緒方洪庵
嘉永2年の11月7日(西暦では1849年12月21日)は、幕末の蘭学者・蘭医・教育者でもある緒方洪庵が天然痘の病魔から多くの庶民を救うため、大坂古手町(現・大阪市中央区道修町)に種痘を行う為の種痘所(後に除痘館と改称)を設立した日である。
除痘館跡
2015(平成27)年の今年も相次ぐ日本人のノーベル賞受賞で沸いた。微生物の力を使った熱帯病(*1参照)治療薬の開発に寄与した大村智・北里大学特別栄誉教授が「生理学・医学賞」、素粒子のニュートリノに質量があることを初めて実証した梶田隆章・東京大学宇宙線研究所所長が「物理学賞」の栄冠に輝いた。2人受賞の快挙は、昨2014年の赤崎勇ら物理学賞の3人受賞(ここ参照)に続くもの。特に、物理学、化学、生理学・医学の自然科学分野での日本人のノーベル賞受賞者数は21人に上り、このうち2000年以降の受賞者数は16人(米国籍を取得した南部陽一郎、中村修二の両氏を含む)となり、自然科学分野の3賞(物理学 ・化 学 ・医学・生理学)に限れば、1901年の同賞創設からの累計でも、米、英、独、仏に次ぐ世界5位に躍り出た(以下参照)
図録 ノーベル賞(自然科学分野)の国別ランキング
こうした最近の状況を受け、自然科学分野で「受賞常連国ニッポン」として胸を張りたいところだが、5~10年後に受賞者激減の兆候があり、そう手放しで喜べる状況ではないと指摘する声もある。その背景には、日本の経済力の低下があるようだ(*2参照)。このような成果が出るのには長い長い年月の努力の積み重ねがあってのもの、国も将来のことを考えてしっかりと研究者の支援をしてほしいものだ。
このような受賞者の功績を称えるのは良いが、TVなどでは何か受賞者の私的なことの報道ばかりが多い。どういったことで受賞したのか、その学問的な内容について誰にでもわかりやすく報道をしてくれる時間が少ない。何か興味本位の報道ばかりのように感じて仕方がない。
それに、日本人が受賞できなかった時の「受賞ならず」の報道では、ただ、残念だったという内容だけ。惜しくも受賞はできなくても、日本には多くの研究者が、陰では地道な努力をしながら、このようなことについて研究している。そういったことはほとんど報道されない。幸いにも受賞をし、脚光を浴びた人に群がって報道している・・といった感じである。
それはオリンピックなどスポーツの分野などでも同じである。かって、私などが学生時代には、サッカーなどより人気のあったスポーツにラグビーがあったが、サッカーのJリーグ人気に押されてなりをひそめていた。そのラグビーが、9月19日の「ラグビーワールドカップEngland2015」(*3)の南アフリカ戦で、身体の小さな日本代表チームが 32-34でよもやの劇的勝利をしてからというものは、もう、連日ラグビーの報道で沸いている。しかも、は五郎丸歩選手がキックを蹴る際に印を結ぶ忍者のようなポーズをとる「五郎丸ポーズ」(ここ参照)ばかりが話題になっている。私も学生時代よりラグビーのファンであり、ラグビーが脚光を浴びるのはうれしいが、日本のこのような報道の在り方には前々から疑問を持っている。なにか前置きが長くなったが、元に戻る。
「ノーベル生理学・医学賞を受賞した大村智氏の研究が生み出したのは、イベルメクチンという薬だそうだが、これは、失明に繋がる「オンコセルカ感染症」(フィラリア参照)と、足が象のように大きく腫れる身体障害(象皮病)を引き起こす「リンパ系フィラリア症」(ここ参照)という2つのNTDs (Neglected Tropical Diseases=顧みられない熱帯病、*4参照)の特効薬として普及し、何億人もの人々を救った。
病気の予防として思い浮かべるのはワクチン接種であるが、ほとんどのワクチンは完全な予防効果を得るために複数回の投与が必要であり、病院に行かなくてはならない。しかし、イベルメクチンは予防薬として「年に1回だけ飲めばよい」というもので、しかも極めて安全で、医師や看護師なしで服用できるため「奇跡の薬」と呼ばれているものだそうだ。医療専門家のいないアフリカの奥地でも使用されており、NTDsに苦しむ地域の人々の生活を大きく変えることができた。しかも、その素晴らしい薬を無償で提供しているというから大村氏の偉大さが知れる。まさに人類のために最大の貢献をした人だといえるだろう。
しかしその大村さんは以下のように言っている。
「私の仕事は微生物の力を借りているだけで、私自身がえらいものを考えたり難しいことやったりしたわけではなく、すべて微生物がやってくれたことを勉強させていただいたりしながら、今日まで来ている。
そういう意味で私がこのような賞をいただいていいのかなと思います。みなさん、周りの人たちは、そういう仕事、成果を上げたと評価してくれてましたが、私自身は正直いってなんといいましょうか、微生物がやってくれた仕事を私はそれを整理したくらいのものだから。それにしてもこうやって、いつも数十人のグループで共同研究をやっているが、皆さん本当に心を一つにして大きな目的に向かって、それが私は非常に幸せなことという風におもっています」(2015年10月5日夜の記者会見(北里大学)より)。以下参照。
大村智さんのことば(記者会見や取材から) - ファイル
いかにも大村さんらしい謙虚で、誠実な言葉である。
また、物理学賞受賞の梶田さんも、「きちんと(研究を)やっていけば、何かに結びつくんじゃないかと思ってきちんとやった。自分の進んでいる道が正しいと思って頑張った」などとコツコツ研究を続けたことを明かし、「研究の成果は決して自分だけのものではないと述べ、「ニュートリノ研究というのは、一人でできるようなものではなく、スーパーカミオカンデですと100人を超えるチームが一つの目標に向かって共同で研究をして、成果を出していくというようなプロジェクト。ノーベル賞には、私の名前を出してはいただきましたが、スーパーカミオカンデ、そしてカミオカンデの研究グループが認められたということだと思う」として、グループ全体の栄誉だとの考えを示した。以下参照。
ノーベル賞、梶田隆章さん「認められるまで、自分の道が正しいと思って頑張った」
梶田さんも大村さん同様に謙虚な人であるが、偉大な功績を挙げた多くの人はそのほとんどが謙虚である。
梶田さんは埼玉大学を卒業後に東大大学院に進み、そこで出会った小柴昌俊・名誉教授(2002年ノーベル物理学賞)や戸塚洋二・東京大特別栄誉教授(故人)のもとで宇宙線研究に従事。物質を構成する基本粒子の一つである「ニュートリノ」に質量があることを裏付ける「ニュートリノ振動」という現象を世界で初めて捉えたという。
このように、物理学、医学・医療に限らず、すべての人々の仕事や功績は、先人の業績の上に成り立ってなされたものともいえる。
西洋医学を日本では近代医学ともいうが、日本の医学史(年表参照)の中では、「日本の細菌学の父」として知られる北里柴三郎や赤痢菌の発見者として知られる志賀潔、あるいは黄熱病や梅毒等の研究で知られ、ノーベル生理学・医学賞の候補に三度も名前が挙がったが、黄熱病の研究中に自身も罹患し亡くなった野口英世などの名はよく知られているが、自分で何かを発見したというわけではないが、人のため世のために尽くし貢献をした偉大な人の一人として、今日のテーマーで採り上げた日本の近代医学の祖ともいわれる緒方洪庵を挙げてもよいのではないだろうか。
『対訳 21世紀に生きる君たちへ』(司馬遼太郎/著、ドナルド・キーン/監訳、ロバート・ミンツァー/訳、朝日出版社/刊.。ここ参照)は、大阪の作家・司馬遼太郎が小学校用教科書のために書き下ろした「人間の荘厳さ」「21世紀に生きる君たちへ」「洪庵のたいまつ」の3つから構成されるエッセイ集であるが、その中の『洪庵のたいまつ』では江戸時代末期、医者そして教師として多くの塾生を教育した緒方洪庵の一生をつづっているが、その冒頭の部分を一部以下に引用する(全文は*5の通信No.19参照)。
世のために尽くした人の一生ほど、美しいものはない。
ここでは、特に美しい生涯を送った人について語りたい。
緒方洪庵のことである。
この人は、江戸末期に生まれた。
医者であった。
かれは、名を求めず、利を求めなかった。
あふれるほどの実力がありながら、しかも他人のために生き続けた。そういう生涯は、はるかな山河のように、実に美しく思えるのである。
といって、洪庵は変人ではなかった。どの村やどの町内にもいそうな、ごく普通のおだやかな人がらの人だった。
病人には親切で、その心はいつも愛に満ちていた。
かれの医学は、当時ふつうの医学だった漢方ではなく、世間でもめずらしいとされていたオランダ医学(蘭方)だった。そのころ、洪庵のような医者は、蘭方医とよばれていた。
(中間略)
洪庵は、自分自身と弟子たちへのいましめとして、十二か条よりなる訓かいを書いた。その第一条の意味は次のようで、まことにきびしい。
医者がこの世で生活しているのは、人のためであって自分のためではない。決して有名になろうと思うな。また利益を追おうとするな。ただただ自分をすてよ。そして人を救うことだけを考えよ。
幕末の蘭方医としてまた蘭学の第一人者と仰がれた洪庵は、最新の医療の知識を紹介するため多くの蘭書を翻訳する一方、自らも多くの著書を残しているが、そんな中で洪庵にとっての終生の出版の大事業が『扶氏経験遺訓』(30巻。)の翻訳であった(原本*6参照)。扶氏とはドイツベルリン大学の医師フーフェランドのことで、彼の半世紀にわたる医療経験をまとめた内科学の著書(『医学必携』)のオランダ訳書『Enchiridion Medicum』を洪庵が訳したもの(1857年=安政4年出版)で、 江戸時代の刊本西洋内科書として最も完備したものとされており、日本の内科学の発展に大きな貢献を果たしたという。特に巻末の「医戒の大要」は12カ条の訳文として整理され「扶氏医戒之略」として有名であり、前掲文の“十二か条よりなる訓かいと”は、この「医戒の大要」のことである(十二か条全文は*7のここ→適塾「扶氏医戒之略」を参照されるとよい。
江戸時代から今日に至るまで、大阪は町人の町、商人の町であり、自由闊達な雰囲気がみなぎっていた。
船場北浜、御堂筋のすぐ裏手に近代的なビルに囲まれて今も残る町家風のたたずまい、緒方洪庵の適塾は昭和20年の大空襲にも奇跡的に消失を免れ往時の姿をとどめており、昭和39年(1964)に国の重要文化財としても指定されている。
緒方洪庵、幼名は章(あきら)、字は公裁、通称は三平、別号を洪庵の他に適々斎等。別号の適々斎は、「己の心に敵(かな)うところを楽しむ」心境を意味するらしいが、これは、『荘子 (書物)』の内篇第六大宗師篇から取られたという(Yahoo!知恵袋参照)。ここから洪庵の塾を「適々斎塾」あるいは、略して「適塾」と呼ぶようになった。
緒方洪庵は豊後佐伯氏の佐伯惟寛(惟定の弟)の末裔とされている(*8参照)。
文化7年(1810年)、備中足守(現:岡山市足守)で、足守藩の三十三俵四人扶持のあまり豊かではない武士佐伯瀬左衛門惟因(これより)の三男として生まれた。洪庵(幼名章)は元服したとき田上●之助(たのかみせいのすけ。●は馬偏に辛。音で「セイ」訓では「あか うま」と読むが、くりげ〔馬〕とも読)惟彰を名乗っていたようであるが、田上の姓は佐伯家の別名にあたる(*9の緒 方 洪 庵参照 )。
父は小身ながらも藩の会計方を務め、のち大坂や江戸の留守居になっているから几帳面で律儀な人柄であったようだ。
文政8年(1825年)父が、足守藩大坂蔵屋敷留守居役となったとき、父と共に大坂に出て洪庵も本来なら武士として文武の修行に励むところだが、生来の病弱で武士よりも医学の道に進む決心をしたという。後庵の若いころの主流は何といっても漢方であったが、もちろん蘭方医の興隆も目覚ましかったが社会的にはまだ漢方が主流であった。洪庵は、蘭方の道を選び、翌文政9年(1826年)、大坂の蘭学医中天游に師事し天游の私塾「思々斎塾」で4年間、蘭学、特に医学を学んだ。この時から先祖にゆかりのある「緒方」の姓に改名し、緒方三平を名乗るようになったという。
さらに、天保2年(1831年)、江戸へ出て坪井信道・宇田川玄真にも学ぶ。そして、天保7年(1836年)には、長崎へ遊学し、オランダ人医師のもとで医学を学ぶ。この時洪庵27歳。この頃から緒方洪庵と名乗った模様。
2年後の天保9年(1838年) 春、大坂に帰り、瓦町(現・大阪市中央区瓦町)で医業を開業、同時に私塾(蘭学塾)「適々斎塾(適塾)」を開き、医業の傍ら蘭学を教えた。
開塾の前年には大坂で大塩の乱が起こり市街の主要部が灰燼に帰し、また翌年の適塾を開いた年には蛮社の獄(「蛮社」とは、南蛮の学を学ぶ集団を呼ぶ)により蘭学者への迫害が起こるなど、社会は動乱・転換期(徳川封建社会の崩壊期)にあった。この年、洪 庵は天游門下の先輩・億川百記の娘・八重と結婚している(のち6男7女をもうけている)。
適塾は洪庵29歳の開設時からその後、53歳に至るまで、24年間にわたって、続いた。当時日本一栄えた蘭学塾とはいうものの、敵塾は普通の民家で、下が診療所と洪庵の住まい、二階が教室と生徒たちの寄宿舎になっていた。手狭な塾は若者たちの熱気でむんむんとしていたことだろう。
7年後の弘化2年(1845年)、過書町(現・大阪市中央区北浜三丁目)の商家を購入し適塾を移転しているが、移転の理由は洪庵の名声がすこぶる高くなり、門下生も日々増え瓦町の塾では手狭となった為である。
幕末より明治期の日本を主導した人材を多く輩出したことで知られる吉田松陰の松下村塾を思想教育の塾とすれば、洪庵の適塾はいわば語学教育・実技教育の塾であった。
緒方洪庵の本業は蘭学の医者であり、本来適塾は医学塾であったが、洪庵の特色は何よりもその語学力にあった。医者としての名声もあったが、数多くの翻訳によって、その名が広く知られていた。そのため、弟子からは「メース」(オランダ語の「meester」=先生の意味から)と呼ばれ敬愛されていという。彼は、原語をわかりやすく的確に翻訳したり新しい造語を作る能力に長けていたという。洪庵はそのためには漢学の習得が不可欠と考え、息子たちにはまず漢学を学ばせたという。
そういえば、私の叔父は、5か国語をこなせる語学力を生かして、小さな貿易会社を経営していたが年を取り事業をやめ、引退してからは、家でもできることをと翻訳の仕事をしていた。ある時叔父に会ったとき、「最近は若い人で英吾のできる人も多くなったので翻訳の仕事も減っているのではないですか」と聞くと、「いや、違う、英語を話る人は増えていても、正しい日本語を習得できていない人が増え、逆に、翻訳をできない人が増えており、かえって休む暇もないほど忙しくて困っている」と言っていた。官公庁関係などへ翻訳したものを持って行っても、「これは日本語ではない」・・・と突っ返されるそうだ。
洪庵の開いた適塾は医学塾にとどまらず、いつしか、オランダ語を介して西洋思想や兵学などを知ろうとする者が全国から集まるようになった、つまり、語学なり、医学をやっていく過程で、次第に西洋人のものの考え方を身に着けていったというわけである。
そうして、適塾生のなかから、明治を代表する思想家福沢諭吉や、安政の大獄に処刑された橋本佐内、日本赤十字社の創始者佐野 常民、維新十傑の一人に数えられ, 事実上の日本陸軍の創始者、あるいは陸軍建設の祖と見なされることもある村田良庵こと大村益次郎(蘭学,医学を修め適塾の,塾長も務めた)、外交官として活躍した大鳥圭介、衛生学の秦斗(たいと=その道で最も権威のある人)・長与専斉(福澤諭吉の後任として塾頭を務める)ら幕末から明治維新にかけて活躍した多くの人材が巣立っていった。
適塾出身者の活躍分野は非常に広い。その出身地は全国に及んでいる。その点、長州出身のみに限られた松下村塾とは対照的である。広く九州から北海道に至る各地から適塾に集まった弟子の数は洪庵が塾を開いて24年の間に3千人を超したという。
松下村塾が、政治運動家を養成した政治塾に対して、適塾からは、学者や政治家、医者と幅の広い分野の人材が育っている。後庵の塾にはイデオロギーがなく、自由な雰囲気の中でそれぞれが目指す道を学んだ。適塾の自由な雰囲気は、庶民の町大坂の土地柄によるところが大きいのだろう。
洪庵の功績としてもっとも有名なのは、適塾での人材の育成であるが、蘭方医としては、最新の医療の知識を紹介するため多くの蘭書を翻訳する一方、自らも多くの著書を残している。そんな中での集大成が先にあげた「扶氏経験遺訓」(30巻)の翻訳であるが、そのほか、洪庵の業績のひとつとして数えられているのが除痘館の設立である。
天然痘(smallpox)は、天然痘ウイルス(Variola virus)を病原体とする感染症の一つであり、「疱瘡(ほうそう)」とも呼ばれて、種痘前までは、死亡率が高い病気として当時最も恐れられていた病の一つであった。その特徴は、非常に強い感染力を持ち、全身に膿疱を生じ、仮に治癒しても瘢痕(一般的にあばたと呼ぶ)を残すことである。そんな天然痘の予防法の一つである種痘を本格的に広めた一人が洪庵である。
天然痘が全世界から撲滅されたのはほんの35年前、1980(昭和55)年のことである。この年5月8日、初めて、世界保健機構(WHO)が「天然痘撲滅宣言」を行った。
天然痘の正確な起源は不明であるが、最も古い天然痘の記録は紀元前1350年頃であり、また天然痘で死亡したと確認されている最古の例は紀元前1100年代に没したエジプト王朝のラムセス5世(エジプト第20王朝参照)であり、彼のミイラには天然痘の痘痕が認められたという(*10参照)。
中国では、南北朝時代の斉が495年に北魏と交戦して流入し、流行したとするのが最初の記録で、頭や顔に発疹ができて全身に広がり、多くの者が死亡し、生き残った者は瘢痕を残すというもので、明らかに天然痘だという。その後短期間に中国全土で流行し、6世紀前半には朝鮮半島でも流行を見たという(Wikipedia)。
島国である日本には天然痘は元々存在せず、中国・朝鮮半島からの渡来人の移動が活発になった6世紀半ば、仏教伝来の頃に最初のエピデミック(英 epidemic)が見られるが、文献としては、『日本書紀』敏達天皇(572-585年)の条には以下のように記されている(*11:『日本書紀』巻廿(20)/敏達天皇参照)。
敏達天皇14年(西暦585年)春2月
是時国行疫疾、民死者衆。
意訳:是時国に疫疾(伝染病)が行(お)こって、民(国民)に死ぬ者が衆(多)かった。
同じく春3月
又發瘡死者充盈於國、其患瘡者言「身、如被燒被打被摧」啼泣而死。
意訳:又(また)瘡(かさ=瘡蓋のこと)を発(お)こして、死ぬ者は、国に充盈(じゅうえい=充〔満〕ち溢れること)している。其(その)瘡を患(わずらう)う者が言うには、「身如被焼被打摧(身焼かれ打たれ摧〔砕〕かれるが如し)」である。《彼らは》啼泣(泣き叫び)而(ながら)死ぬ。
上記のように、瘡を発(お)こして、激しい苦痛と高熱を伴うとあることから、天然痘の初めての記録とも考えられており、585年の敏達天皇の崩御も天然痘の可能性が指摘されている。ただ、これが天然痘との確証はなく麻疹などの説もあるようだが・・・。
さらに、『続日本紀』の天平7年(735年)の条にも以下のように書かれている(*12 :『続日本紀』巻第十二参照)。
天平7(735年)8月12日
比日、大宰府疫死者多。
意訳:此日(最近)太宰府では,疫(疫病。特に、悪性の伝染病)で死ぬ者が多い。
同年8月23日
大宰府言。管内諸国疫瘡大発。百姓悉臥。
意訳: 大宰府が言う。管内の諸国に疫瘡(えきそう=天然痘)が大発生した。百姓(国民・人民)は、悉(尽=ことごと)く、倒れ臥(伏)している。
・・・と、あるのを始めとして、同年最後の条には「是歳。年頗不稔。自夏至冬。天下患豌豆瘡〈俗曰裳瘡。〉夭死者多。」とあり、閏11月戊戌の条には「詔。以災変数見。疫癘不已。大赦天下。」とあり(*12参照)、その後夏から冬にかけて全国で「豌豆瘡(わんずかさ)」(俗に「裳瘡(もかさ)」)と呼ばれる疫病が流行し、京都にまで広まって、大赦する必要が生じるほどの大流行となったことが書かれている。ちなみに「豌豆瘡」とは疱瘡のことであり、天然痘特有の豆のような発疹から名付けられたもののようで、少なくともこのころには天然痘の大流行があったのは確かだろう。
天平9年(737年)の流行も、やはり九州から始まり、『続日本紀』の同年4月癸亥の条にも「疫瘡」と呼ばれる疫病の流行が記されており、平城京では、当時の朝廷を牛耳っていた藤原四兄弟がこの年の天然痘流行により相次いで病死し、藤原四子による政権は終焉を迎えている。
奈良の大仏造営のきっかけのひとつとなったのもこの天然痘の流行であったようであるが、原因不明の疫病が猛威を振るい、政治的にも混乱した当時の人々が、大仏に助けを求めたとしても不思議ではない。
その後も数度の大流行を重ね、天皇や将軍さえも感染からは逃れられなかった。東山天皇(1675~1710年)崩御の原因となり、江戸時代には徳川家光を始め、15名中6名の将軍が感染したという(*13参照)。致死率の高い天然痘であるが、運よく助かったとしても痘痕(あばた)は残る。伊達政宗は幼少時に感染して右目を失明、顔にも痘痕が残った。いわゆる「独眼竜」の異名は天然痘が原因である。幕末期では「松下村塾」を起こした吉田松陰(寅次郎)や米百俵の逸話で知られる小林虎三郎などがいるという。
開国か攘夷か、勤皇か佐幕かで国をあげての騒乱の時代、慶応2年(1866年)12月25日、在位21年にして突然公武合体の推進者であり、勤皇派をおさえていた孝明天皇が崩御した(満35歳没)。死因は天然痘と診断されたが、天然痘を理由とした他殺説も存在し議論となっている(崩御に至るまでの経緯参照)。
天皇の急死により政局は大転換して、一挙に討幕派が力を得るにいたった。その後の歴史は、一気に翌慶応3年(1867 年)の大政奉還、王政復古に到った。もし、孝明天皇の急死が無かったら、公武合体派はしばらく余命を保ったであろうし、新政府での徳川慶喜の立場も違っていたであろう。つまり、明治維新の姿も違ったものになっていたかもしれない・・・。
このように幕末期は、相次ぐ大地震 (安政の大地震)、火山噴火(ここ参照)などの自然災害とともに、天然痘の病魔が社会的危機をより深刻なものにしていた。
天然痘が強い免疫性を持つことは、近代医学の成立以前から経験的に古くから知られ、紀元前1000年頃には、インドで人痘法が実践され、天然痘患者の膿を健康人に接種し、軽度の発症を起こさせて免疫を得る方法が行なわれ、18世紀前半にはイギリス、次いでアメリカにももたらされ、天然痘の予防に大いに役だっていたが、軽度とはいえ実際に天然痘に感染させるため、時には治らずに命を落とす例もあり安全性に問題があった。
18世紀半ば以降、ウシの病気である牛痘にかかった者は天然痘に罹患しないことがわかってきた。その事実に注目し、天然痘を未然に予防する牛痘接種法を、1796年、イギリスのジェンナーによって開発され、これが世界中に広まり、天然痘の流行の抑制に効果が大きかった。しかし、冷蔵庫・冷凍庫のない当時にあっては、種痘によって出来た痘内の液体(痘漿)やかさぶたを次から次へと人間に植え継いで伝えて行くしか保存方法が無かった。つまり、人間の体内で増殖保存し、かさぶたなどで移植していたのであるが、その痘苗(種痘の接種材料で、痘瘡 〔天然痘〕 ワクチンのこと)を日本へ新鮮な形で持ち込むことはなかなかできなかった。
牛痘接種を行うための痘苗が初めてわが国へもたらされた嘉永2年(1849年)には佐賀藩の医師・楢林宗健と長崎のオランダ人医師オットー・モーニッケが種痘を実施し、ようやく日本全国に種痘が普及し始めることとなるのだが、日本における天然痘対策、つまり種痘の普及に尽力したのが緒方洪庵(1810 ~ 1863 年)をはじめとした蘭方医らである。
長崎で痘瘡牛の痂皮を用いて成功した楢林宗建から、シーボルトの鳴滝塾で同門であった京都の日野鼎哉(ていさい)のもとに種痘成功の報せと、8粒の痘痂が届いた。
鼎哉は、7人の孫や弟子に植えつけやっと腕からにじみ出るように出てきた、膿を自分の3才の孫や弟子の16歳の姪などに移植し、この二人の子供の腕からすくいとった液を、16才になる鼎哉の娘の腕にすりつけて種つぎをし、やっと、この娘の腕に種痘の花を咲かせることに成功した。当時の医術では痘苗の保存は一週間が限界で、種痘を施した子供の腕に発痘がみられると、滲み出る膿を採って新たな痘苗とし、一週間以内に他の子供に植え付けるという作業を繰り返さなければならなかったのだ。
鼎哉と彼の弟子である笠原良策は役所の許可を得て、京都新町三条北に種痘所を構え、種痘をひろめる態勢を整えた。
長崎から京都の鼎哉のもとへ痘痂が届いた報せは国内に届いていた。大阪の緒方洪庵 もそのことを知り、自宅に近い道修町4丁目で開業している日野葛民(鼎哉の弟)に同行を願って鼎哉を訪れ、分苗を懇請したのが、嘉永2年(1849年)11月1日のことであった。鼎哉と良策は、11月6日、分苗のために一人の種痘をおえた子供を連れて大阪に赴いた。良策は大阪に於ける「分苗の儀式」を『白神記』に克明に記しているという。大阪での種痘事業の中心メンバーは緒方洪庵・日野葛民・そして大和屋喜兵衛(道修町の脇薬種問屋)の三人だそうである。この辺の事情は、参考*9:「弥栄の杜から」の日野鼎哉と葛民を参照、また、*14:「日本医事史抄」の江戸時代Ⅲに詳しく書かれている。また、「伝苗式」の様子を記録した書状:写真などは、*15で見ることができる。
この「分苗の儀式」の行われた翌日の嘉永2年11月7日(1849年12月21日)、自らも幼少時代に発症している洪庵は、大阪の「適塾」創設に続いて、痘苗を導入した「除痘館」を開設、西日本を中心に牛痘種痘法の普及に心血を注いだ。
嘉永3年(1850年)、郷里の足守藩より要請があり「足守除痘館」を開き切痘を施した。ここでは、備中、美作の医師を集め、さらに適塾で学ぶ新進気鋭の若き蘭方医を動員し大病院並み。医師十四人を擁していたという(*16参照)。
牛痘種痘法を実施当初は、牛になる等の迷信や風評被害により苦しんだが、治療費を取らず患者に実験台になってもらい、かつワクチンを関東から九州までの186箇所の分苗所で維持しながら治療を続ける。その一方でもぐりの牛痘種痘法者が現れ、除痘館のみを国家公認の唯一の牛痘種痘法治療所として認められるよう奔走したという。
安政5年4月24日(1858年6月5日)、洪庵の天然痘予防の活動とその効果が幕府から認められ、牛痘種痘は免許制となった。
適塾が異色の蘭学塾として発展する一方、医者後庵の評判もとみに高まって、文久2年(1862年)、幕府の度重なる要請により、ついに、奥医師兼西洋医学所頭取として江戸に出仕することになった。
この西洋医学所は、当初、洪庵の「除痘館」開設からやや遅れて安政5年(1858年)に江戸の伊東玄朴を中心とした蘭方医ら83名の資金拠出により、神田松枝町(現・東京都千代田区神田岩本町2丁目)の川路聖謨の屋敷内に開設した民間の種痘所「お玉ケ池種痘所」であったが、翌々年、幕府直轄の種痘所となり、其の翌年に西洋医学所となり、その後幾多の変遷を経て東京大学医学部(1877年改編)に至っている。
文久の改革の一環として、文久2年(1862年)「兵賦令」による兵制改革が行われ、幕府の洋式軍制が導入され、歩兵・騎兵・砲兵の三兵編制が導入された。そして、歩兵隊の兵賦は江戸城西の丸下、大手前、小川町、三番町に設けられた屯所に入営した(幕府陸軍参照)。
その歩兵屯所付医師を選出するよう幕府より指示を受けた洪庵は、手塚良仙ら7名を推薦したという。
しかし、医者として最高の名誉ともいえる奥医師についた洪庵であるが、江戸の務めは彼の肌には合わなかったようであり、「病弱の体質、老後の務め、なかなか苦労の至り、殊に久々住み慣れたる土地を離れ候事、経済においても甚だ不勝手、実に世に謂う有難迷惑なるものに これあり候・・・」と在長崎子息平三・城次郎あてに文を送っている。格式張った江戸勤めは、経済的な出費も重なり負担であったようであり、「とても蓄えの金子(きんす)にては相足不申(あいたりもうさず) 身分こそ高く相成り、有難きことには相成り候へども 是より大貧乏人と相成・・・」と在長崎嗣子洪哉あての書状にもある(『日本史探訪』16国学と洋学.角川文庫より)。
江戸へきて、10か月、洪庵は過労が重なって、翌文久3年6月11日(1863年7月25日)、江戸の医学所頭取役宅で突然喀血し死去している。時に洪庵54歳。明治維新の5年前のことである。大坂の一介の町住まい医師が、将軍の医師になるのは一大奇跡ではあるが、それが嫌で嫌でたまらなかったが、嫌と言えない律義さがまた洪庵だからともいえそうだ。終生大坂を離れたくなかった洪庵の最後はちょっと悲劇的でかわいそうな感じではある。
1980年に天然痘との戦いはついに終結し、今日では天然痘のことも洪庵の功績のことも人々の記憶から消え去ろうとしている。