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ブラジリアの首都がリオデジャネイロからブラジリアへ遷都した日

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上掲の画像はブラジリアの衛星写真(Wikipediaより)
ブラジル(正式には、ブラジル連邦共和国)の首都はどこ?」と聞かれて、すぐにおもいだせましたか。正解は、ブラジリア(ポルトガル語: Brasília)。
現在の首都ブラジリアは、連邦直轄地区(ブラジリアのためにブラジル中部のゴイアス州から分割された地区)で,州には属さない。ブラジル高原の中心部の標高約1,100mの位置に建設された人工都市(計画都市参照)である。
1956年1月、ジュセリーノ・クビチェック大統領によって遷都計画が実行に移され、わずか3年10ヶ月の歳月で。新首都ブラジリアが建設され。1960年の今日・4月21日に、ブラジル政府はリオデジャネイロからブラジリアへと遷都した。
しかし、最近のどこかのテレビのクイズ番組の回答者もそうだったのだが、「ブラジルの首都は?」と聞かれると、旧首都のリオデジャネイロサンパウロを思いだす人が多いのではないだろうか。
ブラジルを代表するクラブとして知られているCRフラメンゴをはじめとしてCRヴァスコ・ダ・ガマフルミネンセボタフォゴなどのサッカークラブの本拠地として知られ、世界最大のサッカースタジアムで1950年、2014年のFIFAワールドカップの主会場となったエスタジオ・ド・マラカナンがあるリオデジャネイロは、今年・2016年夏季オリンピックの開催地にもなっているし、世界最大の見世物のひとつにもなっているリオのカーニバル謝肉祭)はあまりにも有名だ。
そして、都市周辺の美しい文化的景観は「リオデジャネイロ:山と海との間のカリオカの景観群」として、2012年に世界遺産リストに登録されている。
また、ブラジル南東部に位置するサンパウロ州の首府サンパウロは、都市別人口を見ても、人口約1190万で、第2位のリオデジャネイロ(約646万人)に比べて約1,84倍、連邦直轄区ブラジリア(人口約 285万)に対しては、4,18倍(2014年7月1日時点、※1参照)と、ブラジル最大かつ南半球でも最大のメガシティである。
そして、プライスウォーターハウスクーパース(略称:PwC)が公表した調査によると、サンパウロの2008年の都市GDPは3880億ドルであり、世界第10位(※2参照)、南米では第1位の新興経済都市であり、日本やアメリカ、スペインやドイツなどの世界中の大企業や金融機関などが古くから多数進出しており、パウリスタ通り近辺や新ビジネスエリアにはこれらの企業のオフィスが集中している。また ,サンパウロには、多くの観光名所もあるが、2015年、アメリカのシンクタンクが公表したビジネス・人材・文化・政治などを対象とした総合的な世界都市ランキングにおいて、世界38位の都市と評価されている。特にビジネス部門で高評価を得ており、同国では前主都であったリオデジャネイロを上回り第1位である。このようなことからブラジルの首都といえばこれらの都市が思い浮かぶのだろう。

「日本から見て地球の裏側に位置するブラジルは、南アメリカ大陸最大の面積を擁する国家であると同時にラテンアメリカ最大の領土、人口を擁する国家で、面積は世界第5位である(※3:世界の経済のネタ帳の面積ランキング参照)。
南北アメリカ大陸で唯一のポルトガル語圏の国であり、同時に世界最大のポルトガル語使用人口を擁する国でもある。ポルトガルによる植民地支配が厳格化する17世紀半頃までは、殆どの原住民は男女とも全裸に首飾り等の装飾品を付けた状態で生活していたという。

国号のブラジルは、樹木のパウ・ブラジル(伯剌西爾木、学名Caesalpinia echinata)に由来する。元々この土地は、大航海時代に,コロンブスが1492年にヨーロッパ人として初めてアメリカ大陸に到達した後、1498年ポルトガルの第1回インド遠征隊を率いたバスコ・ダ・ガマによってインド航路が開かれた。
続いて、インド航路を目指していたポルトガル王マヌエル1世に顧問官として仕えたキリスト騎士団の一員であるペードロ・アルヴァレス・カブラルが率いる第2回インド遠征隊が、1500年4月22日,未知の陸地(現在のブラジル)に漂着した(漂着ではなく意図した航海の結果との見解もあるるようだが・・・)。
漂着した当初は、南米大陸の一部ではなく島だと思われたために当初、漂着(上陸)した周辺一帯をサンタクルス(十字架の意)島(Ilha de Santa Cruz)と名付けられたが、この名は後に大ベラクルス大陸(Terra de Vera Cruz)と改められる。このサンタクルスは現在のバイーア州(Bahia)バイーア州南の ポルト・セグロ (Porto Seguro、「安全な港」の意)といわれる。
当時まだ「サルとオウム」しかいなかったといわれるこの地は、1494年6月7日にスペインとポルトガルの間で結ばれたトルデシリャス条約に基づいてポルトガルに帰属することとされたものの、その後暫くは開発が進むことはなかった。
カブラルの艦隊に同行していた貿易商たちは、1503年にヨーロッパで需要のあった色染料「ブラジリン(en)」(英語版を日本語翻訳のものここ参照)を抽出できる「ブラジル木」(パウ・ブラジル(=ブラジル)語、: Pau-Brasil)を見つけて、この地を“ブラジルの地”と呼び、これが、今日の呼び名「ブラジル」の語源にもなったという。

1500年にカブラルがブラジルを「発見」してから、ブラジルの首都は三回変わっている。最初の首都が、サルバドール(Salvador)、二番目の首都が、リオデジャネイロであり、三番目の首都が、現在のブラジリアである。
サルヴァドール(Salvador)は、ブラジル北東部の大西洋に面した「諸聖人の湾」を取り囲む半島に位置している港湾都市である。
サルヴァドールの正式名称は「サン・サウヴァドール(サルヴァドール)・ダ・バイーア・ジ(デ)・トードス・オス・サントス」で、「諸聖人の湾(バイーア)の、聖なる(San)救世主」という意味そうで、「諸聖人の日」(11月1日。古くは「万聖節(ばんせいせつ)」)に発見されたことから、そう名付けられたそうだ。サルヴァドール自体は,ポルトガル語で救世主(「神」)を意味している。
「諸聖人の湾」が,ブラジル探索を進めていたフィレンツェ人アメリゴ・ヴェスプッチによって、初めて発見されたのは、1502年だそうだ(※4:「ラテンアメリカの政治」ラテンアメリカ各国年表>ブラジル年表その1参照)が、その後、砂糖キビ栽培が始まって以降、先住民との抗争等も発生し、サルヴァドールが建設されるのは、ポルトガル王室が1549年に国王直属の総督が、直接ブラジルの植民地経営を担う総督制を導入し、初代ブラジル総督トメ・ヂ・ソウサ率いるポルトガル人入植者の到着を待たねばならなかった(※4の中の、ブラジル先住民の抵抗史を参照)。
ソウザは、先住民の反乱を鎮圧し、バイーアに総督府を設立。これが現在のサルヴァドール市である。
その後急速にブラジルの主要貿易港として発展し、砂糖産業と奴隷貿易の中心地であったポルトガル領ブラジルの最初の首都となった。
このサルヴァドールが首都となった理由は、当時ブラジルにおける植民都市の建設は,ブラジルの領土を分割(14ないし17とされている)し、砂糖生産を基礎とするカピタニア制(民間の力で開発する方式。)によりそれぞれを有力貴族へ依託し、防衛と開発に当たらせていたが、カピタニア制崩壊のあと、ポルトガル王室はカピタン(総督)制度を創設し、カピタン領ペルナンブーコやサンビセンチ(現在サンパウロの沿岸部にある市)のカピタニアの経営はそのまま尊重し、ほかのカピタニアの底上げをするため、両者の中間にあるサルヴァドールに第三の拠点を作ろうとしたのだろうという。
1763年、その当時新たな経済の中心地となったリオデジャネイロへと首都を移転して後も、大いに発展し、北米でアメリカ独立戦争が起こった1776年の段階では、新世界で最大の都市のひとつになっている。

リオデジャネイロ(葡: Rio de Janeiro)には1763年から1960年までの約200年間、ブラジルの首都が置かれていた。また、1808年にナポレオンに本国領土を奪われたポルトガル王室が遷都してからブラジルが独立するまではポルトガルの首都であった。また、中南米有数の貿易港でもあるためにブラジルの経済的な中心地でもあった。
リオデジャネイロのポルトガル語は「rio(川)」「de(の)」「janeiro(一月)」と三つの単語で構成されている。日本語に訳すと、「一月の川」という意味になる。
カブラルが、ブラジル本土に上陸し、ポルトガル領を宣言した後、インドに向け出発.その船団のうち一隻を本国報告のためリスボンに戻し.バウ・ブラジルから作られた染料が、ポルトガルに持ち帰られた。
そして翌年、ポルトガルがベラクルスに調査船を派遣。そして、ポルトガル人探検家が、グアナバラ湾(葡: Baía de Guanabara)に、到達したのが1502年1月1日のことである。グアナバラ湾は湾口が狭まっているため大きな川であると誤認し、発見した月に因みポルトガル語で「一月の川」と命名された。

上掲の画像は、1565年のリオデジャネイロの創設を描いた画(Wikipediaより)
それでは、サルバドールからリオに遷都した理由は何か?
ポルトガルによるブラジルの探索が進められている間、他のヨーロッパ諸国(フランス、オランダなど)もブラジルに興味を示し、沿岸部のいたるところで、領土の争奪戦が繰り広げられた。
リオでは、1555年、フランスが、先住民のタモイオ族たちと手を結び、ポルトガルの領土を侵略し始めた。フランスの副提督ニコラス・デュラン・デ・ ビルガニョン(Villegagnon)率いる船団がグアナバラ湾内のセルヒペ島(Ilha de Sergipe.現ビルガニョン島)に上陸し、フランス領「南極フランス」(Frank Antartida)を宣言。.島の切り立った断崖の上に砦を建設した。
ポルトガルは自陣の体勢を整えて、フランスを追放するには、拠点となる都市を設立し、整備する必要があった。
ポルトガル総督メン・デ・サー(Mem de Sa)らは1567年ついにこれを追い出し、18世紀までここ(海岸部)に小さなコミュニティをつくっていた。町の名は川(rio、実は湾)の名の転用である(リオデジャネイロ再建)。
17世紀までのリオは、砂糖の栽培と製糖工場がある小さな港町にすぎなかったが、これらの主な生産地はブラジル北東部であった。しかし18世紀前半に内陸のミナスジェライス周辺で金鉱が発見された。
この金の集散地は、当初は金鉱発見者であるバンデイランテスたちの基地であるサンパウロであったが、1725年にリオとを結ぶ新道が開通すると、距離的に近いリオがサンパウロに代わってミナスの金やダイアモンドの積出港となり、ブラジル植民地の交通と富の中心となった。
このためそれまで栄えていた北東部から南東部への重心の移動が生じ、1763年にはブラジル総督がサルヴァドール・ダ・バイーアからブラジル植民地の首府がリオに移されることとなった。また、1808年にナポレオンに本国領土を奪われたポルトガル王室が遷都してからブラジルが独立するまで、リオはポルトガルの首都でもあったのは余り知られていないのじゃないのだろうか。

そんな首都リオがなぜブラジリアに遷都したのだろうか?
現在のブラジルの首都、ブラジリアは1960年4月に当時の大統領クビシェッキにより建設された計画都市であるが、これより100年以上前、つまり、ブラジル独立の直前の1821年に、ブラジル独立の父と呼ばれるジョゼ・ボニファシオ(José Bonifácio)だという。
1808年にナポレオン軍がポルトガルに侵略したことで、ポルトガル王と王室はリオ・デ・ジャネイロに移り、そこに1821年まで留まっていた。王室が14年間にわたりブラジルに中央政府を置いたことは、結果的にブラジルの独立を早めることになった。1815年ナポレオン支配は終結したが国王ジョアン6世はリオ・デ・ジャネイロに残り続けていたが、国王は6年後の1821年にリスボンに帰還するが、ドン・ペドロ王子を総督摂政としてリオに残していた。
ジョゼ・ボニファシオはこの時、本国のリスボン議会に、首都移転の構想を書き送っており、さらに、ブラジル独立後、自らが宰相になってからも首都移転の構想を議会に諮った(この時新首都の名として「ブラジリア」をすでに提案していたともいう。ブラジリアというのは、「ブラジル」をラテン語読みした名前である。)が、残念ながら移転に至らなかったという(※5:「ブラジル余話」>ブラジル関連>ブラジル歴史>たった三年で作られた首都、ブラジリアの歴史参照)。
それは、彼がブラジルに存在した制憲議会での「奴隷制度廃止計画」の起草者となったが、民主主義の考え方を理由に彼のペドロとの関係は、相いれないものとなり、ついに彼は1823年官職を追われ、同年11月の議会の解散にさいし逮捕され、フランスへ追放されてしまったからだろう。
その後、1889年に、ブラジルでデオドロ・ダ・フォンセカ(Deodoro da Fonseca) 元帥により、ブラジルの軍部が蜂起し、皇帝ペドロ2世を退位させ、共和制を宣言し1891年の大統領選挙で初代大統領に当選すると、貴族制度の廃止などを盛り込んだ憲法が公布され、この憲法の中でそれまでの県(provincia)は新たに州(Estado)となり、正・副大統領の直接選挙、三権分立が定められ、国名はブラジル合衆国(ブラジルの国旗参照)と定められ、各州は独自の州憲法と州軍を保有し、ブラジルは中央集権的な帝制国家から、地方分権的な連邦共和制国家に移行した。そして、1946年までに、首都移転を実現しようという目標が据えられたが、軍が政治介入し、フォンセカは1891年に失脚したため、目標年から十数年遅れること1960年、ジュセリーノ・クビシェッキ政権の下、ついにブラジリアへの移転が実現することになった。
ミナスジェライス州知事として同州の工業化に成功し、その実績を背景に1956年、大統領に当選したクビシェッキは、「五年間の任期中に五十年分の発展を実現する」という「メッタス計画」(プラノ・デ・メッタス)を打ち出したが、31のメッタス(目標)からなるこの計画の最大の目玉が首都ブラジリアの建設であった。そして、ブラジリアは、ブラジル中西部の内陸の何もない場所に建設された。
しかし、そんなに急いで中西部の何もない場所に首都移転をした目的は何なのだろうか?
駐日ブラジル連邦共和国大使館経済部長へのインタビュー(平成22年6月14日※6参照)で、エドウアルド・ティシェイラ・ソウザ氏は以下のように答えている。
首都移転の最大の目的は、「ブラジルのアイデンティティを構築すること」でした。ブラジルは多民族から構成されており、旧首都のリオデジャネイロはポルトガルの影響を非常に強く受けていたのです。そこでブラジルの多民族統一のため、国民国家を象徴するような一つの都市を造る必要があったのです。
2番目の目的は、それまでは沿岸部に人口が集中していて内陸部には人口がまばらでしたので、地理学的な戦略から、内陸部へも人口を分散させる必要性があったということです。
3番目の目的は内陸部の開発です。労働者を移住させ、土木工事を行ったり、あるいはセラード(低木草原地帯)の農業を振興する。セラードというのは「ブラジルのサバンナ」とも言われますけれども、非常に肥沃な土地ですが、農業を行うためには土地改良の必要がありました。この面では日本人移住者が多大な貢献をしています。・・・と。

そして、ブラジリアは、ブラジル中部・標高約1100mの未開の大地に、計画的に建設された。
計画都市地域は、1955年からのパイロットプラン(Pilot Plan。ブラジル人建築家ルシオ・コスタの設計による)というユートピア構想にもとづいて構築されたエリアで、キリスト教の多いブラジルの環境から、十字架にまず線がひかれ、空から見ると、パラノア人造湖のほとりに飛行機が羽根を広げた形をしており、飛行機の機首の部分・三権広場周辺には国会議事堂や行政庁舎、最高裁判所が並び、羽根の部分には高層住宅や各国の大使館が配置されている。三権広場を中心につくられた放射線状の街並みは今もいきる平安京の碁盤の目のようで日本の古代の都市計画の素晴しさを再認識させるものだった。

上掲の画像は、飛行機の主翼の形状を模したブラジリアの都市計画であるパイロットプラン(Wikipediaより)
国会議事堂やメトロポリタン大聖堂などの主要建造物は、いずれもモダニズムの流れを受けた未来的なデザインで作られている。これらの公共建築の主任建築家は、ニューヨーク市の国際連合本部ビルの設計も担当したブラジル人建築家オスカー・ニーマイヤーやルシオ・コスタの両建築家により 1958年から4 年足らずで建設され、1987年には世界遺産にも登録され人口は、285万2.372人(2014年7月現在)にもなっている。まずは以下でその街の景観を見られるとよい。
ブラジリア・都市の景観
モニュメンタル・アクシス通りのパノラマ写真(画像クリックで拡大)
また、以下参考の※7:「ブラジリア旅行|エクスペディア」では、ブラジルの名所が説明付きで見られるが、以下で、ブラジリア連邦直轄区の建造物をご覧ください。
ブラジリア連邦直轄区旅行ガイド

しかし、このブラジリアへの首都移転は成功したといえるだろうか?
どうもメリットよりデメリットの方が大きかったようだ。
この新首都の建設によって内陸部の開発が進んだが、その一方で、莫大な建設費はブラジルの国家財政に大きな負担となって残り、1970年代から1980年代にかけてブラジルを襲った経済不振と高インフレの大きな原因の一つともなり、通貨=クルゼイロ(現在はレアル)の対外的信用は極めて低かった。
特に、1986年から1994年までの8年間に合計4度のデノミによって、通貨価値は2兆7500億分の1に切り下がっており、かってのジンバブエのように毎日のように物価が倍々ゲームで上昇していく「ハイパーインフレーション」が起こっていた(ジンバブエ・ドルは2009年4月12日をもって発行停止)(※3:「世界の経済のネタ帳」のブラジルのインフレ率の推移参照)。
ブラジル政府は、フランコ大統領のもとでカルドーゾ蔵相が1993年12月に実施した「レアルプラン」を発表し、ドルペッグ制の通貨レアルの導入を1994年7月に行いインフレを終息させたが・・・。
新首都を国土の中央に建設した結果、内陸部の経済振興はかなり進み、ブラジリア国際空港建設、物流拠点の整備、長距離バス路線の再整備などで内陸部経済発展と国内アクセス面でメリットが出ている反面、ブラジリアには水運手段がなく、国際線定期便の就航も少ない。サンパウロやリオデジャネイロ、マナウスなどの大都市とは距離がかなり離れており、大企業の本社機能の移転などはほとんどないようだ。
ブラジルの狙いは政治、行政という首都機能を移すことで企業もブラジリアに進出し産業の振興が進み、海岸部と内陸部の経済格差を縮小することだったのだが、河川が無い内陸部に建設されたため水運手段がなく、企業は物流経費がかかる内陸部を敬遠したのだろう、行政も実質的には大西洋沿岸部の大都市中心になっているという。さらに、ブラジリアは整然とした計画都市だが、市内の移動は自動車による移動を前提にしているために、実際の市民生活を送るには不便であるという。
しかも、国家プロジェクトとして緻密な計画が練られて開発されたブラジリア市とは対照的に、周囲の衛星都市は無秩序に発展し、ブラジリアが位置する連邦直轄区内は州境の幹線脇を中心に土地の不法占拠など半ばスラム化(ファヴェーラ参照)しているところもある(中でもリオデジャネイロ市のファヴェーラがもっとも有名だそうだ)ようであり、そうした衛星都市を都市圏とすることで成り立つブラジリアもその影響を免れておらず、一口に成功したとは言い難い状況だそうである。
ブラジルが、国を挙げてリオデジャネイロへの“2016年オリンピック”招致を図ったのは、今でも、リオデジャネイロはブラジルの顔で、ブラジルというと多くの人はリオデジャネイロをイメージする。そのため、リオを再活性化するという大きな計画がありその一環だと、カルドーゾ蔵相は、いっているが、現在、同国第36代大統領ジルマ・ルセフが2014年の再選を目指す大統領選で選挙に勝つために財政赤字を隠したなどとの批判が出ており、また、政府予算の不正執行の疑いが持たれて、ルセフ大統領に対する弾劾手続きが4月18日、同国議会下院で可決されたが、経済は停滞し、ジカ熱流行が終息の兆しを見せないなかで、リオ五輪の開催が迫っているが、まともに、開催できるのであろうか?暴動でも起こりそうで心配である。
ブラジル中央銀行が今年2月29日発表した2015年の財政収支赤字は6130億レアル(1509億9000万ドル)と過去最悪に達したとのこと。財政再建の取り組みの失敗や金利上昇が響き、2014年の水準から2倍近くになったそうだ。
財政赤字の対国内総生産(GDP)比率は10,3 4 %だった。2011 年半ばまでの12 カ月間の財政赤字の対GDP比に比べると約5 倍に膨らんでおり、ルセフ大統領が就任した11 年以降で赤字額がいかに増大したかを物語っているという(※8参照)。ジルマ・ルセフ政権になってからの財政状況などは、※9を、ブラジルの
財政収支の推移は参考※3:「世界の経済のネタ帳」のここを参照)。
ファヴェーラの人たちにとっては、オリンピックどころではないだろうな~。人によっては、ブラジルの財政危機が世界経済に大不況をもたらすだろうというが・・・。

参考:
※1:ブラジル、2014年の人口は2億276万8.562人に
http://megabrasil.jp/20140829_13358/
※2:新興市場都市経済 世界GDPランキングで急速に上昇 PwC報告書
http://www.pwc.com/jp/ja/tax/news/library/report/largest-city-economies-2009.html
※3:世界の経済のネタ帳
http://ecodb.net/
※4:ラテンアメリカの政治
http://www10.plala.or.jp/shosuzki/
※5:ブラジル余話
http://tabatashingo.com/top/
※6:首都ブラジリアの過去、現在、未来~首都移転50周年を迎えて - 国会等の移転ホームページ
http://www.mlit.go.jp/kokudokeikaku/iten/service/newsletter/i_02_70_2.html
※7:ブラジル旅行|エクスペディア
https://www.expedia.co.jp/Brazil.d23.Travel
※8:ブラジルの15年財政赤字は過去最悪、前年比ほぼ2倍| ロイター
http://jp.reuters.com/article/brazil-economy-fiscal-idJPKCN0VA15V
※9:「第二期ジルマ・ルセフ政権(ブラジル)への考察」(PDF) - 世界平和研究所
http://www.iips.org/research/data/note-toyoda20150413.pdf#search='%E3%83%AC%E3%82%A2%E3%83%AB%E8%A8%88%E7%94%BB'
ブラジル レアル・プラン3年後の課題と今後の展望
http://www.bizpoint.com.br/jp/reports/sakurai/sk05_98.htm
ブラジルのスラム
http://blog.livedoor.jp/wakanalivedoor/archives/50465259.html
ブラジルの歴史 
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%96%E3%83%A9%E3%82%B8%E3%83%AB%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2#.E6.B0.91.E6.94.BF.E7.A7.BB.E7.AE.A1.E4.BB.A5.E9.99.8D.EF.BC.881985.E5.B9.B4-.EF.BC.89

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