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関西を代表する“浪花のおかん” ミヤコ蝶々(女優・漫才師)の忌日

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幼少時の旅回り一座から漫才に進み、ラジオ・テレビの名司会役、そして自作自演の芝居にと大活躍したミヤコ蝶々が亡くなったのが、2000(平成12)年10月12日のことであった。。
芸の世界に身を投じて70余年。自らの苦労や哀しみを、お客さんが喜んでくれるのならとさらけ出し、どうしたら人を笑わせられるか、涙を流させられるか、その一点に集中して、その生涯を「お笑い人生」に没頭した人であった。自宅は大阪府箕面市桜ケ丘1の10の43。没後自宅は改装され、ミヤコ蝶々記念館となっている。

ミヤコ蝶々、本名、日向 鈴子(ひゅうが すずこ)は、1920(大正9)年現在の東京都中央区日本橋小伝馬町にて、家具店を営む裕福な家庭の長女として生まれたそうだ。
しかし、関東大震災の翌1924 (大正13)年、蝶々4歳のとき、父親英次郎が若い芸者と駆け落ちし我が地元神戸へと移り住むことに。
父はデパートで家具の販売をしながら神戸・元町で小さな家具屋を営んでいたそうだが、神戸は、神戸港の開港。外国人居留地が出来たことから腕の良い船大工出身の洋家具製作が盛んになり、神戸家具として今でも神戸の高級家具の人気は高い(※01参照)。又、当時の神戸は演芸が盛んな町でもあった(※2)。

上掲の画像は、コレクションの絵葉書の中の「神戸名所絵葉書」中の1枚。大正から昭和初期、全盛期を迎えた新開地本通りの様子である。

父は芸事が好きで、新内節を唄ったり、毎日のように娘を連れて寄席通いをしたり、寄席芸人を招いては宴を楽しんでいたという。
あげくのはてに、1927(昭和2)年、とうとう家具屋をたたみ、父親の思いつきだけで、まだ7歳だった娘を座長に据えて、旅回りの“都家蝶々一座”を結成し、九州の炭坑町の小さな劇場で安来節を唄い、初舞台を踏ませたという。
蝶々は、その後もあらゆる芸(漫才、喜劇、女剣舞、バレエ、三味線など)を身に付けた。
そして、国内各地から中国、朝鮮半島を巡業した。読み書きは、三味線や踊りの師匠でもあった義母に教わり、楽屋を学校代わりに育つったという。
この頃は世界的な大不況(世界恐慌参照)のあおりで失業者が街にあふれ、日本中が笑いに救いを求めていた時代。
地方の人々にとっての娯楽は、芝居小屋にやってくる劇団だけだったため、蝶々一座も各地の芝居小屋から引っ張りだこになっていたようだ。
第二次世界大戦の真っ只中。一座の巡業生活が続くなか、1942(昭和17)年、蝶々22歳の時に地方まわりの芸人にとって憧れの舞台大阪の吉本興業 からの誘いを受け、一座を解散、檜舞台に立ち、大阪に定住生活をするようになる。
これから、蝶々の夢の舞台への挑戦が始まるのだが、そこには思わぬ試練が待ち受けていた。
蝶々は一時期、つまり、1946(昭和21)年、横山エンタツ花菱アチャコと並び一世を風靡していた夫婦漫才家のミスワカナ・玉松一郎のワカナ(初代)が世を去った後、相方である一郎とコンビを組み2代目ワカナを名乗ったことがあるがコンビは半年で解消しており、人気が出たのは戦後、南都雄二と漫才コンビを組んでからのことである。
そのころを知る人は、「漫才の女王といわれたミスワカナより上」と評価しているという。
蝶々の実力を高く評価していた吉本側は、この当時人気があったミスワカナの二代目として彼女を売り出すために、公演の最後を飾る大看板のひとつ前に登場される「モタレ」(「膝代り」ともいう。※3参照)を任せた(「立花敏夫・ミヤコ蝶々」としてデビュー)。本来は、大ベテランが務めるこの「モタレ」への大抜擢により、周りの芸人たちからは大きな反感を買い、「トリ」を務める大御所芸人が出演を拒否するなど嫌がらせが頻繁に起こるようになり、 非常に悩んでいた。
そんな蝶々を、影で見守ってくれていたのが、当時の人気落語家で後に漫才の世界に転進することになる三遊亭柳枝であり、出演拒否で穴が開いた「トリ」を総て埋めてくれたり、芸人仲間から疎外されていた蝶々を、食事に誘うなどして励ましてくれたそうだ。
こうした柳枝の優しさに引かれ、17歳も年上で、しかも、妻子を持つ身である柳枝と、いつしか不倫の恋に落ち、1942(昭和17)年に結婚。柳枝が、最初の夫となったが、彼には新婚当時すでに元妻以外にも3人の女性がいたと言う。
太平洋戦争が激化し、1945 (昭和20) 年3月には、大阪大空襲によって、大阪の街は一面焼け野原と化し、本社をはじめ、所有していた寄席や劇場、映画館のほとんどが瓦礫と化した吉本興業は一時休業状態になったため、1946(昭和21)年、柳枝らと共に「柳枝劇団」を旗揚げし、各地を巡業することに・・・。
一座は20人ほどだったようだが、蝶々が鈴美という弟子と漫才、柳枝が漫談と芝居をやっていたようだ。
この劇団をつくるとき、一人の若者(吉村朝治)が、弟子入りしてきた。弟子の芸名は男性なら蝶々の本名の鈴子から、女性なら芸名の蝶々から取っていたので、吉村は男性なので鈴夫と名づけられた。
金がないので蝶々はいろんな雑事をこなし、髪結い、囃子方や三味線なども。漫才や芝居の脚本も専門家に頼むと高いので、蝶々と柳枝で書いたが、柳枝は堅実なものを好み、蝶々は劇中にその時々の流行を取り入れたかったので、よく喧嘩にもなったという。
しかし、敗戦後の暗い世の中、当時国民は娯楽に餓えていたこともあり、二人の劇団は各地で大盛況したそうだ。
経営も上手く行き、蝶々も柳枝とのひと時の幸せな生活をかみ締めていのだが、夫の柳枝は相変わらず女癖が悪く、入ってくる劇団の若手女優に次々手を出すなど浮気をしたため、翌1947(昭和22)年に、蝶々の世話役も勤めていた劇団員の吉村朝治.と共に家を出て、後に柳枝とは離婚し、朝治と再婚する(自実婚と言われている)。しかし、柳枝劇団との契約が切れるまでは別れた柳枝と共に舞台に出演していた。
柳枝と別れ、劇団も辞め、仕事も無くなり、まだ芸人としては半人前の弟子であり夫の朝治との二人だけになり、先の見通しもつかない状態に思い悩む日々が続いていた蝶々は、その心を癒すために、当時は疲労回復のため一般の薬局でも販売されていて、芸能界で蔓延(初代ミス・ワカナが心臓発作を起こし36歳の若さで急逝したのもヒロポン中毒と過労が原因だったと俗説されている)していたヒロポン(覚醒剤の一種)に手を出した。
強度の依存症となったが、そんな状態ではどの劇場でも使ってくれるはずがなく、そのうち、お金も底をつき、どん底生活の中、薬を買うこともできなくなり、強烈な禁断症状に襲われるようになったとき、そんな蝶々を見捨てず、献身的に必死に支えてくれたのが、夫・朝治であった。
そんな夫の優しさに応えるために、一刻も早くこの地獄から抜け出そうと、治療のため入院し努力あってこれを克服。1カ月後には退院した。
この事件を境に、蝶々は夫である朝治を相方とし、夫婦漫才コンビ「蝶々・鈴夫」を結成するが、ミヤコ(都)蝶々とのコンビには鈴夫よりも上方トンボのほうが良いだろうとの柳家三亀松の改名提案を受け入れ「蝶々・トンボ」のコンビ名で、1948(昭和23)年、三重県津市の曙座(明治時代には河上音二郎なども舞台に立っているらしい.※04参照)で初舞台。この時、蝶々は28歳。以来、地道な活動を続けてきた「蝶々・トンボ」は、実力も付き、徐々に人気も出始めた。
戦後、多くの漫才師が疎開しあちこちにバラバラになり劇場や寄席も空襲に合い、吉本興業も新興演芸(松竹社長であった白井松次郎による新興キネマ〔のち大映に合併〕に新設されていた演芸部)も漫才の興業から手を引いてしまって、上方の漫才興業は壊滅状態となっていた。
当時新興キネマの文藝部長に就任していた秋田實は、そんな漫才の将来を危惧して戦後京都に戻り、若手の漫才師を集め1948(昭和23)年に「MZ研進会」(Mは漫、Zは才の頭文字を取ったものとか)という漫才のサークル集団を結成、翌1949(昭和24)年に京都で正式に旗揚げをし、秋田Aスケ・Bスケミスワカサ・島ひろし夢路いとし・喜味こいしらが加わっていた。
秋田は、新しい笑いをどんどん取り入れて書き下ろした新作を若手漫才師にやらせていた。
このとき、地方の舞台に出ていた蝶々らも秋田の誘いを受け参加し、秋田の教えを受けるようになる。そして、ラジオ番組に出るようになる。
このころ秋田が番組構成を担当したNHK大阪放送局制作による全国放送のラジオ番組『上方演芸会』が9月から放送を開始しているが、1951 (昭和26) 年には、大阪に毎日放送(BBS,9月1日開局)、朝日放送(ABC、11月11日開局)と、初の民間放送局も誕生している。
秋田は、旧・阪急電鉄(現在の阪急阪神ホールディングス)創業者の小林一三と軽演劇集団「宝塚新芸座」を、1950(昭和25)年に立ち上げる。
1952(昭和27)年には、蝶々等もこの演劇集団に参加し、大阪・道頓堀中座を拠点に活躍するようになる。
そんななか、1954 (昭和29) 年に朝日放送で始まったのが「漫才学校」であった。
蝶々が校長、雄二が出席を採る用務員、森光子が教師、夢路いとし・喜味こいし・秋田Aスケ・Bスケ・笑福亭松之助他が生徒という顔触れによる秋田実のラジオコメディーで、蝶々らは一躍人気者となった。
このような大阪のラジオ番組で新作漫才をやる時には秋田から台本をもらうのだが、それも本番の2、3日前。
学校に行っていない蝶々が書けるのはひらがなだけで、読める漢字もそれほど多くはなかったため、台本に読めない字がある度に、相方の鈴夫に「これ何とゆう字?」と聞いた。何度も「なんとゆうじ?」と聞いているうち、いっそ芸名にしてしまおうと思いついたという。それまでの上方トンボと言う名が気に入っていなかった鈴夫も喜んで、「南都雄二」に決まったというエピソードがあり、このころコンビ名も「ミヤコ蝶々・南都雄二」に改名されている。
人気の漫才学校に続いて、同じく、朝日放送で1955(昭和30)年6月に放送開始の夫婦対談番組「夫婦善哉」の司会をコンビで務める。
当初の正式タイトルは「蝶々・雄二の夫婦善哉」だった。番組は毎回一般の夫婦を招き、蝶々・雄二の2人が結婚生活の極意や新婚時代のエピソードを絶妙な間で聞き出すという形で進行。現在の「
新婚さんいらっしゃい!」へと繋がる夫婦対談番組の先駆的存在として人気を博し、番組はラジオで8年間、その後テレビで12年間、計20年間も放送された。
この番組で「蝶々・雄二」の人気も定着し、この頃始まったテレビ番組に引っ張りだことなり、スケジュールはいつも満杯状態となる。

上掲の画像は、1961年南都雄二さんとの万歳風景。朝日新聞2000年10月13日付より。

しかし、この「夫婦善哉」の開始当時、司会の蝶々・雄二もまた実際の夫婦であり、「おしどり夫婦」と思われていたが、内情は雄二の浮気癖で早くから家庭内は不毛であったという。
1958(昭和33)年に雄二の不倫がもとで「離婚」(法的に婚姻関係でなかったため、事実婚を解消)するが、その後も数年は公にせず2人はコンビで「夫婦善哉」の司会を続けていたが、週刊誌等で話題になってきたことなどもあり、「夫婦善哉」の番組内で離婚していたことを告白。これが、かえって自分たちの結婚生活での体験を素直に話すことができるようになったせいか、よりリアリティのあるゲスト夫婦の体験談を聞き出しやすくなり、多くの視聴者の共感を得たようだ。
人気絶頂の蝶々は、離婚後ソロの女優としても活動するようになり、1969 (昭和44) 年には、映画界にも進出。
山田洋次監督の代表作「男はつらいよ」の第2作「続・男はつらいよ」に、寅さんの瞼の母お菊役で出演している。
雄二とは離婚後も、公私共に付き合いは続き、1972(昭和47)年に雄二が糖尿病を悪化させ入院し、翌・1973(昭和48)年に48歳で亡くなるまで、後妻に逃げられ、身寄りもない雄二さんの、一切の面倒を見続けたのは蝶々だった。
葬儀の日。「親子でも、夫婦でも、兄弟でもない私と雄二さんが、愛情をも超えた深い絆で結ばれていたことは間違いない」・・・と。蝶々は、雄二を「友人代表」として見送った。
その後、自ら劇団を旗揚げし、大阪・道頓堀の劇場「中座」を拠点に活動する。

上掲の画像は左:大阪中座の1993年4月公演「嫁と姑」藤山直美特別参加。右、同舞台での共演シーン。朝日新聞2000年10月13日付より。

蝶々は数冊の本も出しているが、雄二が長年抱えていた糖尿病の症状が進行し、入退院を繰り返すようになる前年の1966(昭和41)年、45歳のときに執筆した自伝『女ひとり』では、私生活をさらけだした。
例えば、最初の夫三遊亭柳枝や雄二との結婚・離婚の経緯、自身のヒロポン中毒のことなど飾り気のない文章で顕わし、評判となった。
1971(昭和46)年には、大阪・梅田コマ(現:梅田芸術劇場)で『女ひとり』を芝居化し大ヒット。その後も芝居を書き続けたが、その殆どは、自作・自演で、テーマーは、いづれもそのときの社会的な関心やそこに生きる人の悩みだった。
このようなものをテーマーに、特に、蝶々のホームグラウンドであった道頓堀の中座においては、 連続21年間、女座長として定期公演を続けている。
「なにわのスーパーかあちゃん」では強い母親像を、「おもろい一族」では遺産相続問題を取り上げ、「金とダンボール」では、金万能の世の中を痛烈に批判し、している。

上掲の画像は中座での「金とダンボール」の公演チラシ。

これらは、大阪伝統の人情喜劇ある松竹新喜劇とはまた違ったもので、蝶々流の社会派ドラマであり喜劇である。

“人の迷惑を考えない世の中悲しいよ。政治がしっかりしとらんからや。(政治家は)国民の機嫌をとるな、国民のためにやってくれ。

芝居は下手でもええ。一生懸命やってたらこころが通じる。みなさんも死になはんなや。元気にしていて、又見にきてな。“・・・1996年9月京都。南座「恋のぬくもり」の舞台から言葉。

上掲の画像は、同南座での「恋のぬくもり」公演のチラシ。

芝居の最後に一人でおしゃべりトークする「トークショー」は、1982(昭和57)年頃はじまったようであるが、世相や自らの半生を蝶々流に語り、お客さんの共感を誘って人気を博した。
東京生まれだが「関西にそだててもらった」と関西をこよなく愛した人であった。
あるときの制作発表では、がりがりに痩せた姿で現れた。脚本が思うようにかけなかったからだというので、「そんなに苦しんでまで」なんで自分で書くんですか」と聞くと、「どなたに御願いしようにも大阪のにおいがする作品を書いてくれる作家がおれへん」と話したという(朝日新聞2000年10月13日朝刊)。
先天的に片方の腎臓が機能していなかったこともあり、晩年は体調不良のため入退院を繰り返した。舞台に対する思いは強く、闘病生活を続けながらも舞台に出演していた。その様子は『NHKスペシャル』でも取り上げられ話題となった。
最後の舞台は1999(平成11)年10月15日の『じゅんさいはん』(中座)。 特別ゲストとして登場し、自身のホームグラウンドと称していた中座の閉館を「お金があれば、この小屋買うのに」と惜しんでいたと聞く。
2000(平成12)年3月にテレビ出演したのが公式の場に出た最後となり、10月12日慢性腎不全で、大阪市の病院で死去した。享年80。
1984(昭和59)年に紫綬褒章を、1993(平成5)年に勲四等宝冠章を受章している。

“いつも言いますが、一番大事なのはお客さんです。たとえ劇場の人がいらんとおっしゃろうが、お客さんが私を見放さん限り、私はついていきます。
「あんたが頼りや。死なんといてや。」街で声をかけられます。私みたいな頼りない人間でも、そんなに言われると勇気づけられる。生きようと思う。”(1997年2月、芝居の政策発表会見での言葉。2000年10月13日朝日新聞朝刊掲載より)。
70年以上にわたって笑いと涙を振りまき続けた蝶々。その芸の先にはいつも庶民がいた。芝居、ラジオ、」テレビ、映画と見せる場は違っても、社会を意識し、世相を映した芸へのこだわりは変ることはなかった。その芸人魂は、弟子や芸人仲間へと同様自ら対しても厳しかった。
企画、プロデュース、脚本、演出、そして、主演。そのすべてをこなし、「浪花」を描き出せる女性の役者が大阪からいなくなってしまったのが寂しい。

(冒頭の画像は、日向 鈴子 著『ミヤコ蝶々 女ひとり』 講談社)

参考:

※1:黎明期 - 神戸芸術工科大学 「神戸家具」の変遷と可能性
http://www.r-nagata.co.jp/kobekagu/rekishi1.html
※2:新開地のまちづくり 「新開地」まちの変遷 | 新開地オモシロ情報サイト
http://www.shinkaichi.or.jp/outline/history.html
※3:落語辞典用語集 - 落語はじめの一歩|落語芸術協会
http://www.geikyo.com/beginner/dictionary_detail.html
※04:救助の礼に無料公演―川上音二郎の手紙 - 三重の文化
http://www.bunka.pref.mie.lg.jp/rekishi/kenshi/asp/hakken2/detail.asp?record=372
“浪花のおかん” ミヤコ蝶々さん死去(朝日新聞)
http://www.asyura2.com/sora/bd11/msg/13.html
SmaSTATION:特別企画Copyright(C)2007
http://www.tv-asahi.co.jp/ss/237/special/top.html
ミヤコ蝶々 〜笑いと涙の女の一生〜
http://yuuyuukandai.at.webry.info/200703/article_15.html
SINCERELY blog 「ミヤコ蝶々 女ひとり」を読んで
http://emikurarafanblog.blog100.fc2.com/blog-entry-211.html
ミヤコ蝶々の歩み
http://www.chochokinenkan.ecnet.jp/sub3.html
『鈴子の恋』 - とれたてフジテレビ
http://www.fujitv.co.jp/fujitv/news/pub_2011/111227-n038.html
ミヤコ蝶々 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9F%E3%83%A4%E3%82%B3%E8%9D%B6%E3%80%85

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