日本記念日協会に今日10月14日の記念日として「焼うどんの日」が登録されている。
記念日の由来を見ると”焼うどん発祥の地の福岡県北九州市小倉で、まちおこしの活動をしている小倉焼うどん研究所(※1)が制定。小倉の焼うどんを全国に広め、その歴史、地域に根ざした食文化を理解してもらうのが目的で、日付は2002年10月14日に、静岡県富士宮市の「富士宮やきそば学会」との対決イベント「焼うどんバトル特別編〜天下分け麺の戦い〜」を行い、北九州市小倉が焼うどん発祥の地として有名になったことから。”・・・とあった。
Wikipediaによると、1945(昭和20)年の終戦直後、小倉市(現北九州市小倉北区)の「だるま堂」(※2)の店主が、関西で流行りのソース焼きそばを作ろうと思ったが、物資不足の折、中華のそば玉が手に入らず、代わりに「干しうどん」をゆがき、焼いて出したところ大好評だったのが始まりと言われる。尚、だるま堂の店主は2005(平成17)年に亡くなったが、いっしょに店で焼いていた妻は、60年以上たった今でも健在で、同じように干しうどんを使っての焼きうどんを作り続けているそうだ。現在、小倉北区内においてJR小倉駅周辺から旦過(たんが)市場(※3)にかけて焼きうどんを食べられる店が20店舗以上あるようだ(※1にマップがある)。
一般的に、焼うどんの調理法は焼きそばと大差はないが、ソースではなく、醤油や、塩コショウを味付けに使うこともあるが、小倉焼うどん研究所が定める「小倉発祥焼うどんの定義」なるものがある。以下の通り(※1より)。
一、乾麺をしようするべし。
一、キャベツは若松産であるべし。
一豚肉はバラ肉であるべし。
一、玉葱はその甘味を引き出すべし。
一、秘伝のソースは良く研究するべし。
一、削り節はアジ、サバ節を使用するべし。
一、小倉地酒で香り豊に仕上げるべし。
※5項目は必ず取りいれるべし。”とある。
焼きうどんは小倉から各地に広がっていったということだが、他の地域では「ゆでうどん」を使う店がほとんどであろうが、「小倉発祥焼うどんの定義」には、その特色が色々書かれているが、何よりの特徴は「干しうどん」(乾麺)を使用していることにあるようだ。
「乾麺」は、食味に関しては、調理法(茹で戻し方法)にもよるが生麺にくらべ、一般に麺のコシが強いことが多いようなので、焼うどんには適しているのだろう。私は食べたことがないが、小倉焼うどんは、焼き目がしっかりと付いた、もっちりとした食感が茹で麺にはない美味しさだといわれている。
2002年(平成14)年10月12日に、静岡県の富士宮やきそばと小倉の焼きうどんが勝負する「天下分け麺の戦い!」が、福岡県北九州市小倉の小倉城公園で行われ、この顛末はテレビを通じて全国に放映された。
このイベントを仕掛けたのは、小倉焼うどん研究所の方で、同研究所がこのイベントを開催するようになった経緯などは、同研究所HP(※1)の「実録!小倉焼うどん物語」に詳しく書かれているが、要約すると以下の通りである。
小倉のホテルで、小倉らしいものを食べたいとの宿泊客の要望が多いことを知った、当時、ホテルの企画広報担当をしていた主任が、鉄の町、工業の町と言われる北九州市のホテルの宿泊客は、その多くが観光ではなく出張者であることから、近くで、短時間で、食べられる小倉発祥の焼うどんを売り出したいと考えた。しかし、まだ小倉が焼うどん発祥の地であることを地元でも知って居る者が多くはなかったことから、小倉の焼うどんの名を世に出すために何か大きなイベントを利用しようと考えたのが出発点であったようだ。
その後、1999年(平成11)年に、現在の小倉焼うどん研究所の所長を始め、“元気な街北九州を目指そう”と集まった有志で、街の活性化に取り組む任意団体NPO法人「北九州青年みらい塾」を結成(※4)し、2001(平成13)年10月「焼うどんバトル〜発祥の地の名にかけて〜」の名で、誰が作る焼うどんが一番美味しいかを競うイベントを小倉の中心部で開催。
予想以上にイベントが盛り上がり、又、予想以上に地元媒体に取り上げられ、焼うどんに対する認知度や評価も多少上ったことから、積極的に焼きうどんを活用した街づくりに取り組もうと、同みらい塾内に小倉焼うどん研究所が誕生。小倉の街で行なわれていた冬のイベント「食市食座」への参加や焼うどんマップ作りなどに力を入れていたが、もっと大きなイベントをしようと企画されたのが、「天下分け麺の戦い!」であった。
これは、「2002(平成14)年が、小倉城築城400年に当たることから、築城年にちなんで400人の人に焼きうどんを食べて貰おうというもので、丁度、翌・2003(平成15)年1月から、NHK大河ドラマ「武蔵〜MUSAI〜」が放映されることになっていたことや、北九州市は源平の合戦の舞台ともなっていた壇ノ浦を抱えていることから、「北九州ほど決闘や合戦という言葉が似合うところが無い!」と小倉城でイベントをやろうと考えた。
そして、「どこと戦わせるか」ということで、「焼うどんの永遠のライバルと言えば焼ソバだろう。そして、焼ソバと言えば、いま静岡県の富士宮焼ソバが人気がある」ということで、すでに食で町おこしを成功させていた富士宮やきそば学会の渡辺会長に相談し引き受けてもらったという。
そして、“勝敗はともかく、イベントの盛り上がりはすごく、小倉場天守閣前には今まで見たこともない大勢の人が集まり、地元新聞の告知報道を機に、YAHOO!のトピックスで取り上げられ、それを発端として、中央のマスコミにも取り上げられるようになり、キー曲のワイドショー4番組に特集が組まれるほどのイベントとなった。こうして、小倉焼うどんが一定の認知をされるようになった”・・・・とある。
ところで、対戦相手に選ばれた、静岡県富士宮市の焼きそば「富士宮やきそば」は、1999(平成11)年に富士宮市の地域おこしに付いて話し合いをしている際に、古くから食べられてきた独自性のある地元の焼きそばに着目したのがきっかけで新たに命名された名称であり(※5)、独自調査の結果、富士宮市がやきそばの消費量が日本一であったことから、2000(平成12)年に町おこし(地域おこしの1つの呼称)として「富士宮やきそば学会」を立ち上げ、地元で食べられている焼きそばを「富士宮やきそば」として、PRキャンペーンを行っていた。
以下参考に記載の※6:「街物語第四章富士宮◇街を食す」によれば、小倉での戦いは「焼きうどんVS焼きそば」の対決で、自らの市を焼きうどん発祥の地としている北九州市小倉からの挑戦を、富士宮やきそばが受けて立った麺バトルであった。多くのマスコミが注目したこの異種対戦は、202対197で「富士宮やきそば」は惜しくも敗退。巌流島を有する下関市の江島市長が立会い役となり、「富士宮は一年間無償で小倉焼うどんのPRを行なう」という誓約書が交わされたのだそうだ。
しかし、同HPにも書かれているように、この「天下分け麺の戦い!」は会場が挑戦者の小倉でのものであり、つまり富士宮にとってはアウェー戦であり、そのため、この富士宮の惜敗は大きく評価された。・・・とあるが、だから、小倉焼うどん研究所の「実録!小倉焼うどん物語」でも、 “勝敗はともかとして、・・・”と、敢えて勝敗の結果のことには触れていないのだろう。しかし、僅差で敗れた相手に、「一年間無償で小倉焼うどんのPRを行なわせる」などというのは、ちょっぴり、嫌味だね〜。ただ、「富士宮やきそば」の名も有名になり、同そばは、2004(平成16)年に、「富士宮やきそば学会」の登録商標となっている。
このイベントが元で、以降、うどんや焼そばのような俗に言うB級グルメで、地域おこしをしようという動きが日本各地で見られる中、ご当地グルメを利用し全国に知ってもらえるような宣伝活動をしようとする団体・グループが各地に出来、日々の活動の成果をお披露目するイベント、つまり、現在、テレビなどマスメディアなどでも、話題となっているB−1グランプリ開催の元になったとも言われており、その点では、小倉焼うどん研究所の主催した「天下分け麺の戦い!」の果たした功績は非常に大きいといえるだろう。
B-1グランプリは、「B級ご当地グルメでまちおこし団体連絡協議会」(通称:愛Bリーグ)と、開催地の実行委員会が、安くて旨くて地元の人に愛されている地域の名物料理や郷土料理を「B級ご当地グルメ」と定義し、その日本一を決めようという趣旨で主催している大会であり、正式名称は「B級ご当地グルメの祭典! B-1グランプリ」である(詳細は、以下参考※7:「B級ご当地グルメの祭典 B-1グランプリ公式サイト」の“B-1グランプリとは”を参照)。
その第1回は、2006(平成18)年2月に、青森県の八戸せんべい汁研究所(※8)の企画プロデュースにより青森県八戸市で開催(2日間)されている。参加申し込みをしたのは、小倉焼うどんが最初の返事だったという。極寒の地八戸でのイベントには、参加申し込みもなかなかなかったようだが、当日(2日間)は、10の団体が集まり、1.7万人の来場者があったようだ。
この後、B−1グランプリは、毎年1回行なわれ、第2回富士宮大会で21店、 25.0万人、第3回久留米大会では24店、 20.3万人 、第4回秋田県横手大会では26店、 26.7万人、そして、昨:2010(平成22)年9月 19日・20日、神奈川県厚木市では、過去最大の46店が出展し、 43.5万人の動員実績を残しているようだ。
因みに、このB−1グランプリの第1回(2006年)と第2回(2007年)の両大会で第1位(ゴールドグランプリにかがやいたのは、「富士宮やきそば」であり、又、この2007(平成19)年に農林水産省が主催して、「農山漁村の郷土料理百選」が選ばれているが、この時、農山漁村との関係は薄いものの地域住民にご当地自慢の料理として広く愛されている料理23品目も、別枠で「御当地人気料理特選」として選定(約1700点の中から選ばれたという)されているが、この中に、「富士宮やきそば」が選ばれている。
しかし、残念ながら、「小倉焼うどん」はB−1グランプリにも、御当地人気料理特選にも選ばれてはいない。やはり、同じ小麦粉を原料とする麺類であっても、例え、生ではなく、干したうどん(乾麺)使用とはいえ、最初から、麺のコシを高めるためにかん水(鹹水)を加えて作られた中華麺には、コシの強さで及ばないし、焼きそば用に販売されている麺は、ほぐしやすいように油処理もされていることが多く、当初から焼いて美味しく食べるように特化して作られている。こんな焼きそば用の麺に対して、そのようなことを目的として作られていない代替品の利用では、素材の面での相違が大きいだろう。
関西は粉物が好きで粉食文化が発達しているが、現代、麺類では、関東のそばに対して関西はうどんが主となっている。しかし、焼いて食べる場合には、好みにより焼きうどんを食べる人もいるが、人数的には焼きそばを食べる人の方が断然多いだろう。
「富士宮やきそば」は、第3回(2008年)B-1グランプリでも特別賞となっており、その人気は高く、地域おこしの成功例の代表格でもある。「富士宮やきそば」は、登録商標であるが、この名称を使用して販売するためには条件が定められており、例えば、その中に、富士宮市内の製麺会社(マルモ食品、曽我めん、叶屋、木下製麺所)と仕入れ契約をかわすなどの条件がある(※9)。
富士宮市は、富士山本宮浅間大社の門前町であり、富士登山者や寺社への参拝客が多く訪れていた。また富士宮には身延線の主要駅も存在し、静岡県と山梨県を結ぶ交通の要所でもあった。
そのような歴史的背景から主に戦後にやきそばを売る店が増えはじめ、地域に根付いたものとなっていたようである。先にも述べたように、独自調査の結果、富士宮市がやきそばの消費量日本一であったようだ。
そんな富士宮の「やきそば」が他の地域のものとは異なる特徴のあることに注目し、富士宮やきそばを通じて 元気なまちづくりを目指す「まちおこし」を実行したという。
焼きそば用に使用する素材の主をなすものは、当然に、焼きそば用の麺であるが、この麺が他の地のものには見られないコシがあるのが特徴で、富士宮では地元産の小麦粉を使用している。
その焼きそば用の麺の由来については富士宮市の製麺会社で、この麺の発明者ともいわれるマルモ食品工業が「戦後の食料難の時代に創業者の望月晟敏が戦地で食したビーフンを再現しようと試みた過程でこの蒸し麺が生まれました。この麺の特徴は、水分が少なく、調理する際に水を加えたり、キャベツの水気でお好みの硬さで食することができます。」と麺の開発について、又、それに「肉かす(豚の背脂を絞って残った物)を利用して、香ばしい味を出し、だし粉を加えることで富士宮の味となりました」と、「富士宮やきそば」が美味しい理由をも述べている。
太平洋戦争の前後には山梨県から物資の調達に来る買い出し客や、物々交換で物資を求めて来る人たちもいた。こうした人々の中には山梨県にそんなやきそばを持ち帰りたいという人がいたが、当時の保冷技術と交通手段は未発達であり、山梨県に到着するまでには麺が傷んでしまうという難題があった。こうした課題を克服するため麺作りにも工夫がなされていったとされているようだ(Wikipedia)。
※マルモ食品ほか地元の製麺会社の麺には色々特徴があるようだが、そのことは以下参考に記載の※10:「秘密基地なブログ: 富士宮やきそばの歴史」などに記されている。
「地域おこし」とは、市町村、あるいは市町村内の一定の地区の経済や文化を活性化させることであり、「町おこし」又「村おこし」などともも呼称される。
かって、大量生産されている商品がもてはやされた大量消費社会の時代、農山漁村など都市部への労働力人口が流出し、地域の産業や諸活動の担い手が不足し、これら地方の空洞化・衰退が始まった。しかし、1960年代の高度経済成長が終わると、都市部への人口流出により起こった地域の産業や住民層が空洞化してしまった後の経済的な建て直しや人口回復などが必要となってきた。そのための活動が「地域おこし」である。
かって、日本の地域開発は、企業誘致や国による画一的な開発計画に頼っていたが、近年これらのやりかたに限界が来ており、今までのように、国や政府の政策に頼るばかりでなく、自ら自分たちの地域の持つ特徴・特性を生かして、地域の人々を巻き込んでの地域の内部的発展が求められる時代に入っている。
地域の自立、地域主権の確立が時代のテーマー(地域主権戦略会議参照)として浮上している今日の社会では、内外からその付加価値が問われる。そこで注目されたものに、地域ブランドと言う考え型がある。
それまでの大量生産された単なるモノは人気がなくなり始めたことから、企画化された商品ではなく、全国各地でそれぞれの地域が独自の魅力を自由に追求し、競い合いながらその地のブランドをアピールしあう。それが、地方の時代への展開を推し進め、日本を元気にするためのキー概念(key conceptの日本語化。重要な概念。骨格となる発想や観点・決め手のこと。)となる。
これら地域ブランドの考え方は、民間企業が、マーケティング上のブランド戦略上の見地から、商品等を通じて消費者との関係を構築するために活用されてきた手法である。
その着目の1つは、自分たちの地域・町に着目した観光地ブランド、2つ目は、モノに着目した特産品ブランド、3つ目として、そこに住む人、生活に着目する暮らしブランドなどがあるが、本質的には、これら3つの領域は有機的に結びついているので、これらを、総合的に強化することで大きな相乗効果を生み出すことが出来る。そのために、地域ブランドづくりには、先ず、そのための推進母体づくりをし、その明確なシンボルをつくり、地域との接点づくりへとステップを踏んで進めることが重要である。
このような地域ブランド育成のために、地域名と商品名の商標登録を受け付ける「商標法の一部を改正する法律」が2005(平成16)年に成立し、2006(平成18)年に施行され、地域団体商標制度が始まった。
そんな地域ブランド作りの代表的なものに、平松守彦・大分県知事の提唱による「一村一品運動」があった。この運動は、地域産業の重要性が注目された1970年代後半に始まった地域振興運動の一つであり、各市町村がそれぞれ一つの特産品を育てることにより地域全体の活性化を図ろうとするものであった。
この一村一品運動の源流は、既に、大分県の旧大山町(現・日田市大山町)が1961(昭和36)年から行っていたNPC運動(New Plum and Chestnut運動) である(※11参照)。
これは、旧大山町の持つ山間部と言う点を生かし、そこの環境にあった農作物を生産するほか、付加価値が高い梅干などの商品に加工して出荷位を行なう運動であり、これが成功したことにより、一村一品運動という形で、同じような活動が大分県全体に広がったのである。
このような、地域指向から生まれた一村一品運動の特徴は、その地域の持つ特性を全面的に押し出した商品を生産することによって、地域の活性化を図ってゆこうとするものであり、商品の生産による「まちおこし」を行なうにあたっては、その地域資源を用いて地域の特徴を全面に押し出してゆくことが原則となっている。
そして、地域の人たちが共通の目標を掲げ、自主的な取り組みを尊重し、行政は技術支援やマーケティング等の側面支援に徹することにより、自主的に特産品を育てることができる人や地域を育てる「人づくり」「地域づくり」を行った。また、付加価値の高い特産品を生産することによって農林水産業の収益構造の改善に貢献した。
しかし、一村一品運動に多く見られるもう一つの特徴として、消費の場を地域内でなく、地域外に求めがちであるということがあげられる。売り出した商品がたまたま市場の要求に適合し、金銭的な利益をあげただけでは「まちおこし」が成功したとはいえないだろう。「まちおこし」の目的は、金銭的な利益の追求ではなく、その活動によって地域内の経済や労働力の循環、産業の振興などの成果を長期に渡ってあげていかなければいけない。
そして、食を通じた「まちおこし」として、イベントや物産展への参加による広報活動が行なわれている。メディだけでなく直接消費者と触れ合う形での広報活動の中でも、全国的な知名度を誇るイベントの1つが、今注目を集めているB−1グランプリへの参加による全国的な知名度の獲得である。
これを、上手く利用し、今や全国区の地域ブランドとなったものの1つが、「富士宮やきそば」であろう。
以下参考に記載の※12:「(財)地域活性化センター」の、”地域づくりの事例>地域事業を生かした地域の活性化”の中にある、事例22)静岡県富士宮市を見ると、今や全国区の地域ブランドとなった「富士宮やきそば」について、以下のように紹介されている。
“ただ地元での「日常的な普通の食べ物」にすぎなかった「やきそば」に、付加価値を付けて世に送り出した結果、富士宮やきそば今では全国から年間50万人もの人が、「やきそば」を食べるために富士宮市に訪れるまでになった。しかし、富士山を背景とする自然豊かな富士宮市の地域食材は、「やきそば」だけではない。豊富な湧き水を使ったニジマス、地酒、広大な朝霧高原の酪農、日本一の標高差を活かした多品種の野菜など、美味で特色のある食材がたくさんある。そこで、富士宮市は、「富士宮やきそば」の人気に堂々と便乗し、これらの地域食材にも着目することとなった。・・・として、次に、地域力再生総研の取組を紹介している。
つまり、「富士宮やきそば」は、もともと地元にあった特異な富士宮産の小麦粉を使用し、それに工夫した作り方での特色ある「焼きそば」が、現地の小麦粉生産者、「焼きそば」を作るお店やその材料を販売する会社、店舗、そして。それを求める消費者へと結びつける“つなぎ役”となり、「B−1グランプリ」で得た名声を最大限に利用して、地元への観光、他産業への発展へと連鎖的に繋げてゆき、先にも書いた本来の「まちおこし」の目的、「金銭的な利益の追求ではなく、その活動によって地域内の経済や労働力の循環、産業の振興などの成果を長期に渡ってあげていく」ことに繋げているのである。
そのような意味で、せっかく「B−1グランプリ」開催の元になったとも言われる「天下分け麺の戦い!」をしかけた、「小倉焼うどん」が、(財)地域活性化センターの地域づくりの事例として、挙げられていないのは、単に、地元の焼きうどんの宣伝のみに終わっているからではないだろうか・・・。少し、残念な気がする。
最近は「B−1グランプリ」へ参加し、ゴールドグランプリとなった料理は一気に知名度が上がり、その料理の地元に経済効果をもたらしていることから、投票において、組織票を使っての不正さえも見られたという(※13)。
B級ご当地グルメの祭典 B-1グランプリ公式サイト(※7)の「B-1グランプリとは」のところで、以下のように説明している。
“B-1グランプリはメディアで「日本最大規模のグルメイベント」として紹介されることがありますが、実は私たちはB-1グランプリをグルメイベントとして開催しているのではありません。
B-1グランプリでは、日本全国の自慢の料理が提供されます。しかし料理を売ること自体を目的としているのではく、料理を通じて「地域をPRする」ことで、一人でも多くのお客さんに現地に足を運んでもらおうという、地域活性化を目的とした「まちおこしイベント」なのです。
それゆえにグランプリの称号は「まちおこし団体」に対して贈られるものであり、「料理」に与えられるものではありません。料理の味の日本一を決めるイベントではなく、料理=B級ご当地グルメの味を含めたまちおこし活動の日本一を競うイベントなのです。“・・・と。
しかし、現実には、B-1グランプリに出場するのは特定団体の加盟団体に限定され、その加盟団体も多くは「地域おこし」を標榜しながら、実は飲食店など「業界おこし」にすぎないとの「地域おこし」専門家の指摘もある(『地域再生の罠』 ちくま新書、2010年)ようだ。さらに、B-1グランプリの知名度が上昇するのに比例して、2008年頃からはグランプリに出場するためにM、ご当地B級グルメを創作する傾向も見られている。特にご当地焼きそば、ご当地カレーは乱立しており、単に「その地域特産の食材」を無理やり詰め込んでできたメニューでご当地グルメを名乗る安易な発想には強い批判も出来ているようだ。・・・私は、このようなイベントには参加したことがないので実態はよく知らないが、これからの時代を考えて、しっかりと、本来の「まちづくり」の一環として取り組むよう行政なども指導力を発揮していって欲しいものだと願っている。
B-1グランプリの次回開催は、「第6回 B級ご当地グルメの祭典! B-1グランプリin姫路 」と名うって、わが地元である兵庫県で開催される(開催日 2011年11月12日〜13日)。
それも、会場は、ユネスコの世界遺産に登録されている 姫路城周辺。興味のある方は是非参加ください。
第6回 B級ご当地グルメの祭典! B-1グランプリin姫路
公式HP ⇒ http://www.b1-himeji.jp/index.html
(冒頭の画像は、向かって左:焼うどんソース味、右:富士宮やきそば。Wikipediaより)
参考:
※1:小倉の焼うどん研究所HP
http://www.kokurayakiudon.com/
※2:小倉名物!焼きうどん@だるま堂
http://hakata.livedoor.biz/archives/1526261.html
※3:旦過市場
http://tangaichiba.jp/
※4:NPO法人 北九州青年みらい塾
http://www.miraijuku1999.com/
※5:現場と消費者とをつなぐ“町おこし”という試み【富士宮やきそば学会会長 】
http://www.ntt.com/b-advance/leader/200912/index.html
※6:街物語第四章富士宮◇街を食す
http://www.quizzing.jp/machi/04/02.html
※7:B級ご当地グルメの祭典 B-1グランプリ公式サイト
http://b-1grandprix.com/
※8:八戸せんべい汁研究所
http://www.senbei-jiru.com/
※9:富士宮やきそば学会ホームページ
http://www.umya-yakisoba.com/
※ 10:秘密基地なブログ: 富士宮やきそばの歴史
http://www.geocities.jp/syori59/yakisoba/yakisoba.html
※11:NPC運動 - 大分大山町農業協同組合
http://www.oyama-nk.com/rinen/npc.html
※12:(財)地域活性化センター
http://www.chiiki-dukuri-hyakka.or.jp/
※13:悩めるB級グルメの祭典 競争過熱、「不正投票」も - Asahi
http://www.asahi.com/food/news/TKY201009160502.html
焼きうどん-Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%84%BC%E3%81%8D%E3%81%86%E3%81%A9%E3%82%93
地域活性化の事例とは交付金や地域活性化センターについて
http://2chiiki.info/%E5%9C%B0%E5%9F%9F%E6%B4%BB%E6%80%A7%E5%8C%96%E3%81%AB%E3%81%A4%E3%81%84%E3%81%A6/%E5%9C%B0%E5%9F%9F%E6%B4%BB%E6%80%A7%E5%8C%96%E3%81%AE%E4%BA%8B%E4%BE%8B%E3%81%A8%E3%81%AF%E4%BA%A4%E4%BB%98%E9%87%91%E3%82%84%E5%9C%B0%E5%9F%9F%E6%B4%BB%E6%80%A7%E5%8C%96%E3%82%BB%E3%83%B3%E3%82%BF/
記念日の由来を見ると”焼うどん発祥の地の福岡県北九州市小倉で、まちおこしの活動をしている小倉焼うどん研究所(※1)が制定。小倉の焼うどんを全国に広め、その歴史、地域に根ざした食文化を理解してもらうのが目的で、日付は2002年10月14日に、静岡県富士宮市の「富士宮やきそば学会」との対決イベント「焼うどんバトル特別編〜天下分け麺の戦い〜」を行い、北九州市小倉が焼うどん発祥の地として有名になったことから。”・・・とあった。
Wikipediaによると、1945(昭和20)年の終戦直後、小倉市(現北九州市小倉北区)の「だるま堂」(※2)の店主が、関西で流行りのソース焼きそばを作ろうと思ったが、物資不足の折、中華のそば玉が手に入らず、代わりに「干しうどん」をゆがき、焼いて出したところ大好評だったのが始まりと言われる。尚、だるま堂の店主は2005(平成17)年に亡くなったが、いっしょに店で焼いていた妻は、60年以上たった今でも健在で、同じように干しうどんを使っての焼きうどんを作り続けているそうだ。現在、小倉北区内においてJR小倉駅周辺から旦過(たんが)市場(※3)にかけて焼きうどんを食べられる店が20店舗以上あるようだ(※1にマップがある)。
一般的に、焼うどんの調理法は焼きそばと大差はないが、ソースではなく、醤油や、塩コショウを味付けに使うこともあるが、小倉焼うどん研究所が定める「小倉発祥焼うどんの定義」なるものがある。以下の通り(※1より)。
一、乾麺をしようするべし。
一、キャベツは若松産であるべし。
一豚肉はバラ肉であるべし。
一、玉葱はその甘味を引き出すべし。
一、秘伝のソースは良く研究するべし。
一、削り節はアジ、サバ節を使用するべし。
一、小倉地酒で香り豊に仕上げるべし。
※5項目は必ず取りいれるべし。”とある。
焼きうどんは小倉から各地に広がっていったということだが、他の地域では「ゆでうどん」を使う店がほとんどであろうが、「小倉発祥焼うどんの定義」には、その特色が色々書かれているが、何よりの特徴は「干しうどん」(乾麺)を使用していることにあるようだ。
「乾麺」は、食味に関しては、調理法(茹で戻し方法)にもよるが生麺にくらべ、一般に麺のコシが強いことが多いようなので、焼うどんには適しているのだろう。私は食べたことがないが、小倉焼うどんは、焼き目がしっかりと付いた、もっちりとした食感が茹で麺にはない美味しさだといわれている。
2002年(平成14)年10月12日に、静岡県の富士宮やきそばと小倉の焼きうどんが勝負する「天下分け麺の戦い!」が、福岡県北九州市小倉の小倉城公園で行われ、この顛末はテレビを通じて全国に放映された。
このイベントを仕掛けたのは、小倉焼うどん研究所の方で、同研究所がこのイベントを開催するようになった経緯などは、同研究所HP(※1)の「実録!小倉焼うどん物語」に詳しく書かれているが、要約すると以下の通りである。
小倉のホテルで、小倉らしいものを食べたいとの宿泊客の要望が多いことを知った、当時、ホテルの企画広報担当をしていた主任が、鉄の町、工業の町と言われる北九州市のホテルの宿泊客は、その多くが観光ではなく出張者であることから、近くで、短時間で、食べられる小倉発祥の焼うどんを売り出したいと考えた。しかし、まだ小倉が焼うどん発祥の地であることを地元でも知って居る者が多くはなかったことから、小倉の焼うどんの名を世に出すために何か大きなイベントを利用しようと考えたのが出発点であったようだ。
その後、1999年(平成11)年に、現在の小倉焼うどん研究所の所長を始め、“元気な街北九州を目指そう”と集まった有志で、街の活性化に取り組む任意団体NPO法人「北九州青年みらい塾」を結成(※4)し、2001(平成13)年10月「焼うどんバトル〜発祥の地の名にかけて〜」の名で、誰が作る焼うどんが一番美味しいかを競うイベントを小倉の中心部で開催。
予想以上にイベントが盛り上がり、又、予想以上に地元媒体に取り上げられ、焼うどんに対する認知度や評価も多少上ったことから、積極的に焼きうどんを活用した街づくりに取り組もうと、同みらい塾内に小倉焼うどん研究所が誕生。小倉の街で行なわれていた冬のイベント「食市食座」への参加や焼うどんマップ作りなどに力を入れていたが、もっと大きなイベントをしようと企画されたのが、「天下分け麺の戦い!」であった。
これは、「2002(平成14)年が、小倉城築城400年に当たることから、築城年にちなんで400人の人に焼きうどんを食べて貰おうというもので、丁度、翌・2003(平成15)年1月から、NHK大河ドラマ「武蔵〜MUSAI〜」が放映されることになっていたことや、北九州市は源平の合戦の舞台ともなっていた壇ノ浦を抱えていることから、「北九州ほど決闘や合戦という言葉が似合うところが無い!」と小倉城でイベントをやろうと考えた。
そして、「どこと戦わせるか」ということで、「焼うどんの永遠のライバルと言えば焼ソバだろう。そして、焼ソバと言えば、いま静岡県の富士宮焼ソバが人気がある」ということで、すでに食で町おこしを成功させていた富士宮やきそば学会の渡辺会長に相談し引き受けてもらったという。
そして、“勝敗はともかく、イベントの盛り上がりはすごく、小倉場天守閣前には今まで見たこともない大勢の人が集まり、地元新聞の告知報道を機に、YAHOO!のトピックスで取り上げられ、それを発端として、中央のマスコミにも取り上げられるようになり、キー曲のワイドショー4番組に特集が組まれるほどのイベントとなった。こうして、小倉焼うどんが一定の認知をされるようになった”・・・・とある。
ところで、対戦相手に選ばれた、静岡県富士宮市の焼きそば「富士宮やきそば」は、1999(平成11)年に富士宮市の地域おこしに付いて話し合いをしている際に、古くから食べられてきた独自性のある地元の焼きそばに着目したのがきっかけで新たに命名された名称であり(※5)、独自調査の結果、富士宮市がやきそばの消費量が日本一であったことから、2000(平成12)年に町おこし(地域おこしの1つの呼称)として「富士宮やきそば学会」を立ち上げ、地元で食べられている焼きそばを「富士宮やきそば」として、PRキャンペーンを行っていた。
以下参考に記載の※6:「街物語第四章富士宮◇街を食す」によれば、小倉での戦いは「焼きうどんVS焼きそば」の対決で、自らの市を焼きうどん発祥の地としている北九州市小倉からの挑戦を、富士宮やきそばが受けて立った麺バトルであった。多くのマスコミが注目したこの異種対戦は、202対197で「富士宮やきそば」は惜しくも敗退。巌流島を有する下関市の江島市長が立会い役となり、「富士宮は一年間無償で小倉焼うどんのPRを行なう」という誓約書が交わされたのだそうだ。
しかし、同HPにも書かれているように、この「天下分け麺の戦い!」は会場が挑戦者の小倉でのものであり、つまり富士宮にとってはアウェー戦であり、そのため、この富士宮の惜敗は大きく評価された。・・・とあるが、だから、小倉焼うどん研究所の「実録!小倉焼うどん物語」でも、 “勝敗はともかとして、・・・”と、敢えて勝敗の結果のことには触れていないのだろう。しかし、僅差で敗れた相手に、「一年間無償で小倉焼うどんのPRを行なわせる」などというのは、ちょっぴり、嫌味だね〜。ただ、「富士宮やきそば」の名も有名になり、同そばは、2004(平成16)年に、「富士宮やきそば学会」の登録商標となっている。
このイベントが元で、以降、うどんや焼そばのような俗に言うB級グルメで、地域おこしをしようという動きが日本各地で見られる中、ご当地グルメを利用し全国に知ってもらえるような宣伝活動をしようとする団体・グループが各地に出来、日々の活動の成果をお披露目するイベント、つまり、現在、テレビなどマスメディアなどでも、話題となっているB−1グランプリ開催の元になったとも言われており、その点では、小倉焼うどん研究所の主催した「天下分け麺の戦い!」の果たした功績は非常に大きいといえるだろう。
B-1グランプリは、「B級ご当地グルメでまちおこし団体連絡協議会」(通称:愛Bリーグ)と、開催地の実行委員会が、安くて旨くて地元の人に愛されている地域の名物料理や郷土料理を「B級ご当地グルメ」と定義し、その日本一を決めようという趣旨で主催している大会であり、正式名称は「B級ご当地グルメの祭典! B-1グランプリ」である(詳細は、以下参考※7:「B級ご当地グルメの祭典 B-1グランプリ公式サイト」の“B-1グランプリとは”を参照)。
その第1回は、2006(平成18)年2月に、青森県の八戸せんべい汁研究所(※8)の企画プロデュースにより青森県八戸市で開催(2日間)されている。参加申し込みをしたのは、小倉焼うどんが最初の返事だったという。極寒の地八戸でのイベントには、参加申し込みもなかなかなかったようだが、当日(2日間)は、10の団体が集まり、1.7万人の来場者があったようだ。
この後、B−1グランプリは、毎年1回行なわれ、第2回富士宮大会で21店、 25.0万人、第3回久留米大会では24店、 20.3万人 、第4回秋田県横手大会では26店、 26.7万人、そして、昨:2010(平成22)年9月 19日・20日、神奈川県厚木市では、過去最大の46店が出展し、 43.5万人の動員実績を残しているようだ。
因みに、このB−1グランプリの第1回(2006年)と第2回(2007年)の両大会で第1位(ゴールドグランプリにかがやいたのは、「富士宮やきそば」であり、又、この2007(平成19)年に農林水産省が主催して、「農山漁村の郷土料理百選」が選ばれているが、この時、農山漁村との関係は薄いものの地域住民にご当地自慢の料理として広く愛されている料理23品目も、別枠で「御当地人気料理特選」として選定(約1700点の中から選ばれたという)されているが、この中に、「富士宮やきそば」が選ばれている。
しかし、残念ながら、「小倉焼うどん」はB−1グランプリにも、御当地人気料理特選にも選ばれてはいない。やはり、同じ小麦粉を原料とする麺類であっても、例え、生ではなく、干したうどん(乾麺)使用とはいえ、最初から、麺のコシを高めるためにかん水(鹹水)を加えて作られた中華麺には、コシの強さで及ばないし、焼きそば用に販売されている麺は、ほぐしやすいように油処理もされていることが多く、当初から焼いて美味しく食べるように特化して作られている。こんな焼きそば用の麺に対して、そのようなことを目的として作られていない代替品の利用では、素材の面での相違が大きいだろう。
関西は粉物が好きで粉食文化が発達しているが、現代、麺類では、関東のそばに対して関西はうどんが主となっている。しかし、焼いて食べる場合には、好みにより焼きうどんを食べる人もいるが、人数的には焼きそばを食べる人の方が断然多いだろう。
「富士宮やきそば」は、第3回(2008年)B-1グランプリでも特別賞となっており、その人気は高く、地域おこしの成功例の代表格でもある。「富士宮やきそば」は、登録商標であるが、この名称を使用して販売するためには条件が定められており、例えば、その中に、富士宮市内の製麺会社(マルモ食品、曽我めん、叶屋、木下製麺所)と仕入れ契約をかわすなどの条件がある(※9)。
富士宮市は、富士山本宮浅間大社の門前町であり、富士登山者や寺社への参拝客が多く訪れていた。また富士宮には身延線の主要駅も存在し、静岡県と山梨県を結ぶ交通の要所でもあった。
そのような歴史的背景から主に戦後にやきそばを売る店が増えはじめ、地域に根付いたものとなっていたようである。先にも述べたように、独自調査の結果、富士宮市がやきそばの消費量日本一であったようだ。
そんな富士宮の「やきそば」が他の地域のものとは異なる特徴のあることに注目し、富士宮やきそばを通じて 元気なまちづくりを目指す「まちおこし」を実行したという。
焼きそば用に使用する素材の主をなすものは、当然に、焼きそば用の麺であるが、この麺が他の地のものには見られないコシがあるのが特徴で、富士宮では地元産の小麦粉を使用している。
その焼きそば用の麺の由来については富士宮市の製麺会社で、この麺の発明者ともいわれるマルモ食品工業が「戦後の食料難の時代に創業者の望月晟敏が戦地で食したビーフンを再現しようと試みた過程でこの蒸し麺が生まれました。この麺の特徴は、水分が少なく、調理する際に水を加えたり、キャベツの水気でお好みの硬さで食することができます。」と麺の開発について、又、それに「肉かす(豚の背脂を絞って残った物)を利用して、香ばしい味を出し、だし粉を加えることで富士宮の味となりました」と、「富士宮やきそば」が美味しい理由をも述べている。
太平洋戦争の前後には山梨県から物資の調達に来る買い出し客や、物々交換で物資を求めて来る人たちもいた。こうした人々の中には山梨県にそんなやきそばを持ち帰りたいという人がいたが、当時の保冷技術と交通手段は未発達であり、山梨県に到着するまでには麺が傷んでしまうという難題があった。こうした課題を克服するため麺作りにも工夫がなされていったとされているようだ(Wikipedia)。
※マルモ食品ほか地元の製麺会社の麺には色々特徴があるようだが、そのことは以下参考に記載の※10:「秘密基地なブログ: 富士宮やきそばの歴史」などに記されている。
「地域おこし」とは、市町村、あるいは市町村内の一定の地区の経済や文化を活性化させることであり、「町おこし」又「村おこし」などともも呼称される。
かって、大量生産されている商品がもてはやされた大量消費社会の時代、農山漁村など都市部への労働力人口が流出し、地域の産業や諸活動の担い手が不足し、これら地方の空洞化・衰退が始まった。しかし、1960年代の高度経済成長が終わると、都市部への人口流出により起こった地域の産業や住民層が空洞化してしまった後の経済的な建て直しや人口回復などが必要となってきた。そのための活動が「地域おこし」である。
かって、日本の地域開発は、企業誘致や国による画一的な開発計画に頼っていたが、近年これらのやりかたに限界が来ており、今までのように、国や政府の政策に頼るばかりでなく、自ら自分たちの地域の持つ特徴・特性を生かして、地域の人々を巻き込んでの地域の内部的発展が求められる時代に入っている。
地域の自立、地域主権の確立が時代のテーマー(地域主権戦略会議参照)として浮上している今日の社会では、内外からその付加価値が問われる。そこで注目されたものに、地域ブランドと言う考え型がある。
それまでの大量生産された単なるモノは人気がなくなり始めたことから、企画化された商品ではなく、全国各地でそれぞれの地域が独自の魅力を自由に追求し、競い合いながらその地のブランドをアピールしあう。それが、地方の時代への展開を推し進め、日本を元気にするためのキー概念(key conceptの日本語化。重要な概念。骨格となる発想や観点・決め手のこと。)となる。
これら地域ブランドの考え方は、民間企業が、マーケティング上のブランド戦略上の見地から、商品等を通じて消費者との関係を構築するために活用されてきた手法である。
その着目の1つは、自分たちの地域・町に着目した観光地ブランド、2つ目は、モノに着目した特産品ブランド、3つ目として、そこに住む人、生活に着目する暮らしブランドなどがあるが、本質的には、これら3つの領域は有機的に結びついているので、これらを、総合的に強化することで大きな相乗効果を生み出すことが出来る。そのために、地域ブランドづくりには、先ず、そのための推進母体づくりをし、その明確なシンボルをつくり、地域との接点づくりへとステップを踏んで進めることが重要である。
このような地域ブランド育成のために、地域名と商品名の商標登録を受け付ける「商標法の一部を改正する法律」が2005(平成16)年に成立し、2006(平成18)年に施行され、地域団体商標制度が始まった。
そんな地域ブランド作りの代表的なものに、平松守彦・大分県知事の提唱による「一村一品運動」があった。この運動は、地域産業の重要性が注目された1970年代後半に始まった地域振興運動の一つであり、各市町村がそれぞれ一つの特産品を育てることにより地域全体の活性化を図ろうとするものであった。
この一村一品運動の源流は、既に、大分県の旧大山町(現・日田市大山町)が1961(昭和36)年から行っていたNPC運動(New Plum and Chestnut運動) である(※11参照)。
これは、旧大山町の持つ山間部と言う点を生かし、そこの環境にあった農作物を生産するほか、付加価値が高い梅干などの商品に加工して出荷位を行なう運動であり、これが成功したことにより、一村一品運動という形で、同じような活動が大分県全体に広がったのである。
このような、地域指向から生まれた一村一品運動の特徴は、その地域の持つ特性を全面的に押し出した商品を生産することによって、地域の活性化を図ってゆこうとするものであり、商品の生産による「まちおこし」を行なうにあたっては、その地域資源を用いて地域の特徴を全面に押し出してゆくことが原則となっている。
そして、地域の人たちが共通の目標を掲げ、自主的な取り組みを尊重し、行政は技術支援やマーケティング等の側面支援に徹することにより、自主的に特産品を育てることができる人や地域を育てる「人づくり」「地域づくり」を行った。また、付加価値の高い特産品を生産することによって農林水産業の収益構造の改善に貢献した。
しかし、一村一品運動に多く見られるもう一つの特徴として、消費の場を地域内でなく、地域外に求めがちであるということがあげられる。売り出した商品がたまたま市場の要求に適合し、金銭的な利益をあげただけでは「まちおこし」が成功したとはいえないだろう。「まちおこし」の目的は、金銭的な利益の追求ではなく、その活動によって地域内の経済や労働力の循環、産業の振興などの成果を長期に渡ってあげていかなければいけない。
そして、食を通じた「まちおこし」として、イベントや物産展への参加による広報活動が行なわれている。メディだけでなく直接消費者と触れ合う形での広報活動の中でも、全国的な知名度を誇るイベントの1つが、今注目を集めているB−1グランプリへの参加による全国的な知名度の獲得である。
これを、上手く利用し、今や全国区の地域ブランドとなったものの1つが、「富士宮やきそば」であろう。
以下参考に記載の※12:「(財)地域活性化センター」の、”地域づくりの事例>地域事業を生かした地域の活性化”の中にある、事例22)静岡県富士宮市を見ると、今や全国区の地域ブランドとなった「富士宮やきそば」について、以下のように紹介されている。
“ただ地元での「日常的な普通の食べ物」にすぎなかった「やきそば」に、付加価値を付けて世に送り出した結果、富士宮やきそば今では全国から年間50万人もの人が、「やきそば」を食べるために富士宮市に訪れるまでになった。しかし、富士山を背景とする自然豊かな富士宮市の地域食材は、「やきそば」だけではない。豊富な湧き水を使ったニジマス、地酒、広大な朝霧高原の酪農、日本一の標高差を活かした多品種の野菜など、美味で特色のある食材がたくさんある。そこで、富士宮市は、「富士宮やきそば」の人気に堂々と便乗し、これらの地域食材にも着目することとなった。・・・として、次に、地域力再生総研の取組を紹介している。
つまり、「富士宮やきそば」は、もともと地元にあった特異な富士宮産の小麦粉を使用し、それに工夫した作り方での特色ある「焼きそば」が、現地の小麦粉生産者、「焼きそば」を作るお店やその材料を販売する会社、店舗、そして。それを求める消費者へと結びつける“つなぎ役”となり、「B−1グランプリ」で得た名声を最大限に利用して、地元への観光、他産業への発展へと連鎖的に繋げてゆき、先にも書いた本来の「まちおこし」の目的、「金銭的な利益の追求ではなく、その活動によって地域内の経済や労働力の循環、産業の振興などの成果を長期に渡ってあげていく」ことに繋げているのである。
そのような意味で、せっかく「B−1グランプリ」開催の元になったとも言われる「天下分け麺の戦い!」をしかけた、「小倉焼うどん」が、(財)地域活性化センターの地域づくりの事例として、挙げられていないのは、単に、地元の焼きうどんの宣伝のみに終わっているからではないだろうか・・・。少し、残念な気がする。
最近は「B−1グランプリ」へ参加し、ゴールドグランプリとなった料理は一気に知名度が上がり、その料理の地元に経済効果をもたらしていることから、投票において、組織票を使っての不正さえも見られたという(※13)。
B級ご当地グルメの祭典 B-1グランプリ公式サイト(※7)の「B-1グランプリとは」のところで、以下のように説明している。
“B-1グランプリはメディアで「日本最大規模のグルメイベント」として紹介されることがありますが、実は私たちはB-1グランプリをグルメイベントとして開催しているのではありません。
B-1グランプリでは、日本全国の自慢の料理が提供されます。しかし料理を売ること自体を目的としているのではく、料理を通じて「地域をPRする」ことで、一人でも多くのお客さんに現地に足を運んでもらおうという、地域活性化を目的とした「まちおこしイベント」なのです。
それゆえにグランプリの称号は「まちおこし団体」に対して贈られるものであり、「料理」に与えられるものではありません。料理の味の日本一を決めるイベントではなく、料理=B級ご当地グルメの味を含めたまちおこし活動の日本一を競うイベントなのです。“・・・と。
しかし、現実には、B-1グランプリに出場するのは特定団体の加盟団体に限定され、その加盟団体も多くは「地域おこし」を標榜しながら、実は飲食店など「業界おこし」にすぎないとの「地域おこし」専門家の指摘もある(『地域再生の罠』 ちくま新書、2010年)ようだ。さらに、B-1グランプリの知名度が上昇するのに比例して、2008年頃からはグランプリに出場するためにM、ご当地B級グルメを創作する傾向も見られている。特にご当地焼きそば、ご当地カレーは乱立しており、単に「その地域特産の食材」を無理やり詰め込んでできたメニューでご当地グルメを名乗る安易な発想には強い批判も出来ているようだ。・・・私は、このようなイベントには参加したことがないので実態はよく知らないが、これからの時代を考えて、しっかりと、本来の「まちづくり」の一環として取り組むよう行政なども指導力を発揮していって欲しいものだと願っている。
B-1グランプリの次回開催は、「第6回 B級ご当地グルメの祭典! B-1グランプリin姫路 」と名うって、わが地元である兵庫県で開催される(開催日 2011年11月12日〜13日)。
それも、会場は、ユネスコの世界遺産に登録されている 姫路城周辺。興味のある方は是非参加ください。
第6回 B級ご当地グルメの祭典! B-1グランプリin姫路
公式HP ⇒ http://www.b1-himeji.jp/index.html
(冒頭の画像は、向かって左:焼うどんソース味、右:富士宮やきそば。Wikipediaより)
参考:
※1:小倉の焼うどん研究所HP
http://www.kokurayakiudon.com/
※2:小倉名物!焼きうどん@だるま堂
http://hakata.livedoor.biz/archives/1526261.html
※3:旦過市場
http://tangaichiba.jp/
※4:NPO法人 北九州青年みらい塾
http://www.miraijuku1999.com/
※5:現場と消費者とをつなぐ“町おこし”という試み【富士宮やきそば学会会長 】
http://www.ntt.com/b-advance/leader/200912/index.html
※6:街物語第四章富士宮◇街を食す
http://www.quizzing.jp/machi/04/02.html
※7:B級ご当地グルメの祭典 B-1グランプリ公式サイト
http://b-1grandprix.com/
※8:八戸せんべい汁研究所
http://www.senbei-jiru.com/
※9:富士宮やきそば学会ホームページ
http://www.umya-yakisoba.com/
※ 10:秘密基地なブログ: 富士宮やきそばの歴史
http://www.geocities.jp/syori59/yakisoba/yakisoba.html
※11:NPC運動 - 大分大山町農業協同組合
http://www.oyama-nk.com/rinen/npc.html
※12:(財)地域活性化センター
http://www.chiiki-dukuri-hyakka.or.jp/
※13:悩めるB級グルメの祭典 競争過熱、「不正投票」も - Asahi
http://www.asahi.com/food/news/TKY201009160502.html
焼きうどん-Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%84%BC%E3%81%8D%E3%81%86%E3%81%A9%E3%82%93
地域活性化の事例とは交付金や地域活性化センターについて
http://2chiiki.info/%E5%9C%B0%E5%9F%9F%E6%B4%BB%E6%80%A7%E5%8C%96%E3%81%AB%E3%81%A4%E3%81%84%E3%81%A6/%E5%9C%B0%E5%9F%9F%E6%B4%BB%E6%80%A7%E5%8C%96%E3%81%AE%E4%BA%8B%E4%BE%8B%E3%81%A8%E3%81%AF%E4%BA%A4%E4%BB%98%E9%87%91%E3%82%84%E5%9C%B0%E5%9F%9F%E6%B4%BB%E6%80%A7%E5%8C%96%E3%82%BB%E3%83%B3%E3%82%BF/