敗戦後の1945(昭和20)年10月7日、釜山から、2100人(復員兵)を乗せた雲仙丸が入港した。
第二次世界大戦に、敗戦後、国外から引き揚げてきた者を一般的に「引揚者」と言うが、この呼称は非戦闘員に対してのみ用いられ、日本軍の軍人・軍属として外地・外国に出征し、その後帰還した者に対しては「復員兵」もしくは「復員者」などと呼ばれた。その意味では、この日、雲仙丸で帰還したのは、軍人、つまり、「復員兵」であった。ここでは、特別断っていない限り、両者を含めた一般的にいうところの引揚者について書く。
この日、以来舞鶴へは1船2千人から3千人の単位で帰還が続いた。
第二次世界大戦終了後、国外から日本へ引き揚げてきた人たちは、諸説あるが、一般・軍人・軍属(軍人以外の軍所属者)合わせて約660万人といわれ、そのうち約半数が一般人である。舞鶴には66万人余と1万6千余柱の遺骨が上陸したという。
当初、舞鶴ほか9港、全国で10箇所(舞鶴、浦賀、呉、下関、博多、佐世保、鹿児島、横浜、仙崎、門司)あった引き揚げ港(引き揚げのために指定された上陸地)も、1950(昭和25)年から引き上げ港は舞鶴だけになった。特にソ連抑留者の引き揚げが多く、いつ帰るかわからない息子、夫の姿をもとめて全国から舞鶴へと人の波が続いた。戦後の海外在住者の引き揚げ業務は、日本の終戦処理の中でも最も重要な案件のひとつであった。
冒頭の画像は、当時の舞鶴での引き揚げの様子。左:上陸前の引揚者(復員兵)たち。右:父の顔も知らぬ幼児とともに。名札を手に肉親を求め、出迎える家族。(写真1948年7月5日のもの。アサヒクロニクル「週間20 世紀」1948年号より)
現在の舞鶴市は、京都府北部(旧丹後国)の日本海に面した市である。もともと市街は、大きく二つに分かれており、1901(明治34)年に、軍事的要地として舞鶴鎮守府が設置されて以来、軍事施設が設置され、日本海側唯一の軍事都市として発展を遂げていた東舞鶴と、田辺藩の城下町・商港から発展した西舞鶴の2つの市から構成されていた。
1943(昭和18)年になり、いよいよ戦局(太平洋戦争)が激化すると、海軍の要請により「時局ノ要請二応ジ大軍港都市建設ノ為」として、海軍記念日にあたる同年5月27日にそれまでの東西舞鶴両市を合併し現在の新しい舞鶴市として誕生した。
だが、この「時局ノ要請二応ジ大軍港都市建設ノ為」として東西舞鶴両市が合併した1943(昭和18)年の戦局を振りかえってみると、実際には、太平洋戦争開戦半年ほどで始まった米軍の反攻が勢いを増し、同年5月には最前線であるガダルカナル島は飢餓の島と化し撤退(ガダルカナル島の戦い参照)。北太平洋では、アッツ島守備隊2500人が玉砕して果てた(アッツ島の戦い参照)。
しかし、政府は、ガダルカナル島撤退のときは「転進」と言う言葉でごまかし、アッツ島の玉砕も「戦史に残る絶妙の転進」と言う言葉でごまかし、大本営は「敵に多大なる被害を与えたるも我が方損害軽微」であると、圧倒的に敗北した時はこれを隠蔽して発表しなかった。物量対物量の消耗戦のなか、戦果を誇る大本営発表の虚勢はまさに、敗戦への序章であった。
余談だが、これを書きながら、2011(平成23)年3月11日の東北地方太平洋沖地震に起因する福島第一原子力発電所事故による、外部への多量の放射性物質漏れと、これに対する政府の対応などを思い出す。この放射性物質漏れ事故は、国際原子力事象評価尺度のレベル7(深刻な事故)に相当するもので、1986(昭和61)年4月26日にソビエト連邦で起きたチェルノブイリ原子力発電所事故以来2例目になるものだが、それを、当初、政府および東電は過少に公表し、正しい対応を素早くやってこなかったため、被災地の人達に多大なる迷惑をかけると共に、その対応遅れが、震災被害全体の復興計画そのものを遅らせてしまっている。
このような重大なことになると、政府やある意味で国策会社とも言えなくも無い東電。これらのみならず、まともな取材もせずに、これらの機関からリーク(leak)されたものを鵜呑みにし、その信憑性を確認もせずに国民に伝える現在のマスコミなど、国民に正しい情報を伝えないやり方は、今も昔と殆ど変わっていないことに驚かされている。
元に戻るが、真珠湾攻撃(太平洋戦争勃発)で始めた対米英蘭戦争も4年目に入った1945(昭和20)年、満州事変から数えれば15年にわたる戦争も、前年、生命線として想定した「絶対国防圏」を突破され、制海権、制空権共に失った日本は、フィリピン、硫黄島、沖縄と、アメリカ軍の蛙飛び作戦(アイランドホッピング)にことごとく敗退。日増しに激しさを加える本土空襲で国内は破壊され、実際に戦場となった本土防衛の盾・沖縄での戦い(沖縄戦参照)は酸鼻(さんび)を極めた。
中でも8月6日 広島への原爆投下、 8月9日 長崎への原爆投下 では一瞬の閃光で広島では8万人、長崎でも数万人の即死者を出した。当然、軍事都市舞鶴の海軍工廠、舞鶴港なども大規模な空襲に見舞われ多数の死傷者を出している。
それでも、大本営は本土決戦を「決号作戦」と呼び、この作戦では女子にも竹やり(槍)や、なた(鉈)、かま(鎌)をもって兵士と共に戦うことを求め訓練を義務化した。
上掲の画像は、女子の竹やり訓練の光景である(アサヒクロニクル「週間20世紀」1945年号より)。
まさに、敗戦が決定的になっているにも関わらず、女・子供までを巻き込んで1億総玉砕体制にあった日本も広島、長崎への原爆投下やそれに、日本が実質的に敗戦しているのを狙っていたかのように、ソ連が、日ソ中立条約を完全に破棄して、8月8日、突然日本に対して宣戦布告し、参戦してきたこともあり、8月14日、やっと、天皇の採決でポツダム宣言受諾を決定した(ポツダム宣言原文またその解釈など※2、※3参照)。
翌・8月15日正午、天皇の「終戦の詔書」録音放送(玉音放送と呼ばれる)、日本無条件降伏(※:日本国が無条件降伏したか否かについては様々な見解があるようだ。※1参照)により、太平洋戦争、第2次世界大戦が終結したことになっている。
兎に角、1億総玉砕は避けられたが、この戦争での日本人軍民戦没者は厚生省算定によれば、1937(昭和12)年7月7日の盧溝橋事件(日中全面戦争)以後、310万人だとしている。
この後、同年8月18日満州国皇帝が退位し、満州国が滅亡。日本人の満州開拓移民約27万人のうち、引き揚げまでに約7万8500人が死亡したという。
同年8月22日、北海道沿岸で樺太からの引き揚げ船3隻が潜水艦に攻撃され沈没。約1700人の死者がでた。日本の降伏文書への調印予告、および軍隊への停戦命令布告後に、三船を攻撃した潜水艦について、公式には今もって「国籍不明」と言うことになっているが、恐らく、8月9日に対日参戦したソ連軍が、これを無視し、当時大日本帝国領だった樺太に侵攻していることから、ソ連船の仕業だろうと推測されている(三船殉難事参照)。
戦争に敗れた日本は、史上初の占領下に置かれた。1945(昭和20)年8月30日、連合国軍最高司令官マッカーサーが、厚木基地に到着。日本占領の第一歩を印した。
マッカーサーは、同年9月2日、東京湾に停泊のアメリカ戦艦ミズーリー号艦上で、日本側との降伏文書の正式調印をした。
因みに、「終戦の日はいつ?」と聞かれると、天皇が、8月14日にポツダム宣言受諾を決定し、「終戦の詔書」録音放送をした翌・8月15日とされているのだが、正式には9月2日の降伏文書調印までは戦闘状態であり、厳密に言うと、この日が正式な終戦の日だとする人もいる。太平洋戦争からその終結までの出来事等は太平洋戦争の年表を参照されるとよく分かる。特に8月15日から9月2日までにどのようなことがあったかを時系列で見ておかれるとよい。8月15日以降も戦いが続けられた要因には「終戦の詔書」が、伝わらなかった地域もあっただろうし、8月9日突然のソ連軍侵攻に対する防衛上の問題などもあったろう。以下参考の※4:素朴な疑問集◆第2・日本の終戦の日はいつ?参照されるとよい。
9月2日ミズーリー号艦上での降伏文書の正式調印の日に、マッカーサーは、一般命令第1号(※5参照)で、外地に居住する日本の軍人軍属、一般日本人を連合国軍の管理下に入れた。
前にも書いたが、1945(昭和20)年、敗戦時点で海外に残っていた日本人の数は約660万人で、内訳は、中国軍管区(満州を除く中国、台湾、北緯16度以北の仏印【フランス領インドシナ】)が200万人、ソ連軍管区(満州、北緯38度以北の朝鮮、樺太、千島)が272万人と両軍管区で7割強を占めた。
終戦と同時に、連合国は、海外の日本人全員の即時帰国命令を出したが、これは、8月15日に日本が受諾したポツダム宣言の「九、日本国軍隊ハ完全ニ武装ヲ解除セラレタル後各自ノ家庭ニ復帰シ平和的且生産的ノ生活ヲ営ムノ機会ヲ得シメラルヘシ」(※2、※3参照)に基づいて行われたものであって、現地に軍人が残留していると、その地におよぼす影響力を恐れたため、早期に軍人の武装の解除と帰国をさせることが目的であって、民間人の引揚については何も記載はない。そのため、外地からの引き揚げは占領統治する連合国の主導で始まり、軍人や官僚らが、帰国したあと、現地に放置されたままの民間人には、国家の保護もなく、自力で、帰ってこなければならなかった。
中国軍管区では、国共内戦に巻き込まれ、ソ連軍管区でのシベリアへの抑留と強制労働など、多くの苦難が待ち受けていた。また、日本送還に関しては、引き揚げの優先順位をめぐり、各地で多様な問題が起こった。南朝鮮(ここ参照)では、軍隊、警察官、神官、芸者、女郎という優先順位での送還をアメリカ軍が指示していた。これを見ても、日本の朝鮮支配において、朝鮮民族の恨みの対象が誰に向けられていたかが窺える。
旧満州では、関東軍、満鉄、日本大使館、関東局、満州国政府、国策会社の関係者という優先順位の下で引き揚げが実行された。
そのため満州奥地に入植した開拓団の一般日本人は、敗戦によって情報が途絶したため、流言飛語の下に曠野(こうや)を流亡する民となってしまった。その身に大日本帝国への怨念を背負わされての逃避行は、現地人の襲撃に身を晒すだけでなく、ソ連軍の暴行に日夜さいなまれての行程だった。
ちなみに、三江省方正収容所には、終戦から、翌年5月までの9ヶ月間に8640人が収容されたが、その後、その4分の1強が自決・病死、「満妻(ママ)」すなわち中国人の妻となった者も4分の1強となっている。ハルピンにたどり着けたのは、1200人に過ぎないという。その他は、自ら脱出した者1200人、現地に残った者1120人、ソ連兵に拉致された者460人と記録されているようだ(※6や、※7:読谷村史 「戦時記録」の上巻>第二章>第五節海外の戦争体験>4 「満州」での戦争体験や5 シベリア抑留体験参照)。
各開拓団の青壮年が敗戦3ヶ月前の1945(昭和20)年5月に、関東軍による「根こそぎ動員」で現地召集されたため、老人と女子供の群として、流亡しなければならなくなったことが事態をいっそう悲惨にした。
ただ、アメリカ軍管区とオーストラリア軍管区からの復員・引き揚げは米国から船舶の貸与などの協力を受けるなどして、翌・1946(昭和21)年夏までにほぼ終了した。厚生省『引揚と援護30年の歩み』によると1976年末までの引き揚げ者総数は6,290,702人だったという。(復員輸送艦参照)。
ポツダム宣言受諾の際に日本政府がこだわったのは国体護持だけ、海外在住日本人(民間人)の生命・財産をどう守るかなどということは考えられておらず、「現地定住」の方針を堅持していた。なすすべのない彼らは、上記のような略奪や暴行、飢えなどに悩まされ、命さえ失う人々が続出したが、そんな満州の民間人の引揚が始まるのは、そのような惨状から逃れた人たちが支援活動をするために結成した日本人会の使者が、1946(昭和21)年3月、吉田茂外相に満州での惨状を訴え、民間人の引き揚げ実現を求めるも、占領下の日本政府は無力と応じてもらえず、マッカーサーに面会、人道的立場から引き揚げ実施を約束されたことによるようだ。
ただ、マッカーサーが、単に人道的理由によってのみ行なったわけではなく、満洲からの引き揚げは、当時の冷戦構造を自国に有利に図ろうとする大国(アメリカ・ソ連・中国)の思惑の結果から、実現したものである。そのことは、NHK「その時歴史が動いた」“戦後引き揚げ 660万人故郷への道”(2007年12月 5日放送)でも取り上げられたが、その詳細をここでは書かないが、以下参考の※8:「その時歴史が動いた:戦後引き揚げ」、※9:「戦後満州引き揚げ 故郷への道」には,詳しく書かれているので、そこを見られるとよい。当時の満州からの民間人引揚者のひどい状況と、無責任な日本政府の対応に驚かされるだろう。
海外からの日本人引揚者を港に受け入れるための施設として日本政府が設置したものが地方引揚援護局であるが、1945(昭和20)年9月、舞鶴ほか計10の引き揚げ港に設置されていた。その後増加し、同年11月には引揚げ港は18カ所となった(引揚援護庁参照)。
満州、朝鮮からの引揚者の多くは、博多か佐世保に上陸した。満州、朝鮮からの引揚者の多い博多などの引き揚げ港に設置された引揚援護局内には、民間ボランティア団体が、婦人救護相談所を開設し、引き揚げ女性の相談業務を行なっていた。その業務は、性病の日本への伝播の防止と暴行被害女性の妊娠中絶を目的のひとつとしており、10歳以下の幼女を除く70歳までの全てが対象となっていたという。
NHK「その時歴史が動いた」の話では、博多へ近づき日本が見えると、女性が海に飛び込んで死ぬ人が連続したという。それらの人々は望まない異国の子供を妊娠していて、日本での偏見を恐れての自殺だったそうだ。そんな帰国女性で妊娠している人を救助するためと言うことなのだが・・・。
番組中で紹介していた施設は厚生省博多引揚援護局内の「二日市保養所」である。当時まだ違法だった堕胎手術(堕胎罪)を保養所という名の施設をつくり行なっていたわけだ。女性たちは、設備の十分でない手術室で、麻酔もなく、相当強引な手術に、痛み苦しを必死に耐えていたというのだから哀れな話である。(※10また、※8、※9も参照)。
これら、死ぬ思いで、故国に辿り着いた女性の何時までも癒されぬ傷となって残っていたことだろうが、ことがことだけに、世間には知られないようこっそりと行なわれていたわけだ。
ソ連はシベリア抑留者を復興の強制労働に利用し、彼らの帰国は昭和34(1959)年までかかった。
また引揚者のなかには、途中で親と死別し、無縁故者となった子供が多く見られた。これらの引揚者を迎える世間の目は冷たく、引揚者は故国日本に安住の地を見出せないまま、再起の場をその後ブラジルなど外国に求めた人も少なくなかった(※11)。
敗戦後の復員軍人や多数の海外引揚者、戦災による生産活動の停止とそれに伴う離職者、生産消費財の極度の枯渇などで、食糧増産と失業者の救済対策を緊急にやらねばならなくなっていた。
そこで政府はこの対策として「緊急開拓事業実施要領」(1945年年11月。※12)を決定した。政府の緊急開拓事業は引揚者にとり、新たな生活を切り開く世界と思われた。北海道をはじめとする荒蕪地(こうぶち。土地が荒れて、雑草の茂るがままになっている土地)への入植は、満蒙開拓(ここ参照)や南洋進出(ここ参照)を夢想した引揚者にとり、新しい大地との出会いであり、戦後開拓の幕開けとなったのだが、例えば、北海道でも農業未経験者が、敗戦の荒廃で農機具、肥料等の農業資材が皆無に近い欠乏下での営農など不可能に近く、5ヵ年間のうちに脱落者は46%にも達したと言われているなど、実際には過酷なものであった(※13)。
また、戦後60年を超えた現在に至っても、中国大陸で親子生き別れ・死に別れとなった中国残留日本人孤児などの問題を残している。
敗戦後、海外在住邦人の引揚者約625万人が帰還を終えた1950(昭和25)年、朝鮮戦争の勃発もあり引き揚げは中断していた。
外交関係のない中国との交渉は国連の捕虜特別委員会を通じて行われたがはかばかしい進展は見られなかったが、1952年暮れ、中国の北京放送が「人民団体と交渉の用意がある」と報じ、日本赤十字社、日中友好協会、日本平和連絡委員会が訪中、1953(昭和28)年3月、引き揚げ再開の北京協定を結ぶ(※15)。そして、その帰還先は舞鶴とし、高砂丸を上海、興安丸を秦皇島(チンホワンタオ)、白山丸、白龍丸を塘沽(タンクウ)へ送った。
そして、3月23日朝、帰還者2008人を乗せた興安丸が雨の舞鶴に入港してきた。白くかすんだ湾には歓迎船の群が待ちわび、岸壁には出迎えの家族や団体、報道陣で埋め尽くされた。高砂丸も23日午後に1959人を、白山丸と白龍丸も26日に500人、469人を乗せて入港した。
この年、民間団体による中国引き揚げは7次にわたり、興安丸帰還時に船内で誕生した男児1名を含み2万6051人が帰還した。
また、1950(昭和25)年から中断していたソ連からの引き揚げも3年7ヶ月ぶりに再開され、ナホトカに派遣された興安丸は12月1日811人を乗せて舞鶴港に入港した。
戦後の主な引き揚げ港としては、博多と佐世保が多かった(※16参照)が、舞鶴は1950(昭和25)年以降唯一の引き揚げ港となったことから歌謡曲や映画「岸壁の母」の舞台ともなったことから、日本の引き揚げ工として広く世間に知られるところとなった。
母は来ました 今日も来た
この岸壁に 今日も来た
とどかぬ願いと 知りながら
もしやもしやに もしやもしやに
ひかされて
「岸壁の母」 作詞:藤田まさと、作曲:平川浪竜、台詞:室町京之介、
「岸壁の母」の歌の岸壁とは、舞鶴港の岸壁のこと。引揚船で帰ってくる息子の帰りを待つ母親をマスコミ等が取り上げた呼称であり、そのひとりである端野いせに取材してつくられた。
終戦後、いせさんは、軍人を志し、大学を中退して、1944(昭和19)年に、満洲国に渡り関東軍石頭予備士官学校に入学していたが、同年ソ連軍の攻撃を受けて中国牡丹江にて行方不明となった息子(養子)の生存と復員を信じて1950(昭和25)年1月の引揚船初入港から以後6年間、ソ連ナホトカ港からの引揚船が入港する度に舞鶴の岸壁に立つっていたという。1954(昭和29)年9月には厚生省の死亡理由認定書が発行され、1956(昭和31)年には東京都知事より、中国牡丹江にて戦死との戦死告知書(舞鶴引揚記念館に保存)が発行されている。しかし、帰還を待たれていた子は戦後も生存していたとされるが、それが明らかになったのは、母の没後、2000(平成12年)年8月のことであったそうだ。
作詞した藤田まさとは、端野いせのインタビューを聞いているうちに身につまされ、母親の愛の執念への感動と、戦争へのいいようのない憤りを感じてすぐにペンを取り、高まる激情を抑えつつ詞を書き上げたという。
「岸壁の母」は最初、菊池章子が1954(昭和29)年にヒットさせ、1972年には二葉百合子が「港の名前は舞鶴なのに何故飛んで来てはくれぬのじゃ」の台詞入りで再びヒットさせた。以後、二葉の代表曲ともなったが、二葉は、今年(2011年)3月6日にNHKホールにて最終公演を行い、77年間の芸能生活に終止符を打った。
良い歌なので、以下で、芸能生活70周年(2005年)を迎えたときの歌が聴けるので、最後にこの歌を聴きながら、戦後日本の最大の事業であった引き揚げを思い起こすことにしよう。
YouTube-岸壁の母 二葉百合子
http://www.youtube.com/watch?v=KKrdEkVcEy4&feature=related
今日のブログは、アサヒクロニクル「週間20世紀」の1945年号、1946年号、1948年号1949年号、1953年号などと共に、以下のHPを参照して書いた。
参考:
※1:国民が知らない反日の実態 - GHQの占領政策と影響
http://www35.atwiki.jp/kolia/pages/241.html
※2:ポツダム宣言 - 国立国会図書館
http://www.ndl.go.jp/constitution/etc/j06.html
※3:ポツダム宣言(1945年7月)
http://www.geocities.co.jp/Bookend-Yasunari/7517/nenpyo/1941-50/1945_potsudamu.html
※4:素朴な疑問集◆第2日本の終戦の日はいつ?
http://royallibrary.sakura.ne.jp/ww2/gimon/gimon2.html
※5:映像で見る占領期の日本
http://www.bun.kyoto-u.ac.jp/~knagai/GHQFILM/DOCUMENTS/index.html
※6:「中国残留邦人」の形成と受入について[PDF]
http://www.kikokusha-center.or.jp/resource/ronbun/kakuron/24/kaji.pdf
※7:読谷村史 「戦時記録」
http://www.yomitan.jp/sonsi/index.htm
※8:その時歴史が動いた:戦後引き揚げ
http://televiewer.nablog.net/blog/e/20184509.html
※9:戦後満州引き揚げ 故郷への道
http://nozawa22.cocolog-nifty.com/nozawa22/2007/12/nozawa22_1.html
※10:30年前の群像あとがき5 - 灯台守
http://blogs.yahoo.co.jp/raizintai/18515046.html
※11:第7章 日系社会の再統合から現在まで(1) | ブラジル移民の100年
http://www.ndl.go.jp/brasil/s7/s7_1.html
※12:緊急開拓事業実施要領 | 政治・法律・行政 | 国立国会図書館
http://rnavi.ndl.go.jp/politics/entry/bib00681.php
※13:故浜巌氏の遺稿文と戦後緊急開拓のあらまし
http://www.town.kamifurano.hokkaido.jp/hp/saguru/1407iwata.htm
※14:未帰還者留守家族等援護法
http://law.e-gov.go.jp/htmldata/S28/S28HO161.html
※15:在華邦人引揚交渉をめぐる戦後日中関係(Adobe PDF)
http://www.jaas.or.jp/pdf/49-3/54-70.pdf#search='1953年 引き揚げ再開 北京協定
※16:図録アジア太平洋戦争における海外からの引き揚げ
http://www2.ttcn.ne.jp/honkawa/5226.html
「函館市史」通説編4 6編第1章第1節4-1引揚者受入官庁の設置
http://www.city.hakodate.hokkaido.jp/soumu/hensan/hakodateshishi/tsuusetsu_04/shishi_06-01/shishi_06-01-01-04-01.htm
※:丹後の地名
http://www.geocities.jp/k_saito_site/
TounReview
http://w01.tp1.jp/~a021223941/
「満洲引揚」スタディーズの試み1)(Adobe PDF
http://mokuroku.biwako.shiga-u.ac.jp/WP/No98.pdf#search='「満洲引揚」スタディーズの試み1'
舞鶴引揚紀念館
http://homepage3.nifty.com/ki43/heiki/hikiage/hikiage.html
その時歴史が動いた 第308回 戦後引き揚げ 660万人故郷への道。
http://blogs.yahoo.co.jp/niitakejp/1936169.html
Category:日本の引揚事業
http://ja.wikipedia.org/wiki/Category:%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E5%BC%95%E6%8F%9A%E4%BA%8B%E6%A5%AD
第二次世界大戦に、敗戦後、国外から引き揚げてきた者を一般的に「引揚者」と言うが、この呼称は非戦闘員に対してのみ用いられ、日本軍の軍人・軍属として外地・外国に出征し、その後帰還した者に対しては「復員兵」もしくは「復員者」などと呼ばれた。その意味では、この日、雲仙丸で帰還したのは、軍人、つまり、「復員兵」であった。ここでは、特別断っていない限り、両者を含めた一般的にいうところの引揚者について書く。
この日、以来舞鶴へは1船2千人から3千人の単位で帰還が続いた。
第二次世界大戦終了後、国外から日本へ引き揚げてきた人たちは、諸説あるが、一般・軍人・軍属(軍人以外の軍所属者)合わせて約660万人といわれ、そのうち約半数が一般人である。舞鶴には66万人余と1万6千余柱の遺骨が上陸したという。
当初、舞鶴ほか9港、全国で10箇所(舞鶴、浦賀、呉、下関、博多、佐世保、鹿児島、横浜、仙崎、門司)あった引き揚げ港(引き揚げのために指定された上陸地)も、1950(昭和25)年から引き上げ港は舞鶴だけになった。特にソ連抑留者の引き揚げが多く、いつ帰るかわからない息子、夫の姿をもとめて全国から舞鶴へと人の波が続いた。戦後の海外在住者の引き揚げ業務は、日本の終戦処理の中でも最も重要な案件のひとつであった。
冒頭の画像は、当時の舞鶴での引き揚げの様子。左:上陸前の引揚者(復員兵)たち。右:父の顔も知らぬ幼児とともに。名札を手に肉親を求め、出迎える家族。(写真1948年7月5日のもの。アサヒクロニクル「週間20 世紀」1948年号より)
現在の舞鶴市は、京都府北部(旧丹後国)の日本海に面した市である。もともと市街は、大きく二つに分かれており、1901(明治34)年に、軍事的要地として舞鶴鎮守府が設置されて以来、軍事施設が設置され、日本海側唯一の軍事都市として発展を遂げていた東舞鶴と、田辺藩の城下町・商港から発展した西舞鶴の2つの市から構成されていた。
1943(昭和18)年になり、いよいよ戦局(太平洋戦争)が激化すると、海軍の要請により「時局ノ要請二応ジ大軍港都市建設ノ為」として、海軍記念日にあたる同年5月27日にそれまでの東西舞鶴両市を合併し現在の新しい舞鶴市として誕生した。
だが、この「時局ノ要請二応ジ大軍港都市建設ノ為」として東西舞鶴両市が合併した1943(昭和18)年の戦局を振りかえってみると、実際には、太平洋戦争開戦半年ほどで始まった米軍の反攻が勢いを増し、同年5月には最前線であるガダルカナル島は飢餓の島と化し撤退(ガダルカナル島の戦い参照)。北太平洋では、アッツ島守備隊2500人が玉砕して果てた(アッツ島の戦い参照)。
しかし、政府は、ガダルカナル島撤退のときは「転進」と言う言葉でごまかし、アッツ島の玉砕も「戦史に残る絶妙の転進」と言う言葉でごまかし、大本営は「敵に多大なる被害を与えたるも我が方損害軽微」であると、圧倒的に敗北した時はこれを隠蔽して発表しなかった。物量対物量の消耗戦のなか、戦果を誇る大本営発表の虚勢はまさに、敗戦への序章であった。
余談だが、これを書きながら、2011(平成23)年3月11日の東北地方太平洋沖地震に起因する福島第一原子力発電所事故による、外部への多量の放射性物質漏れと、これに対する政府の対応などを思い出す。この放射性物質漏れ事故は、国際原子力事象評価尺度のレベル7(深刻な事故)に相当するもので、1986(昭和61)年4月26日にソビエト連邦で起きたチェルノブイリ原子力発電所事故以来2例目になるものだが、それを、当初、政府および東電は過少に公表し、正しい対応を素早くやってこなかったため、被災地の人達に多大なる迷惑をかけると共に、その対応遅れが、震災被害全体の復興計画そのものを遅らせてしまっている。
このような重大なことになると、政府やある意味で国策会社とも言えなくも無い東電。これらのみならず、まともな取材もせずに、これらの機関からリーク(leak)されたものを鵜呑みにし、その信憑性を確認もせずに国民に伝える現在のマスコミなど、国民に正しい情報を伝えないやり方は、今も昔と殆ど変わっていないことに驚かされている。
元に戻るが、真珠湾攻撃(太平洋戦争勃発)で始めた対米英蘭戦争も4年目に入った1945(昭和20)年、満州事変から数えれば15年にわたる戦争も、前年、生命線として想定した「絶対国防圏」を突破され、制海権、制空権共に失った日本は、フィリピン、硫黄島、沖縄と、アメリカ軍の蛙飛び作戦(アイランドホッピング)にことごとく敗退。日増しに激しさを加える本土空襲で国内は破壊され、実際に戦場となった本土防衛の盾・沖縄での戦い(沖縄戦参照)は酸鼻(さんび)を極めた。
中でも8月6日 広島への原爆投下、 8月9日 長崎への原爆投下 では一瞬の閃光で広島では8万人、長崎でも数万人の即死者を出した。当然、軍事都市舞鶴の海軍工廠、舞鶴港なども大規模な空襲に見舞われ多数の死傷者を出している。
それでも、大本営は本土決戦を「決号作戦」と呼び、この作戦では女子にも竹やり(槍)や、なた(鉈)、かま(鎌)をもって兵士と共に戦うことを求め訓練を義務化した。
上掲の画像は、女子の竹やり訓練の光景である(アサヒクロニクル「週間20世紀」1945年号より)。
まさに、敗戦が決定的になっているにも関わらず、女・子供までを巻き込んで1億総玉砕体制にあった日本も広島、長崎への原爆投下やそれに、日本が実質的に敗戦しているのを狙っていたかのように、ソ連が、日ソ中立条約を完全に破棄して、8月8日、突然日本に対して宣戦布告し、参戦してきたこともあり、8月14日、やっと、天皇の採決でポツダム宣言受諾を決定した(ポツダム宣言原文またその解釈など※2、※3参照)。
翌・8月15日正午、天皇の「終戦の詔書」録音放送(玉音放送と呼ばれる)、日本無条件降伏(※:日本国が無条件降伏したか否かについては様々な見解があるようだ。※1参照)により、太平洋戦争、第2次世界大戦が終結したことになっている。
兎に角、1億総玉砕は避けられたが、この戦争での日本人軍民戦没者は厚生省算定によれば、1937(昭和12)年7月7日の盧溝橋事件(日中全面戦争)以後、310万人だとしている。
この後、同年8月18日満州国皇帝が退位し、満州国が滅亡。日本人の満州開拓移民約27万人のうち、引き揚げまでに約7万8500人が死亡したという。
同年8月22日、北海道沿岸で樺太からの引き揚げ船3隻が潜水艦に攻撃され沈没。約1700人の死者がでた。日本の降伏文書への調印予告、および軍隊への停戦命令布告後に、三船を攻撃した潜水艦について、公式には今もって「国籍不明」と言うことになっているが、恐らく、8月9日に対日参戦したソ連軍が、これを無視し、当時大日本帝国領だった樺太に侵攻していることから、ソ連船の仕業だろうと推測されている(三船殉難事参照)。
戦争に敗れた日本は、史上初の占領下に置かれた。1945(昭和20)年8月30日、連合国軍最高司令官マッカーサーが、厚木基地に到着。日本占領の第一歩を印した。
マッカーサーは、同年9月2日、東京湾に停泊のアメリカ戦艦ミズーリー号艦上で、日本側との降伏文書の正式調印をした。
因みに、「終戦の日はいつ?」と聞かれると、天皇が、8月14日にポツダム宣言受諾を決定し、「終戦の詔書」録音放送をした翌・8月15日とされているのだが、正式には9月2日の降伏文書調印までは戦闘状態であり、厳密に言うと、この日が正式な終戦の日だとする人もいる。太平洋戦争からその終結までの出来事等は太平洋戦争の年表を参照されるとよく分かる。特に8月15日から9月2日までにどのようなことがあったかを時系列で見ておかれるとよい。8月15日以降も戦いが続けられた要因には「終戦の詔書」が、伝わらなかった地域もあっただろうし、8月9日突然のソ連軍侵攻に対する防衛上の問題などもあったろう。以下参考の※4:素朴な疑問集◆第2・日本の終戦の日はいつ?参照されるとよい。
9月2日ミズーリー号艦上での降伏文書の正式調印の日に、マッカーサーは、一般命令第1号(※5参照)で、外地に居住する日本の軍人軍属、一般日本人を連合国軍の管理下に入れた。
前にも書いたが、1945(昭和20)年、敗戦時点で海外に残っていた日本人の数は約660万人で、内訳は、中国軍管区(満州を除く中国、台湾、北緯16度以北の仏印【フランス領インドシナ】)が200万人、ソ連軍管区(満州、北緯38度以北の朝鮮、樺太、千島)が272万人と両軍管区で7割強を占めた。
終戦と同時に、連合国は、海外の日本人全員の即時帰国命令を出したが、これは、8月15日に日本が受諾したポツダム宣言の「九、日本国軍隊ハ完全ニ武装ヲ解除セラレタル後各自ノ家庭ニ復帰シ平和的且生産的ノ生活ヲ営ムノ機会ヲ得シメラルヘシ」(※2、※3参照)に基づいて行われたものであって、現地に軍人が残留していると、その地におよぼす影響力を恐れたため、早期に軍人の武装の解除と帰国をさせることが目的であって、民間人の引揚については何も記載はない。そのため、外地からの引き揚げは占領統治する連合国の主導で始まり、軍人や官僚らが、帰国したあと、現地に放置されたままの民間人には、国家の保護もなく、自力で、帰ってこなければならなかった。
中国軍管区では、国共内戦に巻き込まれ、ソ連軍管区でのシベリアへの抑留と強制労働など、多くの苦難が待ち受けていた。また、日本送還に関しては、引き揚げの優先順位をめぐり、各地で多様な問題が起こった。南朝鮮(ここ参照)では、軍隊、警察官、神官、芸者、女郎という優先順位での送還をアメリカ軍が指示していた。これを見ても、日本の朝鮮支配において、朝鮮民族の恨みの対象が誰に向けられていたかが窺える。
旧満州では、関東軍、満鉄、日本大使館、関東局、満州国政府、国策会社の関係者という優先順位の下で引き揚げが実行された。
そのため満州奥地に入植した開拓団の一般日本人は、敗戦によって情報が途絶したため、流言飛語の下に曠野(こうや)を流亡する民となってしまった。その身に大日本帝国への怨念を背負わされての逃避行は、現地人の襲撃に身を晒すだけでなく、ソ連軍の暴行に日夜さいなまれての行程だった。
ちなみに、三江省方正収容所には、終戦から、翌年5月までの9ヶ月間に8640人が収容されたが、その後、その4分の1強が自決・病死、「満妻(ママ)」すなわち中国人の妻となった者も4分の1強となっている。ハルピンにたどり着けたのは、1200人に過ぎないという。その他は、自ら脱出した者1200人、現地に残った者1120人、ソ連兵に拉致された者460人と記録されているようだ(※6や、※7:読谷村史 「戦時記録」の上巻>第二章>第五節海外の戦争体験>4 「満州」での戦争体験や5 シベリア抑留体験参照)。
各開拓団の青壮年が敗戦3ヶ月前の1945(昭和20)年5月に、関東軍による「根こそぎ動員」で現地召集されたため、老人と女子供の群として、流亡しなければならなくなったことが事態をいっそう悲惨にした。
ただ、アメリカ軍管区とオーストラリア軍管区からの復員・引き揚げは米国から船舶の貸与などの協力を受けるなどして、翌・1946(昭和21)年夏までにほぼ終了した。厚生省『引揚と援護30年の歩み』によると1976年末までの引き揚げ者総数は6,290,702人だったという。(復員輸送艦参照)。
ポツダム宣言受諾の際に日本政府がこだわったのは国体護持だけ、海外在住日本人(民間人)の生命・財産をどう守るかなどということは考えられておらず、「現地定住」の方針を堅持していた。なすすべのない彼らは、上記のような略奪や暴行、飢えなどに悩まされ、命さえ失う人々が続出したが、そんな満州の民間人の引揚が始まるのは、そのような惨状から逃れた人たちが支援活動をするために結成した日本人会の使者が、1946(昭和21)年3月、吉田茂外相に満州での惨状を訴え、民間人の引き揚げ実現を求めるも、占領下の日本政府は無力と応じてもらえず、マッカーサーに面会、人道的立場から引き揚げ実施を約束されたことによるようだ。
ただ、マッカーサーが、単に人道的理由によってのみ行なったわけではなく、満洲からの引き揚げは、当時の冷戦構造を自国に有利に図ろうとする大国(アメリカ・ソ連・中国)の思惑の結果から、実現したものである。そのことは、NHK「その時歴史が動いた」“戦後引き揚げ 660万人故郷への道”(2007年12月 5日放送)でも取り上げられたが、その詳細をここでは書かないが、以下参考の※8:「その時歴史が動いた:戦後引き揚げ」、※9:「戦後満州引き揚げ 故郷への道」には,詳しく書かれているので、そこを見られるとよい。当時の満州からの民間人引揚者のひどい状況と、無責任な日本政府の対応に驚かされるだろう。
海外からの日本人引揚者を港に受け入れるための施設として日本政府が設置したものが地方引揚援護局であるが、1945(昭和20)年9月、舞鶴ほか計10の引き揚げ港に設置されていた。その後増加し、同年11月には引揚げ港は18カ所となった(引揚援護庁参照)。
満州、朝鮮からの引揚者の多くは、博多か佐世保に上陸した。満州、朝鮮からの引揚者の多い博多などの引き揚げ港に設置された引揚援護局内には、民間ボランティア団体が、婦人救護相談所を開設し、引き揚げ女性の相談業務を行なっていた。その業務は、性病の日本への伝播の防止と暴行被害女性の妊娠中絶を目的のひとつとしており、10歳以下の幼女を除く70歳までの全てが対象となっていたという。
NHK「その時歴史が動いた」の話では、博多へ近づき日本が見えると、女性が海に飛び込んで死ぬ人が連続したという。それらの人々は望まない異国の子供を妊娠していて、日本での偏見を恐れての自殺だったそうだ。そんな帰国女性で妊娠している人を救助するためと言うことなのだが・・・。
番組中で紹介していた施設は厚生省博多引揚援護局内の「二日市保養所」である。当時まだ違法だった堕胎手術(堕胎罪)を保養所という名の施設をつくり行なっていたわけだ。女性たちは、設備の十分でない手術室で、麻酔もなく、相当強引な手術に、痛み苦しを必死に耐えていたというのだから哀れな話である。(※10また、※8、※9も参照)。
これら、死ぬ思いで、故国に辿り着いた女性の何時までも癒されぬ傷となって残っていたことだろうが、ことがことだけに、世間には知られないようこっそりと行なわれていたわけだ。
ソ連はシベリア抑留者を復興の強制労働に利用し、彼らの帰国は昭和34(1959)年までかかった。
また引揚者のなかには、途中で親と死別し、無縁故者となった子供が多く見られた。これらの引揚者を迎える世間の目は冷たく、引揚者は故国日本に安住の地を見出せないまま、再起の場をその後ブラジルなど外国に求めた人も少なくなかった(※11)。
敗戦後の復員軍人や多数の海外引揚者、戦災による生産活動の停止とそれに伴う離職者、生産消費財の極度の枯渇などで、食糧増産と失業者の救済対策を緊急にやらねばならなくなっていた。
そこで政府はこの対策として「緊急開拓事業実施要領」(1945年年11月。※12)を決定した。政府の緊急開拓事業は引揚者にとり、新たな生活を切り開く世界と思われた。北海道をはじめとする荒蕪地(こうぶち。土地が荒れて、雑草の茂るがままになっている土地)への入植は、満蒙開拓(ここ参照)や南洋進出(ここ参照)を夢想した引揚者にとり、新しい大地との出会いであり、戦後開拓の幕開けとなったのだが、例えば、北海道でも農業未経験者が、敗戦の荒廃で農機具、肥料等の農業資材が皆無に近い欠乏下での営農など不可能に近く、5ヵ年間のうちに脱落者は46%にも達したと言われているなど、実際には過酷なものであった(※13)。
また、戦後60年を超えた現在に至っても、中国大陸で親子生き別れ・死に別れとなった中国残留日本人孤児などの問題を残している。
敗戦後、海外在住邦人の引揚者約625万人が帰還を終えた1950(昭和25)年、朝鮮戦争の勃発もあり引き揚げは中断していた。
外交関係のない中国との交渉は国連の捕虜特別委員会を通じて行われたがはかばかしい進展は見られなかったが、1952年暮れ、中国の北京放送が「人民団体と交渉の用意がある」と報じ、日本赤十字社、日中友好協会、日本平和連絡委員会が訪中、1953(昭和28)年3月、引き揚げ再開の北京協定を結ぶ(※15)。そして、その帰還先は舞鶴とし、高砂丸を上海、興安丸を秦皇島(チンホワンタオ)、白山丸、白龍丸を塘沽(タンクウ)へ送った。
そして、3月23日朝、帰還者2008人を乗せた興安丸が雨の舞鶴に入港してきた。白くかすんだ湾には歓迎船の群が待ちわび、岸壁には出迎えの家族や団体、報道陣で埋め尽くされた。高砂丸も23日午後に1959人を、白山丸と白龍丸も26日に500人、469人を乗せて入港した。
この年、民間団体による中国引き揚げは7次にわたり、興安丸帰還時に船内で誕生した男児1名を含み2万6051人が帰還した。
また、1950(昭和25)年から中断していたソ連からの引き揚げも3年7ヶ月ぶりに再開され、ナホトカに派遣された興安丸は12月1日811人を乗せて舞鶴港に入港した。
戦後の主な引き揚げ港としては、博多と佐世保が多かった(※16参照)が、舞鶴は1950(昭和25)年以降唯一の引き揚げ港となったことから歌謡曲や映画「岸壁の母」の舞台ともなったことから、日本の引き揚げ工として広く世間に知られるところとなった。
母は来ました 今日も来た
この岸壁に 今日も来た
とどかぬ願いと 知りながら
もしやもしやに もしやもしやに
ひかされて
「岸壁の母」 作詞:藤田まさと、作曲:平川浪竜、台詞:室町京之介、
「岸壁の母」の歌の岸壁とは、舞鶴港の岸壁のこと。引揚船で帰ってくる息子の帰りを待つ母親をマスコミ等が取り上げた呼称であり、そのひとりである端野いせに取材してつくられた。
終戦後、いせさんは、軍人を志し、大学を中退して、1944(昭和19)年に、満洲国に渡り関東軍石頭予備士官学校に入学していたが、同年ソ連軍の攻撃を受けて中国牡丹江にて行方不明となった息子(養子)の生存と復員を信じて1950(昭和25)年1月の引揚船初入港から以後6年間、ソ連ナホトカ港からの引揚船が入港する度に舞鶴の岸壁に立つっていたという。1954(昭和29)年9月には厚生省の死亡理由認定書が発行され、1956(昭和31)年には東京都知事より、中国牡丹江にて戦死との戦死告知書(舞鶴引揚記念館に保存)が発行されている。しかし、帰還を待たれていた子は戦後も生存していたとされるが、それが明らかになったのは、母の没後、2000(平成12年)年8月のことであったそうだ。
作詞した藤田まさとは、端野いせのインタビューを聞いているうちに身につまされ、母親の愛の執念への感動と、戦争へのいいようのない憤りを感じてすぐにペンを取り、高まる激情を抑えつつ詞を書き上げたという。
「岸壁の母」は最初、菊池章子が1954(昭和29)年にヒットさせ、1972年には二葉百合子が「港の名前は舞鶴なのに何故飛んで来てはくれぬのじゃ」の台詞入りで再びヒットさせた。以後、二葉の代表曲ともなったが、二葉は、今年(2011年)3月6日にNHKホールにて最終公演を行い、77年間の芸能生活に終止符を打った。
良い歌なので、以下で、芸能生活70周年(2005年)を迎えたときの歌が聴けるので、最後にこの歌を聴きながら、戦後日本の最大の事業であった引き揚げを思い起こすことにしよう。
YouTube-岸壁の母 二葉百合子
http://www.youtube.com/watch?v=KKrdEkVcEy4&feature=related
今日のブログは、アサヒクロニクル「週間20世紀」の1945年号、1946年号、1948年号1949年号、1953年号などと共に、以下のHPを参照して書いた。
参考:
※1:国民が知らない反日の実態 - GHQの占領政策と影響
http://www35.atwiki.jp/kolia/pages/241.html
※2:ポツダム宣言 - 国立国会図書館
http://www.ndl.go.jp/constitution/etc/j06.html
※3:ポツダム宣言(1945年7月)
http://www.geocities.co.jp/Bookend-Yasunari/7517/nenpyo/1941-50/1945_potsudamu.html
※4:素朴な疑問集◆第2日本の終戦の日はいつ?
http://royallibrary.sakura.ne.jp/ww2/gimon/gimon2.html
※5:映像で見る占領期の日本
http://www.bun.kyoto-u.ac.jp/~knagai/GHQFILM/DOCUMENTS/index.html
※6:「中国残留邦人」の形成と受入について[PDF]
http://www.kikokusha-center.or.jp/resource/ronbun/kakuron/24/kaji.pdf
※7:読谷村史 「戦時記録」
http://www.yomitan.jp/sonsi/index.htm
※8:その時歴史が動いた:戦後引き揚げ
http://televiewer.nablog.net/blog/e/20184509.html
※9:戦後満州引き揚げ 故郷への道
http://nozawa22.cocolog-nifty.com/nozawa22/2007/12/nozawa22_1.html
※10:30年前の群像あとがき5 - 灯台守
http://blogs.yahoo.co.jp/raizintai/18515046.html
※11:第7章 日系社会の再統合から現在まで(1) | ブラジル移民の100年
http://www.ndl.go.jp/brasil/s7/s7_1.html
※12:緊急開拓事業実施要領 | 政治・法律・行政 | 国立国会図書館
http://rnavi.ndl.go.jp/politics/entry/bib00681.php
※13:故浜巌氏の遺稿文と戦後緊急開拓のあらまし
http://www.town.kamifurano.hokkaido.jp/hp/saguru/1407iwata.htm
※14:未帰還者留守家族等援護法
http://law.e-gov.go.jp/htmldata/S28/S28HO161.html
※15:在華邦人引揚交渉をめぐる戦後日中関係(Adobe PDF)
http://www.jaas.or.jp/pdf/49-3/54-70.pdf#search='1953年 引き揚げ再開 北京協定
※16:図録アジア太平洋戦争における海外からの引き揚げ
http://www2.ttcn.ne.jp/honkawa/5226.html
「函館市史」通説編4 6編第1章第1節4-1引揚者受入官庁の設置
http://www.city.hakodate.hokkaido.jp/soumu/hensan/hakodateshishi/tsuusetsu_04/shishi_06-01/shishi_06-01-01-04-01.htm
※:丹後の地名
http://www.geocities.jp/k_saito_site/
TounReview
http://w01.tp1.jp/~a021223941/
「満洲引揚」スタディーズの試み1)(Adobe PDF
http://mokuroku.biwako.shiga-u.ac.jp/WP/No98.pdf#search='「満洲引揚」スタディーズの試み1'
舞鶴引揚紀念館
http://homepage3.nifty.com/ki43/heiki/hikiage/hikiage.html
その時歴史が動いた 第308回 戦後引き揚げ 660万人故郷への道。
http://blogs.yahoo.co.jp/niitakejp/1936169.html
Category:日本の引揚事業
http://ja.wikipedia.org/wiki/Category:%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E5%BC%95%E6%8F%9A%E4%BA%8B%E6%A5%AD