日本記念日協会で今日の記念日を見ると「いいレザーの日」があった。
記念日の由来には“日本の皮革製品に関する知識を広め、レザーの魅力とその価値をもっと知ってもらおうと社団法人日本皮革産業連合会(JLIA=Japan Leather Award。※1)が制定。日付は11月3日(1103)を「いいレザー」と読む語呂合わせから。レザーが似合う「ベストレザーニスト賞」の発表などの行事を行う。”・・とあった。
日本皮革産業連合会(JLIA)には、皮革事業に関わる24団体が加盟しているようで、よく分からないが、ベストレザーニスト賞とは、JLIAの行なうJapan Leather Award(ジャパンレザーアワード)の中の1つの賞のようであるが、「ベストレザーニスト賞」そのものはJLIAに加盟の日本タンナーズ協会(※2)が主催する賞のようで、2001(平成13)年から続いているようだ。このタンナーズ協会とはなめし革の製造・取扱の企業等が集まって組織されている製革業者団体で、本部は我が地元・兵庫県の姫路市にあるようだ。
JLIAのHPによれば、今年度の“Japan Leather Award2011“審査会は、10月7日(金)・8日(土)に六本木のアークヒルズカフェで行われ、総作品エントリー数191もの作品応募があり、142点はプロ、残り49点はアマチュアからのものだったという。このアワードの表彰式は、11月03日"いいレザーの日"に開催され、それぞれの部門賞とグランプリを受賞した作品は、11月30日(水)〜12月13日(火)の2週間、兵庫県にある阪急阪神百貨店 西宮阪急で、展示されるチャンスが与えられるという(ここ参照)。尚、過去のベストレザーニスト賞・歴代受賞者は以下参考の※3:「雑学データバンク」を参照されると良い。
ところで、「なめし革」の「なめし」を漢字で書くと「鞣」で、通常「なめし革」は「鞣革」と書く。「鞣」は、漢字の構成部分で、「韓」「韜」などの「韋」の称。
「韋」字は「違」の本字であり、背きあうことを意味する。その字形は背いた足の象形である「舛」と囲いの象形である「囗」を組みあわせたものであり、守衛が城壁の周囲を巡回していることを表していると考えられるが、また「韋」には「革」同様、毛を除いた皮革の意味があるが、「革」と対照する場合、「革」は生革、「韋」はなめし加工された熟革を指す。この意味は背くから反り返った皮革へと引伸されて生じたとも、「革」字と字形が似ることから混同されるようになって生じたものとも言われる。後代にはこのなめし革の意味が「韋」字の基本義となった(韋部参照)。
「皮」と「革」は同源であるが、「皮」字は、頭のついた獣のかわ+「又(=手)」で動物の皮を引きはがす様、又は、斜めに身にまとう様を表した象形又は会意文字であり、言い換えれば、動物から採取された最初の状態のもの獣皮(「原皮(hide/skin)」を言う。「皮」を「かわ」というのは、「皮」が表面を包んでいるもの、つまり「外側」なので、「かわ(側)」とする、また、肌の上に被るの意味で、もしくは上を意味する言葉に付く「か」で、「わ」は「はだ(肌)」の意味とする説などがあるようだ。「かわ」の旧かなは「かは」なので両節共に説得力はある(※4)。
「革」字は毛を取り除いた獣皮(「原皮(hide/skin)=皮」)である皮革を意味しており、その字形は動物の獣皮をピンと張り伸ばした象形で、上部「廿」は頭、中央は展開した身体部分、下部「十」は尾と両足部分の形である。その意味では、毛の付いた生皮が皮であり、その生皮から毛を抜いたものが「革」であるが、そのまま利用できれば都合が良いのだが、生憎と、皮は生ものであるため、剥いだ状態で放置すると腐敗する。また、そのままただ干すだけではカチカチになってしまう。このため、なめしという工程を施すことにより、腐敗やカチカチになることを防ぐ。また、なめし工程にはいくつかの種類があり、この工程を経ることによりもともとの皮よりも柔軟な仕上がりをえられるなめし方法もある。なめされた革を「鞣革」と言うべきなのだろうが、今では、なめされていないものを「皮」、なめしたものを「革」と区別しているようだ。皮革の中でも、元々生えていた体毛まで利用するものは毛皮という。
人類は、毛皮を衣類として防寒などの目的に使用するため、古くは剥皮した動物皮を乾燥し、叩いたり、擦ったり、揉んだりして線維を解して、いわゆる物理的処理したものを使っていたが、紀元前8000年頃の旧石器時代から、皮を煙でいぶして防腐加工を施し、さらに動物の脂を塗り込むなどの原始的な燻煙鞣しや油鞣しといわれるものが始められ、これらの単独鞣しあるいは両者の複合鞣しを行った毛皮を使用されていたと見られており、樹皮や実、葉などを用いる植物タンニン鞣しは、紀元前3000年頃の新石器時代のオリエント(エジプトや西南アジア)に始まったとされているようだ(※5)。因みに、タンニン(Tannin)という名称は「革を鞣す」という意味の英語である "tan" に由来し、本来の意味としては製革に用いる鞣革性を持つ物質のことを指す言葉であったという。
寒冷な気候の北ヨーロッパなどでは、毛皮は生活に欠かせない必需品であった。カエサルのガリア戦記にはゲルマン人が毛皮を着用していたことを示す記述が見られるという。
封建時代のヨーロッパ(9世紀頃から15世紀頃)では、高級な毛皮は宝石などと同様、財宝として取り扱われた。イギリスのヘンリー8世(在位、1509年 - 1547年)は皇族以外の者が黒い毛皮を着用することを禁じ、とりわけ黒テンの毛皮は子爵以上の者しか着用できないとしたそうだ。18世紀以降にはヨーロッパ全土に広まり、貴族はキツネ、テン、イタチなど、庶民はヒツジ、イヌ、ネコなどの毛皮を使用していたようだ。
ヨーロッパ大陸で革産業が盛んになる中、アメリカでは先住民族インディアンによる独自の革製法で、衣類などの生活用品や馬具、武具などが作られていた。そこへ、1492年にスペインの命を受けたコロンブスによってアメリカ大陸が発見され、スペインの革工芸品がアメリカに持ち込まれ、これによってさらに革技術が発展していった。革をなめす方法は、多くの地域で使用されたが、その後、ヨーロッパやアメリカなどで、かしわの木の皮からタンニンを効率的に取る方法 が発見され、18世紀から19世紀にかけて巻き起こった産業革命の波は革産業にも及び、1858年には、鉄、アルミニウム、クロムなどの金属を主とした薬品によるなめし方法、クロームなめしの発明が相次ぎ、量産を可能とする皮革工業の礎となった。
18世紀にはラッコの毛皮が流行し、最高級品として高値で取引された。ロシア人はこれを求めて極東のカムチャツカ半島、さらにはアラスカまで進出し、毛皮業者に巨万の富をもたらしたが、乱獲により、20世紀初頭にはラッコは絶滅寸前まで減少した。
現在の標準和名「ラッコ」は、近世の日本における標準的な本草学名に由来し、さらにそれはアイヌ語で本種を意味する "rakko" にまで起源を辿れるという。
日本では平安時代の延喜5年(905年)、交易品として都に運ばれているが、醍醐天皇が、年料別貢雑物として、諸国の司に民部省に差し出すよう命じているものの中にどんな獣皮があるかを『延喜式』巻二十三「民部下」交易雑物の条(※6参照)に見ると、牛皮・馬皮・鹿皮・猪皮・狸皮のほか、陸奥国からは、「葦鹿皮、獨犴皮」を、出羽國からは「熊皮・葦鹿皮・獨犴皮」を交易品の租税として徴収したことが記されている。
Wikipediaでは、この中の“「獨犴」が「ラッコ」を指すのではないかと言われている。ただ、陸奥国で獲れたのか、北海道方面から得たのかは不明である。”・・・としているが、以下参考の※7:「昆布考」では、“独犴(どっかん)皮をアイヌ語のトッカリの転化でアザラシのこと”としている。しかし、「独犴」に「ヱゾイヌ」を充てているところも見られるが、以下参考の※8:「皮革利用史の研究動向」では、“「独犴」については北方犬種説、ラッコ説、アザラシ説などがあり、いまだ議論がたえない”と諸説あるようだが、以下のことなどから私は、ラッコではないかと言う気がする。
「葦鹿皮」は、※7:「昆布考」でもアシカ(海驢)の皮としており、これは、Wikipediaでも「アシカ」の語源は「葦鹿」で「葦(アシ)の生えているところにいるシカ」の意味であったとしている。しかし、以下参考の※9:「天理大学 : 都にやってきたアザラシたち−古代日本の海獣皮の利用」では、”正倉院宝物に奈良時代の馬具十数点があるが、そのなかにアザラシ皮でつくられた韉(したぐら)があり、調査の結果、二点の韉の切付にアザラシの毛皮が使用されていることが確認されたという。・・・奈良時代の史料に、今のところアザラシは見出せないが、平安時代の『西宮記』は下鞍(韉)について豹は公卿、虎は四位五位葦鹿は六位と、六位のは葦鹿皮としている。1141年(保延7年、永治元年)の大嘗会の御禊でも、五位は虎皮切付、六位は葦鹿切付である。葦鹿皮の初見は平安初期の807年(大同2年)に葦鹿皮の使用が贅沢として禁止されたことで、当時、羆皮等と共に装飾用に都で使われていたことがわかる。『倭名類聚抄』には「葦鹿 和名阿之加」とありアシカと発音していた。『延喜式』では陸奥国と出羽国が税米で購入し都に進上すべき物に葦鹿皮が登場する。平安後期の和歌には「わが恋は あしかをねらふ えぞ舟の よりみよらずみ 波間をぞまつ」とあり、葦鹿は蝦夷の海の生物という認識が都の貴族たちにあったことがわかる。・・・と言っている。
又、以下参考の※13:「えみし」の「交易の視点よりみた「えみし」社会の紐帯」では、“葦鹿皮は、アシカ科の海獣であることは疑いないが、アシカは、北太平洋に広く分布するものの、現在、日本近海では、主として千島列島を生息地としており、綿毛をもたないことから毛皮としての価値はないとされる。これに対して、同じアシカ科のオットセイは、ビロード状の美しい綿毛をもち、歴史的に貴重な毛皮獣とされてきた。こうしたことから、古代史上の葦鹿は、オットセイかアザラシとみなす見解があるが・・・・道南西部の内浦湾沿岸の遺跡では最も多く捕獲されていたのはオットセであるいオットセイである可能性のほうが高いと思う”としている。
先の「わが恋は あしかをねらふ」の歌の解説が、以下参考の※11:「道府県別 名所歌枕一」の蝦夷(北海道)のところにあるが、これは、「えぞ(蝦夷)」という語が用いられた最初期の例で、作者源仲正は、源三位頼政の父で、白河院の時代の人で下総守、下野守なども歴任している。平安時代後期には、和人と蝦夷の交易は盛んになっていたようだ。
蝦夷(えみし、えびす、えぞ)は、日本列島の東方、北方に住み、畿内の大和朝廷によって異族視されていた人々に対する呼称(賤視蔑称)であり、毛人と書き、ともに「えみし」と読んだ。
古くは「えみし」という呼称や綴りも、漢字では他に「夷」「狄」「蝦夷」などと宛字で綴られてきた。さらには「俘囚」「夷俘」「田夷」「山夷」などとも綴られた。
蝦夷についての形式上最も古い言及は、『日本書紀』神武東征(※12)記中に詠まれている来目歌(久米部が歌った歌)の一つに愛濔詩として登場する(※13)。
「愛濔詩烏 毘*利 毛毛那比苔 比苔破易陪廼毛 田牟伽毘毛勢儒」(訳:えみしを、1人で100人に当たる強い兵だと、人はいうけれど、抵抗もせず負けてしまった)。
※12による解釈では、「愛濔詩(えみし)」は美称にとれば「恵(愛)美(彌)子」で本来は「愛子」の意味だろうし、蔑称にとれば「蝦夷」だろう。歌の歌意は、詠う立場によって、討った側の歌、討たれた側の歌と、どちらを選ぶかによって解釈も違ってくるようだが、そのことは※11を見てもらうとして、毘*利(ひだり)は、古い倭語で「領地」、あるいは「(その領地の)統治者、王者」の意味があったと考えられ、「毛毛那比苔(ももなひと)」は通訓の「百那人」だから、「毘*利 毛毛那比苔」は「百国の王者」また「大王」のことだろうという。
そもそも、記紀は、紀元8世紀初頭に著された日本最古の歴史書である。両書は、諸豪族の統一にようやく成功した大和朝廷が、その統治を正当化するために編纂させた官選の歴史書である。当時はまだまだ、多くの有力豪族が各地に割拠していた。
神武が忍坂(コトバンク参照)の地まで来ると、待ち構えていた土雲のヤソタケル(=八十建=数多くの猛者)を奇策を用いて破り、その後、大和平定の神武の最後の戦いはニギハヤヒ(饒速日命)との戦いになるが、この戦いは、実際は、ニギハヤヒの家来のナガスネヒコが直接の相手になる。しかし、突然ニギハヤヒがあらわれ、ナガスネヒコを自ら斬り殺し、あっさりと神武に帰順し、神武に支配権を譲っている。このくだりはいかにも象徴的な、まるで「出来レース」のようである。
しかし、この来目歌がどの程度史実を反映するものか、またここで登場する「えみし」が後の「蝦夷」を意味するかどうかも判然としないため、古い時代の蝦夷の民族的性格や居住範囲については諸説があり確かなことはわかっていないが、以下参考に記載の※14:「1413夜『蝦(えみし)夷』高橋崇|松岡正剛の千夜千冊」では、「えみし」の始まりについての詳しい考察がされているが、中で、以下のようなことが書かれている。
“3世紀から6世紀にかけて日本列島の北部、当時の東北地域の生活の下敷きになっていたのは、三内丸山遺跡で知られるような縄文文化であったが、この地では稲作が行なわれ、それが北上し、驚くべきスピードで津軽平野まで届いていた。「北の稲」の発端だ。ところが何故か、その後、東北北部(青森・岩手・秋田)の水田跡が激減していった。
この時期、北海道の道央(石狩低地帯)で生まれた続縄文文化が東北北部に降り、青森、岩手、宮城、秋田へと南下し栄えていた。和習(わじゅう)というべきか。これら続縄文文化は狩猟と採集と漁労による生活、および土器・土壙墓(どこうぼ)・黒曜石石器の使用などを特色としていた。他方、それとともに東北には南方のヤマト(大和)文化、つまりは「倭国文化」「倭人文化」が次々に浸透していった。加えてここに北海道からオホーツク型の擦文文化が入りこんで、東北から北海道への東北的擦文の逆波及もおこり、7世紀にはこれらがすっかり混成していった。稲作はごく初期にいったんは東北一帯から津軽にも伝わり、それが古代蝦夷の時代になぜか途絶え、その後にふたたびヤマト政権文化の北上とともに復活していったのである。ともかくも、こうして東北各地に拠点集落ができていった。そして、北海道の続縄文期後半や本州島東北部の弥生時代後期∼8 世紀には、この地方で、石器による皮革加工が行われていることが明らかになっているという。
このような背景のなか、列島南北の生活文化や技能文化をさまざまに習合しつつ、6世紀末までに続縄文文化の痕跡が消えていくのに代わるように、ここに「蝦夷」(えみし)が形成されていった。この「蝦夷」とは、ヤマト政権が東北北部の続縄文文化を基層とする集団、新潟県北部の集団、北海道を含む北方文化圏の集団などを乱暴にまとめて「蝦夷」と一括してしまった種族概念であった。つまりは「まつろわぬ者たち」という位置づけで総称された地域であり、そういう「負の住民たち」のことだった。
『古事記』景行天皇紀にははやくも、東方十二道に「荒夫流神、及び麻都楼波奴人」がいるなどと記されている。荒夫流神は「あらぶる神」、麻都楼波奴人は「まつろわぬ人」と読む。初期ヤマト朝廷はそのような“まつろわぬ蝦夷たち”がたいそう気掛かりだったのだ。
それはまた、『宋書』東夷伝の有名な「倭王武の(上表文」の中に、「昔より祖彌(そでい=父祖)、躬(みずから)甲冑を擂(つらぬ)き山川を跋渉し、寧処に遑(いとま)あらず、東は毛人(えみし)を征すること五十五国、西は衆夷を服すること六十六国、渡りて海北を平ぐること九十五国」と誇らしげに綴っていることに暗示されているように、王権はこうした“まつろわぬもの”を服属させているという自負のあらわれでもあった。このときの倭王武とは大王ワカタケルで、雄略天皇だったろう.。“・・と。
この記述を見ても478年(順帝昇明2年)あたりには既に蝦夷の存在と、その統治が進んでいた様子を窺い知ることが出来る。
日本武尊以降、上毛野氏の複数の人物が蝦夷を征討したとされているが、これは毛野氏が古くから蝦夷に対して影響力を持っていたことを示していると推定されている。
蝦夷の居住範囲は、時代によりその範囲が変化しているが、飛鳥時代(7世紀)頃には、蝦夷は現在の宮城県中部から山形県以北の東北地方と、北海道の大部分に及ぶ広範囲に住んでいたと推測される。斉明天皇4年(658年)の阿倍比羅夫の蝦夷征討以降、大和政権が支配領域を北に拡大するにつれて、しばしば防衛のために戦い、反乱を起こしているが、朝廷側は大軍で繰り返し遠征し、最後には、平安時代の武官・征夷大将軍坂上田村麻呂が胆沢城と志波城を築いて征服した。朝廷側の支配に服した蝦夷は、俘囚と呼ばれた。かれら大和へ帰服した蝦夷男女が集団で強制移住させられたが、移住先は九州までの全国に及ぶという。俘囚は、のちに、えみしの異名にもなっていく。蝦夷は平時には交易を行い、昆布・馬・毛皮・羽根などの特産物を和人にもたらし、代わりに米・布・鉄を得た。
日本においては、古くより、東北地方・北海道などの狩猟者集団マタギなど猟師が捕獲して加工した毛皮が細々と流通していた模様ではあるが、獣皮は衣料素材としてはあまり積極的に使われておらず、猟師などが捕まえて加工して自ら使用する防寒着のほかは、豪奢な装飾用の敷物や工芸用の素材の方に利用されたことは、先に述べた『延喜式』(弾正台)にも見られるとおりであり、それは、毛皮の保有とその着装が対内的にはもちろんのこと、対外的にも渤海・奥州に通じる権力を誇示する政治的意味合いをもっていたことを示しているからであろう。
冒頭掲載の画像は、舟木本『洛中洛外図』のなかの皮細工職人である(東京国立博物館蔵。週間朝日百科『日本の歴史』24より)。
そうした、技術の担い手としての多彩で多様な職人が中世後期に現れてくるが、そうした彼らの姿を鮮やかに示してくれるのがいわゆる「職人歌合」などである。 室町末期の『七十一番職人歌合』に登場する職人たちの姿を見るとj15世紀の『三十二番職人歌合』と比べて実に多彩な職人の登場が見られる。こうした職人たちの生き生きとした姿を「洛中洛外図屏風」の世界においても見出すことが出来るので、少なくとも畿内近国では、ポピュラーな姿だったようだ。例えば工匠の場合は、15世紀の後半、鋳物師の場合は16世紀になると地域を特定して職人の営業範囲とするようになる。そこには道具の強度の進歩や新しい道具・技術の出現があったようだ。
『七十一番職人歌合』に,獣皮関連のこととして、十番:馬買はふ(うまかはふ) 皮買はふ(かわかはふ)。三十六番:穢(ゑた)「この皮は大まいかな」が出てくるが、この「大まい」は、「大枚を叩く」と言う言葉もあるように、金額の大きいことを言っているので、この皮は、高額なのだろう・・・といった意味か。『七十一番職人歌合』の十番、三十六番のことは、以下参考の※15:「中世職能民職種一覧」で解説されているので参照されたい。
いずれにしても、社会的分業の展開の中で、農民と農村経営の発展に照応するかたで、地域=在職の職人が生まれていき、皮革の生産、商売に携るものは、「かわた」と呼ばれるようになり、『慶長播磨国図』(天理図書館蔵)には「かわた」が48ヶ所も、慶長10年(1605年)より少し後のものと推定される「摂津国図」(西宮市立図書館蔵)にも「皮田」「皮多」「川田村」「河原村」「カワラ村」が七ヶ所記載されており、このように少なくとも近畿地方ではかわたが集落として把握され、特定の地域に集住させられていたようである。戦国時代が終わり、豊臣政権で実施された太閤検地の検地帳ではこの「かわた」が、武士、商人、農民などとは別に一般的な肩書きとして用いられている。
最後になったが、Wikipediaによれば、毛皮を一般向けに販売する専門店としては、現在は横浜市元町に店を構える山岡毛皮店(日光市鉢石町にて1868年創業)が、日本で初めての毛皮専門店とみられるそうである。
なお、皇太子明仁親王(当時)・正田美智子(当時)の婚約の折、正田側が実家を出る折に身に着けていたミンクのストールが当時のテレビで大々的に放映された。
上掲の画像が、ご両親と共に天皇、皇后両陛下へのご挨拶に向かわれる美知子さん(1958年11月27日。アサヒクロニクル『週間20世紀』1958年号より)。
ミッチー・ブームにのって、ミンクのストールも注目され、おりしも日本は岩戸景気で大衆もが豊かさを実感し享受する時代に突入ていたことから、このような毛皮が、従来は一部の権力者や有力者だけの贅沢品から、一気に一般労働者層でも頑張れば手が届く、高価で贅沢だが一般的な装飾的意味合いの強い衣料品にまでなった。
しかし、現代では動物愛護や動物の権利意識の高まりから毛皮の利用に対して国際的な反対運動が展開されており、特に寒冷地等で「必需品」として利用するのではなく「贅沢品」として利用する事には強い嫌悪感を持つ人も多いと言われる。
なめしてある皮革についても、20世紀以降では人工的に作られた人造皮革(商標名クラレの「クラリーノ」東レの「エクセーヌ」など)があり、天然皮革と異なり、水に濡れたりしても手入れが簡便であり、安価で品質も均一であることなどから普及している。しかし、天然皮革に比して劣化が早い傾向があり、天然皮革の靴や服のように自分の体に合ってくるということは少ないので、やはり、これらには、天然皮革のものを愛好している人が多くいる。
尚、我が地元兵庫県の姫路市の地場産業には、皮革があり、姫路白なめし革細工は、県の伝統工芸品に指定されている。
姫路白鞣革は古くは越靼(こしなめし)、古志靼、播州靼あるいは姫路鞣ともいわれてきたが、その製革技術の始まりについては、地元では最もよく知られているもので神功皇后の三韓征伐の折の捕虜で熟皮術に長けるものがあり、丹波の円山川で試み、南下して市川で成功し、村人にその技術を伝えたものという朝鮮伝来説や、同時代の出雲国古志村由来伝説などもあるなど、相当古くから伝承されているものだそうだ。以下参考の※16:「電子じばさん館:皮革」では、皮革のこと全般についてくわしく書かれているので興味のある方は覗いて見られると良い。
いいレザーの日:参考へ
記念日の由来には“日本の皮革製品に関する知識を広め、レザーの魅力とその価値をもっと知ってもらおうと社団法人日本皮革産業連合会(JLIA=Japan Leather Award。※1)が制定。日付は11月3日(1103)を「いいレザー」と読む語呂合わせから。レザーが似合う「ベストレザーニスト賞」の発表などの行事を行う。”・・とあった。
日本皮革産業連合会(JLIA)には、皮革事業に関わる24団体が加盟しているようで、よく分からないが、ベストレザーニスト賞とは、JLIAの行なうJapan Leather Award(ジャパンレザーアワード)の中の1つの賞のようであるが、「ベストレザーニスト賞」そのものはJLIAに加盟の日本タンナーズ協会(※2)が主催する賞のようで、2001(平成13)年から続いているようだ。このタンナーズ協会とはなめし革の製造・取扱の企業等が集まって組織されている製革業者団体で、本部は我が地元・兵庫県の姫路市にあるようだ。
JLIAのHPによれば、今年度の“Japan Leather Award2011“審査会は、10月7日(金)・8日(土)に六本木のアークヒルズカフェで行われ、総作品エントリー数191もの作品応募があり、142点はプロ、残り49点はアマチュアからのものだったという。このアワードの表彰式は、11月03日"いいレザーの日"に開催され、それぞれの部門賞とグランプリを受賞した作品は、11月30日(水)〜12月13日(火)の2週間、兵庫県にある阪急阪神百貨店 西宮阪急で、展示されるチャンスが与えられるという(ここ参照)。尚、過去のベストレザーニスト賞・歴代受賞者は以下参考の※3:「雑学データバンク」を参照されると良い。
ところで、「なめし革」の「なめし」を漢字で書くと「鞣」で、通常「なめし革」は「鞣革」と書く。「鞣」は、漢字の構成部分で、「韓」「韜」などの「韋」の称。
「韋」字は「違」の本字であり、背きあうことを意味する。その字形は背いた足の象形である「舛」と囲いの象形である「囗」を組みあわせたものであり、守衛が城壁の周囲を巡回していることを表していると考えられるが、また「韋」には「革」同様、毛を除いた皮革の意味があるが、「革」と対照する場合、「革」は生革、「韋」はなめし加工された熟革を指す。この意味は背くから反り返った皮革へと引伸されて生じたとも、「革」字と字形が似ることから混同されるようになって生じたものとも言われる。後代にはこのなめし革の意味が「韋」字の基本義となった(韋部参照)。
「皮」と「革」は同源であるが、「皮」字は、頭のついた獣のかわ+「又(=手)」で動物の皮を引きはがす様、又は、斜めに身にまとう様を表した象形又は会意文字であり、言い換えれば、動物から採取された最初の状態のもの獣皮(「原皮(hide/skin)」を言う。「皮」を「かわ」というのは、「皮」が表面を包んでいるもの、つまり「外側」なので、「かわ(側)」とする、また、肌の上に被るの意味で、もしくは上を意味する言葉に付く「か」で、「わ」は「はだ(肌)」の意味とする説などがあるようだ。「かわ」の旧かなは「かは」なので両節共に説得力はある(※4)。
「革」字は毛を取り除いた獣皮(「原皮(hide/skin)=皮」)である皮革を意味しており、その字形は動物の獣皮をピンと張り伸ばした象形で、上部「廿」は頭、中央は展開した身体部分、下部「十」は尾と両足部分の形である。その意味では、毛の付いた生皮が皮であり、その生皮から毛を抜いたものが「革」であるが、そのまま利用できれば都合が良いのだが、生憎と、皮は生ものであるため、剥いだ状態で放置すると腐敗する。また、そのままただ干すだけではカチカチになってしまう。このため、なめしという工程を施すことにより、腐敗やカチカチになることを防ぐ。また、なめし工程にはいくつかの種類があり、この工程を経ることによりもともとの皮よりも柔軟な仕上がりをえられるなめし方法もある。なめされた革を「鞣革」と言うべきなのだろうが、今では、なめされていないものを「皮」、なめしたものを「革」と区別しているようだ。皮革の中でも、元々生えていた体毛まで利用するものは毛皮という。
人類は、毛皮を衣類として防寒などの目的に使用するため、古くは剥皮した動物皮を乾燥し、叩いたり、擦ったり、揉んだりして線維を解して、いわゆる物理的処理したものを使っていたが、紀元前8000年頃の旧石器時代から、皮を煙でいぶして防腐加工を施し、さらに動物の脂を塗り込むなどの原始的な燻煙鞣しや油鞣しといわれるものが始められ、これらの単独鞣しあるいは両者の複合鞣しを行った毛皮を使用されていたと見られており、樹皮や実、葉などを用いる植物タンニン鞣しは、紀元前3000年頃の新石器時代のオリエント(エジプトや西南アジア)に始まったとされているようだ(※5)。因みに、タンニン(Tannin)という名称は「革を鞣す」という意味の英語である "tan" に由来し、本来の意味としては製革に用いる鞣革性を持つ物質のことを指す言葉であったという。
寒冷な気候の北ヨーロッパなどでは、毛皮は生活に欠かせない必需品であった。カエサルのガリア戦記にはゲルマン人が毛皮を着用していたことを示す記述が見られるという。
封建時代のヨーロッパ(9世紀頃から15世紀頃)では、高級な毛皮は宝石などと同様、財宝として取り扱われた。イギリスのヘンリー8世(在位、1509年 - 1547年)は皇族以外の者が黒い毛皮を着用することを禁じ、とりわけ黒テンの毛皮は子爵以上の者しか着用できないとしたそうだ。18世紀以降にはヨーロッパ全土に広まり、貴族はキツネ、テン、イタチなど、庶民はヒツジ、イヌ、ネコなどの毛皮を使用していたようだ。
ヨーロッパ大陸で革産業が盛んになる中、アメリカでは先住民族インディアンによる独自の革製法で、衣類などの生活用品や馬具、武具などが作られていた。そこへ、1492年にスペインの命を受けたコロンブスによってアメリカ大陸が発見され、スペインの革工芸品がアメリカに持ち込まれ、これによってさらに革技術が発展していった。革をなめす方法は、多くの地域で使用されたが、その後、ヨーロッパやアメリカなどで、かしわの木の皮からタンニンを効率的に取る方法 が発見され、18世紀から19世紀にかけて巻き起こった産業革命の波は革産業にも及び、1858年には、鉄、アルミニウム、クロムなどの金属を主とした薬品によるなめし方法、クロームなめしの発明が相次ぎ、量産を可能とする皮革工業の礎となった。
18世紀にはラッコの毛皮が流行し、最高級品として高値で取引された。ロシア人はこれを求めて極東のカムチャツカ半島、さらにはアラスカまで進出し、毛皮業者に巨万の富をもたらしたが、乱獲により、20世紀初頭にはラッコは絶滅寸前まで減少した。
現在の標準和名「ラッコ」は、近世の日本における標準的な本草学名に由来し、さらにそれはアイヌ語で本種を意味する "rakko" にまで起源を辿れるという。
日本では平安時代の延喜5年(905年)、交易品として都に運ばれているが、醍醐天皇が、年料別貢雑物として、諸国の司に民部省に差し出すよう命じているものの中にどんな獣皮があるかを『延喜式』巻二十三「民部下」交易雑物の条(※6参照)に見ると、牛皮・馬皮・鹿皮・猪皮・狸皮のほか、陸奥国からは、「葦鹿皮、獨犴皮」を、出羽國からは「熊皮・葦鹿皮・獨犴皮」を交易品の租税として徴収したことが記されている。
Wikipediaでは、この中の“「獨犴」が「ラッコ」を指すのではないかと言われている。ただ、陸奥国で獲れたのか、北海道方面から得たのかは不明である。”・・・としているが、以下参考の※7:「昆布考」では、“独犴(どっかん)皮をアイヌ語のトッカリの転化でアザラシのこと”としている。しかし、「独犴」に「ヱゾイヌ」を充てているところも見られるが、以下参考の※8:「皮革利用史の研究動向」では、“「独犴」については北方犬種説、ラッコ説、アザラシ説などがあり、いまだ議論がたえない”と諸説あるようだが、以下のことなどから私は、ラッコではないかと言う気がする。
「葦鹿皮」は、※7:「昆布考」でもアシカ(海驢)の皮としており、これは、Wikipediaでも「アシカ」の語源は「葦鹿」で「葦(アシ)の生えているところにいるシカ」の意味であったとしている。しかし、以下参考の※9:「天理大学 : 都にやってきたアザラシたち−古代日本の海獣皮の利用」では、”正倉院宝物に奈良時代の馬具十数点があるが、そのなかにアザラシ皮でつくられた韉(したぐら)があり、調査の結果、二点の韉の切付にアザラシの毛皮が使用されていることが確認されたという。・・・奈良時代の史料に、今のところアザラシは見出せないが、平安時代の『西宮記』は下鞍(韉)について豹は公卿、虎は四位五位葦鹿は六位と、六位のは葦鹿皮としている。1141年(保延7年、永治元年)の大嘗会の御禊でも、五位は虎皮切付、六位は葦鹿切付である。葦鹿皮の初見は平安初期の807年(大同2年)に葦鹿皮の使用が贅沢として禁止されたことで、当時、羆皮等と共に装飾用に都で使われていたことがわかる。『倭名類聚抄』には「葦鹿 和名阿之加」とありアシカと発音していた。『延喜式』では陸奥国と出羽国が税米で購入し都に進上すべき物に葦鹿皮が登場する。平安後期の和歌には「わが恋は あしかをねらふ えぞ舟の よりみよらずみ 波間をぞまつ」とあり、葦鹿は蝦夷の海の生物という認識が都の貴族たちにあったことがわかる。・・・と言っている。
又、以下参考の※13:「えみし」の「交易の視点よりみた「えみし」社会の紐帯」では、“葦鹿皮は、アシカ科の海獣であることは疑いないが、アシカは、北太平洋に広く分布するものの、現在、日本近海では、主として千島列島を生息地としており、綿毛をもたないことから毛皮としての価値はないとされる。これに対して、同じアシカ科のオットセイは、ビロード状の美しい綿毛をもち、歴史的に貴重な毛皮獣とされてきた。こうしたことから、古代史上の葦鹿は、オットセイかアザラシとみなす見解があるが・・・・道南西部の内浦湾沿岸の遺跡では最も多く捕獲されていたのはオットセであるいオットセイである可能性のほうが高いと思う”としている。
先の「わが恋は あしかをねらふ」の歌の解説が、以下参考の※11:「道府県別 名所歌枕一」の蝦夷(北海道)のところにあるが、これは、「えぞ(蝦夷)」という語が用いられた最初期の例で、作者源仲正は、源三位頼政の父で、白河院の時代の人で下総守、下野守なども歴任している。平安時代後期には、和人と蝦夷の交易は盛んになっていたようだ。
蝦夷(えみし、えびす、えぞ)は、日本列島の東方、北方に住み、畿内の大和朝廷によって異族視されていた人々に対する呼称(賤視蔑称)であり、毛人と書き、ともに「えみし」と読んだ。
古くは「えみし」という呼称や綴りも、漢字では他に「夷」「狄」「蝦夷」などと宛字で綴られてきた。さらには「俘囚」「夷俘」「田夷」「山夷」などとも綴られた。
蝦夷についての形式上最も古い言及は、『日本書紀』神武東征(※12)記中に詠まれている来目歌(久米部が歌った歌)の一つに愛濔詩として登場する(※13)。
「愛濔詩烏 毘*利 毛毛那比苔 比苔破易陪廼毛 田牟伽毘毛勢儒」(訳:えみしを、1人で100人に当たる強い兵だと、人はいうけれど、抵抗もせず負けてしまった)。
※12による解釈では、「愛濔詩(えみし)」は美称にとれば「恵(愛)美(彌)子」で本来は「愛子」の意味だろうし、蔑称にとれば「蝦夷」だろう。歌の歌意は、詠う立場によって、討った側の歌、討たれた側の歌と、どちらを選ぶかによって解釈も違ってくるようだが、そのことは※11を見てもらうとして、毘*利(ひだり)は、古い倭語で「領地」、あるいは「(その領地の)統治者、王者」の意味があったと考えられ、「毛毛那比苔(ももなひと)」は通訓の「百那人」だから、「毘*利 毛毛那比苔」は「百国の王者」また「大王」のことだろうという。
そもそも、記紀は、紀元8世紀初頭に著された日本最古の歴史書である。両書は、諸豪族の統一にようやく成功した大和朝廷が、その統治を正当化するために編纂させた官選の歴史書である。当時はまだまだ、多くの有力豪族が各地に割拠していた。
神武が忍坂(コトバンク参照)の地まで来ると、待ち構えていた土雲のヤソタケル(=八十建=数多くの猛者)を奇策を用いて破り、その後、大和平定の神武の最後の戦いはニギハヤヒ(饒速日命)との戦いになるが、この戦いは、実際は、ニギハヤヒの家来のナガスネヒコが直接の相手になる。しかし、突然ニギハヤヒがあらわれ、ナガスネヒコを自ら斬り殺し、あっさりと神武に帰順し、神武に支配権を譲っている。このくだりはいかにも象徴的な、まるで「出来レース」のようである。
しかし、この来目歌がどの程度史実を反映するものか、またここで登場する「えみし」が後の「蝦夷」を意味するかどうかも判然としないため、古い時代の蝦夷の民族的性格や居住範囲については諸説があり確かなことはわかっていないが、以下参考に記載の※14:「1413夜『蝦(えみし)夷』高橋崇|松岡正剛の千夜千冊」では、「えみし」の始まりについての詳しい考察がされているが、中で、以下のようなことが書かれている。
“3世紀から6世紀にかけて日本列島の北部、当時の東北地域の生活の下敷きになっていたのは、三内丸山遺跡で知られるような縄文文化であったが、この地では稲作が行なわれ、それが北上し、驚くべきスピードで津軽平野まで届いていた。「北の稲」の発端だ。ところが何故か、その後、東北北部(青森・岩手・秋田)の水田跡が激減していった。
この時期、北海道の道央(石狩低地帯)で生まれた続縄文文化が東北北部に降り、青森、岩手、宮城、秋田へと南下し栄えていた。和習(わじゅう)というべきか。これら続縄文文化は狩猟と採集と漁労による生活、および土器・土壙墓(どこうぼ)・黒曜石石器の使用などを特色としていた。他方、それとともに東北には南方のヤマト(大和)文化、つまりは「倭国文化」「倭人文化」が次々に浸透していった。加えてここに北海道からオホーツク型の擦文文化が入りこんで、東北から北海道への東北的擦文の逆波及もおこり、7世紀にはこれらがすっかり混成していった。稲作はごく初期にいったんは東北一帯から津軽にも伝わり、それが古代蝦夷の時代になぜか途絶え、その後にふたたびヤマト政権文化の北上とともに復活していったのである。ともかくも、こうして東北各地に拠点集落ができていった。そして、北海道の続縄文期後半や本州島東北部の弥生時代後期∼8 世紀には、この地方で、石器による皮革加工が行われていることが明らかになっているという。
このような背景のなか、列島南北の生活文化や技能文化をさまざまに習合しつつ、6世紀末までに続縄文文化の痕跡が消えていくのに代わるように、ここに「蝦夷」(えみし)が形成されていった。この「蝦夷」とは、ヤマト政権が東北北部の続縄文文化を基層とする集団、新潟県北部の集団、北海道を含む北方文化圏の集団などを乱暴にまとめて「蝦夷」と一括してしまった種族概念であった。つまりは「まつろわぬ者たち」という位置づけで総称された地域であり、そういう「負の住民たち」のことだった。
『古事記』景行天皇紀にははやくも、東方十二道に「荒夫流神、及び麻都楼波奴人」がいるなどと記されている。荒夫流神は「あらぶる神」、麻都楼波奴人は「まつろわぬ人」と読む。初期ヤマト朝廷はそのような“まつろわぬ蝦夷たち”がたいそう気掛かりだったのだ。
それはまた、『宋書』東夷伝の有名な「倭王武の(上表文」の中に、「昔より祖彌(そでい=父祖)、躬(みずから)甲冑を擂(つらぬ)き山川を跋渉し、寧処に遑(いとま)あらず、東は毛人(えみし)を征すること五十五国、西は衆夷を服すること六十六国、渡りて海北を平ぐること九十五国」と誇らしげに綴っていることに暗示されているように、王権はこうした“まつろわぬもの”を服属させているという自負のあらわれでもあった。このときの倭王武とは大王ワカタケルで、雄略天皇だったろう.。“・・と。
この記述を見ても478年(順帝昇明2年)あたりには既に蝦夷の存在と、その統治が進んでいた様子を窺い知ることが出来る。
日本武尊以降、上毛野氏の複数の人物が蝦夷を征討したとされているが、これは毛野氏が古くから蝦夷に対して影響力を持っていたことを示していると推定されている。
蝦夷の居住範囲は、時代によりその範囲が変化しているが、飛鳥時代(7世紀)頃には、蝦夷は現在の宮城県中部から山形県以北の東北地方と、北海道の大部分に及ぶ広範囲に住んでいたと推測される。斉明天皇4年(658年)の阿倍比羅夫の蝦夷征討以降、大和政権が支配領域を北に拡大するにつれて、しばしば防衛のために戦い、反乱を起こしているが、朝廷側は大軍で繰り返し遠征し、最後には、平安時代の武官・征夷大将軍坂上田村麻呂が胆沢城と志波城を築いて征服した。朝廷側の支配に服した蝦夷は、俘囚と呼ばれた。かれら大和へ帰服した蝦夷男女が集団で強制移住させられたが、移住先は九州までの全国に及ぶという。俘囚は、のちに、えみしの異名にもなっていく。蝦夷は平時には交易を行い、昆布・馬・毛皮・羽根などの特産物を和人にもたらし、代わりに米・布・鉄を得た。
日本においては、古くより、東北地方・北海道などの狩猟者集団マタギなど猟師が捕獲して加工した毛皮が細々と流通していた模様ではあるが、獣皮は衣料素材としてはあまり積極的に使われておらず、猟師などが捕まえて加工して自ら使用する防寒着のほかは、豪奢な装飾用の敷物や工芸用の素材の方に利用されたことは、先に述べた『延喜式』(弾正台)にも見られるとおりであり、それは、毛皮の保有とその着装が対内的にはもちろんのこと、対外的にも渤海・奥州に通じる権力を誇示する政治的意味合いをもっていたことを示しているからであろう。
冒頭掲載の画像は、舟木本『洛中洛外図』のなかの皮細工職人である(東京国立博物館蔵。週間朝日百科『日本の歴史』24より)。
そうした、技術の担い手としての多彩で多様な職人が中世後期に現れてくるが、そうした彼らの姿を鮮やかに示してくれるのがいわゆる「職人歌合」などである。 室町末期の『七十一番職人歌合』に登場する職人たちの姿を見るとj15世紀の『三十二番職人歌合』と比べて実に多彩な職人の登場が見られる。こうした職人たちの生き生きとした姿を「洛中洛外図屏風」の世界においても見出すことが出来るので、少なくとも畿内近国では、ポピュラーな姿だったようだ。例えば工匠の場合は、15世紀の後半、鋳物師の場合は16世紀になると地域を特定して職人の営業範囲とするようになる。そこには道具の強度の進歩や新しい道具・技術の出現があったようだ。
『七十一番職人歌合』に,獣皮関連のこととして、十番:馬買はふ(うまかはふ) 皮買はふ(かわかはふ)。三十六番:穢(ゑた)「この皮は大まいかな」が出てくるが、この「大まい」は、「大枚を叩く」と言う言葉もあるように、金額の大きいことを言っているので、この皮は、高額なのだろう・・・といった意味か。『七十一番職人歌合』の十番、三十六番のことは、以下参考の※15:「中世職能民職種一覧」で解説されているので参照されたい。
いずれにしても、社会的分業の展開の中で、農民と農村経営の発展に照応するかたで、地域=在職の職人が生まれていき、皮革の生産、商売に携るものは、「かわた」と呼ばれるようになり、『慶長播磨国図』(天理図書館蔵)には「かわた」が48ヶ所も、慶長10年(1605年)より少し後のものと推定される「摂津国図」(西宮市立図書館蔵)にも「皮田」「皮多」「川田村」「河原村」「カワラ村」が七ヶ所記載されており、このように少なくとも近畿地方ではかわたが集落として把握され、特定の地域に集住させられていたようである。戦国時代が終わり、豊臣政権で実施された太閤検地の検地帳ではこの「かわた」が、武士、商人、農民などとは別に一般的な肩書きとして用いられている。
最後になったが、Wikipediaによれば、毛皮を一般向けに販売する専門店としては、現在は横浜市元町に店を構える山岡毛皮店(日光市鉢石町にて1868年創業)が、日本で初めての毛皮専門店とみられるそうである。
なお、皇太子明仁親王(当時)・正田美智子(当時)の婚約の折、正田側が実家を出る折に身に着けていたミンクのストールが当時のテレビで大々的に放映された。
上掲の画像が、ご両親と共に天皇、皇后両陛下へのご挨拶に向かわれる美知子さん(1958年11月27日。アサヒクロニクル『週間20世紀』1958年号より)。
ミッチー・ブームにのって、ミンクのストールも注目され、おりしも日本は岩戸景気で大衆もが豊かさを実感し享受する時代に突入ていたことから、このような毛皮が、従来は一部の権力者や有力者だけの贅沢品から、一気に一般労働者層でも頑張れば手が届く、高価で贅沢だが一般的な装飾的意味合いの強い衣料品にまでなった。
しかし、現代では動物愛護や動物の権利意識の高まりから毛皮の利用に対して国際的な反対運動が展開されており、特に寒冷地等で「必需品」として利用するのではなく「贅沢品」として利用する事には強い嫌悪感を持つ人も多いと言われる。
なめしてある皮革についても、20世紀以降では人工的に作られた人造皮革(商標名クラレの「クラリーノ」東レの「エクセーヌ」など)があり、天然皮革と異なり、水に濡れたりしても手入れが簡便であり、安価で品質も均一であることなどから普及している。しかし、天然皮革に比して劣化が早い傾向があり、天然皮革の靴や服のように自分の体に合ってくるということは少ないので、やはり、これらには、天然皮革のものを愛好している人が多くいる。
尚、我が地元兵庫県の姫路市の地場産業には、皮革があり、姫路白なめし革細工は、県の伝統工芸品に指定されている。
姫路白鞣革は古くは越靼(こしなめし)、古志靼、播州靼あるいは姫路鞣ともいわれてきたが、その製革技術の始まりについては、地元では最もよく知られているもので神功皇后の三韓征伐の折の捕虜で熟皮術に長けるものがあり、丹波の円山川で試み、南下して市川で成功し、村人にその技術を伝えたものという朝鮮伝来説や、同時代の出雲国古志村由来伝説などもあるなど、相当古くから伝承されているものだそうだ。以下参考の※16:「電子じばさん館:皮革」では、皮革のこと全般についてくわしく書かれているので興味のある方は覗いて見られると良い。
いいレザーの日:参考へ