今年・2014(平成26)年9月29日にスタートしたNHK朝の連続テレビ小説『マッサン』は、ビデオリサーチの調べでは初回視聴率は21,8%(※2)をとり、その後も連日20%台を確保し好スタートを切った。
『マッサン』は、ニッカウヰスキーの創業者であり、「日本のウイスキー(Japanese whisky)の父」 と呼ばれる竹鶴政孝とその誕生を支えた英国人の妻ジェシー・ロバータ・カウン(通称リタ)がモデルとなる“夫婦の奮闘記”である。
冒頭の画像は、結婚直後の竹鶴政孝・リタ夫妻(1920年頃)。
熱血漢で不器用で、どこか脇が甘い愛すべき日本男児、それがこのドラマのヒーロー・亀山政春(主演:玉山鉄二)ことマッサンであり、これがタイトルとなっているが、これは、リタが政孝のことを、”マッサン"と呼んでいた事にちなんでいる。
一連の連続テレビ小説における男性俳優が主演をつとめる作品としては、1995年度下期の『走らんか!』の三国一夫以来19年ぶりとなる。又、本作のヒロイン亀山エリー役には、朝ドラ史上初となる純外国人(アメリカ)の女優シャーロット・ケイト・フォックスがオーディションで選ばれたが、彼女の祖母は『マッサン』で演じる役柄と同じくスコットランド出身だそうである。
ドラマ『マッサン』第1週「鬼の目にも涙」(第1話)では、1971(昭和46)年北海道余市町のウィスキー蒸留所で開催された「スーパーエリー特別賞受賞祝賀式典」の会場にて、ウイスキー会社の創業者で社長の亀山政春は、壇上に飾られた自社製のウイスキー「スーパーエリー」と妻エリーの写真を眺め、彼女と過ごした日々を回想しているシーンから始まった。
回想シーンの後、ドラマは、スコッチウイスキーの製造を学ぶために本場スコットランドへ渡ったマッサンこと亀山政春が、2年の修業を終え、本場の技術と知識、そして、現地で出会い、結婚した妻のエリーを連れて、意気揚々と帰国するところから始まる。
しかし、広島の政春の実家では、外国人との結婚を母は猛反対するが、父は家業(酒造業)を継がせたい本心を抑え政春の進路を応援してくれる。
そして、第2週 10月6日からの第7話からは、サントリー創業者・鳥井信治郎も登場してきた。この後ドラマは、この二人の出会いが物語中盤を彩り、やがて舞台は大阪から北海道へと展開してゆく予定である。・・・が、あくまで、当ドラマは、実在の人物をモデルにはしているが、フィクションとして再構成した羽原大介のオリジナル作品であり、実在の竹鶴政孝のことをある程度調べてドラマを見ると面白さは増すだろう。
実在の人物竹鶴政孝(1894年6月20日 - 1979年8月29日)は、広島県、賀茂郡竹原町(現:竹原市。『安芸の小京都』 と呼ばれている。)の酒造業・竹鶴の本家で生まれた。
当時、広島の酒造業界では三浦仙三郎をリーダーに、抜群のブランドを誇った兵庫の灘酒に負けぬ酒を造ろうと、蔵元たちが酒づくりの改良に意欲的に取り組んでいたが、政孝の父・敬次郎もそのグループの主要メンバーだった。のちに三浦は麹をゆっくりと低温で発酵させる「吟醸づくり」の技術を確立し、酒には不向きとされていた広島の軟水から、灘酒に負けない高品質の酒をつくることに成功した。これが今日、灘・伏見と並び、日本の三大銘醸地と称されている広島(西条)の酒の始まりである。
1907(明治40)年、全国の酒を一堂に集め、その品質だけを純粋に競う「第1回清酒品評会」で優等1位、2位を広島酒が独占したのを始め1911(明治44)年に始まった全国新酒鑑評会など、鑑評会や品評会で広島酒が上位入賞したことで、全国銘柄になった。
敬次郎の酒づくりは厳しく、政孝も大きな影響を受け、厳しい信念を貫いた政孝の品質主義は、広島の環境と父を通じて育まれたようだ。2014年現在、政孝の生家(実家ではない。生まれた時、両親がちょうど本家に来ていた)の造り酒屋は「竹鶴酒造株式会社」という名称で今も続いており、NHK連続テレビ小説『マッサン』に登場する「亀山酒造」のロケ地となった(※1『マッサン』公式サイトのマッサン広島ロケリポート参照)。
上掲の画像は竹鶴酒造株式会社。
政孝は、大阪高等工業学校(後の旧制大阪工業大学、現在の大阪大学工学部)の醸造科にて学び同校の卒業を春に控えた1916(大正5)年3月、新しい酒である洋酒に興味をもっていた政孝は、卒業を待たずに就職したのが当時洋酒業界の雄であった大阪市の大阪の摂津酒造(摂津酒精醸造所、後に宝酒造と合併)であった。
19世紀にウイスキーがアメリカから伝わって以来、日本では欧米の模造品のウイスキーが作られていただけで純国産のウイスキーは作られていなかった。そこで摂津酒造は純国産のウイスキー造りを始めることを計画し、政孝は社長の阿部喜兵衛、常務の岩井喜一郎の命を受けて単身スコットランドに赴き、グラスゴー大学で有機化学と応用化学を学ぶ。
彼は現地で積極的にウイスキー蒸留場を見学し、頼み込んで実習を行わせてもらうこともあった。最終的に政孝はキャンベルタウンのヘーゼルバーン蒸留所で実習を行った(※※3:「NIKKA WHISKY」の竹鶴ノート | ニッカウヰスキー80周年参照).。
ウイスキー用の蒸留釜(ポットスチル)の内部構造を調べるため、専門の職人でさえ嫌がる釜の掃除を買って出たという逸話も残っているそうだ。政孝のこの現地修行が成功していなければ、現在の日本のウイスキーは実現していなかったともいわれている。
蒸留所での2年間の実習の中で、個性豊かなモルトにグレインウイスキーを混合して芳醇な味、香りに仕上げるブレンド技術を学んだ 政孝は、滞在中にジェシー・ロバータ・カウン(通称リタ)と親交を深めリタの家族が反対する中1920年1月8日結婚し、同年11月、リタを連れて日本に帰国。
結婚については実家の家族にも反対されるが、最終的にいったん政孝が分家するという形で一応の決着をみたようだ。結婚後、摂津酒造に程近い現在の住吉区帝塚山に新居を構えた。
帰郷後、政孝はウイスキー造りの研修結果を「実習報告」(竹鶴ノート)にまとめて岩井に提出し、摂津酒造はいよいよ純国産ウイスキーの製造を企画するも、不運にも第一次世界大戦後の戦後恐慌によって資金調達ができなかったため計画は頓挫した。
その後1922(大正11年)年政孝は摂津酒造を退社し、大阪の桃山中学(現:桃山学院高等学校)で教鞭を執り生徒に化学を教えていたという(※3の凛として、※4参照)。
1907(明治40)年に巧みな宣伝で「赤玉ポートワイン」(現在の赤玉スイートワイン)を発売し爆発的な人気を得てその土台を築いた大阪の洋酒製造販売業者壽(寿)屋(現在のサントリー)の創業者である鳥井信治郎は、その成功に満足せず、生涯の業績となるような新しい事業に着手した。その事業というのが日本人向けのウイスキーの製造であったが、日本ではまだアルコールに香料を加えたウイスキーの模造品しか作れなかったこの時代、鳥井も御多分に漏れず同じような模造ウイスキーである「ヘルメス・ウイスキー」や1920(大正9)年には,混成ウイスキーと炭酸を混ぜた発泡酒「ウイスタン」、今で言うハイボールを考え出し発売していたがうまくゆかず、本格的な国産ウイスキー生産の必要性を感じ、蒸留所を日本国内に設置することを計画していた。
そこで、スコットランドから技師を招聘しようと、三井物産のロンドン支店を通して現地のメーカー、大学に連絡を取ると、ウイスキーの製造技術を学んだ竹鶴政孝が帰国していたことを知る。
鳥井は、以前摂津酒造に模造ワイン製造を委託していたことがあり、政孝とも数度面会したことがあったことから、鳥井は政孝をスカウトすることにした。
1923(大正12)年、鳥井は日本でウイスキーを作れるのはお前しかいないと、10年契約、年俸4000円という破格の給料で政孝を迎え入れた。この年俸は、スコットランドから呼び寄せる技師に払うつもりだった額と同じと言われるが、大学卒の月給が40円から50円の時代、鳥居のウイスキーづくりにかける思いがどれだけ強かったかが理解できる。
尚余談だが、先に摂津酒造を退社した竹鶴は寿屋へ入る前に大阪の桃山中学で化学を教えていたと書いたが、ドラマ『マッサン』の第9週11月28日「虎穴に入らずんば虎子を得ず」の放送では、妻のエリーが苦労して鴨居(鳥居)の下でウイスキーづくりに参加するよう再三にわたって作った面談の機会も鴨居の作ろうとするウイスキーが本物ではないとして頑なに拒み続けたものの、まともな仕事も見つからず、食べてゆけない時期、エリーの家庭教師をしていた先から紹介された桃山中学への就職をしようと思っていたところへ、鴨居の方から、4000円の金を持ってスカウトに来たことになっていた。
当ドラマの『マッサン』は放送開始以来、週間平均視聴率が20%を超えていたが、第8週「絵に描いた餅」(11月17日~22日放送)の週間平均視聴率が19,3%(関東地区、ビデオリサーチ調べから算出)とダウンし大きな話題になっていたようだ。視聴率ダウンの原因をめぐっては、ネットにはさまざまな声が飛び交っていたが、最も多数を占めていたのはストーリー展開が遅すぎるという意見で、主人公の政春がウイスキーを作るという本筋になかなか進まなくてもどかしく感じる…と言ったことの様である。・・ひょっとしたら、NHKもそんなネット上の話題を気にして、本筋への展開を早めたのかな・・・?
確かに、今までのところは、マッサンよりも外人妻を演じているヒロイン・亀山エリーの方が中心になっていたし、ドラマを見る限り、エリー無くしてマッサンのウイスキーづくりはなかっように思うものね~。それに、全く日本語を話せなかったと言われるエリー役のシャーロット・ケイト・フォックスの日本語での演技が素晴らしい。NHKの朝ドラの視聴者など男性より女性の方が圧倒的に多いと思うが、マッサンの出世物語よりは、それを大正時代に日本へきて内助の功で支える外国人妻のエリーの方がホームドラマ的で受けるように思われるのだが・・・。これからの展開はマッサンのウイスキーづくりを中心とする本筋のドラマに入るのだろう・・・。
製造工場はスコットランドに似た風土の北海道に作るべきだと考えていた政孝だが、鳥井は消費地から遠く輸送コストがかかることと、客に直接工場見学させたいという理由で難色を示したという。そこで、政孝は大阪近辺の約5箇所の候補地の中から、良質の水が使え、スコットランドの著名なウイスキーの産地ローゼス(Rothes)の風土に近く、霧が多いという条件から山崎(大阪府島本町山崎)を候補地に推しそれが受け入れられた。工場および製造設備は政孝が設計した。特にポットスチル(ウイスキー用蒸留釜)は同種のものを製造したことのある業者が国内になく、政孝は何度も製造業者を訪れて細かい指示を与えたという。
1923(大正12)年、京都郊外・山崎に、日本初のモルトウイスキー蒸溜所・山崎工場(現在の山崎蒸溜所)の建設に着手、翌1924(大正13)年11月11日200万円もの巨費を投じた山崎工場が竣工し、政孝はその初代工場長となり、12月より蒸留が開始され国産ウイスキー製造への第一歩をふみ出した。
ウィスキーは麦芽(モルト)や穀物を原料として、これを糖化、発酵させたのち、蒸留し、さらに樽の中で熟成された酒をさし、ウイスキー製造の第一歩、麦芽(モルト)づくりから始まる(ここ参照)。
Wikipediaによれば、「竣工日は、麦芽(モルト)製造開始日の12月2日とされることもある」・・・ようなので、「今日のことあれこれと・・・」を主題に書いているこのブログでは便宜上この日に合わせて書いた次第。したがって、余りこの日付のことについてはこだわらないでください。
政孝はウイスキーの製造には、酒造りに勘のある者が欠かせないと考え、郷里・広島からから日本酒の杜氏十数人を集めて当たらせたという。
こうして、1929(昭和4)年国産初のウイスキー『サントリーウイスキー白札』(現在のサントリーホワイト)が発売された。このとき、初めて、「サントリー」の名称が使用された。これは当時発売していた赤玉ポートワインの「赤玉」を太陽に見立ててサン(英語のSUN)とし、これに鳥井の姓をつけて「SUN」+「鳥井」(とりい)=「サントリー」とした、ということになっているようだ。その後1963(昭和38)年のビール発売を機に、この「サントリー」を社名に採用し、現在に至っている。
上掲の画像は「サントリーウイスキー白札」のポスター。小さくて見にくいが、左下には「・・・彼地仕込みの出藍(しゅつらん)の技師が精魂傾けて造り上げ、空気清澄な酒蔵で、丸七年貯蔵した生一本!恐らく舶来の虚栄はやがてもう昔譚(むかしばなし)となるでせう!」と書かれている。『朝日クロニクル週刊20世紀』1937年号より。
しかし、壽屋の命運をかけた「白札」は市場では輸入ウイスキー(その多くはスコッチウイスキーであった)の味に慣れてしまっていた日本人からは「焦げ臭い」「煙くさい」など散々な批評を受け思うようには売れなかった。ウヰスキーは10年以上熟成させた原種と5年くらいの新しい原種をブレンドすると美味くなるが、まだ新しい原種しかなかったのである。工場の建設だけでも莫大な費用が掛かっている為、会社としては経営上、10年の熟成は待てなかったのであった。
山崎工場が竣工したのは1924年、発売が1929念だと5年しかないので。広告上手で知られる壽屋ではあるが、このポスターの「丸七年貯蔵した生一本」はインチキだよね~・・・。
また翌・1930(昭和5)年には廉価版ウイスキーとして、赤札(現在のサントリーレッド)を発売するが、これも売れ行きは芳しくなく、途中で販売中止を余儀なくされることになった。
この頃から鳥井と正孝のスタンス(物事に取り組む姿勢。心構え。態度。立場)の違いは明白になってきていたようだ。本格的ウイスキーの国産化という基本目標は共通していたものの、酒蔵の息子として産まれた職人肌の技術者で、本場流スコッチの再現に強くこだわる正孝の姿勢に、薬種問屋の丁稚上がりで広告戦略にも長けたビジネスマンの鳥井は、必ずしも全面的賛同はしていなかった。
実際のところ、鳥井は全く採算の取れないウイスキー事業を「身を削りつつ」維持し続けていた。当時の寿屋の主力商品「赤玉ポートワイン」での収益は、その多くがウイスキー事業での赤字で損なわれ、サイドビジネスとして実績を上げつつあった喫煙者向け歯磨き粉「スモカ歯磨」の製造権・商標を売却してしのいだほどであったという。この現実が正孝の理想論と合致しないのはやむを得ないことであったのかもしれない。
しかし幸か不幸か売れ残った原種が歳月と共に熟成し、立派な原酒となり、1937(昭和12)年、亀甲模様の瓶に黄色いラベルを添えた上級ウイスキー「サントリーウイスキー12年」(12年間熟成させたもの)として生まれ変わった。後に「角瓶」と呼ばれるウイスキーである。
政孝主導での草創期から長らく貯蔵・蓄積された原酒をブレンディングベースに、政孝の退社を経て、鳥居はウイスキー製造の方針を根本的に改め、それまでに鳥井が自身で得た経験、さらに長男・鳥井吉太郎の手によって企画され、ウイスキーとしての十分な品質を達成しながら、日本人にも受け入れやすい味とし、なおかつ、収益を上げられる商品として開発されてきたものであり評判は上々であった。、
上掲の画像は、サントリーウイスキー角瓶。『朝日クロニクル週刊20世紀』1937年号より。
これが失敗したら壽屋は倒産しかない、という危機的状況下であったが、おりしも日本が戦時体制に突入しつつある中、舶来産のウイスキーが輸入停止になったことなども幸いし、好調に売り上げを延ばしていった。売れ行き好調の波に乗り、翌1938(昭和13)年、寿屋は大阪梅田の地下街に直営の「サントリーバー」を開設した。
そして、太平洋戦争勃発前の1940(昭和15)年「サントリーウイスキーオールド」の製造を発表するが、戦時下でもあり奢侈品統制令が出されて日の目は見なかった。
間もなくして日本は第二次世界大戦へと突入してゆくが、その間鳥井は当時の日本海軍の取り計らいで手に入れた麦をもとに軍用ウイスキーを製造し続けることになる。やがて日本は敗戦したが、山崎蒸溜所は戦災に遭うこともなく、ウイスキーの生産を続けるに至った。
そして10年経った戦後復興の最中の1950(昭和25)年に、オールドは世に送り出された。その瓶の形状から、ダルマなどの愛称がつけられている。実に高価なウイスキーで庶民からは憧れの的であった。と同時に夜の歓楽街にあるバー・クラブ・スナックなどの店では、芳醇なモルトの味は高い人気を集め、高度経済成長期には、壽屋の売り上げの殆どをオールドで占めた時代もあるほどの売り上げを記録し、サントリーのウイスキーの代表的なブランドを決定づけた。年を負うごとにつれて、徐々にではあるものの、一般の間にも浸透しつつあったが、やはり高級ウイスキーであることには変わらず、人々から一種のステータス的な存在でもあった。
上掲の画像は「サントリーオールド」のポスター。1950年。パケージは版画家の宗像志功による。
一方、自分の理想とするウイスキーづくりを目指した政孝は、1934(昭和9)年3月1日、10年契約の切れるのを契機に退社し北海道余市町でのウイスキー工場(現在の余市蒸溜所)を造ることを決意する。湿地帯が続く余市川沿いには適度の湿度があり、ウイスキーの香りづけに欠かせないピート(Peat=泥炭)層もあった。スコットランドの風土に似た北海道こそ、ウイスキーの理想の地とみていたからだ。
ところで、政孝のサントリー退社の経緯であるが、1929 (昭和4 )年の『白札サントリー』が発売された年に、政孝は、鳥井より、横浜のビール工場工場長兼任を命じられているが、 これには、左遷されたとする話もある。(オリーヴ・チェックランド、1998『マッサンとリタ(和気洋子訳)。1938(昭和8)年、壽屋が、拡張工事にかかっている最中の横浜工場を大日本麦酒傘下の麦酒共同販売(大日本麦酒が日本麦酒鉱泉を合併し現麒麟麦酒と設立した会社)に売却し、政孝はショックを受けていたようである。
又、別の話としては、壽屋の上田武敏、佐藤喜吉らの新技術陣と相容れず、ブレンドについても鳥井と意見が合わず、横浜のビール工場へ送られた、そして、新技術陣、鳥井信治郎と意見が合わず、壽屋を退社することになった(杉森久英(1983)『美酒一代』新潮文庫)との意見もある(※8参照)・・・が、私も感じとしてはそれが真実ではないかという気はするのだが、ドラマ、小説その他、色々話があるようで、私も本当のことはあまりよく判らないまま書いている点、承知しておいてください。
北海道余市はリンゴの産地でもあった(余市は、日本で初めて民間の農家がリンゴの栽培に成功したところとされている)。
ウイスキーは製造開始から出荷までに数年かかるため出荷までは、当然ウイスキー製造による収益はない。そこで竹鶴は、事業開始当初は余市特産のリンゴを絞ってリンゴジュースを作り、その売却益でウイスキー製造を行う計画であった。そこで、資本を集め、7月に大日本果汁株式会社(現:ニッカウヰスキー)を設立し、代表取締役専務に就任した。
筆頭株主は加賀証券社長加賀正太郎。加賀の妻は1924年以来、政孝の妻のリタから英会話を学んでおり、政孝が事業を始めることを聞いた加賀が他の2人の出資者と共に政孝を支援することにしたという(※6:大場蘭園HPの「マッサンと加賀正太郎」'参照)。資本金はわずか10万円、山崎工場の20分の1だったそうだ。
この記述も政孝自身の自伝を元にしているが、Wikipediaによれば、出資者の記述はこれとはだいぶ異なり、竹政は余市で起業する際、壽屋と鳥井には大変に恩があるので、余市でウイスキー製造をする気はない、大日本果汁はその名の通り、リンゴジュースを製造販売する会社だと説明して出資を募ったという。創業後、莫大な返品と積み上がった在庫をどうするのかという話になったところで、ようやくそれらを使って蒸留酒を造る、そのついでに少量のウイスキーも仕込む、という話を持ち出して来たという。・・・と。
実際、大日本果汁は、創業後しばらくは酒造免許を取得していない・・・・。
大日本果汁は 1935(昭和10)年5月、日果林檎ジュース(アップルジュース)の出荷を開始。しかし政孝の品質へのこだわりはジュースにも及び、他社が6銭の果汁入り清涼飲料を作っていたのに対して30銭もする果汁100%ジュースしか販売しなかったため、あまり売れなかったという。混ぜ物をしていないため製品が濁ることがあり、誤解した消費者や小売店からの返品も相次いだようだ。
翌1936(昭和11)年に、ウイスキー・ブランデーの製造免許を受け、製造を開始。1938(昭和13)年「ニッカアップルワイン」を発売している。
そして、政孝が余市で製造した自社製ウイスキー第一号に社名の「日」「果」をとり「ニッカウヰスキー」と命名して発売したのは、壽屋(現サントリー)で、日本初の本格ウイスキー「サントリー白札」を世に送り出してから6年を経過した1940(昭和15)年のことである。
上掲の画像は「ニッカウヰスキー」のポスター。政孝のモットウだった「本格醸造品質第一」の文字が記されている。『朝日クロニクル週刊20世紀』1937年号より。
販売直後に、物価統制の時代に入り、大日本果汁は海軍監督工場となった。当時スコッチウイスキーの国内最大の消費者は帝国海軍であったが、イギリスからのウイスキー輸入が途絶えたため、日本国産ウイスキーへの需要が高まった。このときは将校への配給用の酒を製造するために優先的に原料の大麦が割り当てられたため、事業の継続が可能となった。1943(昭和18)年政孝は専務から社長に就任している。
しかし、終戦(1945年)と同時に状況は一変する。
正孝の自伝「ウイスキーと私」によると、当時ウヰスキーは配給制度で、配給価格は120円のものが闇で1500円もしていたが、会社が闇行為をするわけにもいかず本格ウヰスキーは作るだけで損をする状況になり、本物にこだわる政孝も技術者と経営者の葛藤に苦しむことになる。
1949(昭和24)年酒類は自由販売となるが、他社はアルコールに香りと色だけを付けた三級ウイスキーを大量に売り稼いでいた。当時三級ウイスキーの定義は「原酒が5%未満ゼロ%まで入っているもの」であった(※9:「ウイスキーの級別について」参照)。
品質にこだわり、イミテーションウイスキーはウイスキーではないと主張する政孝にとって、三級ウイスキーの製造は考えられなかったが、経営は苦しく、給料も遅配する状況下では、背に腹は代えられず三級ウイスキーを製造することになる。その製造担当には息子の威(たけし)が当たり、翌1950(昭和25)年「スペッシャルブレンドウイスキー」が販売された。500mlで350円。せめてもの抵抗で原酒は上限5%まで入れていた。
1952(昭和27)年、東京に本社を移し社名をニッカウヰスキーに変更。東京都港区麻布に東京工場を建設するなど徐々に事業を拡げてゆく。
1953(昭和28)年酒税法改正で、一級から三級が特級から二級に変わった。
1954 (昭和29)年大日本果汁の出資者加賀正太郎と柴川又三郎が発行株式の半数にあたる持ち株を朝日麦酒(アサヒビール)社長山本為三郎に売却。(今はアサヒビールが社名変更したアサヒグループホールディングスのグループ下にある)。
山本は営業強化の為に弥(彌)谷醇平(やたにじゅんぺい)という凄腕を送り込んだ。コロンビア大学で経営を学んだ弥谷は正孝に価格引き下げを進言。
壽屋の二級「トリスウイスキー」は640mlで340円。しかし、ニッカの二級を同価格にすると3割ほど原価割れしたが、弥谷は「売り上げが全国で87%伸びれば黒字に転じる」と主張したという。
そして、1956(昭和31)年新たに、二級の「丸びんウイスキー(通称丸びんニッキー)」(※10参照)を640ml340円で発表。初のテレビCMも放送した。
丁度、トリスバー、オーシャンバーなどが人気を呼び洋酒ブームが到来していた時であり、ニッカバーも追随。それに乗って「丸びんニッキー」は大ヒットとなる。
1961(昭和36)年1月、正孝の妻リタが亡くなる。その喪失感から正孝を救ったのもウイスキーであった。息子の威と貯蔵庫にこもり、ティスティング(tasting)を繰り返し翌1962(昭和37)年、新作「スーパーニッカ」を発表した。
720mlで3千円。当時大卒の初任給が約15,000円程度だったのでその5分の1という高級品であった。余市蒸留所で作った原種からえりすぐってブレンドした自信作だった。
上掲の画像は、「スーパーニッカ」である。
ところで、上掲の画像「スーパーニッカ」を見て、何か思い出しませんでしたか。
このブログ、冒頭で、NHKの朝ドラ『マッサン』第1週「鬼の目にも涙」(第1話)では、1971(昭和46)年北海道余市町のウィスキー蒸留所で開催された「スーパーエリー特別賞受賞祝賀式典」の会場にて、ウイスキー会社の創業者で社長の亀山政春は、壇上に飾られた自社製のウイスキー「スーパーエリー」と妻エリーの写真を眺め、彼女と過ごした日々を回想しているシーンから始まった。…と書いたが、このシーンで写っていたウイスキー「スーパーエリー」は、ボトルの形から見て、どう見ても「スーパーニッカ」ではないかと思う。ロケ地は、実在のニッカ余市蒸溜所なのだろう。
イングランドで知り合ったリタが「日本で本物のウイスキーをつくりたい」という正孝の夢に打たれて「私はあなたの夢を共に生き、お手伝いしたいのです」と、両親の反対を押し切ってまで結婚し、正孝について日本にまで来た。そして、数々の苦労をしながら良きパートナーとして正孝のウイスキーづくりを助けてきた。正孝にとってなくてはならならなかたリタ。発売の前年に亡くなった政孝の最愛の妻リタに対する鎮魂の意味も込めて作ったものであったと正孝の息子威はいう。
だからこそ、ドラマ『マッサン』の初回回想シーンで、「スーパーニッカ」と思われるものが使われたのだろう。
この翌年には二級の「ハイニッカ」を発売。
二級ウイスキーとして発売当時500円という低価格で発売され大人気になった商品である。当時の「ハイニッカ」は、二級ウイスキーであるが故、現在よりもスピリッツを多く含ませてウイスキー原酒の割合を少なくして販売していた。それでも酒税法の限度一杯までモルトを使用していた(ここ参照)。これに対して、この時期にはライバルとなっていたサントリーが対抗してかつての赤札(現在のサントリーレッド)を同価格帯で復活させて、応戦するという事態にもなった。
兎に角、「スーパーニッカ」「ハイニッカ」のどちらも評判がよく、「ニッカ」が全国ブランドへと本格的に成長していくことになった。
さて、「日本のウイスキー(Japanese whisky)」の父と云われる竹鶴政孝とその妻リタをモデルにしたNHK連続テレビ小説『マッサン』の高視聴率にも押されて売れ行きを伸ばしていた、サントリーやアサヒビール傘下のニッカウヰスキーは「ブームの再来」に期待を寄せている.。
国産ウイスキーが誕生して約90年。両社は国産ウイスキーの代表であり、いまやその味は本場スコットランドをはじめ、世界のウイスキー好きを唸らせているようだ。
今年・2014(平成26)年11月3日発売の英国の「ワールド・ウイスキー・バイブル2015(Whisky Bible)」が、日本のウイスキー「山崎シングルモルト・シェリーカスク2013(The Yamazaki Single Malt Sherry Cask 2013)」(サントリーー酒類)を、世界最高のウイスキーに選出したことが報じられた(※11参照)。日本のウイスキーが最優秀となったのは初めてのことである
サントリーによると、2014年1~10月期のウイスキーの売上高は、前年同期比5%増と、好調に推移しており、なかでも、「山崎」や「響」「白州」といったプレミアムウイスキーの売上高は、2割強も伸びた。同社は2014年の「インターナショナル スピリッツ チャレンジ」でも、「響21年」や「山崎18年」「白州25年」「ジムビームシグニチャークラフト12年」(バーボン)などの18品が金賞を受賞しているという(※7のここ参照)。
一方、ニッカウヰスキーの親会社のアサヒビールも、「好機到来」を実感しており、2014年1~9月期の国産ウイスキーの売り上げは、前年同期に比べて9%増えた。又、朝ドラの「マッサン」の放映がはじまった9月単月だと22%増だったという。とりわけ「竹鶴」ブランドは1~9月期に42%増、9月単月では62%増と絶好調で、同社の柏工場(千葉県)は休日返上のフル稼働状態だという。
今年・2014(平成26)年は、ニッカウヰスキーにとって創業80周年、竹鶴政孝の生誕120周年の節目にあたるため、「年初から販売を強化してきた」というが、高視聴率を叩き出している朝ドラが「追い風」になっているようだ。
かつてのウイスキーブームは1983(昭和58)年のこと。サントリーではこの年、課税数量ベースで35万9000キロリットル(1箱8.4リットル換算で4273万箱)、ニッカウヰスキーでも5万8650キロリットル(698万箱)を売り上げていが,これをピークに、若者の酒離れや低アルコール志向を受け、ウイスキーの売り上げは下降線をたどり、2008年頃には、かつての5分の1の規模にまで縮小していたが、このころから、ちょっとした「ハイボール人気」で再び火がつき、それ以降右肩上がりに転じていた。
これには、かつては日本古来の焼酎を大衆酒と位置付けて低税率とする一方、ウイスキー、ブランデー等の洋酒は高級酒とされて高税率であったが、これについて洋酒生産国から非関税障壁であるとの批判を受けて2008(平成20)年に税率が改正され、ウイスキー、ブランデーも、焼酎やスピリッツ(蒸留酒)同様、アルコール度数37°以上の場合、等しい税額が賦課されるようになったことも影響しているのかもしれない。
兎に角、これを機会にと、2008頃から、ウイスキー業界1位のサントリーがウィスキーの増産に乗り出せば、2位のニッカは14年ぶりに「スーパーニッカ」をリニューアルし、ウイスキーの販売拡大に転じていた。そのような努力もあってのことだろうが、今、実に約30年ぶりの活況を呈しているようだ。
ニッカは朝ドラにタイミングを合わせるように、新ブランド「ザ・ニッカ」(ここ参照)を9月30日に発売し、モルトの香り豊かな「12年」(税別5000円)と濃厚さが特徴の「40年」(同50万円)を出し、基本的には国内に注力。「40年」は700本限定だそうである。
今では筆頭株主からニッカの全株式を取得して親会社となっているアサヒビール「の平野信一専務は「本物の高級ウイスキー。創業80周年の節目に総力を挙げる」と宣言している。
一方のサントリーは10月1日付でサントリーホールディングス社長にローソンの前会長・新浪剛史氏が就任して攻勢をかける。海外販路の拡大が狙いだが、国内向けにもウイスキー復調を引っ張っている「角ハイボール」のさらなるヒットに力を入れるという。
どちらも「国産ウイスキーの草分けはこっち」というプライドがかかっている。ドラマ『マッサン』が回を重ねていくに従って、両社のライバル心も熱くなることだろう。
しかし、ここ数年の若者を中心としたハイボールブームは、かっての酎ハイブームに似たようなものだが、これを引き起こしたのは、若者の低アルコール、炭酸嗜好によるものと思われるが、ハイボールはビールなどと比較すれば安いため、不況による節約志向と相まって売れていたこともある。
ハイボールで、低アルコールの軽いウィスキーの旨さを知った若者世代が、果たしてどれくらいシングルモルトなど「本物」のウイスキー市場に戻ってくるのかどうかは両社の努力次第だろう。
両社とも質を高めた自社の高級ウイスキーを、てこに、新たな顧客層としての若者や外国人観光客を取り込む考えのようだ。
今アベノミクス効果?によるものかどうかは知らないが、円安株高での景況感から、外人観光客も増加しているし、ワインの売れ筋の価格帯が2000円台以上に上昇してきたとも聞いている。
中間層以上の円安メリットを享受している人達にとっては高級ウイスキーも良いだろうが、アベノミクスは所得格差も産み、中間層より下のものには、これからも手ごろなハイボールを愉しむしか仕方がない人も多いことだろう。
私は、ドラマ『マッサン』 の主人公のモデルとなったジャパニーズウイスキー生みの親と云われる竹鶴政孝よりも、その外国人妻である・リタの方に興味がある。以下のYouTubeでは、そんな二人のことがよく判る。全三話構成の 第二話であるが、アクセスすると、横のリンク蘭で第一話第三話も見れる。ちょっと、ニッカのCM臭いが・・・。
ウイスキー浪漫 竹鶴の夢 第二話【ニッカウヰスキー】―YouTube
サントリー山崎蒸溜所にてウイスキーの蒸溜作業を開始(参考)へ
『マッサン』は、ニッカウヰスキーの創業者であり、「日本のウイスキー(Japanese whisky)の父」 と呼ばれる竹鶴政孝とその誕生を支えた英国人の妻ジェシー・ロバータ・カウン(通称リタ)がモデルとなる“夫婦の奮闘記”である。
冒頭の画像は、結婚直後の竹鶴政孝・リタ夫妻(1920年頃)。
熱血漢で不器用で、どこか脇が甘い愛すべき日本男児、それがこのドラマのヒーロー・亀山政春(主演:玉山鉄二)ことマッサンであり、これがタイトルとなっているが、これは、リタが政孝のことを、”マッサン"と呼んでいた事にちなんでいる。
一連の連続テレビ小説における男性俳優が主演をつとめる作品としては、1995年度下期の『走らんか!』の三国一夫以来19年ぶりとなる。又、本作のヒロイン亀山エリー役には、朝ドラ史上初となる純外国人(アメリカ)の女優シャーロット・ケイト・フォックスがオーディションで選ばれたが、彼女の祖母は『マッサン』で演じる役柄と同じくスコットランド出身だそうである。
ドラマ『マッサン』第1週「鬼の目にも涙」(第1話)では、1971(昭和46)年北海道余市町のウィスキー蒸留所で開催された「スーパーエリー特別賞受賞祝賀式典」の会場にて、ウイスキー会社の創業者で社長の亀山政春は、壇上に飾られた自社製のウイスキー「スーパーエリー」と妻エリーの写真を眺め、彼女と過ごした日々を回想しているシーンから始まった。
回想シーンの後、ドラマは、スコッチウイスキーの製造を学ぶために本場スコットランドへ渡ったマッサンこと亀山政春が、2年の修業を終え、本場の技術と知識、そして、現地で出会い、結婚した妻のエリーを連れて、意気揚々と帰国するところから始まる。
しかし、広島の政春の実家では、外国人との結婚を母は猛反対するが、父は家業(酒造業)を継がせたい本心を抑え政春の進路を応援してくれる。
そして、第2週 10月6日からの第7話からは、サントリー創業者・鳥井信治郎も登場してきた。この後ドラマは、この二人の出会いが物語中盤を彩り、やがて舞台は大阪から北海道へと展開してゆく予定である。・・・が、あくまで、当ドラマは、実在の人物をモデルにはしているが、フィクションとして再構成した羽原大介のオリジナル作品であり、実在の竹鶴政孝のことをある程度調べてドラマを見ると面白さは増すだろう。
実在の人物竹鶴政孝(1894年6月20日 - 1979年8月29日)は、広島県、賀茂郡竹原町(現:竹原市。『安芸の小京都』 と呼ばれている。)の酒造業・竹鶴の本家で生まれた。
当時、広島の酒造業界では三浦仙三郎をリーダーに、抜群のブランドを誇った兵庫の灘酒に負けぬ酒を造ろうと、蔵元たちが酒づくりの改良に意欲的に取り組んでいたが、政孝の父・敬次郎もそのグループの主要メンバーだった。のちに三浦は麹をゆっくりと低温で発酵させる「吟醸づくり」の技術を確立し、酒には不向きとされていた広島の軟水から、灘酒に負けない高品質の酒をつくることに成功した。これが今日、灘・伏見と並び、日本の三大銘醸地と称されている広島(西条)の酒の始まりである。
1907(明治40)年、全国の酒を一堂に集め、その品質だけを純粋に競う「第1回清酒品評会」で優等1位、2位を広島酒が独占したのを始め1911(明治44)年に始まった全国新酒鑑評会など、鑑評会や品評会で広島酒が上位入賞したことで、全国銘柄になった。
敬次郎の酒づくりは厳しく、政孝も大きな影響を受け、厳しい信念を貫いた政孝の品質主義は、広島の環境と父を通じて育まれたようだ。2014年現在、政孝の生家(実家ではない。生まれた時、両親がちょうど本家に来ていた)の造り酒屋は「竹鶴酒造株式会社」という名称で今も続いており、NHK連続テレビ小説『マッサン』に登場する「亀山酒造」のロケ地となった(※1『マッサン』公式サイトのマッサン広島ロケリポート参照)。
上掲の画像は竹鶴酒造株式会社。
政孝は、大阪高等工業学校(後の旧制大阪工業大学、現在の大阪大学工学部)の醸造科にて学び同校の卒業を春に控えた1916(大正5)年3月、新しい酒である洋酒に興味をもっていた政孝は、卒業を待たずに就職したのが当時洋酒業界の雄であった大阪市の大阪の摂津酒造(摂津酒精醸造所、後に宝酒造と合併)であった。
19世紀にウイスキーがアメリカから伝わって以来、日本では欧米の模造品のウイスキーが作られていただけで純国産のウイスキーは作られていなかった。そこで摂津酒造は純国産のウイスキー造りを始めることを計画し、政孝は社長の阿部喜兵衛、常務の岩井喜一郎の命を受けて単身スコットランドに赴き、グラスゴー大学で有機化学と応用化学を学ぶ。
彼は現地で積極的にウイスキー蒸留場を見学し、頼み込んで実習を行わせてもらうこともあった。最終的に政孝はキャンベルタウンのヘーゼルバーン蒸留所で実習を行った(※※3:「NIKKA WHISKY」の竹鶴ノート | ニッカウヰスキー80周年参照).。
ウイスキー用の蒸留釜(ポットスチル)の内部構造を調べるため、専門の職人でさえ嫌がる釜の掃除を買って出たという逸話も残っているそうだ。政孝のこの現地修行が成功していなければ、現在の日本のウイスキーは実現していなかったともいわれている。
蒸留所での2年間の実習の中で、個性豊かなモルトにグレインウイスキーを混合して芳醇な味、香りに仕上げるブレンド技術を学んだ 政孝は、滞在中にジェシー・ロバータ・カウン(通称リタ)と親交を深めリタの家族が反対する中1920年1月8日結婚し、同年11月、リタを連れて日本に帰国。
結婚については実家の家族にも反対されるが、最終的にいったん政孝が分家するという形で一応の決着をみたようだ。結婚後、摂津酒造に程近い現在の住吉区帝塚山に新居を構えた。
帰郷後、政孝はウイスキー造りの研修結果を「実習報告」(竹鶴ノート)にまとめて岩井に提出し、摂津酒造はいよいよ純国産ウイスキーの製造を企画するも、不運にも第一次世界大戦後の戦後恐慌によって資金調達ができなかったため計画は頓挫した。
その後1922(大正11年)年政孝は摂津酒造を退社し、大阪の桃山中学(現:桃山学院高等学校)で教鞭を執り生徒に化学を教えていたという(※3の凛として、※4参照)。
1907(明治40)年に巧みな宣伝で「赤玉ポートワイン」(現在の赤玉スイートワイン)を発売し爆発的な人気を得てその土台を築いた大阪の洋酒製造販売業者壽(寿)屋(現在のサントリー)の創業者である鳥井信治郎は、その成功に満足せず、生涯の業績となるような新しい事業に着手した。その事業というのが日本人向けのウイスキーの製造であったが、日本ではまだアルコールに香料を加えたウイスキーの模造品しか作れなかったこの時代、鳥井も御多分に漏れず同じような模造ウイスキーである「ヘルメス・ウイスキー」や1920(大正9)年には,混成ウイスキーと炭酸を混ぜた発泡酒「ウイスタン」、今で言うハイボールを考え出し発売していたがうまくゆかず、本格的な国産ウイスキー生産の必要性を感じ、蒸留所を日本国内に設置することを計画していた。
そこで、スコットランドから技師を招聘しようと、三井物産のロンドン支店を通して現地のメーカー、大学に連絡を取ると、ウイスキーの製造技術を学んだ竹鶴政孝が帰国していたことを知る。
鳥井は、以前摂津酒造に模造ワイン製造を委託していたことがあり、政孝とも数度面会したことがあったことから、鳥井は政孝をスカウトすることにした。
1923(大正12)年、鳥井は日本でウイスキーを作れるのはお前しかいないと、10年契約、年俸4000円という破格の給料で政孝を迎え入れた。この年俸は、スコットランドから呼び寄せる技師に払うつもりだった額と同じと言われるが、大学卒の月給が40円から50円の時代、鳥居のウイスキーづくりにかける思いがどれだけ強かったかが理解できる。
尚余談だが、先に摂津酒造を退社した竹鶴は寿屋へ入る前に大阪の桃山中学で化学を教えていたと書いたが、ドラマ『マッサン』の第9週11月28日「虎穴に入らずんば虎子を得ず」の放送では、妻のエリーが苦労して鴨居(鳥居)の下でウイスキーづくりに参加するよう再三にわたって作った面談の機会も鴨居の作ろうとするウイスキーが本物ではないとして頑なに拒み続けたものの、まともな仕事も見つからず、食べてゆけない時期、エリーの家庭教師をしていた先から紹介された桃山中学への就職をしようと思っていたところへ、鴨居の方から、4000円の金を持ってスカウトに来たことになっていた。
当ドラマの『マッサン』は放送開始以来、週間平均視聴率が20%を超えていたが、第8週「絵に描いた餅」(11月17日~22日放送)の週間平均視聴率が19,3%(関東地区、ビデオリサーチ調べから算出)とダウンし大きな話題になっていたようだ。視聴率ダウンの原因をめぐっては、ネットにはさまざまな声が飛び交っていたが、最も多数を占めていたのはストーリー展開が遅すぎるという意見で、主人公の政春がウイスキーを作るという本筋になかなか進まなくてもどかしく感じる…と言ったことの様である。・・ひょっとしたら、NHKもそんなネット上の話題を気にして、本筋への展開を早めたのかな・・・?
確かに、今までのところは、マッサンよりも外人妻を演じているヒロイン・亀山エリーの方が中心になっていたし、ドラマを見る限り、エリー無くしてマッサンのウイスキーづくりはなかっように思うものね~。それに、全く日本語を話せなかったと言われるエリー役のシャーロット・ケイト・フォックスの日本語での演技が素晴らしい。NHKの朝ドラの視聴者など男性より女性の方が圧倒的に多いと思うが、マッサンの出世物語よりは、それを大正時代に日本へきて内助の功で支える外国人妻のエリーの方がホームドラマ的で受けるように思われるのだが・・・。これからの展開はマッサンのウイスキーづくりを中心とする本筋のドラマに入るのだろう・・・。
製造工場はスコットランドに似た風土の北海道に作るべきだと考えていた政孝だが、鳥井は消費地から遠く輸送コストがかかることと、客に直接工場見学させたいという理由で難色を示したという。そこで、政孝は大阪近辺の約5箇所の候補地の中から、良質の水が使え、スコットランドの著名なウイスキーの産地ローゼス(Rothes)の風土に近く、霧が多いという条件から山崎(大阪府島本町山崎)を候補地に推しそれが受け入れられた。工場および製造設備は政孝が設計した。特にポットスチル(ウイスキー用蒸留釜)は同種のものを製造したことのある業者が国内になく、政孝は何度も製造業者を訪れて細かい指示を与えたという。
1923(大正12)年、京都郊外・山崎に、日本初のモルトウイスキー蒸溜所・山崎工場(現在の山崎蒸溜所)の建設に着手、翌1924(大正13)年11月11日200万円もの巨費を投じた山崎工場が竣工し、政孝はその初代工場長となり、12月より蒸留が開始され国産ウイスキー製造への第一歩をふみ出した。
ウィスキーは麦芽(モルト)や穀物を原料として、これを糖化、発酵させたのち、蒸留し、さらに樽の中で熟成された酒をさし、ウイスキー製造の第一歩、麦芽(モルト)づくりから始まる(ここ参照)。
Wikipediaによれば、「竣工日は、麦芽(モルト)製造開始日の12月2日とされることもある」・・・ようなので、「今日のことあれこれと・・・」を主題に書いているこのブログでは便宜上この日に合わせて書いた次第。したがって、余りこの日付のことについてはこだわらないでください。
政孝はウイスキーの製造には、酒造りに勘のある者が欠かせないと考え、郷里・広島からから日本酒の杜氏十数人を集めて当たらせたという。
こうして、1929(昭和4)年国産初のウイスキー『サントリーウイスキー白札』(現在のサントリーホワイト)が発売された。このとき、初めて、「サントリー」の名称が使用された。これは当時発売していた赤玉ポートワインの「赤玉」を太陽に見立ててサン(英語のSUN)とし、これに鳥井の姓をつけて「SUN」+「鳥井」(とりい)=「サントリー」とした、ということになっているようだ。その後1963(昭和38)年のビール発売を機に、この「サントリー」を社名に採用し、現在に至っている。
上掲の画像は「サントリーウイスキー白札」のポスター。小さくて見にくいが、左下には「・・・彼地仕込みの出藍(しゅつらん)の技師が精魂傾けて造り上げ、空気清澄な酒蔵で、丸七年貯蔵した生一本!恐らく舶来の虚栄はやがてもう昔譚(むかしばなし)となるでせう!」と書かれている。『朝日クロニクル週刊20世紀』1937年号より。
しかし、壽屋の命運をかけた「白札」は市場では輸入ウイスキー(その多くはスコッチウイスキーであった)の味に慣れてしまっていた日本人からは「焦げ臭い」「煙くさい」など散々な批評を受け思うようには売れなかった。ウヰスキーは10年以上熟成させた原種と5年くらいの新しい原種をブレンドすると美味くなるが、まだ新しい原種しかなかったのである。工場の建設だけでも莫大な費用が掛かっている為、会社としては経営上、10年の熟成は待てなかったのであった。
山崎工場が竣工したのは1924年、発売が1929念だと5年しかないので。広告上手で知られる壽屋ではあるが、このポスターの「丸七年貯蔵した生一本」はインチキだよね~・・・。
また翌・1930(昭和5)年には廉価版ウイスキーとして、赤札(現在のサントリーレッド)を発売するが、これも売れ行きは芳しくなく、途中で販売中止を余儀なくされることになった。
この頃から鳥井と正孝のスタンス(物事に取り組む姿勢。心構え。態度。立場)の違いは明白になってきていたようだ。本格的ウイスキーの国産化という基本目標は共通していたものの、酒蔵の息子として産まれた職人肌の技術者で、本場流スコッチの再現に強くこだわる正孝の姿勢に、薬種問屋の丁稚上がりで広告戦略にも長けたビジネスマンの鳥井は、必ずしも全面的賛同はしていなかった。
実際のところ、鳥井は全く採算の取れないウイスキー事業を「身を削りつつ」維持し続けていた。当時の寿屋の主力商品「赤玉ポートワイン」での収益は、その多くがウイスキー事業での赤字で損なわれ、サイドビジネスとして実績を上げつつあった喫煙者向け歯磨き粉「スモカ歯磨」の製造権・商標を売却してしのいだほどであったという。この現実が正孝の理想論と合致しないのはやむを得ないことであったのかもしれない。
しかし幸か不幸か売れ残った原種が歳月と共に熟成し、立派な原酒となり、1937(昭和12)年、亀甲模様の瓶に黄色いラベルを添えた上級ウイスキー「サントリーウイスキー12年」(12年間熟成させたもの)として生まれ変わった。後に「角瓶」と呼ばれるウイスキーである。
政孝主導での草創期から長らく貯蔵・蓄積された原酒をブレンディングベースに、政孝の退社を経て、鳥居はウイスキー製造の方針を根本的に改め、それまでに鳥井が自身で得た経験、さらに長男・鳥井吉太郎の手によって企画され、ウイスキーとしての十分な品質を達成しながら、日本人にも受け入れやすい味とし、なおかつ、収益を上げられる商品として開発されてきたものであり評判は上々であった。、
上掲の画像は、サントリーウイスキー角瓶。『朝日クロニクル週刊20世紀』1937年号より。
これが失敗したら壽屋は倒産しかない、という危機的状況下であったが、おりしも日本が戦時体制に突入しつつある中、舶来産のウイスキーが輸入停止になったことなども幸いし、好調に売り上げを延ばしていった。売れ行き好調の波に乗り、翌1938(昭和13)年、寿屋は大阪梅田の地下街に直営の「サントリーバー」を開設した。
そして、太平洋戦争勃発前の1940(昭和15)年「サントリーウイスキーオールド」の製造を発表するが、戦時下でもあり奢侈品統制令が出されて日の目は見なかった。
間もなくして日本は第二次世界大戦へと突入してゆくが、その間鳥井は当時の日本海軍の取り計らいで手に入れた麦をもとに軍用ウイスキーを製造し続けることになる。やがて日本は敗戦したが、山崎蒸溜所は戦災に遭うこともなく、ウイスキーの生産を続けるに至った。
そして10年経った戦後復興の最中の1950(昭和25)年に、オールドは世に送り出された。その瓶の形状から、ダルマなどの愛称がつけられている。実に高価なウイスキーで庶民からは憧れの的であった。と同時に夜の歓楽街にあるバー・クラブ・スナックなどの店では、芳醇なモルトの味は高い人気を集め、高度経済成長期には、壽屋の売り上げの殆どをオールドで占めた時代もあるほどの売り上げを記録し、サントリーのウイスキーの代表的なブランドを決定づけた。年を負うごとにつれて、徐々にではあるものの、一般の間にも浸透しつつあったが、やはり高級ウイスキーであることには変わらず、人々から一種のステータス的な存在でもあった。
上掲の画像は「サントリーオールド」のポスター。1950年。パケージは版画家の宗像志功による。
一方、自分の理想とするウイスキーづくりを目指した政孝は、1934(昭和9)年3月1日、10年契約の切れるのを契機に退社し北海道余市町でのウイスキー工場(現在の余市蒸溜所)を造ることを決意する。湿地帯が続く余市川沿いには適度の湿度があり、ウイスキーの香りづけに欠かせないピート(Peat=泥炭)層もあった。スコットランドの風土に似た北海道こそ、ウイスキーの理想の地とみていたからだ。
ところで、政孝のサントリー退社の経緯であるが、1929 (昭和4 )年の『白札サントリー』が発売された年に、政孝は、鳥井より、横浜のビール工場工場長兼任を命じられているが、 これには、左遷されたとする話もある。(オリーヴ・チェックランド、1998『マッサンとリタ(和気洋子訳)。1938(昭和8)年、壽屋が、拡張工事にかかっている最中の横浜工場を大日本麦酒傘下の麦酒共同販売(大日本麦酒が日本麦酒鉱泉を合併し現麒麟麦酒と設立した会社)に売却し、政孝はショックを受けていたようである。
又、別の話としては、壽屋の上田武敏、佐藤喜吉らの新技術陣と相容れず、ブレンドについても鳥井と意見が合わず、横浜のビール工場へ送られた、そして、新技術陣、鳥井信治郎と意見が合わず、壽屋を退社することになった(杉森久英(1983)『美酒一代』新潮文庫)との意見もある(※8参照)・・・が、私も感じとしてはそれが真実ではないかという気はするのだが、ドラマ、小説その他、色々話があるようで、私も本当のことはあまりよく判らないまま書いている点、承知しておいてください。
北海道余市はリンゴの産地でもあった(余市は、日本で初めて民間の農家がリンゴの栽培に成功したところとされている)。
ウイスキーは製造開始から出荷までに数年かかるため出荷までは、当然ウイスキー製造による収益はない。そこで竹鶴は、事業開始当初は余市特産のリンゴを絞ってリンゴジュースを作り、その売却益でウイスキー製造を行う計画であった。そこで、資本を集め、7月に大日本果汁株式会社(現:ニッカウヰスキー)を設立し、代表取締役専務に就任した。
筆頭株主は加賀証券社長加賀正太郎。加賀の妻は1924年以来、政孝の妻のリタから英会話を学んでおり、政孝が事業を始めることを聞いた加賀が他の2人の出資者と共に政孝を支援することにしたという(※6:大場蘭園HPの「マッサンと加賀正太郎」'参照)。資本金はわずか10万円、山崎工場の20分の1だったそうだ。
この記述も政孝自身の自伝を元にしているが、Wikipediaによれば、出資者の記述はこれとはだいぶ異なり、竹政は余市で起業する際、壽屋と鳥井には大変に恩があるので、余市でウイスキー製造をする気はない、大日本果汁はその名の通り、リンゴジュースを製造販売する会社だと説明して出資を募ったという。創業後、莫大な返品と積み上がった在庫をどうするのかという話になったところで、ようやくそれらを使って蒸留酒を造る、そのついでに少量のウイスキーも仕込む、という話を持ち出して来たという。・・・と。
実際、大日本果汁は、創業後しばらくは酒造免許を取得していない・・・・。
大日本果汁は 1935(昭和10)年5月、日果林檎ジュース(アップルジュース)の出荷を開始。しかし政孝の品質へのこだわりはジュースにも及び、他社が6銭の果汁入り清涼飲料を作っていたのに対して30銭もする果汁100%ジュースしか販売しなかったため、あまり売れなかったという。混ぜ物をしていないため製品が濁ることがあり、誤解した消費者や小売店からの返品も相次いだようだ。
翌1936(昭和11)年に、ウイスキー・ブランデーの製造免許を受け、製造を開始。1938(昭和13)年「ニッカアップルワイン」を発売している。
そして、政孝が余市で製造した自社製ウイスキー第一号に社名の「日」「果」をとり「ニッカウヰスキー」と命名して発売したのは、壽屋(現サントリー)で、日本初の本格ウイスキー「サントリー白札」を世に送り出してから6年を経過した1940(昭和15)年のことである。
上掲の画像は「ニッカウヰスキー」のポスター。政孝のモットウだった「本格醸造品質第一」の文字が記されている。『朝日クロニクル週刊20世紀』1937年号より。
販売直後に、物価統制の時代に入り、大日本果汁は海軍監督工場となった。当時スコッチウイスキーの国内最大の消費者は帝国海軍であったが、イギリスからのウイスキー輸入が途絶えたため、日本国産ウイスキーへの需要が高まった。このときは将校への配給用の酒を製造するために優先的に原料の大麦が割り当てられたため、事業の継続が可能となった。1943(昭和18)年政孝は専務から社長に就任している。
しかし、終戦(1945年)と同時に状況は一変する。
正孝の自伝「ウイスキーと私」によると、当時ウヰスキーは配給制度で、配給価格は120円のものが闇で1500円もしていたが、会社が闇行為をするわけにもいかず本格ウヰスキーは作るだけで損をする状況になり、本物にこだわる政孝も技術者と経営者の葛藤に苦しむことになる。
1949(昭和24)年酒類は自由販売となるが、他社はアルコールに香りと色だけを付けた三級ウイスキーを大量に売り稼いでいた。当時三級ウイスキーの定義は「原酒が5%未満ゼロ%まで入っているもの」であった(※9:「ウイスキーの級別について」参照)。
品質にこだわり、イミテーションウイスキーはウイスキーではないと主張する政孝にとって、三級ウイスキーの製造は考えられなかったが、経営は苦しく、給料も遅配する状況下では、背に腹は代えられず三級ウイスキーを製造することになる。その製造担当には息子の威(たけし)が当たり、翌1950(昭和25)年「スペッシャルブレンドウイスキー」が販売された。500mlで350円。せめてもの抵抗で原酒は上限5%まで入れていた。
1952(昭和27)年、東京に本社を移し社名をニッカウヰスキーに変更。東京都港区麻布に東京工場を建設するなど徐々に事業を拡げてゆく。
1953(昭和28)年酒税法改正で、一級から三級が特級から二級に変わった。
1954 (昭和29)年大日本果汁の出資者加賀正太郎と柴川又三郎が発行株式の半数にあたる持ち株を朝日麦酒(アサヒビール)社長山本為三郎に売却。(今はアサヒビールが社名変更したアサヒグループホールディングスのグループ下にある)。
山本は営業強化の為に弥(彌)谷醇平(やたにじゅんぺい)という凄腕を送り込んだ。コロンビア大学で経営を学んだ弥谷は正孝に価格引き下げを進言。
壽屋の二級「トリスウイスキー」は640mlで340円。しかし、ニッカの二級を同価格にすると3割ほど原価割れしたが、弥谷は「売り上げが全国で87%伸びれば黒字に転じる」と主張したという。
そして、1956(昭和31)年新たに、二級の「丸びんウイスキー(通称丸びんニッキー)」(※10参照)を640ml340円で発表。初のテレビCMも放送した。
丁度、トリスバー、オーシャンバーなどが人気を呼び洋酒ブームが到来していた時であり、ニッカバーも追随。それに乗って「丸びんニッキー」は大ヒットとなる。
1961(昭和36)年1月、正孝の妻リタが亡くなる。その喪失感から正孝を救ったのもウイスキーであった。息子の威と貯蔵庫にこもり、ティスティング(tasting)を繰り返し翌1962(昭和37)年、新作「スーパーニッカ」を発表した。
720mlで3千円。当時大卒の初任給が約15,000円程度だったのでその5分の1という高級品であった。余市蒸留所で作った原種からえりすぐってブレンドした自信作だった。
上掲の画像は、「スーパーニッカ」である。
ところで、上掲の画像「スーパーニッカ」を見て、何か思い出しませんでしたか。
このブログ、冒頭で、NHKの朝ドラ『マッサン』第1週「鬼の目にも涙」(第1話)では、1971(昭和46)年北海道余市町のウィスキー蒸留所で開催された「スーパーエリー特別賞受賞祝賀式典」の会場にて、ウイスキー会社の創業者で社長の亀山政春は、壇上に飾られた自社製のウイスキー「スーパーエリー」と妻エリーの写真を眺め、彼女と過ごした日々を回想しているシーンから始まった。…と書いたが、このシーンで写っていたウイスキー「スーパーエリー」は、ボトルの形から見て、どう見ても「スーパーニッカ」ではないかと思う。ロケ地は、実在のニッカ余市蒸溜所なのだろう。
イングランドで知り合ったリタが「日本で本物のウイスキーをつくりたい」という正孝の夢に打たれて「私はあなたの夢を共に生き、お手伝いしたいのです」と、両親の反対を押し切ってまで結婚し、正孝について日本にまで来た。そして、数々の苦労をしながら良きパートナーとして正孝のウイスキーづくりを助けてきた。正孝にとってなくてはならならなかたリタ。発売の前年に亡くなった政孝の最愛の妻リタに対する鎮魂の意味も込めて作ったものであったと正孝の息子威はいう。
だからこそ、ドラマ『マッサン』の初回回想シーンで、「スーパーニッカ」と思われるものが使われたのだろう。
この翌年には二級の「ハイニッカ」を発売。
二級ウイスキーとして発売当時500円という低価格で発売され大人気になった商品である。当時の「ハイニッカ」は、二級ウイスキーであるが故、現在よりもスピリッツを多く含ませてウイスキー原酒の割合を少なくして販売していた。それでも酒税法の限度一杯までモルトを使用していた(ここ参照)。これに対して、この時期にはライバルとなっていたサントリーが対抗してかつての赤札(現在のサントリーレッド)を同価格帯で復活させて、応戦するという事態にもなった。
兎に角、「スーパーニッカ」「ハイニッカ」のどちらも評判がよく、「ニッカ」が全国ブランドへと本格的に成長していくことになった。
さて、「日本のウイスキー(Japanese whisky)」の父と云われる竹鶴政孝とその妻リタをモデルにしたNHK連続テレビ小説『マッサン』の高視聴率にも押されて売れ行きを伸ばしていた、サントリーやアサヒビール傘下のニッカウヰスキーは「ブームの再来」に期待を寄せている.。
国産ウイスキーが誕生して約90年。両社は国産ウイスキーの代表であり、いまやその味は本場スコットランドをはじめ、世界のウイスキー好きを唸らせているようだ。
今年・2014(平成26)年11月3日発売の英国の「ワールド・ウイスキー・バイブル2015(Whisky Bible)」が、日本のウイスキー「山崎シングルモルト・シェリーカスク2013(The Yamazaki Single Malt Sherry Cask 2013)」(サントリーー酒類)を、世界最高のウイスキーに選出したことが報じられた(※11参照)。日本のウイスキーが最優秀となったのは初めてのことである
サントリーによると、2014年1~10月期のウイスキーの売上高は、前年同期比5%増と、好調に推移しており、なかでも、「山崎」や「響」「白州」といったプレミアムウイスキーの売上高は、2割強も伸びた。同社は2014年の「インターナショナル スピリッツ チャレンジ」でも、「響21年」や「山崎18年」「白州25年」「ジムビームシグニチャークラフト12年」(バーボン)などの18品が金賞を受賞しているという(※7のここ参照)。
一方、ニッカウヰスキーの親会社のアサヒビールも、「好機到来」を実感しており、2014年1~9月期の国産ウイスキーの売り上げは、前年同期に比べて9%増えた。又、朝ドラの「マッサン」の放映がはじまった9月単月だと22%増だったという。とりわけ「竹鶴」ブランドは1~9月期に42%増、9月単月では62%増と絶好調で、同社の柏工場(千葉県)は休日返上のフル稼働状態だという。
今年・2014(平成26)年は、ニッカウヰスキーにとって創業80周年、竹鶴政孝の生誕120周年の節目にあたるため、「年初から販売を強化してきた」というが、高視聴率を叩き出している朝ドラが「追い風」になっているようだ。
かつてのウイスキーブームは1983(昭和58)年のこと。サントリーではこの年、課税数量ベースで35万9000キロリットル(1箱8.4リットル換算で4273万箱)、ニッカウヰスキーでも5万8650キロリットル(698万箱)を売り上げていが,これをピークに、若者の酒離れや低アルコール志向を受け、ウイスキーの売り上げは下降線をたどり、2008年頃には、かつての5分の1の規模にまで縮小していたが、このころから、ちょっとした「ハイボール人気」で再び火がつき、それ以降右肩上がりに転じていた。
これには、かつては日本古来の焼酎を大衆酒と位置付けて低税率とする一方、ウイスキー、ブランデー等の洋酒は高級酒とされて高税率であったが、これについて洋酒生産国から非関税障壁であるとの批判を受けて2008(平成20)年に税率が改正され、ウイスキー、ブランデーも、焼酎やスピリッツ(蒸留酒)同様、アルコール度数37°以上の場合、等しい税額が賦課されるようになったことも影響しているのかもしれない。
兎に角、これを機会にと、2008頃から、ウイスキー業界1位のサントリーがウィスキーの増産に乗り出せば、2位のニッカは14年ぶりに「スーパーニッカ」をリニューアルし、ウイスキーの販売拡大に転じていた。そのような努力もあってのことだろうが、今、実に約30年ぶりの活況を呈しているようだ。
ニッカは朝ドラにタイミングを合わせるように、新ブランド「ザ・ニッカ」(ここ参照)を9月30日に発売し、モルトの香り豊かな「12年」(税別5000円)と濃厚さが特徴の「40年」(同50万円)を出し、基本的には国内に注力。「40年」は700本限定だそうである。
今では筆頭株主からニッカの全株式を取得して親会社となっているアサヒビール「の平野信一専務は「本物の高級ウイスキー。創業80周年の節目に総力を挙げる」と宣言している。
一方のサントリーは10月1日付でサントリーホールディングス社長にローソンの前会長・新浪剛史氏が就任して攻勢をかける。海外販路の拡大が狙いだが、国内向けにもウイスキー復調を引っ張っている「角ハイボール」のさらなるヒットに力を入れるという。
どちらも「国産ウイスキーの草分けはこっち」というプライドがかかっている。ドラマ『マッサン』が回を重ねていくに従って、両社のライバル心も熱くなることだろう。
しかし、ここ数年の若者を中心としたハイボールブームは、かっての酎ハイブームに似たようなものだが、これを引き起こしたのは、若者の低アルコール、炭酸嗜好によるものと思われるが、ハイボールはビールなどと比較すれば安いため、不況による節約志向と相まって売れていたこともある。
ハイボールで、低アルコールの軽いウィスキーの旨さを知った若者世代が、果たしてどれくらいシングルモルトなど「本物」のウイスキー市場に戻ってくるのかどうかは両社の努力次第だろう。
両社とも質を高めた自社の高級ウイスキーを、てこに、新たな顧客層としての若者や外国人観光客を取り込む考えのようだ。
今アベノミクス効果?によるものかどうかは知らないが、円安株高での景況感から、外人観光客も増加しているし、ワインの売れ筋の価格帯が2000円台以上に上昇してきたとも聞いている。
中間層以上の円安メリットを享受している人達にとっては高級ウイスキーも良いだろうが、アベノミクスは所得格差も産み、中間層より下のものには、これからも手ごろなハイボールを愉しむしか仕方がない人も多いことだろう。
私は、ドラマ『マッサン』 の主人公のモデルとなったジャパニーズウイスキー生みの親と云われる竹鶴政孝よりも、その外国人妻である・リタの方に興味がある。以下のYouTubeでは、そんな二人のことがよく判る。全三話構成の 第二話であるが、アクセスすると、横のリンク蘭で第一話第三話も見れる。ちょっと、ニッカのCM臭いが・・・。
ウイスキー浪漫 竹鶴の夢 第二話【ニッカウヰスキー】―YouTube
サントリー山崎蒸溜所にてウイスキーの蒸溜作業を開始(参考)へ