地の底から響く「ゴーツ」という音と共に、「ドドドドド・・・」と、まるでSF映画に出てくるような巨大怪獣が地底を走り向けたのか・・・と思うような激しく突き上げるような揺れに襲われ驚いて目を覚ましたとき、ツインベッドで寝ていた女房が隣のベッドからジャンプするような形で私のベッドの上に飛びこんできた。
「兵庫県南部地震」(阪神・淡路大震災)が阪神・淡路地域を襲ったのは、1995(平成7)年1月17日午前5時46分のことであった。
震災が起こったのは、私の母が、癌で前年末に亡くなり、四十九日の法要(中陰参照)を済ませて、私の家に泊まっていた兄弟たちがそれぞれ帰って行った翌早朝のことであった。中陰法要の中でももっとも重要な法要とされる四十九日の法要を何事もなく終えることが出来たのは、母の日ごろからの信仰のお蔭であったかもしれない。
私の家は山の麓の固い地盤にある為、幸いなことに私の家を含めご近所の家も壁の亀裂など小さな被害はあったものの家の倒壊等は免れ、死者も出なかったが、ご近所の年老いた人達の中には、怖い思いをした心労からか、地震発生後2~3ヶ月ぐらい経って、知っているだけで3人ぐらい亡くなった。そして、ご近所の親しい人達からは良く言われた。「あなたのお母さんは怖い思いをしなくて良かったですね」・・・と。人が亡くなっているのによかったですね・・はおかしいとは思うのだが、確かに、私の母は非常に怖がりだったので、同じ亡くなるなら、あんな怖い思いをしなくて良かったと思うし、御近所の方も同じ思いだったのだろう。神戸では、震災で直接亡くなった人以外に、生き残った多くのお年寄りが震災後なってから次々と亡くなられたと聞いているが、そのような人がどれだけの人数いたかは定かではない。
2015(平成27)年1月17の今日、あの震災から、20年を迎えた。
日本で初めての近代的な大都市における直下型地震(内陸地震)は、大きな破壊力をもって、家・建物を倒壊させ人命を奪っただけではなく、道路・鉄道・電気・水道・ガス・電話などライフラインが寸断され広範囲で全く機能しなくなり、肝心の救援要請さえ出来ない状態となった。(内陸地震のことについて詳しくは※1の内陸地震、※2のコラム第5回内陸の地震、※3の地震の型参照)。
この震災では家屋の倒壊だけではなく、火災の被害が甚大であった。神戸市長田区では、地震直後の火災に伴う火災旋風が確認されたが、消火活動が間に合わず、被害をより大きくする結果となった。地震発生直後に長田区で数10件発生した火災は火災旋風により近隣住宅に次々と飛び火し、最終的に須磨区東部から兵庫区にかけての広範囲、6000棟が焼失した。
火災の起こった南の方角から私たちの住んでいる北の方角へと向かってきた火は、幸い途中の東西に走っている山陽電鉄の軌道のある広い通りを境にして、そこから北側にまでは及ばなかったが、山陽電鉄の駅は倒壊、全焼していた。
長田と須磨の三角点の頂点のような所に位置するところの高台にある私の家からは、火災の全貌が、目撃されたが、余りの凄まじさを目の当りにし、涙が止まらなかった。
上掲の上段長田区JR新長田駅若松町付近。下段:須磨区常盤町周辺 JR鷹取駅付近。いずれも1995年1月18日撮影のもの。まだブスブスと燃えている。画像は※4:「神戸市安全・安心のページ」の「震災資料室-阪神・淡路大震災の記録」にリンクされている震災写真オープンデータサイト「阪神・淡路大震災『1.17の記録』」より借用したもの。
震災は、多くの命を奪うとともに、都市基盤や建築物に甚大な被害を与え、私たち市民に直接的な大被害を与え、大切なものを数多く奪っていった。また、復旧の長期化に伴い、産業、都市機能、生活などに様々な影響を及ぼし、20年経った今日でも未解決事項を多く残している。
神戸市の被災状況及び復興への取り組み状況ここを参照してください。
阪神・淡路大震災では、政府や行政の対応の遅れが批判された一方で、学生を中心としたボランティア活動が活発化し、「日本のボランティア元年」と言われた。
これをきっかけに、ボランティア活動への認識を深め、災害への備えの充実強化を図る目的で、1995(平成7)年12月の閣議では1月17日「防災とボランティアの日」が制定され、翌1996(平成8)年から実施されている。
この日のことは以前にこのブログでも書いた。→防災とボランティアの日
阪神・淡路大震災の後の地震や水害などにおいても、大勢のボランティアが活躍しているが、一方で、震災等に駆けつけたボランティアが逆に現地の「迷惑」となっていた面などあり、ボランティアとして被災者に何をしてあげることが一番望ましいことなのか・・・。ボランティアの在り方が問われる面も多々あった。
被災者の気持ちは複雑なものである。多くのボランティアが被災地に応援に駆け付け勇気づけの為に「頑張って」・・・と声をかけてくれる。それが被災者にはかえって傷つくこともある。被災者の多くが身内や友人・知人を亡くし、家を無くし、生きてゆく希望さえ・・・、何もかも無くして、それでもただただ必死に生きていかざるをえないから「気張って」生きているだけなのに・・。「頑張って」・・・と云われても誰の為に・・・、何の為に・・・これ以上頑張るのか?・・・。こんな励ましのつもりの言葉でさえも傷つくものなのである。
震災の後、被災者が語っている中で、傷心している人の多くは深刻顔をして励ましてくれるよりも「笑顔」が見たかったと言っていた。ただ「笑顔で話しかけ、その人の話を黙って聞いてくれる人」・・・。そんな人との出会が一番嬉しかったと・・・。又、「歌」というものが非常に被災者を勇気づけてくれたようである。「歌」には特別な力があるようだ。
阪神・淡路大震災からひと月近く過ぎた2月14日の夜。震災被災者を励ますため、神戸市長田区の南駒栄公園(ここ参照)に、関西に活動拠点を置く中川敬率いる人気ロックバンド「ソウル・フラワー・ユニオン」(※5。実際にはソウル・フラワー・モノノケ・サミットという名義の別動隊バンド)が出前ライブにやってきた。
たき火にあたっていた被災者が「兄ちゃん、待っとったで」と迎えてくれた。粉雪が舞うなか、被災地特有の諸般の理由からアコースティックな楽器で民謡や昔の歌謡曲を奏でていた。その時の光景をもとに、次の日にかねてより親交が深かったヒートウェイヴの山口洋と作った主旋律の一部に乗せて一気に曲を書き上げ、詞も仕上げたものが「満月の夕」だったという(※6 参照)。
その日の神戸の空には、震災から丸一か月の満月(※7参照)が浮かんでおり、最大余震の到来が噂される中、ライブを観る被災者たちが口々に「満月を見るの、怖いわ」と言っていたのを中川が耳にしたことから、この唄は産まれたそうだ(Wikipedia)。
風が吹く 港の方から 焼けあとを包むようにおどす風
悲しくて すべてを笑う 乾く冬の夕
時を超え国境線から 幾千里のがれきの町に立つ
この胸の振り子は鳴らす “今”を刻むため
飼い主をなくした柴が 同胞とじゃれながら車道 (みち)をゆく
解き放たれ すべてを笑う 乾く冬の夕
ヤサホーヤ 唄がきこえる 眠らずに朝まで踊る
ヤサホーヤ 焚火を囲む 吐く息の白さが踊る
解き放て いのちで笑え 満月の夕
(以下略)
「満月の夕(ゆうべ) 」(作詞 : 中川敬/作曲 : 中川敬 & 山口洋)
「満月の夕」では、被災地の惨状や、復興への厳しい現実、そして、それらに向き合う人々のひたむきな姿が歌い込まれている。歌は、しだいに広がり、大きな反響を得た。この曲は今ではガガガSPや沢知恵、平安隆、酒井俊、J-Min、大竹しのぶ、アン・サリーなど、多くのアーティストによりカバーされている。
被災地神戸の人にとっては、満月を見ると、この歌を思い出し、もう、忘れられない歌になっている。以下で視聴できる。良い歌なので聞いて見ては・・・。
満月の夕/ソウル・フラワー・ユニオン - YouTube
満月の夕 (ゆうべ) / 中川敬 (with 伊丹英子)
神戸市の中心中央区より西側、兵庫区、長田区、須磨区は地震と同時に起こった火災が大惨事を起こしたが、中央区より東側では考えられないようなビルや鉄道、高速道路の倒壊などが起こったが、阪神大震災直後の1月18日には神戸入りし、それまでの環境活動などのネットワークを通じて支援を呼びかけ、1月19日には東灘区の御影公会堂での炊きだし、また、1月23日には松山ユースホステルへ、高齢の被災者を一時避難させるプロジェクトをはじめ、その後、隣接する灘区の石屋川公園( YAHOO!地図参照)をボランティアの拠点として「神戸元気村」(※8参照)を立ち上げ、民間ボランティアセンターの先駆けとして活動を行っていた山田和尚。通称バウさんとも呼ばれる人(本名:山田成雲)がいた。
同氏のことを私は余りよく知らないが同氏が代表を務める「神戸元気村」は、はじめの2週間ほどで、被災者支援の20余りのプロジェクトを立ち上げるなど活躍し、その行動力は大したものだったようだが、経歴もよく判らず、運営面で色々トラブルもあったようで良くない評判も耳にするのは残念なことである。同氏は、今年(2015年)1月5日に お亡くなりになったと聞く(享年63歳)。
震災後7年たった2002年に「神戸元気村」は解散しているが、.同年1月17日付朝日新聞「天声人語」には、以下のように書かれていたという。
“行政ができないことをやってきたという自負はあるだろうが、山田氏にはなお気がかりな点がある。「自立するのを助ける」。この意識が行政側にもボランティアにもあって「単に困っているだけの」被災者との摩擦を招いたことだ。お互いに自立した人間として接するべきだ。
山田氏は17日早朝、六甲山頂から神戸の街に頭を下げて「お礼」をし、区切りにすると語っていた。“・・・と(※9参照)。
どうも、ここに書いている事だけでは、よく判らないが、被災者にも困っている事や悩んでいる事などその事情は人によって様々だろう。一律にこうだと決めつけても、それが被災者の助けになっているとは限らない。
2011年に発生した東日本大震災で被災した人たちで、大津波で家をそして身内を失った人たちも、今後、又、同じような大地震による大津波が何時あるかもしれない危険性も心配されるなかで、馴れ親しんでいた今まで住んでいたところへ一日も早く戻り、そこに住みたい人、危険だから高台へ引越したい人・・・、年齢やその人の置かれた状況などにより色々と考え方も違うだろう。そのような人たちにはどのような援助が必要なのか・・・。いろいろと権利関係も絡み、被災した人たちでないと解決できない問題も多い。難しい問題だ。
震災で亡くなられた方を追悼するとともに、震災で培われた「きずな・支えあう心」「やさしさ・思いやり」の大切さなどを次世代へ語り継いでいくため、神戸市では、阪神・淡路大震災から20 年となる今日午前5時~午後21時に神戸市中央区の東遊園地(神戸市役所南側)で「阪神淡路大震災1.17のつどい」が行われる。
震災の歌と言えば先に書いた「満月の夕」以外にも感動的な曲「しあわせ運べるように」がある。
神戸市立西灘小学校で音楽専科教諭を務める臼井真氏が、阪神・淡路大震災で自宅が崩壊。震災から約2週間後、身を寄せていた親戚宅で、生まれ育った神戸の街の変わり果てた姿をニュースで見て衝撃を受け、わずか10分で作詞・作曲した楽曲だという。
亡くなった方々のぶんも 毎日を 大切に 生きてゆこう
傷ついた神戸を もとの姿にもどそう
やさしい春の光のような 未来を夢み
響きわたれ ぼくたちの歌
生まれ変わる 神戸のまちに
届けたい わたしたちの歌 しあわせ 運べるように
届けたい わたしたちの歌 しあわせ 運べるように
「しあわせ運べるように」(神戸オリジナルバージョン)の一番。
神戸復興を願い作られた当初の歌詞は二番までだったが、2005年に3番が作詞されたようだ。同楽曲は原曲の「神戸オリジナルバージョン」のほか、2011年に発生した東日本大震災後に制作された、歌詞中の「神戸」を「ふるさと」に置き換えた「ふるさとバージョン」がある(※10参照)。
追悼式典などで歌われるようになり、新潟県やイランなど国内外の大地震被災地にも広まった。東日本大震災の被災地でも歌われている。
今日「1.17のつどい」では、慰霊と復興のモニュメント(※4のここ参照)前にて、17時46 分の黙祷後、神戸市立西灘小学校の臼井先生と児童により、この「しあわせ運べるように」と、「笑顔の向こうに」(作詞:たかいちづ 作曲:臼井真。※10のここ参照)を含む数曲が合唱される。
この笑顔の向こうに
たくさんの悲しみがあるの
どんなに笑顔を作ってみても
悲しみは癒されない
(以下略)
「笑顔の向こうに」は、阪神・淡路大震災で1歳半の息子を亡くした女性(たかいちづ)が書いた歌詞に、臼井真教諭が曲をつけたものである。歌詞はここ参照、歌は以下参照。
笑顔の向こうにー YouTube
神戸市だけでなく、兵庫県でも、「ひょうご安全の日を定める条例」(平成17年4月1日施行)に基づき、阪神・淡路大震災の経験と教訓を継承するとともに、いつまでも忘れることなく、安全で安心な社会づくりを期する日として、1月17日を「ひょうご安全の日」と定め、県民の参画のもと、「ひょうご安全の日」にふさわしいさまざまな事業に取り組んでいる(※11参照)
南海トラフ巨大地震や異常気象等による自然災害への危惧が高まる中、政府の地震調査委員会(地震調査研究推進本部内に設置)が昨2014年12月19日に発表した2014年版「全国地震動予測地図(※12のここ)は、関東地方の多くの地点で30年以内に震度6弱以上の揺れが起こる確率が上昇した・・・としている(※13参照)。
地震大国日本(ここ参照)に住む以上、もう、地震からは逃げられないと覚悟しなければいけないだろう。あとは、他人事と考えずに十分な備えをして置くしかないのろう。
最後に、一言。
阪神大震災から20年目を迎えた神戸。表面的には復興したように見えるが、「復興」によって失われたものはないのだろうか?
東日本大震災から間もなく5年目を迎える東北地方の人たちも、神戸の表面的な目に見える復興だけを見ずにその実態などよく観察して後で後悔しない復興を成し遂げられることを祈っています。例えば、かっては神戸の西の新開地と呼ばれていた繁華街長田区大正筋商店街。震災でその80%以上を焼失したが今では大きなビルが多く建ち、外観的には完全に復興したように見える。以下参照。
新長田・六間道
・・・が、その実態はどうなのか・・。以下を一読されてみるのも良いのでは・・・。
震災から19年、神戸市がもたらした“復興災害”~市民の資産毀損させ他県企業優先
参考
※1:J-SHIS地震ハザードステーション
http://www.j-shis.bosai.go.jp/
※2:NHKそなえる防災
http://www.nhk.or.jp/sonae/
※3:地震・防災:あなたとあなたの家族を守るために
http://www5d.biglobe.ne.jp/~kabataf/index.htm
※4:神戸市安全・安心のページ
http://www.city.kobe.lg.jp/safety/index.html
※5:SOuL FLOWER OFFiCiAL CiTE
http://www.breast.co.jp/soulflower/index.html
※6:神戸で生まれ東北に響く 「満月の夕」の歌:朝日新聞デジタル
http://www.asahi.com/articles/CMTW1412020400002.html
※7:月齢カレンダー - こよみのページ:1995年2月
http://koyomi8.com/moonage.htm?cmd=19550209110
※8:神戸元気村
http://www.geocities.jp/anomotoyuki/koube/genkimura.html
※9:神戸元気村、解散。震災7年に思う。
http://www.jca.apc.org/water-w/2002KOBE.html
※10:「しあわせ運べるように」公式サイト
http://www.shiawasehakoberuyouni.jp/profile.html
※11:1.17は忘れない ひょうご安全の日公式サイト
http://19950117hyogo.jp/
※12:地震調査研究推進本部
http://www.jishin.go.jp/main/index.html
※13:今後30年、大地震の確率上昇 相模トラフの想定盛り込む :日本経済新聞
http://www.nikkei.com/article/DGXLASDG19HA7_Z11C14A2CR8000/
1995年、被災地神戸からの元気
http://www.geocities.jp/poppo1954/index.htm
震災発 | 2015年-阪神・淡路大震災20年メモリアルイベント一覧・リンク集
http://www.shinsaihatsu.com/news/past_news15event.html
神戸新聞/阪神・淡路大震災20年特集
http://www.kobe-np.co.jp/rentoku/sinsai/chronicle/
阪神・淡路大震災 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%AA%E7%A5%9E%E3%83%BB%E6%B7%A1%E8%B7%AF%E5%A4%A7%E9%9C%87%E7%81%BD
「兵庫県南部地震」(阪神・淡路大震災)が阪神・淡路地域を襲ったのは、1995(平成7)年1月17日午前5時46分のことであった。
震災が起こったのは、私の母が、癌で前年末に亡くなり、四十九日の法要(中陰参照)を済ませて、私の家に泊まっていた兄弟たちがそれぞれ帰って行った翌早朝のことであった。中陰法要の中でももっとも重要な法要とされる四十九日の法要を何事もなく終えることが出来たのは、母の日ごろからの信仰のお蔭であったかもしれない。
私の家は山の麓の固い地盤にある為、幸いなことに私の家を含めご近所の家も壁の亀裂など小さな被害はあったものの家の倒壊等は免れ、死者も出なかったが、ご近所の年老いた人達の中には、怖い思いをした心労からか、地震発生後2~3ヶ月ぐらい経って、知っているだけで3人ぐらい亡くなった。そして、ご近所の親しい人達からは良く言われた。「あなたのお母さんは怖い思いをしなくて良かったですね」・・・と。人が亡くなっているのによかったですね・・はおかしいとは思うのだが、確かに、私の母は非常に怖がりだったので、同じ亡くなるなら、あんな怖い思いをしなくて良かったと思うし、御近所の方も同じ思いだったのだろう。神戸では、震災で直接亡くなった人以外に、生き残った多くのお年寄りが震災後なってから次々と亡くなられたと聞いているが、そのような人がどれだけの人数いたかは定かではない。
2015(平成27)年1月17の今日、あの震災から、20年を迎えた。
日本で初めての近代的な大都市における直下型地震(内陸地震)は、大きな破壊力をもって、家・建物を倒壊させ人命を奪っただけではなく、道路・鉄道・電気・水道・ガス・電話などライフラインが寸断され広範囲で全く機能しなくなり、肝心の救援要請さえ出来ない状態となった。(内陸地震のことについて詳しくは※1の内陸地震、※2のコラム第5回内陸の地震、※3の地震の型参照)。
この震災では家屋の倒壊だけではなく、火災の被害が甚大であった。神戸市長田区では、地震直後の火災に伴う火災旋風が確認されたが、消火活動が間に合わず、被害をより大きくする結果となった。地震発生直後に長田区で数10件発生した火災は火災旋風により近隣住宅に次々と飛び火し、最終的に須磨区東部から兵庫区にかけての広範囲、6000棟が焼失した。
火災の起こった南の方角から私たちの住んでいる北の方角へと向かってきた火は、幸い途中の東西に走っている山陽電鉄の軌道のある広い通りを境にして、そこから北側にまでは及ばなかったが、山陽電鉄の駅は倒壊、全焼していた。
長田と須磨の三角点の頂点のような所に位置するところの高台にある私の家からは、火災の全貌が、目撃されたが、余りの凄まじさを目の当りにし、涙が止まらなかった。
上掲の上段長田区JR新長田駅若松町付近。下段:須磨区常盤町周辺 JR鷹取駅付近。いずれも1995年1月18日撮影のもの。まだブスブスと燃えている。画像は※4:「神戸市安全・安心のページ」の「震災資料室-阪神・淡路大震災の記録」にリンクされている震災写真オープンデータサイト「阪神・淡路大震災『1.17の記録』」より借用したもの。
震災は、多くの命を奪うとともに、都市基盤や建築物に甚大な被害を与え、私たち市民に直接的な大被害を与え、大切なものを数多く奪っていった。また、復旧の長期化に伴い、産業、都市機能、生活などに様々な影響を及ぼし、20年経った今日でも未解決事項を多く残している。
神戸市の被災状況及び復興への取り組み状況ここを参照してください。
阪神・淡路大震災では、政府や行政の対応の遅れが批判された一方で、学生を中心としたボランティア活動が活発化し、「日本のボランティア元年」と言われた。
これをきっかけに、ボランティア活動への認識を深め、災害への備えの充実強化を図る目的で、1995(平成7)年12月の閣議では1月17日「防災とボランティアの日」が制定され、翌1996(平成8)年から実施されている。
この日のことは以前にこのブログでも書いた。→防災とボランティアの日
阪神・淡路大震災の後の地震や水害などにおいても、大勢のボランティアが活躍しているが、一方で、震災等に駆けつけたボランティアが逆に現地の「迷惑」となっていた面などあり、ボランティアとして被災者に何をしてあげることが一番望ましいことなのか・・・。ボランティアの在り方が問われる面も多々あった。
被災者の気持ちは複雑なものである。多くのボランティアが被災地に応援に駆け付け勇気づけの為に「頑張って」・・・と声をかけてくれる。それが被災者にはかえって傷つくこともある。被災者の多くが身内や友人・知人を亡くし、家を無くし、生きてゆく希望さえ・・・、何もかも無くして、それでもただただ必死に生きていかざるをえないから「気張って」生きているだけなのに・・。「頑張って」・・・と云われても誰の為に・・・、何の為に・・・これ以上頑張るのか?・・・。こんな励ましのつもりの言葉でさえも傷つくものなのである。
震災の後、被災者が語っている中で、傷心している人の多くは深刻顔をして励ましてくれるよりも「笑顔」が見たかったと言っていた。ただ「笑顔で話しかけ、その人の話を黙って聞いてくれる人」・・・。そんな人との出会が一番嬉しかったと・・・。又、「歌」というものが非常に被災者を勇気づけてくれたようである。「歌」には特別な力があるようだ。
阪神・淡路大震災からひと月近く過ぎた2月14日の夜。震災被災者を励ますため、神戸市長田区の南駒栄公園(ここ参照)に、関西に活動拠点を置く中川敬率いる人気ロックバンド「ソウル・フラワー・ユニオン」(※5。実際にはソウル・フラワー・モノノケ・サミットという名義の別動隊バンド)が出前ライブにやってきた。
たき火にあたっていた被災者が「兄ちゃん、待っとったで」と迎えてくれた。粉雪が舞うなか、被災地特有の諸般の理由からアコースティックな楽器で民謡や昔の歌謡曲を奏でていた。その時の光景をもとに、次の日にかねてより親交が深かったヒートウェイヴの山口洋と作った主旋律の一部に乗せて一気に曲を書き上げ、詞も仕上げたものが「満月の夕」だったという(※6 参照)。
その日の神戸の空には、震災から丸一か月の満月(※7参照)が浮かんでおり、最大余震の到来が噂される中、ライブを観る被災者たちが口々に「満月を見るの、怖いわ」と言っていたのを中川が耳にしたことから、この唄は産まれたそうだ(Wikipedia)。
風が吹く 港の方から 焼けあとを包むようにおどす風
悲しくて すべてを笑う 乾く冬の夕
時を超え国境線から 幾千里のがれきの町に立つ
この胸の振り子は鳴らす “今”を刻むため
飼い主をなくした柴が 同胞とじゃれながら車道 (みち)をゆく
解き放たれ すべてを笑う 乾く冬の夕
ヤサホーヤ 唄がきこえる 眠らずに朝まで踊る
ヤサホーヤ 焚火を囲む 吐く息の白さが踊る
解き放て いのちで笑え 満月の夕
(以下略)
「満月の夕(ゆうべ) 」(作詞 : 中川敬/作曲 : 中川敬 & 山口洋)
「満月の夕」では、被災地の惨状や、復興への厳しい現実、そして、それらに向き合う人々のひたむきな姿が歌い込まれている。歌は、しだいに広がり、大きな反響を得た。この曲は今ではガガガSPや沢知恵、平安隆、酒井俊、J-Min、大竹しのぶ、アン・サリーなど、多くのアーティストによりカバーされている。
被災地神戸の人にとっては、満月を見ると、この歌を思い出し、もう、忘れられない歌になっている。以下で視聴できる。良い歌なので聞いて見ては・・・。
満月の夕/ソウル・フラワー・ユニオン - YouTube
満月の夕 (ゆうべ) / 中川敬 (with 伊丹英子)
神戸市の中心中央区より西側、兵庫区、長田区、須磨区は地震と同時に起こった火災が大惨事を起こしたが、中央区より東側では考えられないようなビルや鉄道、高速道路の倒壊などが起こったが、阪神大震災直後の1月18日には神戸入りし、それまでの環境活動などのネットワークを通じて支援を呼びかけ、1月19日には東灘区の御影公会堂での炊きだし、また、1月23日には松山ユースホステルへ、高齢の被災者を一時避難させるプロジェクトをはじめ、その後、隣接する灘区の石屋川公園( YAHOO!地図参照)をボランティアの拠点として「神戸元気村」(※8参照)を立ち上げ、民間ボランティアセンターの先駆けとして活動を行っていた山田和尚。通称バウさんとも呼ばれる人(本名:山田成雲)がいた。
同氏のことを私は余りよく知らないが同氏が代表を務める「神戸元気村」は、はじめの2週間ほどで、被災者支援の20余りのプロジェクトを立ち上げるなど活躍し、その行動力は大したものだったようだが、経歴もよく判らず、運営面で色々トラブルもあったようで良くない評判も耳にするのは残念なことである。同氏は、今年(2015年)1月5日に お亡くなりになったと聞く(享年63歳)。
震災後7年たった2002年に「神戸元気村」は解散しているが、.同年1月17日付朝日新聞「天声人語」には、以下のように書かれていたという。
“行政ができないことをやってきたという自負はあるだろうが、山田氏にはなお気がかりな点がある。「自立するのを助ける」。この意識が行政側にもボランティアにもあって「単に困っているだけの」被災者との摩擦を招いたことだ。お互いに自立した人間として接するべきだ。
山田氏は17日早朝、六甲山頂から神戸の街に頭を下げて「お礼」をし、区切りにすると語っていた。“・・・と(※9参照)。
どうも、ここに書いている事だけでは、よく判らないが、被災者にも困っている事や悩んでいる事などその事情は人によって様々だろう。一律にこうだと決めつけても、それが被災者の助けになっているとは限らない。
2011年に発生した東日本大震災で被災した人たちで、大津波で家をそして身内を失った人たちも、今後、又、同じような大地震による大津波が何時あるかもしれない危険性も心配されるなかで、馴れ親しんでいた今まで住んでいたところへ一日も早く戻り、そこに住みたい人、危険だから高台へ引越したい人・・・、年齢やその人の置かれた状況などにより色々と考え方も違うだろう。そのような人たちにはどのような援助が必要なのか・・・。いろいろと権利関係も絡み、被災した人たちでないと解決できない問題も多い。難しい問題だ。
震災で亡くなられた方を追悼するとともに、震災で培われた「きずな・支えあう心」「やさしさ・思いやり」の大切さなどを次世代へ語り継いでいくため、神戸市では、阪神・淡路大震災から20 年となる今日午前5時~午後21時に神戸市中央区の東遊園地(神戸市役所南側)で「阪神淡路大震災1.17のつどい」が行われる。
震災の歌と言えば先に書いた「満月の夕」以外にも感動的な曲「しあわせ運べるように」がある。
神戸市立西灘小学校で音楽専科教諭を務める臼井真氏が、阪神・淡路大震災で自宅が崩壊。震災から約2週間後、身を寄せていた親戚宅で、生まれ育った神戸の街の変わり果てた姿をニュースで見て衝撃を受け、わずか10分で作詞・作曲した楽曲だという。
亡くなった方々のぶんも 毎日を 大切に 生きてゆこう
傷ついた神戸を もとの姿にもどそう
やさしい春の光のような 未来を夢み
響きわたれ ぼくたちの歌
生まれ変わる 神戸のまちに
届けたい わたしたちの歌 しあわせ 運べるように
届けたい わたしたちの歌 しあわせ 運べるように
「しあわせ運べるように」(神戸オリジナルバージョン)の一番。
神戸復興を願い作られた当初の歌詞は二番までだったが、2005年に3番が作詞されたようだ。同楽曲は原曲の「神戸オリジナルバージョン」のほか、2011年に発生した東日本大震災後に制作された、歌詞中の「神戸」を「ふるさと」に置き換えた「ふるさとバージョン」がある(※10参照)。
追悼式典などで歌われるようになり、新潟県やイランなど国内外の大地震被災地にも広まった。東日本大震災の被災地でも歌われている。
今日「1.17のつどい」では、慰霊と復興のモニュメント(※4のここ参照)前にて、17時46 分の黙祷後、神戸市立西灘小学校の臼井先生と児童により、この「しあわせ運べるように」と、「笑顔の向こうに」(作詞:たかいちづ 作曲:臼井真。※10のここ参照)を含む数曲が合唱される。
この笑顔の向こうに
たくさんの悲しみがあるの
どんなに笑顔を作ってみても
悲しみは癒されない
(以下略)
「笑顔の向こうに」は、阪神・淡路大震災で1歳半の息子を亡くした女性(たかいちづ)が書いた歌詞に、臼井真教諭が曲をつけたものである。歌詞はここ参照、歌は以下参照。
笑顔の向こうにー YouTube
神戸市だけでなく、兵庫県でも、「ひょうご安全の日を定める条例」(平成17年4月1日施行)に基づき、阪神・淡路大震災の経験と教訓を継承するとともに、いつまでも忘れることなく、安全で安心な社会づくりを期する日として、1月17日を「ひょうご安全の日」と定め、県民の参画のもと、「ひょうご安全の日」にふさわしいさまざまな事業に取り組んでいる(※11参照)
南海トラフ巨大地震や異常気象等による自然災害への危惧が高まる中、政府の地震調査委員会(地震調査研究推進本部内に設置)が昨2014年12月19日に発表した2014年版「全国地震動予測地図(※12のここ)は、関東地方の多くの地点で30年以内に震度6弱以上の揺れが起こる確率が上昇した・・・としている(※13参照)。
地震大国日本(ここ参照)に住む以上、もう、地震からは逃げられないと覚悟しなければいけないだろう。あとは、他人事と考えずに十分な備えをして置くしかないのろう。
最後に、一言。
阪神大震災から20年目を迎えた神戸。表面的には復興したように見えるが、「復興」によって失われたものはないのだろうか?
東日本大震災から間もなく5年目を迎える東北地方の人たちも、神戸の表面的な目に見える復興だけを見ずにその実態などよく観察して後で後悔しない復興を成し遂げられることを祈っています。例えば、かっては神戸の西の新開地と呼ばれていた繁華街長田区大正筋商店街。震災でその80%以上を焼失したが今では大きなビルが多く建ち、外観的には完全に復興したように見える。以下参照。
新長田・六間道
・・・が、その実態はどうなのか・・。以下を一読されてみるのも良いのでは・・・。
震災から19年、神戸市がもたらした“復興災害”~市民の資産毀損させ他県企業優先
参考
※1:J-SHIS地震ハザードステーション
http://www.j-shis.bosai.go.jp/
※2:NHKそなえる防災
http://www.nhk.or.jp/sonae/
※3:地震・防災:あなたとあなたの家族を守るために
http://www5d.biglobe.ne.jp/~kabataf/index.htm
※4:神戸市安全・安心のページ
http://www.city.kobe.lg.jp/safety/index.html
※5:SOuL FLOWER OFFiCiAL CiTE
http://www.breast.co.jp/soulflower/index.html
※6:神戸で生まれ東北に響く 「満月の夕」の歌:朝日新聞デジタル
http://www.asahi.com/articles/CMTW1412020400002.html
※7:月齢カレンダー - こよみのページ:1995年2月
http://koyomi8.com/moonage.htm?cmd=19550209110
※8:神戸元気村
http://www.geocities.jp/anomotoyuki/koube/genkimura.html
※9:神戸元気村、解散。震災7年に思う。
http://www.jca.apc.org/water-w/2002KOBE.html
※10:「しあわせ運べるように」公式サイト
http://www.shiawasehakoberuyouni.jp/profile.html
※11:1.17は忘れない ひょうご安全の日公式サイト
http://19950117hyogo.jp/
※12:地震調査研究推進本部
http://www.jishin.go.jp/main/index.html
※13:今後30年、大地震の確率上昇 相模トラフの想定盛り込む :日本経済新聞
http://www.nikkei.com/article/DGXLASDG19HA7_Z11C14A2CR8000/
1995年、被災地神戸からの元気
http://www.geocities.jp/poppo1954/index.htm
震災発 | 2015年-阪神・淡路大震災20年メモリアルイベント一覧・リンク集
http://www.shinsaihatsu.com/news/past_news15event.html
神戸新聞/阪神・淡路大震災20年特集
http://www.kobe-np.co.jp/rentoku/sinsai/chronicle/
阪神・淡路大震災 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%AA%E7%A5%9E%E3%83%BB%E6%B7%A1%E8%B7%AF%E5%A4%A7%E9%9C%87%E7%81%BD