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酒豆忌」「怪談映画の巨匠」中川信夫(映画監督)忌日

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今日6月17日は、『東海道四谷怪談』(1959年公開新東宝映画)など「怪談映画の巨匠」として知られる映画監督中川信夫の1984(昭和59)年の忌日である享年79歳。
日本酒の肴にはもってこいの食材豆腐。豆腐を肴に日本酒を飲むことを終生愛したといわれる中川信夫監督の忌日は、そんな生前の好物に因んで「酒豆忌」と呼ばれている。監督が亡くなって後、関係者たちが監督を偲ぶ集いとして行ってきたものだが、1987(昭和62)年以降は忌名を「酒豆忌」として現在に至っている。

中川信夫は、1905(明治38)年4月18日、京都洛西'(京都市右京区)の嵯峨二尊院門前町に,父・中川竹次郎(嵐山の料理旅館「嵐峡館(※1参照)」のシン=板前の主任)と、母・ソノ(同旅館の仲居頭)の長男として生まれる(※2参照)。
4歳の頃、一家は大阪へ出て父親が考案した煮豆の店を開いていたようだが、1909(明治42)年キタの大火で店を消失し、翌年には神戸市兵庫区の荒田町に移って、煮豆屋を開く。1911(明治44)年6歳の時、新開地の横丁に店を移し、後に鰻屋にかえたのが大当たりし、翌年には福原遊郭に近い新開地の一角に料亭を出すまでになったという。信夫少年は1919(大正8)年私立育英商業学校(現育英高等学校)に入学し、1924(大正13)年卒業(19歳).。この間父は布引の滝へ移り、大料亭「巌水」を開いていたが、この年には、元町相生橋(日本最初の跨線橋。※4参照)畔の木造三階建の家を惜り「巌水鰻食堂」をはじめたという。我が地元神戸のことであった為、幼少時の中川信夫の父親のことを少し詳しく書いてしまったが悪しからず。

中川は、父に「映画監督になりたい」と言うと、「好きな道へ行け」と言われて、1925(大正14)年20歳の時、大阪の帝国キネマ小阪撮影所に入社したという。私のブログ「映画の日」でも書いたが、神戸は映画発祥の地なので影響を受けたかな・・・・。しかし、まずカメラ助手をし、現像の仕事をするが、2週間ぐらいでやめたらしい。
翌1926(大正15・昭和元)年21歳の時、父が、喘息発作に因る心臓麻痒で死去し、母に家業を手伝わされ、家業の手伝いをしながら、文学者になることを目指し、1928(昭和3)年23歳の時、同人誌『幻魚』に小説を執筆するが、文学者になるには大学を出ていなければ駄目だとその道をあきらめ、再度映画の道に進むことにしたという。
そして、キネマ旬報読者寄書欄の素人映画評論家を経て1929(昭和4)年24歳の時マキノ・プロダクションに入社し、助監督となる。この時代には山上伊太郎伊丹万作小津安二郎らに強い影響を受けたという。
1930(昭和5)年8月、世界大恐慌による不景気によりマキノ撮影所が給料遅配になり争議に突入すると、従業員(組合)側の記録係をつとめた。同年12月にマキノが製作を一時中断した後は無職で1年間過ごし、その時間をシナリオ執筆に費やした他、1931(昭和6)年には神戸の三宮神社裏の生田筋に喫茶店「カラス」を開業している。私は神戸っ子なので、当時の喫茶店「カラス」のマッチがあるのを見つけたよ(※5参照)。
1932(昭和7)年27歳の時、マキノ時代から親しかった稲葉蛟児監督(すでに市川右太衛門プロダクションで仕事をしていた)から誘いを受け市川右太衛門プロダクション、(奈良市の「あやめ池遊園地」内)へ助監督の身分で移籍し、1934(昭和9)年の時代劇弓矢八幡剣』(主演:田村邦男)で監督に昇進した。本作を製作した同プロダクション第二部は、市川右太衛門主演作以外の作品を製作する部門であり、この作品は昇進試験として監督したものであるが、社内的に好評をえて監督の道が開ける。
そして、本格的な監督デビュー作は翌・1935(昭和10)年の右太衛門主演による若き日の清水次郎長物語『東海の顔役』である。この作品はサイレント映画サウンド版で、その主題歌「旅笠遣中」(作詞:藤田まさと、作曲:大村能章、唄:東海林太郎)が大ヒットして股旅物の歌謡の先駆けとなる。股旅物特有のテンポの良い曲ですよ。以下で聞ける。

旅笠道中: 二木紘三のうた物語

しかし、中川はデビュー作は自作シナリオ『鉄の昼夜帯』(のちに『悪太郎獅子』に改題して実現)の映画化)を望んだが認められず、陣出達朗脚本による本作品のシナリオだった。あてがわれた陣出のシナリオが気に食わない中川は、親友でのちに映画評論家となる滝沢一を借家に招いて、2人でシナリオを改変したそうだ。
滝沢の回想によれば、中川はこの頃すでに伊丹万作の影響で「映画の出来栄えは、一にも二にもシナリオ(脚本)の段階で決まる」という信念を持っていたという。しかし、シナリオ段階でこの作品を構成段階からまったく作り変えようとしたが、若き日の次郎長の姿をスピード感あふれる演出で見せるように軌道修正するのがやっとだったと滝沢は回想しているという。
中川は後に脚本家・桂千穂を聞き手としたインタビューにおいて、本作品についての感想を聞かれて「それが僕は気に入らないんだな。僕の人生が裏街道へ行く初めだから」と答えているそうだ。滝沢は、この頃の不満が中川を酒びたりにしたと語ってもいるという。
東海の顔役は、本作品において市川の演技を抑制することに専念し、滝沢の回想によれば、それは見事に成功したという。
中川念願の『悪太郎獅子』は右太衛門主演で1936(昭和11年)1月に完成したが、ようやく実現した矢先、今度は右太プロが松竹に吸収合併されることになったために、中川は「意気消沈した作品である」と語っている。作品は同年2月7日、松竹キネマ配給により大阪劇場で公開されているが、同日右太プロは撮影所を閉鎖。右太プロのメンバーは、右太衛門をはじめとして多数の人材が松竹に移ったが、中川は解雇されたそうだ(『自分史 わが心の自叙伝』、p.23)。
中川はいったんマキノ正博が設立したマキノ・トーキーに移り(監督としては『槍持街道』を製作している。※6参照)、1938(昭和13)年33歳の時に東宝に移籍した。
時代劇やエノケン(榎本健一)主演作を主に監督(監督映画作品参照)したが、戦時期の映画製作本数の減少で、1941(昭和16)年に東宝を契約解除となる。


上掲は、中川信夫監督『エノケンの森の石松柳家金語楼とのかけあい場面が懐かしい。

同年松竹京都撮影所製作部長の渾大坊五郎に招かれて同撮影所に移籍するが、間もなく松竹京都撮影所は製作体制を縮小して松竹大船撮影所に合併されることとなる。生活のために助監督をする覚悟で上京して大船に赴くが、不調に終わり、松竹京都撮影所に籍を置いたまま、次の企画を待つている間に、太平洋戦争がはじまる。
翌1942(昭和17)年37歳の時、中国上海にあった国策映画会社中華電影に監督として採用され、日中戦争の記録映画『浙漢鉄道建設』を監督した。途中結婚のための帰国を挟んで2年間撮影が続けられるが、映画は完成することなく終戦を迎えて『浙漢鉄道建設』のフィルムは焼却されたという(浙贛線(せっかんせん)とは - コトバンク参照)。
1946年(昭和21年)、上海から帰国。同年、池田富保が設立した大同映画に入社するが、仕事はほとんどなく生活に困窮する。中川は戦後、映画界に復帰する前から、詩の同人誌に参加していた。1945(昭和20)年上海にいるとき、日本人向け新聞「大陸新報」(※7参照)に投稿した長篇詩「しらゆき」が特別賞を受賞している。
上海で終戦を迎えた中川は、1946 (昭和21) 年日本へ引揚げてきて、妹・千代の嫁ぎ先の小笠原家(兵庫県西宮市)に落着き、3カ月後には、隣の質屋の二階を借り、千代の夫が戻るまで一年問住んでいたそうだ。
そして、神港夕刊新聞社公募「新憲法公布記念文芸」の詩部門)で、「地ならし」(※2の中川信夫詩集・業 目次参照)が第一 席(知事賞)に入選(12月1日)。翌、1947(昭和22)年兵庫県が新憲法公布を記念して公募した「県民歌」に投稿し、佳作に入選して、2百円を貰っていたという(※2の中川信夫・人間として映画監督としての79年参照)。選ばれた歌詞は、有馬郡生瀬国民学校(現西宮市立生瀬小学校。明治6年創立)教員の故野口猛さんが作詞したものだそうだが、同じ兵庫県民の私もこんな兵庫県歌があるのは今まで知らなかった(兵庫県下のことは※8を参照)。
中川は同年、中華電影時代に親交を持った筈見恒夫と京都で偶然再会し、当時新東宝のプロデューサーだった筈見の勧めで新東宝に移籍して(一家で東京に上京)、1948(昭和2)年『馬車物語』(石坂洋次郎原作の文藝春秋所載『馬事物語』を館岡謙之助が脚色したものを中川が演出。※9参照)で映画監督に復帰した。
そして、翌1949(昭和24)年9月榎本健一 主演で『エノケンのとび助冒険旅行』を公開しているが、この作品は、冒頭に徳川夢声の、「怖くて、ためになって、面白いお話をしましょう」という意味の語りが入ったファンタジー映画であり、中川自身は後に子供向けの作品として製作したことを明かしている。また、冒頭で徳川夢声のナレーションは本作品が目指す物語の特徴を、コメディと泣ける話とホラーの混ざり合った冒険物語と語っており、主人公の旅の途中に現れる目が光るクモの精や美女に姿を変える人食い鬼、森に潜む数々の化け物などのホラー描写も数多く見受けられ、中川怪奇映画に焦点を絞った『地獄でヨーイ・ハイ! 中川信夫怪談・恐怖映画の業華』を編著した鈴木健介は、同書で本作品を中川怪奇映画8本の中の一つに加えているようだ(物語など詳しくは※10のここ参照)。
続いて同年12月公開の、『私刑』で時代劇の大物嵐寛寿郎と初めて仕事をしている。この映画は、戦前から終戦直後にかけての、一人のやくざの半生を描いたもので、『地獄』(1960年)までつづく、中川と嵐寛のコンビ第1作でもあるが、GHQによる俗に言われる「チャンバラ禁止令」(正式には、「十三カ条の映画製作禁止条項」。※11参照)の影響下で製作されたもので、本作品に出演した池部良のインタビュー本を著作した志村三代子と弓桁あやは、本作品の嵐演じるやくざを「『網走番外地』シリーズをはじめとして、晩年に多数出演したやくざ映画の原点」であると指摘しているそうだ。
また、1953(昭和28)年11月公開の『思春の泉』は、新東宝と俳優座の製作提携作品であり、当時、俳優座に所属していた宇津井健の映画デビュー作品でもあり、提携していた俳優座が、千田是也岸輝子など俳優座のメンバーも多く出演している。公開当時の朝日新聞夕刊(日時不詳)で高評価を受け、日本以外にソ連でも一般公開されるなど、中川が監督した文芸映画の中では評価が高い作品の一つである。気をよくしてか、続いて、翌年、題名を啄木の代表小説(※12:青空文庫)にとった石川啄木の映画化『若き日の啄木 雲は天才である』、石坂洋次郎の東北を舞台にした明るくユーモラスな青春ドラマの映画『石中先生行状記 青春無銭旅行』(※10のここ参照)などを公開している。
新東宝が大蔵貢のワンマン体制に移行した後も、中川は同社で大蔵プロデュースの作品を量産し、1957(昭和32)年の『怪談かさねが渕』以降は同社の夏興業の定番である怪談ものを一手に引き受けるようになった。中川も映画のプロとしていろいろと実験を試みたのだろう。
1961(昭和3)年に新東宝が倒産した後は、東映京都撮影所国際放映と専属契約した後、1966(昭和41)年にフリーとなる。東映東京撮影所製作の『妖艶毒婦伝 お勝兇状旅』(1969年10月公開)を最後に映画から離れ、テレビドラマの監督を経て1979(昭和54)年に第一線から離れる。

1973年(昭和48年)68歳の時、東京世田谷の借家から神奈川県大和市に家を建て、3月に移っているが、1977(昭和52)年から1982(昭和57)年まで神奈川県芸術祭演劇脚本コンクールに自作脚本6本を応募、いずれも入賞している。1982(昭和57)年、磯田事務所(東京都渋谷区元代々木町にあった映画制作会社))とATGの提携作品『怪異談 生きてゐる小平次』(原作は鈴木泉三郎の同名戯曲)で、13年ぶりに映画監督に復帰(製作は1981年)。1984年(昭和59年)にはイタリアのペサロ映画祭で代表作『東海道四谷怪談』(1959年公開)などが上映されることになり招待状を受け取るが、同年1月10日風邪から脊髄炎、更に3月には脳梗塞を発症し意識不明に陥ったため、映画祭への出席はかなわなかった。1984(昭和59)年6月17日、心不全のため死去。満79歳没。

怪談怪奇映画の巨匠といわれている中川信夫。しかし,、全作品中、怪談怪奇映画は『地獄』など8本程しかない。時代劇、喜劇、シリアスな社会劇、文芸作、恋愛物、歌謡ドラマなど仕事のジャンルの幅は広い。この中に、中川信夫が貫いたものがある。弱者の視点から、理不尽な者たちをうつ「心」である。
彼は、生活に困窮した若き日のことや、家族のこと、友のこと、人が生きることなどに思いを馳せた詩を書き綴り、1981(昭和56)年にそれらをまとめて『業』というタイトルをつけた詩集を出版した(※2のここ参照)。生前の中川と親しく接した脚本家の桂千穂は、欲望などおのれの””の深さから逃れ得ない人間の悲喜劇こそ、中川映画のテーマであると語り、「生活の辛酸を嘗めつくし人生修羅の深淵を見極めた末に、一種の諦めに到達した」とその姿勢を表現している。
中川は自作について「(他の監督が断る)変なもんはすぐ僕のところへ来る」(インタビュー『全自作を語る』p.207)作品をこなし続けた「裏街道人生」(『全作品を語る』、p.197)と表現しているようだが、新東宝時代にはカメラマンの西本正や美術監督の黒澤治安など優秀なスタッフの協力を得て、次々と実験的な演出に挑戦した。
「怪談映画の巨匠」と呼ばれるようになる彼が初めての怪談映画『怪談累が渕』を発表したのは、先にも書いたように1947(昭和22)年に新東宝へ移籍して10年目の1957年(昭和32年)52歳の時、新東宝の夏興業の定番である怪談ものを一手に引き受けるようになってからである。
『怪談累が渕』の原作は三遊亭圓朝の『真景累ヶ淵』で、川内康範の脚本は発端部の『宗悦殺し』から『豊志賀の死』までをまとめて一本の作品にしている。
冒頭をワンシーン・ワンカットで描いて観客を物語に引き込む手法、若杉嘉津子の顔の崩れた幽霊役、沼に沈んでいく死体と浮かび上がってくるその亡霊、邦楽を基調としながら時折ジャズの旋律をはさみこむ渡辺宙明の音楽、そして人間の“業”の深さが呼び寄せる亡霊と因果応報(因果応報についてはここ 参照)の悲劇など、後の中川信夫怪談映画と共通するテーマや手法がこの作品ではじめて描かれている。

上掲は、中川信夫監督『怪談かさねが渕 』のDVD。女優は豊志賀(お累)役の若杉嘉津子。

1958(昭和33)年には怪談物『亡霊怪猫屋敷』を発表した。橘外男の小説及びそれを原作とした、この作品も大蔵貢ワンマン体制のもとで、夏定番の怪談・怪奇映画興行の1本として製作されたものである。
化け猫”もののジャンルに属する作品だが、幽霊屋敷のアイディアも盛り込まれ、江戸時代の呪いが現代まで受け継がれるという現代篇と時代篇の2部作構成になっているのは原作同様であり、登場人物もほぼ共通である。
現代篇を白黒映画、時代篇をカラー映画と、物語に応じてフィルムが分けられたパートカラーの手法が使用されている。当時各社で画面の大型化(シネスコ)、カラー化がはじまっていた時に、シネスコであるが、パートカラーの手法を選択した理由について、晩年の中川信夫作品で助監督をつとめた鈴木健介は、「オールカラーが予算的に無理な時代(新東宝にとって)に許されたパートカラーの条件を逆手にとった、実験精神に富んだ中川流演出」と解説しているという(ストーリーは※10のここ参照)。


上掲は映画「亡霊怪猫屋敷 」予告編

同年公開の『憲兵と幽霊』(※10のここ参照)は、『憲兵とバラバラ死美人』(新東宝 1957年、並木鏡太郎監督。※13参照)のヒットを受けて同傾向の作品を作ってほしいと大蔵貢から依頼を受けた中川信夫が「売国奴と愛国者」というテーマを出して、石川義寛が脚本化した作品である。『憲兵とバラバラ死美人』同様、天知茂中山昭二が主演している。怪談の味つけをされた憲兵隊の内幕ものというキワモノながら、軍隊という強者とそれに翻弄される一兵士とその家族という弱者、そして軍隊やそれに支配されたマスコミの流す情報に翻弄されて弱者を苛める無責任な大衆という多様な視点から戦時中の世相を描いている。元々は硬派な軍事サスペンスであったが、大蔵が強引に怪談要素を盛り込ませたという。

1959(昭和34)年3月公開の『女吸血鬼』(おんなきゅうけつき)は、新東宝が企画委員会を設けて発表した怪奇映画第1弾だそうで、元々は「裸女吸血鬼」の題名で公開される予定だったという。映画のモチーフが実在の人物であるため、グロテスクな印象をなるべく避け、照明やメイク、美術等で怪しげな雰囲気づくりをした。舞台となった水晶の城塞は江戸川乱歩の『パノラマ島奇談』のイメージを参考にしたという。
本作は日本初の本格吸血鬼映画であり、迫力ある吸血鬼を演じた天知茂も日本で初めての吸血鬼俳優となる。しかし、一方でタイトルロールである女性の吸血鬼は登場せず、題名と内容が合致しない作品となっている。そして、公開当時、新東宝では以下のような「宣伝ポイント」が興行館に通達されたという。
「従来の怪奇映画には見られなかった新型式の異色怪奇映画である点、つまり躍進目覚ましい新東宝がこの種の映画として“邦画界最初の企画”による傑作であるという点を売っていただきます」・・・と。同映画の予告編と動画は以下で見られる。

 新東宝 映画「女吸血鬼」(1958)動画 

1959年(昭和34年)7月54歳の時発表した『東海道四谷怪談』は、怪談映画の最高傑作として知られている。
四世鶴屋南北の原作21回目の映画化であり、新東宝としても毛利正樹監督『四谷怪談』(1956年)につづいて2度目の映画化となるが、本作は四谷怪談ものとしては初のカラー映画である。
大蔵の発案によりオープニングには歌舞伎の様式美を採り入れ、また監督の中川がこだわっていた「人間の業の深さ」をテーマとしており、関連作品のの中でも際立って評判が高い、「戸板返し」や、お岩が醜く腫れ上がった顔の髪を梳く場面、など、原作の見せ場も忠実に映像化された。中川信夫と彼にインタビューした桂千穂は、「戸板返し」について、本作がおそらく初の映像化であろうと語っているという。
また、キネマ旬報1974年10月下旬号に中川自らが寄稿した『怪奇映画問答』では、新東宝時代に製作した怪奇映画について「まァまァという出来だと思いましたら、フタを開けてみますと世評が割に良く、(中略)オーバーに申せば伝説的にまで持ち上げる人もあり、今日に至った」と、怪談映画の巨匠と持ち上げられることに戸惑いを覚えたと書いているそうであり、少なくともこのころには怪談映画の巨匠と言われるきっかけを作った作品と言えるだろう。



上掲は映画『東海道四谷怪談』(1959年)

そして、1960(昭和35)年7月には『地獄』を発表した。この作品は、日本古来の地獄絵や人間の罪の意識をリアルに描写した怪奇傑作。
定番となっていた怪談ものに「地獄の責め苦の映像化」を持ってきた作品で、企画や原案も中川信夫によるものである。
仏教の八大地獄の映像化がテーマとなっているが、ゲーテの『ファウスト』やダンテの『神曲』など、西洋思想における悪魔や地獄(ここ参照)のイメージも盛り込まれている。新東宝の看板俳優だった嵐寛寿郎が、閻魔大王役でカメオ出演(ゲスト出演して端役を演じること)している。
この映画は、前半で業が深い現世の人間ドラマ(現世の地獄)を描き、後半は、彼らが墜ちたあの世での地獄を、シュールな映像で表現している。娯楽映画というより、全体が「動く地獄絵図」になっているかのような、独特の美意識に貫かれた観念的な映像であるが、いかにも「大蔵的」、見世物小屋的エログロの世界は,馴染めるか否かによって、作品の評価も違ってくるだろう。



上掲は映画『地獄』(1960)特撮ダイジェスト版

本作が封切られた同年の12月に大蔵貢が新東宝社長を解任されたため、本作は結果的に中川が手掛けた最後の新東宝怪奇映画となり、同時に大蔵貢プロデュースによる中川作品の最後を飾るものともなった。
良し悪しはともかく、中川も映画のプロとして実験精神を失わず、作品に才能を傾けた結果が、これら新東宝倒産寸前の佳品誕生に繋がったのであろう。

1961(昭和36)年3月、中川は、前年(1960年)の『地獄』で描こうとしたテーマをより突きつめた『神曲』地獄篇のシナリオを書きながら、一方でそうした怪奇映画とは180度趣きの異なる『「粘土のお面」より かあちゃん』を監督している。白ら代表作の一つとするこの作品は、豊田正子の原作『粘土のお面』を、前年の12月に大蔵貢が新東宝社長を解任され、圧倒的な支配力を誇る大蔵のようなプロデューサーが不在の中で製作された作品であり、どん底の生活ながらも明るく生きぬく庶民の姿を描いたものであり、反面、大蔵カラーが薄められたことによって初期の新東宝映画を思わせる文芸映画の色彩が強くなっている。脚本を執筆した館岡謙之助は『思春の泉』(1953年)や『若き日の啄木 雲は天才である』(1954年)など主に中川の文芸作品を担当した脚本家であり、本作は『青ヶ島の子供たち 女教師の記録』(1955年)以来6年ぶりの中川作品への参加である。


上掲は映画は、中川信夫監督『粘土のお面」より・かあちゃん』.予告編

1961(昭和36)年東宝が倒産した後フリーになった中川は、1968(昭和43) 年、東映(東京撮影所)に招かれ、久々に劇映画『怪談蛇女』(1968年※10のここ参照))を監督している(翌年宮園純子主演『妖艶毒婦伝』シリーズの2作品『妖艶毒婦伝人斬りお勝』(1969年妖艶毒婦伝お勝兇状旅』(1969年※10のも監督している)。
また、中川信夫が77歳の喜寿を迎えた年である1982(昭和57)年9月公開の『怪異談 生きてゐる小平次』は、日本アート・シアター・ギルド(ATG)の「1千万円映画」の1本として製作されたもの。
原作は鈴木泉三郎の同名戯曲である。この原作は、幽霊役で名を馳せた役者が殺されて幽霊となる小幡小平次の怪談話をアレンジし、「殺したと思ったのに何度でも生きて舞い戻ってくる」というシュールな味わいを持っている。歌舞伎では今もたびたび公演される定番の芝居のひとつであり、第二次世界大戦後の1957(昭和32)年には、青柳信雄監督、二代目中村扇雀芥川比呂志八千草薫主演による『生きている小平次』がすでに東宝で映画化されており、本作は、2度目の映画化である。
二代目中村扇雀が演じていた小幡小平次(役者)役は、:藤間文彦藤間勘十郎夫妻の長男)が、太九郎(囃子方)役は、石橋正次が、おちか(太九郎の女房)役は宮下順子が演じている。
中川はこの作品を遺作として、2年後の1984(昭和59)年に死去した。
中川の監督した怪奇・怪談映画は新東宝時代の6作品と当作品で計7本しか見当たらないが・・・。本人が8本というのなら、鈴木健介が言っているように1949(昭和24)年9月公開の『エノケンのとび助冒険旅行』を加えるのか、また、東宝へ来る前の東宝時代の1956(昭和31)年公開の『吸血蛾』・・・かな?
『吸血蛾』は、横溝正史原作(小国英雄+西島大脚本)の金田一(耕助) ものの一つで、本作での金田一役は二枚目俳優池部良が演じており、コートや背広姿で、金田一というよりも、ハンフリー・ボガード演ずるハードボイルド探偵のようなイメージの主人公が狼男と対決するという、中川信夫監督のエログロ満載映画で、東宝というより、何だか新東宝みたいな雰囲気の映画だというから・・・(※10のここ参照)。当時の東宝らしく出演者は非常に多彩で、金田一耕助 役の池部良など下の方に列挙されている(Movie Walker 参照)。


上掲は、『吸血蛾』ポスター。
それとも、新東宝時代のヤコペッティ監督による1962年公開のイタリア映画『世界残酷物語』をヒントにした小森白、高橋典と共同監督したドキュメンタリー映画『日本残酷物語』(1963年公開)かな・・・。内容は日本の風俗、自然現象、社会問題、食生活、性風俗といった当時の日本の残酷世界を見せてくれるモンド映画らしい・・・が。
他にフリーになってからは、「怪談映画の巨匠」として名が売れていたからであろう、多くの怪談物を手掛けている。(テレビドラマ参照)。

酒豪として知られる中川の詩集『業』所載の詩『死酒(しにざけ)』には、以下のように記されている。

おれが
「死んだら
おれの 死顔(しにがお)の上に
一升の酒を
ぶっかけろ
けちけちせずに
一升ぶっかけろ
一級酒がいい
特級酒はいやだよ
二級酒もごめんだ

中川信夫生誕102(トーフ)記念番組(1905年生まれなので+102で2007年の番組)のドキュメンタリー『映画と酒と豆腐と ~中川信夫、監督として 人間として』(国際放映製作),では、この詩を「特級酒のような高級世界は窮屈だし、二級酒のような苦しい生活も実体験から拒否をした。ごく普通の世界で生きたいという願望」と解釈している。中川信夫の長男の中川信吉は毎年、正月か命日が近くなると父の墓参に訪れ、酒と豆腐ともうひとつの好物だったというアンパンを中川の墓前に供えることもあるという。また、この詩を読んだと思われる墓参者が、たびたび墓を訪れては、一級酒を供えたり墓石にかけたりしているという。

(冒頭の画像は、中川信夫監督映画、「東海道 四谷怪談」(1959年公開、新東宝映画、主演:天地茂)画像はWikipediaより。)



「酒豆忌」「怪談映画の巨匠」中川信夫(映画監督)忌日(参考)へ

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