今日11月8日の記念日「信楽たぬきの日」は、全国の店先などで愛嬌よく商売繁盛に頑張っている信楽焼の狸の記念日である。
信楽焼で有名な滋賀県甲賀市信楽町の信楽町観光協会では、2008(平成20)年に、11月8日を「たぬき休むでぇ〜」と記念日 登録し、日頃の信楽狸の労をねぎらい、狸が休んでいる間に、狸以外の信楽のいいところにも目をむけようと「ほっとするたぬきの休日」事業を続けてきていたが、5年目を迎えた今年(2012年)、よりイメージアップを図ることを目的に「信楽たぬきの日」と名称を変更したものだそうだ。
日付は1と1が重なるいちばん良い月の11月と、信楽焼の狸の特徴である八つの縁起物の八相縁起から8日を組み合わせたものだという。
今、信楽と言えば、一般的には信楽焼の狸の置物で知られているが、信楽は朝鮮文化の影響を受けて、日本文化の中心として栄えてきた近畿地方の中心にあり、古代の主要道となっていたことや付近の丘陵から焼物に適した良質の陶土がでる土地柄であり、当時の天皇が宮を造営するには理想的な土地でもあった。
そのようなことから、長い歴史と文化、伝統的な技術によって今日に伝えられている信楽焼は、742(天平14)年、聖武天皇の紫香楽宮造営の折に、瓦や須恵器を焼いたのが起源と云われているが、本格的に始まったのはやはり、平安末期から鎌倉初期であろうと言われている。信楽陶窯(陶磁器を焼くかま)の、窯址で発見された種壷などの日用雑記類は、ほぼ鎌倉末期から室町初期の遺品と考えられている。
生産は農家向けの壷や甕(かめ)、擂鉢(すりばち)などの日用雑貨が中心であった。それだけに気取らず仕事も丁寧であった。
茶人・村田珠光がこの“無作為の美“に目をつけ茶道に取り上げて珍重した(※1)。こうして桃山時代、農家の片隅に転がっていた信楽の各種の壷が脚光を浴びた。
種壷や茶壷が「蹲(うずくまる)」と呼ばれて花生に、油壷や酒器が花入れに、糸をつむぐ桛(かせ)を入れた苧桶(おおけ。※2参照)が「鬼桶」といわれて水指に・・といった具合であった。
上掲の画像はコレクションの酒器より古信楽の徳利。中に少し、酒が滲みて茶色く変色した景色が見える。
素朴さのなかに、日本人の風情を表現したものとして室町・安土桃山時代(戦国時代末期)に茶道が盛んになるに従い、多くの茶人が信楽を用いた。
一休和尚に師事した武野招鷗も信楽製を茶器に使い、弟子の千利休も好みを陶工に焼かせた。武野紹鴎が作らせた物は紹鴎信楽、千利休が作らせたものは利休信楽と呼ばれている。
寛永(1624年から1645年)以降は、宗旦、小堀遠州、本阿弥光甫(本阿弥光悦の孫)、野々村仁清、有来新兵衛とそれぞれ信楽の焼物を茶器に利用した(『やきもの辞典』光芸出版編)。
このように、信楽は一旦茶道具の生産に踏み切ったが、信楽を愛した千利休の死(天正19年=1591年)後、需用が減った。
また、江戸時代、商業の発達にともない文化文政(1804-1830)の頃から、本来の日用雑貨作りに再び転進。登窯(窖窯〔あながま〕)によって、茶壷をはじめ多種多様な生活雑器を量産するようになった。
信楽焼は古くから特に茶壷で有名だが、これは古くからこの町にお茶が栽培されたので、技術的に優れたものがあったからである。江戸中期には、宇治から将軍家へ献上するお茶の茶壷を頼まれ、天下にその名を高めた。
しかし、山一つ隔てた伊賀焼では茶陶を中心に焼いていたが、信楽焼は生活雑器が主流となり、江戸後期には、ビードロ釉(松灰に長石を少量混合した釉で、青緑色あるいは黄色に呈色する)や、なまこ釉(二重に釉掛けする藍紫色を主体とする失透釉〔光沢はあるが透明でない釉薬〕)などのさまざまな釉薬が用いられるようになった。
明治時代には、新しく開発された「なまこ釉」を使った火鉢生産がはじまり、大正時代から第二次大戦前までは、熱に強く、保温性に優れた信楽焼の火鉢が人気となり主力商品となっていたが、現在では生活に根ざしたタイル・花器・食器・置物等、土の持つ味わいを生かした製品が作られている。中でも「狸」の置物は信楽の代名詞となるほど有名である。
信楽焼の特徴は、土中の鉄分が赤く発色する火色(緋色)や、登窯(窖窯〔あながま〕)窯のなかで炎の勢いにより器物に灰のふりかかる、灰かぶりの現象による自然降灰釉(ビードロ釉)の付着、また、薪の灰に埋まり黒褐色になる「焦げ」も含めた、炎が生み出す独特の焼き上がりにあるといわれている。
上掲の画像は、コレクションの茶壷と壷である。どちらもそう古いものではないし良い品ではないが信楽焼の特徴は見られる。
信楽の町へ行くとどこへ行っても出会うのが、狸の焼き物である。
この信楽焼狸の置物の歴史は比較的浅く、陶芸家で狸庵初代藤原銕造(てつぞう)氏が、昭和10年頃に作ったものが最初で、信楽タヌキの愛嬌のある顔や独特の体形は氏の作品の継承だそうだ。
1951(昭和26)年11月15日、昭和天皇が信楽町行幸の際、窯業試験場を訪問された。その際、沿道に小旗をもったたくさんの陶器製の信楽焼のタヌキを並べて歓迎されたことを天皇が大変お気に召され、その時の思い出を「をさなどき あつめしからになつかしも 信楽焼の狸をみれば」と詠んだ和歌がマスコミで報道され、それまでコツコツと作られていた信楽の狸が全国的に広がり、以来全国的に信楽ダヌキが大流行する切掛になったのだという(※3参照)。
上掲の画像は昭和天皇の近畿巡行。天皇は1951(昭和26)年11月11日〜25日まで京都、滋賀、奈良、三重の近畿4府県下を巡行された。写真は11月24日三重県賢島港でのもの。(アサヒクロニクル週刊20世紀1951年号より借用)
上掲はコレクションより土産物の7cmほどの小さな狸の飾り物。
編み笠を被り少し首をかしげながら右手に徳利、左手に通い通帳を持って突っ立っているなんとなく憎めない狸の置物の姿形は、いわゆる「酒買い小僧」型の豆狸(まめだ)が定番となっている。
雨がショボショボ降る晩に
豆狸が徳利もって酒買いに
酒屋の前で徳利割って
家いんでおかんに叱られて
おまん三つで泣きやんだ
これは、兵庫のわらべうたの中の手まり歌の一つ「豆狸の徳利」であり、神戸に住む私なども、女の子ではないが、子どもの頃には面白半分にこんな歌を歌っていた記憶がある。
この手まり歌は主に四国地方に分布するといわれ、近畿地方で広く歌われている歌であるが、前段の2節「雨がショボショボ降る晩に 豆狸が徳利もって酒買いに」までは同じでも、その後の歌詞は地域によっていろいろ違いがあるようだ(参考の※4 ※5 参照)。
神戸灘の造り酒屋では、酒蔵に豆狸が1〜2匹は住んでいないとおいしい酒がつくれないという話もあるようだが、それ程古い酒蔵は、古い伝統と経験がないとよい酒が造れないという例えのようである。
その清酒は慶長年間(1596年-1615年)に完成し、江戸初期から一般庶民の口に入るようになり、小僧が通い徳利(私のHP「よーさんの我楽多部屋」のCorectionRoom3酒器類の通い徳利参照)を持って酒を買いに行き、酒屋で樽から注いでもらいもって帰ったもので、代金は通い通帳に記入しておいてもらい後で支払ったものだ。酒買い小僧の狸の置物は、その姿をタヌキの置物にしたものである。
徳利または通帳に○に八のマークがあるのは、尾張徳川家の合印(あいいん)として用いられていたもの。
合印とは、他と区別するためのしるし。特に戦場で敵味方の区別をするために、兜(かぶと)や袖(そで)の一部につけた一定の標識であり、丸八印は尾張藩の略章(正式の家紋は葵巴紋)というべきもので、小使提灯、小者用の紋所、小荷駄などに使用されていた。
制定の経緯は定かではないようだが、「丸は無限に広がる力、また八は末広がりで発展を示す」というお目出度いマークであり、現在名古屋市の市章である(※6参照)。
それを、尾張知多半島にある常滑焼きで、○に八の紋を入れて造ったのが人気を博し、それを模して、狸の置物には○に八と意味も分からないまま造るようになったという説があるようだ。
現在、八相縁起と行って、笠は災難除け、腹は太っ腹、顔は愛想よく等々、8つの縁起があると言う意味での○に八と結びつけているが、これは、昭和天皇が信楽町行幸の翌・1952(昭和27)年に、当時名城大学の講師、をしていた石田豪澄が「信楽狸八相縁起」を詠んだことによるそうだ(※7:「おいでやす狸楽巣(りらくす)」 狸めぐり>滋賀県>信楽タヌキ参照)。
「信楽狸八相縁起」とはどんなことか?それは、滋賀県工業技術総合センター :: タヌキのページ
参照。
酒買い小僧といわれる(徳利と通帳を持ち、傘を冠っている)形の置物は、何も信楽のみならず、常滑や備前、清水などでも古くから焼かれている。
どの産地が最初であるか今のところ明かではないが、清酒が酒屋で売られるようになった江戸時代から、狸のやきものは造られていたようである。
当初の信楽タヌキの特徴は細身、長身、本物のタヌキを髣髴させる顔であった。それが現在のような親しみあるふっくらとしたデザインへと変っていった。
それは、信楽だけでなく何処の地域でも同様であろう。それに当初の信楽タヌキは、笠は別に造って焼き上げてからしゅろ縄でくくりつけて用いていたらしいが、のちに現代のもののように頭上から背中にかけて、生素地の内にくっつけて焼くようになている。
上掲の画像は、私のコレクションで備前焼のタヌキの徳利であるが、向かって左が昭和の作品。右の笠のない方が明治時代の作品である。どちらも笠は別作りのものを紐で括って被るように造られているが、右の方は笠を紛失したものである。
狸の置物は縁起物として喜ばれ、また、タヌキ(狸)が「他を抜く」に通じることからも商売繁盛と洒落て店の軒先に置かれることが多い。
今では狸の置物は、信楽焼の代名詞のような存在となり、信楽へのアクセス路線である信楽高原鐵道の車体には、タヌキのキャラクターが描かれている。
同鉄道は、昭和62年7月12日に、JR西日本旅客鉄道?信楽線が廃止され、その翌日より、第三セクター信楽高原鐵道信楽線として開業(運転開始)するようになった。
上掲の画像は、コレクションの信楽高原鉄道開業1周年記念乗車券(63・7・13日付印あり)である。焼物の町らしく陶器製の切符で、信楽狸の図案があるのも面白い。
タヌキ(狸/貍)は、哺乳綱・食肉目・イヌ科の動物である。
体重5〜8kg、体長50〜70?。体はずんぐりしていて、長胴短脚、尾は太くフサフサ、耳は丸くて小さい。毛は厚く、密生した下毛と荒く長い差し毛とがある。
習性としては、夜行性で、雑食。集団行動し、水辺近くの山林に住み、木の根元のうろ(樹洞)や岩穴、アナグマの放棄した巣穴などをねぐらとする。
日本およびユーラシア大陸の北、シベリアのアムール川より、南はベトナム北部までの間に分布するという。
タヌキ属には、タヌキ1種だけが知られているが、生息する地域によりわずかではあるが形態的違い(地理的変異)がみられ、6亜種に分類され、日本にはこのうち2亜種が生息し、本州、四国、九州および佐渡島に分布するものをホンドタヌキ(N. p. viverrinus)とよび、北海道のものをエゾタヌキ(N. p. albus)とよぶそうだ。このほかの亜種はすべて大陸に生息するという。
タヌキに冬眠の習性はないが、秋になると冬に備えて脂肪を蓄え、体重を50%ほども増加させる。タヌキのずんぐりしたイメージは、冬毛の長い上毛による部分も大きく、夏毛のタヌキは意外にスリムなのだそうだ。
タヌキは急に驚かされると仮死状態のようになることがある。完全な失神状態ではなく脳はある程度目覚めているため、一種の警戒状態の行動であろうといわれている。また、この状態からしばらくたつと起き出して逃げるので、古来「たぬき寝入り」とよばれて死にまね(擬死)とみられたり、キツネと同様に人を化かすという言い伝えのもとにもなっている。
タヌキは体形的に攻撃や逃走が不得手なため、長い間に、生存上有利であったこのような習性を身につけたものと考えられているようだ。
タヌキは人家近くの里山でもたびたび見かけられ、野生動物のなかで、もっとも人間とのつきあいが古いものの一種である。ケモノヘンに里と書く「狸」の文字が、そのことを物語っている。
狸(貍)は狐と共に人を誑(たぶら)かす妖獣の代名詞ともなっているが、狸は狐に比べて、なにか素朴で愛嬌があり、どこか憎めない印象を抱かせる。しかし、狸が滑稽な動物とされたのは近世中頃以降のことで、近世初期の狸は人に害をなす恐ろしいあやかし(妖)として描かれることが多い。
蔵本の『週刊朝日百科日本の歴史71・近世1−5動物たちの日本史)』を見ていると以下のようなことが書いてあった。
狸の怪異は『宇治拾遺集』に始まる。その巻八-六”猟師仏を射る事”で、狸は普賢菩薩に化けて現れ、猟師の矢に射られて命を落とす(※8参照)。
ただし、この狸の日本語読みは不明である。そして、興味深いことに、『今昔物語集』巻ニ十第十三話は、これと全く同形の説話であり、ただ狸の役割を今昔物語集は野猪が演じている(※9参照)。
『古今著聞集』六百六話においては、水無瀬山(現在の地名としては大阪府三島郡島本町北西の山を水無瀬山と呼ぶそうだが、名所歌枕 としての水無瀬山は、”水無瀬の地より見える山々”といった程度の意味だろう)の奥の古池のなかに光が現れ、岸の松の木との間を飛び移り、たびたび人をとらえては、池に引きずりこむ。
そこで、源仲俊(源仲国〔宇多源氏・源仲章の兄〕の子といわれる)がその正体を見届けると、老婆の姿をしていた。さらにそれを刺し殺すと、狸になった(六百六話とあるのは実際には603段 “薩摩守仲俊、水無瀬池にて変化を捕縛する事”の誤りであろう。※10参照)。
この狸はたぬきと訓じられているが、空中飛翔と池中の行動を見ると、どうもタヌキらしくない。
ちなみに、『類聚名義鈔』(十二世紀)で、狸・貍の読みは、タヌキ、イタチ、野ネコ等、又、『覚禅鈔』(覚禅、千二百年頃※11参照)西南院本(高野山西南院本)の貍(訓はたぬき)は、動物学者・池田啓氏によれば、中国のジャコウネコ科の一種に近いという。中国では、貍はヤマネコ、ジャコウネコなど中型のネコ的野生動物の漫然たる総称だったようである(※0012参照)。
そして、貍は『捜神記』(干宝、四世紀)以来、キツネとともに大いに怪異を発揮してきた。これが日本人の知識人に影響をあたえ、彼らは中国の貍に相当する山の動物に日本においても想定したのではないか。
かくて、タヌキ、イタチ、テン、アナグマ、ムササビ、小イノシシ及び野生化した飼いネコなどが貍(タヌキ)の概念に曖昧に包括されたのだと思われる。
ネコマタ(猫又、猫股)もまた、貍イメージの一構成要素だったのだろう。それならば、貍の怪とネコマタの出現の時代がほぼ一致するのも理解できる。
こう考えると『鳥獣人物戯画』甲巻のネコ的動物は、実は当時における貍の一つの解釈だったのかも知れない・・・と。
上掲の画像向かって左は『鳥獣人物画』甲巻に描かれたネコマタ。左端近くの烏帽子を被り扇を持った猫的動物がそれ。自分の尻尾を抱えているが、この動作は同じ甲巻の他の場面でキツネについても描かれており(右画参照)、怪異性を示唆するのかもしれない。古代末期から中世にかけて出現したネコタマあるいはキツネの怪が、ここに現れているのではないか。
中国で狸とは、ヤマネコやジャコウネコなど野生のネコ的動物を意味していたが、ネコマタはその日本版であるといえよう。
日本では『日本霊異記』の写本に「狸」にネコと訓ずる例があり、江戸時代になっても、たとえば『狂歌百物語』のネコマタは「狸」と表記される。
中国では、タヌキのことを古くから「貉(狢。ムジナ)」と表記しており、現在でもタヌキの動物学的標準名は貉となっているそうだ(※13)。
ムジナ(貉、狢)とは、主にアナグマのことを指す。地方によってはタヌキやハクビシンを指したり、これらの種をはっきり区別することなくまとめて指している場合もある。
日本の民話では、ムジナはキツネやタヌキと並び、人をばかす妖怪として描かれることが多い。
ことわざの「同じ穴のムジナ」とは、”一見違っているように見えるが、実は同類である”と言うことのたとえ。主に悪い意味で用いられることが多い。迷信では、ムジナが「(人間を化かすとされる)タヌキと同じ穴で生活する習性をもつこと」に由来していると思われる。
日本では「狸・貍」は「ねこ」「むじな」「あなぐま」「きつね」等と同一視され、混同され、あるいは入れ替えられていたようだが、古来、農耕民族である日本人に、中型の獣は皆同じように見えたらしい。特に種の違いを厳密に区別する必要はなかったから、呼び名すら統一されなかったのだろう。
「狸」表記のケモノの怪異譚は前にも書いた通り、鎌倉時代の『宇治拾遺物語』『古今著聞集』で増え始め、室町後期の日記や絵巻物になると「狸」が人や鬼に化けたという話になる。
これ以後「狸」はおおむねタヌキに統一されたと考えられるが、「むじな」「まみ」とも呼ばれアナグマとはほとんど区別されなかった。大正時代にたぬき・むじな事件さえ起こっている。「むじな」は東日本に、「たぬき」は西日本に多い呼称らしい。
狸がなにをさすかはさておき、キツネとタヌキの怪異は、全国的に多いが、全国分布をみると、はっきりとした特徴があり、キツネは東日本、タヌキは西日本に多いようだ(参考※14の第51回 キツネとタヌキ参照)。
化け物としての狸、つまり、化け狸の伝説は、新潟県の佐渡島や四国に多く、中でも佐渡の団三郎狸、阿波国(徳島県)の金長や六右衛門(阿波の狸合戦)、香川県の屋島の禿狸のように、特別な能力を持つタヌキたちには名前がつけられ、祭祀の対象にもなっている。
化け狸の話は、日本各地に伝わっている。しかし、タヌキの本場は何と言っても四国で、怪異といえば、原因はたいていタヌキの仕業である。全国的には八百八匹の眷属を従えていたとされている隠神刑部(刑部狸とも)などが知られる(日本各地の化け狸参照)。
「タヌキ寝入り」「タヌキ親爺」「捕らぬタヌキの皮算用」「タヌキの金玉八畳敷」などのことわざがあるし、コッケイな顔つきの人には「タヌキ」のアダ名をつける。
キツネとは違って、タヌキは人を化かすといいながら、何か憎めない、その図々しさにも逆に親しみさえ感じられるところが、日本人に愛されてきたところだろう。
ところで、「タヌキの金玉(きんたま)八畳敷」の諺の意味は知っていますか。
ここでいうきんたまは睾丸(こうがん)のことを行っているようであるが、実際は睾丸ではなく狸の陰嚢(いんのう) (金玉袋)の非常に大きいことをいう言葉であり、大きく広がった物のたとえである。
タヌキと言えば、信楽狸の巨大な陰嚢をもった意匠が思い浮かぶのではないか。信楽狸の大きな金袋は八相縁起では金運を表しているそうだ。
八畳敷きの由来は“タヌキの皮は耐久性に優れているため、金箔を作るときにタヌキの皮を利用したことに由来しているとも言われているそうだが・・・。
上掲の画像は狸の八畳敷『八笑人』(※15参照)。都立中央図書館蔵。
隅田堤(すみだづつみ。かつての東京・隅田川〔古隅田川〕の両岸。桜の名所であった)に屋形船を浮かべて酒宴を催し、狸噺子(たぬきばやし)を聞いていたと思ったら、屋形船は狸の八畳敷であったというばか話の図である。当画像は以下参考に記載の※16:滝亭鯉丈 編『花暦八笑人第五編』の13−7より借用している。
実際にはタヌキの金玉は小さく、人間の小指の先程しかないという。むしろ哺乳類の中でも小さい部類らしいのだが・・・。
タヌキが座ったときに、フサフサ大きなしっぽが股の間からおなか側へはみだしている様子が金玉に見間違えられたという説があるそうだ。
狸の妖怪豆狸(まめだ)は、西日本に伝承されているほか、江戸時代の奇談集『絵本百物語』にも記述がある。
広げると八畳もある陰嚢を持ち、関西以西に多く棲んでいたという。犬くらいの大きさで、通常の狸よりもずっと知能が高く、陰嚢に息を吹きかけることで大きく広げて部屋などの幻を人に見せたり、自ら陰嚢をかぶって別の者に化けたりしたという。
上掲の画像は竹原春泉画『絵本百物語』より「豆狸」(Wikipediaより)
とにかく、狸のことを書き始めるときりがないので、中途半端だが、もうこれくらいでやめよう。豆狸(まめだ)のことはここを見てください。
最後に、たぬきの金玉・・と言えば、私などのような戦前生まれのものは、子どもの頃に面白がって、以下のような歌を歌っていたものだ。
たんたんたぬきの ○○○○は
風もないのに ぶ〜らぶら・・・・
作者不詳のこの「たんたんたぬきの」の歌も地域によっていろいろと歌われていたようだ(詞や曲など参考※17参照)が、この歌は、賛美歌「まもなくかなたの」 の冒頭部分のメロディーが同じであることから、この賛美歌の替え歌としているところもあるらしいが、実際には、賛美歌「まもなくかなたの」の曲の一部を流用してつくられた「タバコやの娘」(作詞:園ひさし、作曲:鈴木静一)の替え歌だそうだ(※作詞の「薗ひさし」は、鈴木静一のペンネーム)。
「タバコやの娘」は1937(昭和12)年、コメディアン岸井明と童謡歌手から流行歌歌手に転向した平井英子の歌で大ヒットしていたそうだ。
当時盛んに作られたコミックソングまたはナンセンスソングと呼ばれるジャンルの曲であり、歌いやすく面白い。
この歌は、佐川ミツオと渡辺マリのデュエットによるカバー曲が以下で聞ける。この歌の元曲である賛美歌「まもなくかなたの」と比較して聴いてみるのも面白いのでは・・・。
まもなくかなたの 聖歌・賛美歌 - YouTube
煙草屋の娘 (佐川ミツオ, 渡辺マリ) - YouTube
参考:
※1表千家不審菴:茶人のことば:村田珠光「心の文」その1
http://www.omotesenke.jp/chanoyu/7_2_1a.html
※2:信楽鬼桶水指
http://story.turuta.jp/archives/6804/
※3:信楽地域情報
http://www.shigaraki-labo.co.jp/shigaraki/index.html
※4:詩誌『現代詩神戸』231号
http://homepage2.nifty.com/GOMAME/2010/05/100519.htm
※5:兵庫県のわらべ歌 - ODN(PDF)
http://www1.odn.ne.jp/~aar16910/imgs/warabeuta.pdf#search='%E5%85%B5%E5%BA%AB%E7%9C%8C%E3%81%AE%E3%82%8F%E3%82%89%E3%81%B9%E6%AD%8C'
※6:名古屋市:ご存じですか?八マーク(観光・イベント情報)
http://blog.livedoor.jp/zunousen007/archives/17258732.html
※7:おいでやす狸楽巣(りらくす)
http://www.katch.ne.jp/~msyk-tsj/index.html
※8:日本古典文学摘集宇治拾遺物語
http://www.koten.net/uji/
※9:ゐむら【豕羣】 | 情報言語学研究室
http://club.ap.teacup.com/hagi/234.html
※10:鈴なり星:古今著聞集ぶらぶら
http://xxxsuzunari88xxx.yamanoha.com/tyomonsyu.htm
※11:覚禅鈔
http://www002.upp.so-net.ne.jp/eigonji/gane/kakuzenshou.html
※12:s-ryooの語源随想『ねこ』の語源を考える(7)〜『たたけ』について
http://d.hatena.ne.jp/s-ryoo/?of=1
※13:埼玉県立自然史博物館 自然史だより 第20号 :貉(むじな)か狸(たぬき)か
http://www.kumagaya.or.jp/~sizensi/print/dayori/20/20_6.html
※14:国際日本文化研究センター | 怪異・妖怪伝承データベース
http://www.nichibun.ac.jp/youkaidb/ikai/
※15:私の古典(12)『花暦八笑人』
http://plus.harenet.ne.jp/~kida/topcontents/news/2010/121601/index.html
※16:花暦八笑人. 初,2-5編 / 滝亭鯉丈 編 ; 渓斎英泉,歌川国直 画 (古典籍総合データベース。早稲田大学)
http://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/he13/he13_03094/index.html
※17:作詞者不詳・曲=「たんたんたぬきの」聖歌687番(新聖歌475番) http://www.mahoroba.ne.jp/~gonbe007/hog/shouka/tantantanuki.html
狸の本・アラカルト狸
http://www.ztv.ne.jp/ann/ooatari/rink.htm
信楽焼の歴史
http://www.the-anagama.com/Ja/kanzaki_4/j_pot_history.html
京都大学 防災研究所( html )
http://cache.yahoofs.jp/search/cache?c=ZKTy0L2UREIJ&p=%E7%81%98%E3%81%AE%E9%80%A0%E3%82%8A%E9%85%92%E5%B1%8B++%E9%85%92%E8%94%B5+%E8%B1%86%E7%8B%B8&u=www.dpri.kyoto-u.ac.jp%2F%7Edptech%2Ftusin%2F94%2Finfo25.doc
滋賀県工業技術総合センター :: タヌキのページ
http://www.shiga-irc.go.jp/scri/shigaraki_info/%E3%82%BF%E3%83%8C%E3%82%AD%E3%81%AE%E3%83%9A%E3%83%BC%E3%82%B8/
信楽町観光協会
http://www.e-shigaraki.org/
信楽焼 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BF%A1%E6%A5%BD%E7%84%BC
信楽焼で有名な滋賀県甲賀市信楽町の信楽町観光協会では、2008(平成20)年に、11月8日を「たぬき休むでぇ〜」と記念日 登録し、日頃の信楽狸の労をねぎらい、狸が休んでいる間に、狸以外の信楽のいいところにも目をむけようと「ほっとするたぬきの休日」事業を続けてきていたが、5年目を迎えた今年(2012年)、よりイメージアップを図ることを目的に「信楽たぬきの日」と名称を変更したものだそうだ。
日付は1と1が重なるいちばん良い月の11月と、信楽焼の狸の特徴である八つの縁起物の八相縁起から8日を組み合わせたものだという。
今、信楽と言えば、一般的には信楽焼の狸の置物で知られているが、信楽は朝鮮文化の影響を受けて、日本文化の中心として栄えてきた近畿地方の中心にあり、古代の主要道となっていたことや付近の丘陵から焼物に適した良質の陶土がでる土地柄であり、当時の天皇が宮を造営するには理想的な土地でもあった。
そのようなことから、長い歴史と文化、伝統的な技術によって今日に伝えられている信楽焼は、742(天平14)年、聖武天皇の紫香楽宮造営の折に、瓦や須恵器を焼いたのが起源と云われているが、本格的に始まったのはやはり、平安末期から鎌倉初期であろうと言われている。信楽陶窯(陶磁器を焼くかま)の、窯址で発見された種壷などの日用雑記類は、ほぼ鎌倉末期から室町初期の遺品と考えられている。
生産は農家向けの壷や甕(かめ)、擂鉢(すりばち)などの日用雑貨が中心であった。それだけに気取らず仕事も丁寧であった。
茶人・村田珠光がこの“無作為の美“に目をつけ茶道に取り上げて珍重した(※1)。こうして桃山時代、農家の片隅に転がっていた信楽の各種の壷が脚光を浴びた。
種壷や茶壷が「蹲(うずくまる)」と呼ばれて花生に、油壷や酒器が花入れに、糸をつむぐ桛(かせ)を入れた苧桶(おおけ。※2参照)が「鬼桶」といわれて水指に・・といった具合であった。
上掲の画像はコレクションの酒器より古信楽の徳利。中に少し、酒が滲みて茶色く変色した景色が見える。
素朴さのなかに、日本人の風情を表現したものとして室町・安土桃山時代(戦国時代末期)に茶道が盛んになるに従い、多くの茶人が信楽を用いた。
一休和尚に師事した武野招鷗も信楽製を茶器に使い、弟子の千利休も好みを陶工に焼かせた。武野紹鴎が作らせた物は紹鴎信楽、千利休が作らせたものは利休信楽と呼ばれている。
寛永(1624年から1645年)以降は、宗旦、小堀遠州、本阿弥光甫(本阿弥光悦の孫)、野々村仁清、有来新兵衛とそれぞれ信楽の焼物を茶器に利用した(『やきもの辞典』光芸出版編)。
このように、信楽は一旦茶道具の生産に踏み切ったが、信楽を愛した千利休の死(天正19年=1591年)後、需用が減った。
また、江戸時代、商業の発達にともない文化文政(1804-1830)の頃から、本来の日用雑貨作りに再び転進。登窯(窖窯〔あながま〕)によって、茶壷をはじめ多種多様な生活雑器を量産するようになった。
信楽焼は古くから特に茶壷で有名だが、これは古くからこの町にお茶が栽培されたので、技術的に優れたものがあったからである。江戸中期には、宇治から将軍家へ献上するお茶の茶壷を頼まれ、天下にその名を高めた。
しかし、山一つ隔てた伊賀焼では茶陶を中心に焼いていたが、信楽焼は生活雑器が主流となり、江戸後期には、ビードロ釉(松灰に長石を少量混合した釉で、青緑色あるいは黄色に呈色する)や、なまこ釉(二重に釉掛けする藍紫色を主体とする失透釉〔光沢はあるが透明でない釉薬〕)などのさまざまな釉薬が用いられるようになった。
明治時代には、新しく開発された「なまこ釉」を使った火鉢生産がはじまり、大正時代から第二次大戦前までは、熱に強く、保温性に優れた信楽焼の火鉢が人気となり主力商品となっていたが、現在では生活に根ざしたタイル・花器・食器・置物等、土の持つ味わいを生かした製品が作られている。中でも「狸」の置物は信楽の代名詞となるほど有名である。
信楽焼の特徴は、土中の鉄分が赤く発色する火色(緋色)や、登窯(窖窯〔あながま〕)窯のなかで炎の勢いにより器物に灰のふりかかる、灰かぶりの現象による自然降灰釉(ビードロ釉)の付着、また、薪の灰に埋まり黒褐色になる「焦げ」も含めた、炎が生み出す独特の焼き上がりにあるといわれている。
上掲の画像は、コレクションの茶壷と壷である。どちらもそう古いものではないし良い品ではないが信楽焼の特徴は見られる。
信楽の町へ行くとどこへ行っても出会うのが、狸の焼き物である。
この信楽焼狸の置物の歴史は比較的浅く、陶芸家で狸庵初代藤原銕造(てつぞう)氏が、昭和10年頃に作ったものが最初で、信楽タヌキの愛嬌のある顔や独特の体形は氏の作品の継承だそうだ。
1951(昭和26)年11月15日、昭和天皇が信楽町行幸の際、窯業試験場を訪問された。その際、沿道に小旗をもったたくさんの陶器製の信楽焼のタヌキを並べて歓迎されたことを天皇が大変お気に召され、その時の思い出を「をさなどき あつめしからになつかしも 信楽焼の狸をみれば」と詠んだ和歌がマスコミで報道され、それまでコツコツと作られていた信楽の狸が全国的に広がり、以来全国的に信楽ダヌキが大流行する切掛になったのだという(※3参照)。
上掲の画像は昭和天皇の近畿巡行。天皇は1951(昭和26)年11月11日〜25日まで京都、滋賀、奈良、三重の近畿4府県下を巡行された。写真は11月24日三重県賢島港でのもの。(アサヒクロニクル週刊20世紀1951年号より借用)
上掲はコレクションより土産物の7cmほどの小さな狸の飾り物。
編み笠を被り少し首をかしげながら右手に徳利、左手に通い通帳を持って突っ立っているなんとなく憎めない狸の置物の姿形は、いわゆる「酒買い小僧」型の豆狸(まめだ)が定番となっている。
雨がショボショボ降る晩に
豆狸が徳利もって酒買いに
酒屋の前で徳利割って
家いんでおかんに叱られて
おまん三つで泣きやんだ
これは、兵庫のわらべうたの中の手まり歌の一つ「豆狸の徳利」であり、神戸に住む私なども、女の子ではないが、子どもの頃には面白半分にこんな歌を歌っていた記憶がある。
この手まり歌は主に四国地方に分布するといわれ、近畿地方で広く歌われている歌であるが、前段の2節「雨がショボショボ降る晩に 豆狸が徳利もって酒買いに」までは同じでも、その後の歌詞は地域によっていろいろ違いがあるようだ(参考の※4 ※5 参照)。
神戸灘の造り酒屋では、酒蔵に豆狸が1〜2匹は住んでいないとおいしい酒がつくれないという話もあるようだが、それ程古い酒蔵は、古い伝統と経験がないとよい酒が造れないという例えのようである。
その清酒は慶長年間(1596年-1615年)に完成し、江戸初期から一般庶民の口に入るようになり、小僧が通い徳利(私のHP「よーさんの我楽多部屋」のCorectionRoom3酒器類の通い徳利参照)を持って酒を買いに行き、酒屋で樽から注いでもらいもって帰ったもので、代金は通い通帳に記入しておいてもらい後で支払ったものだ。酒買い小僧の狸の置物は、その姿をタヌキの置物にしたものである。
徳利または通帳に○に八のマークがあるのは、尾張徳川家の合印(あいいん)として用いられていたもの。
合印とは、他と区別するためのしるし。特に戦場で敵味方の区別をするために、兜(かぶと)や袖(そで)の一部につけた一定の標識であり、丸八印は尾張藩の略章(正式の家紋は葵巴紋)というべきもので、小使提灯、小者用の紋所、小荷駄などに使用されていた。
制定の経緯は定かではないようだが、「丸は無限に広がる力、また八は末広がりで発展を示す」というお目出度いマークであり、現在名古屋市の市章である(※6参照)。
それを、尾張知多半島にある常滑焼きで、○に八の紋を入れて造ったのが人気を博し、それを模して、狸の置物には○に八と意味も分からないまま造るようになったという説があるようだ。
現在、八相縁起と行って、笠は災難除け、腹は太っ腹、顔は愛想よく等々、8つの縁起があると言う意味での○に八と結びつけているが、これは、昭和天皇が信楽町行幸の翌・1952(昭和27)年に、当時名城大学の講師、をしていた石田豪澄が「信楽狸八相縁起」を詠んだことによるそうだ(※7:「おいでやす狸楽巣(りらくす)」 狸めぐり>滋賀県>信楽タヌキ参照)。
「信楽狸八相縁起」とはどんなことか?それは、滋賀県工業技術総合センター :: タヌキのページ
参照。
酒買い小僧といわれる(徳利と通帳を持ち、傘を冠っている)形の置物は、何も信楽のみならず、常滑や備前、清水などでも古くから焼かれている。
どの産地が最初であるか今のところ明かではないが、清酒が酒屋で売られるようになった江戸時代から、狸のやきものは造られていたようである。
当初の信楽タヌキの特徴は細身、長身、本物のタヌキを髣髴させる顔であった。それが現在のような親しみあるふっくらとしたデザインへと変っていった。
それは、信楽だけでなく何処の地域でも同様であろう。それに当初の信楽タヌキは、笠は別に造って焼き上げてからしゅろ縄でくくりつけて用いていたらしいが、のちに現代のもののように頭上から背中にかけて、生素地の内にくっつけて焼くようになている。
上掲の画像は、私のコレクションで備前焼のタヌキの徳利であるが、向かって左が昭和の作品。右の笠のない方が明治時代の作品である。どちらも笠は別作りのものを紐で括って被るように造られているが、右の方は笠を紛失したものである。
狸の置物は縁起物として喜ばれ、また、タヌキ(狸)が「他を抜く」に通じることからも商売繁盛と洒落て店の軒先に置かれることが多い。
今では狸の置物は、信楽焼の代名詞のような存在となり、信楽へのアクセス路線である信楽高原鐵道の車体には、タヌキのキャラクターが描かれている。
同鉄道は、昭和62年7月12日に、JR西日本旅客鉄道?信楽線が廃止され、その翌日より、第三セクター信楽高原鐵道信楽線として開業(運転開始)するようになった。
上掲の画像は、コレクションの信楽高原鉄道開業1周年記念乗車券(63・7・13日付印あり)である。焼物の町らしく陶器製の切符で、信楽狸の図案があるのも面白い。
タヌキ(狸/貍)は、哺乳綱・食肉目・イヌ科の動物である。
体重5〜8kg、体長50〜70?。体はずんぐりしていて、長胴短脚、尾は太くフサフサ、耳は丸くて小さい。毛は厚く、密生した下毛と荒く長い差し毛とがある。
習性としては、夜行性で、雑食。集団行動し、水辺近くの山林に住み、木の根元のうろ(樹洞)や岩穴、アナグマの放棄した巣穴などをねぐらとする。
日本およびユーラシア大陸の北、シベリアのアムール川より、南はベトナム北部までの間に分布するという。
タヌキ属には、タヌキ1種だけが知られているが、生息する地域によりわずかではあるが形態的違い(地理的変異)がみられ、6亜種に分類され、日本にはこのうち2亜種が生息し、本州、四国、九州および佐渡島に分布するものをホンドタヌキ(N. p. viverrinus)とよび、北海道のものをエゾタヌキ(N. p. albus)とよぶそうだ。このほかの亜種はすべて大陸に生息するという。
タヌキに冬眠の習性はないが、秋になると冬に備えて脂肪を蓄え、体重を50%ほども増加させる。タヌキのずんぐりしたイメージは、冬毛の長い上毛による部分も大きく、夏毛のタヌキは意外にスリムなのだそうだ。
タヌキは急に驚かされると仮死状態のようになることがある。完全な失神状態ではなく脳はある程度目覚めているため、一種の警戒状態の行動であろうといわれている。また、この状態からしばらくたつと起き出して逃げるので、古来「たぬき寝入り」とよばれて死にまね(擬死)とみられたり、キツネと同様に人を化かすという言い伝えのもとにもなっている。
タヌキは体形的に攻撃や逃走が不得手なため、長い間に、生存上有利であったこのような習性を身につけたものと考えられているようだ。
タヌキは人家近くの里山でもたびたび見かけられ、野生動物のなかで、もっとも人間とのつきあいが古いものの一種である。ケモノヘンに里と書く「狸」の文字が、そのことを物語っている。
狸(貍)は狐と共に人を誑(たぶら)かす妖獣の代名詞ともなっているが、狸は狐に比べて、なにか素朴で愛嬌があり、どこか憎めない印象を抱かせる。しかし、狸が滑稽な動物とされたのは近世中頃以降のことで、近世初期の狸は人に害をなす恐ろしいあやかし(妖)として描かれることが多い。
蔵本の『週刊朝日百科日本の歴史71・近世1−5動物たちの日本史)』を見ていると以下のようなことが書いてあった。
狸の怪異は『宇治拾遺集』に始まる。その巻八-六”猟師仏を射る事”で、狸は普賢菩薩に化けて現れ、猟師の矢に射られて命を落とす(※8参照)。
ただし、この狸の日本語読みは不明である。そして、興味深いことに、『今昔物語集』巻ニ十第十三話は、これと全く同形の説話であり、ただ狸の役割を今昔物語集は野猪が演じている(※9参照)。
『古今著聞集』六百六話においては、水無瀬山(現在の地名としては大阪府三島郡島本町北西の山を水無瀬山と呼ぶそうだが、名所歌枕 としての水無瀬山は、”水無瀬の地より見える山々”といった程度の意味だろう)の奥の古池のなかに光が現れ、岸の松の木との間を飛び移り、たびたび人をとらえては、池に引きずりこむ。
そこで、源仲俊(源仲国〔宇多源氏・源仲章の兄〕の子といわれる)がその正体を見届けると、老婆の姿をしていた。さらにそれを刺し殺すと、狸になった(六百六話とあるのは実際には603段 “薩摩守仲俊、水無瀬池にて変化を捕縛する事”の誤りであろう。※10参照)。
この狸はたぬきと訓じられているが、空中飛翔と池中の行動を見ると、どうもタヌキらしくない。
ちなみに、『類聚名義鈔』(十二世紀)で、狸・貍の読みは、タヌキ、イタチ、野ネコ等、又、『覚禅鈔』(覚禅、千二百年頃※11参照)西南院本(高野山西南院本)の貍(訓はたぬき)は、動物学者・池田啓氏によれば、中国のジャコウネコ科の一種に近いという。中国では、貍はヤマネコ、ジャコウネコなど中型のネコ的野生動物の漫然たる総称だったようである(※0012参照)。
そして、貍は『捜神記』(干宝、四世紀)以来、キツネとともに大いに怪異を発揮してきた。これが日本人の知識人に影響をあたえ、彼らは中国の貍に相当する山の動物に日本においても想定したのではないか。
かくて、タヌキ、イタチ、テン、アナグマ、ムササビ、小イノシシ及び野生化した飼いネコなどが貍(タヌキ)の概念に曖昧に包括されたのだと思われる。
ネコマタ(猫又、猫股)もまた、貍イメージの一構成要素だったのだろう。それならば、貍の怪とネコマタの出現の時代がほぼ一致するのも理解できる。
こう考えると『鳥獣人物戯画』甲巻のネコ的動物は、実は当時における貍の一つの解釈だったのかも知れない・・・と。
上掲の画像向かって左は『鳥獣人物画』甲巻に描かれたネコマタ。左端近くの烏帽子を被り扇を持った猫的動物がそれ。自分の尻尾を抱えているが、この動作は同じ甲巻の他の場面でキツネについても描かれており(右画参照)、怪異性を示唆するのかもしれない。古代末期から中世にかけて出現したネコタマあるいはキツネの怪が、ここに現れているのではないか。
中国で狸とは、ヤマネコやジャコウネコなど野生のネコ的動物を意味していたが、ネコマタはその日本版であるといえよう。
日本では『日本霊異記』の写本に「狸」にネコと訓ずる例があり、江戸時代になっても、たとえば『狂歌百物語』のネコマタは「狸」と表記される。
中国では、タヌキのことを古くから「貉(狢。ムジナ)」と表記しており、現在でもタヌキの動物学的標準名は貉となっているそうだ(※13)。
ムジナ(貉、狢)とは、主にアナグマのことを指す。地方によってはタヌキやハクビシンを指したり、これらの種をはっきり区別することなくまとめて指している場合もある。
日本の民話では、ムジナはキツネやタヌキと並び、人をばかす妖怪として描かれることが多い。
ことわざの「同じ穴のムジナ」とは、”一見違っているように見えるが、実は同類である”と言うことのたとえ。主に悪い意味で用いられることが多い。迷信では、ムジナが「(人間を化かすとされる)タヌキと同じ穴で生活する習性をもつこと」に由来していると思われる。
日本では「狸・貍」は「ねこ」「むじな」「あなぐま」「きつね」等と同一視され、混同され、あるいは入れ替えられていたようだが、古来、農耕民族である日本人に、中型の獣は皆同じように見えたらしい。特に種の違いを厳密に区別する必要はなかったから、呼び名すら統一されなかったのだろう。
「狸」表記のケモノの怪異譚は前にも書いた通り、鎌倉時代の『宇治拾遺物語』『古今著聞集』で増え始め、室町後期の日記や絵巻物になると「狸」が人や鬼に化けたという話になる。
これ以後「狸」はおおむねタヌキに統一されたと考えられるが、「むじな」「まみ」とも呼ばれアナグマとはほとんど区別されなかった。大正時代にたぬき・むじな事件さえ起こっている。「むじな」は東日本に、「たぬき」は西日本に多い呼称らしい。
狸がなにをさすかはさておき、キツネとタヌキの怪異は、全国的に多いが、全国分布をみると、はっきりとした特徴があり、キツネは東日本、タヌキは西日本に多いようだ(参考※14の第51回 キツネとタヌキ参照)。
化け物としての狸、つまり、化け狸の伝説は、新潟県の佐渡島や四国に多く、中でも佐渡の団三郎狸、阿波国(徳島県)の金長や六右衛門(阿波の狸合戦)、香川県の屋島の禿狸のように、特別な能力を持つタヌキたちには名前がつけられ、祭祀の対象にもなっている。
化け狸の話は、日本各地に伝わっている。しかし、タヌキの本場は何と言っても四国で、怪異といえば、原因はたいていタヌキの仕業である。全国的には八百八匹の眷属を従えていたとされている隠神刑部(刑部狸とも)などが知られる(日本各地の化け狸参照)。
「タヌキ寝入り」「タヌキ親爺」「捕らぬタヌキの皮算用」「タヌキの金玉八畳敷」などのことわざがあるし、コッケイな顔つきの人には「タヌキ」のアダ名をつける。
キツネとは違って、タヌキは人を化かすといいながら、何か憎めない、その図々しさにも逆に親しみさえ感じられるところが、日本人に愛されてきたところだろう。
ところで、「タヌキの金玉(きんたま)八畳敷」の諺の意味は知っていますか。
ここでいうきんたまは睾丸(こうがん)のことを行っているようであるが、実際は睾丸ではなく狸の陰嚢(いんのう) (金玉袋)の非常に大きいことをいう言葉であり、大きく広がった物のたとえである。
タヌキと言えば、信楽狸の巨大な陰嚢をもった意匠が思い浮かぶのではないか。信楽狸の大きな金袋は八相縁起では金運を表しているそうだ。
八畳敷きの由来は“タヌキの皮は耐久性に優れているため、金箔を作るときにタヌキの皮を利用したことに由来しているとも言われているそうだが・・・。
上掲の画像は狸の八畳敷『八笑人』(※15参照)。都立中央図書館蔵。
隅田堤(すみだづつみ。かつての東京・隅田川〔古隅田川〕の両岸。桜の名所であった)に屋形船を浮かべて酒宴を催し、狸噺子(たぬきばやし)を聞いていたと思ったら、屋形船は狸の八畳敷であったというばか話の図である。当画像は以下参考に記載の※16:滝亭鯉丈 編『花暦八笑人第五編』の13−7より借用している。
実際にはタヌキの金玉は小さく、人間の小指の先程しかないという。むしろ哺乳類の中でも小さい部類らしいのだが・・・。
タヌキが座ったときに、フサフサ大きなしっぽが股の間からおなか側へはみだしている様子が金玉に見間違えられたという説があるそうだ。
狸の妖怪豆狸(まめだ)は、西日本に伝承されているほか、江戸時代の奇談集『絵本百物語』にも記述がある。
広げると八畳もある陰嚢を持ち、関西以西に多く棲んでいたという。犬くらいの大きさで、通常の狸よりもずっと知能が高く、陰嚢に息を吹きかけることで大きく広げて部屋などの幻を人に見せたり、自ら陰嚢をかぶって別の者に化けたりしたという。
上掲の画像は竹原春泉画『絵本百物語』より「豆狸」(Wikipediaより)
とにかく、狸のことを書き始めるときりがないので、中途半端だが、もうこれくらいでやめよう。豆狸(まめだ)のことはここを見てください。
最後に、たぬきの金玉・・と言えば、私などのような戦前生まれのものは、子どもの頃に面白がって、以下のような歌を歌っていたものだ。
たんたんたぬきの ○○○○は
風もないのに ぶ〜らぶら・・・・
作者不詳のこの「たんたんたぬきの」の歌も地域によっていろいろと歌われていたようだ(詞や曲など参考※17参照)が、この歌は、賛美歌「まもなくかなたの」 の冒頭部分のメロディーが同じであることから、この賛美歌の替え歌としているところもあるらしいが、実際には、賛美歌「まもなくかなたの」の曲の一部を流用してつくられた「タバコやの娘」(作詞:園ひさし、作曲:鈴木静一)の替え歌だそうだ(※作詞の「薗ひさし」は、鈴木静一のペンネーム)。
「タバコやの娘」は1937(昭和12)年、コメディアン岸井明と童謡歌手から流行歌歌手に転向した平井英子の歌で大ヒットしていたそうだ。
当時盛んに作られたコミックソングまたはナンセンスソングと呼ばれるジャンルの曲であり、歌いやすく面白い。
この歌は、佐川ミツオと渡辺マリのデュエットによるカバー曲が以下で聞ける。この歌の元曲である賛美歌「まもなくかなたの」と比較して聴いてみるのも面白いのでは・・・。
まもなくかなたの 聖歌・賛美歌 - YouTube
煙草屋の娘 (佐川ミツオ, 渡辺マリ) - YouTube
参考:
※1表千家不審菴:茶人のことば:村田珠光「心の文」その1
http://www.omotesenke.jp/chanoyu/7_2_1a.html
※2:信楽鬼桶水指
http://story.turuta.jp/archives/6804/
※3:信楽地域情報
http://www.shigaraki-labo.co.jp/shigaraki/index.html
※4:詩誌『現代詩神戸』231号
http://homepage2.nifty.com/GOMAME/2010/05/100519.htm
※5:兵庫県のわらべ歌 - ODN(PDF)
http://www1.odn.ne.jp/~aar16910/imgs/warabeuta.pdf#search='%E5%85%B5%E5%BA%AB%E7%9C%8C%E3%81%AE%E3%82%8F%E3%82%89%E3%81%B9%E6%AD%8C'
※6:名古屋市:ご存じですか?八マーク(観光・イベント情報)
http://blog.livedoor.jp/zunousen007/archives/17258732.html
※7:おいでやす狸楽巣(りらくす)
http://www.katch.ne.jp/~msyk-tsj/index.html
※8:日本古典文学摘集宇治拾遺物語
http://www.koten.net/uji/
※9:ゐむら【豕羣】 | 情報言語学研究室
http://club.ap.teacup.com/hagi/234.html
※10:鈴なり星:古今著聞集ぶらぶら
http://xxxsuzunari88xxx.yamanoha.com/tyomonsyu.htm
※11:覚禅鈔
http://www002.upp.so-net.ne.jp/eigonji/gane/kakuzenshou.html
※12:s-ryooの語源随想『ねこ』の語源を考える(7)〜『たたけ』について
http://d.hatena.ne.jp/s-ryoo/?of=1
※13:埼玉県立自然史博物館 自然史だより 第20号 :貉(むじな)か狸(たぬき)か
http://www.kumagaya.or.jp/~sizensi/print/dayori/20/20_6.html
※14:国際日本文化研究センター | 怪異・妖怪伝承データベース
http://www.nichibun.ac.jp/youkaidb/ikai/
※15:私の古典(12)『花暦八笑人』
http://plus.harenet.ne.jp/~kida/topcontents/news/2010/121601/index.html
※16:花暦八笑人. 初,2-5編 / 滝亭鯉丈 編 ; 渓斎英泉,歌川国直 画 (古典籍総合データベース。早稲田大学)
http://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/he13/he13_03094/index.html
※17:作詞者不詳・曲=「たんたんたぬきの」聖歌687番(新聖歌475番) http://www.mahoroba.ne.jp/~gonbe007/hog/shouka/tantantanuki.html
狸の本・アラカルト狸
http://www.ztv.ne.jp/ann/ooatari/rink.htm
信楽焼の歴史
http://www.the-anagama.com/Ja/kanzaki_4/j_pot_history.html
京都大学 防災研究所( html )
http://cache.yahoofs.jp/search/cache?c=ZKTy0L2UREIJ&p=%E7%81%98%E3%81%AE%E9%80%A0%E3%82%8A%E9%85%92%E5%B1%8B++%E9%85%92%E8%94%B5+%E8%B1%86%E7%8B%B8&u=www.dpri.kyoto-u.ac.jp%2F%7Edptech%2Ftusin%2F94%2Finfo25.doc
滋賀県工業技術総合センター :: タヌキのページ
http://www.shiga-irc.go.jp/scri/shigaraki_info/%E3%82%BF%E3%83%8C%E3%82%AD%E3%81%AE%E3%83%9A%E3%83%BC%E3%82%B8/
信楽町観光協会
http://www.e-shigaraki.org/
信楽焼 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BF%A1%E6%A5%BD%E7%84%BC