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クーベルタン男爵がオリンピックの復活を提唱した日(2-2完)

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1896年ギリシャ・アテネで開催された第1回オリンピックは、期間は、短かったものの大成功に終わった。しかし、1900年のパリ大会・1904年のセントルイス大会は、同時期に開催された万国博覧会の附属大会に成り下がってしまい、賞金つきの競技(1900年パリ大会)、キセルマラソンの発覚(1904年セントルイス)など大会運営にも不手際が目立った(※10:「ロンドン五輪特集:大会で振り返る五輪のニュース」参照)が、1908年のロンドン大会、1912年のストックホルム大会から本来のオリンピック大会としての体制が整いだした。
この1912年5月からのスウェーデンでの第5回ストックホルム大会は、日本が初めてオリンピックに参加した大会であった。
1909年の春、講道館柔道の創始者嘉納治五郎は、突然近代オリンピックの創設者クーベルタン男爵より、東洋初の国際オリンピック委員になり、日本もオリンピックに参加してくれないか・・・という要請を受けた。
オリンピックのスポーツを通して世界平和に貢献する精神に共鳴した加納は、第12回オリンピック大会をしようと尽力することになる。彼は1882(明治15)年に講道館柔道を創始していた。そのころ世界的スポーツの祭典としてアテネで第1回オリンピック大会を開催したクーベルタンの精神は、柔道を普及し、国民体育の向上を根ざす加納の届き、加納は国際オリンピック委員を引き受けた。そこで、加納は、日本最初の体育団体である大日本体育協会(現:日本体育協会)を設立(1911年)して、翌・第1912年の第5回ストックホルム大会に参加したのであった。
この大会には28の国と地域から2490人の選手が参加。15競技108種目が行われた。
日本の出場選手は、共に陸上競技で短距離の三島弥彦とマラソンの金栗四三のわずか2名であった。行列人数が非常に少なく蕭条(しょうじょう。ひっそりとしてもの寂しいさま)の観があったが、かえって群集の同情をひいた・・・・と、日本人記者は報じていたという。
三島は当日午後短距離予選に出場したが、最初の100m予選でいきなりトップに1秒以上の差をつけられ敗退。つづく200m予選は英米独3選手に敗れ最下位。400m予選は100m、200mで金メダルを取ったラルフ・クレイグ(アメリカ)が他選手に謙譲して棄権したこともあり、見事準決勝進出の権利を得たが、「右足の痛み激しきが為」棄権してしまったという。近年の資料では「精神的肉体的困憊のため」あるいは「勝機無しと見たため」を理由に掲げるものの方が多いそうだ。
一方の金栗は10000mを棄権してマラソンに出場。レース途中で日射病で意識を失って倒れ、近くの農家で介抱された。その農家で目を覚ましたのは、既に競技も終わった翌日の朝であったという。
1967(昭和42)年、ストックホルムオリンピック開催55周年を記念する式典が開催されたが、開催に当たって、当時の記録を調べていたスウェーデンのオリンピック委員会が、陸上競技の男子マラソンにおいて金栗が「(棄権の意思が運営者側に届いていなかったため)競技中に失踪し行方不明」となっていることに気付いた。このため、オリンピック委員会は金栗を記念式典でゴールさせることにし、金栗を式典に招待。招待を受けた金栗はストックホルムへ赴き、競技場内に用意されたゴールテープを切った。ゴールの瞬間、場内には「只今のタイムは54年8ヶ月6日5時間32分20秒3、これで第5回ストックホルム大会は総ての競技を終了しました」とのアナウンスが響いたという。これに対して、金栗はゴール後のスピーチで「長い道のりでした。この間に孫が5人できました」とコメントしている。…という。・・・何とも散々な、不名誉な出来事ではある。

話は元に戻るが、1912年のストックホルム大会で、三島 は、金栗の競技が終えると、嘉納団長、金栗と語らって4年後の1916年ベルリン大会での雪辱を誓い、閉会式を待たずに出国、次大会開催国であるドイツに向かった。ここでオリンピック会場などの視察をした後、砲丸や槍などの当時日本ではまだ知られていないスポーツ用品を買い込んで、翌年2月7日に帰国したという。
その1916年ベルリン大会は第一次世界大戦で開催中止となり、8年間の中断期間を経て1920年(大正9年)に、ベルギーで再開された第7回アントワープ大会には、第一次世界大戦の敗戦国であるドイツ、オーストリア、ハンガリー、ブルガリア、トルコは大会に参加することを禁止された。この辺りは、古代オリンピックの精神にそぐわないように思うのだが・・・・。
日本は、2回目の出場となったこのアントワープ大会で、男子テニスのシングルで熊谷一弥が銀メダルを、またダブルスでも熊谷と柏尾誠一郎のペアで銀メダルを獲得。日本人のスポーツ選手として史上初のオリンピック・メダリストを輩出した記念すべきオリンピックになった。
又、このアントワープ大会で初めてオリンピック旗が会場で掲揚され、オリンピック宣誓が行われている。
この大会以降、1924年パリでの2度目となるパリ大会には、選手村の設置・マイクロフォンの使用、第1回冬季大会(フランス・シャモニー大会)の開催(開催の経過は※1のここ参照)があり、1928年アムステルダム大会 より約3週間の開催期間となり、1936年ベルリン大会より聖火リレーが行われるなど、現在のオリンピック大会の基盤となる施策が採用されたが、オリンピックが盛大になり、それを国策に使おうとする指導者も現れ、1936 年のベルリン大会は、ナチス・ドイツの宣伝大会であったと言われている。
尚、この間のオリンピックでの日本の選手の活躍状況を書くと、以下の通りである。
1924年パリ大会では、レスリングフリースタイルのフェザー級で内藤克俊が銅メダルを獲得。日本レスリング史上初のオリンピックメダリストとなった。
1928年アムステルダム大会では、陸上競技・三段跳びで、織田幹雄が、日本人初の金メダリストとなる。また同じ競技に出場した南部忠平も4位に入賞し、人見絹枝が陸上競技・800メートルで銀メダルを獲得している。
1932年大恐慌下で行われたアメリカでの第10回 ロサンゼルス大会は、ヨーロッパから遠隔地だったため、欧州各国からの参加国(37ヶ国)・選手数(1,328人)が激減した。
そうした中、、満州事変の勃発などで国際世論の風当たりの強い日本が192人の大選手団を派遣。悪化するアメリカの対日感情に加えて祖国の期待という重圧。それに耐え選手たちはメダルに挑んだ。その中で、特に大活躍したのが水泳チームであった。
男子競泳で日本勢は金銀銅合わせて12個の、メダルを獲得。
競泳男子では、6種目中400メートル自由形をのぞく5種目を制し金メダルを獲得。背泳ぎでは金銀銅を独占。水泳日本を印象付けた。
陸上競技・男子100メートルで吉岡隆徳が決勝に進出。6位入賞。
陸上競技・三段跳びで南部忠平が15メートル72を跳んで優勝。日本選手が2連覇を果たした。南部は、1931年に走り幅跳びで7m98の世界記録を出していたが、三段跳びは専門外でほとんど練習していなかったというからすごい。
そして、馬術のグランプリ障害飛越競技では、西竹一中佐が金メダルを獲得している。

上掲の画像、向かって左が陸上競技・三段跳びで優勝した南部忠平。右が背泳ぎでメダルを手にした3選手。右から、清川正二(金)、入江稔夫(銀)、河津憲太郎(銅)。画像は『朝日クロニクル週刊20世紀』1931-32年号より。

そして、 ドイツヒトラー総統の開会宣言で始まった1936 年の第11回ベルリン大会では、参加国も49か国、3959人の選手が出場したが、ここでも日本選手は大奮闘。
陸上競技・三段跳びで、田島直人が優勝し日本人がこの種目3連覇を果たす。また、原田正夫が2位に入り、日本人が1、2位を独占。
陸上競技・棒高跳びで、激闘の末、西田修平大江季雄が2、3位に入賞。
当時日本の占領下にあり、日本代表として出場した朝鮮出身の孫基禎がマラソンで優勝。
水泳では、男子競泳で金メダルを3個獲得。200メートル平泳ぎは三段跳びと同じくオリンピック3連覇となる。
又競泳女子200メートル平泳ぎでは前畑秀子による日本女子初の金メダリストとなる。この競技をラジオ中継したNHK・河西三省アナウンサーの「前畑がんばれ!」の絶叫が伝説となっている。その時の感動的な動画が以下で見れる。

前畑秀子 オリンピック女子200m平泳ぎ 1936 - YouTube
 
二・二六事件、中国での排日運動の激化(※11参照)、欧州ではイタリアのエチオピア侵攻(第二次エチオピア戦争参照)、日本にも世界にも覆った苦しい空気が広がる中で、人々は明るいニュースを求め、国際的孤立感から国威の発揚を願っていた。その絶好のはけ口がベルリンオリンピックだった。
「残念ながらナチのプロパガンダは成功を収めたようだ」とアメリカ人ジャーナリストウイリアム・シャイラーの『ベルリン日記』は8月16日の日記に書いた。『ナチはいまだ見なかったほどの贅(ぜい)をつくした大がかりな大会をやったのだが、これが選手たちの非常な好感を呼んだ』(『ベルリン日記』、大久保和郎他訳)ようであり、ナチに批判的な彼も、ベルリンオリンピックの成功は認めざるを得なかったようだ。
この大会で、日本は金メダル6個銀メダル4個銅メダル8個計18個総メダル数で8位の立派な成績を上げている。それにしても、今の日本は、陸上競技では全く精彩がないが、この当時の男性は、外人に負けない身体能力を備えて活躍していたんだよね~。陸上陣はもっと頑張ってほしいね~。

ベルリン大会の次の1940年第12回大会は東京で開催される予定であったがその誘致については嘉納治五郎が努力したしたことは先に簡単に触れた。
ちょうど1940(昭和15)年は、日本の紀元2600年(紀元二千六百年記念行事参照)にあたり、オリンピックを東京で開催しようとの機運が盛り上がっていた。この招致役には長年国際オリンピック委員をしていた嘉納に白羽の矢が当たり1938(昭和13)年エジプトのカイロで開催国決定の会議が開かれ、当時国際連盟を脱退し、日中戦争に突入している日本に反対する国が多かったが、加納は77歳の高齢をおして会議に臨み、英語で堂々と意見を述べた。「日本は今大会の準備が進んでいないが、大国だから必ず成功させる。国民も戦争よりスポーツを通した平和の素晴らしさに気付くと思う」と熱弁をふるい、各国委員も29年間も国際オリンピック委員を務めている嘉納の為にということで、ついに第12回東京大会が決定すると言った経緯があった(『朝日クロニクル週刊20世紀』1938年号)。
嘉納は日本への帰路ヨーロッパやアメリカにお礼を述べ、バンクーバーを出港したが、帰国途中の船上で肺炎のため急逝した。

上掲の画像はIOCカイロ会議で東京大会決定を祝福される嘉納治五郎。

その後、日本も日中戦争でオリンピックどころではなくなり、開催は中止となってしまった。IOCは急遽ヘルシンキを代替え地として開催準備を進めたが、間もなく、ソ連のフィンランド侵攻(冬戦争参照)が始まり、第12回大会は中止となった。
更に、第13回大会はロンドンが開催地として決定したものの、開催地決定からまもなくヒトラーによるポーランド侵攻を引き金に第二次世界大戦がはじまり、再び中止せざるを得なくなった。
戦後の、第14回大会はイギリスのロンドンで開催されたが、第二次世界大戦の責任を問われ、日本とドイツは招待されなかった。日本の競泳には日本大学在学中の古橋広之進橋爪四郎らメダルが確実視されていた強豪揃いであったが出場できなかったのが残念である。
この大会では、ベルリン大会で感動を呼んだ聖火リレーが踏襲され、こののち、1951年のIOC総会で聖火リレーは「オリンピック憲章」に正式に加えられた。
1952年、第15回ヘルシンキ大会(フィンランド)で、日本は16年ぶりにオリンピック参加をするが、金メダルはレスリングのフリースタイル・バンタム級で石井庄八が獲得したものが唯一であるが、そのほかでは、レスリングフリースタイルフライ級で銀、男子体操、徒手と跳馬で、銀と銅、水泳では競泳男子100m自由形、1500m自由形、800m自由形リレーでそれぞれ銀メダルを獲得している。33回も世界記録を更新して期待されていた水泳の古橋廣之進は400メートル自由形決勝で無念の8位となっている。第14回ロンドン大会に出られなかったことは、本当に悔しかったことだろう。
初めて南半球でオリンピックが開催されることとなった1956年の第16回 メルボルン大会(オーストラリア)は、3つの国際情勢(・イギリスとフランスが関与したスエズ動乱に抗議する国、・ソ連によるハンガリー侵攻への抗議国、・中華民国の参加に抗議する中華人民共和国)によりボイコットする国々が相次いだことにより、参加国、選手数が減少した。
日本は、この大会で、競泳男子200m平泳ぎの古川勝、体操男子鉄棒小野喬、レスリングフリースタイルウエルター級池田三男,同フェザー級笹原正三が4個の金メダルを獲得。銀メダルは、レスリングフリースタイルライト級、水泳では男子競泳200平泳ぎ、バタフライ、400、1500の自由形、男子体操では平行棒、あん馬、徒手、個人総合、団体総合などで10個、銅メダルは、男子体操でつり輪、平行棒鉄棒などで5個、計19個のメダルを獲得。水泳、体操陣が大活躍、した。
1960年、第17回 ローマ大会(イタリア)では、マラソンで、まだ無名だったエチオピアのアベベ・ビキラがはだしのまま石畳のコースを走り抜き優勝を飾り、脚光を浴びた。
日本は16競技に219人(選手167人、役員52人)の大選手団を送るが、男子体操では、団体総合の金メダルを獲得するなどで、金メダル4個、銀メダル7個、銅メダル7個の合計18個を獲得。次の東京大会へ向けて、選手強化面で課題を残した。

残念ながらも、1940(昭和15)年の夏季大会の開催権を返上した東京は、1954(昭和29)年に1960(昭和35)年夏季大会開催地に立候補したが、翌1955(昭和30)年の第50次IOC総会における投票でローマに敗れた。次に1964(昭和39)年夏季大会開催地に立候補し、1959(昭和34)年5月26日に西ドイツのミュンヘンにて開催された第55次IOC総会において欧米の3都市を破り開催地に選出された。

そして、 待ちに待った第18回東京大会が1964年10月10日に開催された(~24日まで)。
アジアで初めて行われる人類最大のイベントに日本中が興奮した。
「第18回近代オリンピアードを祝い、ここにオリンピック東京大会の開会を宣言します」10月10日、大会名誉総裁昭和天皇の声が7万5000の観衆が見守る国立競技場に響き渡った。戦争で消えた幻の東京大会から24年・・・。日本が世界に認められた、そんな気がした瞬間であった。
東京オリンピックにかける日本人の熱意と努力はすさまじかった。国立競技場の拡張、オリンピックプールをはじめ各競技施設、選手村の新設。高速道路の建設や、路面電車の撤去。東京の市街は瞬く間に姿を変えた。
戦後の復興を遂げた日本の国力示威の格好のスター東海道新幹線まで五輪関連施設に含まれ、総費用は1兆8000億円とされている。1964年度の国の一般会計予算が3兆4000億円だから,まさに、国力を傾けての大イベントであった。新幹線の東京―新大阪の開業は10月1日。すべてをオリンピックに向けてひた走ってきたのである。
参加国・選手数も93の国と地域から5,152人が参加。競技種目、参加国、会場の規模ともにすべて新記録である。
この大会で、柔道とバレーボールが正式種目に加わり、実施競技種目数は、20競技163種目となり、世界新記録41、オリンピック新記録365が飛び出した。
競技では様々なドラマが展開されたが、日本人の大会初の金メダリストはウエートリフティング・フェザー級の三宅義信だった。
階級別に行われた柔道で、日本は3階級を制覇した。しかし無差別級ではオランダのアントン・ヘーシンクが日本代表の神永昭夫を制して優勝し、日本の4階級制覇を阻んだ。
この試合、ヘーシンクが神永に勝利した瞬間、会場の日本武道館は信じられないものを見たような静けさに包まれた。敗れて居住まいを正す神永は、顔面蒼白になって泣いているようにも見えたが、この時、オランダ関係者が歓喜のあまり畳の上に土足で上がり駆け寄ろうとしたところ、ヘーシンクはこれを手で制止して試合場まで上らせなかった。
ヘーシンクは、日本の講道館や天理大学で指導を受け、選手としての才能を開花させた。この頃、毎年2ヶ月ほど日本に滞在しトレーニングに励んでいたという。彼のこの時の試合での行動は「礼に始まり礼に終わる」という講道館柔道の精神を体現したものとして、現在でも高く評価されている。
期待されたバレーボール女子の決勝戦では、「東洋の魔女」と呼ばれた日本が回転レシーブの冴えを見せ、ソビエトをセットカウント3 対0で下し金メダルを獲得。勝った瞬間日本チームが泣き、ソ連チームも、控室へ入ってから報道陣をシャットアウトして号泣したと言われている。

上掲の画像は、10月23日夜、駒沢屋内球戯場の女子バレーボール日本対ソ連の決勝戦で、ソ連にスパイクを打つ磯部サダ。『朝日クロニクル週刊20世紀』19634年号より。
そして、オリンピックの伝統的競技であるレスリングでは、日本勢が金メダル5個を獲得する大活躍をみせた。また、遠藤幸雄を中心に、男子体操陣も金メダル5個を獲得するなど、大国の面目をかけた金メダル争いで、日本は金メダル16を獲得し、アメリカ、ソビエトについで3位と健闘した。
最後のマラソンでは、甲州街道をひた走ったエチオピアのアベベが2時間12分11秒2の世界最高記録を出し、ローマに続いて2連覇の偉業をなし遂げた。日本の円谷 幸吉は健闘して3位、最終日のメインスタジオに日の丸を飾った。

この東京オリンピック招致の成功は、開催に先駆けて1964(昭和39)年4月28日に経済協力開発機構 (OECD) への加盟が認められる大きな背景となった。OECD加盟は原加盟国トルコに次いでアジアで2番目、同機構の原型となったマーシャル・プランに無関係の国としては初めてで、戦前は「五大国」の一国であった日本が敗戦を乗り越えて再び先進国として復活した証明の一つともなった。
東京オリンピック開催を契機に競技施設や日本国内の交通網の整備に多額の建設投資が行なわれ、競技や施設を見る旅行需要が喚起され、カラー放送を見るためのテレビ購入の飛躍的増加などの消費も増えたため、日本経済に「オリンピック景気」といわれる好景気をもたらした。テレビ購入者が増えたため「テレビ番組」の視聴者も多くなった。
第二次世界大戦の敗戦から立ち直り、経済成長をしてきた日本の力を世界に示し、これを起爆剤にその後も成長を続けてきた日本、アメリカに次ぐ世界2位の経済力を誇っていたが、近年急成長をしてきた中国に2位の座を開け渡し、今はそれでも3位にいる。
1964(昭和39)年に続いて、56年ぶり2回目の東京でのオリンピックを2020年に開催出来ることになり、日本をこれを機会にさらなるスポーツ振興と共に経済発展が期待されている。そして、1964年東京オリンピックのメインスタジアムとして使用されていた国立競技場は、新国立競技場として全面建て直しを行い、2020年東京オリンピック・東京パラリンピックのメイン会場となる予定である。
ただ、とてつもなく巨大なこの新国立競技場の建設費は当初1,300億円を見込んでいたが、その後の試算により、最大で約3,000億円にまで膨張することが明らかになり、その後、JSC(日本スポーツ振興センター)は昨年11月、床面積を25%削減し建設費を1785億円に削減する設計を公表。12月には、文科省と財務省は、総工費の上限1699億円で合意し、今年(2014年)5月、国立競技場将来構想有識者会議は、総工費1625億円とする基本設計を承認した。しかし、その後も、建設費が当初案に比べると削減されたとは言え、依然として他の大規模競技場と比べると高価であることや巨大すぎる建物が歴史的空間を破壊すると言った反対意見も出るなどいろいろと問題になっている(※12や新国立競技場問題点等参照)。
アベノミクスの円安政策のおかげで、輸出関連会社などは円安メリットの恩恵を受け大儲けをし、市場では株価も上昇しているが、実体経済は依然不審であり、給与アップが消費税アップや株安のインフレに追いつかず中小企業や庶民はアップアップしているのが実情である。
そんな中で、建設費用はますます上がるだろうから工事費がいくらかかるかは、当初より心配されていたことであった。
地方の時代と言われて久しいが、その実行はされずますます地方は過疎化している。そのようなときに、何でも彼んでも東京へ集めようとすること自体、今の時代では問題があるのではないだろうか。まだ、日本が成長を始めたばかりの前回の東京オリンピック時代とは全然状況が違うのですよ・・・・。
弱体化している関西でするとか、原発を海外へ売り込もうと一生懸命の安倍政権が、原子力の安全性を本当に保証できるのなら、東日本大震災で大被害を受けた福島を中心とする東北地方で開催し、震災からの復興と福島原発事故の安全性に問題がないこと示せば、前回の東京大会よりずっと意義ある大会になると私は思うのだが・・・。
ま!そんなことは横へ置いておいて、平和の祭典と云われる近代オリンピックだが・・・。世界の歴史の変動の中で、オリンピックもその大きな波に呑まれてきた。
「オリンピズムは人生哲学」「人間の尊厳保持に重きを置く、平和な社会を推進することにある。」「スポーツを行うことは人権の一つである。すべての個人はいかなる種類の差別もなく、オリンピック精神によりスポーツを行う機会を与えられなければならず・・・」と、オリンピック憲章には、高邁(こうまい)な精神が謳(うた)われている(※13参照)。
しかし、古代オリンピックでは戦争状態にあっても、戦争を一時中止し、すべての国がオリンピックに参加したというが、近代オリンピック開始以降、戦争や紛争が相次ぐと、オリンピックをボイコットする国があったり、戦争が終結しても敗戦国の参加を認めないと言ったことがあったのは先にも書いたが、同じようなことは第二次世界大戦も終わり、東京オリンピック後の1980年の第22回 モスクワ大会(ソビエト)も、ソビエト軍のアフガン侵攻(アフガニスタン紛争参照)に対する制裁措置として、アメリカのカーター大統領がモスクワオリンピックのボイコットを表明。日本は多くの選手、コーチが参加を訴えるなか、5月24日に開かれたJOC臨時総会において不参加を決定。そのため、オリンピックを目指して努力してきた人たちはどれほど悔しい思いをしただろう。
これに対して、次の1984年、アメリカでの第23回 ロサンゼルス大会には、モスクワ大会の報復として、ソビエトや東欧諸国など16の国と地域が参加をボイコットしている。この大会ではアメリカが221種目中83個の金メダルを獲得。これは、東側諸国不参加によって起こった異常事態ではあるが、日本もおこぼれ頂戴で、10個の金メダルを獲得した。
又、当大会では、聖火ランナーからも参加費を集めるなど、増大する運営経費と商業主義が話題になったが、次第に、オリンピックは巨大化し、政治やビジネスなどに利用され、IOCも年々商業ベースで拡大し、開催国が利用されていくようになったとも感じられる。
クーベルタンの有名な言葉「オリンピックで重要なことは、勝つことではなく参加することである」は、実は彼の創作ではなく、英米両チームのあからさまな対立(※14参照)により険悪なムードだったロンドン大会(1908年)中の日曜日、礼拝のためにセントポール大寺院に集まった選手を前に、主教が述べた戒めの言葉だったそうだ(ここ参照)が、、実際の競技では、国も選手も勝ちにこだわり、ドーピングの使用や反則さえ見られることもある。
思い起こせば、以前はオリンピックも「アマチュアの祭典」であり、「プロフェッショナル」を排除していた。「スポーツそのものを楽しむ」ことがスポーツの本来の喜びであり、スポーツによって金銭を得ることは、スポーツ本来の歓びを損なうものだという「アマチュアリズム」に基づいていたが、今では、野球やテニス、サッカーなどプロが参加しているが・・・・。
札幌オリンピック(1972年)当時のIOC第5代会長アベリー・ブランデージは、反プロスポーツ主義者で、いかなる形であれオリンピックにプロフェッショナリズムが持ち込まれることに強く反対ていた。しかし、この態度は次第にスポーツ界からも、また他のIOCメンバーからも賛同を得られなくなってゆき、ランデージがミュンヘンオリンピックで引退後、第6代会長キラニン卿を経てサマランチ会長になった。
ブランデージ時代に逼迫した財政状態にあったIOCは、サマランチ時代にいたって、スポンサー契約や放送権料の大幅な引き上げで息を吹き返したが、同時にオリンピックが「収入の得られる商売」になっっていったとも言えるようだ(利権が生まれるオリンピックの商業主義化は、先に書いた1984年夏季のロサンゼルスオリンピックに始まると評されている)。
そして、「アマチュアリズム」自体が、豊かな余暇時間を持つ上流階級が、スポーツの世界で下層階級を排除するための差別意識から成立しているという指摘などを受けて、1974年には五輪憲章からは「アマチュアリズム」の概念は消え、「スポーツ選手」は、「プロフェッショナル」として、多くの賃金とともに、社会的地位を手に入れる機会を得ることができるようになったようだ(※15参照)。
考えてみれば、アマチュアと言っても、オリンピックに出るような人は皆、どこかの企業など職域団体に所属し職業化している人たちばかりである。違うとすれば、体操や水泳など学校関係に所属の学生ぐらいだろう。職業団体に所属し職業化している人はそのスポーツで飯を食っているのだから、一般にセミプロなどと云われたりしており、野球などの様に職業別の社会人野球大会もある。この野球など大学野球や社会人野球の人達に混ざってプロの選手がオリンピックに出場しているが、サッカーなどJリーグ所属選手ばかりであり、日本でなく、他の国で活躍している人も日本代表チームのメンバーとして、出場している。このようなケースを見ているともう、国対国の対抗戦がオリンピックだというしかないだろう。
そうなれば、国のメンツにかけて勝たさねばならなくなる。柔道女子などでコーチらによるしごきがいじめ問題としてクローズアップされたたりもしたが、どうしても勝たなくてはいけないとなると、そのような問題も発生してくるのだろう。
そして、また、ユニホームや靴などのメーカーが開発した商品を選手が身に着け広告塔としてた戦う。単に人の戦いだけでなく科学技術の争いや競争にもなっている。それを、マスコミが宣伝する。
貧富の格差がアマチュアのスポーツに格差を生むからプロ化したというが、プロ化しても、経済力のある国とそうでない国では、格差が生じている。
古代ギリシャでは、不正をなくすために裸で戦ったというが、科学技術力や、経済力の格差をなくして競うには、古代ギリシャ時代と同じように、裸になって戦うしかないのかも・・・。
「平和の祭典」「スポーツの祭典」と云われるオリンピックではあるが、何かいろいろ問題も多くありそうですね~。

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クーベルタン男爵がオリンピックの復活を提唱した日(参考)

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