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レトルトカレーの日

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今日2月12日は、「レトルトカレーの日」
袋をあけて取り出した乾燥麺をどんぶりなどの食器に入れ、熱湯をかけて蓋をする。「お湯をかけて2分間」待てば食べられる・・・の謳い文句で、日清食品が袋入りのインスタントラーメンを「チキンラーメン」の名で売り出したのが、1958(昭和33)年8月25日のこと。この商品は当時「魔法のラーメン」と言われ、人気を博した。価格は35円。当時、中華そばやうどんを店で食べるのと変わらない値段であり、うどんなら1玉6円の時代であった(*1参照)。
今度は3分間待てば“国民食カレーが食べられるようになった。
1968(昭和33)年のこの日(2月12日)、大塚食品工業(現:大塚食品)が、袋ごと3分間熱湯に温めるだけで食べられる日本初のレトルト食品「ボンカレー」を発売した。今日の記念日はその大塚食品が制定したもの。今も多くのカレーファンに愛され続けている。

レトルト(英語:Retort)の原語はオランダ語で、をかけて短時間で滅菌処理する釜(加圧加熱殺菌釜)をいう(ここ、参照)が広義では缶詰も含まれようだが、レトルト食品,という場合、一般には「レトルトパウチ(Retort pouch)食品」の略称として広く定着している。
パウチはポーチ、小袋のことである。日本では「レトルトパウチ食品品質表示基準」(平成12年12月19日農林水産省告示第1680号)によって以下のように、定義されている。
「レトルトパウチ食品」について
「プラスチックフィルム若しくは金属箔又はこれらを多層に合わせたものを袋状その他の形に成形した容器(気密性及び遮光性を有するものに限る。)に調製した食品を詰め、熱溶融により密封し、加圧加熱殺菌したもの」・・・と。

保存食の歴史は戦争の歴史でもある。外国遠征で東奔西走し戦闘に明け暮れたナポレオンは、軍用食保存技術の公募をし、これに応じたニコラ・アペールによって発明された瓶詰を採用、またこの原理を応用して1810年には、イギリスのピーター・デュラントにより金属缶に詰めて密封した缶詰が作られた。
しかし、この缶詰はハンマーと(のみ)、戦場では銃剣によって開封されていた不便なものであった(缶切りによって開けられるようになるのは、1858年、アメリカのエズラ・J・ワーナーの缶切り開発まで待たねばならなかった。*2も参照)。
その後、1950年代に、アメリカ陸軍補給部隊研究開発局が缶詰にかわる軍用携帯食として開発したのがレトルト食品である。缶詰の重さや、空缶処理の問題を改善するのが狙いであった。その後、アポロ計画宇宙食に採用されたことで多くの食品メーカーに注目されるようになった。
しかし、アメリカでは、当時既に一般家庭に冷凍冷蔵庫が普及しており、各種の冷凍食品が発売されていたことからまったく普及しなかった(パッケージの貼り合わせに接着剤を用いているため、アメリカ食品医薬品局より認可が下りなかったのも原因の一つである)ようである。
逆に日本では、当時は冷凍冷蔵庫の普及が遅れていたため、常温で流通、保存できる缶詰にかわる新しい加工食品として期待がかけられていた。

大塚食品(工業)は1964(昭和39)年、関西でカレー粉や即席固形カレーを製造販売していた会社を、大塚グループが引き継いでスタートしたが、当時はすでにカレー粉や缶詰での販売で、メーカー間の競争が激しく、大塚食品は「他社と同じものを作っても勝ち目はない、何か違ったものを作りたい」と考えていた。
そんなときに、米国のパッケージ専門誌『モダン・パッケージ』に掲載された「US Army Natick Lab」の記事に缶詰に代わる軍用の携帯食としてソーセージ真空パックにしたものが紹介されているのを目にし、「この技術をカレーと組み合わせたら、お湯で温めるだけで食べられるカレーが出来るかもしれない」と考え、この新しい技術との出会いをきっかけに、「一人前入りで、お湯で温めるだけで食べられるカレー、誰でも失敗しないカレー」のコンセプトで開発をスタートしたという。

レトルト食品には、高温処理しても食品そのものの品質を落とさない独自の調理技術と、長期保存を可能にする殺菌技術、そして高温殺菌に耐えられる包装技術の3つが必要である。
しかし、大塚食品には当時はパウチ(レトルト食品を封入している袋)にする包材もなければ、レトルト釜もなかったが、幸い大塚グループで持っていた点滴液の殺菌技術を応用して、レトルト釜を自分たちで作ったという(*3参照)。
そして試行錯誤の末、世界初の市販用レトルトカレーとして発売された最初の「ボンカレー」は、透明な合成樹脂(ポリエチレンとポリエステル)のみによる2層の積層加工で光、酸素を透過する透明フイルム制の袋に入っていたことから、密封が完全ではなく、レトルト最大の特徴である保存性が低く(賞味期限も冬場:3ヶ月、夏場:2ヶ月)、また、輸送中に穴が空くなど強度の問題もあり、常温流通に耐えられず、阪神地区限定品どまりであった。
ただ、当時は牛肉がまだ高価であったが「ボンカレー」は牛肉100%にこだわり、とっておきのごちそうメニューとして食卓に提供された。「ボンカレー」のネーミングはフランス語BON(良い、おいしい)と英語のCURRY(カレー)を組み合わせ、まさにおいしいカレーという意味が込められている。
このレトルトパウチ問題の解決をするため、内側のポリプロピレンと外側のポリエステル間に東洋製罐が開発したアルミ箔を挟んだ3層遮光性パウチ(袋)を使って強度を増した改良版パウチで化粧直しをし、翌1969(昭和34)年4月再デビューした。
賞味期限は一気に2年に延び、これが、大評判をとった。また、流通過程での破損も解決でき、大量陳列により消費者にアピールすることもできるようになって、同年5月に「ボンカレー」はついに全国発売に至った。それは、松山容子パッケージのもので味は野菜ベースであった。
テレビCMにはパッケージのモデルである女優の松山容子と俳優の品川隆二が夫婦役でやっていた記憶がある。
しかし、今は一般的となったレトルトカレーではあるが、レトルトの特徴などがはじめはなかなか消費者に受け入れられず、ボンカレー発売当時の宣伝は「3分温めるだけですぐ食べられる」という内容のもので、その宣伝からも分かるように、保存性よりも簡便性を前面に打ち出した、いわば、インスタント食品の一種として普及していった。
しかし、この当時、外食の素うどん50~60円の時代(うどん・そばの価格推移は*4参照)に、ボンカレーは1個80円。「高すぎる」というのが当時の反応であったため、当時、営業マンが全国各地に、ホーロー看板を自ら貼りにまわって普及に努めた。


上掲の画像は、当時駅や街角で見かけたホーロー看板。
ホーロー看板は、全国で9万5千枚も取り付けられたという。そうした営業マンの努力の甲斐もあり、ボンカレーはしだいに浸透し、売上を伸ばし、1973(昭和53)年には年間販売数量1億食を達成したという。そして、この年に放送されたテレビコマーシャルの「3分間待つのだぞ」という落語家笑福亭仁鶴によるセリフは流行語にもなった。



上掲は、1972年CM大塚のボンカレー・子連れ狼編- YouTube

日本の高度経済成長は1962(昭和37)年1月から1965(昭和40)年10月まで、高度成長第二期(輸出・財政主導型)が1965(昭和40)年11月から1973(昭和48)年11月までとされるが、1970年代以降も、経済成長は続き(*5参照)、都市を中心とした核家族化が進んだことによって、食事の個食化も進み、一人でおいしく手軽に食べられる一食完結型の食品の需要が高まった(ここでいう個食は、食育に関する言葉6つ「こ食」(*6、*7参照)の中の「孤食」に当たる。)。
そんな中、1971(昭和46)年にはハウス食品が『ククレカレー』を大ヒットさせるなど、他の大手食品メーカーもつぎつぎにレトルトカレー市場に参入。
市場に競合商品も増えたため、1978(昭和53)年には、大塚食品は日本人の嗜好の変化に合わせて香辛料やフルーツを贅沢に使った新商品『ボンカレーゴールド』(ここ参照)を発売。
ボンカレーと食材の構成を替えたこの商品は、以後、ボンカレーに取って代わり主力製品とななっている。テレビCMには巨人軍の王選手(後に郷ひろみ田村正和所ジョージ松坂慶子池谷幸雄ともさかりえ)を起用した。
レトルト食品は、カレーのほか、ハヤシ、パスタソース、どんぶり物や、麻婆料理の素、シチュー、スープ、ハンバーグ類、ぜんざいと、現在では多くのレトルト食品が出回っている。
1972(昭和47)年に、冷凍米飯(調理加工した米飯をマイナス40度以下で急冷凍したもの)、1973(昭和48)年のレトルト赤飯、に続いて、1975(昭和50) 年にやっとレトルト白飯が開発され、その他にも昔からの缶詰米飯や

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