昭和の前半においては、このように、世界恐慌などの厳しい国際環境の中で、困難な状況に直面した日本は,結局、軍部が独走し、第二次世界大戦に突入。日本だけでも300万人を超える死者(第二次世界大戦の犠牲者参照)を出し、大都市を焼け野原にし、何もかもなくすなど大きな犠牲を払って戦争に終わりを告げた。
第二次世界大戦後においては,経済的には、国際環境にも恵まれ,国民の叡知と努力を生かして,戦後の復興から高度成長を達成し、昭和43年(1968年)には国民総生産(GNP。※7参照)が、当時の西ドイツを抜き第2位となり、石油危機,円高不況をも克服して,自由世界第二位の経済力を実現(名目GDP、名目GNI共に1位米国、2位中国、日本は3位・※7のここ及び※8参照)。
今や,豊かな所得・消費水準を享受するとともに,質量両面において,世界最高水準の工業国として世界経済の運営に重要な役割を担うまでに発展をとげいる。
その意味では、「昭和の時代」には明暗両極があり、この日を祝日とするには無理があるとの説があるのもわからぬではない気もする。。
戦時中家を守るためまた仕事もあり、一人神戸に残っていた父から、神戸に帰ってくるように言われ、徳島から帰ってきたときには、住んでいた家は、焼失し、苦労して駅近くに半焼した家を買い取り修理してそこを仕事場としていた。その家は、年寄りの大工の棟梁が女房と二人だけでが住んでいた家だけに、木造住宅だが大黒柱や、とても太い丸太を利用した丸太梁を多数使っており、非常に丈夫にできており、一部火災で焦げていたが大工が、もう田舎へ帰るというのでそれを買い取ったものである。もう駅近辺は、焼夷弾攻撃で焼け野原となっており、何とか焼け残った家が数十件残っていただけである。
戦後経済が成長したといっても、復興期に至るまでの戦後混乱期、つまり、戦争終結の昭和20年(1945年)~昭和25年(1950年)6月25日に勃発した朝鮮戦争の特需景気(※6の朝鮮特需参照)で経済復興の糸口を掴む頃、また言い換えれば、GHQに占領されていた時期(占領時代)までは、700万人にも及ぶ在外日本人の引揚者もあり、庶民は合法的に配給された食糧だけでは生活財に事欠き、生活が困難であり、焼け跡には闇市が立ち並んだ。
町には、物乞いする人や傷痍軍人、GI(在日米軍人)を相手の「パンパン」と呼ばれる街娼が登場。悲しいことに、親を失った戦災孤児などは、喰うために、ガード下で靴磨きをしたり、かっぱらい(掻っ払い)を、してその日をしのいだ。
戦後、食糧難で飢えて餓死した人の数は戦死者よりも多かったといわれるが、何とかその日の食事は出来ても、おやつどころでない時代、「ギブ・ミー・チョコレート」(※9:「昭和毎日」のここ参照)が流行語になったのもこの時代である。当時の小さな子供が最初に覚えた英語がこの言葉であったのではないだろうか。
野坂昭如自身の戦争原体験を題材した短編小説『火垂るの墓』は、わが地元神戸市と西宮市近郊を舞台に、戦火の下、親を亡くした14歳の兄と4歳の妹が終戦前後の混乱の中を必死で生き抜こうとするが、その思いも叶わずに栄養失調で悲劇的な死を迎えていく姿を描いた物語である。
愛情と無情が交錯する中、蛍のように儚く消えた二つの命の悲しみと鎮魂を、独特の文体と世界観で表現したこの物語は、漫画や映画、ドラマにも取り上げられた。以下は、ドラマ版「火垂の墓」の映像をX JAPANの「Tears」にのせて編集している。結構良いものだよ。
YouTube火垂の墓
http://www.youtube.com/watch?v=HjfjSXmibtI&feature=related
この戦後の復興期、新憲法制定下で,大戦による経済困難からの脱却を図るため,政府は、「経済安定本部」設置(21年)による傾斜生産方式の実施、財閥解体、農地改革といった民主化政策の推進、インフレ抑制のための緊縮財政(「ドッジ・ライン」)、360円レートの設定(昭和23年。※9:「昭和毎日」のここ参照)等相次ぐ政策を打ち出した。
こうした中で我が国経済は「朝鮮特需」もあり,戦前水準に向かって回復を続け、昭和31年(1956年)7月に発表された日本初の『経済白書』(※10)では「もはや戦後ではない」と明言するまでに復興した。
復興をとげた日本経済は,「国際収支の天井」(※11も参照)による引締め,景気後退をはさみながら,神武景気(昭和30年代前半),岩戸景気(昭和30年代半ば)、いざなぎ景気(昭和40年代前半)と平均10%以上の高度成長をとげた。
第1次池田勇人内閣の策定(昭和35年)した「所得倍増計画」の下で,「投資が投資を呼ぶ」設備投資ブームと三種の神器(洗濯機,テレビ,冷蔵庫)から3C(乗用車,カラーテレビ,クーラー)へという消費ブームがこれを支えた。
この間,「IMF8条国」(ここ参照)への移行(39年)など,開放経済体制の整備が行われるとともに,昭和40年代に入ると次第に国際収支の黒字が定着していった。
よく「昭和はよかった」・・と回顧されることがある。その場合思い起こされているのは、この昭和30年代のことではないだろうか。
戦後の復興が進み、街は活気を取り戻し、日本の人々の暮らしも戦前、戦後に比べれば大分豊かになった。まだ残業も多く、有給どころか休日の休みさえもなかなか取得出来なかった働き蜂サラリーマンもインフレと所得倍増計画の中で、給料も上がり、気分もよくなり、クレージーキャッツの植木等が歌い大ヒットした「スーダラ節」やそれに続く歌を「サラリーマンは気楽な稼業ときたもんだ・・」(「ドント節」以下参照)と居酒屋などで、陽気に歌いだしたのも昭和36・7年ごろのことである。
ハナ肇とクレイジーキャッツ ドント節 歌詞
平成17年(2005年)に上映され大ヒットした昭和30年代を舞台にした映画『ALWAYS 三丁目の夕日』や、大好評のため2年後の平成19 年(2007年)にも公開された『ALWAYS 続・三丁目の夕日』などを見ていると、あの頃は今のように便利な世の中ではなかったが、そこに暮らす人々が生活を共有するようなところがあって非常に心豊かに暮らしている。それが若い人にも感動できたからこそ、昭和が見直され、それ以後、全国各地で昭和の町づくりななども盛んになっていったように思う。豊後高田市の「昭和の町」や「昭和」の雰囲気が漂う東京都青梅市などが評判を呼ぶようになったのだろう。
当時集団就職で地方の多くの若者が、東京へ出てきてたが、私自身も、この時代、大好きな歌手フランク永井の「有楽町で逢いましょう」の歌に誘われてという訳でもないが、大阪の商社を辞めて、当時あこがれであった東京で急成長していた会社へと転職し、花の銀座や、ちょっと渋い街渋谷、その当時何か大阪の下町通天閣周辺や新世界と同じような雰囲気のあった新宿で大いに青春を堪能していた。
いわば、生活が豊かになることが幸せになることだと信じられた時代。すべてが幸せだったわけではないにしても、人々は未来に希望が持てた。頑張ることで報われた最後の時代と言えるかもしれない。
今振り返って見ると、まだまだ貧しく、街も清潔とは言えず、暮らしは依然として不便なままだったが、それでも、昭和30年代を生きた私を含め多くの人達が「あの時代は良い時代だ」と懐かしく振り返るのは、あの暗くてひもじくて辛い戦中・戦後の長い時期を必死に耐え、何とか生き抜いてきた人間が、やっと、その苦しいことや辛かったことも忘れかけ、明日への希望を見出せるようになってきてからこその感慨に違いないような気がする。
戦中、戦後の辛い時代を知らない、戦後生まれの豊かな世の中に生まれてきた世代の人たちにとっては、つまらぬ時代であったかもしれない。私たちの年代のものとは違って、ただ、当時のものや街並みにレトロやノスタルジーを感じさせているだけではないだろうか。
今の時代とは違って、まだまだ、男らしい男が男であり、女らしい女が女であった時代、私たちが感じる昭和の男や女は、もう、古臭い男や女になってしまっている。
昭和30年代が過ぎ40年代に入ると、必ずしも夢や希望だけで生きていける時代ではなくなったようだ。自由主義の進化は、当然に強いものが弱いものを駆逐し2極分化してゆく。
私が会社へ入った時代などは、年功序列・終身雇用の時代でもあり、私たちは先輩や年配者のいうことをよく聞き、それに従って行動してきものだが、何時の間にか、新入社員など若い人からは、そんな考えは古い、これからは「能力主義」だと言って笑われたのを思い出す。
昨日があって今日があり、そして明日が来る。原因がなくて結果はない。すべての今は過去のなせる業である。よくなったこともあれば悪くなったこともある。昭和の時代の何が良くて何が悪かったのか・・・,振り返ってみるのもよいだろう。
もし、昭和30年代のことにだけ興味があるのなら、YouTubeに沢山動画がある。以下参照。
昭和30年の動画ーYAHOO!
「昭和の日」その1へ戻る
参考
※7:世界ランキングー経済と産業についてのランキング
http://top10.sakura.ne.jp/listp14.html#rank1
※8:今なぜ「GDP」ではなく「GNI」が日本経済にとって重要なのか?
http://diamond.jp/articles/-/38153
※9:昭和毎日
http://showa.mainichi.jp/
※10:経済白書 昭和31年度-経済企画庁編
https://www.komazawa-u.ac.jp/~kobamasa/lecture/japaneco/innovat/ecwhpp_inv.htm
※11:国際収支の天井とは? | 証券取引用語集 - 投資用語集
http://www.glossary.jp/sec/economy/balance-of-payments-constraint.php
宮内庁:主要祭儀一覧
http://www.kunaicho.go.jp/about/gokomu/kyuchu/saishi/saishi01.html
Global Note(グローバルノート )
http://www.globalnote.jp/
日本の歴史 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2#.E6.98.AD.E5.92.8C.E6.99.82.E4.BB.A3
第二次世界大戦後においては,経済的には、国際環境にも恵まれ,国民の叡知と努力を生かして,戦後の復興から高度成長を達成し、昭和43年(1968年)には国民総生産(GNP。※7参照)が、当時の西ドイツを抜き第2位となり、石油危機,円高不況をも克服して,自由世界第二位の経済力を実現(名目GDP、名目GNI共に1位米国、2位中国、日本は3位・※7のここ及び※8参照)。
今や,豊かな所得・消費水準を享受するとともに,質量両面において,世界最高水準の工業国として世界経済の運営に重要な役割を担うまでに発展をとげいる。
その意味では、「昭和の時代」には明暗両極があり、この日を祝日とするには無理があるとの説があるのもわからぬではない気もする。。
戦時中家を守るためまた仕事もあり、一人神戸に残っていた父から、神戸に帰ってくるように言われ、徳島から帰ってきたときには、住んでいた家は、焼失し、苦労して駅近くに半焼した家を買い取り修理してそこを仕事場としていた。その家は、年寄りの大工の棟梁が女房と二人だけでが住んでいた家だけに、木造住宅だが大黒柱や、とても太い丸太を利用した丸太梁を多数使っており、非常に丈夫にできており、一部火災で焦げていたが大工が、もう田舎へ帰るというのでそれを買い取ったものである。もう駅近辺は、焼夷弾攻撃で焼け野原となっており、何とか焼け残った家が数十件残っていただけである。
戦後経済が成長したといっても、復興期に至るまでの戦後混乱期、つまり、戦争終結の昭和20年(1945年)~昭和25年(1950年)6月25日に勃発した朝鮮戦争の特需景気(※6の朝鮮特需参照)で経済復興の糸口を掴む頃、また言い換えれば、GHQに占領されていた時期(占領時代)までは、700万人にも及ぶ在外日本人の引揚者もあり、庶民は合法的に配給された食糧だけでは生活財に事欠き、生活が困難であり、焼け跡には闇市が立ち並んだ。
町には、物乞いする人や傷痍軍人、GI(在日米軍人)を相手の「パンパン」と呼ばれる街娼が登場。悲しいことに、親を失った戦災孤児などは、喰うために、ガード下で靴磨きをしたり、かっぱらい(掻っ払い)を、してその日をしのいだ。
戦後、食糧難で飢えて餓死した人の数は戦死者よりも多かったといわれるが、何とかその日の食事は出来ても、おやつどころでない時代、「ギブ・ミー・チョコレート」(※9:「昭和毎日」のここ参照)が流行語になったのもこの時代である。当時の小さな子供が最初に覚えた英語がこの言葉であったのではないだろうか。
野坂昭如自身の戦争原体験を題材した短編小説『火垂るの墓』は、わが地元神戸市と西宮市近郊を舞台に、戦火の下、親を亡くした14歳の兄と4歳の妹が終戦前後の混乱の中を必死で生き抜こうとするが、その思いも叶わずに栄養失調で悲劇的な死を迎えていく姿を描いた物語である。
愛情と無情が交錯する中、蛍のように儚く消えた二つの命の悲しみと鎮魂を、独特の文体と世界観で表現したこの物語は、漫画や映画、ドラマにも取り上げられた。以下は、ドラマ版「火垂の墓」の映像をX JAPANの「Tears」にのせて編集している。結構良いものだよ。
YouTube火垂の墓
http://www.youtube.com/watch?v=HjfjSXmibtI&feature=related
この戦後の復興期、新憲法制定下で,大戦による経済困難からの脱却を図るため,政府は、「経済安定本部」設置(21年)による傾斜生産方式の実施、財閥解体、農地改革といった民主化政策の推進、インフレ抑制のための緊縮財政(「ドッジ・ライン」)、360円レートの設定(昭和23年。※9:「昭和毎日」のここ参照)等相次ぐ政策を打ち出した。
こうした中で我が国経済は「朝鮮特需」もあり,戦前水準に向かって回復を続け、昭和31年(1956年)7月に発表された日本初の『経済白書』(※10)では「もはや戦後ではない」と明言するまでに復興した。
復興をとげた日本経済は,「国際収支の天井」(※11も参照)による引締め,景気後退をはさみながら,神武景気(昭和30年代前半),岩戸景気(昭和30年代半ば)、いざなぎ景気(昭和40年代前半)と平均10%以上の高度成長をとげた。
第1次池田勇人内閣の策定(昭和35年)した「所得倍増計画」の下で,「投資が投資を呼ぶ」設備投資ブームと三種の神器(洗濯機,テレビ,冷蔵庫)から3C(乗用車,カラーテレビ,クーラー)へという消費ブームがこれを支えた。
この間,「IMF8条国」(ここ参照)への移行(39年)など,開放経済体制の整備が行われるとともに,昭和40年代に入ると次第に国際収支の黒字が定着していった。
よく「昭和はよかった」・・と回顧されることがある。その場合思い起こされているのは、この昭和30年代のことではないだろうか。
戦後の復興が進み、街は活気を取り戻し、日本の人々の暮らしも戦前、戦後に比べれば大分豊かになった。まだ残業も多く、有給どころか休日の休みさえもなかなか取得出来なかった働き蜂サラリーマンもインフレと所得倍増計画の中で、給料も上がり、気分もよくなり、クレージーキャッツの植木等が歌い大ヒットした「スーダラ節」やそれに続く歌を「サラリーマンは気楽な稼業ときたもんだ・・」(「ドント節」以下参照)と居酒屋などで、陽気に歌いだしたのも昭和36・7年ごろのことである。
ハナ肇とクレイジーキャッツ ドント節 歌詞
平成17年(2005年)に上映され大ヒットした昭和30年代を舞台にした映画『ALWAYS 三丁目の夕日』や、大好評のため2年後の平成19 年(2007年)にも公開された『ALWAYS 続・三丁目の夕日』などを見ていると、あの頃は今のように便利な世の中ではなかったが、そこに暮らす人々が生活を共有するようなところがあって非常に心豊かに暮らしている。それが若い人にも感動できたからこそ、昭和が見直され、それ以後、全国各地で昭和の町づくりななども盛んになっていったように思う。豊後高田市の「昭和の町」や「昭和」の雰囲気が漂う東京都青梅市などが評判を呼ぶようになったのだろう。
当時集団就職で地方の多くの若者が、東京へ出てきてたが、私自身も、この時代、大好きな歌手フランク永井の「有楽町で逢いましょう」の歌に誘われてという訳でもないが、大阪の商社を辞めて、当時あこがれであった東京で急成長していた会社へと転職し、花の銀座や、ちょっと渋い街渋谷、その当時何か大阪の下町通天閣周辺や新世界と同じような雰囲気のあった新宿で大いに青春を堪能していた。
いわば、生活が豊かになることが幸せになることだと信じられた時代。すべてが幸せだったわけではないにしても、人々は未来に希望が持てた。頑張ることで報われた最後の時代と言えるかもしれない。
今振り返って見ると、まだまだ貧しく、街も清潔とは言えず、暮らしは依然として不便なままだったが、それでも、昭和30年代を生きた私を含め多くの人達が「あの時代は良い時代だ」と懐かしく振り返るのは、あの暗くてひもじくて辛い戦中・戦後の長い時期を必死に耐え、何とか生き抜いてきた人間が、やっと、その苦しいことや辛かったことも忘れかけ、明日への希望を見出せるようになってきてからこその感慨に違いないような気がする。
戦中、戦後の辛い時代を知らない、戦後生まれの豊かな世の中に生まれてきた世代の人たちにとっては、つまらぬ時代であったかもしれない。私たちの年代のものとは違って、ただ、当時のものや街並みにレトロやノスタルジーを感じさせているだけではないだろうか。
今の時代とは違って、まだまだ、男らしい男が男であり、女らしい女が女であった時代、私たちが感じる昭和の男や女は、もう、古臭い男や女になってしまっている。
昭和30年代が過ぎ40年代に入ると、必ずしも夢や希望だけで生きていける時代ではなくなったようだ。自由主義の進化は、当然に強いものが弱いものを駆逐し2極分化してゆく。
私が会社へ入った時代などは、年功序列・終身雇用の時代でもあり、私たちは先輩や年配者のいうことをよく聞き、それに従って行動してきものだが、何時の間にか、新入社員など若い人からは、そんな考えは古い、これからは「能力主義」だと言って笑われたのを思い出す。
昨日があって今日があり、そして明日が来る。原因がなくて結果はない。すべての今は過去のなせる業である。よくなったこともあれば悪くなったこともある。昭和の時代の何が良くて何が悪かったのか・・・,振り返ってみるのもよいだろう。
もし、昭和30年代のことにだけ興味があるのなら、YouTubeに沢山動画がある。以下参照。
昭和30年の動画ーYAHOO!
「昭和の日」その1へ戻る
参考
※7:世界ランキングー経済と産業についてのランキング
http://top10.sakura.ne.jp/listp14.html#rank1
※8:今なぜ「GDP」ではなく「GNI」が日本経済にとって重要なのか?
http://diamond.jp/articles/-/38153
※9:昭和毎日
http://showa.mainichi.jp/
※10:経済白書 昭和31年度-経済企画庁編
https://www.komazawa-u.ac.jp/~kobamasa/lecture/japaneco/innovat/ecwhpp_inv.htm
※11:国際収支の天井とは? | 証券取引用語集 - 投資用語集
http://www.glossary.jp/sec/economy/balance-of-payments-constraint.php
宮内庁:主要祭儀一覧
http://www.kunaicho.go.jp/about/gokomu/kyuchu/saishi/saishi01.html
Global Note(グローバルノート )
http://www.globalnote.jp/
日本の歴史 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2#.E6.98.AD.E5.92.8C.E6.99.82.E4.BB.A3