今日は、春分の日。二十四節気の第4。二月中(旧暦2月内)。現在広まっている定気法では、太陽が春分点を通過した瞬間、すなわち太陽黄経がが0度となったときである。
暦ではそれが起こる日.であるが、天文学ではその瞬間とし、日のほうは春分日(しゅんぶんび)と呼ぶ。毎年、3月20日から3月21日ごろがそれにあたる。
太陽がほぼ真東から昇って真西に沈み、昼と夜の長さが同じになる日とされている。しかし、実際には昼の方が長いらしい(詳細は春分を参照)が、いずれにしても、これからは、日ごとに昼が長くなっていくことには変わりはない。これと同じような現象は秋にも発生し、これは、春分日に対して秋分日と呼び毎年9月23日ごろである。
この「春分の日」「秋分の日」を中日とし、前後各3日を合わせた各7日間(1年で計14日間)がお彼岸であり、暦の上では雑節の中に入る。そして、最初の日を「彼岸の入り」、最後の日を「彼岸明け」と呼んでいる。
また、「彼岸」とだけ言った場合、これは春の彼岸を指す。これに対し、秋の彼岸を「のちの彼岸」「秋彼岸」と呼び分けることもある。
そして、この彼岸の期間に法要や墓参りをしたり、お寺では彼岸会(ひがんえ)が催されるなど、仏教の影響が色濃く感じられる。
冒頭に掲載の画像は、お彼岸の光景で、『江戸名所図絵』より江戸の六阿弥陀めぐりの図である。画像は、NHKデーター情報部編『ヴイジュアル百科江戸事情』第一巻生活編より借用したもの。江戸の六阿弥陀のことについては、以下参考に記載の※1:古今宗教研究所 別館「古今御朱印研究室」の江戸の六阿弥陀のところを参照されるとよい。江戸時代には、在俗の信者はお彼岸に、念仏講に行く人もいた。
春分と秋分は、太陽が真東から昇り、真西に沈むので、西方に沈む太陽を礼拝し、遙か彼方の極楽浄土に思いをはせたのが彼岸の始まり…といったように、現在では、彼岸の仏事を浄土思想に結びつけて説明される場合が多いのだが、本来の仏教行事とは解釈できない要素が含まれていて、もともとは我が国固有の信仰や民間行事が、基調をなしているものだとされている。
日本人が石器から鉄器の器具を使い出し、「稲作」を始めた頃,春には「豊作への祈り」、 秋には「収穫への感謝」を、太陽を始め、様々な「神」への祈りを始めたのが、「春」と「秋」の祈りの始まりだろう。
今では1年のうちで「盆」と「正月」の祭りが中心であるが、この頃は「春」と「秋」の祭りが最も重要であった。
古くから使われている日本の慣用句に”暑さ寒さも彼岸まで”とはよく言われることだが、日本人にとって、春と秋の彼岸に「暑い夏」の終わりや「寒い冬」の終わりを実感してきた。
そんな日本に仏教が伝来し、彼岸は日本古来の信仰と合わさり、日本独自の行事として営まれるようになった。
仏教用語の彼岸は、元々梵語(ぼんご)の波羅蜜多(はらみつた)を漢訳した「到彼岸(とうひがん)」。つまり、「彼岸」という場所に至ることと解釈されている。
煩悩に満ちた世界「此岸(しがん)」から解脱した悟りの世界、涅槃を指している。
しかし、悟りの境地に達するのには「六波羅蜜」の修業をしなければならない。
こんな難しい修業は、誰にでもできるわけはなく、出家をしたものでなければできない。
そのようなことから、在家のものには、せめて、「春分」、「秋分」を中日として前後7日間のうち、中日には、先祖に感謝し、残る6日は、悟りの境地に達するのに必要な6つの徳目「六波羅蜜」を1日に1つずつ修める日としたのである。
1、布施。 2、持戒(戒律を守る。在家の場合は五戒もしくは八戒)、3.忍辱(耐え忍ぶこと。あるいは怒りを捨てること【慈悲】)、4 、精進(精進努力する)。 5、禅定(心を安定させる)、 6、智慧(般若。真実を見る智慧を養う)。
この彼岸の考え方が、さらに煩悩に満ちたこちらの世界を現世、涅槃の世界を死後の極楽浄土ととらえ、あちらの世界と考えたところから、亡くなった先祖たちの霊が住む世界を「彼岸」と考えるようになった。
この彼岸について説明しているものとして『観無量寿仏経疏』(『観経疏』)のなかに「二河白道(にがびゃくどう)」の譬えがある。
中国・唐の著名な浄土教家である善導(613〜681)が著した『観無量寿経』の註釈書である『観経疏』巻第四で三心(さんしん。仏語。浄土に生まれるために必要な3種の心。観無量寿経に説く、至誠心[しじょうしん]・深心[じんしん]・廻向発願心[えこうほつがんしん])の中の、廻向譬喩が説かれている(参考※2「観経疏 散善義 七祖」の.2.3.12 二河白道譬喩に詳しく書かれている)。
わが国では法然、がその著書『選択本願念仏集』の中で、親鸞も『教行信証』などで引用・言及してから浄土教諸派でこれが絵画化されるようになった。
上掲の画像は、その一つ。神戸市東灘区にある、香雪美術館蔵の「二河白道図(にがびゃくどうず)」の部分であり、同画像は、蔵書の『週刊朝日百科日本の歴史13』(中世2−2河原と落書・鬼と妖怪)に掲載分を借用した。
盗賊と悪獣に迫られた旅人の前に現れた一筋の白道は極楽往生を願う清浄心の象徴。荒波立てる河は貪婪(どんらん。ひどく欲が深いこと。また 、そのさま。貪欲。)の煩悩、灼熱の火の河は憤怒の煩悩を表している。図は、その絵解きによって衆生を導こうとしたものである。
この画の全体図は参考※3:「二河白道図 - 絵画 一覧| 香雪美術館」のものを参照されるとよいが、絵が小さい。※4 :「NAMs出版プロジェクト: 二河白道図」では、全体図が拡大して見られるし、この画題としては最古と言われる京都・光明寺蔵のもの、また、 香雪美術館とよく似た構図の京都・清涼寺蔵のものとも比較して見られるので、ご覧になるとよい。
また、※5;「静岡県平野美術館所蔵二河白道図について 」では、その後発見されたものと比較して、図の詳しい解説がされているのでわかりやすいと思う。
いつの時代でも、どこの国でも、生を終えた後の世界を願う気持ちは同じであり、日本に限らず古来から、太陽や祖霊信仰は原始宗教の頃からつきものであり、そのような考え方に基づいた「日オガミ」「日ガミ」、そして、「日願(ひがん)」が、「彼岸」へと結びつい来たという説もある。
そして、太陽は真東から昇り、真西に沈むところから、涅槃の世界が、「西方浄土」とも呼ばれ、阿弥陀仏の極楽浄土も「西」にあるとされるようになり、ここに、日本古来の民間行事であったものが、後から入ってきた仏教語の「到彼岸」と結びついものが彼岸であるようだ。このことは、以前にこのブログ「西の日」でも取り上げたことがある。
そして、先祖への感謝をこめて、墓参りをするようになったのだが、現在のような「お墓」が庶民に浸透するのは、江戸時代中期以降のことであり、お彼岸のお墓参りは以外と歴史の浅いものなのである。
この春分の日、秋分の日は、1948(昭和23)年に公布・施行された国民の祝日に関する法律(祝日法、昭和23年7月20日法律第178号)によって制定された日本の国民の祝日の一つである。
この国民の祝日について 内閣府は、ホームページで以下のように述べている。
祝日のうち、「春分の日」及び「秋分の日」は、法律で具体的に月日が明記されずに、それぞれ「春分日」、「秋分日」と定められています。
「春分の日」及び「秋分の日」については、国立天文台が、毎年2月に翌年の「春分の日」、「秋分の日」を官報で公表しています。詳しくは、国立天文台ホームページ「よくある質問」(質問3-1)を御参照ください。・・・と(※6 参照)。
国立天文台が作成している「暦象年表」では、今年・2013年の春分の日 は、3月20日(水) 、秋分の日は、9月23日(月) となっている(※7参照)。
そして、「国民の祝日に関する法律」の第1条に、次のように記されている。
祝日法第1条では、「自由と平和を求めてやまない日本国民は、美しい風習を育てつつ、よりよき社会、より豊かな生活を築きあげるために、ここに国民こぞつて祝い、感謝し、又は記念する日を定め、これを「国民の祝日」と名づける・・・と。
また、第2条では、春分日は「自然をたたえ、生物をいつくしむ」ことを、秋分日は 「祖先をうやまい、なくなった人々をしのぶ。」ことを趣旨としている。
しかし、このような、天文学に基づいて年ごとに決定される国家の祝日は世界的にみても珍しいものだといえる。
では、なぜ、雑節の中でも、春分の日と秋分の日が祝日になっているのだろうか?
それは、戦前まであった皇霊祭(こうれいさい)からきている。
皇霊祭は、歴代の天皇・皇后・皇親の霊を祭る儀式で、宮中祭祀のひとつ(大祭)であった。
そして、毎年2回、春分日に春季皇霊祭(しゅんきこうれいさい)、秋分日に秋季皇霊祭(しゅうきこうれいさい)が斎行されていた。
休日としては、1878(明治11)年改正の年中祭日祝日ノ休暇日ヲ定ム(明治11年6月5日太政官布告第23号)によるもので、1947年(昭和22年)に廃止されるまでこの名称だった。
今は無くなったが、戦前の休日には祝日と祭日があった。皇室祭祀における「大祭」をベースにしていることから「祝日大祭日」略して「祝祭日」と呼ばれていた。
当初は、新年宴会(1月5日)、天長節(11月3日)、の祝日2日と、元始祭(1月3日)、紀元節(2月11日)、神武天皇祭(4月3日)、神嘗祭(9月17日)、新嘗祭(11月23日)、大正天皇祭(先帝祭。12月25日)の祭日6日、計8日だったが、この時の改正により、春季皇霊祭(春分日)と秋季皇霊祭(秋分日)の2日の祭日が追加されて10日となった。尚、明治節(11月3日、明治天皇の誕生日。名君とされ近代日本の礎を築いたという功績を偲ぶもの)がこの改正時に追加され、祝・休日は11日となる。
「神社は国家の宗祀」との太政官布告1871)年が出され、天皇の「荒人神」としての神格化や神仏分離などに合わせて、途絶えていた祭祀の復興や新たな祭祀の創出が行われていた。
初期の段階では初代神武から、明治天皇の先代の孝明天皇まで全てをお祭りする計画もあったらしいが、121代にも及ぶ天皇をお祭りすることなどできないので、結局、神武天皇と先代の孝明天皇を残して、皇室の祭祀としては、神武天皇祭と 先帝祭を、大祭とし、先帝以前三代の例祭は小祭が行われている。
歴代天皇は数が多いので、あとは民間でも先祖供養の日としている、春分・秋分の時に春季皇霊祭・秋季皇霊祭とし、歴代天皇の御魂をまとめてお祀りし、この日を祭日および休日としたようだ。(詳しくは「祝祭日」参照)。
元々、この皇霊祭の日に最も近い戊の日は、社日(しゃにち)として、氏子が氏神たる神社に参詣し、春は五穀豊穣を祈り、秋は実りある収穫に感謝する習わしがあったからであり、古代中国では祖廟(祖先の霊をまつる御霊屋〔みたまや〕)を祀る日でもあったそうだ。
日本では、『日本書紀』巻第三・神武天皇四年春二月壬戌朔甲申の条に、以下の通り記されており、神武天皇は、即位後、鳥見山で祭祀を行っている(日本書紀原文は参考の※8参照)。
「乃立靈畤於鳥見山中、其地號曰上小野榛原・下小野榛原。用祭皇祖天?焉」
意訳:乃(すなは)ち霊畤(まつりのには)を鳥見山(とみのやま)の中に立てて、其地(そこ)を號(なづ)けて、上小野(かみつをの)の榛原(はりはら)・下小野(しもつをの)の榛原と曰(い)ふ。用(も)て皇祖天神(みおやのあまつかみ)を祭(まつ)りたまふ。(意訳は※9:「万葉散歩」の雑 記> 宇陀、鳥見山参照)。
また同じく、『日本書紀』巻第廿九、天渟中原瀛眞人天皇(天武天皇)下の ,天武天皇十年(682年)の条に以下の記述がみられる。
「五月己巳朔己卯、祭皇祖御魂。」
意訳:五月の己巳(つちのとのみ)の朔己卯(つちのとのう)の日に、皇祖(すめみおや。天皇の先祖にあたる歴代の天皇)の御魂(みたま)を祭った。・・・と。
このように、日本でも古くから天皇による祖先の霊をまつる祖先祭祀の伝統が前提にあったからこそ、やがて仏教的な彼岸会も行われるように至ったのであろう。
そして、彼岸の行事が806年には行われていたことが、平安時代初期に編纂された勅撰史書で、『続日本紀』に続く六国史の第三にあたる『日本後紀』に書かれている。
桓武天皇は、即位前の772(宝亀3)年には井上内親王(いのうえのひめみこ)と他戸親王(おさべのみこ)の、在位中の785(延暦4)年には早良親王(さわらしんのう)の不自然な 薨去(こうきょ)」といった暗い事件が多々あった。
そんなことから、井上内親王や早良親王の怨霊を恐れて同19年7月23日(800年8月16日)に後者に「崇道天皇」と追尊し、前者は皇后位を復すと共にその墓を山陵と追称したりしている。
そして、「806(大同元)年、崇道天皇の奉為(おおんため。御為【おんため】の意)に諸国国分寺の僧として春秋二仲別七日(春秋二季の7日間)金剛般若経を読まわしむ」と『日本後紀』にある。
(注:早良親王は藤原種継暗殺事件に関与した罪で淡路島に流される途中、河内国高瀬橋付近の船上で憤死(ふんし・身の潔白を証明するための死)したといわれている。桓武天皇は、同母弟早良親王の怨霊に悩まされつづけることになり、このために、長岡京の後に遷都した平安京の造営に当たっては怨霊を鎮めることに大いに配慮することになる)。
このように、少なくとも平安時代には、すでに彼岸が年中行事になっていたことは確かなことであろう。
敗戦後、GHQからは、日本の諸制度の様々な変更と共に、皇室と国民を分断するために、皇室や神道とかかわりの深い祝・祭日の廃止が迫られた。
そして、「休日ニ関スル件」で制定されていた11の休日のうち、元始祭、新年宴会、紀元節、神武天皇祭、神嘗祭、大正天皇祭(先帝祭)の6日が廃止され、それ以外のものは、以下の様に変更された。
春季皇霊祭(春分日)→」春分の日。
秋季皇霊祭(秋分日)→」秋分の日。
天長節(4月29日)→天皇誕生日。
明治節(11月3日)→文化の日。
新嘗祭(11月23日)→勤労感謝の日。
このように、戦後の祝日法はGHQの指導もあり、皇室と神道とのかかわり(国家神道参照)のある休日は廃止され、春分と秋分に行われていた「皇霊祭」は休日からは外れたが、同じ日は春分の日・秋分の日に名前が変わって残っている。また、春季皇霊祭・秋季皇霊祭は宮中行事・宮中祭祀として今でも執り行行われている。
宮中祭祀について定めたものとしては、1908(明治41)年に皇室祭祀令が皇室令の一つとして制定されていたが、戦後、皇室祭祀令など戦前の皇室令は全て廃されていた。
しかし、 日本国憲法やその下の法律に宮中祭祀についての明文の規定はなく、現在の宮中祭祀も皇室祭祀令に基づいて行われているようだ。
宮中祭祀は、皇居内吹上御苑の東南にある宮中三殿(賢所、皇霊殿、神殿)で行われる。
大祭は、天皇が自ら祭典を斎行し、御告文を奏上し、小祭は、掌典長(掌典職)らが祭典を行い、天皇が拝礼する形をとっているようだ。
年2回、春分の日と秋分の日には、歴代天皇、皇族の霊が祭られている三殿のなかの「皇霊殿」で、「皇霊祭」が行われ、天皇陛下がお告げ文を読み上げ、皇后陛下、皇太子殿下、皇太子妃殿下が拝礼する。また、この日には続いて「神殿」で行われる神恩感謝の祭典「神殿祭」も行われている。
このほか皇室では、数多くの祭儀が行われているがそれは以下参考に記載の※10:「宮内庁:主要祭儀一覧」を参照されるとよい。
古くから続いていた日本の祝・祭日の名前も今では変ってしまい元の意味を教えられないので、ただの会社が休める日…となってしまっているようだね。
私は、昨日お墓参りに行ってきたので、今日・彼岸の中日はお寺へお参りに行ってきます。
参考:
※1:古今宗教研究所 別館古今御朱印研究室≪SBI証券≫
http://goshuin.ko-kon.net/
※2:観経疏 散善義 (七祖) - WikiArc
http://labo.wikidharma.org/index.php/%E8%A6%B3%E7%B5%8C%E7%96%8F%E3%80%80%E6%95%A3%E5%96%84%E7%BE%A9_(%E4%B8%83%E7%A5%96)
※3:二河白道図 - 絵画 ::| 香雪美術館
http://www.kosetsu-museum.or.jp/collection/kaiga/kaiga09/index.html
※4 :NAMs出版プロジェクト: 二河白道図
http://nam-students.blogspot.jp/2011/11/blog-post_13.html
※5;静岡県平野美術館所蔵二河白道図について - 広島大学 学術情報リポジトリ(Adobe PDF)
http://ir.lib.hiroshima-u.ac.jp/metadb/up/AN10217323/AnnuRev-HiroshimaSoc-SciArt_23_29.pdf#search='%E4%BA%8C%E6%B2%B3%E7%99%BD%E9%81%93%E5%9B%B3'
※6:国民の祝日について - 内閣府
http://www8.cao.go.jp/chosei/shukujitsu/gaiyou.html
※7:国立天文台 暦計算室 暦象年表
http://eco.mtk.nao.ac.jp/koyomi/cande/
※8:日本書紀(朝日新聞社本)巻一〜巻三十(日本文学電子図書館)甲南女子大学
http://www.seisaku.bz/shoki_index.html
※9:万葉散歩
http://www1.kcn.ne.jp/~uehiro08/
※10:宮内庁:主要祭儀一覧
http://www.kunaicho.go.jp/about/gokomu/kyuchu/saishi/saishi01.html
やまとうた:家持>伝記>人物事典
http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/jinmei.html
京都社寺案内≪SBI証券≫
http://everkyoto.web.fc2.com/sitemap.html
文化庁 | 文化庁月報 | イベント案内 東京国立博物館
http://www.bunka.go.jp/publish/bunkachou_geppou/2011_10/event_04/event_04.html
大宝令・養老令(二官八省制)
http://www.sol.dti.ne.jp/~hiromi/kansei/e_taihoyoro.html
馬込と大田区の歴史を保存する会
http://www.photo-make.jp/index.htm
暦ではそれが起こる日.であるが、天文学ではその瞬間とし、日のほうは春分日(しゅんぶんび)と呼ぶ。毎年、3月20日から3月21日ごろがそれにあたる。
太陽がほぼ真東から昇って真西に沈み、昼と夜の長さが同じになる日とされている。しかし、実際には昼の方が長いらしい(詳細は春分を参照)が、いずれにしても、これからは、日ごとに昼が長くなっていくことには変わりはない。これと同じような現象は秋にも発生し、これは、春分日に対して秋分日と呼び毎年9月23日ごろである。
この「春分の日」「秋分の日」を中日とし、前後各3日を合わせた各7日間(1年で計14日間)がお彼岸であり、暦の上では雑節の中に入る。そして、最初の日を「彼岸の入り」、最後の日を「彼岸明け」と呼んでいる。
また、「彼岸」とだけ言った場合、これは春の彼岸を指す。これに対し、秋の彼岸を「のちの彼岸」「秋彼岸」と呼び分けることもある。
そして、この彼岸の期間に法要や墓参りをしたり、お寺では彼岸会(ひがんえ)が催されるなど、仏教の影響が色濃く感じられる。
冒頭に掲載の画像は、お彼岸の光景で、『江戸名所図絵』より江戸の六阿弥陀めぐりの図である。画像は、NHKデーター情報部編『ヴイジュアル百科江戸事情』第一巻生活編より借用したもの。江戸の六阿弥陀のことについては、以下参考に記載の※1:古今宗教研究所 別館「古今御朱印研究室」の江戸の六阿弥陀のところを参照されるとよい。江戸時代には、在俗の信者はお彼岸に、念仏講に行く人もいた。
春分と秋分は、太陽が真東から昇り、真西に沈むので、西方に沈む太陽を礼拝し、遙か彼方の極楽浄土に思いをはせたのが彼岸の始まり…といったように、現在では、彼岸の仏事を浄土思想に結びつけて説明される場合が多いのだが、本来の仏教行事とは解釈できない要素が含まれていて、もともとは我が国固有の信仰や民間行事が、基調をなしているものだとされている。
日本人が石器から鉄器の器具を使い出し、「稲作」を始めた頃,春には「豊作への祈り」、 秋には「収穫への感謝」を、太陽を始め、様々な「神」への祈りを始めたのが、「春」と「秋」の祈りの始まりだろう。
今では1年のうちで「盆」と「正月」の祭りが中心であるが、この頃は「春」と「秋」の祭りが最も重要であった。
古くから使われている日本の慣用句に”暑さ寒さも彼岸まで”とはよく言われることだが、日本人にとって、春と秋の彼岸に「暑い夏」の終わりや「寒い冬」の終わりを実感してきた。
そんな日本に仏教が伝来し、彼岸は日本古来の信仰と合わさり、日本独自の行事として営まれるようになった。
仏教用語の彼岸は、元々梵語(ぼんご)の波羅蜜多(はらみつた)を漢訳した「到彼岸(とうひがん)」。つまり、「彼岸」という場所に至ることと解釈されている。
煩悩に満ちた世界「此岸(しがん)」から解脱した悟りの世界、涅槃を指している。
しかし、悟りの境地に達するのには「六波羅蜜」の修業をしなければならない。
こんな難しい修業は、誰にでもできるわけはなく、出家をしたものでなければできない。
そのようなことから、在家のものには、せめて、「春分」、「秋分」を中日として前後7日間のうち、中日には、先祖に感謝し、残る6日は、悟りの境地に達するのに必要な6つの徳目「六波羅蜜」を1日に1つずつ修める日としたのである。
1、布施。 2、持戒(戒律を守る。在家の場合は五戒もしくは八戒)、3.忍辱(耐え忍ぶこと。あるいは怒りを捨てること【慈悲】)、4 、精進(精進努力する)。 5、禅定(心を安定させる)、 6、智慧(般若。真実を見る智慧を養う)。
この彼岸の考え方が、さらに煩悩に満ちたこちらの世界を現世、涅槃の世界を死後の極楽浄土ととらえ、あちらの世界と考えたところから、亡くなった先祖たちの霊が住む世界を「彼岸」と考えるようになった。
この彼岸について説明しているものとして『観無量寿仏経疏』(『観経疏』)のなかに「二河白道(にがびゃくどう)」の譬えがある。
中国・唐の著名な浄土教家である善導(613〜681)が著した『観無量寿経』の註釈書である『観経疏』巻第四で三心(さんしん。仏語。浄土に生まれるために必要な3種の心。観無量寿経に説く、至誠心[しじょうしん]・深心[じんしん]・廻向発願心[えこうほつがんしん])の中の、廻向譬喩が説かれている(参考※2「観経疏 散善義 七祖」の.2.3.12 二河白道譬喩に詳しく書かれている)。
わが国では法然、がその著書『選択本願念仏集』の中で、親鸞も『教行信証』などで引用・言及してから浄土教諸派でこれが絵画化されるようになった。
上掲の画像は、その一つ。神戸市東灘区にある、香雪美術館蔵の「二河白道図(にがびゃくどうず)」の部分であり、同画像は、蔵書の『週刊朝日百科日本の歴史13』(中世2−2河原と落書・鬼と妖怪)に掲載分を借用した。
盗賊と悪獣に迫られた旅人の前に現れた一筋の白道は極楽往生を願う清浄心の象徴。荒波立てる河は貪婪(どんらん。ひどく欲が深いこと。また 、そのさま。貪欲。)の煩悩、灼熱の火の河は憤怒の煩悩を表している。図は、その絵解きによって衆生を導こうとしたものである。
この画の全体図は参考※3:「二河白道図 - 絵画 一覧| 香雪美術館」のものを参照されるとよいが、絵が小さい。※4 :「NAMs出版プロジェクト: 二河白道図」では、全体図が拡大して見られるし、この画題としては最古と言われる京都・光明寺蔵のもの、また、 香雪美術館とよく似た構図の京都・清涼寺蔵のものとも比較して見られるので、ご覧になるとよい。
また、※5;「静岡県平野美術館所蔵二河白道図について 」では、その後発見されたものと比較して、図の詳しい解説がされているのでわかりやすいと思う。
いつの時代でも、どこの国でも、生を終えた後の世界を願う気持ちは同じであり、日本に限らず古来から、太陽や祖霊信仰は原始宗教の頃からつきものであり、そのような考え方に基づいた「日オガミ」「日ガミ」、そして、「日願(ひがん)」が、「彼岸」へと結びつい来たという説もある。
そして、太陽は真東から昇り、真西に沈むところから、涅槃の世界が、「西方浄土」とも呼ばれ、阿弥陀仏の極楽浄土も「西」にあるとされるようになり、ここに、日本古来の民間行事であったものが、後から入ってきた仏教語の「到彼岸」と結びついものが彼岸であるようだ。このことは、以前にこのブログ「西の日」でも取り上げたことがある。
そして、先祖への感謝をこめて、墓参りをするようになったのだが、現在のような「お墓」が庶民に浸透するのは、江戸時代中期以降のことであり、お彼岸のお墓参りは以外と歴史の浅いものなのである。
この春分の日、秋分の日は、1948(昭和23)年に公布・施行された国民の祝日に関する法律(祝日法、昭和23年7月20日法律第178号)によって制定された日本の国民の祝日の一つである。
この国民の祝日について 内閣府は、ホームページで以下のように述べている。
祝日のうち、「春分の日」及び「秋分の日」は、法律で具体的に月日が明記されずに、それぞれ「春分日」、「秋分日」と定められています。
「春分の日」及び「秋分の日」については、国立天文台が、毎年2月に翌年の「春分の日」、「秋分の日」を官報で公表しています。詳しくは、国立天文台ホームページ「よくある質問」(質問3-1)を御参照ください。・・・と(※6 参照)。
国立天文台が作成している「暦象年表」では、今年・2013年の春分の日 は、3月20日(水) 、秋分の日は、9月23日(月) となっている(※7参照)。
そして、「国民の祝日に関する法律」の第1条に、次のように記されている。
祝日法第1条では、「自由と平和を求めてやまない日本国民は、美しい風習を育てつつ、よりよき社会、より豊かな生活を築きあげるために、ここに国民こぞつて祝い、感謝し、又は記念する日を定め、これを「国民の祝日」と名づける・・・と。
また、第2条では、春分日は「自然をたたえ、生物をいつくしむ」ことを、秋分日は 「祖先をうやまい、なくなった人々をしのぶ。」ことを趣旨としている。
しかし、このような、天文学に基づいて年ごとに決定される国家の祝日は世界的にみても珍しいものだといえる。
では、なぜ、雑節の中でも、春分の日と秋分の日が祝日になっているのだろうか?
それは、戦前まであった皇霊祭(こうれいさい)からきている。
皇霊祭は、歴代の天皇・皇后・皇親の霊を祭る儀式で、宮中祭祀のひとつ(大祭)であった。
そして、毎年2回、春分日に春季皇霊祭(しゅんきこうれいさい)、秋分日に秋季皇霊祭(しゅうきこうれいさい)が斎行されていた。
休日としては、1878(明治11)年改正の年中祭日祝日ノ休暇日ヲ定ム(明治11年6月5日太政官布告第23号)によるもので、1947年(昭和22年)に廃止されるまでこの名称だった。
今は無くなったが、戦前の休日には祝日と祭日があった。皇室祭祀における「大祭」をベースにしていることから「祝日大祭日」略して「祝祭日」と呼ばれていた。
当初は、新年宴会(1月5日)、天長節(11月3日)、の祝日2日と、元始祭(1月3日)、紀元節(2月11日)、神武天皇祭(4月3日)、神嘗祭(9月17日)、新嘗祭(11月23日)、大正天皇祭(先帝祭。12月25日)の祭日6日、計8日だったが、この時の改正により、春季皇霊祭(春分日)と秋季皇霊祭(秋分日)の2日の祭日が追加されて10日となった。尚、明治節(11月3日、明治天皇の誕生日。名君とされ近代日本の礎を築いたという功績を偲ぶもの)がこの改正時に追加され、祝・休日は11日となる。
「神社は国家の宗祀」との太政官布告1871)年が出され、天皇の「荒人神」としての神格化や神仏分離などに合わせて、途絶えていた祭祀の復興や新たな祭祀の創出が行われていた。
初期の段階では初代神武から、明治天皇の先代の孝明天皇まで全てをお祭りする計画もあったらしいが、121代にも及ぶ天皇をお祭りすることなどできないので、結局、神武天皇と先代の孝明天皇を残して、皇室の祭祀としては、神武天皇祭と 先帝祭を、大祭とし、先帝以前三代の例祭は小祭が行われている。
歴代天皇は数が多いので、あとは民間でも先祖供養の日としている、春分・秋分の時に春季皇霊祭・秋季皇霊祭とし、歴代天皇の御魂をまとめてお祀りし、この日を祭日および休日としたようだ。(詳しくは「祝祭日」参照)。
元々、この皇霊祭の日に最も近い戊の日は、社日(しゃにち)として、氏子が氏神たる神社に参詣し、春は五穀豊穣を祈り、秋は実りある収穫に感謝する習わしがあったからであり、古代中国では祖廟(祖先の霊をまつる御霊屋〔みたまや〕)を祀る日でもあったそうだ。
日本では、『日本書紀』巻第三・神武天皇四年春二月壬戌朔甲申の条に、以下の通り記されており、神武天皇は、即位後、鳥見山で祭祀を行っている(日本書紀原文は参考の※8参照)。
「乃立靈畤於鳥見山中、其地號曰上小野榛原・下小野榛原。用祭皇祖天?焉」
意訳:乃(すなは)ち霊畤(まつりのには)を鳥見山(とみのやま)の中に立てて、其地(そこ)を號(なづ)けて、上小野(かみつをの)の榛原(はりはら)・下小野(しもつをの)の榛原と曰(い)ふ。用(も)て皇祖天神(みおやのあまつかみ)を祭(まつ)りたまふ。(意訳は※9:「万葉散歩」の雑 記> 宇陀、鳥見山参照)。
また同じく、『日本書紀』巻第廿九、天渟中原瀛眞人天皇(天武天皇)下の ,天武天皇十年(682年)の条に以下の記述がみられる。
「五月己巳朔己卯、祭皇祖御魂。」
意訳:五月の己巳(つちのとのみ)の朔己卯(つちのとのう)の日に、皇祖(すめみおや。天皇の先祖にあたる歴代の天皇)の御魂(みたま)を祭った。・・・と。
このように、日本でも古くから天皇による祖先の霊をまつる祖先祭祀の伝統が前提にあったからこそ、やがて仏教的な彼岸会も行われるように至ったのであろう。
そして、彼岸の行事が806年には行われていたことが、平安時代初期に編纂された勅撰史書で、『続日本紀』に続く六国史の第三にあたる『日本後紀』に書かれている。
桓武天皇は、即位前の772(宝亀3)年には井上内親王(いのうえのひめみこ)と他戸親王(おさべのみこ)の、在位中の785(延暦4)年には早良親王(さわらしんのう)の不自然な 薨去(こうきょ)」といった暗い事件が多々あった。
そんなことから、井上内親王や早良親王の怨霊を恐れて同19年7月23日(800年8月16日)に後者に「崇道天皇」と追尊し、前者は皇后位を復すと共にその墓を山陵と追称したりしている。
そして、「806(大同元)年、崇道天皇の奉為(おおんため。御為【おんため】の意)に諸国国分寺の僧として春秋二仲別七日(春秋二季の7日間)金剛般若経を読まわしむ」と『日本後紀』にある。
(注:早良親王は藤原種継暗殺事件に関与した罪で淡路島に流される途中、河内国高瀬橋付近の船上で憤死(ふんし・身の潔白を証明するための死)したといわれている。桓武天皇は、同母弟早良親王の怨霊に悩まされつづけることになり、このために、長岡京の後に遷都した平安京の造営に当たっては怨霊を鎮めることに大いに配慮することになる)。
このように、少なくとも平安時代には、すでに彼岸が年中行事になっていたことは確かなことであろう。
敗戦後、GHQからは、日本の諸制度の様々な変更と共に、皇室と国民を分断するために、皇室や神道とかかわりの深い祝・祭日の廃止が迫られた。
そして、「休日ニ関スル件」で制定されていた11の休日のうち、元始祭、新年宴会、紀元節、神武天皇祭、神嘗祭、大正天皇祭(先帝祭)の6日が廃止され、それ以外のものは、以下の様に変更された。
春季皇霊祭(春分日)→」春分の日。
秋季皇霊祭(秋分日)→」秋分の日。
天長節(4月29日)→天皇誕生日。
明治節(11月3日)→文化の日。
新嘗祭(11月23日)→勤労感謝の日。
このように、戦後の祝日法はGHQの指導もあり、皇室と神道とのかかわり(国家神道参照)のある休日は廃止され、春分と秋分に行われていた「皇霊祭」は休日からは外れたが、同じ日は春分の日・秋分の日に名前が変わって残っている。また、春季皇霊祭・秋季皇霊祭は宮中行事・宮中祭祀として今でも執り行行われている。
宮中祭祀について定めたものとしては、1908(明治41)年に皇室祭祀令が皇室令の一つとして制定されていたが、戦後、皇室祭祀令など戦前の皇室令は全て廃されていた。
しかし、 日本国憲法やその下の法律に宮中祭祀についての明文の規定はなく、現在の宮中祭祀も皇室祭祀令に基づいて行われているようだ。
宮中祭祀は、皇居内吹上御苑の東南にある宮中三殿(賢所、皇霊殿、神殿)で行われる。
大祭は、天皇が自ら祭典を斎行し、御告文を奏上し、小祭は、掌典長(掌典職)らが祭典を行い、天皇が拝礼する形をとっているようだ。
年2回、春分の日と秋分の日には、歴代天皇、皇族の霊が祭られている三殿のなかの「皇霊殿」で、「皇霊祭」が行われ、天皇陛下がお告げ文を読み上げ、皇后陛下、皇太子殿下、皇太子妃殿下が拝礼する。また、この日には続いて「神殿」で行われる神恩感謝の祭典「神殿祭」も行われている。
このほか皇室では、数多くの祭儀が行われているがそれは以下参考に記載の※10:「宮内庁:主要祭儀一覧」を参照されるとよい。
古くから続いていた日本の祝・祭日の名前も今では変ってしまい元の意味を教えられないので、ただの会社が休める日…となってしまっているようだね。
私は、昨日お墓参りに行ってきたので、今日・彼岸の中日はお寺へお参りに行ってきます。
参考:
※1:古今宗教研究所 別館古今御朱印研究室≪SBI証券≫
http://goshuin.ko-kon.net/
※2:観経疏 散善義 (七祖) - WikiArc
http://labo.wikidharma.org/index.php/%E8%A6%B3%E7%B5%8C%E7%96%8F%E3%80%80%E6%95%A3%E5%96%84%E7%BE%A9_(%E4%B8%83%E7%A5%96)
※3:二河白道図 - 絵画 ::| 香雪美術館
http://www.kosetsu-museum.or.jp/collection/kaiga/kaiga09/index.html
※4 :NAMs出版プロジェクト: 二河白道図
http://nam-students.blogspot.jp/2011/11/blog-post_13.html
※5;静岡県平野美術館所蔵二河白道図について - 広島大学 学術情報リポジトリ(Adobe PDF)
http://ir.lib.hiroshima-u.ac.jp/metadb/up/AN10217323/AnnuRev-HiroshimaSoc-SciArt_23_29.pdf#search='%E4%BA%8C%E6%B2%B3%E7%99%BD%E9%81%93%E5%9B%B3'
※6:国民の祝日について - 内閣府
http://www8.cao.go.jp/chosei/shukujitsu/gaiyou.html
※7:国立天文台 暦計算室 暦象年表
http://eco.mtk.nao.ac.jp/koyomi/cande/
※8:日本書紀(朝日新聞社本)巻一〜巻三十(日本文学電子図書館)甲南女子大学
http://www.seisaku.bz/shoki_index.html
※9:万葉散歩
http://www1.kcn.ne.jp/~uehiro08/
※10:宮内庁:主要祭儀一覧
http://www.kunaicho.go.jp/about/gokomu/kyuchu/saishi/saishi01.html
やまとうた:家持>伝記>人物事典
http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/jinmei.html
京都社寺案内≪SBI証券≫
http://everkyoto.web.fc2.com/sitemap.html
文化庁 | 文化庁月報 | イベント案内 東京国立博物館
http://www.bunka.go.jp/publish/bunkachou_geppou/2011_10/event_04/event_04.html
大宝令・養老令(二官八省制)
http://www.sol.dti.ne.jp/~hiromi/kansei/e_taihoyoro.html
馬込と大田区の歴史を保存する会
http://www.photo-make.jp/index.htm