熊本・大分地震(※1)で被災された皆さまに対して、心からお見舞い申し上げます。
私の地元神戸を中心に発生した20年前の阪神・淡路大震災と同じクラスの大規模地震、日が経つにつれてその被害状況が明らかになっていますが、今回の地震は、何時までも大きな揺れが継続して発生しており、住民の方は本当に不安な毎日をお過ごしのことでしょう。ただただ、一日も早い復興をお祈りするばかりです。
いつもこのブログを書く時、参考にしているのが日本記念日協会(※2)登録の記念日であるが、同協会に登録されている今日・4月29日の認定記念日には、「豊後高田昭和の町の日」(大分県豊後高田市が制定)や 「歯肉ケアの日」(花王株式会社が制定)、 「歯肉炎予防デー」(花王株式会社が制定) 、「Piknikの日」(森永乳業株式会社が制定)、 「クレープの日 」(株式会社モンテールが制定)、 「キン肉マンの日」(集英社が制定)、「畳の日」(全国畳産業振興会が制定)、 「羊肉の日」(ジンギスカン食普及拡大促進協議会が制定)が登録されており、その他の記念日として、「昭和の日」が登録されていた。
この認定記念日の「Piknikの日」(ここ参照)や,「クレープの日 」(ここ参照)、「畳の日」(ここ参照), 「羊肉の日」(ここ参照)は、すでにこのブログ「今日のことあれこれと・・・」で、取り上げたし、 「歯肉ケアの日」や「歯肉炎予防デー」に代わりに、似たような記念日としては「歯の日」「歯ブラシの交換日」(毎月8日. サンスターが制定。ここ参照)や、虫歯予防デー (6月4日、日本歯科医師会や厚生労働省が設定していたものを日本記念日協会が再設定。ここ参照)で取り上げたことがある[()内のこことあるのは当ブログで取り上げたページ]。あとは、「キン肉マンの日」と「豊後高田昭和の町の日」だけがまだ取り上げていない。
「豊後高田昭和の町の日」は、大分県・豊後高田市が制定したもの。
同市が2001年から商業と観光の振興のために、商工会議所、商店街とともに進めてきた昭和30 年代をテーマとした「豊後高田昭和の町」をさらに多くの人に知ってもらうのが目的だそうで、日付は国民の祝日の「昭和の日」からだそうだ。
「豊後高田昭和の町」は、その懐かしい街並みや商品、人々の温かい対応などで全国から多くの観光客を集めているそうだ。
豊後高田 昭和の町 - 公式サイト
The豊後高田-昭和の町
ただ、今回の地震の風評被害などで大分地方の大した被害のない観光地も旅館予約な取り消しなどが相次いでいるところがあるとも聞く。困ったものですね~。
そのようなことからというわけではないが、今日は、日本の国民の祝日の一つである「昭和の日」をテーマーに書くことにしよう。
国民の祝日である「昭和の日」は、もともと昭和の時代には、帝国憲法時代の戦前・戦中では「天長節」、戦後の日本国憲法(新憲法)下の国民の祝日に関する法律(略称「祝日法」、昭和23年7月20日法律第178号)では「天皇誕生日」という祝日であった。
「祝日法」第2条によれば、天皇誕生日は、「天皇の誕生日を祝う」ことを趣旨としており、日付は昭和天皇の誕生日である4月29日があてられている。
それが、昭和64年(1989年)1月7日に昭和天皇が崩御され、今上天皇即位により、同年以降の4月29日はそれまでの天皇誕生日としては存続できなくなり、「祝日法」の天皇誕生日に係る項を改正する必要が生じた。
孝明天皇、明治天皇、大正天皇の場合は崩御日が先帝祭として 戦前は太政官布告「年中祭日祝日ノ休暇日ヲ定ム」や勅令「休日ニ関スル件」により、法定の休日とされていたが、昭和天皇の場合は現行の「休日法」により崩御日が休日とならない(「休日法」施行と同時に前述の法は廃止)ため、当初から誕生日を活かして「昭和記念日」など昭和に因んだ新祝日として存続させる案が出ていたようだが、その案は見送られ、天皇誕生日は、今上天皇の誕生日である12月23日に改められることとなったが、同時に、同年(平成元年=1989年)以降の4月29日は「みどりの日」という名称の祝日に改めた上で祝日として存続させることとなった。
「みどりの日」の名前の由来は、各界識者をメンバーとする小渕恵三官房長官(当時)の私的諮問機関(皇位継承に伴う国民の祝日に関する法律改正に関する懇談会)において、「昭和天皇は植物に造詣が深く、自然をこよなく愛したことから『緑』にちなんだ名がふさわしい」という主旨の意見が多数を占めたからであるとされている(Wikipedia)。参議院での審議などは以下参考の※3:「参議院会議録情報 第162回国会 内閣委員会 第9号」参照。
「祝日法」第2条には、「自然にしたしむとともにその恩恵に感謝し、豊かな心をはぐくむ」ことを趣旨としている(「祝日法」条文※4参照)。
その後、平成12年(2000年)3月、自由民主党・自由党・公明党の連立与党が改正法案を参議院に提出。参議院は通過したものの、同年5月に内閣総理大臣森喜朗の「神の国発言」の影響で衆議院での採決が見送られた後、衆議院解散(神の国解散)により廃案となった。
平成14年(2002年)に自由民主党と保守新党が再提出。公明党・自由党が賛成、平成12年(2000年)の法案に反対した民主党も賛成に転じて、平成15年(2003年)7月に衆議院を通過した。参議院で継続審議に入ったが、衆議院の解散により審議未了のまま廃案となった。
平成16年(2004年)、自由民主党・公明党が3度目となる改正法案を提出、翌平成17年(2005年)4月の衆議院内閣委員会で自由民主党・公明党・民主党の賛成多数により可決。参議院での継続審議を経て、5月13日の参議院本会議で成立した。同改正法は平成19年(2007年)から施行され、同年以降の4月29日は「昭和の日」、従前の「みどりの日」はそれまで「国民の休日」であった5月4日に上書き的に移動した。なお、同改正法にはこの二つの祝日設置のほかにも付随する改正(振替休日や国民の休日の重複を避けるための条文の変更等)が盛り込まれている。
これらの経緯を見ていても、4月29日という日はゴールデンウィークの一角を構成する祝日を廃止することによる国民生活への影響も配慮されたようであるが、昭和天皇の誕生日をとりあえず「みどりの日」という名の祝日で存続させておいて、後に改めて「昭和の日」と名称を変え、何が何でも存続させたかったという執念のようなものが感じられる。
祝日法」第3条第3項に「その前日及び翌日が「国民の祝日」である日(「国民の祝日」でない日に限る。)は、休日とする。」とあり、これらの祝日に日曜日が当たる場合は休日が増えることになるのだが、残念ながら、今年は、4月29日の後の4月30日、5月1日(日曜)の後の5月2日も平日と、飛び石連休になっており、有給などで休める人は良いが、ちょっと残念な人も多いだろうね。
日本国憲法(新憲法)の時代になり、宗教と政治は切り離さないといけないと決められれている(政教分離の原則参照)。
戦前は「天皇」は神として崇められており、その誕生日は「祝日」として扱われていた。しかし戦後、天皇は神ではなく「日本国民統合の象徴」(象徴天皇制)という新しい意味を持つようになった。その事を受け、天皇を神格化した行事では無く天皇の誕生日を純粋にお祝いし、国民と天皇との距離を縮めることを目的とした日として「天皇誕生日」が設けられた。
戦前までの天長節は、「天皇誕生日」と名をかえ「天皇の誕生日を祝う日」として今上天皇の誕生日12月23日に設定され、明治天皇の誕生日、旧暦(嘉永5年)の9月22日は新暦(1852年)の11月3日に、「自由と平和を愛し、文化をすすめる」日として、現在の「文化の日」として残されている。
この日は新憲法公布の日(1946年11月3日。因みに施行は翌1947年5月3日)にもあたり、前半はそのスローガンである「自由と平和」をとり、後半の「文化をすすめる」は明治時代の近代化政策により、飛躍的に社会の生活・文化が発展したことをふまえている。新憲法の公布日をこの日に設定することには色々とGHQにも気を使わねばならなかったようだ(※5参照)。この日は、まさに明治と新生日本を記念する日ではある。そして、昭和天皇の誕生日は、亡くなられた後に現在の名称に改名され残されている。
ただ、なぜか、昭和天皇の父君である大正天皇の天長節由来の休日(8月31日か8月は酷暑のため10月31日にずらして実施されたことあり)が現在祝日として残っていない。
大正天皇は、明治45年/大正元年(1912年)践祚後1915年(大正4年)に即位の礼を行っているが、明治天皇と異なり政治的な判断が不得手でこの面の力が無かったたようであり、また、生まれて以降病弱であったため大正6年(1917年)頃から、公務や心労が病の悪化に輪をかけ、公務を休むことが多くなり、大正10年(1921年)末には、当時二十歳であった皇太子裕仁親王(昭和天皇)が摂政となり、それ以降公務は、ほとんど皇太子が行なっていたという事実がある。
この頃、第一次世界大戦(1914年~1918年)末期の1917年(大正6年)ロシア革命(二月革命や十月革命)や1918年(大正7年)のドイツ革命(11月革命とも言う)などによって次々と帝政(帝国)は崩壊し、その影響はヨーロッパや日本にも及んでいた。そして、国内でも「大正デモクラシー」による労働運動・小作争議の高まりで「革命」の危機感があった時代でもある。天皇が病弱であることで、国内の統治秩序に問題が生じれば、天皇の権威を失墜させることにもなるので、元気で聡明な皇太子裕仁親王(昭和天皇)に公務をゆだねざるを得なかった・・・。この辺のことが原因になっているのかも知れないが、本当のところはよくわからない。
「祝日法」第一条には、「自由と平和を求めてやまない日本国民は、美しい風習を育てつつ、よりよき社会、より豊かな生活を築きあげるために、ここに国民こぞつて祝い、感謝し、又は記念する日を定め、これを「国民の祝日」と名づける。」としている。
「憲法」や「天皇」の話になると、戦後いろいろな意見も出てくるのだが、ここは、あまり難しく考えずに、「祝日法」の趣旨や意義を考える日にしてもよいのではないだろうか。
祝日法における「昭和の日」は「激動の日々を経て、復興を遂げた昭和の時代を顧み、国の将来に思いをいたす。」ことをその意義としている・・・。
それでは、1年に一度は廻ってくるこの日に、昭和天皇とともにあった昭和の時代を改めて見つめ直してみよう。
昭和の時代は、「昭和」の元号を冠した時代(1926年~1989年)を指すが、「昭和」は、日本の歴代元号の中で最も長く続いた元号であり、元年と64年は使用期間が共に7日間であるため実際の時間としては62年と14日にもなり、外国の元号を含めても最も長く続いた元号であり、歴史上60年以上続いた元号は日本の昭和(64年)と、清の康熙(61年)と乾隆(60年)しかない。
その特徴は,明治時代,大正時代のように,ある特定のイメージで語られる時代とはいえないだろう。それは、第2次世界大戦の敗北とその後の改革による変動があまりにも大きく,戦前と戦後(1945年=昭和20年以降)とは,まったく違った時代といってもよいほどの大きな変化を遂げているからである。
急速な技術進歩を続ける20世紀は、2度の世界大戦(第一次、第二次世界大戦)に象徴されるように、それまでの時代と異なり、国土そのものを破壊する大規模近代戦争を伴う動乱の時代でもあった。
日本は国内的には立憲君主制の体裁をとり、当初の藩閥政治を脱して、1920年代には政党が内閣を構成するようになった。
しかし、政党政治がその一面で見せた腐敗は、相次ぐ不況(第一次世界大戦後の戦後恐慌。昭和恐慌も参照)下で困窮する国民の不信と怒りを買い、大陸(満州)への進出(侵略と呼ばれている)による事態の打開と国家改造を志向する勢力の台頭を招く。
1920年代末から独立性を強めた軍部は、昭和5年(1930年)以降は政府の意思に反した軍事活動や戦闘を多数引き起こし(1931年の 柳条湖事件をきっかけに[ =満州事変が起こる])、相次ぐ軍事クーデター(1932年五・一五事件から1936年二・二六事件)により、ついには政党政治を葬り去った。
この事件の後、社会主義者だけでなく、自由主義者に 対する取り締まりも行われ、国家主義に反するとみられた思想や言論は、強く制限を受けるようになった(言論統制)。
昭和55年(1980年)に、高倉健と吉永小百合の初共演により話題を呼んだ森谷司郎監督作品映画『動乱 』の背景は、昭和7年から昭和11年。経済恐慌と凶作が重なり苦しみを強いられる庶民たち、皇道派と統制派に分裂する陸軍内部、昭和維新の声が高まる皇道派の青年将校たち、そして決起される二つのクーデター(昭和史の起点となった五・一五事件[犬養毅首相暗殺]から二・二六事件[クーデター未遂])までの風雲急を告げる動乱の中、時代の波に翻弄されながらも信念を貫き生きる寡黙な青年将校(高倉健演じる宮城啓介大尉{ モデルは実在の安藤輝三})と、その妻との愛と生きざまを、一大叙事詩として二部構成の雄大なスケールで綴った感動のドラマとして描かれている。
二・二六事件収束の後、昭和12年(1937年)3月末内閣総辞職した岡田内閣の後の林銑十郎内閣は、成立2か月後の5月31日には総辞職となり、6月4日に第一次近衛文麿内閣が成立する。
中国では西安事件で拉致された蒋介石と周恩来の間で国共合作が成立して、抗日闘争が進めら(第二次国共合作)、同年盧溝橋で日中両軍が衝突し(盧溝橋事件)、停戦協定後も通州事件、第二次上海事変などが続き、日中戦争(支那事変)が始まった。
戦線の拡大に従って, 思想統制が導入され、国家総動員法も成立。
その後、昭和14年(1939年)1月に平沼騏一郎内閣が誕生後、2月に軍部は南支那海海南島を占領し、3月にはフィリピン西方海上の無人諸島の領有を宣言して新南群島(南沙諸島参照)と名付け領土として、台湾高雄市に編入される。
この軍事行動は英米を大きく刺激した。また6月には天津の英仏租界を封鎖した 。天津事件という(※6;「クリック 20世紀」のここ参照)。
その間満洲では5月には、ノモンハン事件などで衝突している。そして、7月になるとアメリカが日米通商航海条約を破棄したのでイギリスの対応も変わり日英会談も決裂した(日英関係)。
ここから日本による米英敵視が顕在化した。そして、 昭和16年(1941年)イギリスからも日英通商航海条約を破棄され、日本国内では「ABCD包囲網による経済封鎖」への対抗として開戦論が高まり、12月8日、太平洋戦争が勃発すると、東條内閣で参戦が閣議で決定され今でいう第二次世界大戦へ突入した。
結果的に、昭和20年(1945年)硫黄島の戦いに敗れ、硫黄島が陥落。 その前年から、アメリカ陸軍航空隊のボーイング B-29爆撃機による日本本土空襲が本格化し,、低高度による夜間無差別爆撃で焼夷弾攻撃が行われるようになり、東京、大阪、名古屋、横浜、そしてわが地元神戸(神戸大空襲参照)の百万都市の他、仙台、福岡、岡山、富山、徳島、熊本、佐世保など、全国の中小各都市も空襲にさらされる事になった。
それでも一億総玉砕を掲げた東條内閣は戦争をやめようとはせず、8月6日に広島市への原子爆弾投下、8月9日には長崎市への原子爆弾投下により、何十万人もの死傷者を出して、やっと、8月14日の昭和天皇臨席の御前会議で、ポツダム宣言受諾を承認。
この決定は8月15日正午に、昭和天皇自らの日本放送協会のラジオ放送(いわゆる玉音放送)により内地・外地の国民に伝えられ,やっと終戦にこぎつけたのである。,
私は、当時神戸に住んでいられなくなったので、父型の親戚のある高砂市へ疎開し、そこで幼稚園に入ったが、その高砂も軍事工場のある工業都市だったので攻撃が激しくなり危険になった為、今度は母方の実家徳島へ疎開し、そこで小学校に入り、終戦を迎え、誰もが、玉音放送を聞きながら泣いていたのを覚えているが、まだ、小学校の私などには 、酷い戦争が終わってやっと、暗い毎日から解放され嬉しいはずなのに、皆が泣いているのを、その時は、奇妙にさえ感じていたのを覚えている。
「昭和の日」その2へ続く
冒頭の画像は旭日旗を持つ、迪宮裕仁親王
参考
※1:平成28年(2016年)熊本地震の関連情報 - 気象庁
http://www.jma.go.jp/jma/menu/h28_kumamoto_jishin_menu.html
※2:日本記念日協会
http://www.kinenbi.gr.jp/
※3:参議院会議録情報 第162回国会 内閣委員会 第9号
http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/sangiin/162/0058/16205120058009c.html
※4:国民の祝日に関する法律(昭和23年法律第178号)
http://www.geocities.jp/nakanolib/hou/hs23-178.htm
※5:新憲法の公布日をめぐる議論 | 日本国憲法の誕生 - 国立国会図書館
http://www.ndl.go.jp/constitution/shiryo/04/002_44shoshi.html
※6;クリック 20世紀
http://www.c20.jp/index.html
私の地元神戸を中心に発生した20年前の阪神・淡路大震災と同じクラスの大規模地震、日が経つにつれてその被害状況が明らかになっていますが、今回の地震は、何時までも大きな揺れが継続して発生しており、住民の方は本当に不安な毎日をお過ごしのことでしょう。ただただ、一日も早い復興をお祈りするばかりです。
いつもこのブログを書く時、参考にしているのが日本記念日協会(※2)登録の記念日であるが、同協会に登録されている今日・4月29日の認定記念日には、「豊後高田昭和の町の日」(大分県豊後高田市が制定)や 「歯肉ケアの日」(花王株式会社が制定)、 「歯肉炎予防デー」(花王株式会社が制定) 、「Piknikの日」(森永乳業株式会社が制定)、 「クレープの日 」(株式会社モンテールが制定)、 「キン肉マンの日」(集英社が制定)、「畳の日」(全国畳産業振興会が制定)、 「羊肉の日」(ジンギスカン食普及拡大促進協議会が制定)が登録されており、その他の記念日として、「昭和の日」が登録されていた。
この認定記念日の「Piknikの日」(ここ参照)や,「クレープの日 」(ここ参照)、「畳の日」(ここ参照), 「羊肉の日」(ここ参照)は、すでにこのブログ「今日のことあれこれと・・・」で、取り上げたし、 「歯肉ケアの日」や「歯肉炎予防デー」に代わりに、似たような記念日としては「歯の日」「歯ブラシの交換日」(毎月8日. サンスターが制定。ここ参照)や、虫歯予防デー (6月4日、日本歯科医師会や厚生労働省が設定していたものを日本記念日協会が再設定。ここ参照)で取り上げたことがある[()内のこことあるのは当ブログで取り上げたページ]。あとは、「キン肉マンの日」と「豊後高田昭和の町の日」だけがまだ取り上げていない。
「豊後高田昭和の町の日」は、大分県・豊後高田市が制定したもの。
同市が2001年から商業と観光の振興のために、商工会議所、商店街とともに進めてきた昭和30 年代をテーマとした「豊後高田昭和の町」をさらに多くの人に知ってもらうのが目的だそうで、日付は国民の祝日の「昭和の日」からだそうだ。
「豊後高田昭和の町」は、その懐かしい街並みや商品、人々の温かい対応などで全国から多くの観光客を集めているそうだ。
豊後高田 昭和の町 - 公式サイト
The豊後高田-昭和の町
ただ、今回の地震の風評被害などで大分地方の大した被害のない観光地も旅館予約な取り消しなどが相次いでいるところがあるとも聞く。困ったものですね~。
そのようなことからというわけではないが、今日は、日本の国民の祝日の一つである「昭和の日」をテーマーに書くことにしよう。
国民の祝日である「昭和の日」は、もともと昭和の時代には、帝国憲法時代の戦前・戦中では「天長節」、戦後の日本国憲法(新憲法)下の国民の祝日に関する法律(略称「祝日法」、昭和23年7月20日法律第178号)では「天皇誕生日」という祝日であった。
「祝日法」第2条によれば、天皇誕生日は、「天皇の誕生日を祝う」ことを趣旨としており、日付は昭和天皇の誕生日である4月29日があてられている。
それが、昭和64年(1989年)1月7日に昭和天皇が崩御され、今上天皇即位により、同年以降の4月29日はそれまでの天皇誕生日としては存続できなくなり、「祝日法」の天皇誕生日に係る項を改正する必要が生じた。
孝明天皇、明治天皇、大正天皇の場合は崩御日が先帝祭として 戦前は太政官布告「年中祭日祝日ノ休暇日ヲ定ム」や勅令「休日ニ関スル件」により、法定の休日とされていたが、昭和天皇の場合は現行の「休日法」により崩御日が休日とならない(「休日法」施行と同時に前述の法は廃止)ため、当初から誕生日を活かして「昭和記念日」など昭和に因んだ新祝日として存続させる案が出ていたようだが、その案は見送られ、天皇誕生日は、今上天皇の誕生日である12月23日に改められることとなったが、同時に、同年(平成元年=1989年)以降の4月29日は「みどりの日」という名称の祝日に改めた上で祝日として存続させることとなった。
「みどりの日」の名前の由来は、各界識者をメンバーとする小渕恵三官房長官(当時)の私的諮問機関(皇位継承に伴う国民の祝日に関する法律改正に関する懇談会)において、「昭和天皇は植物に造詣が深く、自然をこよなく愛したことから『緑』にちなんだ名がふさわしい」という主旨の意見が多数を占めたからであるとされている(Wikipedia)。参議院での審議などは以下参考の※3:「参議院会議録情報 第162回国会 内閣委員会 第9号」参照。
「祝日法」第2条には、「自然にしたしむとともにその恩恵に感謝し、豊かな心をはぐくむ」ことを趣旨としている(「祝日法」条文※4参照)。
その後、平成12年(2000年)3月、自由民主党・自由党・公明党の連立与党が改正法案を参議院に提出。参議院は通過したものの、同年5月に内閣総理大臣森喜朗の「神の国発言」の影響で衆議院での採決が見送られた後、衆議院解散(神の国解散)により廃案となった。
平成14年(2002年)に自由民主党と保守新党が再提出。公明党・自由党が賛成、平成12年(2000年)の法案に反対した民主党も賛成に転じて、平成15年(2003年)7月に衆議院を通過した。参議院で継続審議に入ったが、衆議院の解散により審議未了のまま廃案となった。
平成16年(2004年)、自由民主党・公明党が3度目となる改正法案を提出、翌平成17年(2005年)4月の衆議院内閣委員会で自由民主党・公明党・民主党の賛成多数により可決。参議院での継続審議を経て、5月13日の参議院本会議で成立した。同改正法は平成19年(2007年)から施行され、同年以降の4月29日は「昭和の日」、従前の「みどりの日」はそれまで「国民の休日」であった5月4日に上書き的に移動した。なお、同改正法にはこの二つの祝日設置のほかにも付随する改正(振替休日や国民の休日の重複を避けるための条文の変更等)が盛り込まれている。
これらの経緯を見ていても、4月29日という日はゴールデンウィークの一角を構成する祝日を廃止することによる国民生活への影響も配慮されたようであるが、昭和天皇の誕生日をとりあえず「みどりの日」という名の祝日で存続させておいて、後に改めて「昭和の日」と名称を変え、何が何でも存続させたかったという執念のようなものが感じられる。
祝日法」第3条第3項に「その前日及び翌日が「国民の祝日」である日(「国民の祝日」でない日に限る。)は、休日とする。」とあり、これらの祝日に日曜日が当たる場合は休日が増えることになるのだが、残念ながら、今年は、4月29日の後の4月30日、5月1日(日曜)の後の5月2日も平日と、飛び石連休になっており、有給などで休める人は良いが、ちょっと残念な人も多いだろうね。
日本国憲法(新憲法)の時代になり、宗教と政治は切り離さないといけないと決められれている(政教分離の原則参照)。
戦前は「天皇」は神として崇められており、その誕生日は「祝日」として扱われていた。しかし戦後、天皇は神ではなく「日本国民統合の象徴」(象徴天皇制)という新しい意味を持つようになった。その事を受け、天皇を神格化した行事では無く天皇の誕生日を純粋にお祝いし、国民と天皇との距離を縮めることを目的とした日として「天皇誕生日」が設けられた。
戦前までの天長節は、「天皇誕生日」と名をかえ「天皇の誕生日を祝う日」として今上天皇の誕生日12月23日に設定され、明治天皇の誕生日、旧暦(嘉永5年)の9月22日は新暦(1852年)の11月3日に、「自由と平和を愛し、文化をすすめる」日として、現在の「文化の日」として残されている。
この日は新憲法公布の日(1946年11月3日。因みに施行は翌1947年5月3日)にもあたり、前半はそのスローガンである「自由と平和」をとり、後半の「文化をすすめる」は明治時代の近代化政策により、飛躍的に社会の生活・文化が発展したことをふまえている。新憲法の公布日をこの日に設定することには色々とGHQにも気を使わねばならなかったようだ(※5参照)。この日は、まさに明治と新生日本を記念する日ではある。そして、昭和天皇の誕生日は、亡くなられた後に現在の名称に改名され残されている。
ただ、なぜか、昭和天皇の父君である大正天皇の天長節由来の休日(8月31日か8月は酷暑のため10月31日にずらして実施されたことあり)が現在祝日として残っていない。
大正天皇は、明治45年/大正元年(1912年)践祚後1915年(大正4年)に即位の礼を行っているが、明治天皇と異なり政治的な判断が不得手でこの面の力が無かったたようであり、また、生まれて以降病弱であったため大正6年(1917年)頃から、公務や心労が病の悪化に輪をかけ、公務を休むことが多くなり、大正10年(1921年)末には、当時二十歳であった皇太子裕仁親王(昭和天皇)が摂政となり、それ以降公務は、ほとんど皇太子が行なっていたという事実がある。
この頃、第一次世界大戦(1914年~1918年)末期の1917年(大正6年)ロシア革命(二月革命や十月革命)や1918年(大正7年)のドイツ革命(11月革命とも言う)などによって次々と帝政(帝国)は崩壊し、その影響はヨーロッパや日本にも及んでいた。そして、国内でも「大正デモクラシー」による労働運動・小作争議の高まりで「革命」の危機感があった時代でもある。天皇が病弱であることで、国内の統治秩序に問題が生じれば、天皇の権威を失墜させることにもなるので、元気で聡明な皇太子裕仁親王(昭和天皇)に公務をゆだねざるを得なかった・・・。この辺のことが原因になっているのかも知れないが、本当のところはよくわからない。
「祝日法」第一条には、「自由と平和を求めてやまない日本国民は、美しい風習を育てつつ、よりよき社会、より豊かな生活を築きあげるために、ここに国民こぞつて祝い、感謝し、又は記念する日を定め、これを「国民の祝日」と名づける。」としている。
「憲法」や「天皇」の話になると、戦後いろいろな意見も出てくるのだが、ここは、あまり難しく考えずに、「祝日法」の趣旨や意義を考える日にしてもよいのではないだろうか。
祝日法における「昭和の日」は「激動の日々を経て、復興を遂げた昭和の時代を顧み、国の将来に思いをいたす。」ことをその意義としている・・・。
それでは、1年に一度は廻ってくるこの日に、昭和天皇とともにあった昭和の時代を改めて見つめ直してみよう。
昭和の時代は、「昭和」の元号を冠した時代(1926年~1989年)を指すが、「昭和」は、日本の歴代元号の中で最も長く続いた元号であり、元年と64年は使用期間が共に7日間であるため実際の時間としては62年と14日にもなり、外国の元号を含めても最も長く続いた元号であり、歴史上60年以上続いた元号は日本の昭和(64年)と、清の康熙(61年)と乾隆(60年)しかない。
その特徴は,明治時代,大正時代のように,ある特定のイメージで語られる時代とはいえないだろう。それは、第2次世界大戦の敗北とその後の改革による変動があまりにも大きく,戦前と戦後(1945年=昭和20年以降)とは,まったく違った時代といってもよいほどの大きな変化を遂げているからである。
急速な技術進歩を続ける20世紀は、2度の世界大戦(第一次、第二次世界大戦)に象徴されるように、それまでの時代と異なり、国土そのものを破壊する大規模近代戦争を伴う動乱の時代でもあった。
日本は国内的には立憲君主制の体裁をとり、当初の藩閥政治を脱して、1920年代には政党が内閣を構成するようになった。
しかし、政党政治がその一面で見せた腐敗は、相次ぐ不況(第一次世界大戦後の戦後恐慌。昭和恐慌も参照)下で困窮する国民の不信と怒りを買い、大陸(満州)への進出(侵略と呼ばれている)による事態の打開と国家改造を志向する勢力の台頭を招く。
1920年代末から独立性を強めた軍部は、昭和5年(1930年)以降は政府の意思に反した軍事活動や戦闘を多数引き起こし(1931年の 柳条湖事件をきっかけに[ =満州事変が起こる])、相次ぐ軍事クーデター(1932年五・一五事件から1936年二・二六事件)により、ついには政党政治を葬り去った。
この事件の後、社会主義者だけでなく、自由主義者に 対する取り締まりも行われ、国家主義に反するとみられた思想や言論は、強く制限を受けるようになった(言論統制)。
昭和55年(1980年)に、高倉健と吉永小百合の初共演により話題を呼んだ森谷司郎監督作品映画『動乱 』の背景は、昭和7年から昭和11年。経済恐慌と凶作が重なり苦しみを強いられる庶民たち、皇道派と統制派に分裂する陸軍内部、昭和維新の声が高まる皇道派の青年将校たち、そして決起される二つのクーデター(昭和史の起点となった五・一五事件[犬養毅首相暗殺]から二・二六事件[クーデター未遂])までの風雲急を告げる動乱の中、時代の波に翻弄されながらも信念を貫き生きる寡黙な青年将校(高倉健演じる宮城啓介大尉{ モデルは実在の安藤輝三})と、その妻との愛と生きざまを、一大叙事詩として二部構成の雄大なスケールで綴った感動のドラマとして描かれている。
二・二六事件収束の後、昭和12年(1937年)3月末内閣総辞職した岡田内閣の後の林銑十郎内閣は、成立2か月後の5月31日には総辞職となり、6月4日に第一次近衛文麿内閣が成立する。
中国では西安事件で拉致された蒋介石と周恩来の間で国共合作が成立して、抗日闘争が進めら(第二次国共合作)、同年盧溝橋で日中両軍が衝突し(盧溝橋事件)、停戦協定後も通州事件、第二次上海事変などが続き、日中戦争(支那事変)が始まった。
戦線の拡大に従って, 思想統制が導入され、国家総動員法も成立。
その後、昭和14年(1939年)1月に平沼騏一郎内閣が誕生後、2月に軍部は南支那海海南島を占領し、3月にはフィリピン西方海上の無人諸島の領有を宣言して新南群島(南沙諸島参照)と名付け領土として、台湾高雄市に編入される。
この軍事行動は英米を大きく刺激した。また6月には天津の英仏租界を封鎖した 。天津事件という(※6;「クリック 20世紀」のここ参照)。
その間満洲では5月には、ノモンハン事件などで衝突している。そして、7月になるとアメリカが日米通商航海条約を破棄したのでイギリスの対応も変わり日英会談も決裂した(日英関係)。
ここから日本による米英敵視が顕在化した。そして、 昭和16年(1941年)イギリスからも日英通商航海条約を破棄され、日本国内では「ABCD包囲網による経済封鎖」への対抗として開戦論が高まり、12月8日、太平洋戦争が勃発すると、東條内閣で参戦が閣議で決定され今でいう第二次世界大戦へ突入した。
結果的に、昭和20年(1945年)硫黄島の戦いに敗れ、硫黄島が陥落。 その前年から、アメリカ陸軍航空隊のボーイング B-29爆撃機による日本本土空襲が本格化し,、低高度による夜間無差別爆撃で焼夷弾攻撃が行われるようになり、東京、大阪、名古屋、横浜、そしてわが地元神戸(神戸大空襲参照)の百万都市の他、仙台、福岡、岡山、富山、徳島、熊本、佐世保など、全国の中小各都市も空襲にさらされる事になった。
それでも一億総玉砕を掲げた東條内閣は戦争をやめようとはせず、8月6日に広島市への原子爆弾投下、8月9日には長崎市への原子爆弾投下により、何十万人もの死傷者を出して、やっと、8月14日の昭和天皇臨席の御前会議で、ポツダム宣言受諾を承認。
この決定は8月15日正午に、昭和天皇自らの日本放送協会のラジオ放送(いわゆる玉音放送)により内地・外地の国民に伝えられ,やっと終戦にこぎつけたのである。,
私は、当時神戸に住んでいられなくなったので、父型の親戚のある高砂市へ疎開し、そこで幼稚園に入ったが、その高砂も軍事工場のある工業都市だったので攻撃が激しくなり危険になった為、今度は母方の実家徳島へ疎開し、そこで小学校に入り、終戦を迎え、誰もが、玉音放送を聞きながら泣いていたのを覚えているが、まだ、小学校の私などには 、酷い戦争が終わってやっと、暗い毎日から解放され嬉しいはずなのに、皆が泣いているのを、その時は、奇妙にさえ感じていたのを覚えている。
「昭和の日」その2へ続く
冒頭の画像は旭日旗を持つ、迪宮裕仁親王
参考
※1:平成28年(2016年)熊本地震の関連情報 - 気象庁
http://www.jma.go.jp/jma/menu/h28_kumamoto_jishin_menu.html
※2:日本記念日協会
http://www.kinenbi.gr.jp/
※3:参議院会議録情報 第162回国会 内閣委員会 第9号
http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/sangiin/162/0058/16205120058009c.html
※4:国民の祝日に関する法律(昭和23年法律第178号)
http://www.geocities.jp/nakanolib/hou/hs23-178.htm
※5:新憲法の公布日をめぐる議論 | 日本国憲法の誕生 - 国立国会図書館
http://www.ndl.go.jp/constitution/shiryo/04/002_44shoshi.html
※6;クリック 20世紀
http://www.c20.jp/index.html