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芳年画 花井お梅

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花井お梅


上掲の画像は 近世人物誌やまと新聞 第二百六十三号附録   月岡 芳年 「花井お梅 」(早稲田大学図書館:古典籍総合データベース: :[近世人物誌]中泉政太郎、 編集※1よりここクリックで画像がみられる。 
やまと新聞』は、1886(明治19)年から1945(昭和20)年にかけて発行されていた日刊新聞であり、明治後期には東京の有力紙のひとつであり、錦絵新聞講談筆記の連載などで好評を博していたようだ。
錦絵新聞とは、明治初期の数年間に発行されていた視覚的ニュース・メディアであり、一つの新聞記事を浮世絵の一種である錦絵一枚で絵説きしたもの。グラフィックとしての錦絵に着目して新聞錦絵と呼ばれることもあるようだ。
明治初期に東京で創刊された「新聞」は東京土産になるほど流行したが、知識人層向けで振り仮名や絵もなく、一般大衆には読みにくいものであった。この「新聞」を浮世絵の題材に取り上げて、当時まだ平仮名しか読めない大衆も絵と平易な詞で理解できるようにしたものが錦絵新聞である。土屋礼子は「非知識人層を読者対象とした小新聞に連なるニュース媒体であった」と位置づけているそうだ。
錦絵新聞は近代ジャーナリズムの勃興期に、新聞というものを一般大衆の身近なものにしたメディアであった。1874(明治7)年に、東京の版元「具足屋」が『東京日日新聞』の記事を題材に、落合芳幾の錦絵にふりがなつき解説文を添えて錦絵版の『東京日日新聞』として売り出したものが最初だそうである(※2参照)。錦絵というグラフィックを用いてセンセーショナルな事件を報じるメディアは、「猟奇的・煽情的な内容」は「現代の写真週刊誌に似た性格のものであったともいえる。
錦絵版『東京日日新聞』は、錦絵のわかりやすさと「新聞」の目新しさ、トピックの面白さで大変な人気を得た。これに倣って、『郵便報知新聞』の記事に月岡芳年の錦絵を添えたもののほか、東京、大阪、京都などの版元から約40種もの錦絵新聞が続々と誕生したという。しかし、錦絵新聞同様の平易な文章と内容に、錦絵より作成に時間のかからない単色ずりの挿絵を組み合わせた小新聞が発行されるようになると、これに押されて錦絵新聞は誕生から10年もたたないうちにほとんど姿を消した。
、『やまと新聞』も同様である。同紙は1886(明治19)年10月7日、『東京日日新聞』の創始者でもある條野伝平(採菊)によって創刊された『警察新報』(明治17年創刊)を改題して発刊されたもののようである。
同紙は雑報や論説も載せたが、庶民向けの娯楽趣味の宣伝に努めたいわゆる小新聞であり、花柳界や芸能界の記事、続き読み物、ゴシップ記事などが中心的な記事であったようだ。月岡芳年・水野年方らの挿絵でも知られ、時折つけた付録には、芳年の描いた色鮮やかな大判新聞錦絵「近世人物誌」シリーズもある。

1887(明治20)年6月9日、日本橋浜町の待合茶屋・酔月楼の女将だった花井お梅が、使用人の八杉峰三郎を刺殺する事件があった。
冒頭の画像は、、同事件「花井お梅事件」(別名箱屋事件)を題材にした、同年8月20日付の近世人物誌 『やまと新聞』 第二百六十三号附録である(「近世人物誌」以下参考の※1:「早稲田大学図書館:古典籍総合データベース」で見ることができる)。

明治の文学史にいわゆる「毒婦物」というジャンルが成立したのは明治初期のことである。”富や力あるいは異性など、男の欲望を掻き立てるものは女にとっても同じであるが、異なるのは、欲望の追求がときに英雄的行為として賞賛される男に対して、欲望をあらわにした女には懲罰が待っているというところだろう。
人は一方で、そうした女に対する恐怖や嫌悪を感じるとともに、他方では彼女に誘惑されてみたい、あるいはそのような魅力を分かち持ってみたいというひそかな欲望や憧憬を抱いている。
自らが隠し持つ欲望に対する社会的、道徳的な嫌疑を欲望の対象になすり付け、欲望を抱いた自己の代わりに処罰する。つまるところ、そのような、「毒婦の物語」とは、「処罰の物語」でもあった。
そのような毒婦物の代表的なものに「夜嵐お絹」、「高橋お伝」、そして、この「花井阿梅」などもその一人として描かれている。

1912年(明治45)6月12日から3日間、東京・浅草駒形町の蓬莱座(浅草座参照)で浅草公園芸妓による慈善演芸会が華々しく催されていた。出し物は、「花井お梅浜町河岸峯吉殺し」。
芸妓玉桜家小花が主人公花井お梅、待合浜野家が峯吉、幇間桜川呂孝(〔注1〕参照)が車引きに扮している。
23日、舞台が峯吉殺しの山場に差し掛かったときだった。平土間(ここ参照)で見物していた本物の花井お梅が舞台に駆け上がり、小花をひっつかまえて息巻いた。「誰に断ってこの狂言を出した」
見物人総立ちの騒ぎになり、座主関三十郎(5代目と思われる)、松永忠吉が仲裁に入ってその場は引き取らせ、25日蓬莱座でお梅に渡りをつけて手打ちした。.
本物のお梅は、1887(明治20)年6月9日、日本橋区浜町箱屋三味線の箱をもって、客席へ出る芸者の伴をする男)の八杉峯吉(34)を刺殺した。
「白薩摩(白薩摩焼泥染白大島。画像ここ参照。紬のことは※3参照)の浴衣の上に藍微塵の お召(あわせ)、黒繻子に八反の腹合せの帯をしどなく締め、白縮緬の湯具踏みしだきて降りしきる雨に傘をもささず鮮血の滴る出刃包丁を掲げたる一人の美人」(東京日日新聞)が、大川端に開いた酔月楼の門を叩き、父に、「私しゃ、今箱屋の峯吉を突き殺したよ」と言い残し、久松町警察署へ自首した。
当時お梅は24歳。15歳で芸妓になり、18歳で独り立ちして、事件の一ヵ月前に、実父花井専之助の名義で酔月楼という待合茶屋を開いた。しかし、営業をめぐって、父娘はしばしば衝突した。専之助は一旦お梅に任せたのに、5月27日朝、自分が仕切るといって突然休業の札を貼り出したという。
お梅は家を飛び出して、池上の温泉や京橋の知人宅を泊まり歩いたが、身の置き所もなく困り果て、つらつら考えるに、峯吉こと八杉峯三郎は自分が芸妓をしていた頃から雇い置き、専之助を助けるような顔をして利益を図っている、おかげで父と不仲になった、と思い当たったようだ。
6月9日に仲裁の者が酔月楼に出かけたが、父は留守で、峯吉が「あんな者はいてもいなくてもいい」といったと聞くに及び、お梅は怒りを抑えきれなくなった。
そして、午後9時過ぎ、楼近くに行き、車引きに梅吉を呼び出させた。
「専之助が立腹しているから急に帰る訳にもいかない、ともかく知り合いの家へ行っている」と峯吉。果てはお梅への恋慕を打ち明け、意に添うよう強要した。それで、お梅は持っていた出刃包丁を峯吉の背に刺した。
同年(明治20)11月の公判には傍聴人が1000人以上詰めかけ、邸内は身動きもならず、ガラス窓が破損したという。過半は、窓外で人山を築いて、何時静まるとも知れない騒ぎなので、警官が追い払い、門を閉ざして開廷したそうだ。

冒頭掲載の近世人物誌 『やまと新聞』 第二百六十三号附録の画像は、1887(明治20)年11月の公判開始以前の8月20日付で書かれたものであり、まだ事実関係がはっきりしていないために、事件の原因についても二説の風聞を併記して、「種々入込たる事情もあらんか」と推測するにとどまっている。以下その全文である。
今ハ酔月の女房お梅故は柳橋では小秀、新橋でハ秀吉とて三筋の糸に総を掛け、三弾の何でも宜と気随気まぐれで鳴らした果、五月の闇の暗き夜に、以前ハ内箱今ハ食客の峯吉を殺せし事ハ普く人の知る所ながら、彼を殺せしといふ原因に二様あり、一は峯吉が平生よりお梅に懸想し言寄ることも数度なりしが、流石に面恥かかするも気の毒とて風の柳に受居りしを、或る夜兇器をもつて情欲を遂んと迫りしより止を得ず之を切害せしといふにあり、一ハ世にも人にも包むべき一大事を峯吉に洩せしに、彼の同意をせざるより事の爰に及びしともいふ二者何れが是なるか公判の上ならでハ知るによしなし、唯お梅は是迄も情夫の自己につれなかりしを憤り之を害さんと威したる事二度に及ベり、されバ此度の峯吉殺しも想ふに種々入込たる事情もあらんか兎にかく凄き婦人なりかし
・・・・と。
市ヶ谷監獄(現在の新宿区住吉町にあった「市谷谷町囚獄役所」が明治36年「市谷監獄」と改称。近くにあった東京監獄、大正11年市谷刑務所と改称とは別物)に収監されていた花井お梅(このとき40才)が1903(明治36)年4月10日に満期になって出獄した。夜12時を期して、看守長が出獄の旨を申し渡すと、お梅は満面の笑みをたたえて、恭(うやうや)しく長年の行為を感謝したという。
午前零時半、差し入れの黒縮緬花菱三つ紋付き二枚重ねの小袖繻珍(しゅちん)の丸帯をしめ、新調の駒下駄をはいて15年ぶりに刑務所から出てきた。
降りしきる雨の中、出迎えの兄や親類の人たちと日本橋浜町にある兄の家に落ち着いた。
ばか騒ぎをもくろんだ多数の出迎え人や物見高い見物人は午前4時ごろから押し寄せたが、すでに深夜に出獄したと係官から聞かされて、一同「アッとばかりに失望したのもおかしい。・・と同年4月11日付東京朝日新聞にはあるようだ。

「出獄後の花井お梅が堅気な稼業に心を込め、罪を滅さんともがくことは世間に隠れもなき話になるが、とかく耳たぶが薄い(運が悪い)と見えて、何の商売もヤンヤと行かず」、汁粉屋に失敗して牛込岩戸町で小間物店を開いたが、これも断念して、浜町へ舞い戻り、再び汁粉屋に転業と、明治38年2月25日付の東京朝日新聞は伝えているそうだ。
その後も、豊島銀行頭取と称する鈴木某に騙され無一物になり、進退窮まって俳優を志願したので、横浜、横須賀、桐生などから買い込みが来た。
峯吉殺しから鈴木某に逃げられるまでを芝居に仕立てて登場すると意気込んでいる、と報じられるなど、今でいうワイドショーの主役のようであったらしい。しかし、蓬莱座の一件を最後にお梅はゴシップ記事から姿を消したという(朝日クロニクル週刊20世紀1912年号)。彼女は、その後旅回りの役者などもしていたそうだが、1916(大正5)年夏、53歳の頃には、、新橋の芸妓に戻り、秀之助を名乗っていたそうだが、その年、12月13日、肺炎のため、蔵前片町(現、台東区蔵前1丁目)にあった病院で没したという。
この花井お梅の起こした事件は、河竹黙阿弥作『月梅薫朧夜』(役者絵、明治劇散切物の画は以下でみられる)の題で上演、評判となったほか、真山青果が脚色した『仮名屋小梅』(※4参照)、そして、川口松太郎の『明治一代女』として、新派劇の名狂言となった。

月梅薫朧夜 - 早稲田大学演劇博物館 浮世絵閲覧システム

川口松太郎の、『オール読物』誌に連載された小説『明治一代女』(昭和10年)は、「鶴八鶴次郎」「風流深川唄」と併せて"第1回直木賞を受賞している名作であるが、自身の脚色による新派劇は1935(昭和10)年、明治座にて初演され、また、日活入江プロで映画化もされているそうだ。このときの映画は見ていないのでよく知らないが、19558昭和30)年公開の伊藤大輔監督による同名映画(大映)は見たことがある(※5参照)。
最初の日活入江プロの時に作られた藤田まさと作詞による同名の主題歌(作曲は大村能章)はよく流行ったな~。
(歌詞一番)
 浮いた浮いたと 浜町河岸に
  浮かれ柳の はずかしや
  人目しのんで 小舟を出せば
  すねた夜風が 邪魔をする
このときの歌手は元芸者の新橋 喜代三。このころは、葭町(藤本)二三吉市丸小唄勝太郎などの芸者歌手全盛の時代だったな~。
明治一代女の歌もいろいろな歌手にカバーされているが、その中に、私の大好きな美空ひばりのものもある。
彼女は、どんな曲を歌ってもうまいね~。さすが天才歌手だ。今日はこのひばりの歌を聴いて終わることにしよう。ここでは、初代、新橋 喜代三の他いろんなカバー歌手の歌も聞けるよ。

明治一代女 - 美空ひばり - 歌詞&動画視聴 : 歌ネット動画プラス

参考
〔注1〕明治41年幇間の桜川忠考に入門し、大正6年より桜川忠七を名乗っていた人物がいる。この桜川忠考が、桜川呂孝の弟子だろうか。また、桜川忠考の弟子?かどうかは知らないが、その忠七の流れを汲むと思われる人たちが桜川米七、七光、九助 七太郎(女幇間)と名乗り今も幇間芸を広めているようだ。以下参照参照。
花柳界雑学 - 全国花街・花柳界情報専門サイト ざ・花柳界
リンク
※1早稲田大学図書館:古典籍総合データベース: :[近世人物誌] 
※2:コラム:明治の錦絵 | 錦絵でたのしむ江戸の名所 - 国立国会図書館
※3:よくわかる!大島紬(総集編) | きもの知るほど  
※4: 「伝統歌舞伎保存会」 葉月会のアルバム(第十四回)
※5:明治一代女 | Movie Walker
ニュースの誕生:かわら版と新聞錦絵の情報世界:目次
二木紘三のうた物語7:マ行の歌

引っ越しのお知らせ

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毎日たくさんの方に訪問いただき感謝しています。
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そのため画像のアップ等、いよいよ容量にも限界が来ており、残念ながら当ブログの引っ越しをします。
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また、当ブログは、CATVでのHP「よーさんの我楽多部屋」の別館的なものでしたが、
CATVはHPを中止するので、やむなく本館「よーさんの我楽多部屋」もライブドアブログへ
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http://blog.livedoor.jp/liveyousan/archives/cat_239396.html
CATVHP「よーさんの我楽多」当ブログ「今日のことあれこれと・・・」も15年ほどかけて作ったものであり。容量が大きく一度に引っ越しができず順次の引っ越しで、完全に引っ越すまでは時間を要します・
したがって、本館「よーさんの我楽多部屋」は本年中に引っ越しするまでおいておきます。。
また、当Gooブログ「今日のことあれこれと・・・」は完全にデーター以降するまで記事はそのまま残しておきます。
今後はライブドアブログの「老いの愉しみ」を本館として、FC2ブログの「この一枚の絵」をその別館という位置づけで記事をアップしてゆきます。
また、「老いの愉しみ」の中でも、過去の「今日のことあれこれと・・・」の中で、「ひとりごと」として書いていたものは、カテゴリー「老いのたわごと(ひとりごと)」ととして書いています。
本館と別館はリンクでつないでいますのでどちらからでも相互に行き来できます。
ライブドアブログも、FC2ブログもHPではないのでCATVでの本館HP「よーさんの我楽多」の時のようにホームページビルダーを使って、思うようなページがつくれません。
慣れないHTML言語などを使いながらの更新なので、未だ、中途半端なところがありますが、これからは、新ページへご訪問よろしくお願いします。
今までの画像掲示板は基本的に本館の「老いの愉しみ」の方に全てを継続添付しています。その中の一つを「この一枚の絵」専用としています。
できれば、私のページへのリンクは「老いの愉しみ」の方のアドレスをしていただけるとありがたいです。
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本館「老いの愉しみ」
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別館「この一枚の絵」
http://f2yousan.blog.fc2.com/
今までGooブログへのご訪問本当にありがとうございました。

「昭和の日」その1

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熊本・大分地震(※1)で被災された皆さまに対して、心からお見舞い申し上げます。
私の地元神戸を中心に発生した20年前の阪神・淡路大震災と同じクラスの大規模地震、日が経つにつれてその被害状況が明らかになっていますが、今回の地震は、何時までも大きな揺れが継続して発生しており、住民の方は本当に不安な毎日をお過ごしのことでしょう。ただただ、一日も早い復興をお祈りするばかりです。

いつもこのブログを書く時、参考にしているのが日本記念日協会(※2)登録の記念日であるが、同協会に登録されている今日・4月29日の認定記念日には、「豊後高田昭和の町の日」(大分県豊後高田市が制定)や 「歯肉ケアの日」(花王株式会社が制定)、 「歯肉炎予防デー」(花王株式会社が制定) 、「Piknikの日」(森永乳業株式会社が制定)、 「クレープの日 」(株式会社モンテールが制定)、 「キン肉マンの日」(集英社が制定)、「畳の日」(全国畳産業振興会が制定)、 「羊肉の日」(ジンギスカン食普及拡大促進協議会が制定)が登録されており、その他の記念日として、「昭和の日」が登録されていた。
この認定記念日の「Piknikの日」(ここ参照)や,「クレープの日 」(ここ参照)、「畳の日」(ここ参照), 「羊肉の日」(ここ参照)は、すでにこのブログ「今日のことあれこれと・・・」で、取り上げたし、 「歯肉ケアの日」や「歯肉炎予防デー」に代わりに、似たような記念日としては「歯の日」「歯ブラシの交換日」(毎月8日. サンスターが制定。ここ参照)や、虫歯予防デー (6月4日、日本歯科医師会や厚生労働省が設定していたものを日本記念日協会が再設定。ここ参照)で取り上げたことがある[()内のこことあるのは当ブログで取り上げたページ]。あとは、「キン肉マンの日」と「豊後高田昭和の町の日」だけがまだ取り上げていない。
「豊後高田昭和の町の日」は、大分県豊後高田市が制定したもの。
同市が2001年から商業と観光の振興のために、商工会議所、商店街とともに進めてきた昭和30 年代をテーマとした「豊後高田昭和の町」をさらに多くの人に知ってもらうのが目的だそうで、日付は国民の祝日の「昭和の日」からだそうだ。
「豊後高田昭和の町」は、その懐かしい街並みや商品、人々の温かい対応などで全国から多くの観光客を集めているそうだ。
豊後高田 昭和の町 - 公式サイト
The豊後高田-昭和の町

ただ、今回の地震の風評被害などで大分地方の大した被害のない観光地も旅館予約な取り消しなどが相次いでいるところがあるとも聞く。困ったものですね~。
そのようなことからというわけではないが、今日は、日本の国民の祝日の一つである「昭和の日」をテーマーに書くことにしよう。
国民の祝日である「昭和の日」は、もともと昭和の時代には、帝国憲法時代の戦前・戦中では「天長節」、戦後の日本国憲法(新憲法)下の国民の祝日に関する法律(略称「祝日法」、昭和23年7月20日法律第178号)では「天皇誕生日」という祝日であった。
「祝日法」第2条によれば、天皇誕生日は、「天皇の誕生日を祝う」ことを趣旨としており、日付は昭和天皇の誕生日である4月29日があてられている。
それが、昭和64年(1989年)1月7日に昭和天皇が崩御され、今上天皇即位により、同年以降の4月29日はそれまでの天皇誕生日としては存続できなくなり、「祝日法」の天皇誕生日に係る項を改正する必要が生じた。
孝明天皇明治天皇大正天皇の場合は崩御日が先帝祭として 戦前は太政官布告年中祭日祝日ノ休暇日ヲ定ム」や勅令「休日ニ関スル件」により、法定の休日とされていたが、昭和天皇の場合は現行の「休日法」により崩御日が休日とならない(「休日法」施行と同時に前述の法は廃止)ため、当初から誕生日を活かして「昭和記念日」など昭和に因んだ新祝日として存続させる案が出ていたようだが、その案は見送られ、天皇誕生日は、今上天皇の誕生日である12月23日に改められることとなったが、同時に、同年(平成元年=1989年)以降の4月29日は「みどりの日」という名称の祝日に改めた上で祝日として存続させることとなった。
「みどりの日」の名前の由来は、各界識者をメンバーとする小渕恵三官房長官(当時)の私的諮問機関(皇位継承に伴う国民の祝日に関する法律改正に関する懇談会)において、「昭和天皇は植物に造詣が深く、自然をこよなく愛したことから『緑』にちなんだ名がふさわしい」という主旨の意見が多数を占めたからであるとされている(Wikipedia)。参議院での審議などは以下参考の※3:「参議院会議録情報 第162回国会 内閣委員会 第9号」参照。
「祝日法」第2条には、「自然にしたしむとともにその恩恵に感謝し、豊かな心をはぐくむ」ことを趣旨としている(「祝日法」条文※4参照)。
その後、平成12年(2000年)3月、自由民主党自由党公明党の連立与党が改正法案を参議院に提出。参議院は通過したものの、同年5月に内閣総理大臣森喜朗の「神の国発言」の影響で衆議院での採決が見送られた後、衆議院解散(神の国解散)により廃案となった。
平成14年(2002年)に自由民主党と保守新党が再提出。公明党・自由党が賛成、平成12年(2000年)の法案に反対した民主党も賛成に転じて、平成15年(2003年)7月に衆議院を通過した。参議院で継続審議に入ったが、衆議院の解散により審議未了のまま廃案となった。
平成16年(2004年)、自由民主党・公明党が3度目となる改正法案を提出、翌平成17年(2005年)4月の衆議院内閣委員会で自由民主党・公明党・民主党の賛成多数により可決。参議院での継続審議を経て、5月13日の参議院本会議で成立した。同改正法は平成19年(2007年)から施行され、同年以降の4月29日は「昭和の日」、従前の「みどりの日」はそれまで「国民の休日」であった5月4日に上書き的に移動した。なお、同改正法にはこの二つの祝日設置のほかにも付随する改正(振替休日や国民の休日の重複を避けるための条文の変更等)が盛り込まれている。
これらの経緯を見ていても、4月29日という日はゴールデンウィークの一角を構成する祝日を廃止することによる国民生活への影響も配慮されたようであるが、昭和天皇の誕生日をとりあえず「みどりの日」という名の祝日で存続させておいて、後に改めて「昭和の日」と名称を変え、何が何でも存続させたかったという執念のようなものが感じられる。
祝日法」第3条第3項に「その前日及び翌日が「国民の祝日」である日(「国民の祝日」でない日に限る。)は、休日とする。」とあり、これらの祝日に日曜日が当たる場合は休日が増えることになるのだが、残念ながら、今年は、4月29日の後の4月30日、5月1日(日曜)の後の5月2日も平日と、飛び石連休になっており、有給などで休める人は良いが、ちょっと残念な人も多いだろうね。

日本国憲法(新憲法)の時代になり、宗教政治は切り離さないといけないと決められれている(政教分離の原則参照)。
戦前は「天皇」はとして崇められており、その誕生日は「祝日」として扱われていた。しかし戦後、天皇は神ではなく「日本国民統合の象徴」(象徴天皇制)という新しい意味を持つようになった。その事を受け、天皇を神格化した行事では無く天皇の誕生日を純粋にお祝いし、国民と天皇との距離を縮めることを目的とした日として「天皇誕生日」が設けられた。
戦前までの天長節は、「天皇誕生日」と名をかえ「天皇の誕生日を祝う日」として今上天皇の誕生日12月23日に設定され、明治天皇の誕生日、旧暦(嘉永5年)の9月22日は新暦(1852年)の11月3日に、「自由と平和を愛し、文化をすすめる」日として、現在の「文化の日」として残されている。
この日は新憲法公布の日(1946年11月3日。因みに施行は翌1947年5月3日)にもあたり、前半はそのスローガンである「自由平和」をとり、後半の「文化をすすめる」は明治時代の近代化政策により、飛躍的に社会の生活・文化が発展したことをふまえている。新憲法の公布日をこの日に設定することには色々とGHQにも気を使わねばならなかったようだ(※5参照)。この日は、まさに明治と新生日本を記念する日ではある。そして、昭和天皇の誕生日は、亡くなられた後に現在の名称に改名され残されている。
ただ、なぜか、昭和天皇の父君である大正天皇の天長節由来の休日(8月31日か8月は酷暑のため10月31日にずらして実施されたことあり)が現在祝日として残っていない。
大正天皇は、明治45年/大正元年(1912年)践祚後1915年(大正4年)に即位の礼を行っているが、明治天皇と異なり政治的な判断が不得手でこの面の力が無かったたようであり、また、生まれて以降病弱であったため大正6年(1917年)頃から、公務や心労が病の悪化に輪をかけ、公務を休むことが多くなり、大正10年(1921年)末には、当時二十歳であった皇太子裕仁親王(昭和天皇)が摂政となり、それ以降公務は、ほとんど皇太子が行なっていたという事実がある。
この頃、第一次世界大戦(1914年~1918年)末期の1917年(大正6年)ロシア革命(二月革命や十月革命)や1918年(大正7年)のドイツ革命(11月革命とも言う)などによって次々と帝政(帝国)は崩壊し、その影響はヨーロッパや日本にも及んでいた。そして、国内でも「大正デモクラシー」による労働運動・小作争議の高まりで「革命」の危機感があった時代でもある。天皇が病弱であることで、国内の統治秩序に問題が生じれば、天皇の権威を失墜させることにもなるので、元気で聡明な皇太子裕仁親王(昭和天皇)に公務をゆだねざるを得なかった・・・。この辺のことが原因になっているのかも知れないが、本当のところはよくわからない。
「祝日法」第一条には、「自由と平和を求めてやまない日本国民は、美しい風習を育てつつ、よりよき社会、より豊かな生活を築きあげるために、ここに国民こぞつて祝い、感謝し、又は記念する日を定め、これを「国民の祝日」と名づける。」としている。
「憲法」や「天皇」の話になると、戦後いろいろな意見も出てくるのだが、ここは、あまり難しく考えずに、「祝日法」の趣旨や意義を考える日にしてもよいのではないだろうか。
祝日法における「昭和の日」は「激動の日々を経て、復興を遂げた昭和の時代を顧み、国の将来に思いをいたす。」ことをその意義としている・・・。
それでは、1年に一度は廻ってくるこの日に、昭和天皇とともにあった昭和の時代を改めて見つめ直してみよう。
昭和の時代は、「昭和」の元号を冠した時代(1926年~1989年)を指すが、「昭和」は、日本の歴代元号の中で最も長く続いた元号であり、元年と64年は使用期間が共に7日間であるため実際の時間としては62年と14日にもなり、外国の元号を含めても最も長く続いた元号であり、歴史上60年以上続いた元号は日本の昭和(64年)と、康熙(61年)と乾隆(60年)しかない。
その特徴は,明治時代,大正時代のように,ある特定のイメージで語られる時代とはいえないだろう。それは、第2次世界大戦の敗北とその後の改革による変動があまりにも大きく,戦前と戦後(1945年=昭和20年以降)とは,まったく違った時代といってもよいほどの大きな変化を遂げているからである。
急速な技術進歩を続ける20世紀は、2度の世界大戦(第一次、第二次世界大戦)に象徴されるように、それまでの時代と異なり、国土そのものを破壊する大規模近代戦争を伴う動乱の時代でもあった。
日本は国内的には立憲君主制の体裁をとり、当初の藩閥政治を脱して、1920年代には政党内閣を構成するようになった。
しかし、政党政治がその一面で見せた腐敗は、相次ぐ不況(第一次世界大戦後の戦後恐慌昭和恐慌も参照)下で困窮する国民の不信と怒りを買い、大陸(満州)への進出(侵略と呼ばれている)による事態の打開と国家改造を志向する勢力の台頭を招く。
1920年代末から独立性を強めた軍部は、昭和5年(1930年)以降は政府の意思に反した軍事活動や戦闘を多数引き起こし(1931年の 柳条湖事件をきっかけに[ =満州事変が起こる])、相次ぐ軍事クーデター(1932年五・一五事件から1936年二・二六事件)により、ついには政党政治を葬り去った。
この事件の後、社会主義者だけでなく、自由主義者に 対する取り締まりも行われ、国家主義に反するとみられた思想や言論は、強く制限を受けるようになった(言論統制)。
昭和55年(1980年)に、高倉健吉永小百合の初共演により話題を呼んだ森谷司郎監督作品映画『動乱 』の背景は、昭和7年から昭和11年。経済恐慌と凶作が重なり苦しみを強いられる庶民たち、皇道派統制派に分裂する陸軍内部、昭和維新の声が高まる皇道派の青年将校たち、そして決起される二つのクーデター(昭和史の起点となった五・一五事件[犬養毅首相暗殺]から二・二六事件[クーデター未遂])までの風雲急を告げる動乱の中、時代の波に翻弄されながらも信念を貫き生きる寡黙な青年将校(高倉健演じる宮城啓介大尉{ モデルは実在の安藤輝三})と、その妻との愛と生きざまを、一大叙事詩として二部構成の雄大なスケールで綴った感動のドラマとして描かれている。


二・二六事件収束の後、昭和12年(1937年)3月末内閣総辞職した岡田内閣の後の林銑十郎内閣は、成立2か月後の5月31日には総辞職となり、6月4日に第一次近衛文麿内閣が成立する。
中国では西安事件で拉致された蒋介石周恩来の間で国共合作が成立して、抗日闘争が進めら(第二次国共合作)、同年盧溝橋で日中両軍が衝突し(盧溝橋事件)、停戦協定後も通州事件第二次上海事変などが続き、日中戦争支那事変)が始まった。
戦線の拡大に従って, 思想統制が導入され、国家総動員法も成立。
その後、昭和14年(1939年)1月に平沼騏一郎内閣が誕生後、2月に軍部は南支那海海南島を占領し、3月にはフィリピン西方海上の無人諸島の領有を宣言して新南群島(南沙諸島参照)と名付け領土として、台湾高雄市に編入される。
この軍事行動は英米を大きく刺激した。また6月には天津の英仏租界を封鎖した 。天津事件という(※6;「クリック 20世紀」のここ参照)。
その間満洲では5月には、ノモンハン事件などで衝突している。そして、7月になるとアメリカが日米通商航海条約を破棄したのでイギリスの対応も変わり日英会談も決裂した(日英関係)。
ここから日本による米英敵視が顕在化した。そして、 昭和16年(1941年)イギリスからも日英通商航海条約を破棄され、日本国内では「ABCD包囲網による経済封鎖」への対抗として開戦論が高まり、12月8日、太平洋戦争が勃発すると、東條内閣で参戦が閣議で決定され今でいう第二次世界大戦へ突入した。
結果的に、昭和20年(1945年)硫黄島の戦いに敗れ、硫黄島が陥落。 その前年から、アメリカ陸軍航空隊のボーイング B-29爆撃機による日本本土空襲が本格化し,、低高度による夜間無差別爆撃焼夷弾攻撃が行われるようになり、東京、大阪、名古屋、横浜、そしてわが地元神戸神戸大空襲参照)の百万都市の他、仙台、福岡、岡山、富山、徳島、熊本、佐世保など、全国の中小各都市も空襲にさらされる事になった。
それでも一億総玉砕を掲げた東條内閣は戦争をやめようとはせず、8月6日に広島市への原子爆弾投下、8月9日には長崎市への原子爆弾投下により、何十万人もの死傷者を出して、やっと、8月14日の昭和天皇臨席の御前会議で、ポツダム宣言受諾を承認。
この決定は8月15日正午に、昭和天皇自らの日本放送協会のラジオ放送(いわゆる玉音放送)により内地・外地の国民に伝えられ,やっと終戦にこぎつけたのである。,
私は、当時神戸に住んでいられなくなったので、父型の親戚のある高砂市疎開し、そこで幼稚園に入ったが、その高砂も軍事工場のある工業都市だったので攻撃が激しくなり危険になった為、今度は母方の実家徳島へ疎開し、そこで小学校に入り、終戦を迎え、誰もが、玉音放送を聞きながら泣いていたのを覚えているが、まだ、小学校の私などには 、酷い戦争が終わってやっと、暗い毎日から解放され嬉しいはずなのに、皆が泣いているのを、その時は、奇妙にさえ感じていたのを覚えている。


昭和の日」その2へ続く


冒頭の画像は旭日旗を持つ、迪宮裕仁親王
参考
※1:平成28年(2016年)熊本地震の関連情報 - 気象庁
http://www.jma.go.jp/jma/menu/h28_kumamoto_jishin_menu.html
※2:日本記念日協会
http://www.kinenbi.gr.jp/
※3:参議院会議録情報 第162回国会 内閣委員会 第9号
http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/sangiin/162/0058/16205120058009c.html
※4:国民の祝日に関する法律(昭和23年法律第178号)
http://www.geocities.jp/nakanolib/hou/hs23-178.htm
※5:新憲法の公布日をめぐる議論 | 日本国憲法の誕生 - 国立国会図書館
http://www.ndl.go.jp/constitution/shiryo/04/002_44shoshi.html
※6;クリック 20世紀
http://www.c20.jp/index.html

国際ノーダイエットデー

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今日・5月6日の記念日に「国際ノーダイエットデー」があった。
イギリスのフェミニストのメリー・エヴァンス・ヤングが提唱。世間のダイエットへのプレッシャー(pressure=圧力や精神的重圧)に対抗し、ダイエットによる健康への影響を訴える日だそうである( Wikipedia-5月6日参照)。

フェミニスト(英: Feminist)とは、社会における伝統的な女性概念による束縛からの解放を唱え、女権獲得・女権拡張・男女同権を目指すフェミニズムを主張する人の事であるが、メリー・エヴァンス・ヤングって人って、一体どんな人なのだろう?
良く知らないのでネットで検索してみると、ウィキペディア英語版の「International No Diet Day」があり、その「和訳」を見ると、直訳のためよく理解できないところも多く、正確でないかもしれないが、
「国際ノーダイエットデー」は英国のフェミニスト、メリー・エヴァンス・ヤング(Mary Evans Young)によって、1992年に作られ英国で祝われたのが最初のようだ。
彼女は『ダイエットブレイキング』(Diet Breaking)という本を書いており、それがイギリスでベストセラーになっているそうだ。肥えていたために学校でいじめられた経験を持つ彼女は、ダイエットのやり方を間違って自身も拒食症を経験したようだ。そんな彼女がダイエットのし過ぎで拒食症になる危険についてのことを書いているようだ。

上掲の画像はメリー・エヴァンス・ヤングとその著書『ダイエットブレイキング』(amazonより)
当時は特に記念日の日付までは決まっていなかったようだが、どうせなら国際的に、特に大きな記念日と重複しない方が良いということになり、5月6日としたが、この日は、偶然にもメリーの誕生日と一緒ということで決まったそうだ。

ダイエットとは、英語の diet の音訳であり、本来、「規定食」(一定の計画に従って調製する食事という意味)のことであり、美容健康保持のために、食事の質や量を制限することである。
先進国の人々は統計的に見ると栄養過多の傾向があり、肥満に陥ってしまう人が非常に多くなり、結果として diet を行う人の比率を見ると痩せるために行っている人が多いので、「diet」が "痩せるための規定食、という意味で使われている比率が多いようだ。そのことからか、日本では、「ダイエット=運動や食事制限によって痩せること」と解釈している人が多くいるようだが、これは誤解であって「運動や食事量を管理して、適正な体重にしていくこと」が「ダイエット」の本来の意味であり、ダイエットには、肥満対策以外に、健康のためにも行われることがある。
また、拒食症とは、正しくは「神経性無食欲症」(英: Anorexia nervosa ; AN)という病気のことであり、神経性やせ症とも呼ばれる、病的な痩せを呈する摂食障害(中枢性摂食異常症とも呼ばれる※1参照)であり、厚生労働省の難治性疾患(難病)の一つに指定されている精神疾患の一種である。無理な食事制限や絶食(食物摂取の不良または拒否)をくり返した結果、自分の意思とは関係なくカラダが食べ物を受けつけなくなり、極端な体重減少を特徴とするが、一般には拒食症ともよばれている(※2のこころの病気を知る>病名から知る >摂食障害 ,専門的な情報>摂食障害や※3参照)。
本来、摂食障害は大きく拒食症と、過食症に分類される。拒食と過食は相反するもののように捉えがちだが、拒食症から過食症に移行するケースが約60 - 70%みられたり、「極端なやせ願望」あるいは「肥満恐怖」などが共通し、病気のステージが異なるだけの同一疾患と考えられている。よって拒食症、過食症を区別する指標は、基本的には正常最低限体重を維持しているかどうかのみである。アメリカでは平均体重の85%以下が拒食症に分類されているが、日本では80%以下とされている((※3 の診断基準、)。
摂食障害患者は、特に10代~20代の女性が圧倒的に多い(全体の90%が女性)のが特徴だそうだが、これら若い女性のもつ重大な症状のひとつに、自分の身体像の捉え方に歪みがある場合が多いと考えられている。自分の身体像とは、自分がどういう体型をしているか、など自分自身の見た目に対する客観的なイメージのことであるが、自分の身体像を正確に認識できないことを「ボディーイメージの障害」というらしい。
特に若い女性などの場合、自分の体型がやせ細っているにもかかわらず、それを正確に認識できない。つまり、 細い体を見ても細いとは思えず、太く見え、「自分は太っている」と考えてしまうようである。「やせたい」という強い思いがあるため、本人はなかなか治療もしたがらないそうだ。
テレビなどに登場する最近の美人女優やモデルなど見ていても昔などから比べると、本当に細い人が多く、現代社会では痩身イコール女性美と考える社会風潮があるような気がする。
女性が綺麗になりたいと感じた時、まず最初に取り掛かることの多いのがダイエットではないか。そんな女性の永遠のテーマである「ダイエット」。
一口にダイエットと言っても、人にはそれぞれの体質があり、その人に応じたダイエットが必要なはずなのだが、何かそれを誤って、美しくなりいたい一心から「ボディーイメージの障害」に陥り、拒食症になる女性を増やす要因になっているという見方があるようだ。
では、そもそも日本のそんなダイエットの始まりいつごろからだろうか?
1920年代(大正末期から昭和初期頃)、世界経済の好調を背景に、海外では食生活、ダイエットにも影響を与え、スリムで若々しいことが理想とされはじめた。
日本でもこのころから、女性の社会進出は進み、仕事、娯楽などで外出する機会の増えた一般の女性に化粧の習慣が普及した。そして、フラッパーモダンガールなどと呼ばれる、新しい価値観を体現した女性が出現。同時に、これら日本女性の性的魅力も重要となり、スリムで若々しいことが理想となった。
1930年代、海外の女性の理想像は、グラマーといわれ、成熟した大人の魅力が理想とされていた。よりいっそうのダイエットと体型をつくるコルセットなどの下着が必要となり、ダイエットが、身体だけでなく、心・魂の問題であることが強調されるようにもなる。
この当時の日本女性は柳腰が美しいスタイルといわれてはいたが、大根足に短足、腰にクビレはなく、お尻は扁平という
安産型(※4参照)であり、コルセットなどまだまだ苦しくて多くの人は身につけられなかったであろう。
その後大戦で、女性も、おしゃれどころではなくなった。戦後もやっと落ち着き始めると、
1950年代、アメリカ人のような顔立ちに憧れる女性が増え、目を二重にする手術や鼻を高くする手術などの美容整形の需要、ダイエット・エステなどの需要も高まっていき、身体は「つくられるもの」となり、それが自己表現とされるようにもなった。
当時、男性はギリシア彫刻にみられるような肉体や筋肉を、女性はマリリン・モンローが時代のシンボルとなり、女らしいシルエットが理想とされた。
1960年代にはいると高度経済成長とともに物流が発展し、モノが溢れ、日本の暮らしは豊かになるが、一番の変化は町が明るくなったことである。
そして、服飾の華やかさも目立ってきた。街を歩く女性の健康一杯の足がミニスカートからのぞくようになったと思うといつのまにか、男子もオシャレになり、街から大学生の角帽が姿を消し黒い詰襟もなくなった。と、同時に肥満が問題となり始めた。
以前このブログ「ミニスカートの日」でも書いたことがあるが、ミニスカートは、1959年にイギリスのファッション・デザイナーナーマリー・クワントがロンドンの若者向けに売り出し、1965年にはパリコレで発表。その後、イギリス出身のモデルツイッギー(TWIGGY)が着用してブームを呼び起こし、60年代に入ってミニスカートは世界中に広がった。そして、ツイッギーはミニの女王と呼ばれるようになる。
日本でもクレージュのコレクションに触発されたアパレルメーカーがミニスカートを採り入れたが、一大ブームのきっかけとなったのは、同じくイギリスのスーパースタービートルズ(1966年)の来日に続く、翌・1967(昭和42)年10月18日の「ミニの女王」“ツィギー”、の来日であった。空港にはキュロット姿で現れたが、来日記者会見では最先端のひざ上30センチの超ミニ姿で現われ注目を集めた。

上掲の画像は、ミニスカートのツィッギー。10月19日東京永田町のホテルで。『朝日クロニクル週刊20世紀』1967年号より。
ファッションモデルとしては、168cmと背が低く、体重41キロ、バストはたったの79センチしかないかぼそい妖精のような女の子(デビューは15歳)で、しかもファニー・フェイス(funny「おかしな」+face。)で美貌というわけではないが,個性的で魅力ある顔立ちで、その名“ツィギー(TWIGGY、「小枝」という意味)”の通り小柄で華奢な体型に、ミニスカートやAラインの服は本当によく似合った。そして、ショートカットの彼女には中性的な魅力もあり「アンドロギュナス(両性体)」とも呼ばれていた。
ツイッギーの来日の影響を受け、ミニスカートが、中高年の女性も巻き込んで日本で爆発的に流行するのは翌1978(昭和53)年からだが、1967(昭和42)年には、すでに町の風俗として定着している。町を歩く女性はミニスカートばかり。ヒップボーンやAラインのミニスカートなど様々なデザインのミニスカートが、町を華やかにしていた。
このツィッギーの出現はそれまでの女性の身体意識をも大きく変えた。その1つは、BWH(スリーサイズ)のめりはりのあるカラダが女らしいというそれまでの「常識」を打ち破り、やせていることがおしゃれでかっこいいといった価値観を高めたこと。そして、もう1つは、従来の「成熟」した美しさよりも、「若さ=未成熟」こそがすばらしいことを認知させたことである。
そのスカート丈は年々短くなり、1966年には膝上10cm、1968年にはマイクロミニと呼ばれる膝上30cmのスカートが登場する。と、同時に肥満が問題となり始めた。こんなミニスカートに、大根足、短足、安産型の体系が気になるのは仕方がないだろう。
そのスカート丈は年々短くなり、1966年には膝上10cm、1968年にはマイクロミニと呼ばれる膝上30cmのスカートが登場する。と、同時に肥満が問題となり始めた。こんなミニスカートに、大根足,短足、安産型の体系が気になるのは仕方がないだろう、
神経性無食欲症(拒食症)が爆発的に増加したのは、1960年代から1970年代にかけてと言われている。つまり、ツイッギーが登場した頃からである。
「妖精」と謳われた華奢な体型の彼女は、ロンドンで行われた人気アンケートで年々順位を上げ、1976年には首位になっていたという。
社会の価値観がそれまでのグラマラスな女性像から、スリムな女性が理想像として迎えられるようになり、「やせることが女性にとって価値があること」になってしまった。摂食障害の人にとっては、この「価値があること」がキーワードなのだそうだ。
自分には何の取り柄も無いという自己不信を根底に抱える人は、その抑うつを防衛するために、人とは際立って違う、優れた、特別な自分であり続けなければならないそうだ。彼女らは幼い頃から常に「自分が自分以上でなければならない」という強迫観念に支配されているのだそうである。
やせを実現するには、食欲を抑え、自分に打ち克つ必要がある。やせる事に成功した時には、自分をコントロールすることが出来たという万能感(※5も参照)が得られる。幼い頃から課題に挑戦し、自分に打ち克って結果を得てきた彼女らは、結果を出す事で得られる賞賛と万能感により、中核にある自己不信(ここを参照)を救済するのだという(市橋秀夫「肥満恐怖の社会文化的影響」、『精神科治療学』第12巻第12号、1997年、 1405-1412頁)。
私などに病状の詳しいことはよくわからない。詳細は※1,2,3また「摂食障害#病理学」を参照されるとよい。
昨・2015(平成27年)年10月日、 NHKのクローズアップ現代で、「ニッポンの女性の“やせすぎ”!?」問題が取り上げられていた(※6の ここ参照)。
その中で、「今、日本人女性の8人に1人は “やせすぎ”ており、その割合は戦後最多を記録。中でも20代女性の平均摂取カロリーは食糧難だった終戦直後を下回る1628kcalで、世界的にも異例の低水準にあることが国の調査で判明した。なぜ飽食の時代に日本女性はやせるのか。やせ女性の全国実態調査に乗り出した民間団体によると、その背景には、生活スタイル変化の中での「長時間労働」や「孤食」があるという。さらに本来は男性市場をターゲットにしたメタボ予防商品が忙しい女性に売り上げを伸ばし、結果的に「やせ」を促進していることなどが見えてきた。・・・という(※7ではもっと詳しく書かれている)。
やせすぎの女性は若い時に蓄えておくべき「骨の貯金」がないため、年をとると骨が弱くなり、骨粗鬆症(こつそしょうしょう)になりやすい。そして、問題は女性本人の健康だけには終わらず、危険は次世代にも及び、やせて栄養状態の悪い母親から生まれた赤ちゃんは低出生体重児になる可能性も高くなるともいう。
今やダイエットに関する情報などはありすぎるほどある。テレビなどの報道だけでなく、インターネットでダイエットとを検索をすると様々なダイエット方法がヒットし、本屋に行けばダイエットに関するレシピ本もたくさん並んでいる。しかし、ダイエットと一口に言っても、人にはそれぞれの体質があり、医者などにも相談しながらどのようなダイエットの仕方をするかを間違えてはいけないだろう。
まずは「国際ノーダイエットデー」のこの日に、無理なダイエットをしていないかを考えてみるのもいいかもしれない。
肥満度を表す指標として国際的に用いられている体格指数にボディマス指数(Body Mass Index)、一般に「BMI 」と呼ばれているものがある。この指数は、[体重(kg)]÷[身長(m)の2乗]で求められている(身長はcmではなくmで計算)。
計算方法は世界共通だが、肥満の判定基準は国によって異なり、WHO(世界保健機構)の基準ではBMI:25以上を「過体重 (overweight)」、30以上を「肥満 (obese)」としており、欧米諸国は大体がこの基準と同様だそうであるが、日本肥満学会の定めた基準では、BMI:
18.5未満が「低体重(やせ)」、18.5以上25未満が「普通体重」、25以上が「肥満」としているようだ。
因みに、1967(昭和42)年10月に、来日した時のツイッギー(18歳)の当時のサイズは身長168cm、体重41kgだと言われている。
それでは彼女の痩せ度はどのくらいだったのだろうか。
計算結果は、BMI:14.5 kg/m2。肥満度-34.1 %。肥満の判定:低体重。
身長168cmの人の理想体重は、62.1 kgなければならなかったのだから、彼女は単に痩せ型というよりも、超痩せ型である。
一日摂取カロリーの目安は、超痩せ型の彼女は、生活活動度が軽労作でも、1863 kcalは必要、生活活動度が中等度なら、2174kcalは必要ということになるようだ。
それでは、皆さんも、以下で自分のBMIを計算してみてください。※2厚生労働省の摂食障害のサイン・症状のところでも計算できるがこちらの方が細かくできる。
肥満度の計算
そして、判定結果を「BMIと肥満の判定基準」と照らし合わせてみよう。普通の人(18~49歳)なら、18.5未満なら低体重(痩せ型)です。あなたは、どうでしたか?
「1日に必要なカロリー」については、あまり違いはないが、慎重に以下の日本医師会のものでやっって見た方が良いかも・・・。
「1日に必要なカロリー」 -日本医師会

ファッションの中心地フランスでは、2015年4月に、痩せすぎたモデルの雇用を禁止する法案が可決されており、この法案の可決に先立って、「過度の細さ」を扇動した者に対し、1年以下の禁錮刑と1万ユーロ(約130万円)以下の罰金を科す修正法案も可決されていたというのだが・・・(※8参照)。

日本では、1990年代には、ともさかりえ宮沢りえが拒食症による極端なやせ方をしていたことがあったし、鈴木明子(フィギュアスケート)、女優の釈由美子なども拒食・過食嘔吐体験をマスコミにカミングアウトしていた。
私はあまり、最近の若いタレントのことはよく知らないが、テレビなどでは、今でもやせ過ぎの人を見かけるのだが・・・。日本の対応は遅いなきがするが・・・。
いろいろ検索していると、面白いユーチューブが見つかった。『Perceptions of Perfections』と名付けられたプロジェクトが、女性の完璧なボディの認識を確認する実験を行ったそうだ。この実験では、世界18カ国のデザイナーが、ある女性の写真をフォトショップで「完璧な女性」に加工するというシンプルなものだが、さて、実験に使われたオリジナルの写真を、18カ国のデザイナーが加工した完璧な女性のボディとはどんなものだったと思いますか?以下をご覧あれ。


これを見て、日本女性は「ウソ!」と思う人が多いかもしれない。今でも、男性は痩せ型より、グラマラスな女性を好んでいるのではないかな?。
今の日本では女性だけでなく男性でも痩せ型が流行っているようだ。昔と比べてひょろひょろと細くて背は高くなったが、顔は小さい。
私など一世代前のものは、背が低くて顔も大きかった。そんな時代八頭身か理想とされた。八頭身というのは、頭(顔)が身長の1/8ということ。 身長160cmなら顔の長さが20cm。 それぐらいが1番バランスが、良いと言われた。 しかし、現代風の小顔なら9頭身かそれ以上になっている人も多いのでは?
もうそうなれば、 バランスが悪くて、かえって貧弱に見える。背が高くなったのなら、もう少し顔も大きければよいのだが・・。それにお尻(骨盤)が小さくなった。男性でも女性でも外人などはお尻が大きいので、バランスが取れているのだが、日本人の場合は尻すぼみで、足も細すぎ、股の間から向こうの景色が見える感じで、本当に貧弱に思える人が多いのは、7頭身の私だけのひがみだろうか?
男性は意外に、ぽっちゃり形が好きだと思って、あまり、細身にこだわらず、美味しいものを食べた方が得だと思うのだがね~。

参考:
※1:難病情報センター | 中枢性摂食異常症に関する調査研究
http://www.nanbyou.or.jp/entry/1552
※2摂食障害|病名から知る|こころの病気を知る|メンタルヘルス - 厚生労働省
http://www.mhlw.go.jp/kokoro/know/disease_eat.html
※3 :摂食障害ガイド
http://sesshoku.org/
※4:安産型ってどんな体型?おしりや骨盤が広いだけではなかった
http://ikejo.net/anzangata-taikei-4007
※5:万能感とは何か~「自由な自分」取りもどす心理学
http://www.kanshin.com/keyword/327571
※6:クローズアップ現代-NHK
http://www.nhk.or.jp/gendai/archives/201602/index.html
※7:日本女性「やせすぎ」で限界寸前 摂取カロリーは戦後の食糧難より低い
http://www.j-cast.com/healthcare/2015/10/31249249.html
※8:フランス、「痩せ過ぎ」モデルを禁止する法案可決-AFP
http://www.afpbb.com/articles/-/3044509
国民健康・栄養調査
http://www.mhlw.go.jp/bunya/kenkou/kenkou_eiyou_chousa.html
摂食障害の死亡率 - 井出草平の研究ノート
http://d.hatena.ne.jp/iDES/20060628/1151491169

ココモ(Kokomo)=カクテルの日

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ココモ(Kokomo)」という曲知っていますか。
アメリカのロックバンドザ・ビーチ・ボーイズが1988年に発表したシングル。厳密にはビーチ・ボーイズのシングルでなく、リトル・リチャードとのスプリット盤という形でリリースされたもの。
ロジャー・ドナルドソン監督、トム・クルーズ主演の映画『カクテル - KINENOTE参照)の主題歌で、バンドは「グッド・ヴァイブレーション」(1966年)以来22年ぶりにBillboard Hot 100での1位獲得を果たした。

今日(5月13日)は、「カクテルの日」で、アメリカの雑誌『バランス』の1806年5月13日号に、「カクテル」という名称が初めて登場したことによるそうだが、この記念日「カクテルの日」のことは依然このブログで書いたことがある。
ここ → 「カクテルの日

それなのに、また今日書いたのは、「ココモ(Kokomo)」という曲が非常にいい曲なのだが、前回はこのブログにまだ、YouTubeの貼り付け方を知らなかったから、すごく良い曲なのでここに、貼り付けて聞いてみたくてまた書いただけ。




「Kokomo」の歌詞はこちら→Kokomo

タイトルの「ココモ」(Kokomo)は、以前はココモ島と呼ばれていた現在のSandals Cayに当たるジャマイカのリゾート地のことらしい。
映画『カクテル』は題名の通り、バーテンダーである登場人物の手によって様々なカクテルが登場する。
田舎の青年、兵役あがりのブライアン(トム・クルーズ)が一攫千金を夢見てニューヨークにやってくるところから始まるこの物語の内容は、主人公の青年ブライアンが、就職活動が難航し、ふとしたきっかけから、一時しのぎのつもりでバーテンダーのアルバイトを始める。オーナーのダグラス(ブライアン・ブラウン)とコンビを組み、派手なバーテティングで評判を呼んで快調な滑り出しをみせるが、やがて二人は仲違いし、別々の人生を歩んでいく。…といったもの。
映画のカテゴリーとしては、青春群像劇といえるもので、野望、出世、金、挫折と成功、師弟関係、友情、恋愛、幸福感などのテーマが入り混じった物語構成で、主人公が人生のアップダウンを繰り返しながら、大切な愛を掴むまでが描かれているが、作品自体の興行成績は各国で良好であったそうだが、この作品、毎年アカデミー賞授賞式の前夜にその年の「最低」の映画を選んで表彰するゴールデンラズベリー賞の作品賞と脚本賞に選ばれており、単なるアイドル映画として扱われることが多いようだ。主演のトム・クルーズも自身の出演映画ワースト4に入れているそうで、この映画に関して多くを語りたがらないという。

しかし、映画の内容評価はどうでもよい。私も大好きな運動神経抜群のトム・クルーズ(当時まだ20代)とブライアン・ブラウのふたりがカクテルを作る時の、あのフレアバーテンディングをする場面は最高。このシーンを見て、ウットリさせられた女性も多かったのではないかな・・・。
このシーンがもう一度見たい。先に揚げた動画は「ココモ」(Kokomo)の演奏シーンだが、以下は、映画『カクテル』での恰好良いフレアバーテンディングシーンが堪能できる。これが見たくて、今日もこのブログを書いた次第。みなさんも一緒に楽しんでください。
!-- Cocktail - Tom Cruise (カクテル) -->

お友達

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サイト名お友達のホームページmidnight coffeeHN:MAKIKO。詩とフラッシュが素晴らしい。愛知県。Bd:5、10mizunomaiHN:ゆかり。東京の女性。趣味は映画。音楽綺麗なもの・花とか。
ai-love's Roomも同じゆかりさんのHPレモン記念日HN:きっちん。朗読劇をされている。埼玉市。主婦。港町神戸の魅力 HN:ひきた。男性。神戸市。趣味:アマチュア無線、ハイキングHideko'sWebsiteHN:hideko。北海道。趣味:社交ダンス、温泉。夢・・・!!HN:まみ。茨城県在住。夢多いおとめ。趣味:音楽。Bd:1,15白百合の小部屋HN:ゆりあ。浜松市。【趣味】演劇鑑賞、骨董など多趣味。リリピーの小部屋HN:リリピー。趣味:映画鑑賞。二人三脚HN:ゆう。富山市。男性。趣味:パソコン:デジカメ:旅行 。TOMIKOKOのHP神戸宝塚の人らしい。写真を撮るのが趣味のよう。故郷の便りHN:ようちゃん 大分の人。タイトル通り、故郷”大分”の 案内をしてます。 みんなの広場HN:清盛。写真がお好き、たくさんの写真集がある新規サイト備考



    

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疑わしきは罰せず

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上掲の画像は「白鳥事件」犯行声明ともみられるアジビラ
画像クリックで拡大。刑事裁判は、犯罪を起こした疑いのある人が本当に犯罪を行ったのか(有罪か無罪か)。もし行ったとしたのならどの程度の刑罰を与えるのか(懲役や罰金など)などを決める裁判のことである。
「疑わしきは罰せず」(ラテン語:in dubio pro reo)は、ラテン語の直訳から「疑わしきは被告人の利益に」ともいう。
刑事訴訟(刑事訴訟法参照)において、被告人が有罪だということに「合理的な疑い」(※1)が残らないほどまでに、検察官証明しなければ、裁判所は被告人を有罪にしてはならないという原則を示す法諺(ほうげん)なのである。
その萌芽)は、すでにローマ法にみいだすことができるが、刑事訴訟においてこの原則が確立するのは、近代になって人権の尊重が強調されるようになってからであるらしい。被告人は「無罪の推定」(推定無罪参照)を受けるという原則と同じ意味をもつ。
つまり、「疑わしきは罰せず」の言葉は事実認定の過程を裁判官の側から表現したものであり、これを、当事者側から表現した言葉が「推定無罪」であり、ふたつの言葉は表裏一体をなしている。
フランス革命の際に発せられた人権宣言(人間と市民の権利の宣言)は、「すべての者は、犯罪者と宣告されるまでは、無罪と推定されるものである・・・」(9条。ここ参照)と規定し、世界人権宣言(1948年)も、「犯罪の訴追を受けた者は、・・・・法律に従って有罪の立証があるまでは、無罪と推定される権利を有する。」(第十一条の1。※2参照)として、この原則を明言している。
したがって、すべての者は、犯罪者と宣告されるまでは、無罪と推定されるものであるから、その逮捕が不可欠と判定されても、その身柄を確実にするため必要でないようなすべての強制処置は、法律により非常にきびしくに抑圧されなければならない(日本大百科全書(ニッポニカ)の解説)。
このように、刑事訴訟法では、訴える側に立証責任(証明責任)が有り、その証拠がなければ、裁判官は判決を下す事が出来ない。
その証明の程度としては、「合理的な疑いを差し挟まない程度まで」検察官が証明することが要求される。つまり、その証拠証明が、「合理的である」と裁判官が認められない場合、「疑わしきは罰せず」となるのである。
日本の場合、この「疑わしきは罰せず」は、戦後の「白鳥事件」の頃から、目立って来たのではないだろうか。この概念自体は以前から有っただろうが、「合理的である」証拠が重要とされたのは、近代になってから、1975(昭和50)年5月の「白鳥事件」の再審請求で、最高裁が「白鳥決定」で、「疑わしきは被告人の利益に」という原則を再審にも適用するとの判断を示して以降、冤罪の差し戻しが増えたのではないかと言われている。
しかし、皆さんはこの「白鳥事件」についてどのくらいのことをご存じですか?
「白鳥事件」とは、1952(昭和27)年1月21日に札幌市警本部警備課長白鳥一雄警部が射殺された事件である。・・・が、その詳細は、正直、私もよくわからない。
このような近代の歴史的なことについては、私はいつも参考にしている蔵書・朝日新聞出版の分冊百科『朝日クロニクル週刊20世紀』(ここ参照)や毎日新聞社版の『戦後50年史』などを手掛かりにし、これをもとに、ネットなどで調べながら書いているのだが、残念ながらこのどちらにも、詳しいことは何も書かれていない。
「白鳥事件」が発生した1952(昭和27)年の重大ニュー(国内)としては、以下のようなものがある(※4,※5参照)。
(1)4月28日、「サンフランシスコ講和条約」(日本国との平和条約)が発効し、GHQが廃止され、外国軍隊の占領から解放され主権が回復されたこと(ただし、沖縄皇居外苑で「血のメーデー事件」が発生したこと。デモ隊警察部隊とが衝突した騒乱事件であり、事件は一部の左翼団体暴力革命準備の実践の一環として行われたものと見られている(第13回国会本会議において木村篤太郎法務総裁より事件の概況、被害状況、その後の取締り及び背後関係に関する陳述。※3参照)。戦後の学生運動で初の死者を出した事件である。
(3 )4月9日の伊豆大島に旅客機(愛称「もく星号」)が墜落した航空事故「もく星号墜落事故」がある。戦後最初の旅客機として前年10がに就航した日本航空機が乗客乗員37名を載せて伊豆大島に衝突。一時は「全員救助」の情報も流れたが、24時間後原型をとどめない機体の残骸が発見された(乗客乗員全員が死亡)。当時の日本は敗戦による被占領下(日本国との平和条約が締結され占領が解かれたのは月末)[にあり、日本の空を日本人による自主的航空運営が認められていなかったが、アメリカ軍の協力も得られず事故の原因は不明のままである。
上掲の(1)~(3)については、『朝日クロニクル週刊20世紀』の1952年号にも詳しく書かれているが、「白鳥事件」のことについては、(2)5月1日の「血のメーデー事件」を取り上げた“地おメーデー、日本革命の夢はるか”と題して書かれている、2Pから5Pまでの記事の中に、「白鳥事件」としての記事といえるものはなく、冒頭の画像を掲載し、その添え書きとして、以下のように書かれているだけである。
白鳥事件
1月21日に札幌市警本部警備課長白鳥一雄(かずお)警部(36)が射殺されたる。白鳥警部が、労働運動や共産党対策にあたっていたことから、警察は共産党関係者の犯行と判断いた。一方、事件の3日後、犯行声明とも思える日共札幌委員会名義のアジビラ(冒頭の写真。画像クリックで拡大)が札幌市内でばらまかれた。共産党員が逮捕され、75年最高裁で有罪が確定したが、はっきりした証拠はなく、後味の悪い結末となった。97年、当時の容疑者の1人が中国で生存していることが分かった。
・・・と。
そして、このページの記事の下の欄外に、白鳥事件の影響として、「最高裁判決では、最審請求について、新証拠などによって確定判決事実認定に合理的な疑いが生じた場合、「疑わしくは被告人の利益に」という刑事裁判の鉄則が適用される、との判断を示した。これが、死刑が確定していた免田財田川松山事件の再審につながった。」・・・・と。
そして、ほかにも詳しく書いたところがないかを他の年度でも調べたが、年表のところに、以下の3件が記載されていただけである。
1952(昭和27)年号、1月21日:札幌市で白鳥一雄警部が射殺される(白鳥事件)。55年8月、容疑者として共産党員村上国治ほか2人を起訴。
1963(昭和38)年号に、10月17日:最高裁が白鳥事件上告審で2審判決(村上国治に懲役20年)を支持して、上告棄却。
1975(昭和50)年号に、5月21日:最高裁が白鳥事件で村上国治の最新請求を棄却。・・・・と。

この白鳥事件は、敗戦後5年、サンフランシスコ講和条約の発効目前(調印=1949年)の、朝鮮戦争勃発(1950年)により日本が再軍備へと向かう混沌とした時代に起きた事件であった。
この事件は、冤罪か否かなど謎も多いのだが、先にも書いたように、朝日新聞社編の『朝日クロニクル週刊20世紀』でも“地のメーデー、日本革命の夢はるか”と題した記事の中に、そっと、冒頭のアジビラの写真を掲載し、それの添え書のようにして、、前述した程度のことがサラっと記載されているだけでその全容はわからないが、これが、権力に弱いマスコミのやり方なのだろう。しかし、他の書物やインターネットには、白鳥事件やそれに関連する事件について書かれたものは少なくない。
ただ、このような事件の場合、往々にして権力側に立つ者、また、その反権力者側の者など、それぞれの視点、イデオロギーのもとに書かれている場合が多く、白鳥事件の真相を私たちが判断するのは容易ではないが、以下参考の※6:「オワリナキアクム(事件録)」は、多くの資料を参考によくまとめた事件禄であり、わかりやすく書かれているので、時々私も参考にさせてもらっているページであり、まずは、Wikipedia-「白鳥事件」とともに、ここ(白鳥事件参照)を読まれると事件の全体像がよくわかるのではないか。
また、他では、元共産党の幹部で,同党のことに通じている社会運動研究家宮地健一夫婦が共同で作っている「宮地幸子と健一のホームページ」(※7参照)の“健一のMEN U”の中には、この事件に関連することが、資料も豊富に詳しく書かれており、参考にはなる。6、「逆説の戦後日本共産党史」の以下を参照。
1、朝鮮戦争と武装闘争路線, 
2、白鳥事件
3、メーデー事件
これを見ると、当時、武装闘争路線へと傾倒していく日本共産党の北海道内組織の動向と射殺事件の関係などもよくわかる。
『亡命者 白鳥警部射殺事件の闇』(筑摩書房。ここ参照)の著者 後藤篤志は,1948年に北海道紋別市生まれで,北海道大学の教育学部に学んでいる、まさに70年安保闘争の世代で、サッカーに熱中し,ベ平連のデモに参加する「ノンポリ」であった彼は、「白鳥運動」などを通して,「白鳥事件は冤罪だ」と思っていたが,「北大で白鳥事件のことになるとOBや先輩達の口が重くなるのを不思議に思っていた」という。そして、教育学部教授の布施鉄治のように,「権力への鋭い告発をしてきた反骨の学者」でさえ,「白鳥運動」に取り組もうとする人に,「冤罪と思っている人は北大にはいない。白鳥事件を三鷹事件松川事件と同列に論じる訳にはいかない」と釘を刺していたという。その声を聴いた彼が,その後、社会派ジャーナリズムとして、70年代から追いかけてきた白鳥事件の真相をまとめたのが同著だそうである。
確定判決によれば,白鳥事件は,日本共産党中核自衛隊の組織的犯罪とされている。
当時、共産党は細胞とよばれる基礎組織を日本全国の学校や党員の職場などで結成していたようだが、四全協・五全協軍事方針が実行に移されるようになるのは1952(昭和27)年に入ってからで、この白鳥事件、青梅事件(東京・青梅線の貨車暴走事件)、小河内村山村工作隊事件(東京小河内村の山村工作隊一斉検挙)と大小無数の武装衝突事件が起こっていた(日本共産党の戦後秘史(1))。、そのため、同年7月には日本共産党の武装闘争を取り締まるため破壊活動防止法が制定・施行されたくらいである。
北海道では、その前年(1951年)に炭坑から掘り出された石炭を輸送する列車を赤信号で停め、石炭を市民に奪わせる計画が暴露された(「赤ランプ事件」 3度とも失敗に終わる)があり、これに関わったとされるのが、白鳥警部射殺事件後に逮捕された村上らの面々だったようだ。
白鳥事件での共産党の武装闘争は無軌道で混乱したものだったが、これは、一方で当局の捜査も、実行犯が行方不明のまま、唯一の物証である弾丸の捏造(ねつぞう)疑惑を裁判官に指摘されるというものだった。
射殺された白鳥一雄は戦前・戦中は特高警察であり、ハルピン学院に派遣(留学)されていたこともあるとされており、終戦時も特高警察の外事係として情報収集にあたっていたようだが、戦後は札幌市警の警備課長として左翼運動を監視し、当時GHQ相手の売春婦の取り締まりや半ば非合法に活動していた共産党の取り締まりの実務を行っていたらしい。
当時、日本はまだ占領下にあったので白鳥は、占領当局(GHQ)との公然、非公然の情報取引も行っていたらしく、さらには、私的に情報収集の民間人(ヤクザ右翼)の協力を得ていたとの伝聞もあったようだ。
そんな白鳥警部殺害には、彼の具体的な行動に対する憎悪だけではなく,「特高」の匂いに対しての面もあったのかもしれない。戦前に治安維持法によって、共産主義者の名をもって逮捕されたものの数は定かではないが、数十万名にものぼり、送検後拷問などにより死んだ者の数は1600人以上いるという(※7の戦前の治安維持法等弾圧諸法令と被害の実態について参照)が,「特高」の匂いは,この組織の戦前から引き継いだ本能を強烈に刺激したのだろう。
また、当時、中・ソの共産党幹部は、日本の共産主義者の活動により、米軍占領地域で政情不安となり、あわよくば、赤色革命が起きればよいと考えていたようだ。
そんな中、日本共産党の中核自衛隊は、米軍に直接攻撃を加えることはせず、日本共産党の取り締まりを図る白鳥警部を狙った。・・白鳥殺害の動機にはそのようなことがあったのかもしれない。しかしいずれにしろ、人を殺害するといった大それた行動を数名の中核自隊員だけで勝手にやれるはずはなく、当然、上部からの命令でやったものであるようだ(元委員長の宮本顕治が深くかかわっていたといわれる。※7の白鳥事件と宮本顕治の関与度・党内外犯罪参照)。
逮捕された、村上國治には、刑事訴訟法上は無罪判決が下されるべきであったかもしれないが,判決後現われた多くの事実と証言によって,白鳥殺害への組織と村上個人の関与は裏付けられている。したがって村上有罪の各判決の結論は,仮に「誤判」(裁判官が誤って下す判決)と呼ぶことはできたとしても,「冤罪」と呼ぶべきではないようだ。
白鳥事件では,裁判官が適正手続外で認識する諸情勢は、村上國治の関与を強く指し示しており、札幌委員会および中核自衛隊関係者の証言によって,組織の関与も明白であるが、訴追側の行動にいくつかの逸脱があって,その最大のものは証拠弾丸の捏造だが,それにもかかわらず幌見峠で火器を使った軍事訓練が行われたという事実は完全に証明されているようだ。
しかし、組織は,「実行者」だけでなく,「目撃証人」をも当時日本と国交が無い中国に逃亡させるなど、意図的組織的な証拠湮滅によって実体的真実に迫る道を阻害しているという状況が存在していたことから考えると、白鳥事件をめぐる裁判結果は、村上有罪という官憲側の勝利と「白鳥決定」という弁護側(共産党側)勝利の相打ちに終わったともいえるようだ。

「疑わしきは罰せず」(ラテン語:in dubio pro reo。ラテン語直訳:「疑わしきは被告人の利益に」)は刑事裁判における原則である。
1975 (昭和50)年5月 20 日、最高裁がこの「刑事裁判の鉄則を再審にも適用すべき」などとする画期的な「白鳥決定」が出てから 今年で、41年目になる。「白鳥決定」以前は、再審は「開かずの門」と言われて、幾多の事件で無実を叫び続ける悲痛な叫びも、裁判所の厚い壁の前に押しつぶされる時代が長く続いてきたが、「白鳥決定」以降その流れが変わった。
刑事裁判の大原則「疑わしきは罰せず」は、刑事裁判での冤罪は被告人の人権に回復不可能な侵害をもたらすため、刑事裁判は慎重に行うべきであり、「間違いなくこの人物が犯人だ」という確証がない限り、有罪判決を言い渡すべきではないという意味であるが、現実に、法廷で、どれだけ徹底されているのかは疑問があるようだ。
日本では、前科のある被告、とくに暴力団関係者に対しては、「疑わしい」だけで有罪判決が言い渡されている現実があるという。
例えば、薬物事件の裁判で被告人が「飲んだ酒の中に薬物が入っていたのに気が付かなかった」と主張し、別の人物が酒の中に薬物を入れたと証言したとしても、被告人に同種前科があれば自発的に飲んだと認定され、有罪判決が言い渡されているという(※8参照)。
この例は、近年の日本の犯罪史(日本の刑事事件の一覧 参照)上、帝銀事件( 1948年)や和歌山毒物カレー事件( 1998年)とともに三大毒殺事件の一つとも言われている三重県名張市葛尾(くずお)地区の公民館で起きた毒物混入事件「名張毒ぶどう酒事件」(1961年)のことであろう。この事件は再審請求取り消しをめぐって「疑わしきは罰せず」の原則が注目を集めた。
日本弁護士連合会が、基本的人権を著しく侵害するもののひとつが冤罪事件であることに鑑み、冤罪事件である可能性のある事件を人権侵犯事件(人権が侵害された疑いのある事件)として特に支援している最初の事件である(日本弁護士連合会が支援する再審事件参照)。

地方局(東海テレビ)が作った異色のドキュメンタリー『ヤクザと憲法』(2015年3月放送)、それに続く 『ふたりの死刑囚』(2015年10月放送)が、再編映画化もされ、ミニシアターで上映されて話題になった。
前者には、“暴力団対策法から20年”の サブタイトルがあるように、憲法14条が定める「法の下の平等」に、ヤクザは含まれるのかという問題を指している。ヤクザ、一般市民には怖い存在だが、そんなヤクザにも妻や子など家族がいる。そんな家族を養っていかなければいけない。しかし、暴対法のおかげで生活が苦しくても足を洗えないという現実がある。
『ふたりの死刑囚』は、1966年に静岡で発生した強盗殺人放火事件「袴田事件」の袴田巌死刑囚(2014年に約48年ぶりに釈放)と、「名張毒ぶどう酒事件」の奥西勝(獄死)の今を追ったもの。
特に地元局の使命として、「名張毒ぶどう酒事件」は代々の記者たちが長期取材を敢行し、その過程で確証を得た奥西勝死刑囚の冤罪を訴え、映画『約束 名張毒ぶどう酒事件 死刑囚の生涯』(2013年公開)も発表している。
冤罪を晴らすべく支援した人たちの努力は報われず、容疑者として逮捕・起訴された奥西は、裁判では一貫して無罪を主張したが、1972年死刑判決確定後、死亡するまでの43年にわたり確定死刑囚のまま収監され続け、再審請求を出し続けていたが刑が執行されることなく、2015年に89歳で獄死している。以下は弁護士をしている人のブログだが中に映画の動画など張られているので興味のある方は見られるとよい。

映画『ヤクザと憲法』(東海テレビ)を観たいと思いませんか?

奥西氏の死の後に残るのは、司法に対する絶望的なまでの不信感である。その後、2009(平成21)年5月21日には裁判員制度が施行されるなど、大きな刑事司法改革が行われ、 一部の事件には取り調べの全過程の録音・録画を義務づけるなど、制度の改革が行われてはいる。しかし、過去の裁判の誤りを認めることについては、裁判所の姿勢はほとんど変わらず、実に消極的だとの指摘がある。いくら有罪判決の根拠が崩れても、DNA鑑定や真犯人の出現などによって、別の犯人像が証明されでもしない限り、なかなか再審の扉「(開かずの門」)は依然として開かないようだ。
裁判員制度導入により、国民も裁判員として刑事裁判に関与し冤罪事件に無関心ではいられない時代を迎えている。この機会に、少しは勉強しておかないといけないだろう。 

このような冤罪事件とは逆に、日本ではこの「疑わしきは罰せず」の原則に反して密室で起きた性犯罪強姦強制わいせつ痴漢など)やセクシャルハラスメントに関係する裁判では、被害者の証言が全面的に採用され「疑わしきは罰する」と言うが如き判決が相次いでいるとの指摘もある。
また、交通事故等の過失犯にも、「疑わしきは罰せず」の原則が適用されにくい印象があるという。被害者が死亡して、目撃者がいないうえに物証(「物的証拠」)が乏しく、被害者の一方的な過失によって事故が生じた可能性がある場合でも、被告人の過失行為が事故の直接的な原因になったと認定され、有罪判決が言い渡されることが少なくないそうだ。
これは被害者や遺族の処罰感情に、裁判官が配慮しているためのようで、疑わしいが絶対的な証拠のない被告人を原則通りに無罪放免していたのでは、社会が納得せず、司法制度への支持が揺らぐことも避けられず、このような現実を前に、原則が棚上げされているのが実態なのだという。
そして、奇妙なのは、刑事裁判でより厳格に適用されるべき「疑わしきは罰せず」の原則が、むしろ民事裁判(民事訴訟参照)において、立証のハードルを高くする形で反映されるケースが目立っているという。
ある会社で経理部長がお金を使い込んだとしても、会社が返還を求めて経理部長を訴えても、民事裁判で返還が命じられるのは、経理部長が遊興費に当てたことが領収証で証明されている場合など、完全な「クロ」の部分に限られている。消去法からすると使い込んだ人間が経理部長以外に考えられない場合でも、原告である会社が実際の使い込みを領収書等で証明しなければ、経理部長に返還を命じる判決が言い渡されることは、ほとんどない。被告である経理部長は、正当な用途にお金を充てたことを立証する必要さえなく、端的に言えば「わからない」「知らない」と法廷で述べるだけで充分。それは、不正行為を証明する責任が原告側にあるためだそうである。
「疑わしきは罰せず」という原則が、むしろ民事裁判に反映されていることについては、社会正義の観点から疑問であることが少なくないが、薬害C型肝炎の被害者が高い立証のハードルの前に敗訴した例もあり、被害者の救済という観点からすると民事裁判に「疑わしきは罰せず」の原則を反映する形で立証のハードルを高くすることは、本末転倒という意見もある(※8参照)が、その通りだろう。

政治資金規正法は、政治家や政治団体が取り扱う政治資金について規定した法律であり、「規正」(※9のここ参照)が正しく、「規制」ではない。
辞書には「規正=(不都合な点を)正しい方へ直すこと」「規制=予測される好ましくない事態に備えて、何かに制限を設けること」(新明解国語辞典)となっている。それなら「規制法」でいいじゃないかと思うのだが・・・。
この法律は、政府から補助金をもらった企業が、一年以内に政治家に献金をするのは違法だ、・・・・というものだが、それは言い換えれば、政治家が企業から献金を受けたとしても、寄付を受けた企業・団体が、国から補助金を交付されていたのを、政治家が「知りませんでした」と言えば、違法にはならないということ。だから、政治家さんに何を質問にしても都合の悪いことは「知らない」・・・と答えておけば違法にならない・・・。
また、政治資金の支出については、ほぼ規制していないため、この法律は全くのザル法との批判が多い。
今、東京都の舛添要一知事の三つの政治団体(※9ここ参照)の政治資金収支報告書(※9のここ参照)(2012~2014年)を精査した『週刊文春』に暴露された一連の公私混同の政治資金乱用についての記者会見での弁明については、その内容たるや全く常識では考えられないひどいものばかり、家族旅行でいった正月の温泉リゾートでの多額の支出は「会議費用」で計上されていたりしているが、舛添氏に事実関係を尋ねても、「すべて法的に適切に処理しています」との回答。
政治資金規正法は収賄があるかなど不当な収入に対する規制は厳しいが、その使途(金の使い方)は収支報告書に虚偽の記載がない限り法的には触れないことになっている。追及する方は、常識から考えて、いくらおかしいと思っても、それが、虚偽の記載だとする証拠を見つけない限り、恥も外聞もない人間がのらりくらりと、いい加減な回答をしていても、罪にはならないようになっている。全くのザル法である政治資金規正法を盾にとっての釈明である。
法律そのものに欠陥があるのだから改正が必要なのだが、、改正をするにしても「正しい方へ直す」のではなく、政治家自身にとって都合のいい抜け道作りに腐心するだけのことだろう。政治不信を払拭するには、献金・寄付の厳しい規制法が必要なのだが、そもそも何のために税金を使って政党交付金を設けたのかわからないよね~。

舛添要一の関連ニュース一覧 - Yahoo!ニュース

参考:
※1:法廷用語の日常語化に関するPT最終報告書・第2 4)評議(Adobe PDF)
href="http://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/udhr/1b_001.html"> href="http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/syugiin/013/0512/01305060512038c.html"> href="http://e-ono.com/nen2/1952.html"> href="http://www001.upp.so-net.ne.jp/fukushi/year/1952.html"> href="http://yabusaka.moo.jp/c.html">http://yabusaka.moo.jp/c.html
※7:宮地幸子と健一のホームページ
http://www2s.biglobe.ne.jp/~mike/
8:第28回 href="http://www.potato.ne.jp/shirakaba/hkeizai/28.html"> href="http://www.soumu.go.jp/senkyo/seiji_s/index.html"> href="https://keiji-pro.com/columns/18"/> https://keiji-pro.com/columns/18/

小松菜の日

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日本記念日協会(※1)の5月27日の記念日として登録されているものに「小松菜の日」があった。
由緒を見ると、大阪府堺市の小松菜を専作している有限会社しものファーム(※2)が制定したものだそうだ。
小松菜の消費拡大が目的で、日付は5と27で「小松菜」と読む語呂合わせから。
小松菜はカルシウムがほうれん草の5倍も含まれ、ビタミンも豊富など栄養面の評価の高い野菜として知られている。…とあり、いわば、今はやりのPR用の記念日ではある。
小松菜(コマツナ、学名Brassica rapa var. perviridis。※3のここも参照)はアブラナ科アブラナ属に属するツケナ(漬菜)類(野沢菜チンゲンサイなど非結球葉菜の総称)の一種ある。
ツケナ(漬菜)は、字のごとく、広義には漬物に用いるアブラナ科の葉菜類をさすが、農学上ではアブラナ(油菜)(Brassica campestris L.(n=10)のうち、結球種のハクサイ(※3のここ参照)、根を利用するカブ(※3のここ参照)、種子を油料とする在来ナタネ(※4参照)を除いた葉菜類の総称だそうである(ここ参照)。
最も歴史の古い非結球性菜類の一種といわれる小松菜の歴史は諸説あるようだが、中国から渡来したカブの一種「茎立菜(クク〔キ〕タチナ)」がその祖先であり、ソノカブの子孫が各地に広がり、一部は葉を食べる漬け菜となった。
万葉集東歌には、茎立(ククタチ)を詠んだ歌がみられる(※5:「たのしい万葉集」巻第十四参照)。
3406:「上つ毛野(上野)佐野の茎立ち(くくたち)折りはやし我(あ)れは待たむゑ来とし(今年)来ずとも」(作者: 不明)
上野国は、現在の群馬県。東山道の一国で、もと下野国(現在の栃木県)とともに毛野国と称したが,のち上下に分かれ,上毛野 (かみつけぬ。上毛とも略する) となった。
「茎立」とは(とう)(花をつける台のような茎)のたったアブラナ・カブなどのことで、両毛地区で古くから栽培されていた伝統野菜で、現在は栃木県佐野市付近で盛んなようだ。
秋に播種(はんしゅ)し、冬から春にかけて伸びてくる植物の若芽を掻き取って食用とする事から「かき菜」の名がついたと言われている。
この歌の意味は、※5:「たのしい万葉集」巻第十四のここにも書かれているが、古代の歌のこと、「茎立ち(ククタチ)」の「クク」には『古事記』・『日本書紀』の神産み神話に登場する木の神(木霊)「ククノチノカミ」とのかかわりもあるようだが、そのことは、以下参考※6を参照。
とにかく、アブラナ属の植物が延ばす花芽(茎葉の茎)は、古くから春先の野菜として重用されてきたようだ。
「茎立(ククタチ)」は、やがて各地の風土に合わせて改良され、それぞれの地に適した野菜となって定着してゆくが, そのひとつ江戸の小松村のあたりを流れる小松川(この川が江戸へつなるとして 「 江戸川 」とよばれるようになった。現:東京都江戸川区)付近で、それを品種改良して栽培されていた。
そのことは、江戸時代後期文化・文政期(1804年から1829年、化政文化の時期)に編まれた武蔵国の地誌『新編武蔵風土記稿』」には、「菜は東葛西領小松川辺の産を佳作とす。世に小松菜と称せり」とあり、小松菜が広く江戸っ子に賞味されていたことがわかるという。
また、享保4年(1719年)に、鷹狩りに来た将軍が鷹狩りの昼食時に何も料理するものがなくて、東・西小松川村あたりでとれた冬菜の入った餅のすまし汁をさしあげたところたいそう喜ばれ、そのときに地名から小松菜の名がつけられた、・・という話があるようだが、八代将軍吉宗が命名したといわれているが五代将軍綱吉という説もあるようだ(参考※7のこまつなくん豆知や地域情報を参照)。
江戸川区西小松川町にある浄土宗寺院「仲台院」(ここ参照)は鷹狩りに来た将軍が昼食をとったりする御膳所(休息所)という。江戸川区にある香取神社境内には、小松菜ゆかりの里という石碑もある(ここ参照)。
現在の江戸川区のほぼ全域は、江戸時代には<ahref= https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%9F%E6%88%B8%E5%B9%95%E5%BA%9C>幕府の御料所(※7のここ「葛西御厨」も参照)であり、江戸に暮らす人々、さらには徳川将軍家に対して、たいへん重要な役割を担っていた。その役割のひとつが“野菜の供給地”として、そして、もうひとつは“御鷹場”つまり、鷹狩を行うために設けられた“狩猟場”としてであった。「小松菜の命名伝説」には、そんな江戸川区の歴史が背景にあるようだ。

「さしこもる葎(むぐら)の友か冬菜売り」松尾芭蕉
この歌は、深川芭蕉庵近くの小松川辺りでとれた小松菜をうたったもので。「さし籠る葎(むぐら)」とは、の宿の意で、隠遁している者のすみかをいっており、ここでは芭蕉庵のことを言っているそうだ。
深川の草庵で冬籠りをしている。そんなところへ冬菜売りが菜を売りに来てくれると、旧友に会ったような気分になる。といった意味だそうだ(句の解釈などは参考※8:芭蕉dbのここ参照)。
この冬菜が小松菜だった。「冬菜」は小松菜の冬の季語にもなっている。
「摘みそへよ膳のむかひの鴬菜」 加舎白雄(かやしらお。江戸時代の俳人)
「小松菜」は古くから収穫期によって冬には「冬菜」・「雪菜」、初春に出回るまだ若くて小さい菜は「鴬(うぐいす)菜」とも呼ばれており、春の季語となっている。
今、江戸川区の小松菜収穫量は、都内では一位を誇っているようで、同地域の特産野菜ともなっている。
「小松菜」は、最近は愛知県や大阪府などでの生産も行われているようだが、国内生産量のうち関東の生産量が大半を占め、東京都も生産量トップ2 に入っている。ちなみに、※9:「野菜ナビ」の、2013年 野菜の作付面積ランキングを見ると、
1位、いも 7万9,700ヘクタールに対して小松菜作付面積6,450ヘクタールと21位にあり、じゃがいもの作付面積を100%として、8%を占めているようだ。
そして、※9:「野菜ナビ」の小松菜の収穫ランキングを見ると上位ベスト10に入っている埼玉県/東京都/茨城県/神奈川県/群馬県/千葉県の6県で51,8%のシェアを占めている。その詳細は以下のようになっている。
(出荷量ベース、単位トンの後ろの数字は全国シェア率)
1 位  埼玉県 14,600トン 16.03 %
2 位  東京都 7,810トン  8.57 %
3 位  茨城県 7,520トン  8.25 %
4 位  福岡県 7,460トン  8.19 %
5 位  神奈川県 6,120トン 6.72 %
6 位  群馬県 6,000トン  6.59 %
7 位  千葉県 5,120トン  5.62 %
8 位  大阪府 3,840トン  4.22 %
9 位  京都府 3,350トン  3.68 %
10 位 兵庫県 2,490トン  2.73 %
これは、農林水産省の2013年(2014年12月15日公表)の作物統計の都道府県別のこまつな出荷量(※10参照)から作られたものである。
大阪が上位8 位に食い込んでいるし、兵庫がギリギリベスト10に入っているのは~結構頑張っているな~。
小松菜の栽培は関東一円から全国へ広がり各地でいくつかの系統が誕生している。そして、地域や収穫時期で呼び名が異なり、新潟の「女池菜(めいけな)」や「大崎菜」(※11参照)、福島の「信夫菜(のぶな)」(※12参照)なども小松菜の仲間である。
大阪府内には伝統的に優れた栽培技術で生産された、泉州の「水なす」や「大阪ふき」のように全国にも誇れる農産物がたくさんあり「なにわ特産品」として選定されているが、平成18年(2006年)からは「大阪こまつな」が加えられ、大阪府内全域で栽培されるようになり、それがあったからかどうかは知らないが、上記のような小松菜のランキング入りを果たす結果となったようだ。
栄養面では、カロテンカルシウムを豊富に含んでおり、葉にやや丸みがあり、表は濃い緑色で裏はやや薄い緑色が特長だそうだ (冒頭の画像が「大阪こまつな」)。詳しくは※13:「阪府/なにわ特産品」参照。
ちなみに、「ツケナ」(漬菜)はアブラナ科の非結球葉菜の総称で、交雑が容易なため、いまでは国内で100近い品種が作られているようで、よく知られるところではノザワナ(野沢菜)、ミズナ(水菜)、ミブナ(壬生菜)などもその仲間である。
野菜には体によい栄養がたっぷり詰まっているというので、近年、生活習慣病予防に効果があると人気上昇中のようだが、それぞれの野菜に実際にどんな栄養素が含まれているかを知っていることは健康管理には役立つことだろう。ただ、栄養成分といっても色々種類が多いのでどんな野菜を取ればよいかなどは、人によって違ってくるだろうから難しい。

冒頭、日本記念日協会の今日の「小松菜の日」の設定理由に、「小松菜はカルシウムがほうれん草の5倍も含まれ、ビタミンも豊富など栄養面の評価の高い野菜として知られている」…のでとあったので、先ずは、「小松菜」が、「栄養成分トップ30」の野菜に入っっているかを※9:「野菜ナビ」でみるとその中には入っていない。
では個別にみるとどうなるか ?
ではカルシウムについてみてみよう。可食部100g中カルシウム含有量を同じく、※9:「野菜ナビ」でみると、主要野菜の栄養成分の1位は、「こまつな/ゆで」で、含量は 150 mg で、「ほうれんそう/ゆで」が8位で含量69 mgとなっており、1位:「こまつな/ゆで」の含量を100%とした割合は「ほうれんそう/ゆで」の含量は46%。となっている。確かに、小松菜の含量はホウレンソウより多いが、5倍はちょっとおオーバーすぎるのではないか。
そこで、※9:「野菜ナビ」の野菜図鑑で、コマツナの栄養と効能を見ると、
「ゆで:βカロテン当量(3100mcg)、ビタミンC(21mg)、ビタミンK(320mcg)、カルシウム(150mg)、鉄(2.1mg)、食物繊維総量(2.4g).とあった。
「期待される効能」としては、
「小松菜はβカロテンやビタミンCを豊富に含んでいます。βカロテンは体内で必要な分だけビタミンAに変換され、皮膚や粘膜を保護する作用があるといわれます。また抗酸化作用(生体内で、酸素が関与する有害な作用を抑制するはたらき。このはたらきをもつ物質を抗酸化物質という抗酸化物質参照)により老化やがん(悪性腫瘍参照)、風邪,などの予防効果もあるとされ、ビタミンCとの相乗効果で免疫力アップや美容効果も期待できます。
カルシウムも多く含まれているので、歯や骨の健康維持にもよいでしょう。さらには貧血予防に効果がある鉄分や、血圧の上昇を抑制する作用のあるカリウムも含まれています。中でもカルシウムや鉄分の含有量は、ほうれん草の約2倍です。・・とある。ここでは、ちゃんとホウレンソウの5倍ではなく2倍と正しく書かれている。
この内容を見ていると、確かに、女性や、我々のような年寄りには効果がありそうだね~。
そういえば、下のようなブログもあった。 
がん予防にはこれ! 3つの野菜が効果的 - アタナハクリニック意識して食べることにしようか。クックパッドにいろいろおいしそうな「小松菜レシピ」があったので、家人に見てもらっておこう。
【クックパッド】美味しすぎる!《小松菜レシピ》〈23選〉
冒頭の画像は、「大阪こまつな」※13:「大阪府/なにわ特産品」より借用。
参考:
※1:日本記念日協会
http://www.kinenbi.gr.jp/
※2:有限会社しものファームHP
http://www.sakai.zaq.ne.jp/shimonofarm/
※3:野菜図鑑-農畜産業振興機構
https://vegetable.alic.go.jp/panfu/zukanmokuji.html
※4:ナタネはどんな植物か 食農教育 2004年9月号 - 農文協
http://www.ruralnet.or.jp/syokunou/200409/09_natane.html
※5:たのしい万葉集
http://www6.airnet.ne.jp/manyo/main/home.html
※6:「茎立折りはやし」 菜の花供え「あなた」待つ : 地域 : 読売新聞
http://www.yomiuri.co.jp/local/gunma/feature/CO004071/20140209-OYT8T00010.html
※7:花と野菜の豆知識・カレンダー:江戸川区公式ホームページ
https://www.city.edogawa.tokyo.jp/san_jigyosya/nogyo_suisan/hana_calendar/index.html
※8:芭蕉db-芭蕉俳句全集:季題別順
http://www2.yamanashi-ken.ac.jp/~itoyo/basho/haikusyu/index_kidai.htm
※9:※野菜ナビ
http://www.yasainavi.com/
※10:農林水産省:作物統計 > 作況調査(野菜)
http://www.maff.go.jp/j/tokei/kouhyou/sakumotu/sakkyou_yasai/index.html
※11:とう菜 | 新潟・食品名産図鑑
http://nigata.japanfoods.net/specialty/touna/
※12:信夫菜 (しのぶな)|地方特産食材図鑑
http://g-foods.info/zukan/product/product_203.html
※13:大阪府/なにわ特産品
http://www.pref.osaka.lg.jp/nosei/naniwanonousanbutu/tokusanhin.html
食品成分データーベース-文部科学省
http://fooddb.mext.go.jp/search.html
旬の食材百科
http://foodslink.jp/syokuzaihyakka/index.htm

備中高松城の水攻

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天正10年6 月3日(西暦1582年6月22日)中国地方の雄毛利氏配下の清水宗治の守備する備中高松城を水攻め中の羽柴秀吉軍が、この日、毛利方に「本能寺の変」を知らせる使者を捕え、その一報を知る。織田信長の死を秘匿しつつ、翌4日毛利家と和睦し、城主清水宗治の切腹を見届けた秀吉は、明智光秀を討つため、中国大返し畿内に戻り、6月13日からの山崎の戦いで光秀を破り織田 信長の実質的な後継者の道を歩むことになる。
冒頭の図は、「赤松之城水責之図」(東京都立中央図書館所蔵)。ここクリックで拡大図が見れる。
これとは別に、和歌山市立博物館には、歌川国芳の門人一猛齋芳虎(歌川 芳虎の画号)の描いた「水攻防戦之図」もある。以下参照。
水攻防戦之図・赤松水攻之図 文化遺産オンライン
上図は、秀吉が本陣をはった石井山から水攻めの様子を眺めた構図をとっている。
芳虎は、錦絵「道外武者御代の若餅」では、徳川家康の天下取りを揶揄した落首「織田がつき 羽柴がこねし 天下餅 座して喰らふは 徳の川」(この狂歌は、天保~嘉永期に出回ったといわれている)に着想を得て、織田信長と明智光秀が搗き、豊臣秀吉がこねた餅を徳川家康が食うという絵を描き家康の天下取りを諷刺したとされ、手鎖50日の処罰を受けたという。画像はここ参照。芳虎の諷刺精神も国芳に倣うものであったようだ。
高松に到着した秀吉の陣は、当初、高松城の北東2.1㎞にある龍王山(現在の最上稲荷山妙教寺付近)に置かれたが、築堤を築く頃には高松城から南東800mのところにある石井山(岡山市北区立田)に移した。理由は、石井山の方が高松城が手に取るように見えるのと、足守川の増水で毛利勢がうかつに近づけないことで安全がある程度確保できたからと考えられている。参考※1:「岡山県古代吉備文化財センター」の以下参照。ここには、当時の「高松城水攻め陣営配置図」が詳しく描かれている。
備中高松城跡
自刃した清水宗治の首級は、この本陣に於いて、秀吉の首実検の後、手厚く葬られ、一基の五輪塔を建立されたといわれているが、その後、備中高松城本丸跡へ首塚の移築がなされたようだ。本丸跡には首塚と辞世の歌碑が建っている。
辞世の句
「浮世をば 今こそ渡れ 武士(もののふ)の 名を高松の 苔に残して」

戦国時代備中国高松(現・岡山県岡山市北区高松)に存在した高松城は、讃岐高松城と区別して備中高松城とも呼ばれる(※1のここまた※2のここ参照)。
築城時期はっきりしないが、備中松山城城主・三村氏の命により、備中守護代で三村氏の有力家臣でもあった石川氏が築いた城である。
戦国時代の備中は守護細川氏が衰退した後、国人領主が割拠する状態にあったが、なかでも台頭していたのは三村氏であった。
三村家親は、出雲尼子氏に代わって中国地方の覇者となった安芸の毛利氏に接近し勢力を備前美作に広げたものの、備前浦上氏傘下の宇喜多直家により家親が暗殺され、つづく明善寺合戦において三村氏は敗退、その勢力は衰えた。のち直家と結んだ毛利氏により三村氏は滅ぼされ(備中兵乱)、その傘下であった城主の多くは毛利氏を頼ったが、その一人が清水宗治であった。
清水宗治は。天正3年(1575年)の備中兵乱の際、三村氏譜代・石川氏の娘婿・重臣の立場にありながら主家を離れて毛利氏に加担したが、宗治が備中兵乱後に高松城の城主となった経緯は不詳であり、石川氏滅亡以前より宗治が城主であったともいわれているそうだ。

上掲は歌川国芳の高弟落合芳幾の錦絵『太平記英勇傳 清水長左衛門宗治』。以下でこの錦絵の全画像が見れる。 
浮世絵で見る戦国武将 ~太平記英勇伝~ (前半) - YouTube
浮世絵で見る戦国武将 ~太平記英勇伝~ (後半)- YouTube

15世紀末当時、備前国は赤松氏守護代として浦上氏が支配していた。清水宗治(長左衛門)は、父清水宗則の3人の子の一人(次男)で、天文6年( 1537年)に、備中国賀陽郡清水村(現在の岡山県総社市井手)で生まれたとされているようだ。
戦国時代初期の清水宗則(備後守)は備中国の国人・石川久式(左衛門尉)に従属していたという。
天正2年(1574年)備中の戦国大名三村家の重臣だった主家の石川家が毛利家により滅ぼされた際、清水家は石川家から離反して毛利家の小早川隆景に味方し、その功績により石川久式の出城だった備中高松城を預けられたという。
備中国国人清水氏は、赤松氏家臣団難波氏族(※4参照)の一族である。
当時、備前国は赤松氏の守護代として浦上氏が支配していたが、室町初期備前守護に任じられたこともある有力国人の松田氏が、文明15年 から16 年(1483-4年)に備前国で勃発した騒乱(守護赤松、浦上の福岡城〔※2のここ、また※3のここ参照〕を山名、松田の軍が攻めた)に一役をかい、赤松・浦上氏の備前支配を排除しようとした。この合戦は福岡合戦(※5参照)と呼ばれ、備前国における戦国時代への突入の契機と考えられている。こうして、浦上氏と松田氏は備前国内で互いに勢力を争うようになった。
戦国期の難波十郎兵衛行豊は、嘉吉の 乱で没落した赤松氏を再興した赤松政則の娘を娶り、赤松家中で重くもちいられていたようだ 。また浦上氏にも属したようで、鳥取荘内・居都荘内に所領を与えられており、行豊の孫宗綱は、備中国賀陽郡八田部領の清水城主となり、その子宗則は清水氏を称したという(※5参照)。この宗則の子が豊臣秀吉の水攻めで知られる高松城主清水長左衛門尉宗治その人なのである。
「高松城の水攻め」の図を一勇斎国芳(歌川 国芳)は「赤松之城水責之図」としている。「高松の城」をなぜ国芳は「赤松之城」としているのか?
色々調べたがよくわからないが、前述のように、「高松城」は、当時備前国を支配していた、赤松氏家臣団難波氏族の清水宗則が備後守として、管理していた城であったからであろうと推測している。

一方畿内においては、「天下布武」を掲げた尾張国の信長が他国侵攻の大義名分として足利将軍家嫡流の足利義昭を奉じて上洛を果たし、将軍、次いでは天皇(正親町天皇)の権威を利用して天下に号令。
反対勢力(信長包囲網)の一部を滅ぼすと、将軍義昭を京より追放して室町幕府を事実上滅ぼし、畿内を中心に強力な中央集権的政権(織田政権)を確立して天下人となり、本格的に天下統一事業を推し進めようとしていた。
このころ、武田信玄西上作戦の途上三河で病を発し死亡)を失った信長包囲網(反織田信長連合)は同年末には実質的に瓦解していた。
上杉家は養子の景勝景虎の間で家督争い、世に言う御館の乱が勃発。武田家北条家もまた、その跡目争いの後ろ盾となり、東国三国の矛先は、信長の方から逸(そ)れていった。
ここで信長の「天下布武」における最重要課題は、政治的・軍事的・経済的にも、目下の敵、西国石山本願寺中国(山陰・山陽)の雄・毛利の攻略にあった。
そこで、信長は、北陸柴田勝家に、東国は、織田信忠滝川一益に一任し、西国の石山本願寺は佐久間信盛に、丹波などの近畿地方明智光秀に一任。
そして、畿内をほぼ制圧した後、最大の敵となっていた西国の雄・毛利氏討伐のため、中国方面軍司令官に任命されたのが羽柴秀吉であった。
しかし、中国攻めの際、毛利氏攻めの先鋒を務めると信長に約していたはずの別所長治が、突如、秀吉に叛旗を翻し、播磨国三木城(兵庫県三木市)に籠城し徹底抗戦した。
これを2年近くに及ぶ兵糧攻めで「干し殺し」(三木合戦参照)にしたあと、秀吉は毛利の領土へ本格的に攻撃を開始する。
毛利と結んでいた因幡山名豊国の居城であった久松山鳥取城(久松山城ともいわれる)攻略に取り掛かるが、難攻不落の要塞であったため、三木城と同様の兵糧攻めを採用した。
このとき守備を指揮していたのは、支援要請を受けた毛利元就の次男吉川元春(毛利 元春)の一門で文武両道に優れた吉川経家であった。
経家は場内に米の備蓄がわずかしかないことに驚き、急いで周辺の農家から米を集めようとしたが、鳥取城を包囲する前に、秀吉は若狭から商船を因幡へと送り込み,米を高値で買い占めさせる一方で、河川や海からの毛利勢の兵糧搬入を阻止した。さらに、秀吉は城内にある兵糧を枯渇させるため、鳥取城を包囲する際、城下周辺の農村を襲い、村人たちを鳥取城内に追い立てた。鳥取城では逃げ込んできた農民たちへの食糧を支給せねばならず、米蔵はあっという間に底をつき、餓死者が続出した。この作戦により瞬く間に兵糧は尽き飢餓に陥った。 何週間か経つと城内の家畜、植物などは食い尽くされ、4か月も経つと餓死者が続出し人肉を食らう者まで現れたという。
これは、,三木城の「干し殺し」と言われる兵糧攻めでは2年近い歳月を要したため、もっと効率的に兵糧攻めを行うため、秀吉の参謀黒田官兵衛が考えた作戦だと言われている。
このときの兵糧攻めについて、信長公記には「餓鬼のごとく痩せ衰えたる男女、柵際へより、もだえこがれ、引き出し助け給へと叫び、叫喚の悲しみ、哀れなるありさま、目もあてられず」と記されており、この凄惨たる状況に、吉川経家は自決と引き換えに降伏し開城した。
このときの兵糧攻めは「三木の干殺し」をはるかに上回る凄惨な状況を生み出した事から、後世「鳥取の飢殺し(渇殺し)」と呼ばれ、兵糧攻めの恐ろしさ、過酷さを後世に伝えることになった。

そして、天正10年(1582年)いよいよ、秀吉は、毛利氏との対決の為備中国(岡山)に侵攻した。
毛利隆元の嫡男輝元は備中高松城で秀吉を食い止めるため足守川に沿って支城6城(北から順に宮地山城、冠山城、鴨城、日幡山城、庭妹城、松島城)を築いて防備を固めていた。備中高松城にこの支城6条を加えた7城を「境目7城」と言い、これが輝元の防衛線であった。冠山城と鴨城の中間に備中高松城がある。
備中高松城は平野にある平城だが、周囲を池や沼などの低湿地に囲まれており、備中高松城へは容易に近づけさせない自然の要害となており難攻不落を誇っていた。
そのため、秀吉は周囲の小城を次々と攻め落とし、4月15日、秀吉方は宇喜多勢(宇喜多直家の次男秀家勢)を先鋒に3万近い大軍で城を包囲し、2度にわたって攻撃を加えたが、城兵の逆襲を受けて敗退、攻城戦は持久戦となった。
毛利輝元率いる4万の援軍が接近しつつあるが、援軍もなく、1日も早く落城させなければならないる状況において、5月8日(5月29日)に入り軍師・黒田孝高の献策により城を堰堤(えんてい)で囲むという、攻城というよりむしろ土木工事といえるものが開始された。
この城は東と北が山、東に鳴谷川、西に足守川が流れる平城で、秀吉はその西と南を高さ4間(約6m)延長約30丁(約3㎞)の堤防で仕切って二つの川の上流から水を導き、約1,900アール( 1aは100 m2)の湖水の中に城を孤立させた。工事には士卒や農民らを動員し、1俵に付き銭100文、米1升という当時としては非常に高額な報酬を与え、堤防は5月8日の工事着手からわずか12日で完成させ、折しも梅雨時であったことから、降り続いた雨によって足守川が増水し、堰堤内には水が溢れ、城は湖に囲まれた状態になったのである。これが、世に言う「高松城水攻め」であるただ、鳴谷川からの導水工事が城攻略に間に合わず,未完に終わり,この工事を担当した奉行が切腹したと伝えられているそうである。
「高松城の水攻め」は、「三木の干殺し」「鳥取の飢殺し(渇殺し)」と併せて秀吉三大城攻めとして有名である。

「兵糧攻め」は相手を直接傷つけることはないが、敵兵に深刻な痛手を与える残忍な戦術だが特に、秀吉がよく使ったことで知られているが、このような兵糧攻めや水攻めでの城攻めは、すでに信長により使用されていた。
永禄元年(1558年)の「浮野の戦い」(「浮野合戦」)で,大敗した織田 信賢の本拠尾張・岩倉城への攻撃(1559年)では、信賢の籠城戦に対し、周囲にしし垣を張り巡らして完全に取り囲み、数ヶ月の後に降伏させている。
また、信長はこの方式を、今川方となった城鳴海城大高城攻めに適用し、両城の周囲それぞれに砦をいくつか築き、この二城を包囲の上分断、孤立させた兵糧攻めを行っている。落城寸前になった大高城を救援するために、今川義元が出陣してきて「桶狭間の戦い」が起こり、この戦いで今川義元を討ち取って今川軍を退却させたことで歴史上有名である。
その後,近江浅井長政と対立した時には、小谷城の目と鼻の先に在る虎御前山に本陣を布いて砦を修築し、虎御前山から付城宮部城(宮部 継潤の城)まで五十町もの土塁で取り囲み長大な要害を築かせ兵糧封鎖をかけるとともに、敵側には、川の水を堰入れさせる(水攻め)など、後に秀吉が三木城や鳥取城で行った城攻め方法は、この時にすでに見本が完成されていた。この小谷城の包囲を担当していたのが他ならぬ秀吉だったため、信長発案の城攻めの方法を一番習得していたのが彼だったのだろう。
この他、秀吉の小田原征伐の際に、豊臣方の総大将石田光成が、武蔵忍城の攻撃(忍城の戦い参照)において、秀吉を真似た元荒川の水を城周囲に引き込む水攻めが行われたが成功したとは言い難く、光成の資質が問われている。
では、何故秀吉の水攻めが成功したのか?
備中高松城主清水宗治の戦略』の著者多田土喜夫(タダ トキオ)氏が分かり易く「高松城の水攻め」を解説しているものがある。短く要旨のみの解説だが見てみるとよい。













参考:
※1:岡山県古代吉備文化財センター 
http://www.pref.okayama.jp/kyoiku/kodai/kodaik.htm
※2:城郭放浪記
http://www.hb.pei.jp/shiro/
※3:岡山県の訪問城
http://www.geocities.jp/qbpbd900/okayamanosiro.html
※4:国人領主と家紋
http://www2.harimaya.com/sengoku/sengokusi/bimu_03.html
※5:藤陽伝 伊賀氏一族と虎倉城記 文明期の備前国 ―― 福岡合戦 ――
http://kibi2011.blog81.fc2.com/blog-entry-22.html
※6:虎御前山城の歴史と構造|戦国時代の合戦と城
http://www.city.nagahama.shiga.jp/section/kyouken/junior/category_01/02_chusei/battle/toragozeyama.html



芳年画 花井お梅

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花井お梅


上掲の画像は 近世人物誌やまと新聞 第二百六十三号附録   月岡 芳年 「花井お梅 」(早稲田大学図書館:古典籍総合データベース: :[近世人物誌]中泉政太郎、 編集※1よりここクリックで画像がみられる。 
やまと新聞』は、1886(明治19)年から1945(昭和20)年にかけて発行されていた日刊新聞であり、明治後期には東京の有力紙のひとつであり、錦絵新聞講談筆記の連載などで好評を博していたようだ。
錦絵新聞とは、明治初期の数年間に発行されていた視覚的ニュース・メディアであり、一つの新聞記事を浮世絵の一種である錦絵一枚で絵説きしたもの。グラフィックとしての錦絵に着目して新聞錦絵と呼ばれることもあるようだ。
明治初期に東京で創刊された「新聞」は東京土産になるほど流行したが、知識人層向けで振り仮名や絵もなく、一般大衆には読みにくいものであった。この「新聞」を浮世絵の題材に取り上げて、当時まだ平仮名しか読めない大衆も絵と平易な詞で理解できるようにしたものが錦絵新聞である。土屋礼子は「非知識人層を読者対象とした小新聞に連なるニュース媒体であった」と位置づけているそうだ。
錦絵新聞は近代ジャーナリズムの勃興期に、新聞というものを一般大衆の身近なものにしたメディアであった。1874(明治7)年に、東京の版元「具足屋」が『東京日日新聞』の記事を題材に、落合芳幾の錦絵にふりがなつき解説文を添えて錦絵版の『東京日日新聞』として売り出したものが最初だそうである(※2参照)。錦絵というグラフィックを用いてセンセーショナルな事件を報じるメディアは、「猟奇的・煽情的な内容」は「現代の写真週刊誌に似た性格のものであったともいえる。
錦絵版『東京日日新聞』は、錦絵のわかりやすさと「新聞」の目新しさ、トピックの面白さで大変な人気を得た。これに倣って、『郵便報知新聞』の記事に月岡芳年の錦絵を添えたもののほか、東京、大阪、京都などの版元から約40種もの錦絵新聞が続々と誕生したという。しかし、錦絵新聞同様の平易な文章と内容に、錦絵より作成に時間のかからない単色ずりの挿絵を組み合わせた小新聞が発行されるようになると、これに押されて錦絵新聞は誕生から10年もたたないうちにほとんど姿を消した。
、『やまと新聞』も同様である。同紙は1886(明治19)年10月7日、『東京日日新聞』の創始者でもある條野伝平(採菊)によって創刊された『警察新報』(明治17年創刊)を改題して発刊されたもののようである。
同紙は雑報や論説も載せたが、庶民向けの娯楽趣味の宣伝に努めたいわゆる小新聞であり、花柳界や芸能界の記事、続き読み物、ゴシップ記事などが中心的な記事であったようだ。月岡芳年・水野年方らの挿絵でも知られ、時折つけた付録には、芳年の描いた色鮮やかな大判新聞錦絵「近世人物誌」シリーズもある。

1887(明治20)年6月9日、日本橋浜町の待合茶屋・酔月楼の女将だった花井お梅が、使用人の八杉峰三郎を刺殺する事件があった。
冒頭の画像は、、同事件「花井お梅事件」(別名箱屋事件)を題材にした、同年8月20日付の近世人物誌 『やまと新聞』 第二百六十三号附録である(「近世人物誌」以下参考の※1:「早稲田大学図書館:古典籍総合データベース」で見ることができる)。

明治の文学史にいわゆる「毒婦物」というジャンルが成立したのは明治初期のことである。”富や力あるいは異性など、男の欲望を掻き立てるものは女にとっても同じであるが、異なるのは、欲望の追求がときに英雄的行為として賞賛される男に対して、欲望をあらわにした女には懲罰が待っているというところだろう。
人は一方で、そうした女に対する恐怖や嫌悪を感じるとともに、他方では彼女に誘惑されてみたい、あるいはそのような魅力を分かち持ってみたいというひそかな欲望や憧憬を抱いている。
自らが隠し持つ欲望に対する社会的、道徳的な嫌疑を欲望の対象になすり付け、欲望を抱いた自己の代わりに処罰する。つまるところ、そのような、「毒婦の物語」とは、「処罰の物語」でもあった。
そのような毒婦物の代表的なものに「夜嵐お絹」、「高橋お伝」、そして、この「花井阿梅」などもその一人として描かれている。

1912年(明治45)6月12日から3日間、東京・浅草駒形町の蓬莱座(浅草座参照)で浅草公園芸妓による慈善演芸会が華々しく催されていた。出し物は、「花井お梅浜町河岸峯吉殺し」。
芸妓玉桜家小花が主人公花井お梅、待合浜野家が峯吉、幇間桜川呂孝(〔注1〕参照)が車引きに扮している。
23日、舞台が峯吉殺しの山場に差し掛かったときだった。平土間(ここ参照)で見物していた本物の花井お梅が舞台に駆け上がり、小花をひっつかまえて息巻いた。「誰に断ってこの狂言を出した」
見物人総立ちの騒ぎになり、座主関三十郎(5代目と思われる)、松永忠吉が仲裁に入ってその場は引き取らせ、25日蓬莱座でお梅に渡りをつけて手打ちした。.
本物のお梅は、1887(明治20)年6月9日、日本橋区浜町箱屋三味線の箱をもって、客席へ出る芸者の伴をする男)の八杉峯吉(34)を刺殺した。
「白薩摩(白薩摩焼泥染白大島。画像ここ参照。紬のことは※3参照)の浴衣の上に藍微塵の お召(あわせ)、黒繻子に八反の腹合せの帯をしどなく締め、白縮緬の湯具踏みしだきて降りしきる雨に傘をもささず鮮血の滴る出刃包丁を掲げたる一人の美人」(東京日日新聞)が、大川端に開いた酔月楼の門を叩き、父に、「私しゃ、今箱屋の峯吉を突き殺したよ」と言い残し、久松町警察署へ自首した。
当時お梅は24歳。15歳で芸妓になり、18歳で独り立ちして、事件の一ヵ月前に、実父花井専之助の名義で酔月楼という待合茶屋を開いた。しかし、営業をめぐって、父娘はしばしば衝突した。専之助は一旦お梅に任せたのに、5月27日朝、自分が仕切るといって突然休業の札を貼り出したという。
お梅は家を飛び出して、池上の温泉や京橋の知人宅を泊まり歩いたが、身の置き所もなく困り果て、つらつら考えるに、峯吉こと八杉峯三郎は自分が芸妓をしていた頃から雇い置き、専之助を助けるような顔をして利益を図っている、おかげで父と不仲になった、と思い当たったようだ。
6月9日に仲裁の者が酔月楼に出かけたが、父は留守で、峯吉が「あんな者はいてもいなくてもいい」といったと聞くに及び、お梅は怒りを抑えきれなくなった。
そして、午後9時過ぎ、楼近くに行き、車引きに梅吉を呼び出させた。
「専之助が立腹しているから急に帰る訳にもいかない、ともかく知り合いの家へ行っている」と峯吉。果てはお梅への恋慕を打ち明け、意に添うよう強要した。それで、お梅は持っていた出刃包丁を峯吉の背に刺した。
同年(明治20)11月の公判には傍聴人が1000人以上詰めかけ、邸内は身動きもならず、ガラス窓が破損したという。過半は、窓外で人山を築いて、何時静まるとも知れない騒ぎなので、警官が追い払い、門を閉ざして開廷したそうだ。

冒頭掲載の近世人物誌 『やまと新聞』 第二百六十三号附録の画像は、1887(明治20)年11月の公判開始以前の8月20日付で書かれたものであり、まだ事実関係がはっきりしていないために、事件の原因についても二説の風聞を併記して、「種々入込たる事情もあらんか」と推測するにとどまっている。以下その全文である。
今ハ酔月の女房お梅故は柳橋では小秀、新橋でハ秀吉とて三筋の糸に総を掛け、三弾の何でも宜と気随気まぐれで鳴らした果、五月の闇の暗き夜に、以前ハ内箱今ハ食客の峯吉を殺せし事ハ普く人の知る所ながら、彼を殺せしといふ原因に二様あり、一は峯吉が平生よりお梅に懸想し言寄ることも数度なりしが、流石に面恥かかするも気の毒とて風の柳に受居りしを、或る夜兇器をもつて情欲を遂んと迫りしより止を得ず之を切害せしといふにあり、一ハ世にも人にも包むべき一大事を峯吉に洩せしに、彼の同意をせざるより事の爰に及びしともいふ二者何れが是なるか公判の上ならでハ知るによしなし、唯お梅は是迄も情夫の自己につれなかりしを憤り之を害さんと威したる事二度に及ベり、されバ此度の峯吉殺しも想ふに種々入込たる事情もあらんか兎にかく凄き婦人なりかし
・・・・と。
市ヶ谷監獄(現在の新宿区住吉町にあった「市谷谷町囚獄役所」が明治36年「市谷監獄」と改称。近くにあった東京監獄、大正11年市谷刑務所と改称とは別物)に収監されていた花井お梅(このとき40才)が1903(明治36)年4月10日に満期になって出獄した。夜12時を期して、看守長が出獄の旨を申し渡すと、お梅は満面の笑みをたたえて、恭(うやうや)しく長年の行為を感謝したという。
午前零時半、差し入れの黒縮緬花菱三つ紋付き二枚重ねの小袖繻珍(しゅちん)の丸帯をしめ、新調の駒下駄をはいて15年ぶりに刑務所から出てきた。
降りしきる雨の中、出迎えの兄や親類の人たちと日本橋浜町にある兄の家に落ち着いた。
ばか騒ぎをもくろんだ多数の出迎え人や物見高い見物人は午前4時ごろから押し寄せたが、すでに深夜に出獄したと係官から聞かされて、一同「アッとばかりに失望したのもおかしい。・・と同年4月11日付東京朝日新聞にはあるようだ。

「出獄後の花井お梅が堅気な稼業に心を込め、罪を滅さんともがくことは世間に隠れもなき話になるが、とかく耳たぶが薄い(運が悪い)と見えて、何の商売もヤンヤと行かず」、汁粉屋に失敗して牛込岩戸町で小間物店を開いたが、これも断念して、浜町へ舞い戻り、再び汁粉屋に転業と、明治38年2月25日付の東京朝日新聞は伝えているそうだ。
その後も、豊島銀行頭取と称する鈴木某に騙され無一物になり、進退窮まって俳優を志願したので、横浜、横須賀、桐生などから買い込みが来た。
峯吉殺しから鈴木某に逃げられるまでを芝居に仕立てて登場すると意気込んでいる、と報じられるなど、今でいうワイドショーの主役のようであったらしい。しかし、蓬莱座の一件を最後にお梅はゴシップ記事から姿を消したという(朝日クロニクル週刊20世紀1912年号)。彼女は、その後旅回りの役者などもしていたそうだが、1916(大正5)年夏、53歳の頃には、、新橋の芸妓に戻り、秀之助を名乗っていたそうだが、その年、12月13日、肺炎のため、蔵前片町(現、台東区蔵前1丁目)にあった病院で没したという。
この花井お梅の起こした事件は、河竹黙阿弥作『月梅薫朧夜』(役者絵、明治劇散切物の画は以下でみられる)の題で上演、評判となったほか、真山青果が脚色した『仮名屋小梅』(※4参照)、そして、川口松太郎の『明治一代女』として、新派劇の名狂言となった。

月梅薫朧夜 - 早稲田大学演劇博物館 浮世絵閲覧システム

川口松太郎の、『オール読物』誌に連載された小説『明治一代女』(昭和10年)は、「鶴八鶴次郎」「風流深川唄」と併せて"第1回直木賞を受賞している名作であるが、自身の脚色による新派劇は1935(昭和10)年、明治座にて初演され、また、日活入江プロで映画化もされているそうだ。このときの映画は見ていないのでよく知らないが、19558昭和30)年公開の伊藤大輔監督による同名映画(大映)は見たことがある(※5参照)。
最初の日活入江プロの時に作られた藤田まさと作詞による同名の主題歌(作曲は大村能章)はよく流行ったな~。
(歌詞一番)
 浮いた浮いたと 浜町河岸に
  浮かれ柳の はずかしや
  人目しのんで 小舟を出せば
  すねた夜風が 邪魔をする
このときの歌手は元芸者の新橋 喜代三。このころは、葭町(藤本)二三吉市丸小唄勝太郎などの芸者歌手全盛の時代だったな~。
明治一代女の歌もいろいろな歌手にカバーされているが、その中に、私の大好きな美空ひばりのものもある。
彼女は、どんな曲を歌ってもうまいね~。さすが天才歌手だ。今日はこのひばりの歌を聴いて終わることにしよう。ここでは、初代、新橋 喜代三の他いろんなカバー歌手の歌も聞けるよ。

明治一代女 - 美空ひばり - 歌詞&動画視聴 : 歌ネット動画プラス

参考
〔注1〕明治41年幇間の桜川忠考に入門し、大正6年より桜川忠七を名乗っていた人物がいる。この桜川忠考が、桜川呂孝の弟子だろうか。また、桜川忠考の弟子?かどうかは知らないが、その忠七の流れを汲むと思われる人たちが桜川米七、七光、九助 七太郎(女幇間)と名乗り今も幇間芸を広めているようだ。以下参照参照。
花柳界雑学 - 全国花街・花柳界情報専門サイト ざ・花柳界
リンク
※1早稲田大学図書館:古典籍総合データベース: :[近世人物誌] 
※2:コラム:明治の錦絵 | 錦絵でたのしむ江戸の名所 - 国立国会図書館
※3:よくわかる!大島紬(総集編) | きもの知るほど  
※4: 「伝統歌舞伎保存会」 葉月会のアルバム(第十四回)
※5:明治一代女 | Movie Walker
ニュースの誕生:かわら版と新聞錦絵の情報世界:目次
二木紘三のうた物語7:マ行の歌

引っ越しのお知らせ

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ご訪問ありがとうございます。
毎日たくさんの方に訪問いただき感謝しています。
当ブログをはじめて、もう15年近くなります。
そのため画像のアップ等、いよいよ容量にも限界が来ており、残念ながら当ブログの引っ越しをします。
引っ越し先は、以下です。
FC2ブログ「この一枚の絵
URLは以下です
http://f2yousan.blog.fc2.com/
また、当ブログは、CATVでのHP「よーさんの我楽多部屋」の別館的なものでしたが、
CATVはHPを中止するので、やむなく本館「よーさんの我楽多部屋」もライブドアブログへ
老いの愉しみ」というタイトルに名称変更し、順次移行しています。ブログのURLは以下です。
http://blog.livedoor.jp/liveyousan/archives/cat_239396.html
CATVHP「よーさんの我楽多」当ブログ「今日のことあれこれと・・・」も15年ほどかけて作ったものであり。容量が大きく一度に引っ越しができず順次の引っ越しで、完全に引っ越すまでは時間を要します・
したがって、本館「よーさんの我楽多部屋」は本年中に引っ越しするまでおいておきます。。
また、当Gooブログ「今日のことあれこれと・・・」は完全にデーター以降するまで記事はそのまま残しておきます。
今後はライブドアブログの「老いの愉しみ」を本館として、FC2ブログの「この一枚の絵」をその別館という位置づけで記事をアップしてゆきます。
また、「老いの愉しみ」の中でも、過去の「今日のことあれこれと・・・」の中で、「ひとりごと」として書いていたものは、カテゴリー「老いのたわごと(ひとりごと)」ととして書いています。
本館と別館はリンクでつないでいますのでどちらからでも相互に行き来できます。
ライブドアブログも、FC2ブログもHPではないのでCATVでの本館HP「よーさんの我楽多」の時のようにホームページビルダーを使って、思うようなページがつくれません。
慣れないHTML言語などを使いながらの更新なので、未だ、中途半端なところがありますが、これからは、新ページへご訪問よろしくお願いします。
今までの画像掲示板は基本的に本館の「老いの愉しみ」の方に全てを継続添付しています。その中の一つを「この一枚の絵」専用としています。
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