1892(明治25)年の今日・11月25日は、 クーベルタン男爵がオリンピックの復活を提唱した日である。
4年に一度、世界の人々を熱狂させる平和の祭典オリンピック(第32回夏季オリンピック)が2020(平成32)年7月24日〜8月9日まで、日本の東京都で開催される
ことが、昨・2013(平成25)年9月7日(現地時間)にブエノスアイレス(アルゼンチン)で行われた第125次IOC総会で決まった。
アジアで開催される夏季オリンピックは北京オリンピック(2008年)以来12年(3大会ぶり)4回目、東京での開催は前回の東京オリンピック(1964年)以来56年ぶり2回目であり、アジア初の同一都市による複数回開催となる。なお、日本でのオリンピック開催は夏季・冬季通じると、冬季開催となった長野オリンピック(1998年)以来、22年ぶり4回目にあたる。
今回、東京都は、第125次IOC総会に日本政府関係者や招致委員会関係者、日本オリンピック委員会(JOC)や各競技団体の関係者らを大量動員し、精力的なロビー活動を行った。
政府からは岸田文雄外務大臣や下村博文文部科学大臣、森喜朗元首相らが現地入りし、現地時間9月6日にはサンクトペテルブルク(ロシア)でのG20を途中で切り上げた安倍晋三内閣総理大臣も現地入りした。また、9月7日の最終プレゼンテーションでは招致委関係者や安倍首相に加えて、皇室から憲仁親王妃久子様が参加して招致演説前にフランス語と英語で計4分半のスピーチを行っている。
日本の皇族がIOC総会に出席したのは今回が初めてである。総会に出席しながら五輪招致活動には関わらないという微妙な立場での「東日本大震災の復興支援への謝意を伝える」スピーチの内容は、久子さま自らが直接まとめられたという。コラムニストの勝家誠彦氏は2020年五輪が東京に決定した最大勝因はIOCの委員にも数多くお会いされたらしいという高円宮久子様にあると語っている。
また、フリーアナウンサーの滝川クリステルがスピーチで発した「お・も・て・な・し」という言葉が話題にもなったが、この言葉は同年の新語・流行語大賞を受賞した。
以下のYouTubで高円宮妃久子様のスピーチ他、滝川クリステル、当時の猪瀬直樹東京都知事のスピーチや、勝家誠彦の談話などが聞ける。
高円宮妃久子さま IOC総会で復興支援に感謝の言葉-YouTube
兎にも角にも、多くの人の努力によって、2020年東京オリンピックの開催が決まった今の日本では、アスリートの多くがこのオリンピックへの参加を目指して頑張っており、活躍してくれるだろうから、私もその日がくるのを楽しみにしているのだが、今から6年後と云うと、私も平均寿命を超える年齢になるので、無事オリンピックが観られるかどうかは微妙なところではある。
さて、現代、国際オリンピック委員会(英:IOC)によって開催されている世界的なスポーツ大会であるオリンピック(近代オリンピック)は、何時から始まったのか・・・。それは、1896(明治29)年に、ギリシャのアテネで開催されたのが始まりである(アテネオリンピック 第1回)。
しかし、そのずっと昔、ギリシャのペロポネソス半島西部にあった古代ギリシアのエーリス地方、オリュンピアで、4年に1回、ギリシャ全土から選手が集まる当時最大級の競技会であり、祭典があった。
この祭典は「オリュンピア大祭」また「オリュンピア祭典競技」とも呼ばれていた。いわゆる古代オリンピックといわれるものである。
オリュンピア(オリンピア)の名は、オリュンポス十二神の主神ゼウス([Zeus]英語名:ジュピター[Jupiter]。ラテン語名:ユピテル[Jupiter])が、他の11の神々とともに君臨していたギリシアの最高峰であるオリュンピア(オリンポス)山にちなんだものである。古代オリンピックが行われた場所オリュンピア(以下オリンピアと書く)には、現在も数多くの遺跡が存在し、1989年に、世界遺産に登録されている(ギリシャの世界遺産のオリンピアの考古遺跡 参照)。
以下参考に記載の、Wikipediaの「オリンピック関連年表」や※1:「日本オリンピック委員会」その他のサイト等を参照しながら今日は、ちょっと、オリンピックの歴史を振り返ってみよう。
オリュンピアは、紀元前10世紀ごろにはギリシャ神話の全能の神ゼウスの聖地として栄えたとされている町であり、ペロポネソス半島の西、のどかな緑が広がるクロノスの丘の麓に静かに息づき、オリンピアの遺跡の真中には「ゼウス神殿」があるが、現在、ゼウス像はなく、神殿跡には基壇と倒れた円柱が残るのみとなっている(※2:「ギリシャ周遊 オリンピア」でその風景が見られる)。
しかし、オリンピックの聖火は、今もなお、古代オリンピックが行われていたギリシアのオリンピアにおけるヘーラー(ゼウスの妻)の神殿跡において採火(点火)され開催地へと運ばれている(ここ参照)。
古代オリンピックが始まったのは、考古学的な研究によって紀元前9世紀ごろとされており、以後、紀元後4世紀にかけて行われていた。
現代行われている近代オリンピックは世界平和を究極の目的としたスポーツの祭典(オリンピック・ムーブメント参照)であるが、古代オリンピックはギリシアを中心にしたヘレニズム文化圏の宗教行事であった。つまり、全能の神ゼウスをはじめ多くの神々を崇めるための、神域における体育や芸術の競技祭だったのである。
オリンピアで行われる「オリンピア大祭」は、古代ギリシアにおける四大競技大祭のうちの一つであり、当時のギリシアには、このオリンピアで行われていた「オリンピア大祭」(祭神:ゼウス).の他に、ネメアー で開催されるネメアー大祭(祭神:ゼウス)、イストモス(現・イストミア)で開催されるイストモス大祭(祭神:ポセイドン)、デルポイで開催されるピューティア大祭(祭神:アポロン)があり、4年ごとに都市国家(ポリス)がこぞって参加し、競技が行われていたが、このうち、大神であるゼウスに捧げられる「オリュンピア祭」が最も盛大に行われていたのであった。
古代オリンピックで最初に行われたスポーツ競技は、1スタディオン(約191m)のコース を走る「競走」だけであった。オリンピアの聖地には、競走のための「スタディオン」(階段状観覧席)が築かれていた。因みに、階段状観覧席のある競技場をいうスタジアム(英語:stadium)という語はこのスタディオンに由来している。
紀元前776年の第1回大会から紀元前728年の第13回大会まで、古代オリンピックで開かれていたのはこの競走1種目だけであった。1スタディオンはゼウスの足裏600歩分に相当し、ヘラクレスがこの距離を実測したとも伝えられているそうだ。
ゼウスが男神であることから、オリュンピア祭は女人禁制で、参加資格のあるのは、健康で成年のギリシア人男子のみで、奴隷も参加できなかった。そして奉納競技において競技者は不正を防ぐため、全裸で競技をした。以下ここではスポーツ競技についてのみ述べる。
古代オリンピックの競技種目はその後、第1回からの伝統である192メートル(1スタディオン)のスタディオン走(短距離走)のほか、ディアウロス走と呼ばれる中距離走(2スタディオンの距離を走る。現在の400mに相当)、ドリコス走と呼ばれる長距離走(スタディオンの直線路を10往復する競技)、や幅跳び、円盤投げ、槍投、それにこれらを組み合わせたペンタスロンと呼ばれる五種競技(短距離競走、幅跳び、円盤投げ、やり投げに、レスリングを一人で3種目以上を制した者が優勝者)が行われていた。
そして、五種競技の中のレスリングが、紀元前668年の第23回大会から単独の競技として実施されるようになった。立ったままの姿勢から相手を持ち上げて投げる競技で、正しく美しいフォームで投げなくてはならなかった。時間制限はなく、勝敗が決するまでに長い時間がかかる過酷な競技だったようだ。
又、レスリングと同じ大会から、ボクシング(拳闘)も始まった。レスリングと同様に時間 制限もインターバルもなく、たとえ倒されても敗北を認めない限り相手の攻撃は止まらない。さらに体重別の階級はなく、グローブの代わりに敵へのダメージを大きくするための革ひも(のちに金属の鋲まで埋め込まれた)を拳に巻いての殴り合いだったという。.
上掲の画像は、古代ギリシアのボクサー(ヘレニズム期、ローマ国立博物館蔵)拳には革ひもを巻いている。
紀元前680年の第25回大会からは、映画『ベン・ハー』に見られるような48スタディオンの距離で争われる4頭立ての戦車競走が始まった。また、第33回大会(紀元前648年)からは競馬競走も行われていたようだ。こうした競技はスタディオンの南に位置するヒッポドロモス(=ヒッポドローム [hippodrome] ギリシア語の「ウマ」を意味する hippos と「道」を意味する dromos を組み合わせた語。戦車や馬の競技場)で開催されていたらしいが、現在でも未発掘のため詳細はわかっていないようだが、実際には、この競技がオリュンピア祭の由来であるとする説がある。
神話上ではホメロスの長編叙事詩『イリアス』第23歌「パトロクロスの葬送競技」にトロイア戦争で死んだパトロクロスの死を悼むため、アキレウスが行った戦車競走に関する記述がある(詳しくは、参考※3:《イーリアス》のパトロクロスの葬送競技、ヘクトールの遺体引取りを参照)。
このレースの参加者はディオメデス、エウメロス、アンティロコス、メネラオス、メリオネスらであったそうだ。
上掲の画像は、4頭立ての戦車(ミュンヘン古代美術博物館蔵、紀元前540年頃)
尚、戦車競走においての、最初の女性優勝者に、スパルタ王アルキダモス2世の娘キュニスカがおり、紀元前396年および紀元前392年の2度にわたって、自らが所有する戦車で勝利をおさめているらしい。ただ、古代オリンピックでは女性の参加は認められていなかったが、戦車を使った競い合いは戦車の御者ではなく、その所有者(オーナー)が勝者となるルールがあったためこのようなケースが発生したようだ。つまり、競技者の力より、金に物を言わせて作った戦車が優れていたということで、戦車の御者は競技者と認めていなかったわけだ。
このような陸上競技で走ったり、飛んだり、遠くに物を飛ばしたりするのに一番優れていた者を決める事は出来たが、誰が見ても一番強い者を決める事が出来なかったことからだろうか、第33回大会からはレスリングとボクシングを合わせたような競技パンクラティオンという格闘技も加わった。ギリシア語で「パン」とは「すべての」を、「クラティオン」は「力強い」を意味するそうで、素手ならどんな攻撃をしてもよいというルールで、間接技や首を絞めることも許され、ボクシングと同じようにどちらかが敗北を認めない限りは勝負が決することのない熾烈な競技であったようだ。
競技者は腕を上げることでギブアップしたことを示すことができたが、多くの場合ギブアップは一方の競技者の死亡を意味したともいう。ルールは“目潰しと噛み付きの禁止”の2つのみで、指や骨を折る行為も許されていたようだ。そして、当時オリンピックでは、パンクラチオンの優勝者こそ誰もが認める地上最強の
人間として称賛されていたようだ。(パンクラティオンについて、詳しくは。参考※4参照)。
上掲の画像は、パンクラチオン(Pancratium) 紀元前3世紀頃の像。
先にも書いたように、古代オリンピックにはギリシア全土から競技者や観客が参加して、数々のスポーツ競技、芸術競技が行われた。
当時のギリシアでは、いくつかのポリス(都市国家)が戦いを繰り広げていたが、宗教的に大きな意味のあったオリンピアの祭典には、戦争を中断してでも参加しなければならなかった 。これが「聖なる休戦」とも呼ばれているオリンピック停戦であり、ギリシャ語では、エケケイリアといって「手をつなぐ」という意味を持っているそうだ。
古代ギリシャ王、エーリスのイフィトス、ピサ(ペロポネソス半島西部のポリス?)のクレオステネス、スパルタのリュクルゴスが、当時としては史上最長となる停戦協定であった停戦協定であったオリンピック協定に署名し、後に、これがギリシャの都市国家間で条約として承認された。
この条約により、交戦中の都市も一時戦いを中止して、敵の選手の国内通過を許した。そして、27年にわたったペロポネソス戦争の間も祭典は中止されなかったという(※5参照)。
競技はその後ヘレニズム( アレクサンドロス3世([アレキサンダー大王]の死亡[紀元前323年]からプトレマイオス朝エジプトの滅亡[紀元前30年]するまでの約300年間) にも続いたが、紀元前146年、ギリシアはローマ帝国に支配された。
古代オリンピックはギリシア人以外の参加を認めていなかったが、ローマ帝国が支配する地中海全域の国から競技者が参加するようになり、次第に変容を遂げていく。
さらに392年、ローマ皇帝テオドシウス一世がキリスト教をローマ帝国の国教と定めたことで、宗教と民族の純粋性を失って衰微していった古代オリンピックは393年の第293回オリンピック競技大祭開催を最後に、その後、古代オリンピックで使われたスタジアムやゼウス神殿などは、キリスト教以外の神殿を破壊せよという世命令と、オリンピア地方を襲った大地震とによって、大きく破壊されてしまった。
古代オリンピックの火が途絶えて1500年以上たってからそんなオリンピックを、復活させようとした人がいた。それが、近代オリンピックの父と呼ばれているフランスのピエール・ド・クーベルタン男爵だ。
クーベルタンは、1863年1月1日、貴族の家系の三男としてパリに生まれた。彼もそうであったが、当時の貴族の子息の多くが士官学校に学び、ゆくゆくは軍人か官僚、あるいは政治家になることを期待されていたが、その道は彼を満足させるものではなく、次第に教育学に興味を示すようになったという。
というのも、彼が青春時代を送っていた当時のフランスでは、普仏戦争(1870~71)の敗戦を引きずり沈滞ムードが蔓延していた。この状況を打開するには教育を改革するしかない、と考えるに至り、パブリックスクール視察のために渡英し、イギリスの学生たちが積極的に、かつ紳士的にスポーツに取り組む姿を見て感銘を受け、「服従を旨として知識を詰め込むことに偏っていたフランスの教育では、このような青少年は育たない。即刻、スポーツを取り入れた教育改革を推進する必要がある」と確信したという。
そして、その後も彼は、精力的に各国へ足を伸ばし、世界各地を視察、各国の交流に触れて海外からの選手の招聘、交流試合などに携わることで、次第にスポーツが果たしうるもう一つの役割「国際交流」「平和」が見えてきたことから、古代オリンピックの精神を現在に国際的な規模で復活させるという「国際的競技会」構想へと変わっていったようだ。
その背景には、古代オリンピックが廃止になってから約1000年のときを経て、再び古代オリンピックに光が当たり始めていたことがある。
ルネサンスに入って、古代ギリシャへの関心が急速に高まり、古代ギリシャ時代に書かれた文学作品ホメロスの『イーリアス』や、旅行家パウサニアスの『ギリシャ案内記』(160年から176年頃『ギリシア記』とも呼ばれる)には、オリンピアやデルポイの神域に関する記述で、古代オリンピックや「ピューティア大祭」などの競技会の施設や優勝者を記念する彫像などについての逸話も交えての描写がされるようになり、当時の人々が遙か昔の運動競技に思いを馳せるようになった。
そして、現在のオリンピア遺跡(一部)が発見されたのは1766年、イギリスの考古学者リチャード・チャンドラー (Richard Chandler) によってであった。しかし、遺跡の発掘は1829年、フランスによる「モレア探検」 (Morea expedition) まで行われなかったが、この時、フランス発掘隊により、ゼウス神殿の一部が発掘されている。
1870年代以降、ドイツの帝政が開始され、遺跡の保存・発掘はアテネのドイツ考古学研究所によって行われることになり、オリンピア聖域の遺跡の最初の本格的な発掘は、ドイツの考古学者 E. クルティウス(Ernst Curtius)が1852年に行った講演〈オリュンピア〉が口火となり、ドイツ帝国の事業としてドイツ発掘隊により、1875年から1881年にかけて本格的になされた。
これらの発掘の成果は1878年のパリ万博における「オリンピア遺跡」の展示につながり、古代オリンピックの情景は、パリを訪れた多くの人々のまぶたに焼き付けられることになった。
そして、考古的な研究が進むにつれ、「オリンピック」という名をつけたイベントが、ヨーロッパ各地で見られるようになり、例えば、ビートルズで有名なイギリスのリバプールで開かれた「リバプール・オリンピック」(その後1863、1864、1866、1867)や1866年にも開催)などがある。
このようなイベントの中には、近代オリンピックに影響を与えたものもある。1850年にイギリスのマッチ・ウェンロックで始まったオリンピック競技祭「マッチウェンロック・オリンピック」(その後、1867, 1868, 1874, 1877, 1883年)と、1859 年、アテネでの「オリンピア競技祭」(その後、1870,1875,1889年にも開催)である。
1832 年にオスマン帝国,(トルコ)からの独立を果たした近代ギリシャ(ギリシャ独立戦争参照)において、行われた1859年の大会は、独立記念としのて第1回復活オリンピック大会であり、国家の産業を振興させるという目的で,産業博覧会と運動競技を合わせたオリンピア競技会を開催したようだが、その後の1870年には、運動競技中心のオリンピア競技祭へ移行している。
近代オリンピックの創始者クーベルタンは1890年にマッチ・ウェンロックを訪れて、古代オリンピアの香り漂う競技祭を楽しみ、このとき、主催者であるブルックス博士から、後に近代オリンピックに取り入れることになった大会の国際化や開催都市の持ち回り、芸術競技の実施というアイディアを聞かされたようだ。一方、1859、1870、1875、1889年にアテネで開催された「オリンピア競技祭」と、1891、1893年に開催され「全ギリシャ競技会」は、第1回近代オリンピック大会のアテネ開催(1896)を受け入れる土台となった。 (※6、参照)。
そして、クーベルタン男爵が、パリ・ソルボンヌ大学での講演で、近代オリンピックの復活を提唱したのが、1892(明治25)年の今日・11月25日のことであった。
この講演の中で近代オリンピック復興に関する構想を始めて公表し、オリンピック競技大会復興の支持と協力を要請したが、この時は、あまり協力が得られずオリンピック復活の最初の呼びかけは失敗に終わった。クーベルタンは1893年アメリカで開催されていたシカゴ万国博覧会を見学し、この行事の一環として開かれた世界大会オーグジリアリ(“auxiliary” 補助の)は224の会議を実施 した(※7参照)というが、そのうちの一つである教育会議に出席し、オリンピックの理念を宣伝してまわり支持を得ることができたという。
そして、1894(明治27)年6月23日、パリの万国博覧会に際して開かれたスポーツ競技者連合の会議が開催され、その席上で、オリンピック大会の復興が満場一致で可決された。唯一クーベルタン男爵の構想が外れたのは、近代オリンピックのスタートは1900年のパリからだった構想が第1回大会開催まで6年も待つのは長すぎるという声が高まってきたため、第1回近代オリンピックの栄誉を、ギリシャへ譲るという形になり、それが満場一致で決まったことだという。
オリンピック開催が決まると同時に次のことが会議で決定した(※8参照 )
1)1896年をもって近代オリンピアードの第1年とする。
2)古代の伝統に従い大会は4年ごとに開催する。また大会は世界各国の大都市で持ち回り開催とする。
3) 競技種目は近代スポーツに限る。
4)第1回大会の一切は、クーベルタンおよびビケラス(IOC初代会長)に一任する。
5) オリンピック大会開催に関する最高権威を持つ国際オリンピック委員会(IOC=International Olympic Committee)を設立する。・・・など。
近代オリンピックの基礎となる事柄が決定され、これを記念して、後にIOCはこの日を「オリンピックデー」として推奨。日本では1949(昭和24)年から様々な記念式典や行事が行われている。
上掲の画像は、第1回オリンピック競技大会のポスター。
近代五輪最初の大会として開催されたこの第1回オリンピック大会は、資金集めに苦労し、会期も4月6日から4月15日まで(当時のギリシャのユリウス暦では3月25日から4月3日まで)の10日間と短かった。又、参加者は古代オリンピック同様男子のみであった(女子の参加は第2回オリンピック以降になる)。
実施競技は、・陸上競技・競泳競技(実施場所・ゼーア湾)、・体操、・ウエイトリフティング(体操の種目)、・レスリング(グレコローマンスタイルのみ)、。フェンシング、・射撃、・自転車、・テニスであった。
この大会陸上競技では12種目中、9種目でアメリカ選手が優勝、100mの予選では、全てのレースでアメリカ選手が1位になった。他の国の選手がスタンディングスタートであるのに対して、クラウチングスタートをしていたためだといわれている。100mで優勝したトーマス・バークのクラウチング・スタートは各国選手の注目を集めたという。
陸上競技短・中距離走では優勝者を出せなかったギリシャは、大会最終日の、古戦場から競技場までのコースでおこなわれたマラトン(マラソン)で、無名の牧夫であるスピリドン・ルイスが優勝している。最後の200mでは、大喜びのコンスタンティノス皇太子、ジョージ親王(ゲオルギオス1世、ギリシャ王)が伴走したという(アテネオリンピック (1896年) における陸上競技参照)。
競泳競技(ここ参照)は、水夫のための100m自由形1種目のみで、競技の場所は港(ゼーア湾)の海面であった。第2回パリ大会はセーヌ川、第3回セントルイス大会は人工湖が舞台となった。初めてプールが作られたのは、1908年の第4回ロンドン大会で、しかもプールの長さは今の倍の100で、メーンスタジアムのフィールド内に設置されていた。1 00メートル種目では、まさに陸上のごとく、一直線のコース上で火花が散らされた。今のような50 メートルプールで行われるようになったのは、1924 年の第8回パリ大会からだという(※9参照)。
古代オリンピックでは、パンクラチオンこそオリンピックを代表する競技であり、優勝者は民族の誇りだったが、第1回大会からレスリング、1904年セントルイスオリンピックからボクシングが正式種目として実施されているが、パンクラチオンは危険だという事と国際連盟が存在しなかった事等が理由でいまだに実施されていないが、こんな危険な競技はオリンピック種目としては難しいのだろう。競技のことについては、※1の競技紹介参照されたい。ここではこれ以上のことは省略する。
各国の獲得メダル数は、1位アメリカ合衆国 金11 銀7 銅2 計20個。2位2ギリシャ(開催国)金10、 銀17 、 銅19、計46個、3位ドイツ 金6 、銀 5、銅2 計13個の順だったそうだ。開催国としてメダル総数では1位アメリカの倍以上獲得しており、面目を保っている。
尚、財政事情により、第1回オリンピックでは金メダルは無く、優勝者には銀メダル、第2位の選手には銅メダルが贈られ、第3位の選手には賞状が授与されたという。又、当時は国家単位ではなく個人名義による自由出場だったため、国混合チームが出場していたそうだ。
そして、先にも書いたように、1859年のアテネでの「オリンピア競技祭」は、独立記念としのて第1回復活オリンピック大会であり、国家の産業を振興させるという目的で,産業博覧会と運動競技を合わせたオリンピア競技会を開催していたが、その後の1870年には、運動競技中心のオリンピア競技祭への移行をしているが、これは、近代国際オリンピック競技会においても同じような経過を辿っている。
それでも両者は,芸術的成果への尊敬を忘れなかったようだ。ギリシャでは,1870年の第2回オリンピア競技祭で,産業製品競技の一部として芸術競技が行われ、近代国際オリンピック競技会も,1912年の第5回オリンピック競技会(ストックホルムオリンピック)から芸術競技が導入された。その中身は、絵画,彫刻,建築,音楽などであり、奇しくも同じ内容であったという。
古代オリンピックは神を讃えるという信仰的要素が強いものであり、その点で、スポーツは強く美しい肉体で神を表現することから生まれたものであり、芸術表現も同じく神を表現する一手段であった。また、近代オリンピックにおいてもその理念として「肉体と精神の向上の場」が掲げられており、クーベルタン男爵の希望もあり芸術競技が採用された。
ただ、1948年のロンドンオリンピックまで合計7回の大会で正式競技として実施されたが、以降、正式競技から外れるが、芸術作品について客観的な基準をもって採点を行うことが困難であり、しばしば恣意的な判定があったのではないかとの批判が生じたことが理由とされているようだ。
しかし、このような批判は現在においてもフィギュアスケート、シンクロナイズドスイミング等の芸術的要素が重視される競技においても同様であり、近代オリンピックが「世界的な祭典」からより純粋にトップアスリートの競技の場として変貌していくなかでそぎ落とされたものともいえるようだ。
クーベルタン男爵がオリンピックの復活を提唱した日(2-2完)へ
クーベルタン男爵がオリンピックの復活を提唱した日(参考)へ
4年に一度、世界の人々を熱狂させる平和の祭典オリンピック(第32回夏季オリンピック)が2020(平成32)年7月24日〜8月9日まで、日本の東京都で開催される
ことが、昨・2013(平成25)年9月7日(現地時間)にブエノスアイレス(アルゼンチン)で行われた第125次IOC総会で決まった。
アジアで開催される夏季オリンピックは北京オリンピック(2008年)以来12年(3大会ぶり)4回目、東京での開催は前回の東京オリンピック(1964年)以来56年ぶり2回目であり、アジア初の同一都市による複数回開催となる。なお、日本でのオリンピック開催は夏季・冬季通じると、冬季開催となった長野オリンピック(1998年)以来、22年ぶり4回目にあたる。
今回、東京都は、第125次IOC総会に日本政府関係者や招致委員会関係者、日本オリンピック委員会(JOC)や各競技団体の関係者らを大量動員し、精力的なロビー活動を行った。
政府からは岸田文雄外務大臣や下村博文文部科学大臣、森喜朗元首相らが現地入りし、現地時間9月6日にはサンクトペテルブルク(ロシア)でのG20を途中で切り上げた安倍晋三内閣総理大臣も現地入りした。また、9月7日の最終プレゼンテーションでは招致委関係者や安倍首相に加えて、皇室から憲仁親王妃久子様が参加して招致演説前にフランス語と英語で計4分半のスピーチを行っている。
日本の皇族がIOC総会に出席したのは今回が初めてである。総会に出席しながら五輪招致活動には関わらないという微妙な立場での「東日本大震災の復興支援への謝意を伝える」スピーチの内容は、久子さま自らが直接まとめられたという。コラムニストの勝家誠彦氏は2020年五輪が東京に決定した最大勝因はIOCの委員にも数多くお会いされたらしいという高円宮久子様にあると語っている。
また、フリーアナウンサーの滝川クリステルがスピーチで発した「お・も・て・な・し」という言葉が話題にもなったが、この言葉は同年の新語・流行語大賞を受賞した。
以下のYouTubで高円宮妃久子様のスピーチ他、滝川クリステル、当時の猪瀬直樹東京都知事のスピーチや、勝家誠彦の談話などが聞ける。
高円宮妃久子さま IOC総会で復興支援に感謝の言葉-YouTube
兎にも角にも、多くの人の努力によって、2020年東京オリンピックの開催が決まった今の日本では、アスリートの多くがこのオリンピックへの参加を目指して頑張っており、活躍してくれるだろうから、私もその日がくるのを楽しみにしているのだが、今から6年後と云うと、私も平均寿命を超える年齢になるので、無事オリンピックが観られるかどうかは微妙なところではある。
さて、現代、国際オリンピック委員会(英:IOC)によって開催されている世界的なスポーツ大会であるオリンピック(近代オリンピック)は、何時から始まったのか・・・。それは、1896(明治29)年に、ギリシャのアテネで開催されたのが始まりである(アテネオリンピック 第1回)。
しかし、そのずっと昔、ギリシャのペロポネソス半島西部にあった古代ギリシアのエーリス地方、オリュンピアで、4年に1回、ギリシャ全土から選手が集まる当時最大級の競技会であり、祭典があった。
この祭典は「オリュンピア大祭」また「オリュンピア祭典競技」とも呼ばれていた。いわゆる古代オリンピックといわれるものである。
オリュンピア(オリンピア)の名は、オリュンポス十二神の主神ゼウス([Zeus]英語名:ジュピター[Jupiter]。ラテン語名:ユピテル[Jupiter])が、他の11の神々とともに君臨していたギリシアの最高峰であるオリュンピア(オリンポス)山にちなんだものである。古代オリンピックが行われた場所オリュンピア(以下オリンピアと書く)には、現在も数多くの遺跡が存在し、1989年に、世界遺産に登録されている(ギリシャの世界遺産のオリンピアの考古遺跡 参照)。
以下参考に記載の、Wikipediaの「オリンピック関連年表」や※1:「日本オリンピック委員会」その他のサイト等を参照しながら今日は、ちょっと、オリンピックの歴史を振り返ってみよう。
オリュンピアは、紀元前10世紀ごろにはギリシャ神話の全能の神ゼウスの聖地として栄えたとされている町であり、ペロポネソス半島の西、のどかな緑が広がるクロノスの丘の麓に静かに息づき、オリンピアの遺跡の真中には「ゼウス神殿」があるが、現在、ゼウス像はなく、神殿跡には基壇と倒れた円柱が残るのみとなっている(※2:「ギリシャ周遊 オリンピア」でその風景が見られる)。
しかし、オリンピックの聖火は、今もなお、古代オリンピックが行われていたギリシアのオリンピアにおけるヘーラー(ゼウスの妻)の神殿跡において採火(点火)され開催地へと運ばれている(ここ参照)。
古代オリンピックが始まったのは、考古学的な研究によって紀元前9世紀ごろとされており、以後、紀元後4世紀にかけて行われていた。
現代行われている近代オリンピックは世界平和を究極の目的としたスポーツの祭典(オリンピック・ムーブメント参照)であるが、古代オリンピックはギリシアを中心にしたヘレニズム文化圏の宗教行事であった。つまり、全能の神ゼウスをはじめ多くの神々を崇めるための、神域における体育や芸術の競技祭だったのである。
オリンピアで行われる「オリンピア大祭」は、古代ギリシアにおける四大競技大祭のうちの一つであり、当時のギリシアには、このオリンピアで行われていた「オリンピア大祭」(祭神:ゼウス).の他に、ネメアー で開催されるネメアー大祭(祭神:ゼウス)、イストモス(現・イストミア)で開催されるイストモス大祭(祭神:ポセイドン)、デルポイで開催されるピューティア大祭(祭神:アポロン)があり、4年ごとに都市国家(ポリス)がこぞって参加し、競技が行われていたが、このうち、大神であるゼウスに捧げられる「オリュンピア祭」が最も盛大に行われていたのであった。
古代オリンピックで最初に行われたスポーツ競技は、1スタディオン(約191m)のコース を走る「競走」だけであった。オリンピアの聖地には、競走のための「スタディオン」(階段状観覧席)が築かれていた。因みに、階段状観覧席のある競技場をいうスタジアム(英語:stadium)という語はこのスタディオンに由来している。
紀元前776年の第1回大会から紀元前728年の第13回大会まで、古代オリンピックで開かれていたのはこの競走1種目だけであった。1スタディオンはゼウスの足裏600歩分に相当し、ヘラクレスがこの距離を実測したとも伝えられているそうだ。
ゼウスが男神であることから、オリュンピア祭は女人禁制で、参加資格のあるのは、健康で成年のギリシア人男子のみで、奴隷も参加できなかった。そして奉納競技において競技者は不正を防ぐため、全裸で競技をした。以下ここではスポーツ競技についてのみ述べる。
古代オリンピックの競技種目はその後、第1回からの伝統である192メートル(1スタディオン)のスタディオン走(短距離走)のほか、ディアウロス走と呼ばれる中距離走(2スタディオンの距離を走る。現在の400mに相当)、ドリコス走と呼ばれる長距離走(スタディオンの直線路を10往復する競技)、や幅跳び、円盤投げ、槍投、それにこれらを組み合わせたペンタスロンと呼ばれる五種競技(短距離競走、幅跳び、円盤投げ、やり投げに、レスリングを一人で3種目以上を制した者が優勝者)が行われていた。
そして、五種競技の中のレスリングが、紀元前668年の第23回大会から単独の競技として実施されるようになった。立ったままの姿勢から相手を持ち上げて投げる競技で、正しく美しいフォームで投げなくてはならなかった。時間制限はなく、勝敗が決するまでに長い時間がかかる過酷な競技だったようだ。
又、レスリングと同じ大会から、ボクシング(拳闘)も始まった。レスリングと同様に時間 制限もインターバルもなく、たとえ倒されても敗北を認めない限り相手の攻撃は止まらない。さらに体重別の階級はなく、グローブの代わりに敵へのダメージを大きくするための革ひも(のちに金属の鋲まで埋め込まれた)を拳に巻いての殴り合いだったという。.
上掲の画像は、古代ギリシアのボクサー(ヘレニズム期、ローマ国立博物館蔵)拳には革ひもを巻いている。
紀元前680年の第25回大会からは、映画『ベン・ハー』に見られるような48スタディオンの距離で争われる4頭立ての戦車競走が始まった。また、第33回大会(紀元前648年)からは競馬競走も行われていたようだ。こうした競技はスタディオンの南に位置するヒッポドロモス(=ヒッポドローム [hippodrome] ギリシア語の「ウマ」を意味する hippos と「道」を意味する dromos を組み合わせた語。戦車や馬の競技場)で開催されていたらしいが、現在でも未発掘のため詳細はわかっていないようだが、実際には、この競技がオリュンピア祭の由来であるとする説がある。
神話上ではホメロスの長編叙事詩『イリアス』第23歌「パトロクロスの葬送競技」にトロイア戦争で死んだパトロクロスの死を悼むため、アキレウスが行った戦車競走に関する記述がある(詳しくは、参考※3:《イーリアス》のパトロクロスの葬送競技、ヘクトールの遺体引取りを参照)。
このレースの参加者はディオメデス、エウメロス、アンティロコス、メネラオス、メリオネスらであったそうだ。
上掲の画像は、4頭立ての戦車(ミュンヘン古代美術博物館蔵、紀元前540年頃)
尚、戦車競走においての、最初の女性優勝者に、スパルタ王アルキダモス2世の娘キュニスカがおり、紀元前396年および紀元前392年の2度にわたって、自らが所有する戦車で勝利をおさめているらしい。ただ、古代オリンピックでは女性の参加は認められていなかったが、戦車を使った競い合いは戦車の御者ではなく、その所有者(オーナー)が勝者となるルールがあったためこのようなケースが発生したようだ。つまり、競技者の力より、金に物を言わせて作った戦車が優れていたということで、戦車の御者は競技者と認めていなかったわけだ。
このような陸上競技で走ったり、飛んだり、遠くに物を飛ばしたりするのに一番優れていた者を決める事は出来たが、誰が見ても一番強い者を決める事が出来なかったことからだろうか、第33回大会からはレスリングとボクシングを合わせたような競技パンクラティオンという格闘技も加わった。ギリシア語で「パン」とは「すべての」を、「クラティオン」は「力強い」を意味するそうで、素手ならどんな攻撃をしてもよいというルールで、間接技や首を絞めることも許され、ボクシングと同じようにどちらかが敗北を認めない限りは勝負が決することのない熾烈な競技であったようだ。
競技者は腕を上げることでギブアップしたことを示すことができたが、多くの場合ギブアップは一方の競技者の死亡を意味したともいう。ルールは“目潰しと噛み付きの禁止”の2つのみで、指や骨を折る行為も許されていたようだ。そして、当時オリンピックでは、パンクラチオンの優勝者こそ誰もが認める地上最強の
人間として称賛されていたようだ。(パンクラティオンについて、詳しくは。参考※4参照)。
上掲の画像は、パンクラチオン(Pancratium) 紀元前3世紀頃の像。
先にも書いたように、古代オリンピックにはギリシア全土から競技者や観客が参加して、数々のスポーツ競技、芸術競技が行われた。
当時のギリシアでは、いくつかのポリス(都市国家)が戦いを繰り広げていたが、宗教的に大きな意味のあったオリンピアの祭典には、戦争を中断してでも参加しなければならなかった 。これが「聖なる休戦」とも呼ばれているオリンピック停戦であり、ギリシャ語では、エケケイリアといって「手をつなぐ」という意味を持っているそうだ。
古代ギリシャ王、エーリスのイフィトス、ピサ(ペロポネソス半島西部のポリス?)のクレオステネス、スパルタのリュクルゴスが、当時としては史上最長となる停戦協定であった停戦協定であったオリンピック協定に署名し、後に、これがギリシャの都市国家間で条約として承認された。
この条約により、交戦中の都市も一時戦いを中止して、敵の選手の国内通過を許した。そして、27年にわたったペロポネソス戦争の間も祭典は中止されなかったという(※5参照)。
競技はその後ヘレニズム( アレクサンドロス3世([アレキサンダー大王]の死亡[紀元前323年]からプトレマイオス朝エジプトの滅亡[紀元前30年]するまでの約300年間) にも続いたが、紀元前146年、ギリシアはローマ帝国に支配された。
古代オリンピックはギリシア人以外の参加を認めていなかったが、ローマ帝国が支配する地中海全域の国から競技者が参加するようになり、次第に変容を遂げていく。
さらに392年、ローマ皇帝テオドシウス一世がキリスト教をローマ帝国の国教と定めたことで、宗教と民族の純粋性を失って衰微していった古代オリンピックは393年の第293回オリンピック競技大祭開催を最後に、その後、古代オリンピックで使われたスタジアムやゼウス神殿などは、キリスト教以外の神殿を破壊せよという世命令と、オリンピア地方を襲った大地震とによって、大きく破壊されてしまった。
古代オリンピックの火が途絶えて1500年以上たってからそんなオリンピックを、復活させようとした人がいた。それが、近代オリンピックの父と呼ばれているフランスのピエール・ド・クーベルタン男爵だ。
クーベルタンは、1863年1月1日、貴族の家系の三男としてパリに生まれた。彼もそうであったが、当時の貴族の子息の多くが士官学校に学び、ゆくゆくは軍人か官僚、あるいは政治家になることを期待されていたが、その道は彼を満足させるものではなく、次第に教育学に興味を示すようになったという。
というのも、彼が青春時代を送っていた当時のフランスでは、普仏戦争(1870~71)の敗戦を引きずり沈滞ムードが蔓延していた。この状況を打開するには教育を改革するしかない、と考えるに至り、パブリックスクール視察のために渡英し、イギリスの学生たちが積極的に、かつ紳士的にスポーツに取り組む姿を見て感銘を受け、「服従を旨として知識を詰め込むことに偏っていたフランスの教育では、このような青少年は育たない。即刻、スポーツを取り入れた教育改革を推進する必要がある」と確信したという。
そして、その後も彼は、精力的に各国へ足を伸ばし、世界各地を視察、各国の交流に触れて海外からの選手の招聘、交流試合などに携わることで、次第にスポーツが果たしうるもう一つの役割「国際交流」「平和」が見えてきたことから、古代オリンピックの精神を現在に国際的な規模で復活させるという「国際的競技会」構想へと変わっていったようだ。
その背景には、古代オリンピックが廃止になってから約1000年のときを経て、再び古代オリンピックに光が当たり始めていたことがある。
ルネサンスに入って、古代ギリシャへの関心が急速に高まり、古代ギリシャ時代に書かれた文学作品ホメロスの『イーリアス』や、旅行家パウサニアスの『ギリシャ案内記』(160年から176年頃『ギリシア記』とも呼ばれる)には、オリンピアやデルポイの神域に関する記述で、古代オリンピックや「ピューティア大祭」などの競技会の施設や優勝者を記念する彫像などについての逸話も交えての描写がされるようになり、当時の人々が遙か昔の運動競技に思いを馳せるようになった。
そして、現在のオリンピア遺跡(一部)が発見されたのは1766年、イギリスの考古学者リチャード・チャンドラー (Richard Chandler) によってであった。しかし、遺跡の発掘は1829年、フランスによる「モレア探検」 (Morea expedition) まで行われなかったが、この時、フランス発掘隊により、ゼウス神殿の一部が発掘されている。
1870年代以降、ドイツの帝政が開始され、遺跡の保存・発掘はアテネのドイツ考古学研究所によって行われることになり、オリンピア聖域の遺跡の最初の本格的な発掘は、ドイツの考古学者 E. クルティウス(Ernst Curtius)が1852年に行った講演〈オリュンピア〉が口火となり、ドイツ帝国の事業としてドイツ発掘隊により、1875年から1881年にかけて本格的になされた。
これらの発掘の成果は1878年のパリ万博における「オリンピア遺跡」の展示につながり、古代オリンピックの情景は、パリを訪れた多くの人々のまぶたに焼き付けられることになった。
そして、考古的な研究が進むにつれ、「オリンピック」という名をつけたイベントが、ヨーロッパ各地で見られるようになり、例えば、ビートルズで有名なイギリスのリバプールで開かれた「リバプール・オリンピック」(その後1863、1864、1866、1867)や1866年にも開催)などがある。
このようなイベントの中には、近代オリンピックに影響を与えたものもある。1850年にイギリスのマッチ・ウェンロックで始まったオリンピック競技祭「マッチウェンロック・オリンピック」(その後、1867, 1868, 1874, 1877, 1883年)と、1859 年、アテネでの「オリンピア競技祭」(その後、1870,1875,1889年にも開催)である。
1832 年にオスマン帝国,(トルコ)からの独立を果たした近代ギリシャ(ギリシャ独立戦争参照)において、行われた1859年の大会は、独立記念としのて第1回復活オリンピック大会であり、国家の産業を振興させるという目的で,産業博覧会と運動競技を合わせたオリンピア競技会を開催したようだが、その後の1870年には、運動競技中心のオリンピア競技祭へ移行している。
近代オリンピックの創始者クーベルタンは1890年にマッチ・ウェンロックを訪れて、古代オリンピアの香り漂う競技祭を楽しみ、このとき、主催者であるブルックス博士から、後に近代オリンピックに取り入れることになった大会の国際化や開催都市の持ち回り、芸術競技の実施というアイディアを聞かされたようだ。一方、1859、1870、1875、1889年にアテネで開催された「オリンピア競技祭」と、1891、1893年に開催され「全ギリシャ競技会」は、第1回近代オリンピック大会のアテネ開催(1896)を受け入れる土台となった。 (※6、参照)。
そして、クーベルタン男爵が、パリ・ソルボンヌ大学での講演で、近代オリンピックの復活を提唱したのが、1892(明治25)年の今日・11月25日のことであった。
この講演の中で近代オリンピック復興に関する構想を始めて公表し、オリンピック競技大会復興の支持と協力を要請したが、この時は、あまり協力が得られずオリンピック復活の最初の呼びかけは失敗に終わった。クーベルタンは1893年アメリカで開催されていたシカゴ万国博覧会を見学し、この行事の一環として開かれた世界大会オーグジリアリ(“auxiliary” 補助の)は224の会議を実施 した(※7参照)というが、そのうちの一つである教育会議に出席し、オリンピックの理念を宣伝してまわり支持を得ることができたという。
そして、1894(明治27)年6月23日、パリの万国博覧会に際して開かれたスポーツ競技者連合の会議が開催され、その席上で、オリンピック大会の復興が満場一致で可決された。唯一クーベルタン男爵の構想が外れたのは、近代オリンピックのスタートは1900年のパリからだった構想が第1回大会開催まで6年も待つのは長すぎるという声が高まってきたため、第1回近代オリンピックの栄誉を、ギリシャへ譲るという形になり、それが満場一致で決まったことだという。
オリンピック開催が決まると同時に次のことが会議で決定した(※8参照 )
1)1896年をもって近代オリンピアードの第1年とする。
2)古代の伝統に従い大会は4年ごとに開催する。また大会は世界各国の大都市で持ち回り開催とする。
3) 競技種目は近代スポーツに限る。
4)第1回大会の一切は、クーベルタンおよびビケラス(IOC初代会長)に一任する。
5) オリンピック大会開催に関する最高権威を持つ国際オリンピック委員会(IOC=International Olympic Committee)を設立する。・・・など。
近代オリンピックの基礎となる事柄が決定され、これを記念して、後にIOCはこの日を「オリンピックデー」として推奨。日本では1949(昭和24)年から様々な記念式典や行事が行われている。
上掲の画像は、第1回オリンピック競技大会のポスター。
近代五輪最初の大会として開催されたこの第1回オリンピック大会は、資金集めに苦労し、会期も4月6日から4月15日まで(当時のギリシャのユリウス暦では3月25日から4月3日まで)の10日間と短かった。又、参加者は古代オリンピック同様男子のみであった(女子の参加は第2回オリンピック以降になる)。
実施競技は、・陸上競技・競泳競技(実施場所・ゼーア湾)、・体操、・ウエイトリフティング(体操の種目)、・レスリング(グレコローマンスタイルのみ)、。フェンシング、・射撃、・自転車、・テニスであった。
この大会陸上競技では12種目中、9種目でアメリカ選手が優勝、100mの予選では、全てのレースでアメリカ選手が1位になった。他の国の選手がスタンディングスタートであるのに対して、クラウチングスタートをしていたためだといわれている。100mで優勝したトーマス・バークのクラウチング・スタートは各国選手の注目を集めたという。
陸上競技短・中距離走では優勝者を出せなかったギリシャは、大会最終日の、古戦場から競技場までのコースでおこなわれたマラトン(マラソン)で、無名の牧夫であるスピリドン・ルイスが優勝している。最後の200mでは、大喜びのコンスタンティノス皇太子、ジョージ親王(ゲオルギオス1世、ギリシャ王)が伴走したという(アテネオリンピック (1896年) における陸上競技参照)。
競泳競技(ここ参照)は、水夫のための100m自由形1種目のみで、競技の場所は港(ゼーア湾)の海面であった。第2回パリ大会はセーヌ川、第3回セントルイス大会は人工湖が舞台となった。初めてプールが作られたのは、1908年の第4回ロンドン大会で、しかもプールの長さは今の倍の100で、メーンスタジアムのフィールド内に設置されていた。1 00メートル種目では、まさに陸上のごとく、一直線のコース上で火花が散らされた。今のような50 メートルプールで行われるようになったのは、1924 年の第8回パリ大会からだという(※9参照)。
古代オリンピックでは、パンクラチオンこそオリンピックを代表する競技であり、優勝者は民族の誇りだったが、第1回大会からレスリング、1904年セントルイスオリンピックからボクシングが正式種目として実施されているが、パンクラチオンは危険だという事と国際連盟が存在しなかった事等が理由でいまだに実施されていないが、こんな危険な競技はオリンピック種目としては難しいのだろう。競技のことについては、※1の競技紹介参照されたい。ここではこれ以上のことは省略する。
各国の獲得メダル数は、1位アメリカ合衆国 金11 銀7 銅2 計20個。2位2ギリシャ(開催国)金10、 銀17 、 銅19、計46個、3位ドイツ 金6 、銀 5、銅2 計13個の順だったそうだ。開催国としてメダル総数では1位アメリカの倍以上獲得しており、面目を保っている。
尚、財政事情により、第1回オリンピックでは金メダルは無く、優勝者には銀メダル、第2位の選手には銅メダルが贈られ、第3位の選手には賞状が授与されたという。又、当時は国家単位ではなく個人名義による自由出場だったため、国混合チームが出場していたそうだ。
そして、先にも書いたように、1859年のアテネでの「オリンピア競技祭」は、独立記念としのて第1回復活オリンピック大会であり、国家の産業を振興させるという目的で,産業博覧会と運動競技を合わせたオリンピア競技会を開催していたが、その後の1870年には、運動競技中心のオリンピア競技祭への移行をしているが、これは、近代国際オリンピック競技会においても同じような経過を辿っている。
それでも両者は,芸術的成果への尊敬を忘れなかったようだ。ギリシャでは,1870年の第2回オリンピア競技祭で,産業製品競技の一部として芸術競技が行われ、近代国際オリンピック競技会も,1912年の第5回オリンピック競技会(ストックホルムオリンピック)から芸術競技が導入された。その中身は、絵画,彫刻,建築,音楽などであり、奇しくも同じ内容であったという。
古代オリンピックは神を讃えるという信仰的要素が強いものであり、その点で、スポーツは強く美しい肉体で神を表現することから生まれたものであり、芸術表現も同じく神を表現する一手段であった。また、近代オリンピックにおいてもその理念として「肉体と精神の向上の場」が掲げられており、クーベルタン男爵の希望もあり芸術競技が採用された。
ただ、1948年のロンドンオリンピックまで合計7回の大会で正式競技として実施されたが、以降、正式競技から外れるが、芸術作品について客観的な基準をもって採点を行うことが困難であり、しばしば恣意的な判定があったのではないかとの批判が生じたことが理由とされているようだ。
しかし、このような批判は現在においてもフィギュアスケート、シンクロナイズドスイミング等の芸術的要素が重視される競技においても同様であり、近代オリンピックが「世界的な祭典」からより純粋にトップアスリートの競技の場として変貌していくなかでそぎ落とされたものともいえるようだ。
クーベルタン男爵がオリンピックの復活を提唱した日(2-2完)へ
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