奈良時代も終焉を迎えようとしていた延暦13年(794年)、都は奈良から京都(長岡京)へ移った。平安時代の始まりである。同時に仏教界にも新しい胎動が起る。
平安時代になって新しい仏教(平安仏教)のあり方を切り開いた人物として挙げられるのが、遷都10年後の、延暦23年3月28日(新暦804年5月11日)、桓武天皇の命を受けた遣唐大使・藤原葛野麻呂の遣唐船に乗り、唐へ渡り、大陸の新知識を持ち帰った2人の僧最澄と空海である。
最澄は、天台山へ赴き湛然の弟子の道邃等について天台教学を学び、さらに禅や、密教(順暁から)をも相承し、翌・延暦24年(805年)5月、帰路の途中和田岬(神戸市)に上陸し、最初の密教教化霊場である能福護国密寺を開創している。翌・大同元年(806年)1月には、上表(君主に意見書を奉ること。)により日本に天台宗を開宗。
もう1人の、留学生(るがくしょう。留学期間20年の予定)空海は、大使の一行とともに長安に向かう。
しかし、空海の乗った第1船(最澄は第2船)は、途中で嵐にあい大きく航路を逸れて延暦23年(804年)8月10日、福州長渓県赤岸鎮(現在の福州市から北へ約250キロに位置する海岸)に漂着。海賊の嫌疑をかけられ、長安に入れたのは、12月23日のことだったという。
長安では、寄宿先の西明寺を訪れた後、空海が、まず最初に師事したのは、醴泉寺(れいせんじ).の印度僧般若三蔵(原名:プラジャニャー。般若は漢名。※4及び三蔵も参照)であった。ここでは、密教を学ぶために約43ヶ月近い時間を必須の梵語(サンスクリット)に磨きをかけたものと考えられている。空海はこの般若三蔵から梵語の経本や新訳経典を与えられている。
そして、5月になると空海は、密教の第七祖である青龍寺で、不空の弟子に当たる恵果を訪ね、以降約半年にわたって師事し、密教の奥旨(おうし。奥義)を受けると、大同元年(806年)10月、在唐2年余の短期で帰国し大宰府に滞在する。
空海は、10月22日付で朝廷に『請来目録』(唐から請来した典籍・物品の目録。※5参照))を提出。唐から空海が持ち帰ったものは『請来目録』によれば、多数の経典類(新訳の経論[〘仏〙 仏の教えを記した経と、経の注釈書である論]等216部461巻)、両部大曼荼羅、祖師図、密教法具、阿闍梨付属物等々膨大なものであったという。当然、この目録に載っていない私的なものも別に数多くあったと考えられている。ただ、空海は、帰国後2年ほどは大宰府・観世音寺に止住している。これを、20年の留学を2年で切り上げた「闕期(けっき)の罪」による謹慎蟄居とする説もあるようだが、この年3月、桓武天皇が崩御し、平城天皇が即位しているのをみると、実際は、桓武天皇の崩御にともなう京の政情不安や、先に帰国した最澄の動きを見極める。又、密教理論を整理し日本の風土に合ったものに再構築する作業などに時間を必要としたのではないかとする説もあるようだ。
最澄に期待をかけて派遣した桓武天皇だが、最澄の帰国後半年余りで亡くなったことから、天台を中心とした新しい仏教を日本に根付かせようとした最澄は、最も重要な保護者を失うこととなった。そのため、その後は、比叡山を天台宗の拠点にして延暦寺の充実に努めた。しかし、当時、国家の統制のもとで、僧の身分を認可する権限は朝廷と結びついた南都の寺院勢力が握っており、最澄が新しい仏教の権威を高めるための公的な僧としての身分を認可する施設としての戒壇を天台宗として新設することを望んでも、それは、仏教に対する政策の基本を揺るがすものであるため南都の大寺院の反対が激しく天台僧のたび重なる要求が認められたのは、最澄の没後のことであった。
桓武天皇の後、平安時代初頭の政治は不安定な状態が続いたが、治世が短期に終わった平城天皇の後を継いで即位した嵯峨天皇は、中国の文化に対する強い関心を抱き、唐風を重んじていたこともあり、空海は、儒学の修学から転じて仏教に入り多彩な知識を持っていたことから、密教ばかりでなく詩文や書などの面でも天皇に重んじられることとなる。
空海は、南都の仏教勢力とも協調的な立場をとり、東大寺に真言院(※6参照)を建てるなど大寺院に入り込む形で、密教を広めていった(薬子の変も参照)。空海は、はじめ和気氏の私寺であった高雄山寺(神護寺)を真言宗の拠点としたが、後、平安京羅城門の東に建てられた東寺(公称は「教王護国寺」)を委ねられ、ここを中心に、多彩な活動を繰り広げた。また、東大寺や大安寺の中心的立場に立ち、弘仁7年(816年)には、修禅(座禅や観法を修めること。修禅定)の道場として高野山の下賜を請い同年、下賜する旨勅許を賜り、翌・弘仁8年(817年)、高野山の開創に着手。弘仁10年(819年)春には七里四方に結界を結び、伽藍建立に着手した。弘仁14年(823年)正月には、東寺を賜り、真言密教の道場とした。
後に天台宗の密教を台密、対して東寺の密教を東密と呼ぶようになり、その後、真言密教の根本道場として栄えた。
空海は、承和2年(835年)2月30日に高野山・金剛峯寺が定額寺となった直後の、3月15日、高野山奥の院で弟子達に遺告(原文※7 、現代語訳は※8 参照)を与えた上、3月21日に入定したが、都から遠いこの山は、当時、人々の往来も少なく、真言宗の中心として大きな力を持っていた京都の東寺の支配下に属していた。
ところが、平安時代の中期に入る頃から、空海の入定に対する信仰が広まり、弘法大師信仰が広く受け入れられるようになると、高野詣でが盛んになり、藤原道長・頼通、白川・鳥羽・後白河三上皇をはじめ参詣者が跡を絶たないありさまとなった。
高野山には荘園が寄贈され、山上の平地ばかりではなく、谷々に僧坊や草庵が建てられ、別所もつくられるようになった。とはいえ、比叡山に比すべくも無いが、高野山も複雑な組織を持つ大寺院に発展し、中世に入るとさらに、庶民の信仰を集め、高野聖が諸国を巡るようになった。
最澄は、近江国(滋賀県)滋賀郡古市郷(現在の大津市)に住む、後漢の考献帝の末裔(真偽は不明)である三津首 百枝(みつのおびともえ)の子として、生まれ、幼名を「広野(ひろの)」といった。生年に関しては天平神護2年(766年)とする説があるようだから、年代等は以降これを基準とする。
宝亀9年(778年)、少年広野は12才のとき近江の国分寺に入って仏教を学び始め。行表を師として出家した。宝亀11年(780年)、14歳のとき国分寺僧補欠として11月12日に得度し、名を最澄と改め、延暦2年(783年)、17歳のとき正式な僧侶の証明である度縁の交付を受ける。
延暦4年(785年)、19 才のとき南都に赴いて、東大寺の戒壇院で具足戒を受け国家公認の僧となった。ところが、間もない同年7月、最長は、飄然と故郷に帰り比叡山に登って、思索と山林修行の生活に入ってしまった。
そして、延暦7年(788年)、22歳の時、南都仏教に見切りをつけ山上の倒木を切って薬師如来を刻みそれを本尊とする草庵、一乗止観院(現在の総本堂・根本中堂)を創建してそれを比叡山寺と名付けた。
以後十数年にわたる修行が続き、延暦21年(802年)36歳の時、高雄山寺(神護寺)で開かれた法華経を解く講和(法華会)で自説を発表した最長は、桓武天皇に知られるところとなり、新進の学僧として認められ、その年に決まった遣唐使の一行の還学生(げんがくしょう、短期留学生)に選ばれ、入唐することになったのであった。
平安仏教の開幕に主役として登場したもう一方の空海は、一般的には、現・香川県である讃岐国多度郡弘田郷(現在の善通寺市弘田町)でこの土地の郡司である、父佐伯直田公(さえきのあたいたぎみ)の子として宝亀5年(774年)に生まれた。母は氏族である阿刀氏出身の阿刀大足の娘(阿古屋)。幼名は真魚(まお)とされている。
しかし、この時代は妻問婚の時代であり、幼年期は母の里で過ごしたものと思われ、生誕地を阿刀氏(阿刀宿禰)の本貫地(一所懸命の土地)、河内國渋川郡跡部郷(阿刀郷)とする説がある(※1、※2のもうひとつの空海伝 まえがき 参照)。
真言宗の伝承では空海の誕生日を6月15日とするが、これは中国密教の大成者である不空三蔵の入滅の日であり、空海が不空の生まれ変わりとする伝承によるもので、正確な誕生日は不明だそうである。
延暦7年(788年)平城京に上り、母型の叔父である中央佐伯氏の佐伯今毛人が建てた氏寺の佐伯院(※3のここ参照)に滞在。延暦8年(789年)、15歳で桓武天皇の皇子伊予親王の家庭教師であった母方の舅である阿刀大足について儒学を学ぶなど、真魚は佐伯一族の期待を一身に受け、非常に高い教育を受けていたようだ。
そして、延暦11年(792年)、18歳で、大学寮(正式には「平城京式部省大学寮」という)に進んで、律令国家のしくみや法令を学ぶべく、律令官人の学問の中心の科目明経道を修めた。ここでは、中国の律令『周易』『尚書』『三礼』『毛詩』(詩経の異称)、『春秋左氏伝』『孝経』『論語』などの注釈をひたすら暗記し、抜群の記憶力をもつ真魚はこの程度の内容に飽き足らず、『文選』などの詩文にも手を出し、浄村浄豊(阿刀大足とともに伊予親王の侍講師)らから唐語(からことば)会話を学び、臨書(手本とそっくりに書くこと。書道)にも親しんだという。
大学寮は、律令制で式部省に属する官吏養成機関であり、国家の経営に役立つ優秀な官僚を育成するのが役割だった。真魚は、そんな大学で明経道科に席をおいていた。明経科は特に上級官吏の養成機関と言えるもので、入学を許可された学生はほとんどが五位以上の高級官吏か貴族の子弟であった。
真魚の父佐伯直田公は、讃岐国多度郡の郡司で、無冠ではあったものの、佐伯氏は豪族の大伴氏と同族関係とされている。また、伯父の阿刀大足が従五位下だったのと、伊予親王の侍講だったので、その口ききで大学にも入学できたようだ。
そんな、真魚が大学在学中に、一人の沙門に会って以来、突然、将来を約束された高級官僚への道を断ち、わずか1年で大学を去り、乞食同然の私度僧(律令制下、定められた官許を受けることなく出家した僧尼。得度参照)となって“山林出家”の道に飛び込んでゆくのである。
ここで気づくのは、平安仏教を切り開いた二人の主役最澄・空海がいずれも、奈良の都や大和の平地に甍(いらか)を競う大寺院の僧坊に籠らず、それまでに築き上げたすべてを、投げうって山林出家をしたことである。つまり、ドロップアウトしているのである。
最澄は僧侶になって間もなく、法華経などの研究に没頭し、比叡山にこもってしまったが、空海も大学を離れ、すべてを投げ打って山に籠り、仏教の厳しい修行に入っている。そしてその間の体験によって797年、24歳のとき,『聾瞽指帰(ろうこしいき)』(後に『三教指帰(さんごうしいき)』として書き改められている。※9のここ参照)を著し、入唐(にっとう)直前31歳の時に東大寺戒壇院で得度受戒し、最澄らと共に遣唐使に従って留学するのだが・・・・・(得度時期は数節あるようだがもっとも一般的な事例に従っている)。
最澄はこの時期すでに天皇の護持僧である内供奉十禅師の一人に任命されており、当時の仏教界に確固たる地位を築いていたが、入唐直前までまったく無名の一私度僧であった空海(真魚)が突然留学僧として浮上する過程は、資料(史料)も少なく、断片的で不明な点が多く、今日なお謎を残しているようだ。それにしても、空海(真魚)に絶大な期待をよせていた両親や一族の落胆はいかばかりであったろうか。
若い時代の空海を知る上で信頼できる資料(史料)としては、後日『聾瞽指帰』を書き改めたと考えられる『三教指帰』に頼らざるを得ないだろう。『三教指帰』の内容は序と上,中,下に分かれる。草稿本の『聾瞽指帰』とは序文と巻末の部分が違うようで、この部分は、表題を変更した際、改編・加筆したもののようで、或いは真実ではないところがあるかもしれない。
序文では自伝を述べ、出家を宣言する。ある修行僧より虚空蔵求聞持法求聞持法を教示され、 阿波の大滝嶽(現在の太竜寺山付近)や土佐の室戸岬、吉野の金峰山、伊予の石鎚山などで山林修行を重ねて効験を得たとある。
“蛭牙公子(しつがこうし)という芳醇な青年貴族がいた。遊び暮らしている公子の保護者の兎角公(とかくこう)は、公子の将来を案じて儒客の亀毛先生(きぼう)先生を招き、公子の教導を乞うた。亀毛先生の教えはまことにもっともで、公子は先生の教えに従おうとする。ところがたまたまその席にいた虚亡隠士(きょぼういんし)が、先生の教えに反駁(はんぱく。他人の主張や批判に対して論じ返すこと。反論)し、老荘の道こそ心理であると説いたので、同席の者は皆隠士をほめ讃えた。するとそこに仮名乞児(かめいこつじ)があらわれ、仏教が究極の教えであることを述べたので、人々はその教えに心服し、公子はその言葉を信じて仏道に入る。”
これが上,中,下に分かれる『三教指帰』の粗筋である。蛭の牙や兎の角はありえないものであるから、登場人物はすべて架空であることはすぐわかるが、儒教の立身出世の道を説く儒教学者亀毛先生は、空海の叔父阿刀大足をモデルとしているようだ。また、仮名乞児は空海の自画像と思われる。
当時仏教は、先進的な外来文化として受け入れられたから、僧はひたすら仏典の解読に務め、儀礼(礼に関する儒教の経書のひとつ)の修得に励むべきものと考えられていた。専門的に仏教を学ぶ僧にとって、仏教は疑う余地のないものであって、仏教を儒教・老荘思想(老荘思想が最上の物とするのは「道」であるが、道教とした時期もあった。道教の概要のところを参照)などと比較し、その目的とする所がどのように違っているのかを考えることはまれであった。しかし、空海は、儒教・道教・仏教の三教を比較検討して、仏教の教えが最善であるとして、仏教を選び取った。
仏教が日本に伝えられて2世紀(仏教伝来は、日本書紀によると552年。元興寺縁起などでは538年。仏教公伝参照)が過ぎて、仏教とはなにか、僧は如何にあるべきかといった問題が、日本の僧として考えなければならない問題として浮かびあがってきたのである。
しかし、平安時代初期における空海、嵯峨天皇、橘逸勢のいわゆる三筆時代(平安時代の能書のうちで最もすぐれた3人)には、まだあげて漢詩文旺盛の中国崇拝が基本的精神であったから、自然に流出する日本的なものは別として、三蹟時代のような和やかな和様は発達しておらず、日本語はまだ十分に確立されていなかった。
当時、仮名はまだなく、経の読み方も漢音か呉音か定まっていなかったのだ。その中で、空海は、既に、唐語と梵語をマスターするとともに、大学で習った中国の経書類の『注』の多くを占めていた後漢の儒者・鄭玄の訓詁学(解釈学)も同時に飲み込んでいた。つまり、漢籍の思想の内容を研究するだけではなく、暗記し大意をつかんでいた。空海はひとつの武器「言語の力」を持っていたのだ。
そのような彼の思索力や構想力、 いわば「考える知」「まとめる知」の成果が、この時期大きく成長していたからこそ、その知がいかんなく発揮され、四六駢儷体(駢文参照)が華麗に飛び交うレーゼドラマ『三教指帰』が出来上がったのだろう。徹底的にカリカチュアした登場人物をユーモラスに動かしながら、儒教・道教・仏教を比較し、仏教の優位性を浮かび上がらせている。文中には故事が数限りなく引用され、膨大な漢詩漢文と仏教経典の集積のもとに作品は成り立っている本書は、若い空海が戯曲のような構成で書いた思想批判の書であり、わが国漢文学史上の白眉(はくび)とされている(※10参照)。
そもそも空海が奈良に来て注目したのは華厳経(『大方広仏華厳経』)であったという。しかし当時の華厳経は、東大寺(総国分寺=全国に置かれた国分寺を総轄した 寺)の中心経典のようなものであったが、その教理をあきらかにできる学僧を欠いていた。
空海が華厳の教理にめざめるのは長安で般若三蔵らに出会えてからである。けれども空海は、早くから華厳の世界観には注目していたようで、この予測こそ鋭かった。
ほかにも空海が注目したものが雑密(ぞうみつ)で、のちに純密と区別して中国から流れこんできた雑多な初期密教経典のことをいう(密教参照)。そもそも東大寺の別当となった良弁(ろうべん)がこの雑密の修行者だった。空海はそのことを知って、華厳と密教はどこかでつながりがあるにちがいないと察知したにちがいない。
そこへ持ってきて、このころの日本の仏教は、奈良末期の混乱のなかでひたすら威信にすがったり、いたずらに快楽や安寧を求めるだけのものになっていて、とうてい「意識の高次化」などを構想するべきプログラムもなく、また、そのような修行を体験させる場もなくなっていた。
それに、政治の舞台も平城京から長岡京に移り、さらに山城(山背)の平安京に移転しようとしていた。そこへもってきて、あの大伴家持が失脚した。大伴氏は佐伯氏とともにコトダマ(言霊)一族につらなる名家で、互いにトモ氏・サヘキ氏とよびあう仲であった(※8のここ照)。
そのトモの首領の家持が左遷させられた。これはおちおちなどしていられない。
一方、大学では、明経科の学生に呉音を禁じて漢音だけを使うようにという強い指示が出た。言葉に敏感な空海には、これは何かの大きな変化の前触れに見えた。さらに青年たちが奈良を離れて山林に修行しているという動きが目立ってきた。、なかでも、最澄という青年僧が山城の鬼門にあたる比叡の山中に一乗止観院(延暦寺の古称)という庵を組んだことは無視できない。
この様なことを考えると、何も窮屈で貧弱な大学や宮都にとどまっている必要はない。若き空海が山林修行に賭けたのは、こうした旧仏教との決別の方法だったようだ。
空海はめぼしい情報を集め、大安寺の戒明や三論宗の勤操を訪ねて、時代の変化や仏教の行方を組み立てる。けれど、そういうことをしても埒はあきそうもない・・・ということで、ついに空海はドロップアウトを決意し、大学を捨て、山林に飛びこむことにしたようだ。
そんな中、堕落した奈良の都から、京都に都を遷した桓武天皇も、新しい宗教とスターが必要だと考えていた。そこで、比叡山にいた最澄の噂を聞きつけるや、朝廷の重要な役職に任命し、天台宗を開く事を認めた。一度、ドロップアウトした最澄が、再び主流に戻ってきたのであった。
そして、それぞれ厳しい仏教修行を重ねた最澄と空海の二人が、やがて共通の思いを抱き、唐に行くことを決意した。
当時の唐は様々な文化の最先端であり、日本は遣唐使を通じて、新しい仏教を学んでいた。日本にいただけでは仏教を極めるのに限界を感じた最澄と空海。これまで接点のなかった二人が、奇しくも同じ遣唐使の一員として唐へ向かうことになった。延暦23年(804年)、最澄38歳、空海31歳の時である。
この頃、桓武天皇に認められていた最澄は、旅費もすべて無料、しかも通訳付きの特別待遇の還学生(げんがくしょう=1年ほどで日本へ帰ってくることが出来る学生)であったが、一方、まだ無名だった空海は、長期滞在が義務づけられたその他大勢の留学僧(20年間は「日本へ帰ってくることが出来ない学生」だった。そんな空海が、長期間の留学費用をどのように調達したのかは、今だに謎に包まれているという。
しかし、その空海は、2年あまりの期間で、当時最先端の「密教」を最高権威の僧侶より教授できたのは、先にも書いた彼のたぐいまれなる語学力によるところであった。そして、密教の教典や曼荼羅などのお宝を持って帰ってくるという驚異的な活躍を見せた。
一方の最澄は視察目的の短期留学僧であったため、当時主流だった天台宗の奥義をマスターしたものの、当時流行の密教に関しては、不完全なまま1年足らずで返ってきた。
二人が帰国後、最澄を信任していた桓武天皇が亡くなり、嵯峨天皇が即位すると、嵯峨天皇は、当時流行していた密教をマスターした空海に、仏教で国家を護る役目を任せることにした。その名を天下に広めた空海は、エリート最澄に、ついに並んだのである。
このようにして、新しい課題に正面から取り組んだのが最澄と空海であった。最澄は平安時代の日本に最も必要な仏教はいかなる仏教であり、僧は如何にあるべきかを考え、高い理想を追い続けた。また空海は、当時の日本にあった学問・思想の中で、仏教こそあらゆるものを包み込むことのできるものであると考え、その教えとして密教を宣揚(専用。広く世の中にはっきりと示すこと)した。
外来の思想・宗教である仏教は平安時代に入って、宗教としての性格を強め、世俗の世界に対して、高い権威を主張するようになった。そしてこの仏教はその拠点を都とその周辺にではなく山に築くようになった。
山は神祇信仰の神域であったから、山に入った修行者は土着の雑多な信仰と接し、それを組み込むことによって日本における仏教の位置を考えようとした。こうして仏教は日本化してゆくための模索が始まった。
最澄や空海が山中に築いた仏の世界は、それが多くの堂塔(寺院参照)を持つ寺院として出現した時、当初の願いや構想から外れた道を歩み始めた。
山中の寺院は複雑な組織に発展しその維持と管理を巡る争いは寺院の内部を世俗化させて行った。又、貴族が仏教と多面的なつながりを持つようになると、都の周辺には、貴族の私寺が次々に建てられ、日本化した仏教と結びついた貴族文化が生まれることになった。
さて、寺院が複雑な組織を持つようになると、僧の間でも階層の文化が始まり、さらに学統や法流などによってさまざまな流派ができて、勢力争いが日常化した。また、寺院の中には武装した集団も現れて、寺内の争いは、俗世間の権力争いと結びつき、大臣の動向は政治の帰趨に係るようになった。世俗的な争いに明け暮れる僧が増える一方、そうした寺院の外では修業に務め、人々を救うために活動する僧が多くなっていった。
山と寺と、そこで活動する僧を支えていたのは貴族社会であったが、貴族たちが仏教に求めたのは、先ず第一に、国家の安泰と五穀の豊穣であった。また、仏教の呪的な力に期待して、大寺院の僧に、反乱の鎮定や怨霊の調伏、祈雨や止雨の祈祷を求め、更に個人的な病気の平癒や安産などの祈りを求めた。
貴族社会の停滞が明らかになり、貴族たちの間に現世に対する不安が強くなると、それに応じて浄土への往生を説く僧があらわれた。
現世的なものの考え方をしていた貴族の間に、來性への関心が生まれ、自己の救いを願う貴族は、内省的な個人意識を持つようになった。
そして、貴族社会で内省的な思想を生み出す力となった仏教は、民間で活躍するさまざまな宗教者の教えを引き付けながら鎌倉時代に入って新しい思想・宗教を生み出すことになる。
参考:
※1:国立会図書館貴重書展:展示No.9 〔新請来経等目録〕
http://www.ndl.go.jp/exhibit/50/html/catalog/c009-001-l.html
※2:重要文化財|弘法大師二十五箇条遺告|奈良国立博物館
http://www.narahaku.go.jp/collection/d-1122-0-1.html
※3:弘法大師空海 25箇条 御遺告
http://www1.plala.or.jp/eiji/GOYHUKOKU.htm
※4:密教伝承
http://www.h5.dion.ne.jp/~kame33/kame8.htm
※5:【空海に迫る(上)】空海「畿内生誕説」の根拠
http://www.sankei.com/west/news/140426/wst1404260082-n1.html
※6:奈良の寺社: 東大寺・真言院
http://narajisya.blog.eonet.jp/mahoroba/2007/04/post-5876.html
※7 ;吉野へようこそ
http://www.yasaka.org/
※8 :エンサイクロペディア:空海
http://www.mikkyo21f.gr.jp/
※9:高野山と弘法大師空海上人、真言密教
http://www.1-em.net/sampo/kukai/index_index.htm
※10:松岡正剛の千夜千冊『三教指帰・性霊集』
http://1000ya.isis.ne.jp/0750.html
平安時代になって新しい仏教(平安仏教)のあり方を切り開いた人物として挙げられるのが、遷都10年後の、延暦23年3月28日(新暦804年5月11日)、桓武天皇の命を受けた遣唐大使・藤原葛野麻呂の遣唐船に乗り、唐へ渡り、大陸の新知識を持ち帰った2人の僧最澄と空海である。
最澄は、天台山へ赴き湛然の弟子の道邃等について天台教学を学び、さらに禅や、密教(順暁から)をも相承し、翌・延暦24年(805年)5月、帰路の途中和田岬(神戸市)に上陸し、最初の密教教化霊場である能福護国密寺を開創している。翌・大同元年(806年)1月には、上表(君主に意見書を奉ること。)により日本に天台宗を開宗。
もう1人の、留学生(るがくしょう。留学期間20年の予定)空海は、大使の一行とともに長安に向かう。
しかし、空海の乗った第1船(最澄は第2船)は、途中で嵐にあい大きく航路を逸れて延暦23年(804年)8月10日、福州長渓県赤岸鎮(現在の福州市から北へ約250キロに位置する海岸)に漂着。海賊の嫌疑をかけられ、長安に入れたのは、12月23日のことだったという。
長安では、寄宿先の西明寺を訪れた後、空海が、まず最初に師事したのは、醴泉寺(れいせんじ).の印度僧般若三蔵(原名:プラジャニャー。般若は漢名。※4及び三蔵も参照)であった。ここでは、密教を学ぶために約43ヶ月近い時間を必須の梵語(サンスクリット)に磨きをかけたものと考えられている。空海はこの般若三蔵から梵語の経本や新訳経典を与えられている。
そして、5月になると空海は、密教の第七祖である青龍寺で、不空の弟子に当たる恵果を訪ね、以降約半年にわたって師事し、密教の奥旨(おうし。奥義)を受けると、大同元年(806年)10月、在唐2年余の短期で帰国し大宰府に滞在する。
空海は、10月22日付で朝廷に『請来目録』(唐から請来した典籍・物品の目録。※5参照))を提出。唐から空海が持ち帰ったものは『請来目録』によれば、多数の経典類(新訳の経論[〘仏〙 仏の教えを記した経と、経の注釈書である論]等216部461巻)、両部大曼荼羅、祖師図、密教法具、阿闍梨付属物等々膨大なものであったという。当然、この目録に載っていない私的なものも別に数多くあったと考えられている。ただ、空海は、帰国後2年ほどは大宰府・観世音寺に止住している。これを、20年の留学を2年で切り上げた「闕期(けっき)の罪」による謹慎蟄居とする説もあるようだが、この年3月、桓武天皇が崩御し、平城天皇が即位しているのをみると、実際は、桓武天皇の崩御にともなう京の政情不安や、先に帰国した最澄の動きを見極める。又、密教理論を整理し日本の風土に合ったものに再構築する作業などに時間を必要としたのではないかとする説もあるようだ。
最澄に期待をかけて派遣した桓武天皇だが、最澄の帰国後半年余りで亡くなったことから、天台を中心とした新しい仏教を日本に根付かせようとした最澄は、最も重要な保護者を失うこととなった。そのため、その後は、比叡山を天台宗の拠点にして延暦寺の充実に努めた。しかし、当時、国家の統制のもとで、僧の身分を認可する権限は朝廷と結びついた南都の寺院勢力が握っており、最澄が新しい仏教の権威を高めるための公的な僧としての身分を認可する施設としての戒壇を天台宗として新設することを望んでも、それは、仏教に対する政策の基本を揺るがすものであるため南都の大寺院の反対が激しく天台僧のたび重なる要求が認められたのは、最澄の没後のことであった。
桓武天皇の後、平安時代初頭の政治は不安定な状態が続いたが、治世が短期に終わった平城天皇の後を継いで即位した嵯峨天皇は、中国の文化に対する強い関心を抱き、唐風を重んじていたこともあり、空海は、儒学の修学から転じて仏教に入り多彩な知識を持っていたことから、密教ばかりでなく詩文や書などの面でも天皇に重んじられることとなる。
空海は、南都の仏教勢力とも協調的な立場をとり、東大寺に真言院(※6参照)を建てるなど大寺院に入り込む形で、密教を広めていった(薬子の変も参照)。空海は、はじめ和気氏の私寺であった高雄山寺(神護寺)を真言宗の拠点としたが、後、平安京羅城門の東に建てられた東寺(公称は「教王護国寺」)を委ねられ、ここを中心に、多彩な活動を繰り広げた。また、東大寺や大安寺の中心的立場に立ち、弘仁7年(816年)には、修禅(座禅や観法を修めること。修禅定)の道場として高野山の下賜を請い同年、下賜する旨勅許を賜り、翌・弘仁8年(817年)、高野山の開創に着手。弘仁10年(819年)春には七里四方に結界を結び、伽藍建立に着手した。弘仁14年(823年)正月には、東寺を賜り、真言密教の道場とした。
後に天台宗の密教を台密、対して東寺の密教を東密と呼ぶようになり、その後、真言密教の根本道場として栄えた。
空海は、承和2年(835年)2月30日に高野山・金剛峯寺が定額寺となった直後の、3月15日、高野山奥の院で弟子達に遺告(原文※7 、現代語訳は※8 参照)を与えた上、3月21日に入定したが、都から遠いこの山は、当時、人々の往来も少なく、真言宗の中心として大きな力を持っていた京都の東寺の支配下に属していた。
ところが、平安時代の中期に入る頃から、空海の入定に対する信仰が広まり、弘法大師信仰が広く受け入れられるようになると、高野詣でが盛んになり、藤原道長・頼通、白川・鳥羽・後白河三上皇をはじめ参詣者が跡を絶たないありさまとなった。
高野山には荘園が寄贈され、山上の平地ばかりではなく、谷々に僧坊や草庵が建てられ、別所もつくられるようになった。とはいえ、比叡山に比すべくも無いが、高野山も複雑な組織を持つ大寺院に発展し、中世に入るとさらに、庶民の信仰を集め、高野聖が諸国を巡るようになった。
最澄は、近江国(滋賀県)滋賀郡古市郷(現在の大津市)に住む、後漢の考献帝の末裔(真偽は不明)である三津首 百枝(みつのおびともえ)の子として、生まれ、幼名を「広野(ひろの)」といった。生年に関しては天平神護2年(766年)とする説があるようだから、年代等は以降これを基準とする。
宝亀9年(778年)、少年広野は12才のとき近江の国分寺に入って仏教を学び始め。行表を師として出家した。宝亀11年(780年)、14歳のとき国分寺僧補欠として11月12日に得度し、名を最澄と改め、延暦2年(783年)、17歳のとき正式な僧侶の証明である度縁の交付を受ける。
延暦4年(785年)、19 才のとき南都に赴いて、東大寺の戒壇院で具足戒を受け国家公認の僧となった。ところが、間もない同年7月、最長は、飄然と故郷に帰り比叡山に登って、思索と山林修行の生活に入ってしまった。
そして、延暦7年(788年)、22歳の時、南都仏教に見切りをつけ山上の倒木を切って薬師如来を刻みそれを本尊とする草庵、一乗止観院(現在の総本堂・根本中堂)を創建してそれを比叡山寺と名付けた。
以後十数年にわたる修行が続き、延暦21年(802年)36歳の時、高雄山寺(神護寺)で開かれた法華経を解く講和(法華会)で自説を発表した最長は、桓武天皇に知られるところとなり、新進の学僧として認められ、その年に決まった遣唐使の一行の還学生(げんがくしょう、短期留学生)に選ばれ、入唐することになったのであった。
平安仏教の開幕に主役として登場したもう一方の空海は、一般的には、現・香川県である讃岐国多度郡弘田郷(現在の善通寺市弘田町)でこの土地の郡司である、父佐伯直田公(さえきのあたいたぎみ)の子として宝亀5年(774年)に生まれた。母は氏族である阿刀氏出身の阿刀大足の娘(阿古屋)。幼名は真魚(まお)とされている。
しかし、この時代は妻問婚の時代であり、幼年期は母の里で過ごしたものと思われ、生誕地を阿刀氏(阿刀宿禰)の本貫地(一所懸命の土地)、河内國渋川郡跡部郷(阿刀郷)とする説がある(※1、※2のもうひとつの空海伝 まえがき 参照)。
真言宗の伝承では空海の誕生日を6月15日とするが、これは中国密教の大成者である不空三蔵の入滅の日であり、空海が不空の生まれ変わりとする伝承によるもので、正確な誕生日は不明だそうである。
延暦7年(788年)平城京に上り、母型の叔父である中央佐伯氏の佐伯今毛人が建てた氏寺の佐伯院(※3のここ参照)に滞在。延暦8年(789年)、15歳で桓武天皇の皇子伊予親王の家庭教師であった母方の舅である阿刀大足について儒学を学ぶなど、真魚は佐伯一族の期待を一身に受け、非常に高い教育を受けていたようだ。
そして、延暦11年(792年)、18歳で、大学寮(正式には「平城京式部省大学寮」という)に進んで、律令国家のしくみや法令を学ぶべく、律令官人の学問の中心の科目明経道を修めた。ここでは、中国の律令『周易』『尚書』『三礼』『毛詩』(詩経の異称)、『春秋左氏伝』『孝経』『論語』などの注釈をひたすら暗記し、抜群の記憶力をもつ真魚はこの程度の内容に飽き足らず、『文選』などの詩文にも手を出し、浄村浄豊(阿刀大足とともに伊予親王の侍講師)らから唐語(からことば)会話を学び、臨書(手本とそっくりに書くこと。書道)にも親しんだという。
大学寮は、律令制で式部省に属する官吏養成機関であり、国家の経営に役立つ優秀な官僚を育成するのが役割だった。真魚は、そんな大学で明経道科に席をおいていた。明経科は特に上級官吏の養成機関と言えるもので、入学を許可された学生はほとんどが五位以上の高級官吏か貴族の子弟であった。
真魚の父佐伯直田公は、讃岐国多度郡の郡司で、無冠ではあったものの、佐伯氏は豪族の大伴氏と同族関係とされている。また、伯父の阿刀大足が従五位下だったのと、伊予親王の侍講だったので、その口ききで大学にも入学できたようだ。
そんな、真魚が大学在学中に、一人の沙門に会って以来、突然、将来を約束された高級官僚への道を断ち、わずか1年で大学を去り、乞食同然の私度僧(律令制下、定められた官許を受けることなく出家した僧尼。得度参照)となって“山林出家”の道に飛び込んでゆくのである。
ここで気づくのは、平安仏教を切り開いた二人の主役最澄・空海がいずれも、奈良の都や大和の平地に甍(いらか)を競う大寺院の僧坊に籠らず、それまでに築き上げたすべてを、投げうって山林出家をしたことである。つまり、ドロップアウトしているのである。
最澄は僧侶になって間もなく、法華経などの研究に没頭し、比叡山にこもってしまったが、空海も大学を離れ、すべてを投げ打って山に籠り、仏教の厳しい修行に入っている。そしてその間の体験によって797年、24歳のとき,『聾瞽指帰(ろうこしいき)』(後に『三教指帰(さんごうしいき)』として書き改められている。※9のここ参照)を著し、入唐(にっとう)直前31歳の時に東大寺戒壇院で得度受戒し、最澄らと共に遣唐使に従って留学するのだが・・・・・(得度時期は数節あるようだがもっとも一般的な事例に従っている)。
最澄はこの時期すでに天皇の護持僧である内供奉十禅師の一人に任命されており、当時の仏教界に確固たる地位を築いていたが、入唐直前までまったく無名の一私度僧であった空海(真魚)が突然留学僧として浮上する過程は、資料(史料)も少なく、断片的で不明な点が多く、今日なお謎を残しているようだ。それにしても、空海(真魚)に絶大な期待をよせていた両親や一族の落胆はいかばかりであったろうか。
若い時代の空海を知る上で信頼できる資料(史料)としては、後日『聾瞽指帰』を書き改めたと考えられる『三教指帰』に頼らざるを得ないだろう。『三教指帰』の内容は序と上,中,下に分かれる。草稿本の『聾瞽指帰』とは序文と巻末の部分が違うようで、この部分は、表題を変更した際、改編・加筆したもののようで、或いは真実ではないところがあるかもしれない。
序文では自伝を述べ、出家を宣言する。ある修行僧より虚空蔵求聞持法求聞持法を教示され、 阿波の大滝嶽(現在の太竜寺山付近)や土佐の室戸岬、吉野の金峰山、伊予の石鎚山などで山林修行を重ねて効験を得たとある。
“蛭牙公子(しつがこうし)という芳醇な青年貴族がいた。遊び暮らしている公子の保護者の兎角公(とかくこう)は、公子の将来を案じて儒客の亀毛先生(きぼう)先生を招き、公子の教導を乞うた。亀毛先生の教えはまことにもっともで、公子は先生の教えに従おうとする。ところがたまたまその席にいた虚亡隠士(きょぼういんし)が、先生の教えに反駁(はんぱく。他人の主張や批判に対して論じ返すこと。反論)し、老荘の道こそ心理であると説いたので、同席の者は皆隠士をほめ讃えた。するとそこに仮名乞児(かめいこつじ)があらわれ、仏教が究極の教えであることを述べたので、人々はその教えに心服し、公子はその言葉を信じて仏道に入る。”
これが上,中,下に分かれる『三教指帰』の粗筋である。蛭の牙や兎の角はありえないものであるから、登場人物はすべて架空であることはすぐわかるが、儒教の立身出世の道を説く儒教学者亀毛先生は、空海の叔父阿刀大足をモデルとしているようだ。また、仮名乞児は空海の自画像と思われる。
当時仏教は、先進的な外来文化として受け入れられたから、僧はひたすら仏典の解読に務め、儀礼(礼に関する儒教の経書のひとつ)の修得に励むべきものと考えられていた。専門的に仏教を学ぶ僧にとって、仏教は疑う余地のないものであって、仏教を儒教・老荘思想(老荘思想が最上の物とするのは「道」であるが、道教とした時期もあった。道教の概要のところを参照)などと比較し、その目的とする所がどのように違っているのかを考えることはまれであった。しかし、空海は、儒教・道教・仏教の三教を比較検討して、仏教の教えが最善であるとして、仏教を選び取った。
仏教が日本に伝えられて2世紀(仏教伝来は、日本書紀によると552年。元興寺縁起などでは538年。仏教公伝参照)が過ぎて、仏教とはなにか、僧は如何にあるべきかといった問題が、日本の僧として考えなければならない問題として浮かびあがってきたのである。
しかし、平安時代初期における空海、嵯峨天皇、橘逸勢のいわゆる三筆時代(平安時代の能書のうちで最もすぐれた3人)には、まだあげて漢詩文旺盛の中国崇拝が基本的精神であったから、自然に流出する日本的なものは別として、三蹟時代のような和やかな和様は発達しておらず、日本語はまだ十分に確立されていなかった。
当時、仮名はまだなく、経の読み方も漢音か呉音か定まっていなかったのだ。その中で、空海は、既に、唐語と梵語をマスターするとともに、大学で習った中国の経書類の『注』の多くを占めていた後漢の儒者・鄭玄の訓詁学(解釈学)も同時に飲み込んでいた。つまり、漢籍の思想の内容を研究するだけではなく、暗記し大意をつかんでいた。空海はひとつの武器「言語の力」を持っていたのだ。
そのような彼の思索力や構想力、 いわば「考える知」「まとめる知」の成果が、この時期大きく成長していたからこそ、その知がいかんなく発揮され、四六駢儷体(駢文参照)が華麗に飛び交うレーゼドラマ『三教指帰』が出来上がったのだろう。徹底的にカリカチュアした登場人物をユーモラスに動かしながら、儒教・道教・仏教を比較し、仏教の優位性を浮かび上がらせている。文中には故事が数限りなく引用され、膨大な漢詩漢文と仏教経典の集積のもとに作品は成り立っている本書は、若い空海が戯曲のような構成で書いた思想批判の書であり、わが国漢文学史上の白眉(はくび)とされている(※10参照)。
そもそも空海が奈良に来て注目したのは華厳経(『大方広仏華厳経』)であったという。しかし当時の華厳経は、東大寺(総国分寺=全国に置かれた国分寺を総轄した 寺)の中心経典のようなものであったが、その教理をあきらかにできる学僧を欠いていた。
空海が華厳の教理にめざめるのは長安で般若三蔵らに出会えてからである。けれども空海は、早くから華厳の世界観には注目していたようで、この予測こそ鋭かった。
ほかにも空海が注目したものが雑密(ぞうみつ)で、のちに純密と区別して中国から流れこんできた雑多な初期密教経典のことをいう(密教参照)。そもそも東大寺の別当となった良弁(ろうべん)がこの雑密の修行者だった。空海はそのことを知って、華厳と密教はどこかでつながりがあるにちがいないと察知したにちがいない。
そこへ持ってきて、このころの日本の仏教は、奈良末期の混乱のなかでひたすら威信にすがったり、いたずらに快楽や安寧を求めるだけのものになっていて、とうてい「意識の高次化」などを構想するべきプログラムもなく、また、そのような修行を体験させる場もなくなっていた。
それに、政治の舞台も平城京から長岡京に移り、さらに山城(山背)の平安京に移転しようとしていた。そこへもってきて、あの大伴家持が失脚した。大伴氏は佐伯氏とともにコトダマ(言霊)一族につらなる名家で、互いにトモ氏・サヘキ氏とよびあう仲であった(※8のここ照)。
そのトモの首領の家持が左遷させられた。これはおちおちなどしていられない。
一方、大学では、明経科の学生に呉音を禁じて漢音だけを使うようにという強い指示が出た。言葉に敏感な空海には、これは何かの大きな変化の前触れに見えた。さらに青年たちが奈良を離れて山林に修行しているという動きが目立ってきた。、なかでも、最澄という青年僧が山城の鬼門にあたる比叡の山中に一乗止観院(延暦寺の古称)という庵を組んだことは無視できない。
この様なことを考えると、何も窮屈で貧弱な大学や宮都にとどまっている必要はない。若き空海が山林修行に賭けたのは、こうした旧仏教との決別の方法だったようだ。
空海はめぼしい情報を集め、大安寺の戒明や三論宗の勤操を訪ねて、時代の変化や仏教の行方を組み立てる。けれど、そういうことをしても埒はあきそうもない・・・ということで、ついに空海はドロップアウトを決意し、大学を捨て、山林に飛びこむことにしたようだ。
そんな中、堕落した奈良の都から、京都に都を遷した桓武天皇も、新しい宗教とスターが必要だと考えていた。そこで、比叡山にいた最澄の噂を聞きつけるや、朝廷の重要な役職に任命し、天台宗を開く事を認めた。一度、ドロップアウトした最澄が、再び主流に戻ってきたのであった。
そして、それぞれ厳しい仏教修行を重ねた最澄と空海の二人が、やがて共通の思いを抱き、唐に行くことを決意した。
当時の唐は様々な文化の最先端であり、日本は遣唐使を通じて、新しい仏教を学んでいた。日本にいただけでは仏教を極めるのに限界を感じた最澄と空海。これまで接点のなかった二人が、奇しくも同じ遣唐使の一員として唐へ向かうことになった。延暦23年(804年)、最澄38歳、空海31歳の時である。
この頃、桓武天皇に認められていた最澄は、旅費もすべて無料、しかも通訳付きの特別待遇の還学生(げんがくしょう=1年ほどで日本へ帰ってくることが出来る学生)であったが、一方、まだ無名だった空海は、長期滞在が義務づけられたその他大勢の留学僧(20年間は「日本へ帰ってくることが出来ない学生」だった。そんな空海が、長期間の留学費用をどのように調達したのかは、今だに謎に包まれているという。
しかし、その空海は、2年あまりの期間で、当時最先端の「密教」を最高権威の僧侶より教授できたのは、先にも書いた彼のたぐいまれなる語学力によるところであった。そして、密教の教典や曼荼羅などのお宝を持って帰ってくるという驚異的な活躍を見せた。
一方の最澄は視察目的の短期留学僧であったため、当時主流だった天台宗の奥義をマスターしたものの、当時流行の密教に関しては、不完全なまま1年足らずで返ってきた。
二人が帰国後、最澄を信任していた桓武天皇が亡くなり、嵯峨天皇が即位すると、嵯峨天皇は、当時流行していた密教をマスターした空海に、仏教で国家を護る役目を任せることにした。その名を天下に広めた空海は、エリート最澄に、ついに並んだのである。
このようにして、新しい課題に正面から取り組んだのが最澄と空海であった。最澄は平安時代の日本に最も必要な仏教はいかなる仏教であり、僧は如何にあるべきかを考え、高い理想を追い続けた。また空海は、当時の日本にあった学問・思想の中で、仏教こそあらゆるものを包み込むことのできるものであると考え、その教えとして密教を宣揚(専用。広く世の中にはっきりと示すこと)した。
外来の思想・宗教である仏教は平安時代に入って、宗教としての性格を強め、世俗の世界に対して、高い権威を主張するようになった。そしてこの仏教はその拠点を都とその周辺にではなく山に築くようになった。
山は神祇信仰の神域であったから、山に入った修行者は土着の雑多な信仰と接し、それを組み込むことによって日本における仏教の位置を考えようとした。こうして仏教は日本化してゆくための模索が始まった。
最澄や空海が山中に築いた仏の世界は、それが多くの堂塔(寺院参照)を持つ寺院として出現した時、当初の願いや構想から外れた道を歩み始めた。
山中の寺院は複雑な組織に発展しその維持と管理を巡る争いは寺院の内部を世俗化させて行った。又、貴族が仏教と多面的なつながりを持つようになると、都の周辺には、貴族の私寺が次々に建てられ、日本化した仏教と結びついた貴族文化が生まれることになった。
さて、寺院が複雑な組織を持つようになると、僧の間でも階層の文化が始まり、さらに学統や法流などによってさまざまな流派ができて、勢力争いが日常化した。また、寺院の中には武装した集団も現れて、寺内の争いは、俗世間の権力争いと結びつき、大臣の動向は政治の帰趨に係るようになった。世俗的な争いに明け暮れる僧が増える一方、そうした寺院の外では修業に務め、人々を救うために活動する僧が多くなっていった。
山と寺と、そこで活動する僧を支えていたのは貴族社会であったが、貴族たちが仏教に求めたのは、先ず第一に、国家の安泰と五穀の豊穣であった。また、仏教の呪的な力に期待して、大寺院の僧に、反乱の鎮定や怨霊の調伏、祈雨や止雨の祈祷を求め、更に個人的な病気の平癒や安産などの祈りを求めた。
貴族社会の停滞が明らかになり、貴族たちの間に現世に対する不安が強くなると、それに応じて浄土への往生を説く僧があらわれた。
現世的なものの考え方をしていた貴族の間に、來性への関心が生まれ、自己の救いを願う貴族は、内省的な個人意識を持つようになった。
そして、貴族社会で内省的な思想を生み出す力となった仏教は、民間で活躍するさまざまな宗教者の教えを引き付けながら鎌倉時代に入って新しい思想・宗教を生み出すことになる。
参考:
※1:国立会図書館貴重書展:展示No.9 〔新請来経等目録〕
http://www.ndl.go.jp/exhibit/50/html/catalog/c009-001-l.html
※2:重要文化財|弘法大師二十五箇条遺告|奈良国立博物館
http://www.narahaku.go.jp/collection/d-1122-0-1.html
※3:弘法大師空海 25箇条 御遺告
http://www1.plala.or.jp/eiji/GOYHUKOKU.htm
※4:密教伝承
http://www.h5.dion.ne.jp/~kame33/kame8.htm
※5:【空海に迫る(上)】空海「畿内生誕説」の根拠
http://www.sankei.com/west/news/140426/wst1404260082-n1.html
※6:奈良の寺社: 東大寺・真言院
http://narajisya.blog.eonet.jp/mahoroba/2007/04/post-5876.html
※7 ;吉野へようこそ
http://www.yasaka.org/
※8 :エンサイクロペディア:空海
http://www.mikkyo21f.gr.jp/
※9:高野山と弘法大師空海上人、真言密教
http://www.1-em.net/sampo/kukai/index_index.htm
※10:松岡正剛の千夜千冊『三教指帰・性霊集』
http://1000ya.isis.ne.jp/0750.html