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白蓮事件

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白蓮事件」とは、大正時代に福岡の炭鉱王・伊藤伝右衛門の妻で、歌人として知られる柳原白蓮(本名伊藤子[あきこ])が、滞在先の東京で出奔し、愛人の帝国大学(現東大)を卒業したばかりの弁護士宮崎龍介と駆け落ちした事件である。

「虚偽を去り真実に就く時が参りました。依って此の手紙により私は全力をあげて女性の人格的尊厳を無視するあなたに永久の決別を告げることにいたします」

1921(大正10)年の10月20日付「大阪朝日新聞」夕刊に掲げられた「絶縁状」の一部である(『朝日クロニクル 週刊20世紀』女性の100年より)。
新聞紙上で伝右衛門の妻白蓮から夫への絶縁状が公開されたことに対して、夫・伝右衛門からも反論文が掲載されるなど、マスコミのスクープ合戦となり、センセーショナルに報じられ、「女性解放」を叫ぶ大正デモクラシーを背景に、当時賛否両論の大論争を巻き起こした。

白蓮事件と言っても分からなかった人でも、先月までNHKの朝ドラ『花子とアン』の中で、主人公のはな(村岡花子)の修和女学校時代からの「腹心の友」である蓮子が仕事のために上京する夫の伝助に同行し、隙を見て宿から抜け出し、宮本と駆け落ちをし、翌日、伝助に宛てて「絶縁状」を書き宮本に郵送を頼むが、その絶縁状は彼女の意に反して新聞に公開される・・・といった内容があったのは覚えているだろう。
この部分は、実際にあった「白蓮事件」を題材にしたものであり、テレビで、仲間由紀恵演じる葉山蓮子は柳原 白蓮を、吉田 鋼太郎演じる九州の炭鉱王・嘉納伝助は、伊藤伝右衛門を、大和田健介演じる蓮子の愛人・宮本純平は宮崎龍介をモデルにしたものである。
NHKのドラマ『花子とアン』は、『赤毛のアン』に代表されるモンゴメリなどの英米児童文学の日本語訳版を著し、明治から昭和の混乱期に翻訳家として活躍した実在の村岡花子(主演:吉高由里子)の半生をもとにしたテレビドラマであるが、もう一つの物語の軸として仲間演じる葉山蓮子の人生がクローズアップされ、第5週、第6週では蓮子がヒロインとなる扱いを受けている。
これにより、彼女のモデルとなる柳原白蓮の生涯を小説にした『白蓮れんれん』(林真理子著※1参照)が注目を浴び品切れ店が続出し、柳原白蓮が2度目の夫・伊藤伝右衛門と10年間暮らした旧伊藤伝右衛門邸(※2、※3参照)へ多くの観光客が詰めかけるなどの現象が生じているという。
私も、同ドラマを毎朝楽しみにして見ていたが、同ドラマの主役である村岡花子の生涯よりも、むしろ、花子とともに激動の時代を生き抜いた「白蓮事件」の当事者である柳原白蓮や伊藤伝右衛門、宮崎龍介などの人物の生き方の方が、その時代を象徴しており、興味があったことから、ここでは、「白蓮事件」をテーマにこのブログを書いた次第である。

柳原白蓮(本名:宮崎子、旧姓:柳原)は、大正から昭和時代にかけての歌人で、大正三美人の一人に数えられた美貌の持ち主である。(冒頭の画像は柳原白蓮)。
Wikipediaをベースに、伊藤伝右衛門との結婚に至るまでの柳原白蓮(本名:子)の生い立ちを見てみよう。
子の父は藤原北家の流れを汲む公家で、後に伯爵家となった柳原前光大正天皇の生母・柳原愛子の兄).である。したがって、子は大正天皇の従妹(いとこ)にあたる。
ただ、子は、父・前光が華やかな鹿鳴館で誕生の知らせを聞いたことから「子」と名付けられ、前光の正妻・初子の次女として入籍されているが、生母は初子ではなく前光の妾のひとりで、柳橋芸妓となっていた奥津りょうであった。
しかし、りょうは柳橋の芸妓とはいえ、その父は幕末の外国奉行でもあった新見正興という没落士族幕臣)であり、それ相当の家柄の出身である。
江戸幕府崩壊後、武士の権力も失われた時代、生活も困窮し、生きてゆく為に母親のりょうは、その美貌を売り物に芸妓になるしか方法はなかったのだろう。りょうは18歳で子を出生後、7日目には子を柳原家の正妻・初子に預けた後、病気がちになり、子の顔を見る事もかなわないまま子3歳の時に病死しているという。
その後、初子のもとで華族の娘としてしつけられ、9歳で遠縁にあたる子爵・北小路隨光(きたこうじ よりみつ)の養女となる。
北小路家は夫婦の間の子がいずれも早世したため、父・前光の弟が養子となっていたが、隨光が女中に男子(資武)を生ませた事から養子関係が解消となり、その代わりに資武の妻にする条件での養子縁組であったという。
北小路家は経済的には苦しかったようだが、養父の隨光により和歌の手ほどきも受け、13歳で華族女学校(現・学習院女子中等科)に入学。
しかし、思春期の盛りで子が他の男と同席するだけで嫉妬して暴力をふるう事もあったという7歳年上で知的障害があったともいわる資武が、結婚相手である事などそれまで知らなかった子は結婚を急がせる養父母に泣いて嫌だと抗議するが聞き入れられず、結局、華族令とそれを元に定められた柳原家範という法の管理下にあった子に選択の余地はなく、結婚を承諾させられ、間もなく妊娠した子は女学校を退学。
1900(明治33)年、北小路邸で質素な結婚式が挙げられ、翌1901(明治34)年、15歳で男子(功光)を出産している。

●上掲の画像は北小路家時代、16歳の子。
出産後、北小路家縁の京都へ一家で引っ越すが、友人も居ない京都で、子の養育は久子に取り上げられ、幼い同級生と子供のように遊びながら家で女中に手を付ける夫とは夫婦の愛情も無く、子は孤独を深めるばかりであった。
結婚から5年後、子の訴えにより事情を知った柳原家と話合いが持たれ、1905(明治38)年、子供は残す条件で離婚が成立し、20歳で実家に戻った。
しかし、子は「出戻り」として柳原家本邸へ入れてもらえず、母・初子の隠居所で監督下に置かれ、門の外に一歩も出る事のない幽閉同然の生活となる。挨拶以外にほとんど誰とも口をきかない生活の中、義理の姉・信子の計らいで古典や小説を差し入れてもらい、ひたすら読書に明け暮れる日々が4年間続いた。
その間、再び子の意向と関わりなく縁談が進められ、結納の日取りまで決められるが、子は家を飛び出し、乳母の家に走ったが、乳母は子の幽閉中に死去していた。そんな子を信子が庇い、柳原家の家督を継いでいた兄・義光夫妻の元に預けられる。
1908(明治41)年、兄嫁・花子の家庭教師が卒業生であった縁から、東洋英和女学校(現・東洋英和女学院高等部)に23歳で編入学し、寄宿舎生活をおくる事となる。
この頃、信子の紹介で佐佐木信綱主宰である短歌の竹柏会に入門。このころから本格的に短歌の創作に打ち込むようになったようだ。
最初の結婚で華族女学校の中退を余儀なくされた子には、再び学ぶことができる幸せな学園生活であったようだ。女学校ではずっと年下の生徒達とも打ち解け、中でも後に翻訳者となる村岡花子とは親交を深め、「腹心の友」となり、信綱を花子に紹介しているという。
NHK朝ドラ『花子とアン』で「修和女学校」となっているのが、「東洋英和女学校」のことであるが、ドラマでは、修和女学校時代の暗い子を花子がかばうような感じで描かれていたが、何か真実とは逆の様である。また、子はここで、慈善事業に関心を持つなど見聞を広めた。

子は1910(明治43)年3月、東洋英和女学校を卒業。11月、上野精養軒で子と九州の炭鉱王・伊藤伝右衛門との見合いが行われた。
仲介者は西郷従道の義弟の得能通要(西郷従道の妻・清子は、通要の父得能良介の長女で通要の姉。※4参照)と三菱鉱業門司支店長で、柳原家とも関わりがある高田正久で、子は当日、それを見合いだとは知らされていなかったようだ。
見合い当時の伝右衛門は50歳、炭鉱労働者からの叩き上げであり、学問はなく、妻を亡くした直後であった。
話は当事者を抜きに仲介の人々によって早々にまとめられたという。
親子ほどの年齢差・身分・教養ともあまりに不釣り合いであり、日の出の勢いの事業家で富豪とはいえ、労働者上がりで地方の一介の炭鉱主が「皇室の藩塀(ばんぺい。国家・王室を守る壁・者)」たる伯爵家から妻を娶るのは前代未聞の事で、「華族の令嬢が売物に出た」と話題になったという。
異例の結婚に新聞では、柳原家への多額の結納金や媒介者への謝儀、宮内省への運動資金など莫大な金が動いた事が書き立てられたが、その背景には貴族院議員である兄義光の選挙資金目的と、一代で成り上がり、代議士や賞勲など様々な肩書きを得た伝右衛門が、後妻に名門華族の家柄を求めた事があったから・・・と見られているようだ。
25歳で肩身の狭い出戻りの身の子は、年齢差の大きい夫は妻を大切にしてくれる、伝右衛門が女学校を経営しており、その財力で女子教育や社会奉仕ができるという兄嫁の説得を受け入れた。最初の不幸な結婚から離れて、今度こそ平和な家庭を得て本当の愛を受けたい、という思いがあったという。
翌1911年(明治44年)2月22日、日比谷大神宮で結婚式が行われ、帝国ホテルでは盛大な披露宴が行われた。
東京日日新聞では結婚式までの3日間に亘り、2人の細かい経歴等を書いた「子と伝ねむ」というタイトルの記事が連載され、“黄金結婚”と大いに祝福された。
NHK連続テレビ小説『花子とアン』で,、子は、窮乏する伯爵家を救うために嫁に行ったという設定になっていたが、子の父柳原前光の妻初子は、裕福な伊予(愛媛県)宇和島藩主伊達宗城の次女であり、実際には娘を身売りしなければならないほど金に困っていたとは思われない。結婚式を前にした新聞取材に対し、伝右衛門は柳原家や仲介者に多額の金銭を送った記事について否定しているというし、子の兄・義光は不釣り合いな結婚については「出戻りですからな」と答えているそうだから、子が美女であったこと、出戻りとはいえ元公卿の家柄であり、見合いの話を持ってきたのが伝右衛門の仕事に関係する三井鉱山の実力者であったことなどが結婚の本当の理由ではないだろうか。

「金襴鍛子の帯締めながら、花嫁御寮は何故泣くのだろう」

1923(大正12)年、に発表された日本の抒情歌『花嫁人形』(作詞:蕗谷 虹児、作曲:杉山長谷夫、誌は※6参照)。この歌詞は、柳原白蓮がモデルになっているという説もあるようだが、実際にはどうなのだろうか?私には少々疑問があるのだが・・・。

●上掲の画像は、1911(明治44)年3月、伊藤伝右衛門と柳原子・結婚写真。
明治、大正、昭和にかけて福岡県中部の筑豊地域は当時石炭エネルギー供給地日本一の場所であった。 当時「筑豊御三家」と呼ばれた家は麻生、貝島、安川であった。
麻生の麻生太吉(第92代内閣総理大臣、現:、副総理兼財務大臣、金融担当大臣の麻生太郎の曽祖父)は庄屋・安川の安川敬一郎は下級武士・貝島の貝島太助は貧農から炭鉱夫を経て実業界に身を投じた。
出身の違いはあれど、三者とも埋蔵されていた明治初年の筑豊炭田採掘から身を起こし、それで蓄えた財産を元手に政界への進出や他の産業への経営・投資を行ったことで共通している。
安川は主家の黒田家を背景とし、敬一郎は、元帥海軍大将子爵井上良馨の娘の秀子を妻としている(※5参照)。
貝島は政治家井上馨を顧問格として迎えた上で、鮎川義介日産コンツェルン創始者)と縁戚関係(太助の四男貝島太市が義介の妹フジと結婚。)にあった。
また鈴木幸夫著『閨閥 結婚で固められる日本の支配者集団』(1965年)58頁によると、「もともと麻生家は、福岡の土豪である。麻生太賀吉の祖父・太吉の代に、祖父伝来の土地から、石炭を発見、貝島炭鉱の貝島太助から事業上の手ほどきを受けた。 また貝島の紹介で、井上馨候に接近、採掘権などの法的手続きを有利にし、ついに九州三大石炭財閥の一つにのしあがった。」という。
そして麻生太賀吉は吉田茂の娘婿となった。その長男が太郎であり、寛仁親王妃信子は太郎の実妹であるから、仁親王は、麻生太郎の義弟にあたる。
この筑豊御三家に続いたのが、蓮子を後妻にした福岡の炭鉱王、伊藤伝右衛門である。

日本には古来皇室を中心にした政略結婚が広く行われ、天皇の外戚になることによって権力を行使する摂関政治といった政治形態が成立していた。
また、武家政権が成立してからも、武家同士、あるいは武家と公家との間の政略結婚は広く行われた。前者の場合、勢力の保持、増大が目的であり、後者では勢力の補完に主眼がおかれているといえる。江戸時代には武家と公家との間の婚姻が将軍家と有力大名家、天皇家と宮家、摂家などの有力公家との間に盛んに行われ、それぞれの影響力の補完が行われた。
明治時代に入ると、華族制度が成立した。華族には公家華族、大名華族、勲功華族などあり、それぞれが格式や実力などに強み弱みがあったため、それぞれを補完するための通婚が行われた。また華族は皇室の藩屏なので当然、天皇家、宮家を巻き込んだものとなった。
富国強兵殖産興業の結果現れた資本家や高級官僚も格式や政治力を得るために華族との通婚を望み、経済的、政策的な支援が期待できることから華族も資本家や高級官僚との婚姻による関係強化を望んだ。そのような閨閥づくりは今の時代でも形を変えて粛々とおこなわれている。
第二次世界大戦後、華族制度は廃止されたため、政・財・官の分野で有力な一族の間での通婚が盛んに行われ、各々の影響力を保持、強化に努めるようになった(※5参照)。
身分が低く、幼少時から苦労に苦労を重ねて成功し、筑豊御三家に続く福岡の炭鉱王とも呼ばれるようになった伊藤伝右衛門が、蓮子のような美しく、そして身分の高い女性を妻に出来るのならしたいと考えたとしても、至極当然なことであっただろう。

伝右衛門は子を迎え入れる為、福岡県嘉穂郡大谷村大字幸袋(現飯塚市)の旧伊藤邸(本邸)は贅を尽くした大改築が行われた。そして、敷地面積約2300坪という敷地に、部屋数25という広大な家屋を設けた。しかも、その内部は京都からわざわざ宮大工を呼んで技を尽くさせたという。
特に二階の子の居室には、竹の節だけを残した欄間(らんま)や銀箔を張った襖など驚くような技法を使い、子好みに仕上げており、また、天井に結界を設け、平民はこれを境に立ち入り禁止にするなど、伝右衛門は子に精一杯気を遣っていたようだ(※2参照)。
この縁談で子の興味を惹いたのは伝右衛門が建てたという女学校であった。
子供の時に北小路家に引き取られ、若い結婚と悲惨な失敗、離婚の傷心と出戻りという立場。鬱屈した彼女の慰めは詩作であり、東洋英和女学校での勉学であった。
だから子は、伝右衛門が女学校を持っていると聞き、女学校時代の束の間の青春を思い出し、女学校運営を再婚生活の希望にしたいと考えていた。
赤貧から一代で身を起こせたのも、己一人の力ではないと、得た利益を地域社会に還元するのは当然だと、貧乏な郡の財政に代わって女学校を建ててやっていたが、伝右衛門自身女子教育に関心があったわけではなかった。そのため、女学校設立の費用全額を寄付し、女学校の運営を、伊藤家は一切放棄していたため、夢見ていた女学校の経営は叶えられず、子はがっかりしたことだろう。
そのうえ、子は、伊藤家の複雑な家族構成を知らされる。前妻との間に子供がいないと聞かされていた伝右衛門には、妾との間に小学6年の実娘・静子がいた。養嗣子として妹の子供で大学生の金次、その弟で小学1年の八郎がおり、父の伝六が妾に生ませた異母妹にあたる女学生の初枝や母方の従弟などもそこで暮らしていた。伝右衛門は若い頃の放蕩が過ぎて子供ができない身体であり、子は実子を持つ事が出来ない不安定な立場で、大勢の使用人・女中・下男も暮らす複雑な大家族の女主人となった。
それまで派手な女遍歴があった伝右衛門だが、子との結婚にあたり、長年に亘る妾のつねと別れるなど身辺整理はしていたが、女中頭のサキは家中を切り回すために必要として家に置いており、妾の立場で家を取り仕切るサキと、子は激しく対立する。
このような正妻と妾を同居させるというようなことは、いくら男尊女卑の時代とはいえ、少々非常識と言わざるをえないが、それは、伝右衛門の粗野や無神経のためというより、幼少時の一家離散のトラウマのためであったかもしれない。しかし、これでは、伝右衛門は幸せでも、子はたまったものではなかっただろう。
それでも、子はまず家風の改革に取り組み、伝右衛門も、又、食事や言葉遣いといった家風改革や子供の縁組みなど子の希望を出来る限り受け入れた。子の世話で1915(大正4)年には娘の静子の婿養子に堀井秀三郎(赤穂浪士・片岡源五右衛門の子孫)を迎え、1918(大正7)年には異母妹である初枝の婿養子に山沢静吾男爵の子息・鉄五郎を迎えた。そして、大正鉱業の二代目を継いだ養子の八郎は、妻を子の縁者にあたる冷泉家から迎えている。

●上掲の画像1914年(大正3年)頃、子と11歳の八郎
そんな歪んだ結婚生活の懊悩・孤独を子はひたすら短歌に託し、竹柏会の機関誌『心の花』に発表し続けた。師である佐佐木信綱は、私生活を赤裸々に歌い上げる内容に驚き、本名ではなく雅号の使用を勧め、信仰していた日蓮にちなんで「白蓮」と名乗ることになったという。そして、1911(明治44)年、『心の花』6月号で「白蓮」の号を初めて使用する。
和歌など無縁なものであった伝右衛門だが、伊藤家の農園で子が中秋名月の歌会を開いた時には、その席に出て客の接待に当たった事もあったという。また福岡市天神町と別府市山の手に、後には「あかがね(赤銅御殿)御殿」(屋根に赤銅が葺 かれていた)と称された豪奢な別邸を造営して歌人として自由に活動させ、歌集の出版資金を出したりもしている。子も又、病に倒れた伝右衛門の看病もしたといわれているし、また、筑豊疑獄事件(※8参照)に伝右衛門がかかわると、子は贈賄側の証人として出廷し伝右衛門を弁護する優しい面もあったようだ。
公の場に表れた事で話題となり、大阪朝日新聞が「筑紫の女王子」というタイトルで連載記事を載せたことがきっかけとなり、白蓮が子である事、「筑紫の女王」という呼び方が全国的に知られるようになる。

●1918年4月11日大阪朝日新聞。
話は戻るが『心の花』に作品を発表し始めた白蓮は、1915(大正4)年に第一歌集『踏繪』を自費出版し歌の世界で頭角を現した。

われは此処に神はいづくにましますや星のまたたき寂しき夜なり
われといふ小さきものを天地(あめつち)の中に生みける不可思議おもふ
踏絵もてためさるる日の来(き)しごとも歌反故(ほぐ)いだき立てる火の前

『踏絵』は哀愁と情熱とロマンに満ち人々を魅了。白蓮の才色兼備を讃える声は高まるが、『踏絵』という作品を通して、人々は、筑紫(つくし)の果(はて)の父親の様な年上で、無学な鉱夫あがりの成金のもとに、まるで人身御供ように嫁いでいった藤原氏の血を引く娘・・・・、その子は踏絵よりも厳しい刑を受けているような哀れな存在として受け止められるようになったようである。
同じ佐佐木信綱の竹柏園に通って古典を学んだ長谷川時雨が『美人伝』の中で、「柳原子(白蓮)」について書いたものがある。以下参考の※7:「青空文庫」のここ参照)
孤立を深めた子は、伊藤家の外に世界を求めたが、福岡天神の別邸は、実際には、利用していなかったようだが、1916(大正5)年に建築された大分・別府の別邸では白蓮を中心にサロンが形成され、竹久夢二高浜虚子など著名な文学者らがたびたびこの地を訪れた。
『踏絵』に続き、1919(大正8)年3月、詩集『几帳のかげ』・歌集『幻の華』刊行。
別府の別荘を訪れた菊池寛が、1920年(大正9年)に出版した『真珠夫人』(※7:「青空文庫」参照)は子がモデルと言われ、ベストセラーになっている。
白蓮が同年戯曲『指鬘外道(しまんげどう)』を雑誌『解放』に発表。これが評判となって本にする事になり、打ち合わせのために1920(大正9)年1月31日、『解放』の主筆で編集を行っていた宮崎龍介は、たまたま九州出身であった事から、同誌の執筆者である白蓮との打ち合わせのため、別府の伊藤家別荘を訪れた。
龍介は子より7歳年下の27歳。日本で孫文(孫逸仙)(、辛亥革命を起こし、「中国革命の父」、中華人民共和国と中華民国では国父と呼ばれる>宮崎滔天の長男で東京帝大学法科の3年に在籍しながら新人会(東大を中心とする学生運動団体)を結成して労働運動に打ち込んでいた。
新人会の後ろ楯となったのが吉野作造ら学者による黎明会であり、『解放』はその機関誌であった。
勉学に勤しむ暇もなく炭坑一筋で続けてきた無学の伝右衛門と比べ、東大出のインテリで、両親共に筋金入りの社会運動家の血を引き、時代の先端を走る社会変革の夢を語る龍介は、子がこれまで出会った事のない新鮮な思想の持ち主であり、心惹かれるようになり、事務的な手紙の中に日常の報告と恋文が混じる文通が始まり、次第に龍介との逢瀬を持つようになる。
やがて龍介の周囲で子との関係の噂が広まり、華族出身のブルジョワ夫人との恋愛遊戯など思想の敵として、1921(大正10)年1月に龍介は『解放』の編集から解任され、4月には新人会を除名された。この事は子の心を一層龍介に傾かせたようだ。
そして、1921(大正10年)年8月、京都での逢瀬で子は龍介の子を(みごも)ったことを知る。早急に竜介は新人会時代の仲間である朝日新聞記者の早川次郎」や赤松克麿らに相談して、子出奔の計画がねられ、子は、10年間生活をした伊藤家を出奔し竜介と駆け落ちをする。そして、10月22日、大阪朝日新聞は子の家出を報じ、同夕刊に『子の絶縁状』を掲載した。

●上掲の画像は、1921年(大正10年)10月、事件当時の柳原白蓮と宮崎龍介。
そこには、10年もの間の愛のない結婚、伊藤家の複雑な家庭事情、伝右衛門と女中との不穏な関係など、子が結婚以来受けていた苦痛を暴露する内容がが連綿と綴られていた。
伯爵家生まれの白蓮の2度目の結婚は金の為という噂があったが、みずからその結婚を否定して「愛する人」と生きることを宣言したのだから、当の妻から絶縁状をでかでかと掲載された男の驚きは想像を絶するが、世間の人々もあっとのけぞたことだろう。
その3日後、同年10月25日から28日までの4日間、「大阪毎日新聞」に掲載されたのが、「絶縁状を読みて子に与ふ」という伊藤伝右衛門の反論文である。この『子の絶縁状』と、伝右衛門の反論文は全文が以下参考※9:「絶縁状と白蓮事件」に書かれている。
その伝右衛門の反論文『絶縁状を読みて子に与ふ』には、
「子!お前が俺(わし)に送った絶縁状というものはまだ手にしていないが、もし新聞に出た通りのものであったら、随分思い切って侮辱したものだ。見る人によったら、安田は刀で殺されたが、伊藤は女に筆で殺されたというだろう。妻から良人(おっと)へ離縁状を叩きつけたということも初めてなら、それが本人の手に渡らない先に、堂々と新聞紙に現れたというのも不思議なことだ。」
・・と書かれているように、白蓮の絶縁状は伝右衛門に届いておらず、新聞沙汰になるなど知らなかった。
妻には離婚権がなく、姦通罪のあった男尊女卑の時代、華族の身であってみれば縛りはより厳しく、このような道ならぬ恋は命がけであった。
したがって、世間に自由と人権を訴えるために宮崎龍介と友人である赤松克麿と、朝日新聞の早坂記者が一緒になって白蓮が書いた原稿を修飾し、この過激な計画を考え、又、朝日の早坂がスクープ狙いで記事を独占し発表したようだ。
その幾重もの縛りを振りほどいて愛人のもとへ走ったこの事件はマスコミでスキャンダラスに報道された。
当時世間の指弾は男をコケにした女に集中したようだが、「日本のノラ(イプセンの戯曲『人形の家』の主人公)」と評価する声もあったようだ。
又、伝右衛門の反論文『絶縁状を読みて子に与ふ』も、伝右衛門自らが書いた文章ではなく、彼が汽車の中で口頭で話した事の経緯を、大阪毎日新聞の記者が興味本位で面白おかしく仕立て上げた文章だったという。伝右衛門の意に沿わぬ形で掲載されていき、当初は全10回の掲載が予定されていたものを、伝右衛門が4回で打ち切ったものだという。この反論文によって伝右衛門は周囲から責められ、伝右衛門自身も苦悩したとのことだが、伝右衛門は親族会議の場で、事件については「末代まで一言の弁明も無用」と固く言い渡したそうだ。
白蓮にしても、伝右衛門にしてもマスコミに踊らされた被害者だと言っていいのではないか。生まれも育ちも、そして親子ほどの年齢差もある全く対照的な二人、御互いに相手を理解しようと努力はしたようだが、上手くゆかなかったということだろう。今の若い世代など性格の不一致だけで離婚なのだから・・・。
いずれにしても、白蓮は、大正時代を生きる人々にとっては、情熱とロマンの象徴でもあったのだろう。なよなよとした風情だが芯は強い。
この事件により、白蓮(子)の兄・柳原義光(異母兄)は貴族院議員を引責辞職するなど柳原家に致命的な痛手をもたらす結果となった。二人も結ばれることなく、子は再び柳原家の監禁の身となり、そこで駆け落ち騒動の最中にできた竜介の子・香織を出産している。
その後、紆余曲折を経て、1923(大正12)年9月の関東大震災をきっかけに、香織と共に宮崎家の人となった子は、それまで経験した事のない経済的困窮に直面することになる。
弁護士となっていた龍介は結核が再発して病床に伏し、宮崎家には父滔天が残した莫大な借金があったという。
復帰後の龍介は、1926(大正15)年に吉野作造・安部磯雄とともに独立労働協会を結成、続いて社会民衆党中央委員となり、1928(昭和3)年11月の第16回衆議院議員総選挙(男子25歳以上の者で実施された最初の男子普通選挙.)に出馬するが、演説会場で昏倒し喀血して絶対安静の身となる。子は龍介に代わって選挙運動の演壇に立ち、色紙を売るなど選挙資金を作って夫を支えたが落選している。

●上掲の画像は1928年、社会民主党から出馬した夫・宮崎龍介の選挙を手伝う子(画像は『朝日クロニクル週刊20世紀』女性の100年より)。 
龍介と結婚後の子は華族を除籍されるが、貧しさの中で母として妻として人間として充実した日々を自分の手で獲得し、二人の子をなしながら文筆業で夫の社会運動を支え、81歳で龍介竜にみとられ没するまで、幸福に暮らしたという。竜介はその4年後の1971(昭和46)年この世を去った(享年78歳)。

冒頭の画像は、柳原 白蓮。
参考:
※1:白蓮れんれん/林真理子のあらすじと読書感想文
http://www5b.biglobe.ne.jp/~michimar/an/0012.html
※2:旧伊藤伝右衛門邸
http://www.kankou-iizuka.jp/denemon/index.htm
※3:炭鉱王・伊藤伝右衛門と筑紫の女王・白蓮が過ごした豪華絢爛な旧邸
http://fff.bi-ki.jp/town/12094/
※4:安川敬一郎 ー旧財閥安川男爵家ー|近代名士家系大観
http://ameblo.jp/derbaumkuchen/entry-11814806329.html
※5:『企業の進むべき道』⑤~閨閥の歴史に迫る その1:政界を牛耳る歴代宰相・政治家~高級官僚閨閥~
http://bbs.kyoudoutai.net/blog/2012/05/1293.html
※6:花嫁人形 歌詞の解説・試聴 - 世界の民謡・童謡
http://www.worldfolksong.com/songbook/japan/hanayome-ningyo.htm
※7:青空文庫
http://www.aozora.gr.jp/
※8:九州の大疑獄事件 - 神戸大学 電子図書館システム
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?METAID=10065077&TYPE=IMAGE_FILE&POS=1
※9:絶縁状と白蓮事件-九州あちこち歴史散歩
http://www.kyushu-sanpo.jp/kanko/fukuoka/byakuren-c/byakuren-c.html
柳原白蓮と白蓮事件
http://yanagiwara-byakuren.hatenablog.jp/
『花子とアン』モデル白蓮 美智子妃ご婚約に猛反対していた
http://ameblo.jp/miminokikoenai/entry-11896649402.html
短歌(1)情熱の歌人 柳原白蓮 生けるかこの身死せるかこの身
http://blog.livedoor.jp/hujikawa516/archives/1541260.html
『花子とアン』も描く白蓮の駆け落ちは朝日新聞の仕込みだった!?
http://lite-ra.com/2014/07/post-247.html
白蓮事件 - Wikipedia
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