Quantcast
Channel: 今日のことあれこれと・・・
Viewing all 292 articles
Browse latest View live

文化 (元号)

$
0
0
享和4年2月11日(グレゴリオ暦1804年3月22日)は、 甲子革令(かっしかくれい)に当たるため文化(ぶんか)に改元された。
日本の元号文化」は、享和(きょうわ)の後、文化15年4月22日(グレゴリオ暦1818年5月26日) 「文政」に改元されるまでの期間を指す。
この時代の天皇は光格天皇仁孝天皇であり、当時の江戸幕府将軍は第11代徳川家斉であった。
17世紀終わり頃から18世紀初頭にかけて、元禄時代(1688年 - 1707年)を中心として、主に京都・大坂(大阪)などの上方を中心に発展しいたた元禄文化に代わり、江戸を中心とした町人文化(culture)が顕著に発展した時期であり、後続する文政期とあわせ、化政文化という。これ以降、文中に多くの元号名が出てくるが、すべてをリンクしていないので、元号や改元理由等について知りたい時は、以下参考の※1:「Category:日本の元号」を参照してください。
元号は一般には年号と呼ばれている。中国を中心とする東洋の漢字文化圏に広まった紀年法で、紀元前140年、前漢の武帝の時に始まった。
日本に於ける正式の年号の初めは皇極天皇4年(645年)蘇我氏蘇我蝦夷入鹿親子)の討滅を機(乙巳の変大化の改新)に天皇の禅(ゆず)りを受けて、皇弟・軽皇子が即位し、孝徳天皇となり、数日後、『日本書記』に「天豊財重日足姫天皇(あめとよたからいかしひたらしひめのすめらみこと=皇極天皇)の4年を改めて、大化元年と為す」と記されているのがそれである。
このとき以前にも法興と言う年号などがあるが、これは私年号である。大化6年(650年)穴戸(長門国の古称)国司より白雉(しろきぎす。はくち。=白色のキジ)を献上されたのを祥瑞(しょうずい。瑞祥【ずいしょう】と同じ。めでたいことが起こるという前兆。吉兆)として、白雉(はくち)と改元したが、同5年孝徳天皇崩御して以後行われず、天武朝の末年、朱鳥(あかみとり、しゅちょう、すちょう)の年号が定められたが、その年天皇が崩御してこれも続かず、文武天皇5年(701年)に至って対馬から金が貢上されたのを機に大宝の年号が建てられた。大宝律令において初めて日本の国号が定められ、本格的な中央集権統治体制を成立した。
この年施行された大宝令には、公文に年を記す時はすべて元号(年号)を用いることが規定されていたことから、律令制度と年号は切り離すことの出来ないものとなり、次第に国民の間に浸透。年号は、大宝以降絶えることなく現代に及んでいる(※1参照)。
大宝から平成まで、天皇の代数は83代(北朝を含めると89代)を数えるが、その間の年号は244、(このうち北朝の年号は17)を数える。この代数に比べ年号の数が多いのは、一代のうちに幾たびも改元される場合が多いからである。
例えば、文化・文政の頃の天皇の時代の改元状況を、見ると、以下のようになっており、光格天皇の代では4度も改元をしているのである。

光格天皇 
改元年元号(年数と改元理由)
1781年天明(9年、光格天皇の即位のため代始改元)
1789年寛政(13年、辛酉改元 )
1804年文化(15年、甲子改元辛酉改元
改元時の天皇仁孝天皇
1818年文政(13年、仁孝天皇即位のため代始改元)
1830年天保(15年、災異改元)
1844年弘化(5年、災異改元)

改元は、?君主の交代による代始改元、?吉事を理由とする祥瑞改元 、?凶事に際してその影響を断ち切るための災異改元が行なわれるほか、注目すべきは、平安時代より、江戸時代末期まで行なわれていた?革命改元といわれる・辛酉(しんゆう)と、甲子(きのえね)の年の改元がある。
?の辛酉と甲子の改元は昌泰4年(901年)の辛酉の年にあたり、文章博士三善清行が、中国で発展した讖緯(しんい)説による辛酉革命、甲子革命の思想により、改元の勘文(意見書。革命勘文参照)を上奏し、これにより「延喜」と改元したことから辛酉改元が始まり、甲子改元は、康保の改元(964年)から始まり、以後幾つかの例外はあるが、江戸時代の末まで、辛酉と甲子の年には改元するのが例となっている。
上掲の通り、光格天皇の代にも辛酉と甲子の改元が行われている。ただ“中国では辛酉改元・甲子改元などは、行われていない。その意味では、日本のの歴史の上に現れている特異な現象である。”・・・ともいう(※3、※4参照。尚、※4にはちょっと面白いことも書かれてるよ)。
日本の改元は概ね?か?であり、?の早い例が「白雉」の改元であり主として、奈良時代か平安時代に行なわれた。この祥瑞改元に代ってあらわれるのが?の災異改元であり、これは災難を天の戒めとみるもので、奈良時代にも天平神護の改元(765年、藤原仲麻呂の乱を神霊の護りによって平定したことによる)例はあるが、平安時代に入って水潦(すいろう。=雨、水災)、疾疫によって延長の改元(923年)が行なわれて以後、地震、暴風、火災、飢饉、兵乱など?の災異による改元は江戸時代まで行われた。光格天皇、仁孝天皇の代でも?の災異による改元が多いのがわかるだろう。
代始改元の場合、奈良時代には即位と同時に改元する例が何度かあるが、平安時代からは「大同」の改元(806年)以外は、即位の翌年に改元するのが例となった。皇位継承の年に改元するのは先帝に対して非礼であるとする考えに基づくようだ。
もともと天子(日本では大王・天皇の別名)が特定の時代に元号という名前を付ける行為は、天子の在位期間を基準とした在位紀年法に由来し、天子が空間と共に時間)を支配するという思想に基づいており、「正朔を奉ずる」(天子の定めた元号と暦法を用いる)ことがその王権への服従の要件となっていた(天子参照)。
元号が政治的支配の正統性を象徴するという観念から、改元は朝廷の権限によるところのものであり、改元手続きは、平安時代中頃では、天皇の仰せにより、式部大輔や文章博士などの儒者が中国の経史(経書と史書)から字を選び出典を付して提出された年号勘文が天皇に奏上された後、公家たちが先例や文字の吉凶などを難陳(非難したり弁解したり、互いに議論をたたかわせること)した結果最善と思われるものが天皇に奉上され、勅裁(詔勅参照)を得て、公布され、この手続きは、武家政権が確立した後も、改元はほとんど唯一天皇大権として残され、後世まで引き継がれる。
ただ、中世(平安末期)以降、朝廷の権力が低下し、武家の権力が強くなると、武家側の意向が改元の上に影響を及ぼすようになり、江戸時代に入ると幕府によって出された禁中並公家諸法度第8条により「漢朝年号の内、吉例を以て相定むべし(中国の元号の中から良いものを選べ)」とされ、幕府が元号決定に強く介入することになった。
その最初が、「元和」であり、この改元は、家康の命により、唐の憲宗の年号を用いたものだという。改元の直前に発生した大坂夏の陣によって豊臣氏は滅亡した(5月8日)。元和は長く続いた戦国時代の終わりと平和の始まりを意味するそうだ。
兎に角、一人の天皇の在世中に頻繁に年号が変わっていては、天皇の在位期間も非常に判りづらく、親しまれるわけもなく、何かと不便なので、庶民のほとんどは干支に頼っていだ。
そこで、わが国では「明治」の改元に当たり、旧制を改めて一世一元の制が採用された。一世一元制は、中国では、両朝において行なわれ、我が国でも、江戸時代に学者によって論じられていたが、明治元年(慶応4年)9月8日(グレゴリオ暦:1868年10月23日)の改元勅書に「慶応4年を改めて明治元年と為す、今より以後旧制を革易(かくえき)し、一世一元を以て永式と為す」(原文は漢文。※5参照)と明示された。改元の手続きも、旧来の難陳の儀が廃止され、年号勘問の中から2,3の佳号を選び、天皇が賢所(かしこどころ)の神前で籤(くじ)を引き「明治」がきめられたという。
改元が年の呼称を改めるということから、慶応4年1月1日(1868年1月25日)に遡って適用された。法的には慶応4年1月1日より明治元年となる。在位中の改元は行わないものとなった。このことは、明治22年(1889年)の皇室典範でも確認されている。その後、同42年公布の「登極令」にて、「践祚後は直ちに元号を改める」 「元号は枢密顧問官に諮詢を経て勅定し、詔書で公布する」と規定して改訂手続きの大綱を定め、これに基づいて、「大正」「昭和」の改元が行われ、この元号の告示は内閣によって行なわれた。
第二次世界大戦後、日本国憲法施行皇室典範改正により、元号の法的根拠は一旦消失したが、昭和54年(1979年)施行の元号法(新)によって新しい根拠を持つに至り、皇位の継承があった場合に限り元号を変更すること。また、「元号は政令で定める」として、内閣の権限となった。
さて、元号そのものの話はこれまでとして、最後に本題の「文化文政」の時代について簡単に触れておこう。
光格天皇及び仁孝天皇の代は第11代徳川家斉の治下である。家斉は、天明6年(1786年)第10代将軍・徳川家治急死を受け、天明7年(1787年)に15歳で第11代将軍に就任。
将軍に就任すると、家治時代に権勢を振るった田沼意次を罷免し、代わって徳川御三家から推挙された陸奥白河藩主で名君の誉れ高かった松平定信を老中首座に任命。これは家斉が若年のため、家斉と共に第11代将軍に目されていた定信を御三家が立てて、家斉が成長するまでの代繋ぎにしようとしたものだという。この定信が主導した政策が「寛政の改革」と呼ばれるものである。
松平定信による、「寛政の改革」では積極的に幕府財政の建て直し(幕政改革)が図られたが、厳格過ぎたため次第に家斉や他の幕府上層部からも批判が起こり、さらに朝廷と江戸幕府との間に発生した閑院宮典仁親王への尊号贈与に関する尊号事件なども重なって次第に家斉と対立するようになり、寛政5年(1793年)7月、定信は家斉に罷免され、家定による6年余りに及ぶ寛政の改革は途絶えた。
ただ、定信の失脚後、ただちに幕政が根本から転換したわけではなく、家斉は定信の元で幕政に携わってきた松平信明を老中首座に任命。これを戸田氏教本多忠籌ら定信が登用した老中達が支える形で定信の政策は継続されていった(彼らは寛政の遺老と呼ばれた)。しかし、文化14年(1817年)松平信明が病死すると、家斉は自らの手で政治を始めたが、寛政の改革に対する反動的な政治をしたと言われている。
家斉は、天保8年(1837年)退隠し、世子家慶に将軍職を譲りはしたものの、その後も、天保12年(1841年)1月、69歳で死去するまで西丸で大御所として強大な発言権を保持し政治の実験を握り続けていた。ことから、後の人から「大御所時代」とも呼ばれるようになった。
本来幕府が重視してきた農業を基本とする社会形態を、 商人達による商業を中心とした資本力によって社会の活力を求め、幕府の財政を立て直す政策に転換した事により、景気は上昇し社会は活況を呈していた。
寛政の改革は、「江戸幕府の三大改革」のひとつにも数えられる一大事行であるにもかかわらず、何故か、この時代を「寛政期」とは呼ばれずに、「文化・文政期(化政時代)」と呼ばれている。 
徳川家斉の下でこの改革に携った定信は将軍徳川吉宗の孫にあたり、吉宗の行った「享保の改革」」を理想として掲げ、政治改革を断行(1716-1745年)を理想としたため、田沼意次時代の重商主義によるインフレを収めるため、本来幕府が重視してきた農業を基本とする社会形態(重農主義)に戻すべく、質素倹約・風紀取り締まりを進め、超緊縮財政で臨んだ。
寛政の改革の倹約令では、武士の華美な生活を規制するだけではなく、町人や百姓の華美な生活も規制の対象としたことにより、単なる武士の家計の収支を安定させる政策に留まらず、貨幣経済の進展に伴う経済活動全般を規制するという、極めて時代錯誤的なものとなった。
又、多額の借金を抱えた旗本御家人の債権放棄・債務繰延べを債権者である札差に対しさせた武士救済法令でもある「棄捐令」も当初、借金を棒引きに感謝していた武士達も、札差達の一斉締め貸し(金融拒否)により生活が困窮し逆に幕府の政策を恨むようになり、化政期を経て札差は再び隆盛し、旗本・御家人たちの借金は寛政の頃と同じかそれ以上に増大。社会にモラルバザーをもたらせ結果になった。
そこには、この改革の性格が、田沼時代の全否定にあり、華美な文化がすべての悪の元凶であり、昔に戻すことが改革の根本であるという定信の復古主義的政策の基調が経済政策の失敗を招いたといえる。この時代には、町人や百姓の華美な生活はすでに、江戸時代の経済を回すに不可欠な需要創出機能を担っていた。
そして武士の華美な生活もまた、その一端を担っていたのであり、寛政の改革の経済政策に対する批判は、それが有効需要を削減して深刻な不景気をもたらすという面において、批判されるものであった。
結局、田沼時代に健全化した財政は再び悪化に転じ、もはや倹約令ごときでは回復不能になっていた。改革も人心収攬にも失敗。綱紀(国家を治める大法と細則。また、一般に起律)は弛み風俗は頽廃、江戸市民は遊楽を事としたが、その一方で、町人芸術は爛熟の極に達し、小説(山東京伝式亭三馬滝沢馬琴)、戯曲(鶴屋南北)、俳諧(小林一茶)、浮世絵(喜多川歌麿東洲斎写楽葛飾北斎)、西洋画(司馬江漢)、文人画(谷文晁)など優れた作家を輩出した。江戸から発生した文化は、商人などの全国的交流や、出版・教育の普及によって各地に伝えられていった。
この期間は家斉が在職中の天明、寛政、享和、文化、文政、天保の各元号のなかで、「寛政の改革」(天明7年【1787年】-寛政5年【1793】)と「天保の改革」(文政13年【1830年】 - 天保14年【1843年】)の間の期間、つまり、文化から天保までをさす。寛政・天保は、財政的な改革の時期であり、この時代は緊縮財政のために、文化はあまり発展しなかったが、江戸時代の文化を考えるとき、文化・文政は元禄とともに特徴的な時代であることから、文化文政時代(略して化政時代)とも呼ばれている。
しかし、この時代は江戸を中心に、化政文化が栄えた一方、江戸幕府が衰退する始まりでもあった。貨幣経済の発達に伴って逼迫した幕府財政の再興を目的とした天保の改革の影響は大きく、厳しい統制の時代になったため、昔を懐かしんだ人々がこの時代を大御所時代と呼び始めたともいわれる。
ただ、松平定信主導による経済政策では、改革の直前に、近世最大の飢饉といわれる「天明の大飢饉」があったことから、低下した幕府の指導力を取り戻すために、儒学のうち農業と上下の秩序を重視した朱子学を正学として復興させ、思想統制を行い、 幕府組織の強化を図った。
この中では仁政(為政者が人々をいたわりいつくしむよい政治)を担う人材を育てる政策も行なわれており、それが、後には、農政面で生かされるようになり、又、それが、武士だけでなく二宮 尊徳のような、民を慈しむべきものと捉え、自らが代官となって村の再建に尽力する固い信念をもった百姓が生まれる背景ともなった。ただ、皮肉なことに、この朱子学の台頭によって天皇を中心とした国づくりをするべきという尊王論と尊王運動が起こり、後の倒幕運動と明治維新へ繋がっていくのである。
農業に関する経済面では、飢饉に備える為の囲米と「七分積金」の制度により、困窮した人に対する救済金の制度を設けた。又、「旧里帰農令」により、江戸へ大量に流入していた地方出身の農民達に資金を与え帰農させ、農村の復興と農業人口の確保を狙った。
そして、江戸石川島(東京都中央区)には、罪を犯した軽度犯罪者や無宿人、浮浪人を収容して職業訓練を行なう更生施設として「人足寄場」を設置し、治安対策も兼ねた。 これら者に対して教育的・自立支援的なアプローチを取り入れた処遇を行った点は当時としては画期的ものだったが、これは、なんと、あの池波正太郎の時代小説またそれをテレビ化してよく知られている「鬼平犯科帳」に登場する火付盗賊改方長官・長谷川平蔵(宣以)が定信に提案し設置されたものである。
寛政の改革自体はわずか6年程度であったが、定信の老中退陣後も彼の同志寛政の遺老たちによって継続して進められ、一定の成果を挙げ、一時的にせよ社会の安定には役立っていた。
定信主導によるこの改革は、封建領主が主に村からの年貢によって暮らす社会体制の安定と維持をねらったものであったが、この頃既に、貨幣経済の進展によって、社会の分解と貧富の差の拡大、そして政治の機能不全がさらに進展し、封建的領主権に基づく武家の支配が、経済的にも政治的にも弱体化し、封建社会とそれを基盤とした幕藩政治そのものが立ち行かなくなっていたのであり、打ち続く社会危機にも無策であった幕府や藩の権威は地に落ちつつあった。
このような、内政的な面だけでなく、この時代は、ヨーロッパ勢力のアジアへの侵出が拡大していた時期であり、ロシアをはじめとして日本に対して新たな通商を求める動きが活発化し、幕府は鎖国体制を見直すかどうかの、大きな問題もあり、内政の危機と外交の危機とが一体となって進んでいた。
その上、朝廷・天皇の権威が次第に上昇し始め、同時に幕府が行う全国統治にほころびが見えてくるや、幕府に統治権限を委任した朝廷に頼って幕府の政治を改めようという動きや、直接的に幕府に代わって朝廷が全国を統治するべきだとする動きさえ生まれてきつつあった。
そんな中、文化への改元を行なった光格天皇は、天明の大飢饉の際には幕府に領民救済を申し入れて、ゴローニン事件の際には交渉の経過を報告させるなど、朝廷権威の復権に務めていた。
また、朝幕間の特筆すべき事件として、先にも書いた、尊号一件が挙げられるが、この事件では、天皇になったことのない父・典仁親王に、一般的には天皇になったことのある場合におくられる太上天皇号をおくろうとした天皇の意向は、幕府の反対によって断念せざるを得なかったが、この事件の影響は尾を引き、やがて尊王思想を助長する結果ともなった。
明治天皇は典仁親王の玄孫であり、典仁親王は直接の祖先にあたるということで、明治17年(1884年)には、慶光天皇(慶光院とも)の諡号と太上天皇の称号が贈られている。
この寛政の改革についてどのように見るかについては、以下参考の※6の中の「第3章:近世の日本」批判31 貨幣経済の進展に翻弄される封建領主体制ー寛政の改革と改革政治の弛緩に詳しく書かれている。文化とは何かについては、又の機会に書いてみたい。
(冒頭の画像は、正倉院の宝物容器。715年、元正天皇即位、左京職より瑞亀(背に北斗七星のある亀)が献上され、和銅から霊亀に改元された。祥瑞による改元。この宝物は、その記念品との見方もあるそうだ。正倉院蔵。画像は、週間朝日百科「日本の歴史47」古代-?暦と年号・度量衡より借用)
参考:
※1:Category:日本の元号- Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/Category:%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E5%85%83%E5%8F%B7
※2:「大化」は日本最初の年号ではない!!
http://www004.upp.so-net.ne.jp/teikoku-denmo/html/history/honbun/nengou.html
※3:こよみのページ>暦のこぼれ話> 2008/09/18辛酉革命
http://koyomi.vis.ne.jp/doc/mlwa/200809180.htm
※4:日本書紀の謎を解く鍵=菅原道真
http://www.geocities.jp/yasuko8787/0x-t9.htm
※5:中野文庫 - 詔書(明治元年)
http://www.geocities.jp/nakanolib/shou/sm01.htm
文化人類学入門
http://cscd.osaka-u.ac.jp/user/rosaldo/0-culanthro.html
※6:新しい歴史教科書・その嘘の構造と歴史的位置:徹底検証:「新しい歴史教科書」の光と影
http://www4.plala.or.jp/kawa-k/rekishi.htm
文化 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%87%E5%8C%96
改元思想背景及びその実態についての一考察
http://203.72.2.115/Ejournal/AI02001705.pdf#search='改元思想背景及びその実態についての一考察'
皇紀2600年(三浦佑之)
http://homepage1.nifty.com/miuras-tiger/kouki2600nen.htm
れきしのおべんきょう
http://rekishiiroiro.blog130.fc2.com/archives.html
文化とは何か(目次)
http://www.asahi-net.or.jp/~yg5t-ssgc/page003.html


「雨水」(うすい)

$
0
0
2月19日「雨水」(うすい)
「雨水」・・・を国語辞書で引くと、?あまみず。?二十四節気の一「雨水」(うすい)の2つが出てくる。?は空から降る雨のことだが、この話は後に回し、?のことから始めよう。
二十四節気とは、節分を基準に1年を24等分して約15日ごとに分けた季節のことで、雨水(うすい)は、旧暦正月 (睦月)の中気で立春から15日目にあたり、現在広まっている定気法では太陽黄経が330度に達するとき、新暦では2月18日か19日ごろ(今年2012年は今日・2月19日)。
ではそれが起こる日だが、天文学ではその瞬間(時)とする。期間としての意味もあり、この日から、次の節気の啓蟄の前日までである。
ニ十四節気にはさらに約5日ずつの3つに分けた、七十二候という分類があり、各気各候に応じた自然の特徴が記述されているが、それは、中国の気候に合わせたものである。日本では、江戸時代に入って渋川春海ら暦学者によってこれを日本の気候風土に合うように改訂された「本朝七十二候」が作成され、暦注など生活暦において使われるようになった。現在では、1874(明治7)年の「略本暦」に掲載された七十二候が主に使われているようだ。
略本暦(日本)の雨水の期間の七十二候は以下の通り。
初候:雨が降って土が湿り気を含む
次候:霞始靆(かすみ はじめて たなびく):霞がたなびき始める
末候:草木が芽吹き始める
雨水の頃、旧暦で節句を祝う中国では、旧暦のお正月を「春節」として盛大に祝う。神戸の「南京町」では、今年も1月23日の春節(初一=元旦)から、賑やかに春節祭(※1)が催されていた。
薩埵(さった)富士雪縞あらき雨水かな(風生)
うすい【雨水】を調べていると国語辞書(goo辞書)に上記の富安風生の句が載っていた。
静岡県静岡市清水区にある薩た峠(さったとうげ)は、歌川広重の浮世絵東海道五十三次では16番・由比宿と17・興津宿の間に位置し、この峠からの富士山と駿河湾の景色は、東海道五十三次にも残されるほどの絶景である。しかし、雨水といっても関東ではこの時期くらいまで富士にはよく雪が降るのだと聞く。
『暦便覧』(※2)には「陽気地上に発し、雪氷とけて雨水となればなり」と記されており、空から降るものが雪からに変わり、雪が溶け始めるころとされている。それゆえ、この時節から寒さも峠を越え、衰退し始めると見ることもできる。
が降りやすくなるが、春の雨は暖かさの後にやってくるものだ。そして、一雨ごとに暖かくなる。このころ、雨水ぬるみ、草木の発芽を促し、萌芽(ほうが)のきざしが見えてくる。昔から、農耕の準備は、この雨水を目安に始められた。
今年は寒波の影響で日本海側は記録的な豪雪が続いた。まだまだ寒さの厳しい2月だが、気候は、確実に春へ向かって動いてはいるのである。
日本の食の根幹となるをはじめとする五穀を生産する農業にとって、水はなくてはならないものであり、干害や冷害は農民にとって一番の敵となった。干害が続くと農民達は神社へ祈願したり、雨乞い踊りをした。日照りが続くと分水を巡って争いも起こった。
江戸時代の農業は栽培法や農具などに発達を見ることが出来るが、それでも自然に頼る部分も多く、神に頼る様々な行事があった。日照りが続いたときに雨を神に祈る雨乞いは江戸時代末期にも行なわれていた。

上から1枚目は、雨乞いおどり 『御問状答書』 国立公文書館蔵。2枚目の画は山東京伝『近世奇跡考』(文化元年刊)所載の物で江戸の隅田川堤上を向島三囲社に雨乞いをする農民の一行である。(画像は、NHKデーター情報部編ヴィジュアル百科『江戸事情』第三巻政治社会編より1枚目、第二巻産業編より2枚目を借用)。
1枚目の画『御問状答書』は福山藩の思想家・菅茶山の書いたもののようだ。また、余談だが、向島三囲社(三囲神社)は、元禄6年(1693年)、旱魃(かんばつ)の時、松尾芭蕉の一番弟子と言われる俳人宝井其角が偶然、当地に来て、地元の者の哀願によって、この神に雨乞いする者に代わって、「遊(ゆ)ふた地(=夕立のこと)や田を見めくり(三囲)の神ならは」と一句を神前に奉ったところ、翌日、降雨を見た。このことからこの神社の名は広まり、京都の豪商三井氏が江戸に進出すると、その守護神として崇め、三越の本支店に分霊を奉祀したという(Wikipedia)。
同社には、「雨乞いの碑」なるものもあるらしいが、この神社や其角(きかく)の雨乞いの句の伝説はよく出来すぎているというので当時からそれを揶揄した川柳も多くあるらしい。そのようなことに纏わる面白い話は、参考※3:「森川和夫のホームページ」の廣重の風景版画の研究(1)-12佐野喜 東都名所之内 隅田川八景三囲暮雪に詳しく書かれているのでそこを見られると良い。
雨水は冒頭で、書いたように国語辞書でも、?あまみずのこともいう。これからは、雨と、水のことについて触れてみよう。
先ず、参考※4:「常用漢字:読み書き使い方字典」の「」の字を見てみよう(部首 雨)。
「雨」字は空から地上へと降ってくる水滴である雨を意味している。天にある雲の間から水が落ちてくる様子に象(かたど)っている。
偏旁の意符としては気象や天候に関わることを示す漢字が作られ、多くは冠の位置に置かれ、上下構造を作っている。
雨部はこのような意符を構成要素にもつ漢字を収めており、常用漢字で雨冠の漢字は、「雪・雲・雰・電・雷・零・需・震・霊・霜・霧・露」など12だが、これ以外「雹(ひょう)」「霰(あられ)」「霙(みぞれ)」「靄(もや)」「霞(かすみ)」「雫(しずく)」などのほか、私などには読めない漢字がまだまだたくさんある。
雨が多く、稲作など行なう農耕民族にとって、水は最も重要なものの一つであり、水の状況によって収獲が左右されることから、日本においても古くから雨のことを草木を潤す水神として考えられ、田の神と結びついている。
雨が少い場合は、雨乞いなどの儀式が行われ、雨が降ることを祈った。「天」には「天つ神のいるところ」との意味があり、このようなことから雨の語源は、「(あめ)」の同語とする説と「天水(あまみづ)」の約転とする説とがある。
万葉集』には、大伴家持の以下の長歌が掲載されている。
「この見ゆる、天(あま)の白雲(しらくも)、海神(わたつみ)の、沖(おき)つ宮辺(みやへ)に、立ちわたり、との曇(ぐも)りあひて、雨(あめ)も賜(たま)はね・・・・」(第十八巻-4122)
「沖(おき)つ 宮辺(みやへ)」は、「沖にあるという海神の宮殿のあたり」といった意味、日照りのなか、山の低くなったところに見える天(雨)の白雲が沖にあるという海神の宮殿のあたりまで伸びていって雨を降らせてください・・・と祈るような気持ちで歌っている(※5参照)。
日本神話には、水に関する神として、罔象女神闇龗神闇罔象神のような神が登場する。
今流に言えば、雨(あめ)とは、大気中に含まれる水蒸気が、気温が下がったり上昇気流に運ばれたりすることで凝結して、細かな水滴(雨粒)となったものが、空から落ちてくる天候のこと。また、その水滴のことをいうが、気象学的には、雨は降水現象の一つと位置づけられる。この降水現象の中で、雨は最も頻度が高い。雨および降水現象は、地球上で水が循環する過程(水循環)の一部分に位置づけられ、生態系や地形といった地球の自然に深く関与している。
上掲の図は「水循環のモデル図」(Wikipediaより)
この水循環に影響を及ぼす人間の活動として古来一番深く関わっていたのが農業 といえるだろう。
水は、人が生命を維持するには必要不可欠なものであり、それは、農業だけでなくさまざまな産業活動においても同様である。
そのため、古代ギリシャでは哲学者タレスが「万物のアルケー(根源)は水」とし、自然哲学者エンペドクレス四大元素のひとつで基本的な元素として水を挙げている。又、古代インドでも水は、五大のひとつとされ、中国の五行説でも基本要素のひとつと見なされている(水の知識の歴史概略参照)。
最も、現代の元素解釈とは異なるものの、水が人間にとっと必要不可欠な要素であることは、古代人によっても考えられていたということだ。
「万物を生かす水、降ったら降ったで不平を言う」・・・とは、人の身勝手さを言う言葉であるが、「万物を生かす水」は、このような哲学的思想から来ているのだろう。雨が降らず日照りの干ばつも困るが、豪雨による自然災害(干ばつや水害など)も困ったものだ。
古来より、人類は、限りない欲求を満たす為に、自らの知恵が生み出した科学により大いなる自然を犯し、破壊してきた。そのせいなのだろう、今、地球温暖化などによる異常気象から、世界の各地で、局地的な干ばつや集中豪雨による大災害をもたらしている。これからは、今発生しているような局地的集中豪雨なども異常気象とは言えなくなってしまうのかもしれない。これは、人間の自然破壊への天(神)の戒めということかも知れない。
「人類は農業を発明することによって都市文明を創(つく)ったきたが、その農業の性質が、ユーラシア大陸の東と西では違う。 夏に雨の多い東のモンスーン地帯には稲作農業が、雨の少ない西には小麦農業が興った。この気候の違いが農業の違いになり、それが東と西の文明の決定的な違いになっている。」・・・と、哲学者であり、国際日本文化研究センター名誉教授 でもある梅原 猛は説く。
そして続いて、「小麦農業は牧畜を伴い、約一万二千年前に今のイスラエルの地で興り、約五千年前、今のイラクの地で都市文明を生んだ。 稲作農業も、最近の研究によって小麦農業と同じころ長江中流で発生し、養蚕を伴い、約六千年前に都市文明を生んだことがほぼ明らかになったという。
この二つの文明は、その農業生産の方法によっても思想を異にしており、 小麦農業は人間による植物支配の農業であり、牧畜もまた人間による動物支配である。 このような文明においては、人間の力が重視され、一切の生きとし生けるものを含む自然は人間に支配されるべきものとされる。 そして集団の信じる神を絶対とみる一神教が芽生える。
それに対して稲作農業を決定的に支配するのは水であり、雨である。 その雨水を蓄えるのは森である。 したがってそこでは自然に対する畏敬(いけい)の念が強く、人間と他の生き物との共存を志向し、自然のいたるところに神々の存在を認める多神教が育ちやすい。
西の文明の優位は決定的であるように思われる。 なぜなら近代ヨーロッパは科学技術文明というすばらしい文明を生み出したからである。 この文明によって多くの人類はかって味わったことのない豊かで便利な生活を享受することができるようになった。
しかし、この文明の限界も二十世紀後半になってはっきりみえ始めた。 人間による無制限な自然支配が環境破壊を起こし、やがて人類の滅亡を招きかねないという危惧がささやかれる。」・・・と(※6)。
多神教の現存している代表例としては、民族的要素の強い日本の神道やアイヌの信仰(カムイ参照)、インドのヒンドゥー教や中国の道教もそうだというが、今では現存しない例として、古代エジプエジプト神話参照)やメソポタミアメソポタミアの神々参照)、古代ギリシャの神々(ギリシア神話参照)、中南米のメソアメリカ文明(※7参照)やアンデス文明(※8参照)で信仰されていた神々などがある。
そもそも、一神教が生まれるまでは世界中いたるところで多神教が信じられ、むしろそれが普通の宗教ではなかったのではないか。
中でも、四季の変化、緑豊かな自然に恵まれた風土に生きてきた古代の日本人は、地上の森羅万象(宇宙に存在する一切のもの。あらゆる事物・現象)は、神々によって生み出され、神々が司っていると考えてきた。そのもっとも素朴な形態は、山や森、岩や水などの自然物に精霊が宿ると信じてきた、自然崇拝アニミズムである。
やがて、山や森に宿る精霊は、どこからやって来たか、どういう存在なのかを人々が知ろうとするようになり、そして、名もない精霊は『』として意識され、人間の生活に直接関係するようになり、八百万の神(やおよろずのかみ)として発展してきた。八百万神の文献上の初見は『古事記』上巻に「天の岩戸」の段にある「八百万神々、天(あめ)の安(やす)の河原に神集(かむつど)ひて」であり、『日本書紀』第七段にも「八十萬神」として登場する。
そのような太古の日本から信仰されてきた固有の文化に起源を持つとされる宗教が神道などである。
そこでは、どうしても人間と自然との共存(同時に二つ以上のものが、争わずに生存すること。共有しないで、独自性を守る住み分け。)という思想が起こる訳である。
その後、日本に仏教が公式に伝来した(仏教公伝)のは、 欽明天皇の戊午の年(西暦538年)であるとされているが、それ以前に私的な信仰として入ってきている。
日本の仏教は古来より、様々な宗派の仏教が伝来してきた。その中からさらに多種多様な宗派が生まれ、そのほとんどが現在まで継承されている。世界の中でも希な形での宗教が受け継がれている国が日本とも言えるだろう。
仏教の中にも、古来から日本人が持ってきた「人間と自然との共存」といった思想がきっちりと根付いている。
その代表的なものが「縁起」(えんぎ)である。
仏教における「縁起」は、仏教の根幹をなす思想の一つで、世界の一切は直接にも間接にも何らかのかたちでそれぞれ関わり合って生滅変化しているという考え方である。この縁起の語は「因縁生起」(いんねんしょうき)の略で、因とは果(結果)を生じさせる直接の原因、縁とは外的・間接的な原因を示している。
つまり、ある結果が生じる時には、直接の原因(近因)だけではなく、直接の原因を生じさせた原因やそれ以外の様々な間接的な原因(遠因)も含めて、あらゆる存在が互いに関係しあうことで、それら全ての関係性の結果として、ある結果が生じるという考え方である。
現代の日本人の多くは「神」も「仏」もそれら全部を混合して、自分にとって都合のいいものだけをとっている。いや、神道に於ける「神」や仏教における「仏」だけでなく、キリスト教その他も単なる宗教としてうけいれ、これらすべてが混在している・・・外国人から見れば日本人は何とも理解しがたい不思議な民族に見えるだろう・・・。
ここのところ、環境汚染や環境破壊を未然に防ぐ・また起こってしまった環境汚染や環境破壊の状況を改善し現状回復に努めるための環境保護(自然保護)、いわゆるエコロジー(Ecology)が言われて久しい。
環境を「Ecology」と認識したのは、19世紀半ばのドイツのヘッケルの主張にさかのぼる。アンナ・ブラムウエルが「エコロジー 起源とその展開」(河出書房出版1992年。※9参照)で、ヘッケル以来のエコロジーの歴史を詳述しているようで、この書物はエコロジーに多神教の一翼をなすアニミズム的要素を認めているという。
エコロジー(Ecology)とは本来は「生態学」(英: ecology)を意味するものらしいが、近年では人間生活と自然との調和などを表す考え方として、「eco」が接頭語としてしばしば用いられている。
かって世界の多くの国の人達がたくさんの神々に祈っていた頃、人間は自分の無力を承知し、自然を神々として畏敬してきた。それが、梅原 猛が言っているように、その後、一にして全なる神に祈る人々が科学技術を発展させ、この世では人は別格の存在であり、その他の動物や自然を支配する資格のある者であるとの考え方から、自然を支配し始めそれが、やがて自然(環境)破壊にもつながってきた。この一神教的考えに対し、すべてのものに精霊(魂)が宿るというアニミズムなら、人も動物も自然も対等だから、エコロジー(自然保護)に繋がる。
だから、今日のように文明化した人々が忘れてしまったアニミズム(多神教)の考え方を復活させようではないかといった考えが今広がりつつあるようだ。
しかし、かつてはアニミズムのあった日本とはいえ、自然とはかけ離れた都市化した環境に住む現代の日本人にアニミズムが残っているとは考えにくいが、それでも、一神教の人達よりも日本人の心の底にはわずかだが残っているように思う。環境保護(自然保護)のためにも、日本人の持つアニミズム思想を世界人類と共に共有し、実践するなら、争いごと(戦争など)や自然破壊も、もう少し抑えられたのではないかと思うのだが・・・。
日本人は、小雨、にわか雨、時雨、春雨、穀雨、五月雨、梅雨、虎が雨、夕立、雷雨、秋雨、長雨、氷雨、寒の雨、霧雨、小糠雨、煙雨、細雨、そばえ(戯)、涙雨、篠突く雨、鉄砲雨、淫雨、恵みの雨、慈雨…等々、日本の独特の地形・風土、四季折々の自然の移り変わりの僅かな微妙な変化を捉えて雨には実に多くの名前をつけているが、これは、古より日本人が雨に親しみ、雨を愛で、感謝し、畏怖してきたことの表れでもある。この雨は、万葉の時代には100首を越える歌が詠まれ(※5の雨を詠んだ歌参照)、江戸時代には、すばらしい雨の風景画が多く描かれている。
江戸時代、当初、美人画や役者絵として出発した浮世絵だが、やがて、道中絵・名所絵をもう一つの柱とするようになった。その中に、すばらしい雨の風景画が多く含まれている。
歌川(安藤)広重も始めは役者絵から出発、やがて美人画に手をそめたが、南宋画も学んで、天保3年(1833年)、保永堂版「東海道五拾三次之内」を刊行し、これが大評判となり、以後「名所絵」の広重として名声を得ていく。
広重の絵は、四季や朝夕の季節、時間の移り変わりと風物の情趣に、自然現象である雨、風、雪、霧、月等の叙情性を盛り込んで、日本人の心の内にある日本の情景を見せてくれる。日本には雨を表す言葉が豊富にあるが、広重の雨の表現はこれらの言葉に応じるように多彩である。
例えば、「東海道五十三次之内」で、雨の画は3種3ヶ所。
8番目「大磯虎ケ雨」は、歌舞伎でも有名な曽我十郎が、仇討ちの果てに命を落とした陰暦5月28日、その愛人、大磯の遊女・虎御前が流した涙が「虎ヶ雨」。それを題材に梅雨時のしとしと降る雨を描いている(画像はリンクの大磯参照)。
45番目の「庄野の白雨」の「白雨」とは、夕立やにわか雨のこと。突然の風を伴った激しい夕立のにわか雨に、坂道を往来する人々を生き生きと描写したこの絵は、広重の最高傑作の一つとして知られている。風に揺れる二重の濃淡の竹薮に、激しく音を立てて降る雨の角度を変えるなど新しい技法が考え出されている(冒頭掲載の画)。
49番目の「土山の春の雨」は、京に向かう最後の難所の鈴鹿峠「坂は照る照る、鈴鹿は曇る、あいの土山雨が降る」と鈴鹿馬子歌から題材を取ったもので、しとしと降る春雨に打たれながら、大名行列が続いている絵が描かれている(画像はリンクの土山参照)。
尚、冒頭掲載の「庄野の白雨」の画、それに、「大磯」「土山」にリンクされているところにあるものはWikipedia掲載のものであるが、余りきれいなものではない。これら画像は、以下参考に記載の※10:浮世絵のアダチ版画研究所:歌川 広重 「東海道五十三次」の物が綺麗なのでそこを見られたほうが良いよく理解できるだろう。又、上掲3種3ヶ所の説明文は、そのアダチ版画研究所での説明文を引用させてもらっている。
これら広重の雨の絵は、特徴的で、いずれも点ではなく線として雨を描き記号化されているが、それぞれに微妙な違いを表現している。浮世絵は西洋の印象派の画家たちにも影響を与えているが、ゴッホが模写したとして有名なのが、広重晩年期の傑作名所江戸百景の中の雨の作品「大はしあたけの夕立」である。ここ参照。
向かって右がゴッホの絵だが、ゴッホにしても、広重の微妙な雨の表現は出来ていないよな〜。
因みに、この絵は、日本橋側から対岸を望んだ構図である。「あたけ」というのは隅田川にかかる新大橋の河岸にあった幕府の御用船係留場にその巨体ゆえに係留されたままになっていた史上最大の安宅船でもある御座船安宅丸(あたけまる)にちなんで、新大橋付近が俗にそう呼ばれていたからだそうである。
参考:
※1;南京町 春節祭
http://www.nankinmachi.or.jp/event/shunsetsu/2012/schedule.html
※2:吉田光由の古暦便覧について
http://www5.ocn.ne.jp/~jyorin/kirisitankoreki.pdf#search='暦便覧とは'
※3:森川和夫のホームページ
http://homepage3.nifty.com/morikawa_works/index.html
※4:常用漢字:読み書き使い方字典
http://www.geocities.jp/ssiq160/
※5:たのしい万葉集: 大伴家持(おおとものやかもち)
http://www6.airnet.ne.jp/manyo/main/poet/yakamochi.html
※6:東アジア文明の語るもの( 出典 : 2004年7月20日 朝日新聞 )
http://www.geocities.jp/sugiurajunzou/inbanuma_higasiajiabunmei.html
※7:メソアメリカの宗教
http://yottyan.blog.sonet.ne.jp/2007-02-08
※8:アンデス・シャーマンの世界
http://www.sizen-kankyo.net/bbs/bbs.php?i=200&c=400&m=260497
※9:『エコロジー−起源とその展開−』アンナ・ブラムウェル著/河出書房新社
http://homepage3.nifty.com/martialart/bramwell.htm
※10:浮世絵のアダチ版画研究所:歌川 広重 「東海道五十三次」
http://www.adachi-hanga.com/ukiyo-e/item/hiroshige_tokaido53.htm
雨が育てた日本文化(Adobe PDF)
http://www.skywater.jp/pdf/20050630_no2.pdf
一神教と多神教
http://www9.wind.ne.jp/fujin/rekisi/onryo/onryo03.htm
日本神話における南方的要素
http://japanese.hix05.com/Myth/myth01.html
日本の神話 古事記
http://www15.plala.or.jp/kojiki/
知恵と駄文の神殿
http://www.moonover.jp/bekkan/mania/index.htm#4
五元集 - Waseda University Library - 早稲田大学
http://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/he05/he05_04419/index.html宗教における共生と教育の意義(Adobe PDF)
http://www.lib.u-bunkyo.ac.jp/kiyo/1999/kyukiyo/MINESIMA_380.pdf#search='宗教における共生'
双魚宮 ‐ 通信用語の基礎知識
http://www.wdic.org/w/CUL/%E5%8F%8C%E9%AD%9A%E5%AE%AE
二十四節気(にじゅうしせっき)
http://jinennjo.web.fc2.com/z1zatu/spot/sekki24.html
二十四節気 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%8C%E5%8D%81%E5%9B%9B%E7%AF%80%E6%B0%97

ビスケットの日

$
0
0
日本記念日協会の記念日に「ビスケットの日」がある。
全国ビスケット協会(※1)が1981(昭和56)年に制定したもの。
ビスケット(biscuit) の殆どは、小麦粉を主材料に牛乳、ショートニング、バター、砂糖など副原料を混ぜて、サクサクした食感に焼いたものであるが、使用される副原料の組み合わせによって種類は様々。ビスケットの仲間には他に、クラッカー乾パン、カットパン(乾パンと同じような製法で水分がやや多く、砂糖ミルク等の副原料も多く、乾パンとパンの中間的な製品。)、プレッツェルパイ、またこれらの加工品がある。
加工品には、クリームサンド、ジャムサンドなどのサンドもの、チョコレートや砂糖をかけたものなど、すべて加工品として分類されている。これらのビスケット類は、小麦粉を主原料として練った生地を成熟して焼くという点が共通している。
日本では、ビスケットとクッキー両方の名前が使われているが、実はこれは同じ意味。ただ、菓子業界では糖分や油分が多めの、手作り風のものを、クッキーと呼んでもよいという決まりがあり、区別して使われることもあるが、海外では日本でいうところのクッキーの区別は存在せず、英国では両者をビスケット、米国では両者をクッキーと呼んでいる。
ビスケットの名は、フランス語のビスキュイ(biscuit)から来ている。フランス語においてbisは「2」を意味する接頭語もしくは「2度」を意味する副詞であり、cuitは動詞cuire(「焼く」を意味する)の過去分詞形であるため、全体として「二度焼いたパン」という意味を表ているという。これをさらに遡っての語源はラテン語のビスコクトゥス・パーニス(biscoctus panis)「二度焼いたパン」からだとか・・。
これは保存食として作られた堅パンを指ししているそうだ。 ビスケットをフランスでは「ビスキュイ」、ドイツでは「ビスキュイート」イタリアでは「ビスコッティ」などと呼ばれているのも、ここからで、いずれも2度焼かれたという意味をもっている。
「クッキー」の語源はオランダ語の「クオキエ」(koekje又略式のkoekie)「小さなケーキ)」からで、アメリカに渡ったオランダ人が自家製の菓子をクッキーと呼んだのが始まりだとか。
米国でいうビスケットは、生地にショートニングやラードを加え、重曹ベーキングパウダーで膨らませた、外側はサクサク感で内側はふっくらとした食感のあるパン/ケーキのことをいい、英国のプレーンのスコーンとよく似ているが、動物性油脂のバターを使うスコーンに較べて植物性油脂のショートニングを使うビスケットは油気が少なくあっさりしているようだ。
朝食として供されるほか、料理の付け合わせや菓子類に加工されることもある。料理ではグレイビーをかけたり、焼いたハムやソーセージを挟んで食べることもあり、アメリカ南部料理によく使用されているようだ。また本来のショートケーキはスポンジケーキではなくこのビスケットを土台に用いたものを指すという (ショートとは「サクサクしている」「崩れやすい」という意味だそうだ)。
日本ではケンタッキーフライドチキンがこのタイプのビスケットを販売している(※2)。
つまるところ、小さなケーキを意味するオランダ語のkoekjeまたは(略式の)koekieから、北米にてオランダ語から英語に派生。アメリカ英語から、ビスケットが一般的な語であるイギリス英語に広まったようだ。だから、クッキーは北米だけで使われる言葉で、それ以外の英語圏では一般的にビスケットと呼ばれている。
このように、クッキーとビスケットは国・地域や言語によって、混同されていたり異なるものであったりと定義はまちまちのようであるが、日本では、先にも書いたように、ビスケットとクッキー両方の名前が使われているが、日本でのクッキーとビスケットの違いについては、1971(昭和46)年に施行された「ビスケット類の表示に関する公正競争規約」(※3)において、明確な定義づけによる区別をし、ビスケットのうち、クッキーと表示することができるものとして、施行規則第3条には、以下のものを掲げている。
(1) 「手づくり風」の外観を有し、糖分、脂肪分の合計が重量百分比で40%以上のもので、嗜好に応じ、卵、乳製品、ナッツ、乾果、蜂蜜等により製品の特徴づけをおこなって風味よく焼きあげたもの。
(2) その他、全国ビスケット公正取引協議会の承認を得た場合。
では、なぜ日本だけ、こんな定義づけをしたのか・・?
それは、当時の日本にあって、「クッキー」は「ビスケット」よりも高級だと思われていたため、安価な「ビスケット」を「クッキー」の名称で販売するのは、消費者に誤解を与える恐れがあるとの判断から、定められたものだそうである。
ただ、この規約は日本ビスケット協会による自主ルールであるため、協会に加盟していなければこれに従う必要はないらしい。日本で協会に加盟のところは冒頭に述べたビスケット類の製造物には、袋又はパッケージの商品名にその区分を併記することが義務づけられている。まあ、このような国内での規約はあるものの、複雑であり、輸入品も多く、実際には、消費者のイメージで分けられているのが実状ではないかという。
ビスケット工場が、近代企業として独立するまで、パン工場に従属していた。その理由は、その出発点がパンの仲間と考えられていたからのようだ。
人類がパンを作り始めたのは、石器時代後期のこと。今から1万年も昔にさかのぼる。当時のバビロニア人は、小麦粉を発酵させる原理も知っていたそうで、チグリスユーフラテス河一帯に栄えたバビロニア遺跡からは、小麦粉をこねてパンを作った道具や、その様子を描いた壁画が発見されているという。
ヨーロッパでは古代から航海や遠征のための食糧として、日持ちをよくするために、パンを乾燥させてもう一度焼いたもの(堅パン)を持って出かけたという。当時の言葉では食糧としてのパンと、菓子としてのビスケットとは明瞭に区別されていなく、混用されていた。これがビスケットの始まりと伝えられている。
ギリシャを経てヨーロッパに広まったビスケットは、探検家のコロンブス(1492年出航)やマゼラン(1519年出航)も長い航海にのり出す時に、大量のビスケットを積み込んだという話が残っている(参考4、※5、又※6:「不思議館」の〜史実に隠された衝撃的な話〜>“コロンブスの真実”や〜海にまつわる恐ろしい話〜>“大航海時代の実情”を参照)。
尚、※5:の「グロリア・スコット号事件」とは、コナン・ドイルによるシャーロック・ホームズシリーズの短編小説の一つである。
「堅パン(ビスケット)」の歴史は古いが、それが何時生まれたのか正確なことは定かではないが、コロンブスの時代以前から航海用また軍隊用の保存食として必須食品だった。
Dr. Johnson(サミュエル・ジョンソン。Samuel Johnson)の英語辞典(1755年初版)には「遠洋航海用に(保存性を高めるため)四度焼く」との説明があるらしい(Wikipedia)。
同じビスケット類の「乾パン」は堅パンの亜流で堅パンは、乾パンと比べ非常に堅いのが特徴。別名ハード・タック(Hardtack)と言い、南北戦争(1861年 - 1865年)時に米兵の間ではアイアンプレート(鉄みたいに堅い)と蔑称されたというから、「ハードタック」はまさしくハード・ビスケットの中のハード・ビスケット(まさしく硬派)だったのだろう。
現代に近いビスケットが本格的に作られるようになったのは16世紀になってからで、ヨーロッパの宮廷で盛んに食べられるようになり、色々な味やおいしさが工夫されるようになったようだ。
イギリスのエリザベス女王は、技師オスボンに命じて宮廷に焼き釜を作らせ、ビスケットを焼かせたといわれており、また、フランス王妃、マリー・アントワネットも宮廷でビスケット作りをさせていたそうで、ビスケットにオスボン、マリーという名が残っているのも、そのためだといわれている(※7)。
やがて産業革命(1760年代)が起こり、製造機械も高度化して大量生産されたため、一般にも普及し、ヨーロッパからアジア他世界各地へ伝えられた。
日本には、戦国時代の16世紀の中頃ポルトガル人によって、鉄砲やキリスト教などとともに、カステラ金平糖、等いろいろな南蛮菓子と共にビスカウト(ビスケット)が日本に伝えられた(年代は諸説あり)といわれている。
ところで、よく知られている長崎名物として有名なカステラという名の菓子は、ポルトガルには無く、その原型とされるものは、ポルトガルの隣、当時の大国カスティーリャ王国(スペインの前身)のポルトガル語発音である「カステーラ」(Castela)からとされているそうだが、カステラの基本材料は、小麦粉と卵と砂糖であるが、これに近いスペインの伝統菓子を探してみると、ビスコッチョ(BISCOCHO)という菓子があり、ビスコッチョそのものは、現在のスペインではごく普通のスポンジ菓子だが、その発生は、遥か中世に遡ると、歴史的な菓子であり、その名は“BIS+”COCHO“で、二度焼いたパンの意味である。
冒頭にも書いたように、ビスケットと同様、元は乾パン状の非常に堅く、日持ちのよい物であったが、時代の経過とともに多少とも柔らかいスポンジ状の菓子もビスコッチョと言ったのだろうという。しかし、日本に渡来した当時のカステラ=ビスコッチョは、現在のものよりは、かなり堅く、ぼそっとして、甘さが少ない物であったと思われるという(参考※8参照)。
この様なビスコッチョ=カステラは、その後日本人の嗜好に合わせて、配合、形態等に創意工夫が加えられ、技術の改良が重ねられ、特に明治以降水飴を多量に配合した今日見られるしっとりとしたビスコッチョとは似て非なる我が国独自の「カステラ」が完成されるに至っている。
日本は、稲作農業の国であり、古くから米などで作った糒(ほしい・ほしいい:乾飯とも書く)と呼ばれる保存食・非常食(アルファ化米)が存在していた。
例えば『伊勢物語』第九段…”から衣”の「東下り」の段で在原業平が糒の上に涙をこぼしてふやけてしまうという場面は良く知られている。

上掲の画像は、『伊勢物語』東下りの段で、“ある沢のほとりの木陰におりて、乾飯食(かれいひ)を食べている”くだりの図である(画像は、以下参考に記載の※9:「関西大学電子図書館:伊勢物語」より借用)。
乾飯は、読んで字の如く、蒸した米(ご飯)を天日に当てて干し、湯や水に浸し、ふやけさせて食べたり、あるいは水を加えて炒めたり、茹でて戻したりして食べた。
乾燥させてあるので軽く、雑菌も繁殖しにくい上、水を加えさえすればすぐに柔らかくなるので、旅先での携行食料品としてとても便利な現代のアルファ化米の元祖のような優れものであったと言っていいだろう(※10「:つれづれ化学草紙_乾飯の巻_伊勢物語」で伊勢物語のこの段と“乾飯”の詳しい解説がされている)。
鎌倉時代よりは「糒」の漢字が使われるようになったが、それ以前には「干し飯」(ほしめし・ほしいい)とも呼ばれていた。
大人数の食糧をまかなう上で、糒は保存性がよく軽量で運びやすいこともあって、軍事用の携帯食(兵糧)などで戦国時代などに広く盛んに利用されていたが、多少調理しないとそのままでは食べにくいため、各藩はその他にもいろいろな保存糧食を研究していた。
そのようなとき、ポルトガル人によって持ち込まれたビスケット(堅パン)は当時日本人にはちょっと異質な味だったので、あまり人気がなく、長崎周辺で外国人向けにだけ作られていたようだが、面白いことに、16世紀末から17世紀初めにかけて、日本で作られたビスケットがルソン(フィリピン)に輸出されていたという。以降、江戸時代に、パンやビスケットが日本人に食べられたという記録がないのは、当時のキリシタン禁制(バテレン追放令)も関係していたのであろう。
日本に入ってきたビスケット(堅パン)が、日本人の手によって作られたのは、1840(天保11)年に中国で起こったアヘン戦争がきっかけであった。東洋一の大国であった清国が敗戦して植民地化されていったことに、日本人はかなりの衝撃を受けるとともに、次に狙われるのは日本かもしれないという危機感を強く感じていた。
そのため、徳川幕府は、日本にも外国軍が攻めてくることを恐れ、兵糧としてパンを作らせたという。米飯では炊くときの煙が敵方にとって格好の標的になりかねないが、それに比べ、固いパンは、保存性と携帯性などの面で「糒」よりもよりすぐれていると考えたからだ。幸い、この非常食は活用されずにすんだが、このときパン作りの指揮をとったのが反射炉で有名な伊豆韮山の代官江川太郎左衛門(英龍)だとされ、パン業界では、彼を、日本のパン祖と呼んでいるようだ(※11)。
ここで、保存性と携帯性の面ですぐれている固いパンというのは、ビスケット(堅パン)のことだろうが・・・。初めて堅パンが焼かれたのが1842(天保13)年4月12日であることから、この日を記念して、パンの業界では毎月12日を「パンの日」としている。しかし、それがどのような資料的根拠によっているものかは明示されていないのでよく判らない。
江戸にいた江川が、どうして、パンのことを知ったのかは知らないが、長崎町年寄高島茂起(四郎兵衛)の3男として生まれた高島 秋帆が、出島のオランダ人らを通じてオランダ語や洋式砲術を学び、このころ、幕府からは砲術の専門家として重用され、江川らに師匠として砲術を伝授していた。だから、彼は、当然、長崎で堅パンが焼かれていたことを、知っていただろうし、それが、非常食にて適したものとして目をつけていただろうから、彼が江川に乾パンの製作を奨励したのではないかと言うことは類推できるので、それを聞いて、江川がパンの製造を指揮した・・ということは考えられる。
日本で、はじめてビスケットに関する記述が文献上に登場するのは、幕末に長崎で開業していた水戸藩の蘭医柴田方庵の日記である。水戸藩は、ビスケットが“保存のきく食糧であることに注目。
1854(安政元)年、水戸藩から兵糧になる西洋の保存食として「パン・ビスコイト製造」を習得し報告するよう依頼を受けた彼は、オランダ人からビスケットの製法を学び、1855(安政2)年にその製法書を送ったことが方庵の日記に書かれており、これが日本でビスケットが作られたことが明確にわかる最も古い記録であり、その日記が2月28日であったことから社団法人全国ビスケット協会は、この日を「ビスケットの日」と定めている。
又、幕末の名君といわれた島津斉彬は、新日本建設の理想をいだき、幕政および藩政を改革し西洋文化の輸入に努め、日本の最先端を行った集成館事業により洋式の軍艦や大船を建造し、紡績、硝子、陶器、その他各種の近代的産業に着目し、その製造に当たったが、その一環として「蒸餅(むしもち)」をも製造していたという。「島津斉彬言行録」では、斉彬が、軍用のため、蒸餅数千個の製造を命じ、1〜2年は虫が付かない備蓄方法を研究するよう言及している。日本では、「パン」のことを古くは「蒸餅」ともいっていたようで、この「蒸餅」はその目的からいって乾パンに近いものであったろうといわている。なお、薩摩藩出身に大山巌元帥がいるが、この人は、パン祖と言われている江川太郎座衛門(英龍)の弟子である。
そして、明治元年6月、江戸の風月堂は薩摩藩の兵粮(ひょうろう・兵糧)方からの要請によって、東北征伐(戊辰の役)用の兵粮パン(兵粮麺包【めんぱお=中国語で「パン」】)を焼いたが、当時の記録によるとそれは黒胡麻入りのパンであったという。斉彬がつくらせた「蒸餅」の製造ノウハウが薩摩藩から風月堂に伝えられたのかもしれない。ただ、明治時代の風月堂のビスケット広告には「乾蒸餅(ビスケット)製造之要趣」と題しているように、この時、薩藩兵粮方より製造を命じられたとき作った黒胡麻入りの麺包はビスケットであるとしている。(※12、※13参照)。
その後、江戸幕府が大政奉還し、明治政府が樹立した時に、富国強兵政策により日本にも近代的な軍隊が創設され、外国の軍隊を模範とする様になった。
新生日本帝国軍は食事も西洋風を取り入れるようになるが、日清戦争(1894【明治27】年7月-1895年【明治28】年3月)を経て、海外にも進出した日本軍は、国内とは違って戦線が拡大し補給線が延びると、末端まで糧食をスムーズに配給するのが難しくなるという兵站上の問題が発生し、そこで、手軽に食べられる携行食の重要性を痛感した軍は、技師を欧州に派遣し、ドイツ式の横長ビスケットを参考にして、簡易携帯口糧として開発したものが「重焼麺麭 じゅうしょうめんぽう (意味は二度焼いたパン、すなわちビスケットのこと)」であり、日露戦争(1904【明治37】年2月- 1905【明治38】年9月)後、軍用食の改良が行なわれ、5%ほどのもち米を入れたり、おにぎりのような感覚で胡麻をまぶすようにった。
「重焼パン」の名称は“重傷”にも通じるとして忌み嫌い、その後「乾麺麭(かんめんぽう)」と改められた。昭和期には更なる改良が行われ味形共に現在の姿と変わらないものとなり、同じく名称呼称も「カンパン(乾パン)」となった。カンパンは、その性格上味付けがされていない。旧陸軍が研究開発した当時は、7年半の保存を目標としたため、糖、脂肪を除く必要があったからである1920(大正)年に、糖分を補う目的で金米糖をカンパンと一緒に入れるようになった。
現在でも、カンパンは自衛隊の非常用糧食に使われており、大型と小型の2種類がある。大型のものは海上自衛隊で採用されており、大きさはおおよそ縦8cm、横5.5cm、厚さ1.5cm、重さ23g。表面に15個の針穴がある。これを10枚1包として1食としている。チューブに入れられた水飴も配布される(カニヤ製、※14参照)。小型のものは、陸上自衛隊と航空自衛隊で採用されており、大きさはおおよそ縦3.2cm、横1.8cm、厚さ0.7cm、重さ3g。表面に2個の針穴がある。これを150g分、そして金平糖15gを同梱して1食としている(三立製菓製)そうだ。なお。「カンパン」のことについては、参考※15:「THE戦闘糧食」の “帝国陸軍伝統の非常食”の項に非常に詳しく記されている。
ポルトガル人によって、持ち込まれた菓子類は南蛮菓とよばれていたが、その中のビスケットは改良され、日本では戊辰戦争以降の軍事用の携帯食料「カンパン」として発展し活躍した。これを日本で、ビスケットとして本格的に販売を始めたのが風月堂・・・。※16:「お菓子@おやつ情報館!ICHIGO村」によると、1875(明治8)年、米津風月堂(当時の番頭の米津松蔵が、風月堂総本店より暖簾を分けしてもらい起した店)で機械を使い本格的なビスケットの製造を開始した・・・とある。
南蛮菓子は、明治時代になって鎖国令が解かれると、海外からビスケット、クッキー、キャンディー、チョコレート、スポンジケーキなどが輸入されるようになり、和菓子と区別するために洋菓子とよばれようになるが、日本の菓子は革命とも言える大転機を迎える事になった。
大航海時代からの経済発展により完成の域に達したフランス菓子などが伝えられる一方で、産業革命により機械化効率化した菓子製造法まで一気に伝来し、日本の「洋菓子」として幅広い発展を見る事となった。
日本での洋菓子の生産は1900年(明治34年)ごろ、ビスケットやドロップの生産から始まった。
大正期に入るとキャラメルやチューインガム、マシュマロなど種類も増え、メーカーが競って販売するようになり、工場の量産体制も整って安く買えるようになり、ハイカラなお菓子として庶民に好まれるようになっていった。

山のおくの谿(たに)あひに
きれいなお菓子の家がある
門の柱は飴ん棒
屋根の瓦はチョコレイト
左右の壁は麦落雁(むぎらくがん)
踏む鋪籍石がビスケット
あつく黄色い鎧戸も
おせば零(こぼ)れるカステイラ
静かに午(ひる)をしらせるは
金平糖の角時計

西条八十童謡全集』(1924年新潮社刊)に掲載されたお菓子の家のくだりである(全文※17参照)。お菓子に寄せる子供たちの夢そのものを顕わしている。
この頃、つまり、第1次世界大戦が勃発した1914(大正3)年、創業(1899【明治32】年)から16年目に、今の森永製菓が、芝田町工場内にビスケットの焼き窯を新設し、東南アジア市場への輸出用ビスケットの試作にとりくみ、翌1915(大正4)年から、ビスケットの生産販売を開始し、ビスケット分野への進出を果たしたが、当初は輸出向けで、国内向けは1923(大正12)年から。国内向けのビスケットは一切販売しなかった理由は、当時国内では、外形のみにこだわった品質上問題のある粗悪品のビスケットが多く出回っていたからだとか・・・。それは品質へのこだわりで、本格的に国内でビスケットを製造販売するために1920(大正9)年、新工場『塚口工場』(塚口:兵庫県尼崎市塚口町)を建設し、欧米の製菓会社に匹敵する近代的生産設備を設け、最新鋭の機器を集め行った。その生産量は、当時東洋一だったそうだ(※18)。その後、多くの製菓会社が創立された。
現在日本の国内問題としては、以前から少子高齢化の影響が言われて来たが、2005(平成17)年前後から実態経済、各産業分野でその影響が顕在化ており、各企業の経営者たちも難しい舵取りに迫られている。従来からの生産の海外シフト戦略から、販売も海外市場を重視するようにその経営戦略を転換させてきた企業も数多く見られるが、菓子の国内市場も1992(平成4)年をピークに減少傾向にあるようだ。菓子業界は昔から小規模な生産者が多いが、チョコレート、スナック菓子、ビスケット、チューインガムなどの分野でも、大手の寡占状態と言って良いほど競争が激しい。その中で、ビスケットでは、ブルボン22.7%、森永製菓9.4%、不二家8.6%となっているようだ((2006年。※19参照)。
なお、2010(平成22)年時点での日本国内の菓子市場全体の推定生産数量および金額推移(全日本菓子協会)は、参考※20をみると判る。
(冒頭の画像、クッキーとビスケット及び、中間でのカンパンの画像はWikipediaのものを使用)
参考:
※1:社団法人・全国ビスケット協会
http://www.biscuit.or.jp/top.html
※2:ケンタッキーフライドチキン|商品情報|
http://www.kfc.co.jp/menu/detail/index.cgi?pid=OR_side_01
※3:ビスケット類の表示に関する公正競争規約 規 約 施 行 規 則(Adobe PDF)
http://www.jfftc.org/cgi-bin/data/bunsyo/A-15.pdf#search='ビスケット類'
※4:異文化に出会う時Part3:ピガフェッタの不思議な旅前篇 | 高畑由起夫
http://kg-sps.jp/blogs/takahata/2011/06/13/4514/
※5:《グロリア・スコット号》事件の食卓風景
http://homepage2.nifty.com/shworld/21_dining_table/19/glor.html
※6:不思議館
http://members.jcom.home.ne.jp/invader/
※7:豆知識:イトウ製菓
http://www.mr-ito.jp/trivia.html
※8:カステラ物語 - カステラ銀装のホームページ
http://www.ginso.co.jp/sweets/story/main.html
※9:関西大学電子図書館:伊勢物語
http://web.lib.kansai-u.ac.jp/library/etenji/isemonogatari/ise-top.html
※10:つれづれ化学草紙_乾飯の巻_伊勢物語
http://chem-sai.web.infoseek.co.jp/sosi_kareii.htm
※11:パンのはなし【パン食普及協議会】
http://www.panstory.jp/index.htm
※12:九州地方パン業界の暦譜
http://www.panstory.jp/books/100nennshi/data/kyusyu.pdf#search='島津斉彬言行録 蒸餅'
※13:風月堂のビスケット事始 - 鹿児島の情報は南日本新聞
http://373news.com/_bunka/jikokushi/131.php
※14:カニヤhome
http://www.yin.or.jp/user/kaniya/
※15:THE戦闘糧食
http://10.studio-web.net/~phototec/
※16:お菓子@おやつ情報館!ICHIGO村
http://www.osmkj.com/
※17:赤い鳥の童謡: お菓子の家
http://redbird-tatsu.blogspot.com/2007/08/blog-post_2730.html
※18:ビスケット|森永製菓
http://www.morinaga.co.jp/biscuit/
※19:成熟する国内市場と日本の 洋菓子メーカーの経営戦略(Adobe PDF)
http://dspace.wul.waseda.ac.jp/dspace/bitstream/2065/32179/1/WasedaSyogaku_417_00_002_Miyashita.pdf#search='ビスケット メーカー別 販売シェアー'
※20:日本の菓子推定生産数量および金額推移
http://phototec.hp.infoseek.co.jp/kanpan2.htm

伊勢物語 現代語訳 群論編付
http://teppou13.fc2web.com/hana/narihira/ise_story.html
日本記念日協会
http://www.kinenbi.gr.jp/index2.html
ビスケット - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%93%E3%82%B9%E3%82%B1%E3%83%83%E3%83%88

神田の錦輝館で東京で初めて映画が公開された

$
0
0
錦輝館(きんきかん。1891年10月9日 開業 - 1918年8月19日 焼失)は、かつて東京に存在した日本の映画館であり、1891年(明治24年)10月9日、東京府東京市神田区錦町(現在の東京都千代田区神田錦町3-3)に開業した。
錦輝館が開業した1897(明治30)年当時の神田駿河台を中心とする地域は学者・医者・華族。財界人の高級住宅地として発展した。駿河台は、その地名のとおり、昔は東京から富士山を見る名所の一つで、永井荷風の生育地でもあり、随筆『日和下駄』(※1参照)にも登場する。
この駿河台に対して、低地の神田小川町周辺の繁華街はキリスト教各派の社会改良運動を手段とする伝道の絶好の舞台であった。
1891(明治24)年2月には神田駿河台東紅梅町の旧火消屋敷跡(定御火消 蒔田数馬之助 役宅跡)にハリスト(キリスト)復活大聖堂(東京復活大聖堂・ニコライ堂)が建設された。
さらに、1894(明治27)年に、東京基督教青年会館(のちの神田YMCA、2003年閉館)が完成し、1000人を収容する大講堂が出来、労働運動の発火点となる演説会が盛んに開催されていた。
この東京基督教青年会館の中には、1898(明治31)年1月に、日本医学図書館が開館。1891年(明治24)年10月9日には錦輝館が開場したが、この錦輝館は、日本医学図書館の維持費を得るための集会場(貸席)として作られた(※2参照)ものだそうで、東京基督教青年会館と並んで職人・学生を中心とする政治運動・社会運動の中心地として知られ、府下に於ける学生の巣窟といわれていたようだ。
そのようなことから、ここは、後に赤旗事件の舞台となったことでも知られている。
1891(明治24)年に御茶水橋が駿河台西紅梅町と本郷湯島3丁目との間に架けられて以降、この神田本郷の間の交通が便利になり、この辺りの往来が増えた。
そして、錦輝館で1897(明治30)年の今日・3月6日から「電気活動大写真会」と銘打ち、東京初のヴァイタスコープによる映画の上映会が行なわれた。
映画の歴史上、19世紀後半に、写真を動かそうとする試みが相次いだ中で、日本では、まだ独自に映画の撮影機・上映機は開発されていなかった。そのため、日本における映画は、機械の輸入から始まった。
1891(明治24)年にアメリカの発明王トーマス・エジソンらが発明した(実際の開発者は、ウィリアム・K・L・ディクソンだという)「キネトスコープ」は、スクリーンに映写されるのではなく、大きな箱の中にフィルムを装填し、のぞき窓を小窓から中を覗き込むという非投影式の映画装置であり、一度に一人しか見られず、とても今日の映画と同じ物とはいえないものの、ブロードウェイで動く写真が一般公開されると世界の人たちが驚いた。とにかくこれが、世界最初の映画(動く画像)を観る装置ではあった。
日本でエジソンが発明したキネトスコープとフィルムを輸入し、初上映したのは、1896(明治29)年、神戸相生町の鉄砲火薬商高橋信治によるもので、最初の披露は皇族を招いて知事の別荘で行われ、引き続き、花隈の神港倶楽部(当時の神戸在住財界人の社交場)で、11月25日から5日間一般公開の興行が打たれた。
興行は10種類のフィルムを日ごとに分けて行ったという。見る時間は1,2分ですぐに終わってしまうため、長い説明を交えて行ったという。装置は、非常に幼稚なものだったが、兎に角写真が動くということが当時としては大変珍しく、話題を賑わし人気が良かったので、当初予定されていた上映を、12月1日まで日延べしたそうで、キリの良いこの日を、映画産業団体連合会が、日本における映画産業発祥の年、明治29年(1896年)より数えて60年目にあたる昭和31年(1956年)に、この12月1日を記念日として設定した。このことは、前にこのブログ12月1日、「映画の日」でも書いたことがある。
しかし、キネトスコープはのぞき箱の中の小さな映像でしかなかったため、その後人気が続かず、又、すぐに上映機が輸入されたために、その人気は短命であった。
一度に多くの人が鑑賞できるスクリーンに投影される形の映画(シネマ)は、リュミエール兄弟による「シネマトグラフ」の発明(1895年)を待つことになる。
そして最初の商業公開(有料公開)がリュミエール兄弟によって行なわれたのが同年12月28日、パリグラン・カフェ地階のサロン・ナンディアン(現:ホテル・スクリーブ・パリ)であった。
その際、上映されたフィルムは「工場の出口」を含む10本の短編映画だったと言われており、スクリーン上の人が歩く映像や、列車が近づいてくる映像に大勢の観客が興奮した。
これが今日の映画上映のスタイルと同じ物であったことから、一般的には、この日が映画の誕生日と見なされている(Wikipedia -映画の日参照)。

上掲のものが、フランスリヨン(フランスにおける金融センターのひとつであり、永井荷風が横浜正金銀行の社員として滞在したこともある)のリュミエール社が独自に開発した動く“写真映写装置”「シネマトグラフ」(Wikipediaより)で、撮影機、映写機、焼付け機をかねていた。リュミエール社はシネマトグラフを発明後、この装置を販売せず、その市場を独占的に拡げていた。
まだ、アメリカにシネマトグラフが輸入される以前の1896年、キネトスコープが、人気がなくなり落ち込んでいたエジソン社が発明したものとして1986年4月に発表されたものがヴァイタスコープ(キネトスコープの改良型。スクリーン投射可能)であった。何でもこの映写機はトーマス・アーマットという人の発明品の権利を買い取ってエジソンの発明品としたものとのことである(詳しくは、参考※3:「映画の歴史という名の無間地獄」映画の歴史>エジソン社のヴァイタスコープを参照)。
1897(明治30)年、リュミエール社のシネマトグラフやこのエジソン社のヴァイタスコープがほぼ同時に輸入され、日本でも映画の上映が行われるようになった。
シネマトグラフを初めて日本に持ってきたのは、京都の著名な実業家であった稲畑勝太郎(現:稲畑産業の創業者。※4参照)であった。
リュミエール兄弟の兄オーギュストと稲畑とは、稲畑が京都府師範学校(現京都教育大学)の学生時代、当時の最先端染色技術を学ぶためにフランスに留学していたとき、リヨンの、リヨン工業学校で学んでいたときの同級生であり友人でもあったという。
その稲畑が紡績機械購入のために渡仏したときオーギュストと再会し、シネマトグラフを知った。
当時京都で染料会社を営んでいた稲畑が、畑違いの映画にどうして、それ程興味を持ったのかは知らないが、発明されたばかりの映画(シネマトグラフ)を見せられて、よほど感激したのだろう、リュミエール社の日本における代理人となった。それには、リュミエール社がシネマトグラフを発明後、技師を養成して、世界各地にカメラマンを派遣し、風物を撮影させていたが、そのような社の方針からも、東の果てのジャパンの風俗の撮影にも興味があったからだろう。
1897(明治30)年1月、稲畑は、リュミエール社がシネマトグラフの映写・撮影のために同行させた技師・フランソワ・ コンスタン・ジレルと共に映写機材一式をもって、神戸に到着した。
京都では、当時の電気設備が乏しい時代、屋内での映写が不安なためか、京都四条河原町の京都電燈会社(現関西電力)敷地内で試写を行った後、同年2月15日から28日にかけて大阪の南地演舞場(後の南街会館)にて本邦初の一般公開を行った。
多数の人で同じスク リーンを見るという盛り上がりで雰囲気がのぞき方式とはまるで違ったようだ。 大阪では連日超満員で場外の柵は壊され、札止めで帰った人が多く いたという。続いて京都の新京極元東向演劇場、神田の川上座、横浜の港座と各地で公開されていったが、興行成績は至って良好で、さ らに地方興行に移って行った。
このとき映写機とともに持ち帰ったフィルムの種類は「フランス士官の騎馬演習」 「パリ中学生の水泳」 「リオ ンの市街」 「パリの踏会」「テームズ河畔の舟遊び」など欧米の風俗を撮影した一種2〜3分のもので、一興行40分から1時間に組み合わせて公開しという。
この時の大阪ミナミの南地演舞場での興行が、一般的には日本で最初の映画興行であるといわれている。又、この興行を委託されたのが、後に日活(日本活動写真株式会社)の創立に中心的な役割を担った稲畑の友人であった高木永之助(のちの横田永之助)であった。
高畑が直接興行を手掛けなかったのは、当時、興行の世界は、任侠が仕切っているヤクザな仕事として見られていたため、堅気の世界で、一流事業家を自負している稲畑が、興行のしきたりに明るい高木に興行権を譲ったようだ。
このシネマ トグラフの初公開 (大阪) から20日ほど遅れて別ル一トの機械が入ってきた。 東京新橋で幻灯機の製作販売を業とする吉沢商会で、在日イタリア人の陸軍砲工学校の講師をしていたプラチャ リーニが持ち込んだものを購入。 これを3月9日から横浜の港座で初披露。同地にある居留地にあるパブリックホールを経て、同月27日から東京神田の錦輝館で興行する。注目すべきはこのとき吉沢商店ではフィルムに彩色して、いわゆる着色映画を試みていたとのことである。
一方、 時をほぼ同じく してエジソン社の映写方式ヴァイタスコープが入ってくる。 輸入元は大阪の西洋雑貨商荒木和一。 シネマ トグラフの初公開から僅か1週間後の2月22日から同じ大阪の新町演舞場(現在の大阪屋本店、西区新町2-5。※5)で上映され、 3月には道頓堀五座のひとつと称された朝日座(※6)に場を移して興行している。 このときはやはりエジソンが発明した蓄音器と併せて上映したといい、吉沢商店のカラー、荒木の音と映画の将来を見据えた試みがすでになされていたようだ。
東京でもヴァイタスコープが貿易と興行物の海外斡旋業の新居商会の手で輸入され、1897(明治30)年の今日・3月6日から「電気活動大写真会」と銘打ち、ヴァイタスコープによる映画の上映会が神田錦輝館で行なわれた。吉沢商店が行なった3月27日興行よりこちらの方が早いので、これが、東京における最初の映画興行の日ということになる。
入場料は、特別:1円、ー等:50銭,、2等:30銭,、3等:20銭と高い(☆1参照)が、内容は「露国皇帝即位戴冠式」 「メ リー女王死刑の舞台」「ナイ ヤガラ瀑布」「群鳩飼養の図」などほかと大同小異。 ただし、このときから十二人のジャズバンドによるオーケス トラが映写に伴奏を加えていた。
又、このときには映画の説明者もついていたようであり、これがやがて初期の日本映画興行界における特徴のひとつである活動写真弁士と呼ばれる存在になった最初の一人十文字大元であった。
何でも、ヴァイタスコープには直流電源が必要で、新居商会に発電のための石油エンジン(石油発動機)を貸し出した十文字商会の人物が十文字大元であり、その縁で手伝うこととなり、同日上映の際の弁士を務めたのだという。又、宣伝を仕切ったのが広告代理店の広目屋駒田好洋であった。駒田は後に、ヴァイタスコープの機械を新居商会から譲り受け、興行を行うこととなる(※7、※2の映画の歴史日本1-1901年参照)。
このブログ冒頭に掲載の画像が、錦輝館での映画上映風景である。【『風俗画報』(※8)1987(明治30)年4月10日号に掲載された「神田錦輝館活動大写真の図」】。上映は常打ちの芝居小屋での珍しい見世物として公開された(『アサヒクロニクル週刊20世紀』1904年号より)。こう した輸入物の映画は、日本ではさかんに競争しあい、業者によってさ まざまに翻訳され広めて行ったが、当時の広告や紹介文によると、キネ トスコープは「活動写真また写真活動 」シネマトグラフは「自動写真、また自動幻画や電気作用活動大写真」、 ヴァイ タスコープは「蓄動射影活動写真、また、活動大写真や、自動幻画、電気作用活動大写真」 などいろいろ使われていたが、やがて、 三者に共通する 「活動写真」 という言葉で統一されるようになる。
多くの文学者が錦輝館で映画をみたことを日記に書き残し、小説に同館を登場させているが、その中で、永井荷風の『ぼく東綺譚』(参考※1のぼく東綺譚参照)では、冒頭から以下のように書かれている。

「わたくしは殆ど活動写真を見に行ったことがない。
 おぼろ気な記憶をたどれば、明治三十年頃でもあろう。神田錦町にあった貸席錦輝館で、サンフランシスコ市街の光景を写したものを見たことがあった。活動写真という言葉のできたのも恐らくはその時分からであろう。それから四十余年を過ぎた今日では、活動という語は既にすたれて他のものに代えられているらしいが、初めて耳にしたものの方が口馴れて言いやすいから、わたくしは依然としてむかしの廃語をここに用いる。
震災の後、わたくしの家に遊びに来た青年作家の一人が、時勢におくれるからと言って、無理やりにわたくしを赤坂溜池(ためいけ。☆2参照)の活動小屋に連れて行ったことがある。何でもその頃非常に評判の好いものであったというが、見ればモオパッサンの短編小説を脚色したものであったので、わたくしはあれなら写真を看(み)るにも及ばない。原作をよめばいい。その方がもっと面白いと言ったことがあった。
しかし活動写真は老弱の別(わかち)なく、今の人の喜んでこれを見て、日常の話柄(わへい。話す事柄。話のたね。話題)にしているものであるから、せめてわたくしも、人が何の話をしているのかというくらいの事は分かるようにして置きたいと思って、活動小屋の前を通りかかる時には看板の画と名題とには勉(つと)めて目を向けるように心がけている。看板を一瞥(いちべつ)すれば写真を見ずとも脚色の梗概(こうがい。物語などのあらすじ)も想像がつくし、どういう場面が喜ばれているかという事も会得(えとく)せられる。
活動写真の看板を一度に最(もつとも)多く一瞥する事のできるのは浅草公園である。ここへ来ればあらゆる種類のものを一ト目に眺めて、おのずからその巧拙をも比較することができる。・・・・」・・・と。

墨東(ぼくとう)というのは、現在の墨田区にあった戦前の玉ノ井という私娼街であり、当時このあたりは東京の郊外であった。
関東大震災後の復興に際して、浅草では銘酒屋の再建が許可されず、亀戸とともに銘酒屋営業が認められた玉の井は、ますます繁栄したという。
『ぼく東綺譚』は1937(昭和12)年、朝日新聞に連載されたものであるが、この小説の書かれた時代背景は、今でいう映画「活動写真」が日本で初めて公開されるなど、日本の文化の中に、西洋の文化がどっと入ってきた時代である。
舞台となった玉の井は、1918、19年(大正7、8年)から関東大震災の後にかけて、浅草にあった銘酒屋街(私娼窟)が移転してきたもので、後の東武伊勢崎線東向島駅(旧名・玉ノ井駅)付近である
小説の主人公であるわたくし大江匡は作者・永井荷風の分身である。永井自身は、1903年(明治36年)渡米後〜1907年までタコマ、カラマズー、ニューヨーク、ワシントンD.C.などにあってフランス語を修める傍ら、日本大使館や正金銀行に勤め、さらに1907年から1908年にかけてはフランスに10ヶ月滞在し、リヨンの正金銀行に勤め、退職後パリに遊び、モーパッサンら文人の由緒巡りをし、帰国後には『あめりか物語』や『ふらんす物語』(『ふらんす物語は届出と同時に発売禁止)を刊行したほどの西洋通であった。しかし、荷風は、当時、まだ、伝統的な文学が存在していた日本には、新しい文化ではなく、日本の文化的なものを求め、女性についても、洋装の現代的女性ではなく、和装の古風な女性を求めている。
だが、震災後に出来た新しい町は自分のイメージと違ったものとなっていた。寺町や裏町や路地を好んで歩いた荷風は、現代(昭和12年当時)のような、ただ狭くむさくるしいものではなく、過ぎ去った時代のうら寂しい情味の残る玉の井で偶然出会った可憐な娼婦お雪に心を癒され、季節のうつりかわりとともに、その交情が消えていくさまを美しくも哀れに描いている。
荷風は『ぼく東綺譚』の中で、映画の広告看板を一瞥すれば実際の映画を見ずとも物語などの概要・あらすじも想像がつくので、映画はあまり見ないが、巷の話題、時代の流れに遅れないように看板を見て映画の内容を把握するよう努力をしている。・・・と言っている。そして、そのころ、最も多くの看板を一瞥する事のできるのが浅草公園であると・・・。
1873年(明治6年)の太政官布告により浅草寺境内が「浅草公園」と命名され、翌年に一区から七区までに区画された中の浅草六区には、浅草寺裏手の通称奥山地区から見せ物小屋等が移転し歓楽街が形成され、演劇場、活動写真常設館、オペラ常設館などが出来て隆盛を誇っていた。
これまでの日本で見る映画、つまり、リュミエール社のシネマトグラフやてエジソン社のヴァイ タスコープは、'すべて海の彼方の出来事や様子を伝えるものであり、珍しい光景などかの国のことはかの国のこととして観客はひとつの距離を置いてみていた。
それでは、 日本を舞台にしたものは当時の映画には全く登場しなかったのかと言うとそうではない。
リュミエール社から派遣され稲垣と共に来日した技師ジレルは、1897 (明治30)年1月から約ー年間京都に滞在し、上映の操作の指導と各地の撮影に従事しており、その行動範囲は極めて広く、京都'、横浜、東京から名古屋、瀬戸内海、長崎、そして函館、室蘭にまで及んでおり、撮影機と映写機を兼ねるシネマ トグラフの特性を生かして、三台のヵメラで興行と撮影を両立させていた。つまり、ジレルは、日本で映画を撮影した最初のカメラマンと言うことになる。

上掲の画像は、ジレルとアイヌの人々である。撮影者としてのジレルは、この年10月初めには室蘭から奥地に入り、アイヌの人々の生活を撮影している。「蝦夷のアイヌ」は貴重なフイルムとなった。左端がジレルである(『アサヒクロニクル週刊20世紀」』1904年号)。
ジレルの帰国後、ジレルに代わってガブリエル・ヴェールと言う人物が派遣され1898 (明治31) 年10月に来日し、4ヶ月ほど東京に滞在して技術指導と撮影にあたっている。また、二人が不在であった時期に、日本人カメラマン・柴田常吉(※9)によっても映画『紅葉狩』(歌舞伎座で公演の歌舞伎舞踊)などが1899(明治32)年に撮影されている(これが、日本人によって撮影された現存する最古の動画とされている)。
ジレルとヴェールの二人が残したものと柴田常吉の作品などリュミエール社による日本での撮影フィルム33本の作品が『明治の日本』と名付けられて、東京の国立近代美術館フィルムセンターに収められているという。これらは、初めて生の日本と日本人を伝えるものであった。
リュミエール社は日本以外の国々にも技師を派遣し、撮影を行っているが、日本を撮影した本数は他の国と比べて多いが、これは、当時フランスを中心としたヨーロッパに「ジャポニズム」と呼ばれた日本趣味・日本心酔があったことから日本の特質を取り込もうというモード(Mode。流行)があったためとも言われているようだ。
ただ、日本で撮影されたフィルムは単なるドキュメンタリーだけではなく、演出がなされており、単におもしろいシーンを撮影したいという意思のほかに、フランス人のイメージに合った日本人像を撮影したいという意思が感じられ、例えば、「田に水を送る水車」という作品では、当時の日本では裸(ふんどし)で農作業を行うという風習はなかったが、撮影では農民が裸のみで作業を行っているシーンが撮られており、これは、日本人は裸でいるものという概念に従って撮影されたものではないかと指摘されている(「映画伝来」)ようだ。
ジレルが帰国した1897(明治30)年の秋までには、東京の小西写真店(後のコニカ)にイギリスのバクスター・アンド・レイ社製映画撮影機B&Wシネマトグラフが輸入された。元々、小西では本機械を輸入販売する為に仕入れたものであったが、製品に取扱説明書がついておらず、試験撮影を行う必要が生じ、この時試験撮影を小西の店員で当時20歳であった浅野四郎が担当した。
撮影の対象となったのは、日本橋や浅草の絵葉書的風景や芸人などの演技をしている人物であり、リュミエール兄弟のように人々の日常の生活のような光景は撮影しなかったという。この時撮影した映像が1899(明治32)年6月20日、歌舞伎座にて一般公開され、日本における活動写真のはしりとなった。
このようにして日本でも映画の上映が行われるようになるが、映画は、最初のうちこそ大衆の好奇心を引きつけはしたものの、映画輸入が活発に生されるわけでも、国内での映画撮影が熱心に行なわれたわけでもなかった。そして、20世紀に入るころには、映画の関心も余りなくなってしまっていたようだ。
1899年(明治32年)6月1日、米西戦争(1898年)についてのアメリカエジソン社のニュース映画『米西戦争活動大写真』が神田錦輝館で上映され、これが「日本初のニュース映画上映」とされているが、このほか、1900年(明治33年)10月18日同館で、「北清事変活動大写真」が上映された。これは日本人カメラマン柴田常吉が撮影した義和団事件の実況フィルムで、日本人によるニュース映画の初めてのものだといわれる(※10)。
このような報道映画は、上映にあたって、大々的に宣伝はされはしたが、こうした映像による出来事の記録が社会的な意味を持つようになるのは、まだ暫く時間が必要だった。
映画の上映は20世紀初頭までは、大都市に限られていた。その場所は演劇のための劇場で、芝居が上映されていない合間を使って行なわれた。また、寄席の1プログラムとして上映されたりするのが普通だったからだ。
日本初の映画専門館(常設館)「電気館」を浅草六区にオープンしたのは、神田錦輝館で映画が初公開された6年後の1903年(明治36年)のことであったが、幻灯と錦絵の商売が本業であり、この2年ほど前から映画の輸入・撮影にも乗り出していた吉沢商店がこの映画館の経営にあたった。この頃になると、上映用映画のフイルムのストックも増え、フイルムと映写機を持った巡業隊が地方を回り映画を上映し始めた。しかし、映画が注目を引くようになったのは、日露戦争がきっかけだった。
大本営写真班が結成され、その中に映画撮影のカメラマンも加えられた。1904(明治37)年5月1日に映画の上映プログラムが加えられて以降、日露戦争関係の映画が興行的に大成功を収めるようになったという(『アサヒクロニクル週刊20世紀』1904年号)。
以下参考の※11「1900年〜日露戦争 - 明治・大正期に日本で公開されたロシア映画」によると、日露戦争が勃発する直前の1903年8月25日の「錦輝館活動大写真」のプログラムは「日英露活動写真」と銘打たれていて正に「ロシアと一戦交えるべし!」と戦争がまだ始まっていないにも関らず、そんな時代の風潮を匂わせていたという。そして、1904(明治37)年2月、日露戦争の勃発と同時に"活動写真"の輸入・製作・上映を手がけてきた吉沢商店は、専属のカメラマンを戦地に派遣。5月1日には、錦輝館にて、この第一報とともに、各国の従軍カメラマンの撮影した映画も一緒にして上映されているという。(「露国番兵の失敗」「露国コサック兵の動作」「露国コサック白昼交戦をなすの実況」日本活動写真会[=吉沢商店]提供。詳しくは※11参照)。
この5月の最初の上映以来東京では、毎週どこかの劇場で、日露戦争映画をプログラムに含む映画上映がおこなわれるという前代未聞の状況となっていたそうだ。日露戦争映画として上映された作品には、外国製のものも多く、記録映画の偽装をした作り物も多く存在していた。こうした偽りの記録映画に対して文句をいう観客もいたらしいが、多くの観客は満足し、映画がスペクタクル(壮大な見世物)として、社会的な認知を受けるのに大いに貢献していたようだ。
兎に角、戦争が終わる1905〜1906年頃までは、新しく公開される映画は「日露戦争」もののオンパレードであり、こうした日露戦争のフィルムが、日本で映画を大衆的なものとして普及させる一因ともなったとされている。

上掲の画像は、錦輝館での「社会パック活動写真」の上映を告知したチラシである(画像は、『アサヒクロニクル週刊20世紀」』1906-7年号から)。
日露戦争後の好景気を背景に、欧米に比した一等国への自負の機運が高まるなか、1906(明治39)年9月、神田錦輝館で「社会パック活動写真」と称する上映会が催され、「活写会の玉乗り」「当世紳士の正体」などの喜劇や「女学生の末路」「飲酒と家庭」といった道徳劇が上映された。それぞれ、社会を痛烈に風刺した作品だったようである。
「社会パック活動写真」は、殖民世界社を主宰し主に台湾で活動していた高松豊次郎(活動写真資料研究会参照)が映画による社会啓蒙を意図して3年ほど前から吉沢商店のカメラマン千葉吉蔵を監督・撮影に起用して制作していたものだった。「パック」(Puck)とは漫画を意味し、時事新報に風刺漫画を描いていた北沢楽天が創刊した漫画雑誌『東京パック』に由来する。
高松豊次郎は鐘淵紡績(カネボウ参照)の職工だったときに、左腕を機械に切断されたことから労働者の権利と保護に目覚め、明治法律学校に学んだ後片山潜が結成した「労働組合期成会」の宣伝活動を担当していたが、「社会パック活動写真」はその一環として映画を使っての宣伝教化活動であった。こうした高松の活動は、映画の社会的機能を自覚した嚆矢(こうし)といえるが、高松自身は同じ頃、台湾総督府の民政長官だった後藤新平の依頼で台湾に赴いていたこともあり、彼が「活動写真資料研究会」を設立して映画による啓蒙運動を再び始めるのは、10年ほど経ってからであった。(『アサヒクロニクル週刊20世紀」』1906-7年号)。
明治40年代には映画常設館が急速に増加していく。東京で見ると、まず1907(明治40)年に浅草の美音館、三友館、新声館、神田の新声館が、1908年に浅草の大勝館、富士館、牛込の文明館、麻布の第二文明館が開館し、1909年になると東京府下の映画常設館は40館以上に急増したという。このような映画常設館の急増は、京都、大阪、名古屋の大都市などでも起こっている。(※12)。
上映される映画は、1907(明治40)年頃までは大部分が、外国映画だったが、1908(明治41)年には、吉沢商店が、現在の目黒区下目黒に、日本初の撮影所を建設し、本格的に映画を製作し始めると、地方巡業に力を注いでいた京都の横田商会も劇映画製作を本格的に始めた。こうして、日本映画は、1908(明治41)年から1910(明治43)年にかけて驚くほどの勢いで成長し、後の映画製作の礎(いしずえ)が出来たのである。
参考:
☆1:1987年ではないが、1900(明治34)年の賃金は、綿糸紡績職工平均賃金:1日男子約30銭)女約20銭(これは、1日11〜11、5時間労働。残業で18時間労働に成る事も少なくない。昼夜交替制でのもの。農商務省商工局調査)また、物価はビール大瓶19銭、牛肉100g7銭、ハガキ1銭5厘、理髪15銭(週間朝日編「値段の風俗史」などから)、資料は『アサヒクロニクル週刊20世紀』1901年号より。
☆2:「溜池」とは、江戸時代にこの地に作られた大規模なため池(貯水用の池)のことで、これに由来する溜池町(後の赤坂溜池町。現在の赤坂一・二丁目の各一部)という町名が住居表示が実施された1967年まで付近に存在していた。

※1:作家別作品リスト:No.1341:永井 荷風
http://www.aozora.gr.jp/index_pages/person1341.html#sakuhin_list_1
※2:神田錦輝館のあった場所 「『日本医学図書館』
http://www015.upp.so-net.ne.jp/reposit-horie/newpage19.html
※3:映画の歴史という名の無間地獄
http://www.geocities.co.jp/Hollywood-Stage/4989/historytitle.html
※4:稲畑勝太郎と京都産業の発展
http://www.joho-kyoto.or.jp/~retail/akinai/senjin/inahata-1.html
※5:西区の歴史? 新町遊郭・新町演舞場・砂場
http://mariachiweb.blog13.fc2.com/blog-entry-86.html
※6:道頓堀繁盛記(Adobe PDF)
http://www.oml.city.osaka.jp/info/osakaasobo/asobo_050.pdf#search='道頓堀繁盛記'
※7:ときのそのとき - 風俗画報
http://www.meijitaisho.net/toa/fuzoku_gaho.php
※8:映画渡来? 日本は映画をどう受容したか(Adobe PDF) - html
http://hokuga.hgu.jp/dspace/bitstream/123456789/1278/1/JINBUN-10-5.pdf#search='映画渡来'
※9:古写真館:全国写真師一覧表 さ行
http://www.geocities.jp/photography1862/kikakusitu/syasinsiitiran-sa.html
※10:2 日本人が撮影した映画 - 館報「開港のひろば」 横浜開港資料館
http://www.kaikou.city.yokohama.jp/journal/089/089_05_02.html
※ 11:1900年〜日露戦争 - 明治・大正期に日本で公開されたロシア映画
http://czarist.nomaki.jp/1.html
※12:映画常設館の出現と変容 ―1900 年代の電気館とその観客から―(Adobe PDF)
http://www.arc.ritsumei.ac.jp/oldarc/kiyou/09/ueda.pdf#search='映画常設館 三友館'
※13:2. シネマ産業(Adobe PDF)
http://www.ushio.co.jp/documents/technology/lightedge/lightedge_19/ushio_le19-02.pdf#search='2シネマ産業'
最古の日本映画について ―― 小西本店製作の活動写真
http://www.momat.go.jp/research/kiyo/13/pp65_91.pdf#search='最古の映画'
映画史探訪第2章−サイレント黄金時代(特別企画)文豪の映画礼讃〜谷崎潤一郎の映画製作〜
http://www5f.biglobe.ne.jp/~st_octopus/MOVIE/MOVIEINDEX.htm
東京YMCA歴史130年
http://tokyo.ymca.or.jp/ymca/enkaku.html
Wikipedia - 錦輝館
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%8C%A6%E8%BC%9D%E9%A4%A8

復刊判少女雑誌『少女の友明治・大正・昭和ベストセレクション』

$
0
0
3年前の今日・3月13日、雑誌『少女の友明治・大正・昭和ベストセレクション』が発売された。
これは、2009(平成2)年に、創刊100周年を迎えた『少女の友』の版元である実業之日本社が、54年ぶりに、過去の傑作記事をセレクトし、再録したリバイバル特別号として1号だけ復刊させたもの。
創刊100周年記念復刻版のサイトによると『少女の友』は“「少女にこそ一流の作品を」をモットーのもと、与謝野晶子 、井伏鱒二 、太宰治川端康成吉屋信子中原中也ら、当代きっての作家達の作品が筆をふるい、若き中原淳一が表紙画家として活躍した少女向け雑誌”であり、1908(明治41)年に創刊、1955(昭和30)年の終刊まで48年間続いた。日本の少女雑誌史上、もっとも長きにわたって刊行された雑誌である。...としている。
題字は当時20代だった北大路魯山人揮毫(きごう)したものという(※1の会社概要>実業之日本社トリビアを参照)。この「少女の友」創刊100周年記念号発刊は、廃刊から50年以上にもなる今も多勢いる愛読者からの強い要望によるものであったという。

上掲のものが、雑誌『少女の友』創刊100周年記念号明治大正昭和ベストセレクション。
掲載された小説でとりわけ人気の高かったのは吉屋信子と川端康成で、川端康成の『乙女の港』(1937年[昭和12年]6月号 〜 1938年(昭和13年)3月号)は、中原淳一の挿絵の魅力とあいまって一大ブームを巻き起こしたというが、『乙女の港』は、のちに芥川賞をとる中里恒子が、当時のまだ無名時代に代作したものらしい(※2参照)。
以下参考の※3:「中原淳一公式HP」のプロフィールによると、日本美術学校で、本格的に西洋絵画の勉強に励み、1930(昭和5)年、17歳の時には、上野広小路の高級洋品店にオーダー服のファッションデザイナーとして迎えられ、1932(昭和7)年19歳 の時、銀座の松屋にてフランス風人形の個展を開催し、新聞雑誌にて絶賛され、一躍有名になり、これを機に『少女の友』と専属契約を結び、雑誌『少女の友』の表紙、挿絵を手がけるようになり、一流抒情画家の仲間入りをするようになったようである。
戦時中の1945(昭和20)年3月に横須賀海兵隊に召集されるが、8月には復員してすぐに出版の「ひまわり社」を設立し、1946(昭和21)年に雑誌『ソレイユ』(フランス語で太陽、ひまわり。後のそれいゆ)を創刊する。その後、雑誌『ひまわり』、『ジュニアそれいゆ』を次々に創刊。掲載内容は、マナーなどの礼儀、洋服や浴衣の型紙、料理のレシピ、スタイルブック、インテリア、等幅広く一貫し「美しい暮らし」を演出した。
雑誌『宝塚をとめ』の表紙を中原が手掛けたことが縁で、戦前の宝塚歌劇団の男役スター葦原邦子を妻とした。この時期の画風は妻の容貌に似た挿絵も多く、中原の葦原への思い入れが窺えるという。晩年の22年間を館山市で送った。
今日このブログで、3年も前の創刊100周年を迎えた『少女の友』の特別号のことをとやかくと書くつもりはない。ただ私は、若い頃、大阪の商社の衣料品部門でファッション関係商品の企画・製造の仕事にも就いていた事があり、その後も、長く衣料品分野で仕事をしていたこと、それに、絵が好きで、中原淳一の絵のファンでもある。
もともとお酒大好き人間なので、趣味で酒器のコレクションなどしているうちに、いつの間にか絵葉書まで購入しており、その絵ハガキの中に、彼の書い絵ハガキも少しだけ持っていることから、彼の絵とそのような少女が書かれた歴史的背景などをちょっと、この機会に調べてみようと思い、このブログを書いた次第である(冒頭の画像は、戦時中のものと思われる少女雑誌付録絵葉書。中原淳一画)。
彼の略歴等は上述のようなものであるが、公式HPには触れられていなかったが、中原は、『少女の友』で、1937年(昭和12年)]5月号 〜 1940年(昭和15年)5月号まで、「女学生服装帖」というファッション・ページを担当していたそうだ。
この「女学生服装帖」は、中原が大戦前夜の1937(昭和12)年、街をゆく女学生の洋装のちぐはぐさに心を痛めて筆をとったイラストエッセイで、1940年(昭和15)年、戦争が始まると、優美でハイカラ、かつ目が大きく西洋的な淳一のイラストが軍部から睨まれ、その軍部の圧力によって突然雑誌への執筆を禁じられ終了するまで、セーラー服の着こなしから、髪型、しぐさなど、すこぶる親身でちょっぴり辛口なアドバイスで、読者に大きな影響を与えたという。どうも、淳一は少女たちに、外見の服装だけではなく立ち振る舞いや身だしなみ、心掛けなど内面も美しい存在であることを願っていたのだろう。
このユニークな連載もの「女学生服装帖」を一冊にまとめて単行本化した『中原淳一の「女学生服装帖」 (少女の友コレクション) 』も2010(平成22)年9月、同じく、実業之日本社から、販売されている。本の内容、イメージはAmazonの本の紹介ここを参照されるとよい。
当時少女向けに、少女雑誌でこのようなファッションが紹介されていたのを見ると単に美少女の抒情画家としてだけでなく、プロフィールにもあるようにファッションデザイナーとしての素晴らしい能力があったことに驚かされるだろう。
私は、「女学生服装帖」でどんな絵が書かれ、どんな説明がされているのか詳しくは知らないが、贅沢で華美なおしゃれではなく、既製品の充実している現代とは違いまだまだハンドメイドが主流だった当時のこと、この連載では洋服も型紙はもちろん生地などの素材も紹介されているようだが、それはギンガムや木綿といった廉価な生地がほとんど、また、男物の袴や古い制服などを再利用して作る方法もよく出ているという。
先に紹介した私の絵葉書のコレクションの中にも、中原が戦時中に戦場の兵隊さんたちを慰めるために書いたと思われる慰問絵葉書のセット物「歌」と「服装」があり、これも当時(戦時中)のファッションを紹介しものであるが、「服装」では絵葉書には何を使って再利用するかなどその方法が補足説明されている。
中原淳一のファン非常に多く、このような希少な絵葉書は、古書店などでは1枚1000円もするそうだが、興味のある人は、私のHPの
コレクションルーム:Room 2絵 葉 書のところを覗いて見てください。

上掲の画像はその1枚である。
今、今著名なファッションデザイナーとして活躍しているコシノヒロコジュンコミチコの「コシノ3姉妹」を育て上げ、自らも晩年同じ職で活躍し、2006(平成18)年に死去した小篠綾子の生涯を実話に基づくフィクションストーリーとして描き、放送されているのが、NHKの朝ドラ「カーネーション」で、非常な人気を呼んでおり、私も毎朝見ているが、「カーネーション」の時代設定としては、1924(大正13)年9月の岸和田だんじり祭の初日の早朝、祭に参加する主人公の父親を見送るところから始まる。
設定当時の時代背景として、ちょうど1年前(大正12年)の9月1日に発生した関東大震災をきっかけとした、服装の洋装化への流れがあり、劇中でも洋装を提唱する新聞記事や心斎橋で洋服を着た人を良く見た話といった、洋装が進む様が出る場面がある(※4参照)。
物資不足の中、当時、11歳の糸子が初めて作ったアッパッパは、呉服店である家にあった晒(さらし)」で作った設定になっている。当時は、こういう方法で洋服を仕立て直すことが多く行われていただろう。主人公の糸子は、呉服屋の生まれにも関わらず早くから洋裁に興味を持ち、数々の修業と経験を経た後1934(昭和9)年に自らの洋裁店を立ち上げる・・・・。
NHKの連続テレビ小説「カーネーション」公式HP(※5)では、ドラマをもっと面白く見るための企画特集(スペッシャル)のページには「糸子がデザインした洋服たち」や、テレビタイトル画面などでも当時の懐かしいファッションが少し登場するが、「カーちゃん、ネーちゃんのふぁっション写真ギャラリー」では、大正から平成10年代にかけてのファッションが沢山紹介されており、当時の懐かしい風俗を鑑賞できるようになっているので、好きな方は、公式HP(※5)を覗かれると良い。
この小篠家に大きな影響を与えたデザイナーが、少女雑誌『少女の友』に可憐なスタイル画を描いているうちに、ファッションデザイナーの草分け的存在となった当時の中原淳一であり、NHKでは、今年(2012年)2月15日に、「歴史秘話ヒストリア」101回「“カワイイ”に恋して〜中原淳一と“カーネーション”の時代」と題して、中原淳一の生涯について放映していた(※6)。
番組の最後に、晩年を過ごした千葉県館山市の塩見海岸にある中原淳一の詩碑から、詩の一部が紹介されていた。
赤いいガーベラの添えられた詩碑に刻まれた『もしもこの世に風にゆれる「花」がなかったら、人の心はもっともっと、荒(すさ)んでいたかもしれない』・・・で始まるこの詩の「花」や「色」の字にはそれぞれ、赤や青の色がつけられている。彼の色彩感覚、詩作の素晴らしさを感じさせてくれるものである。参考の※7:「Kaonfu~getu」を参照。詩碑の写真をクリックすると拡大するのでちゃんと詩が読める)。
中原淳一の絵を見ていると、どこか大正ロマンを象徴する画家・竹久夢二(1884-1934)の絵を感じさせる。私は、もともと夢二の絵が大好きで同じような中原の絵にも興味を持つようになったといえる。
中原は、昭和4(1929)年16歳のときに、画家を目指し上京したとき、当時一般の学生が目指していたピカソルオーなどの本格的な油絵には目もくれず、夢二の描く可憐で可愛らしい絵に惹かれたという。それから、夢二の絵が載った雑誌を買いあさり、それを手本として描く事に熱中するが、中原を養ってくれていた兄に反対され、「カワイイ物がなぜ悪い」と引きこもっているとき、1927(昭和2)年、日米友好の印としてアメリカから日本各地へ贈られてきた青い目の人形が大きな話題を呼び、街角でも西洋人形が売られるようになりチョットしたブームになった。
なお、「青い眼の人形」は野口雨情が同名の詩を発表して有名になったもので、人形に添えられた手紙には「友情の人形」とだけ書かれており、人形も雨情の詩にあるセルロイド製ではなく、多くがビスクドール(陶器製)であったようだ。
これを見て、大きな目をした人形を作って個展をすると評判となり、『少女の友』へ誘われ入社し表紙絵を描くようになっことは中原のプロフィールのところで書いたとおりである。
今年(2012年)3月8日朝のMBSラジオ:子守康範 朝からてんコモリ!で「なぜ子供は可愛いのか」といったことを話していた。結論から言えば、心理学的に、目が大きいほど好まれることが分かっているようだ(詳しくは※8参照)。
だから少女画も目を大きく書いた方が可愛く見えるので、現代書かれている少女マンガの主人公も目の大きいものが多いし、現代女性の化粧方法なども、どのように目を大きく見せようかとずいぶん苦労しているようだ(^0^)。
しかし、それでは、昔の少女雑誌の少女の絵が皆、目が大きかったかと言うとそうではない。これからは、雑誌『少女の友』と中原淳一の直接的な話からは少し離れ、雑誌『少女の友』誕生までの少女雑誌の世界のことに触れてみる。ただ、何もこれは目の話しを書こうという訳ではない。
普通、こども以上大人未満の若い男子を「少年」とするとき、「少女」はその対義語となっているが、このこども以上大人未満の年代の女性をさす「少女」という概念は明治初期以前には存在しておらず、「少年」は、現代で言うところの少女をも含めた性別を区別しない言葉であった。それは、現代の「少年法」などでも司法の世界では、性別を問わないことが通常であるのと同様である。
「少女」という言葉がメディアに登場しはじめたのは、明治30年代ぐらいからである。このころから少女小説が書かれはじめ、1902(明治35)年、当時誕生したばかりの女学生をターゲットに日本で最初の少女向け雑誌『少女界』(4月号)が創刊された。
これは、『少年界』という少年向け雑誌の姉妹誌として、金港堂書籍から出版されたものであり、このころから少女というカテゴリー(事柄の性質を区分する上でのもっとも基本的な分類のこと)が、「少年」から分岐したといえる。
女学生とは当時、中等教育機関である旧制高等女学校の生徒をこう呼んだ。
明治維新後、日本は西洋の科学技術の移植を目指して、国家をあげて科学者・技術者の養成を行ってきたが、女子の高等教育の始まりは、1871(明治4)年文部省を新設し、翌1872(明治5)年、フランスの学区制を模範とした学制が発布されてからである。これは、従来根強かった「女子に教育は不要」との男尊女卑の考え方を否定し、国民皆学を目標とする近代教育の建設を目指して、教育を受ける機会が男女児童に平等に与えられたという画期的な意義を持つものであった。
この年に東京神田に官立東京女学校が設立され、一般教養に重点を置いたわが国の新時代の女子教育の中心機関として期待されたが、西南戦争後の財政難を理由にわずか5年でこの学校は閉鎖(1877[明治10]年)されてしまった。
一方、学制は1879(明治12)年には教育令に変わり、これ以降中等教育以上の男女別学を原則とする教育体制が作られ、中学校において、男女同等の教育を受ける機会は失われたもののそれでもなお、ミッション系女学校を初め、明治20年代の女学校や私塾では欧米の思想や風習、キリスト教などに触れ、文明開化の時代精神と知識を享受することが出来た。
この間教育制度には、色々と、試行錯誤があったが、 1885(明治18)年、内閣制度の成立にともない初代文部大臣に就任した森有礼の下で翌・1886 (明治19) 年学校令がしかれ、4年間の義務教育(1907年には6年間に延長)が認められ、国民教育は発達し、1899(明治32)年高等女学校令の発令によって女学生は急激に数を増やした。
そして、彼女達のファッションや言葉は良くも悪くも世間の注目を集めるようになる。
少女の名はついていないが、1901(明治34)年1月博文館より創刊された日本最初の女学生を主な対象とした雑誌『女学世界』(※10参照)や、「少女界」(明治35年創刊)、「少女の友」(明治41創刊)など彼女達を対象にした雑誌も数多く刊行され始め、いわば女学生は一定の社会的価値を持つ存在となった。
こうした女学生に対する教育のあり方については当時の知識人の女性観・家庭観が大きく影響していた。
幕末から明治前期にかけて、欧米留学や洋行を経験した為政者や啓蒙家達は、欧米社会の進歩を一方で支えているのは、人間としての教養を見につけ、良き妻として、夫を助け、賢母として子供を育て、家庭を管理できる聡明な女性の存在である事を知り、近代国家の道を急ぐわが国が、妻妾同居もありえた当時の家庭像を改め、一夫一婦制を確立することは議会制度や近代的法体系の確立と並ぶ緊急にして重要な政治課題の一つと考えた。
そんな中で、福沢諭吉や森有礼らの一夫多妻制批判の後を受けて、一夫一婦家族の具体的イメージを提示し、その担い手となる女性たちの育成にあたった教育指導家が、巌本善治であった。
そんな巌本のあるべき家庭と、女性のあるべき姿は、凡そ次のようなものであったようだ。
従来の君主と家来の関係にも例えられるような家族のあり方は、女性にとっても、男性にとっても決して幸福ではないし、また、緊張に満ちた家庭に育った子供は国家を建設する人材として完全に能力を開花することは出来ない。
新しい基礎を為すべき家庭は、愛し合う夫と妻が、互いに協力して作っていくもので、夫が一方的に命令し妻が従うという武士型の家族ではない。
社会と言う戦場で闘い帰って来る男達の疲れを癒す、団欒の場としての家庭が機能するためには、妻も「ホームの女王」として、家庭を合理的に経営する才覚を持つことが必要である。
また、時代を担う子供たちの教育に当たるのは、教養のある有能な母親像でなければならない。そのために料理や裁縫のみならず文学や歴史、科学など幅広い教養を身につけさせることが女学校教育の課題である。・・と。
すなわち、西洋近代化に範をとった家庭の建設と、それを担う「賢母良妻」の育成こそ彼の言論活動と、教育活動の目標であった。
1885 (明治18)年7月、巌本は、近藤賢三を編集人に日本初の本格的女性誌『女学雑誌』を創刊した。創刊号の「発行の主旨」には、「日本の婦女をしてその至るべきに至らしめんことを希図す」とある(※11参照)。「女学」とは、「女性の地位向上・権利伸張・幸福増進のための学問」と理解されている。
翌1886(明治19)年5月近藤が急逝し後を継いだ巌本善治が長く編集人を勤めた。主筆であった巖本は、明治女学校の教頭、校長を歴任し、思想と実戦を両立していることで一目おかれ、次第にその女性改良運動の先頭に立つことになる人物であった。
それは明らかに近世日本の儒教的女性像を批判する開明的色彩の濃いものであった。
こうした理念に基づき、政府は明治5年(1872年)、欧化主義の東京女学校を創立したのだが、明治30年代になると、
1、日清日露戦争の体験から夫が不在でも国のために家を守るという概念を定着させること。
2、条約改正による外国人の内地雑居への対応策として、日本女性の「婦徳」(女子の守るべき徳義)を涵養すべきこと。
3、資本主義の発展に必要な女子労働力を供給し、なおかつ、それによる家制度の弱体化を防ぐことを目的に、国家のため、家のために働くという労働感を養成すること。
等の要因から日本の良妻賢母像は、明治中期までの開明的色彩から国家主義的性格の濃いものへと変化し、とりわけ女子教育の場で家制度維持、女子の本分の強調、家計補助的労働観、家事裁縫教育の重視などを中心に展開されていく。
森有礼は、「良妻賢母教育」こそ国是とすべきであると声明。翌年、それに基づく「生徒教導方要項」を全国の女学校と高等女学校に配布し、国家主義的性格の濃い「良妻賢母教育」を、高等女学校令で法的に規制して、公教育を通じて浸透させることを図った(週刊朝日百科」「日本の歴史」129号)。
大正期に入ると12歳から20歳前後の女性たちが、社会的義務(良妻賢母となること)を果たすことを猶予される期間(モラトリアム期)つまり、「少女時代」という時間をもつようになり、多様で流動的な生の輝きを見せ始めた。
そして、高等女学校の生徒達を中心とした、「女性文化」という独特の世界が形成された。その社会的背景には、尋常小学校卒業後も高等女学校や女子師範学校だけでなく実業学校、裁縫学校、看護婦、やタイピスト養成等々各種学校で学生生活を送る者が大正期を通じて激増し、実生活から相対的に独立した世界を持つ層が産まれたことがある。それに、この層は中等教育以上の男女別学により、同性・同年齢集団から成っていたので「女性であることは、どういうことか」と模索しつつある少女達にとって、お互いに問題を深める場となったようだ。
巌本の思想を受け継いだのは、このような都市の中間層に属する女子ちまり、「少女」たちであり、その後、続々発行される少女雑誌がいわゆる良妻賢母主義に沿った誌面づくりをし、少女たちを誘導する型ともなっていたが、当時の雑誌の読者欄の影響が大きかったようである。
そして、女学生の増加が、又、公教育の普及による読み書き能力の向上に伴う読書人口の増加が、少女雑誌の誕生を後押しする原動力ともなった。
竹久夢二の叙情的な挿絵を収めた少女雑誌、吉屋信子の少女小説を耽読(たんどく)し、宝塚少女歌劇団のスターたちに胸ときめかせ、友人や上級生との妖(あや)しくも美しい親密な関係性を生きた「少女」たち。近代日本の都市新中間層の興隆とともに誕生した「少女」という存在のリアリティーを、社会的・歴史的・政治的な背景に照準しつつ分析している人(今田絵里香。日本学術振興会特別研究員)がいる。
彼女が当時の雑誌が少女たちにどうのようなイメージ付をけし、少女像が時代とともにどう変わってきたととみているかなどは以下参考の※12:「少女雑誌にみる近代少女像の変遷:『少女の友』分析から」を見ると良い。又、「女学生:女学校:少女文化」等については、以下参考の※13:「第148回常設展示 女學生らいふ | 本の万華鏡 | 国立国会図書館」に詳しく書かれているのでそこを見られると良い。
最後に、私の好きな少女雑誌の挿絵についてであるが、雑誌の表紙絵の少女像、その瞳は明治から大正、昭和にかけ徐々に大きくなっているのが判る。
「少女界」(明治38年11月号)の表紙絵。その少女の目は、線や点でシンプルに描かれているが、これは、江戸時代以来の美人画の伝統を受け継いだ顔である。
大正5年2月号「新少女」。大正時代には、竹久夢二の描く少女像が登場。初めて瞳が開き、瞳の輝きが描かれている。語りかけてきそうな、生き生きとした表情が生まれた。
「少女画報」(大正15年2月号)。夢二の後、大きな瞳が主流になる。高畠華宵の描く少女は、大きな二重まぶた。白めが強調され、あでやかさが特徴。
「少女の友」(昭和14年4月号)。瞳は、昭和に入ると極端な大きさになる。中原淳一の絵である。大きな瞳が支持された背景には、当時、自由な発言ができなかった少女たちが目で自分の意思を伝えたい、という自己表現への思いが反映されている、と評論家の上笙一郎氏は語っているという(※14に画像とこの説明あり)。
大正時代を代表する高畠華宵の絵のことについては、以前このブログで大正と言う時代背景とそこに描かれた華宵の絵のことを書いた居るので興味があったら見てください。ここ→「挿絵画家・高畠華宵 の忌日
次代とともに、少女の目も姿もどんどん変化してきているが、私などの年齢のものには、現代の女性は何か攻撃的で恐く見えて仕方がない。もう元に戻ることはないだろうが、大正・昭和初期の芯は強くても、温和で優しそうな女性像が懐かしい・・・、などと言うと叱られるだろうな〜・・・( ̄ρ ̄)

(冒頭の画像は、戦時中のものと思われる少女雑誌付録絵葉書。中原淳一画。雑誌『少女の友』創刊100周年記念号明治大正昭和ベストセレクション。)
※1:実業之日本社ホームページ
http://www.j-n.co.jp/company/presidentmessage.html
※2:川端康成の「乙女の港」という本に盗作疑惑があったという話があるようだが・・・
http://q.hatena.ne.jp/1262778167
※3:中原淳一公式ホームページ
http://www.junichi-nakahara.com/
※ 4:大手小町 企画・連載(3)「アッパッパ」で洋装化、読売新聞、2011年8月26日
http://www.yomiuri.co.jp/komachi/feature/20110826-OYT8T00156.htm
※5:連続テレビ小説「カーネーション」
http://www9.nhk.or.jp/carnation/
※6:NHK 歴史秘話ヒストリア
http://www.nhk.or.jp/historia/
※7:Kaonfu~getu
http://kaonfu-getu.blogzine.jp/yoke/cat2781588/
※8:なぜ子供は可愛いのか
http://oshiete.goo.ne.jp/qa/5184706.html
※9:大手小町:断髪洋装 働く女の決意 :企画・連載 : ニュース :: YOMIURI ONLINE
http://www.yomiuri.co.jp/komachi/news/rensai/20090414ok0b.htm
※10:『女学世界』における「投書」の研究(Adobe PDF)
http://www.iii.u-tokyo.ac.jp/pdf/bl/77/77_07.pdf#search='女学世界'
※11:伊藤明己:女権論の系譜
http://home.kanto-gakuin.ac.jp/~ito/works/dm/dancem2.htm
※12:少女雑誌にみる近代少女像の変遷:『少女の友』分析から
http://eprints.lib.hokudai.ac.jp/dspace/bitstream/2115/28817/1/82_P121-164.pdf#search='少女の友 創刊号'
※13:第148回常設展示 女學生らいふ | 本の万華鏡 | 国立国会図書館
http://rnavi.ndl.go.jp/kaleido/entry/jousetsu148.php
※14:file148 「少女雑誌」|NHK 鑑賞マニュアル 美の壺
http://www.nhk.or.jp/tsubo/program/file148.html
国際教育協力懇談会資料16我が国の家庭科教育の経験と特徴
http://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chousa/kokusai/002/shiryou/020801ef.htm
女 学 生 の 絆(Adobe PDF)
http://www.lang.nagoya-u.ac.jp/nichigen/issue/pdf/9/9-06.pdf#search='明治、女学生 誕生'
明治〜昭和の少女雑誌のご紹介
http://www.kikuyo-lib.jp/hp/08_menu.htm
雑誌「少女の友」の歴史 100周年記念号刊行 - YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=VhXQUskDiAw
Kotobank.jp
http://kotobank.jp/
上田信道の児童文学ホームページ
http://nob.internet.ne.jp/
少女の友 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%91%E5%A5%B3%E3%81%AE%E5%8F%8B

ザ・ピーナッツツ育ての親宮川 泰(作曲家・編曲家) の忌日

$
0
0
今日・3月21日はザ・ピーナッツツ育ての親であり、ピアニスト・作曲家・編曲家宮川 泰(みやがわ ひろし) の2006(平成18)年の忌日である。
宮川 泰は、1931(昭和6)年3月18日、北海道生まれ。学生時代(大阪学芸大学=現:大阪教育大学の音楽科)から自らのバンドで関西を中心に演奏活動を展開。上京後、「平岡精二クインテット」のメンバーとして活躍、後に「渡邊晋渡辺プロダクションの創立者)とシックスジョーズのピアニストになり、また、アレンジャーとしても手腕を発揮。独立後は、作曲・編曲家として活躍。
テレビ時代の幕開けから現在に至るまで映像に携わるとともに、ヒット歌謡曲や映画音楽など、不朽の名作を生み出しレコード大賞作曲賞をはじめ多くの賞を受賞。数々のヒット曲を輩出し、1960年代以降の日本の歌謡ポップス(和製ポップス)を飛躍的に発展させた大功労者の一人であり、私の大好きであったザ・ピーナッツツ育ての親として知られているが、他にも1960年代の和製ポップスの黄金期を代表する歌手伊東ゆかり中尾ミエ園まりなど『スパーク3人娘』なども育てている。(詳しくは、※1、※2参照)。代表作には「恋のバカンス」「ウナセラディ東京」「逢いたくて逢いたくて」他「宇宙戦艦ヤマト」など多数ある。

ため息の出るような
あなたのくちづけに
甘い恋を夢見る 乙女ごころよ
金色に輝く 熱い砂の上で
裸で恋をしよう 人魚のように

陽にやけた ほほよせて
ささやいた 約束は
二人だけの 秘めごと
ためいきが 出ちゃう
ああ 恋のよろこびに
バラ色の月日よ
はじめて あなたを見た
恋のバカンス

1963(昭和38)年4月に発表されたザ・ピーナッツ歌唱の歌謡曲「恋のバカンス」。岩谷時子の作詞に、宮川泰が作曲したものである。
思い起こせば、1960年代(昭和35年から昭和44年)、いわゆる日本の「高度成長期」(=高度経済成長の最盛期)は、日本の生活習慣が大きく変化した時代である。
この歌の発表された翌1964(昭和39)年には東京オリンピックが開催されている。個人所得が上昇し家電商品も豊富に出回って、テレビがほとんどの家庭に広がり、カラーテレビも普及がはじまり、レコードプレーヤーも一般家庭にも普及し、豊かさが本当に実感できるようになり、社会やお国のためにと言うより、自分の趣味に合わせて、のんびり暮らす風潮も出始め、人々はようやく遊びにも目を向け始めた頃である。
遊びと言えば「レジャー」。「レジャー」と言えば観光旅行である。1964(昭和39)年4月からは海外旅行が制限つきとはいえ自由化され、世界の人と仲間入りできるようになる。兎に角、希望の満ちた時代だった。
『レジャー』とは、余暇に行なう一時的な気晴らしの遊び。しかし、1963(昭和38)年、この年の流行語は、その遊びと休暇をより積極的にとらえた「バカンス」であった。
バカンス(仏:vacances)は、ヨーロッパの人々の生活に深く根付いており、特にフランスでは7割の人々が夏を中心に4週間は休暇をとる。しかし、1963(昭和38)年当時の日本では都市住民の60%余が1泊以上の旅行はしていてもその平均回数は年3回、日数にして2・3日。もっともようやく週休2日(1ヶ月の間に週2日の休みがある週が1度以上あること)が叫ばれ出し、幾つかの企業の長期休暇が話題となったばかりの頃だけに止むを得なかった。このように、バカンスという言葉は、ムードが先行した。
バカンスルック(東レが名付けたサマーウェアのネーミング)なるファッションが広告を賑わし、ザ・ピーナッツの「恋のバカンス」がヒットし巷に流れた(『アサヒクロニクル週刊20世紀』b1963年号)。
本曲のヒットにより「休暇」を意味する「バカンス」(vacances)というフランス語が日本で流行語になったと云われるが、この1960年代から1970年代にかけての音楽界では、「渡辺プロ(通称:ナベプロ)なくしては歌番組やバラエティ番組は作れない」と言われるほどの「一人勝ち」状態を誇っていた。
また、この時代は、日本歌謡へのポップ(Pop music)の流入時期でもあった。
アメリカなど外国のヒット曲を日本人歌手たちがこぞってカバーし、これを、発売するとレコードは飛ぶように売れていた。それだけ洋楽は、当時の日本の歌謡曲と比べハイカラで、新鮮に感じられたものだった。
このような欧米ポップスの影響を契機として、日本人がこれらに、作詞・作曲・歌唱した歌謡曲のジャンルの一つが和製ポップスといわれるものである。
和製ポップスは、戦前から活躍していた服部良一の一連の作品がルーツであるとも云われているが、より直接的には、戦後において、戦勝国アメリカの消費文化への憧れの元に流行したこのような「カバーポップス」(翻訳ポップス・訳詞ポップス)を消化吸収する過程で生まれたものだといわれている。
ただ、欧米の軽音楽の影響を受けつつも、それが単なる模倣に留まらず、それらの真髄、あるいは本質を把握し、十分に咀嚼(そしゃく)した上で日本の視聴者の耳になじむ型での作品に仕上げているところに、和製ポップスの良さがあり、当時の作詞、作曲、編曲者の能力が素晴らしさが感じられる。
そんな和製ポップスの実質的な第1号として認知されたものが、1959(昭和34)年、ザ・ピーナッツが歌手デビューを行った際の曲「可愛い花」(作詞:F.Bonifay、作曲:S.Bechet、)とされている。元の歌はフランス歌謡の「Petite Fleur」(「小さな花」)で、これを、訳詞は
音羽たかしが、そして、宮川が編曲したものである(この曲の解説は※3:「ザ・ピーナッツ・ファンサイト」の資料館>年代順レコーディング曲名一覧の中の可愛い花を参照)。
この翌年ザ・ピーナッツが歌った、キューバのオスバルド・ファレス (Osvaldo Farrés) の曲「Quizás, quizás, quizás」のカバー「キサス・キサス」、それに続く3枚目のカバー「情熱の花」も連続してヒットしているが、この曲は、ヨーロッパの歌手カテリーナ・ヴァレンテ(Caterina Valente)が「PASSION FLOWER」(情熱の花)の題名で歌唱(フランス語)していたもので、ベートーベンの「エリーゼのために」のメロディをアレンジして使用したものだそうだが、これも私の大好きな曲の一つである。しかし、さすが、元祖のカテリーナ・ヴァレンテの歌も迫力があって素晴らしいな〜・・・。
これらの楽曲以前にもポップス曲を歌う日本人歌手の事例もあるにはあったが、「ポップス」と言うジャンルはほとんど認知されていなかった。
1961(昭和36 )年の坂本九の「上を向いて歩こう」(作詞:永六助、作曲:中村八大)や、1962(昭和37)年のザ・ピーナッツの「ふりむかないで」(岩谷時子[作詞]=宮川泰[作曲]コンビによる初のヒット曲)前後から次第に認知されるようになった。この「ふりむかないで」は、ザ・ピーナッツにとっても、オリジナルソングとしては初のヒット曲でもあった。
ところで、私は先に書いたようにザ・ピーナッツのファンであり、宮川 泰には、そのピーナッツ育ての親として興味があるので、それを前提に、このブログを書いているため、少々ザ・ピーナッツのことに偏重していることをここでお断りしておく。
愛知県出身の双子(伊藤エミ:姉、妹 ユミ:妹)の女性歌手(デュオ)ザ・ピーナッツは、駆け出しの頃、主に名古屋市内などで「伊藤シスターズ」の名義で歌っていたところを、1958(昭和33)年に、同市内のレストランにて渡辺プロダクション(通称:ナベプロ)社長渡邊晋にスカウトされ上京。同社長宅に下宿しつつ宮川泰に師事し、歌唱レッスンを受けていた。そのような関係から、又、宮川自身が元「。渡辺晋とシックスジョーズ」のピアニストであった関係から作・編曲を手がけた歌手も渡辺プロ所属の歌手が多いが、中でも、最も多くの作品を提供したのがザ・ピーナッツに対してであった。
この「ふりむかないで」に続くザ・ピーナッツのオリジナルソングによるヒット曲が「恋のバカンス」であり、ジャズの4ビートを生かした、歌謡曲としてはかつて無かった程のスウィング感に満ち溢れた楽曲で、シングル発売直後より大ヒットして、第5回日本レコード大賞では編曲賞を受賞したというが、この曲が、岩谷時子の作詞に、宮川泰が作曲したものなのに、何故、日本レコード大賞では、作曲賞ではなく編曲賞として受賞したのだろうか・・・?
ちょっと不思議に思うのだが、※3:「ザ・ピーナッツ・ファンサイト」での「恋のバカンス」の説明を見ていると、“当時、渡辺プロは企業や団体の総合的なキャンペーンにも参画していたことから、東レの企業戦略での「レジャー」に変わるキャッチ・フレーズの流行を作り出す、いわば、恋のバカンスは一種のCMソング的なものだったようだ。それで、ヒットが怪しくなったなと感じた途端、カテリーナ・バレンテまで呼んで、わっと盛り上げて、「バカンス」を流行らせてしまった。だから、当時発売されたレコード・ジャケットの歌詞は、実際の歌と全然違っており、如何に大急ぎでキャンペーンに間に合わせる努力をしたかが伺い知れるという。面白いことに、その歌詞には、1番と2番があり、これを現在歌われている覚え易い簡潔な歌詞に凝縮させたということがわかる”・・・という(※3の資料館>年代順レコーディング曲名一覧から「恋のバカンス」を参照)。
そういえば、日本ではザ・ピーナッツが、カテリーナ・ヴァレンテの「情熱の花」をカバーしているが、逆に、カテリーナ・ヴァレンテがザ・ピーナッツの持ち歌「恋のバカンス」「ウナ・セラ・ディ東京」などを日本語でカバーし、これもヒット曲となっている。
「恋のバカンス」に継ぐ、「ウナ・セラ・ディ東京」(1964年)、つまり、「UNA SERA DI TOKIO」は「黄昏の東京」という意味で、前年(1963年)に「東京たそがれ」の題名で歌っていたが、当時はあまりヒットしなかったが、翌1964(昭和39)年に「カンツォーネの女王」として有名なイタリアの歌手ミルバが来日した際、本曲を日本語で歌った事を契機に一気にブームとなった(キングレコードのスタッフがミルバの歌唱力の高さを評価した上で本曲を歌わせる事を提案したとも言われているようだる。Wikipediaより)。
その後、ザ・ピーナッツの「東京たそがれ」も曲調を一部アレンジして、翌年にタイトルも歌詞でもあった「ウナ・セラ・ディ東京」にして再リリースした。
当時、「ふりむかないで」および後続曲の「恋のバカンス」、「ウナ・セラ・ディ東京」等は一部では“無国籍歌謡”などと揶揄されたりもしたが、ミルバの歌の影響により、この頃からこれらの曲が音楽界で再評価されることになり、ザ・ピーナッツのヒット曲の一つとなった。又、これらの曲が今日の「 J -POP」へと繋がる日本オリジナルのポップス(和製ポップス)の幕開けを告げることにもなった。
宮川も、遂に「ウナ・セラ・ディ東京」で、1964 (昭和39) 年レコード大賞作曲賞を受賞している。
いや〜、この1960年代、当時の歌謡曲は短文で判りやすい詩に、その時代、時代を先取りしたリズムが取り入れられており、子供から大人まで、誰でもが口ずさめる日本人に馴染みやすい語感・語調で歌われ、その曲を聴いただけで、その時代や世相を十分に感じとることが出来た。
そこには、当時一流の作詞家、作曲家が多く居たことからこれらの人達が競って良質の曲をつくり、その曲を歌うにふさわしい歌手に歌わせた。正に、三者それぞれの能力が複合されることによって生み出されたプロの芸術作品である。
当時テレビの歌謡番組やラジオなどで新しい曲が頻繁に放送できたのも、今のように、音楽に対する著作権問題がやかましく言われなかったからであろう。
技術の発達により、今は、音声だけでなく動画までが簡単にコピーできる時代になった。一度放送したら、直ぐにそれをコピーして、誰もが、そのコピーを聞いたり見たりするようになれば、その曲のクリエイターの生活が成り立たなくなることもあるので、それらを規制せざるを得ないだろうことはよく理解できる。
しかし、新曲がメディアで流されなくなって以降、今は誰がどんな歌をうたっているのか・・・。
角川文庫の映画や本の宣伝ではないが、本を読んでから映画を見るか、映画を見てから本を読み直すか・・・。良いなと思う本を読んだ人は、その本が映画化されるとそれを見たくなり、又、その逆もある。
かって、テレビなどで、音楽番組華やかなりし頃、テレビや、ラジオで新曲が紹介され、それに感動した人たちが、レコードを買いにそれを聴いて楽しんだ。
私なども、数は少ないが、好きな曲のレコードやCDをいくらか持っている。
しかし、今は、新曲を聞く機会がなくなりどんな曲が流行っているのかも判らず、音楽とは縁のない存在となってしまった。
そんなことから、哀愁の漂う上質の歌謡曲を誰もが聞き、楽しめ、共有できた・・・そんな1960年代が非常に懐かしく思い出された。
最後に、そんな懐かしい時代の宮川 泰の作・編曲「恋のバカンス」、「情熱の花」をピーナッツとカテリーナ・ヴァレンテの歌を比較しながら、それと私の好きだったザ・ピーナッツの「恋のフーガ」を聞いて終わろう。
「恋のバカンス」ザ・ピーナッツ - YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=UFB7tcb5-OM
カテリーナ・ヴァレンテ 「恋のバカンス.wmv」 - YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=Pn_S4EY-Ue8
ザ・ピーナッツ「情熱の花」- YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=rsIYY4oRGs8
カテリーナ・ヴァレンテ「Passion Flowers(情熱の花。)」 - YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=dTyepoyfnoA
YouTube -ザ・ピーナッツ 「恋のフーガ」
http://www.youtube.com/watch?v=XSm7z1OQ3-Q

(冒頭画像は、「ザ・ピーナッツ sings 宮川泰」2006年9月KING RECORDS発売CD。ザ・ピーナッツ育ての親・宮川泰がザ・ピーナッツのために書いた全39曲を収録したもの。)

参考:
※1:MIYAGAWA WORLD
http://www.miyagawa-world.jp/
※2:日本TV音楽>作家インタビュー>第6回:宮川泰
http://www.ntvm.co.jp/int/b6.html
※3:ザ・ピーナッツ・ファンサイト(INFANT LAND)
http://peanutsfan.net/
60年代「思い出の歌」
http://homepage2.nifty.com/mtomisan/page039.html
asahi.com:「恋のバカンス」など作曲宮川泰さん急死 - 文化芸能
http://www.asahi.com/culture/nikkan/NIK200603220001.html
宮川泰 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%AE%E5%B7%9D%E6%B3%B0
歌ネット -作曲者名:宮川泰
http://www.uta-net.com/user/ichiran.html?Cselect=1&sort=2&Aselect=8&Keyword=%8B%7B%90%EC%91%D7&Bselect=3
日本のポップス史1960年前後: ケペル先生のブログ
http://shisly.cocolog-nifty.com/blog/2007/03/1960_b24a.html
dentsu:広告景気年表
http://www.dentsu.co.jp/books/ad_nenpyo/
ザ・20世紀
http://www001.upp.so-net.ne.jp/fukushi/year/index.html
はてなキーワード
http://d.hatena.ne.jp/keyword/



「さくらの日」Part ?さくらさくら

$
0
0
3月27日の今日は「桜の日」。
日本を代表する花であるへの関心を高め、花と緑の豊かな国土を作ろうというのが目的。
「咲く」(3×9)=27の語呂合せと、七十二候の中のひとつ「桜始開(さくらはじめてひらく)」が重なる時期であることから3月27日を記念日に、日本さくらの会(以下参考の※1参照)が1992(平成4)年に制定した。
今日の「さくらの日」の記念日のことは前に書いた(ここ参照)ので、今日は「さくらの日」Part ?として、前とは違った視点で書いてみよう。

雪がとけて川になって 流れて行きます
つくしの子が恥ずかしげに 顔を出します
もうすぐ春ですねえ
ちょっと気どってみませんか
風が吹いて暖かさを 運んできました♪
(以下略)
キャンディーズの歌「春一番」(穂口雄右 作詞/作曲)
キャンディーズと言えばこの歌だが・・・彼女達可愛かったね〜。

キャンディーズ 春一番 – YouTube

この歌のように、春一番の風が吹くと暖かい春がやってくる。
春分の日の20日は、平年より気温が低い地域が多かったようだ。そして、関東や近畿、東海ではとうとう春一番は吹かずじまいだった。関東地方では2000(平成12)年以来、12年ぶのことらしい。
春一番は、気象庁が立春から春分までに吹く南風に風速や気温で定義しているもので、その名前とは裏腹に土ぼこりを巻き上げ、時には看板を吹き飛ばす乱暴物の強い風ではあるが、来なければ来ないで寂しいものだ・・・と、天声人語(3月22日)にもあったが、確かにそういうものだな〜。
今年、春一番が吹かなかった原因について大阪管区気象台は「日本海の低気圧が発達せず、日本列島に近づかなかったことなどが挙げられるとしている。そして、日本付近で偏西風が南よりに流れている影響で、北からの寒気の影響を受けやすい状況が今後も暫く続く見込み・・・」といっていた。
それでも、気象庁は3月21日に、全国のトップを切って高知市の桜(ソメイヨシノ)が開花したことを発表。全国で最も早い待ちかねた便りであった。
ただ、桜前線は、これからおよそ2ヵ月かけて日本列島を北上し、5月18日頃に北海道根室市に到着する予定。
九州・四国・東海地方の開花予想は平年とほぼ同じか平年より2〜6日遅いようで、中国・近畿・関東・北陸地方は平年より4〜6日遅い所が多く、甲信・東北地方と北海道は平年とほぼ同じか2〜3日程度遅いだろうと予想している。
ちなみに、私の地元、兵庫県 神戸市の予想開花日は 4月1日 、満開日は 4月10日 らしい(※2)。
欧米人がもっぱら季節の盛りを愛でるのに対して、日本人がこのような「さきぶれ」に敏感なのは日本の四季の変化が豊かなことと関係があるのだろう。
そんな日本人が桜の開花を待ち焦がれている中、日本より一足早く、米国立公園局が桜の開花宣言をした3月18日、ポトマック川沿いのタイダル・ベイスン(貯水池)周辺の桜は早くも3700本余りの桜が見頃を迎え、多くの花見客で賑わったことが、20日に奉じられていた(NHK・NEWSweb:ポトマック河畔100年の桜見頃に)。
アメリカの首都ワシントンD.Cのポトマック河畔の桜並木は、今では世界の名所の一つになっている。ここの桜は、1912(明治45)年3月、日米友好の証として日本から米国に約3千本の桜の苗木が贈られ、ポトマック河畔に植樹されたもので、それに因み、毎年3月末から4月のはじめにかけて桜のシーズンには、盛大に「桜まつり」が開催され、全米から観光客が訪れるようになった。
今年は桜寄贈100周年にあたり、開催期間も例年の2週間ほどからおよそ約5週間に拡大し、3月20日から4月27日まで行われる、期間中はワシントン周辺で日本の伝統芸能や文化を紹介するイベントが相次いでおこなわれるようだ。
しかし、開花が遅れそうな日本とは対照的にアメリカ東海岸は今年、記録的な暖冬のため、平年よりも2週間ほど早く見頃を迎えたため、関係者は桜祭りの期間中いつまで花がもつかやきもきしているという(※3)。
ところで、ワシントンに桜の樹が欲しいといったのは、アメリカ大統領ウィリアム・タフト夫人であることや、当時の東京市尾崎行雄が日米親善のために寄贈したことは知られているが、桜がアメリカに贈られるまでには紆余(うよ)曲折があり、その影には、世界的化学者、実業家でもある高峰譲吉やアメリカの人文地理学者・文学博士・ジャーナリスト、写真家でもあるE・R・シドモア女史の尽力があった。
シドモア女史は、世界中を取材して廻ったが、兄が横浜領事館に勤務していたこともあり、日本にも1884(明治17)年の初来日以降、度々日本を訪れ、人力車で全国各地を駆け巡り、日本を紹介した「Jinrikisha Days in Japan」(1891 年。「日本・人力車旅情」恩地光夫 訳 昭和61年刊、有隣堂)という著書なども出している。
武士道に基づく文化と、桜を愛でる日本人の精神に深く魅せられ、新渡戸稲造とも親交があった。
日本滞在中、中でも、隅田川の花見に感銘を受けた彼女は、母国の首都ワシントンのポトマック河畔に桜植樹を提案し続けていたが、旧知の間柄で来日経験もあり桜の美しさも知っているアメリカ大統領タフト夫人のへレンに働きかけそれが受け入れられた。また、高峰譲吉博士ら在米邦人にも粘り強く働きかけた。
因みに、シドモアと新渡戸稲造とはシドモアが米国の日本人移民禁止法(排日移民法)に反対してスイスに亡命、そして亡くなるまで親友の仲であったことから、新渡戸等の計らいで横浜米国領事だった兄、母の眠る横浜外人墓地に埋葬されている。その墓碑の傍らには、ポトマック河畔の桜が1991年に里帰りし、市民団体「シドモア桜の会」によって植えられている(※4 )。
一方、東京市長の尾崎行雄は、在米の高峰譲吉博士やアメリカ領事館の水野幸吉大使を通じで、この桜の植樹計画を知り、ワシントン市に桜の苗木を贈る事を決めた。その経費はアドレナリン結晶抽出などの成功で財をなし米国政財界で活躍していた高峰譲吉博士の負担により2000本の桜苗木が横浜の植木商に発注され、米国に送られたがアメリカに到着したときには、すべてに病害虫発生のため、植物検疫上の問題から国内に持ち込むことが出来ず焼却処分にされた。尾崎行雄東京市長は、約束を果たすために、その失敗を繰り返すことなく高峰博士の支援を受けて再度桜を送ることにした。寄贈本数も6000本となり 半数は高峯譲吉博士や日本人の希望でニューヨークハドソン河開発300年記念式に送るためのものであった。
そこで、尾崎行雄市長は、1910年(明治43年)3月、農商務省の農事試験場(現:農業試験場)長もしていた古在由直農学博士に害虫の駆除や苗木づくりの方法について調査依頼。古在博士は桜の苗木づくりを引き受け、寄贈する桜苗木の生産は、丈夫な苗木を育てるため、接ぎ木で増やすこととし、それを、旧清水市興津(静岡県)にあった農商務省農事試験場園芸部(1902年=明治35年創設)でしてもらうことになった。
その際、桜の権威、三好 学博士(※5も参照)の助言により、穂木(接ぎ木の上部にする植物体のこと)は東京の荒川堤の桜並木から興津の農事試験場に集められ、台木(接ぎ木のにする植物体)は、兵庫県の東野村(旧兵庫県川辺郡稲野村之内新田中野村字東野、現在は伊丹市 東野地区)産の山桜を使用し、この台木に穂木を接ぎ木して育てられた。
そして、1912年(明治45年)2月14日、横浜港より桜苗木6040本を積んだ日本郵船「阿波丸」がシアトルに向け出航した。
苗木の半数はワシントンのポトマック河畔植樹用に、そして残りの 半数は高峰譲吉博士や日本人の希望でニューヨークの「ハドソン・フルトン祭」(ニューヨークハドソン河開発300年記念式)におくるためのものであった(※6 参照)。
到着後これらの苗木はワシントンへ向け、冷蔵貨車で運ばれ、1ヶ月後の3月26日に無事到着した。米国農務省検査局が検査したところ病気や害虫がまったく無く完璧な苗に驚いたという。
ワシントンでの歴史的な植樹式は1912年3月27日に行われ、タフト大統領夫人と米国駐在珍田捨巳大使夫人がタイダル・ベイスンの北岸、現在のインディペンデンス 通り南側に最初の2本の桜を植樹した。この植樹式はシドモア女史はじめ、ごく少人数で行われたようで、いまでもその2本の木は記念碑とともに残っているそうだ。
一方、3月に無事ニューヨークに到着した桜の苗木は、4月28日に同市ハドソン河畔のクレアモント公園内にあるグラント将軍墓所前で盛大な歓迎植樹式が行われ、翌29日に植樹されたようだ(28日は雨だったかのようだ)。ニューヨークでも100周年を迎えた記念すべき年を多くの人々でお祝いするため、桜や日本に関係した多くのイベントが実施される予定となっているという(※06参照)。
ところで、このブログを書いていて、100年前にアメリカで行なわれた日本の櫻植樹祭。以外やニューヨークでの櫻植樹祭は非常に盛大なものであったようだが、ワシントンの櫻植樹は思いも寄らぬ簡素なものであった。・・・それは、何故だろうか?
以下参考の※7:「指導資料の解説 アメリカと日本の友情を深める花」に、日本とワシントン、ニューヨークへ送った友好の桜のことは詳しく書かれているが、1887(明治20)年ごろ、アメリカから日本に来て、シドモア女史同様、いや、それ以上に桜の美しさに心をうたれていた人物が2人いたという。その1人日本の国に親しみを持ち、世界中の植物をあつめていたディビット・フェアチャイルド博士は、日本での旅行中、東京の荒川堤に咲いているいろいろな種類の桜の花の美しさに心をうたれた。
そして、「このような美しい桜をアメリカへ輸入できないだろうか」と考えたが、日本の桜をアメリカで育て、花を咲かせるには、気候や土の性質がよく似ていなければいけないと言うことで、彼は、1906(明治39)年、ワシントンの近くのメリ−ランド州にある自分の庭園に、75本の日本の桜と25本の枝垂れ桜を植えて、育てることができるかを試みた結果、みごとに育ち、花を咲かせた。
又、同じアメリカ合衆国農務省に勤めていたフェアチャイルド博士の友人のチャ−ルス・L・マ−ラット博士も、30年間昆虫局長をつとめている間に桜の木を自分の庭に植えていたという。
早速、1904(明治37)年の春、マ−ラット博士の庭園で、花見のお茶の会をひらくことを決め、日本に来たり、親しみを持っている人たちをこの催しに招待。その客の1人に、シドモア女子がおり、ここで、3人の桜を通した友情が芽生えシドモア女子の桜の木をワシントンに移し植えたいとの考えも、博士の庭園とワシントンとでは、気候も同じようだから、桜はきっと元気に育つだろうということになり、本格的な活動が始まったようだ。そんな中で、シドモア女子がタフト大統領夫人ヘレンへ働きかえるようになった。
そして、1907(明治40)年に、来日したタフト陸軍長官が、日本から80本の桜の苗木を輸入して植えたのが始まりだ・・・とある。
ええ・・・! 1909(明治42)年、尾崎東京市長が、タフト大統領夫人や高峰たちの願いや友情を受けて、2000 本の苗木を寄贈し、到着時害虫のため焼却してしまっているが、タフトが大統領になる前の陸軍長官時代の1907(明治40)年に日本に来たときに、桜を輸入していた?・・・・。
実は、ヘレンは夫のウィリアム・ タフトが陸軍長官時代に、同伴で来日(1905年7月)している(当時の内閣総理大臣兼臨時外務大臣もあった桂太郎との間で、「桂・タフト協定」なるものが交わされている)。このとき、日本側は、皇居に招いて最高の待遇で接待をし、宮中午餐会(内外の賓客を招いて宮中において催される昼食会)にタフト夫妻は出席している。
その接待役として、横浜領事館勤務の外交官をしていたシドモア女史の実兄ジョージ・W・ シドモアが参列することになったが、実兄が独身であったため、妹のシドモア女史を同伴させたそうで、これがタフト陸軍長官夫人ヘレンとシドモア女史の親交の始まりとなったそうだ。だから、ポトマックの桜実現にとって、歴史的な出会いの始まりとなったのは、日本の皇室がご縁であったという訳であった。
又、その2年後の、1907(明治40)年にも確かに来日しているようなので、その時に、桜の苗木を輸入したとしても不思議ではないが、その苗木は、育っていたのだろうか?ひょっとしたら、ディビット・フェアチャイルド博士が1906(明治39)年、ワシントンの近くのメリ−ランド州にある自分の庭園に、75本の日本の桜と25本の枝垂れ桜を植えて、育てることができるかを試みた結果、みごとに育ち、花を咲かせたともあるので、この苗木の花が咲くのは1907年になるので、このことを言っているのだろうか・・・。いずれにしても、※7によれば、1907年には、アメリカワシントンで日本の桜が咲いていたということになり、それで、1912年日本から送られてきた3000本の桜の苗木の植樹祭は、その善意に応えて、簡素に粛々と行なわれたものであったのかもしれない。
一方ニューヨークでの櫻植樹祭では作曲家高折宮次作曲による「萬歳」と「サクラ」が奏でられなど盛大に行なわれていたことは、※8:「hanamizuki-nitibeiyukoの日」の中の“『日本の櫻の名誉』・・・・当時の新聞記事見出し”に詳しく書かれている。
それにも関らず、ワシントンのポトマック河畔のサクラは世界的な名所になっているのに、ニューヨークでは、サクラはどこにあるの?・・・といった感じになっているのは、ワシントンの桜があくまでも友好的なものとして東京市から寄贈された形をとったのに対して、ニューヨークの桜は、高峰譲吉博士や在米日本人の希望による外交的な親善目的として贈呈されたものであることが、その後のメンテナンスの違い生んだのではないかと推測している。
因みに、シドモア女史はグラハムベルが会長のジオグラフィック誌(※9参照)に明治三陸大津波(明治三陸地震参照)をいち早く記事掲載した。この記事内のTSUNAMI(津波)が昨年の東日本大震災では米国民に反響を与え改めて日本に関心を持つ大きな要因になったという(※10)。
また、越中国高岡(現・富山県高岡市)産まれの高峰譲吉の生涯を綴った映画「さくら、さくら〜サムラ イ化学者高峰譲吉の生涯〜」(市川徹監督)が北國新聞富山新聞による製作で2010(平成22)年公開されている。以下はその映画チラシ。

桜を題材とした映画には、「太平洋と日本海を桜で繋ごう」という夢を実現しようと、名古屋〜〜金沢間を結ぶ旧・国鉄バス路線(名金急行線)が走る街道沿いに、二千本余の桜の木を黙々と植え続け、47年の短い生涯を桜の植栽に捧げた同路線バスの車掌だった故・佐藤良二を基にした1994(平成6)年公開映画「さくら」(監督:神山征二郎)もあった。
上掲の画像は神山征二郎監督映画「さくら」のチラシ。
原作は中村儀朋の『さくら道』(風媒社・刊)。
彼の活動は、御母衣ダムに沈んだ集落から高山市荘川町(旧荘川村)中野の国道156号沿いへの桜(荘川桜)移植の記録撮影を担ったことで、日本さくらの会から表彰されたことや、生前から新聞やテレビで取り上げられていたが、全国的に有名になったのは志半ばでの彼の死(1977=昭和52年、病没)後、その活動が高く評価され、1984(昭和59)年、NHKテレビで「桜紀行〜名金線・もう一つの旅〜」(北陸東海)が全国に放映され、さらに、1987(昭和62)年度、中学校の国語教科書にもとりあげられことが大きいという。
荘川桜移植を指導したのは大阪市出身の桜博士と呼ばれる当時の桜研究の権威笹部新太郎である。
東京帝国大学卒業後、犬養毅の秘書をした後、兵庫県宝塚市切畑長尾山の麓(現在のJR西日本福知山線武田尾駅近辺)に桜の研修を行う演習林「亦楽山荘」(※11)を造園。品種保存などを研究した。現在、その跡地は「桜の園」という里山公園として宝塚市が整備管理している。
渋沢栄一後藤新平などが名を連ねる「東京さくらの会」とも交流した。京都府向日町(現向日市)にも「桜苗圃」を造園。
ソメイヨシノばかりが日本の桜ではない」と、日本固有種の桜の保護育成を目指し、大阪造幣局の通り抜け、奈良県吉野、兵庫県西宮市夙川公園ならびに甲山周辺など、各地で桜の管理・指導を行った。笹部新太郎について、詳しくは、※12:「笹部桜考」を参照されるとよい。
日本人だけでなく、外国人も好きな桜。我が地元・兵庫県でも1991(平成3)年度から「ふるさと桜づつみ回廊」事業が実施されており、瀬戸内海から日本海を結ぶ、延長172キロの川沿い(武庫川篠山川加古川上流〜円山川)を桜でつなぎ県内のさくらの名所づくりを進め、今では整備されて約10年が経過、当時若木だったさくらも立派に成長し、河川の堤防沿いには、立派な「さくら並木」が形成されている。
そして、それらのさくら名所を結ぶ「さくら周遊ルートマップ」(「阪神」「丹波」、「但馬」の3ルートのマップ)が作成されている。同周遊ルートマップには、さくらの撮影地ガイドもあり、マップを片手に河川沿いに広がる「ふるさと桜づつみ回廊」の散策を楽しんでみてはいかがですか。

上掲の画像は「さくら周遊ルートマップ」(丹波ルート)であるが、以下へアクセスすると「阪神」「丹波」、「但馬」の3ルートマップの拡大図があります。
兵庫県HP:ふるさと桜づつみ回廊のページ
http://web.pref.hyogo.lg.jp/wd15/wd15_000000005.html

(冒頭の桜の画像は、
タイダルベイスンと桜。奥はワシントン記念塔。Wikipediaより。)

参考:
※1:日本さくらの会
http://www.sakuranokai.or.jp/
※2:開花予想 - 桜情報 - 開花予想 - 日本気象協会 tenki.jp
http://tenki.jp/sakura/expectation
※3:Yahoo!ニュース:米ワシントン桜祭り情報
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20120319-00000503-san-int
※4:横浜市政策局 > 国際政策課 > 日米桜交流100周年
http://www.city.yokohama.lg.jp/seisaku/kokusai/sakura-koryu/
※5:ふるさとを守ることの大切さ/桜ノ博士・三好 学
http://shuchi.php.co.jp/article/935
※6:在ニューヨーク(New York)総領事館:お知らせ:日米桜寄贈100周年
http://www.ny.us.emb-japan.go.jp/jp/h/245.html
※7:指導資料の解説 アメリカと日本の友情を深める花
http://aranishi.hobby-web.net/3web_ara/wcherry.pdf#search='アメリカと日本の友情を深める花'
※8:hanamizuki-nitibeiyukoの日記
http://d.hatena.ne.jp/hanamizuki-nitibeiyuko/archive
※9ナショナル ジオグラフィック協会とは?
http://nng.nikkeibp.co.jp/nng/qa/qa.shtml
※10ナショナル ジオグラフィック チャンネル:日米桜寄贈 100 周年「エリザ・シドモア」写真展
http://prtimes.jp/main/html/rd/p/000000030.000003179.html
※11:桜の園「亦楽山荘」 - ぐるっとおでかけ阪神北
http://www.hankita-sannou.jp/kanko/shosai/061.html
※12:笹部桜考
http://www.rikuryo.or.jp/home/column/sasabe.html
日米友好の桜寄贈100周年事業実行委員会
http://itamisakura.web.fc2.com/page2.html
AFP BB News:寄贈100年、米ワシントンの桜こそ日本の「ソフトパワー」
http://www.afpbb.com/article/politics/2867129/8664204
米国ワシントンD.C.の桜物語
http://www2.osk.3web.ne.jp/~aranishi/sakura.htm
反日ワクチンが書棚の中からご紹介した本など - シドモア日本紀行
http://astore.amazon.co.jp/vaccinesblojp-22/detail/4061595377>

資産運用の日

$
0
0
日本記念日協会の今日・4月3日の記念日に「資産運用の日」があった。
“資産を運用する意味や利点、その必要性を正しく理解してもらおうと、資産運用業務を行うフィデリティ投信株式会社が制定したもの。日付は4と3で資産(しさん)の語呂合わせから。 ・・・とある。
フィデリティ投信株式会社(Fidelity Investments)は、1969(昭和44)年、外資系運用会社として初の日本進出を果たした米国の投資会社で、同社HPには、 “1995(平成7)年には、日本にて、証券投資信託委託業務免許を取得し、国内向け投資信託の運用を開始。現在では、日本株の調査・運用拠点として、海外顧客の日本株運用、日本の年金基金や機関投資家資金の運用、投資信託の設定・運用を手がけ、 約160社の金融機関を通じて、日本の投資家に投資信託をご提供している。 現在、フィデリティは世界の主要なマーケットにおいて、個人投資家から機関投資家まで幅広いニーズに対応した資産運用サービスを提供している”とある(※1参照)。
資産運用とは、自身の持つ資産貯蓄投資したりすることによって、効率的に資産を増やしていくこと。また、銀行や投資信託会社(※2参照)など様々な企業の機関投資家が集めた資金を債券や不動産などに投資することをいう。
機関投資家とは、顧客から拠出された資金を運用・管理する法人投資家の総称であり、機関投資家として、生命保険会社損害保険会社、銀行、信託銀行投資銀行証券会社総合商社ヘッジファンド投資ファンド投資顧問会社年金基金などがあげられる。例えば、損害保険会社、生命保険会社などは加入者の保険料収入(※3)を、信託銀行は投資信託を購入した人たちの資金を元手としている。
このように機関投資家といっても、様々なケースがあり、それぞれの立場によって、リスクに対するポジションが異なるが、一般的には、個人的な資金を扱っているわけではないため、リスク回避的な立場を取るケースが多い。そのため単一の資産ではなく、複数の資産に分散投資を行うことで、リスクを回避し、安定的なリターンを求める傾向が強い。ただ、大量の資金となり、基本的に長期運用を考えた投資を行っているので、その動向が中長期的な株価市場(証券市場)へ与える影響は大きいといえる。
ところで、このような機関投資家ではなく、我々個人の資産運用の方法について考えてみよう。
一般の勤労者が、労働の対価として得た給与やボーナスなどの個人所得から、支払い義務のある税金社会保険料など強制的に支払わされる支出(非消費支出)を差し引いた、残りの手取り収入(実収入)、つまり、個人が自由に使用できる所得の総額、これを、経済用語では「可処分所得」と言う。
故に、この可処分所得の大きさが個人の購買力を測る際の一つの目安ともされているが、ここ数年、勤労者世帯では非消費支出の伸びが収入の伸びを上まわっており、可処分所得や消費支出が横ばいとなっている。非消費支出は、今後さらに増大する傾向を示している。所得の伸び率が低く、この支出がのびると可処分所得が減少し、消費が減退する傾向がみられる(※4の家計調査【家計収支編】時系列データ【二人以上の世帯】、又、※5を参照)。
この可処分所得から消費支出(生活必需品の購入、公共料金の支払い、レジャー費、教育費など)を差し引いた残りが、家計の「貯蓄」となる。
言い換えれば、経済用語としての「貯蓄」とは、「可処分所得」のうち、消費支出に充てられなかった残余の部分」を意味している。
経済用語でいうところの「貯蓄」の使途としては、・投資資本を増加させる為の物的資本=実物資本への)支出や、・金融資産Yahoo!百科事典も参照)の増加の為の支出、・金融負債を減少させる為の支出などに充てられる。
金融資産や金融負債が何かは、企業会計基準「金融商品に関する会計基準」(※6)で、定義されている。
資産と言う場合、その外形的な資産の分類として、金融資産と事業用資産があるが、日常用語として貯蓄と言う場合、金融資産の増加の場合にのみ使われているのが通例であり、さらに、当該金融資産でも、預・貯金や国債などの購入の場合には、貯蓄と言う(※預金には、リスクの発生することもある外貨預金も含まれている)が、金融資産である有価証券株式債券等)などリスク資産(高利回りが期待されるが元本割れの危険もある金融資産)購入の場合には、貯蓄とは表現せず、通常投資と言われることが多い。
又、金融負債には、住宅ローン、割賦購入、銀行の総合口座貸越・カードローン、いわゆるサラ金などの消費者金融の借入金の返済などがあるがこれを、日常用語として貯蓄ということはない。それに、個人でも、事業用資産として、土地・建物等へ投資し、これらの購入資産の利用(リース等)によって儲けることを期待する場合もあるのだが、そのような投資に対する支出であってもそれを貯蓄とは言わないだろう。このように、同じ貯蓄という言葉でも、経済用語の「貯蓄」は日常用語とは意味内容や定義が異なっていることには留意すべきだろう。
よく「日本人の個人金融資産は1400兆円」とか言われているのを聞いて、どう、思われているだろうか。
これは、日本銀行調査統計局が1954(昭和29)年分から作成している『資金循環統計』(※7の資金循環解説の中の資金循環統計の作成方法を参照)によるもので、『資金循環統計』はわが国における金融機関、法人、家計といった各部門の金融資産・負債の推移などを、預金や貸出といった金融商品毎に記録した統計であり、この統計の「家計金融資産」の数値が、よく言われるところの「日本人の個人金融資産」云々・・・の数値である。
2011(平成23)年12月末の家計の金融資産は1,483兆円ある事になっている。以下参照。

(A)日銀資金循環統計(2011年第4四半期速報):参考図表(Adobe PDF)参照。)。
(B)個人の金融資産 (日銀の資金循環統計速報 2011年12月末の状況)(Adobe PDF)

(B)は、金融資産の内容を円グラフにしたもので、内容が一目でわかるだろう。これで見ると、1位は、「現金・預金」が839兆円で、全体の56,5%を占めており、2位は「保険・年金準備金」となっており、これが420兆円28,3%、この2つで、84,8%とその殆どを占めており、日本人が安全性の高い「現金・貯金」中心にしており、リスクのある投資が少ないことがわかる。
しかし、実際には、金融資産のほかに、金融負債が357兆円あり、その差額は、1,126兆円と言うことになる。これを、日本の総世帯数46,782千(※4の ここ参照)で、計算すると、1世帯あたりのネットの金融資産は24百万ぐらいと言うことになる。それでも、多いな〜、いったい誰がそんなにお金を持っているのだろう?というのが、多くの人の実感ではないか。
実は、この家計の金融資産の中には、サラリーマンなどの勤労者だけではなく、個人事業主の事業性資金が含まれており、また「保険・年金準備金」には、企業年金(厚生年金基金、適格退職年金、確定拠出年金、確定給付企業年金<基金型企業年金・規約型企業年金>)、その他年金(国民年金基金等)の運用資産相当額等が含まれており、個人の資産という概念で見るわけにはゆかないのではないか。日銀の数字はあくまでマクロの統計なので、見方によっては、世界一の財政赤字を抱える日本の「国債の発行上限額」の一つの指標としては使えるだろうが・・・。
個人資産の実態に近いと思われる数値を示すデータもある。
2011(平成23)年3月31日公表の国勢調査などを基に調整した総務省・統計局による統計データ(※4)の「家計資産に関する結果」である。以下参照。

平成21年全国消費実態調査 家計資産に関する結果の要約 

このデーターによると、二人以上の世帯の平成21年11月末日現在の家計資産は、1世帯当たり3588万円となっている。
内訳をみると、宅地資産が1992万円で家計資産の55.5%を占め、そのほか金融資産(貯蓄1,473-負債526)が947万円、住宅資産が523万円、耐久消費財等資産が127万円となっている。
これを、5年前の国勢調査時2004(平成16)年と比べると、家計資産は6.2%の減少。内訳をみると,宅地資産が8.6%の減少、耐久消費財等資産が13.5%の減少、住宅資産が4.5%の減少、金融資産も0.4%の減少と全ての資産が減少している。
1世帯当たり3588万円の家計資産のうち勤労者所帯の資産額は2653万円で、金融資産(貯蓄1146ー負債661)は、486万円、住宅・宅地資産2039万円、耐久消費財資産129万円となっている。
そして、二人以上の世帯の家計資産額階級別の世帯分布をみると,1世帯当たり家計資産は平均値3588万円であるが、中央値は2284万円で平均以下の世帯が全体の約3分の2(66.2%)を占め,資産額の低い階級に偏った分布となっている。
又、世帯主の年齢階級別にみると、家計資産は70歳以上が最も多く(5024万円)、30歳未満(854万円)の5.9倍となっており、年齢階級が高い世帯ほど家計資産が多い。平成16年と比べると,家計資産は30歳未満を除く各年齢階級で減少している。また、単身世帯の1世帯当たりの家計資産は男性が1,861万円、女性が2,997万円。年齢階級別にみると、男女とも年齢階級が高い世帯ほど家計資産が多いというのは当然だろう。
この総務省・統計局による全国消費実態調査は、比較的実態を表していると思うが、富が中高年に集中し、若者の生活が厳しい状況が統計からも見て取れる。しかもこの富の世代間格差は年々広がってきている。このデーターでは、金融資産が何に投じられているかは判らないが、恐らく、日銀金融資産循環統計に見られるように、諸外国に比して、リスクのあるものへの投資よりも圧倒的に「現金・貯金」の割合が多いのが日本の特徴であろう。
1990年代まで、日本の個人金融資産残高は高い貯蓄率や利息により、着実に増加してきたが、高齢化の進行に伴う貯蓄率低下や超低金利の定着などによって、21世紀に入ってから日銀調べの金融資産残高(負債控除前)の伸びも大きく鈍化、ここ数年来は1400兆円台で推移している。
国の多額の財政赤字(公的債務残高。その大半が国債)を支えているのが個人金融資産だが、これが頭打ちの状態に来ているが、円高とデフレ不況の続く中、昨年の関東東北大震災(東日本大震災)の復興、原子力発電所停止の中、石油資源の高騰、近い将来、東海・東南海・南海連動型地震による大津波発生が予測されるなど、ますます、国の財政負担は重くなってゆくが、今後の個人資産での国債の消化も不透明になってきた。
それに、総務省・統計局による全国消費実態調査に見られるように、家計資産の大半が、流動性のない住宅や宅地資産で占められているが、この持ち家率の上昇に伴って、住宅ローンを抱える世帯が増えている。今の時代、勤労者世帯は、深刻化する雇用不安や金融不安などのさまざまな不安を抱えながら、所得の伸び悩みや低下に直面しているなかで、住宅ローンの負担が重くのしかかり、その大切な不動産価値も年々低下していることが、さらに個人資産の低下を招く要因となり、それが、小子化を勧め、消費性向をも低下させていくという悪循環になってきている。
小子高齢化の中、老後の年金問題や医療費がどうなるのか、その目途もつかない中、電気料金アップや消費税の大幅アップなどによる支出増が目の前にちらついている。これからの長い一生を悔いのないように過ごすためには、所有する個人資産を有効に運用・活用し、それなりの貯蓄を増やしておかなければ仕方がないだろう。
資産運用法にはいくつかあるが、結局その方法は、ライフプランの基本設計の中で、きっちりと立てておかなければいけない。
元本は保障するが、リターンの少ないもの」(ローリスクローリターン)の「貯蓄型資産運用」と、「元本を保証しないが、リターンの大きいもの」(ハイリスクハイリターン)の「投資型資産運用」をどのようにどのように、選択するかと言うことになる。
ただ、昨・2011(平成23)年に巨額の損失隠しが発覚したオリンパス(オリンパス事件参照)、今年に入って、個人投資家約700人からの預かり金計3億円超のうち、約2億円を会社の運転資金に不正に流用するといった丸大証券(※8)、委託されていた企業年金およそ2,000億円の大半が焼失していたというAIJ投資顧問など不祥事が絶えず、海外勢も日本株に慎重になりつつある。
このような独立系の投資顧問会社に委託した年金問題は、他にも大きな損失を出して入りところが多くありそうで、この事件は、確定給付年金の持つリスクを改めて認識させるひとつのきっかけになるだろう。
資産運用において、投資による資産拡大を目指すか、上手に家計を節約し、余分な支出を減らして、地道に資産を拡大する方法が賢明かは、それぞれの状況に応じて考えればよいことだが、これからの増税、その他の支出増を考えると、日本の今の低金利の中では、安全な資産「現金・預金」などだけでは目減りするかもしれない。金融危機の影響で安全を考えると、資産の拡大よりも、先ず、銀行預金などより高い利率で借りている借金等を返済するなど負債を減らすことが金融の素人の私たちにとっては、一番かも知れない。
ただ、経済学的には、負債を減少させることや、貯蓄を増やす努力は購買力を将来へ移転するという行為ではあるが、マクロ的には、貯蓄を増大させるということはその時点で考えれば,財の消費を減らすということであるから、有効需要(有効需要の原理参照)を減らし、所得や雇用を減少させていく可能性に繋がる。経済を発展させてゆくためには、貯蓄する人々が、同時に将来の消費を増やすためにも、投資を行うということをしないと起こることなのだが・・・。なかなか難しい問題だよな〜。

(冒頭の画像は、兵庫県神戸市中央区(廃止当時は生田区)、の旧居留地にかつて存在した

現在の暦「グレゴリオ暦」を編纂したグレゴリウス13世 (ローマ教皇)の忌日

$
0
0
「時は金なり・・・」とは、よく言われるが、私達は、日頃、人と人の約束事を始め、企業間の契約から国家間の条約まで、それれをらを成立させ、また、その効力を発揮するたに必要不可欠なものとしてを自由に使いこなしているものの、暦の来歴に意識することはない。
暦(こよみ、れき)とは、時間の流れを年・月・週・日といった単位に当てはめて数えるように体系付けたもの、また、その構成の方法論(暦法)や、それを記載した暦書・暦表(日本のいわゆる「カレンダー」)を指す。
暦の歴史を見ると、実に様々な暦があり、いくつかは現代まで生き残っているが、その多くはその痕跡を残して消えていったが、そうした中、現在使用している暦(太陽暦)の先祖(古代太陽暦)とも言われる重要なものが、古代エジプトのエジプト暦(シリウス星暦)とも言われるものであった。エジプトでは遅くとも紀元前3000年頃には恒星シリウス(Sirius)の動きから1年が365日であることを知っていたといわれる。
現行暦は1582年、ローマ教皇グレゴリウス13世が、当時のヨーロッパの代表的な天文学者たちを集めて編纂させたグレゴリオ暦である。
この暦はエジプトを征服したユリウス・カエサルアレキサンドリアの暦学者ソシゲネスに命じて紀元前46年に、エジプト暦を改良し古代ローマに導入して以来使われていたユリウス暦を改良して制定したものである。この暦は、単に新暦(ラテン語: Ornatus)と呼ばれる場合もあるが、現在使われている西暦はグレゴリオ暦のことでである。
日本では、1872(明治5)年11月9日に太政官布告を頒行(はんこう。ここ参照)、1898(明治31)年に勅令によってグレゴリウス暦を施行した。
従来からの太陰太陽暦を廃して翌年から太陽暦を採用するとした明治5年の年も押し詰まった11月の布告はあまり突然なことに社会的な混乱を来したことだろう。
特に、暦の販売権をもつ弘暦者(江戸時代からの暦師。明治5年には頒暦商社が結成された)は、例年10月1日に翌年の暦の販売を始めることとしており、この年もすでに翌年の暦が発売されていた。急な改暦により従来の暦は返本され、また急遽新しい暦を作ることになり、弘暦者は甚大な損害を蒙ることになった。
一方、太陽暦改暦を唱えていた福沢諭吉は、改暦決定を聞くと直ちに『改暦弁』を著して改暦の正当性を論じた。太陽暦施行と同時に刊行されたこの書は大いに売れその純益は1,500円にまで及んだという。1977(昭和52)年時点米価をもとにした明治6年の米俵1俵(60kg)の米価は、1円20銭(米価の変遷参照)だといから、これを現在の価値基準(昭和55年=17,294円)に置き換えると、2、100万円以上となる。福沢としては何の苦労もせずに、わずか6時間程で書き上げて随分と儲けたことになる(※1参照)。
この中で福沢は政府による一方的な改暦に不満を募らせるひとびとに対し、福沢は『改暦弁』の中で政府と同様、暦注(れきちゅう)について、次のように徹底的に批判している。
「日本国中の人々、この改暦を怪しむ人は、まちがいなく無学文盲の馬鹿者である。これを怪しまない者は、まちがいなく日頃から学問の心がけのある知者である。よってこのたびの一件は、日本国中の知者と馬鹿者とを区別する吟味の問題といってもよろしい。」・・・と。
もっとも、福沢が馬鹿者呼ばわりするのは、旧暦時代の暦(カレンダー)に記載されていた「暦注」という、おもに陰陽五行にもとづいた日々の吉凶判断の類を信じていた人たちをさすようだが、以前、このブログの「福澤諭吉が『学問ノスゝメ』の最終刊・第17篇を刊行」の中でも書いたが、『学問ノスゝメ』のなかでも、「人は生まれながらにして貴賎貧富の別なし」と身分差別を批判し、「職業に貴賎なし」としているものの、「難しき仕事をする人を身分重き人と名づけ」が彼の本心で、「無学なるものは貧人となり下人となるなり」とあるように、日用の役にたつ学問(「実学」)の強調もあるのだろうが、それをしていない無学で、貧乏な人達への偏見が見て取れて、私は、福沢が賢い人である事は認めるがあまり好きになれる人物とはいえない。
さて、明治新政府が、明治5年の年も押し詰まった11月に何故、唐突に「グレゴリオ暦」を導入しようとしたのかと言えば、欧米諸国との国交を開いた日本にとって、暦の違いは読み替えを必要とし、不便であったこともあるが、もっと重要な理由として、政府が直面していた財政難があった。
1873(明治6)年は太陰太陽暦でゆくと閏年で、6月が2回あり、1年13ヶ月となり、2年前の明治4年9月2日(グレゴリオ暦1871年10月14日)に役人の給与を年俸性から月給制に改正していたので、政府は13回月給を支払わなければならなかった。これを、1年12ヶ月の太陽暦に移行すれば給与1ヵ月分の支出を削減できたからである(※2参照)。そのため、改暦により、明治5年12月2日(旧暦)の翌日を明治6年1月1日(新暦)とした。全く、政府にとっては都合の良いことかしらないが、役人にとっては迷惑なせこい(細かくてケチなことや、ずるいことを意味する)考えによるものだった。
先に述べたように、今日・4月10日は、現行の太陽暦として世界各国で用いられている「グレゴリオ暦」を制定したローマ教皇グレゴリウス13世(Gregorius XIII,)、本名はウーゴ・ブオンコンパーニ(Ugo Buoncompagni。)の1585年の忌日である。
ローマ教皇グレゴリウス13世の第226代ローマ教皇としての在位期間は1572年-1585年であり、日本との接点としては、以前にこのブログ「長崎二十六聖人殉教の日」の中で、戦国時代の日本に巡察師として到来していた“イエズス会アレッサンドロ・ヴァリニャーノの発案によって、1582(天正10)年、九州のキリシタン大名大友宗麟大村純忠有馬晴信の名代として、天正遣欧少年使節(4名の少年)がローマへ派遣された。”・・・ことを書いたことがあるが、その4人の少年使節が1585(天正13)年3月に ローマに入り、バチカンで、グレゴリウス13世に謁見したという(※3)・・・。
ローマ教皇グレゴリウス13世のことについて、私は、グレゴリオ暦を作った人であることと、このことぐらいしか知らないので、グレゴリウス13世についての詳しいことを知りたい人は、Wikipedia への記載ここを参考にされたい。
兎に角、今日は、グレゴリウス13世の忌日だというので、暦ができるまでを考えてみたい。
人間は、なぜ、どのようにして自然を測るようになったのだろうか。
時間空間を測り、それによって日常生活を調整しているのはなにもわれわれ人間だけではない。よく知られているのは生物の体内時計(概日リズム。英語: Circadian rhythmサーカディアン・リズム。ラテン語合成 Circa〔およそ〕di〔1 日〕)である。生物の体内は24時間に近い周期に従って短期的な活動を繰り返す仕組みになっている。
生物が生活をしている地球上では、24時間の周期で昼夜が交代し、明るさや温度が変化する。太陽の出没によって生ずるこの周期は、自然環境そのものの時間の節目であり、区切りである。
太陽はゆうまでもなく、地球上のあらゆる生物のエネルギー源であり、その出没は生物の一日の生活に基本的な枠組みを与える。かりに体内時計の周期(約25時間。但し、個人差24+-5時間ありとのこと。※5参照)と太陽出没の周期(※6)とがはじめから一致しているとしたら、そこには、時間を測るなどという問題は生じない。同じ時間のリズムで動いてゆくだけのことである。ところが、両者の周期は異なる。因みに、それが故に現代人の概日リズム睡眠障害などは概日リズム機能の低下と結びつけて考えられてもいる(※5参照。)
生物はいつも遅れるか進む時計を持っている。生物が太陽エネルギーをもっとも効果的に利用しようとするならば、体内時計は、一日の周期に合わせて動くように自己調整(同調)しなければならない。つまり、周期の差を測り、時間のずれをなくす。生物はこの自己調整能力のお蔭で、環境にある程度の変化が生じても適応してゆけるのである。
それでは、体内時計はどのようにして周期の差、すなわち時間を測るのだろうか。体内時計が同調するのは第一に明るさ、そして、第二は温度に対してだといわれている。
例えば、毎年移動を繰り返す渡り鳥は、体内時計に照合して太陽の位置を見定め、一方向に飛んでゆくことが知られている。
つまり、太陽コンパスを使って、角度を測っているのだそうである。そのメカニズムは、太陽の位置する方向を基準線にして、今度は空間が明暗の縞模様を描き出す。放射状に明暗で描き分けられた時間の文字盤板をイメージすれば良いのだそうだ。
縞模様は太陽の動きにつれて時計回りに回転する。それを体内時計が同調し、特定の時間には特定の明るさをもつ縞のすじの指示する方向をこの生物に選択させるのだそうである。
しかし、人類は言語を獲得して後、生物として単に体内時計に依存する生態から脱出し、生物の自然の現象の描く図形ないし図柄を指標として行う非数量的なアナログ型の測定に加えて、自然に関する知識をつかって時間を測るやり方を発明した。
古代のギリシャの詩人ヘシオドス(紀元前8世紀)は叙事詩『仕事と日々』のなかに、この型の時間測定の見事な記録を残している。
「プレアデス((英語: Pleiades。トレミーの48星座の1つプレアデス星団)が夕方東の空に上りはじめたら収穫し、太陽と一緒に沈み始めたら種を蒔け。シリウス(Sirius)が昼間しばらく、夜が長い間光る頃は、森に斧を入れる格好の季節だ。オリオン(Orion=オリオン座おうし座の東にある冬の星座。中央に三つ星が並んでいるのが目印。)の三つの星が現れ始めたら、いそいで、麦打場で脱穀するがよい。鶴が雲の上で一声鋭く鳴くのを聞いたら、それが種播(ま)きの合図だ。葡萄の樹の剪定は燕が飛来する前にすませ、蝸牛が樹に這い上がるようになったら葡萄畑の除草をおえなければならぬ。・・・・と。

上掲の画像はプレアデス星団である。画像はWikipediaより。
一方には、自然の時間秩序の指標となる天文や気象や動植物などの季節的な現象があり、他方には、社会集団の中に成立している農作業の時間秩序がある。自然現象の描き出す図柄をたよりに、農作業の時間秩序を調整し、2つの時間秩序を一致させる。そうすれば、労働は最大の効果を収めるだろう。四季の循環と言う大きな時間秩序に変りはないが、気候は年によって変動する。そのために生ずる時間秩序のずれも、この「同調」によって対処できる。このような時間測定は、原理的には、体内時計と全く同じだ。知性による体内時計の拡張ともいえる。
ヘシオドスが生きていたのは農耕社会であり、そこには整った暦もあった。それでも、なお、農民にとって、非数量的なアナログ型の測定に、自然に関する知識をつかって時間を測るやり方を加えた知識-アナログ型の測定は欠かせないものだったようだ.。
自然現象に関するその知識は定着農業に先立つ、狩猟・漁労・植物採集の自然経済時代以来、少しづつ蓄積されてきたものにちがいないようだ。
現存する無文字社会の種族などは知識-アナログ型の測定を行なっており、かれらは 体内時計に従って夜明けとともに起き、日暮れとともに床につく。日の出直前や日没直後に東の空、西の空に輝く星は、そんな生活を送る彼らの目を引かずにはおかない。
プレアデス星団やオリオン星座・、蠍(さそり)座のようなよく目立つ図柄の星の集まり、あるいは、アルタイル鷲座のα星〔アルファ星=一つの星座の中で、最も明るい星。首星〕)・ベガ(ヴェガ。こと座のα星)・カノープスりゅうこつ座のα星)・シリウス大犬座のα星)のようなひときわ明るい星は、かれらにとって、あるいは、鳥や海亀の産卵期を教え、あるいは、野生の芋や木の実の収穫期を知らせ、あるいは、獣や魚の群、雨季や季節風や移動すべき時期の到来を告げる・・・合図であった。
台湾本島の南西沖の孤島蘭嶼(らんしょ)に住むヤミ族(タオ族。アミ族とも)は、くり抜いた木を組み立て、彫刻を施したゴンドラ型の船で海に出て漁をする。飛魚がやってくる3月から5月までが最大の活動期で、月の満ち欠けを数え、新月の夜に祭りを行い飛魚漁を始める。その方法は期せずして、太陰暦に閏月を挿入する太陰太陽暦のやり方を先取りしていると言う(週刊朝日百科「日本の歴史」47古代―3「暦と年号)。
タオ族のことは、以下参考の※7:“1940年頃の蘭嶼”(台湾タオ族)、また、※8:「台湾原住民デジタル博物館」の“アミ族”に詳しく書かれているが、※7から、暦のところを抜粋すると以下のようになる。
1月=カオワン、2月=カッシャマン、3月=カボアン、4月=ピョコカオル、5月=パパタオ(小さい船で飛魚を取りにゆくの意)、6月=ピラピラ(網で魚を取るの意)、7月=ビヌスノマタウ、8月=ビヤムアン、9月=ポアハウ、10月=ゲタナタア、11月=アルマヌ、12月=カヌマン、13月=カピトアン
ヤミ族には時計と言うものがなく、夜が明けるとともに、起き出て朝食をすまして仕事にかかり、午後3時頃昼食をする。昼食後はあまり仕事をせずぶらぶらしているようだが、日が没する頃に夕食を済ませて間もなく寝るのが一日の行事となっている。
仕事と言うのは、漁労と農作業が主なものであるが、男子の仕事と女子の仕事がはっきりと分かれている。
1年を13ヶ月に分けていて、その月によって年中行事が定まっている。例えば2月をカポアンといって、飛魚を獲り始める月、7月をビヌスノマタウといって魚とりは一切止めて家の改築や船の建造をする月、この2月と7月は陽暦に当てはめての月名だそうである。
12月をカピトアンといって、神様を祭り、又、粟蒔きをする月というように、その月の行事がそのまま月の名称になっているという(〔注〕※7の書き誤りか、ここでは12月をカピトアンとあるが、補注では、12月=カヌマン、13月=カピトアンとなっているので、12月のことか13月のことか正確なことはよく判らない)。
時間測定を計量化し、天文観測(天文学)に基づく暦を作成するまでには、なお越えなければならない巨大な壁があった。それは、第一は、文字を知り、計算が出来、天体の運行や星座の配置について系統的な知識を持つ専門家の存在であり、第二は、そのような専門家を必要とし、また養ってゆけるような、社会的分業階級的文化の進んだ社会の出現である。
いわゆる未開社会の人々は、空間や物を測る特定の言葉や手立てを殆ど持ち合わせていない。大抵のことは目分量で間に合う。異動する距離なら、半日の道程というように時間で表せる。
このような場合、そんなに厳密さは必要ないのだから、物の量を比較するのは簡単。例えば、長さの場合、※7に、よれば、ヤミ族は他の種族と同様に一定のスケールを有しないが両手を拡げた長さ即ち一尋を単位として用いている。これをasarupaと言いその2分の1を半尋asarimaと言っている。更にひじを曲げて手を軽く握り肘関節から中指の第2間接までの長さをsiko、指を伸ばして小指から人差し指まで4本の指の幅をapatakamai、紅付指から人差指まで3本の指の幅をatorakamai、中指と人差指と2本の指の幅をnuakamai、人差指1本の幅をasakamaiと読んでいるという。
そのほか、容量は掌籠ですくってみる。重さは持ち運べるかどうかを目安にする。量の比較は必ずしも軽量化ではない。
度(さし)・量(ます)・衡(はかり)というものは流通・交易などの価値の交換において、非常に重要な意味を持っており、そのような、比較のために共通の基準を必要とする社会において、初めて度・量・衡制が実現する。そのような社会とは、同時に暦を必要とする社会でもあり、高度に組織された社会、統一された国家にほかならなかった。
紀元前4000年紀の後半にメソポタミヤシュメール人が始めて都市国家を形成した。同時にかれらは、文字を発明し、数世紀後にそれは古代エジプトに伝わった。そして、メソポタミヤとエジプトの都市間において最初の体系的な暦と度量衡が産まれたのである。
古代ギリシアの歴史家・ヘロドトスは、「エジプトはナイル河の賜物」という言葉を彼の著した最初の歴史書『歴史』に記しているそうだが、ナイル川は毎年氾濫を起こし、肥えた土を下流に広げたことがエジプトの繁栄のもとだといわれている。そんなナイル河の氾濫を正確に予測する必要から天文観測が行われ、太陽暦が作られた。太陽とシリウス星が同時に昇る頃ナイル河は氾濫したという。
人類にとって、昼間は活動して夜は休む、というのが自然に備わったサイクルであり、それが、1日という単位である。また夜の暗闇の中での満ち欠け(月相=朔望〔さくぼう〕※9参照)の周期性も当然に読み取った。1カ月という単位はこれに由来すると言われている。そして、四季の変化を無視して生活をすることが出来ないことから、自然界の流れに順応した、生活のための食料確保や住居作りに取り組んできた。こうして1年ごとのサイクルを身体で覚え、やがて農業や牧畜の進歩とともに、正確な日にちを数えるようになる。こうして、何日で満月が来るか、何日で季節が一回りするのかを知るという「自然の暦」がカレンダーの出発点である。
しかし、地球の自転1回を1とすると、月の公転周期(1朔望月)は平均29.53059日と端数が付き、地球の公転周期(1太陽年)も365.2422日と、これまた整数でないため、近代暦法の成立めざして、各文明、それぞれの民族が取り組んできた。
1日・1朔望月・地球1公転(1太陽年)。この三つの周期のどれを使い、どれをどう組み合わせるかで、太陰暦太陰太陽暦、太陽暦の暦法に区別される。
しかし、冒頭に述べた現在使用している暦(太陽暦)の先祖とも言われる古代エジプトのエジプト暦(シリウス星暦)も、一月を30日、一年を12ヶ月とすることを基本としていることを見ると、月の満ち欠けという目立つ現象が12回繰り返されると1年がすぎたと、気づくことから暦が始まったといえるだろうから、独立に生まれたと思われる世界各地の暦のほとんどが、天体と結びつけて作られた「太陰暦」が最初の暦であったといえるようだ。
ただ、度量衡を定める・改正するという行為もそうだが、それと同様に、暦法を改める事も権力の象徴であり、古代より近世に至るまで、権力者たちによって様々な改訂が行われてきたが、そこには、月の日数を何日にするか又、月のネーミングさえ、権力者の名前を誕生月につけるとか。時の聖職者や権力者の都合で改訂されてきたようだ。
例えば、ユリウス暦の前のヌマ暦(太陰暦、1年355日。ローマ暦参照)を、エジプトの太陽暦を参考にしてつくられたユリウス暦には、為政者ユリウス・カエサル(ジュリウス・シーザー)の誕生月とされる7月をそれまでの「Quintilis」から彼の名「Iulius(Julius)=July」に改名しており、その後、カエサルのあとを継いで初代ローマ皇帝となったアウグストゥスは、カエサルの真似をして、同じくカエサルの7月に続く自分の誕生月8月「Sextilis」を自分の名「Augustus=August」に改名しただけでなく、その時「Sextili」は小の月だったのを、「Augustus」を大の月とし、カエサルの7月と同日数とすることで、アウグストゥスがカエサルと同格の偉大さであるというアピールをこよみに刻んだようだ。今の2月、つまり、古くは「Februarius」が年末の月だったから、閏日はこの月についていたが、「Augustus」が大の月になったため、さらに「Februarius」から1日減らすことで辻褄を合わせた。そのため、平年は28日という短さになってしまった。
又、ローマ教皇グレゴリウス13世による、ユリウス暦からグレゴリオ暦への変更もそうだ。
彼ら聖職者たちの最大の関心事は、キリスト教の最重要行事である復活祭(イースター)催行上の問題を解決することが最大の目的であった。
ユリウス暦もグレゴリオ暦と同じく太陽暦なのだが、1年を365.25日として計算していることから、精度に問題を抱えていた。
その差は、0.01日にも満たないものではあったが、長年放置しておくと、積もり積もって大きな誤差に成長し、グレゴリウス13世がローマ教皇の座につく16世紀になると、暦上の春分の日が実際の春分より10日ほど前倒しになるほどに、ズレは大きくなっていた。
復活祭はキリスト教の典礼暦における最も重要な祝い日で、十字架にかけられて死んだイエス・キリストが3日目に復活したという伝承にもとづいた宗教行事であり、その催行日は「春分後の満月のあとの最初の日曜」と定められている。このため、暦上の春分が実際の天文学的な春分とズレてしまうと、復活祭の日程もズレてしまうので、それを、閏年の入れ方を調整することで解決したが、この改暦で、太陽暦として1年の長さだけはとにかく正確に測れようになったが、改暦以前からそのまま継承されていた矛盾や理論破綻については考慮に入れられておらず、規則性や客観的根拠を内包しない非合理的な暦となってしまったまま現代に引き継がれていることになる。
そのような現代にも残る暦の論理的矛盾などは、以下参考の※10:「旧暦は地球を救う」の“06 グレゴリオのバグ”に詳しく書かれているので、そこを読まれると良い。
先にも述べたように、実際には自然も人間も循環をもち、同時に自身もまた循環の中にいる。旧暦が循環という実在する法則にのっとった自然暦であるのに対し、キリスト教徒の作った人工暦であるグレゴリオ暦の直線的な時間概念は人間も含む自然界の生命活動の本来のあり方とは決定的に矛盾してしているものであることは承知しておかなければいけないだろう。
グレゴリオ暦の1年=365.2425日によって生じる実際の1年との差は約0.0003日であり、1日分の誤差が生じるまでには3000年以上要するなど、単純さと正確さを兼ね備えた暦ではある。ただ、暦と太陽または月の運行とのズレを補正するためにグレゴリオ暦は、閏年を挿入しているがその法方は、1年を 356.2425 日とし、端数を 97/400 で近似したため、誤差の補正がややこしい。
以下参考の※11:「グレゴリオ暦とバイナリ暦」によると、今日の測定技術で、太陽年 365.24219 の端数をあらためて分数近似したものを求めると、128 で割り切れず 4 で割り切れる年をうるう年にすれば、これだけで数十万年の間はややこしいい他の補正をせずとも誤差が1日以内に収まることになるという。
128 年で割り切れる上、2進数で下位ビットが全部 '0' の改暦するに最も都合の良い年が、2048 年だそうで、この文字通り千載一遇の機会に、宗教的見地からでなく 科学・技術的見地から 是非とも暦法が変更されないものかと提案しているが、私もそれが本当なら、そうすべきと思うが、どうなるのだろう。
今年2012年は、現行の協定世界時 (UTC) において、世界時(UT1)との差を調整するために閏秒が挿入される年だそうだ。
日本時間2012年7月1日午前9時の直前に1秒が挿入される。秒は、世界同時に挿入され、この閏秒挿入時のときのみに60秒という珍しい時刻がカウントされるだそうだ(※12参照)。秒までを手作業で行なうのは大変だろうね〜。
最後に、余談だが、当ブログ中間あたりで、詩人ヘシオドスは「 仕事と日々」という詩の中で、プレアデス星団を「農業の季節を知らせる星」といってることを紹介したが、谷村新司の「(すばる)」を知っていますか。
プレアデス星団(Pleiades )は、牡牛座散開星団である。
大神ゼウスが牛の姿に化けた牡牛座の肩の辺りにあり、ギリシア神話に登場する「プレイアデス」では7人姉妹の妖精の星とされているが、欧米では「The Seven Sisters 」とも言われているように、普通は6つの星しか見えないようだ。
ギリシャ神話では七人の娘の一人エレクトラが自分の息子ダルダノスが建設したトロイの町がトロイ戦争の結果、焼け落ちたのを七日七晩泣き明かし、涙で姿がかすんで見えなくなったと言う。
プレアデス星団は、日本でも六連星(むつらぼし)」とも呼ばれているが、日本では古来より、「昴(すばる)」の名前で親しまれ、今から千年も前に清少納言の『枕草子』の一節(第236段)には、「星は すばる。ひこぼし(彦星=牽牛星)。ゆふづつ(夕星=宵の明星=金星)。・・・」とあるように、彦星や宵の明星もいいけど、星は「昴」が最高」と書いている。
谷村新司の歌 「昴」の中で、「さらばー昴(すばる)よー」 と別れの言葉を歌っているが、“「なぜ、昴に別れを告げているのか」という 疑問が自分で詩を書き歌っている谷村自身にも解けなかったが、 作詞から20年以上たってから「物を中心に据え た価値観に別れを告げるという意味だった」と納得したそうである”・・と.Wikipediaの中には書いてあった。
プレアデス星団は、地球から約400光年のところにあり、120個ほどの恒星が集まっている。周囲には星が誕生したときの星間ガスがただよい、明るくうつしだされている。また青白く輝いていることから表面温度のきわめて高い白色巨星で、質量は太陽の十数倍と考えられているという。
プレアデスは代表的な散開集団で、その名のとおり、不規則に飛び散るようすを示しているが、激しい燃焼のために寿命は短く、あと1,000万年ほどで超新星爆発を起こして消滅するのではないかともいわれているそうだ。
谷村新司の歌 「昴」を聴いていると、私には、そのような、プレアデス星団の運命的なものが感じられるのだが・・・。
いい歌なので、最後にこの歌を聴いて終わろう。

YouTube -昴-すばる-/谷村 新司

(冒頭の画像は、「グレゴリオ暦」を制定したローマ教皇グレゴリウス13世。Wikipediaより)
参考:
※1:慶應義塾大学出版会|慶應義塾・福澤諭吉
http://www.keio-up.co.jp/kup/webonly/ko/fukuzawaya/21.html
※2:改暦弁 - 静岡県立中央図書館[PDF]
http://www.tosyokan.pref.shizuoka.jp/data/open/cnt/3/354/1/SZK0002748_20040929064244537.pdf ※3:天正少年使節 
http://home.att.ne.jp/wood/aztak/untiku/tenshou.html
※4:グレゴリウス13世 (ローマ教皇) - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B0%E3%83%AC%E3%82%B4%E3%83%AA%E3%82%A6%E3%82%B913%E4%B8%96_(%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%9E%E6%95%99%E7%9A%87)
※5:元MRが語る・医療と生物の信じられない実態2
http://www.unlimit517.co.jp/repomedi2.pdf#search='体内時計 太陽の出没'
※6:第五管区海上保安本部> 海の相談室 >日出没情報
http://www1.kaiho.mlit.go.jp/KAN5/sun/calendar2012.htm
※7:“1940年頃の蘭嶼”(台湾タオ族)[PDF]
http://chijiiwa.kaishao.idv.tw/110007595544.pdf
※8:台湾原住民デジタル博物館
http://www.dmtip.gov.tw/JP/index.htm
※9:国立天文台>暦計算室>トピックス:月の満ち欠け(朔望)
http://eco.mtk.nao.ac.jp/koyomi/topics/html/topics2010.html
※10:旧暦は地球を救う
http://88d.jp/feature01/feature.html
※11:グレゴリオ暦とバイナリ暦
http://www.finetune.jp/~lyuka/interests/essay/binarian/binarian.html
※12:日本標準時グループうるう秒の対応〔2012年7月実施版〕
http://jjy.nict.go.jp/news/leaps2012.html
【亀のつぶやき】バー ステイツ コラム Vol.46 六連星
http://www.barstates.com/log/ken12.htm
カレンダー学術百科事典
http://www.koken.ne.jp/hyakka/gakujutu1.html
暦のページ
http://koyomi.vis.ne.jp/
Yahoo!百科事典
http://100.yahoo.co.jp/

市制及町村制が公布された日

$
0
0
「市制及町村制」とは、地方公共団体として市・町・村の組織、権限、運営を定めた制度のことである。特に、1888(明治21)年の今日・4月17日に公布され、翌・1889年(明治22年)4月1日施行されて以降、1947年(昭和22年)までの本土の市町村を定めていた、市制明治21年法律第1号の前半)と町村制(明治21年法律第1号の後半)を合わせてこう呼ぶ。ともに1947年(昭和22年)の地方自治法の施行により廃止されるまでの大日本帝国憲法下における日本の地方自治に関する基本法であった。
日本の国家機能(行政)を執行するための行政区画としては、市・町・村の集合体より上級の行政区画の都道府県があるが、先ず、その成立過程を簡単に振り返って見ることにしよう。
行政区画としての府県は1868年(慶応4年・明治元年)の府藩県の三治制に始まり1871年(明治4年)の廃藩置県により3府302県が置かれ、この3府72県を経て1889年(明治22年)までに3府43県に統合された。この間、1878年(明治11年)7月22日、「郡区町村編制法」とともに地方三新法を構成する府県会規則および地方税規則により自治体としての性格を得、従来の国の地方出先機関としての性格との二面性を持つようになった。
1889年(明治22年)2月11日に発布された大日本帝国憲法(1890年(明治23年)11月9日施行)による立憲体制下において、自治体としての府県は1890年(明治23年)にプロイセン王国制度に範をとって制定された法律「府県制」によって規定された。一方、地方長官である知事以下、地方官庁としての府県の機構は勅令である「地方官官制」によって規定された。府県知事は官選(日本の政令指定都市区長に見られるように、国家などの行政機関の指名によって選出する方式。)とされ政党内閣または政党の影響の強い内閣の時期も含めて多くは内務省官僚が任命され、また内務大臣の監督に服するものとされていた。それに対して府県会は財政議決権を持つだけで与えられた権限の及ぶ範囲は狭く、自治体としてよりも国の行政区画としての意味合いが強かった。
第二次世界大戦中は更に政府の統制が強化されたが終戦後の1946年(昭和21年)の第1次地方制度改革(※1)で知事の公選制が導入されるなどの民主化が行われ、最終的には1947年(昭和22年)の地方自治法の成立により現行の都道府県制に移行した。現在では、「1都1道2府43県」つまり、都が東京都の1、道が北海道の1、府が京都府および大阪府の2、県が43で、総数は「47都道府県」がある(詳しくは、府県制また、現在の都道府県誕生までの歴史的なことは※2。参照)。
さて、本題の、府・県の下に置かれた行政区画のことに移ろう。
1871年(明治4年)、政府は、府・県の下に区を置く大区小区制を導入したが、これは、全国一律の戸籍を作るための準備として、戸籍法を制定し、その編製の単位として急遽、設置されたものであったことから、旧来の地域の様々な問題を自治的に解決してきた町村を否定したものであったため、不評を買い、その反省から従来の大区小区制を廃して、1878年(明治11年)の「郡区町村編制法」で、旧来の(郡町村の名称と区域は江戸時代のものを継承)を行政単位として認め、広すぎる郡を分割した上で、1人の郡長を置き、郡長は官選とされた。3府・5港(箱館〔函館〕、長崎、神奈川〔横浜〕、新潟、兵庫〔神戸〕)および、人口密集地などの都市域には郡から分離された法人格を持たない、新しい単位。)を置き、区会(議会)も設置された。
また東京、大阪、京都の三都は勅令指定都市(政令指定都市の走りとも言えるか)に指定され、それぞれ複数の区が、そのほかの都市にはそれぞれ1つの区が置かれ、区長も郡長と同様、官選とされた。
区の中に置かれた町と村には戸長を置いた。戸長は民選(国民が選挙すること。⇔官選)の後、府県知事の任命により就任したが、区長が戸長の事務を兼ねることもできた。
この郡区町村編制法にかわるものとして、1888年(明治21年)4月17日に、市制が、町村制とともに法律第1号として公布され、翌年4月1日以降に施行された。ただし全国同時ではなく、一部府県では1ヶ月〜10ヵ月半の遅れがあった。
市町村は、郡区町村制下の区町村と異なり、法人格を持つ地方公共団体となり、権限が拡大された。
この当時、市を代表するのは市会であり、現在のように市民から選ばれた市長ではなかった。
市には市会を置き、土地所有と納税額による選挙権制限と高額納税者の重みを大きくした三等級選挙制(※3のここ参照)によって市会議員を選出した。市は条例制定などの権限を持つ。
それまでの区の多くはそのまま市に移行した。市制施行後の三大都市(東京・大阪・京都)には、市が新設され、区が存置された。
「県」下の一般市では3人の市長候補を推薦し、内務大臣が天皇に上奏して1人の市長が裁可(「市会推薦市長」任期6年)されたのに対し、「府」下の三市(東京市・京都市・大阪市)には市長は存在せず府知事がその職務を兼務した(市制特例参照)。これら3市では、1898年(明治31年)10月になって、三市特例が廃止されて一般市と同じ市制を適用し、市会推薦市長が生まれた。市制中追加法律により、三市では区制が残された。
その後、1908年(明治41年)には、三市と同様に名古屋市にも区制が敷かれ、計4市に大都市制度が導入されることとなった。又、1911年(明治44年)、市制改正法施行により、三市の区は法人格を持つこととなった。
大正時代になると、名古屋市のほかに開港5港の神戸市や横浜市も京都市と人口で遜色なくなり、「三市」という枠の意味がなくなった。そのため、1922年(大正11年)3月30日には「六大都市行政監督ニ関スル法律」が施行され、東京市・京都市・大阪市・横浜市・神戸市・名古屋市が六大都市とされた(記載順は人口順ではない)。国勢調査が開始した1920年(大正9年)10月1日には、神戸市の人口が京都市の人口を上回り、人口順は、東京市・大阪市・神戸市・京都市・名古屋市・横浜市となった。
上掲の画像は、神戸市誕生の頃の神戸(画像クリックで拡大できる)。
諏訪山から望んだ市街地。やや右よりの建設中の建物は小寺邸〔現:相楽園。※4参照〕。左ほぼ中央の八角形の建物は明治15年に完成した県会議事堂(※4参照)。つぎつぎと近代的な建築物がたてられつつある。明治20年代後半の写真である。因みに、1868(慶応3)年に神戸港が開港。貿易の拠点としてにぎわった港町は、1889(明治22)年4月1日に「神戸市」として新たな歴史を刻み始めるが、神戸市が誕生したときの人口は13万5千人(現在の約10分の1)、市域は現在の中央区兵庫区の1部〔神戸区、葺合村と新田町〕の約21k?の狭いものであった(画像及び説明文は、神戸市発行の「こうべ市制100周年記念」冊子より。わが町神戸の歴史は以下参考の※5:「神戸市文書間 :神戸歴史年表」を参照)。
六大都市では、市が執行する国務事務の一部について府県知事の許認可なしで市の実務実行ができるようになった(三市以外の区制施行については政令指定都市#沿革参照)。
大東亜戦争中の1943年(昭和18年)、首都の行政機能を強化する目的から東京府と東京市を廃止して東京都を存置する
東京都制が施行された。これにより六大都市から東京市が抜けたため、公的な「六大都市」は廃止されたものの、五大都市と旧東京市の範囲である東京都区部とを合わせて「六大都市」とする慣例はその後も続いた。
戦後の1947年(昭和22年)5月3日、日本国憲法(新憲法)と地方自治法の施行(※6参照)によって市制、町村制、東京都制とともに道府県制も廃止された。
地方自治法は、地方自治の基本を定めた法律であり、地方公共団体の種類、組織、運営に関する大綱を定めると共に、国との基本的関係を規定しており、地方行政にかかわる法体系の中核をなし、日本国憲法第8章で保障された「地方自治」(第8章 地方自治 第92条〜第95条)を法制化したものである(条文は、※6参照)。具体的には、知事公選化、選挙による公職の民主化の徹底、地方議会が地方の重要政策の最終決定者となった点、直接民主主義の導入など、旧憲法下の地方制度の根幹を一新したものであった。
近代国家に於ける民主制の原理は、自分のことは自分の意思で行うということを基礎にしており、憲法条文にわざわざ地方自治を加えたのも、民主制の原理のもとでは、地方自治においても、当然、地方のことは地方に住む住民の意思で行ってゆくということを基本にすべきだからであったろう。
明治憲法には、地方自治に関する規定は存在せず、地方制度は、中央が地方に対して優位する集権的なシステムがとられていた。
それが、新憲法において新たに設けられた地方自治の規定の趣旨に基づき、地方自治法等が制定され、地方自治の様々な制度が整えられた。しかし、国が地方行政に深く関与する戦前の仕組みが残存したことから、国と地方のあり方が、これまで繰り返し論議されてきた。
新しい世紀を迎え、地方分権の流れが加速する中、「地方自治の本旨」、地方公共団体の設置形態、条例の性質、住民参加の方式等が改めて議論の対象となった(憲法誕生と地方自治については※7参照)。
近年は、広域連合中核市制度を創設した1994(平成6)年の改正、県や政令指定都市、中核市に1999年4月から外部監査を義務づけた97年改正など、重要な改正が続いた。
そして、1999(平成11)年7月には地方分権改革を目指した大がかかりな改正(2000年4月1日施行)が行われ、この改正地方自治法を「新・地方自治法」とも呼ばれている(同法の内容は※8参照)。
この改正によって機関委任事務は廃止され、国と地方の関係は上下・主従の関係から関係で対等・協力の関係へと変わったようだが、それは、契約に近い関係であるが、今回の改革でも抜本的な税財源の委譲は実現されなかったことから、自治体には、それに十分応えるだけの財源が不足しているまた、地域によってはそれを実行する上での人材が不足しているといったことの問題が残されているようだ(※9参照)。
近代国家成立過程において日本も、主権が単一・不可分であるとの理論のもとに権力を中央に集中する傾向があった。しかし、思い起こせば、江戸時代の日本は、中央では徳川将軍家、地方では諸大名がそれぞれ統治を行っていたのだが、このやり方は、結構、多くの人が今やろうと考えている連邦制的な統治機構に近いやり方であったのかもしれない。
そもそも、中央政府が隅々まで管理を行うことは非効率であるし、また、国家の規模も大きくなっていること等から、出来るだけ地方自治に委ねた方が合理的だが、いずれのやり方にしても、「中央集権」と「地方分権」には、それぞれ長所と短所が存在することから、国家の要求とを調和させた合理的な地方自治制度を、どのように確立すべきか、これからの日本の重要な課題である事には間違いない(※10参照)。今、政府でも、遅まきながら総務省において、地域主権改革を推進するため地方自治法の抜本的な見直しおしているようだが・・・(※11参照)。
今、橋下徹大阪市長(元・大阪府知事。2011年10月31日付で辞任)と大阪維新の会が地方分権を唱えて、大阪都構想実現を目指していることがよく知られている。これは、もともとは、橋下氏の府知事就任により他地域に比較することのできないほど、大変な財政難に直面していることが問題視され、この状況を打破するために現行法下の都道府県と政令指定都市間の二重行政問題に着目、府市協調のもとこれを解消し効率化に向けた取組を 行うべきだ・・と言うことから始まったものであった。
かつての東京府、東京市を東京都としたように大阪府、大阪市を廃止し、新たに大阪都を設置するという都構想の是非については、色々意見のあるところであろうが、大阪府の場合、政令指定都市として非常に力を持っている大阪市が府と協力してやっていかない限り、なかなか効率的な行政が出来にくいであろうことは理解できる。今は、大阪府と大阪市が大都市制度のあり方など府市共通の課題に関し、行政として協議し、重要事項の方針を決めるために「大阪府市統合本部」を設置し、良い関係で取り組み、色々、実績を上げているようである(※12参照)。
地域の自主性と自立性を持った地域主権改革のためにはどうしても中央の政治家の協力が必要であるが、口先ばかりで、選挙公約(マニフェスト)の実現も出来ず、昨年の東日本大震災の復興への取り組や福島第一原発事故への対応の問題、それに起因する今後の原子力発電所の稼動問題や防災対策、エネルギー不足への対応など、全く頼りにならない政権与党の民主党(野党も同様)。そのくせ、政治主導を売り物にしながら選挙公約では国民にしないと約束していた消費税だけは財務省の言いなりになってアップすることに政治生命かけているいる野田佳彦首相。
口先ばかりで、政治主導どころか官僚の操り人形になっている民主党他野党の政治家にも哀訴をつかしている橋下氏と大阪維新の会は、「仕方がない」と中央政界へ送り出すための政治家の養成をして、政界への揺さぶりをかけている。
地方の政治家が、中央の政治にまで出てゆかなければ、国民の民意が反映されない日本の中央政治の現状は哀しい限りである。
今橋本氏がやっていることが、良いことかどうかは、これからのことを見て行かないと判らないが、自らを犠牲にしてまで、自分の信念を貫こうとする政治家が今の日本では見られなくなった以上、彼等の行動力に期待するしかないのかも知れない。
今大阪で橋本氏等がやろうとしているのと、同様な地方自治改革に名古屋、滋賀などでも、取り組みがされており、これらやる気のあるの地方の政治家が協力をして、地方から中央の政治を変えていって欲しいものだが・・・、さて、これから先どのようなことになって行くのか・・・? 目が話せない。

(冒頭の画像初代神戸市役所。東川崎町にあった神戸区役所の建物が市制の実施によって、初代の市役所になった。のちの図書館として利用された。(画像は、神戸市発行の「こうべ市制100周年記念」冊子より)

参考:
※1:< 論説> 終戦直後の第一次地方制度改革: 改正法律の立法過程をめぐって
http://ci.nii.ac.jp/naid/110000213084
※2:版籍奉還から廃藩置県まで(イッシーのホームページ)
http://www.tt.rim.or.jp/~ishato/tiri/huken/huhanken.htm
※3:Web版尼崎地域史事典『apedia』
http://www.archives.city.amagasaki.hyogo.jp/apedia/index.php
※4:神戸観光壁紙写真集:神戸市・中央区
http://kobe-mari.maxs.jp/kobe/index_105.htm
※5:神戸市文書間 :神戸歴史年表
http://www.city.kobe.lg.jp/information/institution/institution/document/year/year.html
※6:地方自治法/目次
http://homepage1.nifty.com/greatforest/Jichi.htm
※7:日本国憲法の誕生:論点[6 地方自治] | 日本国憲法の誕生
http://www.ndl.go.jp/constitution/ronten/06ronten.html
※8:新地方自治法 | 日本の法律
http://laws-jp.info/gyosei/chihojichi.html
※9:地方自治法大改正(2000年)4月に施行新・地方自治法)
http://www.tim.hi-ho.ne.jp/u-net/sub3.htm
※10:地方自治の意義と形態(Adobe PDF)
http://www1.tcue.ac.jp/home1/c-gakkai/kikanshi/ronbun1-3/abe.pdf#search='21−1 地方自治の意義'
※11:総務省|地方自治制度
http://www.soumu.go.jp/main_sosiki/jichi_gyousei/bunken/index.html
大阪府/大都市制度室
http://www.pref.osaka.jp/daitoshiseido/shokai.html
※12:日本の大都市制度(Adobe PDF)
http://www3.grips.ac.jp/~coslog/activity/01/04/file/Bunyabetsu-20_jp.pdf#search='大都市制度'
都道府県市町村
http://uub.jp/
市町村の歴史 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B8%82%E7%94%BA%E6%9D%91%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2
「府県」の誕生から廃藩置県まで
http://hmt.uub.jp/hmt/hmt.cgi?N=12#75457

さとうきびの日

$
0
0
今日4月22日(第4日曜日)は、「さとうきびの日 」。
記念日は、沖縄県糖業振興協会により1977(昭和52)年に創設されたようで、以来毎年4月の第4日曜日に設定され、この日、沖縄各地の優秀なさとうきびの審査があり、沖縄県さとうきび競作会の表彰式等が行われているようだ(※1参照)。
ざわわ ざわわ ざわわ
  広いさとうきび畑は
  ざわわ ざわわ ざわわ
  風が通りぬけるだけ
  今日も見渡すかぎりに
  みどりの波がうねる
  夏の陽ざしのなかで
作詞・作曲:寺島尚彦さとうきび畑』。
「サトウキビ」というと、この歌を思い出すが、沖縄戦の悲劇を歌ったこの曲が制作されたのは1967(昭和47)年、森山良子がレコーディングしたのは、1969(昭和49)年のこと。
その年は、沖縄返還に関する日米共同声明が発表され、その2年後に、調印、その翌1972(昭和47)年に返還が実施されるなど、この沖縄返還問題への関心の高まりから、うたごえ運動や、歌声喫茶衰退後、回顧的に作成される曲集などには、この曲が採録されるようになり、多くの歌手に歌われてきた。
その間の1970(昭和45)年には、日本で最初の博覧会大阪万博が開幕されるが、当時、世はベトナム戦争の真っ最中であり、その中で開催された当博のフォークソングフェスティバルの統一テーマ曲は、ジローズの反戦歌「戦争を知らない子供たち」であった。この歌も時代を映したいい歌だったな〜。
ジローズ 戦争を知らない子供たち - YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=FeAJef0B3tY
「さとうきび畑」の歌は、当初公開されたときは、全体が半分くらいにカットされていたようで、1975(昭和50)年に、NHK「みんなの歌」でちあきなおみが歌ったのも、省略バージョンだった。
多くの人に歌い継がれたこの曲は最近になって森山良子のフルバージョンの歌でとみに有名になった。彼女は、この曲の歌唱で2002(平成14)年の第44回日本レコード大賞では最優秀歌唱賞を受賞している。
私も大好きな名曲だが、今日は、この歌のことを書くのが本旨ではないので、これ以上歌のことは省略しよう。沖縄出身の盲目のテノール歌手新垣勉の歌も素晴らしい。以下で、聴けるので聞き比べてみると良い。
森山 良子 「さとうきび畑」 - YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=zZ7Pr-ATHjk
ちあきなおみ サトウキビ畑 - YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=CczOL2SU3kE
新垣勉 さとうきび畑- YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=yOw9X8cAqCE
さて、ジローズの歌「戦争を知らない子」とは違って、かって日本を代表する重工業都市神戸市で戦前に産まれ、戦時中は米軍の大空襲に何度も遭い、家を焼かれて市内を転々としたあと、とうとう神戸には住んでいられなくなり、神戸から、父方の親戚のある高砂市へ、そこも空襲で居れなくなり、最後は母方の親戚のある徳島県の徳島市へ疎開し、そこで、小学校に入学、足にはゲートルを巻いて学校に行き、勉学もそこそこに、校庭で、芋作りをさされるなど、子供時代に厭と言うほど「戦争の恐さを知らされている」私達の年代の者にとっては「サトウキビ」といえば思いだされるのが、おやつがわりに、「サトウキビ」の太い茎(くき)を折り、歯で皮をむいて、しがしがとかじっては口の中に残った茎を吐き出していたことだ。
日本語で「うまい」は漢字では、旨い、甘い、美味いなどと書くように、もともとは果実など熟れて甘味な味になるところから来て、古くは甘味が美味(うまい)とされていたようだが、甘いものは人間にとって最高の食べ物であった。
しかし、それは、今のような簡単に手に入る砂糖等による甘さではなく、食品として人間に欠くことのできない甘さは、ごはん(米など穀類)をよくかんで感じる甘さであり、お芋の甘さ、とりたてのエンドウ豆やトウモロコシ、玉ネギやカボチャの甘さ。それに、よく熟れた柿の甘さ。人として生まれた赤ちゃんが最初に感じるのは母乳の甘さ。これらは、たくさん食べて身体のエネルギー源となるだけでなく、他の栄養も多く含んでいる最も重要な食品である。
子供は、大人よりも本能的に甘いものを欲しがる。しかし、近年、健康上やダイエット等の理由で、炭水化物と同様に「分(=甘い物)」が大敵のように考えられているが、人体で最も早く成熟するのが細胞であり、その脳細胞の栄養源たる糖分(ブドウ糖)を欲しがるのは自然の欲求であると聞いている。
現代のように、砂糖を多く使っての糖分の取りすぎが問題だろうが、戦中、戦後の甘いものが自由に手に入らなかった時代の子供にとって、サトウキビを そのままおやつ代わりにかじって食べるのは、不足がちな糖分補給面で良かったのではないかな〜。
終戦後、神戸の実家へ帰っても、夜店や、神社のお祭りなどで売っているのを買って食べた記憶がある。しかし、硬い皮を歯でむいたりしていたが、軟らかい物ばかり食べている現代の子供には出来ないかも・・。もっとも、生産地では今でも、茎の隨をそのまま噛んで食べたり、機械で汁を搾って飲んだりしているらしいが、日本では、鹿児島や沖縄以外のところでは生のサトウキビなど余り目にすることもないのではないだろうが・・・。
人間が生きてゆく上で大切な塩(塩分)は海水や岩塩から作るが、砂糖(糖)は植物から作られる。その代表的なものが、「サトウキビ」(砂糖黍。別名甘蔗〔カンショ。本来はカンシャと読むのが正しいらしい〕)とテンサイ(甜菜)であるが、ほかにカエデ(サトウカエデ)やヤシ(サトウヤシ=オウギヤシ)などからも取れるようだ。
イネ科サトウキビ属「サトウキビ」の学名は、“Saccharum officinarum”。サトウキビ属の“Saccharum” は、ギリシャ語の “sakcharon(砂糖)”が語源で、“officinarumは薬だそうだ。学名が示すように、およそ1万年前の大昔から、甘味作物・薬として人間社会に登場したようだ(※2)。
茎は竹のように木化し節がある。節の間の茎の中心は竹のように空洞ではなく、髄になっており、糖分を含んでいる。
冒頭に掲載の写真が、収穫後、処理過程前のサトウキビである(Wikipedia砂糖より)。
砂糖の生産は、まずサトウキビを利用して始まった。太い茎(くき)をしぼって出た、甘い汁を煮詰め、純度を高めて砂糖の結晶を取り出す。
サトウキビ栽培種の起源はニューギニア島とその近くの島々と言われており、世界各地の熱帯亜熱帯地域で広く栽培されている。
因みに、テンサイの原産地は地中海沿岸でサトウキビとは反対に、寒さに強く、現在の栽培地は温帯から亜寒帯を中心として栽培されており、寒冷地作物とよばれており、日本では、北海道を中心に栽培されているようだ。
サトウキビは、原産地である南太平洋の島々から東南アジアを経て、インドに伝わり、紀元前2000年ごろにインドで砂糖が使われているらしく、サトウキビから砂糖を作ったのは、インドが最古であるらしい。インドの主としてガンジス川流域で作られていた砂糖やサトウキビは、アラビア人によってペルシャ・エジプト・中国などへと伝えられた。
砂糖を日本に伝えたのは、奈良時代(754年)に、鑑真が来日した時とされている。正倉院に保存されている「種々薬帳」(大仏に献上した薬の目。※3参照。)に、サトウキビから作った砂糖という意味の「蔗糖」という言葉が記されており、当時、砂糖は甘味料としてではなく、大変貴重な薬として用いられていたことが分かるという。
その後、大陸との貿易が盛んになるに従って、砂糖の輸入量も次第に増加したが、インドや、中国などからかっての琉球王国(現:沖縄)に、サトウキビが伝わり、このサトウキビから砂糖を作る「製糖法」を、儀間真常(ぎましんじょう)という人が、中国の福州(福建省の省都)に人を送り、技術を学ばせて広め、1623(元和9)年に初めて作られたという。以来、黒砂糖は琉球の重要な輸出品として、戦前まで扱われていたが、今でも重要な基幹作物であることに変りはない。沖縄などでは市街地は別として、住宅地のちょっとした空き地などでも作られているようだが、植え付け後は収穫まであまり手間がかからない手軽さもあるからであろう。
ただ、サトウキビからの製糖について、1説には、慶長年間に、薩摩国大島郡(奄美大島)の直川智(すなお かわち)が黒砂糖の製造に成功したことで、国産の砂糖が誕生したとする説があるが、儀間真常の導入より早いため、疑問視されている(※4参照)。
いずれにしても、日本では、今、主に沖縄県奄美群島を中心にサトウキビが栽培されている。
貴重で高価なため、天皇や貴族だけのものであった砂糖も、室町時代になると、輸入量も増え、上流階級ではお歳暮に贈らたりするようになるが、長い間、民衆のものになることはなかったが、やがて庶民にも広がり、いつの間にか大量に輸入されるようになり、徳川幕府による鎖国時代、長崎の出島には、砂糖倉があったと言うが、むしろ、倉の半分くらいが輸入物の砂糖倉だったともいう。この頃には、庶民の砂糖消費が嵩じて藩や幕府の財政悪化を招くほどにもなったことから、八代将軍徳川吉宗によるサトウキビ栽培・砂糖生産の本格的な奨励が始まり、それが和糖製造技術発展の始まりであるという(※5)。
この吉宗による、サトウキビ栽培の奨励に高松藩が特産物創生と財源確保を目的として呼応すると、その後徳島藩でもサトウキビが育てられるようになり、高松藩とほぼ同時期の1800年代前半に精糖方法を確立させて、和三盆ができあがった。それまで、サトウキビから作られていたものは、黒砂糖が一般的であったが、和三盆は、黒砂糖をまろやかにしたような風味を持った淡い黄色をしたもので、高級砂糖を意味する。
和三盆糖は沖縄などで作られる幹の太い物でなく竹糖(たけとう)または竹蔗(ちくしゃ)と呼ばれる茎が細いサトウキビから作られる。香川県で生産されている和三盆を讃岐和三盆糖、徳島県で生産されている和三盆を阿波和三盆と呼ぶ。和三盆は貴重な特産品として諸国へ売りに出され、全国の和菓子や郷土菓子の発展にも欠かせないものとなっているが、これらの地域は、世界におけるサトウキビの商業栽培の最北限にあたるのだそうだ。
ただ、この砂糖の製造・販売の藩財政への貢献は高かったが、薩摩藩による琉球王国統治の動機ともなったほか、倒幕のための財政基盤強化も砂糖販売によるところが大きいと言われている(薩摩藩の藩政改革とサトウキビのことについての詳しいことは、参考※6:「徹底検証:「新しい歴史教科書」の光と影」の“33・雄藩の改革”の (c)国産物の藩専売制を強化し利益を藩が独占する体制をとる−薩摩藩の場合、(d)植民地としての奄美諸島と琉球からの巨大な利益を基盤とした−薩摩藩の場合を読むとよく判る。)。
FAO(国際連合食糧農業機関)年鑑2004年では、世界で最も収穫面積の多い作物は小麦で、面積は217,075千ha、生産量は633百万トンと、面積が飛び抜けて多い。収穫面積の第2位は米で150,185千ha、606百万トン、第3位はとうもろこしで147,263千ha、725百万トンであり、この2つは面積も生産量も近い。サトウキビは収穫面積で20,399千ha、生産量は1,332百万トンであり、作物中収穫面積では第14位であるが、長大作物であり、茎自体が目的収穫物であることから、生産量では第1位である。
国別生産量では、1位のブラジルと2位のインドの2カ国で世界のおよそ49%を占めており、まさに熱帯・亜熱帯の大作物である。第3位は大陸中国、さらに、4位タイ、5位パキスタン、6位はキューバと続く。ヨーロッパ諸国におけるさとうきび生産は余り知られていないが、スペインでも作られている。南西諸島を中心とする日本は収穫面積が23千haで世界第49位、生産量は1,187千トンで第47位だそうである(※7も参照)。
サトウキビは、茎の隨を生食したり、砂糖に加工その他食料加工品に利用されるほか、1970年代のオイルショック後の原油価格高騰により燃料用バイオエタノールとしての利用に着目され1980年代から生産が拡大した。
バイオエタノールとは、サトウキビ、とうもろこし、廃木材などのバイオマス資源を発酵させ、蒸留して作られる植物性のエタノール(エチルアルコール)であるが、太陽電池風力発電などとともに、化石燃料を代替えするエネルギーである。ガソリンに混合することが出来、主に自動車の燃料として使われる。
世界の生産量は、バイオエタノール原料であるサトウキビの生産大国であるブラジルと、同じくとうもろこしの生産大国であるアメリカの占める割合が多く、2007(平成19)年では、この2国で世界の生産量のおよそ80%を占めている(※8参照)。バイオ燃料に取り組む事情は国によって異なるが、バイオエタノール燃料生産量の多い国には日本のように環境への配慮に重点を置くよりも農業復興の観点からバイオ燃料が導入されてきた国が多いようだ。
日本の場合、環境省が2005(平成17)年に発表した京都議定書目標達成計画では、バイオエタノールの普及促進政策を行なうことを目標とした。又、バイオマス・ニッポン総合戦略促進会議(農林水産省)では、2010(平成22)年までにバイオエタノールの生産を5万kl1にするという目標を掲げたが、結果的に、2008(平成20)年の段階では200klの生産しか出来ていないので、当然、2010(平成22)年までに生産量を達成はできていないだろう。
バイオマスエタノールは、再生可能な自然エネルギーであること、および、その燃焼によって大気中の二酸化炭素(CO2)量を増やさない点から、エネルギー源としての将来性が期待されている。
しかし、2008(平成20)年は原油価格が 1バレル 100 ドルを突破するという歴史的高騰で幕を明けた。同時に、原油価格と共に急騰したのが穀物価格であった。要因として、サブプライムローンを契機とする株式投資から現物投資への投機マネー流出、発展途上国の需要拡大などが指摘されているが、バイオマスエタノールのエネルギー源としての将来性への期待される半面、生産過程全体を通してみた場合のCO2削減効果、エネルギー生産手段としての効率性、先にも触れたように、穀物は人間の食料、動物の餌として使用されるものであり、そのような食料との競合、といった問題点も指摘されている。
最近では、政権交代したばかりの民主党の鳩山由紀元首相は、2009 (平成21)年9月国連気候変動首脳会合で「温室効果ガスの排出量を 2020 年までに 1990 年比で 25%削減する」という中期目標を掲げ。「これは、我々が選挙時のマニフェストに掲げた政権公約であり、あらゆる政策を総動員して実現をめざしていく決意・・・」と述べたことで、多くの注目を浴びた(※9又、「鳩山イニシアチブ」参照)。
しかし、この意欲的な目標の下で、実際に温室効果ガスを削減させ、環境負荷を減らすためには、どのような政策を行うべきであろうか。またそれは実現可能なものであろうか・・・と突然の発表に、経済界等では疑問を持っていたのだが・・・。
そして翌・2010(平成22)年3月、山由紀夫首相は今国会に提出予定の「地球温暖化対策基本法案」に原子力発電を推進する方針を明記する意向を示し、都内での記者団の質問に答え「原子力は廃棄物や安全性の問題があるが、さらに 安全性の確保で高い目標を果たすことを前提に、地球環境を守りCO2を減らすためには 欠くことのできないエネルギーだと理解している。基本法の中でも位置付けたい」と述べていた(※10)。
政府は基本法案を5日にも閣議決定する方針だったが、原発の位置付けなどで文言調整が付かなかったため先送りしていたが、平成22年3月12日政府(環境省)より「地球温暖化対策基本法案の閣議決定について」発表されたが、衆議院(第174回国会)を通過後、参議院で廃案となり、第176回国会(平成22年臨時国会)へ提出されるも、衆議院で継続審議のようである(※11)。
その後、2011(平成23)年3月の東日本大震災により、福島第一原子力発電所事故発生により、原子力発電所の安全性の問題や電力不足が深刻化している(東日本大震災による電力危機参照)。
日本は、京都議定書によって二酸化炭素を主とする温室効果ガスの排出削減義務を負っているが、そこへ原発事故が起こり、各地にある原子力発電所の停止によって、今だ、原発に代る自然エネルギー等が開発されていない以上、当面は代替電源を火力発電に求めざるをえないことから、京都議定書の削減目標を達成するこが極めて困難な情勢となっているが、鳩山由紀夫前首相の国連気候変動サミットで「国際公約」した温室効果ガスの25%削減問題は、企業にとって大きな負担となっており、そこに、電力不足では、もう、企業は、日本脱出しかなくなるのではないか・・・。どうするつもりなのだろう。このまま民主党政権が続けば、日本は潰れてしまうのではないか・・・・と心配しているのだが・・・(※12等参照)。

※1:沖縄県糖業振興協会
http://oki-toshinkyo.or.jp/
※2:お砂糖豆知識[2007年3月]|農畜産業振興機構
http://sugar.alic.go.jp/tisiki/ti_0703.htm
※3:漢方史料館(91)正倉院の『種々薬帳』
http://mayanagi.hum.ibaraki.ac.jp/paper04/shiryoukan/me091.html
※4:鹿児島大学リポジトリ:奄美地域の糖業
http://ado.lib.kagoshima-u.ac.jp/bitstream/10232/1728/1/KJ00000068207.pdf#search='川智翁事蹟調'
※5:独立行政法人農畜産業振興機構> 砂糖 > お砂糖豆知識 >
http://sugar.alic.go.jp/tisiki/tisiki.htm
※6:徹底検証:「新しい歴史教科書」の光と影 
http://www4.plala.or.jp/kawa-k/rekishi.htm
※7:世界のサトウキビの生産量について
http://www.chireki.com/geography/sugarcane.htm
※8:世界各国のバイオエタノール生産量の推移(Adobe PDF)
href=http://www.jc.u-aizu.ac.jp/11/141/thesis/msy2010/11.pdf#search="サトウキビ 世界生産量"
※9:国連気候変動首脳会合における鳩山総理大臣演説
http://www.kantei.go.jp/jp/hatoyama/statement/200909/ehat_0922.html
※10:首相、「原発推進」明記の意向 温暖化基本法案で( 共同ニュース)
http://www.47news.jp/CN/201003/CN2010030601000683.html
※11:環境省>国会提出法律案>過去の国会提出法律案
http://www.env.go.jp/info/hoan/index2.html
※12:地球温暖化対策基本法案が成立すれば、日本は確実に滅亡への道を 進む
http://koramu2.blog59.fc2.com/blog-entry-650.html

シニアーズディ

$
0
0
「シニアーズディのことについては、一度書いた。
ここ参照。
“大人として自信を持ち、自分なりの価値観で生活を創造する人々をシニアと呼び、40代後半から50代後半のシニア世代に共感される音楽やメッセージの発信の日にしたいと、株式会社・中村泰士Doプロデュースが制定したもの。
記念日を登録した中村泰士は、佐川満男の「今は幸せかい」や、ちあきなおみの「喝采」、細川たかしの「北酒場」などで知られる奈良県出身の作詞・作曲家であるが、中村氏のホームページ(※1)を見ると、“本来「Senior」には、年長者、上級者、先輩の意味で「尊敬の念」を含み、例えば「シニア・クラス」と呼ばれる場合のそれは、名誉の称号であり、そこでシニアという言葉本来の意味をとりもどし、成熟した大人たちが胸を張って、自分たちに自信と誇りを持つ記念日を持とうということで、2001(平成13)年に記念日登録し、この日には「シニアーズディ」を記念したイベントが行われているそうだ。
又、この年代を、粋な大人、いつまでも若々しさを失わない愛すべき大人「キュートナー」(「キュートな大人」という中村氏の新語)と呼ぶことも提唱し、9月17日を「キュートナーの日」(キュー〔9〕ト〔十〕な〔7〕」の語呂合せ)としても制定している。そして、以下のサイトも立ち上げている。
Cutener(キュートな大人に贈る、大人を楽しむための情報サイト)
http://www.0917.tv/index.htm
上記サイトでは、今年3月11日、未曾有の大災害をもたらした東北地方太平洋沖地震で被災された人々やそのご家族の心のケアーに是非お役に立ちたいと、復興の願いを込めて、中村氏が作詞・作曲した応援ソング「時は来る」(新曲)を、特別無料配信(音楽公方 泰士より)している。非常に良い曲なので、是非聞いて見られるとよい。
この「シニア世代」とは、シニア(Senior)という英語から来ており、この言葉には「年長者」「上級生」「上級者」という意味があるが、一般的には「ジュニア(Junior)」の対義語として使われることが多く、特定の年齢層を意味している訳ではない(※2参照)。
従って、今日の記念日「シニアーズディ 」では、40代後半から50代後半を「シニア」に位置づけているようだが、実際には、何歳ぐらいを「シニア」と呼ぶか・・・など、「シニア」に対する考え方は、人によって、かなりの違いがあるようだ。
因みに、Yahooの意識調査(実施期間:2007年7月2日〜2007年7月13日)「何歳からがシニア?」といったアンケートの結果から、何歳位を「シニア」と見ているかを上位順に書いてみると、60歳以上42%、65歳以上22%、50歳以上14%、70歳以上10%、55歳以上が8%となっており、中には、75歳以上2%もあり、つまるところ、60歳以上を「シニア」と答えた人が76%にもなるが、これは、退職や年金などの関係から、60歳以上を区切りとした人が多いからのようだとの補足書きがあったが、確かにその面もあるだろうが、今のような長寿社会では、60歳代前半ぐらいまではもうシニア世代としてみてもよい時代になっているといえるかもしれない。
年下の人。年少者をいう「ジュニア」の対義語「シニア」(年長者)に対して、老年世代のことを「シルバー(silver)」などという言葉が使われたりしているが、これは、頭が白髪(シルバー)になることから連想された和製英語であるが、語源は旧国鉄(現JR)が当初、高齢者や身体障害者を対象にした優先座席を、他の座席と区別するため、シルバーグレー色のシートを設定し、「シルバーシート」の名前を付与したことかららしい。
この人達を対象とした「シルバー世代」も、どの年代を言うかは、「シニア世代」同様人によって違ってくるが、私など、少なくとも65歳以上、いや70歳以上でもよいのではないかと思っている。
このようなカタカナ用語ではなく、日本語で世代を区分しようとすると、内閣府の1998年度(平成10年度)の『国民生活白書』の「中年-その不安と希望」では中年世代を、概ね40代-50代と定義づけている(※4参照)。中年とは成人として中くらいの年齢。すなわち壮年期(普通35歳-49歳頃迄)を過ぎたころから初老の域に入るまでを指す。しかし、厚生労働省の一部資料(健康日本21など。※5参照)では、0 - 4歳を「幼年期」、5 - 14歳を「少年期」、15 - 24歳を「青年期」、25 - 44歳を「壮年期」、45 - 64歳を「中年期」、65歳 以上を「高年期」という区分をしており、こちらの「中年」世代は『国民生活白書』よりも相当幅を広くしており、何の目的で世代を見ていこうとするかなどといったことでも相当見方は違ってくるようだが、私は、こちらの「中年期」(45 - 64歳)よりも少し上の50代から60代位をシニアと見たいものだ。
日本の総人口は、初めて国勢調査が実施された1920(大正9)年には5596万人であったが、その後、第二次世界大戦に入ると、戦争による減少があった1945(昭和20)年を除いては、一貫して増加してきた。
1945(昭和20)年に7200万人であった総人口は、戦中戦後の「産めよ増やせよ運動」など日本政府による人口増加政策によって、1947(昭和22)年から1949(昭和24)年にかけて生まれたベビーブーム(第1次団塊の世代の誕生)により、1948(昭和23)年に総人口は8000万人(出生児数2702千人)を超え、8 年後の1956(昭和31)年に9000万人を超えたあと、その11年後の1967(昭和42)年に初めて 1 億人を突破。そして、第 2 次ベビーブーム(1970年代頃、団塊ジュニアが誕生)を経て、1974(昭和49)年には、1 億1000万人を、1984年に 1 億2000万人を超えた( 1 億2024万人)。
その後の20年間は、前年比増加率が年々縮小しながらも総人口の増加は続き、2000(平成12)年には、1億2692万人、その4年後2004(平成16)年には 1 億2778万人に達していたが、翌2005(平成17)年の国勢調査(※3の国勢調査参照)で、これより約 2 万人近く減少したことが明らかになった。
又、総人口の減少ばかりに目を奪われているが、年少人口( 0 〜14歳)と生産年齢人口(15〜64歳)は、それぞれ、すでに1979(昭和54)年と1996(平成元)年以降に減少に転じていたのである(データーは※3の日本統計年鑑>第2章 人口・世帯>総人口の推移を参照)。
このように日本は世界でも類を見ないスピードで少子高齢化が進行していたわけであるが、日本は、1970(昭和45)年の国勢調査で高齢化率(65歳以上の人口が総人口に占める割合)が7%を超えた(7.1%)「高齢化社会」に、1995(平成7)年調査で14%以上(14.5%)の「高齢社会」に、また2007(平成19)年(には21%以上21.5%)の「超高齢社会」となっている(※3の日本統計年鑑>第2章 人口・世帯>年齢階級別人口及び年齢構成指数参照)が、国立社会保障・人口問題研究所(※6)が行った人口推計では、2055年には、総人口が8933万人にまで減少した上で、年少人口( 0 〜14歳)8,4%:生産年齢人口(15〜64歳)51,5%:老年人口(65歳以上)40、5%となり、家庭又社会を支えていかなければならない働き手(生産年齢人口)が総人口の半分しかいないという酷い状態になることが予測されているのである。
現在の人口は、平成21年度の人口ピラミッドを見ると第1次ベビーブームの団塊の世代(1947年 – 1949年)と第2次ベビーブームの子団塊世代(1970年 - 1974年)の2つの世代に大きな膨らみがあり、成人人口の半数は50歳以上であり、団塊世代を中心とした55歳から70歳までのボリューム(平成21年度の総人口に占める割合:55-59歳913万人〔7,2%〕、60-64歳941万人〔7,4%〕、65-70歳839万人〔6,6%〕)が非常に大きく、出生数の減少で若い世代の裾が狭まっていることがよくわかると思う。
この団塊世代という言葉は、作家の堺屋太一が1976(昭和51)年に発表した小説『団塊の世代』で、戦後のベビーブーム期の人々が2000年までにたどる人生ドラマを、6〜7年刻みの4話構成で描き、日本の人口高齢化問題を世に問うたことから使われ始め、この世代が日本社会に及ぼす影響の大きさが一般社会にも認識されるようになり、人口動態学(人口参照)による社会現象分析やマーケティングに活用されることが多くなった。
このような中で、2005(平成17)年から戦後生まれの人達が、又、2007(平成19)年からは団塊世代と言われる人達が一斉にリタイアを始め、高齢者の仲間入りをするようになったことから、これからの日本のかたち(人口ピラミッド)を考える時、これらシニアが生き生きと暮らせる社会であるかどうかが非常に重要な視点となるが、又、マーケットの世界においても、国内市場がどんどん縮小する中、これらシニアマーケットを如何に捉えることができるかが、最重要課題であることに相違はない。
戦後生まれや団塊の世代の大半は、戦後の激動の時代を生き抜き、家族のため、子供のため、或いは会社のために、今日まで無我夢中で走って来た人達ではあるが、この年代の人達は60代になっても、健康で活動的であり、まだまだ働ける元気な状態にあり、還暦を迎える年代になったからといって、昔のように「高齢者」と呼ばれることを望んではいないだろう。
しかも、急速な少子・高齢化の進行により、年少や老年人口を養う能力(生産年齢人口の減少)の限界に達してくると、年金・医療・福祉など財政面だけで無く日本の社会における労働力不足は日本経済にも影響するなど様々な問題が生じてくることから、これら豊かな経験を積み重ねてきた人たちを「知的生産者」として、その能力を発揮してもらえる社会にする必要もあり、政府は、?65歳までの雇用の確保、?中高年の再就職の促進、?多様な就業機会の確保を内容とする改正高年齢者雇用安定法を2004(平成16)年6月5日に成立させ、同年12月1日から施行(高年齢者の安定した雇用の確保等を図るため措置については平成18年4月1日から施行)している(※7)。しかも、団塊の世代の人達などは経済的なゆとりもあり、高度成長期の大量消費を経験し、様々なブームやヒット商品を生み出してきた。1960年代のアイビールックや、1970年代のアンノン族、80年代のニューファミリーを形成してきたのも、又、インターネットによる株取引やパソコン、デジカメといったデジタル家電人気を牽引してきたのもこの世代である。
いわば、がむしゃらに働きながらも、自らの人生を楽しみ、より積極的に生きるアクティブな人たちであり、こういった人々がこれからの日本の社会を牽引していくことになるだろう。
しかし、世間ではその人たちを昔と変わらず高齢者と見て接しており、当人と世間との間で意識にギャップのあることが内閣府等の調査で判明している(※8:内閣府:政策統括官:共生社会政策担当「高齢社会対策」の「高齢社会対策に関する調査」など参照)。
こういった意識のギャップは、高齢化の急激な進行と無関係ではないだろう。60 代以降の意識の変化に伴い、彼らのライフスタイル(生活様式。生活の仕方。)も変化してきているはずであり、それを受けて社会のスタイルそのものも工夫していかなければならないはずだ。
成人式に対して、還暦を第二の人生の出発として祝う「還暦式」と呼ばれるものが行われている地域も現れている(千葉県市川市など)と聞くが結構なことだ。
マーケットにおいてもこのようなアクティブなシニア・シルバー市場を開拓してゆけば、日本に新しい大人文化が生まれるのではないか。 冒頭の画像は、アニメ映画「テレビまんが 昭和物語」(2011年1月公開)のチラシである。
4月から、テレビアニメとしても放送されているようだ。私は、この映画もテレビも見ていないが、業界初のシニア・団塊世代をターゲットにしたアニメ作品で、昭和39年の高度成長期に沸く東京を舞台に、「家族の絆」と「日本のものづくり」をテーマとしたものだそうだ。どうも「ALWAYS 三丁目の夕日」(2005年公開)のアニメ版のようなものらしいが、映像のカット割りやセリフなども、60歳以上のシニア層が見やすいように、ゆっくりと分かりやすい演出手法を採用しているという。
アニメ映画の世界でも、シニア・団塊世代に見てもらうこと意識しなければならないほどこの年代層のボリュームが大きく、影響力が強いと言うことだろうね〜。
参考:
※ 1:中村泰士ホームページ
http://columbia.jp/~yasushi/index.html
※2:seniorの意味 - 英和辞典 Weblio辞書
http://ejje.weblio.jp/content/senior
※3:統計局ホームページ
http://www.stat.go.jp/index.htm
※4:国民生活白書
http://www5.cao.go.jp/seikatsu/whitepaper/index.html
※5:健康日本21
http://www1.mhlw.go.jp/topics/kenko21_11/top.html
※6:国立社会保障・人口問題研究所
http://www.ipss.go.jp/pr-ad/j/jap/index.asp
※7:厚生労働省:高年齢者雇用安定法の改正のお知らせ
http://www.mhlw.go.jp/general/seido/anteikyoku/kourei2/
※8:内閣府:政策統括官:共生社会政策担当「高齢社会対策」
http://www8.cao.go.jp/kourei/index.html
電通シニアプロジェクト「退職後のリアル・ライフ?〜団塊世代の眺望調査
http://www.dentsu.co.jp/news/release/2007/pdf/2007037-0517.pdf#search='電通シニア・プロジェクト'
GFシニアマーケティング,com
http://www.senior-promo.com/
日本記念日協会
http://www.kinenbi.gr.jp/index2.html

語彙の日(ごいの日)

$
0
0
日本記念日協会に登録されている今日・5月1日の記念日に「語彙(ごい)の日」がある。
旺文社 生涯学習検定センターが、運営・実施している「実用日本語語彙力検定」を広くPRしようと2007(平成19)年に制定したもの。語彙力が低下していると言われる子どもたちに語彙力の大切さを認識してもらえる日になればという思いが込められているのだそうだ。日付は5と1で「語彙(ごい)」と読む語呂合わせから。

旺文社は、1931(昭和6)年に創業した教育専門の出版社である。
創業当時(欧文社)から、「受験旬報」(現在の螢雪時代)や、英語の問題集などの教育を主とした出版を行っている。1941(昭和16)年12月、日本が太平洋戦争(大東亜戦争)へ突入後の翌・1942(昭和17)年に、欧文社の「欧」の字が敵国につながるとして、社名を旺文社に変更した(同社HPの会社沿革参照)。
戦後日本の受験文化の成立に影響を与え、また、受験がひとつの産業になり得ることを証明した出版社でもある。
入試関連の雑誌や書籍の出版で有名だが、出版の他に生徒向けのテスト事業や各種資格検定事業も手がけている。
旺文社が始めて全国一斉に大学入試の模擬試験 日本語の語威力を総合的に判断する「実用日本語語彙力検定」、算数・数学の計算力の測定をする「計算力検定」、英語の基礎的単語知識を測定する「英単語検定」の三検定のひとつであり、生涯学習検定センターは、これらの検定試験実施を目的に1999(平成11)年に設立されたもので、2000(平成12)年7月から検定試験が実施されている(※1参照)。
教育政策に係わる調査研究を行うために文部科学省に置かれている国立教育政策研究所教育課程研究センター(※2)が、2002年3月発表の『「生きる力」を育てるための「読書教育推進プログラム」の開発研究』(※3)によると、“小・中・高校教師 256 人を対象に行った調査によれば、「国語学力は低下したか?」という質問に対し、63.5%が「低下していると思う」と答えており、また「どんな点で国語学力が低下したか?(複数回答)」という質問には、「語彙力」という答えが 63%でトップになっていた”という。
経済協力開発機構 (OECD) による国際的な生徒の学習到達度調査(PISA)というものが、2000(平成12)年に第1回調査を行ない、以後3年毎に調査され、第1回、2000年調査、第2回2003年調査、第3回2006年の調査結果については、国際報告書をもとに日本国内向けに翻訳した形で国立教育政策研究所が編纂したものが、(株)ぎょうせいから出版されているようだ。
調査は、毎回メインテーマが存在し、読解力、数学的知識、科学的知識の順番でメインテーマが移っていく。そのため、2000年は読解力、2003年は数学的リテラシー、2006年は科学的リテラシー、2009年は読解力をメインテーマとして扱っており、今年・2012(平成24)年は数学的リテラシーを扱う予定になっている。
結果の分析は、約1年をかけて行なわれているようなので、調査結果の発表は、翌年にされる。過去の調査の結果は、PISAにおける日本の成績 を参照されると良い。
概略を述べると、2000年調査では、数学(1位)と科学(2位)の両分野では、世界のトップレベルにあったが、読解力では、韓国(6位)にも遅れをとり8位であったが、2003年調査では、科学はフィンランドと並び1位であったものの、数学は6位、読解力は14位と落ち込み、2006年調査では、(数学10位、科学5位、読解力15位といずれの分野も更に落ち込んでしまった。
中でも、2003年調査の結果によるPISA ショックは大きく、1980年度以降行なわれていたゆとり教育による学力低下が教育問題として取り上げられるようになり、ゆとり教育から学力向上への政策転換の理由づけとなった。3分野の中でも特に低いのが読解力であった。
PISAの読解力とは、「自らの目標を達成し、自らの知識と可能性を発達させ、効果的に社会に参加するために、書かれたテキストを理解し、利用し、熟考する能力」である。この読解力の習熟度は、高い方から低い方へレベル5から1及びレベル1未満の6段階に分けられているが、2003年調査では、日本は読解力でレベル1あるいはレベル1未満の下位層の割合が増えていること、及びフィンランドや韓国と比べて下位層の割合が高いことが問題視されたようだ。
PISA型の「効果的に社会に参加するための」読解力を養うには、日本の国語教育に何が足りないのか?
結果的にPISA評価では、読んだり計算することはできるが、読解力や記述力、つまり、読み解いたことについて自分なりの意見を表現する能力に欠けるということであり、そこでクローズアップしてきたのが過去から盛んに言われできた活字離れ、つまり、”読書量の減少・“問題であり、そのことから読書、読育の必要性が説かれた。そのことから、政府も2001(平成13)年12月に「子どもの読書活動の推進に関する法律」を制定し読書を勧め読書環境の整備をうながす事となった(※4)。
そして、2002(平成14)年2月に、文部科学大臣から文化審議会に対し、「これからの時代に求められる国語力について」が諮問され、同分科会において審議を重ねた結果が、2004(平成16)年2月3日に発表されている(※5参考)。
そこには、
第1章「これからの時代に求められる国語力について」では、1)国語の果たす役割と国語の重要性、2)これからの時代に求められる国語力、 3)望ましい国語力の具体的な目安、
第?章「これからの時代に求められる国語力を身に付けるための方策について」では、1)国語力を身に付けるための国語教育の在り方、2)国語力を身に付けるための読書活動の在り方・・など詳しく書かれている。
この第?章 2)国語力を身に付けるための読書活動の在り方の中で、<情緒力・論理的思考力・語彙力の育成を>として、
“今の国際化社会の中では、論理的思考力(考える力)が重要であり、自分の考えや意見を論理的に述べて問題を解決していく力が求められる。しかし,論理的な思考を適切に展開していくときに、その基盤として大きくかかわるのは、その人の情緒力であると考えられる。したがって、論理的思考力を育成するだけでは十分でなく、情緒力の育成も同時に考えていくことが必要である。
これに加えて、漢字漢語を含め国語の語句・語彙力の育成が重要である。人間の思考は言葉を用いる以上、その人間の所有する語彙の範囲を超えられるものではない。情緒力と論理的思考力を根底で支えるのが語彙力である。“・・・と。そして、”語彙力の教育・指導は子供の時から大人になるまで、直線的に同じ調子で行ってもよいと考えられる。なお、「聞く力」についても、側頭葉が関係しているので、語彙力と同じように早い時期から育てていくことが可能である。“・・として、発達段階に応じた国語教育の具体的な展開が述べられ、最後に、「国語力を身に付けるための方策」を実効性のある形で進めていくためには、一方で、”国語の重要性を認識し、国語を大切にする意識を共有するための国民的な運動の展開や講演会等の啓発活動を同時に進めていくことが不可欠である。“こと、又、”現在取り組まれている事業の推進のほかに、国語力に資する啓発活動という意味で、いわゆる「マニュアル言葉」や「公共の場でのアナウンス」、また、外来語・外国語(いわゆる片仮名言葉)の問題を含めた「官公庁の各種文書の在り方」などに対して、適切な言葉遣いという観点から関係者の意識を高めること“なども挙げられており、同時に、”学校教育における「漢字学習の在り方」を検討するために“漢字能力の実態調査などを実施すること”・・としている。
このような教育界の時流に乗って、旺文社が、生涯学習検定センターを設立し、日本語語彙力の検定試験他を2000(平成12)年7月から実施してきたのだろう。
兎に角、そのような国語教育の成果によるものかどうかは知らないが、PISAの2009年調査の結果では、今まで下がり続けていた数学・化学・読解力3分野の総てが上昇に転じ、中でも統計的に有意な上昇がみられたのが読解力であり、これまで最も順位の高かった第1回2000年調査の水準(8位)まで大幅に回復している。しかし、今回の結果を受け、文部科学省では「学力は改善傾向にある」と分析している(※6参照)が、一方で、成績上位者と下位者の学力格差が広がっている問題が指摘されているようだ(PISA で教育の何が変わったか・・については、参考の※7を参照)。
詰め込み教育からゆとり教育へ、そのゆとり教育が間違っているといって、又教育方針が代るなど、教育方針の変更に振り回されている子供たちが大変気の毒だと思うのだが、総てがグローバル化した今の世の中では、学力までもが国際比較されているんだね〜。
私のように子供の頃は勉強が大嫌いで、日がな一日屋外で遊んでばかりいたものは、今の世なら、落ちこぼれてどうなっていたか分からないな〜。その点、戦争で何もかもなくし、食べるものも十分にとれない時代には育ったが、勉強などそっちのけでのびのびと生きてこられたことに今改めて感謝をしたい気持ちだ。 
このような話は、ここまでとして、本題の「語彙」の話に戻そう。
「語彙」の「」という漢字の字源(※8も参照)は、「」(彖(ぶた)の略体)+音符胃」(「胃」は丸くまとまったものの意)の会意形声文字であり、ハリネズミが身を丸めている形をあらわしているそうだ(同義字:)。ハリネズミの体には毛(ハリ)が密集して生えていることから、「彙」という漢字が転じて、集まり、類集したものの意に用いられ、「語彙」ということばは、単語の集まり。一言語の有する単語の総体、ある人の有する単語の総体、ある作品に用いられた単語の総体、ある領域で、またはある観点から類集された単語の総体。などを表している。これを体系的に記述研究する言語学の分野を語彙論という。いわゆる英語でいうところの「ボキャブラリー」(vocabulary)はその同義語と思ってよい。
そのようなことから、旺文社が設定した「語彙の日」と生涯学習検定センターが運営管理する「実用日本語 語彙力検定」をPRするためのイメージキャラクターには、はりねずみの 『ごいちゃん』 が使われているようだ(※9)。
ところで、語彙と言えば、4月28日(土)の朝日新聞夕刊に、「チャレンジ 語彙・読解力検定」として、以下の問題が掲載されていた。
【辞書語彙】( 主に「ベネッセ新修国語辞典」の一般的な語から出題)からの出題としてである。
問:語句「重心」の意味として最も適当なものを(1)〜(5)のうちから選びなさい。
(1)30歳、(2)50歳、(3)70歳、(4)80歳、(5)90歳
皆さん分かりましたか?(4)(5)は分かっていても、(1)〜(3)は、直ぐにピンと来なかった人も多かったのでは・・・。
答は(3)。(1)〜(3)は「論語」の中でも、とりわけよく知られている言葉「天命を知る」の出てくる“為政第二”から出た言葉で、「重心」は、“70歳になると心のままに行動しても、道理にはずれなくなる”という意味。(1)は而立(じりつ)、(2)は致命(ちめい)。(4)(5)は漢字の分解からで昔から年齢の呼称として使われていたもの。(4)は「傘寿」(さんじゅ)、「傘」の略字(仐)が八十と分解できるため。(5)は卒寿(そつじゅ)、「卒」の略字(卆)が九十と分解できるため。年齢とその呼称はここを参照。論語の解説等は、参考の※10:論語に学ぶ会、また、※11:論語の世界を参照されるとよい。
私なども、手持ちの本を読み直したり、ネットを検索したりしながら自分自身がお勉強をしているつもりで今日の日の記念日や歴史、出来事などにかこつけてこんなブログを書いてはいるものの、正直、学生時代より、国語など一番の苦手であったから、今でも、漢字や、ことばの使い方には全く自信がない。だから、語彙 云々をどうのこうのと書く資格もないのだが、そういいながら、今日、“語彙“をテーマーに書く気になったのは、そんな私でも、「最近は、ずいぶんと変な言葉が多く使われるようになったな〜」と感じているからである。
特に、新聞やテレビを通じて耳にする政治家や官僚の答弁など聴いていると、分からない言葉だらけだ。「語彙」とは、先にも書いたように、ある領域で使われている単語の総体ということなので、政治家や官僚は、我々とは違う独特の語彙を持っているということなのだろうか・・・。
例えば、「前向きに検討します」や「善処します」・・・。前者など意欲的に取り組んでくれるのかと勘違いするが、考えておきます程度で、殆ど、“やりません“と言っているようなものだし、後者は、何か問題が起こって反省しているのかと思いきや、言いたいのは、人のやったことだから自分には関係ありません・・・といっているだけのこと。
2009年(平成21年)衆院選での街頭演説では、当時野党であった民主党の幹事長代理をしていた野田 佳彦は、「マニフェスト(選挙公約)に書いてあることは命懸けで実行する。書いてないことはやらないんです。それがルールです」と力説していたが、政権与党となった民主党はドタバタ劇で2人の首相が相次いで辞めなければならない羽目になり、その後、何の実績もないのに、民主党代表選での、どじょう演説が受けて、民主党党首となり、とうとう内閣総理大臣(第95代)にもなってしまった。
そんな野田が首相となると急に「マニフェストではアップしないと」と言っていた消費増税に「不退転の決意」で臨むと言いだした。一体それはどんな決意なのか?
政治主導は口先だけで、実際には、官僚のシナリオ通りのことしか出来ない野田内閣が、党内事情や財務官僚のシナリオに従い、昨年の東日本大震災復興や欧州連合(EU)の金融不安を理由に、消費増税の前に多くのしなくてはならないことが山とあるのにそれはせず、又、国民の前に財政赤字削減への道筋を明らかにしないまま、財政赤字の日本が破綻寸前であるから仕方がないと、国民に思い込ませたうえで、やりたくないけどやらなくては仕方がないと居直っているようなものだ。日本の財政赤字と消費税増税問題については色々な論議があるので参考※12。※13、※14参照されるとよい。
「不退転」は辞書を引くと、「志をかたく保持して屈しないこと」(広辞苑)を言うのだが、仏教用語では、文字通り、「退転しないことで、仏道修行の過程で、すでに得た功徳を決して失うことがないこと、もはや後退することがないこと」をいう(※15参照)。
野田首相にとっては、仏教用語通り、「すでに得た功徳(地位)を決して失わない」・・・という決意なのであろう。
そのほかにも、政治家や官僚からよく聞く「可及的速やかに・・・」なども、言葉の意味とは裏腹に庶民にとっては「ゆっくりやる」といっているようなものだし、何か問題が起こると、「問題があったと認識しております」とか「遺憾の意を評します」といった難しくて意味のよく分からない言葉をよく使う。極めつけは、問題点を追求されると、必ずといって「記憶にございません」ととぼけて見せることであろう。自分になにか不利になることを隠す時にはこのような、曖昧な言葉は、政治家にとって、この上なく好都合なものなのだろう。
このような政治家や官僚の意味不明の言葉とともに、私たちの年代の者を困惑させているのが、若者言葉だろう。
「ウザい」「キモい・キショい」「ヤバい(危ない、という本来の意味からかけ離れた、スゴイ、格好いい、凄く面白いと言った意味にも使われている)」など他にも沢山あるが、「ちょー○○」といった言葉などまだ何となく意味が理解できるからいいようなものの、聞いても何のことか想像できないものが多くある。
日本は、古来より「物を数えるときの単位」(正確には「助数詞」)が非常に発達しており数多くある(※16参照)が、箪笥「棹(さお)」や刀「振り」の数え方などはともかくも、日常で頻繁に使う助数詞も曖昧になってきていたが、最近の若い子は何でも「こ(個)」で数えている。例えば「2歳年上」と言う場合でも「2個(こ)上」と言ったりするのを聞いていると、これも、ちょっと日本語の乱れも酷いな〜と感じざるを得ない。
若者の言葉の乱は、現代に始まったことではなく、古くは清少納言の『枕草子』にも、
“難義の事をいひて、「その事させんとす」といはんといふを、と文字をうしなひて、唯「いはんずる」「里へ出でんずる」などいへば、やがていとわろし”・・・・と、当時の若者の言葉の乱れを嘆く記述がある(※17:原文『枕草子』全巻の第262段参照)。ここでは「と」文字抜きの言葉をいっているが、かって現代の若者達が使っていた「ら 抜き言葉」が言葉の乱れの代表のように言われていたが、今では、若者だけでなく普通に使われることも多くなっており、そういう私も、いつの間にか使っているのだから偉そうなことはいえない。
最近では、「れる、られる」の表現は「受身」や「尊敬」を表す場合にも用いられ、これらと区別するために、可能を表す「ら抜き言葉」が用いられるようになったともいわれている(※18:「言葉の散歩道」の日本語の文法:「ら抜き言葉」は、本当に「ら抜き言葉」なのか?参照)
言葉というものは時代とともに変化するものであることは理解しているが、人を不快にするような言葉や普通の人が聞いても意味が通じないような隠語スラング(slang)を仲間内など以外の一般的な社会人との会話で使うのあまり感心しない。それに、日本独特の文化は、最低限守ってもらいたいとは思う。
もう1つ気になるのが、カタカナ語や横文字(ローマ字)で書かれた外来語や外国語の氾濫だ。とりわけ目立つのが、テレビCMや映画の題名だ。それに、ちょっとインテリを自負している人達には、特にカタカナ語を多用する傾向がある。
それだけでなく、外国語や外来語が、公的な役割を担う官庁や白書広報紙、日々、生活と切り離せない新聞・雑誌・テレビなどでも数多く使われていることが指摘されている。
例えば、高齢者の介護や福祉に関する広報紙の記事は、お年寄りに配慮した分かりやすい表現を用いることが、本来より大切にされるべきだろう。又、幅の広い多くの層の人達を対象とする新聞や放送にしても、一般に馴染みの薄い専門用語を不用意に使わないようにするべきであろうが、実際には、読み手や聞き手への配慮をすることなく、書き手や放送する側の使いやすさを優先してはいないだろうか。
そのようなことから、国語審議会からは分かりにくい外来語を分かりやすくするための言葉遣いを工夫し、外来語の日本語への言い換えが提案されている。たとえば、「デイサービス」を「日帰り介護」というように。(※19又、※2の「外来語」言い換え提案参照)。
日本語は、古来の「和語」あるいは、「やまとことば」(主として、ひらがな)のほか、千数百年前に中国文明の影響の元に大きく変質して現在の漢字仮名混じり文という型を獲得して以来、さらに、近代以降には西洋語を中心とする外来語が増大してきた(「語種」参照)。
簡単に言えば、日本語は、やまと言葉や漢語、カタカナ語、それに、若者言葉などがごちゃ混ぜになった言葉であるが、以下参考の※20:「日本語講義ノート 『日本語史講義ノート』概要」によれば、このように、日本語で、多種多様な言葉が用いられるのは、日本語が言葉類型的に膠着語であるからだそうだ。
ウクライナ語は、屈折語で、語は、実質的な意味を示す語幹と文法関係を示す語尾とからなっている。中国語は、孤立語で、語順が重要な意味をもっている(我 愛 她 − 她 愛 我, Wo ai ta − Ta ai wo)。ところが、日本語は、実質的な意味を示す語、自立語と文法関係を示す語、付属語からなっている(品詞も参照)。
例えば、私は彼女を愛している −彼女は私をあいしている・・・のように。
そして、日本語では、付属語という名がついているが、日本語の主要な助詞である「テ、ニ、オ、ハ 」はやまとことばで、しかも、とても重要で、文の骨格をなしていて、それらのあいだに色んな言葉をはめ込むことができる。いわば鋳型(いがた)のような役割をはたしている。
この「テ、ニ、オ、ハ」のおかげで、4世紀に漢字が入ってきたときもそうであるが、欧米から「modern societyにおけるindividualのloveについてreasonable なdiscussionを….」といった語がはいってきたときも、アルファベットの語を近代社会、個人的恋愛、理性的、討論といった語におきかえて、それを テニオハの鋳型の中にはめこんでうまく処理してきたのだという。
結局、その利便性が、外国人には通用しない日本語英語を、知っている語彙を自由に綴り合わせて作ることになり、多くの若者言葉を生み出す要因にもなっているようだ。
語彙力は、ないよりもあった方がいい。つまり言葉は知っておいた方がいい。語彙力があれば、適切に表現できるし、微妙なニュアンスを大事にして言葉を使い分けたい。言葉の微妙な違いを楽しめるのも日本語の面白いところだ。
しかし、日本語の中に日本人自身がわからない単語が増えると、意思疎通もうまくゆかなくなるので困る。それに老齢化が進んでいる日本で、次々と新しいカタカナ語(外来語)が急増すると、新聞を読んでもテレビを見てもちんぷんかんぷんだと言うお年寄り達が増えてしまうっては困る。
また、今のデジタルな時代、なにか理屈ばかりが先行し情緒性が失われた気がする。
情緒性を養うには、読書が効果的だろう。それも、優しいほんわかとした物語を読めば、優しい気持ちになれる。逆に、争いごとや、暴力。殺人など殺伐とした悲壮感漂う本など読んでいるとそんな気持ちに自然となってくる(本だけでなくテレビや映画、テレビゲームなども同様だ)。出来るだけ、気持ちの和らぐ良い本を多く読むようにしたいものだね。

(冒頭の画像はナミハリネズミ。Wikipediaの画像に加工)
参考:
※1:5 月 1 日は『語彙 の日』(Adobe PDF)
http://www.obunsha.co.jp/old_release/files/document/070305.pdf#search='語彙の日'
※2:教育課程研究センター:国立教育政策研究所
http://www.nier.go.jp/04_kenkyu_annai/div08-katei.html
※3:国立教育政策研究所広報(Adobe PDF)
http://www.nier.go.jp/kankou_kouhou/135.pdf#search='『「生きる力」を育てるための「読書教育推進プログラム」の開発研究'
※4:子どもの読書活動推進ホームページ:文部科学省
http://www.mext.go.jp/a_menu/sports/dokusyo/hourei/index.htm
※5:これからの時代に求められる国語力について. :文部科学省
http://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/bunka/toushin/04020301.htm
※6:国際学力調査:文部科学省
http://www.mext.go.jp/a_menu/shotou/gakuryoku-chousa/sonota/07032813.htm
※7:PISA で教育の何が変わったか 〜日本の場合〜(Adobe PDF)
http://www.cret.or.jp/j/report/101210_Kayo_Matsushita_report.pdf#search='PISAショック'
※8:増殖漢字辞典【彙】
http://www.geocities.jp/growth_dic/honbun/zoukan-5743.html
※9:旺文社 「実用日本語 語彙力検定」 キャラクターはりねずみの 『ごいちゃん』 に決定
http://www.obunsha.co.jp/files/document/070911.pdf#search='ごいちゃん'
※10:論語に学ぶ会:論語全二十篇解説一覧
http://rongo.jp/kaisetsu/kaisetsu00.html
※11:論語の世界
http://www.asahi-net.or.jp/~pd9t-ktym/rongo.html
※12:財政破綻論の大ウソ-資産が借金を上回る日本政府のバランスシート、世界一の金あまり日本                            
 http://blogos.com/article/33410/
※13:池田信夫 blog : 財政赤字はフィクションか
http://www.nli-research.co.jp/report/econo_eye/2010/nn100517.html
※14:2015年に日本の財政破綻が発端となって、日本発の金融危機が起こるのか?
http://diamond.jp/articles/-/11324
※15:楽しい仏教用語
http://www.terakoya.com/yougo/b_yougo.html
※16:若者用語の小事典
http://www.tnk.gr.jp/young/word/
※17:原文『枕草子』全巻
http://www.geocities.jp/rikwhi/nyumon/az/makuranosousi_zen.html
※18:言葉の散歩道
http://www.geocities.co.jp/collegeLife-Labo/6084/kotoba.htm
※19:第1回 「外来語」言い換え提案 国立国語研究所「外来語」委員会
http://www.ninjal.ac.jp/gairaigo/Teian1/iikae_teian1.pdf#search='国語審議会 外来語'
※20:日本語講義ノート 『日本語史講義ノート』概要
http://www.eonet.ne.jp/~suemura/nihongo.html
コラム −日本語の乱れ−
http://sports.geocities.jp/keppa05/keppa/column/japanese.html
たつをの ChangeLog 「論理 vs 情緒」 - 藤原正彦講演会
http://chalow.net/2005-02-21-6.html
日本記念日協会
http://www.kinenbi.gr.jp/index2.html
語彙 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%AA%9E%E5%BD%99
オンライン日本語テスト
http://test.u-biq.org/japanese.html
中学国語:文法 -単語- 自立語と付属語 e点ネット塾 - YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=zCyvkKQqTOI

テレサ・テンの「時の流れに身をまかせ」などで知られる作曲家・三木たかしの忌日

$
0
0
今日5月11日は、「時の流れに身をまかせ」(テレサ・テン歌唱、作詞:荒木とよひさ)や「津軽海峡・冬景色」(石川さゆり歌唱。作詞:阿久悠)など多くの演歌・歌謡曲のヒットを生んだ作曲家・三木たかしの2009(平成21)年の忌日である(享年64歳)。
三木 たかし(本名:渡邊匡。わたなべ ただし)は、1945(昭和20)年1月12日東京都に生まれる。
歌手・女優の黛ジュン(本名:渡邊順子)は3歳下の実妹である。
三木 たかしのプロフィールについては、Wikipediaでも、貧困家庭に育ち、借金取りが訪れると妹と押入れに籠もり、紙で書いた鍵盤をひいて遊んでいたという。・・・とあるだけで、それ以上詳しいことは分からないが、彼が生まれた1945(昭和20)年は、第二次世界大大東亜戦争〔太平洋戦争〕)終結の年であり、国民の生活はどん底に落ち込んでいた。主要都市の多くでは、空襲による焼け野原が目立ちトタン屋根のバラックや防空壕を住まいとする家族が少なくなった。敗戦後の復員兵に仕事はなく、もっと悲惨なのが、外地で生活をしていた約300万人とも言われる引揚者たちであり、住む家も仕事も援護の手さえ差し伸べられることはなかった。
中でも、家だけでなく、親おもなくし浮浪児となったあわれな戦災孤児たちが溢れていた。こうした国内にあふれた人々が一番直面していた問題は食糧問題であった。
配給制度はあったものの、終戦の1ヵ月前に6大都府県の主食の配給は21勺(297グラム)と定められていたが、戦争が終わって食糧事情はより悪化し、米はほとんど配給されず、芋や豆粕、くず芋が配給品となった。このため米を要求するデモが各地で頻発していた。だが、いっこうに配給は増えず、国民は手元に残った晴れ着や衣類を農村への買い出しや闇市などに持ち込み食糧を調達しなければならず、全国で戦死者よりも多い餓死者が続出した。
今NHKの朝の連続テレビ小説「梅ちゃん先生」(※1)でもそんな戦後の時代を背景としているが、実際には、もっと悲惨な状況であった。公共放送NHKの番組の舞台であるから、あの程度に描かれているのであろう。
「梅ちゃん先生」の家庭など貧しいと言っても大学病院の医師の家庭であり、当時としては恵まれた環境にあるから、主役の梅ちゃんもあんなのんびり屋で居られたのだろう。恵まれない人があの時代にあんな性格では生きてゆけない。
三木たかしと黛ジュンの兄弟が、貧困家庭に育ったといっても、当時は殆どの家庭が貧乏であり、私の家も戦後の混乱した時代に父が商売で詐欺に合いそれまでとは一転して、借金取りに追い回され、生きるか死ぬかの辛い子供時代を経験してきた。
昔から、"若いときの苦労は買ってでもしろ!"言われるが、厭が上にも子供の頃から音楽好きだった2人の兄弟が支え合いながらそのような境遇をバネに努力をした結果、兄弟そろって芸能界で、兄は偉大な作詞家として妹も偉大な歌手・女優として成功を収めたのだろう。
三木 たかしは、中学校卒業後、1960年代半ばごろには歌手を志して作曲家船村徹に弟子入りするも、船村から「君は作曲家の方が向いている」と云われ、作曲家に転換。1967(昭和42)年、当時の売れっ子作詩家であったなかにし礼の推薦を受け、「恋はハートで」 (歌唱: 泉アキ/クラウン・レコード) で作曲家としてデビューした。
泉アキ/恋はハートで - YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=gmRxu0OLD3M
しかし、この曲よりも前に彼が作曲した名曲がある。

今はなき昭和の歌謡界を代表する歌手・美空ひばり歌唱による「さくらの唄」がそれである。ひばりの歌としては余り広く知られていないかもしれないが、この曲は、三木たかしが10代のときに作った曲だそうで、後年になってこの曲に、なかにし礼が詞を書いて、三木たかしが歌ったレコードが1970(昭和45)年に発売されていたそうだ。三木たかし歌唱の「さくらの唄」は知らないが、ひばりの歌は聞いて知っている。
美空ひばり さくらの唄 三木たかし
http://v.youku.com/v_show/id_XMTI0MTM2MTgw.html
なんでも、この曲に魅了された作家で演出家の故久世光彦が、是非この曲をもう一度世に出したいという強い思いから、美空ひばりを訪ねてこの曲のテープを聴いてもらいひばりも感動しリリースしたと聞く。
そして1976(昭和51)年にTBSで放送されたテレビドラマ「さくらの唄」ののエンディング曲として挿入されもした。

何もかも僕はなくしたの
生きてることがつらくてならぬ
もしも僕が死んだら 友達に
ひきょうなやつとわらわれるだろう

なんとも絶望感に満ちた哀しい内容の歌だが、以下参考の※2:「美空ひばりの歌が流れていた頃」によると、歌謡界の女王といわれた美空ひばりの身辺に不幸が続き(Wikipedia-美空ひばりの兄弟とひばりのトラブル参照)、紅白への出場から除外された後の歌手としても辛いどん底の時期に、作詞をしたなかにし礼が当時、実の兄の多額の借金を背負わされて、なかにし自身も失意のドン底と絶望の中で遺書のつもりで書いものだったという。それを、ひばりが、自身の見に重ね淡々と語るように歌っているのだが、そもそも、なかにしは、三木たかしが中学時代に作曲したものに詞をつけたものであり、この曲自体が、既に、貧乏な生活の中で、絶望感に喘いでいた三木少年の心情が表現されていたものだったと言うべきではないだろうか・・・。
この歌は女性が歌うよりも苦労を重ねてきた作曲家の三木たかし本人が歌った方がぴったりなのだろう。本人が歌っていた時の歌が聴けないのが残念だ。
これではなくても、三木たかし本人が歌っている歌がないか検索していたら、テレサ・テンの曲を数多く手がけた彼は、1995(平成7)年5月8日に他界したテレサが眠る台湾を没後8年経った2003(平成15)年に訪れ、ゴールデンコンビ荒木とよひさ(作詞)と共につくり上げたテレサに捧げる最後歌(追憶歌)「聴かせて・・・」を、墓前でギターを弾きながら歌っているものがあった。以下は、恐らく、2003(平成15)年、テレサテンの生誕50年記念番組「風の伝説テレサ・テン(テレビ朝日系列)」で放送されていたときのものだろう。
聴かせて 歌:三木たかし(テレサ・テンに捧げた歌) - YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=ZEC0vQzgeZk
この歌は、今、鈴木幸治 (Kohji Suzuki) が歌っているがなかなかいい曲である。
『聴かせて・・・』 KIKASETE ・・ 幸治 (Kohji Suzuki) - YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=Z_zzB7yGtv4&feature=related
三木は泉アキの「恋はハートで」でデビュー後、1968(昭和43)年、実妹・黛ジュンに提供した「夕月」が66万枚を超えるセールスを記録し、黛自身の最大のヒット曲ともなった。以下で聞ける。
秋風のバラード(夕月) 黛ジュン - YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=JZsWNqpJFO0
ポップス系の黛ジュンが初めて古風な雰囲気の曲を歌ったものだが、上掲の曲は、YouTubeへのアップロード者が書いているところによると、リサイタル用に作った曲で、この時はシングルカットは考えていなかったようで、大ヒットした夕月の原形となる曲だそうだ。それに、語りの部分で聞こえるギターは三木たかしによるものだという。以下の曲と聞き比べてみるのも面白い。
黛ジュン / 夕月 - デイリーモーション動画
http://www.dailymotion.com/video/x8hjm3_yyyy-yy_music
この黛の「夕月」の曲は、昨・2011(平成23)年10月に発売され話題となった由紀さおりピンク・マルティーニのコラボによるカバーアルバム「1969」の6曲目に収録されている。
1977(昭和52)年には、「ブーメランストリート」(作詞: 阿久悠、歌唱:西城秀樹)、思秋期 (作詞: 阿久悠、歌唱:岩崎宏美)や石川さゆりの「津軽海峡・冬景色」 で日本レコード大賞中山晋平賞を受賞。一流作曲家としての地位を築いた。その後もテレサ・テンの「時の流れに身をまかせ」他「つぐない 」(作詞: 荒木とよひさ) 「愛人」「別れの予感」(作詞: 荒木とよひさ) をはじめ、坂本冬美の「夜桜お七」 (作詞: 林あまり)、日本テレビ系アニメ「それいけ!アンパンマン」のオープニングテーマ曲「アンパンマンのマーチ」など、。明るく伸びやかなポップスから哀愁味のある演歌まで日本歌謡史を飾る多彩なヒット曲を送り出した。また、劇団四季宝塚歌劇団のオリジナルミュージカルの音楽なども数多く手掛けた。
2004(平成16)年からは日本作曲家協会理事長を務める。2005(平成17)年には、紫綬褒章を受章している。
2006(平成18)年に、咽頭(いんとう)がん手術を受け、声帯の一部を切除、その後声を失ってしまうが、その闘病生活の様子は、以下参考の※3:「闘病記:私の生きる道」に詳しく書かれている。
2009(平成21)年の1月13日には、「NHK歌謡コンサート」で、妹・黛ジュンと30年ぶりに兄妹出演を果たし、自身の作曲「さくらの花よ 泣きなさい」(作詞:荒木とよひさ)を黛が歌唱し、その後ろで三木がギター伴奏を披露したが、これが三木の生涯最後のテレビ出演となった。
黛ジュン/さくらの花よ 泣きなさい - YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=-_m2HF9IXdQ
久々に聞く黛の歌だが、その歌にはYouTubeへのコメントにもあるように、苦難の人生をしっかりと生き抜いた者だけが感じさせてくれる深い感動がある。
それにしても、三木たかしが中学生の頃に最初に作った曲が「さくらの唄」であり、2009年、亡くなる前に30年ぶりの妹・黛との兄弟出演のコンサートで黛が歌い自分がギター演奏した曲が「さくらの花よ 泣きなさい」とは、彼の心象には「さくら」が深く関っているのだろう。
今朝のNHK「あさイチ」のゲストには、森山直太郎が出演していたが、20歳の頃まで、ちょっといい感じのサラリーマンを目指していた彼が、音楽に興味を持ち歌手を目指すようになり街角で歌を歌っているときに作った曲がデビュー曲の「さくら」だったと語っていた。彼は彼で、母親の森山良子とは異なった道を目指しながら結局、途中から歌手を目指すようになったには、それなりに孤独な人には話せない悩みがあったのだろう。番組では多くを語らなかったが、Wikipediaの「さくら」の曲の解説には、「ある時、友達が結婚する話をきいた時に、・・・・、自分も旅立つったときに、迷ったら戻ってくる原点がここにあるように思えて創った」と書いてあった。
古くから日本人に親しまれている「サクラ」は、人生の転機を彩る花にもなっている。

(冒頭の画像は2009年5月11日朝日新聞に掲載されていたものである)
参考:
※1:連続テレビ小説「梅ちゃん先生」
http://www9.nhk.or.jp/umechan/
※2:美空ひばりの歌が流れていた頃:さくらの唄
http://88123516.at.webry.info/200704/article_1.html
※3:闘病記:私の生きる道
http://www.gsic.jp/survivor/sv_01/34/index.html
さくらの花よ 泣きなさい 黛ジュン 歌詞情報 - goo 音楽
http://music.goo.ne.jp/lyric/LYRUTND67569/index.html
三木たかし - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E6%9C%A8%E3%81%9F%E3%81%8B%E3%81%97

オコパー・タコパーの日

$
0
0
今日は余り肩の凝らない記念日を紹介をしておこう。
日本記念日協会に毎月第3土曜日の記念日として登録されているものに「オコパー・タコパーの日」がある。
「オコパー・タコパー」とは「お好み焼パーティ・たこ焼パーティ」のこと。お好み焼とたこ焼はみんなで調理を楽しめて食卓が盛り上がるだけでなく、食材費も安く出来る素晴らしい団らんメニューであるということから、お好み焼粉、たこ焼粉を製造販売する日清製粉グループ(※1)の日清フーズ株式会社が制定したもの。日付は家計に優しい料理なので給料日前となることの多い毎月の第3土曜日としたもの・・・ だそうである。
うどん(饂飩、温飩)やお好み焼などの「粉もん(コナモン=粉物)文化」が盛んな関西
合理的な精神をもつ関西人、特に大阪人や、我が地元神戸の中でも、特に長田地区の人達は、安くておいしい庶民的な食べ物にこだわりを持っている。
コナモンのお好み焼きやたこ焼き、「イカ焼き」などは、昼食におやつに、そして、気の合う仲間とちょっと一杯やりながら食べるものとして広く利用され、大人気であり、まさに、大阪や神戸のソウルフードの一つとも言える存在となっており、それは町のあちこちに目立つ看板の多さを見てもよくわかるだろう。
お好み焼きは、鉄板焼き料理のひとつで、水に溶いた小麦粉を生地として、野菜、肉、魚介類などを具材とし、鉄板の上で焼き上げ、調味料をつけて食するものである。
一昨年(2010年)のNHK朝の連続テレビ小説「てっぱん」では、広島県尾道で生まれた主人公の村上あかりが、ある日、祖母・初音が尾道を訪ねてきたことから、祖母の住む大阪にやってきて、色々有る中、育ての母から受け継いだ広島の味と初音から仕込まれた大阪の味を二枚看板に、お好み焼き屋「おのみっちゃん」を開業していた。
そこで焼かれていたのが、「関西風お好み焼き」と「広島風お好み焼き」であり、大阪を中心とする「関西風お好み焼き」の最もポピュラーな形としては、小麦粉の生地に刻んだキャベツや魚介類などの具材を混ぜ合わせて、鉄板上で焼く調理法である。一方の「広島風お好み焼き」の焼き方は、小麦粉の生地と具財を混ぜずに生地の上に刻んだキャべつや魚介類の具財を重ね焼きする。お好み焼きでは、この2種類の調理法が代表的であるが、その他の地域にも同じような料理は多数存在する。
お好み焼き類の起源は、安土桃山時代に茶の湯で有名な千利休が茶会の茶菓子として作らせていた「麩の焼き(フノヤキ)」だといわれている。麩焼きとも呼ぶ。
「麩の焼き」は、小麦粉を水で溶いて薄く焼き上げ、芥子(ケシ)の実などを入れ、山椒味噌や砂糖を塗った生地を巻物状に巻いて成形したもので、利休の茶会記『利休百会記』にもたびたび「フノヤキ」の名が見えるという。
どうもこの「フノヤキ」は今のクレープのようなものだったらしいが、その後、麩の焼きを起源としていろいろ変化して味噌の代わりに餡を巻いて作る名物「助惣焼(すけそうやき)」が生まれ、寛永年間(1624年〜1645年)に、江戸麹町3丁目の橘屋で大木元佐治兵衛が売っていたという(※2参照)。
江戸時代の風俗・事物を説明した一種の類書(百科事典)である守貞謾稿では、「助惣焼」について「温飩粉(うどんこ)を薄くやきて餡を包み。麹町にて売る。今も存すれども廃れて買ふ人稀なり。」とある(※3:巻之十八参照)。
「温飩粉(うどんこ))とは、小麦を挽いて作られた粉「小麦粉」のことであり、昔からうどんの製造によく使われていたことから、「うどん粉」と呼ばれていた。関西などでは「メリケン粉」という呼び方がよく使われているが、これは国内で生産された小麦をうどん粉と呼ぶのに対して、外国産の機械製粉された白い小麦粉(「アメリカの粉」)という意味で使用されている(日本に輸入された頃 "American" が「メリケン」と聞こえたため)。
現在、小麦粉は含まれるタンパク質(主にグリアジングルテニン)の割合と形成されるグルテンの性質によって薄力粉、中力粉、強力粉の3つに分類されているが、その中の中間的な性質を持つ中力粉(タンパク質の割合が9%前後)がうどんによく使われるほか、お好み焼きや、たこ焼きなどにも用いられている。
なお、小麦粉のタンパク質分を除いた残渣(濾過したあとなどに残ったかす)を精製したものは浮き粉(うきこ)と呼び、澱粉だけで出来たちょうど片栗粉のようなものになる。明石焼き(正式には玉子焼き)や和菓子、香港の透明な皮の海老餃子などの原料として使われている。
小麦粉を練ったものを細長く切り、茹でて食べる料理であるうどんは、奈良時代に中国より伝わった小麦粉の餡入りの団子菓子「混飩( こんとん)」に起源を求める説(中国文学者青木正児説)があり、この団子菓子が後に温かい汁の中に入れて食べられるようになり、それを「温飩(おんとん→うどん)」と呼ぶようになったとされているが、最近は、中国から渡来した切り麦(今の冷や麦)が日本で独自に進化したものであるという新説(伝承料理研究家の奥村彪生説)も出ている(※4参照)。
いずれにしても、江戸時代、江戸市中において、すでにうどんは一般に普及していた。だが、特に江戸前期には、まだ江戸っ子の好きな麺類としてのそば(蕎麦切〔細長い麵状のそばのこと〕)は、一般には普及しておらず、 そばがきとして食べられていた。従って、江戸でも麺類としてはまだうどんに人気があったようである。江戸で、蕎麦切を食べるようになったのは、江戸中期以降のことのようである。
うどんを売る店でも蕎麦を売っていたし、そばを売る店でもうどんを売っていたが、うどん好きの関西のように主としてうどんを売る店では、うどん屋と称し、そば(蕎麦)好きの江戸など、蕎麦を主として売っていた店は蕎麦屋と称した。
以下参考の※5:「髭鬚髯散人之廬」では、 守貞謾稿巻之五(生業上)から「温飩 蕎麦屋」のこと・・・を解説しているが、その中にもそのことは書かれている(ここに出てくる「沽るは[売る]の意)。その中で守貞謾稿には、“うどんは、昔は「小麦粉を団子のごとくまろめ、中に餡をいれ煮たる物なり」→「形丸くして、ぐるぐる回りて端なき意」なので「混沌」と名付けて、其の後、さんずいが食扁に変わったという「珍説」も紹介されている。”としているが、守貞謾稿の記載から、江戸時代、すでに先に述べた青木正児説と同様の説があったことを示しているものと解釈するのだが、青木正児説以降に奥村彪生による新説が出たので、それが正しいとして、前説を「珍説」しているのだろう。
私には、どちらの説が正しいのか分からないが、守貞謾稿では、うどんを、昔は「小麦粉を団子のごとくまろめ、中に餡をいれ煮たる物なり」とし、又、「助惣焼」について「温飩粉(うどんこ)を薄くやきて餡を包み。」としているのを見ると、小麦粉を団子のごとくまろめ、中に餡をいれ煮ていたものを、江戸時代になって、小麦粉を薄く焼いて飴を包んだ菓子としたのだ・・・と、みるとそれはそれで面白い説と私は思っている。「麩の焼き」の麩の材料となる当時の小麦粉がどのようなものであったかは正確には分からないが、現在の「浮き粉」は、小麦粉の生地から麩(ふ)の原料としても使われるものであり、先にも書いたように明石焼きや和菓子の材料として使われているものだ。
ちょっと回り道をしたが、いずれにしても、一般的にはこの「助惣焼」が、今の「お好み焼」や「どら焼き」の由来の一つではないかとされている。
「どら焼き」は、助惣焼が銅鑼(どら)で焼かれたのでそう呼ぶようになったという。これら食べ物に共通 する主材料は、うどん粉(メリケン粉)である。
麩の焼き から 助惣焼へ、それが発展して、「もんじゃ焼き)」「どんどん焼き」が生まれた。
「もんじゃ焼き」のルーツは、明治時代の文字焼き。小麦粉を水で溶いたゆるめの生地を使って、駄菓子屋の店先の鉄板に文字を書き、子どもたちに文字を教えながら売った「文字焼き」がルーツだと言われている。
「どんどん焼き」は、もんじゃ焼きが、路上販売用に変化したもので、持ち帰り出来るように、水の配分を少なくして固めに焼き上げたもので、名称は、商品を売る屋台で「どんどん」と太鼓を鳴らしていたことから、あるいは、作るそばから「どんどん」売れたことから名付けられたとされるように、屋台の売り子が叩く太鼓の音よろしく全国に「どんどん」普及していったようだ。
それらが大阪にも伝わり、コンニャクや豆の具などを入れしょう油味で食べる「ベタ焼」「チョボ焼」が誕生し、それが各種鉄板料理へと派生していったとされている。
戦前までは、関西地方の「洋食焼き」(大阪)、や「一銭洋食」(京都)、「にくてん」(兵庫)などと呼ばれて、水で溶いた小麦粉を鉄板に円状に広げて刻みネギや天かすなどをのせて焼いた物に、ソースをかけた物が駄菓子屋や店舗の軒下などで売られていたが、子供のおやつのようなものであった。当時はソースさえかければなんでも洋食と見なされており、“安くて美味い”物に弱い関西人の間で人気の食べ物となった。かつて(1955年(昭和30年)前後まで)関西の下町では、町内に一軒位の割合でお好み焼き屋があり、庶民に親しまれる日常の食べ物であった。
そういえば、私の地元神戸地域では、お好み焼きと呼ばれる以前には、つまり、大正末期から昭和初期は、「にくてん」と呼ばれていて、長田区大正筋商店街付近には、にくてん専門店が軒を連ねる「にくてん街」と称するエリアがあった。水溶きの生地をおたまで、円く薄くひいて、ネギやキャベツ、すじ肉などをのせたあと、わずかに生地をかけて、ひっくり返す。ぺったんこの薄焼き。パリッとした生地の皮と野菜、すじ肉の甘味と旨味をすったトロトロの生地。にくてんの語源には「にく=スジ肉、てん=天カス」からなど諸説ある。牛スジ肉とコンニャクを甘辛く味付けして煮込んだものを長田区周辺では、「ぼっかけ」と称している。「「ぼっかけ」は汁のうどんにも入れて使われ、「ぼっかけうどん」と呼ばれている。美味しいので私も大好きだ。
少し話はそれるが、明治期の神戸は、兵庫港(かって大輪田泊や兵庫津と呼ばれた)、を中心とする「兵庫地区」と外国人居留地を中心とする「元町地区」が繁栄していた。
その中間を流れていて、東西を分断していた旧湊川(※7も参照)を付け替え、1905(明治38)年に長い埋立地が誕生した。それが現在の新開地本通り(商店街)である。
本通には、劇場や映画館などの娯楽施設が軒を連ね、当時は神戸市役所も隣地にあり、新聞社やデパートなどの業務集積エリアを抱え、花街・福原の賑わいともに、旧神戸文化の中心地であった。
1945(昭和20)年3月の神戸大空襲で新開地 とその周辺も焼け野原となった。戦後、新開地の東側一帯の焼け跡には米軍のウエスト・キャンプができ、その接収解除が遅れたことや、映画館・劇場などの娯楽施設が新興の三宮付近に多くできたこと、また、新開地周辺にあった神戸市役所や新聞社などが三宮へ移転した事などにより、繁華街の中心は次第に三宮方面に移っていき、今は昔日の面影が失われているが、かっては、「東の浅草、西の新開地」と言われる西日本を代表する繁華街として君臨していた。
又、現在のJR新長田駅の南口の駅前通りの西側に並行して伸びる商店街(新長田1番街商店街)を南に進み国道2号線を超えると大正筋商店街入口に達する(南北約300mほどの商店街)。大正筋商店街を南に抜けた地点より東方向に伸びる商店街が、歩道の幅が約六間あるという事から、古くより六間道商店街と言われていたところである。その間何本もの商店街があるが、この新湊川の西に広がる地域は、戦後、焼け残ったこともあり、昭和時代後半頃までは神戸では新開地の次に繁華街として栄えていたところであり、西新開地とも言われていたところである。私が子供の頃は、遊びに行くのは、新開地か、ここかであった。兎に角ここは庶民的な町なので食べ物も安く、楽しく遊べたところであった。
この地域は、阪神・淡路大震災とその時の大火により壊滅的な被害受けた後、再開発事業により、町の建物や商店街自体は綺麗に整備がされ、住民も増えては来たが、そもそも町自体の規模が余りにも大きすぎて、戦前戦後の賑わいを取り戻せるわけでもなくし資金面では困っている商店が多いのが実情のようだ(復興は外見だけ。私は神戸市の復興計画の誤りだと思っている)。
回り道をしたが、今でも、新長田駅周辺地域や高砂姫路などの地域で「にくてん」は売られているようだが、私も、長いこと食べていない。このブログを書きながら、やけに「にくてん」が懐かしく思い出される。
新長田周辺や神戸地域の「にくてん」は、すじこん(牛スジ肉と、こんにゃくを煮たもの)が入っているが、生地を引いて焼く薄焼きのお好み焼き自体を総称して言う時もある。
今のお好み焼のように、何でも彼でもメリケン粉の中へまぜこんで焼き上げるのではなく、皮のように薄く引いたメリケン粉に、牛挽肉(すじこんが美味しい)と刻み葱を入れ、ざっくりとまぜ合わせて焼いたものに、ソースをかけただけのシンプルな食べ物が懐かしい・・・・。
広島のお好み焼きも神戸と似たような焼き方で戦前からあったが、戦後、おなかのすいた子供たち用に、おいしくボリュームを出すために、中華そばやうどんを入れて重ね焼きする広島焼きが考え出され今では、全国的に普及し、親しまれる食べ物へ進化していった。
大阪、京都を中心とする関西では、「一銭洋食」「洋食焼」の名前で子どものおやつとして親しまれる一方、大人を相手に風流お好み焼の店が流行した。間仕切りのある空間に鉄板を置いて、自分たちで好きなように焼くゆえに、「お好み焼き」の名がついたといわれる。大阪ならではの混ぜ焼きスタイルの誕生である。
私が就職した昭和30年代の大阪で、店名は「きよ」・・・、古いことなのでうろ覚えだが、たしか漢字では「喜」と言う字がついていたので「喜代」だったと思う・・。大きなお好み焼き専門の店で会社仲間とよく食べに行ったが、よく流行っていて何時も満席だったのを思い出す。 焼く際、“生地は混ぜ過ぎない、厚みを残して生地を鉄板に流し、コテで押さえつけない」・・・など、大阪風のお好み焼きを美味しく焼くのは初めての人には難しいものだ。
関西のコナモンで、お好み焼きととも知られているのが、「たこ焼」。たこ焼きは、普通は、半球状の窪みのある鉄板に水またはだし汁で溶いた小麦粉を流し込み生地の中にタコを入れ球形に焼き上げ、完成したたこ焼きにはソースをかけ、鰹節、青海苔、生姜などを降りかけて食べるもので、特に、大阪が有名である。
そして、それと並ぶのが兵庫県・明石市の「玉子焼き」(通称:明石焼き)であるが、明石焼きは、先にも述べたように、材料に小麦粉ではなく浮粉と鶏卵などを使い、生地が非常にやわらかい点、具が基本的にタコのみである点、焼き上がったものを出汁に浸けて食べる点などが大きな特徴となっている。
一般的にたこ焼きは、大阪が発祥で、創始者は、西成区玉出に本店を置く会津屋の初代・遠藤留吉とされているそうだ(Wikipedia)。
1933年(昭和8年)、遠藤はラジオ焼きを改良し、従来のこんにゃくの代わりに醤油味の牛肉を入れて肉焼きとして販売。1935年(昭和10年)、タコと鶏卵を入れる明石焼に影響を受け、牛肉ではなくタコ・鶏卵を入れるようになり、たこ焼きと名付けたという。
ラジオ焼き(ラヂヲ焼き)は、昭和8年ごろ、ちょぼ焼きに関東煮の具材として用いられていたスジ肉を入れたことに始まり、当時まだ高価でハイカラの象徴だったラジオにあやかってラジオ焼きと呼ばれるようになった。後に明石焼きに影響を受けてたこを入れたものがたこ焼きに発展したものだという。
お好み焼き、たこ焼きの原型であるちょぼ焼きは、水で溶いたうどん粉を半円に窪んだ物が並んだ金板に流し、そこにこんにゃく、紅ショウガ、えんどう豆他に醤油をいれたりねぎや鰹節をまぶしたりしたものを、上下2段になった箱型のカンテキ(七輪)で焼いたもので、大正から昭和初期のおやつ的存在で、子供たちが集まっては各家庭でつくっていたそうだ。型のくぼんだ所だけではなく、一面(べた)にうどん粉をひいて作ったものをべた焼きという言い方もある。
ちょぼ(点)とは、「中国渡来の賭博(とばく)の樗蒲(ちょぼ)の采(さい)の目(サイコロの目)の打ち方に似ているところからきたとされる。しるしとして打つ点。ぽちなど。今でも「おちょぼ口」と言うなど「ちょぼ」は小さい意に使われる。
大阪のたこ焼きと明石の玉子焼きとは共にコナモノンであり、丸い型をに焼いたものであっても、その制法食べ方から、全く違った系統の食べ物と言っても良いだろう。
我が地元神戸には、「神戸たこ焼き」というものがある。隣町の明石焼きの影響を受けているのだろう、大阪風のたこ焼きにソースを塗って出汁につけて食べる。
神戸では長田区、兵庫区あたりでこの方法で提供している店があるようだが、正直、私は、このような食べ方がある事は知っているがそのような食べ方はしたことがない。神戸以外に、姫路市・加古川市・高砂市あたりにもあるようだ。
私は、たこ焼きも好きだが、基本的には昔から明石焼きが好きだった。昭和30年代初めのころたこ焼きの本場大阪で仕事をしているとき、明石焼きの店を捜したら梅田に一軒あるのを見つけたた。たしか「たこ八」といったと思うが、明石焼専門の店で、カウンターには5〜6人しか座れない小さな店だったので、人気もあり、順番待ちが大変だった。私の家の近くには、美味しい明石焼きの店があるのでありがたい。
たこ焼きはつくってまで食べないが、お好み焼きは好きなので、家で、よく作って食べてるが、最近は歳のせいで、余り粉っぽいものやこってりとしたソース味のものは、胃が受け付けなくなってきた。そのため、家で作るときは、明石焼きのように、お好み焼き粉を卵と水で薄く溶いたものをホットプレートに、7〜8?くらいの小判型に、ごく薄くひき、とんぺい焼き」とは違って薄切りの豚のバラ肉生地とを同寸くらいに切ったものを置き、自分で焼きながら食べている。具は肉以外入れない。焼きあがったものは普通のウスターソースを薄っすらと塗るだけ。具財は豚肉の他に、大好きな、牡蠣や帆立貝などを使用して作るが、これもそれぞれの具に合わせて薄く溶いた生地にそれらの具だけを乗せて焼き、これらは、ポン酢醤油で食べている。具とは別に、野菜炒めのようにニ、キャベツや玉葱、キノコ類を肉類を焼いているホットプレートの横の方で焼いている。一種の焼肉感覚だ。
このブログを書いていて、やたら、「にくてん」が食べたくなった。近くの市場の中のうどん屋さんで、おいいしい「筋コン」を売っているので、それを買ってきて筋コンいるのにくてんをつくってみよう。
もし、色んなお好み焼きやたこ焼きが食べたいなら、日清フーズの※8:「ようこそオコタコ島へ」アクセスすると色々なつくり方のものが紹介されているよ。

冒頭の画像は、お好み焼きと屋台で調理中のたこ焼き。Wikipediaより)
参考:
※1:日清HP
http://www.nisshin.com/
※2:麹町菓子舗「助惣」引札(貨幣博物館)
http://www.imes.boj.or.jp/cm/pdffiles/nishikie0305.pdf
※3:坪田敦緒:相撲評論家の頁>史料庫>記録・随筆・紀行>守貞謾稿
http://www.ep.sci.hokudai.ac.jp/~tsubota/chrono/morisada.html
※4:うどんのルーツに新説-四国新聞社
http://www.shikoku-np.co.jp/feature/tuiseki/457/index.htm
※5:髭鬚髯散人之廬 守貞謾稿(近世風俗志)
http://rienmei.blog20.fc2.com/blog-category-6.html
※6:『お好み焼き』の仲間・関東編(財団法人製粉振興会)
http://www.seifun.or.jp/wadai/hukei/huukei-09_06.html
※7:兵庫県/湊川流路の変遷
http://web.pref.hyogo.jp/ko05/ko05_1_000000016.html
※8:ようこそオコタコ島へ(日清フーズ)
http://nisshin.okotako.jp/
中小企業庁:がんばる商店街77選:神戸市内11商店街等
http://www.chusho.meti.go.jp/shogyo/shogyo/shoutengai77sen/machidukuri/5kinki/3_kinki_11.html
日本記念日協会
http://www.kinenbi.gr.jp/index2.html
新長田・六間道
http://tamagazou.machinami.net/shinnagata-rokkenmichi.htm
お好み焼き - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%8A%E5%A5%BD%E3%81%BF%E7%84%BC%E3%81%8D

金環食

$
0
0

画像クリックで拡大

皆さん昨日の金環食どのように観察しましたか。
私は、観賞用の眼鏡がないので、テレビでしましした。
一番きれいに見えるという和歌山県串本町で徐々にリングが出来ていく様は本当に感動しました。
7時27分にピークを迎えた。
実物写真が、撮れなかったので、テレビの画像を撮って残しておくことにしました。
時間まで入っていて変化していくさまを記録するには都合がいいですからね(^0^)。
金環食が次に国内でみられるのは2030年の北海道、関西では京都や滋賀で1941年のことらしい。また、今回のような広い範囲でみられるのは300年後というから、もう、私などは見ることが出来ないだろうな。

松尾芭蕉が「閑さや岩にしみ入る蝉の声」の句を詠んだ

$
0
0
「閑(しずけさや)や岩にしみ入る蝉の声」
この句は、江戸時代前期の俳諧師松尾芭蕉が、1689(元禄2)年5月27日(新暦7月13日)に、山形市立石寺(山寺)(正式には宝珠山阿所川院立石寺)に参詣した際に詠んだもので、紀行文集『奥の細道』に収録中の最も優れた発句の一つとされている。
初案は、随伴した河合曾良が記した『随行日記』に記されている「山寺や石にしみつく蝉の聲」(『俳諧書留』曾良)であったらしく、後には「さびしさや岩にしみ込む蝉の聲」(『初蝉・泊船集』)となり、現在のかたちに納まったのはよほど後のことらしい(※1「芭蕉DB」の奥の細道立石寺参照)。
1925(大正15)年、山形県出身の歌人斎藤茂吉はこの句に出てくる蝉についてアブラゼミであると断定し、雑誌『改造』の4月号に書いた「童馬山房漫筆」に発表。これをきっかけに蝉の種類についての文学論争が起こった。
このアブラゼミと主張する茂吉に対し、東北帝国大学の教授で夏目漱石の門下だった小宮豊隆は「閑さ、岩にしみ入るという語はアブラゼミに合わないこと」、「元禄2年5月末は太陽暦に直すと7月上旬となり、アブラゼミはまだ鳴いていないこと」を理由に、この蝉はニイニイゼミであると主張し、大きく対立するなど、白熱した蝉論争が起こるが、その後茂吉は実地調査などの結果をもとに二人のあいだでは小宮が主張したニイニイゼミで決着したようだ(※2、※3参照)。
ただ、芭蕉と門人の河合曽良(そら)が、尾花沢から取って返して立石寺を訪れたのは、それまで滞在していた尾花沢の人々の勧めがあったためと芭蕉は記す。つまり、当初は立石寺を訪問する予定はなかったようである。
みちのくを旅するにあたって、曽良は松島をはじめとする東北地方の行脚予定コースの歌枕(古くから和歌に詠まれた名所旧跡)について、延喜式神名帳抄録(抄録=要約)および名勝備忘録を用意して旅に出た(※4:「曽良と歩く奥の細道展」河合曽良略年譜参照)と言うが、立石寺は歌枕ではなかったことから この「名勝備忘録」に立石寺についての記載がなく、立石寺訪問が予定外であったことを裏付けている。詩歌に無名であった立石寺が芭蕉のこの句によって、その後、霊場立石寺という「俳枕」(俳句に詠まれた名所・旧跡) として、詩歌の地誌の上に登録されていくことになった。
私も、東北旅行時に一度だけ立石寺を訪れたことがあるが、聳(そび)え立つ岩山に堂が点在する山寺の風景に、中国の山水画に描かれた深山幽谷を見た思いがして感動したものだった。(写真等※5参照。案内図にマウスポイント当てると画像が拡大する)。
芭蕉も尾花沢から立石寺へ訪れ、到着後、まだ陽が残っていたので、麓のに宿を借りておいて、山上の御堂に上ったという。
当然、百丈岩に聳え立つ慈覚大師のお堂(開山堂)や、その堂から上へ到る細い階段を登ったところにある、慈覚大師が五大明王を安置して、天下泰平を祈る道場として使用したという五大堂からのすばらしい光景を見て感動したことであろう。
ただ※3の中でも、芭蕉が立石寺を訪れた太陽暦の7月13日頃の山形に出現しうる可能性のあるセミの種類の中で、アブラゼミの出現は7月中旬〜8月下旬頃であり、7月13日というと「アブラゼミは初鳴きがぎりぎりのところ」ともあり、芭蕉が訪れた時には、アブラゼミの数が多いか少ないかは別として、アブラゼミが鳴いていたかもしれない。そのことに関連して、※1:芭蕉DBでは、この句の論争でセミ以外の岩のことには触れられていないことや、このようなセミの種類や数論争で物議をかもすのも、この句の偉大さであり、言葉のプロとしての芭蕉の偉大さの故かもしれない。・・ことを指摘してしている。
芭蕉は山寺を訪れ、挨拶(俳諧でいう挨拶については、※6.※7参照)として、最初に詠んだのは「山寺や石にしみつく蝉の聲」であり、その後、推敲に推敲を重ねた末に「閑さや岩にしみ入る蝉の声」が奥の細道に掲載されるのだが、そこには、深い訳があるだろうが、そこらあたりの説明が詳しくは書かれていない。
そこで、ネット上で、この句をもっと詳しく解析しているものを探していると、以下参考に掲載の※8:古代文化研究所による「奥細道俳諧事調」が見つかった。一度、立石寺を訪れた者としては、その解説を読んでいて、さもあらん・・・とよく納得できたので、そのエキス的なところを以下へ抜き書きさせてもらおう。
芭蕉が吟じたのは、昼なお暗い仁王門や釈迦堂下のせみ塚あたりの景色である。そこには、立石寺の法宝である百丈岩が屹立(きりつ)している。だから、「閑さや岩にしみ入る蝉の声」は、奥の院や開山堂や五大堂を見終わった帰りの吟であることが分かる。なぜなら、屹立する百丈岩の大岩の上に開山堂が鎮座坐(ちんざましま)することを、芭蕉は意識して句作しているからである(立石寺境内位置図は※5参照。)。
芭蕉が初案であれほどこだわった挨拶を捨てて、「閑さや岩にしみ入る蝉の声」と改変したのは、臨場感を捨てて、内実にこだわったからであろう。宝珠山阿所川院立石寺として、清和天皇の御代から、延々と続く法統(仏語。仏法の伝統。仏法の流派。法流)を尊重した結果に他ならない。「閑さや」の上五が表すのは、立石寺境内全体が醸し出す雰囲気である。ここに切れ字「や」があるのは、「閑さや」と、句頭に立石寺境内全体の雰囲気を述べたのを一端、言い切る必要性が存在したからである。念の為に言うと、立石寺境内全体の雰囲気と言うのは、見て感じ取るものである。芭蕉は、あくまで立石寺の見目を表現しているのであって、何も音がしないとか、閑静であることを強調しているわけではない。
立石寺境内は、何と落ち着いて、安定していることか。それもこれもすべて、開山以来、連綿と数百年も続く法灯が醸し出す雰囲気が「閑さや」であって、一朝一夕に出来上がるものではないことが言いたいのである。また、それは現在の立石寺境内から、決してうかがい知れるようなものではない。現在の立石寺は当時の立石寺の完全なミニチュア版でしかない。元禄時代、ここには壮大な寺院伽藍が存在していたし、膨大な数の僧侶が氾濫していた。ある意味、立石寺は当時、僧の町であり、殷賑(いんしん=にぎやかで、繁盛しているさま)を極めていた。その賑わいは、到底現在の立石寺には存在しないものである。それでいて、寺はしっとりと落ち着いている。現在の閑散とした立石寺からは、「閑さや」の風情は想像すら出来ないであろう。芭蕉はそれを 「閑さや」と詠んだのである。立石寺の殷賑ぶりが「閑さや」の表現となっている。・・・(中簡略)。この句での、眼目は「岩」そのものであって、「閑さや」や「蝉の声」ではないし、まして「しみ入る」などではない。
そして、多くの著作が「蝉の声」を殊更取り上げて説明・解説したりしているが、それは全くの勘違いに過ぎない。俳諧を知らない者の仕草である。俳諧で最も肝要なのは、季節ではないし、切れ字(「ぞ」「かな」「や」「けり」「ず」「ぬ」「らむ」など、Wikipedia の俳句区切れ参照)でもない。それは挨拶である。その挨拶を無視する限り、俳諧を味わうことは不可能である。芭蕉は、この「岩に」の表現で、立石寺に挨拶しているのである。」・・・・と手厳しい。
「閑さや岩にしみ入る蝉の声」は、極めて芭蕉の思想性が色濃く出ている作品となっており、この句については、王籍の詩、「入若耶渓(じゃくやけいにいる)」との関係がよく知られているという(王籍の詩の解析と芭蕉の句のことは、※9を読めばよく分かる)。兎に角、芭蕉の句は素直ではない。かなりひねったものが多い。芭蕉の「閑さや」の句について、古代文化研究所「奥細道俳諧事調」では非常に詳しく解説されているので、関心のある方は是非一読されると良い。
「俳句とは何か」という、本質的問いに対する答えは多数存在するようだが、その中で、俳句評論家の山本健吉はエッセイ「挨拶と滑稽」のなかで、俳句の本質として3ヶ条をあげており、それが「俳句は滑稽なり。俳句は挨拶なり。俳句は即興なり」である。ここで述べている「挨拶」は山本が言っているところの「挨拶」のことであろう(※6.※7参照)。
セミ(蝉)は、あの臭いカメムシ(亀虫)の仲間、つまり、カメムシ目(旧・半翅目)に分類される昆虫の総称であり、ヨコバイ亜目とも近縁で、樹木に止まってる姿をよく見ていると横に這っていることがある。蝉の卵は木の枯れ枝や、樹皮などに産み付けられ、産み付けられた卵はその年の秋、または年を越して翌年の初夏に孵化する。卵から孵(かえ)った幼虫は地上に降り、すぐに土の中へ潜って木の根にとりつき、数年間、針のような口を木の根に差し込んで樹液を吸いながら過ごした後、夏の夕方頃、地上に出て木に登り、羽化して成虫となる不完全変態をする虫である。山に近い我が家の小さな小さな裏庭でも時期になると、朝起きて庭に散水していると、こんなところにと思う小さな木に蝉の抜け殻や抜け出たばかりの成虫を見つけることが多くある。
日本の場合、気象庁の梅雨明けとともに始まる蝉時雨。
「時雨(しぐれ)」とは、「過ぐる」から派生した言葉で、初冬に降る雨。多くの蝉が一斉に鳴きたてる声を時雨の降る音に見立てた語として使われる。
成虫が出現するのは主に夏だが、ハルゼミのように春(4月ごろ)に出現するものなどもいる。温暖化が進んだ近年では、東京などの都市部や九州などでは、10月に入ってもわずかながらセミが鳴いていることも珍しくなくなった。
蝉時雨を演出してくれるのは、東日本ではアブラゼミ(油蝉)、西日本ではクマゼミ(熊蝉)が主役のようだ。
蝉時雨と聞くと、なんとなく来心地よい鳴き声のようにも聞こえるのだが、近年の猛暑続きの中では、クマゼミや夜のアブラゼミの鳴声は、やや不快音に思えたりもする。
関東以西の大都市などでは環境の変化やヒートアイランド現象等によりアブラゼミの生息数が減少しているという。一方、北陸地方など近年アブラゼミの勢力が著しく強くなっている地域もあるようだ。
ミンミンゼミは、アブラゼミやクマゼミと比べると暑さに弱いらしが、そういえば、猛暑の続く1〜2年我が地元神戸では、山に近い我が家でも、ミンミンゼミの鳴声を聞かなくなったように思う。
蝉は、幼虫として地下生活する期間はまだ十分には解明されていないようだが、3〜17年(アブラゼミは6年)に達し、短命どころか昆虫類でも上位に入る寿命の長さをもつともいわれているようだ。成虫になってからの期間は1〜2週間ほどと言われていたが、これは成虫の飼育が困難ですぐ死んでしまうことからきた俗説らしく、野外では1か月ほどと言われているようだ。
日本では、種毎に独特の鳴き声を発し、地上に出ると短期間で死んでいくセミは、古来より感動と無常観を呼び起こさせ「もののあはれ」の代表だった。蝉の抜け殻を空蝉(うつせみ)と呼んで、現身(うつしみ)と連して考えたものである。
吉田兼好の随筆『徒然草』中でも有名な第7段“あだし野の露消ゆる時なく”では強烈に無常観を主張しており、以下のような形でセミが登場している。
「蜻蛉(とんぼ)は朝に生れて夕べには死ぬ(のに、人間は何時までも長生きしている)。また、夏のセミは秋を知らないほどに短命だ。
しみじみと一年を暮らせば、豊かな時間が過ぎていくのだ。逆に、命を惜しいと思って生きていると千年生きても短いと思うだろう。」・・・と(※10参照)。
また、芭蕉は奥の細道の旅から戻った翌年1690(元禄3)年、、4月〜7月(陽暦の5月〜9月)までの4か月を滋賀県大津市国分山の幻住庵に暮らし、その間の暮しぶりや人生観などを『幻住庵記としてまとめ翌年7月刊行の『猿蓑』に収めている』(※11:「私の芭蕉記」の”私の幻住庵”で、『幻住庵記』の全文が読める)。
この幻住庵に金沢の門人秋之坊(※1:「芭蕉DB」関係人名集参照)という僧が訪ねてきたときに、芭蕉が見せた句に以下の句がある。
「やがて死ぬけしきは見えず蝉の声」
前詞に「無常迅速」とあるとおりこの頃芭蕉は佛頂上人(※1:「芭蕉DB」関係人名集佛頂和尚参照)の影響か仏教へ傾斜していたという、(※1:「芭蕉DB」芭蕉句集参照)。
やがて死ぬのは、蝉なのか、芭蕉自身なのか、秋之坊なのか、おそらくそのいずれでもあるのだろう。生あるものは必ず死ぬ。この句は、まさに「閑けさや」の句以上に、命の儚さに対するこだわりが強烈ににじみ出ている。
目をつぶればすでに眼前のけしきは消え失せ、ただ蝉の声だけが聞こえてくる。今この時、この一瞬を鳴く蝉の生き方こそが、生を得たものの自然な生き方である。・・といった意味だろう。
佛頂上人は、芭蕉参禅の師らしい。前詞にある「無常迅速」とは、禅の言葉、『生死事大(しょうじじだい)無常迅速(むじょうじんそく)各宜醒覚(かくぎせいかく)慎勿放逸(しんもつほういつ)』からのもので、その意味は「生死は仏の一大事、時は無常に迅速に過ぎ去っていくから、各人はこのことに目覚めて、弁道精進(ひたすら仏道修行に励むこと、※12参照)につとめ、無為に過ごしてはいけない」。叩いて合図をするだけではなく、その音声で心をも目覚めさせようとの意味が込められているのだそうだ(※13:「長泉禅寺HP」の不立文字>生死事大 無常迅速を参照)。
従って、「この道や」の句の「この道」には、芭蕉が、尊敬して止まない芸道の先人たちが切り開いた道のことをも意味しており、そこに現在は誰もいないことを嘆きつつも、しかしいつかは時と所を越えて、必ず「この道」を辿る者が現れることを信じて、死んでいく己の生き様・・・といった芭蕉の奥深い思想が込められているようだ。芭蕉は、この句を詠んで一ヶ月後、51歳のけっして長くはない生涯を終えた。
蕉風と呼ばれる芸術性の極めて高い句風を確立し、俳聖として世界的にも知られる、日本史上最高の俳諧師の一人に上り詰めた芭蕉の「辞世句」ともなった「この道」の句。立石寺で詠んだ「閑や」の句同様の推敲を重ねてこの秀作が出来るまでの解説を、以下参考の※14:「芭蕉の辞世句「この道」」で詳しく書かれている。
ところで、彫刻家である一方、『智恵子抄』などの作品で知られる詩人の高村光太郎は、好んで蝉を彫り、また詩作の中にも「蝉を彫る」がある(参考の※15に、セミの彫刻と”蝉を彫る”の詩あり)。
よほど蝉の造形に感心が高かったようで、「私はよく蝉の木彫をする。……」という書き出しで始まる随筆『蝉の美と造型』(※16の青空文庫参照)の中で、何故蝉を彫るのか、蝉の魅力について熱く語っている。
そこでは、蝉の線の魅力に言及し、更には蝉の表現方法を通して「真の美」のあり方まで述べられており、高村によると、あの蝉の薄い翅をそのまま薄く彫ってしまっては下品になる。薄い物を薄く彫るのは浅はかで、むしろ逆なくらいがよいという(セミの彫刻は、※15参照)。
そして、「埃及(エジプト)人が永生の象徴として好んで甲虫スカラベイ)のお守を彫ったように、古代ギリシャ人は美と幸福と平和の象徴として好んでセミの小彫刻を作って装身具などの装飾にした。声とその階調(かいちょう)の美とを賞したのだという。」・・・とも記されている。

上掲の画像は、王家の谷の壁画に描かれたスカラベ(Wikipediaより)中国では地中から出てきて飛び立つセミは、生き返り(蘇生、そせい)、復活の象徴として、玉(翡翠参照)などをセミの姿に彫った装飾品が新石器時代から作られてきた。また、西周ごろには、地位の高い者が亡くなった際にこのような「玉蝉」を口に入れて埋葬し、復活を願う習慣が生まれたという。これは、古代エジプトのスカラベと同じようなものだったかもしれない。
そしてまた、光太郎は、「蝉時雨(せみしぐれ)というような言葉で表現されている林間のセミの競演の如きは夢のように美しい夏の贈物だと思う。セミを彫っているとそういう林間の緑したたる涼風が部屋に満ちて来るような気がする。」と言っている、※15の詩”蝉を彫る”には、セミへの洞察と想いが、彫刻を通して語られ、興味深いものがある。
蝉の鳴き声は、現在でも夏を連想させる効果音として映画やドラマなどで多用されるが、映画やドラマにもなった藤沢周平の『蝉しぐれ』にも、いくつか蝉の鳴く光景がでてくる。
 
上掲の画像は映画「蝉時雨」チラシ。マイコレクションチラシより)藤沢周平(本名:小菅留治)は、山形県鶴岡市出身である。
小説は海坂藩を舞台に、政変に巻きこまれて父を失い、家禄を減らされた牧文四郎青年の過酷な境遇をひたむきに生きる姿が描かれている。作者創造による架空の藩海坂藩は、藤沢の出身地を治めた庄内藩とその城下町鶴岡がモチーフになっていると考えられている。
物語は、蛇に噛まれたおふくを救う「(かなわぬ)「恋のはじまり」で始まり、前半のクライマックスは、の政争に破れた父の斬首の場に少年がたった一人でおもむき、遺骸を引き取り、夏の城下を歯を食いしばって父をのせた荷車をひく。そこにかけよった少女おふくが涙を浮かべつつだまって荷車を押しはじめるシーン。 蝉しぐれの題名が、このシーンに見事に重なる。
最終章は、小説全体のタイトルと同じ「蝉しぐれ」で終わる。おふくと再会し、二人はお互いの人生を振り返り、共に生きる道はなかったのかと思いあうのだが、ままならぬのが人生。福と別れた文四郎に、黒松林の蝉しぐれが耳を聾(ろう)するばかりにふりそそぎ、福とともに過ごした幼少の頃の雑木林の風景が脳裏に浮かんでくる。ひと時、幻想の中で過ごした文四郎は、現実にたち戻るため、真夏の太陽が照らす野の中に馬腹を蹴って、熱い光の中に走り出ていくシーン。全編に静謐(せいひつ)さと夏の熱い空気が漂っている。
長編小説『蝉しぐれ』の初出は1986年(昭和61年)7月から1年間、山形新聞の夕刊連載であった。この時代は、都心の土地高騰が地方にまで広がり、日本中がバブル経済に狂乱していた時代であった。藤沢は自分自身の前半生の体験のつらさを込めて、誇りを失わずに逆境に耐える人間を描いているが、特に魅力的なのが、舞台となって出てくる架空の海坂藩であり、そこには、かって、存在した日本の原風景があった。戦後の社会からは消えていった日本人の心や暮らしのたたずまいが伝えわり、現代人の心にある懐かしさをかきたてた。経済優先の現代の世の中にあって、精神的に癒されるのが藤沢作品の特徴だろう。
最後になったが、『イソップ寓話集』の中でも、日本で特に有名な寓話「アリとキリギリス」は、元は「アリとセミ」だということは、よく知られているが、以下参考の※17:「インターネットで蝉を追う」では、“セミがどうしてキリギリスになったのか”・・・といったことなど詳しく書かれている。又、そこでは、怪談雪女」や「耳なし芳一」でなじみの深い明治の文豪・小泉八雲の随筆『蝉』の紹介もしている(特別付録 ラフカディオ・ハーン小泉八雲)『蝉』を参照)など、蝉のことは非常に詳しく書かれていてなかなか面白い。
このブログを見ている人は、何故、梅雨にも入らない早くから蝉のことを書いているのか。どうせ書くなら、7月の梅雨明け頃にでも書けば時節に合っていていいのに・・・・と、思うかも知れないが、日本の蝉とエジプトの蝉の違いや西洋人と日本人の蝉の鳴声の感じ方のちがいなど『蝉』も色々調べると奥の深いもの。
梅雨が明けると本格的にセミの季節がやってくるガ今年は梅雨入りが早いというから梅雨明けも早いのだろう(※18)。
今年の夏は、電力不足で暑い夏になり暑さをしのぐのが大変そうだ。その前に、蝉のこと色々と調べて、新しい知識を持った上でセミの声を聴くと、蝉時雨も、ただうるさいものとは感じず、心地よい音色として聴こえるかも知れない・・・などと思ってね。

(冒頭の画像はアブラゼミ。Wikipediaより)
参考:
※1:芭蕉DB
http://www2.yamanashi-ken.ac.jp/~itoyo/basho/basho.htm
※2:閑さや岩にしみ入る蝉の声 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%96%91%E3%81%95%E3%82%84%E5%B2%A9%E3%81%AB%E3%81%97%E3%81%BF%E5%85%A5%E3%82%8B%E8%9D%89%E3%81%AE%E5%A3%B0
※3:蝉(せみ) - 万葉の生きものたち
href=http://www.bioweather.net/column/ikimono/manyo/m0508_1.htm
※4:曽良と歩く奥の細道展(諏訪市博物館)
http://www.city.suwa.lg.jp/scm/dat/kikaku/data_files/html_dat/H11_sora/index.htm※5:山寺の由来[ 山寺観光協会]
http://www.yamaderakankou.com/origin/
※6:日本俳句研究会:俳句作り方>俳句は挨拶
http://www.jphaiku.jp/how/aisatu.html
※7:俳句用語
http://thatgirlnextdooruk.blogspot.jp/2012/05/blog-post_06.html
8:古代文化研究所-奥細道俳諧事調
href=http://blogs.yahoo.co.jp/yan1123jp/folder/1131267.html
※9:季節のことば -音の句
http://blogs.yahoo.co.jp/bgydk072/archive/2011/10/1
※10:徒然草DB
http://www2.yamanashi-ken.ac.jp/~itoyo/tsuredure/turedure_index.htm
※11:私の芭蕉記
http://www.intweb.co.jp/miura.shtml
※12:長泉禅寺HP
http://www3.ic-net.or.jp/~yaguchi/index.htm
※13:弁道話 - つらつら日暮らしWiki〈曹洞宗関連用語集〉
http://wiki.livedoor.jp/turatura/d/%CA%DB%C6%BB%CF%C3
※14:芭蕉の辞世句「この道」
http://www.st.rim.or.jp/~success/konomiti_ye.html
※15:東北文庫 高村光太郎 「詩集・造形詩編」
http://www.touhoku.com/00x-52tk-touhoku-zoukeisi.htm
※16:青空文庫:高村光太郎「蝉の美と造型」
http://www.aozora.gr.jp/cards/001168/files/46374_25629.html
※17:インターネットで蝉を追う
http://web.kyoto-inet.or.jp/people/tiakio/cicada/preface.html
※18:気象庁 | 平成24年の梅雨入りと梅雨明け(速報値)
http://www.data.jma.go.jp/fcd/yoho/baiu/sokuhou_baiu.html
生き物調査「セミの図鑑」
http://web2.kagakukan.sendai-c.ed.jp/ikimono/neo/zukan/semi/zukan_semi.html
プレスリリース / 環境省、平成20年10月16日「いきものみっけ」夏の実施結果について(速報)
http://www.env.go.jp/press/press.php?serial=10292
俳句の作り方 〜初心者入門と定型・切れ字・季語〜
http://haiku-nyuumon.com/

虫歯予防デー

$
0
0
今日6月4日は、「虫歯予防デー 」
日本歯科医師会(※1)が1938年まで実施していた日で、現在では厚生労働省が6月4日から10日までを「歯の衛生週間」としている。日本記念日協会(※2)では虫歯予防の大切さを訴える日として、2001(平成13)年よりあらためて記念日に制定したものだという。日付は6と4で虫歯の「虫」と読む語呂合わせから。
歯の衛生週間には、歯の衛生に関する正しい知識を国民に対して普及啓発するとともに、歯科疾患の予防処置の徹底を図り、併せてその早期発見、早期治療を励行することにより歯の寿命を延ばし、国民の健康の保持増進を寄与することを目的とし、昨:2011年度(平成23年度)は「みがこうよ 未来へつなげる じょうぶな歯」の標語のもと、全国各地で地域住民参加型の各種啓発事業を展開。本年度・2012(平成24)年の重点目標は、
(A)生きる力を支える歯科口腔保険の推進
(B)生涯を通じた8020運動の新たな展開
となっている。詳しくは、平成24年度実施要領【PDF】を参照。
冒頭の画像は、歯の衛生週間ポスター。平成24年度 「歯みがきは じょうぶなからだの第一歩」。画像は日本歯科医師会HPより借用。
(A)の“歯科口腔保険”とは、歯科疾患の予防などを推進し、口腔(口のこと)の健康保持を総合的に行うための法律であり、昨・2011(平成23)年8月10日に公布・施行された「歯科口腔保健推進法」のことを言っているのだろう。
(B)の8020運動は、1985(昭和60)年 愛知県豊田市で行われた調査にて、10本以上の歯の喪失で半分以上の人がもっとも硬い食品の一つとされていた古タクワンや酢蛸を食べることができないことが判明。80歳の喪失歯10本以下を目標にする事が、提唱され、1989(平成元)年、 愛知県にて目標を残存歯20本以上とする8020運動が開始された。この年の成人歯科保険対策検討会の報告で8020運動が取り上げられ、これ以降この運動が全国に広またようだ。その後、厚生労働省の「 21世紀における国民健康づくり運動」(通称健康日本21)や歯科医師会も8020運動を積極的に推進し、2000(平成12)年には8020推進団体も設立され(※3参照)、2010(平成22)年までに20%以上の高齢者が20本以上の歯を残せるよう目標が定められた。
※1:「日本歯科医師会HP」によると、この8020運動の達成率は、運動開始当初は7%程度(平均残存歯数4〜5本)であったが、厚生労働省の調査(2005 〔平成17〕年歯科疾患実態調査)によると、80歳〜84歳の8020達成率は21,1%で、85歳以上だと8,3 %にまで伸びてきており、また、厚生労働省の「健康日本21」では中間目標として8020達成率20%を掲げていたが、2007年(平成19)年に出された中間報告では、それを上回る25%を達成しているという(※4参照)。
(英: tooth)は、口腔内にある租借するための一番目の器官である。
今、問題視されている生活習慣病メタボリックシンドロームの予防を進めるための基本は「バランスの取れた適切な食生活」であり、食事をするときに重要な働きをするのが歯である。もし、歯に問題が発生するとよく噛めなかったり、満足に食事を摂取することができなくなり健康に影響を及ぼすということはよく理解できるし、そのために歯の手入れをすることの大切さも良くわかる。
ただ、私は、こんな分野の専門家ではないのでよく分からないが、ほんとうに、歯が多く残っている人の方が健康で長生きしているのか?と言うことについては、ネットで調べていると“歯の残数が健康的である理由”の全てであるとは言い切れない状況のようでもある(※5の「8020」の人のほうが健康なのですか?参照)。
※6:「8020健康長寿社会は実現するか」によると、“内科医に言わせると“全身が悪いと目も悪いし、歯も悪いし、腎臓も肝臓も悪い。歯と全身の臓器に相関関係があるのは当たり前ではないか。それを因果関係に遡るだけのデーターを持っているかと言われる。“・・という。
内科(内科学、internal medicineの略称)は一般に内臓に原因する疾患を主として薬物療法により治療する臨床医学の一部門とされるが一応、病気全般を対象としている(専門分野への細分化も進んでいる)が、医科の場合は全身の健康、生活習慣病というかたちでメタボリックシンドロームは次に派生してくる糖尿病や心臓病などの予防になるので、生活習慣を改めながら疾病予防するというテーゼ(ドイツ語These。活動方針となる綱領)を出した。
しかし、口腔細菌学に関しては歯科の独占事業であり、歯科診療では口腔(口のこと)由来の細菌の攻撃から歯と全身を守るところを取り扱っているので、内科とはまったく異なる患者指導ができると思う・・・というが、本当に歯科診療で、8020というのは、ここがガードすべき生活習慣の内容ですといった疫学的な因果関係の調査データーを出して、患者の健康指導をしてゆくような方向性があるのだろうか・・・。食と歯、そして、健康に相関関係があるだろうことは理解出来ても、この辺のところは私には、よく分からないところでもある。
医学の専門家でもないので、余り難しいことをこれ以上書けるわけもないので、ちょっと、砕けた話に戻そう。
突然襲ってくる虫歯の痛みは強烈。夜中に歯が急にうずきだして、朝まで眠れずに苦しんだという経験を持つ人も多くいるのではないか。
歯痛の原因には色々ある(※7)ようだが、子供の頃先ず、経験するのがう蝕(うしょく。一般的に虫歯という。以後、虫歯と呼ぶ。虫歯についてはここも参照)だろう。
子どもは甘いものが好きだし、手入れも十分しないので、乳歯は、むし歯にかかりやすく、その進行も速い。乳歯の虫歯の進行による痛みは比較的少なく、気づかないうちに歯髄(しずい)全体、または根尖(こんせん。歯根の先っぽのこと)周囲組織にまで炎症が広がってしまう。
そんな虫歯は、私などの年代の者なら、よほどのことがないと歯医者には行かず、歯を指でぐらぐらさせたり、糸で巻いて引っ張ったりしながら悪戦苦闘の末自分で歯を抜いていた。ただ、ぐらぐらしていても、なかなか抜けない歯は、歯医者に行って抜いてもらうのだが、医者に行くと抜歯には 注射器で局所麻酔をし、ペンチらしきものでゴリゴリ抜かれる。その時、メリメリという音が聞こえるし、また歯の麻酔って痛いのよね〜。それに麻酔で唇がたらこのように腫れる。今は、どんな抜き方をしているのか知らないが、子供時代に、そんな厭な経験をしているから、私たちの年代の人には、歯医者が好きな人はあまりいなかったような気がする。
だから、私は、60近くになるまで殆ど歯医者には行ったことがない。余り歯の手入れもしていないのだが歯質が丈夫なこともあったようだ。
それが、60前になって、あるとき急に、傷みもしないのに、歯がポロポロと数本同時に抜け落ちてしまった。驚いて、近所の歯医者に飛んで行くと、歯槽膿漏(今は、歯周病、以後歯周病という)だといわれた。このようなことになるのは、私のような歯の丈夫な人に多いといわれた。歯質の弱い人は、医者に行くので、医者から歯の手入れを指導されるのだが、私の場合は、医者に行っていなかったので歯周病の進行に気がつかなかったのだ。その後、又、直ぐに数本抜けて、今は取り外し式の部分入れ歯を上下ともに利用しているが、ブリッジをかけている犬歯の根は浅く、今にも抜けそうになっている。これがなくなると大変なので、今は、歯間ブラシと歯医者で進められた先の尖った歯ブラシ、それに普通の歯ブラシの3種類を使って、朝昼晩、3度必ず歯磨きもし、定期健診にも行き、歯磨きの仕方など指導も受けている。残念ながら、まだ80歳にはまだまだなのだが、残歯は20本もない。・・・・でも、いたって健康である。
現代、歯を失う原因の約9割が虫歯と歯周病だといわれている。虫歯の原因は複雑で、不明の点も多いようだが、おもに、口の中の食べ物の残渣(ざんさ。残りかす)についた細菌や、発酵作用によって作った乳酸やある種の蛋白質を溶かす性質の細菌が、エナメル質象牙質を分解、破壊することにより起こるといわれている。 歯周病は、歯の根元にある歯肉のふくろ(歯周ポケット)に膿がたまり、骨が侵されるために、膿がでたり、歯が浮いて抜けたりする病気で、歯石、細菌の侵入などが発病の主因だといわれており、今では、歯周病も虫歯も細菌の感染が主原因で、それぞれ別の原因菌が存在するようだ。
こんな虫歯も歯周病もその発生の歴史は古く、以下参考の※8:「痛みと鎮痛の基礎知識」の痛みと鎮痛の歴史年表 → 痛み2によると、大英博物館に展示されているエジプトのミイラの中に、虫歯をもつものが多数みつかっており、第4王朝(BC2625? 2510)のミイラ下顎の第1臼歯に2つの穴が開けられていたそうだが、これは、歯膿(歯の根本の)を排出するためにあけられたと考えられているらしい。また、Giza(ギザ)で見つかったミイラにはぐらついた歯を金線でブリッジを架けられているものや、義歯も見つかっているという。そして、古代エジプのメレンプター王(紀元前13世紀)のX線写真では歯周病の罹患が認められている。当時の身分の高い者は、柔らかい食物を食べていたため、歯周病になることが多かったようだ。そして、パピルスの中には、粉歯みがきや、練歯みがきの処方が記載されており、医療には分業があって、歯科の専門家がいたことも書かれているらしい。
虫歯は、とくに砂糖の消費量と密接な関係があるといわれるが、日本でも江戸時代、虫歯は町の庶民にとって珍しくない病気であったが、主因となる甘いものは江戸時代後期には誰でも簡単に買えたし、贈答にもよく用いられたからだろう。又、後年発掘された人骨調査では武家の方が庶民より更に虫歯が多い。身分が高くなるほど、幼少から柔らかいものを食べることが多いので顎(あご)骨や歯の発達も悪かったようだ。

身体のいろいろ
上掲の画像は、幕末から明治にかけてに活躍した浮世絵師で、新聞人でもある落合芳幾の画で、「目 口 耳 鼻 足の話」である(NHKデーター情報部編ヴィジアル百科『江戸事情』第一巻生活編より。前川潔氏蔵とある)。
この画像はモノクロで2枚続であるが、もともとは3枚続の錦絵であり、以下参考の※9:「内藤記念くすり博物館:人と薬のあゆみ−衛生」でそれを見ることができる(ここをクリック)。
この画の正式な題は、「心学身之要慎」(しんがくみのようじん)で、そこでは、“目、鼻、耳、口、手、足など人間の身体の部分が、駄洒落を交えながら、口々に自分が身体の中で一番重要であると言い合っている様子が描かれている。滑稽本作者の仮名垣魯文が文章を書いている。
<体の養生>養生とは肉体ならびに精神の安定をはかることによって健康を保ち、日頃から病をよせつけないような体を維持することです。その原理と方法を述べているのが養生書で、貝原益軒(1630-1714)の『養生訓』(1713年)は、多数出版された養生書の中でも有名でした。それはこの書には、当時の人々が理想として目指すべき生活態度について、具体的な方法が紹介されていたからです。“とある。
当然であるが、当時の人達が、「口」について、ものを食べられることと、話が出来ること以外に、「口の中の歯」のメンテナンスがどれだけ身体の健康にとって重要性を持っていたかまで考えていたかどうかは分からない。
※9:「内藤記念くすり博物館:人と薬のあゆみ−衛生」には、歌川豊国画「歯磨きをする婦人」も掲載されているので漏られるとよい。“歯の清潔を保つために江戸時代の歯ブラシである「総楊枝」(ふさようじ。※10参照)を用いた。房州砂という研磨用の砂や粗塩(粒のあらい、精製していない塩)で歯を磨いた。総楊枝は柳や黒文字など香気のある木が用いられ、神社の境内などで売られていた。”と説明にある。わが国では、身を清めて、口をすすいで神に詣でるという習慣があったため、指に塩をつけて歯をみがく習慣は古来からあった。 奈良時代の仏教伝来とともに楊枝も伝わり、古くから、楊枝を使っての歯の手入れはされていたようである。

上掲の画像は『絵本家賀御伽』(えほんかがみとぎ)にみる「かねやすの店」である。
『絵本家賀御伽』は、享保中期から宝暦期にかけて活躍した大坂の浮世絵師長谷川 光信の狂歌絵本であろう。
江戸の「かねやす」は、口中医師(歯医者)兼康裕悦が、享保年間(1716〜1736)に開いた薬種小間物店で、「乳香散」という歯磨きが代表的な商品であったらしい。画像では、店先に歯磨きの袋を入れた箱が置いてあり、客の求めに応じて、これから出して売るようだ。(NHKデーター情報部編ヴィジアル百科『江戸事情』第3巻産業編」より)。
東 京文京区本郷三丁目交差点角に今も 「かねやす」 という看板を掲げたビルがり、雑貨店を営んでいるようだ(Wikipedia -かねやす参照)。Wikipediaには、“「かねやす」を興したのは初代・兼康祐悦(かねやす ゆうえつ)が徳川家康が江戸入府(天正18 年=1590年8 月1日)した際に従って、江戸に移住し江戸で口中医をしていて、元禄年間に、歯磨き粉である「乳香散」を製造販売したところ、大いに人気を呼び、それをきっかけにして小間物店「兼康」を開業。「乳香散」が爆発的に売れたため、当時の当主は弟にのれん分けをし、にもう一つの「兼康」を開店した。同種の製品が他でも作られ、売上が伸び悩むようになると、本郷と芝の両店で元祖争いが起こり、裁判となる。これを裁いたのは大岡忠相で、大岡は芝の店を「兼康」、本郷の店を「かねやす」とせよ、という処分を下した。本郷の店がひらがななのはそのためである。その後、芝の店は廃業した。そして、「本郷も かねやすまでは 江戸のうち」の川柳が生まれた。“・・・とまるで、「乳香散」の本家争いが、大岡裁きの結果で兼康祐悦が興した「かねやす」が「乳香散」を開発した元祖とされたように書かれているが、
コトバンク-兼康祐元 とはには、”平安時代に『医心方』を編纂した丹波康頼の後裔である兼康家の5代目兼康祐元(かねやすゆうげん)が、江戸芝の柴井町と源助町に薬種,歯薬,香具を商う店を持っていたが、元和3(1617)年に本郷に第3番目の店を出した。そんな、祐元が処方した歯磨粉「乳香散」は元禄時代(一説には享保年間)に別家の兼康祐悦が本郷店で販売すると流行品となり、「かねやす」というと歯磨粉を意味したという。明和ごろから「本郷も兼康までは江戸の内」の句で有名になる。また芝柴井町の店主は代々「祐元」を名乗り,口中医あるいは入歯師としても栄えた。”・・・と書かれており大分違う。私には、どちらがどうなのか信実は分からないが、今日、実際の大岡裁きは、享保12年(1727年)の「白子屋お熊事件」のみで、他は、後に色々な人のものを寄せ集めて作られたものであることは知られており、書かれている内容からすれは、コトバンクの方に信憑性が感じられ、「乳香散」の本当の開発者は「祐元」であるが、それを、別家の兼康祐悦が商売上手に「この薬をもって磨く時は、その白さ銀を敷くる如く、一生口中歯の憂なし」と効能を宣伝し(※11)て、販売し名を成したのだろうと言う感じがする。
江戸時代も元禄時代になるとこの歯磨粉には“兼康の「乳香散」、薬種商の「おもだかやの歯磨」、「箱入り歯磨嗽石香」、松井源水の「市之丞のはみがき」、文化、文政の時代(1804〜1829年)には「松葉じお歯磨」、「団十郎歯磨」、「助六はみがき」美濃屋の「一生歯の抜ざる薬」など多くの歯磨粉が製造、販売された。”・・・とあり、「かねやす」ではなく「兼康」の「乳香散」と書かれている。
この話はここまでとして、次に以下の図を見てください。

上掲の画像は、江戸時代の浮世絵師歌川国貞(三代歌川豊国)の「見立十二乃気候九月」に見る「お歯黒化粧と歯磨き」の図である(画像はNHKデーター情報部編ヴィジアル百科『江戸事情』第六巻服飾編より。画像は榎恵氏蔵とある)。
この画も、モノクロであるが実際は錦絵であり、その絵は、※12:「浮世絵・歌川国貞・見立十二乃気候九月に観る江戸の化粧」で見ることが出来る。見たい人はここをクリックしてください。
現代人にとっては、「真っ白に輝く歯」が美の象徴となっており、お歯黒は、今では、歌舞伎や時代物の映画、テレビでしか見ることは出来ないし、また、気味悪い風俗としか理解されていないだろうが、日本を西欧化しようとしていた明治新政府が、西洋の人達から「お歯黒」を野蛮な風習のように見られたくなかったため出した「お歯黒禁止令」により廃止される明治時代初頭頃までの日本では、 歯を真っ黒に染める化粧、「お歯黒」が大変性的な魅力のある化粧風俗とされていた。
江戸古川柳に「良き娘 おしいことには 歯は黒し」(いい娘なのに残念ながら人妻なのだろうという意)が残っているように、女性は結婚すると歯を黒く染め、一般女性は眉を剃り、遊女は眉を抜いていた。
起源はよく分かっていないが、日本では、古墳に埋葬されていた人骨や埴輪にはすでにお歯黒の跡が見られ、3世紀末に記された魏志倭人伝)などにも「黒歯国」と記載(※13参照)されており、当時すでにお歯黒が行われていたことが伺える。
初期には草木や果実で染める習慣があり、のちに鉄を使う方法が鉄器文化とともに大陸から伝わった。
753年に鑑真が持参した製法が東大寺正倉院に現存するという。 この鑑真が中国から伝えた製造法は古来のものより優れていたため徐々に一般に広まっていったが、その製造法は当初は仏教寺院の管理下にあった。
古代から行われていたお歯黒だが、日本で人々の習慣になったのは、平安時代に入ってからと考えられている。
この時代のお歯黒は、成人への通過儀礼でもあったが、室町時代になると一般にも広がり、時代とともに、既婚女性の象徴となっていった。
「お歯黒」というのは日本の貴族の用語である。「おはぐろ」の読みに鉄漿(かね)の字を当てることもある。御所では五倍子水(ふしみず)という。民間では鉄漿付け(かねつけ)、つけがね、歯黒め(はぐろめ)などともいったようだ。
鉄漿(かね)は歯を染めるのに使う液であり、 主成分は鉄漿水(かねみず)と呼ばれる酢酸に釘などの鉄を溶かした茶褐色の溶液である。これにヌルデの木からとれるタンニンを多く含む五倍子粉(ふしのこ。御婦志之粉)と呼ばれる粉を混ぜて非水溶性にする。主成分は、酢酸第一鉄でそれがタンニン酸と結合して黒くなる。
歯を被膜することによる虫歯予防や、成分がエナメル質に浸透することにより、菌の浸食に強くなり、歯周病の予防にもなるなどの実用的効果もあったとされている。五倍子粉は、市販されていたが、鉄漿水は自分の家でつくったそうだ。大変渋くて臭かったそうで、染めてから直ぐにうがいをしたという。この臭さが江戸時代お洒落な若い女子に敬遠され既婚女性のみがするようになったとも言われる。
上掲の「見立十二乃気候九月」の画像右下には、うがい水をあける耳盥(みみだらい、左右に耳状の取っ手のついた小形のたらい。)の上に、渡し金(耳だらいの上に渡しかけて、お歯黒の道具をのせる真鍮の板)を渡し、その上に金メッキらしい鉄漿盃と四角い漆塗りの箱の五倍子粉入れが描かれ、その横には、うがい茶碗といったお歯黒道具一式が描かれており、鉄漿水と五倍子粉を鉄漿筆で交互に塗って歯を染めている女性が描かれている。お歯黒やお歯黒道具の説明など14:「ポーラ文化研究所:日本の化粧文化」なども、参照されると良い。
お歯黒をつけるためには良く歯を磨いてからでないとうまくお歯黒つけが出来なかった。そのためお歯黒をつけている人はお歯黒と歯磨きの効果とで虫歯が少なかったといわれている。
又、逆に、江戸のダテ男は白い歯が自慢だったらしい。

現物を見る 
上掲の画は以下参考の※15:「早稲田大学図書館・古典籍総合データベース」に保存さている一勇斎国芳(歌川国芳)が描いた3枚続きの諷刺画「きたいなめい医難病療治」の入口の画像である。画像下の現物を見るをクリックすると、データベースにある詳細画像を見ることが出来る。
同データベースに、この画像の解説はないが、以下参考の※16:「浮世絵文献資料館」の藤岡屋日記「き」の◯『藤岡屋日記 第四巻』p134嘉永元年(1848)四月)のところで、「【きたいなめい医】難病療治」国芳画について書かれている。
それによると、“嘉永3(1850)年国芳が描いた3枚続きの「きたいなめい医難病療治」は、通三丁目の版元遠州屋彦兵衛により板行されたとある。
そして、この画には、やぶくすし竹斎の娘で名医こがらしという美人を中心に、足の悪い美女、御殿女中の大尻、あばた顔、一寸法師、近眼、ろくろ首などの難病者を年頃の惣髪の4人の弟子が治療している諷刺画が描かれている。
女中の大尻は大奥の女中で「御守殿のしり迄つめる」という評判が広まり、その絵の評判はさらに増した。近眼は当時の阿部正弘で鼻の先ばかり見えて遠くが見えない、一寸法師は牧野忠雅で万事心が小さいなどと言われた。・・など、市中であまりに評判になったため、国芳は尋問を受けることになったようだ。また、この錦絵を参考にして方々で贋絵(にせえ)が出たという。この画は「判じ物」の技法が用いられており、描かれた人々の裏に隠された意味が理解され評判になったことから、「判じ物」としての作品の巧みさが、評判に評判を読んだようだ。
因みに、やぶくすし竹斎と言うのは、江戸時代初期の仮名草子竹斎』(作者:伊勢の医家富山道冶とされている)に登場する主人公の藪医者のこと言っているつもりであろう。作品は、竹斎が下僕を供に、こっけいを演じながら京から江戸に下る物語で、頓智で病を治し、狂歌で名声を博したという。松尾芭蕉が『野ざらし紀行』で名古屋の談林系の俳諧の席に招かれた時、詠んだ発句「狂句木枯の身は竹齋に似たる哉」中にも見られるように相当知られていたようだ(※17、※18参照)。冒頭の「狂句」は、後日削除したと言われているが、この句は芭蕉が談林俳諧から決別して俳諧の新しい地平を創造した記念すべきものだそうだ(※19)。
さて、本題の歯のことだが、この図の中央前方で、名医こがらしの弟子がむしばと書かれた格子縞の着物を着た町家の女性の口からお歯黒の歯を両手で握りしめた鉗子(かんし)を使って抜こうとしているところを描いている。半身に反り返って女性はそれを必死に耐えているようだ。その女性の手前の懐紙の上には木床義歯(もくしょうぎし)が置かれている、
説明文には、
「はのいたむものは、なかなかなんぎなものでござる、これは、のこらずぬいてしまって、うえしたともそういればにすれば一しょうはのいたむうれいはござらぬて」「これはなるほどよいおりょうじでございます」とある。 “・・・そうだ(以下※11)。
抜歯の光景など見ただけで恐いが、歯が痛んだからと言って、直ぐに抜いてしまい上下ともに総入れ歯にされたのではたまらないよね〜。
※11に、江戸時代の歯痛の方法が色々書かれているが、現代の歯科知識では、このような方法では、あまり歯痛どめに効果がなさそうであるとしている。説明文にあるように、「はのいたむものは、なかなかなんぎなものでござる」で、抜歯しかなかったのかも知れない。
そして多くの歯を失えば、物を食べるのに不自由であり、入れ歯を入れるしかしようがない。
明治時代の初期は、近代歯科医学への転換期であり、従来からの口中医、入れ歯師、西洋歯科医学を勉強し正式な歯科医術開業試験を通った歯科医などが色々といたそうだ。
我が国の現存している最古の総入れ歯は、和歌山市の願成寺を開山した中岡テイ、通称“仏姫”と呼ばれる尼僧のもので、1538(天文7)年に76歳で死去していた。入れ歯は、黄楊(ツゲ)の木を彫った木製入れ歯(木床義歯)で、歯の部分と一体となっていた。又、奥歯の噛む蔓がすり減っていることから、実際に使われていたと想像でき、そして、この入れ歯はX線解析と赤外線分析でお歯黒が施されていたことも判明している。
日本の木床義歯は、食事をしても落ちないように、歯がない上顎の粘膜に吸いつき保持するようにできており、現在の総入れ歯が顎に吸着する理論と同じであり、まさに、世界に類のない日本人の手先の器用さによる「独自の木彫技術」であった。
このように、江戸時代の中ごろには噛める総入れ歯が実用化していたことが窺えるが、その頃の欧米の入れ歯は、食べ物を噛むことがほとんどできない、主として容貌を整えるだけのものであったことから、日本の木製の入れ歯(木床義歯)の技術は、世界で一番古いものだという。
この木床義歯の始まりは、仏師などが彫ったといわれている。江戸期には仏像彫刻の注文が少なくなったため、木彫技術を活かして入れ歯を彫る「入れ歯師」と呼ばれる専門職になっていった。そして、 木床義歯は、鎌倉時代に全国的に普及し、江戸時代には歯が欠けた場合には、その部分の木製の入れ歯(局部義歯という)をつくり、金属のバネを入れて隣の歯に引っかけて維持する現代のような方法も江戸時代に工夫されていた。また、前歯の裏に穴を開け、糸を帳して、隣の歯にしばって維持する方法など独特の技法が完成していたそうだ(※11)。だ が、江戸時代では、まだまだ高価で、なかなか庶民には手が出なかったようだ。
以前から虫歯予防法には、「歯磨き」「砂糖の摂取制限」「フッ化物の利用」の3つの対策が言われてきていた。WHO(世界保健機関)は「フッ化物利用」が虫歯を予防するのに最も科学的に証明された方法である」としている。
2003(平成15)年21月14日、厚生労働省は、健康 日本 21 における歯科保健目標を達成するために有効な手段として「フッ化物洗口の普及」を目的としたフッ化洗口ガイドラインと呼ばれる通達を各都道府県知事宛に送付した(※20、及び※1のここ参照)。これをうけ、国内の地方自治体では、フッ化物洗口の普及についての条例案や決議が可決されている(実行例※21:「北海道子供の歯を守る会」参照)
WHOが虫歯予防法の第1位に推奨しているのは虫歯予防のために水道水のフッ化物濃度を適正濃度にして供給する方法(水道水フロリデーション=水道水へのフッ素添加)が低コストで有効性も高いとしているようだ。
その一方で「フッ素は非常に人体に有害であり、水道水に添加することは許されない」とする反対派の団体や歯科医師・科学者がいるが、すでに導入している米国その他各国の歯科医師学会などは、「フッ素は虫歯予防に有効であり、適量であれば人体への深刻な被害などは一切ない」とする強い立場をとって、今後、さらに広い地域や国々で、水道水へのフッ素添加を大規模に展開していこうとしているようだ。
いったい、どちらが本当のことを言っているのだろうか・・・。
“虫歯予防フッ素の信実”について、以下参考の※22:「THINKER」は、それを、有害であるとしている側の一例だろう。
また、以下参考の※5:「ちょっと変わった歯のお部屋」などは、推進派のようで、被害があるとして反対する人達を否定している。同HPの、“一 般 の 方"用入口の中の水道水フッ素化(フッ素濃度適正化)のすすめ 。又、”歯 科 の 方”の入口の中のフッ素化ニ関連するところを参照されると良い。
その中の、日本口腔衛生学会の姿勢を問うでは、日本口腔衛生学会が「名古屋宣言」(ここ参照)を「訂正」(フッ素化推奨を否定)したことに痛烈に批判をしている。
そして、その背景には、いろいろと陰湿な裏事情が見えるようだという。更に、そこには、やっかいな混乱を起こしたくない、フッ素化支持派の弱腰と混乱を見ていると、その背後に、フッ素化に消極的あるいは否定的と見える大きな「勢力」の存在が見え、フッ素化推奨か反対かが勢力争いで行なわれているようで、とても、学術論争には見えない。・・・という。
世界が水道水フッ素濃度適正化を推奨する中。日本がどうすべきか・・・。日本人の健康を守る問題が、勢力争い他、利害団体等のご都合主義でやられたのではたまったものではないのだが、今問題となっている、関西電力の大飯原子力発電所再稼動問題にしても、その裏には原子力発電を中止したくない原発関係者、国民の安全よりも電力不足を何とかして企業利益を追求したい経済団体、原発設置をしているところの地域住民のエゴ、これら利害団体との関係を優先する霞ヶ関の官僚、これらの指示がほしい政府、や国会議員等々の思惑が国民の生命の安全よりも原子力発電を優先させているように思われるのと同じことだろう。日本の政治家のレベルの低さが問われる時代となっている。
最後に、世界では忌み嫌われる八重歯だが、過去日本だけには「八重歯が可愛い」とした時代があり、我が地元兵庫県出身のアイドル歌手“石野真子”がデビューした時のキャッチフレーズは「百万ドルの微笑」で、トレードマークはタレ目と見事な2本の八重歯だった。他にも、20世紀の八重歯タレントとしては、小柳ルミ子梓みちよ国広富之河合奈保子芳本美代子坂上香織、古くは美空ひばり石原裕次郎なども挙げられる。
しかし、歯科医学的に犬歯には咀嚼時のガイドとして働く重要な役割があり、八重歯の状態ではその役割が果たせず、また、歯磨きもしにくいことからむし歯や歯周病が懸念されなど健康上の問題や、美顔的にも白い歯並びの良い歯が好まれるようになって以降、八重歯は治療・矯正されてきたのだが、最近は人気アイドルグループAKB48板野友美のような片八重歯に憧れて、人工の歯を付けて個性を演出しょうとする「付け八重歯」が若い女性を中心に新たなファッションとなってきているらしい。
セラミックと樹脂でできた特殊素材を歯に張り付けるだけで、飽きればとることが出来るからいいようなものの、今の女性は、化粧だけではなく、まつげや歯まで、足の爪からあちこちへ色んなものをつけて大変だね〜。前に、顔を黒くすガングロが流行したことがあるが、なんなら江戸時代に人気のあった
お歯黒でもやってみないかな〜。虫歯や歯周病予防にもなるらしいし、みんなびっくりして、注目されるので一石二鳥かも・・・?

参考:
※1:日本歯科医師会HP
http://www.jda.or.jp/
※2:日本記念日協会
http://www.kinenbi.gr.jp/index2.html
※3:健康日本21推進全国連絡協議会
http://www.kenkounippon21.gr.jp/kyogikai/kanyudantai/8020zaidan/
※4:健康日本21中間報告
http://www.kenkounippon21.gr.jp/kenkounippon21/ugoki/kaigi/pdf/0704hyouka_tyukan.pdf
※5:ちょっと変わった歯のお部屋
http://www.geocities.jp/go_fluoridation/
※6:8020健康長寿社会は実現するか(Adobe PDF)
http://www.8020zaidan.or.jp/pdf/kaishi/teidan01.pdf#search='8020健康長寿社会は実現するか'
※7:歯痛の原因は何でしょうか?−ハーネット
http://www.j-dol.com/cons/cons/articles/pain.html
※8:痛みと鎮痛の基礎知識
http://www.shiga-med.ac.jp/~koyama/analgesia/
※9:内藤記念くすり博物館:人と薬のあゆみ−衛生
http://www.eisai.co.jp/museum/history/b1500/0100.html
※10:爪楊枝(つまようじ) - 語源由来辞典
http://gogen-allguide.com/tu/tsumayouji.html
※11:神奈川県歯科医師会:歯の博物館
http://www.dent-kng.or.jp/chishiki/museum/
※12:浮世絵・歌川国貞・見立十二乃気候九月に観る江戸の化粧
http://blogs.yahoo.co.jp/yamaguchikomono/3385327.html
※13:おもしろ大辞典[お歯黒の起源]
http://www.sakamoto.or.jp/takafumi-dictionary001-117.htm
※14:ポーラ文化研究所「日本の化粧文化」
http://past.jman.jp/jman/library/kesyo/kesyo10.htm
※15:早稲田大学図書館:古典籍総合データーベース:[難病療治]
http://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/search.php?cndbn=%93%ef%95%61%97%c3%8e%a1
※16:浮世絵文献資料館
http://www.ne.jp/asahi/kato/yoshio/index.html
※17:『竹斎』『東海道名所記』について
http://www2s.biglobe.ne.jp/~Taiju/leaf/200410_chikusai.htm
※18:蕉門俳諧集5、「狂句こがらし」の巻、解説
http://www.h6.dion.ne.jp/~yukineko/haikai05.html
※19;芭蕉DB :野ざらし紀行(名古屋)
http://www2.yamanashi-ken.ac.jp/~itoyo/basho/nozarasi/nozara23.htm
※20:フッ化物洗口ガイドラインについて:厚生労働省、医政発第 0114002 号 健 発 第 0114006 号 平成 15 年1月 14 日
http://www.tkda.jp/kouse.gaidorain.pdf#search='厚生労働省 フッ化洗口ガイドライン'
※21:北海道子供の歯を守る会 外部リンク
http://www.geocities.jp/newpublichealthmovement/savethechildrenstoothhokkaido/link.html
※22:THINKER-健康について’虫歯予防フッ素の信実”
http://thinker-japan.com/husso.html
う蝕- Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%86%E8%9D%95

◎印NHKデーター情報部編ヴュジアル百科『江戸事情』。第一巻生活編。第二巻産業編。第六巻服飾編。

おかあちゃん同盟の日

$
0
0
日本記念日協会に登録されている今日・6月11日の記念日に「おかあちゃん同盟の日」があった。
由来を見ると、昨・2011(平成23)年3月11日の東日本大震災で多くの人が「人とのつながり」「支え合い」の大切さを強く感じた。おかあちゃんが幸せだと家庭も子どもたちも幸せになる。そう信じて毎月この日におかあちゃんたちが集い、語らい、学び、交流を深め、支え合うコミュニティーを作ろうと、岐阜県羽島市の「世界おかあちゃん同盟」(※1)が制定したそうだ。日付は大震災を忘れないとの思いから同じ11日にしたのだという。
東日本大震災では最大遡上高40.1mにも上る大津波が発生し、東北地方と関東地方の太平洋沿岸部に壊滅的な被害をもたらし、警視庁は、2012(平成24)年5月9日現在、死者15,858人(宮城県が約6割)、重軽傷者は6,080人(宮城県が約7割)、警察に届出があった行方不明者は3,021人であると発表している(ただし未確認情報を含む。「東日本大震災における死者・行方不明者の推移」参照)又、地震と津波による被害を受けた東京電力福島第一原子力発電所では、全電源を喪失して原子炉を冷却できなくなり、大量の放射性物質の漏洩を伴う重大な原子力事故に発展。レベル7(※2)と史上最悪となった今回のこの東京電力福島第一原子力発電所事故は、これまで「絶対 安全」とされてきた原発推進派のいわゆる平和のための原子力の安全神話が瓦解し、原子力発電そのものの危険性を明るみにした。
原子力発電所が休止する中、夏の電力不足が心配され、関西電力大飯原子力発電所3、4号機(福井県おおい町)を巡り、安全のためには、節電努力を十分に行なえば危険な原子力発電所を再稼動しなくてもやって行けると、政府や関電とせめぎ合ってきた橋下徹大阪市長も先日、一転、電力使用のピークを迎える夏場だけの限定的・・としながらも再稼働容認に転じてしまった。一旦大飯原発が再稼動すればずるずると継続使用され、又、現在休止中の他の原子力発電所も稼動の方向へ進んでいくだろうことが推測されるだけに、さすが強気で鳴る橋下氏も事実上「負けた」と言っているように、電力不足15%の高い壁に、国民の安全よりも、会社の操業・利益追求を求める経済界の強力な圧力があったのだろう。それに、原子力発電事故による他の地域住民の人達の安全や迷惑などよりも、原発廃止によって失う、電源三法による地方自治体への交付金や職、また、原発関係者を当て込んで営業をしている地元商業者等の利益喪失を嫌う、言うところの、地元エゴ。それに何が何でも原子力発電を稼動させたい電力業界など原子力推進派グループと、それに癒着している経産省などの役人などの強い抵抗があったのだろう。又、それを、本来は国家的見地から判断し正しい方向に導いてゆかなければならないはずの政府、つまり、野田佳彦民主党政権が逆に官僚に操られての腰砕け。国民目線ではなく官僚の描いた原発推進路線を強引に推し進めていこうとしていることに嫌気し、屈してしまったということだろう。それは、野田首相の6月8日夕、首相官邸での勝ち誇ったような記者会見「国民生活を守るため、再稼動すべきだというのが私の判断だ。立地自治体のご理解をいただいたところで、再稼動の手続きを進めたい」との表明にあらわれている。
国民生活を守る・・・?。一体どの地域に住んでいる国民のこと言っているの?福島第1原発の事故で、どれだけ多くの国民生活が破壊されたと思っているのか?
電力供給の約3割りを担ってきた原発を止めてしまっては、日本の社会は立ち行かない。エネルギー安全保障の視点からも原発は、重要な電源だ」・・とまるで、経団連の会長のような発言をしている。
原発事故以来、詭弁ばかり弄して、国民が納得できる専門家による事故原因、安全性などの調査・確認が十分にされているとは言えず、そのことに疑問のある段階で、ことの信実をひた隠しにして、世界一とも言われる地震大国日本周辺では、活断層(※3、※4参照)が活発な活動期に入っており、非常に危険状況にあるといわれる中での、いい加減な操業はこの後どのような大災害を再発させるかも知れない。これは、何とかしなくてはいけないだろう・・・。
又、地震とは別に、社会的には、小子高齢化による諸問題が年々深刻化している。就中(なかんずく=とりわけ)、出生率の低下に歯止めがかからず大きな課題となっており、そのために、子供を生み育て易い環境の整備を勧めていかなければならないのだが、何処に住んでいても地震だけでなく、原発事故にも怯えなければならないような国にしてしまっては、生まれてくる子供たちの将来を一体誰が保障してくれるのだろか?又、そんな大変な時代に生まれてきた子供たちは、正に「宝」であり、そんな、大切な子供を、今の荒(すさ)んだ時代に見られる親を親とも思わないような人間、自分勝手な考えで非道なことを平気でするような人間ではなく、人を思いやる優しい心を持ったまともな人間に育てていくためには、単に、政府や自治体の行なう法や制度の整備だけではなく、世の中の人全員が子育への理解を示し、それぞれの人が それそれぞれの立場で応援をし、協力し合ってゆかなくてはならないだろう。
今日の記念日「おかあちゃん同盟の日」について日本記念日協会の由緒には、“東日本大震災で多くの人が「人とのつながり」「支え合い」の大切さを強く感じた。おかあちゃんが幸せだと家庭も子どもたちも幸せになる”・・・と、書かれているように、私も、成長期の子供にとって母親の存在は、非常に大きく、そんな「おかあちゃん」が真に幸せを感じておれば、家庭も円満にゆくだろうし、子供も幸せを実感できるまともな人間に育っていくだろうと思っている。したがって、そんな幸せな「おかあさん」を一人でも増やしてゆこうする運動なら、それは非常に良いことだと、早速、「世界おかあちゃん同盟」のHPを覗いてみると、世界おかあちゃん同盟とは?“というページの中で、以下のようなことが書かれている。
おかあちゃん同盟とは、
マザーテレサは、「世界平和のために何をしたらいいのか?」という質問に、「帰って家族を大切にしてあげてください」と言われたそうです。
また、「この世で最大の不幸は、戦争や貧困などではありません。人から見放され、自分はだれからも必要とされていない」と感じることなのです。」
と言われています。
「愛の反対は無関心」とも言われたように、この日は、身近な方へ、「愛を贈る日」にしたいと思います。
家族に「愛しているよ」と伝える日。
困っている方がいれば、話を聞くだけでもいい。
何かできることがあれば、できる範囲で何かする。
ささやかなことで大丈夫なのです。
具体的には、様々なこともありますが、お母さん同士で、ピクニックをして、同じお母さん同士語らいあい、交流をするのも、お母さんの心を豊かにするかもしれません。・・・・と。

これは良いを言っている。昨年の東日本大震災では、多くの人達が家を、職を、そして家族や友人達をもなくし、バラバラになってしまった。そんな被災者のために何かしらお役に立ちたいと多くの人達がボランティアとして駆けつけた。日本で、このように全国から大勢のボランティアが被災地に駆けつけたのは、1995(平成7)年の阪神・淡路大震災からのことで、そこからこの年を、「ボランティア元年」とも呼ばれている。
そして、人と人の結びつき「絆」(きずな)の大切さが言われ始めたが、東日本大震災では、よりその重要性が見直され、昨・2011(平成23)年の京都清水寺の世相を漢字一字で表す「今年の漢字」にも「絆」が選ばれた。しかし、一方で、被災地のために協力したいと言いながら、自分たちに直接影響があるとそれを拒否する・・といったこと、つまり、風評により、放射能汚染された現地商品の購入を控えたり、瓦礫の広域処理拒否といったことが見られ、又、先にも述べた、原発再稼動が危険だと反対する周辺の住民に対して、安全面より、目の前の利益を優先し、受け入れを容認しようとする地元住民達のエゴ。これらを見ていると、「絆」と言うものの不安定さや弱さを感じざるを得ない。
戦後の高度経済成長時代から、核家族化が進み、そこへ、サラリーマン(特に男性)の単身赴任や家から外に出て働く女性(主婦)も増え、かって見られた家庭での団欒(一家団欒)さえも失われてゆく。それが、家庭そのものがネグレクト機能不全家族などという言葉で表されているような家庭の構成員同志が一般的な家族として付き合うことすらできていない家庭崩壊状況へとつながり、そこから、家庭内暴力や特に、近年になってから社会問題となっている無縁社会モンスターペアレントや、シングルマザー、また、非行少年や、学級崩壊などといったことに繋がっていると言われている。
ネグレクト(neglect)とは、本来英語で「無視すること」を意味するらしいが、日本では主に保護者などが、子供や高齢者・病人などに対して、必要な世話や配慮およびその義務を怠ることをさして使われているようで、児童虐待障害者虐待高齢者虐待のひとつでもあり、子どもに対するそれは育児放棄ともいう。
マザーテレサは、「この世で最大の不幸は、戦争や貧困などではなく、人から見放され、自分はだれからも必要とされていない」と感じることだといっているが、正に、保護者から見放された子供や、高齢者・病人ほど、不幸な存在はいないだろう。
現代社会においてネグレクト(育児放棄)と言われる現象は積極的ネグレクトと消極的ネグレクトの2つに分けられ、前者の「積極的ネグレクト」は、親に養育の知識や経済力の不足など、子供を育てられない明確な理由がないのに育児を放棄することであり、後者の「消極的ネグレクト」は、親の経済力が不足していたり、精神的疾患を抱えている、知的な障害があるなどの理由で育児ができないことを指すようだ。又、このような育児放棄には、それをしている人達自身が子供時代に同じような不幸な体験をしてきていることが多いのだと聞く。
子供の養育は夫婦の共同責務であるが、その中でも、自らの腹を痛めて子供を産んだ「おかあちゃん」と子供のかかわりはより深いものであろう。
そんな「おかあちゃん」がどのような子供とのかかわりをするか・・・、核家族化し、今の社会で、相談相手も見つからず、一人で悩んでいるお母さん、特に仕事を持つ女性などの場合、本当に大変だろうと察する。是非、おかあちゃん同盟の輪を広げて、助け合っていって欲しいと思う。
しかし、おかあちゃん同盟のHPには、以下のようにも書いてある。

「赤ちゃんを産んだ瞬間、あなたはすべての子どもたちのお母さんになる」 と誰かがいった。
3、11以降の原発の事故は、日本として、三度目の被爆国になる出来事だと思います。
唯一の戦争被爆国として、というものを平和利用であっても、決して受け入れるべきでなかった。
今になり、そう思います。
これはもう、男性的な考えでは、収拾はできないと思います。
単純に、母性で、「核はいらない」「未来を子どもたちにつなぎたい」
ただ純粋にそれだけ。(中簡略)
3月11日の東日本大震災や、福島第一原発の事故での放射能汚染を体験し、今まさに、次の核での悲劇が起きる前に、声をあげなくてはいけないと感じました。(以下略)・・・と。

ここでは、おかあちゃんとは、「母性」で、子どもを産んだことがあるということだけではなく、すべての女性の持つ母性、この母性は男性の心の中にもきっとあるだろう。その「母性」こそが「おあちゃん」です。・・・・といっている。そして、そんな世界中の「おあちゃん」と呼ばれる人が「世界中から核をなくそう!」とみんなでメッセージを発信していこうと呼びかけているのがこの「おかあちゃん同盟」であり、そのために、 昨・2011(平成23)年8月15日、66回目の終戦記念日(「終戦の日」とも呼ばれる)、日本が戦うことを手放した日に記念日登録がされた。・・と、している。

このようにこの同盟のHPをよく読んでいると、私が、当初想像し、期待していた、“「母性」を持つ幸せな「おかあちゃん」が集まり、おかあちゃん同士が助け合いながら不幸な子供を1人でもなくしてゆこうとする運動と言うよりも、むしろ、赤ちゃんを産み育てた「母性」=「おかあちゃん」と呼ばれる人達が中心になって、これからの生まれてくる子供たちのためにも世界中から危険な「核」をなくしてゆこうと、いう、いわゆる反核運動の推進が主眼のように見えてきた。
福島原発事故処理に対する民主党政権のいい加減さには、私も、憤りを感じているし、日本の将来を憂えている一人でもあることは、冒頭でも述べた通りであり、又、世界中から核の軍事利用のみならず、平和利用(※5参照)目的であろうとも今回の福島原発事故を目にして、改めて核利用の難しさを知り、このような危険な核利用は一日も早くなくす方向に舵を切ってもらいたいものだと願っている一人でもある。
しかし、現実には例え、原子力発電所の稼動を停止しても、原発から出る、大量の核のゴミ、使用済み核燃料(※6参照)、放射性廃棄物などの安全な最終処分の方法がないのが実情のようである(※7参照)。
今は、行き場がないので各原発施設の貯蔵プールなどに保管されている状態のようであるが、万一、災害や事故で使用済み核燃料が露出すれば、爆発・広域汚染の危機ある。だから、この問題を解決しない限り、原発の稼動を停止したからと言って、直ぐに危険性がなくなる・・・という訳でもないようだ。
したがって、これらの問題の解決方法を早急に手当し、核エネルギーに代る自然エネルギー等の再生可能エネルギーの開発の目途が立つまでは、電力不足(東日本大震災による電力危機参照)に対して、電力を利用する企業や団体のみならず一般市民も徹底した節電と、場合によっては計画停電も覚悟した上での操業や生活スタイルに変えてゆくのか、あるいは、当面は、原発に危険性のあることは承知した上で、だからこそ、安全管理の徹底をしながら、一時的使用はやむなしと容認するかは、最終的には、国民自身に、その選択と覚悟が求められることになるだろう。そのためにも、政府は、国民が、判断しうるに足るだけの専門家による信実を示した信頼のできる資料を国民の前に開示する義務があるだろう。

最後に、話し変わって、「おかあちゃん同盟の日」の中では、“おかあちゃん=母性 という意味で「おかあちゃん」を使用しています”・・・とある。
母親とは、女親のことであり、よく、妻が家庭の実権を握っている家庭のことを「かかあ天下(嬶天下)」とよび、上州(群馬県)名物に「空っ風」などと並び称されたりするが、本来の意味は「夫が出かけている間の家を(からっ風などから)守る強い妻」や「うちのかかあは(働き者で)天下一」の意味だそうである。
ここでいう、「かか」とは、江戸時代から、妻や母に対する親しみを込めた呼び方であり、「かかあ(かか)」は古代、(ヘビは大地母神の象徴)の意味で使われていた「かか」が時代とともに転意していき、庶民の間で母や妻という意味で使われた。ちなみに母(はは)も同じ語源だそうだ。古代、K音とH音の発音が曖昧であったために「かか」と「はは」の2種類が定着したとされている(※8)。呼び方は地域によってもいろいろあるが、現在、一般には「お母さん」と言い、親しみをこめて「「かあさん」「かあちゃん」、また、「お袋」(おふくろ)などと呼ばれる場合もあり、わたしなど、子供の頃は、「お母さん」、成人してからは、「お袋」と呼んでいた。「お袋」の語源には、諸説あるが、子宮や胞衣(えな.。胎盤参照)を「フクロ」ということからそれが転じて、母親そのものをいうようになった。また、子どもは母の懐で育つので、「フトコロ」が転じたとする説もあるそうだが、室町時代、武士の中でも相当位の高い家では、家の財産をふくろごと管理していたのが奥方である「母」だったことによる・・・とする説も有力らしい(※9参照)。いずれにしても、「母親」は尊敬される存在であった。
この「母」という漢字(※10)の成り立ちは「女」に2つの乳房を加えた象形文字であり、子への哺乳者、授乳者であることを意味している。
母性」は、一般的に、女性がもっているといわれている、母親としての性質。また、子を生み育てる母親としての機能のことをいっており、母子保健法上の「母性」は、妊娠、出産、育児という特有の機能を果たす女性そのものを指す概念として使われている。
そして、よく、「母性」を、母親が、子どもを慈しみ、大事にし、そばにおいておこうとする性質という概念つまり、通俗的に使用されるところの「母性本能」のような概念で使われたりもするが、その定義は非常に曖昧であり、エリザベート・バダンテール(Elisabeth Badinter。1944〜)は1980年出版の『L'Amour en plus(後から付け加わった愛)』(邦題『母性という神話』ちくま学芸文庫)の中で、母性というのは必ずしも女性の本能ではないこと、母親は必ずしも子供に対して献身的であるとはかぎらないこと、子供の幸福のために母親が個人的な野心を捨てるとはかぎらないこと等々を、女性に母性が押し付けられてきたフランスの社会の歴史をたどることにより明らかにしており、今日のように「母性」が強調されるようになったのは、近代社会の、特に工業化社会に入って日本で言うところの「産めよ殖やせよ」がブームになってからのことで、そこには、男は仕事に出るので、女は家で子供を育てるといった社会の女性に期待する役割が、時代とともに変化して「母性」概念が誕生してきたようだ。詳しいことは、以下参考の※11エリザベート・バダンテール(Elisabeth Badinter)『母性(という神話』や、※12:〔講演〕“理想”の家族という幻想、又、 Amazon.のエリザベート バダンテール著:『母性という神話』 (ちくま学芸文庫) のカスタマーレビューなどを参照)。
そして、同書ではルソーフロイトの女性論(※13、※14など参照)に焦点があてられ、筆者によれば、今日みられるような母性という神話が形成されるにあたって彼らが果たした役割が非常に大きく、彼らは本能・自然・道徳などの名のもとに母親の責任・役割を拡張し、同時に父親の役割を縮小したが、このことは一面では、女性の権利の拡大を伴ったが、同時に彼女たちの自由を疎外してしまった。そして、今後女性は母性愛の押し付けをますます拒否し、男女の役割の同一化が進むであろう。・・・とも言っている。
「母性」をどうとらえるかは色々な見方があるが、Wikipediaには、おかあちゃん同盟のように、「女性=母性」ととらえる見方には、「働く女性」にとっての「母性」を「万人に降り注ぐ愛の力」だと積極的に認識することで仕事に活かそうという経営思想があり、男女の性差を、むしろ自然から与えられた素晴らしいものと考えることで、かえって社会で女性(=母性)の力を発揮できる、という考え方のことであるそうだ。また家庭においては女性が自ら「子育ては100パーセント母親の責任」と考えることで、かえって父親のサポートの一つ一つを心から感謝することが出来、その結果として、結局「半分・半分の育児」を口で主張するよりも多くの父親のサポートを得られ、子供からの尊敬も受けられる、ということである。このような、母性の重視は「働く女性」を否定するものでないのと同時に、また「働く女性」を家庭の家事や育児に専念する専業主婦よりも価値を高いと考えるものでもないのだ(欠野アズ紗著『21世紀は母性の時代』学習研究社より)という。
そういえば、戦前世代のフェミニストの代表格である平塚らいてうらは女性固有の能力である母性を重視し、国家による保護を主張。これに対し与謝野晶子が反発し、母性保護論争が起こったことはよく知られているところである。この論争については、以下参考の※15:「いくじれんHP」の古典を読む・母性保護論争─晶子とらいてうに詳しくかかれているので、一読されると良いが、そこにも書かれているように、晶子は「女=母性」の等号に異を唱えると同時に、子供を「育てるのは女」とすることには大いに疑問を呈している。
そして行なわれた晶子とらいてうのこの論争は、現在もなお問題となっている子育て・家事労働・職業・労働などをめぐる論点を含んでおり、晶子の徹底した経済的独立の必要性は、女性問題の基点であり、今日でも確認されるべき重要なポイントであり、また、らいてうの「母性は国家によって守られるべきもの」という主張は、家庭と職業の両立の困難さという今日の問題を指摘している。私は、考え方としては、基本的に与謝野晶子を支持する側であったが、今日のように、小子化が深刻な問題となっている日本の現況をみていると女性に、「社会の為に子を産み・子育てをする」義務はないものの、「子を産み・子を育てることが社会にとって重要な問題であり、それに対して社会は支払いをすべきである」というらいてうの指摘は、現在の社会制度改革に通じるものであるあり、どのような方法で何処まで出来るかは、真剣に受け止めなければならない懸案となってきていることは確かである。
今、世界的中が、環境面でも、経済面でも解決しなければならない問題を山と抱えているが、中でも、日本は深刻なデフレ経済の中での経済不振と失業者問題、そして、円高問題、世界一の赤字国債を抱えた中で起きた昨年の東日本大震災の早急な復興、これから発生すると予測される大震災と津波への対策、原発災害により表面化したエネルギー不足問題、今までから言われ続けている年金・医療問題とも関連する深刻な小子・高齢化問題等を抱えている。
そんな中で、母(=女性)に何が出来るか。今日の記念日に母親としての「役割」を考え見るのも良いのではないか。子育てに最も必要なことは、金銭問題以上に夫婦円満な家庭にあると思っている。以下参考の※16、※17などに書かれている母親の役割や、※12:「〔講演〕“理想”の家族という幻想」など参考にされると良いのでは・・。

(冒頭の画像は、『母性と言う神話』エリザベート バダンテール著、鈴木 晶 翻訳、ちくま学芸文庫)
参考:
※1:世界おかあちゃん同盟HP
http://oka-chan.net/top.html
※2:時事ドットコム:激震・福島原発事故「レベル7」
http://www.jiji.com/jc/v4?id=f1-level70001
※3:危険な活断層
http://juki.nomaki.jp/dansou.htm
※4:産総研:活断層・地震研究センター:活断層データベース
http://riodb02.ibase.aist.go.jp/activefault/
※5:【原発】原子力の「平和利用」を見直す―福島原発事故から日本の原子力政策を問う
http://blog.goo.ne.jp/saypeace/e/526f92d883afefd8b05b6a7433c7dfab
※6:図録原子力発電所の発電総出力と使用済み核燃料貯蔵量
http://www2.ttcn.ne.jp/honkawa/4110.html
※7:すべての原発が停止」原発「廃炉」と「最終処分(使用済み燃料)」この遠き道のりこれは終わりでなく始まりである
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/32551
※8:かかあ - 日本語俗語辞書
http://zokugo-dict.com/06ka/kakaa.htm
※9:母親の事を「おふくろ」というのは何故?
http://homepage2.nifty.com/osiete/s623.htm
※10:母子の字源
http://www.wind.ne.jp/khari/kenkyuu/nan-bosi-zigen.html
※11:エリザベート・バダンテール(Elisabeth Badinter)『母性という神話』
http://web.sfc.keio.ac.jp/~oguma/kenkyu/02f3/bosei-odani.htm
※12:〔講演〕“理想”の家族という幻想
http://www.toyama-cmt.ac.jp/~kanagawa/father/parent.html
※13:仲島陽一 ルソーの女性論・女子教育論と民主主義について (3)
http://blog.onekoreanews.net/nakajima/59
※14:斎藤学メッセージ(フェミニズムと臨床)
http://www.iff.co.jp/ssworld/mssg/mssg_15_4.html
※15:いくじれんHP
http://www.eqg.org/index.html
※16:武田邦彦 (中部大学): 原発 母の役割
http://takedanet.com/2011/04/post_1d9d.html
※17;子育てにおける母親の役割について[PDF]
http://www.sapporo-ohta.or.jp/www/sinnyug/p086.pdf
27 吉野裕子 蛇 −日本の蛇信仰−/モナ丼/本読
http://www7a.biglobe.ne.jp/~monadon/books127.htm
内閣府:少子化対策
http://www8.cao.go.jp/shoushi/index.html
母性- Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AF%8D%E6%80%A7
家族ふれあいの日(Part 2) - 今日のことあれこれと・
http://blog.goo.ne.jp/yousan02/e/add5547503e7c6617cffbdc3798423a5
日本記念日協会
http://www.kinenbi.gr.jp/index2.html

ロマンスの日 2-2

$
0
0
日本の演歌は、明治時代の自由民権運動の産物であり、壮士演歌ともいって、藩閥政府に対する批判、政治宣伝のために歌われていた(オッペケペー節など)。
」( Yahoo!辞書も参照)とは、の一形式であり、和歌。短歌、長歌、連歌、狂歌などや、能や狂言、歌舞伎などに用いられる歌、それから、現代の流行歌としての歌謡曲やポップスなど、いろいろあるが、日本の民俗学者、国文学者、国語学者であり、詩人・歌人でもあった折口信夫によれば「歌う」の語源は、「うった(訴)ふ」であり、歌うという行為には相手に伝えるべき内容(歌詞)の存在を前提としていることもまた確かであり、「うたは世につれ、世はうたにつれ」というように、世がうたに追随することは少ないものの「歌は世に連れる」と言うように、歌謡曲は常に世相の裏で大衆が感じたことを敏感に取り上げ、大衆の共感を得てヒットさせてきた。そういう意味でこの言葉は名言であるが、今の時代、映画やテレビドラマなども、「うた」のひとつに含まれるものといえるかもしれない。

時は流れ、平成の世になって24年。
だんだんと遠ざかっていく「昭和」の時代、私が青春期を過ごした時代、青少年が憧れた輝くばかりのスターが銀幕(映画)の世界にも歌謡界にも大勢いた。
昭和における大衆歌謡・流行歌は、生活の中の泣き、笑い、喜びをそのメロディと詞に織りこみ、それゆえに世代を越えて愛されてきた。田舎の祭ばやし、高原の白樺林、赤い夕陽の校舎、霧の波止場にマドロス、路地裏の酒場。列車に郵便船。人々は理屈ではなく、感性でそうした「うた」の世界に思いをはせ、想像力をかきたてていった。それを歌や映画で演じ、夢や憧れを一身に集めてくれたのがスターであったのだ。
歌の世界で最も幅広い層に広く認知されたのは、やはり美空ひばりからではないか。彼女は歌手としてだけではなく映画界でも大活躍。その演技力は俳優としても一流であった。
まだテレビは普及途中であり、ビジュアルの中心は映画であり、『平凡』(平凡出版,現マガジンハウス)、『明星』(集英社、現・Myojo)などの雑誌であり、また、プロマイドであった。情報の乏しい中、特に若い男女は、必死に憧れのスターを追いかけた。

若い男女に、そんな、憧れのスターを広めるのに大きな役割を果たしのが中でも雑誌『平凡』であろう。
平凡出版の発行による『平凡』は、戦後『明星』と共に映画・音楽で活躍する芸能人の情報を掲載した月刊誌として人気があったが、創業者の判断により1987年に休刊となっている。


上掲の画像は、『平凡 最後の最後の特別編集『ありがとう!美空ひばりさん』の永久保存版と名うった写真集(マガジンハウスムック第11号平成元年8月1日発行)である。私の雑誌コレクションの中の1つであるが、美空ひばりが亡くなった直後に刊行されたものでる。
マガジンハウスから発行されていた月刊娯楽雑誌『平凡』の前身の平凡出版は、1945(昭和20)年合資会社凡人社として誕生したが、1983(昭和58)年に社名をマガジンハウスと変更した。
平凡出版の発行による雑誌『平凡』は、岩堀喜之助が、同名の雑誌(1928年〜29年に数ヶ月間の発行らしい)を出していた平凡社の創業者下中 弥三郎から誌名を譲り受け、清水達夫と二人三脚で発展させるが、当初はA5版の冴えない文芸雑誌だったらしい。
それを、1948(昭和23)年に読む雑誌から見る雑誌へイメージチェンジを図り、先行する雑誌『ロマンス』に対抗して、「歌と映画の娯楽雑誌」と位置付けて、判型をA5判からB5判へ大判化し、高峰三枝子(歌う映画スター女性第1号)がマイクの前で歌うポーズ写真を表紙に取り入れたり、巻頭グラビアではヒット曲の歌詞と映画スチールを組み合わせるなど、ページを賑やかに飾るようにした。この転身に、平凡出版からマガジンハウスへと進むこの出版社の雑誌作りの手法が秘められていた。つまり、優れたデザイナーを起用し見る要素を誌面に溢れさせた。その究極に、当時のものまね歌手と見られていた美空ひばりの表紙への起用があったという。


岩堀は、その理由を「悲しき口笛」の試写会の折に見せた「見上げた芸能根性に惚れ、この人は本物だ、「平凡」と並行に行こうや、とひばりに力を入れるようになった」と語っているようだ(アサヒクロニクル「週間20世紀」1952年号より。掲の画像左も同誌掲載のものを借用。右は先に述べた『平凡 最後の最後の特別編集『ありがとう!美空ひばりさん』の永久保存版の裏表紙掲載のものである)。

『平凡 最後の最後の特別編集『ありがとう!美空ひばりさん』の永久保存版によると、国民栄誉賞に輝いたひばりが、最初に賞と名のつくものを手にしたのは1951(昭和26)年『平凡』の人気投票で第3位に選ばれたときであり、翌1952(昭和27)年からは女性歌手部門では13年連続第1位という快挙を成し遂げた。
美空ひばり、江利 チエミ雪村いづみの「3人娘」は『平凡』のグラフ企画から誕生したそうで、人気、キャリアとも先行していたひばりを追うふたりだけに、3人の顔合わせは難しいと思われていたが、まず、ひばりとチエミが対談(昭和29年四月号)、そして、いずみが加わった。同年5月号にて、不可能といわれた夢の顔合わせがこのグラフ企画でついに実現いたという。
『平凡』で、3人娘の映画初共演のための原作『ジャンケン娘』を連載。同盟映画は大ヒットし、『ロマンス娘』『大当たり三色娘』と3人娘映画が次々と作られた。そして、7年後、娘から成長し『ひばり・チエミ・いづみ 三人よれば』が4本目の共演映画となったそうだ(冒頭掲載の画像は1956年公開、東宝映画『ロマンス娘』ポスター。Wikipediaより)。まさに、岩堀の言うとおり、ひばりと平凡は並行にやって来たのだろう。


上掲の画像は、私のHP「よーさんの我楽多部屋」のCorection Room。Poom2絵葉書の中の「広告物・付録等」5ー1懐かしい平凡社の付録絵葉書に掲載している昭和30年頃のものだろう雑誌「平凡」正月号の付録の絵葉書の中の1枚美空ひばりのブロマイドであるが、他に、高田浩吉菅原謙次佐田啓二岸恵子香川京子若尾文子の6枚があり、それぞれのスターが自筆で、正月用の挨拶とサインを記入してある。私は、コレクションの一つである絵葉書として収集しただけであるが、当時若手俳優として活躍していたこれらスターのファンにとっては、胸をわくわくさせながら、正月号の発売を待ち侘びていたことだろうね。

「歌と映画の娯楽雑誌」に徹底して以後、若い読者層の爆発的人気をよび『平凡』は、1953(昭和28)年新年号で、ついにこの業界では戦後初めての発行部数100万部を突破したが、1970年代後半あたりから衰退が目立ち始め、1987(昭和62)年に休刊となっている。
以下参考に記載の※10:「「戦後空間」の中の『平凡』夏井 美奈子論文」では、雑誌『平凡』の魅力について、深く掘り下げ書かれている。一見、ただの大衆娯楽雑誌であり、まさに「歌と映画の雑誌」としか見られてこなかった『平凡』だが、1950 年代の 1 冊 1 冊を開き、読んでいくと、「歌と映画」だけではくくることのできない、さまざまな論点をもつ資料であることがわかる。『平凡』には「歌」「映画」「小説」「グラビア」「投稿」「座談会」などたくさんのジャンルがあり、その中でも今までは光があてられなかった「小説」「グラビア」「座談会」「投稿」などの中にあふれる、読者を惹きつけた力に、私も惹きつけられていった。・・・と。
そして、『平凡』を語るとき、「戦争」というキーワードを抜きにして語ることはできない。あの「戦争」があったからこそ、大衆娯楽雑誌『平凡』は生まれた。戦争の傷跡から這い上がるようにして創刊された『平凡』は、都市空間を表象し、誌上を通して新しいコミュニティを形成し、人々の欲望を抱え込みながらリードしていった。
なぜ『平凡』が人々をリードできたのか、それはまず、根本に『平凡』が「共通体験としての戦争」を抱えて創られていたからではないだろうか。1950 年代、多かれ少なかれ全員が戦争と敗戦を経験し、生きていた。いくら娯楽に人々が飢えていたとしても、もし『平凡』がひたすら「アメリカ文化」を流していただけの雑誌だったなら、そしてただ都会の流行を紹介するだけの雑誌だったなら、ここまで人々の心を掴むことができなかったのではないかと思う。その底流に「戦争の傷跡」を共有していたからこそ、『平凡』に人々は惹かれていったのだろう。自分たちと同じく戦争で傷を負った主人公が幸せになる物語や、スターの苦労話があったために、華やかなグラビアがさらに輝いて見えたのではないだろうか。
しかし一方で、人々はいつまでも敗戦の傷に浸ることを望んではいなかったのだった。時間の経過とともに新しい時代、輝かしい未来を自分たちのものにしようと、「敗戦」「戦後」を乗り越えようとしていく。それは「敗戦」から生まれた新たな「欲望」の誕生だった。
新しいスターの登場とともに、敗戦を感じさせる記事は減り、作られた映画も今、目の前にある自分たちの恋愛や結婚をテーマにしたものが多くなってゆく。読者参加型の座談会が増え、自由に恋愛や性が語られていく中に、表面上「敗戦」の入る隙はなくなっていった。そして人生の理想像として、1959 年という 50 年代最後の年に皇太子の結婚があった。「平民」との結婚は人々にとって「民主化」の象徴であり、まさに「戦後」を乗り越えた瞬間だったのではないだろうか・・・と。これ以上詳しくは、かけないので興味ある方は同論文を読まれるとよい。
そういえば、戦後最大のロマンスと言えば、 “『世紀のロマンス』皇太子妃が民間から誕生!”・・・のニュースだっただろう。


上掲の画像は、皇太子妃決定を伝える号外(1958年11月27日、朝日新聞東京本社発行、号外である。
1958(昭和33)年11月27日、皇太子明仁親王の妃に、日清製粉正田英三郎社長の長女美智子さんが決まった。この2人は現在の天皇、皇后である。
皇太子は軽井沢の親善テニスで対戦した美知子さんの人となりにひかれ、お妃候補にと自分から言われたそうだ。軽井沢でのテニスから生まれたロマンスがみのり、皇族や旧華族出身でない民間からの皇太子妃の誕生は、皇室の歴史上画期的な出来事であった。
多くの国民は、このご結婚を支持し、愛称の「ミッチ」からミッチーブームがわいた。正に、現代のシンデレラ物語といえるかもしれないが、正田家も美知子さんも、皇太子からの結婚の申し込みにも「家格が違いすぎる」「その任に堪えられない」と頑強に拒否されたらしいが、その心を動かしたのは、「柳こうり一つで来てください」という言葉だったという。しかし、国民の熱狂的な支持はあったものの皇室内では、かなりご苦労されたようである。立派な家柄のお嬢様であり、皇太子妃になっていなければもっともっといい人生を送られたことであろう。それをよーく理解しているから、今上天皇も美知子日妃を大切に大切になされているようである。
現皇太子妃は外務官僚の家からお出になったようだが、大分正田家とは違った育て方をされたようである。天皇・美知子妃さまも、将来のことについていろいろとお悩みになっていることだろうとお察しする。
とりとめもなまく長々と書いたがこれで止める。当ブログ作成にかんして、歌謡曲のことについては、以下参考の※11:「流行歌 演歌 歌謡曲 日本の歴史 雑学の世界」を参考にさせてもらった。

◎(冒頭掲載の画像は1956年公開、東宝映画『ロマンス娘』ポスター。Wikipediaより)

参考:
※ 1:日本ロマンチスト協会(NRA)
http://japan-romance.com/
※2:Yahoo百科事典-ロマン主義
http://100.yahoo.co.jp/detail/%E3%83%AD%E3%83%9E%E3%83%B3%E4%B8%BB%E7%BE%A9/
※3:青空文庫:国木田独歩 武蔵野
http://www.aozora.gr.jp/cards/000038/files/329_15886.html
※4:北村透谷「内部生命論」と明治浪漫主義(Adobe PDF)
http://www.ritsumei.ac.jp/acd/gr/gsce/ce/2007/ft01.pdf#search='『内部生命論』'
※5:昭和のレビュ-狂時代
http://yachan.sitemix.jp/s24nen.html
※6:のど自慢狂時代 - goo 映画
http://movie.goo.ne.jp/movies/p27136/index.html
※7:踊る龍宮城 - goo 映画
http://movie.goo.ne.jp/movies/p27527/index.html
※8:はたちの青春 - goo 映画
http://movie.goo.ne.jp/movies/p26798/index.html
※9:日本映画発達史 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E6%98%A0%E7%94%BB%E7%99%BA%E9%81%94%E5%8F%B2
※10:戦後空間」の中の『平凡』夏井 美奈子論文- html
http://cache.yahoofs.jp/search/cache?c=OerIv152rs4J&p=%E9%9B%91%E8%AA%8C+%E5%B9%B3%E5%87%A1&u=www.sal.tohoku.ac.jp%2F%7En-yoshi%2Fhestia%2Farchives%2Fno1%2Fnatsui.pdf#search='雑誌 平凡'
※11:流行歌 演歌 歌謡曲 日本の歴史 雑学の世界
http://www.geocities.jp/widetown/japan_den/japan_den016.htm
1958(昭和33)年11月27日 世紀のロマンス 皇太子妃が民間から誕生!(Adobe PDF)
http://www.yomiuri.co.jp/komachi/data/link/pdf/chronicle_0607.pdf#search='皇太子 美知子 ロマンス'
美空ひばり - goo 映画
http://movie.goo.ne.jp/cast/c100105/index.html
日本記念日協会
http://www.kinenbi.gr.jp/index2.html
ロマンス - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AD%E3%83%9E%E3%83%B3%E3%82%B9


ロマンスの日2ー1へ戻る
Viewing all 292 articles
Browse latest View live