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農林水産省創立記念日

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1881(明治14年)年の4月7日、農商務省が設置された。明治政府の殖産興業政策の一翼を担った国家機構(行政機構)である。
現在の農林水産省経済産業省 (2001年の中央省庁再編までの通商産業省)の前身である。

1854年3月31日(嘉永7年3月3日)、日米和親条約調印により徳川幕府開国に踏み切ると、日本各地の政治家(大久保利通等)たちは西洋との圧倒的な国力の差を意識した。
欧米では、1830年代に産業革命を既に完了していたイギリスをはじめ、欧米では資本主義経済を確立していたからである。
1868年1月3日(慶応3年12月9日)の王政復古の大号令によって、210年もの鎖国を布いた徳川幕府を倒し権力をにぎった藩閥政府(明治新政府)は、先進資本主義諸国の外圧に対抗するための「富国強兵」をスローガンに、また、そのための日本産業の経済的基盤固めのために「殖産興業」を政策目標に掲げて、欧米の工場制機械工業の移植を中心とする資本制生産様式の採用に踏み切り、急速な資本主義を促進することになった。
政策を推進するための、行政面での明治維新律令制の復活劇でもあった。幕藩体制の崩壊に伴い、中央集権国家の確立を急ぐ必要があった新政府は、律令制を範とした名称(例:太政官、大蔵省など)を復活させたのである。
江戸幕府摂政関白等の廃止と五箇条の誓文を交布し天皇親政が定められ、天皇の下に総裁議定参与三職からなる官制(日本の官制参照)が施行された。
その最高職である総裁には有栖川宮熾仁親王、議定には皇族公卿薩摩長州土佐越前などの藩主が、参与には公家と議定についた藩主の家臣が就任した。
しかし、明治天皇はまだ年少(当時16歳)であるため、それを補佐する体制がすぐに必要となった。そこで、1868年6月11日(慶応4年閏4月21日)、政体書の公布により、中央政府である太政官に国家権力を集めた三権分立制をとる太政官制(七官制、政体書体制)が採られ、さらに翌年(明治2年)7月には、版籍奉還により律令制の二官八省 を模した二官六省制(六省:民部省大蔵省兵部省刑部省宮内省、)が発足した(近代日本の官制の明治8年の官制参照)。
そして、明治政府は国家権力による日本産業の資本主義化を達成するため,殖産興業政策をその課題に掲げ,農・商・工の各分野での具体化が進められた。
まず、1870年12月12日(明治3年閏10月20日)には、民部省の一部が独立する形で工部省を設置し、欧米からお雇い外国人を多数採用し、岩倉使節団(1871年)に合わせて留学生を派遣するなど産業技術の移植に務め、欧米の工場制機械工業の移植や官営事業としての鉄道、造船、鉱山、製鉄、電信、灯台など近代国家に必要なインフラストラクチャー整備などを促進した。
1871年8月29日(明治4年7月14日)には、明治政府がそれまでの藩を廃止して地方統治を中央管下の府と県に一元化(廃藩置県)により中央集権化が実現。
岩倉使節団が派遣されていた間の留守政府においては制改革が行われたが、後の秩禄処分などはこれを基準として実施されたものである。
また同年9月政府収入の確保のための地租改正案が大蔵省により作成され、1873年(明治6年)地租改正条例が制定され翌年から着手された。
その間、1872年(明治5年)には、群馬県に富岡製糸場などの官営工場(官営模範工場参照)を開設している。また、官営鉄道や汽船が発足し、国内の交通網が発達した。
1871年に金融では新貨条例を、1872年に国立銀行条例を布告している。
岩倉使節団に副使として参加していた大久保利通は、1873(明治6)年5月に帰国し、日本の政治体制のあるべき姿として先進国のイギリスではなく、フランス第二帝政の国内省(内務省)と、ドイツ(プロイセン王国)の帝国宰相府(※2参照)をモデルに、同年11月10日には、強い行政権限を持つ官僚機構として、官営事業を統括する内務省を設立。北海道には開拓使を置き、屯田兵を派遣した。

大久保利通を初代の内務卿として設置された当初の内務省は、地方行財政などのちの所管事項に加え、殖産興業や鉄道・通信なども所管し、大蔵省・司法省・文部省三省の所管事項を除く内政の全般に及ぶ権限を持ち農政も所管していた。
当時の産業行政および殖産興業政策は、内務省、工部省、大蔵省などに分散していたが、官業政策の破綻と殖産興業経費の過重が明らかになったので、政策の転換と産業行政の一元化を図るため1880年(明治13年)には工場払下概則を達し、諸省に分離されてきた農・商・工行政事務を1省に統合することが行・財政改革の点から要望され,参議の伊藤博文大隈重信の建議にもとづき、1881年(明治14年)4月7日、農商務省が設置されることになったのである。冒頭の画像は東京農商務省(絵葉書:1890年)である。

新設の農商務省には、これまで内務省・大蔵省に属していた商務局を移管引継ぎ、書記、農務・商務・工務・山林・駅逓・博物、会計の八局及び農・商・工上等会議などの政策諮問機関を設けた。
太政官制の元、初代の卿に河野敏鎌が就任(農商務省の長のことについてはのちに述べる)。
鉱山、鉄道、工作関係は工部省の所管に残されたが、1885年(明治18年)12月22日、太政官制度が廃止され新たに内閣制度(※1参照)が成立(初代:内閣総理大臣には前参議伊藤博文が任命される)すると工部省は廃止された。
工部省の鉱山事務・工作事務を農商務省に統合。農商務省の駅逓事務・管船事務は新たに設置された逓信省に移管し、農商務省は唯一の産業主務官庁となった。なお、この時より、農商務省の長は農商務大臣とし、谷干城が初代大臣に就任した。
1882年(明治15年)2月8日の開拓使廃止に伴い、函館県・札幌県・根室県が設置され、また、北海道にはこの3県のほか、1883年(明治16年)、北海道事業管理局(農商務省の一部局)が設置されて(三県一局時代参照)以降1886年(明治19年)にかけては北海道の官営諸事業をも管理し、農事・水産の各試験場や工業試験所などを有していた。
1896年(明治29年)4月1日、製鉄所(八幡製鐵所)を官営組織として創設(1901年(明治34年)2月5日操業開始)。
1925年(大正14年)4月1日、農商務省が廃止され、農林省(第1次)と商工省(第1次)の二つに分離された。
農商務省の2分割は農業関係団体からの「農務省」設置要求の建議が数年間にわたって繰り返されてきたことによる。その契機は大正期にはいってからの米価高騰により外国産米輸入措置に対しての農業関係者からの反発が主原因である(1918年米騒動参照)。
第二次世界大戦中の1943年(昭和18年)11月1日、いわゆる行政運営の決戦化を目ざす大規模な行政整理及び機構改革が行われ、軍需省運輸通信省とともに、農商省が新設された。これに伴い、商工省・逓信省・鉄道省・企画院・農林省(第1次)が廃止された。
「農商省」は、それまでの「農商務省」と異なり、務の文字がなくなり、長も農商大臣である。これは、商工省の主要部門が軍需省に移動したため、商工省の残存部門を農林省に統合して「農商省」としたものである。この時のいきさつ等詳しくは、参考の※3、※4等参照。
終戦後、軍需省という組織は存在意義を喪失したため、1945年(昭和20年)8月26日、再び農商省が農林省(第2次)と(法令上は農商省を改称)、軍需省が商工省(第2次)と(法令上は軍需省を改称)に分離・復活した。ただし、軍需省設置時に逓信省から移管された電力行政は商工省にとどまることとなった(ただし、電力供給に関する経済政策全般は経済安定本部によって司られた。日本発送電参照)。また、外局の馬政局は農林省畜産局馬産課設置に伴い、廃止された。
その後、農林省、商工省とも再編を繰り返し、農林省は、現農林水産省、商工省は1949年(昭和24年)の国家行政組織法(昭和23年7月10日法律第120号)施行直前に通商産業省に改組し、2001年(平成13年)1月6日の中央省庁再編により、通商産業省から移行する形で経済産業省が設置された。

政商」とは「政府や政治家と結びつき、特権的な利益を得ている商人」(『大辞林』)をいうとすれば、明治初期は「政商の時代」であったともいえるだろう。
民間資本の発達が遅れた状況下で、欧米列強の圧力を受けて急速に資本主義を図らねばならなかった当時の日本では、国家が主導して資本主義形成の担い手を保護・育成せざるをえず、そこに政商が生まれた。
明治期における殖産興業政策の展開過程を政商資本とのかかわりのなかでみる時、三つの時期に分けて考えることができるようだ。
その第一段階は1868(明治元)年の「明治維新政府成立」から1873年(明治6年)の「明治6年政変」までの大蔵省・工部省中心の時期(由 利公正 が主導したいわゆる由利財政 と第一次大 隈(重信)財政期)、第二段階は「明治6年政変」から1881年の「明治14年政変」までの内務省中心の時期(大久保利通政権下での第二次大隈財政期)、第三段階は「明治14年政変」から1889(明治22)年の「大日本帝国憲法発布」までの農商務省中心の時期(伊藤博文参議兼参事院議長と大隈の参議罷免後,参議兼大蔵卿に任ぜられた松方正義を中心に始まる財政期)に区分することができる。詳しいことはここでは避けるが知りたければ、※5:「日本工業の黎明-遣隋使から工部大学校まで-」のⅣ 維新政府の政治経済政策や参考欄の★印のところを参照されるとよい。

要約だけ書くと、冒頭から書いてきたように、明治時代の殖産興業政策は、工部省→内務省→農商務省へと変転する中央勧業機構のもとに、欧米先進諸国から進んだ生産技術と経済制度を導入し、財政・金融・貿易・教育などの諸分野とも関連させながら、工鉱業の発展、農牧業の育成、鉄道の建設、貿易の進展、技術者の養成その他について、政府の指導下に、資本制生産の体系をつくりだそうとした。
しかし、当時、新政府は、その一部が外国資本の管理下に入りつつあった旧幕府・諸藩の軍事施設や洋式工場を官収し、外国勢力や外国資本の侵入を排除して、その利権を回収する必要があった。また、幕末以降、入超が続く貿易において、輸入阻止の目的から、蚕糸(さんし。絹糸)・製茶業を中心に民間産業を育成する必要もあった。
こうして、当時の殖産興業政策は、利権回収と民業振興を支柱に進められた。以上の基調を背景に、国家権力による資本制生産様式の具体化は、第一に工部省(陸・海軍省も含む)中心の移植産業部門における工鉱業と軍事工業の展開、第二に内務省→農商務省中心の在来産業(農業と農産加工)部門における再編、という二つの経路をもって、相互に関連しつつ進行した。
このような「上から」の資本主義の育成策は、1880年代を中心に、官営事業(官営工場と官営軍事工場、鉱山・鉄道の経営など)を生み出したが、工部省所管の官営工場を中心に赤字損失が重なった。
その結果、1880年(明治13)布告の工場払下概則をきっかけに、官業払下げを実施するが、「工場払下概則」布告の払下げ条件には、政府資金の回収をおもなねらいとして、営業資本の即時納入その他、厳しい規定が含まれていたため、払受け希望者がきわめて少なかった。そこで4年後に同法令は廃止され、以後、払下げは個別に承認される形で実現することになった。
その結果、官業払下げは炭坑、鉱山などから始まり、工場や一部の鉄道などに及んだ。こうして1880年代以降、進行する払下げは、政府に必要な軍事、通信、また資金や技術を必要とする精錬冶金などの諸部門を除き、1896(明治29)年に生野銀山三菱合資会社に最後に払い下げられるまで、多くの官営鉱山や官営模範工場に及んだ。そのため、政府財政を節減する目的で実施された官業払下げは、官営軍事工業部門を強化する結果になった。
そして払受け人に有利となった払下げは、払下げを受けた三井三菱古河(ふるかわ)その他の政商に対して、払下げの施設を基礎に、後年、彼らが財閥に発展する条件を保証することになった(※5の財閥と払下げを受けた者との関係など参照)。
西南の役による紙幣の濫発はインフレをまき起こし、その影響は深刻であった。その整理にあたったのが、明治14年の政変で大蔵卿の座にすわることになった松方正義であるが、政府紙幣(不換紙幣)の全廃と兌換紙幣(※6参照)である日本銀行券の発行による紙幣整理、煙草税や酒造税や醤油税などの増税や政府予算の圧縮策などの財政政策、官営模範工場などの払い下げによって財政収支を大幅に改善させ、インフレも押さえ込んだ。
ただ、これらの政策は深刻なデフレを招き、このデフレでの価格や米の価格などの農産物価格の下落を招き、農村の窮乏を招いた。そして、このデフレ政策に耐えうる体力を持たない窮乏した農民は、農地を売却し、都市に流入し、資本家の下の労働者となったり、自作農から小作農へと転落したりしたために「松方デフレ」と呼ばれて世論の反感を買うことになった。
明治期の政府誘導による殖産興業政策はこのように全体として成功したとは言い難いのだが、民間払下げがこのような財閥から初期資本(政商資本)家が現れる契機となり、その結果、資本集中により、民間の大規模投資が可能になって日本の近代化を進めることになったこと、また、民間払下げからも除外された軍事工業(※7参照)は、松方財政下での軍備拡張政策を背景に、産業発展の基軸を構成するキー産業として展開し、以後の日本資本主義の軍事的性格を持つようになったという意味で重要である。

最後に、太政官制の元、明治政府の殖産興業政策の一翼を担った重要な行政機構である農商務省の初代の卿に就任した河野敏鎌について書こう。
彼は、文部卿として、今日まで続く日本の教育制度の根幹を築いた人でもある。

画像は河野敏鎌
河野敏鎌は、1844年(天保15年)10月、土佐藩郷士の長男として生まれる。幼名は万寿弥(ますや、旧字体:萬壽彌)。
1858年(安政5年)3月、江戸へ遊学して儒学者安井息軒の門下となり、1861年(文久元年)に帰国。余談だが、有名な言葉「一日の計は朝にあり。一年の計は春にあり。一生の計は少壮の時にあり。」は安井息軒の開いた私塾「三計塾」の設立主旨(三計の出自はここ参照)。
同年、武市瑞山(通称:武市半平太)らによって結成された土佐勤王党に加入して坂本龍馬とも交友関係を持つ。五十人組(※8参照)に参加し、尊攘派として活動したが、1863年9月30日(文久3年8月18日)の政変で前藩主・山内容堂佐幕派に鞍替えしたことから藩論が転換、武市らが失脚すると、捕縛・投獄され6年間の獄中生活を送ることになる。
1868年(慶応4年)に江戸幕府が崩壊して明治維新がはじまると、ようやく赦免され、同藩の後藤象二郎の手引きで大坂に上り、「維新の十傑」、「佐賀の七賢人」と称される江藤新平の知遇を得る。
1869年(明治2年)4月に侍詔局出仕、8月には弾正台に務め,のちに広島県大参事、司法大丞大検事となる(※9参照)。
その後、1875年(明治8年)に元老院議官、1878年(明治11年)には元老院副議長となる。1880年(明治13年)、文部卿として教育令改正(第2次)の推進をした。1881年(明治14年)、農商務省設立に伴って初代農商務卿に就任するが、明治十四年の政変で大隈重信らに同調して下野した。
1882年(明治15年)4月、大隈らとともに立憲改進党を結党して副総理(副党首)になる。1888年(明治21年)に枢密顧問官として憲法の審議にあたる。その後第1次松方内閣で内務大臣、司法大臣、農商務大臣を歴任、第2次伊藤内閣では文部大臣に就任して文部行政の基礎を確立した。1893年(明治26年)子爵を叙爵して華族に列すが、1895年(明治28年)4月20日に死去している(享年52歳)。
華やかな経歴ではあるが、彼にはあまりよくないエピソードもある。

河野敏鎌と同じ、佐賀藩出身の蘭方医相良知安は、佐倉順天堂(現:順天堂大学)で佐藤泰然、長崎精得館でオランダ人医師ボードインにより医学を学び、明治政府に、イギリス医学ではなくドイツ医学の採用を進言しその説が採用される。
明治初期の医療行政において文部省医務局長などの役職を経験したが、強引なドイツ医学の採用の進言の経緯でイギリス人医師ウィリス(お雇い外国人)を推していた西郷隆盛(薩摩藩出身)や山内容堂(土佐藩15代藩主)らの体面をつぶしたことで薩摩閥、土佐閥の恨みを受けた。
1870年(明治3年)9月に、知安は、大学(大学東校)の会計事務官森之介 ( 薩摩. 出身) が官費を消費したことに連座して嫌疑がかかり、突然弾正台に捕らわれ投獄された。この時の弾正台長が、旧土佐藩出身の河野敏鎌であった。
そして、この知安の危機を救ったのが、知安と同郷で親友の江藤新平らであった10参照)。
江藤新平らの支援が実り、その後の知安は裁判で冤罪が判明し、一年二ヶ月ぶりに出獄が適い復職したが、1873年(明治6年)には、第一大学区医学校校長と文部省医務局長兼築造局長を罷免されている。この理由は前述のドイツ医学採用の経緯や、明治6年政変(征韓論争)で下野した親友の江藤新平を支持したことなどの理由が考えられる(※11参照)。
河野敏鎌は、1874年(明治7年)の佐賀の乱(佐賀戦争)では、大久保利通に従い、鎮定のため九州に赴いた。
河野は、江藤新平の書生をしていた人物で、江藤の推薦で司法省の官吏となり、江藤に命じられて西欧視察に序列筆頭の団員として参加もした。
それが、乱後の裁判では、大久保の命により、佐賀の乱における法廷を主宰し、彼を抜擢した上司であり、恩人である元司法卿江藤新平を取り調べ、釈明の機会も十分に与えないまま死刑の宣告を下したという。
訊問に際し河野は江藤を恫喝したが、江藤から逆に「敏鎌、それが恩人に対する言葉か!」と一喝され恐れおののき、それ以後自らは審理に加わらなかったそうだ。巷では大久保が金千円で河野を買収して江藤を葬ったという風評が立ったらしいが、河野自身は晩年になって友人であり、立憲改進党掌事の牟田口元学に、自身の行動に関する弁明を試みているというのだが・・・。
同年4月8日,河野により除族(華族・士族の身分をとり上げ,平民とすること)の上、梟首の刑を申し渡され、その日の夕方に嘉瀬刑場(佐賀)において処刑された。 
ここには、大久保利通が撮影させたという獄門に処せられた江藤新平の画像がある。ここをクリックで画像が見られる。
河野の江藤に対する最初から死刑ありきの暗黒裁判ともいうべき不当な裁判も、大久保らの差し金によるものだろうが、そこに、相良知安の医療行政問題での恨みがからんでいるものだとしたら、恐ろしいことだ。また、がそれを実行した河野敏鎌が、その後、周りから引き立てられて、とんとん拍子で出世をし、第2次伊藤内閣では文部大臣に就任して文部行政の基礎を確立して行くのである。今の時代、このような人が文部大臣になったらマスコミはどのように騒ぐのだろうか・・・。

参考:
★11:明治前期殖産興業政策と政商資本(Adobe PDF)
★2:2:明治前期殖産興業政策の修正と政商資本(Adobe PDF)
★3:3明治期殖産興業政策の終局と日本資本主義の確立(Adobe PDF)

※1 : 内閣制度と歴代内閣 - 首相官邸
http://www.kantei.go.jp/jp/rekidai/
※2:ドイツ帝国憲法 - 世界史の窓
http://www.y-history.net/appendix/wh1202-121.html
※3:国内行政運営の基礎軍需省中心に確立す - 神戸大学 電子図書館
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?METAID=10034003&TYPE=IMAGE_FILE&POS=1
※4:法政大学大原社研_崩壊期の戦時経済と経済統制〔日本労働年鑑 特集版〕
http://oohara.mt.tama.hosei.ac.jp/rn/senji1/rnsenji1-013b.html
※5:日本工業の黎明-遣隋使から工部大学校まで-
http://ktymtskz.my.coocan.jp/ueda/u0.htm
※6:兌換紙幣 - 金融大学
http://www.findai.com/yogo/0013.htm
※7:戦前期日本軍事工業史研究の再検討(Adobe PDF)
http://human.cc.hirosaki-u.ac.jp/economics/pdf/treatise/19/treatise_19_03.pdf#search='%E6%88%A6%E5%89%8D+%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E8%BB%8D%E4%BA%8B%E5%B7%A5%E6%A5%AD'
※8:五十人組-幕末期の土佐藩 - 龍馬堂
http://ryomado.in.coocan.jp/Bakuto/BTprofile/tosa_profile03-04.html
※9:詳細 - アジア歴史資料センター 収蔵データ一覧
http://www.jacar.go.jp/siryo/ichiran/K_S01/m23250.html
※10:本文ファイル - NAOSITE(Adobe PDF)
http://naosite.lb.nagasaki-u.ac.jp/dspace/bitstream/10069/6595/1/100_03_16.pdf#search='%E5%BC%BE%E6%AD%A3%E5%8F%B0+%E6%B2%B3%E9%87%8E%E6%95%8F%E9%8E%8C'
※11:相良知安と東京大学医学部
http://sagarachian.jp/main/90.html





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