日本で最初の国際博覧会である大阪万博が開催された1970(昭和45)年に「走れコウタロー」という、競馬を題材にしたコミックソングが大ヒットトした。
同年7月5日に発売後、口コミでチャートの順位を伸ばし、最終的に100万枚近いヒッ トとなり、この歌を歌ったソルティー・シュガーは同年の第12回日本レコード大賞新人賞を受賞している。
初めてこの曲を聞いたときは、何という脳天気な曲!と思ったりしたものだが、メロディーは明らかにアメリカのカントリー・ミュージックであり、歌を歌っているソルティー・シュガーというグループは、カレッジ・フォーク(※1参照)に属するフォークシンガーグループなのである。
しかし、この「走れコウタロー」。楽曲としては徹底的なパロディ精神で貫かれており、ダービーの風景(出走前・観 客席・出走後ゴール直前まで)を描写しているものの、出走している馬名が他の博打に関連する言 葉であったり、当時の人気ギャグであったりとメチャクチャであり、更には競馬とは全く関係ない「引 っこ抜け」という応援が入ったりしている。
また曲中には、当時、東京都知事として公営ギャンブルの廃止に取り組んでいた美濃部 亮吉の声色をまねた以下のようなナレーション(語り)や、早口の実況中継が含まれている。
(美濃部 亮吉の口調でのナレーション)
エーこのたび、公営ギャンブルを、どのように廃止するかと、いう問題につきまして、慎重に検討を重ねてまいりました結果、本日の第4レース、本命はホタルノヒカリ。穴馬はアッと驚く大三元という結論に達したのであります。
(競馬実況中継)
各馬ゲートインからいっせいにスタート。
第2コーナーをまわったところで先頭は予想どおりホタルノヒカリ。
さらに各馬一団となってタメゴロー、ヒカルゲンジ、リンシャンカイホー(嶺上開花)、メンタンピンドライチ(※2のここ参照)、コイコイ、ソルティーシュガー、オッペケペ、コウタローとつづいております。
第3コーナーをまわって、第4コーナーにかかったところで、先頭は予想どおりホタルノヒカリ、期待のコウタローは大きくぐっとあいて。さあ、最後の直線コースに入った。
あっ、コウタローがぐんぐん出て来た。コウタロー速い。コウタロー速い。トップのホタルノヒカリけんめいの疾走。これをコウタローが必死に追いかける。
コウタローが追いつくか、ホタルノヒカリが逃げ切るか、コウタローかホタルノヒカリ、ホタルノヒカリかマドノユキ、あけてぞけさは別れゆく。
この曲のナレーションに関して、もともと美濃部都知事は、公営ギャンブル廃止派なのでナレーションをしていること自体がギャ グではあり、麻雀の役の馬名に釣られて他の麻雀の役を言ってしまうというミスやらかせ、「(公営)ギ ャンブル廃止とか言ってるけど、実際影では麻雀やってんだろ」という強烈な風刺を含んでいる。また実況中継に関しては、(出走している馬名がメチャクチャである事自体がギャグであるものの)実況の末に興奮しすぎて、馬名からの連想ゲームになり、蛍の光の歌詞の一節を実況してし まうという展開になるなど、二重三重のパロディが織り込まれている。
東京オリンピックが開催されるおよそ4ヶ月前の1964(昭和39)年、当時池田勇人首相が掲げた「所得倍増計画」によって、日本は高度経済成長への道を一直線に進んだ。
思い起こせば、私が若い頃、大阪の商社から東京の商社へ転職したのがちょうどこの頃であり、5年ほど東京にいたが、その後、結婚をするのを機に大阪へ転勤させてもらい戻ってきたのでよく覚えている。
戦後、およそ20年が過ぎ、所得倍増や高度成長政策の結果、その日その日の生活にも追われなくても済むようになるなど経済的にも、ある程度の余裕が出てくると、社会の動きは物質至上主義が全面をおおい、レジャー、バカンス、その日暮らしの無責任、無気力が国民の間に充満し、元禄調の世相が日本を支配するようになてゆく。
そんな高度成長の繁栄に国民が酔っている天下太平の風潮を厳しく戒めた言葉に福田赳夫の「昭和元禄」がある。
大蔵省を退職し、1952(昭和27)年の第25回衆議院議員総選挙で群馬三区から無所属で立候補し当選。国会議員となり、岸信介に仕え、野田卯一、池田勇人と共に「大蔵省の3田」と呼ばれていた。
1960(昭和35)年12月、大蔵省の先輩である池田勇人の政権下で、政調会長に就任するが、「高度経済成長政策は両3年内に破綻を来す」と池田の政策を批判、岸派の分裂を受ける形で坊秀男、田中龍夫、一万田尚登、倉石忠雄ら福田シンパを糾合し、「党風刷新連盟」を結成し、派閥解消を提唱するなど反主流の立場で池田に対抗。「資源有限時代」の到来をいち早く予見、時代に警鐘を鳴らした。
だが、1967(昭和42 )年になっても、依然高度経済成長は続いていた。“60年代は年率10%台を維持し、”68年には自由世界でアメリカに次ぐ第2位の国民総生産を挙げるに至り、国民生活も向上。
高度経済成長の始った1955(昭和30)年(55年体制の始期でもある)から1967(昭和42 )年までの12年間に国民可処分所得は、5.、2倍に伸び、こんなに急速に豊かになったのは日本の歴史始まって以来の珍事であった(『朝日クロニクス週刊20世紀』1967年号)。
都心のビルは高くなり、主要道路は車で埋まった。一番の変化は町が明るくなったことである。
カー・クーラー・カラーテレビの3Cが言われだしたが、服飾の華やかさも目立ってきた。街を歩く女性の健康一杯の足がミニスカートからのぞくようになったと思うといつのまにか、街から大学生の角帽が姿を消し黒い詰襟もなくなった。
1967(昭和42 )年1月.、経企庁が発表した独身勤労者動向調査によれば、服装に収入の22、5%が割かれ(一般家庭は7,8%)、男の半数がドライヤーを持っている. (『朝日クロニクス週刊20世紀』1967年号)。
1967(昭和42 )年10月18歳のイギリスのファッションモデルツイッギーが羽田空港に降り立つと、翌“68年には中高年女性も巻き込んでミニスカートが流行するが、”67年には町の風俗としてすでに定着していた。
江戸時代、元和偃武から60年ほど経ち、将軍徳川綱吉の時代に入って女も男も衣服が華美になったが、昭和戦後も平和が続いて経済が繁栄すれば同様に奢侈(しゃし) 安逸な傾向となり、人々が、食べ物やファッション、音楽や美術などに、お金や時間を使うようになるのも当然といえば当然と言えるかもしれない。それにしても、長年、太平の世が続き、次第に風俗が華美になっていった元禄時代に、昭和40年代前半の昭和を重ねるという福田氏の発想なかなかのものではある。
このようになったのには、もちろん、欧米の影響もある。ロンドンを発信とするファッション革命の波が先進諸国の女も男も巻き込んで、頂点に達したのがビートルズとツイッギーのスターであった。
ビートルズのロックと形式打破の服装、それは大人の権威と伝統への若者の反逆でもあった。日本では敗戦後のベビーブームの時期に生まれた人々が成人を迎えようとしていた。
長髪とひげ、トンボ眼鏡。女性のミニとブーツ。ダークスーツとミンクのコートへのアンチテーゼであり、紳士淑女神話から脱して、ジーンズやTシャツ、男女差のないスタイルへと流れ込んでいった。
昭和元禄の時代に流行った音楽と言えば何といっても、グループサウンズ(略称GS)であろう。
ブームをもたらした代表的存在は1960(昭和35)年に登場したベンチャーズである。デビュー曲『ウォーク・ドント・ラン』は全米2位の大ヒットとなり、その人気はすぐにわが国にも飛び火し、”62年(昭和37)に寺内タケシとブルー・ジーンズが結成されたころからGSの出現する“65年ごろまで、空前のエレキ・ブームが訪れた。「テケテケテケテケ」というあの特徴的な音にしびれた(※4の>音楽>ここ参照)。
本格的なGSとも言うべき存在、ザ・スパイダースの1966(昭和41)年2月リリースのシングル、「ノー・ノー・ボーイ」や、ベンチャーズのエレキブームで下地が作られたところに、同年6月のビートルズ来日公演以降、エレクトリックギター等の楽器を自ら演奏しながら歌うグループが日本で次々とデビューし、グループサウンズの大ブームが巻き起こった。
エレキ音楽は、その前のロカビリーなどと違い、たんに聞くための鑑賞音楽というだけではなく、若者たちがみずから楽器を取って音楽をやりはじめようとした点で、現在にいたるバンド・ブームの源流である。
このような時代に、人口の1割が住む首都東京に社会・共産両党が推す革新知事が誕生した。マスコミは、「東京燃う」と書きたて、政府自民党は大きな衝撃を受けた。
"60年代から政府が推進した経済の高度成長政策の歪(ひずみ)は徐々に広がり、大都市圏では公害、交通住宅などに深刻な影響を与えていた。有効な政策を打ち出せない政府に対する都市住民の不満が爆発し、住民運動の激化、革新首長の誕生が目立つようになっていた。
1967(昭和42)年4月の第6回統一地方選挙で、マルクス経済学者の美濃部亮吉候補が、社会党・共産党推薦で立候補し、「東京に青空を」というキャッチフレーズを掲げ、保守知事の長期化で倦怠した都政からの刷新を訴え、初めて革新候補として,東京都知事選に当選したのもこの流れに乗ったものだった。
上掲の画像は、「東京にも青空を」スモッグに覆われた当時の東京都心部。建設中の超高層霞が関ビルもテレビ塔も”霞”の中。画像は、『朝日クロニクル週刊20世紀』1967年号より)。
当時、都議会では汚職が相次ぎ、現職議員が逮捕されて解散、出直し選挙が行われるなど、都庁がグチャグチャだったことも、革新都知事の誕生に大きく手を貸した。
そして、テレビ出演などで得た知名度を生かし、マスコミからも「美濃部スマイル」の名で好意的に報道された結果、多くの女性票を獲得したことも大きな勝因の一つだろうが、この選挙では同時に、それまで対立することの多かった、社会・共産両党が提携し「ストップ・ザ・サトウ(当時の佐藤栄作首相)」を合言葉に地方選挙を国の政治レベルで争った。又、学者・文化人をかつぎ、社・共両党を基盤にしながらも、「明るい革新都政をつくる会」(ここ参照)という市民組織を形成して選挙を戦うなど、新しい選挙戦術が打ち出されたことが大きい。この美濃部亮吉・都知事も昭和元禄の時代を語る上で、欠かすことのできない人物の一人であろう。
1971年秦野章(自民党推薦・警視総監)、1975年石原慎太郎(自民党推薦・代議士・作家)、松下正寿(民社党推薦)を破り、以後、1979(昭和54)年までの12年間(3期)に渡り東京都知事(第6・7・8代)を務めた。
東京都知事選挙で行われた「革新統一方式」は、以後、一挙に全国に拡がり、一時は日本の総人口の半数近くが革新自治体施政下になった。
革新市長は住民との対話を重視した。杉並区・高井戸のごみ処理場建設問題(東京ゴミ戦争参照)で、「反対者が一人でもいたら着工しない」という美濃部知事の姿勢はその象徴。また、社会福祉に力を入れ環境保全、公害防止に努力した。
老人医療費無料化(※5参照)、高齢住民の都営交通無料化、公害対策で企業に厳しい条件を課すなど、福祉、環境政策において様々な施策を次々打ち出した。その他主な施策には、歩行者天国の実施、荒川線を除く都電の撤去などと共に、東京都主催の公営競技廃止がある。
公営ギャンブル廃止を政治公約として前面に押し出して闘った美濃部は都知事就任後に公約実行という形で、1969(昭和44)年1月24日に公営競技廃止の通達を出し、それまで行っていた競輪・競馬・競艇・オートレースの全ての事業から撤退している。「走れコウタロー」の歌が発売された(1970年)の1年前のことであった。
これにより、東京都の単独主催場であった大井オートレース場と「競輪のメッカ」とも呼ばれた後楽園競輪場は興行そのものが廃止され、江戸川競艇場・大井競馬・京王閣競輪などの開催権は東京都とは別に主催権を特別区や市町村に引き渡された。
これに対しファンからの苦情が相次ぎ、東京都の収益も激減。都営ギャンブル収益は、当時、年間百余億円あったという(Wikipedia.)。また、これらについてはパチンコ産業の拡大を政治面から後方支援する目的があったのではなかったかとの疑念を示す意見もある(※6参照)が、そのようなこと私にはよく判らないが、ちょっと言い過ぎではないだろうか。
東京でだめなら 名古屋があるさ
名古屋がだめなら 大阪があるさ
という歌(「東京でだめなら」(作詞:星野哲郎,作曲:首藤正毅)が、高度成長期がまだ続いていて「何とでもなる」という時代にヒットしていたのを思い出した。
●以下は、渥美清バージョンである。
東京でだめなら - 渥美清 - 歌詞・動画 : 歌ネット
たしかにギャンブルは一日でも早くこの世からなくなってほしいものだが、東京都で公営ギャンブルを廃止しても、競輪、競馬狂は隣の大宮(埼玉県)や川崎(神奈川県)に移動するだけのことだろう。しかし、今、全国の公営競技の現状は非常に厳しい問題となっているようだ・・・(※7参照)。
その反面、パチンコ業界は大盛況な様だが、このパチンコ、戦後に私たちがお遊びでしていたようなものとは違って、今では、あっという間に3~4万円も、負けるという。もう昔のようなお遊びという域を超えてしまっており、ギャンブルに近いものになっていると思うのだが・・・。
これらが取り締まられないのはどうしてだろう? むしろ、カジノ解禁に合わせて合法明文化の動きさえあるようだ。カジノを誘致しようとしている都市には、東京都も入っている。人は、賭博の魅力から抜けられないのだろうか・・・。(パチンコの問題点、※8参照)。
「革新都政」を旗印に勇ましく突き進んだ美濃部も、東京都の赤字を増やすだけで、財政を逼迫(ひっぱく)させ、結局、次期(1979年東京都知事選挙)の鈴木俊一都知事に尻拭いをさせる結果になってしまった。
美濃部都政の下での公害防止条例の制定、老人医療の無料化などは全国に波及していった。こうして、革新首長の政策は都市住民の支持を集める一方、国の政策転換をも促す契機となったことは評価されるべきである。
しかし、革新自治体は、さまざまな限界を持っていた。ひとつは「3割自治」という言葉に象徴されるように、日本の地方自治制度はさまざまな規制や補助金行政によって中央政府の統制下にあった。国政を保守に握られている為、革新自治体がこの壁を破るのは容易ではなかった。
このため革新自治体の勢いを”67年1月(第31回衆議院議員総選挙)と”69年12月(第32回衆議院議員総選挙)の総選挙に反映できなかった。
社会・共産両党が主導権争いをはじめたことも革新自治体の退潮につながった。共産党が革新自治体をテコに勢力を伸ばしたことが社会党の警戒心を呼び、自治体選挙での社共共闘がじっくりいかなくなったのである。”70年なかばには、革新自治体の運動は沈滞と分裂の季節に入ることになる.。.
さて、1979年東京都知事選挙で、美濃部の後継者として立候補した、元総評議長の太田薫等を破り都知事となった鈴木は、老人医療費の無料化を廃止するなど、美濃部革新都政の目玉政策だった福祉の大幅な削減や都職員の給与引き下げにより、2期目には都の財政の黒字化を成し遂げた。
しかし、3期目以降、都庁舎の丸ノ内から新宿への移転をはじめ、東京国際フォーラム、江戸東京博物館、東京臨海副都心の開発に代表される箱物行政の推進で多額の起債を発行した結果、都の財政は再び赤字に転じ、美濃部革新都政下の水準にまで悪化した。
鈴木、4戦目となる1991年東京都知事選挙では総勢16人の激戦で争われた為、反鈴木票が分散したこともあり、辛うじて4選を果たし、選挙後の、東京都議会では社会党が知事与党に加わり、4期目は事実上のオール与党体制で都政運営を行った。
バブル崩壊の影響もあり、鈴木都政4期目で財政はさらに悪化。
鈴木が5選不出馬を表明した1995年東京都知事選挙では、長らく内閣官房副長官を務めた石原信雄が鈴木都政の継承を訴え出馬したが、当選挙には有力候補が次々に立候補。最終的に、反権力、リベラルなイメージの強い作家で前参議院議員の青島幸男が圧勝した。石原の落選は、「国民の政党に対する不信感の表れ」のまさしく象徴的な出来事であった。
鈴木が4期目に開催を計画していた世界都市博覧会はこの都知事選で争点化していた。青島知事就任後、東京都議会は臨海副都心開発を見直した上、都市博の開催を求める決議を賛成多数で可決したが、青島は「中止補償は金で購いが着く。青島は約束を守れる男かそうでないのか、信義の問題なんだ!」と反対し、公約通り中止を決定。バブル景気崩壊と失われた20年が始まった時期で体力の無かった建設業界などに影響を及ぼした。
1996(平成8)年に、競馬アニメ「みどりのマキバオー」のテーマ曲としてソルティー・シュガーの「走れコウタロー」の歌詞が若干改変され、F・MAP(フジテレビのアナウンサー3名[福井謙二、三宅正治、青嶋達也]によるユニット)により「走れマキバオー」というタイトルでカバーされた。このカバー版では「コウタロー」を「マキバオー」に差し替えたり、また美濃部都知事をアニメ放送時の青島幸男都知事に変更したりするなどのアレンジが行われた.。作詞:池田謙吉/替え歌:大田一水/作曲:池田謙吉、前田伸夫/編曲:石川鷹彦メインボーカルは福井が担当。間奏の競馬実況は青嶋、青島幸男東京都知事の物まねは福井だそうだ。
青島幸男東京都知事の物まねのところは以下の様になる。
(セリフ)
「エー このたび、公営ギャンブルを、どのように
中止するかと、いう問題につきまして、
慎重に検討を重ねてまいりました結果・・・
知事、そう何でも中止、中止と申しましても・・・
エー、ですから都市博も中止にしたことですし・・・
知事、競馬にはマキバオーには夢があるんですよ。ロマンがあるんですよ。
知事!レースの実況はアオシマですよ、青島アナウンサー!!
えっ!アオシマ名前が好きだなぁ。やっぱり開催するかぁ~!
開きましょう!開きましょう!そうしましょう!!!」
「走れコウタロー」で始まったので、「走れマキバオー」で、〆た。最後に以下で、聞いてみてください。
みどりのマキバオー OP「走れ!マキバオー」 YouTube
冒頭の画像は、東京都知事当選後も各方面から励ましを受けた美濃部氏。写真は、右から俳優の花沢徳衛、神田隆、田村高廣、加藤剛。1967年7月15日東京般若苑にて。『朝日クロニクル週刊20世紀」 1967年号より。
参考:
※1:カレッジ・フォーク(フォークとミュージックの時代)
http://www.aki-f.com/folk/cat.php?id=2
※2:初心者のための麻雀講座
http://www2.odn.ne.jp/~cbm15900/html/info2.html
※3:ソルティー・シュガー/歌詞:走れコウタロー/うたまっぷ歌詞
http://www.utamap.com/showkasi.php?surl=35731
※4:種村剛◆「社会情報学」基本資料目次
http://homepage3.nifty.com/tanemura/socio_info.html
※5:その昔、老人医療費(自己負担)は無料でした-厚生年金・国民年金情報通
http://www.office-onoduka.com/nenkinblog/2008/03/post_130.html
※6:左翼は何故公営ギャンブルを廃止したのか?
http://blog.livedoor.jp/the_radical_right/archives/52860061.html
※7:特集/競馬・ボート・競輪・オートレース 公営ギャンブルの窮地
http://d.hatena.ne.jp/furuta01/20111004/1318118890
※8:パチンコの換金、法的になぜ罰せられない?カジノ解禁ムードで強まる 合法明文化の動き
http://biz-journal.jp/2013/11/post_3344.html
「革新自治体」時代終り
http://homepage2.nifty.com/tanimurasakaei/kakusinnzititai.htm
走れコウタロー - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B5%B0%E3%82%8C%E3%82%B3%E3%82%A6%E3%82%BF%E3%83%AD%E3%83%BC
同年7月5日に発売後、口コミでチャートの順位を伸ばし、最終的に100万枚近いヒッ トとなり、この歌を歌ったソルティー・シュガーは同年の第12回日本レコード大賞新人賞を受賞している。
初めてこの曲を聞いたときは、何という脳天気な曲!と思ったりしたものだが、メロディーは明らかにアメリカのカントリー・ミュージックであり、歌を歌っているソルティー・シュガーというグループは、カレッジ・フォーク(※1参照)に属するフォークシンガーグループなのである。
しかし、この「走れコウタロー」。楽曲としては徹底的なパロディ精神で貫かれており、ダービーの風景(出走前・観 客席・出走後ゴール直前まで)を描写しているものの、出走している馬名が他の博打に関連する言 葉であったり、当時の人気ギャグであったりとメチャクチャであり、更には競馬とは全く関係ない「引 っこ抜け」という応援が入ったりしている。
また曲中には、当時、東京都知事として公営ギャンブルの廃止に取り組んでいた美濃部 亮吉の声色をまねた以下のようなナレーション(語り)や、早口の実況中継が含まれている。
(美濃部 亮吉の口調でのナレーション)
エーこのたび、公営ギャンブルを、どのように廃止するかと、いう問題につきまして、慎重に検討を重ねてまいりました結果、本日の第4レース、本命はホタルノヒカリ。穴馬はアッと驚く大三元という結論に達したのであります。
(競馬実況中継)
各馬ゲートインからいっせいにスタート。
第2コーナーをまわったところで先頭は予想どおりホタルノヒカリ。
さらに各馬一団となってタメゴロー、ヒカルゲンジ、リンシャンカイホー(嶺上開花)、メンタンピンドライチ(※2のここ参照)、コイコイ、ソルティーシュガー、オッペケペ、コウタローとつづいております。
第3コーナーをまわって、第4コーナーにかかったところで、先頭は予想どおりホタルノヒカリ、期待のコウタローは大きくぐっとあいて。さあ、最後の直線コースに入った。
あっ、コウタローがぐんぐん出て来た。コウタロー速い。コウタロー速い。トップのホタルノヒカリけんめいの疾走。これをコウタローが必死に追いかける。
コウタローが追いつくか、ホタルノヒカリが逃げ切るか、コウタローかホタルノヒカリ、ホタルノヒカリかマドノユキ、あけてぞけさは別れゆく。
この曲のナレーションに関して、もともと美濃部都知事は、公営ギャンブル廃止派なのでナレーションをしていること自体がギャ グではあり、麻雀の役の馬名に釣られて他の麻雀の役を言ってしまうというミスやらかせ、「(公営)ギ ャンブル廃止とか言ってるけど、実際影では麻雀やってんだろ」という強烈な風刺を含んでいる。また実況中継に関しては、(出走している馬名がメチャクチャである事自体がギャグであるものの)実況の末に興奮しすぎて、馬名からの連想ゲームになり、蛍の光の歌詞の一節を実況してし まうという展開になるなど、二重三重のパロディが織り込まれている。
東京オリンピックが開催されるおよそ4ヶ月前の1964(昭和39)年、当時池田勇人首相が掲げた「所得倍増計画」によって、日本は高度経済成長への道を一直線に進んだ。
思い起こせば、私が若い頃、大阪の商社から東京の商社へ転職したのがちょうどこの頃であり、5年ほど東京にいたが、その後、結婚をするのを機に大阪へ転勤させてもらい戻ってきたのでよく覚えている。
戦後、およそ20年が過ぎ、所得倍増や高度成長政策の結果、その日その日の生活にも追われなくても済むようになるなど経済的にも、ある程度の余裕が出てくると、社会の動きは物質至上主義が全面をおおい、レジャー、バカンス、その日暮らしの無責任、無気力が国民の間に充満し、元禄調の世相が日本を支配するようになてゆく。
そんな高度成長の繁栄に国民が酔っている天下太平の風潮を厳しく戒めた言葉に福田赳夫の「昭和元禄」がある。
大蔵省を退職し、1952(昭和27)年の第25回衆議院議員総選挙で群馬三区から無所属で立候補し当選。国会議員となり、岸信介に仕え、野田卯一、池田勇人と共に「大蔵省の3田」と呼ばれていた。
1960(昭和35)年12月、大蔵省の先輩である池田勇人の政権下で、政調会長に就任するが、「高度経済成長政策は両3年内に破綻を来す」と池田の政策を批判、岸派の分裂を受ける形で坊秀男、田中龍夫、一万田尚登、倉石忠雄ら福田シンパを糾合し、「党風刷新連盟」を結成し、派閥解消を提唱するなど反主流の立場で池田に対抗。「資源有限時代」の到来をいち早く予見、時代に警鐘を鳴らした。
だが、1967(昭和42 )年になっても、依然高度経済成長は続いていた。“60年代は年率10%台を維持し、”68年には自由世界でアメリカに次ぐ第2位の国民総生産を挙げるに至り、国民生活も向上。
高度経済成長の始った1955(昭和30)年(55年体制の始期でもある)から1967(昭和42 )年までの12年間に国民可処分所得は、5.、2倍に伸び、こんなに急速に豊かになったのは日本の歴史始まって以来の珍事であった(『朝日クロニクス週刊20世紀』1967年号)。
都心のビルは高くなり、主要道路は車で埋まった。一番の変化は町が明るくなったことである。
カー・クーラー・カラーテレビの3Cが言われだしたが、服飾の華やかさも目立ってきた。街を歩く女性の健康一杯の足がミニスカートからのぞくようになったと思うといつのまにか、街から大学生の角帽が姿を消し黒い詰襟もなくなった。
1967(昭和42 )年1月.、経企庁が発表した独身勤労者動向調査によれば、服装に収入の22、5%が割かれ(一般家庭は7,8%)、男の半数がドライヤーを持っている. (『朝日クロニクス週刊20世紀』1967年号)。
1967(昭和42 )年10月18歳のイギリスのファッションモデルツイッギーが羽田空港に降り立つと、翌“68年には中高年女性も巻き込んでミニスカートが流行するが、”67年には町の風俗としてすでに定着していた。
江戸時代、元和偃武から60年ほど経ち、将軍徳川綱吉の時代に入って女も男も衣服が華美になったが、昭和戦後も平和が続いて経済が繁栄すれば同様に奢侈(しゃし) 安逸な傾向となり、人々が、食べ物やファッション、音楽や美術などに、お金や時間を使うようになるのも当然といえば当然と言えるかもしれない。それにしても、長年、太平の世が続き、次第に風俗が華美になっていった元禄時代に、昭和40年代前半の昭和を重ねるという福田氏の発想なかなかのものではある。
このようになったのには、もちろん、欧米の影響もある。ロンドンを発信とするファッション革命の波が先進諸国の女も男も巻き込んで、頂点に達したのがビートルズとツイッギーのスターであった。
ビートルズのロックと形式打破の服装、それは大人の権威と伝統への若者の反逆でもあった。日本では敗戦後のベビーブームの時期に生まれた人々が成人を迎えようとしていた。
長髪とひげ、トンボ眼鏡。女性のミニとブーツ。ダークスーツとミンクのコートへのアンチテーゼであり、紳士淑女神話から脱して、ジーンズやTシャツ、男女差のないスタイルへと流れ込んでいった。
昭和元禄の時代に流行った音楽と言えば何といっても、グループサウンズ(略称GS)であろう。
ブームをもたらした代表的存在は1960(昭和35)年に登場したベンチャーズである。デビュー曲『ウォーク・ドント・ラン』は全米2位の大ヒットとなり、その人気はすぐにわが国にも飛び火し、”62年(昭和37)に寺内タケシとブルー・ジーンズが結成されたころからGSの出現する“65年ごろまで、空前のエレキ・ブームが訪れた。「テケテケテケテケ」というあの特徴的な音にしびれた(※4の>音楽>ここ参照)。
本格的なGSとも言うべき存在、ザ・スパイダースの1966(昭和41)年2月リリースのシングル、「ノー・ノー・ボーイ」や、ベンチャーズのエレキブームで下地が作られたところに、同年6月のビートルズ来日公演以降、エレクトリックギター等の楽器を自ら演奏しながら歌うグループが日本で次々とデビューし、グループサウンズの大ブームが巻き起こった。
エレキ音楽は、その前のロカビリーなどと違い、たんに聞くための鑑賞音楽というだけではなく、若者たちがみずから楽器を取って音楽をやりはじめようとした点で、現在にいたるバンド・ブームの源流である。
このような時代に、人口の1割が住む首都東京に社会・共産両党が推す革新知事が誕生した。マスコミは、「東京燃う」と書きたて、政府自民党は大きな衝撃を受けた。
"60年代から政府が推進した経済の高度成長政策の歪(ひずみ)は徐々に広がり、大都市圏では公害、交通住宅などに深刻な影響を与えていた。有効な政策を打ち出せない政府に対する都市住民の不満が爆発し、住民運動の激化、革新首長の誕生が目立つようになっていた。
1967(昭和42)年4月の第6回統一地方選挙で、マルクス経済学者の美濃部亮吉候補が、社会党・共産党推薦で立候補し、「東京に青空を」というキャッチフレーズを掲げ、保守知事の長期化で倦怠した都政からの刷新を訴え、初めて革新候補として,東京都知事選に当選したのもこの流れに乗ったものだった。
上掲の画像は、「東京にも青空を」スモッグに覆われた当時の東京都心部。建設中の超高層霞が関ビルもテレビ塔も”霞”の中。画像は、『朝日クロニクル週刊20世紀』1967年号より)。
当時、都議会では汚職が相次ぎ、現職議員が逮捕されて解散、出直し選挙が行われるなど、都庁がグチャグチャだったことも、革新都知事の誕生に大きく手を貸した。
そして、テレビ出演などで得た知名度を生かし、マスコミからも「美濃部スマイル」の名で好意的に報道された結果、多くの女性票を獲得したことも大きな勝因の一つだろうが、この選挙では同時に、それまで対立することの多かった、社会・共産両党が提携し「ストップ・ザ・サトウ(当時の佐藤栄作首相)」を合言葉に地方選挙を国の政治レベルで争った。又、学者・文化人をかつぎ、社・共両党を基盤にしながらも、「明るい革新都政をつくる会」(ここ参照)という市民組織を形成して選挙を戦うなど、新しい選挙戦術が打ち出されたことが大きい。この美濃部亮吉・都知事も昭和元禄の時代を語る上で、欠かすことのできない人物の一人であろう。
1971年秦野章(自民党推薦・警視総監)、1975年石原慎太郎(自民党推薦・代議士・作家)、松下正寿(民社党推薦)を破り、以後、1979(昭和54)年までの12年間(3期)に渡り東京都知事(第6・7・8代)を務めた。
東京都知事選挙で行われた「革新統一方式」は、以後、一挙に全国に拡がり、一時は日本の総人口の半数近くが革新自治体施政下になった。
革新市長は住民との対話を重視した。杉並区・高井戸のごみ処理場建設問題(東京ゴミ戦争参照)で、「反対者が一人でもいたら着工しない」という美濃部知事の姿勢はその象徴。また、社会福祉に力を入れ環境保全、公害防止に努力した。
老人医療費無料化(※5参照)、高齢住民の都営交通無料化、公害対策で企業に厳しい条件を課すなど、福祉、環境政策において様々な施策を次々打ち出した。その他主な施策には、歩行者天国の実施、荒川線を除く都電の撤去などと共に、東京都主催の公営競技廃止がある。
公営ギャンブル廃止を政治公約として前面に押し出して闘った美濃部は都知事就任後に公約実行という形で、1969(昭和44)年1月24日に公営競技廃止の通達を出し、それまで行っていた競輪・競馬・競艇・オートレースの全ての事業から撤退している。「走れコウタロー」の歌が発売された(1970年)の1年前のことであった。
これにより、東京都の単独主催場であった大井オートレース場と「競輪のメッカ」とも呼ばれた後楽園競輪場は興行そのものが廃止され、江戸川競艇場・大井競馬・京王閣競輪などの開催権は東京都とは別に主催権を特別区や市町村に引き渡された。
これに対しファンからの苦情が相次ぎ、東京都の収益も激減。都営ギャンブル収益は、当時、年間百余億円あったという(Wikipedia.)。また、これらについてはパチンコ産業の拡大を政治面から後方支援する目的があったのではなかったかとの疑念を示す意見もある(※6参照)が、そのようなこと私にはよく判らないが、ちょっと言い過ぎではないだろうか。
東京でだめなら 名古屋があるさ
名古屋がだめなら 大阪があるさ
という歌(「東京でだめなら」(作詞:星野哲郎,作曲:首藤正毅)が、高度成長期がまだ続いていて「何とでもなる」という時代にヒットしていたのを思い出した。
●以下は、渥美清バージョンである。
東京でだめなら - 渥美清 - 歌詞・動画 : 歌ネット
たしかにギャンブルは一日でも早くこの世からなくなってほしいものだが、東京都で公営ギャンブルを廃止しても、競輪、競馬狂は隣の大宮(埼玉県)や川崎(神奈川県)に移動するだけのことだろう。しかし、今、全国の公営競技の現状は非常に厳しい問題となっているようだ・・・(※7参照)。
その反面、パチンコ業界は大盛況な様だが、このパチンコ、戦後に私たちがお遊びでしていたようなものとは違って、今では、あっという間に3~4万円も、負けるという。もう昔のようなお遊びという域を超えてしまっており、ギャンブルに近いものになっていると思うのだが・・・。
これらが取り締まられないのはどうしてだろう? むしろ、カジノ解禁に合わせて合法明文化の動きさえあるようだ。カジノを誘致しようとしている都市には、東京都も入っている。人は、賭博の魅力から抜けられないのだろうか・・・。(パチンコの問題点、※8参照)。
「革新都政」を旗印に勇ましく突き進んだ美濃部も、東京都の赤字を増やすだけで、財政を逼迫(ひっぱく)させ、結局、次期(1979年東京都知事選挙)の鈴木俊一都知事に尻拭いをさせる結果になってしまった。
美濃部都政の下での公害防止条例の制定、老人医療の無料化などは全国に波及していった。こうして、革新首長の政策は都市住民の支持を集める一方、国の政策転換をも促す契機となったことは評価されるべきである。
しかし、革新自治体は、さまざまな限界を持っていた。ひとつは「3割自治」という言葉に象徴されるように、日本の地方自治制度はさまざまな規制や補助金行政によって中央政府の統制下にあった。国政を保守に握られている為、革新自治体がこの壁を破るのは容易ではなかった。
このため革新自治体の勢いを”67年1月(第31回衆議院議員総選挙)と”69年12月(第32回衆議院議員総選挙)の総選挙に反映できなかった。
社会・共産両党が主導権争いをはじめたことも革新自治体の退潮につながった。共産党が革新自治体をテコに勢力を伸ばしたことが社会党の警戒心を呼び、自治体選挙での社共共闘がじっくりいかなくなったのである。”70年なかばには、革新自治体の運動は沈滞と分裂の季節に入ることになる.。.
さて、1979年東京都知事選挙で、美濃部の後継者として立候補した、元総評議長の太田薫等を破り都知事となった鈴木は、老人医療費の無料化を廃止するなど、美濃部革新都政の目玉政策だった福祉の大幅な削減や都職員の給与引き下げにより、2期目には都の財政の黒字化を成し遂げた。
しかし、3期目以降、都庁舎の丸ノ内から新宿への移転をはじめ、東京国際フォーラム、江戸東京博物館、東京臨海副都心の開発に代表される箱物行政の推進で多額の起債を発行した結果、都の財政は再び赤字に転じ、美濃部革新都政下の水準にまで悪化した。
鈴木、4戦目となる1991年東京都知事選挙では総勢16人の激戦で争われた為、反鈴木票が分散したこともあり、辛うじて4選を果たし、選挙後の、東京都議会では社会党が知事与党に加わり、4期目は事実上のオール与党体制で都政運営を行った。
バブル崩壊の影響もあり、鈴木都政4期目で財政はさらに悪化。
鈴木が5選不出馬を表明した1995年東京都知事選挙では、長らく内閣官房副長官を務めた石原信雄が鈴木都政の継承を訴え出馬したが、当選挙には有力候補が次々に立候補。最終的に、反権力、リベラルなイメージの強い作家で前参議院議員の青島幸男が圧勝した。石原の落選は、「国民の政党に対する不信感の表れ」のまさしく象徴的な出来事であった。
鈴木が4期目に開催を計画していた世界都市博覧会はこの都知事選で争点化していた。青島知事就任後、東京都議会は臨海副都心開発を見直した上、都市博の開催を求める決議を賛成多数で可決したが、青島は「中止補償は金で購いが着く。青島は約束を守れる男かそうでないのか、信義の問題なんだ!」と反対し、公約通り中止を決定。バブル景気崩壊と失われた20年が始まった時期で体力の無かった建設業界などに影響を及ぼした。
1996(平成8)年に、競馬アニメ「みどりのマキバオー」のテーマ曲としてソルティー・シュガーの「走れコウタロー」の歌詞が若干改変され、F・MAP(フジテレビのアナウンサー3名[福井謙二、三宅正治、青嶋達也]によるユニット)により「走れマキバオー」というタイトルでカバーされた。このカバー版では「コウタロー」を「マキバオー」に差し替えたり、また美濃部都知事をアニメ放送時の青島幸男都知事に変更したりするなどのアレンジが行われた.。作詞:池田謙吉/替え歌:大田一水/作曲:池田謙吉、前田伸夫/編曲:石川鷹彦メインボーカルは福井が担当。間奏の競馬実況は青嶋、青島幸男東京都知事の物まねは福井だそうだ。
青島幸男東京都知事の物まねのところは以下の様になる。
(セリフ)
「エー このたび、公営ギャンブルを、どのように
中止するかと、いう問題につきまして、
慎重に検討を重ねてまいりました結果・・・
知事、そう何でも中止、中止と申しましても・・・
エー、ですから都市博も中止にしたことですし・・・
知事、競馬にはマキバオーには夢があるんですよ。ロマンがあるんですよ。
知事!レースの実況はアオシマですよ、青島アナウンサー!!
えっ!アオシマ名前が好きだなぁ。やっぱり開催するかぁ~!
開きましょう!開きましょう!そうしましょう!!!」
「走れコウタロー」で始まったので、「走れマキバオー」で、〆た。最後に以下で、聞いてみてください。
みどりのマキバオー OP「走れ!マキバオー」 YouTube
冒頭の画像は、東京都知事当選後も各方面から励ましを受けた美濃部氏。写真は、右から俳優の花沢徳衛、神田隆、田村高廣、加藤剛。1967年7月15日東京般若苑にて。『朝日クロニクル週刊20世紀」 1967年号より。
参考:
※1:カレッジ・フォーク(フォークとミュージックの時代)
http://www.aki-f.com/folk/cat.php?id=2
※2:初心者のための麻雀講座
http://www2.odn.ne.jp/~cbm15900/html/info2.html
※3:ソルティー・シュガー/歌詞:走れコウタロー/うたまっぷ歌詞
http://www.utamap.com/showkasi.php?surl=35731
※4:種村剛◆「社会情報学」基本資料目次
http://homepage3.nifty.com/tanemura/socio_info.html
※5:その昔、老人医療費(自己負担)は無料でした-厚生年金・国民年金情報通
http://www.office-onoduka.com/nenkinblog/2008/03/post_130.html
※6:左翼は何故公営ギャンブルを廃止したのか?
http://blog.livedoor.jp/the_radical_right/archives/52860061.html
※7:特集/競馬・ボート・競輪・オートレース 公営ギャンブルの窮地
http://d.hatena.ne.jp/furuta01/20111004/1318118890
※8:パチンコの換金、法的になぜ罰せられない?カジノ解禁ムードで強まる 合法明文化の動き
http://biz-journal.jp/2013/11/post_3344.html
「革新自治体」時代終り
http://homepage2.nifty.com/tanimurasakaei/kakusinnzititai.htm
走れコウタロー - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B5%B0%E3%82%8C%E3%82%B3%E3%82%A6%E3%82%BF%E3%83%AD%E3%83%BC