日本記念日協会(※1)に登録されている今日・7月15 日の記念日に「世界ありがとうの日」があった。
制定したのは、Q&Aサイト「OKWave」をはじめとして、FAQソリューションや各種のQ&Aサービスで知られる株式会社オウケイウェイヴ(※2)。同社の企業理念である「世界中の人と人を信頼と満足でつないで、ありがとうを生み出していく」を実践し、世界中を感謝の気持ちでつないでいくのが目的・・・だとか。日付は同社の創業日である1999年(平成11年)7月15日からだそうだ。
「ありがとう」は、日本語で感謝を表す時に用いられる挨拶語である。
今時の日本の人は、素直に「ありがとう」という感謝の言葉を口に出して云えない人が多く、「ありがとう」のかわりに、「どうも」とか、「サンキュウ」「すみ(済み)ません」とか言ったりする人が多いように思う。
この「すみません」の「済む」は、仕事が済む、終了などとともに、「気持ちがおさまる」「気持ちがはれる」といった意味もあり、感謝の意を表すときにも使われる言葉だが、心からの感謝の気持ちは伝わってこない。
英語の「Thank you」 の「Thank」も「感謝する 」の意だが、「Thank you for that ball! =すいませーん!ボールを拾ってください」といった使い方がされるが同じ様な使い方だろう。同じ「感謝」を表す言葉でも、「サンキュウ」や「すみません」よりは、「ありがとう」の方が、感謝の気持ちがこもっている。照れがあるのかもしれないが、誰もが、素直に「ありがとう」という言葉を、日常の挨拶言葉として使えるようになれたら、本当によい人間関係が出来るだろうと思うのだが・・・。
偉そうなことを書いている私だって、あまり自信はないのだが、我が女房殿は、何かあると必ず「ありがとう」と言う。もう習慣的になっているが、そういわれて悪い気はしない。産めよ増やせよと云われていた戦前に、12人もの兄弟の末っ子として生まれ、一番上の姉とは20歳位い歳が違うと云い、甘やかされて育っているかと思うのだが、さすが明治人の子供、。こういった面の躾だけはきっちりとされている・・・といつも感心させられている。
日本記念日協会には、3月9日の記念日にNPO法人のHAPPY&THANKSが設けた「3.9デイ(ありがとうを届ける日)」 があったので、以前このブログで「ありがとう」について書いた(ここ参照)が、それ以前にも、同じ日に「ありがとうの日」のことを書いていた(ここ参照)。3度も同じことをテーマーに書くのをやめようかと思ったのだが、最近のように、都市部など特にそうなのだが、お隣さんの事情も知らないという状況が急速に増えていて、人間関係が冷め切っている。私の家の隣の娘なども朝、顔を合わせても軽く会釈をする程度で「お早う」の挨拶すらできない・・・。そういう若者が非常に多くなった。
そんな人と人の繋がりが薄いと言うより、無くなってしまったとも云える現代の日本。1995(平成7)年の阪神・淡路大震災以来、特に、2011(平成23)年3月11日の東日本大震災以来、人と人の「絆」が云われだし、2011年の世相を表す漢字(今年の漢字)にも選ばれたものだが、なにか「絆」「絆」と言っているのは、このような震災や、台風、洪水などの被害に直接遭遇した人達の「傷のなめ合い」や「合言葉」のようにさえ聞こえて仕方がない。
最近は、年老いた老人の一人暮らしも多くなり、そんな老人の孤独死や、認知症を患った老人たちの徘徊、核家族化の進行による老老介護問題などの増加も社会問題となっており、また、乳幼児など小さな子供への親の児童虐待、あるいは、小さな子供や女性の誘拐やストーカー被害などが起きる度に、地域社会のコミュニティーの重要性や、人と人の「絆」が云われているが、普段は「隣の人への関心」も薄く、「挨拶」ひとつ交わせない者が、どうして、友好的な地域のコミュニティーを築くことができるのだろうか・・。町内会にしろ会社にしろ、又、友達関係にしろ、お付き合いには、良いことばかりではなく、結構、煩わしいことも付きものだ。
良い関係だけを望んでも、その煩わしさには関わりたくない・・・。そんな身勝手な自我中心的な人間が戦後は非常に多くなっっている。
例えば、介護をしなければならない親(義理も含めて)がいる。又、手の焼ける小さな子供がいる。しかし、介護の必要な人の入れる老人ホームは足りないし、小さな子を預ってくれる保育園も足りない。
そういう要介護者や子供をもった女性は、戦前なら、好むと好まざるとにかかわらず家の嫁として、親や子供の面倒を見ていた(男は仕事、女は家庭の考えから。家制度の中で)。
今の時代、家制度は崩壊し、女性も男女同権のもと、男性同様社会へ進出するようになった。核家族化した中、子供や親の世話などしていると、自分のしたい仕事が出来ないから、介護を必要とする老人を見てくれる老人ホームや子供の面倒を見てくれる保育園などの施設がいると言う。しかし、そのような施設は足りない。もしハード面だけの施設を増やしても、そのような世話の焼ける仕事を喜んでしてくれる人はどれだけいるのだろうか。不足しているハード面の施設や仕事をしてくれる人に対する金銭や処遇面の改善をすれば解決する問題なのか・・・。難しい問題である。
正直言って、誰もが、「3K」(きつい、危険、きたない)職場を忌避するのは、貴族化・清潔化という消費文化と無関係ではないという。3K以外の、例えばウエートレス不足も、身体・人格による他者へのサービスが嫌われるから。他者のサービスはいくらでも受け入れるが、自分からのサービスはいやというのは貴族固有の発想であり、3Kはさらに「給料が安い、休暇が少ない、カッコ悪い」が加わって「6K」。がはびこっているのが今の世の中、ではないか・・・・。それで悩んでいる人が多いのではないか・・・。
誰でも自分のしたい仕事をしたい。出来れば、快適な環境で、綺麗な服を着て、人に気を使わず、楽して、報酬の期待できる仕事をしたい。誰もがそのような思い(自我・我欲=自己中心的な欲望)をもっていることだろう。しかし、世の中、誰もがそんな結構な仕事に就けているわけではない。そして、そのような職場ほど、どこも人手不足で困っているのである。債務不履行問題を起こしているギリシャの国の人などはそんな人達ばかりのようだ。
少し、余談になるが、現代の民主主義・民主制・民主政は、古代ギリシアにその起源を見ることができ、都市国家(ポリス)では民会による民主政が行われた。特にアテナイで直接民主制が確立したと言われている。
ただし、古代アテネ(Athēnai)などの民主政は、各ポリスに限定された「自由市民」にのみ参政権を認め、ポリスのため戦う従軍の義務と表裏一体のものであった。女性や奴隷は自由市民とは認められず、ギリシア人の男性でも他のポリスからの移住者やその子孫には市民権が与えられることはほとんど無かった。
後に扇動的な政治家の議論に大衆が流され、政治が混乱し、ギリシャの哲学者プラトンの師・ソクラテスが国家の名において処刑されてしまった。
それを契機としてプラトンは、師が説きつづけた正義の徳(『ヒッピアス (小)』参照)の実現には人間の魂の在り方だけではなく国家そのものを原理的に問わねばならぬと考えるに至った。そして、この課題の追求の末に提示されたのが、中期対話篇『国家、』である。
民主制を古代ギリシャでは「デモクラテイア(democracy)」と言う。デモス(demos=古代ギリシアのポリスを構成する組織・人民)がクラティア(kratia、権力・支配).を持つ体制=「民権」ないし「民衆支配」の体制を指すが、プラトンは対話篇『国家』の中で、民主制は自分勝手で個性のないバカな人間を生み出す「衆愚政治」だと批判している。衆愚政治は、有権者が各々の自我(エゴ)の中から生まれたエゴイズムを追求して意思決定する政治状況を指す。エゴイズムは自己の積極的利益の追及とは限らず、恐怖からの逃避、困難や不快さの回避や意図的な無視、他人まかせの機会主義、課題の先延ばしなどをも含む(※3.※4参照)。
「衆愚政治」は民主主義の最大の欠点を表しているといえるが、世界で最初に民主主義をなした国家ギリシャが皮肉にも衆愚政治に堕し、その後衰えてゆくのは如何にも皮肉であるが、今のギリシャ問題を見ていると、ギリシャ人にはいまだに古代ギリシャ時代の悪しき思想が抜け切れていないように思われる。しかし、今の日本も何か少しづつそのような状況に近づいているような気がしてならないのだが・・・。
世の中には、好むと好まざるにかかわらず、「6K」と云われる職場で一生懸命頑張っている人も大勢いるからこそ、この世の中なんとか回っている。恵まれぬ環境の中で努力している多くの人たちに、私たちは、どれほど感謝の気持ちを持っているのだろうか。せめて、誰にでも「ありがとう」と言う感謝の言葉を素直に口に出して云えるようになれば、少しは良い関係(絆)も出来てゆくのではないか。言葉ぐらいで・・と思う人がいるかもしれないが、以前このブログ、「ことばの日」(5月18日)でも書いたのだが、イスラム教の教の中に、以下のような言葉があると聞いている。
「自分が変れば 相手が変る。心が変れば 態度が変る。態度が変れば 行動が変る。 行動が変れば 習慣が変る。習慣が変れば 人格が変る。人格が変れば 運命が変る。運命が変れば 人生が変る。」
その根拠はよく判らないが、人生訓などとしても、よく語られるものであるが、そんなこと・・・と言われるかもしれないが、人間、常日頃から、「いい言葉」を聞き自らも使っていると、やがてその人の、行動や人格までも変化し、ひいては、家庭や、社会の安定にも通じるものと信じている。
アメリカの心理学者マズローの名言「自分自身に対する認識を変えれば、人間は変わる。」(自己実現理論)も、同様の考え方のものだろう。
言葉・・・されど言葉である。日ごろから「いい言葉」に接したいものである・・・・、そう思って、また同じテーマーで書いてしまった。
この日本語の「ありがとう」と言う言葉の語源は、形容詞「有り難い」の連用形「有り難く」のウ音便化し、感謝の気持ちを表す言葉「ありがとう」となったもの。
「有り難い」は、文字通り、「有る(ある)こと」が「難い(かたい)」つまり、「有ることがむつかしい」と云う意味で、ここから、本来は、ありそうにない。ほとんど例がない。めったにない。珍しい。・・・と言う意味を表していた。
清少納言の『枕草子』"ありがたきもの"の段には以下のように書かれている(現代語訳。原文、解説等は※5を参照。ただし、『枕草子』には、多くの異本があり、伝本によってかなり内容に違いがあるようで段数も異なる。※6又ここなど参照)。
(枕草子 「ありがたきもの」)
めったにないもの。舅にほめられる婿。また、姑に大切にされるお嫁さん。毛がよく抜ける銀の毛抜き。主人をけなさない従者。ほんの少しも癖のないこと。容姿、情、様子が秀でていて、世を渡る中で、ほんの少しの欠点もない人。
同じところに奉公して住んでいる人で、お互いに気がねして、少しのすきもなく、心遣いしていると思われる人が、最後まで欠点を見せないというのはめったにない。物語や歌集などを書き写すときに、(その物語や歌集)原本に墨をつけないこともめったにない。価値のある本(草子)などの場合は、非常に注意を払って書くが、必ず汚してしまうようだ。
男と女(の仲について)は言うまい、女どうしも、深い約束ごとがあって交際している人で、最後までずっと仲が良い人はめったにいない。
(男女についてはいうまでもなく将来まで仲が良いことは難しい)・・・・と。
「めったにないもの」・・・・、いつの時代になっても変わらないものだね~。その中にある、「毛抜き」は、当時の女性は眉を抜く習慣があったので、必需品で、抜いたあとは眉墨で描いた。今でも女性にとって、めったに手に入らない化粧品など女性にとっては”有難い”ものだろう。「めったにない」が現代語の「感謝をする」の意味で用いられるようになったのは、近世になってからの様だ。
「有難い」は、中世になり、仏の慈悲など“貴重で得難いものを自分は得ている”・・・と言うところから、宗教的な感謝の気持ちで云うようになり、近世以降、感謝の意味として一般にも広がったとも言われている。
「有難い」は仏教語で、『法句経』にある生命(生まれてから死ぬまでの時間=命)の驚きと感動を伝える言葉が、時代と共に感謝を表す言葉となったとも言われている。
この『法句経』は パーリ語の経典『ダンマパダ( Dhammapada)』:の漢訳で、原始仏典(ブッダの仏教)の一つで、語義は「法(真理)についての句(言葉)」といった意味であり、原始仏典の中では最もポピュラーな経典の一つである。
『スッタニパータ』と共に原始仏典の、最古層の部類とされるが、『スッタニパータ』はかなり高度な内容を含んでいるため、必ずしも一般向けではないが、『ダンマパダ』は、たくさんある経典の中でも、一番釈迦の説法の原形が残っているとも言われており、初学者が学ぶ入門用テキスト向きだと言われている。
内容は、仏教の立脚地より日常道徳の規準を教へたものであり、形式は、全部頌文(ジュモン)より成り、古代仏教の聖典たる律や經の中に散在する金玉の名句(四百二十三の名句)からなる教訓句集のようなものである。
その中の第十四章 “佛陀の部”の、百八十二番の句に、いわゆる「ありがたい」に関することが四つ出てくる。
以下の文は、浄土宗の僧侶、仏教学者・サンスクリット学者でもある荻原雲来(明治2年~ 昭和12年)の訳註『法句經』(※5青空文庫)より引用したもの。
(佛陀の部、百八十二番の句)
人身を得ること難し、
生れて壽あること難し、
妙法を聞くこと難し、
諸佛世に出ること難し。
ここでの「難し」は、当然「有り」「難し」のこと。「壽」とは、「寿命」(生命=命。生きていること)のこと、また、「妙法」とは、「正法」つまり、ブッダ(悟りを開いた釈迦)の説いた正しい法(教え)のことを言っているのだろう。3段目と4段目は入れ替えた方が分かりやすいだろうから入れ替えて、もう少し判り易くすれば以下のようになるのだろう。
人がこの世に人身を得る(生まれてくる)ことは難しい(「有り」「難い」ありがたい)ことで、
今こうしてこの世に生命(命=生きていること)のあることもありがたいことだ。
この世に諸々の仏が現れることはありがたいことであり、
その仏から正しい法(教え)を聞くことはなお、ありがいことだ。・・・といったことになるのではないか。
日本の諺には、「袖振り合うも多生の縁」がある。
見知らぬ人とたまたま道で袖をすり合わせるというのも、前世からの深い因縁によるものであるということ。人と人との関係は単なる偶然によって生ずるわけではないので、大切にしなくてはならないという仏教的な考え方からきている。「多生」は何度も生まれ変わる意味。
「他生」と書く場合は、この世以外の意味で、「前世」と「来世」のこと。そのものの力ではなく、他の原因によってあるものを生じること。・・・を言う。
「多生の縁」を「他生の縁」とも書く(成語林=故事ことわざ慣用句の大辞典)ようで、こう書いても間違いではないようだ。
「多生」は現世の前に積み重ねた数多くの前世。その数多くの前世の因縁が積み重なった結果が現世で袖を振り合うという出会いになっている。さらに、そうした現世の因縁も来世の縁(縁起参照)に繋がってゆく・・・と考えられている。
このような輪廻転生の思想は、仏教(釈迦の仏教)以前からインドにおいて存在していた(★「輪廻転生」の考えは、ヒンドゥー教や仏教などインド哲学・東洋思想において顕著だが、古代のエジプトやギリシャ[オルペウス教、ピタゴラス教団、プラトン(イデア)]など世界の各地に見られるという。輪廻転生のところ参照)。
仏教の世界観は、人の一生は苦であり永遠に続く輪廻の中で終わりなく苦しむことになる。その苦しみから抜け出すことが解脱であり、修行により解脱を目指すことが初期仏教の目的であった。初期仏教は、釈迦入滅から約100年くらいまでの、部派に分裂する前の仏教をいう。
仏教においては、私たち人間を含めたすべての生きもの(衆生は迷いの世界から解脱しない限り、無限に存在する前世と、生前の業、および臨終の心の状態などによって次の転生先、(部派では「天・人・畜生・餓鬼・地獄」の五道、大乗仏教ではこれに修羅を加えた六道の転生)先に生まれ変わるとされている。
では六道のどの世界に生まれ変わるかは、何によってきまるのか?
仏教では、生前での生き方、為してきたことの結果によって生まれ変わる世界が決まると説いている。それは「自分の為したことが返る」というカルマ(karman.。業)の法則に基づいている。日本においては「因縁・因果」という言葉で知られている。
そして、六道を輪廻する衆生の中で、人間として生まれるのは誠に得難い(有難い)ことであると考えられている。
それが、先に挙げた『法句經』の「人身を得ること難し」である。しかも、人間が住む世界(人間界)は、四苦八苦に悩まされる苦しみの大きい世界である。だが、苦しみが続くばかりではなく楽しみもある。また、唯一自力で仏教に出会える世界であり、解脱し仏になりうるという救いもある世界でもある。
折角、そんな、有難い人間世界に生まれてきたのだから、それを有難いことと感謝をし、私たちは色々なことに惑わされずに、釈迦の説いた正しい教えを素直に聞き,善導を歩み功徳を重ねることが善き境遇(善趣)に生まれ変わり、逆に、悪業を積めば苦しい境遇(悪趣)に生まれ変わるということになるのだろう。
ところで、釈迦の仏教では輪廻において主体となるべき我、永遠不変の魂は想定しておらず、無我を知ることが悟りの道に含まれるようだ(以下参考の※8参照)。この点で、輪廻における主体として、永遠不滅の我(アートマン)を想定する他のインドの宗教と異なっているようだ。
無我でなければそもそも輪廻転生は成り立たないというのが、仏教の立場であり、仏教における輪廻とは、「心がどのように機能するか」を説明する概念であり、単なる死後を説く教えの一つではない。しかし、後代になり大乗仏教が成立すると、輪廻思想はより一層発展し、自らの意のままにならない六道輪廻の衆生と違い、自らの意思で転生先を支配できる縁覚・声聞・菩薩・如来としての境遇を想定し、六道と併せて十界を立てるようになった。
3段目、と4段目についてであるが、「諸佛世に出ること難し」の諸仏とは、釈迦を含む7人の仏(過去七仏)のことであり、仏教で釈迦以前に存在したとされる6人の仏と、釈迦を含む7人の仏が共通して説いた教えを一つにまとめたとされている偈「七仏通誡偈」が『発句教』182番に続く183番だという。
(『発句教』183番)
諸の惡を作さず、善を奉行し、自心を淨む、是れ諸佛の教なり。
判り易く書くと、「すべて悪しきことをなさず、善きことを行い、自己の心を浄めること、これが諸の仏の教えである。」となるのだろう。
これに似た偈が「感興のことば」第28章「悪」にある。
それは「みずから悪をなすならば、つねに自分が汚れる。みずから悪をなさないならば自分が浄まる。」という言葉である。
これを参考にすると七仏通誡偈の意味は「すべて悪いことをしてはいけない。諸の善いことを行うことによって自己の心を浄めなさい。」
これが諸の仏の教え( 正しい教え)である、ということになるのだろう。
この「感興のことば」とは、サンスクリット経典として継承されている『ウダーナヴァルガ』(Udānavarga)のことで、ブッダが感興をおぼえた時,ふと口にした言葉集の意味で、『法句経』(ダンマパダ)と『自説経』(Ud?na)を足したもの。日本では、中村元訳(『ブッダの真理のことば・感興のことば』)がある(「ブッダの真理のことばがダンマパダ。「感興のことば」がウダーナヴァルガの翻訳である)。
この「感興のことば」は以下で聞ける。以下で、第28章 悪を聞いてみてください。
ブッダの感興の言葉 – YouTube
この七仏通誡偈の精神は善いことを行うことは自己の心(自我)を浄めるためである。 自己心浄化に重点が置かれている。
ブッダの説く教えは単に苦しみの消滅だけではなく清らかさと聖なるものを追求していることが分かる。
これは八正(聖)道のめざすものである(※7の第十四章 “佛陀の部”の一九〇、一九一参照)。
七仏通誡偈の言っていることは実行は難しいかも知れないが単純で分かりやすい。
このような単純明解さがブッダの原始仏教の特徴と言える。
『発句教』(ダンマパダ)第十一章老耄(ろうもう=おいぼれること。また、その人。老い)の部の一五三、一五四(※7参照)は、釈迦が悟りブッダとなった時の歓喜(よろこび)の偈だと伝えられているものである。
そこでは、「私は、苦しみの基盤である家(自分の肉体)の作り手を探し求めて、幾度も。生死を繰り返す輪廻の中を得るものもないままさまよい続けた。 何度も何度も繰り返される生は苦しみである。
だが家(自分の肉体)の作り手よ、お前は見たのだ。 もう二度と家を作るな。桷(すみき。ここでは煩悩を言っているようだ)は折れ、棟梁(ここでは無明を言っているようだ)は毀れてしまった。心(ここでは人間が持つ根本的な欲望「渇愛」をいっているようだ)を形成するはたらきは心から離れ、渇愛を滅ぼし尽した(解釈等は、※9のダンマパダ153、154 「家」を作る大工さん|釈尊(後編)参照)
釈迦は輪廻転生が生きているときの行いによって決まるのであり、死後は何をしようがもはや手遅れと考えていたようだ。釈迦の考えた仏教はあくまでも生きている人間のためのものであり、今仏事で行われているような葬式や法事も釈迦の考えた仏教とは無関係なもので 後に考えられたものである。
仏教(特に原始仏典)の云っていることは全ての現象無常、変化性のものである(諸行無常)という客観的真理を述べているだけで悲哀などの感情的情緒的なものは入っていないようだ。
人は有難いこの世に生を得た。「二度とない人生」・・・だからこそ、「ブッダが究明・実践した清浄(自我のまじらぬこと、執着のないこと)の行を体現して生活する必要」があるのだろう。つまり、「有意義な人生」を送る必要がある、ことに気づく。これは現代の科学的真理と一致する不変の真理であると、云えるかもしれない。ブッダは、「死後の生」を全否定し、そこから、ギリシャの哲学者・ソクラテスの提起した『人間いかに生きるべきか?!』(※10、※11参照)の回答を導き出したともいえる。
何か私の説明ではわかりにくかったかもしれない。『法句経』については、以下参考に記載の※12:「こころの時代」の以下のページで分かりやすく解説しているのでそこを見られるとよい。
101 聖典を読む 法句経
『法句経』に学ぶ②生命あるはありがたし
「こころの時代」?・・、何か聞いたことのある名前だと思ったら、最後のところに、「これはNHK教育テレビの「こころの時代」で 放映されたものである」…とあった。
「こころの時代」は、NHK教育テレビ、並びにラジオ第1放送・FM放送で同時間に同一内容を放送するサイマル放送による放送番組である。
NHK教育テレビでは1982(昭和57)年4月11日より、NHKラジオ第1放送では1990(平成2)年4月28日未明よりそれぞれ放送開始されている。ほぼ毎日放送されるようになるとテレビ版の再放送だけでは間に合わず、ラジオ版も製作されるようになり、1993年から現在の番組名に改題したもの。
この番組の原点は、1962(昭和37)年から1982(昭和57)年にかけて放送された『宗教の時間』という教育テレビの番組で、宗教の話題を中心に、人生の苦境を克服した人物、あるいは人生経験や各種研究の第一人者に対し、番組ディレクターや番組アンカーのアナウンサーがインタビュアーとなり番組が進行する。現在は「こころの時代」と改題し、宗教にとどまらない内容で放送中の長寿番組である(※13参照)。
同局HPに「どうにもならない壁にぶつかったとき、絶望の淵に立たされたとき… どう生きる道を見いだすのか。先人たちの知恵や体験に、じっくりと耳を傾ける番組です。』・・・とあるように、さすがNHKならではの、なかなかいい番組である。
参考※12の 「こころの時代」は、そのNHKの「こころの時代」で 放映されたバックナンバー的なもののようだ。
このNHKの「こころの時代」の放映で、使われていたテーマー音楽がまた良い。我が神戸市出身のピアノ奏者、作曲家。ウォン・ウィンツァン(※14参照)作のテーマ曲だが、特に題名はなく、「こころの時代」テーマ曲とされているようだ。冒頭の動画で聞けるので聞いてみるとよい。
参考:
※1:日本記念日協会
http://www.kinenbi.gr.jp/
※2:OKWave HP
http://www.okwave.co.jp/
※3:プラトン『国家』岩波文庫(下巻):第七巻~第九巻[B.C.375?]
http://www.econ.hokudai.ac.jp/~hasimoto/Resume%20On%20Plato%20Politeia.htm
※4:民主主義国家の末路 | 実存の部屋
http://blog.philosophia-style.com/65284191.html
※5:楽古文:枕草子
http://www.raku-kobun.com/makuranosoushi.html
※6:原文『枕草子』全巻
http://www.geocities.jp/rikwhi/nyumon/az/makuranosousi_zen.html
※7:荻原雲來訳註 法句經 - 青空文庫
http://www.aozora.gr.jp/cards/001529/files/45958_30545.html
※8:マニカナ・ホームページ:エッセー
http://homepage1.nifty.com/manikana/essay/essay.idx.html
※9:瞑想してみる:説法めも【目次】
http://thierrybuddhist.hatenablog.com/entry/2014/11/09/200000
※10:ソクラテスの生涯 - ギリシア哲学への招待状
http://philos.fc2web.com/socrates/soccar.html
※11:人はいかに生きるべきか
http://t3ikio.exblog.jp/13530704
※12:こころの時代
http://h-kishi.sakura.ne.jp/kokoro-mokuji.htm
※13:こころの時代~宗教・人生~/宗教の時間 - NHK
http://www4.nhk.or.jp/kokoro/
※14:ウォン ウィンツァン Wong Wing Tsan ブログ
http://www.satowa-music.com/
禅と悟り
http://www.sets.ne.jp/~zenhomepage/index.html
語源由来辞典:ありがとう
http://gogen-allguide.com/a/arigatou.html