日本記念日協会(※1 )の今日・3月14日の記念日に「切腹最中の日」があった。由緒を見ると以下の様に書いてあった。
浅野内匠頭が吉良上野介への刃傷事件から切腹をさされ、のちの「忠臣蔵」へと繋がるのが元禄十四年三月十四日のこと。「忠臣蔵」にまつわる数々の事柄を多くの人に語り継いでいただこうと、自社商品に「切腹最中」(せっぷくもなか)を持つ東京新橋の和菓子店「新正堂」(※1)が制定。
「新正堂」は浅野内匠頭が切腹さされた東京新橋の田村右京太夫屋敷に在する大正元年創業の老舗和菓子店で「仮名手本忠臣蔵味こよみ」「景気上昇最中」などの人気商品がある。・・とあった。
最中とは餅(もち)から作った皮で餡(あん)を包んだ和菓子の一種。
餅(もち)はもち米(糯米)を蒸し、臼(うす)でついて、さまざまな形にした食品のことで、広義には、粳米(うるちまい.米飯用として使われる普通の米)以外の穀類で作る食品もいう。
このもち米(糯米)は、糯性をもつ米の品種であり、組成としてアミロースを全くあるいはほとんど含まない作物の種類を指すが、アミロースを含むものを粳(うるち)という。アミロ ースが多いと、ぱさぱさの米、少ないと粘りのある米、アミロースが無くなるともち米になるというわけ。ただし、近年では餅米と表記されていることもある。
餅は昔から日本人にとってお祝い事や特別の日に食べる「ハレ」(ハレとケ参照)の食べ物であった。
餅をハレの日に食べる習慣は古く水稲耕作による稲作技術が伝来したとされる弥生時代にまで遡(さかのぼ)るといわれている。
この時代に稲作信仰がはじまり、イネ(稲)には「稲霊(いなだま)」「穀霊(こくれい)」が宿り、人々の生命力を強める霊力があると信じられ、神聖な食べ物として崇められるようになる(田の神参照)。さらにお米の霊力は、それを搗(つ)いて固める餅や醸して造る酒にした場合、倍増すると考えられていた。
考古学的には、古墳時代後半(6世紀頃)の土器の状況から、この頃に蒸し器の製作が社会的に普及していたと判断され、日常的に蒸す調理による食品の種類が増し、米を蒸す事も多くなり、特に餅を作る事も多くなったと考えられている。
日本における餅に関する文献上の記述としては、奈良時代初期に編纂された『豊後国風土記』(8世紀前半)に次のような内容の話が語られている。
富者が余った米で餅を作り、その餅を弓矢の的として用いて、米を粗末に扱った。的として使われた餅は白鳥(白色の鳥全般の意)となり、飛んで行ってしまった。その後、富者の田畑は荒廃し、家は没落してしまったとされる。
この話は、白鳥信仰と稲作信仰が密接に繋がっていた事として語られ、古来から、日本では白鳥を穀物の精霊として見る信仰があった事を物語っている(小碓命[ヤマトタケルの幼名]の物語[近江・美濃を中心とする穀霊伝説]参照)。
餅には搗き餅(つきもち)と練り餅(ねりもち)という製法も材料も違う2種類の餅が存在する。 粒状の米を蒸して杵で搗いたものはつき餅(搗き餅)といい、穀物の粉に湯を加えて練り、蒸しあげたものは、練り餅(ねりもち)というが、日本では餅といえば通常つき餅をさす場合が多い。
餅が季節・行事ごとに供えられ食されるようになったのは、三種の神器の一つとされていた鏡(八咫鏡)に見立てて蒸した餅米を丸く成形した「鏡餅」を供える習慣を生み出した平安時代からの事である。
『大鏡』(11世紀末成立)では、醍醐天皇(9世紀末から10世紀初め)の皇子が誕生してから50日目のお祝いとして、「五十日(いか)のお祝いの餅」を出された事が記述されている。この頃から餅は祭事・仏事の供え物として慶事に欠かせない食べ物となった。こうして、米などの稲系のもので作った餅が簡便で作りやすく加工しやすいことと相俟って、多様なつき餅の食文化を形成してきた(「主な餅の種類」など参照)。
さて、少し回り道したようだが、Wikipediaには、「最中」の原型は、もち米の粉に水を入れてこねたものを蒸し、薄く延ばして円形に切りそろえたものを焼き、仕上げに砂糖をかけた、干菓子(ひがし)であるといわれている・・・とある。
その名の由来は、平安中期の『拾遺和歌集』(巻3・秋171)にある源順の以下の歌によると言われている。
「水のおもに照る月なみをかぞふれば今宵ぞ秋のも中なりける」
【通釈】水面に輝く月光の波――月次(つきなみ)をかぞえれば、今宵こそが仲秋の真ん中の夜であったよ。
【語釈】◇月なみ: 「波に映る月光」「月次(月の数。月齢)」の両義。◇秋のも中:八月十五日は陰暦では秋の真ん中にあたる。「も中」のモはマの母音交替形。
【補記】屏風絵に添えた歌。順集、初句は「池の面に」・・・・。以下参考の※4:「源順 千人万首」より。
中秋節の宮中で行われた月見の宴において、白くて丸い餅菓子が出されたのを見て、源順のこの歌を知っていた公家たちには、池に浮かぶ中秋の名月を思わせたので、丸い餅を” もなか(最中)の月”とも呼ぶようになったのがそのまま菓子の名前として定着したという。
「最中」の始まりは、風来山人他数多くの号を使い分けたことでも知られる平賀 源内が天竺浪人の名で著した『根南志具佐(根無草)』(前・後編4冊、※5参照)の《後編》(明和6年=1769年)には、“最中の月は竹村に仕出す”とあるように、江戸時代のことのようである。
江戸新吉原(吉原遊廓は、始めは日本橋近く[現在の日本橋人形町] にあり明暦の大火以降浅草寺裏の日本堤に移転、前者を元吉原、後者を新吉原と呼んだ)の菓子屋竹村伊勢(竹村伊勢大掾)が、丸い形から十五夜の月になぞらえて「最中の月(もなかのつき)」という煎餅のようなものを作り、それが省略されて「最中」となった。これが「最中」の始まりと一般的には言われているのだが・・・。当初のものの実態は必ずしも明らかでなく,あんころ餅だとする説もあるようだ。
以下参考の※6「隆慶一郎わーるど」の浅草志を見ると、新吉原関連・その他の記述のところに当所名産として、
「巻煎餅 江戸町弐丁目万屋太郎兵衛初、今竹村伊勢製也 。最中の月 松屋忠次郎、甘露梅 松屋庄兵衛手製初 山口屋四郎・・」と、当地の名産がいろいろ書かれており、もう少し調べてみると、醉郷散人(沢田 東江か?)著『吉原大全』(明和5年=1768年)巻之四の “吉原年中行事”の中で、吉原名産について記載されているところに、以下のようにある。
「巻せんべいは、此里第一名高き名物なり。江戸丁二丁め角、万や太郎兵衛工夫しはじむ。今の竹村伊勢方なり。近此、最中の月といふ菓子をも製し出す」・・・と。(※7の [2]のコマ番号 10のところを参照)。
また、喜多川守貞著『近世風俗志』(嘉永6 年[1848/1/24-12/14])第二十編娼家下(※8:「国立国会図書館デジタルコレクション)」にも、吉原名物の七品に、「巻せんべい 中の丁 竹村伊勢」の名があり、「巻煎餅 巻きたる煎餅也 折詰にして進物に専用す」とある(※8のコマ番号394参照)。
これを読むと、「吉原名物」の「巻煎餅」と、「最中の月」は、いずれも「吉原名物」の七品に入ってはいるものの別物のようである。
「最中の月」の製造元は竹村伊勢ではなく、松屋忠次郎であるが、近頃は、最中の月といふ菓子をも製し出した・・というから、 「巻煎餅」だけでなく「最中の月」も元の製造元に何かの事情があり、その権利を竹村伊勢が買い取るか何かして、製造販売をするようになったのだろうか。
当時の長唄『俄 獅 子』(天保5年=1834年10月 4代目 杵屋六三郎作曲)には以下のような一説がある。
「 ヤア秋の最中の 月は竹村 更けて逢ふのが間夫の客 ヨイヨイ」
歌意は、間夫は、遊女の情夫であり、吉原名物「最中の月」のようななまん丸いお月さんがぽっかり浮かぶ秋の夜、間夫の客には夜更けにこっそり逢うものですよ・・といった意味か。
●上掲は長唄 俄獅子。時間があれば見てください。。
吉原には、旧暦8月に1か月間、芸者・幇間(ほうかん)が、仮装をして凝った踊りの新曲を見せた年中行事があり、それを吉原俄と呼んでいた。
この歌は、先に成立していた長唄『相生獅子』(※9のここ参照)の歌詞を元に、吉原の秋の行事である俄の様子を盛り込んで、吉原の悲喜こもごもを描いた曲だそうで、この「俄獅子」が唄うのは、遊女と客の乱痴気騒ぎや痴話げんかに、夜更けの間夫との忍び会い。吉原の行事や名物だけでなく、男女の思惑が交錯する廓のさまを生々しいまでに活写している(歌詞※9参照)
吉原の菓子屋竹村は、文政11(1828)年の香蝶楼國貞の浮世絵『新吉原京町一丁目 角海老屋内鴨緑 かのも、このも』(伊勢屋三次郎板)にも見られる。その画像は「国立国会図書館デジタルコレクション - 浮世姿吉原大全」で見られる。以下参照。
・ 新吉原京町壱丁目角海老屋内鴨緑 [1]
上掲の画像は、文政11(1828)年秋の新しい遊女を売り出すイベント吉原細見(よしわらさいけん)上の筆頭の位置に鴨緑(あいなれ)が再び登場した。この時の鴨緑の新造出し(突出し)を宣伝するために制作されたものと推定されている。
図の背景に、吉原にあった菓子屋「竹村伊勢」の積物が描き込まれている。これは、贔屓が鴨緑の新造出しを祝って贈ったものである。
鴨緑の着物の紋、簪、さらには、羽の禿の針打ちの部分にも木瓜紋が認められる。日本の社会では、紋は個人や家を識別する記号として用いられてきたが、遊女の場合も同様であり、この紋は、この時、細見(さいけん)上の筆頭・角海老屋の遊女・鴨緑のロゴマークとして特別に与えられた紋の様である。この後ランクが落ちたときには、この紋は使用されていない。同じく國貞によって天保5(1834)年秋に描かれた『新吉原京町一丁目角海老屋内 愛染 ひよく れんり、常磐津 やよい はなの、鴨緑 かのも このも』(伊勢屋三次郎板)では、同年春まで筆頭の位置にあった鴨緑が退楼し、ここでは細見では二枚目になった別人の鴨緑の定紋が桐紋なっており、1位となった新しい愛染の襲名披露として描かれている、それは愛染の右下に描かれた竹村伊勢の積物が、そのことを示している。
竹村伊勢の積物には、竹村伊勢の名前と共に「丸に隅立四つ目」の紋(目結紋参照)が描かれている。
※7:国立国会図書館デジタル化資料「吉原大全」の[1]には、“お菓子所 武村 伊勢の積物がみられるが、これは饅頭を蒸す木箱の蒸籠を積んだ上に縮緬緞子などを積み上げているらしい。家に出入りする者に祝儀として振舞ったようだ。蒸籠の横にはどこか他のスポンサーの積物の酒桶のようなものが見える。ここでコマ番号 8~10参照)。
そういえば2010 (平成22)年4月、東京歌舞伎座改修のための取り壊し前の最後の公演は歌舞伎十八番『助六由縁(ゆかりの)江戸桜』が、締め括(くく)った。
歌舞伎宗家市川團十郎家のお家芸である『助六』は、江戸ッ子の代表のような美男子花川戸の助六と、意気地と張りを特徴とした吉原の遊女揚巻。悪所(あくしょ=江戸時代における遊楽街のことで、遊郭や歌舞伎小屋)を背景にして展開する大衆の祝祭劇であり、その舞台は、新吉原の妓楼の中でも最高級の大見世(最上級クラスの見世。※11参照)である。
『助六所縁江戸桜』の舞台は、新吉原の妓楼の中でも最高級の大見世、三浦屋をかたどっている。
●上掲は助六の舞台最初の部分であるが、まずは全部見なくても幕開きから少しだけ見てみてください。以下カッコ内役者の名前は、この時の助六出演者名を書いている。
幕が開けば吉原とりわけ、三浦屋入口の暖簾と、吉原に出入りしていた菓子屋の竹村伊勢の文字が目に入る。三浦屋は新吉原の京町一丁目に元禄期に実在していた。
舞台の両脇には「丸に隅立四つ目」の紋を描いた四角形と、『新吉原竹村伊勢』の文字とを交互に組み合わせたデザインの道具が飾られている
これは、竹村伊勢から贈られた蒸籠の積物を様式化して表現しているのだそうだ。積物の起こりは元禄期をそう遡らない時期だったそうだが沢山の積物は、富裕の象徴でもあり、広告として、現代でも大きな神社の祭りなどでは、酒樽などが積みあげられている。
今でいうコマーシャル(CM)の走りが「助六」で見られる。助六は吉原が舞台。劇中では芝居全体が吉原の宣伝をする。特に花川戸助六(十二代目團十郎)の恋人の揚巻(:坂東玉三郎)は、実在の妓楼「三浦屋」の花魁(おいらん)という設定で三浦屋にとってはこれ以上ないCMである。吉原の宣伝であることは、竹村と言う菓子屋の蒸篭を袖の張り物に描くことからも分かる。
揚巻が花道で酔いを醒ます「袖の香」(松屋と言う茶屋で売っていた薬)を飲み、髭(ひげ)の意休(市川左團次)の子分・くわんぺら門兵衛(片岡仁左衛門)の弟分・朝顔仙平(中村歌六)が名乗りのところでせんべい尽くしを述べて「竹村の堅巻煎餅が俺の親分」と言ってCM 宣伝する。他にも白酒売の新兵衛(尾上菊五郎)が売る「山川白酒」や 福山かつぎ寿吉(坂東三津五郎)の「福山のうどん」は、当時の実在の商品であった。
以下の助六2の場面10:00ぐらいのところで、中村歌六演ずる朝顔仙平が出場し、せんべい尽くしを述べる場面がある。ご覧あれ。この舞台とにかく出演者がすごい。今では懐かしい人となってしまった、十二代目團十郎や坂東三津五郎、それに、通人里暁 (りぎょう)を演じる十八代目中村勘三郎の滑稽な科白(せりふ)と股(また)くぐりが後半のところで見られるよ。時間があればぜひ1,2を通してご覧になるとよい。
「丸に隅立四つ目」の紋は武家の流れを引く者の紋のはずだが・・・、竹村伊勢とはどんな人物だったのだろう?吉原の遊女売り出しのスポンサーとなるくらいだから、ただの菓子屋ではなく相当の財力があったのだろう。
西村貘庵著『花街漫録』(2巻本。※12参照)には、「竹村菓子箱絵」として、「もなかの月」と「まきせんべい」の図が掲載されており、そこには、竹村伊勢源尹澄の名がみえる花街漫録 2巻本 [2] のコマ番号 18参照)。
崩し文字なのでよく読めないが、参考※13:「日本随筆大成 第一期「あ」-浮世絵文献資料館」によると、“吉原江戸町二丁目、菓子屋竹村伊勢大掾の菓子箱絵の解説文に「此うつし絵をみかし入の箱折などにはりつけもて印とはなしけり。こは狩野氏の画けるにて、ひとひらは英一蝶のものせる也」とあるそうだ。菓子箱絵を人気浮世絵師一蝶に書いてもらうのだから大したものだ。しかし、箱絵の解説文のところには、竹村伊勢大掾 万屋伊兵衛(先祖を竹村鷺庵 茶人○○云うとして何か書いているがそれ以下がよく読めない。
伊勢大掾の大掾とは、律令制が崩壊した中世以降,職人,芸能人などが受ける名誉号となり、近世では多様な職人や芸能人に宮中や宮家から与えられたそうだ。近世中期(江戸時代前期~中期か?)以降,ことに浄瑠璃太夫にかぎられ,大掾,掾,少掾の3階級に分けられ,掾号を受領することは,最高の名誉とされたそうだ。いずれにしても大掾号を手に入れているのだからもともと財力のある人だったのだろうが、不思議なことに、『江戸買物独案内』(3巻本。文政7年=1824年。※14)に菓子の有名どころが掲載されている(※14の[1]の202から~225まで参照)のだが、なぜか竹村伊勢大掾の名は見られないのはどうしてだろう?気になるがこの詮索はこれまでにしよう。
竹村伊勢の「最中の月」は、丸い煎餅のような干菓子で現在の餡入りものと異なったもの。当時、四角いものは珍しがられて「窓の月」と呼ばれていたそうだが、『江戸買物独案内』には、「南佐木町 大和屋近江掾 藤原森房と、築地小田原町二丁目 柏屋伊勢大掾が、「窓の月」取扱いを掲載している。
『江戸買物独案内』に「最中饅頭」の名前で掲載しているのは、日本橋に林屋善助と吉川福安の名があるがこれがどんなものかはしらないが、「最中の月」といわれるものはこの「最中饅頭」の方だったかもしれないな~。
江戸中期以降に2枚の煎餅に餡を挟むようになったという。その後も餡を挟む方法に改良が加えられ、明治期以降に金型技術の進歩し複雑な模様や形をした様々な現代のような最中の皮が完成。皮の部分は、元が菓子だったことから特別に「皮種」と称されている。この皮種で餡を挟んだ最中が、やがて全国的に広められていき、現在では各地で色々な種類の最中が銘菓として売り出されている。
それにしても、今日の記念日和菓子店「新正堂」の「切腹最中」。形は、はちまき姿で閉まるはずの皮は餡子を収めきれずに開いたまんま。冒頭の写真(画像は、「新正堂」HPより借用。見た目にはおいしそうだが、よくこのような名前の最中を販売しようと思ったものだ。販売前は、ずいぶんと議論を呼んだようだ。
「切腹」は、自分の腹部を短刀で切り裂いて死ぬ自殺の一方法。主に武士などが行った日本独特の習俗(目的を果たせなかった場合などの)であった。自身や臣下の責任をとり、自身の身を以て集団及び家の存続を保とうとする行為。近世からは、自死のみならず処刑の方法としても採用された。腹切り(はらきり)・割腹(かっぷく)・屠腹(とふく)ともいう。
切腹は、日本独特のものと思われているが、中国やローマ時代にも、まれではあるが記録が残っている。 日本では事例が多く、長期にわたって行なわれ、法的に制度化された点に特色があるにすぎないという。
また、切腹は武士のみのものと思われがちだが、公卿にもいくつかの事例がある。中国では、南西部の各地で疑いをかけられた男女が切腹して真意を示そうとした。
これは、人の精神が内臓に宿っていると考えられたからで、 日本でも『腹を割って話し合う』とか、『腹黒いヤツ』などという表現があり、実際に身体の内部を相手に示して疑いを晴らそうとする方式が、本来東洋にあったのではないかという(『週刊朝日百科日本の歴史』、7-79「切腹」)。
切腹は外国でも日本の風習としてよく知られ、「hara-kiri」や「seppuku」として英米の辞書に載っている。小林正樹監督映画『切腹』もHarakiri(1962年)として海外で紹介された。
日本における切腹は、平安時代末期の武士である源為朝(1139年(保延5年) - 1170年(嘉応2年))が最初に行ったと言われている。また藤原保輔が988年(永延2年)に事件を起こして逮捕された時に自分の腹を切り裂き自殺をはかり翌日になって獄中で死亡したという記録が残っているが、彼の場合は切腹の趣旨である、己の責任を取る意図だったのかは明確ではない。
武士の名誉刑としての切腹の作法がほぼ完成するのは戦国末期で、後ろにばしたときに介錯人が立ち首を討つようになる。それは戦乱が続いた南北朝期には、切腹は敗者にとって最後の勇気と名誉を遺す手段となり、その結果として死そのものが目的となってきたからだ。
江戸時代の有職故実家の伊勢貞丈は切腹の作法に関して、切り口から臓腑のはみ出るのを最も忌むべき「無念腹」としているようだ。その理由は、主命によって名誉ある死を賜ったにもかかわらず、内臓が露出すると、本人の“潔白”の主張と受け取られ、逆に刑を申し渡した主人は誤っていたということになるからであった。
江戸も中期になると、切腹は名誉刑から実質的に斬罪(斬首刑のこと)に等しい型となる。つまり、罪人に刀を渡した時に最後の反抗を試みられては困るので、三方に短刀を載せておし頂かせ、手に取ろうと体を伸ばしたときに介錯人が首を切り落としたのである。赤穂四十六士の切腹も実態はこの形をとったようだ。どうしても自分で腹を切りたい場合には、介錯人に合図をするまで太刀を振り下ろさないよう求めたようである(『日本の歴史』7-79 P「切腹)。※16参照)。
浅野内匠頭長矩は勅使の接待役を命ぜられていた。浅野が吉良義央に切りつけたのは白書院に通ずる松之廊下と呼ばれる場所で、それは、勅使が到着する直前の元禄14年=1701年3月14日のことであった。浅野は「折柄と申し殿中を憚(はばか)らず。理不尽に切付候段、重々不届き至極」であるとして、即日切腹・改易の厳罰に処せられた。
それから,1年9ヶ月を経た翌年12月14日に、大石吉雄以下の浅野遺臣が本所のあった吉良邸に乱入し、吉良を殺害してその首を泉岳寺の浅野長矩の墓に捧げるという事件が起こった。赤穂浪士は義士であるから助命すべきという意見も強かったが、法を曲げることは天下に乱を引き起こす元になるという意見を綱吉は採用し、武士としての体面を重んじた上での切腹を命じたのであった。
「切腹最中の日」を設定した「新正堂」は、記念日設定の理由として以下のように言っている。
「殿中での刃傷とあればや無を得ぬお裁きとはいえ、ここで問題なのは、浅野内匠頭がいかに青年の激情家であったにしろ、多くの家臣、家族を抱える大名であったのだから、今少し慎重な調査がなされても良かったのではなかろうかということでした。喧嘩両成敗の原則をも踏みにじった、公平を欠く短絡的なお裁きが、後の義挙仇討ち「忠臣蔵」へと発展したことは否めません。当店は、切腹された田村右京太夫屋敷に存する和菓子店として、この「忠臣蔵」にまつわる数々の語り草が和菓子を通じて、皆様の口の端に上ればという思いを込めて、最中にたっぷりの餡を込めて切腹させてみました。「風さそふ花よりもなほ我はまた春の名残をいかにとやせん」の辞世の句とともに、本品が話しの花をさかせるよすがともなればと心を込めておつくりしております。何卒、末永くご愛用の程伏してお願い申し上げます。」・・・と。
ここで言われているように、主君である浅野長矩だけが切腹となり、吉良義央に咎めがなかったのは「喧嘩両成敗」に反すると浅野家の家臣達が憤慨したと主張する説もあるが、幕府が喧嘩両成敗を殿中抜刀の被害者に適用した例はないそうだ。そもそも、松の廊下事件においては、浅野が背後から一方的に吉良に斬りつけ、吉良は気を失っているので「そもそも喧嘩として成立していない」「よって喧嘩両成敗は考慮できない」・・とも言われている。その他いろいろ言われているが、そもそも、『忠臣蔵』は仮名手本忠臣蔵の物語が史実として伝わったものであることを考慮して判断しなくてはいけないだろう。Wikipediaの元禄赤穂事件、また、それを要約したらしい※17:「忠臣蔵の謎と真実」など参照したうえでいろいろ考えて見るのも良いだろう。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
参考:
※1:日本記念日協会
http://www.kinenbi.gr.jp/
※2:新正堂HP
http://www.e-monaka.com/
※3:+月食と呼ばれる女性に優し古代米
http://www.maruza.net/SHOP/1123/list.html
※4:源順 千人万首
http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/sitagou.html
※5:根南志具佐. [前],後編 / 天竺浪人 [著] ::古典籍総合データーベース:早稲田大学
http://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/he13/he13_01731/index.html
※6::隆慶一郎わーるど
http://yoshiok26.p1.bindsite.jp/bunken/index.html
※7:国立国会図書館デジタル化資料「吉原大全」醉郷散人著
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2554391?tocOpened=1
※8:国立国会図書館デジタルコレクション - 類聚近世風俗志 : 原名守貞漫
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1899469
※9:TEAM TETUKURO NAGAUTA(長唄)
http://www.tetsukuro.net/nagauta.php
※10:おたくらしっく: 助六
http://ken-hongou2.cocolog-nifty.com/blog/cat23450715/index.html
※11:お江戸吉原ものしり帖 - 新潮社
http://www.shinchosha.co.jp/books/html/115332.html
※12:国立国会図書館デジタルコレクションー花街漫録 2巻本(以下で[2] コマ番号 18参照)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2563735?tocOpened=1
※13:日本随筆大成 第一期「あ」-浮世絵文献資料館
http://www.ne.jp/asahi/kato/yoshio/a7.html
※14:『江戸買物独案内』3巻本 画像データベース(早稲田大学)
http://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/bunko10/bunko10_06650/
※15:最中種(もなかの皮)の専門店 もなかや.com
http://monaka-ya.com/
※16:切腹の話
http://homepage1.nifty.com/SEISYO/sepuku.htm
※17:忠臣蔵の謎と真実
http://ashigarutai.com/rekishikan_cyushingura.html
「 竹村伊勢は、当たり前だけどお金持ちだったんだ。 」
http://ameblo.jp/tanekame/entry-10574059198.html
浅野内匠頭が吉良上野介への刃傷事件から切腹をさされ、のちの「忠臣蔵」へと繋がるのが元禄十四年三月十四日のこと。「忠臣蔵」にまつわる数々の事柄を多くの人に語り継いでいただこうと、自社商品に「切腹最中」(せっぷくもなか)を持つ東京新橋の和菓子店「新正堂」(※1)が制定。
「新正堂」は浅野内匠頭が切腹さされた東京新橋の田村右京太夫屋敷に在する大正元年創業の老舗和菓子店で「仮名手本忠臣蔵味こよみ」「景気上昇最中」などの人気商品がある。・・とあった。
最中とは餅(もち)から作った皮で餡(あん)を包んだ和菓子の一種。
餅(もち)はもち米(糯米)を蒸し、臼(うす)でついて、さまざまな形にした食品のことで、広義には、粳米(うるちまい.米飯用として使われる普通の米)以外の穀類で作る食品もいう。
このもち米(糯米)は、糯性をもつ米の品種であり、組成としてアミロースを全くあるいはほとんど含まない作物の種類を指すが、アミロースを含むものを粳(うるち)という。アミロ ースが多いと、ぱさぱさの米、少ないと粘りのある米、アミロースが無くなるともち米になるというわけ。ただし、近年では餅米と表記されていることもある。
餅は昔から日本人にとってお祝い事や特別の日に食べる「ハレ」(ハレとケ参照)の食べ物であった。
餅をハレの日に食べる習慣は古く水稲耕作による稲作技術が伝来したとされる弥生時代にまで遡(さかのぼ)るといわれている。
この時代に稲作信仰がはじまり、イネ(稲)には「稲霊(いなだま)」「穀霊(こくれい)」が宿り、人々の生命力を強める霊力があると信じられ、神聖な食べ物として崇められるようになる(田の神参照)。さらにお米の霊力は、それを搗(つ)いて固める餅や醸して造る酒にした場合、倍増すると考えられていた。
考古学的には、古墳時代後半(6世紀頃)の土器の状況から、この頃に蒸し器の製作が社会的に普及していたと判断され、日常的に蒸す調理による食品の種類が増し、米を蒸す事も多くなり、特に餅を作る事も多くなったと考えられている。
日本における餅に関する文献上の記述としては、奈良時代初期に編纂された『豊後国風土記』(8世紀前半)に次のような内容の話が語られている。
富者が余った米で餅を作り、その餅を弓矢の的として用いて、米を粗末に扱った。的として使われた餅は白鳥(白色の鳥全般の意)となり、飛んで行ってしまった。その後、富者の田畑は荒廃し、家は没落してしまったとされる。
この話は、白鳥信仰と稲作信仰が密接に繋がっていた事として語られ、古来から、日本では白鳥を穀物の精霊として見る信仰があった事を物語っている(小碓命[ヤマトタケルの幼名]の物語[近江・美濃を中心とする穀霊伝説]参照)。
餅には搗き餅(つきもち)と練り餅(ねりもち)という製法も材料も違う2種類の餅が存在する。 粒状の米を蒸して杵で搗いたものはつき餅(搗き餅)といい、穀物の粉に湯を加えて練り、蒸しあげたものは、練り餅(ねりもち)というが、日本では餅といえば通常つき餅をさす場合が多い。
餅が季節・行事ごとに供えられ食されるようになったのは、三種の神器の一つとされていた鏡(八咫鏡)に見立てて蒸した餅米を丸く成形した「鏡餅」を供える習慣を生み出した平安時代からの事である。
『大鏡』(11世紀末成立)では、醍醐天皇(9世紀末から10世紀初め)の皇子が誕生してから50日目のお祝いとして、「五十日(いか)のお祝いの餅」を出された事が記述されている。この頃から餅は祭事・仏事の供え物として慶事に欠かせない食べ物となった。こうして、米などの稲系のもので作った餅が簡便で作りやすく加工しやすいことと相俟って、多様なつき餅の食文化を形成してきた(「主な餅の種類」など参照)。
さて、少し回り道したようだが、Wikipediaには、「最中」の原型は、もち米の粉に水を入れてこねたものを蒸し、薄く延ばして円形に切りそろえたものを焼き、仕上げに砂糖をかけた、干菓子(ひがし)であるといわれている・・・とある。
その名の由来は、平安中期の『拾遺和歌集』(巻3・秋171)にある源順の以下の歌によると言われている。
「水のおもに照る月なみをかぞふれば今宵ぞ秋のも中なりける」
【通釈】水面に輝く月光の波――月次(つきなみ)をかぞえれば、今宵こそが仲秋の真ん中の夜であったよ。
【語釈】◇月なみ: 「波に映る月光」「月次(月の数。月齢)」の両義。◇秋のも中:八月十五日は陰暦では秋の真ん中にあたる。「も中」のモはマの母音交替形。
【補記】屏風絵に添えた歌。順集、初句は「池の面に」・・・・。以下参考の※4:「源順 千人万首」より。
中秋節の宮中で行われた月見の宴において、白くて丸い餅菓子が出されたのを見て、源順のこの歌を知っていた公家たちには、池に浮かぶ中秋の名月を思わせたので、丸い餅を” もなか(最中)の月”とも呼ぶようになったのがそのまま菓子の名前として定着したという。
「最中」の始まりは、風来山人他数多くの号を使い分けたことでも知られる平賀 源内が天竺浪人の名で著した『根南志具佐(根無草)』(前・後編4冊、※5参照)の《後編》(明和6年=1769年)には、“最中の月は竹村に仕出す”とあるように、江戸時代のことのようである。
江戸新吉原(吉原遊廓は、始めは日本橋近く[現在の日本橋人形町] にあり明暦の大火以降浅草寺裏の日本堤に移転、前者を元吉原、後者を新吉原と呼んだ)の菓子屋竹村伊勢(竹村伊勢大掾)が、丸い形から十五夜の月になぞらえて「最中の月(もなかのつき)」という煎餅のようなものを作り、それが省略されて「最中」となった。これが「最中」の始まりと一般的には言われているのだが・・・。当初のものの実態は必ずしも明らかでなく,あんころ餅だとする説もあるようだ。
以下参考の※6「隆慶一郎わーるど」の浅草志を見ると、新吉原関連・その他の記述のところに当所名産として、
「巻煎餅 江戸町弐丁目万屋太郎兵衛初、今竹村伊勢製也 。最中の月 松屋忠次郎、甘露梅 松屋庄兵衛手製初 山口屋四郎・・」と、当地の名産がいろいろ書かれており、もう少し調べてみると、醉郷散人(沢田 東江か?)著『吉原大全』(明和5年=1768年)巻之四の “吉原年中行事”の中で、吉原名産について記載されているところに、以下のようにある。
「巻せんべいは、此里第一名高き名物なり。江戸丁二丁め角、万や太郎兵衛工夫しはじむ。今の竹村伊勢方なり。近此、最中の月といふ菓子をも製し出す」・・・と。(※7の [2]のコマ番号 10のところを参照)。
また、喜多川守貞著『近世風俗志』(嘉永6 年[1848/1/24-12/14])第二十編娼家下(※8:「国立国会図書館デジタルコレクション)」にも、吉原名物の七品に、「巻せんべい 中の丁 竹村伊勢」の名があり、「巻煎餅 巻きたる煎餅也 折詰にして進物に専用す」とある(※8のコマ番号394参照)。
これを読むと、「吉原名物」の「巻煎餅」と、「最中の月」は、いずれも「吉原名物」の七品に入ってはいるものの別物のようである。
「最中の月」の製造元は竹村伊勢ではなく、松屋忠次郎であるが、近頃は、最中の月といふ菓子をも製し出した・・というから、 「巻煎餅」だけでなく「最中の月」も元の製造元に何かの事情があり、その権利を竹村伊勢が買い取るか何かして、製造販売をするようになったのだろうか。
当時の長唄『俄 獅 子』(天保5年=1834年10月 4代目 杵屋六三郎作曲)には以下のような一説がある。
「 ヤア秋の最中の 月は竹村 更けて逢ふのが間夫の客 ヨイヨイ」
歌意は、間夫は、遊女の情夫であり、吉原名物「最中の月」のようななまん丸いお月さんがぽっかり浮かぶ秋の夜、間夫の客には夜更けにこっそり逢うものですよ・・といった意味か。
●上掲は長唄 俄獅子。時間があれば見てください。。
吉原には、旧暦8月に1か月間、芸者・幇間(ほうかん)が、仮装をして凝った踊りの新曲を見せた年中行事があり、それを吉原俄と呼んでいた。
この歌は、先に成立していた長唄『相生獅子』(※9のここ参照)の歌詞を元に、吉原の秋の行事である俄の様子を盛り込んで、吉原の悲喜こもごもを描いた曲だそうで、この「俄獅子」が唄うのは、遊女と客の乱痴気騒ぎや痴話げんかに、夜更けの間夫との忍び会い。吉原の行事や名物だけでなく、男女の思惑が交錯する廓のさまを生々しいまでに活写している(歌詞※9参照)
吉原の菓子屋竹村は、文政11(1828)年の香蝶楼國貞の浮世絵『新吉原京町一丁目 角海老屋内鴨緑 かのも、このも』(伊勢屋三次郎板)にも見られる。その画像は「国立国会図書館デジタルコレクション - 浮世姿吉原大全」で見られる。以下参照。
・ 新吉原京町壱丁目角海老屋内鴨緑 [1]
上掲の画像は、文政11(1828)年秋の新しい遊女を売り出すイベント吉原細見(よしわらさいけん)上の筆頭の位置に鴨緑(あいなれ)が再び登場した。この時の鴨緑の新造出し(突出し)を宣伝するために制作されたものと推定されている。
図の背景に、吉原にあった菓子屋「竹村伊勢」の積物が描き込まれている。これは、贔屓が鴨緑の新造出しを祝って贈ったものである。
鴨緑の着物の紋、簪、さらには、羽の禿の針打ちの部分にも木瓜紋が認められる。日本の社会では、紋は個人や家を識別する記号として用いられてきたが、遊女の場合も同様であり、この紋は、この時、細見(さいけん)上の筆頭・角海老屋の遊女・鴨緑のロゴマークとして特別に与えられた紋の様である。この後ランクが落ちたときには、この紋は使用されていない。同じく國貞によって天保5(1834)年秋に描かれた『新吉原京町一丁目角海老屋内 愛染 ひよく れんり、常磐津 やよい はなの、鴨緑 かのも このも』(伊勢屋三次郎板)では、同年春まで筆頭の位置にあった鴨緑が退楼し、ここでは細見では二枚目になった別人の鴨緑の定紋が桐紋なっており、1位となった新しい愛染の襲名披露として描かれている、それは愛染の右下に描かれた竹村伊勢の積物が、そのことを示している。
竹村伊勢の積物には、竹村伊勢の名前と共に「丸に隅立四つ目」の紋(目結紋参照)が描かれている。
※7:国立国会図書館デジタル化資料「吉原大全」の[1]には、“お菓子所 武村 伊勢の積物がみられるが、これは饅頭を蒸す木箱の蒸籠を積んだ上に縮緬緞子などを積み上げているらしい。家に出入りする者に祝儀として振舞ったようだ。蒸籠の横にはどこか他のスポンサーの積物の酒桶のようなものが見える。ここでコマ番号 8~10参照)。
そういえば2010 (平成22)年4月、東京歌舞伎座改修のための取り壊し前の最後の公演は歌舞伎十八番『助六由縁(ゆかりの)江戸桜』が、締め括(くく)った。
歌舞伎宗家市川團十郎家のお家芸である『助六』は、江戸ッ子の代表のような美男子花川戸の助六と、意気地と張りを特徴とした吉原の遊女揚巻。悪所(あくしょ=江戸時代における遊楽街のことで、遊郭や歌舞伎小屋)を背景にして展開する大衆の祝祭劇であり、その舞台は、新吉原の妓楼の中でも最高級の大見世(最上級クラスの見世。※11参照)である。
『助六所縁江戸桜』の舞台は、新吉原の妓楼の中でも最高級の大見世、三浦屋をかたどっている。
●上掲は助六の舞台最初の部分であるが、まずは全部見なくても幕開きから少しだけ見てみてください。以下カッコ内役者の名前は、この時の助六出演者名を書いている。
幕が開けば吉原とりわけ、三浦屋入口の暖簾と、吉原に出入りしていた菓子屋の竹村伊勢の文字が目に入る。三浦屋は新吉原の京町一丁目に元禄期に実在していた。
舞台の両脇には「丸に隅立四つ目」の紋を描いた四角形と、『新吉原竹村伊勢』の文字とを交互に組み合わせたデザインの道具が飾られている
これは、竹村伊勢から贈られた蒸籠の積物を様式化して表現しているのだそうだ。積物の起こりは元禄期をそう遡らない時期だったそうだが沢山の積物は、富裕の象徴でもあり、広告として、現代でも大きな神社の祭りなどでは、酒樽などが積みあげられている。
今でいうコマーシャル(CM)の走りが「助六」で見られる。助六は吉原が舞台。劇中では芝居全体が吉原の宣伝をする。特に花川戸助六(十二代目團十郎)の恋人の揚巻(:坂東玉三郎)は、実在の妓楼「三浦屋」の花魁(おいらん)という設定で三浦屋にとってはこれ以上ないCMである。吉原の宣伝であることは、竹村と言う菓子屋の蒸篭を袖の張り物に描くことからも分かる。
揚巻が花道で酔いを醒ます「袖の香」(松屋と言う茶屋で売っていた薬)を飲み、髭(ひげ)の意休(市川左團次)の子分・くわんぺら門兵衛(片岡仁左衛門)の弟分・朝顔仙平(中村歌六)が名乗りのところでせんべい尽くしを述べて「竹村の堅巻煎餅が俺の親分」と言ってCM 宣伝する。他にも白酒売の新兵衛(尾上菊五郎)が売る「山川白酒」や 福山かつぎ寿吉(坂東三津五郎)の「福山のうどん」は、当時の実在の商品であった。
以下の助六2の場面10:00ぐらいのところで、中村歌六演ずる朝顔仙平が出場し、せんべい尽くしを述べる場面がある。ご覧あれ。この舞台とにかく出演者がすごい。今では懐かしい人となってしまった、十二代目團十郎や坂東三津五郎、それに、通人里暁 (りぎょう)を演じる十八代目中村勘三郎の滑稽な科白(せりふ)と股(また)くぐりが後半のところで見られるよ。時間があればぜひ1,2を通してご覧になるとよい。
「丸に隅立四つ目」の紋は武家の流れを引く者の紋のはずだが・・・、竹村伊勢とはどんな人物だったのだろう?吉原の遊女売り出しのスポンサーとなるくらいだから、ただの菓子屋ではなく相当の財力があったのだろう。
西村貘庵著『花街漫録』(2巻本。※12参照)には、「竹村菓子箱絵」として、「もなかの月」と「まきせんべい」の図が掲載されており、そこには、竹村伊勢源尹澄の名がみえる花街漫録 2巻本 [2] のコマ番号 18参照)。
崩し文字なのでよく読めないが、参考※13:「日本随筆大成 第一期「あ」-浮世絵文献資料館」によると、“吉原江戸町二丁目、菓子屋竹村伊勢大掾の菓子箱絵の解説文に「此うつし絵をみかし入の箱折などにはりつけもて印とはなしけり。こは狩野氏の画けるにて、ひとひらは英一蝶のものせる也」とあるそうだ。菓子箱絵を人気浮世絵師一蝶に書いてもらうのだから大したものだ。しかし、箱絵の解説文のところには、竹村伊勢大掾 万屋伊兵衛(先祖を竹村鷺庵 茶人○○云うとして何か書いているがそれ以下がよく読めない。
伊勢大掾の大掾とは、律令制が崩壊した中世以降,職人,芸能人などが受ける名誉号となり、近世では多様な職人や芸能人に宮中や宮家から与えられたそうだ。近世中期(江戸時代前期~中期か?)以降,ことに浄瑠璃太夫にかぎられ,大掾,掾,少掾の3階級に分けられ,掾号を受領することは,最高の名誉とされたそうだ。いずれにしても大掾号を手に入れているのだからもともと財力のある人だったのだろうが、不思議なことに、『江戸買物独案内』(3巻本。文政7年=1824年。※14)に菓子の有名どころが掲載されている(※14の[1]の202から~225まで参照)のだが、なぜか竹村伊勢大掾の名は見られないのはどうしてだろう?気になるがこの詮索はこれまでにしよう。
竹村伊勢の「最中の月」は、丸い煎餅のような干菓子で現在の餡入りものと異なったもの。当時、四角いものは珍しがられて「窓の月」と呼ばれていたそうだが、『江戸買物独案内』には、「南佐木町 大和屋近江掾 藤原森房と、築地小田原町二丁目 柏屋伊勢大掾が、「窓の月」取扱いを掲載している。
『江戸買物独案内』に「最中饅頭」の名前で掲載しているのは、日本橋に林屋善助と吉川福安の名があるがこれがどんなものかはしらないが、「最中の月」といわれるものはこの「最中饅頭」の方だったかもしれないな~。
江戸中期以降に2枚の煎餅に餡を挟むようになったという。その後も餡を挟む方法に改良が加えられ、明治期以降に金型技術の進歩し複雑な模様や形をした様々な現代のような最中の皮が完成。皮の部分は、元が菓子だったことから特別に「皮種」と称されている。この皮種で餡を挟んだ最中が、やがて全国的に広められていき、現在では各地で色々な種類の最中が銘菓として売り出されている。
それにしても、今日の記念日和菓子店「新正堂」の「切腹最中」。形は、はちまき姿で閉まるはずの皮は餡子を収めきれずに開いたまんま。冒頭の写真(画像は、「新正堂」HPより借用。見た目にはおいしそうだが、よくこのような名前の最中を販売しようと思ったものだ。販売前は、ずいぶんと議論を呼んだようだ。
「切腹」は、自分の腹部を短刀で切り裂いて死ぬ自殺の一方法。主に武士などが行った日本独特の習俗(目的を果たせなかった場合などの)であった。自身や臣下の責任をとり、自身の身を以て集団及び家の存続を保とうとする行為。近世からは、自死のみならず処刑の方法としても採用された。腹切り(はらきり)・割腹(かっぷく)・屠腹(とふく)ともいう。
切腹は、日本独特のものと思われているが、中国やローマ時代にも、まれではあるが記録が残っている。 日本では事例が多く、長期にわたって行なわれ、法的に制度化された点に特色があるにすぎないという。
また、切腹は武士のみのものと思われがちだが、公卿にもいくつかの事例がある。中国では、南西部の各地で疑いをかけられた男女が切腹して真意を示そうとした。
これは、人の精神が内臓に宿っていると考えられたからで、 日本でも『腹を割って話し合う』とか、『腹黒いヤツ』などという表現があり、実際に身体の内部を相手に示して疑いを晴らそうとする方式が、本来東洋にあったのではないかという(『週刊朝日百科日本の歴史』、7-79「切腹」)。
切腹は外国でも日本の風習としてよく知られ、「hara-kiri」や「seppuku」として英米の辞書に載っている。小林正樹監督映画『切腹』もHarakiri(1962年)として海外で紹介された。
日本における切腹は、平安時代末期の武士である源為朝(1139年(保延5年) - 1170年(嘉応2年))が最初に行ったと言われている。また藤原保輔が988年(永延2年)に事件を起こして逮捕された時に自分の腹を切り裂き自殺をはかり翌日になって獄中で死亡したという記録が残っているが、彼の場合は切腹の趣旨である、己の責任を取る意図だったのかは明確ではない。
武士の名誉刑としての切腹の作法がほぼ完成するのは戦国末期で、後ろにばしたときに介錯人が立ち首を討つようになる。それは戦乱が続いた南北朝期には、切腹は敗者にとって最後の勇気と名誉を遺す手段となり、その結果として死そのものが目的となってきたからだ。
江戸時代の有職故実家の伊勢貞丈は切腹の作法に関して、切り口から臓腑のはみ出るのを最も忌むべき「無念腹」としているようだ。その理由は、主命によって名誉ある死を賜ったにもかかわらず、内臓が露出すると、本人の“潔白”の主張と受け取られ、逆に刑を申し渡した主人は誤っていたということになるからであった。
江戸も中期になると、切腹は名誉刑から実質的に斬罪(斬首刑のこと)に等しい型となる。つまり、罪人に刀を渡した時に最後の反抗を試みられては困るので、三方に短刀を載せておし頂かせ、手に取ろうと体を伸ばしたときに介錯人が首を切り落としたのである。赤穂四十六士の切腹も実態はこの形をとったようだ。どうしても自分で腹を切りたい場合には、介錯人に合図をするまで太刀を振り下ろさないよう求めたようである(『日本の歴史』7-79 P「切腹)。※16参照)。
浅野内匠頭長矩は勅使の接待役を命ぜられていた。浅野が吉良義央に切りつけたのは白書院に通ずる松之廊下と呼ばれる場所で、それは、勅使が到着する直前の元禄14年=1701年3月14日のことであった。浅野は「折柄と申し殿中を憚(はばか)らず。理不尽に切付候段、重々不届き至極」であるとして、即日切腹・改易の厳罰に処せられた。
それから,1年9ヶ月を経た翌年12月14日に、大石吉雄以下の浅野遺臣が本所のあった吉良邸に乱入し、吉良を殺害してその首を泉岳寺の浅野長矩の墓に捧げるという事件が起こった。赤穂浪士は義士であるから助命すべきという意見も強かったが、法を曲げることは天下に乱を引き起こす元になるという意見を綱吉は採用し、武士としての体面を重んじた上での切腹を命じたのであった。
「切腹最中の日」を設定した「新正堂」は、記念日設定の理由として以下のように言っている。
「殿中での刃傷とあればや無を得ぬお裁きとはいえ、ここで問題なのは、浅野内匠頭がいかに青年の激情家であったにしろ、多くの家臣、家族を抱える大名であったのだから、今少し慎重な調査がなされても良かったのではなかろうかということでした。喧嘩両成敗の原則をも踏みにじった、公平を欠く短絡的なお裁きが、後の義挙仇討ち「忠臣蔵」へと発展したことは否めません。当店は、切腹された田村右京太夫屋敷に存する和菓子店として、この「忠臣蔵」にまつわる数々の語り草が和菓子を通じて、皆様の口の端に上ればという思いを込めて、最中にたっぷりの餡を込めて切腹させてみました。「風さそふ花よりもなほ我はまた春の名残をいかにとやせん」の辞世の句とともに、本品が話しの花をさかせるよすがともなればと心を込めておつくりしております。何卒、末永くご愛用の程伏してお願い申し上げます。」・・・と。
ここで言われているように、主君である浅野長矩だけが切腹となり、吉良義央に咎めがなかったのは「喧嘩両成敗」に反すると浅野家の家臣達が憤慨したと主張する説もあるが、幕府が喧嘩両成敗を殿中抜刀の被害者に適用した例はないそうだ。そもそも、松の廊下事件においては、浅野が背後から一方的に吉良に斬りつけ、吉良は気を失っているので「そもそも喧嘩として成立していない」「よって喧嘩両成敗は考慮できない」・・とも言われている。その他いろいろ言われているが、そもそも、『忠臣蔵』は仮名手本忠臣蔵の物語が史実として伝わったものであることを考慮して判断しなくてはいけないだろう。Wikipediaの元禄赤穂事件、また、それを要約したらしい※17:「忠臣蔵の謎と真実」など参照したうえでいろいろ考えて見るのも良いだろう。
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参考:
※1:日本記念日協会
http://www.kinenbi.gr.jp/
※2:新正堂HP
http://www.e-monaka.com/
※3:+月食と呼ばれる女性に優し古代米
http://www.maruza.net/SHOP/1123/list.html
※4:源順 千人万首
http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/sitagou.html
※5:根南志具佐. [前],後編 / 天竺浪人 [著] ::古典籍総合データーベース:早稲田大学
http://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/he13/he13_01731/index.html
※6::隆慶一郎わーるど
http://yoshiok26.p1.bindsite.jp/bunken/index.html
※7:国立国会図書館デジタル化資料「吉原大全」醉郷散人著
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2554391?tocOpened=1
※8:国立国会図書館デジタルコレクション - 類聚近世風俗志 : 原名守貞漫
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1899469
※9:TEAM TETUKURO NAGAUTA(長唄)
http://www.tetsukuro.net/nagauta.php
※10:おたくらしっく: 助六
http://ken-hongou2.cocolog-nifty.com/blog/cat23450715/index.html
※11:お江戸吉原ものしり帖 - 新潮社
http://www.shinchosha.co.jp/books/html/115332.html
※12:国立国会図書館デジタルコレクションー花街漫録 2巻本(以下で[2] コマ番号 18参照)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2563735?tocOpened=1
※13:日本随筆大成 第一期「あ」-浮世絵文献資料館
http://www.ne.jp/asahi/kato/yoshio/a7.html
※14:『江戸買物独案内』3巻本 画像データベース(早稲田大学)
http://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/bunko10/bunko10_06650/
※15:最中種(もなかの皮)の専門店 もなかや.com
http://monaka-ya.com/
※16:切腹の話
http://homepage1.nifty.com/SEISYO/sepuku.htm
※17:忠臣蔵の謎と真実
http://ashigarutai.com/rekishikan_cyushingura.html
「 竹村伊勢は、当たり前だけどお金持ちだったんだ。 」
http://ameblo.jp/tanekame/entry-10574059198.html