった四コマ漫画「ビールの王さま」がある(※2参照)。
そんな中、1960(昭和35)年に、永六輔作演出のミュージカル「見上げてごらん夜の星を」(テーマソング「見上げてごらん夜の星を」が坂本九の歌でヒットしたことでも知られる)の舞台美術を手掛けた際に、作曲家のいずみたくと知り合い、翌1961(昭和36 )年に『手のひらを太陽に』を作詞(作曲:いずみたく)。
ぼくらはみんな 生きている
生きているから 歌うんだ
ぼくらはみんな 生きている
生きているから かなしいんだ
手のひらを太陽に すかしてみれば
まっかに流れる ぼくの血潮(ちしお)
ミミズだって オケラだって
アメンボだって
みんな みんな生きているんだ
友だちなんだ
『手のひらを太陽に』。より1番を抜粋(3番まであり)。
この歌にも、やなせの哲学が滲んでいる。同曲は教科書に載るほどのスタンダードな曲ともなっているが、多くの作詞を手がけたやなせ最大の代表作ともなっている。
手のひらを太陽に tiebao - YouTube
その後、いずみたくとコンビを組み「0歳から99歳までの童謡」シリーズ(ここ)を続け、代表作を詩集『こどもごころの歌』として自費出版している。以下でその試聴が出来る。
やなせたかし・いずみたくからの歌のおくりもの 「0歳から99歳までの童謡」
又、1969(昭和44)年、虫プロダクションの劇場アニメ『千夜一夜物語』(大人のためのアニメーション。「アニメラマ-3部作」の一。「アニメラマ-3部作」については、※3を参照)制作の際に、エロチック路線を求めていた手塚治虫は、やなせの漫画を気に入り美術監督として招き入れたという。
同作がヒットしたお礼として、手塚は、やなせが1967(昭和42)年に手掛けたラジオドラマ「やさしいライオン」をアニメ映画化し、毎日映画コンクールの大藤信郎賞を受賞。同作はやなせの代表作のひとつとなっており、後にフレーベル館より絵本にもなっている(※4のここ参照)。以下では、アニメ映画の一部が見られる。
やさしいライオン - YouTube
このようなメルヘン童話の作り手であったことでも知られているやなせは、この頃、まだ、大人漫画を描く漫画家が中心の団体「漫画集団」に所属していた。
そんな時、NHK総合テレビで放送されていた児童向け番組 『まんが学校』が、1964(昭和39)年4月から1967(昭和42)年3月まで3年間放映された。
今の日本のマンガブームの時代では、子供も)大人も普通にマンガを読んでいるが、60年代はまだ少年マンガというのは一種の「ブーム」であり、親や家によっては読むのを禁じられたりもしていた。
そうしたブームを踏まえての番組だったが、当時のお堅いNHKがまず民放より先に、こういう番組を作ったのが面白い。
司会は、落語家の故立川談志)で、やなせは「漫画指導」という講師役の立場で毎回出演していたが、この出演をきっかけに、大人漫画から子供漫画の方へ変わっていったようだ。
1973(昭和48)年には、雑誌『詩とメルヘン』(ここ参照)を立ち上げ長く編集長を務めたが、このメルヘン童話にはとりわけ思い入れがあったようで、自分が作ったメルヘン作品の中でも「『やさしいライオン』がなければ、アンパンマンは生まれなかったと思う」と述べていたことが、やなせスタジオのHPの中で紹介されている(※4のここ参照)。
又、『詩とメルヘン』の編集長を務める一方で、「漫画家の絵本の会」という同人サークルを立ち上げるなど、詩人・絵本作家としての活動を本格化させた。
アンパンマン誕生のきっかけは、1973(昭和48)年にフレーベル館より刊行された幼稚園・保育園向けの月刊絵本『キンダーおはなし絵本』(※5参照)であり、「あんぱんまん」というタイトル
上掲がその時の『あんぱんまん』である。
しかし、もともとのアンパンマンの原型作品は、『PHP』という雑誌に連載されていた(大人向けの)短編童話『こどもの絵本』(単行本のタイトルは『十二の真珠』)の中の一つ(第10回連載「アンパンマン」10月号)であった。
この時の主人公のアンパンマンは顔がパンとは違い普通の人間であるなど現在と大きく異なる設定が幾つか見られるが、空腹の人のところにパンを届けるという骨子は同一だった。
しかし、主人公アンパンマンの、小太りで不格好な姿には当時、流行し始めていた仮面ライダーやウルトラマンなどの正義のヒーローへの疑問と反発が込められていたとする専門家もいるようだが、京都国際マンガミュージアム 学芸室員 倉持佳代子さんは、以下のように言っている。
「(一般的なヒーローは)マント一つ汚さずに飛び去っていく。壊した町も、どうなったのか分からない。そういうヒーローって、本当の正義なんだろうか。
本当におなかがすいて困って、一人ぼっちで寂しくてって言う人のところには、そういうヒーローは、なぜか現れない。誰をいったい助けているんだろう、そういう疑問があって、それでアンパンマンを思いつかれたんだろうと思います。」・・・と(※7参照)。
そして、このアンパンマンを発展させたキャラクターとして、『キンダーおはなし絵本』には、茶こげたマントに身を包み、あんパンでできた頭部を持つ「あんぱんまん」が登場することになった。
この絵本の『あんぱんまん』は、ひらがなで表記されていたが、それは幼児向け作品であり、カタカナ書きでは違和感があったからだというが、1975(昭和50年)には、キャラクター名を片仮名に変更した続編の絵本『それいけ!アンパンマン』が出版されている。
ここでも主人公のアンパンマンは格好のわるい正義のヒーローだ。得意技のアンパンチ(※8参照)で、バイキンマンをやっつけるが、相手が倒れるほど徹底的には痛めつけない。そして、お腹がすいた子供に自分の顔をちぎって食べさせヨレヨレになる。
「声高に語る正義は嘘くさい」「正義も悪もない。唯一ある正義はひもじい者に食わせることだ」。
飢えた人を助ける新ヒーロー誕生の裏には、飢餓に直面した自身の戦争体験があったようだ。先にも書いたように、やなせは、1941年に入隊し中国大陸で戦争を迎えた。代表作の『手の平に太陽を』の「ミミズだって オケラだって アメンボだって みんな みんな生きているんだ 友だちなんだ」の歌詞は、、戦争で得た死生観に裏打ちされたものだと言われている。
24歳で中国に出征したやなせは、飢えに苦しみながらも、戦争の正義を信じて戦ったことだろう。ところが、敗戦を境に、自分たちの信じた正義は一変し、悪魔の軍隊と呼ばれるようにもなった。
今放送中のNHK連続テレビ小説「花子とアン」でも、敗戦後に、親友であった蓮子から「息子の純平を戦地に送り戦死させたのは戦時中に子供向のラジオ放送で、子供たちを戦争に駆りたてたからだとヒロインの花子が責められ、又、親友の朝市も戦時中に学校で子供を戦争に駆り立てる教育をした。そして、花子の兄吉太郎も憲兵などしていた自分に生きる資格はないとそれぞれが悩んでいた。
やなせも軍人として戦争を経験し、死にはしなかったものの食べるものがなく飢えには苦しんだようだ。地域によっては飢えた兵隊が死んだ人の肉だって食べたという話を聞いたことがある。
先の戦争では内地に残っていた銃後の国民の方がつらい目にあった人の数は圧倒的に多い。戦火に合わなくてもは飢えに苦しんだ。
戦争に正義の為の戦いなどない。正義は或る日突然逆転する。A国にとっての正義がB国にも正義だとは限らない。正義は信じがたいものなのだ。「声高に語る正義は嘘くさい」「正義も悪もない。唯一ある正義はひもじい者に食わせることだ」・・。これが飢餓に直面した戦争から体験したやなせの哲学となったのだろう。
そうだ!嬉しいんだ生きる喜び
たとえ胸の傷が痛んでも
何の為に生まれて 何をして生きるのか
答えられないなんて そんなのは嫌だ!
今を生きることで 熱いこころ燃える
だから君は行くんだ微笑んで。
そうだ!嬉しいんだ生きる喜び
たとえ胸の傷が痛んでも。
嗚呼アンパンマン優しい君は
行け!皆の夢守る為
上掲は「アンパンマンのマーチ 」(1番抜粋)。歌は以下で聞ける。
アンパンマンマーチ -YouTube
「アンパンマンのマーチ」は、テレビアニメ『それいけ!アンパンマン』のオープニングテーマ曲として放送開始以来変わらず使用され続けており、『それいけ!アンパンマン』関連のほぼ全てのアルバムにも収録されている。また、最近の童謡として親しまれている。
しかし、この歌、小さな子供には少々難しすぎる気もするのだが・・・。
これに対して、やなせは「子供に容赦する必要はないというのがぼくの持論。だから、『あんぱんまん』のテーマー曲に『何の為に生まれて 何をして生きるのか』という哲学的な歌詞を入れた」・・と言っているそうだ。この歌の問いかけこそがやなせの人生のテーマーでもあり、以下の様にも言っているとも・・・。
「生きていることが大切なんです。今日まで生きてこられたなら、少しくらいつらくても明日もまた生きられる。そうやっているうちに次が開けてくるのです。」・・と。
東日本大震災が発生した時には、その直後から、被災地支援を続けた。ラジオで繰り返し、「アンパンマンのマーチ」が流れ、被災地の子供達からアンパンマン宛ての手紙が届いたという。
やなせ自身は、アンパンマンのヒットの時期から既に体調は必ずしも良好ではなく、60歳代末期には腎臓結石、70歳代には白内障、心臓病、80歳代には膵臓炎、ヘルニア、緑内障、腸閉塞、腎臓癌、膀胱癌、90歳代には腸閉塞(再発)、肺炎、心臓病(再発)と病歴を重ねていたようで、震災のあった2011年春には、視界もぼやけてきたことを理由に周囲には、漫画家引退の考えを告げていたようだが、「引退はやめた。死ぬまで現役だ」と宣言。
「ああアンパンマンやさしい君はいけ、みんなの夢まもるため」と書いたポスターを配ったという。
岩手県陸前高田市の奇跡の「一本松」には特に暑い思いを抱いていたようであり。枯死した一本松保存の為に1千万を寄付。自ら作詞・作曲した歌「陸前高田の松の木」には、こんな歌詞がある。
「ぼくらは生きる。負けずに生きる。生きていくんだ オー オー オー」・・・。
そういえば、NHK総合テレビ『爆笑問題のニッポンの教養』に出演したやなせが、ぬいぐるみで埋め尽くされたアンパンマン部屋で爆笑問題(太田光・田中裕二)を相手に、この歌を大きな声で熱唱していたのを思い出した。以下でそのシーンが見れる。
「陸前高田の松ノ木」やなせたかしSings~IMG
震災の翌・2012(平成24)年6月の日本漫画家協会賞の贈賞式を最後に、高齢と体調不良を理由に後任の理事長はちばてつやに譲り、自身は会長に就任した。
、アニメ映画の製作はその後も続き被災地の支援に尽力したやなせは、”復興三部作”と名付けた映画シリーズの制作に着手していたが、その第1作震災からの「復興」がテーマの『それいけ!アンパンマン よみがえれ バナナ島』(第24作)は、2012(平成24)年7月に公開された。
第2作目の「希望」をテーマとした、『それいけ!アンパンマン とばせ! 希望のハンカチ』(第25作)は、2013(平成25)年7月に公開された。
この舞台挨拶では、「なんとか今のところは死なないでいるんだけど、まもなくだね。病院からはあと2~3週間しか生きられないって言われてる」「死ぬ時は死ぬんだよ。笑いながら死ぬんだよ。そうすれば映画の宣伝になる。死ぬまで一生懸命やるんだよ」と笑いながら語っていたという。
しかし、2013(平成25)年8月に体調を崩して入院し、同年10月13日、心不全のため94歳で死去してしまったが、その6日後の10月19日にやなせの遺作の詩を掲載した季刊誌『誌とファンタジー 24号』が発売された。
やなせは、入院して闘病中だった9月、遺言のようにも読める誌3編を編集者に託していたという。
「一世紀近く生きてきましたから、もう、おしまいです。・・・・ぼくは、未熟の生まれ 死ぬ時も 未熟のままで かえって かえって よかったような気もします」
同誌巻頭の「編集前誌」は、宙を舞う天子のイラストが添えられていた。
上掲の画像は、季刊誌『誌とファンタジー 24号』の「編集前誌」(鎌倉春秋社)。画像は2013年10月17日付朝日新聞社海面より。
、
「天命」と題した詩は「もはや 無駄な抵抗はせぬ ゼロの世界へ 消えて行くでござる」とつづり、骸骨に向き合って悠々とした表情の老侍が描かれており、もう一遍の「チャーリー」では「ぼくの人生喜劇 シリーズ ついに全巻の終わり」と喜劇王チャップリンを思わせるイラストが微笑んでいるという。
同誌は、やなせの責任編集で2007年創刊。「今の殺伐とした世の中で必要なのは、抒情の復活だ」と話していたそうだ(※9参照)。
やなせが生前に公開できなかった「復興三部作」のラストを飾る「それいけ!アンパンマン りんごぼうやとみんなの願い』 が公開されたのは、今年・2014(平成26)年7月5日のことであった。
上掲の画像は『りんごぼうやとみんなの願い』 の映画のチラシ。
同映画は、やなせによる最後の絵本『アンパンマンとりんごぼうや』が原作。キャッチコピーは「みんなの“ふるさと”は、ぼくが守るよ!」。
この映画には、やなせが最も伝えたかったことが込められている。映画チラシには2種類あるがその説明には以下のように書かれている。
格好いいヒーローに憧(あこがれ)るりんごぼうやの”ふるさと”アップルランド。ある日突然、アップルランドのりんごが何者かに毒りんごにされてしまう。大切な”ふるさと”を守るため”魔法の種”を探すアンパンマンとりんごぼうや、途中、困難にぶつかりながらも諦めないアンパンマンの勇気ある姿を見て、りんごぼうやは、真のヒーローとは何かに気が付く。
途中、アンパンマンと一緒にリンゴちゃんの心を込めたリンゴ作りを手伝ったり、困った人を助けて「ありがとう」と云われると、心の中がぽかぽかすることを知る。
困難にぶつかりながらも決して諦めずにみんなのために頑張るアンパンマンの勇気ある姿を見て、りんごぼうやは、恰好良いだけでない真のヒーローとは何かに気付くのである。大切な”ふるさと”を守るため、アンパンマンとばいきんまん達も力を合わせて戦う。みんなの願いはとどくのだろうか・・・。映画は、「望郷と故郷の再建」をテーマとした内容になっている。
昨2013(平成25)年4月には我が地元神戸市のハーバーランドに「神戸アンパンマン子供ミュージアム&モール」がオープンした.。
阪神・淡路大震災以降、客が減りつ続けていたハーバーランドへの来場者が増えたと聞く。増えた理由はは、このアンパンマン子供ミュージアムの影響大と聞く。うれしいことだ。
神戸アンパンマンこどもミュージアム&モール(神戸市中央区)- YouTube
神戸アンパンマンこどもミュージアム&モール - YouTube
やなせたかしは 、漫画家として国民的ヒーロー・アンパンマンをこの世に送り出したが、年齢的hなものもあるが、私にはそれ以上に偉大な詩人であり、芸術家であったな・・・という印象が強い。
冒頭の画像は、在りし日のやなせ たかし氏。2011年2月朝日新聞インタビュー時のもの。2013年10月16日朝日新聞朝刊より。。
参考:
※1:(社)日本漫画家協会HP
http://www.nihonmangakakyokai.or.jp/
※2:会社員から出発した、やなせたかし94年の人生と作品集-NAVWRまとめ
http://matome.naver.jp/odai/2138209381931941901
※3:アニメラマ三部作
http://columbia.jp/dvd/mushipro/animerama/
※4:アンパンマンショップ(やなせスタジオのHP)
http://www.anpanmanshop.co.jp/
※5:フレーベル館:キンダーブック
http://www.kinder.ne.jp/#header
※6:それゆけアンパンマン
http://anpanman.jp/index.html
※7:アンパンマンに託した夢~人間・やなせたかし - NHKオンライン
http://www.nhk.or.jp/gendai/kiroku/detail02_3423_all.html
※8:アンパンマンとは【ピクシブ百科事典】
http://dic.pixiv.net/a/%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%83%91%E3%83%B3%E3%83%9E%E3%83%B3
※9:やなせさんの“遺言”を季刊誌が掲載―nikkansports.com芸能
http://www.nikkansports.com/entertainment/news/f-et-tp0-20131016-1204891.html
※10:「それいけ!アンパンマン りんごぼうやとみんなの願い」7月5日公開 やなせたかし先生最後のメッセージ | アニメ!アニメ!
http://animeanime.jp/article/2014/02/06/17362.html
ヒョロ松さん・・・今日のことあれこれと・・・
http://blog.goo.ne.jp/yousan02/s/%A5%A2%A5%F3%A5%D1%A5%F3%A5%DE%A5%F3
Template:アンパンマン映画作品 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/Template:%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%83%91%E3%83%B3%E3%83%9E%E3%83%B3%E6%98%A0%E7%94%BB%E4%BD%9C%E5%93%81
やなせたかし記念館
http://anpanman-museum.net/html/prof.html
やなせたかし - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%84%E3%81%AA%E3%81%9B%E3%81%9F%E3%81%8B%E3%81%97
2014年映画「それいけ!アンパンマン りんごぼうやとみんなの願い」公式 ...
http://anpan-movie.com/2014/pc/