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「親分」の愛称で親しまれていた野球評論家・大沢啓二の忌日

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大沢啓二(おおさわ・けいじ)の本名は、大沢 昭(おおさわ あきら)、旧名は大沢 昌芳(おおさわ まさよし)。
1932(昭和7)年3月14日、生まれ、神奈川県藤沢市出身の元プロ野球選手(外野手)であり、監督を経て、晩年、1995(平成7)年より、フリーでのプロ野球評論家、そのかたわら日本プロ野球OBクラブ理事長(2009〔平成21〕年3月まで)。4月からは名誉理事長に就任)、プロ野球マスターズリーグ委員会議長、正力松太郎賞選考委員などとして活躍していたほか、日曜日朝のテレビ番組TBS系『サンデーモーニング』内のコーナーでは、張本勲と共にレギュラー出演し、「ご意見番」としてプレーぶりなどに“喝”を入れ、人気を集めていたが、一昨年9月19日が最後の出演だった。
サンデーモーニング内の「週刊御意見番」のコーナーは、私も大好きであり毎週見ていたが、最後の出演となる前ころは、痩せていた印象があり、健康状態を心配していたのだが、やはり、体調を崩し闘病されていたようだ。その18日後の2010年10月7日に78歳で死去された。死因は胆嚢がんだったそうだ。
大沢氏と言えば、先ず、日本ハム監督時代の退場劇(※1参照)や余りにも不甲斐ない成績で最下位に終わり、ファンの前で土下座したシーン(1994年本拠地東京ドームでの最終戦)等とにかく「熱い」監督だったと言う印象が強い。
グラウンドを離れてからも、歯に衣着せぬ語り口でプロ野球界の現状に意見してきたが、このようにはっきりと、モノ申す人物が少なくなってきた昨今、あの「べらんめぇ口調」での批評が聞けないのは残念なことである。
大沢は神奈川商工高から立教大学へ、東京六大学リーグ通算94試合出場、314打数80安打、打率.255、2本塁打、32打点。ベストナイン2回。2学年下の後輩に、後に「立教三羽烏」と呼ばれる長嶋茂雄杉浦忠本屋敷錦吾がいた。
1956(昭和31)年に南海ホークス(現:ソフトバンク)に入団。Wikipediaによれば、南海の監督鶴岡一人から勧誘の時に「日本一になるには君と長嶋と杉浦の力を借りたい」と言われたとされ、南海への入団には、長嶋・杉浦の両選手獲得のためのパイプとしての期待も込められていたらしいが、もちろん、大沢の人望を鶴岡が見抜いてのものと思われる。
当時はドラフト前の球団の選手獲得は自由競争時代。大沢を通じてこの2人には卒業するまでの間、金銭や食事面で随分面倒を見ていたらしい。結果的には長島は入団しなかったが、杉浦は義理を果たし入団している。
1959年の日本シリーズ第3戦では、杉浦や野村克也捕手らの活躍と共に、大沢の好守備が日本一に貢献している。
その後、1965(昭和40)年東京オリオンズ(現:ロッテマリーンズ) に移籍し、同年限りで現役引退。
南海ホークス黄金時代においての大沢は、中堅選手の位置づけといったところで、プロ選手として頭脳的な好守巧打の外野手として鳴らしていた。
プロ通算成績は、9888試合、501安打、17本塁打。
プロ退団の翌・1966(昭和41)年からオリオンズのコーチとなっているが、これには、大沢のオリオンズへの移籍は、引退後コーチとなって、南海の監督を長い間務めた鶴岡が南海を勇退し、オリオンズで指揮をとるのを前提にしたものであったが、南海の新任監督となった蔭山信夫が就任4日後に急遺。やむなく鶴岡が南海監督を継続することになり、大沢1人がオリオンズのコーチとなったものだという。
その後、2軍監督を務めていたが、1971(昭和46)年7月に一軍の農人渉監督がプロ野球史上「最後の放棄試合」を起してしまい、それが発端で大沢がシーズン途中から一軍監督に抜擢されることになる。まだ39歳の若い大沢が指揮を執ったオリオンズは、王者阪急ブレーブス(現:オリックス・バファローズの前身)との激しいデッドヒートを演じた末2位と善戦した。
同シーズン終了後に5年の長期契約を結ぶものの、翌・1972年5位に低迷すると、シーズン終了後に5年契約を破棄・解雇されている。ただ、このとき、Wikipediaによれば、オリオンズのオーナーを退任し、太平洋クラブライオンズのオーナーに転じた中村長芳から「将来太平洋の監督に迎える」という内諾を得ていたのだという(根拠:『球道無頼』P140)。
1973(昭和48)年から1975(昭和50)年までラジオ関東(現:RFラジオ日本)の解説者時代を経て、1976(昭和61)年から日本ハムファイターズの監督に就任することになる。
日本ハムのチーム名の変遷を見ると、日本ハムファイターズは、戦後間もない1946(昭和21)年に球団を発足。当時はセネタースという球団名であった。
しかし、1年で東急フライヤーズへと名称変更。その1年後に急映フライヤーズになり。1949(昭和24)年、つまり、また1年で東急フライヤーズに名前が戻り、1954(昭和29)年から1972昭和47)年まで東映フライヤーズ、1973(昭和48)年に日拓ホームフライヤーズ、同年11月19日に、日本ハムへ売却。法人名が「日本ハム球団株式会社」となり、オーナーに大社義規が就くと、三原脩を球団の代表取締役社長兼球団代表に就任させ、三原の娘婿である中西太を招聘(しょうへい)させた。そして、球団名は公募で決定した新ニックネームをつけ、やっと、「日本ハムファイターズ」の名称に落ち着いた。
しかし、日本ハム最初のシーズンとなった1974(昭和49)年、2年目の1975(昭和50)年と2年連続の総合最下位に終わり、中西はその責任を取り辞任。後任監督に三原は大沢を招聘した。大沢が三原からの監督就任要請を受諾したのは三原がロッテ一軍、二軍監督時代の大沢の采配を見て、共感したからだとも言われている。
ただ、大沢は、中村との約束の件もあり、オーナーの大社義規と面談、その場で大社が中村に断りの電話を入れて就任を受諾したという。
因みに、後にTVのサンデーモーニングで大沢とともにご意見番を演じた、張本は、1974(昭和49)年には、日本ハムファイターズで7度目の首位打者を獲得しているが、翌1975(昭和50)年には、高橋一三富田勝との交換で巨人に移籍させるなど、大沢は、チームの体質改善のため、中心選手のトレードも何度か敢行し、又、新人選手を次々に抜擢している。
このようにして、1976(昭和51)年から日本ハムの監督を務めた大沢は、1978(昭和53)年ファイターズになって初のAクラス(総合3位)として以降、翌年も前年に続いて総合3位、1980(昭和55)年には総合2位と、Bクラスだったチームを、優勝を狙えるチームにまで育て上げ、1981(昭和56)年には、前身の東映時代以来19年ぶりの、リーグ優勝を果たしている。
面倒見がよく、このころから“親分”の愛称で選手から慕われていたように記憶しているのだが・・・。
そして、1984(昭和59)年より日本ハム常務に就任するが、後任監督として推薦した植村義信が成績不振のためシーズン途中の6月で辞任したため、植村を推薦した責任を取る形で現場復帰し、シーズン終了まで指揮をとったが、翌・1985(昭和60)年から1992(平成4)年までは日本ハム球団常務を務めている。
1992(平成4)年オフ、日本ハムの監督選びが難航するなか、大沢が監督に推薦した上田利治王貞治などが球団に断られ、難航する監督人事に、ついにキレた大沢は、「フロントは相変わらず人気、知名度のある人を、という条件を言うもんだから、とうとうオレは頭にきちまって人気だけだったら、当時旬の女優だった宮沢りえにやらせろ」とまでフロントに対して発言し、結局、時間切れで自分が監督をやるはめになったようだ(※3参照)。
そして、1993(平成5)年から1994(平成6)年まで再び日本ハムの監督として指揮をとり、1993年は西武と激しいデッドヒートを演じ、結果は2位と敗れ優勝できなかったもののパ・リーグを大いに盛り上げた。
大沢のユーモアあふれるコメントはマスコミで大々的に報じられたこともあって「親分」の語句は、この年の新語・流行語大賞の「大衆語部門・金賞」に選ばれている(※2参照)
次の年・1994(平成6)年、今年こそは何としても優勝とのファンや球団フロントの期待を裏切り、余りにも不甲斐ない成績で最下位に終わったことから、本拠地・東京ドームでのシーズン最終戦、ロッテには大勝したにも関らず、試合終了後に、突然マウンド場でファンに向かってを深々と土下座して謝り、観客を驚かせたのは冒頭で述べたとおりである。
この年、監督業から完全に退くが、監督としての通算成績は13年で、 725勝、 723敗、 99 分け、勝率5割1厘。
通算の退場回数は7回と、タフィ・ローズ(14回)、マーティ・ブラウン(12回)、金田正一(8回)に次ぐ不名誉な記録を持つっている。
神奈川商工高時代、夏の甲子園をかけた予選で、球審の判定で敗れたと感じた大沢投手は試合終了後、その審判をボコボコにしたという逸話が残っているそうだが、立教大を経て南海入りしてから引退するまで、大沢は選手としては1度も退場がなく、記録はすべてコーチ・監督時代のもの。
参考※1にもあるように、選手時代から頭脳的名守備を見せていた “親分”は大事な局面を迎えると、今やるべきかどうか、計算しながら“暴れていた”ようだ。
ひと芝居打ち、監督が怒りを露にすることでチームの士気を高め、ムードを変える。ひと昔前の発想かもしれなかったが、大沢監督にとってこれは必殺技。勝負をかけた“退場”だったようだ。
監督としての通算勝ち越し数は2試合。これについては、参考※3にもあるように、「勝ち越して監督生活を終われる人間はそう多くない。名将なんておこがましいが、貯金2か。ちょうどいいんじゃねぇか」。ロッテと日本ハム時代にシーズン途中から指揮を執り、2度目のファイターズ監督就任もなり手がいなくて困った時に引き受けた。いわば火中の栗を拾い続けた親分。口は悪かったが、無類のお人好し、それが親分の素顔だったのだろう。
現代では失われてしまった「親分」という言葉を、復活させた大沢。
親分とは、親子関係を擬した主従関係における主人。子にあたるのは子分。前近代では民間における主人と従者の関係が親子関係に擬せられることが多くあった。
プロ野球の世界で「親分」と呼ばれていた監督には、大沢が初めてプロ選手として入団した時の監督鶴岡一人がいる。南海を率いて黄金時代を築き、三原脩、水原茂とともに「3大監督」といわれた。
大沢が南海へ入団する10年前、戦後の1946(昭和21)年に復員し、29歳で南海監督就任を要請され、同年から1952(昭和27)年まで選手兼任監督となる。
戦後の混乱状態の中、一見強面であるが野球のみならず選手の生活の面倒までを細やかに世話するなど人情味豊かな人柄から「鶴岡親分」と慕われた。
有望選手の獲得も上手かったが、無名の選手を中百舌鳥で鍛えて名選手に育て上げる手腕がそれ以上に長けていたといわれている。
打倒巨人に燃え、機動力野球から400フィート打線と呼ばれる大型打線へとチームを見事に変貌させ、杉浦の4連投・4連勝もあり、1959(昭和 34)年には巨人を倒し、念願の日本一にもなっている。
「鶴岡親分」と呼ばれ、「精神野球」のような印象を持たれるかもしれないが、それまでカンに頼っていた野球にデータを持ち込み合理的な近代野球をいち早く実践したのも鶴岡監督であり、義理と人情の古めかしさと、鶴岡の求心力によって、それらがほどよく交ざり合い強力チームを作り上げた人であった。
「親分」のニックネームで親しまれた大沢も、鶴岡一家の一員だったわけで、少なからぬ影響を鶴岡から受け継いでいることだろう。
生来のおおらかで明るく豪放な性格で、あけっぴろげなべらんめえ口調は、選手を完全に掌握し、豪快なチーム作りと戦いぶりで観客を魅了した。
よく「名選手、名監督にあらず」と言われる。
巨人の創世期を支えた水原茂も三原脩も、あるいは毎日のあと阪急・近鉄時代に時間をかけて選手を育て、チームを作り変え、弱小球団を常勝軍団へと導き、20年間の監督生活で8度ものリーグ優勝を果たしながら、日本シリーズでは1度も日本一に就けず、「悲運の名将」と言われた西本幸雄、その西本のあとを受け継ぎ、阪急の黄金期を築いた上田利治、広島で赤ヘル旋風を巻き起こし、萬年最下位から奇跡の優勝を遂げた時の名将・古葉竹識監督でも現役時代に特別秀でた戦績を残していたようには見えないからだ(※4参照)。
大沢親分も監督としての戦跡は、彼らほどではないものの、それは、前述したように、監督への就任事情にもよるものであり、大沢自身は、イメージに似合わず非常に繊細でクレバー【clever】な頭脳の持ち主で、その指導者としての資質は球界内でも高く評価されていた。
これに対して、参考※5:「小関順二公式ホームページ」では、“「名選手、名監督にあらず」とよく言われるが、リーグ優勝の経験のある監督を見ていくと、「名選手にあらずんば、名監督にあらず」のほうが正しいことがわかる”と主張している。
そして、「名選手にあらず」に分類した西本も、アマチュア時代には、名選手と言ってもいい実績を残しているし、大沢は鶴岡南海時代の外野守備名人だったのだから無名選手とは言えない。又、1970(昭和45)年にロッテをリーグ優勝に導いた濃人が翌1971年には大沢へ途中交代させられているのも、選手時代の実績がなかったためであり、監督としても軽く扱われたのだと思う。・・・としている。確かに、そこに、書かれているところを見るとそうともいえる。
今のプロ野球界はどちらかといえば、監督の条件として野球理論の優秀さよりも、選手時代の実績やネームバリュー、つまりどの球団も「大物監督」を優先させる傾向は強く、選手時代の実績が地味だった人物が監督に抜擢されるケースは以前よりも少なくなっているかも知れないようだ。
そんな中で、昨年、栗山英樹氏が日本ハムの監督に就任したことは、珍しいケースと言えるかもしれない。
そんな彼が、監督就任1年目となった今年(2012年)、チームのエースだったダルビッシュ有が抜け苦戦も予想されたが、吉川光夫中田翔など若手選手の台頭もあり開幕当初から好調を維持。10月2日、新人監督として17人目のリーグ優勝を果たした。
野球解説者・スポーツキャスターとしての知名度はあったものの、プロの選手としての実績らしい実績もなく、指導者経験もなしで監督就任したのは異例中の異例のことであり世間を驚かせた。
その栗山新監督の背番号「80」は、名監督三原脩への憧れに因んでのものであったそうだ。
昨年11月9日の監督就任会見では、「多くの名将と呼ばれる方を取材してきましたが、組織を生かすこと、監督とは何かを学んだのは三原さん。名将の元祖。そういう大先輩に少しでも近づきたい」。また、座右の銘は「夢は正夢」。テスト入団から猛練習でレギュラーをつかんだ自らと重ね合わせるように「すべての選手にチャンスがある」と信じる。選手たちの可能性を信じ、周囲が驚く起用で結果を出した三原氏のように“栗山魔術”を北の大地で披露する。そして、「自分のことはどうでもいい。少しでも選手のために何ができるか」と選手の能力開花にすべてをささげるつもりだ。・・と話していた(※6参照)ようだが、その通りになった。
古い時代だけでなく、今の時代であっても、鶴岡や大沢のような親分肌の監督でなくても、監督となった以上、監督選手を信頼し、選手からも信頼もされる・・・そんな、親子関係のようなものが築き挙げられなければ、野球のようなプロ集団であってもなかなか成果は上らないものだろうね〜。
今の民主党政権のまとまりのないバラバラの状態でどんな政治が出来るのだろうか。野田総理も、政権のたらい回しや延命工作をせず、野党・自民党との「近いうちに・・・」との約束どおり、早く解散・総選挙をし、国民に信を問い直し、まず党員からの信頼を確立した上で本当に国民が望んでいる政治をして欲しいものだね〜。
なんかつい愚痴をこぼしてしまったが、最後に、サンデーモーニングの御意見番コーナーへ、陽気に歌を歌いながら登場するシーンでも見ながら、在りし日の大沢親分を偲ぶことにしよう。以下で偲んでください。

大沢親分SONGS 2010年ーYouTube


(冒頭の画像は、2003年11月撮影大沢啓二氏。2010年10月8日朝日新聞掲載分借用)
※1:5月29日】1994年(平6) “親分”大沢監督 7度目の退場!羽交い絞めされてもキック!
http://www.sponichi.co.jp/baseball/special/calender/calender_09may/KFullNormal20090501174.html
※2:新語・流行語大賞(1993年 )
http://www.mapbinder.com/Dictionary/Ryukogo/1993.html
※3:日本ハム 10年ぶりの最下位 大沢親分 ファンの前で土下座-スポーツニッポン【9月29日】1994年(平6)
http://www.sponichi.co.jp/baseball/yomimono/pro_calendar/1109/kiji/K20110929001721880.html
※4:監督の資質と条件(監督に向く人と向かない人): 時遊人SUZUのひとり言
http://tsuri-ten.cocolog-nifty.com/blog/2012/09/post-4a2d.html
※5:小関順二公式ホームページ「名選手にあらずんば、名監督にあらず 」
http://kosekijunjihomepage.com/?%E5%90%8D%E9%81%B8%E6%89%8B%E3%81%AB%E3%81%82%E3%82%89%E3%81%9A%E3%82%93%E3%81%B0%E3%80%81%E5%90%8D%E7%9B%A3%E7%9D%A3%E3%81%AB%E3%81%82%E3%82%89%E3%81%9A
※6::栗山ハム新監督“三原イズム”で勝つ!/野球/デイリースポーツonline
http://www.daily.co.jp/baseball/2011/11/10/0004608771.shtml
年度別成績 - 日本野球機構
http://bis.npb.or.jp/yearly/
財団法人野球体育博物館
http://www.baseball-museum.or.jp/
大沢啓二 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%B2%A2%E5%95%93%E4%BA%8C

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