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KOBE JAZZ DAY 4/4 (2-2)

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1904年東京生まれのエノケンは、浅草公園六区の「浅草オペラ」時代から6年(1917年 - 1923年)の年月が経ち、1923年(大正12年)9月1日の関東大震災後、麻布十番の芝居小屋や、京都・太秦に移り、サイレント映画の端役として潜伏していたが、東亜キネマ京都撮影所、前年の1928年(昭和3年)8月に解散した中根龍太郎喜劇プロダクションを経て浅草に帰還、石田守衛(俳優)に誘われて桜井源一郎が経営する東京浅草の水族館2階「余興場」に軽演劇の劇団「カジノ・フオーリー」(仏語由来Casino Folies、1929年7月10日 - 1933年3月)を創立した.。この時25歳。
因みに、アメリカの1920年代は先にも書いたように「狂騒の20年代」、「素晴らしいナンセンスの時代」などとも呼ばれたジャズが時代の流行の音楽となり、享楽的な都市文化が発達した時代であった。「ジャズ・エイジ(Jazz Age)」は、偉大なるギャッピー』(The Great Gatsby)によって1920年代を代表する作家のひとりとなった作家のF・スコット・フィッツジェラルドの命名による物である。
エノケンはこのカジノ.・フォーリーの舞台で、当時最新の流行ジャズソングを多く取り入れていた。「私の青空」「アラビヤの歌」「洒落男」などがそれで、エノケン以前に、当時の人気ジャズ歌手であった二村定一が唄ってヒットさせたアメリカ曲である(歌の説明は、※8を参照されるとよい。洒落男ここ)。


私の青空(My Blue Heaven) 二村と榎本それに、石川さゆりのカバーを聴き比べてください。


洒落男 藤山一郎とエノケンの歌を聴き比べてみてください。
現在でこそジャズソングと云う言葉は余り用いられないが、当時はこの言葉がフォックストロットのリズムで歌われるアメリカのポピュラーソングだけに限らず、シャンソンやタンゴ、ハワイアンに至るまで、舶来ソング全体をさす言葉として良く使われていたそうだ。
因みに、この時のジャズソングをはじめとする楽譜に関しては、桜井の親戚でフランス帰りの内海正性やその弟で画家の内海行貴が、横浜に着いた外国船の楽士に頼んで外国から新しい譜面をいち早く取り入れていたということが分かっている。
そのころのカジノ・フォーリーには、川端康成武田麟太郎など、当時の新進作家が出入りしていたようだ。
川端康成は小説(『浅草紅団』)の中でカジノ・フォーリーについて次のように書いている。

「和様ジャズ合奏レヴュウ」という乱調子な見世物が1929年型の浅草だとすると、東京にただ1つ舶来「モダアン」のレヴュウ専門に旗揚げしたカジノ・フォウりイは、地下鉄食堂の尖塔と共に、1930年型の浅草かもしれない。エロティシズムと、ナンセンスと、スピイドと、時事漫談風なユウモアとジャズソングと女の足と~。・・・と、フェティシズムの川端らしい表現だ。

第2次カジノ・フォーリー(1929年10月 - 1933年3月)は、むしろ水族館のメインにとってかわる人気となるが、自らが座長であった榎本が二村定一、武智豊子とともに脱退独立し、浅草観音劇場に旗揚げし、新しい劇場に進出する。それが「新カジノ・フォーリー」(1930年8月 - 10月)である。エノケンは当時詩人で元ベラゴロ(「浅草オペラ」の熱狂的なファンは「ペラゴロ」[オペラ+ゴロツキ]とも呼ばれた)であったサトウハチローを文芸部長に招き内容の充実にさらに力を入れ、その中には無名時代の菊田一夫もいたという。しかし、その後座員の不和と体調悪化により2ヶ月で解散している。
ここにおいて欧米喜劇映画にあるギャグやスピードだけでなく、震災前に根付いていた浅草オペラおよび当時の浅草レヴューにあった要素を取り入れつつ、新たな喜劇を創り上げていた。
その後、浅草の玉木座開場に伴い結成された「プペ・ダンサント」、浅草オペラ館が新規開場すると「ピエル・ブリヤント」結成等を経て、1938(昭和13)には、松竹を退社して東宝と専属契約を結び劇団名も「東宝榎本健一一座」と改めることになる。南無阿弥陀仏の念仏をジャズソングに載せて歌う同年公開の映画『エノケンの法界坊』は一座の東宝第一作品である。


上掲の動画は、オープニング - エノケンの法界坊 (1938)であるが、南無阿弥陀仏の念仏をジャズソングに載せて歌う歌は、永楽屋の店先で、ほんの少ししか歌われていないが、フィルムが紛失していて、もともとは5~6分ぐらい歌われていたと聞く。この動画の最後の方では、おくみ(宏川光子)と掛け合いで要助(小笠原章二郎)が歌っていた曲は、『モダン タイムズ』でチャップリンが歌っていた「ティティーナ」に日本語歌詞をつけた替え歌だが、『モダン タイムズ』の米国公開が1936年2月、日本での公開は1938年2月であるからそれを早速同じ年に取り入れているのだからちゃっかりしているね~。(チャップリンの歌はYouTubeでどうぞ→ここ)。
エノケンは、東宝入りして以降舞台に映画に大活躍するが、ジャズに対して暑い想いがあったエノケンは1939(昭和14)年、別個に自らのポケットマネーを出し「エノケン・ディキシーランダース」というバンドを編成している。トランペット・クラリネット・アルトサックス・テナーサックス・ピアノ。ベース・ドラム編成で一流のメンバーを集めたバンドも軍国主義化の圧力のもとでまもなく解散してしまう(※9参照)。
「エノケン・ディキシーランダース」は、毎週アメリカから新しい譜面をとりよせて、新曲をステージに発表していた。そして、舞台や映画のエノケンの芝居には、数々の外国曲の旋律が巧みに使用されていた。しかし、レコードとなると、1936(昭和11)年にポリドール専属になってから、戦前5年間に僅かに30数曲を吹込んだのみ(※10)。その中には、有名な「ダイナ」「月光価千金」「南京豆売り」から、「トカナントカ言っちゃて」など和製コミック・ソングまで色々ある。


上掲の動画は榎本健一の「エノケンのダイナ」~「月光価千金」~「私の青空」メドレー
1935(昭和10)年頃から、日本生れの歌手の中にも、優れたフィーリングをもった個性的シンガーが何人か育ち始めた。ディック・ミネ岸井明、エノケンの3人は、ある意味でアメリカの物真似でない独特のキャラクターを打ち立てた点で、戦後出も比肩し得ない偉大なパーソナリティであった。
「ミュージック・ゴーズ・ アラウンド」で、岸井明、ミネ、コロムビア(ナカノ)・リズム・ボーイズと四者競演になっているが、「歌は廻る」(原曲「The music goes 'round and around」) をエノケンは「エノケンの浮かれ音楽」というタイトルで発表している。。何れにしても、エノケンの唄は調子を外しているようだが、抜群のセンスで独特のアドリブをやっているわけで、まさに空前絶後の日本的ジャズ・シンガーと言える(※11)。

アメリカでは、ビング・クロスビーが1926年に当時の人気オーケストラであるポール・ホワイトマン楽団に入団し、翌年にはリズムボーイズの歌手としてデビュ。カウントベイシー楽団やデュークエリントン楽団で歌っていた。1928年,トーキー第1号の「ジャズシンガー」がアメリカで公開された。映画全編を通してのトーキーではなく、部分的なトーキー(パートトーキー)だったが、驚異的な興行収入を記録し、トーキー時代の幕開きとなった。
この時期は映画黄金期で若きクロスビーは1930年に「月世界征服」に本人役でカメオ出演し、映画に進出した。
一方、日本では1929(昭和4)年に佐藤千夜子が唄った主題歌第1号となる溝口健二監督映画「東京行進曲」が封切られた。西条八十作詞・中山晋平作曲によるこの曲はレコード歌謡曲の第1号でもあり、サウンド的にはジャズであろう。


上掲の動画は、佐藤千夜子 東京行進曲 昭和4年の東京銀座 浅草
クロスビーの歌手としての特徴であり、のちに多大な影響を及ぼしたのがクルーナー唱法(※3のジャズと雑学)と呼ばれる歌い方である。マイクの発達により、声を張り上げずに、優しく囁くような録音技術が生まれ、それがクルーナー唱法と呼ばれ、日本では藤山一郎が有名。古賀政男作曲・高橋掬太郎作詞「酒は涙か溜息か」は日本初のクルーナーと言われている。
日本ジャズの祖・服部良一ではなく、古賀政男が導入しというのが面白い。このころからアメリカでも日本でも映画と歌のタイアップが盛んとなり、主題歌と映画の抱き合わせで大ヒットを生む方法が多くとられるようになった。日本で大ヒットしたディック・ミネ(ジャズ・ブルース歌手)のデビュー曲「ダイナ」(1934年)は、クロスビー盤のカバーとして有名であるが、日本における「ダイナ」の創唱はディック・ミネではなく、1934(昭和9)年5月にコロムビアから発売された、中野忠晴とコロムビア・リズム・ボーイズによる「ダイナ」であり、他にも、先に書いた「エノケンのダイナ」それから、ビクターから川田義雄((後の川田晴久)の「浪曲ダイナ」と複数の歌手に唄われている。


上掲の動画は、浪曲ダイナ 吉本ショウ (川田義雄)2

以下参考※12:「YouTube 動画で覚えよう英語の歌 | 220」では、アメリカで非常に人気があったビングクロスビーや、エセル・ウォーターズ、ルイ・アームストロングなど外国人6名と、日本人では中野忠明、榎本健一、戦前のタップ童謡歌手・マーガレット・ユキ(※13参照)の歌とタップ「オ人形ダイナ」、あきれたボーイズの凄くゆかいな「新版ダイナ狂想曲」などがある。以下で聞き比べててみてください。特にあきれたボーイズのものは本当に面白いですよ。

YouTube 動画で覚えよう英語の歌 | 220. 【 ダイナ 】 ビング・クロスビー 他

寺田寅彦の随筆(昭和9年6月『中央公論』掲載。※14参照)に東宝傘下におさまる前の日劇、「日本劇場」で、アメリカのレビュー団・マーカス・ショウの公演が行われ大入り満員だったらしいことが書かれているが、これは、1934(昭和9)年に大阪の吉本興業が、招聘に関わっていたらしく、この大人気によりこのころから、“ショウ”という言葉が一般に浸透したことが同社の企業沿革のところに書かれている(※15参照)が、それから“ショー ”と名のつく物をやり始めたのだろう。
1937(昭和12)年の吉本ショウに川田義雄をリーダーとする4人組の「あきれたぼういず」が発足し、大好評を博したが、1939(昭和14)年に分裂して、川田義雄はミルクブラザースを結成、残り3人がメンバーを補強して「あきれたぼういず」の名を継承して活動を続け、何れも戦前芸能界の尖端的なコミック・バンドとして、傑出した存在だった。
戦後は、川田義雄(晴久)は「ダイナブラザース」を率い、「あきれたぼういず」は3人組で活動を再開したが両者共数年で解散した。しかし「あきれたぼういず」が同時代及び後生の芸能界に与えた影響は、測り知れぬ程大きく、戦後のクレイジー・キャッツからドリフターズを経て今日まで脈々と続くコミック・バンドの系譜は、全て川田義雄を筆頭とする「あきれたぼういず」の斬新な演芸センスとその技術に端を発しているといっても過言ではないだろう。

しかし、ま~、日本人はとにかく外国のものを何でも日本のものにしてしまう能力があったな~。その先鞭をつけた一人がエノケンと言えるのではないか。それに引き替え最近は、外国のものをそのまま真似ているようで、どうもいやだ。
音楽にしても、かっては、外国のものを日本流にアレンジして日本独特のものを作り直していた。ジャズなどでも日本語で歌い日本人には判り易く唄ってくれたものだ。
だが、最近の若い人の歌をきいていると、日本語のを、またその発音を極端に大事にしない、変な調子で、変な声の出し方をして、何か、歌詞も、曲の一部、単なる音のような感じのものが多く、私など歌詞のテロップでも流してもらわないと、目をつぶって歌だけを聞いていても何を歌っているのかよく判らない。何か乗りだけのリズムだけの曲になってしまっているような気がする。
それが、なぜか?気になって、いろいろ検索していると、※16:「詞先、曲先」に書いてあるように、現在主流の曲作りが「曲先」となり、曲が優先され、詩の方がおろそかになっていること、また、※17:[シンコーQ&A-4発音/言葉(母音)」にあるように、役者や、アナウンサー、その他の言葉を使う仕事についている全ての人々が行っている「言葉のトレーニング」を今のヴォーカリストが、ほとんどしていないことにあるようだ。音楽の専門でもない私には詳しいことは書けないので、参考の※16、※17など読んでみてください。
今日、ブログを書きながら、ついでに、ジャズ全盛時代の曲など聞いていると、昔の曲は本当に良かったとつくづく感じた。神戸ジャズストーリーでは、かっての全盛時代の本物のジャズが沢山聞けることだろう。楽しみに待っていよう。


KOBE JAZZ DAY 4/4 (参考)
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