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釜山から引揚者2100人を乗せた雲仙丸が舞鶴へ初入港した

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敗戦後の1945(昭和20)年10月7日、釜山から、2100人(復員兵)を乗せた雲仙丸が入港した。
第二次世界大戦に、敗戦後、国外から引き揚げてきた者を一般的に「引揚者」と言うが、この呼称は非戦闘員に対してのみ用いられ、日本軍の軍人・軍属として外地・外国に出征し、その後帰還した者に対しては「復員兵」もしくは「復員者」などと呼ばれた。その意味では、この日、雲仙丸で帰還したのは、軍人、つまり、「復員兵」であった。ここでは、特別断っていない限り、両者を含めた一般的にいうところの引揚者について書く。
この日、以来舞鶴へは1船2千人から3千人の単位で帰還が続いた。
第二次世界大戦終了後、国外から日本へ引き揚げてきた人たちは、諸説あるが、一般・軍人・軍属(軍人以外の軍所属者)合わせて約660万人といわれ、そのうち約半数が一般人である。舞鶴には66万人余と1万6千余柱の遺骨が上陸したという。
当初、舞鶴ほか9港、全国で10箇所(舞鶴、浦賀、呉、下関、博多、佐世保、鹿児島、横浜、仙崎、門司)あった引き揚げ港(引き揚げのために指定された上陸地)も、1950(昭和25)年から引き上げ港は舞鶴だけになった。特にソ連抑留者の引き揚げが多く、いつ帰るかわからない息子、夫の姿をもとめて全国から舞鶴へと人の波が続いた。戦後の海外在住者の引き揚げ業務は、日本の終戦処理の中でも最も重要な案件のひとつであった。
冒頭の画像は、当時の舞鶴での引き揚げの様子。左:上陸前の引揚者(復員兵)たち。右:父の顔も知らぬ幼児とともに。名札を手に肉親を求め、出迎える家族。(写真1948年7月5日のもの。アサヒクロニクル「週間20 世紀」1948年号より)
現在の舞鶴市は、京都府北部(旧丹後国)の日本海に面した市である。もともと市街は、大きく二つに分かれており、1901(明治34)年に、軍事的要地として舞鶴鎮守府が設置されて以来、軍事施設が設置され、日本海側唯一の軍事都市として発展を遂げていた東舞鶴と、田辺藩の城下町・商港から発展した西舞鶴の2つの市から構成されていた。
1943(昭和18)年になり、いよいよ戦局(太平洋戦争)が激化すると、海軍の要請により「時局ノ要請二応ジ大軍港都市建設ノ為」として、海軍記念日にあたる同年5月27日にそれまでの東西舞鶴両市を合併し現在の新しい舞鶴市として誕生した。
だが、この「時局ノ要請二応ジ大軍港都市建設ノ為」として東西舞鶴両市が合併した1943(昭和18)年の戦局を振りかえってみると、実際には、太平洋戦争開戦半年ほどで始まった米軍の反攻が勢いを増し、同年5月には最前線であるガダルカナル島は飢餓の島と化し撤退(ガダルカナル島の戦い参照)。北太平洋では、アッツ島守備隊2500人が玉砕して果てた(アッツ島の戦い参照)。
しかし、政府は、ガダルカナル島撤退のときは「転進」と言う言葉でごまかし、アッツ島の玉砕も「戦史に残る絶妙の転進」と言う言葉でごまかし、大本営は「敵に多大なる被害を与えたるも我が方損害軽微」であると、圧倒的に敗北した時はこれを隠蔽して発表しなかった。物量対物量の消耗戦のなか、戦果を誇る大本営発表の虚勢はまさに、敗戦への序章であった。
余談だが、これを書きながら、2011(平成23)年3月11日の東北地方太平洋沖地震に起因する福島第一原子力発電所事故による、外部への多量の放射性物質漏れと、これに対する政府の対応などを思い出す。この放射性物質漏れ事故は、国際原子力事象評価尺度のレベル7(深刻な事故)に相当するもので、1986(昭和61)年4月26日にソビエト連邦で起きたチェルノブイリ原子力発電所事故以来2例目になるものだが、それを、当初、政府および東電は過少に公表し、正しい対応を素早くやってこなかったため、被災地の人達に多大なる迷惑をかけると共に、その対応遅れが、震災被害全体の復興計画そのものを遅らせてしまっている。
このような重大なことになると、政府やある意味で国策会社とも言えなくも無い東電。これらのみならず、まともな取材もせずに、これらの機関からリーク(leak)されたものを鵜呑みにし、その信憑性を確認もせずに国民に伝える現在のマスコミなど、国民に正しい情報を伝えないやり方は、今も昔と殆ど変わっていないことに驚かされている。
元に戻るが、真珠湾攻撃(太平洋戦争勃発)で始めた対米英蘭戦争も4年目に入った1945(昭和20)年、満州事変から数えれば15年にわたる戦争も、前年、生命線として想定した「絶対国防圏」を突破され、制海権、制空権共に失った日本は、フィリピン硫黄島、沖縄と、アメリカ軍の蛙飛び作戦(アイランドホッピング)にことごとく敗退。日増しに激しさを加える本土空襲で国内は破壊され、実際に戦場となった本土防衛の盾・沖縄での戦い(沖縄戦参照)は酸鼻(さんび)を極めた。
中でも8月6日 広島への原爆投下、 8月9日 長崎への原爆投下 では一瞬の閃光で広島では8万人、長崎でも数万人の即死者を出した。当然、軍事都市舞鶴の海軍工廠、舞鶴港なども大規模な空襲に見舞われ多数の死傷者を出している。
それでも、大本営は本土決戦を「決号作戦」と呼び、この作戦では女子にも竹やり(槍)や、なた(鉈)、かま(鎌)をもって兵士と共に戦うことを求め訓練を義務化した。
上掲の画像は、女子の竹やり訓練の光景である(アサヒクロニクル「週間20世紀」1945年号より)。
まさに、敗戦が決定的になっているにも関わらず、女・子供までを巻き込んで1億総玉砕体制にあった日本も広島、長崎への原爆投下やそれに、日本が実質的に敗戦しているのを狙っていたかのように、ソ連が、日ソ中立条約を完全に破棄して、8月8日、突然日本に対して宣戦布告し、参戦してきたこともあり、8月14日、やっと、天皇の採決でポツダム宣言受諾を決定した(ポツダム宣言原文またその解釈など※2、※3参照)。
翌・8月15日正午、天皇の「終戦の詔書」録音放送(玉音放送と呼ばれる)、日本無条件降伏(※:日本国が無条件降伏したか否かについては様々な見解があるようだ。※1参照)により、太平洋戦争、第2次世界大戦が終結したことになっている。
兎に角、1億総玉砕は避けられたが、この戦争での日本人軍民戦没者は厚生省算定によれば、1937(昭和12)年7月7日の盧溝橋事件(日中全面戦争)以後、310万人だとしている。
この後、同年8月18日満州国皇帝が退位し、満州国が滅亡。日本人の満州開拓移民約27万人のうち、引き揚げまでに約7万8500人が死亡したという。
同年8月22日、北海道沿岸で樺太からの引き揚げ船3隻が潜水艦に攻撃され沈没。約1700人の死者がでた。日本の降伏文書への調印予告、および軍隊への停戦命令布告後に、三船を攻撃した潜水艦について、公式には今もって「国籍不明」と言うことになっているが、恐らく、8月9日に対日参戦したソ連軍が、これを無視し、当時大日本帝国領だった樺太に侵攻していることから、ソ連船の仕業だろうと推測されている(三船殉難事参照)。
戦争に敗れた日本は、史上初の占領下に置かれた。1945(昭和20)年8月30日、連合国軍最高司令官マッカーサーが、厚木基地に到着。日本占領の第一歩を印した。
マッカーサーは、同年9月2日、東京湾に停泊のアメリカ戦艦ミズーリー号艦上で、日本側との降伏文書の正式調印をした。
因みに、「終戦の日はいつ?」と聞かれると、天皇が、8月14日にポツダム宣言受諾を決定し、「終戦の詔書」録音放送をした翌・8月15日とされているのだが、正式には9月2日の降伏文書調印までは戦闘状態であり、厳密に言うと、この日が正式な終戦の日だとする人もいる。太平洋戦争からその終結までの出来事等は太平洋戦争の年表を参照されるとよく分かる。特に8月15日から9月2日までにどのようなことがあったかを時系列で見ておかれるとよい。8月15日以降も戦いが続けられた要因には「終戦の詔書」が、伝わらなかった地域もあっただろうし、8月9日突然のソ連軍侵攻に対する防衛上の問題などもあったろう。以下参考の※4:素朴な疑問集◆第2・日本の終戦の日はいつ?参照されるとよい。
9月2日ミズーリー号艦上での降伏文書の正式調印の日に、マッカーサーは、一般命令第1号(※5参照)で、外地に居住する日本の軍人軍属、一般日本人を連合国軍の管理下に入れた。
前にも書いたが、1945(昭和20)年、敗戦時点で海外に残っていた日本人の数は約660万人で、内訳は、中国軍管区(満州を除く中国、台湾、北緯16度以北の仏印【フランス領インドシナ】)が200万人、ソ連軍管区(満州、北緯38度以北の朝鮮、樺太、千島)が272万人と両軍管区で7割強を占めた。
終戦と同時に、連合国は、海外の日本人全員の即時帰国命令を出したが、これは、8月15日に日本が受諾したポツダム宣言の「九、日本国軍隊ハ完全ニ武装ヲ解除セラレタル後各自ノ家庭ニ復帰シ平和的且生産的ノ生活ヲ営ムノ機会ヲ得シメラルヘシ」(※2、※3参照)に基づいて行われたものであって、現地に軍人が残留していると、その地におよぼす影響力を恐れたため、早期に軍人の武装の解除と帰国をさせることが目的であって、民間人の引揚については何も記載はない。そのため、外地からの引き揚げは占領統治する連合国の主導で始まり、軍人や官僚らが、帰国したあと、現地に放置されたままの民間人には、国家の保護もなく、自力で、帰ってこなければならなかった。
中国軍管区では、国共内戦に巻き込まれ、ソ連軍管区でのシベリアへの抑留と強制労働など、多くの苦難が待ち受けていた。また、日本送還に関しては、引き揚げの優先順位をめぐり、各地で多様な問題が起こった。南朝鮮(ここ参照)では、軍隊、警察官、神官、芸者、女郎という優先順位での送還をアメリカ軍が指示していた。これを見ても、日本の朝鮮支配において、朝鮮民族の恨みの対象が誰に向けられていたかが窺える。
旧満州では、関東軍満鉄、日本大使館、関東局、満州国政府、国策会社の関係者という優先順位の下で引き揚げが実行された。
そのため満州奥地に入植した開拓団の一般日本人は、敗戦によって情報が途絶したため、流言飛語の下に曠野(こうや)を流亡する民となってしまった。その身に大日本帝国への怨念を背負わされての逃避行は、現地人の襲撃に身を晒すだけでなく、ソ連軍の暴行に日夜さいなまれての行程だった。
ちなみに、三江省方正収容所には、終戦から、翌年5月までの9ヶ月間に8640人が収容されたが、その後、その4分の1強が自決・病死、「満妻(ママ)」すなわち中国人の妻となった者も4分の1強となっている。ハルピンにたどり着けたのは、1200人に過ぎないという。その他は、自ら脱出した者1200人、現地に残った者1120人、ソ連兵に拉致された者460人と記録されているようだ(※6や、※7:読谷村史 「戦時記録」の上巻>第二章>第五節海外の戦争体験>4 「満州」での戦争体験や5 シベリア抑留体験参照)。
各開拓団の青壮年が敗戦3ヶ月前の1945(昭和20)年5月に、関東軍による「根こそぎ動員」で現地召集されたため、老人と女子供の群として、流亡しなければならなくなったことが事態をいっそう悲惨にした。
ただ、アメリカ軍管区とオーストラリア軍管区からの復員・引き揚げは米国から船舶の貸与などの協力を受けるなどして、翌・1946(昭和21)年夏までにほぼ終了した。厚生省『引揚と援護30年の歩み』によると1976年末までの引き揚げ者総数は6,290,702人だったという。(復員輸送艦参照)。
ポツダム宣言受諾の際に日本政府がこだわったのは国体護持だけ、海外在住日本人(民間人)の生命・財産をどう守るかなどということは考えられておらず、「現地定住」の方針を堅持していた。なすすべのない彼らは、上記のような略奪や暴行、飢えなどに悩まされ、命さえ失う人々が続出したが、そんな満州の民間人の引揚が始まるのは、そのような惨状から逃れた人たちが支援活動をするために結成した日本人会の使者が、1946(昭和21)年3月、吉田茂外相に満州での惨状を訴え、民間人の引き揚げ実現を求めるも、占領下の日本政府は無力と応じてもらえず、マッカーサーに面会、人道的立場から引き揚げ実施を約束されたことによるようだ。
ただ、マッカーサーが、単に人道的理由によってのみ行なったわけではなく、満洲からの引き揚げは、当時の冷戦構造を自国に有利に図ろうとする大国(アメリカ・ソ連・中国)の思惑の結果から、実現したものである。そのことは、NHK「その時歴史が動いた」“戦後引き揚げ 660万人故郷への道”(2007年12月 5日放送)でも取り上げられたが、その詳細をここでは書かないが、以下参考の※8:「その時歴史が動いた:戦後引き揚げ」、※9:「戦後満州引き揚げ 故郷への道」には,詳しく書かれているので、そこを見られるとよい。当時の満州からの民間人引揚者のひどい状況と、無責任な日本政府の対応に驚かされるだろう。
海外からの日本人引揚者を港に受け入れるための施設として日本政府が設置したものが地方引揚援護局であるが、1945(昭和20)年9月、舞鶴ほか計10の引き揚げ港に設置されていた。その後増加し、同年11月には引揚げ港は18カ所となった(引揚援護庁参照)。
満州、朝鮮からの引揚者の多くは、博多か佐世保に上陸した。満州、朝鮮からの引揚者の多い博多などの引き揚げ港に設置された引揚援護局内には、民間ボランティア団体が、婦人救護相談所を開設し、引き揚げ女性の相談業務を行なっていた。その業務は、性病の日本への伝播の防止と暴行被害女性の妊娠中絶を目的のひとつとしており、10歳以下の幼女を除く70歳までの全てが対象となっていたという。
NHK「その時歴史が動いた」の話では、博多へ近づき日本が見えると、女性が海に飛び込んで死ぬ人が連続したという。それらの人々は望まない異国の子供を妊娠していて、日本での偏見を恐れての自殺だったそうだ。そんな帰国女性で妊娠している人を救助するためと言うことなのだが・・・。
番組中で紹介していた施設は厚生省博多引揚援護局内の「二日市保養所」である。当時まだ違法だった堕胎手術(堕胎罪)を保養所という名の施設をつくり行なっていたわけだ。女性たちは、設備の十分でない手術室で、麻酔もなく、相当強引な手術に、痛み苦しを必死に耐えていたというのだから哀れな話である。(※10また、※8、※9も参照)。
これら、死ぬ思いで、故国に辿り着いた女性の何時までも癒されぬ傷となって残っていたことだろうが、ことがことだけに、世間には知られないようこっそりと行なわれていたわけだ。
ソ連はシベリア抑留者を復興の強制労働に利用し、彼らの帰国は昭和34(1959)年までかかった。
また引揚者のなかには、途中で親と死別し、無縁故者となった子供が多く見られた。これらの引揚者を迎える世間の目は冷たく、引揚者は故国日本に安住の地を見出せないまま、再起の場をその後ブラジルなど外国に求めた人も少なくなかった(※11)。
敗戦後の復員軍人や多数の海外引揚者、戦災による生産活動の停止とそれに伴う離職者、生産消費財の極度の枯渇などで、食糧増産と失業者の救済対策を緊急にやらねばならなくなっていた。
そこで政府はこの対策として「緊急開拓事業実施要領」(1945年年11月。※12)を決定した。政府の緊急開拓事業は引揚者にとり、新たな生活を切り開く世界と思われた。北海道をはじめとする荒蕪地(こうぶち。土地が荒れて、雑草の茂るがままになっている土地)への入植は、満蒙開拓(ここ参照)や南洋進出(ここ参照)を夢想した引揚者にとり、新しい大地との出会いであり、戦後開拓の幕開けとなったのだが、例えば、北海道でも農業未経験者が、敗戦の荒廃で農機具、肥料等の農業資材が皆無に近い欠乏下での営農など不可能に近く、5ヵ年間のうちに脱落者は46%にも達したと言われているなど、実際には過酷なものであった(※13)。
また、戦後60年を超えた現在に至っても、中国大陸で親子生き別れ・死に別れとなった中国残留日本人孤児などの問題を残している。
敗戦後、海外在住邦人の引揚者約625万人が帰還を終えた1950(昭和25)年、朝鮮戦争の勃発もあり引き揚げは中断していた。
外交関係のない中国との交渉は国連の捕虜特別委員会を通じて行われたがはかばかしい進展は見られなかったが、1952年暮れ、中国の北京放送が「人民団体と交渉の用意がある」と報じ、日本赤十字社、日中友好協会、日本平和連絡委員会が訪中、1953(昭和28)年3月、引き揚げ再開の北京協定を結ぶ(※15)。そして、その帰還先は舞鶴とし、高砂丸を上海、興安丸を秦皇島(チンホワンタオ)、白山丸、白龍丸を塘沽(タンクウ)へ送った。
そして、3月23日朝、帰還者2008人を乗せた興安丸が雨の舞鶴に入港してきた。白くかすんだ湾には歓迎船の群が待ちわび、岸壁には出迎えの家族や団体、報道陣で埋め尽くされた。高砂丸も23日午後に1959人を、白山丸と白龍丸も26日に500人、469人を乗せて入港した。
この年、民間団体による中国引き揚げは7次にわたり、興安丸帰還時に船内で誕生した男児1名を含み2万6051人が帰還した。
また、1950(昭和25)年から中断していたソ連からの引き揚げも3年7ヶ月ぶりに再開され、ナホトカに派遣された興安丸は12月1日811人を乗せて舞鶴港に入港した。
戦後の主な引き揚げ港としては、博多と佐世保が多かった(※16参照)が、舞鶴は1950(昭和25)年以降唯一の引き揚げ港となったことから歌謡曲や映画「岸壁の母」の舞台ともなったことから、日本の引き揚げ工として広く世間に知られるところとなった。

母は来ました 今日も来た
この岸壁に 今日も来た
とどかぬ願いと 知りながら
もしやもしやに もしやもしやに
ひかされて

「岸壁の母」 作詞:藤田まさと、作曲:平川浪竜、台詞:室町京之介、
岸壁の母」の歌の岸壁とは、舞鶴港の岸壁のこと。引揚船で帰ってくる息子の帰りを待つ母親をマスコミ等が取り上げた呼称であり、そのひとりである端野いせに取材してつくられた。
終戦後、いせさんは、軍人を志し、大学を中退して、1944(昭和19)年に、満洲国に渡り関東軍石頭予備士官学校に入学していたが、同年ソ連軍の攻撃を受けて中国牡丹江にて行方不明となった息子(養子)の生存と復員を信じて1950(昭和25)年1月の引揚船初入港から以後6年間、ソ連ナホトカ港からの引揚船が入港する度に舞鶴の岸壁に立つっていたという。1954(昭和29)年9月には厚生省の死亡理由認定書が発行され、1956(昭和31)年には東京都知事より、中国牡丹江にて戦死との戦死告知書(舞鶴引揚記念館に保存)が発行されている。しかし、帰還を待たれていた子は戦後も生存していたとされるが、それが明らかになったのは、母の没後、2000(平成12年)年8月のことであったそうだ。
作詞した藤田まさとは、端野いせのインタビューを聞いているうちに身につまされ、母親の愛の執念への感動と、戦争へのいいようのない憤りを感じてすぐにペンを取り、高まる激情を抑えつつ詞を書き上げたという。
「岸壁の母」は最初、菊池章子が1954(昭和29)年にヒットさせ、1972年には二葉百合子が「港の名前は舞鶴なのに何故飛んで来てはくれぬのじゃ」の台詞入りで再びヒットさせた。以後、二葉の代表曲ともなったが、二葉は、今年(2011年)3月6日にNHKホールにて最終公演を行い、77年間の芸能生活に終止符を打った。
良い歌なので、以下で、芸能生活70周年(2005年)を迎えたときの歌が聴けるので、最後にこの歌を聴きながら、戦後日本の最大の事業であった引き揚げを思い起こすことにしよう。

YouTube-岸壁の母 二葉百合子
http://www.youtube.com/watch?v=KKrdEkVcEy4&feature=related

今日のブログは、アサヒクロニクル「週間20世紀」の1945年号、1946年号、1948年号1949年号、1953年号などと共に、以下のHPを参照して書いた。
参考:
※1:国民が知らない反日の実態 - GHQの占領政策と影響
http://www35.atwiki.jp/kolia/pages/241.html
※2:ポツダム宣言 - 国立国会図書館
http://www.ndl.go.jp/constitution/etc/j06.html
※3:ポツダム宣言(1945年7月)
http://www.geocities.co.jp/Bookend-Yasunari/7517/nenpyo/1941-50/1945_potsudamu.html
※4:素朴な疑問集◆第2日本の終戦の日はいつ?
http://royallibrary.sakura.ne.jp/ww2/gimon/gimon2.html
※5:映像で見る占領期の日本
http://www.bun.kyoto-u.ac.jp/~knagai/GHQFILM/DOCUMENTS/index.html
※6:「中国残留邦人」の形成と受入について[PDF]
http://www.kikokusha-center.or.jp/resource/ronbun/kakuron/24/kaji.pdf
※7:読谷村史 「戦時記録」
http://www.yomitan.jp/sonsi/index.htm
※8:その時歴史が動いた:戦後引き揚げ
http://televiewer.nablog.net/blog/e/20184509.html
※9:戦後満州引き揚げ 故郷への道
http://nozawa22.cocolog-nifty.com/nozawa22/2007/12/nozawa22_1.html
※10:30年前の群像あとがき5 - 灯台守
http://blogs.yahoo.co.jp/raizintai/18515046.html
※11:第7章 日系社会の再統合から現在まで(1) | ブラジル移民の100年
http://www.ndl.go.jp/brasil/s7/s7_1.html
※12:緊急開拓事業実施要領 | 政治・法律・行政 | 国立国会図書館
http://rnavi.ndl.go.jp/politics/entry/bib00681.php
※13:故浜巌氏の遺稿文と戦後緊急開拓のあらまし
http://www.town.kamifurano.hokkaido.jp/hp/saguru/1407iwata.htm
※14:未帰還者留守家族等援護法
http://law.e-gov.go.jp/htmldata/S28/S28HO161.html
※15:在華邦人引揚交渉をめぐる戦後日中関係(Adobe PDF)
http://www.jaas.or.jp/pdf/49-3/54-70.pdf#search='1953年 引き揚げ再開 北京協定
※16:図録アジア太平洋戦争における海外からの引き揚げ
http://www2.ttcn.ne.jp/honkawa/5226.html
「函館市史」通説編4 6編第1章第1節4-1引揚者受入官庁の設置
http://www.city.hakodate.hokkaido.jp/soumu/hensan/hakodateshishi/tsuusetsu_04/shishi_06-01/shishi_06-01-01-04-01.htm
※:丹後の地名
http://www.geocities.jp/k_saito_site/
TounReview
http://w01.tp1.jp/~a021223941/
「満洲引揚」スタディーズの試み1)(Adobe PDF
http://mokuroku.biwako.shiga-u.ac.jp/WP/No98.pdf#search='「満洲引揚」スタディーズの試み1'
舞鶴引揚紀念館
http://homepage3.nifty.com/ki43/heiki/hikiage/hikiage.html
その時歴史が動いた 第308回 戦後引き揚げ 660万人故郷への道。
http://blogs.yahoo.co.jp/niitakejp/1936169.html
Category:日本の引揚事業
http://ja.wikipedia.org/wiki/Category:%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E5%BC%95%E6%8F%9A%E4%BA%8B%E6%A5%AD

焼うどんの日

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日本記念日協会に今日10月14日の記念日として「焼うどんの日」が登録されている。
記念日の由来を見ると”焼うどん発祥の地の福岡県北九州市小倉で、まちおこしの活動をしている小倉焼うどん研究所(※1)が制定。小倉の焼うどんを全国に広め、その歴史、地域に根ざした食文化を理解してもらうのが目的で、日付は2002年10月14日に、静岡県富士宮市の「富士宮やきそば学会」との対決イベント「焼うどんバトル特別編〜天下分け麺の戦い〜」を行い、北九州市小倉が焼うどん発祥の地として有名になったことから。”・・・とあった。
Wikipediaによると、1945(昭和20)年の終戦直後、小倉市(現北九州市小倉北区)の「だるま堂」(※2)の店主が、関西で流行りのソース焼きそばを作ろうと思ったが、物資不足の折、中華のそば玉が手に入らず、代わりに「干しうどん」をゆがき、焼いて出したところ大好評だったのが始まりと言われる。尚、だるま堂の店主は2005(平成17)年に亡くなったが、いっしょに店で焼いていた妻は、60年以上たった今でも健在で、同じように干しうどんを使っての焼きうどんを作り続けているそうだ。現在、小倉北区内においてJR小倉駅周辺から旦過(たんが)市場(※3)にかけて焼きうどんを食べられる店が20店舗以上あるようだ(※1にマップがある)。
一般的に、焼うどんの調理法は焼きそばと大差はないが、ソースではなく、醤油や、塩コショウを味付けに使うこともあるが、小倉焼うどん研究所が定める「小倉発祥焼うどんの定義」なるものがある。以下の通り(※1より)。

一、乾麺をしようするべし。
一、キャベツは若松産であるべし。
一豚肉はバラ肉であるべし。
一、玉葱はその甘味を引き出すべし。
一、秘伝のソースは良く研究するべし。
一、削り節はアジ、サバ節を使用するべし。
一、小倉地酒で香り豊に仕上げるべし。
※5項目は必ず取りいれるべし。”とある。

焼きうどんは小倉から各地に広がっていったということだが、他の地域では「ゆでうどん」を使う店がほとんどであろうが、「小倉発祥焼うどんの定義」には、その特色が色々書かれているが、何よりの特徴は「干しうどん」(乾麺)を使用していることにあるようだ。
「乾麺」は、食味に関しては、調理法(茹で戻し方法)にもよるが生麺にくらべ、一般に麺のコシが強いことが多いようなので、焼うどんには適しているのだろう。私は食べたことがないが、小倉焼うどんは、焼き目がしっかりと付いた、もっちりとした食感が茹で麺にはない美味しさだといわれている。
2002年(平成14)年10月12日に、静岡県の富士宮やきそばと小倉の焼きうどんが勝負する「天下分け麺の戦い!」が、福岡県北九州市小倉の小倉城公園で行われ、この顛末はテレビを通じて全国に放映された。
このイベントを仕掛けたのは、小倉焼うどん研究所の方で、同研究所がこのイベントを開催するようになった経緯などは、同研究所HP(※1)の「実録!小倉焼うどん物語」に詳しく書かれているが、要約すると以下の通りである。
小倉のホテルで、小倉らしいものを食べたいとの宿泊客の要望が多いことを知った、当時、ホテルの企画広報担当をしていた主任が、鉄の町、工業の町と言われる北九州市のホテルの宿泊客は、その多くが観光ではなく出張者であることから、近くで、短時間で、食べられる小倉発祥の焼うどんを売り出したいと考えた。しかし、まだ小倉が焼うどん発祥の地であることを地元でも知って居る者が多くはなかったことから、小倉の焼うどんの名を世に出すために何か大きなイベントを利用しようと考えたのが出発点であったようだ。
その後、1999年(平成11)年に、現在の小倉焼うどん研究所の所長を始め、“元気な街北九州を目指そう”と集まった有志で、街の活性化に取り組む任意団体NPO法人「北九州青年みらい塾」を結成(※4)し、2001(平成13)年10月「焼うどんバトル〜発祥の地の名にかけて〜」の名で、誰が作る焼うどんが一番美味しいかを競うイベントを小倉の中心部で開催。
予想以上にイベントが盛り上がり、又、予想以上に地元媒体に取り上げられ、焼うどんに対する認知度や評価も多少上ったことから、積極的に焼きうどんを活用した街づくりに取り組もうと、同みらい塾内に小倉焼うどん研究所が誕生。小倉の街で行なわれていた冬のイベント「食市食座」への参加や焼うどんマップ作りなどに力を入れていたが、もっと大きなイベントをしようと企画されたのが、「天下分け麺の戦い!」であった。
これは、「2002(平成14)年が、小倉城築城400年に当たることから、築城年にちなんで400人の人に焼きうどんを食べて貰おうというもので、丁度、翌・2003(平成15)年1月から、NHK大河ドラマ「武蔵〜MUSAI〜」が放映されることになっていたことや、北九州市は源平の合戦の舞台ともなっていた壇ノ浦を抱えていることから、「北九州ほど決闘や合戦という言葉が似合うところが無い!」と小倉城でイベントをやろうと考えた。
そして、「どこと戦わせるか」ということで、「焼うどんの永遠のライバルと言えば焼ソバだろう。そして、焼ソバと言えば、いま静岡県の富士宮焼ソバが人気がある」ということで、すでに食で町おこしを成功させていた富士宮やきそば学会の渡辺会長に相談し引き受けてもらったという。
そして、“勝敗はともかく、イベントの盛り上がりはすごく、小倉場天守閣前には今まで見たこともない大勢の人が集まり、地元新聞の告知報道を機に、YAHOO!のトピックスで取り上げられ、それを発端として、中央のマスコミにも取り上げられるようになり、キー曲のワイドショー4番組に特集が組まれるほどのイベントとなった。こうして、小倉焼うどんが一定の認知をされるようになった”・・・・とある。
ところで、対戦相手に選ばれた、静岡県富士宮市の焼きそば「富士宮やきそば」は、1999(平成11)年に富士宮市の地域おこしに付いて話し合いをしている際に、古くから食べられてきた独自性のある地元の焼きそばに着目したのがきっかけで新たに命名された名称であり(※5)、独自調査の結果、富士宮市がやきそばの消費量が日本一であったことから、2000(平成12)年に町おこし(地域おこしの1つの呼称)として「富士宮やきそば学会」を立ち上げ、地元で食べられている焼きそばを「富士宮やきそば」として、PRキャンペーンを行っていた。
以下参考に記載の※6:「街物語第四章富士宮◇街を食す」によれば、小倉での戦いは「焼きうどんVS焼きそば」の対決で、自らの市を焼きうどん発祥の地としている北九州市小倉からの挑戦を、富士宮やきそばが受けて立った麺バトルであった。多くのマスコミが注目したこの異種対戦は、202対197で「富士宮やきそば」は惜しくも敗退。巌流島を有する下関市の江島市長が立会い役となり、「富士宮は一年間無償で小倉焼うどんのPRを行なう」という誓約書が交わされたのだそうだ。
しかし、同HPにも書かれているように、この「天下分け麺の戦い!」は会場が挑戦者の小倉でのものであり、つまり富士宮にとってはアウェー戦であり、そのため、この富士宮の惜敗は大きく評価された。・・・とあるが、だから、小倉焼うどん研究所の「実録!小倉焼うどん物語」でも、 “勝敗はともかとして、・・・”と、敢えて勝敗の結果のことには触れていないのだろう。しかし、僅差で敗れた相手に、「一年間無償で小倉焼うどんのPRを行なわせる」などというのは、ちょっぴり、嫌味だね〜。ただ、「富士宮やきそば」の名も有名になり、同そばは、2004(平成16)年に、「富士宮やきそば学会」の登録商標となっている。
このイベントが元で、以降、うどんや焼そばのような俗に言うB級グルメで、地域おこしをしようという動きが日本各地で見られる中、ご当地グルメを利用し全国に知ってもらえるような宣伝活動をしようとする団体・グループが各地に出来、日々の活動の成果をお披露目するイベント、つまり、現在、テレビなどマスメディアなどでも、話題となっているB−1グランプリ開催の元になったとも言われており、その点では、小倉焼うどん研究所の主催した「天下分け麺の戦い!」の果たした功績は非常に大きいといえるだろう。
B-1グランプリは、「B級ご当地グルメでまちおこし団体連絡協議会」(通称:愛Bリーグ)と、開催地の実行委員会が、安くて旨くて地元の人に愛されている地域の名物料理や郷土料理を「B級ご当地グルメ」と定義し、その日本一を決めようという趣旨で主催している大会であり、正式名称は「B級ご当地グルメの祭典! B-1グランプリ」である(詳細は、以下参考※7:「B級ご当地グルメの祭典 B-1グランプリ公式サイト」の“B-1グランプリとは”を参照)。
その第1回は、2006(平成18)年2月に、青森県の八戸せんべい汁研究所(※8)の企画プロデュースにより青森県八戸市で開催(2日間)されている。参加申し込みをしたのは、小倉焼うどんが最初の返事だったという。極寒の地八戸でのイベントには、参加申し込みもなかなかなかったようだが、当日(2日間)は、10の団体が集まり、1.7万人の来場者があったようだ。
この後、B−1グランプリは、毎年1回行なわれ、第2回富士宮大会で21店、 25.0万人、第3回久留米大会では24店、 20.3万人 、第4回秋田県横手大会では26店、 26.7万人、そして、昨:2010(平成22)年9月 19日・20日、神奈川県厚木市では、過去最大の46店が出展し、 43.5万人の動員実績を残しているようだ。
因みに、このB−1グランプリの第1回(2006年)と第2回(2007年)の両大会で第1位(ゴールドグランプリにかがやいたのは、「富士宮やきそば」であり、又、この2007(平成19)年に農林水産省が主催して、「農山漁村の郷土料理百選」が選ばれているが、この時、農山漁村との関係は薄いものの地域住民にご当地自慢の料理として広く愛されている料理23品目も、別枠で「御当地人気料理特選」として選定(約1700点の中から選ばれたという)されているが、この中に、「富士宮やきそば」が選ばれている。
しかし、残念ながら、「小倉焼うどん」はB−1グランプリにも、御当地人気料理特選にも選ばれてはいない。やはり、同じ小麦粉を原料とする麺類であっても、例え、生ではなく、干したうどん(乾麺)使用とはいえ、最初から、麺のコシを高めるためにかん水(鹹水)を加えて作られた中華麺には、コシの強さで及ばないし、焼きそば用に販売されている麺は、ほぐしやすいように油処理もされていることが多く、当初から焼いて美味しく食べるように特化して作られている。こんな焼きそば用の麺に対して、そのようなことを目的として作られていない代替品の利用では、素材の面での相違が大きいだろう。
関西は粉物が好きで粉食文化が発達しているが、現代、麺類では、関東のそばに対して関西はうどんが主となっている。しかし、焼いて食べる場合には、好みにより焼きうどんを食べる人もいるが、人数的には焼きそばを食べる人の方が断然多いだろう。
「富士宮やきそば」は、第3回(2008年)B-1グランプリでも特別賞となっており、その人気は高く、地域おこしの成功例の代表格でもある。「富士宮やきそば」は、登録商標であるが、この名称を使用して販売するためには条件が定められており、例えば、その中に、富士宮市内の製麺会社(マルモ食品、曽我めん、叶屋、木下製麺所)と仕入れ契約をかわすなどの条件がある(※9)。
富士宮市は、富士山本宮浅間大社門前町であり、富士登山者や寺社への参拝客が多く訪れていた。また富士宮には身延線の主要駅も存在し、静岡県と山梨県を結ぶ交通の要所でもあった。
そのような歴史的背景から主に戦後にやきそばを売る店が増えはじめ、地域に根付いたものとなっていたようである。先にも述べたように、独自調査の結果、富士宮市がやきそばの消費量日本一であったようだ。
そんな富士宮の「やきそば」が他の地域のものとは異なる特徴のあることに注目し、富士宮やきそばを通じて 元気なまちづくりを目指す「まちおこし」を実行したという。
焼きそば用に使用する素材の主をなすものは、当然に、焼きそば用の麺であるが、この麺が他の地のものには見られないコシがあるのが特徴で、富士宮では地元産の小麦粉を使用している。
その焼きそば用の麺の由来については富士宮市の製麺会社で、この麺の発明者ともいわれるマルモ食品工業が「戦後の食料難の時代に創業者の望月晟敏が戦地で食したビーフンを再現しようと試みた過程でこの蒸し麺が生まれました。この麺の特徴は、水分が少なく、調理する際に水を加えたり、キャベツの水気でお好みの硬さで食することができます。」と麺の開発について、又、それに「肉かす(豚の背脂を絞って残った物)を利用して、香ばしい味を出し、だし粉を加えることで富士宮の味となりました」と、「富士宮やきそば」が美味しい理由をも述べている。
太平洋戦争の前後には山梨県から物資の調達に来る買い出し客や、物々交換で物資を求めて来る人たちもいた。こうした人々の中には山梨県にそんなやきそばを持ち帰りたいという人がいたが、当時の保冷技術と交通手段は未発達であり、山梨県に到着するまでには麺が傷んでしまうという難題があった。こうした課題を克服するため麺作りにも工夫がなされていったとされているようだ(Wikipedia)。
※マルモ食品ほか地元の製麺会社の麺には色々特徴があるようだが、そのことは以下参考に記載の※10:「秘密基地なブログ: 富士宮やきそばの歴史」などに記されている。
「地域おこし」とは、市町村、あるいは市町村内の一定の地区の経済や文化を活性化させることであり、「町おこし」又「村おこし」などともも呼称される。
かって、大量生産されている商品がもてはやされた大量消費社会の時代、農山漁村など都市部への労働力人口が流出し、地域の産業や諸活動の担い手が不足し、これら地方の空洞化・衰退が始まった。しかし、1960年代の高度経済成長が終わると、都市部への人口流出により起こった地域の産業や住民層が空洞化してしまった後の経済的な建て直しや人口回復などが必要となってきた。そのための活動が「地域おこし」である。
かって、日本の地域開発は、企業誘致や国による画一的な開発計画に頼っていたが、近年これらのやりかたに限界が来ており、今までのように、国や政府の政策に頼るばかりでなく、自ら自分たちの地域の持つ特徴・特性を生かして、地域の人々を巻き込んでの地域の内部的発展が求められる時代に入っている。
地域の自立、地域主権の確立が時代のテーマー(地域主権戦略会議参照)として浮上している今日の社会では、内外からその付加価値が問われる。そこで注目されたものに、地域ブランドと言う考え型がある。
それまでの大量生産された単なるモノは人気がなくなり始めたことから、企画化された商品ではなく、全国各地でそれぞれの地域が独自の魅力を自由に追求し、競い合いながらその地のブランドをアピールしあう。それが、地方の時代への展開を推し進め、日本を元気にするためのキー概念(key conceptの日本語化。重要な概念。骨格となる発想や観点・決め手のこと。)となる。
これら地域ブランドの考え方は、民間企業が、マーケティング上のブランド戦略上の見地から、商品等を通じて消費者との関係を構築するために活用されてきた手法である。
その着目の1つは、自分たちの地域・町に着目した観光地ブランド、2つ目は、モノに着目した特産品ブランド、3つ目として、そこに住む人、生活に着目する暮らしブランドなどがあるが、本質的には、これら3つの領域は有機的に結びついているので、これらを、総合的に強化することで大きな相乗効果を生み出すことが出来る。そのために、地域ブランドづくりには、先ず、そのための推進母体づくりをし、その明確なシンボルをつくり、地域との接点づくりへとステップを踏んで進めることが重要である。
このような地域ブランド育成のために、地域名と商品名の商標登録を受け付ける「商標法の一部を改正する法律」が2005(平成16)年に成立し、2006(平成18)年に施行され、地域団体商標制度が始まった。
そんな地域ブランド作りの代表的なものに、平松守彦・大分県知事の提唱による「一村一品運動」があった。この運動は、地域産業の重要性が注目された1970年代後半に始まった地域振興運動の一つであり、各市町村がそれぞれ一つの特産品を育てることにより地域全体の活性化を図ろうとするものであった。
この一村一品運動の源流は、既に、大分県の旧大山町(現・日田市大山町)が1961(昭和36)年から行っていたNPC運動(New Plum and Chestnut運動) である(※11参照)。
これは、旧大山町の持つ山間部と言う点を生かし、そこの環境にあった農作物を生産するほか、付加価値が高い梅干などの商品に加工して出荷位を行なう運動であり、これが成功したことにより、一村一品運動という形で、同じような活動が大分県全体に広がったのである。
このような、地域指向から生まれた一村一品運動の特徴は、その地域の持つ特性を全面的に押し出した商品を生産することによって、地域の活性化を図ってゆこうとするものであり、商品の生産による「まちおこし」を行なうにあたっては、その地域資源を用いて地域の特徴を全面に押し出してゆくことが原則となっている。
そして、地域の人たちが共通の目標を掲げ、自主的な取り組みを尊重し、行政は技術支援やマーケティング等の側面支援に徹することにより、自主的に特産品を育てることができる人や地域を育てる「人づくり」「地域づくり」を行った。また、付加価値の高い特産品を生産することによって農林水産業の収益構造の改善に貢献した。
しかし、一村一品運動に多く見られるもう一つの特徴として、消費の場を地域内でなく、地域外に求めがちであるということがあげられる。売り出した商品がたまたま市場の要求に適合し、金銭的な利益をあげただけでは「まちおこし」が成功したとはいえないだろう。「まちおこし」の目的は、金銭的な利益の追求ではなく、その活動によって地域内の経済や労働力の循環、産業の振興などの成果を長期に渡ってあげていかなければいけない。
そして、食を通じた「まちおこし」として、イベントや物産展への参加による広報活動が行なわれている。メディだけでなく直接消費者と触れ合う形での広報活動の中でも、全国的な知名度を誇るイベントの1つが、今注目を集めているB−1グランプリへの参加による全国的な知名度の獲得である。
これを、上手く利用し、今や全国区の地域ブランドとなったものの1つが、「富士宮やきそば」であろう。
以下参考に記載の※12:「(財)地域活性化センター」の、”地域づくりの事例>地域事業を生かした地域の活性化”の中にある、事例22)静岡県富士宮市を見ると、今や全国区の地域ブランドとなった「富士宮やきそば」について、以下のように紹介されている。
“ただ地元での「日常的な普通の食べ物」にすぎなかった「やきそば」に、付加価値を付けて世に送り出した結果、富士宮やきそば今では全国から年間50万人もの人が、「やきそば」を食べるために富士宮市に訪れるまでになった。しかし、富士山を背景とする自然豊かな富士宮市の地域食材は、「やきそば」だけではない。豊富な湧き水を使ったニジマス、地酒、広大な朝霧高原の酪農、日本一の標高差を活かした多品種の野菜など、美味で特色のある食材がたくさんある。そこで、富士宮市は、「富士宮やきそば」の人気に堂々と便乗し、これらの地域食材にも着目することとなった。・・・として、次に、地域力再生総研の取組を紹介している。
つまり、「富士宮やきそば」は、もともと地元にあった特異な富士宮産の小麦粉を使用し、それに工夫した作り方での特色ある「焼きそば」が、現地の小麦粉生産者、「焼きそば」を作るお店やその材料を販売する会社、店舗、そして。それを求める消費者へと結びつける“つなぎ役”となり、「B−1グランプリ」で得た名声を最大限に利用して、地元への観光、他産業への発展へと連鎖的に繋げてゆき、先にも書いた本来の「まちおこし」の目的、「金銭的な利益の追求ではなく、その活動によって地域内の経済や労働力の循環、産業の振興などの成果を長期に渡ってあげていく」ことに繋げているのである。
そのような意味で、せっかく「B−1グランプリ」開催の元になったとも言われる「天下分け麺の戦い!」をしかけた、「小倉焼うどん」が、(財)地域活性化センターの地域づくりの事例として、挙げられていないのは、単に、地元の焼きうどんの宣伝のみに終わっているからではないだろうか・・・。少し、残念な気がする。
最近は「B−1グランプリ」へ参加し、ゴールドグランプリとなった料理は一気に知名度が上がり、その料理の地元に経済効果をもたらしていることから、投票において、組織票を使っての不正さえも見られたという(※13)。
B級ご当地グルメの祭典 B-1グランプリ公式サイト(※7)の「B-1グランプリとは」のところで、以下のように説明している。
“B-1グランプリはメディアで「日本最大規模のグルメイベント」として紹介されることがありますが、実は私たちはB-1グランプリをグルメイベントとして開催しているのではありません。
 B-1グランプリでは、日本全国の自慢の料理が提供されます。しかし料理を売ること自体を目的としているのではく、料理を通じて「地域をPRする」ことで、一人でも多くのお客さんに現地に足を運んでもらおうという、地域活性化を目的とした「まちおこしイベント」なのです。
それゆえにグランプリの称号は「まちおこし団体」に対して贈られるものであり、「料理」に与えられるものではありません。料理の味の日本一を決めるイベントではなく、料理=B級ご当地グルメの味を含めたまちおこし活動の日本一を競うイベントなのです。“・・・と。
しかし、現実には、B-1グランプリに出場するのは特定団体の加盟団体に限定され、その加盟団体も多くは「地域おこし」を標榜しながら、実は飲食店など「業界おこし」にすぎないとの「地域おこし」専門家の指摘もある(『地域再生の罠』 ちくま新書、2010年)ようだ。さらに、B-1グランプリの知名度が上昇するのに比例して、2008年頃からはグランプリに出場するためにM、ご当地B級グルメを創作する傾向も見られている。特にご当地焼きそば、ご当地カレーは乱立しており、単に「その地域特産の食材」を無理やり詰め込んでできたメニューでご当地グルメを名乗る安易な発想には強い批判も出来ているようだ。・・・私は、このようなイベントには参加したことがないので実態はよく知らないが、これからの時代を考えて、しっかりと、本来の「まちづくり」の一環として取り組むよう行政なども指導力を発揮していって欲しいものだと願っている。
B-1グランプリの次回開催は、「第6回 B級ご当地グルメの祭典! B-1グランプリin姫路 」と名うって、わが地元である兵庫県で開催される(開催日 2011年11月12日〜13日)。
それも、会場は、ユネスコ世界遺産に登録されている 姫路城周辺。興味のある方は是非参加ください。
第6回 B級ご当地グルメの祭典! B-1グランプリin姫路 
公式HP ⇒ http://www.b1-himeji.jp/index.html

(冒頭の画像は、向かって左:焼うどんソース味、右:富士宮やきそば。Wikipediaより)
参考:
※1:小倉の焼うどん研究所HP
http://www.kokurayakiudon.com/
※2:小倉名物!焼きうどん@だるま堂
http://hakata.livedoor.biz/archives/1526261.html
※3:旦過市場 
http://tangaichiba.jp/
※4:NPO法人 北九州青年みらい塾
http://www.miraijuku1999.com/
※5:現場と消費者とをつなぐ“町おこし”という試み【富士宮やきそば学会会長 】
http://www.ntt.com/b-advance/leader/200912/index.html
※6:街物語第四章富士宮◇街を食す
http://www.quizzing.jp/machi/04/02.html
※7:B級ご当地グルメの祭典 B-1グランプリ公式サイト
http://b-1grandprix.com/
※8:八戸せんべい汁研究所
http://www.senbei-jiru.com/
※9:富士宮やきそば学会ホームページ
http://www.umya-yakisoba.com/
※ 10:秘密基地なブログ: 富士宮やきそばの歴史
http://www.geocities.jp/syori59/yakisoba/yakisoba.html
※11:NPC運動 - 大分大山町農業協同組合
http://www.oyama-nk.com/rinen/npc.html
※12:(財)地域活性化センター
http://www.chiiki-dukuri-hyakka.or.jp/
※13:悩めるB級グルメの祭典 競争過熱、「不正投票」も - Asahi
http://www.asahi.com/food/news/TKY201009160502.html
焼きうどん-Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%84%BC%E3%81%8D%E3%81%86%E3%81%A9%E3%82%93
地域活性化の事例とは交付金や地域活性化センターについて
http://2chiiki.info/%E5%9C%B0%E5%9F%9F%E6%B4%BB%E6%80%A7%E5%8C%96%E3%81%AB%E3%81%A4%E3%81%84%E3%81%A6/%E5%9C%B0%E5%9F%9F%E6%B4%BB%E6%80%A7%E5%8C%96%E3%81%AE%E4%BA%8B%E4%BE%8B%E3%81%A8%E3%81%AF%E4%BA%A4%E4%BB%98%E9%87%91%E3%82%84%E5%9C%B0%E5%9F%9F%E6%B4%BB%E6%80%A7%E5%8C%96%E3%82%BB%E3%83%B3%E3%82%BF/

老舗の日

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日本記念日協会の今日・10月20日の記念日を見ると、「老舗の日」が合った。
由来には、“日本は創業100年を超える企業が世界一多いといわれる。その日本が世界に誇るべき老舗の良さを見直すのを目的として、老舗の商品を扱う「老舗通販.net」を運営するスターマーク株式会社が制定。日付は商売の神様として知られる恵比寿様の祭り、恵比寿講の日にちなんで。」・・・とあった。
因みに、今日の記念日を「老舗の日」としているのだから、「老舗の店」のことなど何か書いたことがあるかと思って、老舗通販.Net(※1)のHPを覗いてみたが、“現在、江戸の昔より明治初年にかけて創業された、百年以上の伝統を有する、古いのれんの店53店の集い「東都のれん会」加盟店にご出店いただいております”・・とあったこと、又、そこに、出店の店の商品の通販をしているらしいということ以外は何も書かれてはいなかった。要するに、単なる、CMの一環としての記念日登録なのだろう。
記念日の“日付は商売の神様として知られる恵比寿様の祭り、恵比寿講の日にちなんで。”・・・とあるが、恵比寿様とは、「えびす神社」のご祭神「えびす」のことだろう。
現在では一般に七福神の一員で、釣竿を持ち鯛を抱えた福々しい姿で、大黒天(大国さん)とともに、恵比寿大黒と併称され、福神の代表格として知られており、関西では「えべっさん」の愛称で親しまれている。
だが、それは中世以降の信仰で、「えびす」の由来をたどると非常に複雑な経緯をもっている。「えびす」には、夷、戎、胡、蛭子、恵比須、恵比寿、恵美須などの字があてられ、その語源は、異邦人や辺境に住む人々を意味するエミシ・エビスの語に由来するとされている。
その姿があらわすように、もともとエビスは、漁業の祖神、海上の守護神として漁民の間で信仰され始めたと考えられているが、この神について書けば長くなるので、今日は「えびす」のことを書くつもりはないため、「えびす」のことは、Wikipediaのえびす又、以下参考の※2「豆知識」の“七福神(エビス)”や、※3:「えびす信仰」に詳しく書かれているので、そこを参照されたい。
いずれにしても、えびすが、イザナギイザナミの子である蛭子命(ヒルコ)や大国主命(大黒さん)の子事代主(コトシロヌシ)に結び付けられたのは両神とも水に関連していたためであり、えびすを祀る神社も、概ね「ヒルコ神」系と「事代主神」系に別れているようであり、ヒルコ神系のえびす神社の総本社は、我が地元・兵庫県西宮市西宮神社であり、事代主神系のえびす神社の総本社が、島根県松江市美保神社である。
もともと漁神であったと思われるエビスは中世期には商業神としての性格をもったらしく平安時代後期には、えびすを市場の神(市神参照)として祀ったという記録が有り、鎌倉時代にも鶴岡八幡宮内に市神としてえびすを祀ったという(鎌倉でのえびす神招致については、※4及び、※5のNo139 ,No141 、No 149 などを参照されるとよい)。このため、中世に商業が発展するにつれ商売繁盛の神としての性格も現れ、それは同時に福神としても信仰されるようになったのだろう。
えびす神社では、神無月旧暦10月)に、出雲に赴かない「留守神」とされたえびす神を祀り、えびす講(※6。※7も参照)を催し、1年の無事を感謝し、五穀豊穣、大漁、あるいは商売繁盛を祈願している。旧暦10月20日は新暦に直すと年によって変動するため、多くの場所や神社では、11月20日を中心にその前後に行なわれているが、地方や社寺によっては、収穫後の感謝を祝う秋(旧暦10月20日)と年の初めの豊作祈願を祝う春(正月20日)の2回開催したりもしている。地域によって期日は一定ではなく、京阪では、正月10日を十日えびす(※8参照)といって西宮神社や大阪今宮戎神社などへ参拝するが、江戸では、正月と1月20日に祀った。
商家のえびす講は、江戸時代に町民(町人)の発展に伴って大流行し、各地でが結成された。江戸では、10月、京阪では1月に、床の間にえびす神を祀り、得意先と宴を設けて、賑やかに祝った。膳の決まりは無いが、恵比寿大黒にちなんだ鯛や、季節性の高いもの、江戸なら、出始めのべったら漬けなどが好んで載せられたようだ。また、賑やかに座敷にある品などに大きな値をつけ売買の真似事などをした。
江戸時代の浮世草子・人形浄瑠璃作家にして俳人でもある井原西鶴が、貞享5年(1688年)に刊行した各巻5章、6巻30章の短編からなる『日本永代蔵』の「見立て養子が利発」(巻六の二)に、えびす(夷)講の様子が描かれている(『日本永代蔵』は、※9:「デジタルアーカイブPORTAL_国立国会図書」で読むことが出来る。)。

上掲の画像は、 『日本永代倉』に(国立国会図書館蔵)に描かれている「夷講」の様子(画像は、NHKデーター通信部編、「ヴィジュアル百科 江戸事情」第1巻生活編より)。
京阪では、この日を“誓文払い”ともいい、商人が平素の利得の罪ほろぼしのために、この日に限って商売抜きで安売りをした。誓文とは、神に誓う起請文のことで、嘘いつわりの罪を払い、神の罰を免れようとするのが誓文払いである。しかし、えびす講には人出が多いことから、次第にそれらの人出を当てにして、誓文払い用の特別廉価品を仕入れて売るようになり、期間ものばされて、売らんかなの催しになってしまっていた。そして、呉服店(和服参照)など商店だけではなく、この日には市が立ち、魚や根菜など青物も売られるようになった。商売の神様を商売人が、利用しない手は無いってことなのだろうが・・・。
そういえば、私が、若かりし頃、商法などの勉強していたとき、佐賀 潜商法の解説のなかに、普通の民事のことは、民法で解決できるのだが、利益を追求する商人は欲が深いので、民法では解決が出来ないことが多く、それで商法がつくられた・・・とあったのを思い出す。
さて、これから老舗のことについて書くが、江戸時代前期・元禄期に活躍した近松門左衛門人形浄瑠璃心中天網島』(享保5年=1720年作。全三段)は、近松の世話物の中でも、特に傑作と高く評価されている作品であり、実説の紙屋治兵衛と遊女小春の網島(大阪市都島区)大長寺(※10参照)での心中事件(享保5年10月14日と伝えられる)を脚色したものであるが、この作品の”天満紙屋内の段”の冒頭に、以下のような語りで「老舗」の名が出てくる。
「福徳に天満つ神の名をすぐに天神橋と行き通ふ所も神のお前町営む業も紙見世に、紙屋治兵衛と名をつけて千早ふるほど買ひに来る、かみは正直商売は、所がらなり老舗なり。」・・・と(本文、※11:「鶴沢八介メモリアル【文楽】ホームページ床本集」の44心中天網島参照)。
治兵衛 は大阪の天満天神社前の御前町に紙を商う店を出している。「ちはやふる」はこの神にかかる枕ことばで、同時に、客が「降る」ほど買いに来る繁昌ぶりを表わしている。「紙は正直」は紙の商売が正直ということと、「正直の頭に神宿る」ということわざを掛けている。「所がらなり」は、天満橋は現在でも賑やかな商店街であり、治兵衛 は、こんな繁華な場所に老舗をかまえていたのである。
この作品には、冶兵衛と小春には、死ななければならない定めがあり、追い込まれた末に心中しなければならない「必然」が描かれているが、そのような因果の網が如何に緻密に張り巡らされているかに驚かされる。興味のある人は、以下参考の※12:「日本古代史論壇」で詳しく解説されているので参照されるとよい。
又、井原西鶴の『日本永代蔵』(副題“大福新長者教”)は、副題が示すように、江戸時代の町人らの勤勉・節倹・才知によって富を築こうとする、またそれに失敗する町人らの盛衰を描いた町人物の代表作の一つであるが、その中の「世渡りには淀鯉のはたらき」(巻五の二)に、商売替えして成功した男の例があり、西鶴は、この男の商売の仕方を「商人は只しにせが大事ぞかし」と述べているが、ここでの「しにせ」は得意先のひいきと信用の意で使われている。
この『日本永代蔵』が刊行された頃になると、それまで高度成長を続けてきた経済都市京・大坂もかげりを見せ始め、商業資本主義も行き詰まって飽和状態を示すようになっていた。そのような時代背景から西鶴は、厳格な身分制度(士農工商)のこの時代にあっては、分相応の生活をすることに加えて、現状を直視した生活を営むことが必要であって、職業は親代々から伝わったものを引き継ぎ、得意先を大切にし、新しい取引もしないで、堅実に商売をすることの必要性を述べているが、ここでは、親代々の商売を継いで成功しなくても、他の商売で成功することもあるという例として挙げている(※9、※13、※14参照)。
老舗」(しにせ)のもともとの語源は、動詞「為似す・仕似す(しに)す」に由来し、「似せる」「真似てする」などその連用形が名詞化され「しにせ」になったとされており、江戸時代になって、先祖代々の家業を絶やさず守り継ぐ意味となり、長年商売をして信用を得る意味で用いられるようになったようだ。老舗を“ろうほ”と呼んでも誤りではない。
「老舗」の定義の一つとしては、東京商工リサーチによると創業30年以上事業を行っている企業となっている。
老舗は昔から伝統的に事業を展開するため信用性が高いとされるが、一方で経営が保守的になりやすい傾向も見出せる。平成不況では、ニッチ市場など末端消費者のニーズ(needs)に即した業態が急成長を見せる一方で、老舗が時代の波に乗りきれずに倒産(いわゆる老舗倒産)するケースも増えてきている(※15参照)。
日本には創業100年以上の企業が10万、200年以上の企業が3000以上ある(横澤利昌・編『老舗企業の研究』生産性出版2000年)そうだが、そこには、酒造・和菓子・製造業など伝統産業が多くを占めるが、それらの会社は常に時代の流れに合わせえて変わってきたから存続できたのだろう。
17世紀の後半の江戸には、伊勢・近江・京都をはじめとする上方出身の新興商人たちがたくさん進出した。その中には近世を通じて豪商としての地位を保ち、近代にまで名を残した家が幾つかある。その代表的な例が、三井高利に始まる三井家であろう(三井家のことは、※16:「三井の歴史【三井公報委員会】参照)。
呉服店には江戸時代に創業した所も多いが、百貨店に変化していった老舗も多く、2000年代現在に生き残っている呉服屋を出自とする百貨店に関しては、三井高利が起した三越(創業1673年。現在は、三越伊勢丹ホールディングス傘下の三越伊勢丹が運営)が代表格である(日本の百貨店参照)。
井原西鶴は先に挙げた貞享5年(1688年)刊行の『日本永代蔵』(副題“大福新長者教”)の中で、実在した人物によって才覚重視を強調しているが、「昔は掛け算今は当座銀」(巻一の四)で、駿河町(現在の日本橋室町の一角)へ移転して6年目、江戸進出15年目の「越後屋」呉服店を紹介している。このタイトルは、「昔は後払いの売掛による商売であったが、今は現金売買である」といったところか。そこには、
「三井九郎右衛門といふ男、手金の光、むかし小判の駿河町と云所に、面九間に四十間((間口が九間に奥行が四十間))に、棟高く長屋作りして、新棚(「棚」=「店」、新しい店)を出し、万現銀売り(すべて現金売り)に、かけねなし(定価より高くした値はない)と相定め、四十余人、利発手代(賢い手代)を追まはし(自由に指揮し)、一人一色の役目」」・・・・とある。三井九郎右衛門は、三井財閥の基礎を築いた三井八郎右衛門の誤りで、三井 八郎右衞門は、三井家総領家である北家の当主が代々名乗った名前であり、ここに登場する三井 八郎右衞門は三井高利の次男で江戸の店を任された三井 高富のことだろうか。それとも高利のことを言っているのだろうか。
寛永12年(1635年)に母・殊法(この母親が素晴らしく有能で三井家の基礎はこの殊法により築かれたとも言われる)の命を受けて、14歳のとき一度は江戸に出て兄俊次が開いた呉服店に入って修行していた高利であったが、慶安2年(1649年)に松坂への帰国を余儀なくされた。
高利は、松阪で母親の仕事を手伝いながら家業を拡張し、商業に加えて金融業をも営み、資金を蓄積し、江戸進出の機会を待った。そして、妻を迎え、子宝に恵まれた高利は、自分の子どもたちが、15歳になると、男子は江戸の商人の下に送って商売を見習わせた。
江戸において自らの店を創業することができたのは、それから38年後の延宝元年(1673年)兄利次が没してからのことであった。しかし、このとき高利はすでに52歳の老齢であった。そのため、江戸で修行中の息子達に指示し、江戸随一の呉服街であった江戸本町に間口9尺(2.7m)の小さな借り店舗に、呉服店関係の店「三井越後屋呉服店」(越後屋)を開業させた。次いで京都に仕入れ店を開いた。京都の店は長男・高平に、江戸の店は次男・高富に管理させ、高利は江戸に赴くことなく、松阪にあってこれらの店の采配を振るった。
しかし、江戸の呉服店としては後発に属し、開業当時は間口9尺で使用人10人足らず、武家屋敷の顧客など一軒もないというような、苦しい立場からの出発であっことから、高利が編み出した新商法が当時当たり前であった掛売から、「店前現銀〔金〕掛け値なし」への切り替えであった。
掛売りは貸倒れや掛売りの金利がかさむため、商品の値が高く、資金の回転も悪かったが、店前売りに切り替え、商品の値を下げ、正札をつけて定価制(掛け値なし)による店頭販売での現銀(金)取引を奨励した。この現金売りによる収入は資金の回転を早め、二節季払い(年二回の「節季」【 盆暮れ等】払い)の仕入れ先には数倍活用された。
その新商法が旧態依然の同業者間からは反感を持たれ、嫌がらせをされ、追い出され、仕方なく、天和3年(1683年)本町1丁目から、近くの駿河町に移転したが、商売は繁盛を続け、両替店三井銀行【現:三井住友銀行】の前身である三井両替店)をももつ大商人の道を歩みだした。
越後屋は、はじめ4間間口の小さな店であったが、あっと言う間に店間口は東西が36間を越し、駿河町表間口の半分を占めるほどになっていった。その後、大阪にも進出し、三都に呉服・両替の店を構え三都の両替店は、幕府の金銀御為替御用にも大きく関与した。

上掲図が、江戸駿河町・三井越後屋の図(三井銀行蔵。写真は、週間朝日百科「日本の歴史84・近世?」より)であり、下に掲載の図が「越後屋」の商い風景。三越資料館蔵として、週間朝日百科「日本の歴史68・近世?に掲載されていたものである。
越後屋は、「現金安売り掛け値なし」での「店前売り」だけではなく、「小裂何程にても売ります(切り売り)」もしていた。また、反物を、金襴類、羽二重類、紗綾類、紅類、麻袴 類、毛織類等などと分類し、店員の担当を生地ごとに明確に分け、顧客の如何なる質問 にも応じられる販売体制を敷いていたがこの手法は、「一人一色の役目」と言われていた。そのほか、数十人の仕立屋を抱え、いそぎ客へは即座仕立てによる販売方法が述べられている他、いろは付きの引出で商品の管理を行い、この店にはないという物がなく何でも揃っていると、『日本永代蔵』では「越後屋」での商品管理の方法や品揃えの良さを述べ、「大商人の手本なるべし」と絶賛している。
それに、広告文を史実的に見ると、天和3年(1683年)3月、越後屋が江戸府内全域に配った引き札(ちらし)の「現金安売り掛け値なし」のコピーが日本での第1号だという。
この引札のコピーは、八郎右衞門自らの起草と見られるが、修辞(レトリック)を一切排した実用文形式で、越後屋の営業哲学を鮮明に盛り込んだものだそうで、これが当時の商慣習を一挙に改変させることになり、以後この形式の引き札が江戸の町に氾濫するようになった。まさに見事なコピーライティングであり、時代を先取るプロモーション戦略であったと言えるだろう。
又、西鶴の『日本永代蔵』でのこのような実在した人物による成功例は、虚構として作り上げた人物の成功譚よりも、当時の町人たちに大きな影響を与えたことであったろう。
しかし、このように成功し、一代で大きな財を成し得ても、それを子孫が維持し続けることはなかなか難しいことである。多くは累代にわたって分散されていってしまうからだ。
高利は、元禄7年(1694年)に没したが、その後も三井が発展の途をたどり、幾多の危難をのりこえて、近代以降も財閥(三井財閥)として繁栄できた一因としては、高利の「真底一致」の方針と、それを細かく規定した二代目、高平が制定した家憲「宗竺(そうちく)遺書」の存在があるという。
つまり、高利は残された資産を分割することなく、共有して運用することを子供たちに望み、子供たちは、その遺志を継ぎ高平の主導のもと兄弟全員の仕事として、家業を続けることにし、また新たなお店(たな)を起こしている。そして三都の諸店や幕府の御為替御用など営業内容も複雑となりこれを統括する組織として「大元方(おおもとかた)」が宝永7年(1710)に設置されている。これは、三井一族の事業を統括し、共有とした財産を維持・運営する今で言うところのホールディングカンパニー(「持株会社」)的な機能をもつ最高機関ともいえよう。
続いて、高平と都市の近い2人の兄弟で享保7年【1722年】に家法である、「宗竺遺書」(宗竺とは高平の隠居名)が作成され、他の12人の同属(三井では同苗と称するそうだ)がその遵守を誓ったという。これらの内容は単なる精神的な家訓や資産の配分方法を示した遺書とは異なり、かなりの長文で具体的なことを示したものだそうであり、この中には、同苗の子弟の教育方針も定められており、例え一人っ子の惣領であっても一家の害になるような者は勘当し、同苗から養子をとるとか、愚鈍で渡世も出来ないような者は出家させよといった厳しい方針が示されているそうだが、その内容等は、※16:三井の歴史【三井公報委員会HP】を参照されると良い。また、越後屋呉服店の創業に関しては、以下参考の※17:「我が国に於ける革新的小売業の源流ー越後屋呉服店の創業に関して」で詳しく解析されているので興味のある人は見られるとよい。
最近、総合製紙大手の大王製紙の井川意高元会長(47才)が子会社から総額80億円超の資金を個人的に借り入れたとして辞任した問題で、元会長の借入総額が100億円を上回る見通しであることが同社関係者の話で分かったという。また、借り入れのうち数億円は米国ラスベガスのホテルに開設された元会長の個人口座に直接入金されていたとみられることも判明したそうだ(※18)。
大王製紙は、愛媛県宇摩郡三島村(現在の四国中央市)出身の井川伊勢吉が1941年(昭和16年)に設立した四国紙業株式会社が前身で、大王製紙は、四国紙業など14社が1943年(昭和18年)に合併して発足した会社。中心である四国紙業の創業者(井川伊勢吉)の孫が、こんなことをしでかし、又、井川意高が社長時代のものもらしいが、東証1部に上場されている会社内で、このような商法違反行為が行なわれていたということが信じられない。三井の同苗から見ればどういうことになるのだろう・・・・。
株式会社は、社長のものではなく、株主のもの。会社には、代表取締役を監視する監査役もおり、会計監査をしている公認会計士もいるはずだ。それらの機関が全く機能していなかった言うことだろうが、なんとも情けない話ではある。
やはり、江戸時代末期の呉服店出身の老舗で、戦後急成長した企業に、三重県四日市市の老舗呉服商「岡田屋」(創業は宝暦8年=1758年。太物【絹織物を呉服というのに対して、綿織物・麻織物など太い糸の織物の総称。】・小間物商「篠原屋」)がある。この「岡田屋」を経営する岡田家に伝わる家訓は「大黒柱に車をつけよ」であり、岡田卓也氏の同名の著書も出版されているが、本来動かないはず、あるいは、動かしてはならないとされているはずの「大黒柱」であっても、時代の変化によっては、車をつけて、動かすつもりで対応しなくてはならないという意味であり、著書では、呉服屋であった岡田屋が、人の流れを見ながら、戦前に繁華街であった場所から、四日市市役所近辺へ、更には四日市駅前へと移転し、更には郊外型のショッピングセンターのモデルへと進化を遂げていったことを例に挙げて、変化への対応の重要性を説明している。
今では、日本の流通業界ナンバーワンといえるまでに育ったイオン株式会社であるが、イオンは、大手流通グループ「イオングループ」を統括する純粋持株会社(※19)であり、このイオングループは、イオン株式会社(旧:ジャスコ株式会社)を純粋持株会社に、イオンリテール株式会社を中核に、国内外190余の企業で構成される大手流通企業グループである。
旧:ジャスコは、1970年(昭和45年)、当時はローカルスーパーマーケットチェーンの域を出なかった岡田屋が、フタギ(兵庫県姫路市)、シロ(大阪府吹田市)と提携し、この3社が共同出資で共同仕入会社の「ジャスコ株式会社」を設立したことを起源とする。
ジャスコは「商業を通じて地域社会に奉仕しよう」を社是(会社や結社の経営上の方針・主張。また、それを表す言葉。)とし、社命も「日本ユナイテッド・チェーン株式会社」の英語訳である"Japan United Stores COmpany"の頭文字をとったものとなっている。この社是の目的と使命に共鳴する同志朋友の参画と結集をもって『連邦制経営』を推し進め、参画企業との合併や買収を続けながら、全国各地へと展開をしていった。
又、ジャスコの事実上の創業者でもある岡田卓也(元岡田屋社長)の強力なリーダーシップのもと、同業他社や百貨店などが駅前や中心街に多くの店を構え苦しんでいる中、岡田屋時代の家訓そのままに、時流のモータリーゼーションの発達に合わせて、既存の駅前や中心街の店を積極的にスクラップし、郊外型の大型ショッピングセンター中心への出店に方向を転換。つまり、スクラップアンドビルド政策により企業規模を拡大してきた。
私は、現役時代の仕事の関係でジャスコのことは良く知っているが、ジャスコの中心企業であった岡田屋はなによりも信用である「のれん」を第一の財産とした経営方針を貫いていた。又、マスコミではあまり取り上げられなかったが、社会貢献活動にも早くから力を入れていた。そして、ズット先の、将来の企業規模が拡大された時の姿を描いて、大きくなった企業を管理運営していけるだけの幹部候補を確保すべく、従業員教育に最大の力を入れていたことは、流通業界で知らぬ人はないほど有名であった。
岡田卓也は岡田屋時代から、岡田屋は地方では成功していたが、企業の寿命は30年しかもたないと常に考え、何時、地方の岡田屋を捨てきれるかを考えていたという(※20)。その結果が、当時では目珍しい3社合併によるジャスコ設立へと繋がったのである。合併後も、絶えず、次の30年後の姿を描きながら、それを実現するための政策を立案し、それを実現してきた人だ。そして、「改革」を重視し、経営幹部には失敗を恐れず新しいことにチャレンジする人間を抜擢してこれに取り組ませ、そのための資格制度を社内に設け、能力主義の人事政策をとってきた。
ただ、基本の本業から大きく外れないことを鉄則としている。つまり、消費者との接点となる小売業(本業)から大きく離れず、将来どんな変化にも対応出来るよう様々な業種・業態開発を行ない、本業である小売業とのシナジー効果を生み出した。小売業以外の分野、例えば保険業や金融業などの業態へも進出もそうだ。
グループ内の企業の幹部を年に一度集めて行なわれる政策会で、求められる決まりごとは、現状に満足しないでの「革新に継ぐ革新をする」ことである。その努力がこの企業を今の姿にした。
1989年(平成元年)にグループ名称を「ジャスコグループ」から「イオングループ」へ変更しているが、「イオン (ÆON)」とは、古典ギリシア語 αἰών(aiōn、アイオーン)に由来するラテン語で、「永遠」を意味している。同社において社名をジャスコやイオンへと商号を変更してきたのは単に多くの企業との合併や買収をし。企業規模が拡大したから変更したのではなく、企業がひとつの目的を達成したときに、それを区切りに、グループ会社の全員に新たなる次の目標を明確にしたトップの意思を表したものとなっているのだ(※20、※21など参照)。商号変更後、イオンは永遠に発展するため、グローバル化の中で、今は世界に目を向けた戦略の下、海外への企業進出に本格的に取り組んでいる。
少子高齢化の進む日本のマーケットの将来は縮小せざるを得ない。イオンは、早くから社員の資格制度の中に英語検定を条件に入れるなど、海外との取引の出来る人材開発を準備してきている。海外への出店が加速していくだろう。
このように、今、歴史のある老舗と言われる企業で、生き残っているところは、その規模の大小を問わず、ただ古くからの伝統を守り、信用を大切にするだけでなく、絶えず、時代の流れに合わせた革新的経営にも取り組んできたところのみが今、存続できているのだろう。
時代の流れがどんどん変化し、変わりながら企業の仕組みや商品サービスが何も変わっていないことなどありえないことだ。表面上は古い伝統を守り続けているだけのように見えても、見えないところで、大変な時代への対応のための努力がされているのだ。
常に改善と変化へ、時にはのリスクを取りながらでも改革へのチャレンジすること意外に、時代の変化に取り残されない方法などないのである。
岡田の危惧していた時代よりも10年ほど遅れて、それでも、今から約30年前の1980年代には「会社の寿命は30年」説が言われるようになったが、これは確か日経ビジネスの統計によるものだったと思う。「企業にも寿命があり、優良企業とはやされても盛りは30年まで」という結論は衝撃的に受け止められた(※22参照。『会社の寿命―盛者必衰』と言う本も1989年に日経ビジネスから出版されている)。
しかも、世界のグローバル化も進み、社会の変化が激しくなってきた中、バブルも弾け、市場規模も縮小してきている今日、長引く不況の中で、ひとつの事業が利益を生み続けられるスパンは年々、短くなっているであろうが、会社の寿命も10年から5年に向かっているという(※23参照)。
この30年で跡形も無くなった会社もあり、いまも健在な会社もあるが、これからどう対処していかなければならないのか?以下参考の※22、※23など読んだ上、※24:「企業の寿命と再生:純丘曜彰 教授博士」など読むと分かりやすいのではないか・・・。
老舗といわれる会社だけでなく、会社と運命共同体の関係にあるサラリーマンも、今後のライフプラン(生活設計)を考える上で、現状をよく理解しておかなければならないだろう。
ギリシャを含むPIIGS(ピーグス)と呼ばれる国々は、今起こっている世界金融危機において金融・財政部門の改善が自国の力のみでは達成出来ない可能性のある国々であるが、2009年末からギリシャを中心とした財政破綻とユーロへの影響の懸念が強まっており、世界の経済は先行きが見えなくなってきているのだから・・・。以下参考の※25:「総括・平成大不況」ではバブルの問題や原因が良くわかるよ。
参考:
※1:老舗通販.net
http://www.starmark.co.jp/
※2:豆知識
http://www.geocities.jp/mitaka_makita/kaisetu/mokuji.html
※3:えびす信仰
http://homepage3.nifty.com/kencho/ebisu.html
※4:ようこそ「金沢・時代の小波 金沢・七福神巡り」へ
http://homepage2.nifty.com/351217/kanazawa8.htm#tomioka
※5:鎌倉TODAY>鎌倉を知る”KIさんの鎌倉レポート”
http://www.kamakuratoday.com/suki/ki/index.html
※6:冠婚葬祭マナー百科:秋の行事:えびす講の由来
http://5go.biz/kankon/q10_4.htm
※7:忌籠祭(いごもりまつり) -Yahoo!百科事典
http://100.yahoo.co.jp/detail/%E5%BF%8C%E7%B1%A0%E7%A5%AD/
※8:えびす宮総本社 西宮神社 公式サイト
http://nishinomiya-ebisu.com/index.html
※9:デジタルアーカイブPORTAL_国立国会図書:「日本永代蔵」
http://porta.ndl.go.jp/Result/R000000008/I000019950
※10:小春・治兵衛の墓(大阪市都島区)
http://www12.plala.or.jp/HOUJI/shiseki/newpage455.htm
※11:鶴沢八介メモリアル【文楽】ホームページ床本集
http://homepage2.nifty.com/hachisuke/yukahon.html
※12:日本古代史論壇
http://www.ribenshi.com/forum/thread-3556-1-1.html
※13:日本永代蔵 - 京都大学電子図書館
http://edb.kulib.kyoto-u.ac.jp/exhibit/np/eidai.html
※14:永代蔵・胸算用に見る町人の姿
http://onda.frontierseminar.com/ei.doc
※15:2010年「業歴30年以上の企業倒産」調査【東京商工リサーチ】
http://www.tsr-net.co.jp/news/analysis/2011/1208627_1903.html
※16:三井の歴史【三井公報委員会HP】
http://www.mitsuipr.com/history/edo/tanjo.html
※17:我が国に於ける革新的小売業の源流ー越後屋呉服店の操業に関して
http://www.biwa.ne.jp/~akira036/PDF/write13.pdf#search='越後屋 面九間 四十間'
※18:<大王製紙>井川元会長 借入総額が100億円超の見通し
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20111018-00000009-mai-soci
※19:純粋持株会社 - 金融用語辞典
http://www.findai.com/yogo/0265.htm
※20: [PDF]創業時からの家訓「大黒柱に車を付けよ」
http://www.zeroemission.co.jp/B-LIFE/SFC/speech04/sp0406.pdf
※21:「イオン」ネーミング変更に秘められた企業体の意思
http://www.id10.jp/brandingnews/101101
※22:「会社の寿命30年」説を検証 - 日経NEEDSで読み解く
http://www.nikkei.co.jp/needs/analysis/04/a040922.html
※23:【会社の寿命】今や"寿命"はわずか5年:日経ビジネスオンライン
http://business.nikkeibp.co.jp/article/manage/20090212/185916/
24:企業の寿命と再生:純丘曜彰 教授博士
http://www.insightnow.jp/article/5706
※25:総括・平成大不況
http://home.kanto-gakuin.ac.jp/~morisaki/004econo_leaks/fukyou2.htm
老舗倒産の動向調査 | 帝国データバンク[TDB]
http://www.tdb.co.jp/report/watching/press/p050301.html
老舗 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%80%81%E8%88%97

神戸市長選で革新系候補が当選。六大都市全ての市長が革新系となる

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1973(昭和48)年10月28日投票の神戸市長選挙で、社会・共産・公明・民社推薦の宮崎辰雄候補が自民推薦の前代議士を破って当選。これで太平洋ベルト地帯の6大都市首長は、全て革新系となった。上掲の写真は、上から時計回りに、大島靖大阪市長、船橋求己京都市長、飛鳥田一雄横浜市長、宮崎辰雄神戸市長、本山政雄名古屋市長と都知事美濃部亮吉(写真、文:朝日クロニクル「週間20世紀」1973年号より)。
宮崎辰雄は、神戸市助役を経て、1969(昭和44)年から神戸市長を5期20年(1969年 – 1989年)務めた他、財団法人神戸都市問題研究所(※1 )の創設者・理事長としても活躍した。
「最小の経費で最大の市民福祉」を基本理念に、「山、海へ行く」のスローガンの元、神戸のシンボル「六甲山」を大胆に削り取り、その土砂を神戸港の埋め立てに利用することで、ポートアイランド六甲アイランドなど巨大な人工島を次々に造成。1981(昭和56)年には神戸ポートアイランド博覧会協会会長として「新しい”海の文化都市”の創造」をテーマーに「ポートピア'81」の開催を成功させ、この博覧会の成功は、1980年代後半の「地方博ブーム」の火付け役ともなり、また、埋め立て地の売却益や、外国金融機関からの起債を中心に、国からの補助金に頼ることなく自力で神戸市を大きくする行政手法を展開。一連の宮崎行政は、都市経営のモデルとして「株式会社神戸市」と呼ばれ、国内外から大きな注目を浴びたものだ。
宮崎が市町退任後のことであるが、そのポートアイランドの南側沖合には、1995(平成7)年、1月17日、あの直下型の阪神淡路大震災(マグニチュード7.3)に遭遇後、街の回復に努めるが神戸の歴史的にも最も重要な港が被害にあったため、神戸港へ入港の船も大阪港など他の都市港にとられ、産業も1部他都市へ移転するなど今も苦戦を強いられている。そのため、市民おなかに賛否両論ある中、神戸市の再生をかけて、新たにポートアイランド沖南側に人工島が建設され、2006(平成18)年2月16日に神戸空港が、開港したが・・・・・。現在、空港の利用数が当初の目標数にいたらず、この空港建設費を補う予定にしていた土地売却や、企業誘致など進まず、震災後の神戸の財政がピンチに陥っているが・・・。そこには、宮崎が市長をしていたときからの神戸沖空港建設問題が絡んでいる。この空港問題に触れる前に、当時の社会問題を少し振り返ってみよう。
日本の戦後改革に次いで、日本社会を大きく変えたのは、高度経済成長期であり、それは、一般には1954(昭和29)年12月から1973(昭和48)年11月までの約19年間をさすといわれている。つまり、先に述べた革新系の宮崎が自民推薦の前代議士を破って神戸市長に当選し、神戸が革新自治体となった頃までである。
この間には1964(昭和39年)後半から1965(昭和40)年に掛けておきた証券不況も乗り越え成長をしているとき、アメリカ経済の衰退が進み、1971(昭和46)年8月、ニクソン・ショック(金ドル交換停止)、円切り上げもなんとか乗り切り、日本経済の規模は、国内総生産(GDP)では、名目で約13,5倍、実質で約5倍に増加し、都市から農村への人口移動の激増、産業構造の転換がもたらされるが、その半面、こうした経済成長の陰で社会公共投資や福祉支出は低水準にとどまり、また生活環境の破壊が起こり「水俣病」や「イタイイタイ病」、「四日市ぜんそく」といった公害病の発生、大量生産の裏返しとしての、ゴミ問題などの公害の問題や交通戦争そして、過密化という都市問題と地方の過疎化という問題が同時進行することになった。この当時TV番組では、1972(昭和47)年1月1日から放映されていた笹沢左保の同名小説をテレビドラマ化した『木枯し紋次郎』の主人公が新しいヒーローとして人気を集めていた。本作は、これまでの股旅物の主流であった「ヒーロー然とした渡世人がバッタバッタと悪人達をなぎ倒し、善良な人々を救う」といったスタイルを排し、他人との関わりを極力避け、己の腕一本で生きようとする紋次郎のニヒルなスタイルと、主演の中村敦夫のクールな佇まいが見事にマッチし、空前の大人気番組となり、劇中紋次郎が口にする「あっしには関わりのねぇことでござんす」の醒めたセリフが、学生やサラリーマなど若者の間での流行語にもなっていたが、その当時の世相について、私の手持ちのアサヒクロニクル「週刊20世紀」(1973年号)冒頭には、以下のように書いている。
”「世界各国に比べ日本の若者はとりわけ強い不満をもっている。」という調査結果が1973(昭和48)年に発表された。調査をしたのは当時の総理府で、米英仏独だけでなく北欧、アジアの国々の10代20代を調べて比べたものだ。「国は国民の福祉や権利を守っていると思わない」と答えた日本の若者は他の国よりも断然多いし、「産業開発を優先しすぎて個人の生活を不幸にしている」と思う若ものの数も他国に比べてかなり高かった。家庭の暮らし、学校や職場の生活、友人関係、社会生活などについての不満度はいずれも驚くほどに高い。戦後50年足らずのうちに、日本の開発は恐ろしい速さで進み、世界有数の過密社会・競争社会が生まれていたのだ。農作物の輸入が増え、食料自給率が減った。地価が高騰し、土地成金が輩出し、人々は大都市の息苦しさに喘ぐようになった。開発優先の政治、カネがものをいう政治への不満は強い。・・・が、政治を変える筋道は見つからない。戦後の日本では「カネカネ、ハヤクハヤク」の考え方が人々の心を汚染した、と歎いたのは日本を良く知るバーナード・リーチだが、そうして作り上げた社会こそが若ものの不安・不満を助長したのだろう。”・・・と。
これを読んでいると、この時代には、日本だけでなく世界中の若者が21世紀初頭の社会の姿について暗い見通しを持っていたといえる。当時紋次郎のしらけたセリフが流行った要因が出来上がっていたわけである。
1973(昭和48)年に発表された当時の総理府調査を今、私は確認できていないが、以下参考に記載の※2:「福祉社会」の【表3−171】1人当たり社会保障給付費の国際比較(単位:ドル)の1973年のところを見ると、この時点では他国に比べて極端に低いことは理解できる。
そのような背景があったからこそ、1960年代末には、東京・大阪・京都・沖縄で革新知事が誕生し、1970年代前半、反公害や福祉政策・憲法擁護を訴え、革新首長が相次いで誕生することとなった。
そして、高度経済成長時代後半にはその政策の見直しが迫られ、公害対策基本法の制定(1967年)や当時通産大臣であった田中角栄が日本列島を高速交通網(高速道路、新幹線)で結び、地方の工業化を促進し、過疎と過密や、公害の問題を同時に解決することを提唱した『日本列島改造論』(1972年6月発刊)へと繋がることになる。
この『日本列島改造論』の発刊された翌・7月に田中が首相となり、この本に促された構想が即具体化されると、日本列島改造ブームが起き 、『日本列島改造論』で開発の候補地とされた地域では土地の買い占めが行われ、地価が急激に上昇した。この影響で物価が上昇してインフレーションが発生し、1973(昭和48)年春頃には物価高が社会問題化する。その対応に苦慮しているうちに、同年10月に起きた石油ショックによる相次いだ便乗値上げなどにより、さらにインフレーションが加速されることとなってしまった。
このような中、田中内閣は1972(昭和47)年には老人医療の無料化(※3)、1973(昭和48)年には年金給付額の大幅な引き上げなどを行なうなど、1973(昭和48)年を福祉元年と位置づけ、社会保障の大幅な制度拡充を実施した(※4参照)が、これは、東京をはじめ全国の主要都市で、「福祉と環境」を掲げた、革新自治体の誕生や参議院での保革伯仲が予測される状況にあったなど、当時の政治状況への危機感からのものであり、福祉国家の明確なビジョンに基づく成果ではなく、政権維持のための政治論理によるものであったといえる。企業も低成長時代に対応した減量経営を進め、超効率社会を目指した。GNP(国民総生産。注:GDPとは違う。)第一主義に軌道修正をくわえ、もっとゆとりある生活を求めた日本人は、この石油危機を境にふたたび馬車馬のように働き続け、単身赴任・過労死というそれまでに見られなかった現象にあらわれるように、すべてが企業中心に動き出すという、企業社会(※5)、会社人間を生み出すことになっていった。
1973(昭和48)年3月に刊行され「空前の大ベストセラー」となった小松左京の『日本沈没』は、日本列島が地殻変動によって沈没し、日本人が国土を喪失し、ユダヤ人のような流民の民となるといった壮大なSF小説であったが、これも、前年に田中内閣が打ち出した「日本列島改造論」に対する皮肉なアンチテーゼ(、最初の命題の反対の理論・主張。逆のテーマを持つ物)であったかもしれない。
前置きが長くなったが、ここっで、本題に戻る。
北側が山、南側が海の東西に細長い地形の神戸は大都市でありながら平らな市街地が少ない。そのため、明治時代には、神戸の中央を流れる旧湊川を埋め立てて、一大市街地を造成して出来たのが「新開地」の誕生である。埋立事業は、そんな神戸市が発展するための必要欠くべからざる宿命的なプロジェクトであったともいえる。
敗戦後の神戸の復興機である昭和20年代から30年代にかけて、故・原口忠次郎市長(在職1949年-1969年。※6)時代に始まった東部、西部の海面埋立事業を皮切りに、技術者(工学博士)でもあった原口の発想「山、海へ行く」のスローガンによる土地造成事業を受け継いだ宮崎辰雄市長による昭和40年代以降のポートアイランドや六甲アイランドといった巨大な人工島建設へとつながる、巨大プロジェクトであった。
神戸空港建設計画は、そもそも、戦後間なしの戦災復興都市計画として、1946(昭和21)年の「市復興基本計画要綱」に初めて登場するが、その具体的な神戸沖空港建設の計画は、1969(昭和44)年5月に当時の運輸省の関西新空港構想(※7)に始まっている。
一方、当時の大阪国際空港関西国際空港と区別する上では伊丹空港と呼ばれている)の交通アクセスの良さは、同時に周辺住民の騒音被害と背と腹の問題を抱えていた。1970(昭和45)年には、国際博覧会史上アジアで初めての開催かつ、日本で最初の国際博覧会となる「大阪万博」に合わせて3千メートルの滑走路を増設。ジェット化はさらに進み、深夜にも郵便用の飛行機が飛んだ。1969(昭和44)年から「静かな夜を返せ」と住民たちが夜間飛行差し止めなどを求め相次いで国を訴えた(大阪空港公害訴訟については、コトバンク又、Wikipedia参照)。
周辺の11市でつくる「大阪国際空港騒音対策協議会」も「空港撤去」を旗印にしていた。こうした動きを受け、当時の運輸省でも、後の関西国際空港につながる新空港の海上建設を模索され、この構想では、関西新空港予定地(関西第二空港予定地)は神戸沖の他にも、播磨灘、淡路島、大阪・泉州沖が想定されていたが、大都市圏からのアクセスの利便性により神戸沖が有力視されていた。
第1期宮崎辰雄市政の時代は、このように、公害反対を強く主張する革新勢力に力があった時代でもあったことから、1972(昭和47)年の神戸市議会は「神戸沖空港反対決議」を賛成多数で可決した(反対決議案に賛成した市会会派=公明党、社会党、民社党、共産党)。また、翌1973(昭和48)年3月、宮崎市長(当時・保守系)も、市会本会議で神戸沖空港反対を表明。
そして、同年10月28日投票の神戸市長選挙では、空港問題が最大の争点となるが、これまで宮崎市長を支持していた自民党が宮崎の「空港反対」に不快感を示して対立候補を立てたため、逆に、これまで市長不支持だった共産党が市長支持派に加わり、社会・共産・公明・民社が推す宮崎が、革新系市長として再選されることになったことから、翌年の答申では泉州(現在の大阪府南部)沖となった(※8:「神戸空港を考えよう」の★「神戸空港計画」が歩んだ波乱の歴史参照)。
先にも触れたように、高度経済成長と共に社会問題となっていた公害、環境問題に対する世論の関心の高まり、成田・伊丹を契機とする、反騒音・反公害運動の活発化は無視できなかったわけであり、政治基盤がまだ、安定していない宮崎市長には空港建設方針を取り下げなければ落選間違いなしの背景があったことから、「空港に固執し政権の座から転落するか、空港を断念して政権を死守するかという厳しい選択を迫られていたわけだ。
国政の選挙でも同じことだが、民主主義国家による選挙においては、政治家は、国民の投票によって選ばれるわけであるから、どうしても、国民の支持がなければ当選することが出来ないが、その国民は世論に左右される。しかし、この世論というものは一体誰がどのように作り出しているのか・・・。
マスコミが意見を述べる場合、自分たちが行なったアンケートなどの結果をもって、世論・世論と言うが、今朝(2011・10・28)朝日新聞天声人語に、以下のようなことが書いてあった。
”うそには3種類ある、と言ったのは19世紀英国の宰相ディズレーリだった。すなわち、普通のうそ、ひどいうそ、そして統計数字であると。統計に限らず数字は水物で、例えば質問の仕方でがらりと変わる。いささか古い国内の例だが「規則を曲げて無理な仕事をさせることもあるが、仕事以外でも人の面倒をよく見る」という課長を良いと答える人は84%いた。ところが前後を入れ替えて、「仕事以外でも人の面倒をよく見るが、規則を曲げて無理な仕事をさせることもある」だと47%に減ったそうだ。”・・・と。私など現役時代仕事上、このようなテクニックは自分でも人を説得するときによく使ったし、又、逆にいろんな場面で、このようなことを意識的に利用して使っている人を多く見てきた。だから、アンケートなどの統計数字も、質問側がある種の思惑を持って質問すれば、その回答も、質問側の期待した思惑通りになる事を知っている。だから、マスコミの行なうアンケートが全てそうだとは思わないが、かなり多くのアンケートに、そのような意図を持って行なわれたと感じるものがあるので、マスコミが、アンケートの結果をもって、それを「世論」と言っていても・・・そんな魔物のような世論を、私はいつも懐疑的に見ているのだが・・・。
1981(昭和58)年3月 ポートアイランド第一期事業が完成し、記念事業として「神戸ポートアイランド博覧会」が開催され、予想入場者数を310万人上回る1,610万人が来場。60億円の黒字を計上し、神戸市の都市経営が国内外から評価されたものの、港湾都市神戸市にとって、将来的にも、隣接する大阪との都市間競争に打ち勝って西日本の経済中枢都市の位置を占めるには、当時、海上輸送だけではなく航空輸送を確保することが欠くことの出来ない戦略的インフラだと考えられていた。だから、まだ勢いのあった当時の神戸であれば、空港を持つことによって、もっと、神戸を発展させることが出来たかもしれないし、宮崎市長自身は空港建設をすべきだった考えていたようである。
結局、空港建設問題が政局に利用され、選挙民が空港への反対の意思表示をしたことになってしまった以上、空港建設反対は、当選至上主義の選挙制度の持つ限界を表しているともいえるだろう。
ただ、以下参考の※9:「神戸空港を取り巻く情勢をどうみるか、その1」でも書かれているように、宮崎市長が建設に賛成意見であったならば、次回の1977(昭和52)年選挙で方針変更を主張し、政治生命をかけて立候補すべきであっただろうがそれをしなかった。そのくせ、彼の回顧録を読むと、神戸空港建設の撤回声明は「一世一代の不覚」、「本心に反した反対声明」、「偽りの誓い」とかいった言葉であふれており、市民に対して「空港建設撤回という心にもない公約」をしたことを心の底から「後悔」している。助役16年、市長20年、計36年の政治生活のなかの「最大の判断ミス」だといっているという。
伊丹空港の騒音訴訟問題があったことなどから、1973年の時点では、神戸沖に拠点空港を新設し、伊丹は廃止するというのが運輸省内の大方針にもなっていたといわれる。にもかかわらず、それまで、空港建設に積極的であった神戸市が世論に推されて、土壇場になって「変節」したことから運輸省が激怒し、「神戸市には絶対空港はつくらせない。」と当時の幹部が断言して以降、神戸市は運輸省から「出入り差し止め」を宣告され、新空港建設計画は、大阪・泉州沖を候補地に絞り、地元の説得に乗り出すことになったわけである。
ところが、泉州沖空港計画が具体化するにつれて、宮崎市長が1982(昭和57)年になって神戸沖空港計画(国内線専用空港として)をふたたび蒸し返し、それも驚いたことに、建設反対決議をしたはずの社会党や共産党までが空港反対から空港建設へ一斉に「転向」。この段階から市当局、議会各派、市職労を含めての市役所挙げての空港建設に邁進する「市役所一家体制」が出来上がってしまった。・・・・と、言っているように、その後、1989(平成元)年 10月 には、神戸市長選挙で宮崎市政継承を掲げ、自民党から共産党まで全政党が支持、推薦する笹山幸俊助役が当選 し、翌年には 神戸市会、兵庫県会で「神戸空港推進」を全会一致で決議し、「市役所一家体制」で神戸沖空港建設へ邁進していく。
神戸空港建設には、大阪国際空港や関西空港があることによる採算の問題、空域の調整の難しさや船舶航路との干渉(ここ参照)、予定地域の活断層など安全性の問題などに疑問を持つ人がおり、早期から反対運動が存在した。
1990年の全会一致の推進議決の段階でも、議会内に空港反対の意見が存在し、社会党と新社会の分裂の要素の一つともなったようだ。また、「神戸空港を考える会」も発足した。しかしこれらの活動は概して限定的で全市民的な運動とは成り得ていなかった。
神戸空港問題が大きな市民活動になったのは未曾有の被害を出した阪神淡路大震災後である。
笹山市長は引き続き空港建設を明言し、震災復興計画に神戸空港計画を盛り込んで「防災の拠点」と位置づけた。しかし震災で日々の生活にダメージをうけた市民の感情とは大きく隔離し、むしろ逆なでしたものとして大きな反発(市民救済より従来型の建設に力点を置くやり方)を招いた。
この時、笹山市長は「市民に財政負担は一切かけない」事を明言した。笹山市長の案では空港埋立地の売却益によって、市税を使うことなく、債務を完済出来るという考えであった。しかし、埋め立てを中心とした土地開発行政、いわゆる「神戸方式」は実質的にはバブル崩壊以前から行き詰ってきていたが、『一度覚えた成功方式』の転換、修正は困難であった(以下参考の※10:「神戸市財政の根本問題」の“神戸の地震は89年に起きたんや!”参照)。
震災前から増加しつつあった市債が急増し、起債残高が一般会計、特別会計等をあわせ3兆円にもなり、財政的に厳しい状況での大規模プロジェクトを危惧する考えなどもあわせ、また、他の地方空港が経営的に成功している例がないこともあって、空港反対は次第に大きな市民運動へと発展した。
1998(平成10)年、住民投票条例の直接請求を求める署名運動が展開されて有効署名は307,797人に達した。この直接請求を受けて「神戸空港建設の是非を問う住民投票条例案」が議会に提案されるが、空港建設推進派が多数を占めていた議会では、大差で否決された。
2001(平成11)年の神戸市長選挙では、神戸市助役で元空港整備本部長だった矢田立郎(無所属)が初当選。このとき空港反対派は候補者一本化に失敗。以後、議会では、2003(平成15)年の市議会選挙では、建設反対派議員は議席を減らす結果となり、一部の市民グループによって、空港工事差し止めの一連の訴訟が行われたものの、それも、地裁・高裁そして、2007年の最高裁ともに却下される。
開港前の最後の選挙である2005(平成17)年の神戸市長選挙では、タケノコのように乱立した「神戸空港反対派」の候補者をまたも一本化に失敗し、反対派へ投票した人の方が多いにもかかわらず、現職の矢田候補が再選され、2006(平成18)年2月16日、これらの経緯をふまえて神戸空港が開港してしまった(関西三空港の経緯と現状 参照)。
結局、前宮崎市長の中途半端な空港建設への転換以降、その後継の歴代助役上がりの市町が、市会、役所とひとつになって、市民の反対を押し切って強引に空港を作っては見たけれど、利用客は伸びず、空港埋立地の売却益もならず、市の財政を圧迫しつづける結果となっている。これは、国政選挙でも同じだが、組織票で固まっている候補者に対抗して当選するのがいかに難しいことかを顕わしている。
これだけ助役上がりの市長が、長く続けば腐敗も起こるわけで、与党会派が多数を占めている市議には市政への厳しいチェック機能を期待するのが難しく、市職員の支持をえて市長となっている者が、市職員の勝手にしていることに対しての監視の目も甘くなるだろう。又、市長と民間との間に、馴れ合いや、もたれ合いの癒着構造も出来るだろう。
今、小沢一郎政治資金規制法違反の容疑で裁判で裁かれているが、その中の西松建設からの裏金を受け取った、受け取っていないなどの問題も含まれているが、西松建設の裏金が問題になったとき、献金先として名前が挙がったのは、なにも小沢氏だけではなく多くの自民党議員やその他の野党議員、それに自治体首長の名も何人か上っているが、この中には確りと矢田立郎神戸市長の名も上っている(※11、※12参照)。
私は現役時代、飲み友達でもある、ある会社の開発関係の者から聞いた話で、神戸で、大型店等が出店するときには、裏で金が飛び回っており、その人の会社はこのような金の問題には非常にお硬く、そのよう開発がらみの裏金を出さないので、99%決まりかけた物件が、結局、最後には、地元の同業他社に巻き返され、潰れてしまったと歎いていたのを思い出す。
宮崎以降「市役所一家体制」で市長選には次々と助役を推してくる市側に対抗し、それに勝てるだけの大物を市民側が市長選に擁立できなかったことが、このような事態を招くことになってしまったのだが、その結果、ポートピア博開催まで、他都市から注目されていた神戸市が、今どんな状況になってしまっているか・・・・、同じ市民としては、恥ずかしくて書く気もしないので、気になる人は以下参考の※13、又、※10でも読んでみてください。しかし、日本では、民主党をはじめ、どこの党も、その市の将来のために、政略を離れて真剣に取り組むことが出来ないのかと、本当に、情けなくなるが、こんな三流の政治家ばかりになってしまったのも、結局は、国民の政治に対する意識の低さからなのだろうね〜。
参考:
※1:-KIUR-(財)神戸都市問題研究所トップページ
http://www.kiur.or.jp/
※2:福祉社会
http://www.wa.commufa.jp/~anknak/ronbun10fukushi.htm
※3:厚生年金・国民年金情報通
http://www.office-onoduka.com/nenkinblog/2008/03/post_130.html
※4:なぜ社会保障制度の財政負担が高くなってしまったのか?
http://life-insurance2.cocolog-nifty.com/blog/2011/07/post-8a16.html
※5:企業社会01
http://www.res.otemon.ac.jp/~murakami/kigyoushakai01.htm
※6:銅像 原口忠次郎
http://www4.airnet.ne.jp/soutai/07_douzou/26_ha/haraguti_tyuujirou.html
※7:あゆみ(H20 12) - 関西空港調査会(PDF)
http://www.kar.or.jp/history/ayumi.pdf#search='関西新空港構想'
※8:神戸空港を考えよう
http://kobe.kazamidori.net/airport/
※9:神戸空港を取り巻く情勢をどうみるか、その1、(神戸市長選座談会、その8)
http://d.hatena.ne.jp/hiroharablog/20091216/1260951525
※10;神戸市財政の根本問題
http://www.inouetsutomu.jp/how-to-change.html
※11:NPJ通信 小沢問題をどう考えるか−検察権力・マスコミ報道との関連で (上)
http://www.news-pj.net/npj/kimura/020.html
※12:裏金疑惑の西松建設 関連政治団体
http://www.jcp.or.jp/akahata/aik07/2008-12-21/2008122115_01_0.html
※13:2011統一地方選(神戸市議選、明石市長選、兵庫県議選)
http://koubeno-hige.blog.ocn.ne.jp/blog/2009/08/post_5e91.html
明日への選択 第6部 神戸市長選 揺れる構図
http://www.kobe-np.co.jp/rentoku/shakai/200910asu/04.shtml
神戸市における戦災の状況(兵庫県): 一般戦災ホームページ
http://www.soumu.go.jp/main_sosiki/daijinkanbou/sensai/situation/state/kinki_07.html日本労働運動史
http://www.mcg-j.org/mcgtext/jpnrodo/jpnrodo.htm
生活史研究試論生活「転換点」の意義
http://www.bukkyo-u.ac.jp/mmc01/takashin/Papers/199903_seikatsu/index.html
国立社会保障・人口問題研究所
http://www.ipss.go.jp/ss-cost/j/kyuhuhi-h19/kyuuhu_h19.asp
神戸市・神戸空港の経緯
http://www.city.kobe.lg.jp/life/access/airport/index_04.html
火を噴いた「神戸空港廃港」論:FACTA online
http://facta.co.jp/article/200912004002.html
他都市と比べる神戸市の財政状況 - よこはた和幸
http://www.yokohata.net/c.ball26.htm
厚生労働省:社会保障給付費
http://www.mhlw.go.jp/toukei/list/124-1a.html
国立社会保障・人口問題研究所
http://www.ipss.go.jp/ss-cost/j/kyuhuhi-h19/kyuuhu_h19.asp
1973年[ザ・20世紀]
http://www001.upp.so-net.ne.jp/fukushi/year/1973.html
1973年の政治 – Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/1973%E5%B9%B4%E3%81%AE%E6%94%BF%E6%B2%BB
神戸空港の現状
http://www.jalcrew.jp/kyousen_pub/file/23-054_%E8%88%AA%E7%A9%BA%E6%83%85%E5%8B%A2%E3%83%8B%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%82%B9%E7%A5%9E%E6%88%B8%E7%A9%BA%E6%B8%AF%E3%81%AE%E7%8F%BE%E7%8A%B6%E3%81%AB%E3%81%A4%E3%81%84%E3%81%A6.pdf#search='神戸空港の現状'

いいレザーの日:参考

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参考:
※1:社団法人日本皮革産業連合会HP
http://www.jlia.or.jp/
※2:タンナーズ協会
http://www.tcj.jibasan.or.jp/
※3:雑学データバンク>ベストレザーニスト賞・歴代受賞者
http://dorama.tank.jp/d/bestleathers.htm
※4:皮・革の語源・由来
http://gogen-allguide.com/ka/kawa_hi.html
※5:原始時代の皮革(PDF)
http://www.hikaku.metro.tokyo.jp/images/pdf/152pdf/02.pdf#search='原始時代の皮革'
※6:延喜式
http://miko.org/~uraki/kuon/furu/text/rituryou/engi/engi.htm
※7:「昆布考」
http://www.occn.zaq.ne.jp/ringo-do/konbukou.htm
※8:皮革利用史の研究動向(PDF)
http://www.kisc.meiji.ac.jp/~jkodaken/jpn/activity/publication/pdf/kodaigaku_vol1/takase.pdf#search='独犴'
※9:天理大学 : 都にやってきたアザラシたち−古代日本の海獣皮の利用
http://www.tenri-u.ac.jp/lifelng/q3tncs0000005s81.html
※10:えみし
http://www.jomon.com/~emisi/semi/14semi/material/14mokuji.htm
※11:道府県別 名所歌枕一覧
http://www.asahi-net.or.jp/~SG2H-ymst/yamatouta/utamaku.html
※12:神武天皇東征神話考
http://www.marino.ne.jp/~rendaico/rekishi/nihonshinwaco/jinmunotoseico.htm
※13:歴史論考13日本書紀【神武伝説】を読む2
http://f-kowbow.com/ron/lekishi13/lekishi13.htm
※14:1413夜『蝦(えみし)夷』高橋崇|松岡正剛の千夜千冊
http://1000ya.isis.ne.jp/1413.html
「延喜」に関連した文献の一覧 - Weblio文献検索
http://reference.weblio.jp/content/%E5%BB%B6%E5%96%9C
※15:中世職能民職種一覧
http://www.ikedakai.com/yogo-b/syokunomin.html
※16:電子じばさん館:皮革
http://himeji.jibasan.jp/leather/index.html
古代製法に酷似する姫路革
http://www.hikaku.metro.tokyo.jp/images/pdf/131pdf/02.pdf#search='延喜式 造皮功
正倉院宝物に見る皮革の利用と技術⑴
http://www.hikaku.metro.tokyo.jp/images/pdf/146pdf/02.pdf#search='延喜式 造皮功'
皮革利用史の研究動向(PDF)
http://www.kisc.meiji.ac.jp/~jkodaken/jpn/activity/publication/pdf/kodaigaku_vol1/takase.pdf#search='独犴'
交易雑物 白絹・紫草(1)
http://blogs.yahoo.co.jp/matmkanehara/51738938.html
皮革 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9A%AE%E9%9D%A9


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いいレザーの日

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日本記念日協会で今日の記念日を見ると「いいレザーの日」があった。
記念日の由来には“日本の皮革製品に関する知識を広め、レザーの魅力とその価値をもっと知ってもらおうと社団法人日本皮革産業連合会(JLIA=Japan Leather Award。※1)が制定。日付は11月3日(1103)を「いいレザー」と読む語呂合わせから。レザーが似合う「ベストレザーニスト賞」の発表などの行事を行う。”・・とあった。
日本皮革産業連合会(JLIA)には、皮革事業に関わる24団体が加盟しているようで、よく分からないが、ベストレザーニスト賞とは、JLIAの行なうJapan Leather Award(ジャパンレザーアワード)の中の1つの賞のようであるが、「ベストレザーニスト賞」そのものはJLIAに加盟の日本タンナーズ協会(※2)が主催する賞のようで、2001(平成13)年から続いているようだ。このタンナーズ協会とはなめし革の製造・取扱の企業等が集まって組織されている製革業者団体で、本部は我が地元・兵庫県の姫路市にあるようだ。
JLIAのHPによれば、今年度の“Japan Leather Award2011“審査会は、10月7日(金)・8日(土)に六本木のアークヒルズカフェで行われ、総作品エントリー数191もの作品応募があり、142点はプロ、残り49点はアマチュアからのものだったという。このアワードの表彰式は、11月03日"いいレザーの日"に開催され、それぞれの部門賞とグランプリを受賞した作品は、11月30日(水)〜12月13日(火)の2週間、兵庫県にある阪急阪神百貨店 西宮阪急で、展示されるチャンスが与えられるという(ここ参照)。尚、過去のベストレザーニスト賞・歴代受賞者は以下参考の※3:「雑学データバンク」を参照されると良い。
ところで、「なめし革」の「なめし」を漢字で書くと「鞣」で、通常「なめし革」は「鞣革」と書く。「鞣」は、漢字の構成部分で、「韓」「韜」などの「韋」の称。
「韋」字は「違」の本字であり、背きあうことを意味する。その字形は背いた足の象形である「」と囲いの象形である「囗」を組みあわせたものであり、守衛が城壁の周囲を巡回していることを表していると考えられるが、また「韋」には「」同様、毛を除いた皮革の意味があるが、「革」と対照する場合、「革」は生革、「韋」はなめし加工された熟革を指す。この意味は背くから反り返った皮革へと引伸されて生じたとも、「」字と字形が似ることから混同されるようになって生じたものとも言われる。後代にはこのなめし革の意味が「韋」字の基本義となった(韋部参照)。
「皮」と「革」は同源であるが、「」字は、頭のついた獣のかわ+「(=手)」で動物の皮を引きはがす様、又は、斜めに身にまとう様を表した象形又は会意文字であり、言い換えれば、動物から採取された最初の状態のもの獣皮(「原皮(hide/skin)」を言う。「皮」を「かわ」というのは、「皮」が表面を包んでいるもの、つまり「外側」なので、「かわ(側)」とする、また、肌の上に被るの意味で、もしくは上を意味する言葉に付く「か」で、「わ」は「はだ(肌)」の意味とする説などがあるようだ。「かわ」の旧かなは「かは」なので両節共に説得力はある(※4)。
「革」字は毛を取り除いた獣皮(「原皮(hide/skin)=皮」)である皮革を意味しており、その字形は動物の獣皮をピンと張り伸ばした象形で、上部「廿」は頭、中央は展開した身体部分、下部「十」は尾と両足部分の形である。その意味では、毛の付いた生皮が皮であり、その生皮から毛を抜いたものが「革」であるが、そのまま利用できれば都合が良いのだが、生憎と、皮は生ものであるため、剥いだ状態で放置すると腐敗する。また、そのままただ干すだけではカチカチになってしまう。このため、なめしという工程を施すことにより、腐敗やカチカチになることを防ぐ。また、なめし工程にはいくつかの種類があり、この工程を経ることによりもともとの皮よりも柔軟な仕上がりをえられるなめし方法もある。なめされた革を「鞣革」と言うべきなのだろうが、今では、なめされていないものを「皮」、なめしたものを「革」と区別しているようだ。皮革の中でも、元々生えていた体毛まで利用するものは毛皮という。
人類は、毛皮を衣類として防寒などの目的に使用するため、古くは剥皮した動物皮を乾燥し、叩いたり、擦ったり、揉んだりして線維を解して、いわゆる物理的処理したものを使っていたが、紀元前8000年頃の旧石器時代から、皮を煙でいぶして防腐加工を施し、さらに動物の脂を塗り込むなどの原始的な燻煙鞣しや油鞣しといわれるものが始められ、これらの単独鞣しあるいは両者の複合鞣しを行った毛皮を使用されていたと見られており、樹皮や実、葉などを用いる植物タンニン鞣しは、紀元前3000年頃の新石器時代オリエント(エジプトや西南アジア)に始まったとされているようだ(※5)。因みに、タンニン(Tannin)という名称は「革を鞣す」という意味の英語である "tan" に由来し、本来の意味としては製革に用いる鞣革性を持つ物質のことを指す言葉であったという。
寒冷な気候の北ヨーロッパなどでは、毛皮は生活に欠かせない必需品であった。カエサルガリア戦記にはゲルマン人が毛皮を着用していたことを示す記述が見られるという。
封建時代のヨーロッパ(9世紀頃から15世紀頃)では、高級な毛皮は宝石などと同様、財宝として取り扱われた。イギリスのヘンリー8世(在位、1509年 - 1547年)は皇族以外の者が黒い毛皮を着用することを禁じ、とりわけ黒テンの毛皮は子爵以上の者しか着用できないとしたそうだ。18世紀以降にはヨーロッパ全土に広まり、貴族はキツネ、テン、イタチなど、庶民はヒツジ、イヌ、ネコなどの毛皮を使用していたようだ。
ヨーロッパ大陸で革産業が盛んになる中、アメリカでは先住民族インディアンによる独自の革製法で、衣類などの生活用品や馬具、武具などが作られていた。そこへ、1492年にスペインの命を受けたコロンブスによってアメリカ大陸が発見され、スペインの革工芸品がアメリカに持ち込まれ、これによってさらに革技術が発展していった。革をなめす方法は、多くの地域で使用されたが、その後、ヨーロッパやアメリカなどで、かしわの木の皮からタンニンを効率的に取る方法 が発見され、18世紀から19世紀にかけて巻き起こった産業革命の波は革産業にも及び、1858年には、鉄、アルミニウム、クロムなどの金属を主とした薬品によるなめし方法、クロームなめしの発明が相次ぎ、量産を可能とする皮革工業の礎となった。
18世紀にはラッコの毛皮が流行し、最高級品として高値で取引された。ロシア人はこれを求めて極東のカムチャツカ半島、さらにはアラスカまで進出し、毛皮業者に巨万の富をもたらしたが、乱獲により、20世紀初頭にはラッコは絶滅寸前まで減少した。
現在の標準和名「ラッコ」は、近世の日本における標準的な本草学名に由来し、さらにそれはアイヌ語で本種を意味する "rakko" にまで起源を辿れるという。
日本では平安時代の延喜5年(905年)、交易品として都に運ばれているが、醍醐天皇が、年料別貢雑物として、諸国の司に民部省に差し出すよう命じているものの中にどんな獣皮があるかを『延喜式』巻二十三「民部下」交易雑物の条(※6参照)に見ると、牛皮・馬皮・鹿皮・猪皮・狸皮のほか、陸奥国からは、「葦鹿皮、獨犴皮」を、出羽國からは「熊皮・葦鹿皮・獨犴皮」を交易品の租税として徴収したことが記されている。
Wikipediaでは、この中の“「獨犴」が「ラッコ」を指すのではないかと言われている。ただ、陸奥国で獲れたのか、北海道方面から得たのかは不明である。”・・・としているが、以下参考の※7:「昆布考」では、“独犴(どっかん)皮をアイヌ語のトッカリの転化でアザラシのこと”としている。しかし、「独犴」に「ヱゾイヌ」を充てているところも見られるが、以下参考の※8:「皮革利用史の研究動向」では、“「独犴」については北方犬種説、ラッコ説、アザラシ説などがあり、いまだ議論がたえない”と諸説あるようだが、以下のことなどから私は、ラッコではないかと言う気がする。
「葦鹿皮」は、※7:「昆布考」でもアシカ(海驢)の皮としており、これは、Wikipediaでも「アシカ」の語源は「葦鹿」で「葦(アシ)の生えているところにいるシカ」の意味であったとしている。しかし、以下参考の※9:「天理大学 : 都にやってきたアザラシたち−古代日本の海獣皮の利用」では、”正倉院宝物に奈良時代の馬具十数点があるが、そのなかにアザラシ皮でつくられた韉(したぐら)があり、調査の結果、二点の韉の切付にアザラシの毛皮が使用されていることが確認されたという。・・・奈良時代の史料に、今のところアザラシは見出せないが、平安時代の『西宮記』は下鞍(韉)について豹は公卿、虎は四位五位葦鹿は六位と、六位のは葦鹿皮としている。1141年(保延7年、永治元年)の大嘗会の御禊でも、五位は虎皮切付、六位は葦鹿切付である。葦鹿皮の初見は平安初期の807年(大同2年)に葦鹿皮の使用が贅沢として禁止されたことで、当時、皮等と共に装飾用に都で使われていたことがわかる。『倭名類聚抄』には「葦鹿 和名阿之加」とありアシカと発音していた。『延喜式』では陸奥国と出羽国が税米で購入し都に進上すべき物に葦鹿皮が登場する。平安後期の和歌には「わが恋は あしかをねらふ えぞ舟の よりみよらずみ 波間をぞまつ」とあり、葦鹿は蝦夷の海の生物という認識が都の貴族たちにあったことがわかる。・・・と言っている。
又、以下参考の※13:「えみし」の「交易の視点よりみた「えみし」社会の紐帯」では、“葦鹿皮は、アシカ科の海獣であることは疑いないが、アシカは、北太平洋に広く分布するものの、現在、日本近海では、主として千島列島を生息地としており、綿毛をもたないことから毛皮としての価値はないとされる。これに対して、同じアシカ科のオットセイは、ビロード状の美しい綿毛をもち、歴史的に貴重な毛皮獣とされてきた。こうしたことから、古代史上の葦鹿は、オットセイかアザラシとみなす見解があるが・・・・道南西部の内浦湾沿岸の遺跡では最も多く捕獲されていたのはオットセであるいオットセイである可能性のほうが高いと思う”としている。
先の「わが恋は あしかをねらふ」の歌の解説が、以下参考の※11:「道府県別 名所歌枕一」の蝦夷(北海道)のところにあるが、これは、「えぞ(蝦夷)」という語が用いられた最初期の例で、作者源仲正は、源三位頼政の父で、白河院の時代の人で下総守、下野守なども歴任している。平安時代後期には、和人と蝦夷の交易は盛んになっていたようだ。
蝦夷(えみし、えびす、えぞ)は、日本列島の東方、北方に住み、畿内の大和朝廷によって異族視されていた人々に対する呼称(賤視蔑称)であり、毛人と書き、ともに「えみし」と読んだ。
古くは「えみし」という呼称や綴りも、漢字では他に「夷」「狄」「蝦夷」などと宛字で綴られてきた。さらには「俘囚」「夷俘」「田夷」「山夷」などとも綴られた。
蝦夷についての形式上最も古い言及は、『日本書紀神武東征(※12)記中に詠まれている来目歌(久米部が歌った歌)の一つに愛濔詩として登場する(※13)。
「愛濔詩烏 毘*利 毛毛那比苔 比苔破易陪廼毛 田牟伽毘毛勢儒」(訳:えみしを、1人で100人に当たる強い兵だと、人はいうけれど、抵抗もせず負けてしまった)。
※12による解釈では、「愛濔詩(えみし)」は美称にとれば「恵(愛)美(彌)子」で本来は「愛子」の意味だろうし、蔑称にとれば「蝦夷」だろう。歌の歌意は、詠う立場によって、討った側の歌、討たれた側の歌と、どちらを選ぶかによって解釈も違ってくるようだが、そのことは※11を見てもらうとして、毘*利(ひだり)は、古い倭語で「領地」、あるいは「(その領地の)統治者、王者」の意味があったと考えられ、「毛毛那比苔(ももなひと)」は通訓の「百那人」だから、「毘*利 毛毛那比苔」は「百国の王者」また「大王」のことだろうという。
そもそも、記紀は、紀元8世紀初頭に著された日本最古の歴史書である。両書は、諸豪族の統一にようやく成功した大和朝廷が、その統治を正当化するために編纂させた官選の歴史書である。当時はまだまだ、多くの有力豪族が各地に割拠していた。
神武が忍坂(コトバンク参照)の地まで来ると、待ち構えていた土雲のヤソタケル(=八十建=数多くの猛者)を奇策を用いて破り、その後、大和平定の神武の最後の戦いはニギハヤヒ(饒速日命)との戦いになるが、この戦いは、実際は、ニギハヤヒの家来のナガスネヒコが直接の相手になる。しかし、突然ニギハヤヒがあらわれ、ナガスネヒコを自ら斬り殺し、あっさりと神武に帰順し、神武に支配権を譲っている。このくだりはいかにも象徴的な、まるで「出来レース」のようである。
しかし、この来目歌がどの程度史実を反映するものか、またここで登場する「えみし」が後の「蝦夷」を意味するかどうかも判然としないため、古い時代の蝦夷の民族的性格や居住範囲については諸説があり確かなことはわかっていないが、以下参考に記載の※14:「1413夜『蝦(えみし)夷』高橋崇|松岡正剛の千夜千冊」では、「えみし」の始まりについての詳しい考察がされているが、中で、以下のようなことが書かれている。
“3世紀から6世紀にかけて日本列島の北部、当時の東北地域の生活の下敷きになっていたのは、三内丸山遺跡で知られるような縄文文化であったが、この地では稲作が行なわれ、それが北上し、驚くべきスピードで津軽平野まで届いていた。「北の稲」の発端だ。ところが何故か、その後、東北北部(青森・岩手・秋田)の水田跡が激減していった。
この時期、北海道の道央(石狩低地帯)で生まれた続縄文文化が東北北部に降り、青森、岩手、宮城、秋田へと南下し栄えていた。和習(わじゅう)というべきか。これら続縄文文化は狩猟と採集と漁労による生活、および土器・土壙墓(どこうぼ)・黒曜石石器の使用などを特色としていた。他方、それとともに東北には南方のヤマト(大和)文化、つまりは「倭国文化」「倭人文化」が次々に浸透していった。加えてここに北海道からオホーツク型の擦文文化が入りこんで、東北から北海道への東北的擦文の逆波及もおこり、7世紀にはこれらがすっかり混成していった。稲作はごく初期にいったんは東北一帯から津軽にも伝わり、それが古代蝦夷の時代になぜか途絶え、その後にふたたびヤマト政権文化の北上とともに復活していったのである。ともかくも、こうして東北各地に拠点集落ができていった。そして、北海道の続縄文期後半や本州島東北部の弥生時代後期∼8 世紀には、この地方で、石器による皮革加工が行われていることが明らかになっているという。
このような背景のなか、列島南北の生活文化や技能文化をさまざまに習合しつつ、6世紀末までに続縄文文化の痕跡が消えていくのに代わるように、ここに「蝦夷」(えみし)が形成されていった。この「蝦夷」とは、ヤマト政権が東北北部の続縄文文化を基層とする集団、新潟県北部の集団、北海道を含む北方文化圏の集団などを乱暴にまとめて「蝦夷」と一括してしまった種族概念であった。つまりは「まつろわぬ者たち」という位置づけで総称された地域であり、そういう「負の住民たち」のことだった。
『古事記』景行天皇紀にははやくも、東方十二道に「荒夫流神、及び麻都楼波奴人」がいるなどと記されている。荒夫流神は「あらぶる神」、麻都楼波奴人は「まつろわぬ人」と読む。初期ヤマト朝廷はそのような“まつろわぬ蝦夷たち”がたいそう気掛かりだったのだ。
それはまた、『宋書』東夷伝の有名な「倭王武の(上表文」の中に、「昔より祖彌(そでい=父祖)、躬(みずから)甲冑を擂(つらぬ)き山川を跋渉し、寧処に遑(いとま)あらず、東は毛人(えみし)を征すること五十五国、西は衆夷を服すること六十六国、渡りて海北を平ぐること九十五国」と誇らしげに綴っていることに暗示されているように、王権はこうした“まつろわぬもの”を服属させているという自負のあらわれでもあった。このときの倭王武とは大王ワカタケルで、雄略天皇だったろう.。“・・と。
この記述を見ても478年(順帝昇明2年)あたりには既に蝦夷の存在と、その統治が進んでいた様子を窺い知ることが出来る。
日本武尊以降、上毛野氏の複数の人物が蝦夷を征討したとされているが、これは毛野氏が古くから蝦夷に対して影響力を持っていたことを示していると推定されている。
蝦夷の居住範囲は、時代によりその範囲が変化しているが、飛鳥時代(7世紀)頃には、蝦夷は現在の宮城県中部から山形県以北の東北地方と、北海道の大部分に及ぶ広範囲に住んでいたと推測される。斉明天皇4年(658年)の阿倍比羅夫蝦夷征討以降、大和政権が支配領域を北に拡大するにつれて、しばしば防衛のために戦い、反乱を起こしているが、朝廷側は大軍で繰り返し遠征し、最後には、平安時代の武官・征夷大将軍坂上田村麻呂が胆沢城と志波城を築いて征服した。朝廷側の支配に服した蝦夷は、俘囚と呼ばれた。かれら大和へ帰服した蝦夷男女が集団で強制移住させられたが、移住先は九州までの全国に及ぶという。俘囚は、のちに、えみしの異名にもなっていく。蝦夷は平時には交易を行い、昆布・馬・毛皮・羽根などの特産物を和人にもたらし、代わりに米・布・鉄を得た。
日本においては、古くより、東北地方・北海道などの狩猟者集団マタギなど猟師が捕獲して加工した毛皮が細々と流通していた模様ではあるが、獣皮は衣料素材としてはあまり積極的に使われておらず、猟師などが捕まえて加工して自ら使用する防寒着のほかは、豪奢な装飾用の敷物や工芸用の素材の方に利用されたことは、先に述べた『延喜式』(弾正台)にも見られるとおりであり、それは、毛皮の保有とその着装が対内的にはもちろんのこと、対外的にも渤海・奥州に通じる権力を誇示する政治的意味合いをもっていたことを示しているからであろう。
冒頭掲載の画像は、舟木本『洛中洛外図』のなかの皮細工職人である(東京国立博物館蔵。週間朝日百科『日本の歴史』24より)。
そうした、技術の担い手としての多彩で多様な職人が中世後期に現れてくるが、そうした彼らの姿を鮮やかに示してくれるのがいわゆる「職人歌合」などである。 室町末期の『七十一番職人歌合』に登場する職人たちの姿を見るとj15世紀の『三十二番職人歌合』と比べて実に多彩な職人の登場が見られる。こうした職人たちの生き生きとした姿を「洛中洛外図屏風」の世界においても見出すことが出来るので、少なくとも畿内近国では、ポピュラーな姿だったようだ。例えば工匠の場合は、15世紀の後半、鋳物師の場合は16世紀になると地域を特定して職人の営業範囲とするようになる。そこには道具の強度の進歩や新しい道具・技術の出現があったようだ。
『七十一番職人歌合』に,獣皮関連のこととして、十番:馬買はふ(うまかはふ) 皮買はふ(かわかはふ)。三十六番:(ゑた)「この皮は大まいかな」が出てくるが、この「大まい」は、「大枚を叩く」と言う言葉もあるように、金額の大きいことを言っているので、この皮は、高額なのだろう・・・といった意味か。『七十一番職人歌合』の十番、三十六番のことは、以下参考の※15:「中世職能民職種一覧」で解説されているので参照されたい。
いずれにしても、社会的分業の展開の中で、農民と農村経営の発展に照応するかたで、地域=在職の職人が生まれていき、皮革の生産、商売に携るものは、「かわた」と呼ばれるようになり、『慶長播磨国図』(天理図書館蔵)には「かわた」が48ヶ所も、慶長10年(1605年)より少し後のものと推定される「摂津国図」(西宮市立図書館蔵)にも「皮田」「皮多」「川田村」「河原村」「カワラ村」が七ヶ所記載されており、このように少なくとも近畿地方ではかわたが集落として把握され、特定の地域に集住させられていたようである。戦国時代が終わり、豊臣政権で実施された太閤検地検地帳ではこの「かわた」が、武士、商人、農民などとは別に一般的な肩書きとして用いられている。
最後になったが、Wikipediaによれば、毛皮を一般向けに販売する専門店としては、現在は横浜市元町に店を構える山岡毛皮店(日光市鉢石町にて1868年創業)が、日本で初めての毛皮専門店とみられるそうである。
なお、皇太子明仁親王(当時)・正田美智子(当時)の婚約の折、正田側が実家を出る折に身に着けていたミンクのストールが当時のテレビで大々的に放映された。

上掲の画像が、ご両親と共に天皇、皇后両陛下へのご挨拶に向かわれる美知子さん(1958年11月27日。アサヒクロニクル『週間20世紀』1958年号より)。
ミッチー・ブームにのって、ミンクのストールも注目され、おりしも日本は岩戸景気で大衆もが豊かさを実感し享受する時代に突入ていたことから、このような毛皮が、従来は一部の権力者や有力者だけの贅沢品から、一気に一般労働者層でも頑張れば手が届く、高価で贅沢だが一般的な装飾的意味合いの強い衣料品にまでなった。
しかし、現代では動物愛護や動物の権利意識の高まりから毛皮の利用に対して国際的な反対運動が展開されており、特に寒冷地等で「必需品」として利用するのではなく「贅沢品」として利用する事には強い嫌悪感を持つ人も多いと言われる。
なめしてある皮革についても、20世紀以降では人工的に作られた人造皮革(商標名クラレの「クラリーノ」東レの「エクセーヌ」など)があり、天然皮革と異なり、水に濡れたりしても手入れが簡便であり、安価で品質も均一であることなどから普及している。しかし、天然皮革に比して劣化が早い傾向があり、天然皮革の靴や服のように自分の体に合ってくるということは少ないので、やはり、これらには、天然皮革のものを愛好している人が多くいる。
尚、我が地元兵庫県の姫路市の地場産業には、皮革があり、姫路白なめし革細工は、県の伝統工芸品に指定されている。
姫路白鞣革は古くは越靼(こしなめし)、古志靼、播州靼あるいは姫路鞣ともいわれてきたが、その製革技術の始まりについては、地元では最もよく知られているもので神功皇后三韓征伐の折の捕虜で熟皮術に長けるものがあり、丹波円山川で試み、南下して市川で成功し、村人にその技術を伝えたものという朝鮮伝来説や、同時代の出雲国古志村由来伝説などもあるなど、相当古くから伝承されているものだそうだ。以下参考の※16:「電子じばさん館:皮革」では、皮革のこと全般についてくわしく書かれているので興味のある方は覗いて見られると良い。

いいレザーの日:参考へ

天皇在位60周年記念硬貨(10万円金貨等)が発行された日

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天皇陛下御在位60年記念硬貨は、昭和天皇の在位60年を記念して、1986(昭和61)年11月10日(一部は1987年=昭和62年)に発行された記念硬貨である。臨時補助貨幣でもある。10万円金貨、1万円銀貨、500円白銅貨の3種類が発行された。
冒頭の画像は、天皇在位60周年記念硬貨(10万円金貨)である(マイコレクションより)。
10万円金貨は、日本で初めて発行された記念金貨、および初の1万円を超える額面の貨幣であり、かつ第二次世界大戦後初めて発行された金貨である。また、金貨・銀貨ともに、初めて千円を超える額面の硬貨である。昭和天皇の在位50年の際には100円白銅貨(銅貨参照)が発行されたのみであるが、これ以降は天皇の即位や在位の節目などを記念する金貨・銀貨がたびたび発行されていくことになる。
金貨とは、金を素材として作られた貨幣。銀貨・銅貨とともに、古くから世界各地で流通した。
は、
美しい黄色の光沢を放ち、見栄えがいいこと
希少性があり偽造が難しいこと
柔らかく加工しやすいこと
化学的に極めて安定しており、日常的な環境では錆びたり腐食しないこと
などの理由で、古来、世界各地で貨幣の材料として使用されてきた。
例えば、古代ローマの金貨「アウレウス(aureus)」はラテン語で「金」を意味する。
以下参考に記載の※1:「コインの散歩道」の“ローマコインの物語”など参照すると、古代、エーゲ海の西側(現在のギリシャ)を「ヨーロッパ」、東側(現在のトルコ)を「アジア」と呼んでいたようだが、世界で最初に鋳造貨幣(エレクトロン貨)を使用したのは、そのエーゲ海東側のアジアと呼ばれていたアナトリア半島 のリディア地方を中心に栄えた王国リディアだといわれている。
ローマに貨幣制度ができたのは、289BC(紀元前、英語略。ラテン語略A.C)頃とされており、 ギリシャ人やフェニキア人 (当時のシリアの一角)の国家と比べると、貨幣に関しては後進国であったらしい。
当初、銀貨の単位はギリシャ世界のドラクマ(Drachm)、銅貨の単位はアス(As)を使用していたが、211BC、ポエニ戦争のさなかに自国独自の貨幣制度に整えた。それが小額の銀貨デナリウス(Denarius)であり、1デナリウス(Denarius)銀貨=10アス(As)銅貨としていた。「デナリウス銀貨」は、西暦紀元をはさんで400年間以上共和政ローマ時代のもっとも標準的だったコインであった。
順次地中海世界を統一し、3世紀、ローマ帝国は「3世紀の危機」とも称される全般的な混乱期であった。政治的分裂は同世紀末にディオクレティアヌス帝によって収拾されパクス・ロマーナ(ローマの平和)を実現した皇帝アウグストゥスア(オクタビアヌス)は、23年BCから、通貨制度改革に着手。
それが、アウレウス金貨(金100%。7,8g)であり、1アウレウスは、デナリウス銀貨(銀100%。7,8g)25枚相当の価値であったそうだ。因みに、この時代、農園に働く労働者の1日の賃金は1デナリウスだったそうだ。
以後紀元4世紀初頭まで定期的に造幣され、300年に渡り、ローマ帝国の基軸通貨となるが、3世紀、ローマ帝国は「3世紀の危機」とも称される全般的な混乱期であった。政治的分裂は同世紀末にディオクレティアヌスによって収拾されたものの、物価騰貴などの経済混乱は収拾したとはいえなかった。こうした中、4世紀前半にコンスタンティヌス1世が通貨の安定を図って鋳造した金貨ソリドゥス金貨に代わることとなった。

上掲の画像が、コンスタンティヌス1世を描いたソリドゥス金貨。Wikipediaより。
東ローマ帝国の時代にも同様の金貨が流通した。
ソリドゥス金貨(東ローマ帝国期にはノミスマと称される)は帝国統治における経済的な主柱であり、6世紀にユスティニアヌス1世の命によってトリボニアヌスによって編纂された『ローマ法大全』においても、金貨についての取り決めが多く記されていたという。金貨の重量と純度は歴代皇帝によって遵守されたため信頼性が高く、11世紀ころまで高純度を維持し、「中世のドル」として東ローマ帝国の内外で流通したという(詳しくは、※1参照)。
ただし、金貨の場合、純粋な金は、流通を前提とした硬貨として使用するには柔らかすぎるため、通常は、銀や銅などの他の金属との合金が用いられる。古代社会においては、エレクトラムと言われる、金、銀、白金などの自然合金が用いられた。近代社会では、日本やアメリカ合衆国を始め、一般的には90%の金と10%の銀または銅の合金が用いられたが、イギリスでは、22カラット(金91.67%)の標準金と呼ばれる合金でソブリン金貨が、1817年から本位金貨として鋳造された。

上掲の画像は、法的に世界最初の本位金貨、イギリス1817年銘のソブリン金貨。Wikipediaより。
また、流通を目的としない近年の地金型金貨(投資用に発行されている金貨の一種)、収集型金貨(記念硬貨などの形で発行される金貨の種類)には、純金製の物も存在する。
中世ヨーロッパでは長らく金貨が鋳造されず、東ローマ帝国(ビザンツ)からもたらされるビザント金貨か、イスラム圏からもたらされるディナール金貨が儀礼用などに使用されるのみだった。
一般的にヨーロッパの近代貨幣制度は1252年のイタリア・フィレンツェにおけるフローリン金貨をもって始まったと言われているそうだが、その後ヴェネツィアで1284年にドゥカート(ダカット:Ducat)と呼ばれる金貨が鋳造された(※1の“ヴェネツィアの商人”参照)。そして、この2つの金貨が広く貿易に利用され、今日の貨幣経済を築いた。これらの金貨はともに品位は.875で、56グレーン(54トロイグレーン)の量目を有していた。ドゥカート金貨はその後も現在に至るまで発行が続けられ(現在は収集用)、近代になってからは、より純度の高い.986という品位で鋳造されている。
金貨の世界的な流通は、やがて「金製の貨幣」としての貨幣価値にとどまらず、金という物質そのものと経済を連動させる制度金本位制へと発展させ、19世紀末には、この制度が国際的に確立した。この金本位制には、国際収支を均衡させる効果があると考えられているが、第一次世界大戦により各国政府とも金本位制を中断し、管理通貨制度に移行する。
その後1919年にアメリカ合衆国が復帰したのを皮切りに、再び各国が金本位制に復帰したが、1929年の世界大恐慌により再び機能しなくなった。
第二次世界大戦後、米ドル金為替本位制(※3参照)を中心としたIMF体制(いわゆるブレトン・ウッズ体制)が創設された。他国経済が疲弊する中、アメリカは世界一の金保有量を誇っていたので、各国はアメリカの通貨米ドルとの固定為替相場制(※4参照)を介し、間接的に金と結びつく形での金本位制となったのである。しかし、1971年8月15日のいわゆるニクソン・ショック以降は金と米ドルの兌換(だかん=とりかえる。ひきかえること。)が停止され、各国の通貨も1973年までに変動為替相場制に移行したため、金本位制は完全に終焉を迎えた(※5 また、※6の世界最強の通貨「ドル」の力参照)。
制度としての金本位制が崩れた現在、額面と含有純金価格の等しい本位金貨は発行されていない。
現在発行されている金貨は、すべて補助貨幣か、金地金の市場価格に連動して時価取引される地金型金貨か、金地金の価格を超える固定価格で発売される収集型金貨のいずれかになっている。
日本では、淳和天皇の天平宝字4年(760)に発行された開基勝宝という金銭が日本最初の金貨で、1枚で、同時期に発行された、太平元宝(銀銭)10枚分、萬年通寳(銅貨)100枚分に相当させていたようだ(続日本紀)。しかし、金銀銭は実際には殆ど流通せず、以降、金は銀に先駆けて特定の用途に使われる定位貨幣として整備されていき、戦国時代には、甲州金が発行されるなどしたが、本格的な全国流通を前提としたのは、江戸時代に入ってであり、小判一分判など(エレクトロン貨幣)定位金貨の発行が幕末期まで継続した。
明治時代に入って、金本位制度が確立すると、銀行が発行する紙幣(日本銀行券)は、金貨との交換が可能で(兌換紙幣)、その価値が保証されていた(※2:「日本銀行金融研究所貨幣博物館」のわが国の貨幣史参照)。近代社会になって初めての金貨は1871年(明治4)年5月に制定された近代日本最初の貨幣法である新貨条例において発行された旧金貨(20円、10円、5円、2円、1円金貨)と1897(明治30)年の貨幣法により発行された新金貨(20円、10円、5円)がある。
新貨条例では純金の1.5グラム(23.15グレーン)、貨幣法では金重量を半減した純金の0.75グラムを1とする金平価(コトバンク参照)が定められていた。旧1両が新1円に等価となり、さらに1米ドルとも連動する分かりやすい体系となった。旧金貨は倍額面での通用とされ、新金貨は昭和初期の金解禁停止に伴う兌換停止まで製造発行された。貨幣法による新金貨は、昭和の初期まで製造発行された(日本の金貨参照)。

上掲の画像日本の最初の本位金貨、旧1円金貨・明治4年銘。Wikipediaより。
新旧の本位金貨は1987(昭和62)年制定、1988年4月施行の通貨の単位及び貨幣の発行等に関する法律によって正式に廃止された。(日本の硬貨を参照)
金本位制が崩れて以降、法定の平価に相当する額面価値分の金を含有した本位金貨は発行されておらず、1986(昭和61)年の今日・11月10日発行された「昭和天皇ご在位60周年記念10万円金貨」は、久しぶりに発行された「通貨型金貨」ではあったが、額面は金地金の価格より高く設定されており、補助貨幣的な性格(臨時補助貨幣)を有し、20枚までの限定した強制通用力しか有していない。これが、後に問題を起す。
1986(昭和61)年は、国際的にも国内的にも、政治、経済、社会、天災、そして、事件に・・と、本当に色々あった年だ(Wikipedia-1986年 又、 ※7参照)。今、蔵書のアサヒクロニクル「週間20世紀」の1986年号を見ていると、同年のできごとに、“1986年9月30日:国土庁が基準地価公示(7月1日現在)、年初から地価は急騰し、この1年で東京の田園調布での4倍を最高に世田谷区、目黒区でも平均60%上昇。以後、土地業者の投機買いも激増し、「狂乱地価」の様相。”・・・とあるように、不動産業者が次々に土地を買い、高値で転売する「土地転がし」が流行り言葉にもなり、折柄のバブルは、翌年には「バブル景気」と命名された。
日本経済は、1985(昭和60)年頃まで輸出主導型で経済成長を遂げてきた。バブル景気の引き金になったのは1985(昭和60)年9月のプラザ合意とされている。当時、ドル高による貿易赤字に悩むアメリカ(実際には、財政赤字を伴う「双子の赤字」に悩んでいた)はG5諸国と協調介入する旨の共同声明を発表した。
日本にとって不利になるこの合意がなされた背景には、以前からあった日米貿易摩擦問題があったと考えられるが、これにより急激な円高が進行。1ドル240円前後だった為替相場が1年後に1ドル120円台まで急伸した。元大蔵省財務官の榊原英資は、日本と西ドイツがアメリカのドル安政策の標的にされたと著書の中で述べているという。これにより、中曽根康弘内閣は貿易摩擦解消の為、国内需要の拡大を国際公約し、これまでの緊縮財政から一転、公共事業の拡大政策をとった。又、急速な円高によって「円高不況」が起きると懸念されたため、低金利政策を継続的に採用した。この低金利政策が、不動産や株式に対する投機を促進し、やがてバブル景気をもたらすこととなる(詳しくはWikipedia-バブル景気参照)。
そして、1985年(昭和60年)11月18日、中曽根内閣の竹下登大蔵大臣が昭和天皇の在位60年を祝うために金貨を発行する方針を発表。この背景には次年度の財源確保のためと、貿易摩擦が深刻であったアメリカから金貨鋳造に使用する大量の金(223t)を購入することでこれを緩和しようとの思惑があったようだ。
そのため当局は10万円金貨、1万円銀貨、500円白銅貨を大量に発行することになった。特に10万円金貨は1000万枚と金貨としては異例の大量発行であり、額面だけで1兆円にも上った。しかも金貨1枚あたり金を20g使用していたが、素材の価値が1g1900円(当時)であり製造費込みでも半分以下の原価にすぎなかった。そのためその差益5500億円が国庫に入る見込みであるとされた。当時の臨時補助貨幣の額面の上限は500円であったため、1964年(昭和39年)のオリンピック東京大会記念千円銀貨発行の際と同様に、特別法として天皇陛下御在位六十年記念のための十万円及び一万円の臨時補助貨幣の発行に関する法律が制定され、金銀貨発行の根拠とされた。
それでも、先に述べたようなバブルの上昇時であり、日本で初めての10万円金貨は、金融機関窓口での引き換え以前から話題に上り、政府は引換抽選券を発行し当選した人だけが交換できる仕組みにした。10万円金貨、1万円銀貨の引換抽選券各5000万枚を銀行郵便局で配布。1986(昭和61)年10月16日の抽選券配布当日には、この引換券を得ようと長蛇の列ができ、倍率約5倍と言われ、一部では抽選券が高値で取引されたとも・・・。

上掲の画像が、天皇陛下御在位60年記念貨幣「金貨幣引換抽選券」と「銀貨幣引換抽選券」の外れ券。マイコレクションより。
この当初の人気状況を見て、関係筋から追加発行の意向が漏らされ報道された。しかし、引き換え当日は打って変り、記念貨幣への両替に訪れる人もまばらで、金貨は最終的に910万枚が市中に出回り、未引換の90万枚については鋳潰されたようだ。追加発行について当初は初発行分と同じ「昭和61年」銘のものを数百万枚発行する案も出たが、結局翌年に「昭和62年」銘の金貨が100万枚発行された。追加発行分の一部はプルーフ貨幣としてプレミアム付き価格で発売され、これは日本初の一般販売向けプルーフ金貨となる。
天皇陛下御在位60年記念金貨には、当時の金貨価格で換算すると4万円分の金しか含まれておらず、「通貨型金貨」でありながら、引換価格の10万円とは6万円の差があった、バブルに乗じて日本政府がこんなぼろ儲けをして良いのか、これでは偽造金貨も出ないかと心配する人もいたのだが、案の定、発行から3年余経った1990(平成2)年1月29日、天皇陛下御在位60年金貨の大量偽造が発覚した。その後の調査で偽造された金貨は2年前から日本に流入していたこと、しかも確認された偽造金貨10万7946枚のうち8万5647枚が日本銀行に還流していたことが判明した。つまり、被害額は107億9460万円という巨額であった。これには、国際的偽造グループが介在していた可能性が高いというが、結局、偽造グループが特はされることはなく、偽造グループは日本円で約60億円という高額な金銭を懐に入れて消えてしまったようだ(Wikipedia)。
これらの事態を踏まえ、以降、日本で発行された記念金貨については様々な偽造防止対策がなされるようになった。また近年では、偽造された金貨のように額面保証型のものから、金の地金価格をはるかに超える価格で販売されるが、その代わり額面をそれより低くする収集型金貨の形式で発行されるようになった。そのため、明治時代に制定された従来の「貨幣法」を改正し、1988 (昭和63)年から「新貨幣法」(通貨の単位及び貨幣の発行等に関する法律)が施行され、「記念貨」を「通常貨」と異なる特別なものと位置づけ、政府が「記念貨」を商品として販売し、差額を利益として得ることが出来ようになっている(※8参照)。
しかし、皮肉なことは、1985(昭和60)年のプラザ合意による円高不況克服のために行なった公定歩合引き下げなど過大な金融緩和により引き起こされた「バブル景気」は、1989(平成元)年の東証大納会では平均株価が史上最高値の3万8915円ともう、4万円目前で引けたが、後で見るとこれが、バブルの頂点であった。ところが翌・1990(平成2)年、つまり、天皇陛下御在位60年記念金貨の大量偽造が発覚した年に入るや企業や人々は肝を冷やすことになった。
大量偽造が発覚した翌月2月26日、東証の平均株価は3万3321円まで急落、下げ幅は1569円。さらに4月2日には1978円の大暴落を記録した。そして、10月1日には、一時的に1万9781円と2万円の大台を割った。9ヶ月でほぼ半値となった株価の下落は、中曽根内閣以降の急激な金融引き締めに起因している(アサヒクロニクル『週間20世紀』1990年号)。
これにより、手持ちの債権もマンション価格も急激に価値を失った「バブル」の崩壊である。このバブル崩壊が、「失われた20年」、更には現代の格差社会の発生へとつながっていくことになった。
丁度良いタイミングで、偽造しやすい金を20g使っただけで10万円もする金貨を作ってくれたので、これを偽造しぼろもうけをした世界の詐欺師は、日本政府の経済オンチの御蔭だとほくそ笑んでいたことだろう。
2008(平成20)年9月に米国の投資銀行であるリーマン・ブラザーズの破綻は、世界的な金融危機(世界同時不況)を引き起こしたことからリーマン・ショックと呼ばれているが、このショックにより、日本の日経平均株価も大暴落を起こし、同年9月12日(金)の終値は12,214円だったが、10月28日には6,000円台の安値をつけるまで下落した。
リーマン・ブラザーズ破綻の主要因には、前年・2007(平成19)年のサブプライムローン(サブプライム住宅ローン危機)問題に端を発した米国住宅バブル崩壊にあるが、日本はサブプライムローンにあまり手を出していなかったため影響は軽微と見られていたものの、リーマン・ショック後に経済が一番落ち込んだのは、日本であった。
このリーマン・ショック後の日本政府の対応とその効果を検証した論文が発表されている(※9参照)。要約すると以下のようなことが書かれている。
“日本政府は「百年に一度」といわれる経済危機を乗り切るため、日本政府及び日銀が財政・金融両面からの対応をしてきたことから、短期的には、経済活動の低下ほどには、失業や企業倒産は増加せず、痛みを和らげることに成功したと評価できるものの、その結果として、日本の財政赤字が拡大し、政府債務(※10参照)は先進国で最も悪い状況となってしまった上、金利もほぼゼロという状態であり、これ以上、金融財政の政策的な刺激策の余地が乏しくなっている。他方で、2010年に入ってもデフレ傾向は継続しており、更には、潜在成長率(※4の潜在成長率も参照されるとよい)そのものが低下傾向にあり、OECD加盟国に比べても非常に低くい。にもかかわらず、足元では円高が進み、企業の海外流出の恐れが強まっている”・・・ことが指摘されている。
この論文には、会計検査研究No43(2011,3)とあるので、今年2011(平成23)年3月11日に東北地方の震災によって引き起こされた大規模地震災害「東日本大震災」が発生する前の論文であろう。
この論文の言うようにリーマン・ショック後最悪の状況からはなんとか持ち直したかに見えた震災以降、又世界的に大きな問題が表面化した。
昨2010(平成22)年のギリシャの財政破綻の危機(ギリシャの経済参照)が発覚以来、EU(欧州連合)ではユーロ圏のイタリアやスペインの財政問題が話題となり、世界的に「ソブリン・リスク」が高まってきた。ソブリン・リスクとは、国にお金を貸したら帰ってこないのではないかというリスクであるが、特に、財政状況が悪い5カ国(ポルトガル、アイルランド、イタリア、ギリシャ、スペインという)は、その国の頭文字をつなげ、豚(PIG)にかけてつくられた造語「PIIGS」という屈辱的な名前で呼ばれている。
そして、米国債、日本国債も実際に格下げされ(国債参照)ているが、今年に入って10月7日には、格付け会社フィッチ・レーティングスが、スペインとイタリアの長期国債を格下げ(スペイン、2段階下げ、イタリア1段階下げ)していていたが、続いて、今月・11月4日には、ムーディーズが、イタリア国債を「Aa2」から「A2」に3段階引き下げたと発表。
こうした国への債券は紙くずになってしまうのではないかという不安が全世界を襲い金融市場が混乱している。
これらリスク回避の動きは、株価、債権を下落させており、昨日・11月9日、の欧州金融市場では、イタリア政府が借金のためにに発行している国債の価格は下落し金利は「危険水準」される年7%台を上回った。又、9日のアメリカ・ニューヨーク株式市場は、ギリシャに端を発した債務危機がイタリアにも波及するとの懸念から、ダウ平均株は一時、430ドル以上も値を下げ、終値は前日比389ドル24セント安い1万1780ドル94セントだった。日本も今日:10日午前の東京株式市場の日経平均株価は、前日比158円16銭安の8597円28銭で始まっっている。日本の政府債務(国債残高)も、先進国で最も悪い状況となっているにもかかわらず、日本の円がまだましと、円買い圧力が強高まり、円高が続いており、腰の思い日本政府もやっと単独での為替介入などをして来たことから、77円台後半(ドル/円)を維持してはいるものの、これが何時まで持つかはわからない。又、このような通貨不安時の投資として、昔からの金投資が盛んであったが、今は金価格がうなぎ上りに上昇している。
なんと今や、金地金は11月9日では4,741円(田中貴金属調べ)をしており、そうすれば、天皇陛下御在位60年記念の10万円金貨にしても、純金は20g含まれているのでこの日の時価換算だと、ほぼ、10万円近い金額の94,820円することになり、これは10万を超えるようになるかもしれない。

私は、プレミアモノの金貨は買わないが、平成5年発行の「皇太子殿下御成婚記念5万円金貨」(上掲の画像)なども持っているが、この金貨は、偽造金貨に懲りて、しっかりと偽造防止策も講じられており、天皇陛下御在位60年記念の10万円金貨の純金20gに対して、5万円金貨でありながら純金18gが使用されている。そのため、こちらの方は、金の時価だけでも、18g*4,741円=85.338円となる。これなら、コイン屋へ持っていけば、6万円くらいで買ってもらえるのではないかな・・・。売る気はないけど、近くに買ってくれるところを見つけたら、今の間に、1枚だけを残しておいて、売っておこうかな〜・・・・。
最後になったが、先にも述べたように、世界で最初に貨幣を鋳造し使用したのは古代、エーゲ海の西側のギリシャやそれに続く、ローマ帝国を築いた現在のイタリアであったはずなのだが、そのような歴史ある国が、今世界で最初の財政破綻国になろうとしているのはなんとも皮肉なことだね〜。
しかし、日本の財政赤字の状況は、ギリシャやイタリアの財政悲劇を、他人事のように見ているわけにはいかないギリギリのところにまで来ており、これからは、東北地方の震災や和歌山地方の水害など復興のための必要な費用は幾らいるかもわからず、増税ラッシュでひどいことになるだろう・・・。今の円高の反動は必ず来ると思うが、だからといって、別に現物投資で金など買わなくてもよいが、少なくとも。借金だけはなくしておかないとね〜・・・・。
刻々と増加していく日本の赤字は以下を見て!
リアルタイム財政赤字カウンター 11
http://www.kh-web.org/fin/
最後の最後になったが、今のような各国の財政状況を引き起こしたのは、リーマンショック時に、投機に夢中になっておかしくなっていた銀行や企業を救うために、国民の税金を使って国家が援助をし、それら企業の赤字を国が肩代わりしたことや、戦後、金も無いのに財力以上の福祉や社会保障に金をつぎ込んできたこと、破綻を仕掛けている国は何処も親方日の丸の公務員天国である事などが共通しているようだ。
しかし、そもそもの始まりは、金本位制をなくして以降、金と言う担保なしに、好きなだけ、ただの紙切れでドルという基軸通貨・紙幣を自国の都合で次々と刷り続けてきたアメリカと言う国のやり方が破綻したのであり、そんなドルが全世界に蔓延しており、それに追随してきた国々がアメリカと同じようにおかしくなってきているだけと私は思っている。ただ、何といってもアメリカと言う市場は大きく、日本のように、アメリカが風邪を引くと一緒に風邪を引いた体力のない国から順におかしくなっているにすぎないのだろう。
かって関西人は、東京等の人たちが丸井の宣伝に乗せられて、アメリカ人のように、クレジットで買物などすることなく、現金払いが当たり前であった。
私など、クレジットは何かの時用に持っているだけで、殆ど使わないし、現役時代でも、いきつけの飲み屋でも付けなどはしなかった。飲兵衛の私は飲みに行く時それ相当の金は持ってゆくが、ハシゴの最後は必ず行きつけの店で、有り金を全て前払いしそれで適当にやってもらっていた。それは、若いときだけでなく、現役を終わった今でも同じである。
マイホームのような高額なものを買う際には、そのうちどのくらいを頭金として入れるかの問題は別として、ある程度のローンを組むのは止むを得ないが、定年後にもローンが残るなどというのは私には考えられないこと。かって企業の寿命は30年と言われていたが、それも今や10年の時代が来たともいわれている。
サラリーマンが今勤務している企業に定年まで勤めていられるかどうか分からない時代になっているのだ。手元にある金を使うのなら良いが、遊びや贅沢にまでクレジットを使うのは余り好ましいとはいえない時代になってきたと思っているが、今でも、殆どの人が当たり前のように利用しているのではないか。
私は銀行や流通業界などのことは相当詳しく知っていると自負しているが、クレジットで買う人に色々特典を設けているのは、それはあくまで、必ずや現金で買う人達よりもクレジット利用客の方が不用不急のものを安易に多く買うことが統計的に立証されているからであることを知っておくべきだ。これからの時代を見据えて、自分の生活スタイルや買物行動など見直すときに来ているのではないかと思っている。
以下参考の※6:「Anti-Rothschild Alliance」など面白いと思うよ。
参考:
※1:コインの散歩道
http://homepage3.nifty.com/~sirakawa/Coin/index.html
※2:日本銀行金融研究所貨幣博物館トップページ
http://www.imes.boj.or.jp/cm/htmls/index.htm
※3:金為替本位制: 外国為替用語と基礎知識:金為替本位制
http://www.1gaitame.com/archives/2005/09/post_455.html
※4:固定為替相場制とは|金融経済用語集
http://www.ifinance.ne.jp/glossary/currency/cur130.html
※5:通貨制度の歴史?(金本位制→金為替本位制→変動相場制)
http://www.trend-review.net/blog/2007/08/000389.html
※6:Anti-Rothschild Alliance
http://www.anti-rothschild.net/index.html
※7:1986年[ザ・20世紀]
http://www001.upp.so-net.ne.jp/fukushi/year/1986.html
※8:通貨の単位及び貨幣の発行等に関する法律施行令(昭和63年3月23日政令第50号)
http://www.lawdata.org/law/htmldata/S63/S63SE050.html
※9:グローバル金融危機に対する日本政府および 日本銀行の政策対応とその効果の検証 (Adobe PDF)
http://www.jbaudit.go.jp/effort/study/mag/pdf/j43d02.pdf#search='リーマン・ショック後 日本政府 対応'
※10:図録政府債務残高の推移の国際比較
http://www2.ttcn.ne.jp/honkawa/5103.html
※11:【世界経済のネタ帳】
http://ecodb.net/
造幣局ホームページ
http://www.mint.go.jp/index.html
日本の金貨 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E9%87%91%E8%B2%A8
H&Acoins:古代コインの種類
http://ha-coins.shop-pro.jp/?mode=f5
Forex Cannel為替相場 - リアルタイム チャート - ドル⁄円
http://www.forexchannel.net/realtime_chart/usdjpy.htm

肺がん撲滅デー

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いつも参考にさせてもらっている「今日は何の日〜毎日が記念日〜」(※1)に、今日・11月17日の記念日として「肺がん撲滅デー」があった。
由緒を見ると、“2000(平成12)年9月に東京で開催された国際肺癌学会で制定。アメリカで11月第3週が「たばこ警告週間」となっていることから。”・・・とあったので、東京で開催された国際肺癌学会でどのようなことが話し合われたのかを検索すると、以下参考の※2:NPO法人 「子どもに無煙環境を」推進協議会のページに、国際肺癌学会(IASLC)東京宣言2000年9月14日というものがあった。
そこには、“肺癌は世界で死の最も高いものである。男女共にその発癌発病率の急増は警鐘を鳴らす状況にある。肺癌の9割は喫煙及び受動喫煙によるものであり、そのため予防可能なものといえる。喫煙はその他の多くの癌(ガン=悪性腫瘍の俗称)、循環器系疾患及び慢性疾患の主な原因ともなる。子供の喫煙によるニコチン中毒は世界的な流行病であり、速やかな対応を必要とする。禁煙は肺癌発生の抑止と、高騰する医療費の抑制を計る最良の方法であり、ひいては世界人類の公衆衛生の向上と豊かな生活を成就することができる。”として、これらの目的を達成するために国際肺癌学会(IASLC)は以下の事項(1〜5)を宣言している。
1. 政府に対し、
1)子供の喫煙によるニコチン中毒>を防止するための新しい方法の開発
2)分煙などによる非喫煙者の保護のための公共施設・交通機関内での禁煙
3)政府広報・公共広告を通して、喫煙の害・禁煙の啓蒙
4)禁煙を目的としたタバコ税の増額
5)喫煙者に関わる医療費の一部自己負担制の新設
6)初等中等教育での禁煙教育を行うための法令整備、行政指導、予算措置を要望する。
2. 医学会や医療機関に対し、禁煙運動と禁煙教育への協力支援を依頼する。
3. 医療関係者に対し、禁煙のためのカウンセリング技術の習得を要請する。
4. 産業界・メディアに対し、タバコの広告宣伝及びセールス活動を廃止するように要請する。
5. 国際肺癌学会は、肺癌に関する資料を公共のために提供する。
以上の宣言は、要するに、タバコは害があるので、さまざまな「喫煙規制」をしようということのようだが、このような喫煙を規制するようになった理由としては、世界保健機関(WHO)の「たばこ規制枠組条約」が世界的な合意を得たからだと聞いている。
タバコは、葉の成分に習慣性の強いニコチンを含むナス科(ニコチアナ【Nicotiana】 タバコ属)の一年草の亜熱帯性植物で、南北アメリカ大陸の熱帯から温帯にかけてと、オーストラリア・南太平洋諸島・アフリカ南西部などに分布し、約66種が知られているが、そのうち45種が南北アメリカ大陸と、その周辺部に生育し、先住民族が使用していたというから、タバコ文化の発祥はアメリカだといってもよいだろう。
このタバコは1492年にアメリカ大陸を発見したコロンブスがヨーロッパに持ち帰ってから最初は、観賞用、薬草として栽培されたり、万能薬として医療にも用いたりされた(タバコの語源は、スペイン語やポルトガル語の "tabaco"で、スペインでは薬草 類を "tabaco"と呼んでいたらしい)。その後、疲れや緊張を和らげてくれる手軽な癒しの手立てとしての嗜好品として愛用され、百年も経たないうちに世界の隅々まで普及しているが、その当時から、ヨーロッパでは、タバコによる悦楽や慰みにふけることを背徳的な行為と考える人々の間では、タバコの使用はもともと野蛮な異教徒の忌むべき陋習であり、医療行為としてのみ許されるべきであるという主張が直ぐに高まり,その後も、たばこの乱用を戒める声は続いていたというが、庶民から居酒屋(パブ)などでの喫煙を奪うことはできなかった(国中に普及していた喫煙の風習を最初にたばこに反撃を試みた人物は、イングランド王ジェームズ一世だとされている)。しかし、現在では、タバコの喫煙は、世界的に、癌・高血圧心臓病などの重大な疾患の原因になるほか、受動喫煙の問題などマイナスのイメージが強くなり、さまざまな団体による喫煙規制や禁煙運動が進められている。
このタバコの歴史については、以下参考の※3:「たばこの歴史」や※4:「アメリカにおける「喫煙と健康」論争の誕生と進展」に詳しく書かれているが、タバコの喫煙と健康問題については、後者の方で簡潔に纏められているのでそこから、最近の動きが発生するまでのアメリカの状況がどうであったかを引用させて貰おう。
タバコ文化発祥の地であり、葉タバコの栽培で植民地の最初の基礎を築いたアメリカにおいて、タバコは当初からヨーロッパであったと同様の非難の対象となってきたようであり、北米植民地(13植民地参照)に於ける初期の反タバコ運動は、マサチューセッツ州議会が1634年、公衆の面前でタバコを摂取することや2人以上の者が一緒に喫煙することを禁止する法律を成立させ、コネチカット州でも1640年、タバコの使用を抑制する法令を制定したが、タバコが、植民地の主要な輸出品となっていくにしたがって、1646年に共に廃止されたそうだ。
これが再び勢いを盛り返すのは独立戦争以後のことで、それは北部を中心に始まった禁酒運動と一緒に進められたという。
アメリカ独立運動宣言の署名者の1人で医師のベンジャミン・ラッシュは、1798年、合衆国で最初の注目に値する反タバコ論文とされる「タバコの習慣的使用の健康・道徳・及び財産に対する影響についての考察」を発表し、その中で、彼は「口と喉が喫煙やタバコの汁の刺戟にさらされたあとでは、どんな鎮静剤や気の抜けた酒もまずい。当然、欲求は強い酒に向かい、直ぐに暴飲と酒びたりになっていく」と指摘して、タバコの酒への悪影響と両者の関連性を強く主張していたそうだ。
因みに、Wikipediaによれば、ラッシュは一般に長老派教会員と考えられていて、フィラデルフィア聖書協会の創立者の一人であったそうで、依存症という概念を発明したとも言われている人で、ラッシュの頃まで、酔っ払うことは罪深いことであり、個人の選択の問題とされていたが、彼はアルコール依存症が自制心を失わせるという概念を紹介し、病因として、アルコール依存の選択よりもアルコールの特性であるとし、依存症の概念を発展させ断酒が依存症に対する唯一の治療法であるとしていた人だそうだ。ただ、ラッシュは、アルコールの過度の乱用が身体的かつ心因的な健康に有害であると主張したのであり、彼は後に成立する禁酒法よりも、むしろ個人による節度を信じていたという(Wikipedia)。
ラッシュの警告は、1833年の「アメリカ禁酒同盟」(禁酒法参照)の結成と同時に盛り上がった禁酒運動とともに、多くの社会改革運動家によって、強化された。
しかし、南北戦争とその後の4半世紀の間は、反禁煙の風潮が再び減退したが、19世紀末からシガレット(紙巻きタバコのこと)の台頭がこれにもう一度火をつけた。それは、シガレットが新奇で手軽なため女性や未成年者も手を出すようになったことが、良識ある人たちの顰蹙を買ったようだ。
タバコ反対運動は第一次世界大戦以後に全国で支持を集めたが、そこには、社会的影響力をもつ人達、「発明王」の名を持つトーマス・エジソン、自動車王ヘンリーフォードといった人々の影響が大きかったようであり、1920年1月タバコ反対を主張して大統領選に立つと宣言したルーシー・ベイジ・ガストンもその1人で、彼女はもともと「婦人キリスト教禁酒同盟」(※5参照)に関係しており、シカゴを拠点に活発な活動をし、州議会などにシガレット禁煙令を制定するよう働きかけていたそうだ。彼女が1924年死去した後の反タバコ運動の最も突出したリーダーは、「アメリカ非喫煙者保護同盟」のチャールズ・G・ピース博士だったという。
こうした社会改革運動家たちの活動が功を奏して、テネシー州では1897年、ニユーハンプシャー州では1901年、イリノイ州では1907年など各州で始まった立法化の波を受けてタバコ反対運動は全盛を極め、1921年まで拡大を続けていた。この時期、喫煙者とタバコ会社に関して何らかの法律が制定され、28州の法令集にシガレットの製造・販売・広告・使用に関する規定が書き換えられたが、禁止の度合いには非常に幅があり、アイダホとユタの2州を通過した法案のみが明確にシガレット全面的禁止を規定していたに過ぎなかった。また、多くの場合制定と同様に法律の撤回も迅速に行なわれ、しばしば財政上の必要性がその理由とされたようだ。
それでも1926年まではカンザス、アイオワ、インディアナ、ミシシッピーの諸州ではまだ反シガレット法が生きていたが、1930年までには本来の形で法律を残している州は殆どなく、効力のある唯一の禁止事項は、「未成年者へのタバコの販売」に関してのみであったという。
他方、禁酒法は1851年の「メイン州法」を皮切りに州法レベルの成立が相次ぎ、1919年には全国禁酒法」がアメリカ連邦議会でも通過し、翌1920年1月から1933年12月に廃止されるまで14年間も生き続けていた。これに比べ、反タバコ運動は禁煙法の制定は遅々たるもので「禁煙運動」は「禁酒運動の頼りない妹」に見られていたといえるだろう。・・・と述べている。
その後、ドイツでは、1942年にヒットラーがナチズム喫煙規制政策をとり健康有害、公衆衛生教育など反喫煙キャンペーンを行ったことが伝えられているが、その他の国では、第二次世界大戦中は影を潜めていた反たばこ運動であったが、戦後、肺癌の増加傾向が見られるようになると喫煙との関係が疑われる様々な実験や報告も行われるようになり、喫煙と人体への影響はまだ曖昧だとしても、少なくとも病理学の一分野では、タバコが人体に有害な可能性があると見られるようになり、このころより、反たばこ運動の焦点は製品であるタバコそのものよりも、タバコを吸う「喫煙」者そのものが否定される社会へと移行していくことになる。
その後,大規模な疫学調査(統計的な解明)の結果に基づいて、1964年にアメリカ公衆衛生局諮問委員会が「合衆国の人口中、シガレットの喫煙と因果的に関連している死亡か過多数の合計は、正確に推定することは出来ない。」としながらも、「シガレットは喫煙が特定の疾患による死亡割合や全体の死亡率に実際に寄与しているものと判断している」との報告を出し 、次の1967年の報告では、「喫煙問題は肺癌の主要な原因として圧倒的なものとなりつつある。・・・研究結果は、タバコ喫煙が冠動脈 心疾患による死亡の原因となり得ることを強く示唆している」と、前回の幾分暫定的な報告からかなり断定的な報告となり、こうした姿勢が1968年、1975年、1979年の報告でも堅持されたようになり、喫煙の健康に対する人々の懸念は一層高まっていったようだ。
公共の場所における喫煙を包括的に制限する法律を初めて成立させたのは、1973年米国アリゾナ州であるが1980年代に入ると、州・郡・市レベルまで喫煙関係条例が増えて行った。
世界保健機関が設立40周年を迎える1988年には、「世界禁煙デー」(※6)を毎年5月31日とすることが定められ、翌1989年以降この日に実施されるようにもなった。
カリフォルニア州は、1994年に働く場所での喫煙を禁止する法律を成立させ、1998年には壁で囲まれた場所における喫煙を完全に禁止する法律を成立させている。
米国に於いては、1992年以降、喫煙による被害者ばかりでなく受動喫煙者、反喫煙運動家、医療提供者等を原告、たばこ会社や小売業界、広告会社を被告とするタバコ訴訟が増えていった。
1997年11月、州政府との訴訟で主要なたばこ会社5社が、総額2,460億ドル(約25兆円)を25年にわたり支払うという「和解」をせざるを得なくなった。この結果、ニューヨーク市等では、多くの銘柄が1箱7ドル(約840円)になり、当時の日本の3倍以上の値段になっている(※7)。
そして、2003(平成15)年5月21日、冒頭で述べたWHOの「たばこ規制枠組条約」が、世界保健機関(WHO)第56回総会で全会一致で採択され、日本では、翌年3月9日 ニューヨでこれに署名し、 2005(平成17)年2月2日 公布及び告示(条約第3号及び外務省告示第68号)、同年2月27日より、効力が発生している(※6参照)。
思い起こせば、私は、現役時代、アメリカへは1996年〜1999年の間に2度米国西海岸一帯の流通業視察と観光を兼ねて行ったことがあるが、1996年の最初行った頃は、日本でも禁煙運動あったものの緩やかであり、私のいた会社でもまだ社内での喫煙は禁止事項とはなっていなかったが、社長以下重役連は禁煙をしており、禁煙を出来ない人は自制力が無いような雰囲気が出来始めてはいた。しかし、まだまだ、喫煙が身体に悪いという認識は殆どの喫煙者にはなく、ただ、勤務中に事務所内での喫煙はばかられ、吸いたい時にはそっと、席を離れて休憩所や食堂などでカップコーヒーなど飲みながら自由に喫煙をしていた。
私も当時は喫煙をしていたので同様であった。ただ、実際に米国西海岸への視察で、現地に着くと、非常に限られた場所でしか喫煙できるところはなく、喫煙できるレストランなどへ行っても、奥の隅に、ごく限られた場所に狭く仕切られたところが喫煙席になっており、そこに座っているだけで、周囲の人達から、蔑むような冷たい視線を浴び、本当に厭な思いをした。
そして、米国では、低所得者層の住むダウンタウン周辺地域、それに、中・高所得者層の住む郊外の地域では、全く環境が異なっており、低所得者層のいる地域では、あちこちにタバコの吸殻が見られるが、中・高所得者層のいる地域では、全く見ることはなかった。明らかに、所得階層によって、禁煙への取り組みも違っていることを見て驚いた。
それでも、私は、帰国後も、喫煙をしていたが、3年たった2度目の視察の時には、前回の視察で味わった屈辱的な思いだけはしたくなかったので、これを機会に、禁煙をした。だから、私は、当時でも、タバコが、身体に悪いからと思って喫煙をしたわけではなかった。
私は若い頃、気管支喘息の気もあったのでタバコなど会社へ入社当時は吸っていなかったのだが、商社と言う仕事柄、営業に出て一対一での交渉ごとや夜の付き合いも多く、どうしても、タバコでも吸わないと間が持たないというので吸い出したので、もともと吸っても1日、1箱程度しか吸わなかったから簡単に禁煙できたのだろう。
タバコと違って、酒の方は、会社の連中から 「うわばみ」とあだ名されるほどの底なしの飲兵衛で、類は類を呼ぶで、同じような飲兵衛仲間が沢山出来、酒は浴びるほどに飲んでいたため、定年の頃には、御蔭で肝臓がすっかり弱ってしまって、医者にも注意され、肝臓の薬は飲んでいるが、それでも、今だに、毎晩晩酌は欠かさない。凡そ、私は、大人になって夕食に、ご飯を食べたことはなく、定年後になってから、月2〜3回意識的に、飲まない日を作っているだけである。
だからと言って、適量を越えた酒やタバコが身体そのものに良いものとは思っていないし、特に酒以上に、タバコなどニコチンを含んだ煙を吸ってそれが身体に良いわけはないと思っている。
しかし、先にも記した2000年の国際肺癌学会(IASLC)東京宣言にもあるように、酒やタバコが身体に良くない面があるから未成年者の喫煙を禁じることとか、周囲の人に迷惑をかけないように受動喫煙者を亡くすようにすべきことなどの宣言は理解できるが、私は既に、タバコは禁煙しているので直接関係はないものの、「禁煙を目的としたタバコ税の増額」や「喫煙者に関わる医療費の一部自己負担制の新設」といったことについては、どうも方法論が違っているのではないかと言う気がする。
タバコ税については、民主党鳩山由紀夫政権(当時)では2010(平成22)年10月のたばこ税増税(※10参照)の目的を「健康目的の為に喫煙者を減らす」と記者団に語った事から、いつの間にか「健康目的の懲罰税」の性格を帯びてくる様になってきた。これは、以下参考の※11:「厚生労働省:2009年世界禁煙デーについて」を見ても分かるように、禁煙週間のテーマ「煙のない健康的な社会づくり」が、WHOのスローガン:「警告!たばこの健康被害」を受けてのものであろうが、これに対し「たばこ税の元々の目的ではなくなっている」と批判する声も挙がっている。
今年(2011年)も小宮山洋子厚生労働大臣が9月5日の記者会見で、2012年度税制改正に向けて、たばこ税の増税を財務省に要望する考えを明らかにした。
増税の理由として、先進国の中で日本のたばこの値段が安いことや、タバコは1箱【20本入り】あたり約400円だが「1箱700円くらい までは、値上げで販売量が減っても1本あたり税収が増えるため全体の税収が 減らない」と強調し、大幅な引き上げに意欲を見せたが、タバコ税の所管官庁は財務省であり、小宮山と同じNHK出身の安住淳財務大臣は、小宮山の発言に不快感を示し、野田内閣発足早々、まとまりの悪さを暴露した形だが、超党派による禁煙推進議員連盟の事務局長をも務めていた彼女は、昨年9月のインタビューでも「なるべく早く先進国並みの1箱600円まで値上げ」「1箱1000円くらいまでは値上げしてもいい」と語り、そのメリットとして健康促進、受動喫煙減少、医療費削減、未成年者の喫煙防止、寝たばこ火災抑制の5つを挙げていた(※11)。
しかし、東日本大震災の復興財源にあてる増税の種類や税率について、民主、自民、公明3党の税制調査会は、11月10日、野田政権が予定していたタバコ増税そのものは見送ることになった(個人住民税の増税額の引き上げなどで穴埋め)ようだが、又、そのうちに増税の話は出てくることだろう。
タバコ税とはたばこ税法(昭和59年8月10日法律第72号)に基づき、「製造たばこ」に対して課される税金(いわゆる「国たばこ税」=狭義のたばこ税)であり、酒税法(昭和28年2月28日法律第6号)に基づき、酒類に対して課される酒税同様の国税(※12)であるが、何かあると、なぜこれらの酒やタバコなどに税金がかけられるかについての詳しくは、Wikipediaの酒税タバコ税を見てもらえば分かるが、1つには、酒、タバコは共に、嗜好品(=贅沢品的なもの?)であり、その消費については税金を負担できるであろうとされているのだろう。それに、どちらも、蔵出し税であり、出荷した時に徴収する税金である為、取りっぱぐれが無い。酒税はもう、これ以上上げられないぐらいになっているので、これ以上税金を上げると業界の反発が強い。それに比べて、タバコの販売元は、今は民営化されたとはいえ、もとは大蔵省の外局であった日本専売公社であり、政府には逆らえず、国民さえなんとか大義名分をもって納得させれば、増税しやすいので、特に値上げの標的にされやすいところがあるようだ。
タバコが、本当に健康上悪いだけの代物であるならば、製造や販売そのものを禁止していくべきだと思うのだが・・・・。
ただ、世界保健機関(WHO)は、アルコールも癌(ガン)リスクを増大させるとして警告を行っており、WHO傘下の国際がん研究機関(IARC)では飲酒は、がんを引き起こす元凶と指摘している(Wikipediaの参照)らしいので、タバコは既に禁煙しているものの、今では毎日の晩酌を唯一の楽しみに生きている私には、この問題がお酒にまで飛び火したときには、生き甲斐がなくなってしまうので困るよな〜・・・。
江戸時代の本草学者である貝原 益軒(1630年=寛永7年 - 1714年=正徳4年)によって書かれた健康な生活の暮し方についての解説『養生訓』(内容は※13又※14参照)が「酒、タバコ」についての解説もしているので、そこにはどんなことが書いてあるか、判りやすい現代語訳の※14:「養生訓 (抄訳)」から、見てみよう。直接、酒・タバコに入る前に先ず、巻第二総論 下に書かれている“飲食”についてその一部を抜粋してみよう。
7 飲食はひかえめに
“飲食は人が生きていくために必要なものである。でも必要以上にむさぼってはいけない。食欲を抑えることも必要である。食べ過ぎてしまい、そのために胃腸薬を服用すると、胃の本来の働きが弱くなってしまう。食欲を抑えるには、精神力が必要だ。病気になることを怖れることを忘れないようにしなければいけない。
10長命と短命
“長命と短命を決めるのは、人の生き方による。自分の思うがままの生活をつづければ、健康を損ない短命になる。逆に節度をもった生活を続ければ長命でいられる。”・・・。
正に、ここに記されている通りである。これを前提に、第四巻飲食 下の中で、記されている酒、タバコについてみてみよう。以下のように書いてある。
44 酒は天の美禄
“お酒は、天から与えられた褒美である。ほどよく飲めば、陽気になり消化を助け、心配事から開放され、やる気を出す。しかし、多く飲めば害になる。たとえば火や水は人の生活になくてはならないものであるが、同時に火災や水害ももたらす。そういうものである。酒を多く飲むと寿命も縮めてしまい、せっかくの天からの褒美も台無しである。
45 多飲の戒め
“お酒というのは、人によって多く飲める人と飲めない人がいる。少ない量で気持ちよくなる人は、多く飲む人より酒代が少なくてよく、経済的である。日々我慢をせず、多く飲むことが習慣になってしまうと、身を崩してしまう。慎まなければいけない。”
このほか、酒は、空腹時に飲むと害になるとか、冷や酒は良くないので、程よく燗(かん)をした酒が良いとか、酒を飲むときは甘いものを食べてはいけない(これは今の医学では誤りとも聞くが・・・)。焼酎は(度数が強い)ので毒があるから多く飲んではいけないとか色々と書かれており、
51 酒と命 では、
“長寿な人たちは、ほとんど酒をのまない。お酒を多く飲む人が長寿なのはめずらしい。酒はほろ酔い程度に飲めば、長寿の薬となるだろう。”・・・・等々。
いちいち、ごもっともと、感心することばかりであるが、私など、若いうちの無茶のみをただただ反省するばかりである。
仕事柄、相当ストレスの沸く仕事をしていたので、そんなストレスを発散するには、気の合う飲兵衛仲間との酒が一番であったが、それが祟ったのか、かっての飲み友達の多くは既に、私より、先に、旅立ってしまっている中、私だけ未だにしぶとく生き残っている。酒だけではなく、仕事中に、ホット息抜きをするときなど、一服のタバコはいいものであった。
しかし、酒に比べてタバコのことは、飲茶 ならびに煙草の項に以下のように簡単に書いてあるだけである。
60 煙草の害
“たばこは天正(1573年)・慶長(1596年)年間の近年になって、他国から渡ってきた。「淡婆姑」は日本語ではない。
煙草は、毒である。煙を吸い込むと目が回り倒れることもある。習慣になれば害も少なくなり少しは益もあるといわれるが、害のほうが多い。病気になったり、火事になったりと心配ごとが増える。習慣になると、煙草をやめれなくなり家計にも負担をかけることになる。“・・・・と。
酒は飲み方を間違えれば毒になるが間違えなければ“長寿の薬になるだろう”と書いているのに比べると、煙草は、“少しは益もあるといわれるが、害のほうが多い”と手厳しい。又、“病気になったり、火事になったりと心配ごとが増える。”ともあるが、煙草の種が日本にもたらされて、日本で栽培されるようになったのは、江戸時代初めの慶長10年(1605年)ごろだそうで、当時、薬草としてこっそり栽培している個人がいたらしい。当時は薬であると信じていたことから、好んで喫煙していたらしく、豊臣秀吉や徳川家康も煙草を吸っていたという。
冒頭の画像は、高松藩家老・木村黙老が描いた平賀源内像である(週刊朝日百百科『日本の歴史』【83】より)。
【☆画像注釈:江戸時代の本草学者、蘭学者、医者、作家、発明家、画家【蘭画家】としても有名な平賀源内 は、特に本草学に熱心で藩主松平 頼恭に引き立てられ、城下の栗林荘(現在の栗林公園)に薬草園も作っている。エレキの発明家として有名だが、煙管【きせる】を持った画像を見ても分かるように煙草(タバコ)好きで、日本初のライターとも言うべきゼンマイを使用した火打石と鉄を用いた「刻み煙草用の 点火器」を発明している。】
当時は「きせる」による喫煙が主であり、江戸時代初期には全国に普及していたが、非常に高価なもので喫煙できるのは裕福な武士か商人のみであったが、庶民の間に喫煙の風習が広がりはじめた頃、徳川幕府が、度々「たばこ」の禁煙令を内容を変えて発令してているが、その目的には「タバコ」自体への非難とは異なるもの“当時かぶき者などが多く出現したことから、そのような乱暴狼藉を働く反社会的な浪人集団が珍しい風習である「タバコ」を徒党のシンボルとしていたためそのような反駁(はんばく)府精力の抑制やタバコの広まりにより、現金収入を得られて実入りのよい「タバコ」を栽培する農家が増加し、年貢米の確保に不安を覚えた幕府が、農家による「タバコ」の栽培を禁じた”ものらしい。しかし、幕府による度重なる禁令にも関わらず、「タバコ」を楽しむ人々は増え続け、徳川3代将軍・家光の代である寛永期(1624〜1643年)に入ると、「タバコ」に課税して収入を得る藩も現れ、「タバコ」の耕作は日本各地へ広まってゆき、やがて、禁令も形骸化し、徳川綱吉が5代将軍を務めた元禄期(1688〜1703年)頃を境に、新たなお触れは出されなくなり、「タバコ」は庶民を中心に嗜好品として親しまれながら、独自の文化を形作っていくこととなったようだ(※15の徳川幕府と「タバコ」の関係参照)。このころには、専売制も出来上がり、今で言うところのタバコ税は幕府や藩の重要な財源となっていたことだろう。
貝原 益軒が『養生訓』の中で、”病気になったり、火事になったりと心配ごとが増える。習慣になると、煙草をやめれなくなり家計にも負担をかけることになる。“・・・・としているのも“火事と喧嘩は江戸の花”といわれるぐらい江戸では火事の発生が頻繁で、一番恐れられていたことから、火災予防を心配し、酒も同じだが、タバコなど嗜好品はほとんどの場合、心理的あるいは薬理学的な機序(しくみ、メカニズム)により習慣性を有し、物質嗜癖(医学上は「依存」と呼ぶことが多いらしい)の対象となりうることから、その常習性を心配してのものだったようだ。
『養生訓』巻第一 総論 上1では「人間の尊厳性」が語られている。1部抜粋すると以下のようである。
“今、自分が生きていることは、いろんな人たちのおかげであることを認識しないといけない。両親が自分を生み育ててこられたことを感謝し、そのほかに自然の恵みにも感謝しなければならない。その感謝の表現として、自分が健康で長寿を全うすることこそが、最大の感謝の表現なのである。
ひととして生きているのならば、健康で長生きすることは、誰でも願い思う最大のものである。健康で長生きする方法を知り実践することは人生の最も大事なものである、と言っても過言ではないであろう。不健康なことをして、自分の身体を病むことはとても馬鹿げたことである。自分の欲望と自分の健康とをはかりにかけることについて考えよう。(中間略)人生を楽しく過ごすのはいいことであるが、そのことで寿命を縮めることがあってはいいことでない。お金をたくさん儲けたとしても、そのために自分の健康を損ない楽しく生活を過ごせないとしたら、儲けたお金も何も役に立たないであろう。健康で長生きするほうが、大きな幸せではないだろうか。”・・・と。
近年は、健康上の理由から飲酒や喫煙にたいする規制が厳しくなってきている。特に、喫煙は、喫煙者本人だけではなくその周辺の者の受動喫煙が問題視され、各種団体の禁煙圧力が強まっている。
現代、日本人の3大死因はがん、心臓病、脳卒中だというが、これら疾患への予防・治療の研究も急速に進み、日本は世界一の長寿国になった。
しかし、長生きするようになれば、アルツハイマー病パーキンソン病骨粗しょう症など高齢者特有の疾患が増えていると聞く。
こうした病気は直接死に結びつくわけではないが、冶療が難しく長期にわたってゆっくりと進行し、人格を崩壊させたり寝たきりにさせたりする。精神的・肉体的に本人を、また周囲の人々を苦しめる。食べ物を飲み込むこともできなくなって管から栄養をとり、肺炎や心不全、出血をくり返しながら死を迎えることも多く、末期には意思の疎通すらもできなくなり自ら尊厳死を選ぶことも不可能になる。
私は仏教徒であるが、人間の人生にとって最も大切なことは、どのように死を迎えるかではないかと考えている。死を迎えたとき悔いを残し、しむことなく、周りの人に感謝の一言も述べて、安心してあの世へ旅立ちたい。
もう、平均寿命まで、そんなにあるわけでもなく、今は私が亡き後、残った妻などが困らないよう身の回りの整理や遺言作りなども徐々にすすめている。しかし、一番難しいのが、死の迎え方だ。病気も何もなしにあの世に旅立つことは出来ない。昔からのかかりつけの医師に、「一番楽に死ねる病気は何ですか?その病気で死のうと思うとどうすればよいのだろうか?」と聞いいたことがあるが、苦笑いして教えてはくれない当然だろう。医者は、病気を治療し延命をすることは出来ても、病気で楽に死ぬ方法など教えられないだろうから・・・。その答えは、自分で考えなくては仕方がない。
心臓病だとあまり苦しまずにぽっくり死ぬことができるかもしれないが、突然の死は家族や友人との別れが出来ず寂しいし、遣り残したことが出来ないかもれない。不治の病の癌だと、あとの余命が何ヵ月と宣告され、最後は苦しむのかもしれないが、自分の死期が何時頃と判れば、かえって、遣り残したことも片付けて、人生の締めくくりが出来るかもしれない。
人の死に方は、生き方でもある。寝たきりにならずに死ねるのなら、癌や心臓病で死ぬのも良いかもしれない。ただ、もう既に準備はしているが、もうこの年になって、元気に回復することが無いのなら、絶対に延命治療だけはしないよう妻や子供には言ってあるし、その時用に、延命治療を拒否する旨、医者宛の自筆文書も書いて用意してある。死を迎えるまでにやって欲しいのは、治療ではなく、痛みなどで苦しまないようにしてくれればそれで良い。だから、私自身は余り、病気になることそのものを気にはしていない。
ただ、出来るだけ、ポックリと楽に死にたいので、そのためには、元気で長生き生きすることだろうと、散歩や体操など適度の運動と暴飲暴食だけはしないよう今は心がけている。
しかし、毎日の食時では、家人が適度に栄養バランスは考えてくれているが、余り、そういうことにはこだわらず好きな美味しと思うものを食べて、肝臓の薬を飲みながらも程ほどの晩酌も欠かさず、好きなことをして人生を楽しんでいる。ただ、医者の言われて、週に1回程度休肝日をつくっているのも、大好きなお酒が飲めなくなるのが厭だからである。私は、もう、タバコは吸わなくなって20年近くなるが、愛煙家も、同じような気持ちの人が多いかもしれない。ただ、自分が楽しめても、人に迷惑をかけない(受動喫煙)ようにだけは注意しなければいけないだろう。病気になれば、医療費がかさむというが、人間最後は病気で死ぬのだからそれは仕方がないだろう。私は、延命治療など望んでいないので、もし、病気になったら、一日でも早く楽に死ねるようにして欲しい。そうすれば、医療費や、年金問題にも迷惑をかけないだろう。老齢化老齢化と言われている今の世で、若者に気を使いながら何時まででも生きながらえるのは心苦しいから・・・。自分の人生、最期の過ごし方だけは医者が何と言おうと自分で決めたいと思う。
最後になったが、喫煙の有害性を主張する識者や各種団体の禁煙圧力が強まっていることに対して、喫煙の有害性に疑問を投げかける識者がおり、日本では養老孟司の名などが知られているが、最近なにかと話題になっている中部大学の 武田邦彦教授が、自分はかってタバコを吸っていたが今では、禁煙をしている者であるとして、その上で、統計データなどを元に、タバコと肺がんはほぼ無関係とブログに書いて論議を醸しているようだ。その問題のブログが以下参考に記載の※16:「武田邦彦 (中部大学)ブログ◇◇食・生活」のタバコを考えるパート1〜12がそうであるが、統計に関するものについては、こちらの方が正しいのか、喫煙の有害性を主張している側が正しいのかは、私などの素人にはなんとも言えないが、さすが、学者らしく、論理的に持論の展開を進めている。
昔から、"人を納得させるのも数字なら人を欺くのも数字"と言われるように、このような統計やマスコミがよく使う世論などというものは、作り手側の恣意が強く反映されているものだ。だからこのような数字でみる、タバコと肺がんの関係は別として、タバコにストレスを除去してくれるなど精神面を癒す効果と、タバコに含まれるニコチンなどにガンを引き起こすという二つの作用があるとすれば、成人している大の大人が、人に迷惑さえかけなければ、どちらを選択するかは本人の問題なのだから、それを余り、他の人が、特別視したりだけはしない方が良いのではないかと思うのだが・・・。
参考:
※1:今日は何の日〜毎日が記念日〜
http://www.nnh.to/
※2:NPO法人 「子どもに無煙環境を」推進協議会
http://www3.ocn.ne.jp/~muen/index.htm
※3:たばこの歴史
http://www.t-webcity.com/~thistory/thistory/t_history.html
※4:アメリカにおける「喫煙と健康」論争の 誕生と進展(Adobe PDF)
http://www.seijo.ac.jp/pdf/faeco/kenkyu/165/yamaguchi47-87.pdf#search='1973年 米国 アリゾナ州 タバコ 規制'
※5:女性キリスト教禁酒同盟
http://ci.nii.ac.jp/naid/110004682883
※6:厚生労働省:たばこと健康に関する情報ページ
http://www.mhlw.go.jp/topics/tobacco/kin-en/index.html
※7:たばこ税とたばこ文化
http://www.h-hasegawa.com/main/tabako.htm
※8:たばこ規制枠組条約(外務省)
http://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/treaty/treaty159_17.html
※ 9:たばこ税の増税Yahoo!ニュース
http://dailynews.yahoo.co.jp/fc/domestic/tobacco_tax/
※10:厚生労働省:2009年世界禁煙デーについて
http://www.mhlw.go.jp/topics/tobacco/kin-en/09.html
※11:bloomberg2010年9月13日
http://www.bloomberg.co.jp/apps/news?pid=90900001&sid=aigqwug6u.TI
※12:税金対策と節税対策ガイドTOP > 国税
http://www.zeikin-taisaku.net/002/
※13:貝原益軒アーカイブ(学校法人中村学園 )
http://www.lib.nakamura-u.ac.jp/kaibara/index.htm
※14:養生訓 (抄訳) - 森下ジャーナル
http://home.att.ne.jp/theta/mo/you/
※15:JTタバコワールド:たばこの歴史
http://www.jti.co.jp/sstyle/trivia/study/history/index.html
※ 16:武田邦彦 (中部大学)ブログ◇◇食・生活
http://takedanet.com/cat5651416/
厚生労働省:たばこ規制枠組条約第3回締約国会議概要
http://www.mhlw.go.jp/topics/tobacco/jouyaku/090428-1.html
たばこ - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%9F%E3%81%B0%E3%81%93
特定非営利活動法人 日本肺癌学会 - 公式サイト
http://www.haigan.gr.jp/
はつらつ養生訓 下方 浩史(国立長寿医療センター疫学研究部長)
http://www.abikosln.org/health/51.doc
禁煙運動に賛成?反対? - Yahoo!知恵袋
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1412027014





第1回神戸マラソン開催

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マラソン発祥の地神戸で、待望の都市型市民マラソン大会「第1回神戸マラソン・(KOBE2011)」(※1)が、今日(2011年11月20日)開催される。
種目 は、マラソン(42.195km ) と、一般市民向けのクォーターマラソン(10.6km ) の2種目。
開始時間は、マラソン・クォーターマラソン共に、9:00 に神戸市役所前をスタート。
通常のフルマラソンは、神戸市役所をスタート後、明石海峡大橋袂(県立舞子公園付近)を折り返し、ポートアイランド(市民広場付近※2参照)をフィニッシュとするコース(日本陸上競技連盟およびAIMS公認コース。AIMSについては※3、※4参照)、を、クォーターマラソンは、神戸市役所前をスタートし、須磨浦公園をフィニッシュとするコースを走る。
制限時間は、フルマラソンが、7時間となっており、16:00に終了、 クォーターマラソンは、2時間で11:00終了 となっている。交通・警備、競技運営上、一定の距離ごとに関門閉鎖時間を設けており、関門以外にも著しく遅れた場合は、競技中止を指示することとなっているが、これは止むを得ない処置である。
景観の良い観光都市と知られている神戸の市街地は、山が海に迫り、南北はその狭い地にあり、東西に長く延びている。そこに、東西を結ぶ幹線道路が走っているわけで、普段から交通量の多いところである。
今日は、マラソンのスタート、ゴール地点の神戸市中央区から折り返し点の垂水区(明石海峡大橋の起点がある)にかけて交通規制が行なわれるが、特に影響が大きいとみられるのが普段から交通量の多い神戸市須磨区から垂水区の国道2号(浜国道【国道250号】と重複路線)は、約5時間“封鎖”されるが、「大阪や京都と違って、南北を結ぶ歩道橋や地下道がほとんどなく、規制中は人も一切行き来できなくなる」問題があり、このような大規模な交通規制で沿道で混乱が起きるのではないかと大会関係者や県警関係者などが心配しているようだ(※5)。
神戸マラソンのコース及び交通規制マップは以下を参照。
ランナー向けコース詳細マップ PDF(約1034KB) (クリックで画像は拡大できる)
日本においてはオリンピックでもマラソンは常に注目競技の上位であった。1964年(昭和39)年の東京オリンピック円谷幸吉が3位、つづく1968(昭和43)年のメキシコオリンピックで君原健二が2位になるなど、日本の男子マラソンが知名度の高いレースで優勝・上位入賞する時代があった。一方日本人女子マラソン選手は、1992(平成4)年バルセロナ五輪で有森裕子が銀メダルを獲得し、次の1996(平成8)年アトランタでも続いて銅メダル を獲得する快挙をなすなど、1990年代前半からは、女子マラソン選手が世界的な競技大会で活躍を見せるようになり、2000(平成12)年シドニーでは、高橋尚子がオリンピック新記録で、日本の女子陸上競技として初の金メダルを獲得。次の2004(平成16)年アテネでは、野口みずきが高橋に続いて金メダルを獲得しオリンピック連続優勝を果たした他、出場した他の土佐礼子、坂本直子の2選手も入賞を果たすという快挙を成し遂げた。又、強豪揃いで、不振の続いていた男子マラソンでも油谷繁、諏訪利成の2選手が3大会ぶりの入賞(5位6位)を果たし、世界に日本のマラソン陣営の層の厚さを見せ付けるが、特に女子マラソンは、男子選手が低迷するするなか、諸外国と比べても最も選手層が厚いといわれるほどの全盛時代を迎えた。
それが、日本人のマラソンへの関心をますます高め、その上、近年の健康志向の高まりとともに、ウオーキングやジョッギングなどからハードなスポーツであるマラソンも、今までの見るマラソンから、市民が参加するマラソンへと発展してきた。
わが地元兵庫県の篠山市内で、1981(昭和56)年以来3月に開催されている篠山ABCマラソン大会など、従来から市民ランナーが参加できるマラソン大会は日本にも多く存在している(日本国内の主な市民マラソン大会参照)が、アメリカ合衆国の「ニューヨークシティマラソン」、「シカゴマラソン」、「ボストンマラソン」などと並ぶ「全米4大マラソン大会」の1つ「ホノルルマラソン」などにも日本人が多数参加するようになったことから、これらに、匹敵するような市民参加型の大規模シティマラソンとして、石原慎太郎都知事の肝いりで計画されたのが2007(平成19)年に始まった東京マラソンであった。日本陸連公認の大会(ここ参照)としては初めて市民ランナーにも開放され、交通遮断の問題なども懸念されたが、参加人員も3万人規模の大会として大成功を収めた。
そして、やっと、我が地元・神戸市でも、『第1回神戸マラソン』として、開催されることとなった訳であるが、実は、この人気のマラソンの日本での発祥の地は、神戸なのである。
今より、102年も前の、1909(明治42)年3月21日、神戸の湊川埋め立て地(現在の新開地)から大阪の西成大橋(現淀川大橋)までの31.7キロの「マラソン大競争」が行われた。日本で「マラソン」という名称が使われたのは、この大会が初めてである。

(上掲の画像がこの日本での初マラソンの様子である。写真は「中学世界」掲載のもので、画像は、蔵書のアサヒクロニクル「週間20世紀」1908-1909年号より借用した)。
世界で最初にマラソンレースが行われたのは、1896(明治29)年に開催された第1回アテネ近代オリンピック(ギリシャ)でのこと。ボストン体育協会が、現在とほぼ同じコースで初の都市マラソン、「ボストンマラソン」をスタートさせたのはその翌年である。当時アメリカはまだニューヨークの時代ではなく、アメリカ代表の大半はボストン体育協会の選手だった。このような歴史がある事から、「ボストンマラソン」は今でも最も格式ある老舗レースとして見られているようだ。
この12年後、第4回ロンドンオリンピック(1908年、イギリス)の翌年に開催と言うのだから本当に早くから行なわれていたことになる。
日本で初めての神戸で開催されたマラソンは大阪毎日新聞社主催による「阪神間二十哩(マイル)長距離競走」であった。陸上の距離の計測に用いられる1マイルは、1,609.344メートルであるため、約32キロメートル走ということになる。
因みに、現在のマラソンの距離は42.195kmと設定されているが、これは古代マラソンに直接由来するものではなく、 オリンピックでマラソン競技が実施された当初は、大会ごとの競技距離は一定ではなく(同じコースを全選手が走ることが重要とされていたため)、当時の規定では、40kmを目安とするというものであったため厳密な実測はされず、第1回アテネのマラソンの距離について、後年の測定では36.75kmの走行距離であったそうだ(小学館編集部による)。競技距離が42.195km(26マイル385ヤード)と統一されたのは、第8回パリオリンピック以後のことだそうである(Wikipedia-マラソン)。
この1909(明治42)年の神戸でのマラソンへの、参加申込者は408人にのぼり、体格試験によって120人に絞り込まれ、当時は兵庫県武庫郡鳴尾村(1951年西宮市に編入され消滅)にあった鳴尾競馬場で予選が実施され、出場選手20人が決まり、大会当日の午前11時30分、当時の神戸市長水上浩躬(※6)が、短剣で選手の前に張られた紅白のテープを切り、スタート。1位は、身長161・4 cm。がっしりした体格の岡山県在郷軍人の金子長之助選手だったそうだ。
序盤、長之助は7番手と出遅れたが、現在の東灘区辺りで奮起するが、きっかけは「なんだ、みっともない」という沿道の怒声。同郷の友人だったという。さらに、神戸出身のライバルに送られる大声援。御影付近でわらじの緒が緒が切れるアクシデントがあったが、脱ぎ捨てて走り続け、芦屋で2位、西宮で先頭に出、尼崎までに一気に離して走り続け、タイムは2時間10分54秒、2着を5分近くも引き離しての逆転優勝であったという。
優勝者には、300円の賞金のほか、金時計や銀屏風などの豪華な賞品が贈られたそうだ。当時の銀行員の初任給(大卒)が35円、牛肉100g10銭(アサヒクロニクル「週間20世紀」)と言うから、相当な賞金である。
明治のこの時代、日本初のマラソンの沿道を絶え間ない観衆が包み応援しているのも、スポーツ史に詳しい神商大(現兵庫県立大)の棚田真輔名誉教授は「神戸だから盛り上がった。居留地の外国人の持ち込んだスポーツにいち早く触れ、関心が高かった」からだろうといっている。
このマラソン大競走の37年も前、「神戸レガッタアンドアスレチッククラブ」が、神戸の外国人居留地摩耶山天上寺間で長距離走の競技会を既に開催していた。マラソン大競走で、長之助の反骨心に火を付けた大声援。長距離走の魅力を知っていた神戸ならでは、と言えないだろうか。」・・・・と言っている(※7参照)。
今、「第1回神戸マラソン」(2011年11月20日実施)のスタート地点でもある神戸市役所前に、「日本マラソン発祥の地 神戸」の記念碑が建てられている。

上掲の画像は「日本マラソン発祥の地 神戸」の記念碑(※8の神戸市HPより借用)。
今回開催される「第1回神戸マラソン」を記念して、神戸須磨ライオンズクラブが同市に寄贈したもので、高さ約130cm、幅約185cm、厚さ約60cmの石板に5人のランナーの後ろ姿が切り出されている(日本初マラソンのことは※5、※6、※7等参照)。
このような日本初のマラソン開催地でありながら、これだけ人気の高いマラソンを今日まで開催できなかったのは、1995(平成7)年阪神淡路大震災からの復興が急がれたことのほか、先に述べたような神戸独特の地形による交通規制の難しさも有ったからであろう。
そのような都市事情の中、神戸市に本社を置く医療機器メーカーで、野口みずき(2004年アテネオリンピック女子マラソン金メダリスト・現女子マラソン日本記録保持者) が籍を置く シスメックス など多くのスポンサーやボランティアの協力を得て、今日は、神戸の町を、メキシコ五輪銀メダリスト君原健二やソウル五輪銀メダリストダグラス・ワキウリらゲスト奏者や兵庫県ゆかりの招待選手体を含め約2万5千人が駆け抜ける。
交通規制で、不便をかけるドライバーや地域の皆さんには、色々不満もあるだろうけれども、神戸にとって歴史のあるマラソンを復活させるために、今日1日は我慢して優しく走者を見守り、応援してやって欲しいと思います。
今回開催される「第1回神戸マラソン」のテーマーは、
”被災から復興、そして現在にいたるまで、手を差し伸べていただいた国内外の人々や地域へ感謝の気持ちを現したい。
神戸マラソンは、「自分のために走ることはもちろんだが、それ以上に「人々のために走る」マラソンをめざしている。
そのコンセプトの根底にあるのは、「仲間」「共同体」という気持ち。
創造的復興を果たした兵庫・神戸の姿や、震災の経験・教訓を世界中の被災者に提供していくという行動は、
すべての人が仲間であり、喜びも悲しみも分かち合うという考え方に基づいている。・・・”ということだ。
ただ、本番前の前日19日神戸市内のあいにくの荒天に見舞われ、雨と強風のためポートアイラドで始まった屋外イベントもも中止となってしまっそうたが今日はどうなるのだろう。とにかく昨日の夕方から雨は上がり、今日は曇り空ながら太陽が輝いておりランナーには支障はなさそう。
走者の健康上の問題等も守るため大勢の医師たちもボランティアとして参加しており、実際に走者と走りながら、何かあれば即対応できる体制もとっているので安心して走りを楽しんでください。
沿道の各所での地元や東北の被災地の美味を集めたグルメフェスなど多彩な応援イベントも実施する予定になっていたがそれが予定通りに行なわれかどうかはわからないが、皆で一緒に楽しみたいもの。
そして、事故やトラブルもなく、無事に終了してくれることを一市民として心より願っています。
なお、今年からの都市型フルマラソン「神戸マラソン」開催により、昨・2010(平成22)年まで31回開催さていた「神戸全日本女子ハーフマラソン」はこれに吸収され発展的解消する形となった。
(冒頭の画像は、2011・11・17朝日新聞朝刊よりカット)
参考:
※1:KOBE2011(第1回神戸マラソン)公式ページ
http://www.kobe-marathon.net/
※2:神戸ポートアイランド市民広場 | トップページ
http://www.siminhiroba.net/
※3:AIMS|ランニングクラブ「Wisdom.RC」
http://ameblo.jp/wisdom-rc/entry-10118020363.html
※4:公認記録について
http://net-rc.com/bible_02.html
※5:神戸マラソン 大規模な交通規制で沿道混乱も
http://www.kobe-np.co.jp/news/shakai/0004586023.shtml
※6:神戸市文書館 収蔵資料:古文書
http://www.city.kobe.lg.jp/information/institution/institution/document/shiryou/komonzyo02.html
※7:マラソン大競走(上) - 神戸新聞
http://www.kobe-np.co.jp/rentoku/sports/201103marathon/01.shtml
※8:神戸市:神戸を知る: 日本マラソン発祥の地神戸
http://www.city.kobe.lg.jp/information/institution/institution/library/furusato/marathon.html
※9:マラソン:日本初開催から100年 走る喜び、今もなお - 毎日jp(毎日新聞)
http://mainichi.jp/enta/sports/graph/2009/marathon100/
神戸ランナーズステーション/RunSta
http://www.run-sta.com/index.html
公益財団法人 日本陸上競技連盟(JAAF)
http://www.jaaf.or.jp/fan/
Yahoo!辞書 新語探検
http://dic.yahoo.co.jp/newword?category=8&pagenum=31&ref=1&index=2008000025

飛ばし 

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1980年代終盤から数年間に日本で起こったバブル景気は、1990年ごろから景気が後退し、バブル経済も崩壊。それによって消費や雇用に悪影響を及ぼし、デフレになった。
かつて、そのような状況であった1990年代から2000年代初頭までの経済を「失われた10年」(平成不況)と呼んでいたが、2008年の世界金融危機(米国のサブプライムローン問題(サブプライム住宅ローン危機)に端を発するリーマン・ショックが発生したことがきっかけで、1990年代、2000年代以降の経済を合わせて「失われた20年」と変更して呼ぶようになった。
このリーマン・ショック後の最悪の状況からなんとか持ち直したかに見えた日本に、今年3月、東日本大震災が発生、しかも、震災以降、世界的に大きな問題が表面化した。
それは、昨・2010(平成22)年のギリシャの財政破綻の危機(ギリシャの経済参照)が発覚以来、EU(欧州連合)ではユーロ圏のイタリアやスペインの財政問題(※1の中の政府債務残高の推移の国際比較グラフなど参照)が話題となり、世界的に「ソブリン・リスク」(国家=ソブリンに対する信用リスク、※2参照)が高まってきたことだ。そして、EUの国だけでなく、米国債、日本国債も実際に格付け会社から格下げ(国債参照)されているが、今のような各国の財政状況を引き起こしたのは、リーマンショック時に、投機に夢中になっておかしくなっていた銀行や企業を救うために、国民の税金を使って国家が援助をし、それら企業の赤字を国が肩代わりしたことや、戦後、金も無いのに財力以上の福祉や社会保障に金をつぎ込んできたこと、破綻を仕掛けている国は、何処も親方日の丸の公務員天国である事などが共通している。・・・・ことは、先日(2011・11・10 )。このブログ「天皇陛下御在位60年記念硬貨が発行された日」でも簡単に触れておいた。
そのような中で、国際的に何処の国も今、財政状況が思わしくなく、国によってはデフォルト(債務不履行。※2参照)の危機さえ、囁かれている中で、東証1部上場会社で、 生産量基準では日本国内では日本製紙・王子製紙・王子板紙に次ぐ国内第4位の規模を持つ
大王子製紙井川意高前会長の昨年5月〜今年9月に計26回にわたり、連結子会社から取締役会の承認を得ないまま無担保で計106億8千万円にのぼる借り入れをし、未返済額85億8千万円(株式での返却は拒否されため)にのぼる損害を与えたとして、告訴され(ほぼ全額がカジノでのギャンブルに使用されたと見られている)、東京地検特捜部に会社法特別背任容疑で逮捕(特捜部は今年7月から9月の4社からの借り入れ7回、32億円の損害分を逮捕容疑)される事件(※3参照)があった。
冒頭貮掲載の図向かって左が「大王子製紙から前会長への貸付金の流れ」(2011・11・22、夕刊朝日新聞夕刊より)
また、大手光学機器メーカーオリンパスが、1990年代の財テクで生じた損失を有価証券の含み損を海外のファンド(fund。※4参照)などに売りはらって損失を付け替える「飛ばし」などの隠蔽工作を重ね、10年以上も不正決算を続け、今年・2011年3月期連結決算(連結決算の語は※2参照)で財務の健全性を示す純資産を300億円以上水増ししていたことがわかったという。この損失は、2001(平成13)年に新しい会計基準(※2:「金融経済用語集」の時価会計また、※5を参照)が導入されたことをきっかけに始められたことがわかっている(※6参照)。
冒頭掲載の図右が、オリンパスの損失隠しのイメージ図である(朝日新聞2011・11月16朝刊“ニュースがわからん!オリンパス問題の「飛ばし」って何?”より)。
『飛ばし』(※2:「金融経済用語集」の飛ばし参照)・・・と聞いて、1997(平成9)年11月24日(月曜日)に起こった大きな事件を思い出す。
同年の前日(11月23日、「勤労感謝の日」)が振替休日で休業日だったこの日は1日、異様な興奮が日本中を覆っていた。
先ず、未明に、サッカー日本代表チームがアジア最終予選でイラン戦に勝ち、初のワールドカップ(1998 FIFAワールドカップ)出場を決めた。日本時間では深夜の放送であったにもかかわらず、50%近い視聴率であり、この歴史的勝利に日本中が沸いていた(その感動的動画は※7で見れる)。
その余韻もまだ醒めない早朝、今度は北海道拓殖銀行が経営破綻した・・・と言う衝撃が日本列島を走った。
日本の資本主義の根幹(縁故資本主義参照)が揺らいだのが、1997(平成9)年とすれば、その混乱の頂点となったのが11月だった。
11月3日に準大手証券の三洋証券が経営難に陥り、会社更正法の適用を申請し、証券会社としては戦後初の倒産をした。この倒産自体はそれほど世間の注目を浴びたわけではなかったが、その後の金融市場に与えた影響は計り知れないものがある。
翌11月4日には、三洋証券に対する裁判所の資産保全命令により、インターバンクのコール市場(銀行間取引市場。※2参照)と債券レポ市場(※8参照)でデフォルト(債務不履行)が発生。戦後初の金融機関のデフォルトとなり、コール市場が疑心暗鬼・大混乱に陥った。
この信用収縮の余波を受け、11月17日には綱渡りで運転資金をやりくりしていた北海道拓殖銀行が都市銀行では初めての経営破綻となり、続いて、7日後の11月24日(月)、野村、日興、大和とともに当時、日本の4大証券の一角である山一證券が経営破綻(※15参照)し、自主廃業を大蔵省に届出のニュースは、日本列島に衝撃が駆け抜けた。
同日の午前11時30分、会長の五月女正治、顧問弁護士の相澤光江と共に東京証券取引所で記者会見に臨んだ社長の野澤正平は「私らが悪いんです。社員は悪くございません。」と泣きながら訴えた。その様子は当時のマスコミによって大々的に報じられたので誰の記憶にも残っているだろう。
この山一證券の経営破綻の引き金は資金繰りの悪化ではあったが、顧客の損失を転々とさせる今回のオリンパスがやったと同様の「飛ばし」(※2)が行き詰まり、山一自身が抱え込むことになって、膨大な簿外債務が出来たのが最大の原因であった。
この間に、「大手銀行だけは安心」という神話も崩れたことから、まだ破綻したわけでもない大手銀行や地方銀行に預金解約を求める長い行列が出来、静かな「取り付け騒ぎ」の状況もあり、金融機関同士の資金の融通さえままなら無い状態が続き、大蔵大臣や日銀総裁が何度も声明を出して、国民に冷静な行動を呼びかける様は「平成不況」を予感させた。
経済の血液である金融の分野が機能不全に陥った1997(平成9)年は、金融界が闇の精力と癒着していることが表面化した年でもあり、「総会屋」と呼ばれる特殊な株主に脅される型で、野村證券(※15参照)をはじめとする4大証券と大手都銀の第一勧業銀行(現みずほ銀行の前身)が利益供与(※8参照)を行なっていたとして東京地検特捜部が次々告発し、現役のトップを含め役員らを続々逮捕していったが、金融機関トップの腐敗は総会屋との癒着だけではなかった。
このような総会屋事件と並行するように日本債権信用銀行に対する“奉加帳方式による救済”(※6参照)、拓銀と北海道銀行(※15)の合併合意と白紙撤回(※7参照)、そして、日産生命保険の経営破綻(戦後初の保険会社の破綻)といった事件が表面化している。
これらは、全て、経営幹部が不良債権の処理を先送りし、決算を粉飾していた結果だった。
経営情報を仲間内だけで処理し、不利な情報には目をつぶり、闇の精力を使ってでも握り潰す。日本の資本主義の心臓部である金融界の膿が一気に噴出した年であったのだ。
この年、11月に入っての金融の混乱は日本発の世界恐慌(※9も参照)に発展する、との指摘もされ始め、そうした危機意識が住宅金融専門会社(住専)以来、タブーになっていた「公的資金」(※4にて公的資金も参照)の投入を政府に決断させ、世論にも受け入れさせる役割を果たした。
また、1999(平成11)年以降の大手銀行を核とした金融界の再編成は、この1997(平成9)年の「危機」がなければありえなかったといわれており、まさに、日本資本主義の分水嶺であったといえる。
だが、政策当局が「金融システム」(※10の金融システムを参照)という公共財をまもることを錦の御旗にしてしまった結果、一企業としての銀行に危機感を薄れさせてしまったともいえる。
翌1998(平成10)年の日本長期信用銀行(現新生銀行の前身)、日債銀(現あおぞら銀行の前身)の相次ぐ破綻・国有化と2000(平成12)年の小売業としては日本最大の負債総額を抱えてのそごう倒産(※11参照)に象徴される混乱は先延ばしされていた1997(平成9)年危機(※15参照)の帰結でもあった(アサヒクロニクル「週間20世紀」094)。
この1997(平成9)年危機については、以下参考の※12:「第2章 日本の金融危機と金融行政」や※13:「森崎研究室」経済学余滴の“総括・平成大不況”に詳しく書かれている。
その後、リーマンショックやギリシャ危機が発生したとは言え、日本政府の抱える国および地方の債務残高(国家財政の赤字)は過去最大(※1参照)となっており、未だに平成不況から脱出できないどころか、ますます悪化してきている。※13:「森崎研究室」経済学余滴の平成の不況は、なぜ長引いたのか?に不況からなかなか脱出できなかった原因がまとめられているが、今、又、政府が財務省の言いなりになって、当時と同じような過ちをしようとしているように思える。
今回のサブプライムに端を発するによるリーマンの破綻による不況も損害額の規模は全く違うとはいえ、日本の不動産バブル崩壊とよく似ている。ただショックによる危機を回避するために国が金融機関に税金の投入をしたのだが、山一は、「飛ばし」と呼ばれる形での大量の隠し不良債権を持っていたが当時、多くの銀行の債務超過が公然の秘密であったが、それを公的資金投入によって救済するため世間を納得させるために無理矢理破綻させたともいえるのに対し、リーマンのケースはそれを隠しに隠していた。そして、その損害額そのものも山一の500倍もあり、この桁違いの債務超過による破綻劇であったことから全世界の激しい信用収縮が始まったといえる(※14参照)。
前の「山一證券が自主廃業を決定」のブログでも書いたが、山一だけでなく、これら企業が損失隠しのため有価証券への虚偽記載をしているにもかかわらず、会社の取締役・監査役、それに、会計監査人である監査法人が知らなかったというよりも、黙認していたことが一番の問題であるが、今回の大王製紙事件やオリンパス事件を見ていても、今の時代になってもこれら一部上場の大手企業のガバナンス(corporate governance)に問題があることが、露見したことが一番問題視されなくてはならないのではないだろうか。
上場企業の決算書類が信用できないでは、金融市場がまともに機能するはずが無い。これら役員や監査法人の責任の追及されるべきだが、会社や代表取締役を監視し物言わなくてはならない立場のものがその会社から報酬を受けていたのでは、どうしても強い対場を貫きにくい。表面的な体裁だけを整えたような現在の会社法などを見直しをし、本当に有効な内部統制の強化をどのように構築するか検討しなければ、何時までもこのような不祥事が起こるのではないか。そうしなければ、日本企業の信用、それを許している日本の国の信用が問われるようになると思うのだが・・・。
参考:
※1:国家財政 - Yahoo!ニュース
http://dailynews.yahoo.co.jp/fc/domestic/budget/
※2:金融経済用語集
http://www.ifinance.ne.jp/glossary/
※3:大王製紙前会長への巨額融資問題- Yahoo!ニュース
http://dailynews.yahoo.co.jp/fc/domestic/daio_paper/
※4 :Yahoo!辞書
http://100.yahoo.co.jp/
※5:時価会計とは何か - 金融用語辞典
http://www.findai.com/yogo/0050.htm
※6:オリンパスに関するニュース- Yahoo!ニュース
http://news.search.yahoo.co.jp/search?rkf=2&p=%E3%82%AA%E3%83%AA%E3%83%B3%E3%83%91%E3%82%B9&ei=UTF-8
※7:[動画]日本代表 1997年11月16日『ジョホールバルの歓喜』
http://funfunfantasy.blog98.fc2.com/blog-entry-1268.html
※8:マネー辞典
http://m-words.jp/w/E582B5E588B8E383ACE3839DE5B882E5A0B4.html
※9:世界恐慌、1929年と現在の違い(1)Allabout
http://allabout.co.jp/gm/gc/293314/
※10:経済指標のかんどころ
http://www.cap.or.jp/~toukei/kandokoro/top/top1.html
※11:YouTube-そごう倒産 〜水島廣雄の「戦後」と「バブル」2 /2
http://www.youtube.com/watch?v=nxrqKx2ja1E
※12:第2章 日本の金融危機と金融行政(Adobe PDF)
http://www.esri.go.jp/jp/archive/sbubble/history/history_02/analysis_02_04_02.pdf#search='日本の金融危機と金融行政'
※13:森崎研究室
http://home.kanto-gakuin.ac.jp/~morisaki/
※14:リーマンと山一證券の破綻はスケールが全く違う  朝倉 慶氏
http://blog.goo.ne.jp/hitsuku/e/f528d4b1b2635354e27bd600f47fa244
※15:お金と沈滞した不況
http://www.okanetochintai.com/
ビジネス法務の部屋
http://yamaguchi-law-office.way-nifty.com/weblog/
東電の救済案でよみがえる不良債権の悪夢
http://www.newsweekjapan.jp/column/ikeda/2011/04/post-314.php
1997年[ザ・20世紀]
http://www001.upp.so-net.ne.jp/fukushi/year/1997.html
北海道拓殖銀行の経営破綻
http://www.geocities.co.jp/WallStreet/2912/taku.htm
今日のことあれこれと・・・山一證券が自主廃業を決定
http://blog.goo.ne.jp/yousan02/e/89a0ea86810d2e5e687c93d2ea8f9a6a
山一証券、破産手続き きょう終了: 泥酔論説委員の日経の読み方「山一証券、破産手続き きょう終了」
http://deisui-nikkei.seesaa.net/article/210325879.html
山一證券- wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E4%B8%80%E8%AD%89%E5%88%B8
税務会計用語辞典
http://www.keikazf4.com/zeimu/index.html

カイロの日

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月日の経つのは早いもので、今日からもう12月。1年最後の月12月(旧暦)は「師走」(しわす)または極月(ごくげつ、ごくづき)とも呼び、現在では師走は、新暦(グレゴリオ暦)12月の別名としても用いれているが、その由来は僧侶(師は、僧侶の意)が仏事で走り回る忙しさからという説や言語学的な推測として「年果てる」や「し果つ」等から「しわす」に変化したなど諸説あるが、それらは、明治政府により編纂された類書(一種の百科事典)『古事類苑』)で解説されている(※1の歳時部一>歳時總載>月第 1 巻 35 頁の〔古今要覽稿 時令〕の前後を参照)。
日本書記』卷第三 神武天皇 即位前紀 太歳甲寅十二月の項には以下ののようにある。
「十有二月(しはす)丙辰(ひのえ・たつ)の朔(ついたち)壬午(みずのえ・うま)。 安藝國(あきのくに)に至り、埃宮(えのみや)に居(いま)しき。」(※2)
又、万葉集巻8冬雜の、紀少鹿女郎梅歌一首には以下のように書かれている。
「十二月爾者(しはすには) 沫雪零跡(あわゆきふれど) 不知可毛(しらぬかも) 梅花開(うめのはなさく) 含不有而 (ふふめらずして)」(1648。※3=万葉仮名)
このように、万葉集や記紀時代には12月を「シハス」と読み、「師走」とは表記しておらず、従って、「師走」は後世の当て字であることがわかる。
なお、上掲の万葉集巻8冬雜の紀少鹿女郎(きのをしかのいらつめ)についてと、この歌のことは、以下参考に記載の※4:「紀女郎 千人万首」で解説されているが、歌については以下のように解説している。
【通釈】十二月には沫雪(あわゆき)が降ると知らないのだろうか、梅の花が咲き始めた。蕾のままでいないで。
【補記】陰暦十二月は春間近で、早梅が花開くことも珍しくないが、まだ雪の降ることの多い季節。早咲きの梅の花に親身に心を寄せている。・・と。
旧暦12月は、新暦では12月下旬から2月上旬ごろに当たるため1年でも最も寒いころである。
上掲で紹介した『古事類苑』には、“「シハス」の「シ」とは「トシ」といふ詞の転じたものである。「ハス」は「ハツ」の転じたもので我國の語に、凡事の終りを、「ハツ」とも「ハテ」ともいい、萬葉集では、「極」の字を「ハツ」とも読むので俗に極月の字を用ひて、「シハ」ともいふのももっともなことだ”と書いてある。だから、12月を漢字で書くとしたら、「極月」とかいて「シワス」と書くのが本当は妥当なのだろう。
12月になると、もうぼちぼちと、正月の準備と共に、その一環としての年賀状作りもしなければならず、何かと、気ぜわしくなってきた。12月が、何かとせわしないという意味では、後世に当てられた「師走」がもっともらしくは見える。
今日、このブログで何を題材に書こうかと思って、Wikipediaで調べてみたら、“1949(昭和24)年 の今日は初のお年玉年賀はがきが発売された日なのだそうで、これをネタに書こうかと思ったのだが、新聞で、今年は、東日本大震災の起きた被災地では年賀状のかわりに挨拶状を送る動きが広がっている。そんな中で、年賀状の話は少し気が引けたので、他に面白そうなネタはないかと調べていたら「カイロの日」があり、注釈には“日本使いすてカイロ同業会(現在の日本カイロ工業会。※5)が1991年に制定。カイロ(懐炉)の需要が高くなる時期である12月の最初の日を記念日とした。”・・・とあった。
昨・2010(平成22)年から今年・2011(平成23)年にかけての冬の気温は、暖冬と予想されていたが、非常に顕著な北暖西冷の特徴が現れた年となり、北・東日本では3年連続の暖冬となったようだが、西日本全体では2月の気温が高かったためにトータルでは並冬となったが、1月までは記録的な寒冬となった。特に12月下旬から1月末にかけて、ほぼ一貫して寒気に覆われ非常に寒い思いをした。
吉田兼好(兼好法師)の書いたとされる随筆『徒然草』(※6)第五十五段には、「家の作りやうは、夏をむねとすべし。冬は、いかなる所にも住まる。暑き比わろき住居は、堪へ難き事なり。」(※5)とあるように、我が家は、一寸高台の木造建築であり各部屋には窓も2ヶ所ずつ設けてあるので、夏は通気性もよく涼しいので非常に住み良いのだが、その反面、冬は、どこからか隙間風などが入ってきて寒い。一応、隙間風など入らぬよう断熱カーテンやドアの隙間を埋める工夫などもしているが、それでも、年のせいか、年々寒さが身に堪えるようになってきた。
2004(平成16)年 から 2008(平成20)年頃にかけて起こった原油価格高騰では、光熱費の大きな値上げによって企業や家庭で省エネムードが高まり、2010年4月1日、改正省エネルギー法(※7、※8参照)も施行され、工場など企業だけでなく、我々庶民にも協力が訴えられ、昨年は、家電エコポイント制度(※9)を使って省エネ対応の「エアコン」や扇風機他節電のための省エネグッズなどのブームも起こった。
今年、2011(平成23)年3月以降は、東日本大震災によって福島第1原子力発電所事故の影響で電力供給力が大幅低下したことにより、企業だけでなく家庭での節電が推進されたが、夏の危機だけではなく、この冬も更なる節電が要請されている。
しかし、節電/″\と言わても、家の中の設備面は、昨年中に、ほぼ省エネ商品に切り替えられるものはきり変えているし、もともと、我が家では普段から無駄な電気は使わないような生活をしているので、これ以上特に大きな節電をするところはないのだが、それでも、出来るだけ電力を使用しないよう協力はしなければいけないだろうから、暖かい食べ物で身体のうちより身体を温め、ヒートテックの肌着や綿入れの半纏などの衣類、ルームソックスや、ひざ掛けなどの防寒グッズなど最大限に活用するしかないだろう。
そんな防寒グッズの中で、寒がりの我々夫婦には、使い捨てのカイロ(懐炉)などは欠かせない一品となっている。最近はドラッグストアーなどで非常に安く売っているので有難い。
このブログなどは日当たりの良い2階の私の部屋で書いているが、寒い日でもエアコンなど使わずに、腰と背中に使い捨てカイロを貼り、パソコンを置いている机の椅子には小さないす用電気座布団を敷いてやっている。
現代のような「エアコン」のなかった時代、昔から何処の家でもつかわれていた暖房器具に、火鉢こたつ(炬燵)がある。
歴史的に日本では、室内で使われる火は、煮炊き用と暖房用に分化し、一方はかまどに、一方、暖をとるための室内の暖房も土間の穴で薪を焚くところから始まったことから農家の囲炉裏 (いろり)になっていった。このような暖をとるための室内のは、書院造茶屋造(※10の中の茶屋も参照)の建築物に残り、近世の町家でも座敷に炉をきった家がある。
この(火入)の上に櫓(やぐら)をのせ、小袖などの衣服をかぶせて暖をとったのものが「こたつ」(炬燵)の始まりのようだ。
歴史は古く室町時代に登場するが、一般に普及したのは、木綿布団の出回る江戸中期以降と見られている。「こたつ」は炬燵の他に火燵・火闥などとも書かれていた。

こたつには掘り炬燵と置き炬燵の2種類に分かれるが、上掲の画像は、江戸時代の大坂の浮世絵師高木貞武が 著した『絵本和歌浦』に描いた掘り炬燵(切り炬燵とも呼ばれる)と呼ばれるものである(絵は、NHKデータ情報部ヴィジュアル百科『江戸事情第1巻生活編』より借用)。
置き炬燵(岡炬燵とも呼ばれる)は、火鉢と櫓を一体化して布団を掛けたもので、こちらは可動式が最大の長所であり、現代の電気炬燵はこの系譜にあたる。
この置き炬燵が登場したのも、畳が一般に普及した江戸時代であり、土火鉢という瓦製の安物の火鉢を、初めは壊れやすいので木箱に入れて使っていたものを、後に櫓に替えて布団をかけるようにしたものである。炬燵は、部屋全体を暖めることはできないものの熱源を布団で覆うため熱効率が非常に良く、現代の私たちのように洋風の居間でも椅子に座らず床に座って生活しているものにとっては非常に心地よい暖房器具である。
この置き炬燵の一種に、櫓の代りに焼き物や石で囲った小型のあんか(行火)がある。
「行火」の「行」は「あん」と読ませているがこれは「行燈」(あんどん)、「行脚」(あんぎゃ)、「行宮」(あんぐう)等が同じ用法で、漢音では「こう」、呉音では「ぎょう」と読ませるが「行」は「持ち運びが出来る」と言う意味で、炭火を入れて手足を暖める可動式の道具、つまり「行火炉」(あんかろ)の略語である。
元は仏教用語で、修行僧も寒い季節には絶えられず「移動式暖房器具」を工夫して足を暖めたようだ。一般には、室町時代に禅僧によって広められ、江戸時代には夜の町を見張る「辻番」(つじばん)が同様の物を盛んに使ったので「つじばん」また、もっぱら足を暖めることから「足焙」(あしあぶり)とも呼ばれたようだ。これは、後に炭火を入れる「炉(火入)」と「蒲鉾型蔽(かまぼこがたおおい)」を合わせたたものと、炉(火入)の本体に灰と炭火を直接入れる「火鉢」に蓋をした形式のものとに分かれていたようだ。
「行火炉」には櫓炬燵」(やぐらこたつ)とそっくりな形をした小型のものがあるが、歴史的には、やぐら炬燵より「行火炉」が古くから使用され、「行火炉」から「炬燵」が考案されたようである。
また、江戸時代初期に中国から移入された布団の中に入れて足を暖める湯たんぽも熱源が手軽に手に入るお湯なので、簡便な暖身法として人気があったようだが、この「あんか」も小型で火持ちの良いことから、湯たんぽと同じように就寝時には敷布団の端の方に覆いを掛けて置くことで足を暖める可動式暖房器具としてよく用いられた(参考の※11又※12の中の陶磁火道具木質火道具 行火炉(1)参照)。
長いこと囲炉裏の時代が続くが、平行して煙や煤を嫌って炭火で暖をとることになりここで火鉢が生まれてきた。火鉢の歴史は古く、平安時代から貴族など上流階級の間では火桶(ひおけ)、火櫃(ひつ)、炭桶(すみおけ)、炭櫃(すひつ)などと同様のものが考案され、江戸時代から金属製、木製、陶製の火鉢が使用された。
「こたつ」が家庭用だったのに対し、火鉢は接客用に用いられたため様々に意匠を凝らしたものがある。町家では、長火鉢の改良が進んで、下に引き出しがついたり、そのまま食卓になるもの、銅製の酒の燗が出来る銅壷(どうこ)をつけたものなどが出現した。
余談だが、この長火鉢を自分の家に置くのが夢だったが、いいものが手頃に手に入らかったのが酒器などコレクションとしている私にはちょっと残念である。
普通の火鉢は、戦後エアコンに変わるまで、ずっと普通の家庭で、使われてきたが、簡単なものの煮炊きにも利用されたし、五徳の上に水を張った鉄瓶等をかけておくと加湿器代わりにもなり、便利な暖房器具だった。
ところで、肝心の話が最後の最後になってしまったが、先に述べた移動式暖房器具「行火」をさらに小型化し、懐中に入れたまま持ち運べるようにしたものが懐炉(カイロ)である。
日本には、古くから懐中に入れて暖をとる道具として温石(おんじゃく)といわれるものがあったそうで、これが、懐炉のツールであるとも言われており、懐炉は日本生まれの日本独自の保温具なのだそうだ。
以下参考に記載の※13:「財団法人京都市埋蔵文化研究所・京都市考古資料館」の”各種資料情報/これまでの各種資料情報/177生活・文化11 温 石”によると、
、“京都御苑内の発掘調査で出土した中世の遺物を整理していると滑石製石釜(石を積み上げてつくった堅炭製造用のかま)と思われる破片が4 6点見つかり、これらを調べていくうちに、これは滑石製石釜を転用した「温石」である事がわかり、この石には紐を通したり石を加熱した後に火箸などで取り扱いやすいようにあけられたと考えられる穴がある。ためしに、これらの石を熱湯につけて温め、タオルにくるんで温度の変化を調べてみると、室温2 4℃で2時間後でも3 8℃を保ち、保温力のある事がわかった。「温石」は、その字の通り、石を直接炉や火鉢等の火で熱したり熱湯に入れたりして温め、布などに包んで温度を調整して暖をとる携帯の暖房具として使用していたらしい。
しかし、近世になると、石に限らず土製品や瓦、塩を焼き固めたもの、塩を混ぜて炒った糠(ぬか)なども用いられたようだ。また、「温石」は暖をとるだけではなく、江戸の文献で寛政元年(1789年)に出版された『頭書増補訓蒙図彙大成』(かしらがきぞうほきんもうずいい)という子供のために書かれた事典には温石の解説に、「火に温めて、火のしとしても使え、長い病気を回復させ、悪い血をちらす」とあり、「火のし」とは、今で言うアイロンのように、衣類のしわ伸ばしや形なおしに用いられたり、腹痛や神経痛の患部に当てて温熱治療用具としても使用したようだ。
石を使った保温は古くは平安後期の『大鏡』に、「焼き石のように御身に当てて持ち給へりけるに・・・」とあり、「焼き石」と呼ばれて温石と同じ使われ方をしていたようだ。保温性が高く加工しやすい種類の石を利用した温石は、江戸時代に「懐炉灰」が発明されるまで、形を変えて長く利用されていた。“・・・という。
元禄時代の初め頃には、木炭末に保温力の強いイヌタデ(犬蓼)やナス(茄子)の茎などの灰(懐炉灰)に点火し、金属性の容器に密閉して燃焼させる懐炉が発明された。この木炭末に混ぜる灰としては他に麻殻や桐の灰なども使われたようだ。
近代になると、桐灰・麻殻灰・ゴマ殻灰・わら灰・ヨモギ灰などに助燃剤を加え紙袋に詰めた懐炉灰や、また、これを練り固めた固形のものが登場。
大正時代の末(1923年)には、矢満登商会(現:ハクキンカイロ。※14)の創業者・的場仁市により、気化したベンジン(揮発油)をプラチナ(白金)の触媒作用で徐々に酸化発熱させる原理を利用したカイロが発明され、「白金懐炉」と命名し売り出された。
ベンジンが稀少であった戦前・戦中は、軍隊など一部での利用が中心だったようだが、戦後はハクキンカイロ社以外の製品も登場し一般にも広く普及した。
現在は使い捨てカイロが主流だが、この使い捨てカイロは、鉄粉の酸化作用を利用したカイロであり、袋の中には、発熱体である鉄粉、触媒作用のある食塩水、それを保持する高分子吸水剤活性炭などが混ぜられている。安価で簡便なことなどから、ベンジンカイロに取って代わり現在はカイロの主流となっている。
この使い捨てカイロは、1978(昭和53)年にお菓子のロッテの子会社・旧ロッテ電子工業(現ロッテ健康産業=平成18年、ロッテ本体の健康食品事業を統合し社名変更)が携帯カイロ「ホカロン」という名前で発売した。同社が最初これを発明した経緯は、お菓子の脱酸素剤が空気に触れると発熱するところからヒントを得たらしい(※15)。また「ホカロン」 の名前は、温かいホカホカの「ホカ」と、当時(1978年)ロート製薬の胃腸薬「パンシロン」など、最後に「ロン」とつけた賞品がヒットしていたため、これを合わせて「ホカロン」としたそうだ(※5のカイロの名前参照)。この商品が大ヒット商品となって一般に普及したことから使い捨てカイロの元祖として「ホカロン」を思い浮かべる人が多いと思うが、実際には、これより早く使い捨てカイロは作られており、1975(昭和50)年には、アメリカ陸軍が使用していたフットウォーマーを元に、旭化成工業(現:旭化成)が、九州でのみで「アッタカサン」の名称で試験販売していたそうだ。
しかし、この米軍のフットウォーマーの原型とされるものの基本特許が明治時代に成立していた古いものということもあり、はっきりしない(Wikipedia)ようであり、それをあちこちの会社が研究して、いくつもの後追い製品ができるのだが、旧ロッテ電子工業もそのうちの1つであり、それを原型にして、三菱瓦斯化学(株)の子会社である日本純水素(株)(現・日本パイオニクス【株】)が1978(昭和53)年に開発し、その販売協力をロッテ電子工業に仰ぎ、ロッテ電子工業が「ホカロン」の商品名で使い捨てカイロを全国発売したものがヒット商品となって一般に普及した。
日本純水素は、その後、ホカロン等の携帯カイロメーカーに同社の不織布「スパンボンド」を独占的に供給することで、大きな利益を挙げていったという。同社は、1974(昭和49)年に内袋の包材に不織布を用いる「発熱性保温袋」を実用新案として出願していたそうだ(※16)。
私が住んでいる神戸を代表する地場産業に、ケミカルシューズがあり、その生産工場は長田区須磨区、中でも長田区に集中しており、私も神戸に長く住んでいる関係からケミカルシューズ関係の会社で仕事をしている人達も多く知っている。
私の母と同郷で幼い頃からの友人、母親同様に、神戸に出てきて結婚した人のご主人が関係している会社で今面白いものが実験的に作られているといって持ってきてくれたものがあった。それが、今でいう使い捨てのカイロであり、当時まだ、神戸では、使い捨てのカイロなどなかった時代、つまり、「ホカロン」など売られていなかったときのことである。
その製品がそこの工場独自に開発していたものであったのか、それともどこか大手の要請をうけての下請けで開発中であったのかは、ただ、開発中のものということしか教えてくれなかったので良く知らない。又、まだ完成品として出来上がっているものではなかったようなので、製品名等の書かれた正式な包装(パッケージ)もされておらず中身の内袋の状態のものをくれた。サイズは、今の使い捨てカイロの普通サイズのものとほぼ同じだったと記憶している。
ただ、そのカイロは、手に持って振っただけでは暖かくならず、カイロの両端を持って揉むようにすると次第に熱をおびてきたが、それが温かくなるには今のものなどに比べると大分時間も要した。カイロの内袋の中に何が入っているのかなど当時知る由も無いが、今のカイロよりも厚みがあり、カイロを振ると中身がカサカサと音を立て袋の中のものが異動していたのを記憶している。
それまで、寒い日など、会社への通勤時には白金触媒式カイロ(ハクキンカイロ)を、服のポケットなどいれて使用していたが、コンパクトで携帯が便利で揉むだけで暖かくなり、使いたいときにすぐ使用できる便利もので重宝したので、近所の親戚などの人にあげると皆欲しいというので、工場で買ってきてくれと頼んだが、何度もは買えないと言いながらも2回ほど買ってきてくれた。工場の関係者が直接製造しているところから買っているので、価格のことなどもう忘れてしまったが非常に安かったことだけは覚えている。
使い捨てカイロは登場後、技術の進歩により、使い始めてから温かくなるまでの時間も短縮され、肌着に貼れるタイプのものも出来ピンポイントで身体を温められるようにもなった。
現在使い捨てカイロは、様々なメーカーから数多くの種類の製品が作られ、「くつ用」「座布団用」「くつ下用」「中敷用」「スリッパ用」など用途別のカイロも発売され広く一般に普及している。
また、古来養生訓として身体を冷やすことが良くなことはよく知られていることであるが、慢性の腰痛や、膝痛などは患部を温めることによって血行よくすることが良いことも知られており、カイロは温湿布代わりとしても有効だ。
正直、年を重ねるごとに寒さがこたえ、若いときのように薄着ではいられなくなる。年齢から来る代謝量減少などにより身体の熱量が下がっているからだろう。足先から体の芯までジンジンと冷たさが身にしみる。これからの寒さの厳しい冬に、節電が要請される中、一般的には、冬の防寒対策として、服を1枚多く着るとか、保温効果の高い素材のものを着て寒さを防ごうということになるのだが、厚着をすれば肩も凝るし身体の芯からの冷えは防げない。
寒い時、体の内側から温まるには“陽性”の食べ物(※17参照)と言われているつまり冬野菜や、大根、人参、ゴボウ、蓮根といった根菜に、トウガラシ、ネギ、ショウガなどは体を温める作用があると言われているので、積極的に摂りたい。そして、外側から体を温めるとき、近年の研究では38〜39℃の温度で筋肉を温めるのが理想的と分かっているそうだ。例えば、使い捨てカイロの使い方にひと工夫し、単に手足を温めるだけでも悪くはないが、お腹、太腿、二の腕など気になる部分に当てて30分ほど動くと、その部分の細胞が活性化し筋肉量も増えるという。
それに、基礎代謝量が増えれば脂肪が燃焼されやすい身体になり、身体が早く温まるという。基礎代謝を上昇させるには褐色細胞(脂肪組織参照)を温めると良いらしいが、褐色細胞は背中や首筋、わきの下などに多く分布しているので、出来れば、軽いウォーキングやヨガ、ストレッチなど、背中やワキの下など、褐色脂肪の集中しているゾーンを意識しながら行うと着実に効果が期待できるが、どうしても出来ない時はその部位にカイロを貼って温めるだけでも効果があるという(※18、※19参照)。
世界的に何処の国の経済状況も混沌としてきた現代、省エネ・節電もしながらの寒い冬は、適度な運動をして、食事のとり方、防寒衣料や防寒グッズそれにカイロなどを有功に使って乗り切りましょうね。
画像は、桐灰化学小林製薬の子会社)「桐灰はる」
※1:古事類苑
http://base1.nijl.ac.jp/~kojiruien/index.html
※2:古代史獺祭::列島編/日本書紀
http://www004.upp.so-net.ne.jp/dassai1/shoki/frame/m00.htm
※3:万葉仮名で読む万葉集
http://www.geocities.jp/hgonzaemon/manyoushuu.txt
※4:紀女郎 千人万首
http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/osika2.html
※:5日本カイロ工業会
http://www.kairo.jp
※6:「徒然草」H. Shinozaki『日本古典文学テキスト』
http://www2s.biglobe.ne.jp/~Taiju/turez_1.htm
※7:住宅:改正省エネルギー法関連情報(住宅・建築物関係) - 国土交通省
http://www.mlit.go.jp/jutakukentiku/house/jutakukentiku_house_tk4_000005.html
※8:ECCJ :改正省エネ法の解説 (平成22年4月1日施行)
http://www.eccj.or.jp/law06/info/index.html
※9:家電エコポイント制度とは
http://eco-points.jp/index.html
※10:桂離宮 京都通百科事典
http://www.kyototsuu.jp/Sightseeing/HistorySpotRikyuuKatsuraRikyuu.html
※11:日本の暖房の歴史
http://www.netmuseum.co.jp/satou3/history.html
※12:火道具と炭火文化
http://blog.livedoor.jp/hidougu/
※13:財団法人京都市埋蔵文化研究所・京都市考古資料館
http://www.kyoto-arc.or.jp/
※14:ハクキンカイロHP
http://www.hakukin.co.jp/index.html
※15:ロッテ健康/ホカロン
http://www.lottekenko.co.jp/products/hokaron/index.html
※16:「環」第166号 九州は携帯カイロの故郷
http://www1.ocn.ne.jp/~knight00/kan166.htm
※17:食べ物で冷え性改善|冷え性ドットコム
http://www.hiesyo.com/tabemono/index.html
※18:正月太りを楽して解消。冬に溜まった脂肪にサヨウナラ(日経トレンディ)
http://trendy.nikkeibp.co.jp/article/special/20090108/1022605/?P=3
体温と褐色脂肪細胞 - 基礎代謝を高めるための99の技法
http://taisya.denze.net/saibo.html

ジュニアシェフの日

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日本記念日協会に登録されている12月08日の記念日に「ジュニアシェフの日 」がある。
由来を見ると、“「ジュニアシェフ」とはこどもを対象とした料理の教授、教室の企画・運営・開催を指すもので、福岡県久留米市に本社を置き、食品卸売業・レストラン事業・旅館業・農業などを手がけるベストアメニティ株式会社が有する登録商標。記念日は食育の一環として、食文化、作法、食材などの知識を広めるために同社が制定。日付は12と8で「ジュニアシェフ」と読む語呂合わせから。“ ・・・とあった。
ベストアメニティという会社は、色々な事業を手掛けているようだが、雑穀米などの食料品の販売を主にを行なっている会社のようだ。
縄文時代晩期から弥生時代早期にかけて大々的に水稲(すいとう)栽培が行われ始めて以来、米は、十分な食料がなかった時代の日本では重要な主食であったが、一般庶民までにはなかなか行き渡らず、国民が食べていたのは雑穀玄米などを混ぜ合わせた雑穀米であった。国民が雑穀米ではなく、全米飯を容易に食することができるようになったのは、今から約70年ほど前の1939(昭和14)年。米穀配給統制法(※1、※2参照)等が制定され、米の流通が政府により管理されるようになってからのことある。
昭和期に米が増産されるとともに雑穀の消費と栽培は廃れた。現代の日本では、家畜、家禽、ペット(ハムスター、小鳥など)の餌など飼料用としての利用が多かった。
しかし、飽食といわれる時代を迎えた今日この頃、雑穀類には現代人に不足しがちなミネラル(mineral)や食物繊維も豊富なことから健康食品として見直されてきている。
記紀に登場する、米・麦・粟・豆・黍(きび)または稗(ひえ)(※『古事記』稲・麦・粟・稗・豆。『日本書紀』稲・麦・粟・大豆・小豆。)を指して五穀としていることが多いが、五穀の内容は、時代や地域によって違っており、一定していない。
五種の雑穀をブレンドした米を五穀米と呼ぶが、五穀は、具体的な五種を指さず、「五穀豊穣」(穀物が豊かに実ること)のように穀物全般の総称として用いられることもある(※3)。
雑穀米ブームにのってこれら雑穀を米とブレンドした五穀米や十穀米などが食用として多く販売されるようになってきている。
ただ、 “五穀米”と言う呼称(名称)は、日本初の五穀米商品として石川商店(千葉県君津市。※3)から発売されている商品に使われている登録商標であり他社が、商品名としては使えない。同商店HPを見ると同社の“五穀米”の説明には「栄養価の高い九種の穀物をバランス良く配合」としており、縁起の良い「五穀豊穣」にちなんでの命名であろう。
余談だが、民主党の連方議員が、民主党の売り物事業仕分け(行政刷新会議)で、「仕分け人」として、次世代スーパーコンピュータ開発の予算削減を決定した時。要求予算の妥当性についての説明を求めて格好良く?「世界一になる理由は何があるんでしょうか?2位じゃダメなんでしょうか?」といった発言が話題になった(後に顰蹙を買う)が、私は、若い頃商社やメーカーでの仕事もしているが、商品開発面では先発のメリットが非常に大きいものなのだ。先発企業は機械類の減価償却も進んでいるし、特に発明などの特許や、それほどでなくても意匠登録のようなものでも、その取得した権利は大きく、このような雑穀米の名称にしても、誰でもが思いつく五穀豊穣に因む“五穀”の名が独占的に使えるのは大きいだろうと思うよ。世の中のこと何もわからないただのタレントが議員、そして大臣になり、大きな顔をしていること事態が仕分けされなければいけないのではないですか・・・?
今日の記念日登録をしたベスト アメニティは、日本国内の契約農家から仕入れた純国内産穀物8また16種類を配合した雑穀米を「国内産八種雑穀米」「国内産十六雑穀米」(同社の商標登録商品)などという呼称で販売しているようだ(他の種類の商品もあり)。
今日の記念日「ジュニアシェフの日 」にどのようなことをしているのかは同社HPに具体的なことは無いので良くわからないが、“現在飽食の時代を迎えた子どもたちがアトピーやアレルギー、さらにはかつて成人病と言われた生活習慣病に、子どもたちまでもがむしばまれているが、貧しかった時代は、雑穀米でバランスのとれた食生活を送っていたことを知ってもらおうと努力していることや体の問題だけではなく、「キレる子ども」たちによる凶悪犯罪など心の問題も増えているのは、そのような問題が食生活と全く関係ないといえるではないか?”との疑問も呈しており、そのようなことを前提に、「体にやさしい、おいしい健康」をテーマに品質の高い商品づくりを目指しているという同社が食育の一環として、食文化、作法、食材などの知識を広めるのが目的で、こどもを対象とした料理教室の企画・運営・開催をしているのが「ジュニアシェフ」ということなのだろうと勝手に思っているが、そうなれば結構なことである。勿論、その中には当然自社開発の雑穀米の販売促進の意図も潜んでいるだろうが・・・。
“カルチャー”は、「文化教養の意味での外来語」として定着しているが、カルチャーの英語“culture”の語源は、ラテン語の ”cultūra” → “cult”(耕す)に由来する「土くさいもの」、つまり、「畑を耕し、作物を育てる」というのが本来の意味するところのようであり、英語やフランス語には、“文化”と区別される“教養”という語を日本の言語のようには持っていないので、一体的に把握されておりその間の区分が明示的でないようだ(詳しくは※5参照)。
ところで“文化”と言えば、日本文化や東京の下町文化、室町文化など地理的、歴史的なまとまりによって文化を定義するもの、おたく文化のように集団を構成する人を基準に文化を定義するもの、出版文化や食文化のように人の活動の種類によって定義するものなど、個々の文化は様々な形で定義、概念化されている(文化参照)が、その中でも、「瑞穂国」といわれる日本の食文化の中心である稲作はまさに文化そのものと言え、日本にとって、米の存在ぬきに日本の食文化は語れないだろう。
食の多様化が進んでいる中、米だけでなく米にいたるまで日本の重要な食料源であった穀物も含めて、日本食文化の伝承を通じて、豊かで健康的な文化人の育成、ひいては田園を中心とする環境の保全、日本独自の食文化の明るい未来を創造してゆかなければいけないだろうと思う。
政府も“21世紀における我が国の発展のためには、子どもたちが健全な心と身体を培い、未来や国際社会に向かって羽ばたくことができるようにするとともに、すべての国民が心身の健康を確保し、生涯にわたって生き生きと暮らすことができるようにすることが大切である。子どもたちが豊かな人間性をはぐくみ、生きる力を身に付けていくためには、何よりも「食」が重要である” ・・・。そして、“家庭、学校、保育所、地域等を中心に、国民運動として、食育の推進に取り組んでいくことが、我々に課せられている課題である”として、2005(平成17)年7月15日には「食育基本法」を施行し、推進している(※6)。
そのような流れの中で、「ジュニアシェフ」のようなこどもを対象とした料理教室の企画・運営・開催も食育の一環として行われているとすれば結構なことではある。
日本では「シェフ」を、フランス料理など西洋料理の料理人のことを言う場合があるが、この言葉はフランス語の「シェフ」“chef ”からきているが、その元は、ラテン語の名詞“caput”から来ており、もともとの意味は「動物の頭部」という意味で、“caput”には「リーダー、長、かしら」という意味もあり、これが、フランス語に入って、「chef de cuisine」(料理の頭)を省略したもの“chef”という風に形を変えたぼだという。フランス語の “chef” が英語に入って“、chief ”になったのであるから、 “シェフ(chef)”とは、フランス語で、「組織の長」と言う意味であり、レストランやホテルなどの「料理長」、つまり、調理場を統括する責任者のことになる。ただ、英語の “chief ”は組織の「長」という意味が強く、「料理長」という意味はなく、英語の“chef”は、階級に関わらず、プロの料理人すべてを意味するために使用されるようになったようだ(※7又、Wikipedia-調理師 参照)。また、料理人。ホテル等の調理場で実際に調理を受け持ち、作る人のことを「コック」“cook”とも言うがこれは、オランダ語のの“kok”がその後英語に入ってきたようだ。
日本料理店・料亭で和食の料理をつくる人、つまり、日本料理人で、シェフに相当するのが通常板前といわれる人たちであろう。
料理とは食物調理または調理された食物の意であるが、日本における料理」は、貴族や武士などの食事作法に発祥し、時代とともに洗練され、発展してきたため、日本料理は、日本でなじみの深い食材を用い、日本の国土、風土の中で独自に発達した料理を言っており、この場合、日本人が長い間食べてきた食事であっても、それが日本独特なものでなければ「和食」とは呼ばれないことになる。
そして、日本料理が他の料理と大きく違うところは、素材の新鮮さが特に尊重され、一般的に米をはじめとする穀物、野菜、豆類、果物、魚介類や海藻といった海産物を中心に、昔は4つ足(4足歩行動物の肉)のものは使わないのが基本で、肉といえば鶏肉ぐらいのものであった(しかし、時代の変遷と共に牛肉や豚肉なども使用するようになってきたが)。
それに、季節感は日本料理の重要な要素になっており、の素材に余り手を加えず、選ばれた素材そのものの風味、味を最大限に引き出す。
そして、盛付けの美しさも、日本料理の大きな特徴である。調理した食材を彩りよく並べるだけでなく、器の質感や絵柄なども吟味し、四季に合わせた季節や風情を盛り込むことも、調理の一つとされている。
一口に和食と言っても、和食には各時代のなかで生まれた伝統的な様式料理である、本膳料理、に始まり、有職料理普茶料理精進料理会席料理や、懐石料理などは、その本質を失うことなく受け継がれ、さらに現代の趣向に合わせつつ進化を続けているが、これら伝統的な様式料理のほか、郷土料理それに大衆料理の代表である、寿司なども含まれ奥行きも幅も非常に広いものである。
これら、和食を提供する割烹料亭といわれる料理屋など日本料理店にある調理場のことをまな板が置いてある場所であることから、板の前に立つと言うことから料理場、又その前で仕事をする料理人のことを板前と呼ばれるようになったといわれており、「板」のみでも板前と同じ意味で使われ、親しみを込めて「板さん」とも呼ばれる。

包丁一本 さらしに巻いて
旅へ出るのも 板場の修業
待ってて こいさん
哀しいだろが
あゝ 若い二人の
想い出にじむ 法善寺
月も未練な 十三夜

1960(昭和35)年、藤島桓夫の歌で大ヒットした「月の法善寺横丁」である(以下参考の※8で、藤島の懐かしい曲が聴ける)。
「こいさんが私を初めて法善寺へ連れて来てくれはったのは藤よ志に奉公に上がった晩やった。早う立派な板場はんになりいや言うて、長い事水掛不動さんにお願いしてくれはりましたなァ。あの晩から私(わて)は、私はこいさんが好きになりました。」・・・と、次の唄との中間に挿入されたせりふにもあるように、19世紀に多くなった料理屋の料理職人のことを、主に関東が「板前」と言うのに対して、関西では板前のことを「板場」、「板場はん」と呼んでいる。もともとは年季を積んだ料理場での差配役のことであった。
Yahoo百科事典によれば、15世紀に生まれた庖丁師(ほうちょうし、※9参照)という魚鳥を料理する職人は宴会の席で客の前で料理する出職(でしょく注文に応じて他に出かけ仕事をする職業)であり、なま物の料理法にいくつかの流派ができた。

上掲の画像は、4本足のまな板の上で真魚箸(魚や鳥を料理するときに使う、柄のついた長い木または鉄製の箸)と包丁刀を使って鯉をさばく包丁師。『七十一番職人歌合』 五十七番「包丁師」より (1500年頃。Wikipedia包丁より)
また、精進(しょうじん)物の料理職人の調菜(ちょうさい)は17世紀には刻肴師(きざみさかなし)となった。18世紀には庖丁師は刻肴師の技術を取り入れ、いっさいの料理の担い手となった。板前は自分で店を開くか、料理屋に雇われるか、とにかく居職(いじょく。自宅で仕事をする職業。⇔出職)となった。
一般に一流の料亭や料理屋は専任の板前(板場)を抱えているが、Wikipediaによれば、 板場を仕切る最上位者は「花板」また、「板長」とも呼ばれ、その次の者が、「立板」-また「にばん」(二番・二板)とも呼ばれて、以上の二者がカウンターに立つ事が多いのだそうだ。以下、
「椀方」 - 椀(お吸い物など)を作る人。料理全体の味を引き立て調える汁物作りの統括。
「煮方」 - 煮物を作る人。・・・が続き、「板前」と言えるのはここから上を言うのだそうだ。この下に、
焼方(やきかた) - 焼き物(焼き魚)を作る人。鮎の塩焼きや、田楽などを作る。
揚場(あげば) - 揚げ物(天ぷらの事)を作る人。焼方と同程度の位。
追い回し - 盛り付けなどを担当する雑用係。「ボウズ」(坊主)とも呼ばれる一番低い位の階層があり、一人前になるまでには、皿洗いや食材の仕込から覚え、長い期間を経て修行していかなければいけない厳しい世界のようだ。古い時代だけでなく、今なお徒弟制度の残っている代表的な業種の1つが板前だろう。
そのため、この歌の唄われた昭和30年代でも、中学を卒業して住み込みで修行をするといった人が珍しくは無かったようで事実私の中学時代の同級生にも1人、板前になると言って、中学を卒業後、名前は聞いていないので知らないが京都のどこか老舗の料理屋に住み込みで入ったようだが、今の時代中学卒業と同時に料亭などへ住み込みで入る人はどの位いるのだろうか・・・。
かって、徒弟制度といえば、親方・弟子という丁稚(でっち)制度のことであったが、今では、労働基準法(第7章技能者の養成法第69条徒弟の弊害排除。)で戦前にみられた徒弟制度の中での丁稚奉公のような低賃金での過酷な労働条件下での使用は出来ないことになっている(。※10参照)のだろうが、将来独立して自分の店を持ちたいという人などにとっては、料理職人としての技を身につけるために、現代の徒弟制の中で基本をみっちり修行するのは良いかもしれない。特に、大学を出たからと言って、必ず就職の出来るといった次代ではなくなり、革新を行なわない会社の寿命は例え大会社であろうと、30年いや10年しかもたない(※11参照)といった今日では、サラリーマンも今までのように定年まで安心して同じ会社で仕事が出来る保障はなくなった。板前だけでないが、手に職をつけておくのは悪くないだろう・・・。
今は、日本料理人に関係する資格として、「調理士」の資格があり、この資格を持つ人を調理師と呼ぶようだが、調理師資格を得るには2つの方法があるようだ(※13)。1つ目は厚生労働大臣の指定した調理師養成施設(料理の専門学校など)で学んで取得する方法。この方法だと費用はかかるが、実習もあるし、卒業と同時に調理師免許が確実に取得できることから、今では、高校を卒業後、調理師専門学校に通い、学校に来る求人票を見て料亭に就職するケースが多いようだ(※12)。
もう1つの方法は、調理師試験に合格して調理師免許取得を取得する方法。この場合、受験資格として、中学校卒業以上で2年以上調理の実務経験がある人との条件が就いている。
以下参考に記載の※13:「調査研究成果データベース - JILPT 調査研究成果DB」の”図表6-20 見習い期間の義務づけ(SA)”では、職業資格を取得する要件として、見習い期間が義務づけられているかどうかを調査の結果、「一定期間の実務経験が求められる」のは、1位:理容・美容(92,2%)、2位:介護士・寮母(90,6%)、3位:保全・整備(86,5%)に続き、4位:コック・板前(84%)となっており、技術を必要とする職業は、勉強だけでは修得できないので最低限の実習なり、実務を経験を必須要件とするのは仕方が無いだろう。                   
前述の参考※14の中の調査「一人前までになった後は、会社を変えるのは、1位:理美容(34.6%)に続いて2位:コック・板前(34.6%)、3位:弁護士(25.0%)、4位:設計技術(24.4%)などが上位を占めているが、技能資格要件を満たすために働いていたところから資格を取得後、更に良い条件のところへ職場を変える人も多くなるだろう。
それに、本格的な日本料理やフランス料理といった高いレベルの技能を身につけようと思えば、調理師の資格を取得したぐらいではダメなので、やはり、伝統ある割烹や料理店の徒弟制の中で、修行を積無必要があるのだろう。
又、「月の法善寺横丁」の歌に、「包丁一本 さらしに巻いて 旅へ出るのも 板場の修業」・・・とあるように、板前は一ヶ所である程度の技能を身につけると更なる技能修得のために旅に出て、腕を磨く人が今でも多くいる世界なのだろう。ただ、この歌のように板場の修業に出かけるのに、包丁一本では足りないだろうと思うのだが、他人のものは使わないというのが板前気質であったらしいから、実際には、最低3本ぐらいはもって、旅に出たのであろうが、もし1本を選ぶとすれば板場にとって最も大事な刺身包丁(関東では柳刃)ではないだろうか・・・。
私が現役時代兵庫県の姫路で、仕事をしているとき、ひょんな関係で、料亭の板前などの手配師をしているといわれる人と知り合った。ちょっとヤクザな感じはあったが、陽気で気のいい人で、変な組関係と直接関わっている風ではなかった。私自身その人に特に興味があったわけでもないし、その人もその仕事の詳しい話をしてくれないのでよくわからないが、その人を知る人の話では、どうも時代劇やテレビドラマなどに出てくる昔からあった口入れ屋のようなものらしい。それが今では、表の仕事なのか裏の仕事なのかなどは知らないが、本人自身は暇なのでそちらの方は誰か他の者に任せて自分は片手間の別の仕事をしているようなのだが、関西一円の料亭などを相手にしている大物であったらしい。
以下参考※15:「板場の話」を見ると、“かっての料理人は「部屋」、別名「入れ方」という組織に所属していたようだ。この組織は、一つ一つの店を超える存在だった。機能的には「調理師紹介所」とも言えるものだが、そこで紹介される一人一人の板前の地位は、今では想像もできないほど高かったという。部屋を取り仕切る親方から声がかかると、全国の「名代の店」、つまり有名店に、通常二人一組で出掛けて行って仕事をこなしたという。”・・・・とあり、「入れ方」とは、口入屋のことだろう。
日本は古来より、大工、鳶、土方などの建設業団体・沖仲仕などの港湾労働団体や籠屋、渡し、馬方などの運輸荷役団体など、様々な生業においては「組」と言う徒弟制度や雇用関係があり、親分子分の関係を基盤としていたことは良く知られていることだから、板前など職人を抱え、調理師を専門に仕事の請負をしていた組織だったのだろうと思う。
博徒・香具師といわれる人たちに限らず板前など色々な職人の多くが昔は雇われ職人として旅に出ることは多かったようで、そのような職人には結構気性が荒く、旅先でのトラブルを起こす者も多くいたようだ。そんな旅先での職人を管理するのも親方の仕事だったろう。
そんな、職人たちを昔はヤクザな稼業などと言ったりもしたようだが、それは、そんな職人たちの気性と職人たちが派遣された地の親方などと初めて顔を合わせたときに挨拶ぐらいきちっと出来ないといけないということから仁義を切らせたことによるからかもしれない。
映画「男はつらいよ」では父親と大ゲンカをして家を飛び出し、テキヤ(的屋)稼業として日本全国を渡り歩く渡世人となった主人公、“フーテンの寅”こと車寅次郎が仁義を切っていたが、このような、任侠・テキ屋などが仁義を切ることで有名になるが、職人たちがしなくなって後も、このような習慣が任侠・テキヤの世界にだけ残ったようだ。
なにか、気の荒い板前が長ドス(長脇差)の変わりに、晒しに巻いた包丁を懐に仁義を切っている姿を見れば渡世人と変らない姿に見えるかも知れない・・・と苦笑いしたくなるが、そんなのは大昔の話である。今では、包丁も、専用の鞘に収納されているのでサラシに巻いて持ち運ぶ人はいない。
現代でも料亭などで働く板前の多くは恐らく、将来独立して割烹の店などを持ちたいとの考えで、何人もの親方から学び、そのいいところをとって独立していくのだろう。時間はかかっても夢のある世界だとは思うが、それはなかなか辛抱のいる厳しい世界にはちがいないのだろうな〜。
日本料理はこうした厳しい組織と板前職人たちの意識によってその技術が保持されてきた。現代では、板前は、法律上、西洋料理職人(コック)とともに調理師と呼ばれるようになったが・・・。
西洋料理のシェフの話ではなく、私自身が和食党なもので、結局最後まで、日本料理の調理師の話になってしまったな〜。(*_ _)人ゴメンナサイ

(冒頭の画像は、ウィリアム・オーペン、『パリ、チャタムホテルのシェフ』。Wikipedia-調理師より)

参考:
※1:全米販|コメ知識 | コメ流通の歴史
http://www.zenbeihan.com/data/history/
※2:昭和前半期閣議決定等収載資料及び本文日付順リスト(昭和14〜15年)
http://rnavi.ndl.go.jp/politics/entry/kakugi-date03.php
※3:五穀豊穣
http://www.maff.go.jp/j/tokei/kikaku/saiziki/pdf/vol35.pdf
※4:石川商店
http://www.gokokumai.co.jp/index.php
※5:リベラル21 文化とカルチャー:文化は土くさいもの!?
http://lib21.blog96.fc2.com/?mode=m&no=1565
※6:食育基本法
http://www8.cao.go.jp/syokuiku/about/law/law.html#zen
※7:英単語を語源で学習 語源学習法:スペースアルク
http://www.alc.co.jp/eng/vocab/etm-cl/etm_cl085.html
※8:月の法善寺横丁 藤島 桓夫 - YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=kspzGizSdcY
※9;資料-1B 四条流包丁書 北伊醤油
http://park11.wakwak.com/~kitai/Kitai_Shoyu/MAME/reference-1b.html
※10:【会社の寿命】今や"寿命"はわずか5年:日経ビジネスオンライン
http://business.nikkeibp.co.jp/article/manage/20090212/185916/
※11:労働基準法詳説
http://web.thn.jp/roukann/roukihousyousetumokuji.htm
※12:あしたをつかめ学校放送:日本料理・板前
http://www.nhk.or.jp/shigoto/zukan/073/top.html
※13:調理師専門学校ガイド!
http://chef-license.net/
※14:調査研究成果データベース - JILPT 調査研究成果DB/全文情報
http://db.jil.go.jp/cgi-bin/jsk012?smode=zendsp&detail=E2000014048&displayflg=1&pos=96920&num=260923
※15:板場の話 その6 - MUTSUKARI Lab. 六雁研究所
http://blogs.yahoo.co.jp/mutsukarilab/24831595.html
老舗の日 - 今日のことあれこれと・・・
http://blog.goo.ne.jp/yousan02/e/c756dde97f168bd252b8728cc52dc2c9
Yahoo!百科事典トップ
http://100.yahoo.co.jp/
日本記念日協会
http://www.kinenbi.gr.jp/index2.html
調理師 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%AA%BF%E7%90%86%E5%B8%AB
味の素KK 日本料理の歴史
http://www.ajinomoto.co.jp/activity/shokuiku/library/japanesefood/index.html

皆既月食

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昨日(2011年12月10)は、皆既月食を見ることが出来た。
月食(lunar eclipse)とは、太陽地球の順に一列に並んだときにおきる天文現象で、望(もち。満月)のときにしか起こらない。 普段、月は太陽の光を反射して輝いているが、月食のときは地球が太陽と月の間に入るため、地球の影の中を通るため月面が暗くなる。
月は地球の周りを公転しているので、時間経過とともに欠けて行き皆既(全面が隠される現象。「皆既食」の略)となる。そして、また満月へもどる。
太陽の光が完全にさえぎられる本影に月のすべての部分が入ると皆既月食 (total eclipse)となる。また、一部分だけが本影に入った場合を部分月食 (partial eclipse) という。
月が半影(地球が太陽の一部を隠している部分)に入った状態は半影食(もしくは半影月食。penumbral eclipse)と呼ばれるそうだが、半影に入った月面部分の減光の度合いは注意深く観察しなければ分からならない程度であり、事前の予告なしに肉眼で見ても気がつかない場合も多いそうだ。
満月のたびに月食にならない理由は、月の軌道黄道面(地球の軌道平面)に対して約5°傾いているためだそうで、月食になるためには、満月の時に月の軌道と黄道面の交点の近くに月がなければならない。
皆既月食中の月は地球の影に入っても完全な真っ黒にはならず、赤っぽい色(赤銅色)をしている。理由は、太陽のが地球の大気によって屈折や散乱され、うっすらと月面を照らすためであり、赤くなるのは、朝焼けや夕焼けの原理と同じように波長の長い赤い光のほうが大気中を通過しやすいためだが、皆既月食の時の月面の様子は、地球の大気中の塵の量によって異なり、塵が少ないと、太陽の光が大気中を通過する際の散乱が少なくなり、月面は黄色っぽく明るく見える。逆に、塵が多いと、大気中の散乱が多くなり、月面は暗く見えるそうだ。ただ、火山爆発等で大気中に特に多量の微粒子が浮遊している場合には、月が非常に暗くなり灰色かほとんど見えなくなるそうで、月食時の明るさは、「ダンジョンの尺度」(0〜4までの5段階)などで表されるようだ(※1参照)。
冒頭に掲載の写真は昨夜の皆既月食(神戸)だが、これを見て、どの尺度に該当するのか私には良くわからないが、中間の尺度2「暗い赤または赤錆色の月食。月の中心はとても暗く、周辺ぶはやや明るい」・・・・くらいに該当しているのだろうか・・・。
今回の月食の月が欠け始めてから終わるまでは約3時間30分あり、空の高い所で皆既の最大を迎え、時期的にも澄んだ天候だったので始まりから終わりまでの全過程を日本全国で誰もが観測を楽しめたようだ。
今回の月食の始まりから終りは以下のようだ。
部分食の始まり 21時45分
皆既食の始まり 23時05分
皆既食の最大 23時31分
皆既食の終わり 23時58分
部分食の終わり 01時18分
昨日、皆既月食のある事は知っていたのだが、カメラの準備もせず、夕食時気分よく晩酌をして、TVなど見ているうちにうとうとと居眠りをしていた。そんな時すぐに起すと私のご機嫌が良くないのを知っているので、暫く眠らせ、皆既食の最大 の頃、家人が、見に行った後、今が一番綺麗よと起してくれたので、慌ててカメラを持って表に飛び出し、2枚ほど写真を撮っただけで、準備の不手際からカメラの電池切れ。慌てて、そこらにおいてあった電池に入れ替え、外に出て撮ろうとすると、何と言うことその電池も切れていた。処分せず放っておいてあったものだったのだ。それで、大騒ぎをして、家人に新しい電池を持ってきてもらい、急いで撮ったのだが、それが23時45分くらいだったので、皆既食の最大から終わりの中間という時間帯か・・・。 数年前に買ったデジカメで、慌てて望遠レンズも三脚も使わず、撮ったものだから、手振れのものが多く。掲載のものも少々手振れ気味である。
このような月食が全国で観測できたのは、2000(平成12)年7月16日以来、11年5ヶ月ぶりのことだという。次回の皆既月食は約3年後の2014年10月18日だそうだが、その時はちゃんと準備しておかないといけないな〜。
参考:

※1:皆既月食中の月の色について(国立天文台)
http://naojcamp.nao.ac.jp/phenomena/20101221/color.html

※2:asahi.com(朝日新聞社):皆既月食 スカイツリーとランデブー
http://www.asahi.com/national/update/1210/TKY201112100510.html

月食 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%88%E9%A3%9F

ウェザーニューズ、皆既月食観測可能エリアを公表
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20111210-00000001-inet-inet

詩集『にんげんだもの』で知られる書家・詩人相田みつを の忌日

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今日12月17日は書家・詩人、相田みつを(本名:相田 光男)の1991(平成3)年の忌日である。
相田 光男は、1924(大正13)年5月20日、栃木県足利市に生まれる。生家は、同市家富町にある名刹、鑁阿寺(ばんなじ。「足利氏宅跡(鑁阿寺)」として国の史跡に指定)の東に位置していたされている。
旧制栃木県立足利中学校在学中に書や短歌、絵に親しみ、同中学卒業後は歌人・山下陸奥に師事。1942(昭和17)年、歌会で生涯の師となる曹洞宗高福寺(鑁阿寺の西となりに位置するお寺)の武井哲応と出会い、在家しながらを学んだという(。※1参照)。
1943(昭和18)年、書家を志して岩沢渓石に師事、本格的に書の修行を積み、30歳のころ、独得の世界観を独特の書体で、短く平易な自らの言葉で表現する作風を確立。1954(昭和29)年第1回古典を足利市で開催。その後も足利市などで毎年開催されるようになった。
1974(昭和49)年、紀野一義のベストセラー『生きるのが下手な人へ』(※2)で紹介され、1984(昭和59)年、詩集『にんげんだもの』(文化出版局)を出版、のちにミリオンセラーとなる。つづく第2詩集『おかげさん』(1987年、ダイヤモンド社)の出版を機に、広く作品が知られるようになる。1991(平成3)年の今日(12月17日)67歳にて、永眠するが、最期まで仕事への意欲は衰えず、「一文字を書いた大作だけを集めた展覧会を開きたい」というのが、長男・一人との最期の会話であっという( Wikipedia-相田みつを)。今、「書の詩人」、「いのちの詩人」とも称されている。
東京・有楽町の東京国際フォーラム地下1階に相田みつを美術館(※3)がある。
今年、没後20年を迎えた相田みつを超有名人し、それまで相田の詩を読んだり、書を見たことのない人をも、本屋また美術館に駆けつけさせたのは、現民主党・党首そして、首相にも上り詰めた野田佳彦であった。
「ズル菅」と酷評され、まわりから止めろやめろと言われながらも首相の座に居座り続けていた菅直人が退任決意後の今年(2011年)8月29日の民主党代表選での勝因の一つが、同代表選投票前の演説だった。
「どじょうはどじょうの持ち味がある。金魚の真似をしても出来ません。」と自らを「どじょう」に例えたくだりは、相田みつをの作品を下敷きにしたものであった。
原典は、先にもあげた相田の第2詩集『おかげさん』に収録されている「どじょうがさ 金魚のまねすることねんだよなあ」という作品。この詩で、自らをどじょうのような泥臭い人間に例え華やかな金魚と対比させたことで、一歩一歩良い国にしてゆくという今の日本で一番大切なことを訴え、中間派の多くの票を獲得し、見事民主党党首に選ばれ、新首相にも指名された。この詩は、同じ民主党の輿石東参院議員会長(当時)の紹介で知ったという。
しかし、民主党代表選第1回目の投票では小沢グループが推す海江田万里経済産業相に破れながら、過半数を獲得した候補がいなかったため決選投票となり、「ドジョウ演説」で反小沢派が野田側に回ったため勝つことができたといわれているが、その実は、民主党代表選前より、増税推進派の野田を財務省が一丸となって後押ししたからこそ民主党代表選に勝て、首相の座をも掴めたと言われている。決選投票で、野田側に回った議員は、第1回目の投票では小沢グループと同じく、この円高とデフレの中での増税は反対していたはずの者たちである。
世界一の借金大国日本の野田政権は、与党内の意見も纏められないため、国会で論議する前に外国へ出て行って増税を公約し、その上で、国民に増税を押し付けるような強権的政治手法採用をしている。
そして、問責決議を2つ残したまま国会を閉じ、重要法案は先送り。無駄減らしも増収策も全く進展がない。今の激動の世界とは別の時間が流れるかのように、内向きな政策ばかりである。もう少し、「どじょう演説」でしたように、真っ当な政治を泥まみれになってして欲しいのだが、相田の詩の引用も、所詮は、イメージ戦略としての「どじょう演説」でしかなかったということだろう。もともと小物の政治家が出来ることはそんなことであったのだろう。だってそれだけの「にんげんだもの」・・・。口先だけでは政治は出来ない。・・・しかし、今の大変な時代に、日本の首相になろうとする人物にこの程度の人しか現れない現実は非常に悲しい。しかし、そうなったのにもいろいろと原因が、あったのだろうが、政治の道具として詩を引かれた相田にすれば、いかにも不本意・・と泣いたかも知れない・・・。

私は、相田みつをの詩の書かれたカップや小さな一輪挿し(上掲の画像)など人から貰って持っているし、詩も読んだことはあるが、それほど真剣に読んだことは無いので、どじょう演説で超有名になって以降、改めて、菩提寺のお上人から、『にんげんだもの』と、『一生感動 一生青春』の詩集2冊があるので読まないかとの話があったので、お借りして読み直してみた。
私には、相田の作品の詩がどれだけ素晴らしいのかについて、その文学的価値判断をする能力は無いが、「良い言葉」を集め書又詩集だとは思っている。
私は、子供の頃から新人熱心なお祖父さんや母親に連れられて頻繁にお寺参りをし、お坊さんから仏の教えを色々と説いてもらい、仏教の勉強会にも参加し、自分でも本を買って、仏教について浅はかではあるが勉強もしたこともあることから、相田の詩集を読むと、どうしても、詩を読んでいるというよりも、簡単な分かりやすい言葉で書かれた仏教の教本のように見えてしまう。

例えば、上掲に掲載のものは、私の信仰しているお寺の本山が、本山並びにその末寺のお坊さんに、1人1つづつ仏の教えを簡単な言葉で書き表したものを綴じこみ式ではなく、腹式の折りたたみ方で綴った教本『心の宝』というもののなかから、相沢のものに近い感じの一文を抜き出したものである。
これを日めくりのように1日1ページづつめくって読み、繁忙な日常生活のなかでつい仏の教えを忘れて行動をしないよう心がけているものであるが、ただ、簡単な言葉で語りかけるように書いてはいるものの、相田のもののように、世間一般の人を対象に、詩集として発行したものではなく、あくまでも、仏教を信じている私たち宗派の信者を対象にしたものであるため、簡単に書いてはいるものの、相田の書いた詩といわれるものよりは、多少、説法臭いところがあると感じる人がいてもそれは仕方の無ことだろう。
相田の作品については、作家の立松和平も、相田を「思想の語り部」と評し、「難しい言葉を一つも語らないで、仏教の根本的な哲理のようなものを語ってしまう。そして、それを読んだ人に『なにかが残る』んですね。残る――ということは、その先の世界があるということです」( “特集- 「こころに響くことば〜書の詩人 相田みつを展」 「あなた」への応援歌”. 毎日新聞. 2011年4月2日。Wikipediaより) と語っているようだ。
仏教は、どの宗派であろうと、仏(仏陀として目覚めた仏教の開祖釈迦)の教えを説いているが、釈迦は、人の生き方(死に方にも通じる)を教え、この教えは、「この世(現世)に偶然に起こることは何もない。」という基本の上に成り立っている。
つまり、すべてのことには原因と結果があるということ。だから、今の自分やここにあるすべてのことに原因があるのなら、すべての原因を変えなければ良い結果は生み出されないということを言っているのだが、仏教ではこれをカルマの法則という。カルマとはサンスクリット語で行為という意味である(カルマ⇒参照)。
しかし、釈迦は、又、全てのものは何一つとして単独で生起する独立した存在ではなく、必ず他の力を借りて起るものであり、他のものとの関わりにおいて成立している。つまり、原因だけでは結果は生じないとし、直接的要因()と間接的要因()の両方がそろった(因縁和合)ときに結果はもたらされるとする(因縁果)。
そこで、縁起と呼ぶによってすべての事象が生じており、「結果」も「原因」も、そのまま別の縁となって、現実はすべての事象が「此」と「彼」とがお互いにもちつもたれつの相依相関して成立していると説いているのである(※5)。
だから、人と人との出会い、夫婦になるような「縁」も然り、ご互いに同じような心のレベル(因縁・縁起・徳【仏教の徳=波羅蜜の遵守】)により一緒になったことになり、そうでなければ、二人は引き合わされることはなかったことになる。そんな二人の間にもしなにかあれば相手をせめる前に自分の心(仏性)に悪いところがないか考えてみる必要がある。自分が変われば相手も変わる。相手の心を変えたければまず自分を変えることの大切さを知っておかなければいけないのではないか。
相田みつおの初版の詩集『にんげんだもの』も、最初のページに掲載された以下の一行の詞から始まっている。

「そのときの出遭いが 人生を根底から変えることがある よき出逢いを」(5p)・・・と。そして、10P目には、

「いいことは、おかげさま わるいことは 身からでたさび」・・・の詩が掲載されており、この詩に続いて、

“縁起十二章 おかげさま人生”と題して以下のように書かれている。

一、 ばかのおかげでお利口がひかる 利口ばかりじゃ世の中は成り立たぬ。
二、 落ちてくれる人のおかげで合格できる のぼせ上がるとバチが当たる。
三、 負けてくれる人のおかげで勝たせてもらう どっちか負けなければケリがつかぬ。勝つことばかりが人生じゃない。
四、 脇役のおかげで主役が生きる 主役ばかりが人生じゃない。
五、 職場があるから働ける 職場のおかげでストもできる。
六、 後輩のおかげで先輩になれる 威張ることはないんです。
七、 子供のおかげで親になれる 子供がいなければいくつになってもただの年寄り。
八、 嫁のおかげで親になれる あんまりありがたくないけれど・・・・
嫁という字は「女が古い」て、書くんですねえ・・・よくもまあ ・・・。
九、 相手(縁)がなければケンカもできぬ 一人じゃ夫婦ゲンカもできません。
十、 聞いてくれる人のおかげでぐちもこぼせる あなたのぐちを聞いてくれる人は あなたにとって観音さまです。
十一、下水のおかげで水も流せる 汚いもの、いやなものをみんな引き受けて・・・下水はいつも土の中。
十二、読んでくれる人のおかげで書かせていただく この下手な文章も。

この詩の注釈として、以下のように書かれている。
“世の中、役に立たぬものは一人もいない。だから仏典にもあります。
「生きとし生けるもの、一切の存在は、みんな仏だ」(一切衆生悉有仏性=いっさいしゅじょうしつうぶっしょう.。仏性参照)と。
そして、“縁起について、この世の物ごとは、すべていろいろな関係の中で、起こったり、消えたりするということ。単独に存在するものはひとつもないということ。(中間略)お互いが関係しあって、生かし、生かされている・・・(中簡略)それが縁起であり、縁起は仏教の根本的な考え方です。”・・と補足している。

仏教では、仏性を開発し自由自在に発揮することで、煩悩が残された状態であっても全ての苦しみに煩わされることなく、また他の衆生の苦しみをも救っていける境涯を開くことができるとされる。
菩薩とは、サンスクリットのbodhisattvaを音写した「菩提薩(ボダイサッタ)」を省略した言葉で、その意味は「悟り(菩提、bodhi)を求める衆生(薩埵、sattva=菩薩)」といわれており、一般的に菩薩といえば観音菩薩地蔵菩薩などを思い浮かべるが、最高の悟りを獲得しようと願う心(菩提心)を起こした人は、実はみな菩薩である。
そんな自分の心を豊かにし仏に近づこうとする菩薩行のあり方において、仏教には基本的に、自力によって本願を達成しようとする考えと、他力本願で達成しようとする考えの二つの考え方があるが、自力によっての方は、自分の努力によって、つまり、厳しい修業をすることによって悟りを開けるとする考えで、禅宗(日本では鎌倉時代に始まった曹洞宗と臨済宗など)がそれである。一方、後者の他力本願は、言葉からすると人任せと取れるかもしれないが、そうではなく、救いは人間の力だけでは達成不可能なので、努力だけでなく、仏の力(慈悲)に助けられる(すがる)しかないとする考えで、浄土宗法然)や浄土真宗親鸞)それに法華宗日蓮)などもそれである。
相田は、生涯の師となる曹洞宗の住職から禅(曹洞宗)の教えを学んでおり、彼自身は、自力で本願を達成しようとしたのであろう。そして、又、多くの読者に、それを理解してもらおうと多くの作品を書いたのであろう。だから詩も、出来るだけ優しい言葉を使って非常にわかりやすく書かれているものの、仏教の言葉は、一つ一つを理解するだけで大変難解なものである。私なども分かったようなつもりで分かっていない。だから、正しい教えによる神仏への祈りは必ず通じることを信じて、他力(仏の力)を借りながら少しでも自分の心を豊かにしようと日々精進している。
仏教の教えを基礎とした詩を読んで頭で理解しようとするのも悪くはないが、頭で理解したのと心で理解したのでは大きな違いがある。

相田の詩集『一生感動一生青春』の“はじめに”に以下のように書かれている。

「理屈では人間は動かない」・・・と。

人間を根底から動かすものは、むずかしい理論や理屈ではなくて、全身(いのち)の感動であり、腹のそこからの納得であると思います。理論や理屈では人間は本気で動きません。その証拠に《理動》と言う言葉は辞書にありません。(中間略)
感動こそ人間が人間として生きている証(あかし)だと思っております。・・・と。
そして、「いまここ」と題した以下の詩が掲載されている。

人間が人間として
生きるときに時は
いつでも いま
昨日(きのう)でも明日(あした)でもない
今日(こんにち)ただいまの いま!!
(中簡略)
いつでもどこでも
いま ここが
自分のいのちの正念場
自分の一番大事なところ

いのちのあるかぎりは、いま、ここ、を、自分のいのちの正念場として『一生感動、一生青春』の自分の旗をかかげていきいきはつらつ、いのちいっぱに、生きてゆきたい、と希っております。・・・・と。
そして、第一章の最初に掲載しているのが、先にも書いた初版の詩集『にんげんだもの』の最初にも書かれている「その時の出会いが・・・・」の詩である。

くどいが相田の詩は仏教の教えを詩にしたものだ。相田は、「人間のいのちの根底から動かすものは、理屈や理性や知識ではない人間として深い感動だ。感動には損得計算は一切混じりません。どうか、感動の日々を生きてください」と書いているが・・・日本人ほど自分の宗教を持たない・・・、つまり、宗教心のない民族も珍しい・・・と聞いているが、このような詩だけを普通に読んで、「いま ここに いきる」とはどういうことか・・・など理解し、本当に生きていることの感動を心から感じ取れる人がどれほどいるだろうかな〜・・・と思ったりもする・・・。仏教の言葉を、頭で理解するのは大変。「生きる」を理解するには、仏教上では「生かされている」のだということを感じ取れなければいけないのだが・・・・、仏教の本当の言葉の奥深い意味内容はそんなに簡単に誰にでも理解できるはずのもので無く、実践修行しかないのだが・・・。
仏教の教えを取り入れたこれらの詩を読んでいる人たちが、早くそのことに気づき、自力であろうが他力であろうが信心の道に入ることを願って詩を書き続けたのではないか・・・。そう思っていたら、そのことは、以降で述べる詩集『一生感動 一生青春』の中で述べられていた。

もう、今年も後半月足らずで年が明ける。今年は色々大変な年だった。だが、時の立つのは早いものだ。
相田の『一生感動 一生青春』の中に「正月の正の字」について書いてあるページがある(66p)。そこに以下のことが書かれている。
正月の「正」という字を字引で引くと「何ヘン」で引くか知っているか?・・・。
昔の漢和辞典では「止」と言うへん(辺)で引く。「正」と言う字(※6、※7参照)は、「一に止まる」ということ、つまり、「一を守る」それが「正」であり、それでは、「一」とは何か?
一とは、原点、一とは自分、一とはこの私です。自分が人間としての原点に止まる。それが、正。自分が人間としての原点に立ち帰る、それが正です。そして、自分が自分の原点に立ち帰る月、それが正月だ。つまり、自分が自分になる月、それが正月。自分が自分になるということは、人間としての本来の自分になること。それでは、本来の自分とは何か?
それは今までに何回と書いたこと「そんとく」「勝ち負け」お金の「有る無し」等という比べることをやめた自分、それが本来の自分です。子供のことでいうなら柿の落ち葉を見て「わア、キレイ!!」と感動し、その落ち葉を大事に拾ってきた子供の心、それが子供本来の心です。感動することに金はかからない。感動にそんとくはない。そんとくを離れた人間本来の自分に立ち帰る月、それが正月です。
普段私たちの現実生活は、いつも「そんとく」「勝ち負け」という「比べっこ」にふり回されているから、一年に一ぺんそういう世間的な「比べっこ」をやめて本来の自分に帰ろうというのが正月です。正月になると。寺によっては「修正会」という行事をします。何をどう修正するのか?
昨年やってきたことのあやまち、失敗を反省し、同じことをくり返さないように、自分の原点に立ち帰って、自分のことばかりでなくて、世の中の平安や世界の人々の倖せを祈願するわけです。つまり、正月とは「そんとく」で歪められた自分の軌道修正をする月である・・・・と。
そして、正月になると思い出すのがお釈迦様の言葉「自灯明・法灯明」である・・・と。
お釈迦さまの臨終のお世話をされた釈迦の十大弟子の中でも多門第一といわれるアナン(阿南)尊者が「お釈迦様が亡き後私は何を依りどころに生きゆけばよいのでしょうか?」と聴いたところ、その時の答えが、この「自灯明・法灯明」であり、つまり、「自分を灯とし、自分を依りどころとして生きなさい。法(真理・お釈迦様の教え)を依りどころとし他を依りどころとしてはいけない。」言われたという(※8、また、Wikipedia-釈迦の入滅も参照)。
「自帰依(じきえ)・法帰依(ほうきえ)とも仏典に書かれている。・・・。当てにならないものを当てにするから私達は不安になる。もし、正月の初詣をして、神社やお寺でおあかり(灯明)をみたら、「これが自灯明か」「ううんこれが法灯明か」「自分の依りどころは自分なんだな」「釈迦最後の教えはこれだったのか」「自分の軌道修正をする月、それが正月なのか・・・」と心の中でつぶやいてみてください。いまここに生きている。同時に生かされている、自分のいのちを改めてかみ締めてください。 自分のいのちの尊さを本当に自覚したとき、すべての人の命の尊さが分かるんです。その自覚が平和の原点だと私は思います。・・・と。そして、次の詩が掲載されている。

「うつくしいものを美しいと思えるあなたの心がうつくしい」

ここに、相田の言いたいことが集約されていると思う。正月に、一人でも多くの人が、そのような相田の思いを理解し、釈迦の教えを実践(信仰)しようと心がける人が出てきたら、今は亡き相田が一番喜ぶことだろう。
詩を読むだけなら以下参考の※9で、朗読を聴くなら※10で、又一部解説なら※11で見ることが出来る・・・。
それでは皆さん良い、お正月を・・・・。今年は気まぐれな私のブログを見てくれ有り難うございました。私も今日から正月準備と休養で松の内(1月15日)頃まで約1月このブログはお休みします。又、再開の際は宜しくお願いします。

(画像は相田みつお 著「にんげんだもの」表紙。)
参考:
※1:高福寺
http://www.mamiuda.jp/tera/tera02.html
※2:Amazon生きるのが下手な人たちへ (PHP文庫) [文庫] 紀野 一義
http://www.amazon.co.jp/%E7%94%9F%E3%81%8D%E3%82%8B%E3%81%AE%E3%81%8C%E4%B8%8B%E6%89%8B%E3%81%AA%E4%BA%BA%E3%81%9F%E3%81%A1%E3%81%B8-PHP%E6%96%87%E5%BA%AB-%E7%B4%80%E9%87%8E-%E4%B8%80%E7%BE%A9/dp/product-description/4569579353
※3:相田みつを美術館 Mitsuo Aida Museum
http://www.mitsuo.co.jp/museum/index.html
※4:どじょうはお好き!・・・今日のことあれこれと
http://blog.goo.ne.jp/yousan02/e/ed4b9e7ff34a38a43657511ad7cebba2
※5:縁起・六波羅蜜(ろくはらみつ)
http://www.geocities.co.jp/Bookend-Soseki/6299/repo1.htm
※6:命名字解【促】
http://mei2jikai.blog113.fc2.com/blog-entry-139.html
※7:「正」という字
http://www.bellpo.org/kaicho-blog/vol1-20/vol8.html
※8:自灯明・法灯明
http://www.geocities.jp/chandi1813/ess20jitoumyou.html
※9:相田みつを詩集
http://www.d4.dion.ne.jp/~hanami2/e04/08aida/aida.htm
※10:相田みつを 「にんげんだもの」詩の朗読 1ーYouTube(※2,3.4もあり)
http://www.youtube.com/watch?v=f62LdkgZLuk&feature=related
※11:『生きていてよかった』相田みつを
http://www.din.or.jp/~honda/book8-102.htm
仏教の教えの基礎とは何か
http://hachisu-net.com/issei/kiso.html
第33回 救いは自力本願か他力本願か
http://www1.cncm.ne.jp/~toguchi/ozaki_philosophy/33.htm
根本仏教講義
http://www.j-theravada.net/kogi/index.html
悟りを開く仏教の言葉!
http://www14.plala.or.jp/kesakando/komer.html
『法華経』梵漢和対照・現代語訳 松岡正剛の千夜千冊・遊蕩篇
http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya1300.html
相田みつを - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9B%B8%E7%94%B0%E3%81%BF%E3%81%A4%E3%82%92

クリスマス・イブ

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クリスマスの日の前日、今日12月24日の夜は「クリスマス・イヴ」(英語: Christmas Eve)。単に「イヴ」とも呼ばれるこの日のことは、以前にこのブログでも書いた(ここ)。
私たち夫婦は、仏教徒なので、本気でクリスマスを祝うことはないが、それでも毎年イブには、クリスマスの真似事のように、鳥の手羽を焼いたものなど食べながら夫婦でワインをかたむけたりして楽しんでいる。
思い起こせば、私など飲兵衛は、若い頃、行きつけのバーなど数件のマダムや馴染みの女の子などから「必ず来てくれ」と誘われるので、同じ飲兵衛仲間と一緒に出かけて、バーでもらった赤いとんがり帽子などかぶせられて、夜通し、騒ぎながら、はしご酒で夜を明かしたものだ。
しかし、今の若者は、私たちの年代の者のようにバーなど飲み屋で馬鹿騒ぎ等せず、イブは彼女とホテルのバーなどで、しっとりとデートをしたりして、楽しく過ごしている人が多いのだろうと思いながらも、実際にはどのようにして、イブを過ごしているかちょっと気になり、今朝、ネットで検索してみたら、昨・2010年、2000人のインターネットユーザーに「クリスマスイブの夜は誰と過ごす?」とのアンケートを実施したところがあった(ここ→ガジェット通信)。
又、同じところが、今年・2011年11月にも、同じように500人を対照に調べた結果(ここ)もあるが、それを見ると、イブを半数近くの人が1人で過ごしており、恋人と過ごしている人は非常に少ないようだ。
統計など、どのような人を対象に調べるかで結果は違ってくるものだし、クリスチャンでもない日本人が、クリスマス・イブをどのように過ごすのも自由だが、思っていたよりは、少々寂しい現実・・・。今の世知辛い世相を見てしまったような感じもするのだが・・・。
今夜も夫婦二人での簡単なチキン料理とワインでの夕食の楽しみごと・・・イブ。
阪神・淡路大震災の発生を契機に鎮魂と追悼、街の復興を祈念して始められた神戸ルミナ­リエは、17年目の今年、3月の東日本大震災に遭遇された人達の鎮魂と追悼も同時に行なわれた。
その祭典も12日に終ると、町にはクリスマスソングが響き渡るが、東北には、それどころではない人たちも大勢いるが、幸いにも、今日も、普通に生活の出来るしあわせを感じると共に、一日も早い震災復興を、神様にも御願いしたいと思っている。
以下は、阪神・淡路大震災からの復興を願って作られた臼井 真さんのすばらしい曲、今私は、クリスマスソングの変わりに、この歌の神戸を被災地に変えてうたっています。
「しあわせ運べるように」ー YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=oIfMOPz8s98&feature=related

(画像はl神戸北野異人館街のサンタさん)

今年も宜しく御願いします

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新年のご挨拶を申しあげます
昨年は大震災に、ギリシャショックと大変なことのあった年でしたが、今年は平穏無事な良い年であって欲しいですね。
そして、皆様の健康とご多幸を祈っています。
旧年中のご訪問感謝しています。
今年も同様に宜しく御願いします。
画像は、コレクションの平戸焼きの酒器・玉を追う竜です。

辰年に思う

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皆さんお正月はいかがお過ごしでしたでしょうか。
私は1月ほどブログも休みゆっくりと休養しました。これからまたぼちぼちとこのブログを書こうと思っていますので宜しくお願いします。
2012(平成24)年の今日・1月17日で、神戸市ほか兵庫県内を中心に死者6434人、負傷者約4万4千人にのぼる戦後最大の自然災害をもたらした阪神・淡路大震災から、丸17年を迎えることになった。そして、あと2ヵ月後の3月11日には、現代に生きるわれわれの想像をはるかに超える規模の地震津波で多くの方々が犠牲になった東日本大震災から1年となる。
17年前の阪神・淡路大震災では、大勢の若者がボランティアとして被災地へと駆けつけてくださり、今時の若者・・・が見直され、被災地神戸のみならず全国に共同体感情のようなものが生まれ、この年は、日本の本格的ボランティア元年と言われるようにさえなった。
丸17年目を迎えた今日も各地で、被災者を悼む追悼行事がおこなわれるが、昨年暮れのマスコミなどの報道によると、ボランティア団体やNPO法人の代表らでつくる「市民による追悼行事を考える会」(神戸市)調べによると、毎年1月に行なわれてきた被災者を悼む様々な行事も15年の節目となった2010(平成22)年には102件も行なわれたが、昨年は遺族等の意向で参加型行事は減少したが、今年(2012年)も更に減少し、地元の人たちだけで粛々と行なわれる形のものに変わってきたようだ。そこには、遺族等の高年齢かもあるだろう。
しかし、一方、東日本大震災の被災地・東北地方などに場所を移したり、追悼の対照を変えたりして行事を継続させる動きが増えてきており、追悼行事そのものは、今なお減らない点を考えると、関係者の方の思いの強さがよくわかる。
阪神・淡路大震災の起こった翌・1996(平成8)年以降、日本付近で発生した主な被害地震(平成8年〜平成23年11月の人的被害を伴った地震)の状況は、※1:「気象庁 | 地震・津波」のここを見れば詳しく判るが、これを見ると我が国はなんと地震の多い国かと言うことがよくわかるであろう。中でも、最近のものでは、平成16年(2004年)新潟県中越地震では死者68人負傷4,805人を出した他、負傷者1000人以上の平成17年(2005年) 3月20日の福岡県西方沖地震(死者:1名)、平成19年(2007年)新潟県中越沖地震(死者15人、負傷者 2,346人)と大地震が続き、昨年の東日本大震災(死者16,146 不明者3,333人負傷者6,052人【平成23年12月12日現在】)へと繋がったわけであり、防災に関する文章などによく用いられる物理学者にして随筆家・寺田寅彦の言葉・警句として有名な「天災は忘れられたる頃来たる」(※2参照)どころではない。地震大国とも言われる日本では、ここのところ、周期的大地震が頻繁に来ているのである。
私が子供の頃、戦後暫くまでは使われていた言葉であるが、科学も発達し、家庭では亭主(親父)の権威も失墜してしまった今の時代には余り耳にもしなくなった言葉、「地震、雷、火事、親父(オヤジ)」にもあるように、かって、怖いものの筆頭に地震が挙げられていたのは昔人の教訓でもあった。
「地震」と言う字は「地が震える」と書くが、「地震」のことは、古くは「なゐ」と言い、鴨長明が1212年(建暦2年))に書き上げたとされる『方丈記』には、自らが経験した天変地異に関する記述を書き連ねており、その中のひとつに1185年(元暦2年)に都を襲った元暦の大地震があり、ここで、「地震」を意味する言葉として「なゐ」が出てくる。
その原文及び現代語訳等は、以下参考の※3:「古典に親しむ 「方丈記」鴨長明」の【元暦の大地震】の項で読めるが、その現代語訳のものを引用すると、長明はその恐ろしさを以下のように書いている。
“また、同じころだったか、ものすごい大地震(現文では、「おおなゐ」と表記)があったことがある。そのさまは尋常ではなかった。山は崩れ、その土が河をうずめ、海が傾いて陸地に浸水した。大地は裂けて水が湧き出し、大きな岩が割れて谷に転がり落ちた。波打ち際を漕ぐ船は波の上に漂い、道行く馬は足の踏み場に惑っている。都のあたりでは、至るところ、寺のお堂や塔も、一つとして無事なものはない。あるものは崩れ、あるものは倒れている。塵や灰が立ち上って、もうもうとした煙のようである。大地が揺れ動き、家屋が倒れる音は、雷の音とそっくりだ。家の中にいると、あっという間に押しつぶされかねない。かといって、外に走り出れば大地が割れ裂ける。羽がないので、空を飛ぶこともできない。であったなら、雲にでも乗るだろうに。これまでの恐ろしかった経験の中でも、とりわけ恐ろしいのは、やはり地震(現文では「なゐ」と表記)だと思った。“・・・・・と。
その後余震も長く続き地震の恐さを書き、最後に、
”その直後には、だれもかれもがこの世の無常とこの世の生活の無意味さを語り、いささか欲望や邪念の心の濁りも薄らいだように思われたが、月日が重なり、何年か過ぎた後は、そんなことを言葉にする人もいなくなった。”・・・と。又、”そんな恐い目をした人達も、年月を重ねると、地震のことは忘れ去られてしまう・・・・と、書かれている。
この『方丈記』に登場する1185年(元暦2年)の大地震では、「大地は裂けて水が湧き出し」とあり、正にこれは、液状化現象ではないか?日本の内陸部京都で何故液状化が起こるのか?不思議に思うが、調べてみると、京都府の南部、現在の京都市伏見区、宇治市、久御山町にまたがる場所には巨椋池という巨大な池があったそうで、規模からいえば池よりも「湖」の方がふさわしく、現在「池」と称する最大の湖沼である湖山池よりも広かったそうだ。

上掲の画像が在りし日の巨椋池である(画像はWikipediaより借用)
京都は、扇状堆積した地形上に古都を作って、鴨川木津川の流れなど自然を利用して暮らしてきた。
そんな京都府下には、主要な活断層として、滋賀県境付近から奈良県境付近にかけて三方・花折断層帯が、南東部には、三重県・滋賀県から延びる木津川断層帯が、南部には兵庫県・大阪府から延びる有馬−高槻断層帯と、それに直交するように大阪府・奈良県の県境付近から延びる生駒断層帯が、中央部の丹波高地の西部から京都盆地西縁にかけては三峠・京都西山断層帯が、北部には山田断層帯と・・いくつもの断層帯が延びており、当時大きな地震が頻発していたようである(※4:「地震調査研究推進本部」の近畿地方>京都府 参照)。
そんな中、琵琶湖西岸の断層帯で、約800年前、栄華を誇った平家が滅亡に至った治承・寿永の乱の最後の戦いである壇ノ浦の戦いの時に起きた地震が、『方丈記』に記載されている地震であり、この時のマグニチュードは7.4だったという(※5も参照)。
内陸部でも軟弱な地盤は崩れ、あるいは地割れして水が噴き出る液状化が起こっても不思議ではない状況であったのではないか。これを見ると、安全だと思っている内陸部だからといって、場所によっては液状化がないという保証はないことになる。いわんや阪神・淡路大震災時の神戸ポートアイランド、東日本大震災時の千葉県浦安市など、自然界のときの概念からに見れば、昨日・今日埋め立てたばかりの地域での液状化は、大地震が来れば当然起こることが想定していなければいけないことであったろう。
「なゐ」の言葉の文献による初出は、もっと古く、『日本書紀』巻第十六(武烈紀)の歌謡の中にも「なゐ(那為)」(那為我与釐拠魔=那為【なゐ】が震【よ】り来【こ】ば=地震が来れば。6:日本書紀【朝日新聞社本】のここ参照)として出てくる。
以下参考の※7:「公益社団法人日本地震学会」によれば、大地が突然震動することを、昔の人は「なゐふる」と言い。「な(土地のこと)」+「ゐ(居)」で「大地」を表わす古語「なゐ」に、「ふる(震動する)」が加わったものが、転じて「なゐ」だけでも大地の震動(地震)を指すようになったらしい(※3の広報紙名「なゐふる」についてを参照)。
今年、年初めのブログに「地震」を選んだのは、今日が阪神淡路大震災の丸17年目であるからだけではない。今年の「えと(干支)」と関係があるからである。
今年・2012(平成24)年は、辰年(たつどし)であるが、ただ「干支(えと)は辰(たつ)」というのは正しくない。
今日では、「干支」(えと)と言えば「十二支(じゅうにし)」のことを指すことが多いが、「十二支」は古来、「甲子(きのえね)」「乙丑(きのとうし)」のように、十干と組み合わせて用いられてきた。字音から言えば、十干は「幹」、十二支は「枝」であり、この十干十二支を合わせたものを、干支(「かんし」または「えと」)といい、干支を書くとき干は支の前に書かれる。
「えと」という呼称は本来、十干を「きのえ」「きのと」のように、陰陽説でいう陽と陰を表した言葉兄(え)、と弟(と)の組み合わせとして訓読したことに由来するが、この逆転現象は干支のうち、五行思想とともに忘れ去られつつある十干に対して、「ネ」「ウシ」「トラ」「ウ」など動物イメージを付与されることによって具体的で身近なイメージを獲得した十二支のみが、現代の文化の中にかろうじて生き残っていることによるようだ。
今年・2012(平成24)年の場合、干支では29番の「壬辰(みずのえたつ・じんしん)」となる。
十干のは陽の水(水の兄)であり、その本義は「“”に通じ、陽気を下に姙(はら)む意」(植物の内部に種子が生まれた状態。水のように自由に適応していく等の意味を持ったもの)だとしている(干支について詳しくは、 Wikipedia-干支 また、※1参照)。
干支は、「竜」や「龍」(竜を参照)ではなく、「辰」と書き本来「しん」と読む。
」の字源は、部首「虫」と「辰」(音符)からなる会意形声文字」で、部首「」は、今日では主に水中以外の節足動物を指しているが、もとは、ヘビをかたどった象形文字で、本来はヘビ、特にマムシに代表される毒を持ったヘビを指していたが、それ以外の小動物に対して用いる文字へと変化していった。そのことから、貝の種類を表す漢字には虫偏のものが多い(「(ハマグリ)」など)。
Wikipediaによれば、蜃(しん)とは、蜃気楼を作り出すといわれる伝説の生物。古代の中国と日本で伝承されており、巨大なハマグリとする説と、竜の一種とする説があるそうで、蜃気楼の名は「蜃」が「気」を吐いて「楼閣」を出現させると考えられたことに由来するという。
中国の古書『彙苑』では、ハマグリの別名を蜃といい、春や夏に海中から気を吐いて楼台を作り出すとあり、この伝承が日本にも広く伝わったようだ。
そのようなことから、一般的に部首「」(しん)は、二枚貝から、びらびらとした肉がのぞく様(象形)であり、唇(「口とともに小刻みにびらびらとに動く肉)、振・震(ぶるぶるふるえる)などと同系の意を含み、『漢書』律暦志によると「振」(しん:「ふるう」「ととのう」の意味)で、草木の形が整った状態を表しているとされる。後に、覚え易くするために辰には唯一の神話上の動物である(龍)が割り当てられたが、干支で辰だけが実在の動物ではなく、伝説上の生き物を割り当てられている。
龍(竜)は神獣・霊獣であり、麒麟鳳凰霊亀とともに四霊のひとつとして扱われる。
その中でも、一説によると、龍の姿は「角は鹿、頭は駱駝、眼は兎、身体は蛇、腹は蜃、背中の鱗は鯉、爪は鷹、掌は虎、耳は牛」。つまり、他の部族と融合した結果、次々と相手のトーテムの一部を取り入れ、平和的な統合(融合)を繰り返した結果、あのような複雑な姿(シンボル)姿になってしまったものであり、他のものより「龍は平和の象徴」を最も表現しているものであり、縁起のよい動物であるという(※8のここ参照)。
長々と書いたが、今年の干支「辰」が震(ふるえる)と同系の文字であり、「辰」の関連語「賑」も「人や財貨が頻繁に動く・・・つまり、にぎわい」が字源。
2012年辰年のキーワードはこの「震」になるのではないか。
辰年は俗に昇り竜(昇竜)とも称し、勢いの良い様に例えられる。昨年は大地震もあり、激動の一年であったので今年はその辛さや悲しさに、震える心を、奮い立たせて、より成長してゆきたいものと願ってはいるのだが・・・・。
今年の干支の「壬辰」は、陰陽五行では、十干のは陽の水、十二支の辰は陽の土で、相剋(土剋水)だそうである。
相剋とは、国語辞書にあるように、”対立・矛盾する二つのものが互いに相手に勝とうと争うこと。「理性と感情が―する」”を言い、その意味で、今年は、相矛盾したことが衝突する年であるということになる。
昨・2011(平成23)年の幕開けは中東のジャスミン革命であり、後半はギリシャ問題(ギリシャの経済参照)に代表されるユーロ圏金融危機で先進諸国の脆弱ぶりが炙り出され、米国など日本を含む幾つかの国の国債格下げの動きとなった。また、世界の各地では相次で天災が発生している(※9参照)が、そんな渾沌とした状況の中、我が国もデフレ経済からの脱却が出来ず景気も低迷している中、3月11日未曾有の東日本大震災により、チェエイノブイリ原子力発電事故以来の福島第一原子力発電所事故まで引き起こしてしまうなど大揺れの年であった。
今年は、世界的金融不安の中、世界一巨大な財政赤字(※10参照)を抱える日本は、震災からの復興と原発事故によるエネルギー問題(※11参照)の解決、格差社会の是正、年金・医療問題・・・と、余りにも多くの問題を抱えているが、それを解決しなければならない現政権政党を見ていると、本当に今年は、昇り竜にあやかって、希望の持てる年になるのだろうか?・・・不安を感じざるを得ない。
私は易の事など分からないが、“対立・矛盾する二つのものが互いに相手に勝とうと衝突する”ことを意味する五行の相剋は、その年が平和的な年でなく、その時に有能な良きリーダーが現れ上手く時流に対応できるか否かで良くも悪くもなるものと解釈している。
言いかえれば干支の波動は60年周期で、新しい波動は前波動の対極に向かうべく動いていく、つまり、分水嶺にいるのだと思う。その動きは分水嶺を境にして一気に高まり、もし、社会や政治、経済の変革を推し進める衝動(外からの強い力や刺激)が良い方向に向かえば、その進展や改革が早まることになると言うことかもしれないが・・・・。
今世界を襲っている激震は、直ぐに収まらずその余震は長く続きそうな気配だ。今年は米国大統領選ほか主要国の多くのトップが入れ替わるかも知れない。日本の場合も、その可能性が大である。今の日本の状況で、政局を誤り、根幹の問題で、改革すべきことを改革しないと、坂道を転げる落ちるようなことにもなりかねない危険状態の年だと言えるだろう。
それに、歴史上、記録に残っている大きな地震は辰年に発生しているという。例えば、1952壬辰年(07/21 カリフォルニア: マグニチュード7. 5(、11/04 カムチャツカ半島付近: マグニチュード8.25 )、1964甲辰年(03/27 アラスカ: マグニチュード9.2、06/16 新潟: マグニチュード7.6 )、1976丙辰年(07/28 唐山 中国: マグニチュード7.8 )、1988戊辰年(08/21 ネパール: マグニチュード6.6、12/07 レニナカン ロシア: マグニチュード6.9) 、2000庚辰年(11/25 アゼルバイジャン: マグニチュード7、06/04 スマトラ: マグニチュード7.9 )等(※12参照)。
日本では昨年大震災があったから今年はないだろうとは言えない。洪水や地震などの自然災害が今年も場所を変えて何処であるかも知れない。防災への備えを怠ってはいけないだろう!
最後に、先にも紹介した、寺田寅彦の伝説の警句 「天災は忘れた頃に来る”」の言葉は寺田の随筆や手紙や手帳なども含めて本人が書いたものの中には見当たらず、今村明恒著『地震の国』によると、“天災は忘れた時分に来る。故寺田寅彦博士が、大正の関東大震災後、何かの雑誌に書いた警句であったと記憶している。”・・とあるそうだ(※2参照)。
因みに、地震の神様とも呼ばれている地震学者今村明恒の予想通り1944(昭和19)年に東南海地震、1946(昭和21)年に南海地震が発生した。東南海地震後には南海地震の発生を警告したものの、被害が軽減できなかったことを悔やんだと言われる。また、1933(昭和8)年に三陸沖地震が発生した際には、その復興の際に津波被害を防ぐための住民の高所移転を提案したという(Wikipedia)のだが、今村の提案に対して地元民はどう対応したのだろう・・・?
寺田も『天災と国防』の中で、
“戦争はぜひとも避けようと思えば人間の力で避けられなくはないであろうが、天災ばかりは科学の力でもその襲来を中止させるわけには行かない。その上に、いついかなる程度の地震暴風津波洪水(こうずい)が来るか今のところ容易に予知することができない。(中簡略)
文明が進むほど天災による損害の程度も累進する傾向があるという事実を充分に自覚して、そして平生からそれに対する防御策を講じなければならないはずであるのに、それがいっこうにできていないのはどういうわけであるか。そのおもなる原因は、畢竟(ひっきょう)そういう天災がきわめてまれにしか起こらないで、ちょうど人間が前車の顛覆(てんぷく)を忘れたころにそろそろ後車を引き出すようになるからであろう。
 しかし昔の人間は過去の経験を大切に保存し蓄積してその教えにたよることがはなはだ忠実であった。過去の地震や風害に堪えたような場所にのみ集落を保存し、時の試練に堪えたような建築様式のみを墨守して来た。それだからそうした経験に従って造られたものは関東震災でも多くは助かっているのである。“・・・と、
書いていることなどから、寺田の著作に、「天災は・・・」という言葉が使われていなくても、「天災は・・・」の言葉そのものはしばしば使っていたことは想像出来る。
『天災と国防』のなかに書かれているところを見ても、寺田が真に憂えていたのは天災が起こることではなくて、起こった天災を教訓とした次の天災への備えが進まないことであったろう。
有り難いことに、今の時代、寺田の随筆は、青空文庫(※13「作家別作品リスト:No.42寺田寅彦」)で何時でも読むことが出来るが、同リストにざっと目を通しただけで、「天災と国防」の他、災害や防災に関する記述のあるものは、「芝刈り」、 「断水の日」、「怪異考」、「時事雑感(地震国防)」、「函館の大火について」、「からすうりの花と蛾」 、「Liber Studiorum」、「地震雑感」 「災難雑考」 「静岡地震被害見学記」 「震災日記より」 「塵埃と光」 、「津浪と人間」など多数あり、これらを読んでいると、寺田は、歴史を振り返れば“天災が来る事は想定外のことではないのだよ”“天災はその備えを忘れた頃に必ずやって来るものなのだよ”と言うことを警告しているのだと私は思っている。
そして、「津浪と人間」では東北日本の太平洋岸で起こった津波のことに触れているので、最後に、そこで書かれていることをそのまま以下に抜粋する。

“昭和八年三月三日の早朝に、東北日本の太平洋岸に津浪が襲来して、沿岸の小都市村落を片端から薙(な)ぎ倒し洗い流し、そうして多数の人命と多額の財物を奪い去った。明治二十九年六月十五日の同地方に起ったいわゆる「三陸大津浪」とほぼ同様な自然現象が、約満三十七年後の今日再び繰返されたのである。
 同じような現象は、歴史に残っているだけでも、過去において何遍となく繰返されている。歴史に記録されていないものがおそらくそれ以上に多数にあったであろうと思われる。現在の地震学上から判断される限り、同じ事は未来においても何度となく繰返されるであろうということである。
 こんなに度々繰返される自然現象ならば、当該地方の住民は、とうの昔に何かしら相当な対策を考えてこれに備え、災害を未然に防ぐことが出来ていてもよさそうに思われる。これは、この際誰しもそう思うことであろうが、それが実際はなかなかそうならないというのがこの人間界の人間的自然現象であるように見える。
 学者の立場からは通例次のように云われるらしい。「この地方に数年あるいは数十年ごとに津浪の起るのは既定の事実である。それだのにこれに備うる事もせず、また強い地震の後には津浪の来る恐れがあるというくらいの見やすい道理もわきまえずに、うかうかしているというのはそもそも不用意千万なことである。」
 しかしまた、罹災者(りさいしゃ)の側に云わせれば、また次のような申し分がある。「それほど分かっている事なら、何故津浪の前に間に合うように警告を与えてくれないのか。正確な時日に予報出来ないまでも、もうそろそろ危ないと思ったら、もう少し前にそう云ってくれてもいいではないか、今まで黙っていて、災害のあった後に急にそんなことを云うのはひどい。」
 すると、学者の方では「それはもう十年も二十年も前にとうに警告を与えてあるのに、それに注意しないからいけない」という。するとまた、罹災民は「二十年も前のことなどこのせち辛い世の中でとても覚えてはいられない」という。これはどちらの云い分にも道理がある。つまり、これが人間界の「現象」なのである。
 災害直後時を移さず政府各方面の官吏、各新聞記者、各方面の学者が駆付けて詳細な調査をする。そうして周到な津浪災害予防案が考究され、発表され、その実行が奨励されるであろう。
中略
(追記) 三陸災害地を視察して帰った人の話を聞いた。ある地方では明治二十九年の災害記念碑を建てたが、それが今では二つに折れて倒れたままになってころがっており、碑文などは全く読めないそうである。またある地方では同様な碑を、山腹道路の傍で通行人の最もよく眼につく処に建てておいたが、その後新道が別に出来たために記念碑のある旧道は淋(さび)れてしまっているそうである。それからもう一つ意外な話は、地震があってから津浪の到着するまでに通例数十分かかるという平凡な科学的事実を知っている人が彼地方に非常に稀だということである。前の津浪に遭った人でも大抵そんなことは知らないそうである。“・・・・と。

寺田のどうしようもない苛立ちが痛いほど感じられないだろうか・・・。もう、自然災害に対して、想定外という言葉は、ただの言い訳に過ぎなくなったといえるかもしれない。

(冒頭の画像は、私のコレクションで平戸焼きの酒器・玉を追う竜です。)

参考:
※1:気象庁 | 地震・津波
lhttp://www.jma.go.jp/jma/kishou/know/jishin.html
※2:寺田寅彦の伝説の警句 天災は忘れた頃に来る
http://www5d.biglobe.ne.jp/~kabataf/torahiko/torahiko.htm
※3:古典に親しむ 「方丈記」鴨長明 
http://www.h3.dion.ne.jp/~urutora/houjouki.htm
※4:地震調査研究推進本部
http://www.jishin.go.jp/main/index.html
※5:災害の歴史 - 京都市市民防災センター
http://web.kyoto-inet.or.jp/org/bousai_s/history/index.html
※6:日本書紀(朝日新聞社本)
http://www.j-texts.com/sheet/shoki.html
※7:公益社団法人日本地震学会
http://www.zisin.jp/modules/pico/index.php
※8:干支(えと・かんし)///_十干十二支_///_漢字家族
http://1st.geocities.jp/ica7ea/kanji/kanshi.html
※9:災害ニュース 国際ニュース : AFPBB News
http://www.afpbb.com/category/disaster-accidents-crime/disaster
※10:リアルタイム財政赤字カウンター 11
http://www.kh-web.org/fin/
※11:エネルギー問題 エネルギー - 環境用語集
http://eco.goo.ne.jp/word/energy/S00080.html
※12:2012年壬辰年の運勢-レイモンド・ロー 日本公式ウェブサイト
http://raymond-lo.five-arts.com/articles-2012dragon.html
※13:作家別作品リスト:No.42作家名: 寺田 寅彦
http://www.aozora.gr.jp/index_pages/person42.html
阪神・淡路大震災教訓情報資料集(内閣府)
http://www.bousai.go.jp/1info/kyoukun/hanshin_awaji/index.html
東洋の歴史から学ぶ 〜時代を生き抜く知恵と思考〜
http://www.jpc-net.jp/cisi/mailmag/m116_pa2.html
ギリシャ問題が終息しない理由
http://www.gci-klug.jp/ogasawara/2011/09/15/013788.php
PIIGSとは何か?ギリシャ問題とは何か? [外国株] All About
http://allabout.co.jp/gm/gc/44500/
防災システム研究所  
http://www.bo-sai.co.jp/index.html
地震年表
http://homepage2.nifty.com/yyamasaki/SHEEP1.TXT
大地震、京都では30年以内に震度6の可能性(YOMIURI ONLINE)
http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20110424-OYT1T00267.htm
干支(えと)情報 〜2012年・辰(たつ)年版
http://www.nengasyotyuu.com/nenga/ninfo/ninfo_01.html

映画「ゴジラ」や「ウルトラマン」で知られる特撮の神様・円谷英二の忌日

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1月25日の今日は日本に於ける特殊撮影技術の第一人者であり、独自に作り出した技術で「ゴジラ」や「ウルトラマン」を生み出し、日本の特撮映画をいっきに世界最高峰レベルに押し上げ“特撮の神様”と呼ばれた円谷英二の1970(昭和45)年の忌日である。
第二次世界大戦後、世界各地で大規模な核実験が数多く行われ、偶発的に遭遇した第三者や環境への被害が広がった。その代表的な事件に、1954(昭和29)年3月1日、ビキニ環礁で行なわれたキャッスルブラボー実験の際に、日本のマグロ漁船第五福竜丸の船員23名が実験による放射性降下物の降灰を受け全員被爆した。後に、この水爆実験で放射性降下物を浴びた漁船は、数百隻にのぼるとみられ、被爆者は2万人を越えたといわれている(※1)。
第五福竜丸の水爆災害では、乗組員の被爆だけでなく、築地などで同船から水揚げされたマグロから強度の放射能も検出され、実験が行われた同年3月以降相次いで放射能汚染魚が見つかる。
さらに、日本各地の雨から放射能が検出され、飲料水・農作物・加工食品などの汚染問題に注目が集まった。そして、日本の全国各地で、強烈な反核運動が起こる結果となった。この日本の反核運動が反米運動へ移ることを恐れたアメリカは日本政府との間で被爆者補償の交渉を急ぎ、総計200万ドルの補償金と「米国の責任を追及しないこと」の確約を日本政府から受け、事件の決着を図ったといわれている(※1参照)。
この年(1954年)11月3日、東宝映画ゴジラ」第1作(監督:本多 猪四郎)が公開された。
冒頭の画像が、公開当時の宣伝用ポスターである。
ポスターのサブタイトルに水爆大怪獣映画とあるように、日本最初の怪獣映画であり、また、最初の本格的な特撮映画であった。この特殊撮影に当たったのが円谷英二である。
海底で眠る太古の巨大生物が核実験によって目覚めた。夜の闇の中、ようやく敗戦の傷も癒え復興に向かいつつあった東京を口から放射能を吐き破壊するゴジラ。モノクロの映像がその恐怖を引き立てた。あらゆる武器をものともしない巨大生物ゴジラを撃退する手だてはあるのか。映像の迫力、演出も最高の傑作であるが、この映画は、単なるSFX技術を駆使した怪獣映画ではなく、「第五福竜丸」被爆事件をヒントに、水爆実験反対という強烈なメッセッセージが含まれていた映画である。・・・しかし、その後、日本は、原子力発電所の建設を次々と行い、とうとう、あの東北地方太平洋沖地震により、福島第一原子力発電所事故を発生させてしまったのだが・・・・。
今日は、そんなことがテーマーではないので、本題に入る。
この映画「ゴジラ」の最大の特徴は円谷による特殊撮影にある。現実にはありえない設定や実写が困難な状況をフイルム上に作り出す特殊効果(SFX)にはワイヤーなどで宙吊りにしたりする物理的な“機械効果”と、二重撮影などの光学的な光学効果“とに分かれるが、これらの効果は殆どの映画で既に使われており、忍者が一瞬のうちにドロドロ消えるのも、実際には動かない車の中で演技をしている俳優を、背景を映し出したスクリーンの効果で、まるで市街地をドライブしているかのように似せるのも特殊効果であるが、やはり特殊効果の醍醐味は、空想科学や伝記伝説の世界を描いた作品の中で使われる特殊効果である。
それもこの世に存在しないものを実在するかのように見せる。例えば、このゴジラのような巨獣・怪獣また、恐竜などが人間に襲い掛かる映画は、これまで世界中で繰り返し作られその製作テクニックも様々であるが、円谷が32歳の1933(昭和8)年に、日本で公開されたハリウッド映画「(キング・コング」の特撮技術に驚愕し、フィルムを取り寄せその特撮シーンの全てのコマを研究したといわれるが、この映画に、代表されるように、ミニチュアモデルを使い、その動きを1コマづつ撮影して未知の巨獣をスクリーン上で大暴れさせた。
これはストップモーション・アニメーションと呼ばれるアニメーション作りのテクニックと同じであり、その第一人者レイ・ハリーハウゼンは、「ダイナメーション」(Dynamation、SFXの一種、コマ撮りアニメ)と名づけて、この手法を進化させたものを作っている。
円谷は、俳優が怪獣の着ぐるみ(ぬいぐるみ)を着て、成功につくられたミニチュアの建物などの前で動く姿を撮影するという方法をとった。コストの面では、「ダイナメーション」よりも経済的だが、これを可能にした背景には、精巧なミニチュアを作り出す日本の職人技があったことを忘れてはならないだろう。また、この「ゴジラ」第1作の公開前の1953(昭和28)年に、同じく米国映画で、現代に蘇った恐竜と人間との攻防を描いた「原子怪獣現る」(英:The Beast from 20,000 Fathoms)という作品が公開されており、核実験によって甦った恐竜という点が、「ゴジラ」のヒントとなったとも言われている。
兎に角、従来の特撮の技法に、当時としては画期的な着ぐるみを使うという独特の手法を加えて、創り出した迫真感が観客に受け、映画は大ヒット、映画館には会館前より大行列が出来たものだが私なども並んで見に行った一人だ。
その2年後の1956(昭和31)年に全米公開されたときも大ヒットし、“GOZDZILA”の名を世界に知らしめることになった 。
戦前には、特撮映画の古典とも言うべき「ハワイ・マレー沖海戦」(1942年)の特撮を担当している。
この映画は、日米海戦の翌年に海軍省の至上命令によって東宝映画が製作したものであり、1941年(昭和16年)12月8日の真珠湾攻撃および12月10日のマレー沖海戦の大勝利を描き、国威称揚させることを目的に、開戦一周年記念映画として製作された戦争映画であり、国策プロパガンダ)映画である。
その映像は以下で見ることができえる。
真珠湾攻撃 - YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=tcv1cWtsH_c
マレー沖海戦「攻撃」 - YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=vE6_s1Tg0Ps
この映画で、円谷率いる特技スタッフは、得意のミニチュアモデルにより、精巧な真珠湾の特撮セットを作り上げ、部分的に実際の海戦で撮影された映像を挿入して、真珠湾奇襲等を特撮でリアルに映像化し、臨場感を醸し出すことに成功。高い評価を受けるが、全編にわたって特撮が使用されたわけではない。
「ゴジラ」では、ドラマ部分の本編と特殊効果映像とが均等に扱われた。この成功によって、円谷は、監督と同等の立場の特殊撮影監督という地位を確立した。また、東宝は特撮映画というジャンルを打ち立てることができた。
人気に応えて、翌年には第2作「ゴジラの逆襲」が作られ、ますます人気は高まるが、「ゴジラ」第1作2作公開当時は、まずまずの大人の恐怖映画でもあったのだが、その後すぐに、子供向け映画に変わってゆき、円谷は、ゴジラシリーズに、「モスラ」「ラドン」「キングギドラ」など新しい怪獣のスターを次々送り出し、 1966(昭和41)年には、テレビにも進出。「ウルトラマン」シリーズは、今に続く怪獣ブームを生むことになる。
そして、“世界のツブラヤ”“特撮の神様”とも呼ばれるようになり、多くの弟子を育てたが、彼の特撮技術は、どのようにして生まれたかを少し振り返ってみよう(以下※3やWikipediaを参考にする)。
円谷英二(つぶらや・えいじ)は、1901(明治34)年7月7日、福島県岩須賀川市生まれ(※戸籍上は、7月10日生まれとなっているそうだ)。本名は、円谷英一(つむらや・えいいち)。
1910(明治43)年、9歳のとき、代々木錬兵場(現:代々木公園)で徳川好敏日野熊蔵両大尉が飛行機により日本初の公式飛行に成功、これに強く感銘を受けた円谷は飛行機乗りに憧れを持ち、模型飛行機の制作に没頭するようになり、6年生になると、金属製の飛行機の発動機を製作するほどの飛行機少年だったという。
1916(大正5)年、15歳で尋常高等小学校8年生の課程を終えると、11月、操縦士を夢見て、同年8月に開校したばかりの羽田の日本飛行学校(※2参照)に第一期生として入学するも、翌年には一機しか無い飛行機が墜落し、教官も死亡したことから、学校が閉鎖。同年、神田電機学校(現:東京電機大学夜間部。【東京工科学校=現:日本工業大学の説もあるそうだ】)に入学。叔父の知り合いが経営する玩具会社の考案係嘱託となり、玩具や商品の考案で才能を発揮していたようだ。
1919(大正8)年、18歳の時、ひょんな事から、日本ではまだ珍しい飛行機の知識を持ち玩具で新しいアイデアでの優れた才能もった英一少年に目をつけた、天然色活動写真株式会社(略称天活)の枝正 義郎に見初められ、映画界に入り、枝正から撮影技術を学んだそうだ。
天活はこの年、国際活映(国活)に吸収合併されるが、撮影部に所属していた円谷は1920(大正9)年、飛行機による空中撮影を誰も怖がって引き受けなかったところ、円谷が自ら志願して見事やり遂げたことから、撮影助手から一気に撮影技師に昇進したという。
しかし、1921(大正10)年20歳で兵役に就き会津若松歩兵連隊に配属されるが、1923(大正12)年で除隊後、国活に復帰。復帰直前に起きた関東大震災後、各映画撮影所が京都へ移ったため、翌1924(大正13)年円谷もこれを頼って京都に居を移し、小笠原プロダクションに所属していたが、国活巣鴨で出会った俳優衣笠貞之助、撮影技師杉山公平とともに、翌・1925(大正15)年の「衣笠映画聯盟」の設立に参加し、『狂った一頁』の撮影助手を担当した。
そして、1927(昭和2)年、26歳の時、林長二郎(長谷川一夫)初主演作である『稚児の剣法』(監督:犬塚稔)でカメラマンを担当、林を何重にもオーバーラップ(二重写し。映像用語「フェード」参照)させる特撮手法を採り入れ、映画は大成功したそうだ。この映画には撮影技師円谷英一として本名でクレジットされている(※4参照)。
翌年、正式に松竹京都下加茂撮影所に入社。1930(昭和5)年、29歳で結婚したときから、「円谷英二」と名乗るようになった。理由は、兄のように尊敬する5歳年上のおじの名が「一郎」だったので、遠慮して「英二」を名乗るようにしたとWikipediaにはあるが、※4参照:「日本映画データベース[円谷英二/円谷英一]」の作品リストを見ていると、1932(昭和7)年9月公開の「怪談 ゆうなぎ草紙」( 松竹下加茂)くらいまでは「英一」の名でもクレジットされており、松竹下加茂撮影所時代の作品には「英一」「英二」両方の名が見られる。
1931(昭和6)年、渡欧していた衣笠監督の帰国後一作目となる「黎明以前」を、杉山公平とともに撮影。このとき30歳の円谷は、ホリゾントを考案し、日本で初めてのホリゾント撮影を行ったという。
また、このころ、「アイリス・イン」、「アイリス・アウト」(画面の一点から丸く開きながら、又、閉じながら、画面を映し出す映像像表現)、「フェイド・イン」、「フェイド・アウト」(フェード参照)、「擬似夜景」(※5:のつぶし<晴天潰し>参照)などの撮影手法を、日本で初めて使用したり、セットの奥行を出すために背景画を作る、ミニチュアセットを作る、一部の画面を合成するなど、後の特撮技術に通じることを行なっていたようだ。また、足元から煙を出して臨場感を高める手法で「スモーク円谷」と呼ばれていたとも・・・。
給料の約半分を撮影技術の研究費につぎ込み、さらに、協力者に対してただ酒をおごる毎日だったらしいが、これら特殊撮影技師としての姿は当時、他のカメラマン達にはなかなか理解されなかったようだ。
1932年(昭和7年)、31歳の時、『稚児の剣法』で新人の円谷を撮影カメラマンに登用してくれた監督である犬塚稔とともに日活太秦撮影所に引き抜かれて移籍。日活入社初作品として、大河内傳次郎主演の『長脇差風景』(監督:犬塚稔。同年2月公開)を撮影。この日活作品以降、「英一」の名は使わず「英二」の名前に統一されていったようである(※4参照参照)。
この年4月に公開されたアメリカ映画「キング・コング」(日本公開:同年9月)に感銘を受けた円谷は、特撮の道に進むことを決意したようだ。
この年の末に日活幹部立会いの下、スクリーン・プロセスのテストを行うが不調に終わり、翌年には、「浅太郎赤城颪」でスターだった市川百々之助の顔に「ローキー照明(キーライト)」で影を作り、その撮影手法を巡って日活の幹部と対立、同社を退社。同年、円谷の特殊技術に注目していた大沢善夫の誘いにより、撮影技術研究所主任として、東宝の前身であるJOトーキーに移る。
1935(昭和10)年、34歳の時。2月から8月にかけ連合艦隊の練習鑑「浅間」(※6参照)に乗艦、ハワイからフィリピン、オーストラリア、ニュージーランドを回り、練習生の実習風景の長編記録映画『赤道を越えて』を撮影(公開1936年1月)。これが監督第1作となった。この映画を私は見ていないが、映画の内容等は以下参考の※7:「映画イメージCG作品」(ここ)を見れば判るが、そこでの映画評にある通り、この映画は、完全な国策(プロパガンダ)記録映画であり、映画撮影が出来、特撮に通じていた円谷の才能は、当時の軍部の宣伝活動には貴重なものだったろう。
同年9月、円谷の所属する「JO」が、「株式會社冩眞化学研究所」、「PCL映画製作所」、「東宝映画配給」の3社と合併、東宝株式会社が設立されると、特殊技術課が創設された。そして、ナチス・ドイツとの政治的・軍事的接近を目論んでのものと思われる日独合作映画「新しき土」(1937年。※7も参照)を担当し、日本最初のスクリーンプロセス(バックグラウンド・プロジェクション)の技術を完成した。この装置は日活時代から私費を投じて開発し続け、JOに移って大沢善夫の援助でついに完成させたものだという。
1940(昭和15)年には「皇道日本」、「燃ゆる大空」、そして、「海軍爆撃隊」では、初めてミニチュアの飛行機による爆撃シーンを撮影。長い間、当時劇場公開された「海軍爆撃隊」35ミリフィルムの存在が確認されていなかったが、海軍軍事普及部を介して公共団体などにPR用に売買された16ミリ版プリントが収集家によって保存されていたのが見つかったという(※8:「日本特撮ファンクラブ」の“映画『海軍爆撃隊』実見記”や“海軍爆撃隊・プレスブック”を参照)。
ネットで検索していると以下のものが見つかったが、これがそのフイルムだろうか・・・?。2つ目のものがラスト部分らしい。最後に、海軍爆撃隊 終り の幕字あり。
海軍爆撃隊 - YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=x4xEaF7H1AA
九六式陸上攻撃機の大編隊 - YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=jwz3Ky9XO5g
この映画は、先にも書いた特撮映画の古典とも言うべき、「ハワイ・マレー沖海戦」(1941年)の先駆けとなる作品であり、中国大陸を舞台に、日本海軍の爆撃機が中国軍機の攻撃で被弾しながらも、基地に帰還するストーリーで、実写を交え、空中戦や爆弾投下などで特撮を駆使している。
本作品公開から一年半余り後、我が国は世界を相手とした無謀な戦争、太平洋戦争へと突入(1941年=昭和16年、12月8日)したことに伴い、東宝は本格的に軍の要請による戦争映画を中心とした戦意高揚映画を制作することとなり、俄然特撮の需要が高まり、円谷率いる特技課が以後、「加藤隼戦闘隊」、「雷撃隊出動」、「あの旗を撃て」、「かくて神風は吹く」といった作品など全ての戦争映画の特撮に携わることとなり、戦後そのために公職追放指定を受け、不遇を囲うこととなる。
戦後、フリーとなっていた円谷は東京の祖師ヶ谷の自宅の庭にプレハブを建て、「円谷特殊技術研究所」を設立して、各 映画会社作品の特撮シーンを手掛けるが仕事は多くなかった。 昭和27(1952)年、日本独立後に公職追放が解除され東宝へ復帰。
東宝は、「円谷特技研究所」の者達を正式に撮影所に迎え入れ、特撮スタッフの強化を図った。
太平洋の鷲」「さらばラバウル」等を経て、日本初の本格的特撮怪獣映画「ゴジラ」(日本映画技術賞部門を受賞)に始まる一連のぬいぐるみ怪獣シリーズを生み出し円谷は、特撮界のスター的存在となった。1963(昭和38)年には円谷特技プロを発足させ、「ウルトラQ」「ウルトラマン」などの特撮テレビ映画シリーズを製作放映し、怪獣ブームを巻き起こした。
子供にサインを求められると、自分の名前を図案化した「スキーボーヤ」を描き、大人には「子供に夢を」と書いたという。1970(昭和45)年1月25日、別荘で静養中に狭心症により他界。享年68歳。
最後に、多くの人に惜しまれこの世を去った円谷英二と言うと、多くの人が怪獣映画の「ゴジラ」やウルトラ・シリーズなどのぬいぐるみによる特撮や戦意高揚映画の特撮を手掛け人を連想するであろうが、彼が特撮マンとして手掛けたジャンルはそれだけにとどまらない。SF・怪獣もの、戦記もので見せた特撮の技術は、特撮をメインとしない様々な映画の中でも用いられてきた。そのことを、すこし付け加えておく。
例えば、戦前に創られたエノケン主演の「孫悟空」前・後篇(1940年、東宝。※9参照) は、日米開戦直前に制作された全編オペレッタ形式の映画であるが、緊迫した時代に作成のものとは思えない楽しい映画だ。悟空は金箍棒(きんこぼう、 如意棒という名で知られている)をキント雲ならぬキント飛行機に変身させて飛び回る。クライマックスの空中戦でのミニチュア撮影まで、その才能を思う存分発揮し、その蓄積してきた特撮技能を本格的に開花させたのがこの「エノケンの孫悟空」ではないか。
文芸作品ものでは「白夫人の妖恋」(1956年)は、日本初の総天然色(イーストマン・カラー)による特撮映画であり、日本映画界で初めてブルーバック撮影による合成を用いた作品でもある。この作品は中国民話『白蛇伝』をベースに創られており、この2年後に東映動画(現・東映アニメーション)で作られた長編アニメ「白蛇伝」(1958)と同じストーリーだ。
円谷の特撮は冒頭の西湖の情景描写から登場。緑の美しい山林の手前に優雅な西湖の水面が広がる。中国の情景は、ジオラマと屋外セットによって再現されているが、円谷初のカラー作品ということもあり、緻密なカラー設計がされておりとても美しい画像であった。中盤、白娘と道人の妖術合戦にも特撮が見られた。
又、日本神話を扱ったカラー・シネスコによる「日本誕生」(1959年、東宝)は、東宝映画1,000本目の記念作品で、東宝のオールスター総出陣による芸術祭参加作品であるが、神話が題材ということで特撮の比重が大きく、円谷による密度の濃い特撮シーン満載の作品でもある。
劇中劇として登場する須佐之男八岐大蛇(ヤマタノオロチ)の格闘シーン、ラストの湖の洪水シーン、山の大爆発と流れ出る溶岩のシーンなど。
円谷は密度の高い合成シーンを実現するため、バーサタイル・プロセスという合成用の機材を初めてしようして作成。これは普通の映画用フィルムである35ミリフィルムを70ミリまでブローアップし、合成後に再び35ミリに戻すという手間のかかる方法であり、フィルムが大きいほど合成シーン特有の画質の劣化をなくさせるシステムだそうだ。まるで、「十戒」や「ベン・ハー」など、アメリカの大作映画を見るようなこの大掛かりなスペタクル映画は日本では初めてのものだっだ。この映画は、日本映画技術賞を受賞している。後に円谷のゴジラシリーズに登場する「キングギドラ」は本作の八岐大蛇を参考に創られたという。 この映画の予告編は以下参考※10で見れる。
SF映画の分野では「宇宙大戦争」(1959 年)は、地球防衛軍と宇宙からの侵略者との攻防を描いた「地球防衛軍」(1957年)の続編ともいえる姉妹編である。当時としては「宇宙に関する最新の情報」が盛り込まれた映画で、科学考証的には後に間違いとなってしまった事象も多くあるとはいえ、映画公開当時(1959年)には、ソビエト連邦(ガガーリンによる人類初の有人宇宙飛行、1961年)やアメリカ合衆国のような有人宇宙飛行計画など夢のまた夢だった日本で、アポロ11号の月面着陸(1969年)より4年も前に、月面での無重力状態を表現した歩行シーン(アイディアの発案は俳優の土屋嘉男だとか)や、宇宙空間での戦闘シーンなど、まだCG特撮のなかった時代の特撮ものとしては素晴らしい出来栄えだ。
円谷は当時すでに特撮監督としての世界的名声を得ており、彼の特撮映画は海外でも大評判となっていたので、この映画ではついに、東宝が製作発表した段階で、アメリカの映画バイヤーが買い付け契約を結ぶために来日し、これ以後の恒例となったという(この映画の予告編が参考※11で見れる)。
又、東西冷戦の危機感を強くを反映した反戦思想を前面に出したドラマ「世界大戦争」(1961年。芸術祭参加作品)では、東京、ニューヨーク、ロンドン、パリ、モスクワが核ミサイルによって破壊される衝撃的なクライマックスシーンは、天地を逆にしたミニチュアの下から圧縮空気を吹き出させる方法で撮影されたという。このシーンの映像は完成度が高く、その後様々な作品に流用されるようになったという。
このほか、第二回小川未明文学奨励賞を受賞した児童文学作家宮口しづゑの同名小説を映画化した「ゲンと不動明王」(1961)、方広寺鐘銘事件により、徳川と豊臣の間できな臭い雰囲気が漂い始めた大阪の町を舞台とした「大阪城物語」は、三船敏郎主演の時代劇アクションであり、特撮を売り物の映画ではないが、大阪の町並みや船、大仏など円谷の得意とするミニチュアを使っての見せ場を作っている。
そのほか、娯楽活劇の「大盗賊」(1963年)、クレージーキャッツ結成10周年を記念して東宝と渡辺プロダクションが製作した「大冒険」(1965年)など楽しい映画が数多くある。機会があればこのような作品もDVDなどで見られると良い。映画の粗筋などは参考の※7や※12などを参照されると分かる。

参考:
※1:社会科学者の時評
http://pub.ne.jp/bbgmgt/?entry_id=3832264
※2:羽田飛行場に日本飛行学校があったのは
http://blogs.yahoo.co.jp/takamino55/669114.html
※3:円谷ウルトラファンサイト
http://eiji-tsuburaya.web-reigo.com/index.html
※4:日本映画データベース[円谷英二/円谷英一]
http://www.jmdb.ne.jp/person/p0043090.htm
※5:映画製作用語集 【た】
http://sairin.com/ta.html
※6:装甲巡洋艦 浅間 - FC2
http://mpmc.web.fc2.com/asama01.html
※ 7:映画イメージCG作品:映画評
http://www.ne.jp/asahi/gensou/kan/eigahyou-guide/1930-index.html
※8:日本特撮ファンクラブ
http://g-tokusatsu.com/index.html
※9:エノケンの孫悟空
http://www.geocities.co.jp/SilkRoad/2781/data/movie/movie02.html
※10:日本誕生 - YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=ujopreOSlSM
※11:宇宙大戦争 OP
http://www.dailymotion.com/video/x6x3i0_yyyyy-yy_shortfilms
※12:円谷英二 - goo 映画
http://movie.goo.ne.jp/cast/c103317/index.html
円谷プロダクション公式Webサイト
http://www.m-78.jp/

LG21の日(ヨーグルト)

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日本記念日協会の今日・2月1日の記念日に、「LG21の日」があった。
由来を見ると、”明治乳業株式会社が発売しているLG21乳酸菌(正式名称・lactobacillus Gasseri OLL2716株)を使用したヨーグルト「明治プロビオヨーグルトLG21」のPRを目的とした日。日付は「LG21」にちなんで2と1から。”・・・とあった。
記念日と言っても最近多くなってきた企業の製品PR用の記念日のひとつだから、そんなことには、余り関心はないのだが、先週の月曜日(1月23日)、いつも見ているNHKの朝ドラ「カーネーション」のあと番組・NHKの あさイチ(※1)で、“新発見続々 すごいぞ!ヨーグルトの力”のタイトルで、ヨーグルトの効用の話をしていたのを見て、改めて、ヨーグルトに興味を持ち、書いてみようかと思った次第。
このブログでは、「LG21」のことは、直接的に書いていないので、この製品「明治プロビオヨーグルトLG21」のことに興味があるなら、以下参考に記載の同社HP(※2参照)を見られると良い。
先ず、Wikipedia他、検索で得た情報を元に、ヨーグルトの基礎的なことに触れていこう。
ヨーグルトは、牛乳などの乳に乳酸菌酵母を混ぜて発酵させて作った発酵食品であり、ヨーグルトに相当する食品は世界各国に存在し、それぞれの国で色々な名で呼ばれているようだが、欧米や日本でこの乳製品を指すのに用いられる「ヨーグルト」という言葉は、トルコ語でヨーグルトを意味する「ヨウルト(yoğurt)」に由来するものだそうだ。
ヨウルトは「攪拌すること」を意味する動詞yoğurmakの派生語で、トルコにおけるヨーグルトの製法を反映しているという。この名称が広まったのは、ロシアの医学者イリヤ・メチニコブルガリア(当時はロシアの支配下だが、直前までオスマン帝国領)訪問の際に、現地の伝統食のヨーグルトを長寿の秘訣として、世界中に広めたからであり、ヨーグルトにたまる上澄み液は乳清、英語ではホエイ、またはホエー(whey)という。
又、FAO(国際連合食糧農業機関)とWHO(世界保健機関)によって1977(昭和52)年に定められたヨーグルトの厳密な定義によると、「ヨーグルトとは乳及び乳酸菌を原料とし、ブルガリア菌(ラクトバチルス デルブリュッキー 亜種 ブルガリクス)とサーモフィルス菌(ストレプトコックス サーモフィルス)が大量に存在し、その発酵作用で作られた物」と定められているそうだ(乳酸菌については参考※3:「社団法人全国はっ酵乳乳酸菌飲料協会」の学術情報>”乳酸菌”って、どんな菌?を参照されるとよい。)。
人の(ちょう、intestines)は食物がで溶かされた後、その中の栄養や水分を吸収する器官であり、末端は肛門であり、消化された食物は便となり、排便により体外へと排出される。

上掲の図は、「人の腸の構造」(1:食道 、2: 、3:十二指腸、 4:小腸、 5:盲腸、 6:虫垂、 7:大腸、 8:直腸、 9:肛門。Wikipediaより)である。
体外へ排出される便には、単なる栄養素が吸収された後のカスだけではなく、消化液(※4)、粘液粘膜などの消化器管から出てきたもの、古くなって腸壁から剥がれ落ちた細胞、不要なミネラル腸内細菌が含まれているそうだ。
腸内細菌とは、ヒトや動物の腸の内部に生息している細菌のことを言うが、人の腸内には一人当たり100種類以上、100兆個以上の腸内細菌が生息しているという。そして、体外へ排出される糞便のうち、約半分が腸内細菌またはその死骸であると言われている。
この分野に知識のない私など、糞便の殆どが、消化器官で消化しきれなかった食べ物のカスだろうと思っていたものだが、まず番組冒頭で、食べ物の消化し切れなかった残りカスは、口から摂取した食べ物の3分の1程度であるといって、上記で述べたようなことを話していた。
ヨーグルトに含まれている乳酸菌には整腸作用(腸内環境の改善)があり、一般に便秘解消や美肌につながると人気があることは私も知ってはいるが、当番組では、焼き物の里として知られる佐賀県有田町で昨年乳酸菌の働きを見る調査が行われ、「R−1乳酸菌」入りのヨーグルト(飲料タイプ)を1日1本(112グラム)、半年間、飲み続けた結果、参加した小中学生のインフルエンザの感染率が、周辺地域や佐賀県全体と比べて極めて低いことが分かったことを紹介。この「R-1乳酸菌」の働きを突きとめたのは、神奈川にある食品メーカーで、これまでに3500種類もの乳酸菌を探し出していて、およそ10年をかけてR-1乳酸菌の優れた働きを発見。このR-1乳酸菌は発酵の過程で「多糖体」と呼ばれる糖を含んだたんぱく質を大量に作りだす。この「多糖体」(糖質には単糖類、少糖類、多糖類があり、単糖類が多数結合したもの。を参照)が、体の中に入ると、免疫機能で重要な役割を果たすナチュラルキラー細胞(NK細胞)を活性化させる。そのため、インフルエンザウィルスも撃退できたのはないかと考えられている・・・というのである。
ここで言っているR-1乳酸菌とは、正式には、ブルガリア菌の一種「1073R-1乳酸菌」のことで、もっと具体的に云えば明治ヨーグルトR-1のことを言っているのだろう( 2011-01-14付け明治乳業:プレスリリース参照)。
NK細胞とは、がん細胞(悪性腫瘍)を殺す免疫細胞(※5参照)のエース(ここ参照)だと言われているそうで、そうなら、がんに一番恐れを抱いているといわれる日本人にとっては、がんの免疫力が活性化出来るなどといわれれば、どうしても摂りたくなるよね〜。
それに、当番組によれば、去年、行われた調査では、ヨーグルトに含まれる乳酸菌の一種「ガゼリ菌SP株」には内臓脂肪低減効果があるので、メタボの改善にも良い他、乳酸菌の機能として、「LB81乳酸菌」には、肌の弾力やキメ密度など、皮膚機能の改善効果があること(※6参照)や、「ビフィズス菌BB536」などには花粉症の症状を緩和する効果が期待できる(※7参照)ことも紹介されているという。
ただ、内藤裕子アナは、「ヨーグルトはではないので、誰にでも必ず効くというわけではなく、乳酸菌との相性や周りの環境によっても効果は違う」・・・ことを一言付け加えていた。
それに対して、同番組にゲストとして招かれていたこの分野の専門家で、免疫系に対する食品の作用について研究を行っている日本大学の教授・上野川修一(※8参照)は、「乳酸菌は元々免疫力を高める性質があり、その中でもR-1乳酸菌は多糖体を外に出すので、それによって更に免疫力を高めたのでは・・・」と言っていた。
そして、内藤裕子アナから、潤いのある乾燥肌知らずの十和子肌で知られる元女優君島十和子が、ヨーグルトに不足している食物繊維を補うために、ヨーグルトにきな粉を入れて効果をアップし、毎朝欠かさず食べているといい、そのヨーグルトの作り方、他、最近話題のギリシャヨーグルト(※9参照)など、色々なヨーグルトを使ったレシピを紹介していた。
我が家は、家人が便秘気味であり、私ももともと腸の調子は余りよくない方。それに、夫婦とも年齢的にも肌が乾燥気味なので、番組を見て、早速、ヨーグルトにきな粉を入れたものを作って食べてみようかと言うことになり、翌日、近くのスーパーに買いに行くと、評判の良いヨーグルトやきな粉は、売り切れていたと云って、普及品の物を買ってきていた。最近は、テレビで、これが美味しいとか、これが健康や美容に良いとちょっと話題になると、誰もがワッと買いに行くので、近くのスーパーなどでは放送があった後直ぐに、店頭の商品が消えてしまう。テレビの人気番組などで健康や美容・料理などが話題になると必ず起こる現象だが、我が家も世間様同様だがね(^0^)。
日大の教授・上野川修一は、確か前にも、NHKの番組に出ていたのを見た記憶があり、調べてみたら、それは、約5年ほど前に、NHK総合TVで放送されていた漫才コンビ爆笑問題が、各分野の専門化のもとへ赴き、その専門分野と本質についてトークを繰り広げる「教養」をテーマとしたバラエティー番組爆笑問題のニッポンの教養(略タイトル:「爆問学問」。公式サイト※10のFILE014:「人間は考える腸である」2007年10月23日放送分参照)であった。
そのとき上野は「動物は管(くだ)である」といっていた。
前掲の「人の腸の構造」を見ても判るように、人の身体には、口から始まって、胃、小腸、大腸、肛門へと連なる「管」が一本通っている。その管と連なっている胃とか腸の内側は、口から摂ったものが通っている管の内部から見ると「外側」になる。
このような胃腸などの消化器管のほかにも気管血管など人間の身体は「管」で成り立っており、その点については、他の動物と変わりはない。
そんな「管」の中でも、人体の外部より摂取した食物を人体の内部へと吸収してくれる重要な働きをしてくれているのが、「腸」であるが、腸は体に必要な物は取り入れ、逆に有害な物は排泄するという善悪の判断をするのような働きをしており、これは、腸が、脳や脊髄からの指令がなくとも反射を起こさせる内在性神経系を持っている臓器であるからで、我々の先祖は、そのアメーバ原生的生物から進化して脊椎を獲得した時、頭蓋と腸の両方にそれぞれ別の感情を持つ脳を発達させたからだという。だから、腸は、「第二の脳」だと言われており、それほど大事な器官だということになるのだそうだ(※11参照)。
ただ、常に、外部から体内に入ってきたものに最初に接触し、その影響を受けやすいところでもあるし、又、食べ物などだけではなく、ストレスなどによる精神による影響も大きいのだという。
ネットで色々検索していると、毎週月曜日に朝日新聞に掲載される「朝日俳壇」の選者やNHKの「俳句王国」の主宰などで活躍していた事もある国文学者・俳人の故・川崎展宏の代表句の中に以下のようなものがあった。
「人間は管(くだ)より成れる日短(ひみじか)」  
そこには、この句(※12参照)の説明はないが、川崎は、上野が言っているような“人間の体は「管」で成り立っていることを実感していたのだろうか?
生物進化の歴史を溯れば、今この地球上には、多くの人種がいるが、元を辿れ、アフリカ人であり、さらに溯れば猿類と、どんどん溯ると菌類(バクテリア)にたどり着く。菌類−藻類−魚類−両性類−爬虫類−ほ乳類−霊長類−人類と約40億年もの時をかけて大きく変異してきた(地球史年表、又、参考の※13、※14参照)。
私達の体には無数の細菌が住み着いているが、その中でも腸内には最も多くの細菌が住んでいることは先にも述べたが、これら腸内細菌などの菌は、“地球の生命誕生の時”の生き物であり、私達人類は、地球の歴史から見れば、まだほんの一瞬の時を生きているだけの生き物だともいえるだろう。だから、川崎は、管(くだ)より成れる・・・人間は「日短(ひみじか)」と読んだのかも知れない・・・。
人の免疫細胞の60%は腸管に集中して、腸管免疫系を支えており、腸がうまく働くと免疫力も高まる。つまり、腸は免疫の司令塔といえる存在なのだ。この「腸」には数100種の腸内細菌が絶妙なバランスでひしめき合い、病原菌病原体も参照)やウィルスなどの異物の侵入を防ぐ極めて精密な免疫システムを作り上げているそうだ。
腸内細菌には身体に良い働きをする善玉菌、身体に悪い物質を作る悪玉菌が熾烈な勢力争いをしているが、どちらつかずの日和見菌もおり、この菌は、その時々の腸内の状況に応じて、勢いのある方に味方する性質を持っており、数の上では一番多くいるのだとか・・。そして、この腸内細菌全部の量はほぼ決まっているので、善玉菌がふえると悪玉菌が減ることになるので、善玉菌を増やして日和見菌を味方につけないといけないね〜。ただ、善玉菌が悪玉菌を駆逐してくれた方が健康には良いと思うのだが、必ずしもそうともいえないらしい。
それは、悪玉菌の中にも摂取した食物を腐敗させたり分解させたりする役立つ働きをしている菌もあるらしく、又、腸内の善玉菌は悪玉菌を餌にして生きているが、悪玉菌が消滅してしまえば善玉菌も生きていけないので、見方によっては悪玉菌も必要不可欠な存在であり、要は、腸内細菌が、バランスよくいることで健康が保たれていることになるということのようだ。
逆に、偏った食事や、運動不足、それに老化や 精神的ストレスなどでバランスが崩れると、悪玉菌が優勢になり便秘・下痢・血液の汚れ、免疫力の低下などが起こることになる。つまり、共生と寛容で成り立つている世界なのだそうだ。これは、人間の世界でも見習うべきことだろうね。
免疫とは、人の健康を守ってくれる働きで、自然治癒力という体の防御システムのひとつであり、この自然治癒力を高めるために、乳酸菌に代表される善玉菌を食品から摂取することで、消化器系のバランスを改善し、病気の発生を未然に抑えようと考えられるようになった。そのような人体に良い影響を与える微生物また、それらを含む製品、食品をプロバイオティクス(Probiotics)と呼んでいる。
ヨーグルトの乳酸菌の多くは、実は胃酸などで死んでしまう。それでも腸の中の乳酸菌と同じ種類のもののうち、いくらかは生きたまま腸に届き、比較的長い間そこで活躍してくれるものもいる。ビフィズス菌などの「定住菌種」と呼ばれるものがそうだ。乳酸菌などの善玉菌は個々の人によって生まれたときから持つ「固有種」しか定着しないため、それ以外は腸内定着することができず、便となって排出されてしまうが、その代謝物などがゆっくりと通過する間に酸を作り出し、酸性に弱いウェルシュ菌大腸菌などの悪玉菌をおさえ、腸内ビフィズス菌などの善玉菌が活躍しやすいように手助けするという整腸作用をもつているのだそうだ。
乳酸菌といえば、直ぐに、この ヨーグルトのような発酵乳製品だと思われがちだが(勿論、 発酵乳製品は代表的な乳酸菌食品です)、他にも、植物性乳酸菌でできるぬか漬け・納豆・味噌など日本食の乳酸菌も酸に強く腸まで届くプロバイオティクス食品であることを知っておこう。
兎に角、臭いウンチやおなら、便秘や下痢は、腸内細菌のバランスが乱れているサイン。善玉菌は自分の持っている菌しか増えないが、外から補充していれば、その間だけでも悪玉菌は減るので短期的にみれば効果はある。ただ、先にも言ったように乳酸菌などの善玉菌はたくさんの種類があり、人それぞれの「固有種」しか生き残れない、また、せっかく食べても、腸まで行き着く前に胃酸などでほとんどが死滅し、わずかしか、腸までたどり着かないなどもあり、時間をかけて時分に合った乳酸菌を色々試しなが毎日根気よく続けなければいけないようだね。
それと、これらを外部から補充をすることも良いのだが、何よりも先ず、偏った食事のとり方を止めて、肉食を減らし、繊維質の多い穀物野菜などを多く摂るように努力することや、運動不足、それに、ストレスをなくすように努めることが肝要だろうね。

(冒頭の画像は、日本で最初のプレーンヨーグルト「明治ブルガリアヨーグルト」。Wikipediaより)
参考:
※1:NHK あさイチ
http://www.nhk.or.jp/asaichi/
※2:meiji-LG21
http://catalog-p.meiji.co.jp/products/search/index.html?key=LG21&x=23&y=4
※3:社団法人全国はっ酵乳乳酸菌飲料協会
http://www.nyusankin.or.jp/index.html
※4:消化液 | 学習百科事典 | 学研キッズネット
http://kids.gakken.co.jp/jiten/4/40003490.html
※5:免疫細胞 とは - コトバンク
http://kotobank.jp/word/%E5%85%8D%E7%96%AB%E7%B4%B0%E8%83%9E
※6:LB81乳酸菌を使用したヨーグルトの皮膚機能改善効果に関する検証
http://www.meiji.co.jp/corporate/r_d/report/pdf/2_02.pdf#search='LB81乳酸菌'
※7:花粉症緩和作用 - ビフィズス菌研究所
http://bb536.jp/frontline/index-06.html
※8:食品生命機能学研究室紹介 - 日本大学
http://hp.brs.nihon-u.ac.jp/~kinou/info.html
※9:ギリシャヨーグルト - GREEK YOGURT LIFE.
http://greekyogurt.jp/
※10:NHK:爆問学問公式サイト
http://www.nhk.or.jp/bakumon/
※11:腸の不思議な話
http://www.nyu-sankin.net/intestinal/
※12:俳句俳話ノート
http://nobu-haiku.cocolog-nifty.com/haiwanoto/
※13:人類歴史年表:地球と生命の歴史
http://www.eonet.ne.jp/~libell/tikyuu.html
※14:生命誕生
http://contest.thinkquest.jp/tqj1998/10098/noframe/2.html
腸内環境研究会
http://www.popuri.info/seityou/index.html
明治ブルガリアヨーグルト倶楽部|株式会社 明治
http://www.meijibulgariayogurt.com/
腸内細菌のあれこれ
http://www.seiwa-bussan.co.jp/chonaisaikin.htm
healthクリック: 腸内ビフィズス菌応援団!ヨーグルト
http://www.health.ne.jp/library/3000/w3000447.html
ヨーグルトは脳に効く:心と身体の謎/不安や心的苦痛に苛まれる現代人 への朗報
http://adhocrat.net/adhocblog/2011/10/post-968.html
ヨーグルト - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A8%E3%83%BC%E3%82%B0%E3%83%AB%E3%83%88
日本記念日協会
http://www.kinenbi.gr.jp/

平 清盛 忌日

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治承5年閏2月4日(1181年3月20日)は、平安時代末期の武将公卿政治家である、平 清盛(たいら の きよもり)の忌日である(享年64歳)。
清盛の命日とされる4日午後1時から、清盛とゆかりの深い神戸市兵庫区 北逆瀬川町にある能福寺で清盛の追善供養と歴史講演会、琵琶演奏会が行われている。
清盛は、元永元年(1118年)伊勢平氏の棟梁・平忠盛の嫡子として生まれ、平氏棟梁となる。母の出自は不明で、白河院の寵姫祇園女御の妹とも。
若い頃は、中納言藤原家成に仕えて鳥羽上皇の恩顧を得、(保元元年(1156年7月)の保元の乱 の武功で後白河天皇の信頼を得て、平治の乱(平治元年12月9日=1160年1月19日)、で最終的な勝利者となって以降、清盛は、その後、譲位後の白河上皇と、二条天皇親子の対立の間に立ってアナタコナタ(彼方此方。『愚管抄』。※2の愚管抄第五巻参照)しつつも目覚しい進出をとげ、仁安二年(1167年)、武士では初めて従一位太政大臣の極官にまで昇りつめ、翌仁安3年(1168年)、妻時子の妹建春門院(平 滋子)を仲介に、高倉帝に娘徳子を入内させ、言仁親王(安徳帝)の出生により天皇の外戚としての地位を固め、「平氏にあらずんば人にあらず」(『平家物語』 [これは平時忠の言葉であり、清盛自身はこのようなことは言っていない。])と言われる時代を築いた(平氏政権)。
そして、鹿ケ谷の陰謀を摘発した翌々年治承3年(1179年)のクーデター(治承三年の政変)で、陰謀事件に関与した後白河院政を停止し、政権を完全に掌握し全盛の極みに達するが、平氏の独裁は貴族・寺社・武士などから大きな反発を受けていた。
そんな中、翌・治承4年(1180年)2月、清盛は、高倉天皇に譲位させ、娘徳子との間に生まれたわずか3歳の安徳天皇を即位させたことから、これに不満を持ったのが、即位の望みを全く絶たれてしまった後白河法皇の第三皇子の高倉宮以仁王であり、安徳天皇即位の3ヶ月目には、源頼政を誘って平氏政権に反旗を翻し、平氏追討を命ずる令旨を諸国の源氏に発令したことに始まり、東国武士団の挙兵が始まった。
諸国での叛乱が激化する中、治承5年閏4月4日(1181年3月20日)、清盛は、九条河原口の平盛国の邸で死亡。そして、保元・平治の乱などの武功により朝廷の政治世界に武家の地位を急速に確立させてきて、10年も経たない、寿永4年(1185年)、源頼朝が派遣した鎌倉源氏軍との最期の決戦である壇ノ浦の戦いで平氏一門は海に没し滅んでしまった。
祇園精舎の鐘の声 諸行無常の響きあり
 沙羅双樹の花の色 盛者必衰の理をあらはす
 おごれる人も久しからず ただ春の夜の夢のごとし・・・・」
(『平家物語』序文・抄より。参考の※1の平家物語参照)
平家物語』序文に見られる沙羅双樹は、インド原産で、別名サラノキ。釈迦入滅ゆかりの聖木として、日本では、ツバキ科落葉樹の「ナツツバキ」のことをいっているようだが、本当は正しくないようだ。この白い花は朝咲くと夕方には散るというところから「一日花」とも言われているようでだ。『平家物語』序文では、“沙羅双樹の花の色は、まるで盛者必衰の道理を表しているかのようだ。
驕り高ぶっている人も、いつまでもそれが続くものではない。”・・・と、平氏一門の慌しい、盛衰の中に人間の如何ともしがたい運命の厳しさを見出し、沙羅双樹の花を世の無常を象徴する花として登場させている。
戦後学説の多くは、草深く未開な原野の広がる東北に身を起こして武家政権を起立した源頼朝と東国武士に対して、京都の宮廷生活、貴族文化にひたって栄華を極めた清盛と平氏一門の没落を当然とし、所詮は院の傭兵隊長でしかなかった平氏のあり方に、武家政権としての未熟さが現れている。・・・としてきた。
これに対して、最近では、ついには、滅びたといえ、平氏政権がのちの鎌倉幕府に継承されるさまざまな軍事制度や独自な支配原理をそれなりに生み出している事実がむしろ強調されようになっている。
そのようなこともあるからだろうか、今年(2012年)1月8日から放送が開始されたNHKの大河ドラマ「平清盛」(※3)“第一話ふたりの父”では、鎌倉で父・義朝の菩提寺の立柱儀式に臨んでいた源頼朝の元に政子壇ノ浦での平家一門の滅亡を知らせるところから始まっている。そして、狂喜する御家人や政子を「清盛がいなかったら今の武士の世はなかった」と頼朝が窘(たしな)めている。
この平家滅亡の回想から始まった今年の大河ドラマの原作はなく、脚本は藤本有紀のオリジナル作品だという。作品紹介で、”「平家物語」ではアンチヒーローとして描かれていた男に新たな光をあて、歴史絵巻から解放された、躍動感とエネルギーにあふれる男として描く。“・・・と、その意気込みが感じられるが・・・。
しかし、放送早々、井戸敏三兵庫県知事から、大河ドラマ「平清盛」について、「画面(映像)が汚い。鮮やかさがなく、チャンネルを回す気にならない」と酷評。主演の松山ケンイチ演じる清盛像について、NHKは番組ホームページで、「武士の子と思えない汚い格好で、庶民に混じり、やんちゃを繰り返す」と紹介しているが、ゆかりの地の知事として、演出が気に入らなかったようだ。NHK広報部は、「リアルな時代表現を目指しており、武士は汚く、貴族は可憐に描いている。清盛も今後は美しくなっていくので、長い目で見てもらいたい」と話している(1月11日朝日新聞朝刊)・・・と、NHKは、この苦言に対し現行路線で行くと強気のようだが、清盛は現在の神戸市福原京を置くなど兵庫県はドラマの主要な舞台の1つ。不満には、番組とタイアップしながら観光客誘致を進めたいと考えていたのに、同回の放送が大河ドラマの初回放送としては過去3番目の低さ(17.3%)だったことに対する苛立ちもあったようだ。これに対して、最近の噂では先行き不安な幕開けに局内は動揺しているようで、大幅な脚本の手直しがあり今後、これまでの大河ドラマにはなかったような過激で激しいシーンも予定されているというのだが(※4)・・・。一体、これからどのような演出がされてゆくのだろう・・・か。
このような歴史上の人物について、小説を書いたり、ドラマ化するとき、それぞれの立場や方法があってよいのだが、ある人物の史実を史料によって構築することと、その人物について伝えられる物語や説話が生まれた過程を追うこととの間に軽量はなく、史実がすべてと言うわけでもないだろう。
この大河ドラマの主人公平清盛と言えば、『平家物語』や戦前の『国定教科書』などによって、権勢を誇る悪役としてイメージが広く知られている。
鹿ヶ谷の変後、清盛が後白河法皇を法住寺殿に幽閉しようとした際の嫡男重盛の「忠ならんとすれば孝ならず孝ならんとすれば忠ならず」の名セリフ前で、「衣の下の鎧」をかくす悪逆歩非道の清盛像があった(※5)。
しかし、戦後、この清盛の衣の下に国際感覚に富んだ新しい人物像が発見されている。
音戸の瀬戸を修築し、船の航行を可能にしたのは、若き日の安芸守清盛であり、遣唐使を廃止して閉鎖的な国粋主義が横行していた時代に、西に大宰府をおさえ、日本で最初の人工港を博多に築き貿易を本格化させ、東には神戸の港(摂津国福原京の外港大輪田泊)を修復・拡張したのも清盛である。音戸はそれを結ぶ海路であった。そして、雄大な彼の構想にあったのは中国貿易(日宋貿易)であった。(※6の第21回 平氏でなければ人ではない? 海に目を向けた平清盛参照)。
私の大好きな作家の1人である吉川英治の小説に『新・平家物語』がある。
この小説が書かれた当時は、戦時中の国粋主義に破れ、世界に目を開いた。こうした世相を反映して、 『新・平家物語』の清盛は、貧困と荒廃を乗り越え、因習にとらわれないで、新しい魅力的青年として再登場した。
この小説は、1950(昭和25)年から1957(昭和32)年まで『週刊朝日』に連載されたものだが、元朝日新聞に在籍していた評論家、編集者、ジャーナリストである故・扇谷正造は、『日本史探訪』6源平の争乱(角川書店文庫本)の中で、昭和22年、初めて吉川と連載小説の打ち合わせをした時『平家物語』が浮かびあがり、『新・平家物語』は、壇ノ浦から始まる予定だったという。
つまり、戦後の追放(公職追放のことを言っているのだろう)などひっくるめた日本の世相というのが、壇ノ浦で平家が散り散りになって「木の葉が沈み、石の浮かぶ時代」、価値転換の時代と重なって、吉川の念頭にあった、“人間の運命は、はかりがたい“・・・に合っていたからだという。
ところが、当時、吉川が自宅で構想を練っているときに、村の青年たちが次々復員してきて、彼らが、これから自分達はどうなるんだろうと毎晩のように心配してやって来る。それを聞いているうちに、吉川は、日本はこのままで良いのだろうかという様なことを考え出し、急に構想を変えて、青年清盛から始めることになったという。それによって、若い人に生きる希望と方向を与えられるのではないかと考えたのだろう。だから、青年清盛が、京の雑踏の中を歩く描写などは、当時の闇市を思わせたりするのだという。
清盛の青年時代については、歴史家の間でいろいろ説があるだろうが、吉川は、戦後の窮乏時代の青年を思い浮かべていたので、清盛をグンと落として、地下人、つまり、貧しい平家一門の青年として書いたのだという。
ただ、「歴史的には、平家一門は、急速に成り上がったとはいうものの、清盛の代になると吉川が小説家の自由な想像として書いたよりはかなり金持ちで、しかも、白河上皇の御落胤と言うようなこともある。清盛は、吉川が書いたより、かなり華やかな教養ある生活をしている」と対談相手の劇作家、評論家、演劇学者山崎正和は言っている(『平家物語』では清盛は祇園女御となっているが、今では古文書などから、歴史家の間では、祇園女御のもとに通ううちに、その妹にも魅かれ、妹との間に出来たという説をとる人が少なくないという)。
『新・平家物語』第1巻わんわん市場には、「じつは若い清盛の身なりの方がおよそ一目を引くものだった。よれよれな布直垂(ぬのひたたれ)に、垢じみた肌着ひとえ。羅生門に巣くう浮浪児でも、これほど汚くはあるまい。もし腰なる太刀を除いたら、一体何にまちがわれるかだーー。」・・と、この時 二十歳になった青年清盛の風体を羅生門に巣くう浮浪児より汚いと書いているが、吉川も歴史的なことは承知の上で書いたことだろう。
この風体は、今回始まった大河ドラマ「平清盛」とそっくりだ。先にも書いた兵庫県知事の清盛が汚いという苦言に対して、NHK広報部は、リアルな時代表現を目指しているというが・・・本当にこれがリアルな表現と言いたいのだろうか・・・?
ところで、一般的に治承・寿永の乱のことを「源平合戦」とも言い天下を二分した源氏と平家の戦いとのイメージがあるか知れないが、これは源氏と平氏の戦いという訳ではなく、平清盛一族と源為義の孫達との戦いであった。
例えば、あの保元元年(1156年)の皇位継承問題や摂関家の内紛により朝廷が後白河天皇方と崇徳上皇方に分裂し双方の武力衝突に至った政変・「保元の乱」でも、摂関家(藤原家)では、藤原頼長が上皇方に、頼長の兄藤原忠通が天皇方に、これに、天皇方には、藤原通憲(信西)という藤原頼長と並んで評判の学者が参謀としてついている。
武家では、源氏の源 為義が、頼賢為朝ら一族を率いて上皇方につくが、為朝の長男の義朝が東国武士団を率いて天皇方に参陣。
平家では平清盛とは早くから不和であった清盛の叔父平忠正が上皇方についたのに対して、清盛一家が天皇方について争った。つまり、藤原も、源氏、平氏も同じ氏同士が、そして、親子、兄弟が骨肉の争いをしているのである。
この戦いは後白河天皇方が勝つが、戦後、崇徳上皇は讃岐に配流された。武士に対する処罰は厳しく、薬子の変を最後に公的には行われていなかった死刑が復活し、28日に忠正が、30日に為義らが一族もろとも斬首された。
そして、絶対的な権勢を誇っていた藤原氏が保元の乱の鎮圧に平清盛と源義朝を用いたことで時代の担い手が藤原氏から源平両氏に移った。
しかし、乱後の、藤原通憲(信西)が論功行賞を取り仕切ったが、源義朝が左馬頭への任官に留まったのに対し、清盛が播磨守・大宰大弐(だざいのだいに。この当時では、大宰府において実質の長官の役割を担うもの)と差が付いたのが、義朝としては面白くない・・・ということで、同じように出世に不満を持っている藤原信頼と手を組んで、源義朝と平清盛・・・源平両家が競い合い、その争いが平治の乱となり源氏敗退となった。藤原信頼は斬首され、源義朝は東国へ逃れようとするが、尾張国で長田忠致に誘い出されて殺されてしまう。こうして、天皇方は反対派の排除に成功したが、宮廷の対立が武力によって解決され、数百年ぶりに死刑が執行されたことは人々に衝撃を与え、実力で敵を倒す中世という時代の到来を示すものとなった。
慈円は『愚管抄』においてこの乱が「武者の世」の始まりであり、歴史の転換点だったと論じている。そして、平氏の・・・といっても、平氏にも色々諸流があり、伊勢平氏・平清盛一族の天下がやってきたのであった。
清盛は特に後白河上皇に重用され援助を受け官位を昇進させたが、その後の清盛の行動は慎重で「アナタコナタ (彼方、此方)しける」(『愚管抄』(※2の愚管抄 第五巻又、※7の清盛出世物語>3.平大相国清盛。※8参照)といわれるように、諸方に細心の気配りをし異常な速さでの昇進であったにも関わらず、この当時は比較的、敵対する人も少なかったようだ。晩年の行動を思うに、清盛は大変横暴な人物とされているが、もともと如才の少ない人柄で、その点は父祖の伝統・血筋を継いでいたといえるのかも知れない。
ただ、ひとつ、清盛に甘い面があった。それは、平治の乱の後、義母の池禅尼に「亡くなった息子に似ている。殺さないで欲しい」と懇願されたとはいえ、折角捕まえた源義朝の嫡男、源頼朝を助命し、伊豆への流刑に。さらに、後に源義経と名乗る牛若丸などの義朝の子供達も、その母親である常磐の美しさに惚れ助命し、鞍馬寺に入れてしまったことである。これが、平家一門の滅亡に繋がってゆくのだが・・・。
保元・平治の乱後では、京都での戦に敗れ、敗走する源氏の武将たちは、しばしば坂東に逃れようとするが、坂東という地は源氏ゆかりの地、源氏が基盤をなした地であるいうだけではない。足柄・碓氷の坂より東に位置している坂東(東国参照)という地は、中央の勢力が及ばない言わば半独立国家のような地だった。
平安京遷都が行われて以来、その後数百年にわたって公家・貴族たち特殊階級の人たちによって絢爛豪華な王朝絵巻物語が繰り広げられていた時代は、平安時代と呼ばれているが、この時代を動かしていたのは一部の公家・貴族たち、中でも藤原氏一族が、時の朝廷をも動かす大きな勢力を有していた。
家柄・氏・素性がものをいっていたこの時代、政治の中心の特権階級以外の者達はいかに活躍しようとなかなか出世することもなく、せいぜい都の護衛(検非違使)くらいの仕事しかなく、特権を有しない人々は家族、一族らとともに生きる場所を求めて新天地を求めて都から地方へ生活の場を求めるようになり、特に、 大化改新前後を通じて一種の異域とみられていた坂東に終結しはじめた。
そんな中、地方の武士団を統率し、その棟梁として勢力を拡大していった勢力がある。その二大勢力が、源氏と平氏である。
源氏も平氏も没落貴族の子孫である皇族が臣籍降下する際に名乗った氏の一つであるが、桓武天皇の皇子たちの子孫で平姓を給わって臣下にくだった家を桓武平氏と言うが、このように皇室の出自でありながら、臣籍降下した、平氏には、桓武平氏のほか仁明平氏、文徳平氏、光孝平氏などがあり、武家平氏として活躍が知られるのはそのうち高望王坂東平氏の流れのみで、常陸平氏伊勢平氏などがこれに相当する。
源氏では、もっとも有名なものは、幕府を開き将軍の家柄となった清和源氏であるが、家格が最も高いのは村上源氏であるとされるが、流派はこのほか多数ある。また、平安以降臣籍降下が頻発すると源、平の二姓ばかりになる。
この坂東という地は中央からの監視の目を逃れて、自由に振舞える絶好の地の利を有していたが、その分秩序が乱れやすいということでもあった。平将門高望王の三男平良将の子)の乱はまさにこの盲点を巧みに利用しようとした事件であり、ほかに藤原純友の乱など(承平・天慶の乱)、地方で不穏な動きが広がっていった。
平将門の乱は、平貞盛平国香の長子)ら追討軍の攻撃を受けて関東に独立勢力圏を打ち立てようとする目的は果たせず2ヶ月で滅ぼされた。
平家の棟梁平清盛の一族は、この将門と激しい戦いを繰り広げた、平貞盛の子のうち、平維衡(4男)を始祖とするグループで、伊勢(三重県)に移り住んだ伊勢平氏中の一流であり、それも清盛の祖父・平正盛からである。そのほかの平氏の多くは関東に土着している。
又、平将門の乱以来平穏だった関東地方では長元元年(1028年)に房総三カ国(上総国、下総国、安房国)で大規模な「平忠常の乱」が発生するが、この乱の追討使を命じられるほどの剛の者であった平直方の父は、平貞盛の直系の孫(長男維将の子)平維時である。
鎌倉に本拠を置き、摂関家の家人として在京軍事貴族でもある直方は、源頼義の舅でもあり、直方の娘と、頼義の間からは源義家、源義綱、源義光の兄弟が生まれている。八幡太郎の通称でも知られる義家は後に武家政権鎌倉幕府を開いた源頼朝の祖先に当たる(※9の武士の発生と成立>兵の家各流>平氏の流れの中の平氏の系図参照)。
直方は、本拠地の鎌倉を娘婿である源頼義に与えたことから、源氏隆盛の礎を築いた功労者と言えるが、子孫はそれほど源氏から優遇されていない。
平治の乱で父・源義朝が敗れると伊豆国へ流されれた源 頼朝は河内源氏(清和源氏為義流)であり、平清盛は伊勢平氏中の一流であるが、両者の家系を辿れば、同じ坂東平氏平貞盛へと繋がっていく。その両家の戦いが源平の戦いであり、清盛から義朝の時代へと武家政権が継承されていったのである。
実力で政権を奪う“中世”の時代を切り開き、朝廷の政治世界に武家の地位を確立させた平清盛の功績は大きい。・・・が、では源平合戦(治承・寿永の合戦)でなぜ平家が源氏に敗れたのだろうか?
歴史家は、その要因の一つに、源平武士団結成の仕組みの違いをあげている。源氏は「御家人の利益獲得を厳しく管理する」兵団であったのに対して、平氏は固い主従関係に基づく兵団ではなく、むしろ当時の武士は貴族社会を守るための「駆武者(かりむしゃ=諸方から駆り集めた武者)。傭兵」に依存していた。そのため、負け戦となれば、金の切れ目が縁の切れ目になり、兵団は霧消してしまったという。このような西国武者(平氏)と東国武者(源氏)の武士の違いを、『平家物語』では、治承4年(1180年)に駿河国富士川で源頼朝、武田信義平維盛が戦った際に、従軍していた東国出身の斎藤実盛は、維盛との会話の中で、「親が討たれ子が討たれても、その屍を乗り越えて戦うのが合戦というものだ。ところが西国では、親が死ねば供養をし、忌が明けてから攻め寄せる。子が討たれると歎き悲しんで攻め込んでこない。兵糧米がなくなれば、春には田を作り、秋には刈り取ってから攻め寄せてくる。夏は熱い、冬寒いといって戦を嫌う。東国ではこのようなことはない。」と、西国の武士は伝統的な秩序がありそれを重んじているが、東国にはこのような秩序:習慣はなく、戦いになると、敵を倒すために遮二無二(しゃにむに。なりふり構わず)に戦っている、。だから強いのだ・・・と語らせている。(参考の※1、※11の平家物語巻第5富士川の段を参照)。ただ、斎藤実盛がこの合戦に従軍していた史実はなく、この話は東国武士の優越さを誇張するための虚構と考えられる。
最後に、このブログで、先に武家としての清盛について触れた学説上の対立については、実は、平氏一門の中に実在した矛盾の表現ではないかという。鎌倉幕府を樹立した頼朝が京都の天空に駆け上がろうとする志向と、東国の大地に深く根を下ろすことを求める動きとの葛藤の中で苦悩したのと同様に、清盛も「二つの魂」の相克―京都の宮廷に強く心引かれ、その中で地歩を確立することを求める人々と、独自な足場に立って自立した政権、国家の起立に突き進もうとする人々との対立が平氏一門の中にもあったのではないかというのだが・・・。 これからの大河ドラマ「平清盛」が史実に基づいて、どのような展開をしていくのか見ていくことにしよう。 
文字数の制約上中途半端なブログになったが、参考の※10:「一 輪 奏 :平家物語」や※11:「風の音 総目次」を見ておくとドラマが楽しくなるかも・・・。
(冒頭の画像:平治の乱の終幕に間近い六波羅合戦の一場面。源氏軍の闘将悪源太義平は、平氏の本邸六波羅を猛攻する。これをよくしのぎぬいた清盛は、今度は逆に手勢を率いて六波羅の大門から出撃。激しい戦いが開始される。この絵は、清盛が黒馬に乗り、大声でおめいて出ようとする、その「清盛出撃」の情景である。『平氏物語絵巻』個人像。部分。この画は週間朝日百科「日本の歴史?。中世ー?ー?源氏と平氏掲載のものを借用)
参考:
※1:Cube-Aki 【保元物語、平治物語、平家物語、吾妻鏡の原帖そして現代語訳等】
http://cubeaki.dip.jp/
※2:義経デジタル文庫
http://www.st.rim.or.jp/~success/bunko_yositune.html
※3:2012年大河ドラマ「平清盛」の公式サイト
http://www9.nhk.or.jp/kiyomori/
※4:痛いニュース(ノ∀`) : NHK大河「平清盛」低視聴率挽回へ、濡れ場シーン投入・・・
http://blog.livedoor.jp/dqnplus/archives/1692932.html
※5:忠を選ぶか孝を選ぶか、平重盛が下した決断 - 西野神社 社務日誌
http://d.hatena.ne.jp/nisinojinnjya/20081122
※6:日本史-歴史研究
http://www.uraken.net/rekishi/rekijap.html
※7:平家礼賛
http://www6.plala.or.jp/HEIKE-RAISAN/index.html
※8:二条天皇と後白河上皇の応保元年
http://www2.ngu.ac.jp/uri/gengo/pdf/genbun_vol2202_08.pdf#search='愚管抄 清盛 アナタコナタ'
※9:北道倶楽部
http://www.ktmchi.com/index.html
※10:一 輪 奏 :平家物語
http://ichirinso.web.fc2.com/heike_ind.html
※11:風の音 
http://kazeoto.com/kaze-oto.sakuin.html
日本史・世界史の事象と人物
http://www5f.biglobe.ne.jp/~mind/vision/history001/world_history.html
神戸市文書館源平特集目次:
http://www.city.kobe.lg.jp/information/institution/institution/document/genpei/genpei.html
大河ドラマ「平清盛」あらすじ&歴史背景
http://unmeican.seesaa.net/
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