日本記念日協会(※1)で、今日の記念日を探すと「どぶろくの日 」があった。
記念日の由来をみると、「御園竹」「牧水」などの銘柄で知られ、長野県佐久市(旧望月町茂田井)にある明治元年創業の老舗の蔵元「武重本家酒造株式会社」(※2)が制定したもので、濁酒(どぶろく)の魅力を広めるのが目的。
日付は、どぶろくのシーズンが始まるのが10月下旬であり、10(ど)と26(ぶろく)で「どぶろく」と読む語呂合わせから。武重本家酒造株式会社では「十二六 甘酸泡楽(じゅうにろくかんさんほうらく)」略して「どぶろく」という濁酒を販売している。 ・・・そうだ。
ここをクリックすると、”「十二六 甘酸泡楽」の秘密”のページへ入れるが、この造語について、以下のように記載がある。
昔からのどぶろくを現在の味覚に合わせた全く新しいお酒が、「十二六 甘酸泡楽」であり、「甘酸泡楽」の4文字は、「十二六」そのものを表現しており、妙にどぶろくに合った名前ではないかと自画自賛している。
そして、この甘酸泡楽は、
甘 米の甘味が十分に残り
酸 キリリとした酸味
泡 舌の上で弾ける炭酸ガスの泡も加わって
楽 口の中一杯に楽しさがひろがるお酒である。・・・ことを意味しているそうだ。
酒に使用する新米の刈り取りが9月の中旬から始まり、乾燥、脱穀、精米を順々に行って、どぶろくを仕込むと、10月下旬にどぶろくが出来上がる。商品名「十二六」にちなみ、10月26日を「どぶろくの日」として、その前後の金曜日を十二六の最初の発売日としている。・そうである。
私は、お酒が大好きで、若いころより、酒を飲みすぎ、今では肝臓を悪くし、医者からも飲むのを控えるように言われているが、私にとって、毎日のご飯代わりの晩酌だけは欠かせない。
よくま〜、あれだけ無茶飲みをし、悪友(飲兵衛仲間)などは、皆、飲み過ぎが原因で亡くなっているのに、私だけは、肝臓が真っ黒だといわれながらも、それでも、薬を飲みながら晩酌だけは続けていても生き残っているものだ。
飲兵衛仲間よりは、相当内臓が丈夫に出来ており、しかも、アルコールに強い体質だったのだろう。ただ、生きている限りは、何時までも大好きなお酒を楽しみたいものだから、何時、どんな場合でも、自分で決めた定量以上は絶対に飲まないよう自重はしている。
それから、酒が余り量は飲めなくなってきた50歳代になった頃から、酒をただガブガブ飲んで楽しむだけでなく、酒の器(酒器)や料理用の小鉢などを集めて、酒の場そのものを楽しむようにしている。
そんな趣味で集めた酒器は、私のホームページ「よーさんの我楽多部屋」のCorection Room>Room3:酒器類に展示しているので、興味のある人はi一度覗いてください。
我楽多ばかりだが、色んなものを数だけは持っている。骨董は酒器に始まり酒器に終わるといわれるが酒器には結構面白いものがありますよ。
そんなお酒大好き人間の私には、「どぶろく」も、かって飲んだことのある懐かしい酒でもあり、今日の記念日に興味を引かれ、これをテーマーとして書くことにした。
日本の酒税法では、飲んで酔いを催すアルコール分1%(1度)以上を含む飲み物(致酔飲料)を酒類(※3のここ参照)と総称するが、国によってはその基準を0.5%とするところもあるようだ。
日本古来の代表的な醸造酒で、「酒」といえば清酒をさし、またこれを日本酒ともいうが、これは、濁り酒=濁酒(だくしゅ)に対する語で、これを濾(こ)して澄明にした酒の意である。清酒は欧米でも人気があり英語でも“sake”で通用する。
濁り酒=濁酒は、発酵させただけの白く濁った酒で、一般には「どぶろく」のことを言っていることが多い。
どぶろくは、炊いた米に、米麹(こめこうじ)や酒粕に残る酵母などを加えて発酵させることによって造られる日本酒(清酒)の原型である。
非常に簡単な道具を用いて家庭で作ることも可能である。しかし、日本では、酒税法によって許可なく酒類を製造することは禁じられる(酒税法7条1項、8条、54条1項)が、このことは、また、最後に書くことにする。
一体お酒といわれるものが日本列島に住む人々によって造られて飲まれ初めたのはいつ頃からであろうか?
神話の時代(神武天皇の在位する以前までの時代)より日本の酒の成立ちをたどると、日本の酒についての記事が文献上に初めて登場するのは、弥生時代後期、3世紀前半に書かれた『三国志』魏志東夷伝(魏志倭人伝)であり、同書は倭人の習俗について以下のように書いている(※4:「三国志魏書 東夷伝」の中の魏志倭人伝 私注の習俗を参照)。
・「其會同坐起、父子男女無別。人性嗜酒」
通釈:(倭人が)集まる時、親子・男女の区別はない。(倭)人は酒が好きである。
・「其死、有棺無槨、封土作冢。始死停喪十餘日、當時不食肉、喪主哭泣、他人就歌舞飮酒。已葬、舉家詣水中澡浴、以如練沐。」
通釈:人が死んだ時は、"棺は用いるが槨は使わず、土を盛って冢を作る"。始めの十日ほどは喪に服し、肉を食べず、喪主は哭泣(こっきゅう)するが、他の者は歌い、舞い、酒を飲む。埋葬が終わると、その家のものは皆、”練沐”のように水中で禊をする。
補足1、"棺は用いるが槨は使わず、土を盛って冢を作る"の槨とは棺の外箱であり、このことは以下参考※:※5:「倭国の相貌/放言集/魏志倭人傳私注/有棺」無槨を参照されるとよい。
補足2、練沐(れんもく)は練り絹を着ての沐浴のようである。
このように、この当時すでに酒を飲む風習があったことを述べてはいるが、ただ、その酒が米の酒なのか、また、液体か、かゆ状のものか、他の穀類、果実から造られた酒なのかは不明であるが、酒と宗教が深く関わっていたことを示すこの『三国志』の記述は、酒造りが巫女(みこ)の仕事として始まったことをうかがわせる一つの根拠ともなっている。
手持ちの『週間朝日百科 日本の歴史36』1−77Pには、以下のようなことが、書かれていた。
青森県は、縄文前・中期の円筒式土器文化ばかりでなく、縄文時代晩期の亀ヶ岡文化においても中心的な地域であった。
つがる市の亀が岡遺跡より発見された亀ヶ岡式土器は、漆を利用、半浮き彫りを多用した文様、それに変化に富んだ器形に見られるように、工業的水準は極めて高いが、注口土器はその中でも代表的なものであり、その中身は果実酒であったと思われる。ヤマトブドウやマタタビなどからはエキスが5分の1くらいしかとれないため注ぎ口を低くつけている。・・・と。
そして、上掲の画像(岩手県立博物館蔵)が添えられていた(亀ヶ岡遺跡で発見された注口土器は以下参考の※5を参照)。
又、これより前の長野県茅野市にある井戸尻遺跡群の一つ、藤内遺跡から出土した多くの土器のなかから発見された大型で膨らみのある「半人半蛙文 有孔鍔(つば)付土器」には口縁部に内壁を貫通する小孔が列状に20個ほど空いており、壷の内部に黒色変化があること。
さらに中にヤマブドウの種子と思われる炭化物が発見された例があることから、おそらく内容物は液果酒(主にヤマブドウやサルナシの実などを使用し、土器内ですり潰し野生酵母によって醗酵させた酒)で、酒造具として祭祀用に使ったと考えられ、小孔は醗酵過程で生じたガスの排出口であると推定されているようだ。
エジプト神話における水の女神ヘケトは、蛙そのものか、蛙の顔をした女性の姿をしており、多産と復活を司るとされているが、元々古代エジプトにおいて蛙はその姿から胎児の象徴であり、また多くの卵を産むことから多産の象徴でもあったそうだ。
以下参考の※7:「縄文土器 これこそ世界遺産!」には、井戸尻考古館所蔵の有孔鍔(つば)付土器の多くの画像とその解説をしているが、その中の“井戸尻考古館 北杜市埋蔵文化財センター 縄文の女神”にもあるように、縄文人も、この土器の中で醸される、神秘な飲みもの、酒は、女神がその体から産出してくれるのだと感じ、この土器で、酒を醸して飲む祭りを行なうたびに、その酒による若返りの奇蹟、再生の奇蹟を味わった。
死と再生を無限に繰り返す蛙神、女神、万物を産み養い育ててくれる女神の不思議な力。・・・を信じてこの土器を主導具として使っていたのだろう。
これら有孔鍔付土器は縄文中期に盛行し関東地方を中心に分布するが、縄文中期終末には消滅し、末期には先に述べた注口土器に代わっている。
同じ縄文中期まであったと思われているもうひとつの酒が、堅果(果皮が木質か革質で堅い果実。クリ・カシ・ナラなど)や雑穀などで造った「口噛み酒」といわれるものである。
「口噛み酒」は加熱した穀物を口でよく噛み、唾液の酵素(ジアスターゼ〔アミラーゼ〕)で糖化し、野生酵母によって発酵させるという最も原始的な方法を用いていた。
この「口噛み酒」のことは『大隅国風土記』に明記されている(ここ参照)という。
この「口噛みの酒」の記載が『古事記』『日本書紀』では見られないが、『記・紀』が書かれた8世紀に口噛みの酒の記載がないのは、原料は必ずしも米に限らず、アワ・ヒエ・トウモロコシ等すべての雑穀が原料であり、米での酒造りは日常行われていなかったからではないか・・・。
酒を造ることを「醸(かも)す」というが、この語源は「噛む」によるといわれているが、異説もあり、農業博士の住江金之は著書『酒』(西ヶ原刊行会)にて、これらは別系統の言葉であると指摘、「醸す」は「かびす」から転じたものであると分析している(『世界の酒日本の酒ものしり辞典』 外池良三、東京堂出版)そうだ。
私たちが現在飲んでいるような、米を主体としてお酒が米から造られるようになるのは、縄文時代以降、弥生時代にかけて稲作、とりわけ水稲の耕作が渡来定着した後のことであろう。
この稲の実・米が主食として定着すると、当時の人々は雑穀を酒にした口噛みの方法で、ご飯からも酒を造ることを試みるようになる。
この「口噛み酒」は、わが国へは南方系の根菜栽培民族から伝わったと言われており、近年までアイヌの祭りや、沖縄本島や周辺の諸島で神酒として造られていた。
呪術や神事に使われていたためか、口噛みをする役目は、穢れを知らない少女か、神に仕える巫女だった。中国ではこれを「ミキ」と呼び「米寄」の字を当てていたという。
次に、奈良時代(710〔和銅3〕年〜784〔延暦3〕年)の初期に出た民族誌『播磨國風土記』には、「神棚に備えた御饌(ミケ:米飯、神饌〔しんせん〕、御贄[みにえ]とも言う)が雨に濡れてカビが生えたので、これで酒を醸して神に捧げ、あと宴を催した」とあるようだ。
これは麹黴(コウジカビ)で酒が作れることがわかっていた証拠で、米を原料とする酒造りの出発点がここにある。こうして日本列島に、カビ利用の米の酒が定着するのである。
弥生時代に始まった稲作農耕は、やがて生産の主体となり、階級社会が生まれ、地域単位の小国家があちこちに出来、7世紀には全国を統一した大和朝廷が成立する。
文化的にも天皇主導の歴史書『古事記』と『日本書紀』などが相次いで世に出、さまざまな酒の記述が見られ、各地で酒造りが始まっていたことがわる。「サケ」は、「キ」「ミキ」「ミワ」「クシ」などとさまざまな呼ばれ方がされていた。
古代の酒は、標準的には、出雲や博多に現在も残る練酒(ねりざけ)のようにペースト状でねっとりとしたものであったようだ。現在でも、皇室における新嘗祭(にいなめさい)では、このような古代の製法で醸造した白酒(しろき)、黒酒(くろき)という二種類の酒が現在も伊勢神宮と宮中で造られ供えられる。
『延喜式』によれば、白酒は神田で採れた米で醸造した酒をそのまま濾したものであり、黒酒とは、白濁した白酒に、久佐木と呼ばれる草を蒸し焼きにし、その灰をまぜこんで黒くした酒(灰持酒)だそうである。
これは、黒みがかった古代米で造った古代の酒の色を伝承していくための工夫の結果であろうと考えられている。
今日では、清酒と濁酒(どぶろく)の組を白酒・黒酒の代用とすることも多いようだ。かつて、神酒は神社もしくは氏子が自家醸造していたが、現在は酒税法の規制があるため、伊勢神宮のように清酒の醸造免許や、税務署からのどぶろくの醸造許可を得ている神社も存在する。
清酒(せいしゅ)は、やがて、高野山の「天野酒」(あまのさけ)、奈良、平城の『菩提泉』に代表されるような平安時代以降の僧坊酒にその技術が結集されていくことになる。
数ある僧坊酒の中で、奈良の寺院が造った「南都諸白(なんともろはく)」は室町時代に至るまで長いこと高い名声を保った。
諸白とは、現在の酒造りの基礎にもなっている、麹米と掛け米の両方に精白米を用いる手法で造られた透明度の高い酒、今日でいう清酒とほぼ等しい酒のことを、当時の酒の主流をしめていた濁り酒(にごりざけ(発酵させただけの白く濁った酒。もろみ酒、濁り酒。どぶろく)に対して呼んだ名称であり、江戸時代以降も「下り諸白」などのように上級酒をあらわす語として使われた。
また、この『菩提泉』をもって日本最初の清酒とする説もあり、それを醸した奈良正暦寺には「日本清酒発祥之地」の碑が建っている。
上掲の画像は、正暦寺の日本清酒発祥之地の碑である(画像はWikipedia日本酒の歴史より借用)。
平安時代中期から室町時代末期にかけて、奈良菩提山正暦寺で産する銘酒『菩提泉』を醸す菩提酛(ぼだいもと)という酒母や、今でいう高温糖化法の一種である煮酛(にもと)などの技術によって優れた清酒を醸造していたが、この時代の清酒は量的にも些少であり、有力貴族など極めて限られた階層にしか行き渡らなかったと考えられる。
日本酒は、中世の末までにいちおう濁り酒から今日でいう清酒への移行を完了したと考えられるが、だからといって、これ以後に、濁り酒がなくなるというわけではないし、清酒も今日の清酒とほぼ等しい、酒(諸白)と同じものというわけでもない。
当時の清酒は、一般的には諸白より格下の、麹米は白米だが、掛米(※9参照)が玄米のまま仕込んだ片白(かたはく)や、麹米も掛米も玄米のまま仕込んだ並酒(なみざけ)が主流であったため、ほとんどの清酒はまだ玄米の持つ糠が雑味として残る黄金色がかった、今日の味醂(みりん)のようにこってりした味であったと考えられているようだ。
京方面から「くだり酒」として江戸へ送られたことは良く知られているように、効率的に清酒を大量生産する製法が開発され、酒が本格的に一般にも流通するようになったのは、江戸時代になってからのことである。
濁り酒は、農民たちが自家で製するどぶろくを含めて、清酒よりも安価で手軽な格下の酒として製造、流通されつづ、大衆化・庶民化していった。
米粒や麹、酵母がそのまま入っており、甘酸っぱい味で、腹もちもよく庶民の酒として愛飲され、明治末年には2万石近くの消費があったという。
「どぶろく」(濁り酒、濁酒)の語源は定かではないが、平安時代以前から米で作る醪(もろみ)の混じった状態の濁酒のことを「濁醪(だくらう)」と呼んでいたのが訛って、今日の「どぶろく」になったと言われるが、「どぶろく」は、米を使った酒類では最も素朴な形態であり、家庭でも簡単に作ることができるが、違法行為(酒税法違反)であるため、転じて密造酒の別名としてこの言葉が用いられることもある。
このことから隠語で呼ばれることも多く、「どぶ」や「白馬(しろうま)」、溷六(どぶろくまたはずぶろく)といった呼び方も地方によっては残されているようだ。なお、「溷六」と漢字で書くと、“泥酔状態にある酔っ払い”のことを指す別の言葉にもなることは、国語辞書などにも載っている。
どぶろくで酔いつぶれる人が多かったのは、盛んに発酵したばかりの酒なので、酵母がまだ生きており、非常に活性の高い酒であること。ぴりぴりと炭酸ガスを含んでいるため胃や腸が刺激され、アルコールの吸収が速いこと、などが理由とされている。
いずれにせよ、戦前生まれの飲兵衛さんには、酒が大いに不足した戦後の混乱期に、こっそり楽しんだ経験をお持ちの方もおられるのでは・・・。
先の第二次世界大戦中は食料の不足で酒どころでは無かったが、終戦になると抑えられてきた欲望が一度に噴出してアルコールへの執着がいっそう高まったかにみえた。
昼間は食べものや雑貨などが主流の闇市も夜になると酒を扱うところが断然増える。
その酒もバクダンと称する妖しげな酒など様々だったが、密造のどぶろくは根強い人気を保っていた。警察も黙っていたわけではなく、しばしば手入れを行なった。
しかし、ピーク時の1950(昭和25)年には、密造酒の生産量は世紀の酒類のそれを上回り、手入れとヤミ酒のいたちごっこが続いた。
無免許での酒の醸造はご法度であり、密造は今も犯罪である。だが、かっては、味噌、醤油同様、どぶろくも勝手に造ることが出来た。どぶろく醸造が禁止になるのは、1899(明治32)年である。
取り締まりは厳しく、 日露戦争後は一層強化された。
国家収入の30%以上を占める酒税の徴収をさらに拡大し、膨れ上がる一方の軍事費を捻出する必要があったからだ。
上掲の向かって、左画像は、1945(昭和20)年か1946(昭和21)年撮影で東京の尾久署が密造部落を襲って押収したどぶろく。右画像は、1950(昭和25)年の東京・大森のゴミ捨て場の飲み屋。写真はアサヒクロニクル『週刊20世紀』ぜいたくの100年号。30p、同誌ふるさとの100年。裏表紙の巻末コラム郷愁の飲み物どぶろくを求めてより)
このどぶろくの醸造禁酒は農民にとっては大変な打撃であった。楽しみを奪われたうえに高い酒をわざわざ買わされるはめになったからだ。
ところで、自家用の酒を自分で造る権利を国家は一方的に抑圧できるのだろうか。反骨の思想家前田俊彦は1981(昭和56)年「自分の飲む酒を自分で造ってどこが悪い」と公然と、どぶろく造りを始め、正々堂々造ったとどぶろくを客にふるまっていた。
そして、ご丁寧に、自宅での利き酒会には国税庁長官にも招待状を出した。
自宅の瓢鰻亭(ひょうまんてい)にやって来たのは、国税局の役人30人だった。周りは、機動隊100人に取り囲まれた。
結果的には、1985(昭和60)年に、酒税法違反で起訴され、「どぶろく裁判」として知られる裁判闘争となる。
5年半に及ぶ裁判の末、最高裁は「酒造りの自由の制約は合憲」との判断を示し、30万円の罰金が確定した。
今でもどぶろくについての規定がなく、密造に通じるので、製造は許されていない。例外として神事用に神社で少量の製造が許される場合がある。
なお、現在市販されている「濁り酒」「白酒(しろき)(白貴)」などは、清酒もろみの中の蒸米や麹の粒を細かく砕いて目の粗い布等で濾す「活性清酒」(※9参照)として商品化されているもので、酒税法上は清酒に属している。
澄んだ清酒とはひと味違う濃厚かつ芳醇などぶろくの風味を味わうには、岐阜県・白河郷の神社(5ヶ所の神社)など各地にわずかに残るどぶろく祭りにでも出かけるほかないが、豊穣祈願などの宗教行事や地域産品としてのどぶろく造りでは、地域振興の関係から、2002(平成14)年の行政構造改革によって、構造改革特別区域が設けられ、同特別区内でのどぶろく製造と、飲食店や民宿等で、その場で消費される場合に限り、販売も許可されており、(通称「どぶろく特区」と呼ばれる)本物のどぶろくを飲めるところが徐々に増えているのは、酒好きの人には嬉しいことだよね(^0^)。
(冒頭の画像は、農文協 前田俊彦著「ドブロクをつくろう」)
※1:日本記念日協会
http://www.kinenbi.gr.jp/index2.html
※2:武重本家酒造株式会社HP
http://www.takeshige-honke.co.jp/
※3:国税庁>お酒に関する情報
http://www.nta.go.jp/shiraberu/senmonjoho/sake/sake.htm
※4:三国志魏書 東夷伝
http://www.geocities.jp/thirdcenturyjapan/gisi-toi.html
※5:倭国の相貌/放言集/魏志倭人傳私注/有棺無槨
http://members3.jcom.home.ne.jp/wakokunosobo/hougen/gishiwa/kankaku.html
※6:青森・亀が岡遺跡
http://inoues.net/ruins/3naikamegaoka.html
※7:縄文土器 これこそ世界遺産!
http://jomontaro.web.fc2.com/page052.html
※8:正暦寺公式サイト
http://shoryakuji.jp/
※9:四季桜-日本酒雑楽(宇都宮酒造)
http://www.shikisakura.co.jp/zatugaku/zatugaku.top.htm
菊水酒造・日本酒物語
http://www.kikusui-sake.com/home/jp/fun/story/001.html
SSI net:日本酒の歴史
http://www.sakejapan.com/index.phpoption=com_content&view=article&id=32&Itemid=50井戸尻考古館」ホームページ
http://www.alles.or.jp/~fujimi/idojiri.html
比較文化史の試み 723
http://www2.ttcn.ne.jp/kobuta/bunnka8/b723.htm
アルコールについて | 医療知識 | 保健センター
http://www.hit-u.ac.jp/hoken/knowledge02.html
どぶろく - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%A9%E3%81%B6%E3%82%8D%E3%81%8F
記念日の由来をみると、「御園竹」「牧水」などの銘柄で知られ、長野県佐久市(旧望月町茂田井)にある明治元年創業の老舗の蔵元「武重本家酒造株式会社」(※2)が制定したもので、濁酒(どぶろく)の魅力を広めるのが目的。
日付は、どぶろくのシーズンが始まるのが10月下旬であり、10(ど)と26(ぶろく)で「どぶろく」と読む語呂合わせから。武重本家酒造株式会社では「十二六 甘酸泡楽(じゅうにろくかんさんほうらく)」略して「どぶろく」という濁酒を販売している。 ・・・そうだ。
ここをクリックすると、”「十二六 甘酸泡楽」の秘密”のページへ入れるが、この造語について、以下のように記載がある。
昔からのどぶろくを現在の味覚に合わせた全く新しいお酒が、「十二六 甘酸泡楽」であり、「甘酸泡楽」の4文字は、「十二六」そのものを表現しており、妙にどぶろくに合った名前ではないかと自画自賛している。
そして、この甘酸泡楽は、
甘 米の甘味が十分に残り
酸 キリリとした酸味
泡 舌の上で弾ける炭酸ガスの泡も加わって
楽 口の中一杯に楽しさがひろがるお酒である。・・・ことを意味しているそうだ。
酒に使用する新米の刈り取りが9月の中旬から始まり、乾燥、脱穀、精米を順々に行って、どぶろくを仕込むと、10月下旬にどぶろくが出来上がる。商品名「十二六」にちなみ、10月26日を「どぶろくの日」として、その前後の金曜日を十二六の最初の発売日としている。・そうである。
私は、お酒が大好きで、若いころより、酒を飲みすぎ、今では肝臓を悪くし、医者からも飲むのを控えるように言われているが、私にとって、毎日のご飯代わりの晩酌だけは欠かせない。
よくま〜、あれだけ無茶飲みをし、悪友(飲兵衛仲間)などは、皆、飲み過ぎが原因で亡くなっているのに、私だけは、肝臓が真っ黒だといわれながらも、それでも、薬を飲みながら晩酌だけは続けていても生き残っているものだ。
飲兵衛仲間よりは、相当内臓が丈夫に出来ており、しかも、アルコールに強い体質だったのだろう。ただ、生きている限りは、何時までも大好きなお酒を楽しみたいものだから、何時、どんな場合でも、自分で決めた定量以上は絶対に飲まないよう自重はしている。
それから、酒が余り量は飲めなくなってきた50歳代になった頃から、酒をただガブガブ飲んで楽しむだけでなく、酒の器(酒器)や料理用の小鉢などを集めて、酒の場そのものを楽しむようにしている。
そんな趣味で集めた酒器は、私のホームページ「よーさんの我楽多部屋」のCorection Room>Room3:酒器類に展示しているので、興味のある人はi一度覗いてください。
我楽多ばかりだが、色んなものを数だけは持っている。骨董は酒器に始まり酒器に終わるといわれるが酒器には結構面白いものがありますよ。
そんなお酒大好き人間の私には、「どぶろく」も、かって飲んだことのある懐かしい酒でもあり、今日の記念日に興味を引かれ、これをテーマーとして書くことにした。
日本の酒税法では、飲んで酔いを催すアルコール分1%(1度)以上を含む飲み物(致酔飲料)を酒類(※3のここ参照)と総称するが、国によってはその基準を0.5%とするところもあるようだ。
日本古来の代表的な醸造酒で、「酒」といえば清酒をさし、またこれを日本酒ともいうが、これは、濁り酒=濁酒(だくしゅ)に対する語で、これを濾(こ)して澄明にした酒の意である。清酒は欧米でも人気があり英語でも“sake”で通用する。
濁り酒=濁酒は、発酵させただけの白く濁った酒で、一般には「どぶろく」のことを言っていることが多い。
どぶろくは、炊いた米に、米麹(こめこうじ)や酒粕に残る酵母などを加えて発酵させることによって造られる日本酒(清酒)の原型である。
非常に簡単な道具を用いて家庭で作ることも可能である。しかし、日本では、酒税法によって許可なく酒類を製造することは禁じられる(酒税法7条1項、8条、54条1項)が、このことは、また、最後に書くことにする。
一体お酒といわれるものが日本列島に住む人々によって造られて飲まれ初めたのはいつ頃からであろうか?
神話の時代(神武天皇の在位する以前までの時代)より日本の酒の成立ちをたどると、日本の酒についての記事が文献上に初めて登場するのは、弥生時代後期、3世紀前半に書かれた『三国志』魏志東夷伝(魏志倭人伝)であり、同書は倭人の習俗について以下のように書いている(※4:「三国志魏書 東夷伝」の中の魏志倭人伝 私注の習俗を参照)。
・「其會同坐起、父子男女無別。人性嗜酒」
通釈:(倭人が)集まる時、親子・男女の区別はない。(倭)人は酒が好きである。
・「其死、有棺無槨、封土作冢。始死停喪十餘日、當時不食肉、喪主哭泣、他人就歌舞飮酒。已葬、舉家詣水中澡浴、以如練沐。」
通釈:人が死んだ時は、"棺は用いるが槨は使わず、土を盛って冢を作る"。始めの十日ほどは喪に服し、肉を食べず、喪主は哭泣(こっきゅう)するが、他の者は歌い、舞い、酒を飲む。埋葬が終わると、その家のものは皆、”練沐”のように水中で禊をする。
補足1、"棺は用いるが槨は使わず、土を盛って冢を作る"の槨とは棺の外箱であり、このことは以下参考※:※5:「倭国の相貌/放言集/魏志倭人傳私注/有棺」無槨を参照されるとよい。
補足2、練沐(れんもく)は練り絹を着ての沐浴のようである。
このように、この当時すでに酒を飲む風習があったことを述べてはいるが、ただ、その酒が米の酒なのか、また、液体か、かゆ状のものか、他の穀類、果実から造られた酒なのかは不明であるが、酒と宗教が深く関わっていたことを示すこの『三国志』の記述は、酒造りが巫女(みこ)の仕事として始まったことをうかがわせる一つの根拠ともなっている。
手持ちの『週間朝日百科 日本の歴史36』1−77Pには、以下のようなことが、書かれていた。
青森県は、縄文前・中期の円筒式土器文化ばかりでなく、縄文時代晩期の亀ヶ岡文化においても中心的な地域であった。
つがる市の亀が岡遺跡より発見された亀ヶ岡式土器は、漆を利用、半浮き彫りを多用した文様、それに変化に富んだ器形に見られるように、工業的水準は極めて高いが、注口土器はその中でも代表的なものであり、その中身は果実酒であったと思われる。ヤマトブドウやマタタビなどからはエキスが5分の1くらいしかとれないため注ぎ口を低くつけている。・・・と。
そして、上掲の画像(岩手県立博物館蔵)が添えられていた(亀ヶ岡遺跡で発見された注口土器は以下参考の※5を参照)。
又、これより前の長野県茅野市にある井戸尻遺跡群の一つ、藤内遺跡から出土した多くの土器のなかから発見された大型で膨らみのある「半人半蛙文 有孔鍔(つば)付土器」には口縁部に内壁を貫通する小孔が列状に20個ほど空いており、壷の内部に黒色変化があること。
さらに中にヤマブドウの種子と思われる炭化物が発見された例があることから、おそらく内容物は液果酒(主にヤマブドウやサルナシの実などを使用し、土器内ですり潰し野生酵母によって醗酵させた酒)で、酒造具として祭祀用に使ったと考えられ、小孔は醗酵過程で生じたガスの排出口であると推定されているようだ。
エジプト神話における水の女神ヘケトは、蛙そのものか、蛙の顔をした女性の姿をしており、多産と復活を司るとされているが、元々古代エジプトにおいて蛙はその姿から胎児の象徴であり、また多くの卵を産むことから多産の象徴でもあったそうだ。
以下参考の※7:「縄文土器 これこそ世界遺産!」には、井戸尻考古館所蔵の有孔鍔(つば)付土器の多くの画像とその解説をしているが、その中の“井戸尻考古館 北杜市埋蔵文化財センター 縄文の女神”にもあるように、縄文人も、この土器の中で醸される、神秘な飲みもの、酒は、女神がその体から産出してくれるのだと感じ、この土器で、酒を醸して飲む祭りを行なうたびに、その酒による若返りの奇蹟、再生の奇蹟を味わった。
死と再生を無限に繰り返す蛙神、女神、万物を産み養い育ててくれる女神の不思議な力。・・・を信じてこの土器を主導具として使っていたのだろう。
これら有孔鍔付土器は縄文中期に盛行し関東地方を中心に分布するが、縄文中期終末には消滅し、末期には先に述べた注口土器に代わっている。
同じ縄文中期まであったと思われているもうひとつの酒が、堅果(果皮が木質か革質で堅い果実。クリ・カシ・ナラなど)や雑穀などで造った「口噛み酒」といわれるものである。
「口噛み酒」は加熱した穀物を口でよく噛み、唾液の酵素(ジアスターゼ〔アミラーゼ〕)で糖化し、野生酵母によって発酵させるという最も原始的な方法を用いていた。
この「口噛み酒」のことは『大隅国風土記』に明記されている(ここ参照)という。
この「口噛みの酒」の記載が『古事記』『日本書紀』では見られないが、『記・紀』が書かれた8世紀に口噛みの酒の記載がないのは、原料は必ずしも米に限らず、アワ・ヒエ・トウモロコシ等すべての雑穀が原料であり、米での酒造りは日常行われていなかったからではないか・・・。
酒を造ることを「醸(かも)す」というが、この語源は「噛む」によるといわれているが、異説もあり、農業博士の住江金之は著書『酒』(西ヶ原刊行会)にて、これらは別系統の言葉であると指摘、「醸す」は「かびす」から転じたものであると分析している(『世界の酒日本の酒ものしり辞典』 外池良三、東京堂出版)そうだ。
私たちが現在飲んでいるような、米を主体としてお酒が米から造られるようになるのは、縄文時代以降、弥生時代にかけて稲作、とりわけ水稲の耕作が渡来定着した後のことであろう。
この稲の実・米が主食として定着すると、当時の人々は雑穀を酒にした口噛みの方法で、ご飯からも酒を造ることを試みるようになる。
この「口噛み酒」は、わが国へは南方系の根菜栽培民族から伝わったと言われており、近年までアイヌの祭りや、沖縄本島や周辺の諸島で神酒として造られていた。
呪術や神事に使われていたためか、口噛みをする役目は、穢れを知らない少女か、神に仕える巫女だった。中国ではこれを「ミキ」と呼び「米寄」の字を当てていたという。
次に、奈良時代(710〔和銅3〕年〜784〔延暦3〕年)の初期に出た民族誌『播磨國風土記』には、「神棚に備えた御饌(ミケ:米飯、神饌〔しんせん〕、御贄[みにえ]とも言う)が雨に濡れてカビが生えたので、これで酒を醸して神に捧げ、あと宴を催した」とあるようだ。
これは麹黴(コウジカビ)で酒が作れることがわかっていた証拠で、米を原料とする酒造りの出発点がここにある。こうして日本列島に、カビ利用の米の酒が定着するのである。
弥生時代に始まった稲作農耕は、やがて生産の主体となり、階級社会が生まれ、地域単位の小国家があちこちに出来、7世紀には全国を統一した大和朝廷が成立する。
文化的にも天皇主導の歴史書『古事記』と『日本書紀』などが相次いで世に出、さまざまな酒の記述が見られ、各地で酒造りが始まっていたことがわる。「サケ」は、「キ」「ミキ」「ミワ」「クシ」などとさまざまな呼ばれ方がされていた。
古代の酒は、標準的には、出雲や博多に現在も残る練酒(ねりざけ)のようにペースト状でねっとりとしたものであったようだ。現在でも、皇室における新嘗祭(にいなめさい)では、このような古代の製法で醸造した白酒(しろき)、黒酒(くろき)という二種類の酒が現在も伊勢神宮と宮中で造られ供えられる。
『延喜式』によれば、白酒は神田で採れた米で醸造した酒をそのまま濾したものであり、黒酒とは、白濁した白酒に、久佐木と呼ばれる草を蒸し焼きにし、その灰をまぜこんで黒くした酒(灰持酒)だそうである。
これは、黒みがかった古代米で造った古代の酒の色を伝承していくための工夫の結果であろうと考えられている。
今日では、清酒と濁酒(どぶろく)の組を白酒・黒酒の代用とすることも多いようだ。かつて、神酒は神社もしくは氏子が自家醸造していたが、現在は酒税法の規制があるため、伊勢神宮のように清酒の醸造免許や、税務署からのどぶろくの醸造許可を得ている神社も存在する。
清酒(せいしゅ)は、やがて、高野山の「天野酒」(あまのさけ)、奈良、平城の『菩提泉』に代表されるような平安時代以降の僧坊酒にその技術が結集されていくことになる。
数ある僧坊酒の中で、奈良の寺院が造った「南都諸白(なんともろはく)」は室町時代に至るまで長いこと高い名声を保った。
諸白とは、現在の酒造りの基礎にもなっている、麹米と掛け米の両方に精白米を用いる手法で造られた透明度の高い酒、今日でいう清酒とほぼ等しい酒のことを、当時の酒の主流をしめていた濁り酒(にごりざけ(発酵させただけの白く濁った酒。もろみ酒、濁り酒。どぶろく)に対して呼んだ名称であり、江戸時代以降も「下り諸白」などのように上級酒をあらわす語として使われた。
また、この『菩提泉』をもって日本最初の清酒とする説もあり、それを醸した奈良正暦寺には「日本清酒発祥之地」の碑が建っている。
上掲の画像は、正暦寺の日本清酒発祥之地の碑である(画像はWikipedia日本酒の歴史より借用)。
平安時代中期から室町時代末期にかけて、奈良菩提山正暦寺で産する銘酒『菩提泉』を醸す菩提酛(ぼだいもと)という酒母や、今でいう高温糖化法の一種である煮酛(にもと)などの技術によって優れた清酒を醸造していたが、この時代の清酒は量的にも些少であり、有力貴族など極めて限られた階層にしか行き渡らなかったと考えられる。
日本酒は、中世の末までにいちおう濁り酒から今日でいう清酒への移行を完了したと考えられるが、だからといって、これ以後に、濁り酒がなくなるというわけではないし、清酒も今日の清酒とほぼ等しい、酒(諸白)と同じものというわけでもない。
当時の清酒は、一般的には諸白より格下の、麹米は白米だが、掛米(※9参照)が玄米のまま仕込んだ片白(かたはく)や、麹米も掛米も玄米のまま仕込んだ並酒(なみざけ)が主流であったため、ほとんどの清酒はまだ玄米の持つ糠が雑味として残る黄金色がかった、今日の味醂(みりん)のようにこってりした味であったと考えられているようだ。
京方面から「くだり酒」として江戸へ送られたことは良く知られているように、効率的に清酒を大量生産する製法が開発され、酒が本格的に一般にも流通するようになったのは、江戸時代になってからのことである。
濁り酒は、農民たちが自家で製するどぶろくを含めて、清酒よりも安価で手軽な格下の酒として製造、流通されつづ、大衆化・庶民化していった。
米粒や麹、酵母がそのまま入っており、甘酸っぱい味で、腹もちもよく庶民の酒として愛飲され、明治末年には2万石近くの消費があったという。
「どぶろく」(濁り酒、濁酒)の語源は定かではないが、平安時代以前から米で作る醪(もろみ)の混じった状態の濁酒のことを「濁醪(だくらう)」と呼んでいたのが訛って、今日の「どぶろく」になったと言われるが、「どぶろく」は、米を使った酒類では最も素朴な形態であり、家庭でも簡単に作ることができるが、違法行為(酒税法違反)であるため、転じて密造酒の別名としてこの言葉が用いられることもある。
このことから隠語で呼ばれることも多く、「どぶ」や「白馬(しろうま)」、溷六(どぶろくまたはずぶろく)といった呼び方も地方によっては残されているようだ。なお、「溷六」と漢字で書くと、“泥酔状態にある酔っ払い”のことを指す別の言葉にもなることは、国語辞書などにも載っている。
どぶろくで酔いつぶれる人が多かったのは、盛んに発酵したばかりの酒なので、酵母がまだ生きており、非常に活性の高い酒であること。ぴりぴりと炭酸ガスを含んでいるため胃や腸が刺激され、アルコールの吸収が速いこと、などが理由とされている。
いずれにせよ、戦前生まれの飲兵衛さんには、酒が大いに不足した戦後の混乱期に、こっそり楽しんだ経験をお持ちの方もおられるのでは・・・。
先の第二次世界大戦中は食料の不足で酒どころでは無かったが、終戦になると抑えられてきた欲望が一度に噴出してアルコールへの執着がいっそう高まったかにみえた。
昼間は食べものや雑貨などが主流の闇市も夜になると酒を扱うところが断然増える。
その酒もバクダンと称する妖しげな酒など様々だったが、密造のどぶろくは根強い人気を保っていた。警察も黙っていたわけではなく、しばしば手入れを行なった。
しかし、ピーク時の1950(昭和25)年には、密造酒の生産量は世紀の酒類のそれを上回り、手入れとヤミ酒のいたちごっこが続いた。
無免許での酒の醸造はご法度であり、密造は今も犯罪である。だが、かっては、味噌、醤油同様、どぶろくも勝手に造ることが出来た。どぶろく醸造が禁止になるのは、1899(明治32)年である。
取り締まりは厳しく、 日露戦争後は一層強化された。
国家収入の30%以上を占める酒税の徴収をさらに拡大し、膨れ上がる一方の軍事費を捻出する必要があったからだ。
上掲の向かって、左画像は、1945(昭和20)年か1946(昭和21)年撮影で東京の尾久署が密造部落を襲って押収したどぶろく。右画像は、1950(昭和25)年の東京・大森のゴミ捨て場の飲み屋。写真はアサヒクロニクル『週刊20世紀』ぜいたくの100年号。30p、同誌ふるさとの100年。裏表紙の巻末コラム郷愁の飲み物どぶろくを求めてより)
このどぶろくの醸造禁酒は農民にとっては大変な打撃であった。楽しみを奪われたうえに高い酒をわざわざ買わされるはめになったからだ。
ところで、自家用の酒を自分で造る権利を国家は一方的に抑圧できるのだろうか。反骨の思想家前田俊彦は1981(昭和56)年「自分の飲む酒を自分で造ってどこが悪い」と公然と、どぶろく造りを始め、正々堂々造ったとどぶろくを客にふるまっていた。
そして、ご丁寧に、自宅での利き酒会には国税庁長官にも招待状を出した。
自宅の瓢鰻亭(ひょうまんてい)にやって来たのは、国税局の役人30人だった。周りは、機動隊100人に取り囲まれた。
結果的には、1985(昭和60)年に、酒税法違反で起訴され、「どぶろく裁判」として知られる裁判闘争となる。
5年半に及ぶ裁判の末、最高裁は「酒造りの自由の制約は合憲」との判断を示し、30万円の罰金が確定した。
今でもどぶろくについての規定がなく、密造に通じるので、製造は許されていない。例外として神事用に神社で少量の製造が許される場合がある。
なお、現在市販されている「濁り酒」「白酒(しろき)(白貴)」などは、清酒もろみの中の蒸米や麹の粒を細かく砕いて目の粗い布等で濾す「活性清酒」(※9参照)として商品化されているもので、酒税法上は清酒に属している。
澄んだ清酒とはひと味違う濃厚かつ芳醇などぶろくの風味を味わうには、岐阜県・白河郷の神社(5ヶ所の神社)など各地にわずかに残るどぶろく祭りにでも出かけるほかないが、豊穣祈願などの宗教行事や地域産品としてのどぶろく造りでは、地域振興の関係から、2002(平成14)年の行政構造改革によって、構造改革特別区域が設けられ、同特別区内でのどぶろく製造と、飲食店や民宿等で、その場で消費される場合に限り、販売も許可されており、(通称「どぶろく特区」と呼ばれる)本物のどぶろくを飲めるところが徐々に増えているのは、酒好きの人には嬉しいことだよね(^0^)。
(冒頭の画像は、農文協 前田俊彦著「ドブロクをつくろう」)
※1:日本記念日協会
http://www.kinenbi.gr.jp/index2.html
※2:武重本家酒造株式会社HP
http://www.takeshige-honke.co.jp/
※3:国税庁>お酒に関する情報
http://www.nta.go.jp/shiraberu/senmonjoho/sake/sake.htm
※4:三国志魏書 東夷伝
http://www.geocities.jp/thirdcenturyjapan/gisi-toi.html
※5:倭国の相貌/放言集/魏志倭人傳私注/有棺無槨
http://members3.jcom.home.ne.jp/wakokunosobo/hougen/gishiwa/kankaku.html
※6:青森・亀が岡遺跡
http://inoues.net/ruins/3naikamegaoka.html
※7:縄文土器 これこそ世界遺産!
http://jomontaro.web.fc2.com/page052.html
※8:正暦寺公式サイト
http://shoryakuji.jp/
※9:四季桜-日本酒雑楽(宇都宮酒造)
http://www.shikisakura.co.jp/zatugaku/zatugaku.top.htm
菊水酒造・日本酒物語
http://www.kikusui-sake.com/home/jp/fun/story/001.html
SSI net:日本酒の歴史
http://www.sakejapan.com/index.phpoption=com_content&view=article&id=32&Itemid=50井戸尻考古館」ホームページ
http://www.alles.or.jp/~fujimi/idojiri.html
比較文化史の試み 723
http://www2.ttcn.ne.jp/kobuta/bunnka8/b723.htm
アルコールについて | 医療知識 | 保健センター
http://www.hit-u.ac.jp/hoken/knowledge02.html
どぶろく - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%A9%E3%81%B6%E3%82%8D%E3%81%8F