運動会は、学校や、会社(企業)また、地域団体(地域社会)などの構成員あるいは関係者が一定のプログラムに従って行う体育的な行事であり、「体育祭」などと称されることもある。
運動会の起源はヨーロッパにあるとされるが、欧米では体育及びスポーツの分化により、一方では特定種目の競技会やそれを複合させたスポーツ競技会、一方で子供による伝統的な遊戯まつりやピクニック会などへとつながって今日に至っている。
そのため、日本の運動会のように参加者が一定のプログラムについて順次全体としてまとまりながら競技・演技を行う形式の体育的行事は「近代日本独特の体育行事」とも言われているようだ(日本体育協会監修 『最新スポーツ大事典』 p.96 大修館書店 1987年)。
そういえば、今年(2015年)2月24日、NHK夜のワイドショー「ニュースウォッチ9」で、「世界へ輸出・日本の“UNDOKAI”」と題して、日本式の運動会を紹介するイベントがタイの学校で行われ、地元の子どもたちが日本ではおなじみの競技に初めて挑戦している様子を報じていた。その内容は、参考※1;「 NHKオンライン」の2015年2月24日(火)付「 世界へ輸出 日本の“UNDOKAI(運動会)”」(以下の動画)。また、その抜粋(参考※2)を参照れるとよい。
世界へ輸出 日本の“UNDOKAI(運動会)NHKニュースウオッチ9 ピックアップ”
これは、2020年の東京オリンピック・パラリンピックに向けて、スポーツを通じた国際交流を進めようと、日本の政府やスポーツ関係団体が世界各地で始めたもので、今回の運動会を運営したのは、独立行政法人日本スポーツ振興センター( JSC。※3)から委託を受けたNPO法人である。
JSC は、2003(平成15)年、それまでの日本体育・学校健康センターの業務等を承継するかたちで設立された法人であり、設立の趣旨は国民の健康増進であり、業務は国立競技場の運営、スポーツ科学の調査研究、スポーツ振興くじ(toto)の実施などのスポーツ関連事業と、学校災害共済給付制度(※3の1ここ参照)の運営、学校における安全・健康保持の普及などの学校関連事業とに二分される。
同振興センターは文部科学省の外郭団体であり、役員には文部省(現文部科学省)、大蔵省(現財務省)といった中央省庁からの天下り官僚が就任している。そして、同センターには運営費交付金として毎年多額の補助金が交付されているが、Totoの計画・運営や新国立競技場建設問題など、その計画・運営・運用や、また、年に2回ある助成審査委員会の会議は全報道機関に公開されていたが、2007年4月5日の会議から運動記者クラブのみに限定されているなど、いろいろと批判されていることは多いようだ。
また、同振興センターから委託を受けたNPO法人というのは、 “企業や、学校関係の運動会・体育祭などの企画、運営から、会場の確保、設営、撤去、備品の貸出し、スタッフの派遣までを行っているという運動会屋(NPO法人ジャパンスポーツコミュニケーションズ。※:4)のこと。スポーツを盛んにするための一環かどうかは知らないが、このような事業までNPO法人が行っているのだね~。JSCには、スポーツ関連の企業や団体が多く関係しているから、このような運動会のイベント事業もいい商売になるようだ。もっとも、あくまで、非営利法人がやっていることなのだが・・・。
こんな運動会屋のやっていることがNHKの「ニュースウォッチ9」では、通常のニュースより優先し、トップニュースとして報道されていることに対しては、いろいろ話題が沸騰していたようだが、今回はそのようなことを問題として取り上げるのが趣旨ではないのでこのことはこれでおこう。
この「ニュースウォッチ9」の報道の中では、ナレーションで、
「空高く運動会の秋たけなわ、さわやかな大空に明るい歓声がこだまして。」
「日本の運動会は、必ずしも体力の優劣を競う場ではありません。」
「学校だけでなく、地域ぐるみで行われ、世代を超えた交流の場でもありました。」
・・とお父さんたちの参加している姿。そして、障害物競走の網くぐりや玉入れ・綱引きの後、昭和30年代の女性のビール飲み競争や宝探しなどの映像が映し出される。
そして、「足の速い人が一番になるとは限らない。それが運動会です。」といって、日本の運動会と外国との違いを外国人にヒアリングしてまわる。
日本では幼稚園や学校の運動会から会社や町内会など、色々な団体で運動会が行われるが、その運動会の種目には、徒競走や、綱引き、網くぐりなどの障害物競走の他、騎馬戦や棒倒しなどとならんで、パン食い競走や玉入れ、、大玉ころがし、スプーン・レースやフォークダンスなどもある。会社の運動会となると、仮装行列がある場合もあるし、地域の運動会では、「ニュースウォッチ9」でも見られた女性のビール飲み競争や、宝探し迄ある。改めて考えてみると、日本で行われている運動会とは、じつに奇妙なイベントではある。
このような奇妙なスポーツ・イベントは、外国には存在しない、日本のオリジナルのものである。いったい誰が何のためにこのような運動会を考え出したのだろう?
定説によれば日本で最初に行われた運動会は1874(明治7)年3月21日、当時築地の海軍兵学寮(後の海軍兵学校)の英語教師として教壇に立っていたイギリ ス人教師(フレデリック・ウィリアム・ストレンジといわれている)の申し出によ り、行われた「競闘遊戯会」であるとされている.(日本体育協会監修 『最新スポーツ大事典』 p.95)。
しかしながら、運 動会の起源ということでは、1868年8月15日(慶応4年6月27日)、横須賀製鉄所で開催したものが指摘されている。岸野雄三他編『近代体育スポーツ史年表』では、これを「日本最初の洋式運動会」としているそうだ(※5)。
以下横須賀市のHP「横須賀製鉄所(造船所)特集ページ」(※6:)には、「横須賀製鉄所」(後の横須賀海軍工廠)は、フランス人技師フランソワ・レオンス・ヴェルニーの指導により建設されものだが、1868 年、フランス人技師らと日本人の職工が親睦を図るために様々な競技をする運動会を行っていたようで、同造船所建設の土木事業に現場責任者の一人として従事していた堤磯右衛門が『懐中覚』という日記にその様子を書き記しているところによると、綱渡り、帆柱のぼり、さらに袋に両足を入れてピョンピョンと跳んで走る競技、そして相撲などの競技が行われていた。また、このなかで、「走馬競(そうばけい」という、馬を走らせながら、つるされた輪に木製のくぎを通すという、日本の流鏑馬(やぶさめ)に似た競技も行われていたそう.だ。後にこの「走馬競」は、2003年ヴェルニー公園で再現されているという(同HPにリンクの小冊子「ヴェルニーと横須賀」参照)。
そのことは兎も角として、定説で日本初と言われているところの築地の海軍兵学寮での「競闘遊戯会」ではどのような競技が行われていたのだろう。
競闘遊戯会は、1 873(明治6)年12月、海軍兵学寮のイギリス海軍顧問団の団長ダグラス中佐(Archibald Lucius Douglas)から海軍省に兵学寮の馬場の中央に芝生のクリケット場の設置申請が行われ、これが認められ完成したことを記念して行われたもので、その要請は、クリケットという遊戯が健康と養育の価値を有するものだとする認識に基づいている。
1874(明治7)年1月の海軍省宛文書にも兵学寮にはクリケットなどのスポーツに関して,次のような認識のあったことが見られる。
(1)「凡精神ヲ労スル者ヲ啻ニ束縛致シ候而己ニシテ之ヲ慰楽スルノ事無之候テハ必ズ欝閉(うっぺい)ノ害ヲ免レ不申或ハ竊(ひそ)カニ犯則不善ノ遊戯二溺ルル二至リ可申」と,一般に人間は精神を疲れさせるだけで慰楽することがなければ,気のふさがることは間違いなく,法律を犯したり、よくない遊びに溺れたりする。
(2)兵学寮生徒の最近の状態は不道徳に流れ,このまま放置すると恥ずかしい状態になるかも知れない,
(3)兵学寮の会議で論議したところ、精神を疲労させるだけで気晴らしとなる方法がないからだということになった。
(4)欧米各国の海軍学校では,玉突き,クリケット・ボール,ボーリング・アレーなどの遊戯道具を備えて疲れを慰める方法があるので,よくない考えを抱いたり,不道徳な状態に陥らず,学業はますます進歩し,身体はいよいよ強健になっている,
(5)この考えをダグラス顧問団長に相談したところ,彼もまた同じように考えていたが、費用がかかるので提言出来ないできたと言っている。
(6)遊び道具を備えて娯楽を与えることは至急採用すべき良い方法なので,先ずは玉突き道具2台を備えたい。・・・・,と理由を添えて設置の申請をした。2台で約3,000円かかるこの申請は,兵学寮の定額金から支払うこととして2月10日付で決裁が下った。
この申請の基礎には、人間にとって慰楽(慰みと楽しみ)は本来的に重要不可欠のものであり、とくに学業のような精神を疲れさせる生徒に遊戯(スポーツがその大きな部分を占めている)を行わせることは,健康を保持増進するとともに、道徳的な健全さを養うことに役立つものであるとする考えである。.こうした立場から近代スポーツ(スポーツの歴史参照)の導入の必要は,まさにダグラスらイギリス海軍顧問団の教師たちに共通した意識であったろうし、また日本側教官たちが論議の結果欧米の海軍学校の例に倣うことにしたのも、そうした思想を容認したからであったと考えられるようだ。
1874(明治7)年1月に入学した沢鑑之丞は「英教師達が来着してから,兵学寮に於ける生徒の教育方法は、専らイギリス式に則り,ドーグラス(ダグラス)の進言に基いて追々規則を改正致しまして… 先づイギリス教師が第一に着眼いたしましたのは,体育上の不充分なることが原因で生徒の身体が余り強健でないから順次之を矯正しようということでありました。… 現在実施している馬術,剣道の修業等何れも結構であるが、もっと慰安、娯楽的のもの、例えばビリヤード(玉突き)フットボール(蹴球)クリケット等が適当であると注意いたしました。兵学寮幹部に於ても大いに賛成の上,直ちにビリヤードニ台を用意致しまして,北寮食堂に据付け,生徒に練習させたのであります」と回顧している。・・という。
こうして,海軍将校の養成に対してイギリス人教師によるイギリス式教育の適用の一環として近代スポーツの導入が図られた。それは,慰楽を基本的な欲求と認める人間観に基づくものであったが、同時に兵学寮において早くも近代スポーツが、生徒の規律・訓練の方法として把握されていることにも注意しなければならない.ようだ(※5)。
そして、競闘遊戯会には、兵学寮から海軍省に対して,軍楽隊の派遣他、水路寮測量生徒・ブリンクリー(砲術。後の海兵士官学校)生徒、そして軍医寮生徒の参加も要請し、まさに「海軍諸学校生徒」が参加して行われた。.
その時の競技内容としては、1874(明治7)年3月8日、当時の海軍卿勝安房(勝 海舟)から太政大臣三条実美宛てに提出された「兵学寮生徒等競闘興行之儀御届」が提出されているが、この届け出には「健康」増進に役立つという点からだけ説かれ、以前にダグラスが主張したような「慰楽」の必要という観点がここでは抜け落ちている。・・・という。
それは兎も角、同届けに添付されていた和文と英文各一通のプログラム(共闘競技表)が残っており、本文書の含まれる「公文録」は、平成10年に、国の重要文化財に指定されているそうだ。同プログラムは以下参照。
国立公文書館デジタルアーカイブ「競闘遊戯表」
この和文と英文のプログラムの番号には少々違いがあるが、和文プログラムは,第一場第一般から第九場第十八般まで競技種目を並べているが,各「般」の下に少し小さな活字で三,一,二,十三・・・と漢数字が並んでいる。これは、英文プログラムでの競技順序を示しているものであり、恐らくは,英文の案が先に出来,これを翻訳して和文プログラムを作るとき順序を変えたと考えられている。.主な変更は,徒競走を年少組から年長組へと順に並べたこと、観客(兵学寮関係者に限る)の飛び入りによる障害物競走を四番目と早くしたことである。
そして、競技種目名の翻訳において、 イギリス式の遊戯・スポーツが殆ど知られていなかった当時、英語の種目名を日本語に訳出するのには大変苦心したようで、沢は,これに関して「早速之(Athletic Sports-筆者)を実行せんと決定せられしも、是等遊戯は本邦に於ては未曾有の事柄なれば,海軍省の認可を得ざるべからず、依て其の訳名を要するにつき、時の英学教官錦織精之進、三輪光五郎(慶応義塾出身).服部章蔵の三氏,皇漢学教官松波直清、小林為文、山田養吉の三氏協議調査せられたるに… 競闘遊戯と訳名を決定せられ,各遊戯の名称に付ては直訳もおもしろからず、何とか優雅なるものとなすべしとて和漢両様の題目を撰ばれたり」と述べている・・・ことから、翻訳に際して英学教官の外,皇漢学教官も参加していたことが分かる。
この結果,和文プログラムで第一般 三「雀雛出巣」「すずめのすだち」のように和漢二つの名称があるのは国学・漢学の二学からつけられたからだと分かる.。また,和文のプログラムの下欄で競技法が解説されていても,理解しにくいものがあるが、英語名を見ると,それがいかなる競技であったかが判明する。.
第四般あけのからす「疾駆シ且ツ諸般ノ遊戯ヲ競闘・・」=13は、.障害物競走。第七般ふるだぬきのつぶてうち「毬ヲ投撃」=6は ,球投げ。第十一般かごのにげつる「其體ヲ毀ルコトナク・・急歩」=10は、.競歩。第十三般さぎのうをふみ「或ハ-脚ヲ塞シ或ハ大踏歩シ或ハ飛躍シ」=12は、.三段跳。第十五般うさぎのつきみ「躍ルコト三躍シテ以テ歩二代へ・・」=15は、 .立三段跳など。
上記の第七般Throwing the shotを『海軍兵学校沿革』に従って「球投げ」としているが、,これには疑問が残る。.和文の通りだとクリケットボール投げの可能性も考えられる・・という。
しかし、競技種目名はなかなか面白い和文表現だが、これだけでは、なかなか意味が分からないが、例えばプログラム 第一般 三「雀雛出巣」「すずめのすだち」の下段には、「十二歳以下ノ生徒ヲシテ百五十ヤードの距離ヲ疾駆セシム」と競技種目の説明があるので、これは、おおよそ、12歳以下の生徒の150ヤード走であることは理解できるだろう。
海軍学校『海軍兵学校沿革』第1巻大正8年にもとづく遊戯番付内容は、以下参考※7:「小学校の運動会に関する史的考察」にわかりやすく書かれているので、この方が種目の内容がわかりやすいので時間があれば目を通されるとよい。
1874(明治7)年3月8日勝安房(勝 海舟)から太政大臣三条実美に提出された「兵学寮生徒等競闘興行之儀御届」の届け内容では「健康」増進に役立つという点からだけが説かれており、以前にダグラスが主張したような「慰楽」の必要という観点が抜け落ちているようだが、プログラムの内容を見ると、一応「共闘」と「遊戯」を融合したイベントであったことはわかる。そして、この時の「競闘遊戯会」には、「景物表」が表示されており、競技により、商品が授与されていたようである。
この「競闘遊戯会」当初、3月11日に行われる予定であったが雨天のため16日へ順延する旨再届が出され許可されているが、定説では3月21日…となっているのが、よくわからない。どうしてだろう?よくわからないが、いずれにしても、実際には、この「競闘遊戯会」より、横須賀製鉄所で開催されたものの方が早いので、このことの詮索はやめよう。
いずれにしても、競闘遊戯会も横浜居留のイギリス人の初期の陸上競技会と同様に「共闘」と「遊戯」を融合した二重性の構造をもった競技として、近代陸上競技大会にもまた学校運動会にも分岐し,発達していく可能性を内包していたものであったとはいえる。この 「共闘遊戯」 を嚆矢と して, 類似の行事が各学校においても 次第に行われるよう になる。
例えば、 札幌農学校(現在の北海道大学の前身)は、アメリカより、外国人教師として来日したダビット・P・ペンハロー(David・Pearce・Penhallowの発案により1878(明治 11 ) 年に, 「遊戯会」 という行事を行っており, この 「遊戯会」 では, 石投げ, 玉投げ, 芋拾い競争, 幅跳び、 目隠し競争などが行われ, 数百人の見物人が集まったとされている(北海道大学、『北大百年史通説』 )。 その後, フレデリック・ウィリアム・ストレンジ(Frederick William Strange)の指導による、1882 (明治 15) 年の体操伝習所(東京府=現在の東京都千代田区に設立された体育教員・指導者の養成機関)による 「連合体操会」(※8参照)、そして、 翌1883(明治16)年には、神田一ツ橋.予備門校庭で開かれた予備門と東京大学三学部(法理文)合同の陸上競技会(後の東京大学運動会)の指導も行われた(ここ参照)。 なお,東京大学の陸上運動会では、 競争, 高飛び、 砲丸投げ、 棚飛び競争, 三脚競走、慰め競走(どのような競技かよくわからないが・・・)な どの種目が実施されたようだ。
このように明治7(1874 )年から10年代中ごろにかけて「運動会」の原型に当たる行事が行われるようになり、明治18年頃までは主として中等教育機関以上で運動会やそれに類する競技が行われていたようでそれには、体操伝習所が密接にかかわっていたようである。
今では、運動会では主力となっている小学校の運動会に目を向けると1884 (明治 17)
年には皆無であった小学校参加の運動会が, 1885(明治) 18年ごろからみられるようになり、 1886 (明治19)年には大幅に増加し、普及し始めたようである。
1885(明治18)年12月、内閣制度の創設と共に、伊藤内閣の初代文部大臣として森有礼が就任。国会の開設や憲法発布を間近かに控え、明治維新以来の政治変革が一段落を告げようとしている時、教育制度も一大改革が企てられ、新しい制度を完成させようとする段階にあった。
森有礼は、日本の発展・繁栄は、まず教育から築き上げなければならないとして、「諸学校を維持するもの畢竟国家の為なり」と述べている通り、彼の学校教育に関す方策はすべて国体主義の教育観によって貫かれていた。
そしてこれを実現するためには、1)文部省は簡単平易な教課書をつくり、人々の諷誦(ふうしょう)、又は講義に便ならしめる。2)陸軍省は体操練兵(【練兵】平時に、兵士に対して戦闘に必要な訓練をすること)の初歩を教える。3)これを戸長または毎郡の所掌とし、区域内の人民を一月に一度或(あるい)は二度時間を限って学校に集め、聴講または運動に従事させるべきであるとしている。
森文相がこの軍隊式教育を師範学校において試みたことはよく知られている。このような軍隊式体育を実施しようとした精神は、次の「兵式体操に関する上奏文案」の中によく示されている。
「抑国家富強ハ忠君愛国ノ精神旺実スルヨリ来ル、故ニ文部ノ職ハ主トシテ此精神ヲ養成渙発スルノ責ニ当ラサルヘカラス、是ヲ以テ体育ノ切要ヲ認メ既ニ学科ニ加へサルナシト雖モ・・(中間略)・・以テ国家富強ノ長計ヲ固フセント欲セハ、第一中学校以上諸学校ノ教科時間ヲ割キ、乃チ休操ノ一科ハ文部ノ管理ヲ離レテ之ヲ陸軍省ノ施措ニ移シ、武官ヲ簡撰シ純然タル兵式体操ノ練習ヲ以テ之二任スルニ在リ、而シテ文部省ハ自ラ其事二染手スルコトナク単二陸軍ト妥議商籌スルニ止ムルトキハ、厳粛ナル規律ヲ励行シテ体育ノ発達ヲ致シ学生ヲシテ武毅順良ノ中二感化成長セシメ、以テ忠君愛国ノ精神ヲ涵養シ嘗艱忍難ノ気力ヲ換発セシメ、他日人ト成リ徴サレテ兵トナルニ於テハ其効果ノ著シキモノアラン」
森文相のこの考え方に基づき、師範学校の教育には全面的に軍隊式教育が取り入れられたが、また小学校、中学校にも「兵式体操」が採用されている。1886(明治19)年における諸学校令(「小学校令」「中学校令」など)が公布された。それによって我が国の全国の学校教育は厳格に統轄され、小・中学校等の制度の基礎も確立された(参考※9:「文部科学省HPの森文相と諸学校令の公布参照)。
学校行事のなかで、もっとも広く地域住民をまきこんで行われた小学校の運動会も、この翌・1887(明治20)年以降に各地で行われはじめた。初期の運動会は、「遠行運動」とも呼ばれ、分隊旗を立て二列に聯隊して、歩々足を整へて進み、目的地に向かい到着した場所で体操、 競争, 擬戦、,球なげなどさまざまな競技を行うものであった。当時は、このよ う な遠足と運動会の内容を併せ持った行事を運動会と称する場合も少なく なかったようである。学校儀式をとおして国家意識の形成をめざした森有礼は、身体活動を重視し、中学校・師範学校で兵式体操を推進したが、初期の運動会も軍隊の行軍や演習をモデルとして開始され、その娯楽性から小学校にも急速に広まり、多くの参観者を集めたようだ。当時の実施形態には 学校の単独開催や地域の各小学校の合同開催の他, 運動会の萌芽期にあっては、こう した小学校のみの合同という形態はそれほど多くなく、地域の県立学校と小学校が合同で実施したりするケースが多かったようである。
スポーツライター・玉木正之氏の公式WEBサイト(※10)の、タマキの蔵出しコラム・音楽編日本人の遊び心には、以下のように書いてある。
森文部大臣は、横浜の外国人租界地で行われた陸上競技会を見物して体育教育に有効と判断し、全国の小中学校で運動会を催すよう訓令を発したのだった。
しかし、命令を出された方は、大いに困惑した。なにしろ教育制度が定まったばかりの時代だから、運動場なんていう施設はなかった。困った学校関係者は、いくつかの学校で話し合い、合同で神社や寺の境内を借りて運動会を開催することを考えた。ただし、場所を借りるためには、氏子や檀家という神社やお寺と関わりのある地域の人々の許可が必要になる。そのため、生徒がただ競走するだけでなく、氏子や檀家も一緒に参加してもらおうということで、彼らが参加できるような競技を考える必要が生じた。今でいうなら「住民参加」である。そして考え出されたのが、どんな人でも楽しめる娯楽性の高いパン食い競走や大玉転がし(中には、ブタ追い競走というのもあった)だった。
さらに、どうせ神社やお寺でイベントを行うなら、夏祭りや秋祭りも一緒にしてしまおう、ということになり、中央に櫓を組み、盆踊りや豊年満作踊りなども運動会でするようになった。これがフォークダンスのルーツである。つまり、運動会は、参加するすべての人々のためのお祭りだったのである。また、運動会の会場が家から離れている場合が多いということもあって、遠足という要素も混じった。そして、お弁当を作るという習慣ができたのである。
では、騎馬戦や棒倒しはどうして始まっただろうか?
それは、国会が無かった時代に国会を開くことや憲法を作ることを主張した政治運動=自由民権運動がルーツであった。当時は政府の力が強く、自由民権運動が激しく弾圧された時代で、政府に反対する自由民権の志士たちは、意見を堂々と言うことができず、街中で演説することもデモ行進をすることも集会を開くことも法律で禁止されていた。
そこで、自由民権運動の壮士たちは、自分たちの主張をどのようにして聞いてもらおうかと考え、運動会に目をつけた。「最近流行の運動会をするのなら、演説でもないし、デモでもないから弾圧されないだろう」と。そして、「壮士運動会」と称するイベントを開催し、そこで「政権争奪騎馬戦」「圧政棒倒し」「自由の旗奪い合い」といった競技を創り出した。騎馬戦は、だれが政治のリーダーになるかを競う姿をゲームにしたものであり、棒倒しは当時の政府を倒す意味をこめて棒を倒すものだった。つまり、すべては競技にまぎれて彼らの言い分を国民に聞いてもらうためのものだった。
さらに、その合間にデモを行い、「議会をつくれ」「政府反対」とか言いながら、民選議会(国会)の設立を訴えたり(民撰議院設立建白書参照)、薩長藩閥内閣の打倒を叫んだりした。そのデモンストレーションが、のちに仮装行列に変わったのである。
それら2種類の運動会が混ざり合い、現在の運動会に発展した。運動会は、日本人の豊かな遊び心が創りあげたものなのである。
ちなみに、「玉入れれ」はバスケットボールを、「障害物競走」はイギリス発祥の乗馬障害レースをアレンジしたものである。また、「綱引き」は、豊作や豊漁を祝うための地域行事が形を変えた種目だった。
それら二種類の運動会が混ざり合い、現在の運動会に発展したのだが、この運動会の歴史は、日本人の豊かな遊び心が創りあげたもの、といえるのである。」・・・と。
確かに日本の運動会は楽しい。しかし、私が中学校の時、中学校は有馬男爵邸跡地に建てられた木造校舎であったが自慢は校舎の周りの大庭園であった。庭園には小川が流れ四季の花々が咲き、春などは、桜の木のある小川の前で弁当を食べるのが本当に楽しかった。しかし、立派な庭園がある代わりに、運動場が狭すぎて、授業での体育ぐらいはできても運動会などできなくて、運動会は、市民球場を借り上げてしていたが、運動会の種目には一般でしているような楽しめる種目はなく、やり投げや円盤投げ、走り幅跳びといったまるで、国体か、オリンピックをしているようなスポーツ競技であった。当時、神戸の市立中学ではモデル校としていろいろ他校の先生たちがしょっちゅう参観に来ていた学校ではあるが、運動会が面白くなかったことだけはいまだによく覚えている。
この一般の楽しい運動会、企業でも、親睦を深めるために行っており、私が現役の若いころには、和気あいあいと楽しみ盛んであったが、年代を重ねて後半には、社員旅行と同様、に近ごろの若者には、「自分の時間を大切にしたい」と参加をしたがらないものが多くなり、自由参加の形にしていると、半数近くは不参加という感じであった。
先に述べた「ニュースウォッチ9」の報道の中では、ナレーションで
「日本の運動会は、必ずしも体力の優劣を競う場ではありません。」
「学校だけでなく、地域ぐるみで行われ、世代を超えた交流の場でもありました。」・・・と、過去形で話しているのが実にさみしい。阪神・淡路大震災や、東日本大震災、はたまた、幼児殺しの犯罪や、ストーカー事件などがあると、地域の絆が言われるが、基本的に、今の時代は自己中心主義が広まっており、人と人との接触を嫌っている。今の時代の犬や猫などの異常なほどのペットブームもそのようなところから生まれた孤独感から起こっているものだろう。
それとナレーションで「日本の運動会は、必ずしも体力の優劣を競う場ではありません。」・・と言っていることについては、小学校や、中学校・高等学校、および特別支援学校などの運動会は、学習指導要領における「特別活動」であるが、以下参考の※11:「「運動会」を通して育てる力 - 教育委員会」には、「学習指導要領では、運動会は、特別活動の学校行事「健康安全・体育的行事」に位置づけられています。その内容は「心身の健全な発達や健康の保持増進などについての関心を高め,安全な行動や規律ある集団行動の体得,運動に親しむ態度の育成,責任感や連帯感の涵養,体力の向上などに資するような活動を行うこと。」とあります。これをふまえて、「運動会」という行事を考えてみると、勝つために全力を尽くす。
全力でがんばる力、団結力・連帯感、体力の向上、フェアプレーの精神、勝敗への正しい態度等「集団で勝敗を競う体育的行事」であるのですから、ぜひ勝敗にこだわってほしいと思います。」・・・と書かれている。
2012年ロンドンオリンピックで、日本中が感動したのは、サッカーにしろ、バレーボールにしろ、勝利を目指してあきらめずに全力で戦う選手達の姿に対してである。勝負よりも参加することに意義があるという姿勢で選手がのぞんでいたらあれほどの感動は無いだろうと思う。運動会でも同様で、他色には絶対に勝つ、○組には絶対に負けない、という強い気持ちがあるからこそ、全力で走り、力を出し切ることができるし、運動会前の練習にも真剣に取り組むことができる。
フェアプレーの精神は大事だが、勝負をする以上勝つための努力をしない限り.成長はないだろう。その結果負けても、学ぶことは多いはずである。私もそう思うのだが・・・。
参考:
※1:NHKオンラインー.NW9-ニュースウオッチ9そのニュース、核心はどこだ。
http://www9.nhk.or.jp/nw9/
※2:世界へ輸出 日本の“UNDOKAI(運動会)” - NHK 特集まるごと
http://www9.nhk.or.jp/nw9/marugoto/2015/02/0224.html
※3:JAPAN SPORT COUNCIL 日本スポーツ振興センター
http://www.jpnsport.go.jp/
※4:運動会屋
http://www.udkya.com/
※5:海軍兵学寮の競闘遊戯会に関する一考察 - J-Stage(Adobe PDF)
https://www.jstage.jst.go.jp/article/kyoiku1932/63/2/63_2_129/_pdf
※6:横須賀製鉄所(造船所)特集ページ|横須賀市
https://www.city.yokosuka.kanagawa.jp/0130/seitetsuzyo/main.html
※7:小学校の運動会に関する史的考察(Adobe PDF) - htmlで見る
https://dspace.wul.waseda.ac.jp/dspace/bitstream/2065/5902/1/KJ00004251338.pdf#search='%E9%81%8B%E5%8B%95%E4%BC%9A+%E8%B5%B7%E6%BA%90'
※8:体操伝習所 - 筑波大学附属図書館(Adobe PDF)
https://www.tulips.tsukuba.ac.jp/exhibition/shintai-to-yugi/catalog.pdf#search='%E7%AD%91%E6%B3%A2%E5%A4%A7%E5%AD%A6+++%E3%81%93%E3%81%93%E3%81%A7%E3%81%AF%E3%80%81%E4%BD%93%E6%93%8D%E6%89%80%E3%81%AB%E6%9C%B1%E7%AD%86%E3%81%A7%E3%80%8C%E4%BC%9D%E7%BF%92%E3%80%8D%E3%81%AE%E4%BA%8C%E5%AD%97%E3%82%92%E6%9B%B8%E3%81%8D%E5%8A%A0%E3%81%88%E3%80%8C%E4%BD%93%E6%93%8D%E4%BC%9D%E7%BF%92%E6%89%80%E3%80%8D%E3%81%A8%E8%A8%82%E6%AD%A3%E3%81%97%E3%81%9F'
※9:文部科学省ホームページ
http://www.mext.go.jp/
※10:玉木正之公式WEBサイト
http://www.tamakimasayuki.com/index.htm
※11:「運動会」を通して育てる力 - 教育委員会(Adobe PDF)
http://www.sch.kawaguchi.saitama.jp/aokikita-e/tusinkoutyou/tusin14.pdf#search='%E5%AD%A6%E7%BF%92%E6%8C%87%E5%B0%8E%E8%A6%81%E9%A0%98++%E9%81%8B%E5%8B%95%E4%BC%9A'
運動会ー Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%8B%E5%8B%95%E4%BC%9A
運動会の起源はヨーロッパにあるとされるが、欧米では体育及びスポーツの分化により、一方では特定種目の競技会やそれを複合させたスポーツ競技会、一方で子供による伝統的な遊戯まつりやピクニック会などへとつながって今日に至っている。
そのため、日本の運動会のように参加者が一定のプログラムについて順次全体としてまとまりながら競技・演技を行う形式の体育的行事は「近代日本独特の体育行事」とも言われているようだ(日本体育協会監修 『最新スポーツ大事典』 p.96 大修館書店 1987年)。
そういえば、今年(2015年)2月24日、NHK夜のワイドショー「ニュースウォッチ9」で、「世界へ輸出・日本の“UNDOKAI”」と題して、日本式の運動会を紹介するイベントがタイの学校で行われ、地元の子どもたちが日本ではおなじみの競技に初めて挑戦している様子を報じていた。その内容は、参考※1;「 NHKオンライン」の2015年2月24日(火)付「 世界へ輸出 日本の“UNDOKAI(運動会)”」(以下の動画)。また、その抜粋(参考※2)を参照れるとよい。
世界へ輸出 日本の“UNDOKAI(運動会)NHKニュースウオッチ9 ピックアップ”
これは、2020年の東京オリンピック・パラリンピックに向けて、スポーツを通じた国際交流を進めようと、日本の政府やスポーツ関係団体が世界各地で始めたもので、今回の運動会を運営したのは、独立行政法人日本スポーツ振興センター( JSC。※3)から委託を受けたNPO法人である。
JSC は、2003(平成15)年、それまでの日本体育・学校健康センターの業務等を承継するかたちで設立された法人であり、設立の趣旨は国民の健康増進であり、業務は国立競技場の運営、スポーツ科学の調査研究、スポーツ振興くじ(toto)の実施などのスポーツ関連事業と、学校災害共済給付制度(※3の1ここ参照)の運営、学校における安全・健康保持の普及などの学校関連事業とに二分される。
同振興センターは文部科学省の外郭団体であり、役員には文部省(現文部科学省)、大蔵省(現財務省)といった中央省庁からの天下り官僚が就任している。そして、同センターには運営費交付金として毎年多額の補助金が交付されているが、Totoの計画・運営や新国立競技場建設問題など、その計画・運営・運用や、また、年に2回ある助成審査委員会の会議は全報道機関に公開されていたが、2007年4月5日の会議から運動記者クラブのみに限定されているなど、いろいろと批判されていることは多いようだ。
また、同振興センターから委託を受けたNPO法人というのは、 “企業や、学校関係の運動会・体育祭などの企画、運営から、会場の確保、設営、撤去、備品の貸出し、スタッフの派遣までを行っているという運動会屋(NPO法人ジャパンスポーツコミュニケーションズ。※:4)のこと。スポーツを盛んにするための一環かどうかは知らないが、このような事業までNPO法人が行っているのだね~。JSCには、スポーツ関連の企業や団体が多く関係しているから、このような運動会のイベント事業もいい商売になるようだ。もっとも、あくまで、非営利法人がやっていることなのだが・・・。
こんな運動会屋のやっていることがNHKの「ニュースウォッチ9」では、通常のニュースより優先し、トップニュースとして報道されていることに対しては、いろいろ話題が沸騰していたようだが、今回はそのようなことを問題として取り上げるのが趣旨ではないのでこのことはこれでおこう。
この「ニュースウォッチ9」の報道の中では、ナレーションで、
「空高く運動会の秋たけなわ、さわやかな大空に明るい歓声がこだまして。」
「日本の運動会は、必ずしも体力の優劣を競う場ではありません。」
「学校だけでなく、地域ぐるみで行われ、世代を超えた交流の場でもありました。」
・・とお父さんたちの参加している姿。そして、障害物競走の網くぐりや玉入れ・綱引きの後、昭和30年代の女性のビール飲み競争や宝探しなどの映像が映し出される。
そして、「足の速い人が一番になるとは限らない。それが運動会です。」といって、日本の運動会と外国との違いを外国人にヒアリングしてまわる。
日本では幼稚園や学校の運動会から会社や町内会など、色々な団体で運動会が行われるが、その運動会の種目には、徒競走や、綱引き、網くぐりなどの障害物競走の他、騎馬戦や棒倒しなどとならんで、パン食い競走や玉入れ、、大玉ころがし、スプーン・レースやフォークダンスなどもある。会社の運動会となると、仮装行列がある場合もあるし、地域の運動会では、「ニュースウォッチ9」でも見られた女性のビール飲み競争や、宝探し迄ある。改めて考えてみると、日本で行われている運動会とは、じつに奇妙なイベントではある。
このような奇妙なスポーツ・イベントは、外国には存在しない、日本のオリジナルのものである。いったい誰が何のためにこのような運動会を考え出したのだろう?
定説によれば日本で最初に行われた運動会は1874(明治7)年3月21日、当時築地の海軍兵学寮(後の海軍兵学校)の英語教師として教壇に立っていたイギリ ス人教師(フレデリック・ウィリアム・ストレンジといわれている)の申し出によ り、行われた「競闘遊戯会」であるとされている.(日本体育協会監修 『最新スポーツ大事典』 p.95)。
しかしながら、運 動会の起源ということでは、1868年8月15日(慶応4年6月27日)、横須賀製鉄所で開催したものが指摘されている。岸野雄三他編『近代体育スポーツ史年表』では、これを「日本最初の洋式運動会」としているそうだ(※5)。
以下横須賀市のHP「横須賀製鉄所(造船所)特集ページ」(※6:)には、「横須賀製鉄所」(後の横須賀海軍工廠)は、フランス人技師フランソワ・レオンス・ヴェルニーの指導により建設されものだが、1868 年、フランス人技師らと日本人の職工が親睦を図るために様々な競技をする運動会を行っていたようで、同造船所建設の土木事業に現場責任者の一人として従事していた堤磯右衛門が『懐中覚』という日記にその様子を書き記しているところによると、綱渡り、帆柱のぼり、さらに袋に両足を入れてピョンピョンと跳んで走る競技、そして相撲などの競技が行われていた。また、このなかで、「走馬競(そうばけい」という、馬を走らせながら、つるされた輪に木製のくぎを通すという、日本の流鏑馬(やぶさめ)に似た競技も行われていたそう.だ。後にこの「走馬競」は、2003年ヴェルニー公園で再現されているという(同HPにリンクの小冊子「ヴェルニーと横須賀」参照)。
そのことは兎も角として、定説で日本初と言われているところの築地の海軍兵学寮での「競闘遊戯会」ではどのような競技が行われていたのだろう。
競闘遊戯会は、1 873(明治6)年12月、海軍兵学寮のイギリス海軍顧問団の団長ダグラス中佐(Archibald Lucius Douglas)から海軍省に兵学寮の馬場の中央に芝生のクリケット場の設置申請が行われ、これが認められ完成したことを記念して行われたもので、その要請は、クリケットという遊戯が健康と養育の価値を有するものだとする認識に基づいている。
1874(明治7)年1月の海軍省宛文書にも兵学寮にはクリケットなどのスポーツに関して,次のような認識のあったことが見られる。
(1)「凡精神ヲ労スル者ヲ啻ニ束縛致シ候而己ニシテ之ヲ慰楽スルノ事無之候テハ必ズ欝閉(うっぺい)ノ害ヲ免レ不申或ハ竊(ひそ)カニ犯則不善ノ遊戯二溺ルル二至リ可申」と,一般に人間は精神を疲れさせるだけで慰楽することがなければ,気のふさがることは間違いなく,法律を犯したり、よくない遊びに溺れたりする。
(2)兵学寮生徒の最近の状態は不道徳に流れ,このまま放置すると恥ずかしい状態になるかも知れない,
(3)兵学寮の会議で論議したところ、精神を疲労させるだけで気晴らしとなる方法がないからだということになった。
(4)欧米各国の海軍学校では,玉突き,クリケット・ボール,ボーリング・アレーなどの遊戯道具を備えて疲れを慰める方法があるので,よくない考えを抱いたり,不道徳な状態に陥らず,学業はますます進歩し,身体はいよいよ強健になっている,
(5)この考えをダグラス顧問団長に相談したところ,彼もまた同じように考えていたが、費用がかかるので提言出来ないできたと言っている。
(6)遊び道具を備えて娯楽を与えることは至急採用すべき良い方法なので,先ずは玉突き道具2台を備えたい。・・・・,と理由を添えて設置の申請をした。2台で約3,000円かかるこの申請は,兵学寮の定額金から支払うこととして2月10日付で決裁が下った。
この申請の基礎には、人間にとって慰楽(慰みと楽しみ)は本来的に重要不可欠のものであり、とくに学業のような精神を疲れさせる生徒に遊戯(スポーツがその大きな部分を占めている)を行わせることは,健康を保持増進するとともに、道徳的な健全さを養うことに役立つものであるとする考えである。.こうした立場から近代スポーツ(スポーツの歴史参照)の導入の必要は,まさにダグラスらイギリス海軍顧問団の教師たちに共通した意識であったろうし、また日本側教官たちが論議の結果欧米の海軍学校の例に倣うことにしたのも、そうした思想を容認したからであったと考えられるようだ。
1874(明治7)年1月に入学した沢鑑之丞は「英教師達が来着してから,兵学寮に於ける生徒の教育方法は、専らイギリス式に則り,ドーグラス(ダグラス)の進言に基いて追々規則を改正致しまして… 先づイギリス教師が第一に着眼いたしましたのは,体育上の不充分なることが原因で生徒の身体が余り強健でないから順次之を矯正しようということでありました。… 現在実施している馬術,剣道の修業等何れも結構であるが、もっと慰安、娯楽的のもの、例えばビリヤード(玉突き)フットボール(蹴球)クリケット等が適当であると注意いたしました。兵学寮幹部に於ても大いに賛成の上,直ちにビリヤードニ台を用意致しまして,北寮食堂に据付け,生徒に練習させたのであります」と回顧している。・・という。
こうして,海軍将校の養成に対してイギリス人教師によるイギリス式教育の適用の一環として近代スポーツの導入が図られた。それは,慰楽を基本的な欲求と認める人間観に基づくものであったが、同時に兵学寮において早くも近代スポーツが、生徒の規律・訓練の方法として把握されていることにも注意しなければならない.ようだ(※5)。
そして、競闘遊戯会には、兵学寮から海軍省に対して,軍楽隊の派遣他、水路寮測量生徒・ブリンクリー(砲術。後の海兵士官学校)生徒、そして軍医寮生徒の参加も要請し、まさに「海軍諸学校生徒」が参加して行われた。.
その時の競技内容としては、1874(明治7)年3月8日、当時の海軍卿勝安房(勝 海舟)から太政大臣三条実美宛てに提出された「兵学寮生徒等競闘興行之儀御届」が提出されているが、この届け出には「健康」増進に役立つという点からだけ説かれ、以前にダグラスが主張したような「慰楽」の必要という観点がここでは抜け落ちている。・・・という。
それは兎も角、同届けに添付されていた和文と英文各一通のプログラム(共闘競技表)が残っており、本文書の含まれる「公文録」は、平成10年に、国の重要文化財に指定されているそうだ。同プログラムは以下参照。
国立公文書館デジタルアーカイブ「競闘遊戯表」
この和文と英文のプログラムの番号には少々違いがあるが、和文プログラムは,第一場第一般から第九場第十八般まで競技種目を並べているが,各「般」の下に少し小さな活字で三,一,二,十三・・・と漢数字が並んでいる。これは、英文プログラムでの競技順序を示しているものであり、恐らくは,英文の案が先に出来,これを翻訳して和文プログラムを作るとき順序を変えたと考えられている。.主な変更は,徒競走を年少組から年長組へと順に並べたこと、観客(兵学寮関係者に限る)の飛び入りによる障害物競走を四番目と早くしたことである。
そして、競技種目名の翻訳において、 イギリス式の遊戯・スポーツが殆ど知られていなかった当時、英語の種目名を日本語に訳出するのには大変苦心したようで、沢は,これに関して「早速之(Athletic Sports-筆者)を実行せんと決定せられしも、是等遊戯は本邦に於ては未曾有の事柄なれば,海軍省の認可を得ざるべからず、依て其の訳名を要するにつき、時の英学教官錦織精之進、三輪光五郎(慶応義塾出身).服部章蔵の三氏,皇漢学教官松波直清、小林為文、山田養吉の三氏協議調査せられたるに… 競闘遊戯と訳名を決定せられ,各遊戯の名称に付ては直訳もおもしろからず、何とか優雅なるものとなすべしとて和漢両様の題目を撰ばれたり」と述べている・・・ことから、翻訳に際して英学教官の外,皇漢学教官も参加していたことが分かる。
この結果,和文プログラムで第一般 三「雀雛出巣」「すずめのすだち」のように和漢二つの名称があるのは国学・漢学の二学からつけられたからだと分かる.。また,和文のプログラムの下欄で競技法が解説されていても,理解しにくいものがあるが、英語名を見ると,それがいかなる競技であったかが判明する。.
第四般あけのからす「疾駆シ且ツ諸般ノ遊戯ヲ競闘・・」=13は、.障害物競走。第七般ふるだぬきのつぶてうち「毬ヲ投撃」=6は ,球投げ。第十一般かごのにげつる「其體ヲ毀ルコトナク・・急歩」=10は、.競歩。第十三般さぎのうをふみ「或ハ-脚ヲ塞シ或ハ大踏歩シ或ハ飛躍シ」=12は、.三段跳。第十五般うさぎのつきみ「躍ルコト三躍シテ以テ歩二代へ・・」=15は、 .立三段跳など。
上記の第七般Throwing the shotを『海軍兵学校沿革』に従って「球投げ」としているが、,これには疑問が残る。.和文の通りだとクリケットボール投げの可能性も考えられる・・という。
しかし、競技種目名はなかなか面白い和文表現だが、これだけでは、なかなか意味が分からないが、例えばプログラム 第一般 三「雀雛出巣」「すずめのすだち」の下段には、「十二歳以下ノ生徒ヲシテ百五十ヤードの距離ヲ疾駆セシム」と競技種目の説明があるので、これは、おおよそ、12歳以下の生徒の150ヤード走であることは理解できるだろう。
海軍学校『海軍兵学校沿革』第1巻大正8年にもとづく遊戯番付内容は、以下参考※7:「小学校の運動会に関する史的考察」にわかりやすく書かれているので、この方が種目の内容がわかりやすいので時間があれば目を通されるとよい。
1874(明治7)年3月8日勝安房(勝 海舟)から太政大臣三条実美に提出された「兵学寮生徒等競闘興行之儀御届」の届け内容では「健康」増進に役立つという点からだけが説かれており、以前にダグラスが主張したような「慰楽」の必要という観点が抜け落ちているようだが、プログラムの内容を見ると、一応「共闘」と「遊戯」を融合したイベントであったことはわかる。そして、この時の「競闘遊戯会」には、「景物表」が表示されており、競技により、商品が授与されていたようである。
この「競闘遊戯会」当初、3月11日に行われる予定であったが雨天のため16日へ順延する旨再届が出され許可されているが、定説では3月21日…となっているのが、よくわからない。どうしてだろう?よくわからないが、いずれにしても、実際には、この「競闘遊戯会」より、横須賀製鉄所で開催されたものの方が早いので、このことの詮索はやめよう。
いずれにしても、競闘遊戯会も横浜居留のイギリス人の初期の陸上競技会と同様に「共闘」と「遊戯」を融合した二重性の構造をもった競技として、近代陸上競技大会にもまた学校運動会にも分岐し,発達していく可能性を内包していたものであったとはいえる。この 「共闘遊戯」 を嚆矢と して, 類似の行事が各学校においても 次第に行われるよう になる。
例えば、 札幌農学校(現在の北海道大学の前身)は、アメリカより、外国人教師として来日したダビット・P・ペンハロー(David・Pearce・Penhallowの発案により1878(明治 11 ) 年に, 「遊戯会」 という行事を行っており, この 「遊戯会」 では, 石投げ, 玉投げ, 芋拾い競争, 幅跳び、 目隠し競争などが行われ, 数百人の見物人が集まったとされている(北海道大学、『北大百年史通説』 )。 その後, フレデリック・ウィリアム・ストレンジ(Frederick William Strange)の指導による、1882 (明治 15) 年の体操伝習所(東京府=現在の東京都千代田区に設立された体育教員・指導者の養成機関)による 「連合体操会」(※8参照)、そして、 翌1883(明治16)年には、神田一ツ橋.予備門校庭で開かれた予備門と東京大学三学部(法理文)合同の陸上競技会(後の東京大学運動会)の指導も行われた(ここ参照)。 なお,東京大学の陸上運動会では、 競争, 高飛び、 砲丸投げ、 棚飛び競争, 三脚競走、慰め競走(どのような競技かよくわからないが・・・)な どの種目が実施されたようだ。
このように明治7(1874 )年から10年代中ごろにかけて「運動会」の原型に当たる行事が行われるようになり、明治18年頃までは主として中等教育機関以上で運動会やそれに類する競技が行われていたようでそれには、体操伝習所が密接にかかわっていたようである。
今では、運動会では主力となっている小学校の運動会に目を向けると1884 (明治 17)
年には皆無であった小学校参加の運動会が, 1885(明治) 18年ごろからみられるようになり、 1886 (明治19)年には大幅に増加し、普及し始めたようである。
1885(明治18)年12月、内閣制度の創設と共に、伊藤内閣の初代文部大臣として森有礼が就任。国会の開設や憲法発布を間近かに控え、明治維新以来の政治変革が一段落を告げようとしている時、教育制度も一大改革が企てられ、新しい制度を完成させようとする段階にあった。
森有礼は、日本の発展・繁栄は、まず教育から築き上げなければならないとして、「諸学校を維持するもの畢竟国家の為なり」と述べている通り、彼の学校教育に関す方策はすべて国体主義の教育観によって貫かれていた。
そしてこれを実現するためには、1)文部省は簡単平易な教課書をつくり、人々の諷誦(ふうしょう)、又は講義に便ならしめる。2)陸軍省は体操練兵(【練兵】平時に、兵士に対して戦闘に必要な訓練をすること)の初歩を教える。3)これを戸長または毎郡の所掌とし、区域内の人民を一月に一度或(あるい)は二度時間を限って学校に集め、聴講または運動に従事させるべきであるとしている。
森文相がこの軍隊式教育を師範学校において試みたことはよく知られている。このような軍隊式体育を実施しようとした精神は、次の「兵式体操に関する上奏文案」の中によく示されている。
「抑国家富強ハ忠君愛国ノ精神旺実スルヨリ来ル、故ニ文部ノ職ハ主トシテ此精神ヲ養成渙発スルノ責ニ当ラサルヘカラス、是ヲ以テ体育ノ切要ヲ認メ既ニ学科ニ加へサルナシト雖モ・・(中間略)・・以テ国家富強ノ長計ヲ固フセント欲セハ、第一中学校以上諸学校ノ教科時間ヲ割キ、乃チ休操ノ一科ハ文部ノ管理ヲ離レテ之ヲ陸軍省ノ施措ニ移シ、武官ヲ簡撰シ純然タル兵式体操ノ練習ヲ以テ之二任スルニ在リ、而シテ文部省ハ自ラ其事二染手スルコトナク単二陸軍ト妥議商籌スルニ止ムルトキハ、厳粛ナル規律ヲ励行シテ体育ノ発達ヲ致シ学生ヲシテ武毅順良ノ中二感化成長セシメ、以テ忠君愛国ノ精神ヲ涵養シ嘗艱忍難ノ気力ヲ換発セシメ、他日人ト成リ徴サレテ兵トナルニ於テハ其効果ノ著シキモノアラン」
森文相のこの考え方に基づき、師範学校の教育には全面的に軍隊式教育が取り入れられたが、また小学校、中学校にも「兵式体操」が採用されている。1886(明治19)年における諸学校令(「小学校令」「中学校令」など)が公布された。それによって我が国の全国の学校教育は厳格に統轄され、小・中学校等の制度の基礎も確立された(参考※9:「文部科学省HPの森文相と諸学校令の公布参照)。
学校行事のなかで、もっとも広く地域住民をまきこんで行われた小学校の運動会も、この翌・1887(明治20)年以降に各地で行われはじめた。初期の運動会は、「遠行運動」とも呼ばれ、分隊旗を立て二列に聯隊して、歩々足を整へて進み、目的地に向かい到着した場所で体操、 競争, 擬戦、,球なげなどさまざまな競技を行うものであった。当時は、このよ う な遠足と運動会の内容を併せ持った行事を運動会と称する場合も少なく なかったようである。学校儀式をとおして国家意識の形成をめざした森有礼は、身体活動を重視し、中学校・師範学校で兵式体操を推進したが、初期の運動会も軍隊の行軍や演習をモデルとして開始され、その娯楽性から小学校にも急速に広まり、多くの参観者を集めたようだ。当時の実施形態には 学校の単独開催や地域の各小学校の合同開催の他, 運動会の萌芽期にあっては、こう した小学校のみの合同という形態はそれほど多くなく、地域の県立学校と小学校が合同で実施したりするケースが多かったようである。
スポーツライター・玉木正之氏の公式WEBサイト(※10)の、タマキの蔵出しコラム・音楽編日本人の遊び心には、以下のように書いてある。
森文部大臣は、横浜の外国人租界地で行われた陸上競技会を見物して体育教育に有効と判断し、全国の小中学校で運動会を催すよう訓令を発したのだった。
しかし、命令を出された方は、大いに困惑した。なにしろ教育制度が定まったばかりの時代だから、運動場なんていう施設はなかった。困った学校関係者は、いくつかの学校で話し合い、合同で神社や寺の境内を借りて運動会を開催することを考えた。ただし、場所を借りるためには、氏子や檀家という神社やお寺と関わりのある地域の人々の許可が必要になる。そのため、生徒がただ競走するだけでなく、氏子や檀家も一緒に参加してもらおうということで、彼らが参加できるような競技を考える必要が生じた。今でいうなら「住民参加」である。そして考え出されたのが、どんな人でも楽しめる娯楽性の高いパン食い競走や大玉転がし(中には、ブタ追い競走というのもあった)だった。
さらに、どうせ神社やお寺でイベントを行うなら、夏祭りや秋祭りも一緒にしてしまおう、ということになり、中央に櫓を組み、盆踊りや豊年満作踊りなども運動会でするようになった。これがフォークダンスのルーツである。つまり、運動会は、参加するすべての人々のためのお祭りだったのである。また、運動会の会場が家から離れている場合が多いということもあって、遠足という要素も混じった。そして、お弁当を作るという習慣ができたのである。
では、騎馬戦や棒倒しはどうして始まっただろうか?
それは、国会が無かった時代に国会を開くことや憲法を作ることを主張した政治運動=自由民権運動がルーツであった。当時は政府の力が強く、自由民権運動が激しく弾圧された時代で、政府に反対する自由民権の志士たちは、意見を堂々と言うことができず、街中で演説することもデモ行進をすることも集会を開くことも法律で禁止されていた。
そこで、自由民権運動の壮士たちは、自分たちの主張をどのようにして聞いてもらおうかと考え、運動会に目をつけた。「最近流行の運動会をするのなら、演説でもないし、デモでもないから弾圧されないだろう」と。そして、「壮士運動会」と称するイベントを開催し、そこで「政権争奪騎馬戦」「圧政棒倒し」「自由の旗奪い合い」といった競技を創り出した。騎馬戦は、だれが政治のリーダーになるかを競う姿をゲームにしたものであり、棒倒しは当時の政府を倒す意味をこめて棒を倒すものだった。つまり、すべては競技にまぎれて彼らの言い分を国民に聞いてもらうためのものだった。
さらに、その合間にデモを行い、「議会をつくれ」「政府反対」とか言いながら、民選議会(国会)の設立を訴えたり(民撰議院設立建白書参照)、薩長藩閥内閣の打倒を叫んだりした。そのデモンストレーションが、のちに仮装行列に変わったのである。
それら2種類の運動会が混ざり合い、現在の運動会に発展した。運動会は、日本人の豊かな遊び心が創りあげたものなのである。
ちなみに、「玉入れれ」はバスケットボールを、「障害物競走」はイギリス発祥の乗馬障害レースをアレンジしたものである。また、「綱引き」は、豊作や豊漁を祝うための地域行事が形を変えた種目だった。
それら二種類の運動会が混ざり合い、現在の運動会に発展したのだが、この運動会の歴史は、日本人の豊かな遊び心が創りあげたもの、といえるのである。」・・・と。
確かに日本の運動会は楽しい。しかし、私が中学校の時、中学校は有馬男爵邸跡地に建てられた木造校舎であったが自慢は校舎の周りの大庭園であった。庭園には小川が流れ四季の花々が咲き、春などは、桜の木のある小川の前で弁当を食べるのが本当に楽しかった。しかし、立派な庭園がある代わりに、運動場が狭すぎて、授業での体育ぐらいはできても運動会などできなくて、運動会は、市民球場を借り上げてしていたが、運動会の種目には一般でしているような楽しめる種目はなく、やり投げや円盤投げ、走り幅跳びといったまるで、国体か、オリンピックをしているようなスポーツ競技であった。当時、神戸の市立中学ではモデル校としていろいろ他校の先生たちがしょっちゅう参観に来ていた学校ではあるが、運動会が面白くなかったことだけはいまだによく覚えている。
この一般の楽しい運動会、企業でも、親睦を深めるために行っており、私が現役の若いころには、和気あいあいと楽しみ盛んであったが、年代を重ねて後半には、社員旅行と同様、に近ごろの若者には、「自分の時間を大切にしたい」と参加をしたがらないものが多くなり、自由参加の形にしていると、半数近くは不参加という感じであった。
先に述べた「ニュースウォッチ9」の報道の中では、ナレーションで
「日本の運動会は、必ずしも体力の優劣を競う場ではありません。」
「学校だけでなく、地域ぐるみで行われ、世代を超えた交流の場でもありました。」・・・と、過去形で話しているのが実にさみしい。阪神・淡路大震災や、東日本大震災、はたまた、幼児殺しの犯罪や、ストーカー事件などがあると、地域の絆が言われるが、基本的に、今の時代は自己中心主義が広まっており、人と人との接触を嫌っている。今の時代の犬や猫などの異常なほどのペットブームもそのようなところから生まれた孤独感から起こっているものだろう。
それとナレーションで「日本の運動会は、必ずしも体力の優劣を競う場ではありません。」・・と言っていることについては、小学校や、中学校・高等学校、および特別支援学校などの運動会は、学習指導要領における「特別活動」であるが、以下参考の※11:「「運動会」を通して育てる力 - 教育委員会」には、「学習指導要領では、運動会は、特別活動の学校行事「健康安全・体育的行事」に位置づけられています。その内容は「心身の健全な発達や健康の保持増進などについての関心を高め,安全な行動や規律ある集団行動の体得,運動に親しむ態度の育成,責任感や連帯感の涵養,体力の向上などに資するような活動を行うこと。」とあります。これをふまえて、「運動会」という行事を考えてみると、勝つために全力を尽くす。
全力でがんばる力、団結力・連帯感、体力の向上、フェアプレーの精神、勝敗への正しい態度等「集団で勝敗を競う体育的行事」であるのですから、ぜひ勝敗にこだわってほしいと思います。」・・・と書かれている。
2012年ロンドンオリンピックで、日本中が感動したのは、サッカーにしろ、バレーボールにしろ、勝利を目指してあきらめずに全力で戦う選手達の姿に対してである。勝負よりも参加することに意義があるという姿勢で選手がのぞんでいたらあれほどの感動は無いだろうと思う。運動会でも同様で、他色には絶対に勝つ、○組には絶対に負けない、という強い気持ちがあるからこそ、全力で走り、力を出し切ることができるし、運動会前の練習にも真剣に取り組むことができる。
フェアプレーの精神は大事だが、勝負をする以上勝つための努力をしない限り.成長はないだろう。その結果負けても、学ぶことは多いはずである。私もそう思うのだが・・・。
参考:
※1:NHKオンラインー.NW9-ニュースウオッチ9そのニュース、核心はどこだ。
http://www9.nhk.or.jp/nw9/
※2:世界へ輸出 日本の“UNDOKAI(運動会)” - NHK 特集まるごと
http://www9.nhk.or.jp/nw9/marugoto/2015/02/0224.html
※3:JAPAN SPORT COUNCIL 日本スポーツ振興センター
http://www.jpnsport.go.jp/
※4:運動会屋
http://www.udkya.com/
※5:海軍兵学寮の競闘遊戯会に関する一考察 - J-Stage(Adobe PDF)
https://www.jstage.jst.go.jp/article/kyoiku1932/63/2/63_2_129/_pdf
※6:横須賀製鉄所(造船所)特集ページ|横須賀市
https://www.city.yokosuka.kanagawa.jp/0130/seitetsuzyo/main.html
※7:小学校の運動会に関する史的考察(Adobe PDF) - htmlで見る
https://dspace.wul.waseda.ac.jp/dspace/bitstream/2065/5902/1/KJ00004251338.pdf#search='%E9%81%8B%E5%8B%95%E4%BC%9A+%E8%B5%B7%E6%BA%90'
※8:体操伝習所 - 筑波大学附属図書館(Adobe PDF)
https://www.tulips.tsukuba.ac.jp/exhibition/shintai-to-yugi/catalog.pdf#search='%E7%AD%91%E6%B3%A2%E5%A4%A7%E5%AD%A6+++%E3%81%93%E3%81%93%E3%81%A7%E3%81%AF%E3%80%81%E4%BD%93%E6%93%8D%E6%89%80%E3%81%AB%E6%9C%B1%E7%AD%86%E3%81%A7%E3%80%8C%E4%BC%9D%E7%BF%92%E3%80%8D%E3%81%AE%E4%BA%8C%E5%AD%97%E3%82%92%E6%9B%B8%E3%81%8D%E5%8A%A0%E3%81%88%E3%80%8C%E4%BD%93%E6%93%8D%E4%BC%9D%E7%BF%92%E6%89%80%E3%80%8D%E3%81%A8%E8%A8%82%E6%AD%A3%E3%81%97%E3%81%9F'
※9:文部科学省ホームページ
http://www.mext.go.jp/
※10:玉木正之公式WEBサイト
http://www.tamakimasayuki.com/index.htm
※11:「運動会」を通して育てる力 - 教育委員会(Adobe PDF)
http://www.sch.kawaguchi.saitama.jp/aokikita-e/tusinkoutyou/tusin14.pdf#search='%E5%AD%A6%E7%BF%92%E6%8C%87%E5%B0%8E%E8%A6%81%E9%A0%98++%E9%81%8B%E5%8B%95%E4%BC%9A'
運動会ー Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%8B%E5%8B%95%E4%BC%9A