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長谷川平蔵建言により無宿人の厚生施設「石川島人足寄場」が設置された日

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「石川島人足寄場」は寛政2年2月19日(西暦1790年4月3日)、火付盗賊改方(ひつけとうぞくあらためかた)の長である長谷川平蔵宣以(はせがわへいぞうのぶため)の建言により、江戸市中を徘徊する無宿人の強制収容施設として設置されたものである。
長谷川平蔵宣以とは、時代小説・時代劇ファンなら知らぬ人はいないだろう、あの池波正太郎の小説『鬼平犯科帳』の主人公「鬼平」のモデルとなっている実在の人物である。
宣以は、400石の旗本である長谷川宣雄の長男として生まれるが、その生まれた日は正確にはわかっていないようだが、資料によれば没年が寛政7年(1795年)とあり、逆算して延享2年(1745年)ごろの生まれと考えられている。八代将軍吉宗が息子家重に将軍職を譲った時期である。幼名は銕三郎(てつさぶろう)、あるいは銕次郎(てつじろう)といった。
明和5年(1768年)12月5日、23歳の時に江戸幕府10代将軍・徳川家治御目見えし、長谷川家の家督相続後は、父・宣雄と同じく平蔵(へいぞう)を通称とする。
時期は不明であるが旗本の大橋与惣兵衛親英(200俵取りの御船手であったという)の娘と結婚し、明和8年(1771年)には嫡男である宣義を授かっている。宣以は、父宣雄が、自分同様に火付盗賊改加役に就任後、明暦の大火文化の大火と共に江戸三大大火の一つといわれる明和9年(1772年)2月29日に発生した明和の大火(目黒行人坂大火)では、犯人である武州熊谷無宿の真秀という坊主を捕らえ、火刑に処した功績が評価され、安永元年(1772年)10月15日に、京都西町奉行に転任したことにより、宣以も一旦妻子と共に京都に行くが、父は8ヶ後の安永2年(1773年)6月に急死したため、江戸に戻ってきて、同年9月に30歳で長谷川家の家督を継ぎ、小普請組支配・長田越中守元鋪(Wikipediaでは、長田備中守とあるが誤記らしい。*1:『鬼平犯科帳』Who's Whoの京都町奉行・備中守宣雄の死(2)参照)の配下となった。
「鬼平」のドラマにも見られるように、平蔵はこの頃(青年時代)は放蕩無頼の風来坊だったようで、「本所の銕」などと呼ばれて恐れられたようだ。
そのことは、若かりし頃の平蔵の行状について、平蔵の死後に書かれた『京兆府尹記事』(岡藤利忠著*:2)に記述がある。その現代語訳(*3参照)では以下のようになるらしい。
「此の人、闊達の生まれつきゆえ、父備中守(正しくは越中守らしい)貯えおきし金銀も遣い果たし、遊里(一定の区画を仕切って遊女屋を集めてある地域。)へかよい、あまつさえ悪友と席をおなじうして、不相応のことなどいたし、大通といわれる身持ちをしける。その屋敷本所二ッ目なりければ、本所の銕とあだ名せられ、いわゆる通りものなりける」・・・と
当時の本所は明暦の大火以後開拓され新開地としての岡場所深川に発展して この頃は吉原に匹敵するほどの歓楽地になっていた。 

●上掲の画像はマイコレクションより、新橋演舞場での平成五年二月公演『鬼平犯科帳・むかしの女』のチラシである。主演の鬼平は御存じ二代目中村吉右衛門、昔の女を演じるのは今は亡き名女優・山田五十鈴である。テレビでの鬼平第2シリーズの第2話でやはり山田がこのむかしの女を演じていた)。

葦火(干した葦を燃やすたき火のこと)の喜助が8年ぶりに姿をあらわした。腕利きの男を2・3人探しているという。人を殺さず、女も犯さぬ見事な務めをしてきたその老党がいったん盗みの足を洗って8年目に何故・・・。
その頃、『雷神党』と呼ばれる無頼浪人の集団が、殺しや喧嘩、押し借り(強引に金品を借りること)強請をはたらいて江戸市中を荒らしていた。彼らの調べにあたる火付盗賊改めの長官、長谷川平蔵(宣以)はある日、三味線を持った一人の門付け女に出会う。それこそ、平蔵が「入江町の虎」と呼ばれ、本所で大暴れをしていた若い頃に一時はともに暮らしたこともある女、お六の二十年後の姿であった。・・・(チラシのあらすじより抜粋)。

尾張屋清七版『江戸切絵図・本所絵図』(江戸後期発行)の本所・入江町に「長谷川」という小さな武家屋敷があり、池波正太郎は、そこを鬼平が「入江町の銕」時代に育った屋敷としているそうだ。現代は東京都墨田区緑4丁目(.地図)付近に当たる。
若いころに、放蕩三昧の暮らしで父がせっせと貯めこんだ財を使い果たし、女を買い、悪友とつるんでいた(行動を共にする)というが、まさに鬼平犯科帳に描かれる“本所の銕”のイメージそのものであり、十二分に下情(一般の民衆の実情。庶民生活のようす)に通じていたからこそ、のちの鬼平の働きぶりへとつながっていくのだろう。
●上掲は『江戸切絵図・本所絵図』。詳細は、以下国立国会図書館の拡大画像で本所入江町 (下段右)の赤い丸印をつけているところ(植村帯刀屋敷の上)に「長谷川」とあるのを確認されるとよい。
国立国会図書館デジタルコレクション - 〔江戸切絵図〕. 本所絵図

旧中川隅田川を東西に結ぶ竪川は明暦の大火後の万治二2 年(1659年)に 行われた本所開拓に伴い開削された掘割(人工河川)であり、隅田川(大川=吾妻橋周辺より下流部はこう呼ばれていた)には、近いほうから順に一之橋から六之橋まで単純に番号を振った橋が架けられた。
これらの橋は通称として「一ツ目橋」「二ツ目橋」などとも呼ばれていたが、『京兆府尹記事』には「「本所の銕」「その屋敷本所二ッ目なりければ」とあるが、 『江戸切絵図・本所絵図』に描かれる本所・入江町の「長谷川」とあるところは、三ツ目橋を渡った辺りである。
若干の距離があるが、どちらが本当か知らラないが、『鬼平犯科帳』に登場する、軍鶏鍋や「五鉄」は本所二つ目の橋の挟にあったことになっている。むろん、作品の中の架空のものだが, その説明板もある(ここ参照)、

平蔵はその後、31歳で江戸城西の丸御書院番士(将軍世子の警護役)を経て、天明6年(1786)41歳で、番方最高位である御先手組弓頭に任ぜられなど順調に出世をしていった。
幕府の御先手組というのは、戦時ならば将軍出陣の先鋒を勤めるわけだが、江戸時代に入ってからは戦乱があまりなくなり、平時は江戸城に配置されている各門の警備、将軍外出時の警護、江戸城下の治安維持等を務め、由緒ある旧家の人が任命されていた。
同じく江戸城下の治安を預かる町奉行が役方(文官)であり、その部下である町与力や町同心とは対照的に、御先手組は番方(武官)であり、その部下である組与力・組同心の取り締まり方は極めて荒っぽく、江戸の民衆から恐れられていた。
火付盗賊改方は主に重罪である火付け(放火)、盗賊(押し込み強盗団)、賭博を取り締まった役職であり、本来、臨時の役職で、御先手弓・筒之頭から選ばれ、御先手頭の職務との兼役なため「加役」(かやく)とも呼ばれた。時代劇などでは「火盗改」(かとうあらため)、或いは「火盗」(かとう)と略して呼ばれることがある。
火付盗賊改は、盗賊改、火付盗賊改の両役に分かれ、もとは町奉行所の管掌する所であったが、明暦の大火(明暦3年1月18日〔1657年3月2日〕から1月20日〔3月4日〕)以後、盗賊が武装盗賊団であることが多く、また捜査撹乱を狙って犯行後に家屋に火を放ち逃走する手口も横行したことから、彼らが抵抗を行った場合に非武装の町奉行では手に負えなかったことから、幕府はそれら凶悪犯を取り締まる(武力制圧することの出来る)、専任の役所を設けることにしたものである。
まず、寛文年間 (1661年~1672年) に、まず「盗賊改」が設置され、寛文5年(1665年),関東強盗追捕に任ぜられた先手頭・水野小左衛門守正が、盗賊改役を兼ね町奉行所から独立したのが始まり(コトバンク参照)のようである。その後、天和年間 (1681年~1683年) に火付改が設置された。
初代の火付盗賊改の頭(長官)としては「鬼勘解由」と恐れられた中山勘解由が知られるが、当時は火付改と盗賊改は統合されておらず、初代火付改(天和3年=1683年。)の中山直房のこととも、また、同日に盗賊改(初代ではない)に任じられた直房の父の中山 直守とも言われているようだ。
火付け盗賊改方の決められた役所は無く、先手頭などの役宅を臨時の役所として利用した。任命された先手組の組織(与力;5―10騎)、同心:30―50人)がそのまま使われるが、取り締まりに熟練した者が、火付盗賊改方頭が代わってもそのまま同職に残ることもあった。町奉行所と同じように目明し(岡っ引き)も使った。
最も有名なのが、天明7年(1787年)から寛政7年(1795年)まで長官を務め『鬼平犯科帳』のモデルともなっている鬼平こと長谷川平蔵以宣であるが、それが実在の人物であること、そして活躍していたらしいことは事実の様であるが、『鬼平犯科帳』で語られる個々の事件はあくまで池波正太郎の創作である。
長谷川平蔵(宣以)が、父も務めた火付盗賊改役に任ぜられたのは天明7年(1787年)9月9日、42歳の時だった。

天明年間(1781 ~ 89)、冷害や浅間山の噴火(天明3 年)による降灰や大火、洪水等の天災などを原因として諸国では深刻な飢饉が発生した。江戸三大飢饉の一つ、天明の飢饉である。
中でも、平蔵が火付け盗賊改方長官になる4カ月前の天明7 年(1787年)5 月の打ちこわし発生数は江戸時代を通じて最多であり、極めて激しかったが、そのころ、彼は、先にも書いたように、番方最高位である御先手組弓頭に任ぜられていた。
この飢饉の影響で、江戸市中の米価は高騰し、普段は銭百文で白米一升余が買えたのに、この年春から夏にかけては、わずか三合とか二合になった。しかもその高い米さえ悪徳商人が買い占めて出回らなくなり、5月20日、遂に江戸民衆は蜂起した。その数五千余。以後24日ごろまで、昼夜の別なく、江戸中の米商、あるいは米を買い占めているとみられた富商の家々を遂に打ち壊した。
武家の囲米も襲撃の対象となり、時の老中田沼意次の囲米に対しても放出を要求した。24日に長谷川平蔵はじめ十組のお先手組が鎮圧に出動し、また幕府が施米やコメの安売りを行ったのでようやく沈静化している(週刊朝日百科「日本の歴史84)。

この騒乱鎮圧には、月番の町奉行所両役(南は山村信濃守良旺、北は曲渕甲斐守景漸)、火盗改役・堀 帯刀組(先手弓一番手)も無能で、役に立たないというので、幕府は、組頭が比較的若い長谷川平蔵をはじめとする十組のお先手組に出動命令を出したわけである。このことは、江戸幕府の公式記録『続徳川実紀』にも記録されている。
その中で、10組の組頭の中で、一番年の若い長谷川平蔵が代表のように先頭にあげられているのは興味深い。詳しくは、以下参考に記載の*1:『鬼平犯科帳』Who's Whoの先手組に鎮圧出動指令を見られるとよい。
騒乱鎮圧にあたっていた町奉行所両役のうち、別けても北町奉行の曲淵甲斐守景漸などは、米穀支給を望んで景漸を頼って押しかけてきた町人達へ暴言をはきこの暴言が、町人の怒りの導火線に火を付け、群衆による複数の米問屋などが襲撃、江戸市中が一時無秩序状態になるほどの大規模な打ちこわしに発展したとされている。そして、拡大するこの事態取り締まりに出向うともせず、寺社奉行や、勘定奉行などからも厳しく非難され、しぶしぶ出向いても、打ちこわし勢を片っ端から捕縛するようなことはせず、基本的に打ちこわし時に盗みを行う者を捕まえるのみに留まった。
このように鎮圧に消極的ながらも尽力したものの、町奉行所の手勢の数のみでは対応できず、逆に襲撃されるような状態であったようである。もっとも、町奉行所の権限では米価高騰を引き起こした当時の癒着構造や品不足などを抜本から解決できるわけではなかったのだが・・・。
もはや事態が町奉行の手には負えないと判断されたため、幕府は、長谷川平蔵ら先手組頭10名に市中取り締まりを命じ、騒動を起こしている者を捕縛して町奉行に引き渡し、状況によっては切り捨てても構わないとした。しかし、実際に打ちこわし勢を捕縛した先手組は2組に過ぎず、残りの8組は江戸町中を巡回しているだけであったという。活躍した2組の中に当然平蔵組がいたことだろうことは想像できる。
とにかく先にも書いたような諸政策により、5月25日(1787年7月10日)には、江戸打ちこわしはほぼ沈静化したが、 同年、打ちこわしの発生および対応の遅さの責を被る形で曲淵甲斐守は奉行を罷免され、6月10日に石河政武が後任の北町奉行となり、景漸は西ノ丸留守居に降格させられ、また南町、北町両奉行所の与力の総責任者である年番与力に対し、ともに江戸追放、お家断絶の処分が下された。
この打ちこわしによる幕府役人側の処分者は、景漸を含めこの三名のみだそうである。
このような情勢下、打ちこわし勢以外の多くの人々は、自らの利益のために米の買い占め、売り惜しみをした米屋、民衆が厳しい困窮状態に追い込まれながら何ら有効な対策を取ろうとしなかった町奉行、そしてこのような事態を招いた田沼意次の政治に対する厳しい批判の目を向け、逆に打ちこわし勢に対して同情的であった。そのため、事後、逮捕者などは生活苦に追い込まれた上での打ちこわしという行為がそれほど反社会的行為とは言えないとしてほとんどの人が解放された由。
そして、正式な処分ではないが、当時、権勢を誇った老中田沼意次の失脚と、次世代政権で政治の清廉を追求した老中松平定信(第8代将軍・徳川吉宗の孫)の台頭は、この打ちこわしがきっかけともされている(詳しくは「天明の打ちこわし」を参照)。

この時の功あってか、長谷川平蔵は、天明7年(1787年)9月19日に火付盗賊改役に任ぜられている。
天明の飢饉では、異常気象による干ばつ、冷害、洪水、大噴火の降灰の被害に各地の農民は田畑を捨て、都市へ流入したものの、幕府の対応の遅れから、多くは定職に就けず、宿無、乞食、悪事を働く者が徘徊し、暴徒による打ち壊しなど治安悪化が常態化していた。
このように、天明の打ちこわしの背景には都市下層民の不安定な生活、そして疲弊した農村から都市へ多くの人々が流入するといった社会問題、また米価高騰の一因となった通貨政策の問題などがあった。
定信が老中に就任したのは、天明の飢饉に起因する諸問題を抱えていた時期であり、定信の第一の課題は、田沼政権に幕を引いた打ちこわし防止など、都市秩序の維持に結びついた農村政策であり、中でも、最初の大事業は無宿者対策で、都市秩序維持のために帰る先のある都市住民の帰村を促す旧里帰農奨励令、飢饉時などのための七分積立金令の公布、そして長谷川平蔵の建議による、帰り先のない者、軽罪で刑を終えた後も立ち直れない者など無宿人への授産(失業者・貧困者などに仕事を与え、生計を立てさせること。→授産所参照)を目的とした石川島人足寄場の設置などの政策が実施された。

●上掲の画像は、江戸の裏長屋の日常生活の一端(『合巻・絵半切りかくしの文月』からであるが、大都市江戸に流入した細民たちは、絶えず無秩序化する要素をはらんでいた。画像は、個人蔵。『週刊朝日百科日本の歴史84』掲載のもの借用)
長谷川平蔵こと鬼平は、神稲小僧(真刀 徳次郎)や妖盗葵小僧の逮捕など、そのすぐれた働きによって、捕物の名人と讃えられ、また、歴代の火盗改長官とは異なり、無用な拷問を避け、自白によって罪を認めさせたことや、若い頃から独自に培ってきた情報網を使い迅速な逮捕で市中の評判となったことなどは、寛政の改革で知られる松平定信の側近水野為長が記録した『よしの冊子(ぞうし)』にも記されているようだ。
『よしの冊子』は、天明7年(1787年)に30歳という若さで老中に抜擢された松平定信が、まだ経験も浅く、政府の内部事情に疎かったため、老中の座についたその日から、学友で側近の水野為長が隠密を使って情報を集め、世情を定信に伝えるためその要旨をまとめ記録した風聞書であり、文が「なんとかのよし」でしめられているので「よしの冊子」と一般に呼ばれている。
以下参考の*4 :『鬼平犯科帳』Who's Who:現代語訳『よしの冊子』から、一部抜粋させてもらうと、以下のようなことが書かれている。

一. 長谷川平蔵はいたって精勤。
町々は大悦びのよし。
いまでは長谷川が町奉行のようで、町奉行が加役のようになっており、町奉行は大いにへこんでいるとのこと。
なにもかも長谷川に先をとられ、これでは叶わぬといっているよし。
町奉行もいままでと違い、平蔵に対しても出精して勤めねばならぬようになり、諸事心をつけていると申されたよし。(『よしの冊子(ぞうし)』まとめ8、寛政元年5月12日付)

一、長谷川(平蔵 46歳)は、なんと申しても、このごろの利け者のよし。もっとも、いたって大衒者ではあるけれど、それをお取り用いあるのは、宰相ご賢慮の上だろうと噂されている。
ことに町方では一統相服し、本所へんではこの後は本所の町奉行になられそうな、いや、なってほしい、慈悲深い方じゃと歓んでいるらしい。
松平(久松)左金吾(=定寅。50歳 2000石)は、誤認逮捕であっても打ったり拷問にかけたりして責めるので、町方では左金吾様はいやだ、同じ縛られるなら長谷川様にしたい、左金吾様はひどいばかりだ、平蔵様は叱ることもしないし、打ちたたきもなされないと、どこでも評判がよろしい。(『よしの冊子』まとめ 6、寛政3年(1791)4月21日)

しかし、長谷川平蔵の名が歴史に刻まれたのは、捕物の名人としてではなく、石川島人足寄場の設立と維持に尽力したためである。
同様の施設は、安永9年(1780年)に深川茂森(しげもり)町に牧野 成賢が設立した無宿養育所があったが、逃亡者が相次ぎ、天明6年(1786年)に廃止されている。
だが、天明の飢饉以降、激増した江戸に無宿人や浮浪人が激増してふたたび社会問題化したため、彼らを、一箇所に集め、犯罪者化を防ぐと共に職業教育(授産)を施して更生させるという平蔵の構想(建言)が、松平定信に採用され設置されたものである。
その場所には、隅田川河口の石川島佃島の中間にある鉄砲洲向島の芦(あし)沼1万6030坪の沮洳(そじょ)地(=湿地)を整地してあてた。
寛政4年(1792年)には、寄場奉行を設置して管理機構を整備し、また、隣接する石川(大隅守)八左衛門政次(隅田川の河口石川島の名称は代々ここに居住していた旗本石川八左衛門政次がいたことからその名がついたといわれている)の屋敷を上地(あげち=民間から幕府・政府に召し上げられた土地)して、その跡地1万6700坪を寄場付属地に編入している。
寄場内には手業場があり、収容者に大工、建具、塗物、紙漉(す)きや米搗(つ)き、油絞り、牡蠣殻灰(かきがらはい。カキの殻を焼いて粉末にしたもの。石灰の代用にする)製造、炭団(たどん)作り、藁(わら)細工などに従事させた。
これらの作業に対しては賃金が支払われたが、その3分の1は強制的に積み立てさせ、出所時に生業復興資金として渡した。収容員数は、文化・文政期(1804~30)まで140~150人、天保期(1830~44)以降は400~600人に上った。
収容者には、柿)色に水玉模様を白く染め抜いた衣類が支給され、また、人足の教化のために大島有隣(1755―1836)らを講師として心学道話を行っていたそうだ。
江戸以外にも、常陸国上郷村(茨城県つくば市上郷)、長崎、箱館、横須賀などに人足寄場が設置されており、いずれも江戸同様、予防拘禁による治安対策と授産更生という社会政策を兼ねるものであった。
江戸の人足寄場は、明治維新により石川島徒場となり、その後幾度か改称されて、明治10年(1877年)警視庁管轄下の石川島監獄署となった。遺構は明治28 年(1895年)に取り壊されたが、その制度は、巣鴨監獄を経て府中刑務所に引き継がれた(コトバンク参照)。
火付盗賊改方は窃盗・強盗・放火などにおける捜査権こそ持つものの裁判権はほとんど認められておらず、敲き(たたき)刑以上の刑罰に問うべき容疑者の裁定に際しては老中の裁可を仰ぐ必要があった。
なお、火付盗賊改方長官は矯正授産施設である人足寄場も所管したが、初代の人足寄場管理者である長谷川宣以以外は、火付盗賊改方とは別組織の長である寄場奉行として、町奉行の管轄下に置かれていたようである。

参考:
*1:『鬼平犯科帳』Who's Who
http://chuukyuu.info/who/edo/index.html
*2:京兆府尹記事. 巻之1-20 / 岡藤利忠 [撰] - Waseda University Library
http://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/i13/i13_00668/index.html
*3:鬼平を歩く・実録長谷川平蔵 - 雑学大学通信
http://zatsugakudaigakutushin.web.fc2.com/zatugaku/000716.html
*4 :『鬼平犯科帳』Who's Who:現代語訳『よしの冊子』(まとめ 1)
http://chuukyuu.info/who/edo/2009/08/post-e5f4.html
石川島・人足寄場(にんそくよせば)跡
http://ksei.exblog.jp/9023055
「長谷川平蔵 その生涯と人足寄場」① (江戸に関する本)気ままに江戸♪
http://wheatbaku.exblog.jp/14674039/



秀吉が吉野で花見の宴を行った日

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文禄3年(1594年)2月27日、豊臣秀吉吉野で大々的に.花見の宴を行った。
吉野は桜の名所であり、2月27日といってもこれは旧暦であり、新暦に直すと4月17日になるので、まさに花の見頃である。
豊臣秀吉の花見といえば.その最晩年の慶長3年3月15日(1598年4月20日)に、京都の醍醐寺三宝院裏の山麓において催した花見の宴(醍醐の花見参照)が有名である。
このとき花見は、豊臣秀頼北政所淀殿ら近親の者を初めとして、諸大名からその配下の女房女中衆約1300人を召し従えた盛大な催しで、九州平定直後に催された北野大茶湯と双璧を成す秀吉一世一代の催し物として知られている。
しかし、吉野の花見は文禄の役(文禄・慶長の役参照)の真っただ中に行われたものであり、そんな中、秀吉は徳川家康宇喜多秀家前田利家伊達政宗ら錚々たる武将をはじめ、茶人(茶道に通じた人)、連歌師たちを伴い、総勢5千人を引き連れ訪れて吉水院(吉水神社)を本陣とし、盛大な花見の宴を催し、ここには5日間滞在し、そのとき、歌の会、茶の会、お能の会なども開いて豪遊したといわれる。
この時の吉野の花見は、参加の規模から言っても醍醐の花見を大幅に上回るすごいものだった。吉野へは私も三度ほど観光に行ったことがあるが、吉水神社に、一目千本という看板があるところは、その名の通り、中千本、上千本の山桜が一望できる(ここ参照)。おそらく、秀吉もその景色を見て、「絶景じゃ。絶景じゃ。」と子供のように喜んだことだろう。

上掲図版は、この時の吉野の花見の模様を描いたと推定される六曲一双の「豊公吉野花見図屏風」(重要文化財。細見美術館蔵)の部分図。輿に乗った秀吉一行らしき行列が金峯山寺仁王門にさしかかる。一行の中には朝鮮南蛮人と思しき人物も見える(画像は『週刊朝日百科日本の歴史32』6-297p掲載のものを借用)。画像はクリックで拡大する。赤丸で囲んでいるところが腰に乗った秀吉。画像全体図を見たい時は以下参照。以下画像も開いた後閲覧モードで表示すれば画像をクリックで拡大することができる。
萌春の美-重要文化財 豊公吉野花見図屏風とともに-細見美術館

先にも書いたように、吉野の花見は「文禄の役」の真っただ中で開催されたものであるが、文禄天正の後、慶長の前。1593年(グレゴリオ暦。ユリウス暦では1592年)から1596年までの期間を指し、元号は、天正20年12月8日(グレゴリオ暦1593年1月10日)に、天正から文禄に改元された。
この改元の2年前、天正18年(1590年)に秀吉は関東へ遠征し、後北条氏の本拠小田原城を攻め、北条氏政北条氏直父子を降伏させた。北条氏政、同じく小田原城に籠もっていた北条氏照は切腹させ、氏直は紀伊の高野山に追放。これによって、秀吉の天下統一事業がほぼ完成された。
後北条氏を下し天下を統一することで秀吉は戦国の世を終わらせたが、毛利氏長宗我部氏島津氏といった有力大名を滅ぼすことはせず、従属臣従させるにとどまっていた。また、徳川氏は石高250万石を有し、秀吉自身の蔵入地222万石より多い石高を有するほどであった(ここ注釈 23参照)。
その翌・天正19年(1591年)、秀吉の信頼も厚く、豊臣政権で徳川家康という最大の爆弾を抱えた中での政権運営の調整役であり、政権の安定には欠かせぬ人物だった豊臣秀長(秀吉の異父弟、同父弟説もあるそうだ)が1月22日に死亡、次いで、8月5日には、自らの後継者に指名していた秀吉の嫡男鶴松が僅か3歳で病死した。
後継者を失った秀吉は、甥の秀次を家督相続の養子として関白職を譲り、秀次は聚楽第に入り天下人となった。 
秀吉は太閤(前関白の尊称)と呼ばれるようになるが、秀吉は全権を譲らず、依然として統括的立場を保持して二元政治を敷いた。
そして、この年8月、秀吉は来春に「唐入り」を決行することを全国に布告。まず肥前国に出兵拠点となる名護屋城を築き始めている。秀吉の出兵の準備は天正 14 (1586) 年九州征伐の頃からすでにできていたようである。
この年、重用してきた茶人・千利休が突然秀吉の逆鱗に触れ堺に蟄居を命じられている。利休の弟子である

三姉妹の日

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日本記念日協会(*1)に登録の記念日に「三姉妹の日」があった。
制定したのは、女性ばかりの姉妹の中でもひときわ華やかで絆が強いとされる長女、次女、三女の三姉妹。その調査・研究を行っている三姉妹総合研究所(*2)だそうだ。記念日の日付は、「ひなまつり」「国際女性デー」など、女性の月ともいえる3月で、3と4で「三姉妹」と読む語呂合わせからだとか・・・。

三姉妹といえば、時代劇ファンの私などが、すぐに思い出すのは、永禄10年(1567年)頃、織田信長の命により近江(現在の滋賀県)の戦国大名・浅井長政と政略結婚させられた信長の妹お市(信長の姪との説もあるようだが・・)と長政との間に出来た「浅井三姉妹、茶々である。
それぞれ豊臣秀吉京極高次徳川秀忠の妻(正室・側室)となった。天下統一を進めた織田信長の妹(姪?)という血筋に生まれ、2度の戦国大名家の没落・落城や両親の死を経験し、その後天下をめぐる豊臣家(羽柴家)徳川家の天下の覇権争いに深く関わったことから、母・市と並んで戦国の女性の代名詞として語られることが多い。浅井三姉妹それぞれの数奇な運命については、ここで述べなくても、だれもが知っていることだろう(詳しく知りたければ「浅井三姉妹」や、参考*3参照)

上掲の画像は、左:茶々『伝 淀殿像』(奈良県立美術館所蔵)、中:初『常高院像』(常高寺蔵)、右:江『崇源院像』(養源院蔵)
また時代劇でなければ、近代日本文学を代表する文豪の一人谷崎潤一郎が昭和の初期、大阪・船場、そして、わが地元芦屋を舞台に描く長編小説の傑作『細雪』の姉妹を思い出す。いや、これは三人ではなく四人姉妹だったな~。大阪船場で古い暖簾を誇る蒔岡家の「鶴子」「幸子」「雪子」「妙子」の四人姉妹を主人公に、それぞれの生活と運命とを絵巻物風に描いたもの。次女幸子を中心に三女雪子の見合いが軸となり物語が展開する。

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上掲は、マイコレクションより、東京宝塚劇場公演の『細雪』(1987 (昭和63)年1月公演のものと思われる。
今は没落して商売を畳んでしまっている船場で指折りの旧家、蒔岡家。生家の没落にもめげず、移りゆく古都の四季の中、その美しさを競う四人の姉妹。長女の鶴子と次女の幸子は、それぞれ養子を迎えて一家を構え、夫と仲良く幸せに暮らしているが、三女の雪子はどこへ出しても恥ずかしくない深窓の令嬢であるにも関わらず、何故か縁談がまとまらない。母を早くに失い、家運が傾きかけた中で育った近代娘四女・妙子の方は、駆け落ち騒ぎを起こしたり、自立を志向するなど、万事に旧弊な本家との間の摩擦が絶えない。
映画に、舞台にと数多く公演されている『細雪』だが、この舞台では、銀行員の辰夫を婿養子に迎えて本家を継ぐ長女・鶴子を淡島千景が、次女・幸子を八千草薫が、三女・由紀子を多岐川裕美が、四女・妙子を熊谷直美が演じている。船場言葉(大阪弁。今吉元の芸人たちがしゃべっている品のない汚い言葉は河内弁である)を奏でる四人姉妹たち・・・。喜び、哀しみ、支え合うそれぞれの愛・・・人生の詩・・・。時を超えて日本人の心に生き続ける永遠の名作である。
この姉妹は、若々しく、よく似ているところもあるが、それぞれの立場のせいか性格個性豊か。特にこの二人、「時代おくれ、因循姑息」とみえるが「女らしさ、奥ゆかしさ(慎み深く上品であるさま)」という天然の美質をもつ雪子と、その妹で、独立心が強く性的にも奔放な末娘の妙子、性格も価値観も全く異なるこの二人の生き方を対比させて当時の女性像(*4参照)をうまく 表現している(参考*5など読めば4人の性格や気質がわかってくるかも・・・)。

また、洋物の三姉妹といえば、思い出すのは、ロシアの作家アントン・チェーホフの『三人姉妹』だろう。
この戯曲は、田舎町に赴任した軍人一家・プローゾロフ家の三姉妹を主人公に、ロシア革命を目前とした帝政ロシア末期の知識階級の閉塞感を描いた物語である。

上掲の画像は、『三人姉妹』初版時の表紙。三姉妹の顔と、白樺に囲まれた自邸の庭で子守りをするアンドレイ(三姉妹の兄弟)が描かれている。
独身で教師の長女オルガ(独身。教育熱心な父親の方針で、他の兄弟姉妹同様、仏・独・英語ができる。)、中学校教師の夫(クルイギン)に幻滅を感じ結婚生活に不満を抱える次女マーシャ(妻)、人生を歩み始めたばかりの三女イリーナ(独身。モスクワに帰ることと真に愛する人と巡り合い結ばれることを夢見ている)も現実の厳しさを知り、行く末を決めかねている。
高級軍人の一家として過ごした華やかな生活も、父親を亡くしてからはすっかり寂れてしまった。厳格な父親のもと身につけた教養も低俗な田舎町では無用の長物と化し、一家の期待の星であった長男アンドレイ(オリガの弟)も未来の大学教授という一家の期待にもかかわらず、姉妹が軽蔑する土地の娘ナターリヤ(夫の上司と不倫している)と結婚して尻に敷かれている。
姉妹の唯一の希望は、昔暮らしたモスクワへ帰ること。一家が最も輝いていたモスクワ時代を理想化し、夢想することだけが現実の不安を吹き払ってくれる支えになっていた。その町で姉妹が楽しく交流できるのは、父親と同じ軍人たちだけ。この町に駐屯する連隊の将校たちが毎日のように一家を訪れる。ここが、まるでサロン(社交場)のようになっている。
マーシャは夫ある身だが、モスクワから赴任してきた妻子ある身のベルシーニンと恋に落ちるが、この恋は実らず、ヴェルシーニンは軍隊と共に旅立っていった。真実の愛を夢見ていた末娘イリーナは、二人から求愛されていたが、モスクワへ行きたい一心から、現状打破の手段として愛のないトゥーゼンバッハ男爵との結婚を選択(婚約)するが、軍の移動が決まり、一家との別れの時を迎えたその日、彼はイリーナをひそかに愛する恋仇ソリョーヌイと決闘し、殺されてしまう。やがて連隊が町を去って行き、3人姉妹は愛も夢もすべて失うことになる。
この戯曲では、プローゾロフ家の三姉妹と、長男アンドレイの嫁のナターシャとの対比が鮮やか描かれている。子どものためにと、家庭内を仕切り夫を尻に敷くナターシャは卑俗に見えるが、これが現実世界だとしたら「賢母」と評されるタイプの人なのかもしれない。ただ不倫はいけないが・・。
世の中の人はほとんどがナターシャに近くて、何かしらの理想を持っていても、どこかで理想に見切りをつけて、社会に迎合しながら生きていくのだろうが、プローゾロフ家の姉妹たちは、たとえ夢も希望も平穏な生活すら失っても、いつまでも誇り高くしかいられない。ラスト、三人の姉妹は、希望をことごとく打ち砕かれながらも「生きていきましょう。働かなくては」とこれらかも生きていかなくてはならない覚悟を確認し合う。
オリガの言うとおり、今が苦しくても、苦しむ意味がわからなくても、そして自分が苦しんでいた事実さえ、時代の流れとともに忘れ去られていくとしても、やっぱり人は生きていくしかないのであるが、この三姉妹は裕福な生活を送っており、しっかりとした仕事も持っており、悩みを共有できる姉妹もいる。「モスクワに戻る」という夢も、たとえ、仮にモスクワに戻れたとしても、子供時代に戻れるわけもなく、あの時と同じ幸福感はそこにはないはず。彼女たちの願いはそもそもが「ないものねだり」でもあったのだ。
チェーホフは、三人の姉妹達の性格を巧みに描き分け、また、彼女たちが置かれた状況も会話の中で説得力を持って浮かび上がらせている。第三幕、長女のオリガは「結婚は愛でするものではなく、義務でするものだ」とイリーナを諭して男爵との結婚を勧めるが、これは、既に結婚しているマーシャに向けての言葉でもあった。オリガには一家の統治者との自覚が強く、保守的な面が見られる。

日本記念日協会に「姉の日」(12月6日)というのが登録されていたので前にこのブログで書いたことがある(ここ参照)。
漫画家の故畑田国男が提唱した日であり、女性や子供、旅人などを守る聖人、聖ニコラウスにまつわる三姉妹伝説がその日付の由来となっているそうだ(サンタクロースはこの伝承から発展したとする説がある)。
畑田は、「兄弟姉妹型」の研究についての書籍を多く発行し、かって「姉妹型の会」世話人も務めてたことがあるというが、その会がどのような活動をしていたのかは私は良く知らない。
畑田は「兄」(6月6日)「弟」(3月6日)「姉」(12月6日)「妹」(9月6日)にそれぞれ記念日を制定していた。
私は、出生の面で、一子、二子、三子と生まれると、先に生まれてきた子の方が、後から生まれてきた子よりも、DNA的には、頭の良い確立は高いとかいった話を聞いた気がする。本当かどうかは知らないが、遺伝というより、持って生まれた器のようなものはあると思う。ただ、先に生まれてきた子に比べ、後から生まれてきた子は、先に生まれてきた子のモデルがあるため、それをじっと見ていて、先に生まれた子には出来なかったことを学習することが出来るので、その分、上の子よりも、色々学ぶチャンスがあり、確りと育つのだろうと思っているのだが・・・。
私の場合、私は長男であるため、家の跡取り息子として、しつけは厳しかったがそれでも、総領の甚六というのか、要領が悪く、ホヤ!と育ち、親からは怒られてばかり。例えば、子供のころ食事をする時には、厳格な父が上座に一人座り、その前、2列に片側は父親に近い順に長男の私次に、次男、もう一列には母親そして、妹が順に並ぶなど席順も決まっていた(幼少時は畳の上で箱膳を使っていた)。そして、箸の握り方から、食事中のおしゃべりや汁物を吸うのにちょっと音を立てても、食べ方やマナーが悪いといっては、手をパシっとたたかれていたが、弟や妹はそんな私を観察しているので怒られことも少なかったし、また、同じ過ちをしていても私ほどには怒られることもなかった。
ただ、私は初めてできた男の子であるため、親、親戚だけでなく、父が商売をしていたので、多くの人が家に出入りしていたが、そのだれからも大事にし、かわいがられ、必ず私の好きそうなおやつを手土産にもって家へ来ていた(商売上子供の機嫌を取って父に気に入られようとするところもあったようだ)が、弟は私ほど相手にもされていなかった。こんなことも性格に影響してくるか・・・。
三人きょうだいになると、とかく弟のような第二子は浮き易く、独特の人生を歩むことが多いともいう。一方、第一子は子ども達のリーダーとして、良くも悪くも注目を浴びるし、末っ子になると“孫”的要素が入り、ちやほや甘やかされて育つことも多いのだろう(私の家のように、妹は男子2人に次いで三番目にやっと出来た女の子であるため余計だ)。
また、4人(以上)のきょうだいになると、年代差が開くので、第一子は親代わりとなり、3番目以下の存在感が薄くなるかもしれない。家人は、12人兄弟の一番年下のため、学校の父兄会なども母親じゃなく一番上の姉さんが母親代わりに出席していたという。

その人の性質を表す性格(コトバンクも参照)は、人間の特徴的な行動の仕方や考え方を生み出す元になるもので、行動にみられる多様な個体差を説明するために設定された概念であり、他人と違った自分だけの行動の仕方(行動パターン)をもっているという生まれつきの質(たち),品性,人柄のことであるが,現在では通常英語の“character”の訳語として用いられている。この言葉はギリシア語の“kharakter”、「刻み込まれたもの」「彫りつけられたもの」という意味をもっていて、内面的な特性を示すが、一般にキャラクター”とは言わず、パーソナリティー“personality”の訳として人格とともにほぼ同義に用いられているようだ。
言い換えれば、行動の個人差には単に環境的条件(家庭や子育て、親子関係など)の差だけでなく、その人がだれであるかという主体的条件によって決まってくる面がある(*8のパーソナリティ心理学Q&A第3回 育った環境で性格が変わるのか?参照)。
人の性格は十人十色といわれるように多様である。それを一定の理論に基づいた典型的なものによるタイプ(類型)に分類し、その構造を理解しようとする考え方がある。

三姉妹が含まれる女性の分類体系「姉妹型」というものを発案した漫画家の故・畑田国男は、都市と女性のフィールドワークを調査し続けて、数多くのルポルタージュを発表したが、そこから兄弟姉妹の立場が性格を決めるという新しい人間学を発見。
あらゆるジャンル職業と年代の兄弟、姉妹を調べ、その性格差や活躍度には明確な因果関係(*相関関係と因果関係参照)が見られることを膨大なデーターから導き出したという。
それは、どんなきょうだい(兄弟姉妹)構成で、何番目に生まれて育ってきたかを知ることで、その人の基本的な性格がわかるというもの。つまり、きょうだい関係という後天的な生育環境の要素に着目して、性格や行動原理を決めるのは幼児期の家庭環境にあるという理論の新しい人間学であり、きょうだい学であったそうだ(*2 :「三姉妹総合研究所」の姉妹型とは参照)。
そして、三姉妹総合研究所で実施した「三姉妹アンケート調査」では、姉妹自身による姉妹の性格差を客観的に評価する調査を行った結果、長女、次女、三女それぞれの性格は次のような項目が上位を占めたという。
◆長女 <厳しくしつけられた>・しっかり者、生真面目、穏やか、保守的、社交的
◆次女 <自由気ままに育てられた>・マイペース、気まぐれ、自由奔放、大らか、根気強い
◆三女 <誰からも甘やかされた>・甘えん坊、要領が良い、明朗、人付き合いが良い、のんき
これは、先に述べた私の家の関係にも似ている。ただ、私・長男(ここでは長女)がしっかり者とは言えぬかもしれないが。同じ三人のきょうだいでもそのきょうだい構成(男女の違いや組み合わせの違い、順序の違い)で違ってくるのだろう。

以下参考の*9:「スチュワーデス塾」の”はじめに”のところに書いているところによると、
1960年代以降、アメリカでは、離婚件数が急激に増え(*10参照)社会問題化していた。そこで、心理学教授のヴァルター・トーマンは、2万組以上の離婚カップルを調査し、離婚原因をあらゆる角度から分析。
その結果、同じ性格や気質のカップル同士で、離婚率が高いことが分かった。さらに、分析を進めていくと、末っ子同士のカップルに離婚率が非常に高く、長男と長女同士の結婚も、それに続いて離婚件数が多いとの結果がでた。これはどちらが悪いというのではなく、相性に問題があるとトーマン博士は言っているそうだ。
このスチュワーデス塾の≪相性心理学講座≫には以下のようなものがある。興味のある人は覗かれるとよい。
よい組み合わせ、悪い組み合わせ 
きょうだい関係と男女の関係
きょうだい関係と仕事 
9つの性格パターン
また以下も参照されるとよい。
生まれ順でわかる9つの性格 - NAVER まとめ

*10:「図録 主要国の離婚率推移」を見ると、日本の離婚率も、1990年代後半から上昇しており、国内的には問題視する場合が多いが、上昇程度、変化のスピードなどで、世界の動きの中では、まだ、マイルドな動きとなっているという。
世界では日本のような皆婚慣習を維持している国は珍しくなっており、男女のカップルの解消は必ずしも離婚率でたどれない状況になっている婚外子(婚姻届を出していない男女間に生まれた子。非嫡出子)割合が半数を超える国も増えている(図録1520参照)。欧米の離婚率の低下傾向(1980年代以降)はそもそも婚姻関係自体が少なくなってきているからという要因も無視できないというが・・・。
日本でも、普通離婚率は1883年(明治16年)には「3.38」であったが、大正・昭和期にかけて低下し、1935年には「0.70」となった。その後1950年前後(「約1」)および1984年(「1.51」)に二度の山を形成したが、1990年代から再び上昇し、2002年(平成14)には「2.30」を記録していたが、その後、少しづつ低下し2014年(平成24年)「1.77」(*11のここ参照)となっている。この数字は、人口1,000人当たりの離婚件数を表している。
しかし、一方で、人口1,000人当たりの婚姻件数を表した婚姻率も「5,1」と減少しており、5,1組が結婚し、そのうち1,77組が離婚している。つまり、離婚する夫婦が34,7%と、3組に1組もいる時代になっているのである。
我が国では、出生する子どもの約98%が婚姻関係にある男女の嫡出子であることから、結婚年齢や生涯未婚率の上昇が、出生数に一定の影響を与えていると考えられるが、厚生労働省が発表した『平成25年版 厚生労働白書』(*12)の「第2章第2節結婚に関する意識」に、見られるように、かつては皆婚規範が強く、特別な理由がない限り人生の中で結婚することが当たり前とする意識が一般的だったが、近年では高い年齢に至るまで未婚に留まる人々が増え、結婚を選択的行為として捉える見方が広まっている。
これは、内閣府の「男女共同参画に関する世論調査」(平成21年10月調査)を見ても、結婚について「どちらかといえば賛成」を含めると70.0%が「結婚は個人の自由である」と考えており、1992(平成4)年時点(62.7%)と比較すると、約7ポイント増加しているという(*13参照)。

また、内閣府の『国民生活白書』(平成13年版)の第1章 家族を巡る潮流変化の結婚することに対する意識の変化を見ると、以下のようにある。
近年の未婚化、晩婚化の第一の原因としては、相手が見つかるまでは結婚しなくてもいいという人が多いことがあげられる。なお、結婚相手の条件としてもっとも重視するものについて、当府「国民生活選好度調査」(97年。)では、性格が合うことをあげる人の割合(64.3%)が高くなっており、精神的なつながりが重視されているようである・・・と(第1-16図)。
このように「性格が合う」ことを結婚相手の条件としてあげる人が多いのであれば、今日のテーマ―である、前述したような「きょうだいの性格パターン」等を参考にして、自分に合いそうな相手を見つけ、もっと子供も産んでもらわないと日本は大変なことになる。
我が国では、年々出生数は減少し、2014年(平成24年)の合計(特殊)出生率(出産が可能な年齢の女性が生涯に産む子ども数)は1.42人となっており微増傾向ではあるものの、欧米諸国と比較するとなお低い水準にとどまっており、合計特殊出生率は、2023年には1.08人台まで低下し、その後わずかに上昇を示して2060年には1.12人へと推移するも、総人口は、2044年に1億人を割り、2060年には7,997万人になるものと推計されているそうだから・・・(*14:『少子化社会対策白書』(*14)平成25年版の第1節 近年の出生率の推移も参照)。


*1:日本記念日協会
http://www.kinenbi.gr.jp/
*2 :三姉妹総合研究所
http://www.sanshimai.jp/
*3:浅井3姉妹(茶々、初、江)はどのような性格だったのでしょう-Yahoo!知恵袋
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1170968251
*4:男の本音…男性が望む理想の女性像10選 | 女性の美学
http://josei-bigaku.jp/love/risounojosei44405/
*5 :『細雪』の四姉妹 ( 小説 ) - Shadowlands
http://blogs.yahoo.co.jp/farida_firdaus07/19928848.html
*6:チェーホフ作「三人姉妹」について。その1 |
http://yuzo-goroku.jugem.jp/?eid=3363
*7:木村敦夫 チェーホフ劇におけるコミュニケーションの問題
http://www.l.u-tokyo.ac.jp/~slav/01dep_slav/thesis/kimura.html
*8:日本パーソナリティ心理学会
http://jspp.gr.jp/
*9:スチュワーデス塾
http://www.stwds.com/index.html
*10:図録 主要国の離婚率推移(1947年~)
http://www2.ttcn.ne.jp/honkawa/9120.html
*11:人口動態調査 結果の概要|厚生労働省
http://www.mhlw.go.jp/toukei/list/81-1a.html
*12:白書、年次報告書|厚生労働省
http://www.mhlw.go.jp/toukei_hakusho/hakusho/
*13:内閣府:世論調査:男女共同参画社会に関する世論調査
http://survey.gov-online.go.jp/h21/h21-danjo/index.html
*14:内閣府HP
http://www.cao.go.jp/
国立社会保障・人口問題研究所
http://www.ipss.go.jp/index.asp








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いのちの日

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日本記念日協会に、今日3月11のる記念日として登録されているものの中に「いのちの日」があった。
2011(平成23)年3月11日に発生した東日本大震災では多くのが失われた。の尊さを思い、命の大切さを考え、震災で学んだことを風化させることなく災害に備えようと「災害時医療を考える会(Team Esteem)」(※1)が制定したもの。
設定の趣旨は、災害時医療の改善を図るとともに、9 月1 日に防災訓練が行われるように、3月11日には健康、医療、災害時の体制などを考える機会を設けたいとの思いから。…だという。

いのち短し 恋せよ少女(おとめ)
朱(あか)き唇 褪(あ)せぬ間に
熱き血潮の 冷えぬ間に
明日の月日は ないものを
この歌は、1915(大正4)年に発表された中山晋平の歌謡曲『,ゴンドラの唄』(作詞:吉井勇)の歌詞(一番)である。
芸術座第5回公演『その前夜』の劇中歌として生まれ、松井須磨子らが歌唱、大正時代の日本で大流行したものだ。随分古い歌と思われるかもしれないが、私がまだ子供の頃でもよく唄われていた。
作曲の中山によれば、母のの直後、悲しみに暮れる帰りの汽車の中で「『ゴンドラの唄』の歌詞が語りかけて」きて、「汽車の揺れとともに、自然と旋律がわいてきた」 のだという。
この『ゴンドラの唄』は森鴎外が翻訳した『即興詩人』(アンデルセン著)の一節を基にして吉井が作詞したそうだ(*2参照)。
黒沢 明監督の映画 『生きる』 のなかで、主演の志村 喬扮する一市役所の市民課長・渡辺勘治が、この歌を口ずさみながらブランコをこぐシーンが思い出される。
30年間何もしないまま、勤め上げようとしていた彼は、ある日、自分が胃ガンであることを知らされる。早くに死に別れた妻との間にできた息子にも冷たくされ、絶望と孤独に陥った彼は、街へさまよい出て、飲みなれない酒を飲む。
ああ、自分の人生はいったい何だったのか?・・・。 余命の短さの苦悩の中から、彼は生きることの意味を考えはじめる。そして、人生の最後の時間に、ほんの少しでも市民の役に立つことをしようと考え、小さな公園の建設に奔走、彼の努力により児童公園が完成した。 小雪の舞う夜、完成したばかりの公園のブランコに揺られながら、この『ゴンドラの唄』を楽しげに歌う・・・・。
死に直面した人間の心を通して、生きることの意味を優しい眼差しで表現したこの映画は、1953年度、ベルリン国際映画祭シルバーベアー賞を受賞している。
上掲の画像は、マイコレクションの絵葉書、那覇中央郵便局発行黒澤明監督全30作品絵入り絵葉書(ここ)の中の『 生きる』:ブランコに乗りゴンドラの唄を歌っている主演の志村喬)。『ゴンドラの唄』の試聴は以下で出来る。

ゴンドラの唄(命短し 恋せよ乙女) 歌詞と視聴 - 世界の民謡・童謡
今の時代、人間楽して、楽しく生きる事が理想のように考えている人が多くなったかもしれないが、そんな人は、一度この映画をDVDででも見てみると良い。『生きる』の主人公に限らず、誰だって享楽的な生活を送りたくなるだろうが、この映画の主人公は、それでは、何も満たされることがなかった。「生きる」とは、そういうものではないと思ったのだ。
仕事や人間関係に疲れたとき人は、自分の存在が否定されたように感じ、「私はなぜ生きているんだろう」という疑問を感じ、悶々としているうちに「生きている意味なんてない」と自分の人生に否定的になってしまうこともあるようだがそのような時、歴史上の哲学者や文学者が考えた「生きる意味」や「人生の意味」が私達を励ましてくれるかもしれない(※3参照)。
「生きる」とは、この世でいちばん稀(まれ)なことだ。たいていの人は、ただ「存在」しているだけである」(オスカー・ワイルド 
ただ存在するためには、息をして死なないでいるだけで十分であるが、生きるためには自分の意志で積極的な活動をしていかなければいけないのかもしれない。自分が「生きている」のか、「存在している」だけなのか、時には、自分に問いかけてみることも必要ではないだろうか(以下参考の*3参照)、
「敷かれた道を進むより、道なきところに自ら道を築いて進め」
「絶えずあなたを何者かに変えようとする世界の中で、自分らしくあり続けること。それがもっとも素晴らしい偉業である」
「人生は短い。だが親切を行う時間はいつだって十分にある」
いずれも私の好きなアメリカの思想家、哲学者であり作家・エマーソンの言葉である。何をしようかなど考えることはない。自分がしたいことを思いっきりしたらよいのである。少なくとも、人に親切をことをするぐらいはしようと思えばいつでもできるのだから・・・。そうすれば人生は変わるだろう。
思えば、私など、特別に何も考えずに今まで生きては来たが、振り返ってみると、自分としては、すばらしい青春時代をすごしてきたことを今、しみじみと幸せに感じている。生来が馬鹿な私は難しいことなど何も考えずに、ただただ、自分のしたいと思うことだけを夢中になって思う存分にやってきた。
もし、他の人よりほんの少し劣ったり遅れをとっただけで悩んだりしている人は、以下参考の青空文庫の北条 民雄「いのちの初夜」(※4)など読んでみるとよい。
昭和初期では不治の病とされたハンセン病(癩病)、患者は一般社会から隔離されて専門の施設に隔離された。自身も癩病患者であった作者の体験的な作品『いのちの初夜』は、癩病院への入所という絶望の中から不死鳥のような命の叫びを感じさせてくれる。生命(いのち)ってなんなんだ。?・・・深く考えさせられる。

ある種の現象が人間社会に負の影響を与える時、その現象及び影響(現象の拡大,他の現象の誘発)を「災害」という。
いくら真面目に一生懸命頑張っていても人を不幸に陥れる災害に遭遇することがあるが、その現象には自然現象による災害「天災」と人為現象による災害「人災」がある。
災害対策基本法」にいう天災とは、自然現象としての災害」であり、 震災津波高潮火山の噴火、暴風,豪雨,豪雪,洪水,その他の異常な自然現象であり,人災とは「大規模な火事もしくは爆発」などの人為現象であるとしている。
災害は、忘れたころにやってくるとは、よく言われるが阪神・淡路大震災は、まさにそのことばをまざまざと思い出させてくれた自然災害である。
1995年(平成7年)1月17日に起こった「兵庫県南部地震」は「ナチュラル・ハザード」(自然現象)であるが、その結果引き起こされ、数年にわたり大規模な人的被害や経済的被害などが続いた「阪神・淡路大震災」は「ナチュラル・ディザスター」(「自然災害」)である。
なお「ナチュラル・ハザード」という言葉は将来起きる可能性のある脅威(たとえば発生が予想される地震や、大雨が降った場合の洪水)を指す場合に使われるが、「ナチュラル・ディザスター」(自然災害)は過去に起こった、あるいはいま起こっている社会的出来事に関連付けて使われるそうだ。
戦後最大(発生時点では)のこの地震災害(震災)は、1995年(平成7年)年1月17日未明に、地震とはまったく縁がないと思われていた阪神、淡路地区を襲った。
これまで我が国が経験したことのない大規模な都市型震災であり、兵庫県全体で、死者・行方不明者が6,437 人、被害総額が約10 兆円にのぼった。特に震源に近い我が地元神戸市六甲山南側の市街地を中心に広範囲かつ大規模に被災。人的被害では、死亡者4,571 人(2000.1.11)に達した。
その中で、高齢者(60 歳以上)が死亡者の約59%を占め、家屋倒壊による死者が多数(窒息・圧死が全体の約73%)を占めた。
また、物的被害では8 万戸を超える住宅が喪失し、さらには、神戸の街が営々と築き上げてきた神戸港、高速道路、橋梁、鉄道施設、ライフラインなどの都市基盤や、さらには産業基盤が甚大な被害を受けた。この物的被害の総額は約7 兆円弱と見込まれている。
その結果、道路であれば、利用できた数少ない幹線道路に自動車が集中して大渋滞が発生し、人命救出や消防の部隊の現場到着が大幅に遅れたり、その後の被災地への救援物資(水、食糧、日常用品等)の輸送に大きな影響を与えた(第二の災害とも呼ばれる)。また、水道管の破断等による断水は、消火用水不足による延焼拡大を引き起こし、その後の飲料水不足や水洗トイレの使用不能にもつながった(※5の阪神・淡路大震災の概要及び復興 - 神戸市参照)。

よく大きな被害が発生すると、「異常な自然現象」の為と云われるが、自然現象というものは,あくまで「自然の摂理」そのものであって決して「異常」ではない。「災害対策基本法」は,おもに災害が発生した場合の行政的措置(行政行為)を定めた法律であるが、その前提には,災害つまり自然現象に対する対応策(技術)のための予測がある。例えば,各種の建造物の設計基準を与えるものであり、過去の災害事例から,確率論的に災害規模を設定している。
その災害の規模は,それが人間社会に与えた負の影響の大きさ,つまり「被害」の大きさによって測定されるが、例えば、過去の地震事例を見ても分かるように、地震現象自体は同程度であっても,災害規模(被害の大きさ)は異なる。よく言われる、「異常」は其の予測値を超えた被害が出たときに使われているだけである。

震災は、津波の発生や、建物・施設等の倒壊、同時多発火災延焼、ライフライン等の途絶による被害の複合性・波及性、情報連絡、避難生活、災害後の復旧対策など、総合的な防災行政全般に関連しているだけに、日本ではとくに防災行政の中心的な目標におかれてきた。
そして、関東大震災をはじめ、その時々の地震によって顕在化した弱点を教訓にしながら対策を積み上げていくことで、今日ある防災行政が進んできたともいるが、とくに、この阪神・淡路大震災は、地震による人的被害の規模の大きさ、高層建築物都市施設の衝撃的な被害など、直下型地震の怖さを人々に焼き付けた。
震災地域の被害は、その震度などに単純に対応したわけではない。同じ震度地域であっても、倒壊した家屋もあれば倒壊しなかった家屋もある。震災に伴う火事は、木造・密集住宅地で、そうではない地域に比べ延焼が顕著であった。「被害」は、老朽住宅居住者・高齢者・一人暮らし・低所得者層など、いわゆる社会的弱者に、より深刻に現れた。震災被害は、そうした「階層性」を伴っていたが、震災後も被災者の生活再建の程度において、比較的に早く進んでいく者とそうではない者のふるい分けが、階層性を含みながら進行した(※6参照)。
災害時、社会的弱者はこのようにより厳しい状況に置かれやすい。防災行政の領域では、従来からこうした特別な配慮を必要とする人達を「災害弱者」として概念化してきたが、阪神・淡路大震災において、、災害時における弱者保護の必要性が改めて認識される事となった。
そして、この震災では、地震によって倒壊した建物から救出され生き延びることができた人の約8割が、家族や近所の住民等によって救出されており、消防、警察及び自衛隊によって救出された者は約2割であるという調査結果がある(※5参照)。
このような状況の中から災害ボランティアの活躍もあり、日本の市民運動史上では1995年のことを意味する「ボランティア元年」という言葉も誕生するなど、今までの災害現象では比較的注目されなかった、やや質の違う社会的課題を提起したといえる。

一年の世相を表す漢字一字を選ぶ「今年の漢字」(日本漢字能力検定協会主催)は、阪神・淡路大震災が起きた1995年から始まった。そして、この年の漢字は「」であった。1月に阪神・淡路大震災、3月にはオウム真理教による地下鉄サリン事件オウム真理教事件参照)が起きるなど、まさに世間を震撼させる出来事が起きたことによる。
先にも述べたように、阪神・淡路大震災には、今までの災害現象では比較的注目されなかった現代社会ならではの社会的課題が多く提起されており、今後の大型震災発生に対してその教訓を生かして、国、地方行政、そして、各個々人がそれなりの防災対策を講じていなければならないはずであったのだが、マスコミの報道は、阪神・淡路大震災のことについてはオウム真理教事件に埋没され、震災のことも、崩壊した高速道路や家屋、また火災で燃えている家など映像による悲惨な状況を、何か大きな事件といった感じで報道されていただけのような気がするのだが・・・。

阪神・淡路大震災では6千5百人の尊い生命が失われ、4万5千人が負傷し、最大時の避難者は32万人に達したが、被害の中心となった死傷者の多くは圧死や挫滅症候群(クラッシュ症候群)だった。
又、この大震災の後遺症が少しずつ癒えてきた2004年(平成16年)10月、新潟県中越地震が発生し、死者68人、負傷者は4千8百人を記録した。
地震発生後、余震も頻発し揺れも強く、山間部では多くの被災者が自家用車で暖を取りながら長期間の避難生活を余儀なくされたことで、深部静脈血栓症:: いわゆるエコノミークラス症候群が多発し、死者の少なくとも10人はこれがもとであったともいわれている。
そして、2011年(平成23年)3月11日に発生した東北地方太平洋沖地震とそれに伴って発生した津波、およびその後の余震により引き起こされた大規模地震災害である東日本大震災の地震の規模はマグニチュード(Mj)は,9.0、最大震度は7を記録し2016年(平成28年)2月10日時点で、死者・行方不明者は18,456人、重軽傷者は6,152人、警察に届出があった行方不明者は2,562人であると発表されている。
被害は南北500キロに渡り、過去に経験しなかった巨大地震とともに大津波福島第一原発事故,に襲われたが、死傷者の大多数は津波による溺死・溺水だった。被害を大きくした原因は,、被災地に通じる交通網が土砂や瓦礫で遮断されてしまったことで、人的物的支援が空路でしかできなくなってしまったことである。同時に電話やインターネットなどの通信網が完全に崩壊し情報の往来が不可能になったことも被害を増大させてしまった。この2件は阪神大震災でも同様のことが見られたことであった。
歴史的には中規模地震は10年に1回、大規模地震は100年に1回の割合で発生すると言われており(地震の年表 -日本参照)、国では10年から100年単位での長期的な地震発生の可能性と、今後30年以内に震度6弱以上の揺れに見舞われる確率を公表している(*7参照)。
災害が発生した場合、最も重要なことは人命救助である。人命救助にあたって、被災地内の医療機関は、自らも被災者となるものの、被災現場において最も早く医療活動を実施できることから、その役割は重要なものである。
災害(地震、火災、津波、豪雨水害豪雪、火山噴火、または航空機事故などの大規模な事故、その他)により、対応する側の医療能力を上回るほど多数の医療対象者が発生した際に行われる、災害時の急性期・初期医療を指す「災害時医療」(災害医療)については、阪神・淡路大震災を契機として、災害拠点病院の整備、広域災害・救急医療情報システム(Emergency Medical Information System:EMIS.*8参照)の整備、災害派遣医療チーム( Disaster Medical Assistance Team の略語「DMAT」(ディーマット)と呼ばれる)の養成等を行ってきたが、東日本大震災での対応において、これまで整備してきた体制等につい今なお対応しなければならない課題が明らかになり、その課題について、厚生労働省が、被災地を含めた災害医療関係の有識者が検討する場として「災害医療等のあり方に関する検討会」を開催し、報告書が取りまとめられているのでそこを見られるとよい(※9の平成24年3月21日医政発0321第2号参照)
救急医療は、患者に対して十分な医療を供給できる環境下で行われる医療であり、例え突発的な発生であったとしても、いわば 「日常的に行われる医療」 の一部であるが、これに対して災害医療は、事前に予測困難な災害の発生時において、急激な傷病者の増加に対して医療の供給が全く追いつかない状況下で行われる医療であり、場合によっては 電気・水道などのインフラ施設も被災し停電・断水 といった状況の中、医療機関への医薬品や衛生材料の供給もストップするなど、想像以上に過酷な状況の中でも行わなければならない。
このような混乱する現場・殺到する傷病者に対して、手元の 「限られた医療資源」 を有効に活用することで、何とか1人でも多くの人命を救うことを求められる医療である。実際の災害発生時に 災害医療を主に担当するのは、平時に救急医療に携わっている医療関係者である。しかし 「災害医療」と「救急医療」は このように本質的に全く異なる医療であり、傷病者一人ひとりに対して、平時のような100%の医療は、現実的には提供できない。
災害医療では、一人の患者にかける医療の「質」よりも、いかに多数の患者に対して、限りある医療を効率的・効果的に提供できるか、という観点が 常に要求される、という点でも特殊である。 また、災害が長期化した場合には、必要とされる医療の内容が変化する、というのも大きな特徴のひとつである。 
大規模災害時の被災者は、見知らぬ人を含めた多数の人との避難生活という、通常とは異なる環境下に置かれる。これにより十分な休息ができなかったり、トイレに行くことをためらったり、避難生活への不安や不満を抱えたりする場合がある。また、家族の安否を気にしたり経済的な不安を抱えたりといった心理的負担も大きい。
こうした環境要因により、不安や悩みを抱え、それが胃腸症状やうつ傾向のような身体症状として現れる例が多く見られる。“災害時の要介護者(要介護認定された者)へのケア”をどうするかなどはそのガイドラインが内閣府より出ており(※10参照)、また、厚生労働省の補助を受け、日本赤十字社が実施している災害救助調査研究・研修事業の一環として作成されたガイドライン(※11参照)などがあるので参照されるとよいだろう。

東日本大震災が発生した2011年(平成23)の「今年の漢字」は「絆」(*12参照)が選ばれた。
日本国内では、東日本大震災や台風(2011年の台風)による大雨被害、海外では、ニュージーランド地震タイ洪水などが発生。大規模な災害の経験から家族や仲間など身近でかけがえのない人との「絆」をあらためて知らされたことによる(*13参照)。
人と人との小さなつながりは、地域や社会などのコミュニティだけでなく、国境を越えた地球規模の人間同士の「絆」へ。
SNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービス)をはじめとするソーシャルメディアを通じて新たな人との「絆」が生まれ、旧知の人との「絆」が深まった(*14参照)。
この震災以降、人と人のつながりが増えたことは、不幸中の幸い、非常に喜ばしいことではあった。

(冒頭の画像は、 日本赤十字社の災害時要援護者対策 ガイドライン より。)
参考
*1:災害時医療を考える会
https://esteem311.wordpress.com/
*2:レファレンス共同データーベース:「ゴンドラの唄」は・・・
http://crd.ndl.go.jp/reference/modules/d3ndlcrdentry/index.php?page=ref_view&id=1000167707
*3:人生とは何か?を教えてくれる名言24個
http://estorypost.com/%e5%90%8d%e8%a8%80%e3%83%bb%e6%a0%bc%e8%a8%80/quotes-about-life/
*4:図書カード:「いのちの初夜」 著者名: 北条 民雄 
http://www.aozora.gr.jp/cards/000997/card398.html
*5」神戸市:阪神・淡路大震災 震災復興資料集(50音順)
http://www.city.kobe.lg.jp/safety/hanshinawaji/data/keyword/50/
6:大震災いまだ終わらず - 佛教大学
http://www.bukkyo-u.ac.jp/mmc01/naito/cyosa/sinsai/1999/20000517.html
*7:特集 地震を知って地震に備える! - 内閣府
http://www.bousai.go.jp/kohou/kouhoubousai/h21/05/special_03.html
*8:広域災害救急医療情報システム: Home
https://www.wds.emis.go.jp/
*9:災害医療|厚生労働省
http://www.mhlw.go.jp/seisakunitsuite/bunya/kenkou_iryou/iryou/saigai_iryou/index.html
*10:災害時要援護者の避難支援 ガイドライン - 内閣府(Adobe PDF)
http://www.bousai.go.jp/taisaku/youengo/060328/pdf/hinanguide.pdf#search='%E3%80%81%E3%80%8E%E7%81%BD%E5%AE%B3%E6%99%82%E3%81%AE%E8%A6%81%E4%BB%8B%E8%AD%B7%E8%80%85%E3%81%B8%E3%81%AE%E3%82%B1%E3%82%A2'
*11:災害時要援護者対策 ガイドライン - 日本赤十字社(Adobe PDF)
http://www.jrc.or.jp/activity/saigai/pdf/saigaikyugo-3_document.pdf#search='%E3%80%81%E3%80%8E%E7%81%BD%E5%AE%B3%E6%99%82%E3%81%AE%E8%A6%81%E4%BB%8B%E8%AD%B7%E8%80%85%E3%81%B8%E3%81%AE%E3%82%B1%E3%82%A2'
*12:漢字辞典-OK辞典 ー「絆」
http://okjiten.jp/kanji46.html
*13:公益財団法人 日本漢字能力検定協会:「今年の漢字」一覧
http://www.kanken.or.jp/project/edification/years_kanji/history.html
*14:ソーシャルメディアの効用と可能性 : 平成23年版 情報通信白書 - 総務省
http://www.soumu.go.jp/johotsusintokei/whitepaper/ja/h23/html/nc232330.html












1881年、東京て『東洋自由新聞』が創刊された日

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1881年(明治14年)3月18日、東京で『東洋自由新聞』が創刊された。山城屋の稲田政吉を社主とする東洋自由新聞社発行によるものである。
山城屋の稲田政吉については、Wikipediaで調べても分からなかったが、明治期の評論家・翻訳家、・小説家でもある内田 魯庵(*1参照)」の『銀座繁昌記』(*2)の中見出し「銀座の本屋 ―稲田政吉と兎屋と鳳文館」の中に、当時の銀座の新らしい文化を代表する出版社博聞社や報告社大野堯運(おおのぎょううん)の他に、「江戸時代からの古い暖簾では山城屋政吉というのがあった。これも西側の銀座二丁目の、タシカ今の三枝小売部の所に『江戸名所図会』にあるような古い行燈看板を出していた。銀座の新市街を第一に讃美した『東京新繁昌記』(服部誠一著、*3 参照)の出版人であるし、本屋としても毛色の変った男であったから、やはり銀座人物伝の中に加えねばならない一人である。
「山城屋稲田政吉はその頃の商人としては四角な難かしい字(※漢字のことだろう)も読み、のちに府会議員となって府政にあずかった程の口利きで・・・」などと紹介されている。

明治六年政変後、下野した板垣退助は1875年(明治8年)に、福沢諭吉明六社系の啓蒙家によって,ヨーロッパから紹介された自由・民権思想に基づいて, 藩閥政治に反対して国民の自由と権利を要求した政治運動・ 自由民権運動を全国的に展開する為、愛国社を結成したが、政府の参議に復帰するなどしたために愛国社はすぐに自然消滅した。
3年後の1878年(明治11年)9月に愛国社は再興されて大会が開かれた。翌年11月に開かれた第3回愛国社大会では国会開設請願の署名を集める事と全国で遊説(ゆうぜい)を展開する事が決まった。
こうして、国会開設を目標とする全国運動は、同時にそれまで旧士族中心だった運動が、新たに豪農豪商を出身とする者らも加わった運動に転換していった。これに伴い愛国社についても、板垣など高知県の立志社中心の運営に対する批判が高まり、1880年(明治13年)3月15日に第4回愛国社大会が大阪の喜多福亭で開かれたが、2府22県から愛国社系以外の政治結社代表を含む114人が参加し、国会開設請願を求める約8万7000人の署名が集まったことから、17日には会場を太融寺に移し、愛国社とは別個に国会期成同盟の大会が開会される事態に陥り、結果的に、当大会を以って、愛国社大会は国会期成同盟大会に衣替えすることになった。大阪市北区の太融寺大師堂横に国会期成同盟発祥之地碑がある*4参照。


規約の内容としては、各地の政治結社との連絡の為に常備委員を設置する事、国会開設請願書を天皇に提出する事、国会開設の請願が天皇に聞き届けられなかった場合には、同年11月に大会を開く事、国会開設が実現するまでは国会期成同盟を解散しない事、などが決まった。
国会期成同盟は河野広中片岡健吉を請願の代表として選んで東京に出向き、国会開設請願書である『国会ヲ開設スル允可ヲ上願スルノ書』(*5参照)を太政官および元老院に提出しようとしたが、政府は請願権を認めず却下した。また、政府は4月5日に太政官布告として集会・結社の自由を規制する法令である集会条例 (明治13年太政官布告第12号)を制定して自由民権運動を圧迫、弾圧した。
こうした政府の動きに対して自由民権運動を展開する勢力は反発し、個別に建白書や請願書を政府に提出するなどして自由民権運動は盛り上がりを迎えていった。
そして、1880年(明治13年)国会期成同盟第2回大会において、河野広中・植木枝盛松田正久らから政党結成の提案が出され、これに基づいて同年12月15日に、嚶鳴社沼間守一草間時福、河野広中、植木枝盛、松田正久らは会議を開いて、沼間守一を座長とした自由党 (準備会)を結成したが、ここで政党準備は可決されたものの、機関紙発行は否決されたため、のちに自由党に参加するグループが企画したのが1881年(明治14年)の今日3月 18日に創刊された『東洋自由新聞』であった。

1871年(明治3年)12月、華族西園寺公望は、官費でフランスに遊学のために出国し、以後10年近くにわたってフランスやヨーロッパの知識や思想、文化を吸収していったが、その間、後にフランスの首相となる8歳年上で急進党の政治家クレマンソーレオン・ガンベタ、留学生仲間の中江篤介(号:兆民)・松田正久・光妙寺三郎らと親交を結び、こうした人脈は帰国後も続いた。
そして、1880年(明治13年)10月21日には遊学を終え、10年ぶりに帰国したが、西園寺は特に職に就くこともなく、ぶらぶら遊んでいると、留学生仲間だった松田正久が、新聞を出すから社長になってくれと誘ってきたという。この新聞が、自由党結党に向けて準備され、自由民権運動の中心的言論機関たらんとして創刊された『東洋自由新聞』であった。
西園寺は社長に、松田が幹事となり、同じくパリで知合った中江兆民を主筆に据え、光妙寺三郎に編集委員を任せた。
おりからの自由民権運動の高揚のなかでフランス的な自由民権論を展開し、とくに、中江兆民の執筆になる社説は,当時の自由民権思想のなかでも卓越していた。
そのほか国内政治状況、外国事情などの報道記事も充実していたようだが、政府と対立する自由民権運動の高揚期に、清華家筆頭である西園寺が新聞を主宰するということの社会的影響を恐れた三条実美岩倉具視らは、西園寺に新聞社社長からの退社を画策したが、西園寺はこれを拒絶するも、4月8日、明治天皇の極秘の内勅によって強引に身を引かされた。
さらにこのいきさつを檄文(を書いた文章)にして全国各地の民権家に暴露した東洋自由新聞社社員の松沢求策らが逮捕されるなど、言論弾圧の影響を受け、資金提供者である社主(山城屋稲田政吉)が手を引くと、資金も欠乏し、経営的に行きづまり、結局、同紙は、同年4月30日の34号で休刊に陥り、事実上の廃刊となっている。


明治時代に、国民に最も大きな影響を与えた思想家と云えば、福沢諭吉と中江兆民の二人ではないだろうか。
福沢は「文明開化」を、兆民は「自由民権」をリードした。福沢の『学問ノススメ』(*6参照)は明治期最大のベストセラーであったし、兆民の『民約論』(ルソーの『社会契約論』の訳書)は民権派青年たちのバイブルであった。
兆民は福沢よりちょうどひとまわり下で、福沢は九州の中津藩、兆民は四国の土佐藩と、ともに軽格武士の生まれであるが、どちらも長崎に留学し、外国語を修めた。
その後、福沢は、大阪の蘭学者・緒方洪庵に学び、22歳で適塾の塾長にあげられ、3年後に勝海舟咸臨丸で渡米している。
兆民は幕府の語学所学頭平井義十郎からフランス語を学ぶなど外国語習得に努めたのち江戸に入り、福地桜痴(源一郎)の日新社の塾頭となりフランス語を教えたといわれる。これも23歳だというからいずれも俊才と云うほかはない。
福沢は1867年(慶応3年)までに三度も外遊し、欧米社会の仕組みを詳しく実地研究している。帰国後自分に謹慎を命じた幕府にあいそをつかし、独立自尊の自由人として生きることを決意、1868年(慶応4年、明治元年)に開校したのが慶応義塾である。
当時、江戸は維新の戦乱の渦中にあったが、官軍と彰義隊の合戦が起こる中でもF・ウェイランドの『経済学原論』(The Elements of Political Economy , 1866)の講義を続けたといわれている。
そのことは「上野の戦争」として『福翁自伝』に書かれており、その一文に、「世の中に如何なる騒動があっても変乱があっても未だかつて洋学の命脈を断やしたことはないぞよ、慶応義塾は一日も休業したことはない。この塾のあらん限り大日本は世界の文明国である。世間に頓着するな」と申して、大勢の少年を励ましたことがあります。」(「福翁自伝」岩波文庫P202 〜203 )・・と、自負している。
『学問ノススメ』の「天ハ人ノ上ニ人ヲ造ラズト云ヘリ」は、福沢の意図を超えて独り歩きをしてゆく。彼の塾生の中から植木枝盛のような人物が産まれてくるのもそのためだった。
ただ福沢の文明論や自由主義は「一身独立して国家独立す」(「独立自尊」*7参照)の言葉にあるように、あくまで国家の独立を目的にしたものであり、国家を超える平等主義をめざすものではなかった。だから欧米帝国主義のアジア侵略が激しくなると、その欧米に対立するのではなく、日本もアジアの悪友と手を切り文明国として大陸に進出せよと主張するに至った。『脱亜論』(1885年)いわゆる脱亜入欧のすすめである。その限り、現実主義者福沢と明治政府の間に対立はない。
それに対して中江兆民の道は異なる。彼は岩倉使節団の随行留学生の一人としてフランスに滞在(1871年~1874年)し、民権思想を身に着けて帰ってきた。そして、仏蘭西学舎(後の仏学塾)を開いて後進を育成、自由民権時代には板垣退助率いる自由党を支援し、『東洋自由新聞』の主筆や、同新聞が廃刊となると、翌1882年(明治15年)には自由党の旗揚げに関わり、党発行の新聞である『自由新聞』の社説係を務めた。
福沢が大隈重信らの立憲改進党を支持し、『時事新報』を発行したのに対抗している。
自由民権派の主流が国権論や大陸進出肯定(徳富蘇峰なども賛同)に傾いていったとき、兆民は名著『三酔人経綸問答』(1887年)を書き、東洋豪傑君流の現実主義帝国主義を批判している。

●上掲は、『三酔人経綸問答』
洋学紳士君の徹底した民主、平等、平和を求める理想主義がこの本に登場するのも兆民らしい。
『三酔人』は、西欧列強の強圧の下で、後進国で弱小国の日本はどのような外交方針を立てればよいか、という基本テーマをめぐって三人三様の意見が提示される。紳士君のような理想主義と豪傑君のような「現実主義」との両極文化を乗り越えて、理想を持ちながらも現実を直視していた南海先生が示唆しているような「ほんとうの現実主義」を身につける必要があるのだろう。「明治思想文学の最高傑作の一つ」とも称されるこの書、参考*8:「中江兆民の『三酔人経綸問答』」で読めるので興味ある方は是非読まれるとよい。
晩年の福沢が順風満帆だったが、兆民は挫折に次ぐ挫折と波乱盤上だった。中江兆民は、強靭な人権意識の上に立つ理想主義者であったが、純な愛国者でもあった。
フランスでルソーの自由・平等(民主主義)の思想にひかれ、自由民権思想の精密化に力を注いだ兆民であるが、その精神の基層(ある事物の根底に存在して、その基礎をなしているもの、基盤)には幕末の藩校教育でうけた儒教の精神が色濃く流れていた。
思想家であり、教育者であったという点で福沢諭吉に共通するが、儒教にたいする態度は対蹠的であった。
帰国後は自宅にフランス語による歴史、法律、哲学を教える仏学塾を開設したが、そこでは漢学も重視しており、1875年(明治8年)には東京外国語学校大学南校の後身である開成学校の予科)の校長にもなるが、就任すると「徳育の根本」に「孔孟の教え」(孔子孟子の説いた仁義の教え。儒教。儒学。 )を加えるべきと主張して、「西洋化」による実学主義(実用と実践を重んじ、日常生活に即した具体的・実際的な学習を中心とする立場.。福沢諭吉の思想にその典型がみられる)を推進する文部省と衝突して、結局、校長を辞任している。兆民の儒教の尊重は兆民の政治思想の基礎にもみとめられる。
彼の思想の特徴が最も明瞭に表われているのはその自由観であり、『東洋自由新聞』第一号(*9:*10参照)の有名な社説には、自由の主旨を「リべルラー・モラル(心神の自由)」と「リベルラー・ポリチック(行為[政治]の自由)」に分類し,前者について次のように説明している。
「第一のリベルラー・モラルとは、わが精神や思想が、けっして他のものの束縛をうけず、完全に発達しきって、あますところがないのをいうのである。古人がいったように、道義(人としてふみ行うべき道。道徳道理)に合致した、いわゆる「浩然の一気」(『孟子』)がこれである。内をかえりみてもやましくなく、反省してもはずかしくないのがこれである。.
いいかえれば、天地に俯仰してはじることがないことであり、外にたいしては、政府や教門によって妨害されず、活発自在で、走りうるところは、どこまでも走り、自由に突進し、ますます進んですこしも撓(たわ)まないものである。だから、「心思(思い。考え)の自由」は、われわれが本来もっている基盤であり、第二項目の「行為の自由」からはじまって、その他すべて自由のたぐいは、みなここに基礎をもつのである。およそ、人生の行為、福祉、学芸は、みなここから出発している。つまり、われわれが今もっとも留意し、養いそだてるべきもの、これより尊いものはない。」・・・と。
兆民はここで道徳的主体としての個の確立こそが自由の基礎だということを強調しており、」西洋における自由意思の問題について、日本的な考え方を交えて論じている。
兆民はまた、『東洋自由新聞』第三号社説(、明治14年3月24日)の「君民共治の説」では、「君民共治」(君主と、人民の代表者である議会とが、共同で国の政務に当たること。君民同治ともいう) を主張。形は天皇を認めるが、イギリスに似た政治形態(国王はいるが、宰相を選ぶのも、法律を作るのも人民である)を考えていた。実を主として考えれば共和制を君民共和といいかえればよいと主張しているのである。
福沢が『帝室論』(*11、*12 参照)で述べた天皇を人身収攬の符にしようとした見解とは雲泥の差があった。
しかし、そこで兆民は現実に天皇の権威を思い知らされるのである。
先にも書いた通り、社長の西園寺は明治天皇の「内勅」によって、辞任に追い込まれ、4月30日に34号をもって廃刊となった。この時、社長の西園寺の退社について、社説で「西園寺公望君東洋自由新聞社ヲ去ル」を書き、同日の雑誌記事で、「嗚呼天自由を我に与へて又、天之を奪ふ」と述べて、退社は天皇の意向であることを暗示し、それを翌日の新聞社説「天の説」でも暗喩的な解説をしているそうだ。
福沢が反儒教の立場で、実用の教育と資本主義化をめざしたのにたいして、中江は儒教の精神から民主主義の実現を追求していた。そのような観点から教育も考えていた。だからであろう、兆民の仏学塾は慶応義塾のように繁盛はせず、政府の私塾つぶしの政策によって1888年(明治21年)には廃塾においこまれてしまうのである(*13:「儒教教育の日本的展開」参照)。
(冒頭画像は東洋自由新聞. 1号)
参考:
*1:作家別作品リスト:内田 魯庵―青空文庫
http://www.aozora.gr.jp/index_pages/person165.html
*2:銀座繁昌記
http://e-freetext.net/ginza_hanjyouki.txt

*3:東京新繁昌記 - 古典籍総合データベース - 早稲田大学
http://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/search.php?cndbn=%93%8C%8B%9E%90V%94%C9%8F%B9%8BL
*4:発祥の地コレクション/国会期成同盟発祥之地
http://hamadayori.com/hass-col/culture/KokkaiKiseidoumei.htm
*5:画像 「国会ヲ開設スル允可ヲ上願スルノ書」 - 国立国会図書館
http://www.ndl.go.jp/site_nippon/kensei/shiryou/limage/Gazou_30_1.html
*0000・作家別作品リスト:福沢 諭吉
http://www.aozora.gr.jp/index_pages/person296.html
*0001: 「一身独立し一国独立す」独立自尊の真髄とは
http://www2s.biglobe.ne.jp/~yukiya-s/home-2/fukuzawa.htm
*0002:中江兆民の『三酔人経綸問答』
http://www.geocities.jp/hgonzaemon/nakaechoumin.html
*0003:国立国会図書館デジタルコレクション - 東洋自由新聞. 1号
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/8664049
*0004:『東洋自由新聞』論説
http://blogs.yahoo.co.jp/rkfjj865/folder/1501606.html
*0005 :デジタルで読む福澤諭吉 > 帝室論 - 五 頁
http://project.lib.keio.ac.jp/dg_kul/fukuzawa_text.php?ID=99&PAGE=5
* 0006::1/14 福沢諭吉「帝室論」現代語訳
http://kakaue.web.fc2.com/doc/teisituron.pdf#search='%E5%B8%9D%E5%AE%A4%E8%AB%96'
*0007:儒教教育の日本的展開(PDF)
https://ir.lib.shizuoka.ac.jp/bitstream/10297/477/1/KJ00004293322.pdf#search='%E8%A5%BF%E5%9C%92%E5%AF%BA%E5%85%AC%E6%9C%9B%E5%90%9B%E6%9D%B1%E6%B4%8B%E8%87%AA%E7%94%B1%E6%96%B0%E8%81%9E%E7%A4%BE%E3%83%B2%E5%8E%BB%E3%83%AB'
『日本式 自由論』
http://nihonshiki.sakura.ne.jp/ziyu/ziyu0.html
松本清張「火の虚舟」を読む11~20
http://sarushibai.hatenablog.com/entry/2016/02/27/%E6%9D%BE%E6%9C%AC%E6%B8%85%E5%BC%B5%E3%80%8C%E7%81%AB%E3%81%AE%E8%99%9A%E8%88%9F%E3%80%8D%E3%82%92%E8%AA%AD%E3%82%80%EF%BC%91%EF%BC%91%EF%BD%9E%EF%BC%92%EF%BC%90
独り歩きする「脱亜論」 - 朝日新聞デジタル
http://www.asahi.com/international/history/chapter02/memory/01.html
日本思想史入門講座
http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Cafe/2663/nihonshisoushi/mokuji.htm

ホスピタリティ・デー

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今日・3月24日は「ホスピタリティ・デー 」
思いやり、もてなしといった意味のホスピタリティの精神を広めるためにNPO法人日本ホスピタリティ推進協会(旧称・日本ホスピタリティ協会※1:参照)が1994(平成 6) 年3 月24 日に制定したそうだ。
この日を日常生活の中で他人に対して思いやる心をほんの少しでもあらわす実践の日として位置づけ、その普及することが目的だそうで、日付は「3」は新しいものを創り出すエネルギー、自己表現を表し、「2」は思いやり、協力、を意味し、「4」は全体を作りあげる基礎の数字とされることから、その組み合わせである3月24日としたのだという。

さて、「ホスピタリティ」の話の前に、数字の話だが、数字には、「数字、一つ一つに固有の意味がある」のだといった話は聞いたことがあるが、私はそのようなこと良く知らないのでネットで調べてみると、以下参考の※2:「THREEの由来と数秘術」には、 “数秘術”では「3」という数字に「果てしない創造性、表現力、バランス」といった意味があるらしく、他の1~9までの個々の数字にも、上記に書かれていたような数字の意味が書かれていた。
この数秘術というのは、西洋占星術易学等と並ぶ占術の一つで、生年月日(西暦)や姓名などから、固有の計算式に基づいて運勢傾向や先天的な宿命を占う方法としても利用されているらしいが、
、数秘術の創始者は一般的にピタゴラスの定理で有名な古代ギリシャの数学者・哲学者のピタゴラスだと言われているそうだから、それなりに意味はあるのかもしれないね~。
ま、余談はこれくらいにして、本題へ入ろう。

日本記念日協会(※3)には、10月30日の記念日に「マナーの日」が登録されていたので以前にこのブログで「マナー」について書いたたことがある(ここ参照)。
ビジネスマナー、一般マナーなど、あらゆる場面において必要不可欠な「マナー」について見直し、生活に役立ててもらうことを目的にNPO法人・日本サービスマナー協会が制定(※4 参照)したものであった。
“企業が成り立つ重要な要素として、「ヒト」「モノ」「カネ」「情報」があると言われる中で、この不況を乗り切るために一番重要とされているのが人材教育だと言われている。 特に最近は「人は財産」という考え方から「人財」とする企業も多くなってきた。
現代の社会では今まで以上に顧客に対する現場の対応力が問われるようになり、相手先の企業やお客様とどのように接することが出来るかということが顧客満足度(CS)を高める重要な要素となってきているからだ。
「お客様は神様です」は三波春夫の有名なフレーズであるが、確かに、サービス業 (サービスを取り扱う産業)のビジネスマンにとって、相手先の企業担当者やお客様に満足度を高めなければ、成果は得られないし、そのために必要なビジネスマナーは当然身に着けておく必要があるだろう。
マナー (英語:manners) は、一般的に礼儀、行儀・作法を指すが、このマナーは、日常生活をしていく中で自然と身につけていく作法であり、戦前生まれの道徳躾(しつけ)教育にはそれなりに厳しかった環境の中で育てられてきた私などの世代の者から見ると、業務上必要とされるビジネスマナーなどは企業で教育もされておりこれは別として、今の時代の人の普段の行動には、そのマナーの悪さが気にかかる人も多いのではないだろうか・・・。私だけがそんなことを思っているのかと、ネットで検索してみると以下のようなアンケート結果もあるようだ。

礼儀正しいなんてウソ!? 日本人のマナーを日本在住の外国人に聞いてみた!

私は、海外旅行は仕事柄アメリカ中西部、ハワイなどへの研修や視察を兼ねて、1週間単位で3度ほどは行ったが、世界の国々と比較して日本人のマナーが実際にどの程度良いか悪いかなど比較出来るほどの見識もない。
ただ、良し悪しは別にして、日本人には、誰にでも昔から、やたらぺこぺこと頭を下げて低姿勢で応対をする習性が今でも残っているようであり、そういった面では、初めて会った外国人などから見て好感は持たれるかも知れないし、平均的な外国人に比較して見れば、まじめで親切な面もあるのだろう。
私が若い頃仕事をしていた商都大阪の商人などは、客を相手にいつもにこにこ笑顔で揉み手をしながらお愛想を言っていたが、サービス業に携る者は、誰しもたとえそれが演技であれ.他人に喜ばれるような立ち居振る舞いやリップサービスを行うのが常であるが、日常の人間関係においても、この精神作用は自覚に関わりなく、多かれ少なかれ常に働いているものと考えられている。
仮に相手に喜ばれようとする気持ちが全くなく相手に接した場合は、エゴイズム(利己主義)の衝突となり、良好な人間関係は成立しないからである。また、他者に喜ばれることが当事者の喜びになる心理作用や、人に嫌われたくないという気持ちが働くため、この精神作用はごくありふれて見られる。このため、通常よりこの精神作用が強い場合を指して、「サービス精神」が旺盛などと呼んだりする。歴史的に「和をもって尊しと為す」を信条してきた日本人には、このサービス精神は外国人よりは多いかもしれない。
20世紀の工業を中心とした経済社会における企業の役割は、優れた価値のある製品・サービスを提供することであった。モノが不足している時代であったから、良いモノを安く大量に作れば、売上も利益も向上したが、21世紀の知識・情報・サービスが重要な役割を果たす経済社会は、モノあまりの時代でもあり、単に、良いモノが安いからと言っただけでは買ってもらえない時代になった。それだけモノ余り時代の競争は激しいのである。
そんな時代にどうしたら、消費者にモノを買ってもらえるのか・・・?そこで求められるのが、「サービス」から「ホスピタリティ」への移行だという。

毎日いただくおは香りとにがみを頂くのである。おうす(薄茶の丁寧語※4のコラム参照)にしろお濃い茶(※4のコラム参照)にしろ、あの甘いにほひとにがみがなかつたら、茶道なんてものはないのだらう。ほうじ茶やばん茶、これは香ばしいだけでにがみがない、ずゐぶん間がぬけてゐるやうでも、それはそれで、温かい香ばしい飲物である。コーヒーのやうな強烈な香りの飲物を毎日いただく余裕のない時や胃の弱いときに、コーヒーの身がはりにほうじ茶を濃く熱く煮出して飲むと、ほんの少しだけ咽のどこかの感じがたのしくされる。たいそうほうじ茶とばん茶の悪口をいふやうだけれど、出からしのおせん茶のなまぬるいのを飲むよりどんなにおいしいか分らない。これはやはり贅沢な関東人の智慧が考へ出したものに違ひない。地方の質素な古風な家庭で育つた人なぞはお客さんの咽の感じなぞを考へることは教へられてゐないで、その生ぬるい薄いおせん茶を何度でも何度でも注いで出す。お茶を出すといふことが昔から日本人のホスピタリティであつて、奥さんみづからが立派な古めいたきうすに銀びんのお湯を注いで替へてくれるお茶は大へんなホスピタリティにちがひない。

上掲の文は、大人気だったNHKの朝ドラ『花子とアン』の主人公のモデルとなった村岡花子や同ドラマに登場し脚光をあびた柳原白蓮と同じ東洋英和女学院を卒業し、歌人・随筆家・翻訳家として明治・大正・昭和の三時代を生きた片山 廣子(※5参照)の随筆『アケビ』(※6参照)からの抜粋である。
彼女は、芥川龍之介などから、人の陰口などは一切言わないことから「くちなし夫人」と呼ばれたという。片山の身のこなしの優雅さ清楚な外見をクチナシの花になぞらえてのことだろう。

「思い遣る心」を【形】として表わすことが「マナー」であれば、「ホスピタリティ」(hospitality)とは、「思いやり」「心からのおもてなし」という意味である。
2013年9月アルゼンチン・ブエノスアイレスで開かれたIOCの夏季東京五輪誘致の最終プレゼンテーションでは、滝川クリステルが日本の「お・も・て・な・し」の心を印象的にフランス語と日本語でアピール。東京への招致に一役買い、この言葉が2013年の「新語・流行語大賞」の年間大賞を受賞した。




石田三成の性格を表す有名な逸話に「三献の茶」の話がある。
長浜城主となった羽柴秀吉(豊臣秀吉)は、ある日、鷹狩りから帰る途中のお寺でお茶を所望したら、寺の小姓が、まず最初に大ぶりの茶碗にぬるめのお茶をたっぷり入れて出した。喉の乾いていた秀吉は、それを一気に飲み干し、さらにもう一杯頼むと、今度はやや小さめの碗に、やや熱めにしたお茶を出した。秀吉は試みにもう一杯所望したところ、今度は小ぶりの碗に熱く点てたお茶が出てきた。
相手の様子を見て、その欲するものを出す。秀吉は茶の入れ方ひとつにも気を配る小姓に感動し、城へ連れ帰った。それが後の石田三成であるという逸話である。
ただこの逸話の信憑性は乏しいが、滋賀県のJR長浜駅前には、この三献茶に因んだ三成と秀吉の像が設置されている。以下参照。
秀吉公と石田三成公 出逢いの像

片山の随筆やこのエピソードには「おもてなし」の心「ホスピタリティ」が色濃く息づいている。以下参考の※7 :「「接客マナーは心の礎」 おもてなしの「礎」語源」に詳しく解説されているが、「おもてなし」は、「もてなし」に丁寧語「お」を付けた言葉で、「もてなし」の語源は「モノを持って成し遂げる」という意味であり、別に、お客様に応対する扱い、待遇とも言われている。また、「おもてなし」のもう一つの語源は「表裏なし」、つまり、表裏のない「心」でお客様をお迎えすることで、 接客業、サービス業に限らず、人の生活する場、すべての家、人に必要なもの。そして、この「おもてなし」には目に見える「もの」と、目に見えない「こと」があるという。
この「もの」「こと」を、お茶の世界(茶道)で例えると主客一体の心の元、お見え頂いた「お客人」をもてなす際に、季節感のある生花、お迎えするお客様に合わせた掛け軸、絵、茶器、匂い(御香)など具体的に身体に感じ、目に見えるリアルなものが「もの」であり、もてなす人の瞬時に消えてしまう言葉、表情、仕草など、目に見えないバーチャルな心を「こと」と言いあらわしているそうだ。
日本の懐石(茶懐石)料理での「もの」には上記した意外に、飲み物、料理やお菓子(デザート)が加えられ、接客時にもお客様の五感を取り巻く、全ての「もの」の知識(グラス、器、料理、素材、デザート等々) と共にお客様の状態を素早く察知し、 目配り、気配り、手配り、身配り、気働きなどの動作で応える気遣い、お料理を楽しんで頂く会話や日本文化の心わびさびの余韻を与えるなど、「三味一体」(この場合人・料理・場)でお客様の五感と心に満足、感動と余韻を与えることが「おもてなし」だと言っている(詳しくは同HP=※7参照)。やはり「おもてなし」の心は日本の伝統ともいわれる茶道の世界に一番色濃く見られるようだ。
形や行動などで示す「マナー」は相手に不快感を与えないための最低限のルールであるが、そこに「心」が加わると、「ホスピタリティ」になる。
深い心地良さが加わることで、信頼、安心感そして感動が生まれるわけである。
NPO法人日本ホスピタリティ推進協会のHP(※1)にも、
ホスピタリティとは接客・接遇の場面だけで発揮されるものではなく、人と人、人ともの、人と社会、人と自然などの関わりにおいて具現化されるものである。
狭義の定義では、人が人に対して行なういわゆる「もてなし」の行動や考え方について触れていて、これは接客・接遇の場面でも使われるホスピタリティのことである。 主人と客人の間でホスピタリティが行き交うが、それは一方通行のものではなく、主人が客人のために行なう行動に対して、それを受ける客人も感謝の気持ちを持ち、客人が喜びを感じていることが主人に伝わることで、共に喜びを共有するという関係が成立することが必要だ。すなわち、ホスピタリティは両者の間に「相互満足」があってこそ成立する。つまり、主客の両方がお互いに満足し、それによって信頼関係を強め、共に価値を高めていく「共創」がホスピタリティにおける重要なキーワードなのである。
広義の定義では、ホスピタリティが主人と客人の二者間の話にとどまらないことを言っている。社会全体に対して、その構成員である人々が、ホスピタリティの精神を発揮することで、相互に満足感を得たり、助け合ったり、共に何かを創りあげることができ、それによって社会が豊かになっていくという大きな意味でもホスピタリティは重要である。
ホスピタリティは一般的にはサービスを提供する企業と、それを受け取る顧客との領域で論じられることが多いが、決してそれだけにとどまるものではない。例えば企業活動においては、顧客以外のステークホルダーである従業員や、地域社会に対してもホスピタリティを発揮することが大切で、それによって社員の働きがいを高め、社員同士がチームとして創造性を高めたり、地域社会との関係性を高めたりすることで好ましい経営環境をつくりあげることができる。・・・と。

重要なことは、狭義の定義で、“ホスピタリティは両者の間に「相互満足」があってこそ成立する”ということである。「相互満足」は、顧客満足と従業員満足を区別して考えるのではなく、一体として考える立場から生まれたものである。そして、さらに経営者の満足も取り入れた概念と解すべきだろう。
1995(平成7)年の阪神・淡路大震災では全国から大勢の善意のボランティアが被災地に駆けつけたことから、「ボランティア元年」とも呼ばれるようになったが、一方で、例え善意のボランティアであっても、現地で必要とする技能がなく、そのため、現地が望んでいる必要とする事はできず、逆にその日の食事が満足に食べられない地域において、残り少ない食品や飲料水をコンビニで消費していったためますます現地の人の食糧不足に拍車をかけた・・といった不満から「ボランティア迷惑論」が出て問題となったこともあった。ここには、例え善意の行為であっても、それが必ずしも相手の望むことではない時の典型的な問題が見られるだろう。これは、「ホスピタリティ」の場合も同様である。
又、もっと重要なことは、広義の定義で書かれているように、お客様が満足し、お客様に喜んでいただくためには、お客様の要望を超えるサービスを提供し続ける事が重要であるが、同時に、そのような仕事をする、社員も満足し、さらに、その企業が存在する地域社会の皆様にも満足していただける、そのようなホスピタリティでなければいけないということだろう。これは非常に難しい。
牛丼チェーンのすきやは労働生産性を追求するあまり、労働問題(詳細は「ゼンショー#諸問題」を参照)からアルバイトやパートタイマーの不満が噴出し、経営が揺らぎかけたこともあったように、先ず、従業員がイヤイヤ働いて、お客様に心からのサービスが提供できるわけがない。これはもう最低の条件がそろっていない。
これに反し、「夢と魔法の王国」と呼ばれているディズニランドのホスピタリティには定評がある。楽しいから客がディズニーに集まるのである。それはディズニーのリピート客の多さでわかるだろう。
私も現役時代、東京ディズニーランドが開業して間なしの頃、すでにディズニランドのホスピタリティは話題になっていたので、アメリカ西部を研修で視察に行った時、本場アメリカのディズニーランドも視察を兼ねて遊びに行ったが実に楽しかった。平日ではあったが日本のディズニーランドなどと違って年配者が多かった。
兎に角ディズニーでは、あらゆることが、ただただお客様が楽しめるよう企画・演出され、キャストと呼ばれる従業員は社員もアルバイトもお客様を楽しませるために日々働いており、会社(ディズニー)自体も、自らの仕事に誇りをもってサービスをお客様に提供してもらえるようすべてのキャストへのホスピタリティ教育や動機づけを行っているからこそ顧客満足を産み、長きにわたり、多くのお客様を世界中から惹きつけているのだろう。(参考の※8 、※9 参照)。

「思いやり」「心からのおもてなし」という意味の「ホスピタリティ」。この言葉は、サービス業のみならず、最近では医療現場などでも頻繁に使われるようになっている。
医師山崎章郎の『病院で死ぬということ』が日本エッセイストクラブ賞を受けたのは、1991(平成3)年だった。1993(平成5)年にはこの作品を市川準監督がドキュメンタリータッチで描いた同名映画を製作されている。
この本が人々の心をとらえたのには、一般病院における終末期医療の現場の悲惨ともいえる状況が生々しく正確に描かれていたからであった。
「苦痛と絶望、不信と怒りの連続の中で、告知もされず、痛みに顔を歪め「物いわぬ物体」となって、病院のベッドで死んでゆく患者の姿は、読者にとって明日の自分の姿であり、肉親でもあった。多くの人の中にある医療不信がこの悲憤の書をベストセラーにした。
山崎は本の中で「僕はホスピスを目指す」と宣言し、1991(平成3)年10月聖ヨハネ会桜町病院(※10参照)のホスピス科部長となった。、それ以降、日本のホスピスが充実を見せ始めたのは自分の全存在を注ぎ込む山崎や現場を支えるたくさんの人々の志の集積が貢献している。山崎氏は、2005(平成17)年に、在宅診療専門診療所ケアタウン小平クリニック院長(※11参照)を務め現在に至っている。

「ホスピス」(英: hospice)とは、ターミナルケア(終末期ケア)を行う施設のこと。または在宅で行うターミナルケアのことをいう。
英語の、「ホスピス」(hospice)は、ラテン語のホスペス(hospes:主、客の両者を意味する)を語源とし、ラテン語のホスピティウム(Hospitium:客を厚遇すること)に由来するホスピスは、「客を暖かくもてなす」ことを表し、元来、中世の初めヨーロッパ西部で巡礼や旅行者、病人たちを休ませた宿泊施設を意味している。これが今日のホテル(Hotel)や病院(Hospital)の原型となっている。

日本ホスピス緩和ケア協会編(NHK厚生文化事業団発行) の小冊子『 ホスピスってなあに?-困っているあなたのために』(※12参照)の1ページの冒頭に以下のように書かれている。

治すことを目標にひた走っている医師と患者。その同じ病室で、同じ目標をめざせなくなっている私のからだ。 途方に暮れるたびに、私のなかの病院砂漠がひろがっていき、いつしか私は疲れきった旅人になってしまった。 そんなある日、 「ホスピスはあなたのオアシス」、砂漠の向こうから吹く風が、そう私におしえてくれた。 ・・・と。

そして、この小冊子にはさらにホスピス誕生の理由を次のように解説している。

これまでの医療は、治癒させることに専念するあまり、治癒できない場合の対応がほとんど考えられていませんでした。治癒できなければ延命策を講ずるという図式が連綿と続けられていました。「検査・診断・治療・延命」という4つの働きが近代病院の目的と考えられてきたからです。 
 しかし、たとえば、症状の進行した患者さんの何割かが直面する激しい痛みや息苦しさ、変化する症状への不安に対しては、この4つの流れの中で対応するには限界があります。 このような状況におかれた患者さんの痛みと不安を、何とかやわらげてあげたい・・・。 それがホスピスを誕生させたときの願いでした。
 この考え方を本格的に実践してみせてくれたのが1967年、シシリー・ソンダース医師が率いるイギリスのセント・クリストファー・ホスピス(聖クリストファー病院。※13参照)です。 ・・・と。  
シシリー・ソンダース医師によって全世界に広まった「近代ホスピス」は、「病気の治癒を目指した治療がもはや有効でなくなった患者の苦痛を緩和し、最期までその人らしく生き抜いてもらえるるよう、命の質とか、生活の質(Quality of Life)を高く生きられるよう、チームで援助していこうというプログラムのことをいい、そして、「ホスピス」に入院せずに、自宅で同じような「ホスピスケア」を受けて家族と過ごすことを「在宅ホスピス」と言っている。
日本の「入院ホスピス」の場合は「進行癌(がん)とエイズ(AIDS)」だけが治療対象のようだが、「在宅ホスピス」の場合はどんな病気の人でも対象となるようだ。
ホスピスは、人間がどれだけ「 人間らしさ」を保って生きられるか、つまりは、尊厳死の問題にもかかわってくることなので、これにはいろいろ意見もあるようだ(※14参照)。

私達夫婦ももう80歳に近くなった。今は元気であるが、平均寿命まではそう長くはない。
それ以上の余命はできるだけ元気で長生きてはしたいものの、もし、癌その他重い病で寝たきりになった場合、ただ息をしているだけの状態で、何時までも苦しみながら生きようなどとは思わない。
だから、常日頃から、夫婦でそのような状態での延命治療だけは絶対にしないようにと、確認し合っている。もしそのような状況になったら、私は、ホスピスなのお世話になりたいのだが・・・。、

参考:
※1:NPO法人日本ホスピタリティ推進協会
http://hospitality-jhma.org/
※2:「THREEの由来と数秘術」|THREE TREE JOURNAL
http://tree.threecosmetics.com/2015/11/features023-1/
※3:一般社団法人 日本記念日協会
http://www.kinenbi.gr.jp/
※4:はじめての茶道ガイド
http://sadou.info/
※5:片山廣子が芥川龍之介に抱いた“文学への恋” | NHKテキストビュー
http://textview.jp/post/culture/14057
※6:作家別作品リスト:片山 広子
<ahref=http://www.aozora.gr.jp/index_pages/person1346.html> > http://www.aozora.gr.jp/index_pages/person1346.html
※6:接客マナーは心の礎」 おもてなしの「礎」語源
http://projectishizue.blog60.fc2.com/blog-entry-154.html
※7:ホスピタリティの極意
http://www.hospitality-gokui.com/index.html
※8:知ってるだけで100倍楽しい!「ディズニーランド」の豆知識 - M3Q
http://m3q.jp/t/120
※10:社会福祉法人 聖ヨハネ会
http://www.seiyohanekai.or.jp/
※11:ケアタウン小平クリニック 山崎章郎 ホスピス
http://caretownkodaira.net/clinic/
※12:ホスピスガイドブック※配布終了 | NHK厚生文化事業団
http://www.npwo.or.jp/library/hospice/
※13:シシリー・ソンダースとホスピス | 在宅ホスピス医 内藤いづみ
http://www.naito-izumi.net/archives/60.html
※14:QOL の問題点
http://www.saiton.net/ethics/kc06.htm













































体内時計の日

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日本記念日協会(※1)に登録されている今日・3月31日の記念日に「体内時計の日 」があった。
「からだと社会をつなぐ。」を企業ビジョンとするドコモ・ヘルスケア株式会社(※2)が制定したもの。同社の健康的な体づくりを支援する サービス「からだの時計 WM」により、体内時計を整え、健やかな24時間の使い方と、体が持つ本来の力を引き出してもらうのが目的だそうだ。
日付は入社や入学などの新生活の変わり目に、 生活リズムを省みる日として、新年度が始まる前日の3月31日にしたとのことである。

寒くなったり暖かくなったりを繰り返しながら春めいて来ることを、我々は「三寒四温」と言ったりしているのだが、実は、俳句歳時記(※3参照)などでは冬の季語となっている。
三寒四温は、もともとは、中国北東部や朝鮮半島におけることわざであって、シベリア高気圧の勢力がほぼ7日の周期で強まったり弱まったりするからと考えられているが、実際には、日本付近の天候はシベリア高気圧だけでなく、太平洋高気圧の影響も受けるので、三寒四温が日本でははっきりと現れることはなく、一冬に一度あるかないかという程度なのだそうである。
そのため近年では本来の意味から外れて、春先に低気圧高気圧が交互にやってきたときの気温の周期的な変化、という意味合いで使用されることが多くなっており、私などもそのつもりで使っている。
このような季節になると、桜前線も南の方から順に北上してきて、桜(主にソメイヨシノ)も開花する。わが地元神戸の平均的な開花は3月28 日、満開は4月6日ごろとなる。今年は、もう少し早めに花見が出来そうだ。
桜の中でもソメイヨシノのような人工 的に作られた品種の桜は弱くて病気になりやすいので、全国の樹木医達が枯れないように、そして、健やかに花を咲かせるように、地道な努力を重ねておられるようだが、人の体も季節時間の移り変わりには体調を崩しやすいものだ。
それは、花や樹木と同様に、人の体も季節や時間の移り変わりに従って「生物時計」という時のリズムを刻んでいるが、そのリズムが変調をきたしやすいからである。

地球上の生物は全て地球の自転による24時間周期の昼夜変化に同調して、ほぼ1日の周期で体内環境を積極的に変化させる機能を持っており、この約24時間周期のリズム「概日リズム」を形成するための24時間周期のリズム信号を発振する機構(時間測定機構)を生物時計と呼んでいるが、一般的には「体内時計」と呼ばれており、(※4:「e-ヘルスネット 」の休養・こころの健康 > 体内時計参照)。ここではこれ以降、基本的に「体内時計」の語を使うことにする。
なお、概日リズムとは、約24時間周期で変動する生理現象で、動物、植物、菌類、藻類などほとんどの生物に存在している。英名である「circadian rhythm」は、ラテン語の「約、おおむね」を意味する「circa」と、「日」を意味する「dies」から名付けられた。つまり「おおむね1日」の意味である。
簡単に言えば、「体内時計」は、生物が生まれつきそなえていると思われる、時間を測定するしくみのことであるが、通常、人の意識に上ることはない。しかし、睡眠の周期や行動などに大きな影響を及ぼしており、夜行性・昼行性の動物の行動も「体内時計」(生物時計)で制御されている。
以前こ、のブログ「現在の暦「グレゴリオ暦」を編纂したグレゴリウス13世 (ローマ教皇)の忌日」でも書いたことがあるが、人間は、なぜ、どのようにして自然を測るようになったのだろうか?
時間と空間を測り、それによって日常生活を調整しているのはなにもわれわれ人間だけではない。地球上に住むほとんどすべての生物は様々な形で周期性を示す。
その周期性は、地球が自転公転することなどの惑星運動(ケプラーの法則)によって生み出されたものだとされている。
生物の体内は24時間に近い周期に従って短期的な活動を繰り返す仕組みになっている。
生物が生活をしている地球上では、24時間の周期で昼夜が交代し、明るさや温度が変化する。太陽の出没によって生ずるこの周期は、自然環境そのものの時間の節目であり、区切りである。
太陽はいうまでもなく、地球上のあらゆる生物のエネルギー源であり、その出没は生物の一日の生活に基本的な枠組みを与える。かりに体内時計の周期と太陽出没の周期(※5)とがはじめから一致しているとしたら、そこには、時間を測るなどという問題は生じない。同じ時間のリズムで動いてゆくだけのことである。
ところが、両者の周期は異なる。ちなみに、それが故に現代人の概日リズム睡眠障害などは概日リズム機能の低下と結びつけて考えられてもいるのである。
生物はいつも遅れるか進む時計を持っている。生物が太陽エネルギーをもっとも効果的に利用しようとするならば、体内時計は、一日の周期に合わせて動くよ うに自己調整(同調)しなければならない。つまり、周期の差を測り、時間のずれをなくす。生物はこの自己調整能力のお蔭で、環境にある程度の変化が生じ ても適応してゆけるのである。
例えば、毎年移動を繰り返す渡り鳥は、体内時計に照合して太陽の位置を見定め、一方向に飛んでゆくことが知られている。つまり、太陽コンパスを使って、角度を測っているのだそうである。しかし、人類は進化とともに、言語を獲得して後、生物として単に体内時計に依存する生態から脱出し自然に関する知識をつかって、時間測定を計量化し、天文観測(天文学)に基づくを作成するまでになるが・・・。 .
ヒトの生体機能や疾患においても様々な周期性が見出され、そのメカニズムの解明が進められているが、現在、生体内の固有の時計がリズムを形成しているものとして認知されているのは、地球の自転によりもたらされる約1 日(概日)のリズム、月の公転と地球の自転との関係がもたらす潮の満ち干き(概潮汐;24.8 時間)のリズム)、月の満ち欠けによってもたらされる約1ヶ月(概月)のリズム、地球が太陽の周りを公転することによる約1 年(概年)のリズムなどがあり、また、上記以外にも、体や生命現象を現すリズムとして、様々な周期のリズムが存在するようである(※6参照)が、なかでも、最も研究が進んでいるのが日内変動、すなわち、約24 時間周期の概日リズム(体内時計)に関する研究のようである(※5:「生物時計研究グループ」の生物時計研究の年表など参照)。

それでは、体内時計はどのようにして周期の差、すなわち時間を測るのだろうか。
人間においても体温や、ホルモン分泌などからだ(体)の基本的な機能は約24時間のリズムを示すことがわかっており、その体内時計の本体は、の中心部下面にある視床下部の視交叉上核に存在することが分かっているそうだ。

※上掲の画像は、体内時計。体内時計と不眠の総合情報サイト 武田薬品株式会社より借用したもの。
この、体内時計をつかさどる時計遺伝子は中枢だけでなく肝臓、腎臓、心臓などの末梢臓器にも存在が見られ、ローカル時計として機能しており、生物は体内時計の階層構造をうまく利用し、その内部環境を一定の状態に保ちつづけようと恒常性(英:Homeostasis。ホメオスタシス)機能を維持している。
なぜなら、体内時計の発信周期は、必ずしも正確な24時間周期ではなく、ヒトの体内時計の周期は24時間よりも若干長い(約25時間とも言われているが、24時間より短い人も少数ながらいるなどまちまち)ため、体内時計のタイミングを外界の24時間周期の明暗周期に一致させるため、日常生活において、受けるさまざまな刺激(、また、食事や運動、仕事や学校などの社会的な因子=同調因子)、その中でも最も強力な同調因子は光であり、この同調因子によって地球の公転による日長時間の季節変化や、時差地域への急速な移動にともなう明暗周期の変化に体内時計を一致させることができる。
ヒトを含む哺乳類では網膜から体内時計への直接の神経繊維連絡があり、これにより目から入った明暗環境の情報が体内時計に伝達されるが、人の場合は、朝の強い光は体内時計を早める方向に、夜の光はこれを遅らせる方向に働くそうだ。
要するに、人間はこの1日周期でリズムを刻む「体内時計」の支配の中で、生命の営みを続けており、意識していなくても、日中はカラダも心も活動状態に、夜間は休息状態に切り替わり、体内時計の働きで夜になると自然な眠りに導びかれる。そして、体内時計は毎朝光を浴びることでリセットされ、一定のリズムを刻んでいるということなのだ。
体内時計が同調するのは第一に明るさ、そして、第二は温度(※8参照)に対してだといわれている。
ヒトは毎日、太陽が昇ると起床し、食事(栄養)を摂り、暗くなれば睡眠をとるが、現代生活はシフトワークや長時間通勤・受験勉強・インターネットやゲームをしての夜型生活など、睡眠不足や睡眠障害の危険で一杯である。
不規則な食事や睡眠といった生活習慣により、「時計遺伝子」は狂ってしまい、肥満高血圧糖尿病などの生活習慣病から、ガンなどの原因になったり、進行の早い老化うつ病などにも繋がってしまう。
健やかな睡眠があってこそ十分な休養をとることができる。
睡眠が不足すると、生命にとって大切ないわゆる「免疫力」「自然治癒力」などに悪影響があり、成長ホルモンの分泌にも悪影響があり乳幼児・幼児・青少年では身体の成長にも悪影響があり(身長が伸びにくくなる)、睡眠不足では胃や腸の調子が悪くなる人も多い。
そして、精神的には気分に悪影響があり鬱状態になりがちで人間関係も悪くなり、また脳の知的面での基本機能である記憶力、集中力などに悪影響があり勉学仕事にも悪影響を及ぼす。したがって、不健康にならないためには寝不足にならないように気を付けなければいけないのだが・・・・。

厚労省が、世帯面から基礎的な情報を得ることを目的として平成12年に“心身の健康” をテーマとして行った「平成12年・保健福祉動向調査」(※9参照)の睡眠についての調査によると、
「朝起きても熟睡感がない」人が 24.2%で最も多く、以下、「朝早く目が覚めてしまう」(22.0%)「夜中に何度も目が覚める」(19.5%)と、日本人の約5人に1人は睡眠に問題を抱えているという。そして、
1日あたりの“睡眠時間の状況”をみると、「7~8時間未満」「6~7時間未満」の者が多く、年齢階級別にみると、25歳から54歳までは「6~7時間未満」が最も多く、「55~64歳」では「7~8時間未満」が最も多くなっている。
それでも、睡眠時間別にみた休養充足度の状況をみると、「十分にとれた 」人は、9時間以上睡眠を絶った人で45.6%、8~9時間未満では33.7%、7~8時間未満では、19.0%となっており、多くの人が睡眠に満足を得られていないようである。
また、睡眠による休養の充足度が「やや不足」「まったく不足」としている者について、“睡眠不足の理由”をみると、男性は「仕事・勉強・通勤・通学などで睡眠時間がとれないから」が 40.2%と最も多く、特に44歳以下では 50%前後の割合を占めている。一方、女性は「なやみやストレスなどから」が 30.4%で最も多いが、24歳以下では「仕事・勉強・通勤・通学などで睡眠時間がとれないから」「自分の趣味などで夜ふかししたから」の割合が多くなっている。
このような状況に対して、“十分な睡眠をとるために実行した事柄”をみると、「入浴した」が 43.1%で最も多く、以下「規則正しい生活を心がけた」「本を読んだり音楽をきいたりした」となっているが、これを、睡眠による休養の充足度別にみると、“休養が「十分とれた」としている者”では、「規則正しい生活を心がけた」43.2%、「入浴した」41.8%となっており、一方、「全く不足」としている者では、「入浴した」 41.6%、「アルコール飲料(酒)をのんだ」35.4%となっている。
厚生労働省のe-ヘルスネット -(※4)の“休養・こころの健康”の、“快眠と生活習慣”を見ると、快眠のための生活習慣には、2つあり「運動」や「入浴」のように習慣そのものが直接的に快眠をもたらす場合と、もうひとつは、間接的な役割で、良い習慣で体内時計を24時間にきっちりと調節すれば、規則正しい睡眠習慣が身に付いて快眠が得られる。そのための習慣として「光浴」があるが、これらの習慣はそれを行うタイミングが重要だという。
つまり、「光」の効果は体内時計を24時間に調節することにあるが、ヒトの体内時計の周期は24時間より長めにできているため、長めの体内時計を毎日早めないと、ずるずると生活が後ろにずれてしまう。
朝の光には後ろにずれる時計を早める作用があり、起床直後の光が最も効果的なので、朝起きたらまずカーテンを開けて自然の光を部屋の中に取り込むことが必要。そして、“禁物なのが夜の光”だそうで、朝の光と反対に、夜の光は体内時計を遅らせる力があり、夜が更けるほどその力は強くなるため、家庭の照明でも(照度100~200ルクス)、長時間浴びると体内時計が遅れる。また日本でよく用いられている白っぽい昼白色の蛍光灯は体内時計を遅らせる作用があるため、赤っぽい暖色系の蛍光灯(あかりの色の選び方参照)が理想なのだそうだ。その他、朝の食事なども簡単でもよいが脳のエネルギー源として糖分を補給し、体内時計を整えるためにも規則正しい食事が望まれるという。詳しくは※:4 e-ヘルスネットんの快眠と生活習慣参照されるとよい。

睡眠といえば、昔から、8時間睡眠がよいといわれ、私たちは人生の3分の1を眠って過ごしてきたのだが・・・。
本当は、どれくらいの睡眠時間をとればよいのだろうか・・・?
この睡眠時間は人それぞれらしく、日本人の生活習慣とがん(癌)との関連を明らかにすることを目的として、文部科学省の助成を受けて設置され、大規模コホート研究をしているJACC Studyの2004(平成16)年に報告された日本人の「睡眠時間と死亡」の危険率を調べた調査結果(※10参照)では、睡眠時間が7時間(6.5-7.4時間)の人がもっとも危険率が低く、睡眠時間が長い人でも短い人でも7時間の人に比べると死亡しやすいことがわかり、その程度は、4時間未満(4.4時間まで)の睡眠時間では、男性で死亡率は、1.62倍、女性で1.60倍、また10時間以上(9.5時間以上)の場合には男性で1.73倍、女性で1.92倍になっていたという。
また、これに心理要因などを加味すると男性では短い睡眠時間は死亡のリスクを上げないことがわかったが、女性では、4時間未満(4.4時間まで)の睡眠時間の人は7時間の人と比べ2.0倍のリスクとなっており、また、7時間より長い睡眠時間は、男性でも女性でもやはり死亡リスクを上げているという。
ここで、男性では短い睡眠時間が死亡のリスクを上げないのに、女性の死亡リスクが高くなるのは、その背景にある病気や不健康の結果として睡眠時間が短くなっているだけではなく、男性では女性に比べて仕事をしている人が多いことから、何か仕事に関係する要因が睡眠時間を短くしている可能性もあるようだというが、残念ながら、今回の研究だけで結論を出すまでにはまだ至っていないそうだ。
睡眠といえば、昔から、8時間睡眠がよいといわれ、私たちは人生の3分の1を眠って過ごしてきたのだが・・・。
本当に4時間くらいの睡眠で、疲労は回復できるのだろうか?
ヒトは通常、昼間に活動し夜間に睡眠をとるが、ヒトが眠くなるのには、2つの理由があるという。
ひとつは、日中動いて疲れたから、もう一つは、先にも書いた体の中にある「体内時計」が、約24時間で「眠くなる/目が覚める」のリズムを刻んでいるから・・・・。
考えてみれば、ヒトの働き方も昔とはずいぶん変わってきた。ヒトが働く時の「働」の漢字は人偏に動くと書く。昔は、田を耕したり、猟(漁)をしたり、重労働で肉体を酷使したが、時代とともにその働き方も昔とは様変わり、現代のサラリーマンの働き方や、女性の家事労働にしても電化製品の進化等により非常に楽になっているし、また、昔に比べて、休みも多くなり、一日の労働時間も減ってきた。労働の質も量も減ってきたので、日中の労働によるからだの疲労は半減しているのではないか。だから、肉体疲労回復のための睡眠時間も少なくなって当然といえば当然な気がする。
それに比べて、現代社会では肉体疲労よりも 脳の疲労が大きくなっている。
厚生労働省は「健康づくりのための運動指針2006-生活習慣病予防のために-(エクササイズガイド2006)」 (平成18年7月)で、メタボリックシンドロームをはじめ生活習慣病発症を予防するための身体活動量・運動量・体力の基準値を示しており、これにあたって、今までは肥満等にBMIでの測定が普通であったが、新たな指標として、「METs(メッツ)」を使用している(※11の過去の運動基準・指針よりここ参照)。
METs(メッツ)は、身体活動の強度を表す単位であり、運動によるエネルギー消費量が安静時の何倍にあたるかを示しており、1METs(メッツ)は、座って安静にしている状態であり、通常歩行をしている状態は、3METs(メッツ)に相当する(生活活動では 歩行:20分で3METs)。
もう少し具体的に書けば以下のようになる。
1.0メッツ:、静かに座って(あるいは寝転がって)テレビ・音楽鑑賞、リクライニング、車に乗る
1.2メッツ:静かに立つ
1.3メッツ:本や新聞等を読む(座位)
1.5メッツ:座位での会話、電話、読書、食事、運転、軽いオフィスワーク、編み物・手芸、タイプ、動物の世話(座位、軽度)、入浴(座位)
1.8メッツ:立位での会話、電話、読書、手芸
2.0メッツ:料理や食材の準備(立位、座位)、洗濯物を洗う、しまう、荷作り(立位)、ギター:クラシックやフォーク(座位)、着替え、会話をしながら食事をする、または食事のみ(立位)、身の回り(歯磨き、手洗い、髭剃りなど)、シャワーを浴びる、タオルで拭く(立位)、ゆっくりした歩行(平地、散歩または家の中、非常に遅い=54m/分未満)

これを見ると我々の普段の生活は1,5~2メッツといったところだが、、本や新聞等を座って読むだけで1.3メッツと単に座ってテレビ・音楽鑑賞などをしている状態の30%ものエネルギーを使うのだから、ビジネスマンなどが頭や神経を使ってやっている仕事は体を使っている仕事よりも非常に疲労しているということになるだろう。したがって、現代では脳疲労の恢復のための睡眠が重要なのだといわれている。
この脳疲労を回復する即効性のある運動としては、 ストレッチ、体操などの軽い運動、散歩などが適しており、これらの運動習慣は脳疲労回復効果以外に、脳そのものを強化し、疲れにくくする働きがあるとも聞いている。また栄養や食事によって、脳疲労を回復することができる。
とにかく朝起きて、寝るまで、自分では意識をしていなくても脳は、いつも働いて(覚醒おり)、睡眠時でも、浅い睡眠時には覚醒している。
睡眠の状態は、脳波を調べることでわかる。
睡眠時の脳波は、レム睡眠とノンレム睡眠(レム睡眠参照)の2つのタイプに分かれていることは誰もが知っていることだろう。レム睡眠はまぶたの下の眼球運動をともなう睡眠で夢をみている状態であり、脳が活動して覚醒状態にある。
ノンレム睡眠は、レム睡眠でない眠りという意味であり、本当に脳を休ませる眠りで、さらにS1~S4の4段階に分かれる。なかでもとくにS3とS4は、脳波の振幅が高くて周期の小さい波(徐波)が現れる状態で徐波睡眠とよばれるが、いわゆる、ぐっすり寝ている状態で、多少の物音がしたり、軽くゆさぶられても目が覚めることのない深い眠り(熟睡)である。
レム睡眠とノンレム睡眠は、一晩のうちに約90分周期で交互にくり返し現れ、一晩の平均的な 6 - 8 時間の睡眠では 4 - 5 回のレム睡眠が現れる。脳を休めるためには、しっかりと、このノンレム睡眠をとることが重要なのである。
また、体内時計は、睡眠だけでなく「体温」のリズムも作っており、体温の高低のリズムと、睡眠のリズムは連動しているそうだ。
起きている間の体温は高く、夜は体温が低くなる。体温が下がるタイミングにあわせて、眠気が始まる。このときの特徴は、眠いとき、赤ちゃんの手が暖かくなるのと同じで特定の皮膚部位(ここでは手足の甲)から熱を外界に逃がすことで体全体の代謝を下げ、これに引き続いて脳の温度も下がって眠りに入るのだという。
人間の脳はほかの動物とくらべて、高い機能をもっており、昼間は脳をフルに使って生活している。そこで疲れた脳が オーバーヒートしないように、脳の温度を下げて休ませ、脳の疲労を回復させるのが睡眠(※12参照)であり、その対策として、一番簡単で効果的な方法が眠る1時間位前に38〜40度の「ぬるめ」の風呂に20分位入ることのようだ。
体温が下がれば、眠気が出てくる。深く寝入ったら、成長ホルモンがたっぷり出る。そして光を浴びると、眠りは去ってパッチリ目覚める。

体内時計に基づくリズム(周期)は、実は一つだけではなくもうひとつある。眠りの基本は約24時間の周期で動くリズムだが、このほかに約12時間周期のリズムもあるといわれており、これが「昼間に眠くなる」作用を起こすそうだ。昼食の後眠くなるのは満腹のためではなく、このリズムが原因であり、だいたい午後2時~4時ころにかけて起こる自然な生理現象なのだそうで、南ヨーロッパや南米の「シエスタ」という昼寝の習慣があるのもそのためのようだ。20~30分程度の昼寝は脳と体をリフレッシュし、生産性を向上させることがわかっているという。
私なども、昼食後よくうつらうつらしているが、これは年のせいかと思っていたのだがそうではなかったのだ。午後の眠気対策に短時間の仮眠(昼寝)はいいことのようだ、ただ、長く居眠りすると夜寝れなくなるので気を付けなければいけないが・・(※13のここ参照)。

年齢とともに体力が落ち、老眼になり、白髪が増えるのと同じように睡眠にも以下のような変化が生じる。
その第一は、若い頃にくらべて早寝早起きになる。これは体内時計の加齢変化によるもので、睡眠だけではなく、血圧・体温・ホルモン分泌など睡眠を支える多くの生体機能リズムが前倒しになるのだそうだ。したがって高齢者の早朝覚醒それ自体は病気ではなく、眠気が出たら床につき、朝方に目が覚めて二度寝ができないようであれば床から出て朝の時間を有意義に使った方が良いのだそうだ。
第二の変化は、私などもそうだが、睡眠が浅くなること。睡眠脳波を調べてみると、深いノンレム睡眠が減って浅いノンレム睡眠が増えるようになっているからだそうで、そのため尿意やちょっとした物音などでも何度も目が覚めてしまうことになる。
昔から、「早起きは三文の徳」という諺があり、私たちもそれを良しとしてきた。しかし、この諺、元々は「早起きしても三文ほどの得しかない」という意味で使われていたともいわれている。
眠気もないのに「やることがないから・・・」と言って、寝床に入ると、寝つきは悪くなるし、中途覚醒が増えてしまう。若い人のように、労働でエネルギーを消費することもなくなっているのだから、眠れる時間が短くなるのは当然なのだろう。そのくせ、高齢者ほど睡眠時間が短くなるのに寝床にいる時間が長くなっている…(※4:「e-ヘルスネット」の高齢者の睡眠参照)。結果として夜も眠れぬままに寝床でうつらうつらしている時間が増えて睡眠の満足度も低下しているわけだ。反省しなければいけない。
現代社会では、仕事の関係などもあるのだろう、「宵っ張りの朝寝坊」も多くなったようだ。睡眠時間やリズムは、人それぞれ。少なくとも、睡眠に関する限り、 朝型か夜型か、どちらの型であっても昼夜リズムが社会の時計と同調し、生活が規則的に繰り返されている限り問題はないようだ。したがって、睡眠のメカニズムや、自分の睡眠特性を知って、「良いねむりと良い目覚め」を目指したいものである。


参考:
※1:日本記念日協会
http://www.kinenbi.gr.jp/
※2:ドコモ・ヘルスケアHP
http://www.d-healthcare.co.jp/
※3:俳句歳時記 季語
https://sites.google.com/site/haikukigo/
※4:e-ヘルスネット - 厚生労働省
http://www.e-healthnet.mhlw.go.jp/
※5:出没にまつわるはなし|天文・暦情報|海上保安庁海洋情報部
http://www1.kaiho.mlit.go.jp/KOHO/faq/astro/sunrise.html
※6:生体リズムと時間薬理学 - 早稲田大学(Adobe PDF)
https://www.waseda.jp/wias/eng/achievement/bulletin/data/y_edagawa_2010.pdf#search='%E6%BD%AE%E3%81%AE%E6%BA%80%E3%81%A1%E5%B9%B2%E3%81%8D+24.8+%E6%99%82%E9%96%93+%E3%83%AA%E3%82%BA%E3%83%A0'
※7:生物時計研究グループ 花井修次HP
https://staff.aist.go.jp/s-hanai/index.html
※8:体内時計をつかさどる「時間の定規」を発見 | 理化学研究所
http://www.riken.jp/pr/press/2009/20090901/
※9:平成12年 保健福祉動向調査の概況(心身の健康) - 厚生労働省
http://www.mhlw.go.jp/toukei/saikin/hw/hftyosa/hftyosa00/index.html
※10:睡眠時間と死亡との関係-JACC Study
http://publichealth.med.hokudai.ac.jp/jacc/reports/tamaa1/index.html
※11:運動施策の推進 |厚生労働省
http://www.mhlw.go.jp/stf/seisakunitsuite/bunya/kenkou_iryou/kenkou/undou/index.html
※12:睡眠と体温|体温と生活リズム|テルモ体温研究所
http://www.terumo-taion.jp/health/sleep/01.html
※13:ねむりラボ-オムロン
http://nemuri-lab.jp/
Webナショジオ睡眠学
http://natgeo.nikkeibp.co.jp/nng/article/20121127/332007/
元MRが語る・医療と生物の信じられない実態2
http://www.unlimit517.co.jp/repomedi2.pdf#search='体内時計 太陽の出没'
睡眠学の1 短時間睡眠の方が長寿?!武田邦彦 (中部大学)
http://takedanet.com/archives/1053522401.html
日本睡眠学会
http://jssr.jp/data/kiso.html
日本時間生物学会
http://chronobiology.jp/
「早起き」すると寿命が縮む!オックスフォード大学の研究で判明現代ビジネス
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/45782



農林水産省創立記念日

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1881(明治14年)年の4月7日、農商務省が設置された。明治政府の殖産興業政策の一翼を担った国家機構(行政機構)である。
現在の農林水産省経済産業省 (2001年の中央省庁再編までの通商産業省)の前身である。

1854年3月31日(嘉永7年3月3日)、日米和親条約調印により徳川幕府開国に踏み切ると、日本各地の政治家(大久保利通等)たちは西洋との圧倒的な国力の差を意識した。
欧米では、1830年代に産業革命を既に完了していたイギリスをはじめ、欧米では資本主義経済を確立していたからである。
1868年1月3日(慶応3年12月9日)の王政復古の大号令によって、210年もの鎖国を布いた徳川幕府を倒し権力をにぎった藩閥政府(明治新政府)は、先進資本主義諸国の外圧に対抗するための「富国強兵」をスローガンに、また、そのための日本産業の経済的基盤固めのために「殖産興業」を政策目標に掲げて、欧米の工場制機械工業の移植を中心とする資本制生産様式の採用に踏み切り、急速な資本主義を促進することになった。
政策を推進するための、行政面での明治維新律令制の復活劇でもあった。幕藩体制の崩壊に伴い、中央集権国家の確立を急ぐ必要があった新政府は、律令制を範とした名称(例:太政官、大蔵省など)を復活させたのである。
江戸幕府摂政関白等の廃止と五箇条の誓文を交布し天皇親政が定められ、天皇の下に総裁議定参与三職からなる官制(日本の官制参照)が施行された。
その最高職である総裁には有栖川宮熾仁親王、議定には皇族公卿薩摩長州土佐越前などの藩主が、参与には公家と議定についた藩主の家臣が就任した。
しかし、明治天皇はまだ年少(当時16歳)であるため、それを補佐する体制がすぐに必要となった。そこで、1868年6月11日(慶応4年閏4月21日)、政体書の公布により、中央政府である太政官に国家権力を集めた三権分立制をとる太政官制(七官制、政体書体制)が採られ、さらに翌年(明治2年)7月には、版籍奉還により律令制の二官八省 を模した二官六省制(六省:民部省大蔵省兵部省刑部省宮内省、)が発足した(近代日本の官制の明治8年の官制参照)。
そして、明治政府は国家権力による日本産業の資本主義化を達成するため,殖産興業政策をその課題に掲げ,農・商・工の各分野での具体化が進められた。
まず、1870年12月12日(明治3年閏10月20日)には、民部省の一部が独立する形で工部省を設置し、欧米からお雇い外国人を多数採用し、岩倉使節団(1871年)に合わせて留学生を派遣するなど産業技術の移植に務め、欧米の工場制機械工業の移植や官営事業としての鉄道、造船、鉱山、製鉄、電信、灯台など近代国家に必要なインフラストラクチャー整備などを促進した。
1871年8月29日(明治4年7月14日)には、明治政府がそれまでの藩を廃止して地方統治を中央管下の府と県に一元化(廃藩置県)により中央集権化が実現。
岩倉使節団が派遣されていた間の留守政府においては制改革が行われたが、後の秩禄処分などはこれを基準として実施されたものである。
また同年9月政府収入の確保のための地租改正案が大蔵省により作成され、1873年(明治6年)地租改正条例が制定され翌年から着手された。
その間、1872年(明治5年)には、群馬県に富岡製糸場などの官営工場(官営模範工場参照)を開設している。また、官営鉄道や汽船が発足し、国内の交通網が発達した。
1871年に金融では新貨条例を、1872年に国立銀行条例を布告している。
岩倉使節団に副使として参加していた大久保利通は、1873(明治6)年5月に帰国し、日本の政治体制のあるべき姿として先進国のイギリスではなく、フランス第二帝政の国内省(内務省)と、ドイツ(プロイセン王国)の帝国宰相府(※2参照)をモデルに、同年11月10日には、強い行政権限を持つ官僚機構として、官営事業を統括する内務省を設立。北海道には開拓使を置き、屯田兵を派遣した。

大久保利通を初代の内務卿として設置された当初の内務省は、地方行財政などのちの所管事項に加え、殖産興業や鉄道・通信なども所管し、大蔵省・司法省・文部省三省の所管事項を除く内政の全般に及ぶ権限を持ち農政も所管していた。
当時の産業行政および殖産興業政策は、内務省、工部省、大蔵省などに分散していたが、官業政策の破綻と殖産興業経費の過重が明らかになったので、政策の転換と産業行政の一元化を図るため1880年(明治13年)には工場払下概則を達し、諸省に分離されてきた農・商・工行政事務を1省に統合することが行・財政改革の点から要望され,参議の伊藤博文大隈重信の建議にもとづき、1881年(明治14年)4月7日、農商務省が設置されることになったのである。冒頭の画像は東京農商務省(絵葉書:1890年)である。

新設の農商務省には、これまで内務省・大蔵省に属していた商務局を移管引継ぎ、書記、農務・商務・工務・山林・駅逓・博物、会計の八局及び農・商・工上等会議などの政策諮問機関を設けた。
太政官制の元、初代の卿に河野敏鎌が就任(農商務省の長のことについてはのちに述べる)。
鉱山、鉄道、工作関係は工部省の所管に残されたが、1885年(明治18年)12月22日、太政官制度が廃止され新たに内閣制度(※1参照)が成立(初代:内閣総理大臣には前参議伊藤博文が任命される)すると工部省は廃止された。
工部省の鉱山事務・工作事務を農商務省に統合。農商務省の駅逓事務・管船事務は新たに設置された逓信省に移管し、農商務省は唯一の産業主務官庁となった。なお、この時より、農商務省の長は農商務大臣とし、谷干城が初代大臣に就任した。
1882年(明治15年)2月8日の開拓使廃止に伴い、函館県・札幌県・根室県が設置され、また、北海道にはこの3県のほか、1883年(明治16年)、北海道事業管理局(農商務省の一部局)が設置されて(三県一局時代参照)以降1886年(明治19年)にかけては北海道の官営諸事業をも管理し、農事・水産の各試験場や工業試験所などを有していた。
1896年(明治29年)4月1日、製鉄所(八幡製鐵所)を官営組織として創設(1901年(明治34年)2月5日操業開始)。
1925年(大正14年)4月1日、農商務省が廃止され、農林省(第1次)と商工省(第1次)の二つに分離された。
農商務省の2分割は農業関係団体からの「農務省」設置要求の建議が数年間にわたって繰り返されてきたことによる。その契機は大正期にはいってからの米価高騰により外国産米輸入措置に対しての農業関係者からの反発が主原因である(1918年米騒動参照)。
第二次世界大戦中の1943年(昭和18年)11月1日、いわゆる行政運営の決戦化を目ざす大規模な行政整理及び機構改革が行われ、軍需省運輸通信省とともに、農商省が新設された。これに伴い、商工省・逓信省・鉄道省・企画院・農林省(第1次)が廃止された。
「農商省」は、それまでの「農商務省」と異なり、務の文字がなくなり、長も農商大臣である。これは、商工省の主要部門が軍需省に移動したため、商工省の残存部門を農林省に統合して「農商省」としたものである。この時のいきさつ等詳しくは、参考の※3、※4等参照。
終戦後、軍需省という組織は存在意義を喪失したため、1945年(昭和20年)8月26日、再び農商省が農林省(第2次)と(法令上は農商省を改称)、軍需省が商工省(第2次)と(法令上は軍需省を改称)に分離・復活した。ただし、軍需省設置時に逓信省から移管された電力行政は商工省にとどまることとなった(ただし、電力供給に関する経済政策全般は経済安定本部によって司られた。日本発送電参照)。また、外局の馬政局は農林省畜産局馬産課設置に伴い、廃止された。
その後、農林省、商工省とも再編を繰り返し、農林省は、現農林水産省、商工省は1949年(昭和24年)の国家行政組織法(昭和23年7月10日法律第120号)施行直前に通商産業省に改組し、2001年(平成13年)1月6日の中央省庁再編により、通商産業省から移行する形で経済産業省が設置された。

政商」とは「政府や政治家と結びつき、特権的な利益を得ている商人」(『大辞林』)をいうとすれば、明治初期は「政商の時代」であったともいえるだろう。
民間資本の発達が遅れた状況下で、欧米列強の圧力を受けて急速に資本主義を図らねばならなかった当時の日本では、国家が主導して資本主義形成の担い手を保護・育成せざるをえず、そこに政商が生まれた。
明治期における殖産興業政策の展開過程を政商資本とのかかわりのなかでみる時、三つの時期に分けて考えることができるようだ。
その第一段階は1868(明治元)年の「明治維新政府成立」から1873年(明治6年)の「明治6年政変」までの大蔵省・工部省中心の時期(由 利公正 が主導したいわゆる由利財政 と第一次大 隈(重信)財政期)、第二段階は「明治6年政変」から1881年の「明治14年政変」までの内務省中心の時期(大久保利通政権下での第二次大隈財政期)、第三段階は「明治14年政変」から1889(明治22)年の「大日本帝国憲法発布」までの農商務省中心の時期(伊藤博文参議兼参事院議長と大隈の参議罷免後,参議兼大蔵卿に任ぜられた松方正義を中心に始まる財政期)に区分することができる。詳しいことはここでは避けるが知りたければ、※5:「日本工業の黎明-遣隋使から工部大学校まで-」のⅣ 維新政府の政治経済政策や参考欄の★印のところを参照されるとよい。

要約だけ書くと、冒頭から書いてきたように、明治時代の殖産興業政策は、工部省→内務省→農商務省へと変転する中央勧業機構のもとに、欧米先進諸国から進んだ生産技術と経済制度を導入し、財政・金融・貿易・教育などの諸分野とも関連させながら、工鉱業の発展、農牧業の育成、鉄道の建設、貿易の進展、技術者の養成その他について、政府の指導下に、資本制生産の体系をつくりだそうとした。
しかし、当時、新政府は、その一部が外国資本の管理下に入りつつあった旧幕府・諸藩の軍事施設や洋式工場を官収し、外国勢力や外国資本の侵入を排除して、その利権を回収する必要があった。また、幕末以降、入超が続く貿易において、輸入阻止の目的から、蚕糸(さんし。絹糸)・製茶業を中心に民間産業を育成する必要もあった。
こうして、当時の殖産興業政策は、利権回収と民業振興を支柱に進められた。以上の基調を背景に、国家権力による資本制生産様式の具体化は、第一に工部省(陸・海軍省も含む)中心の移植産業部門における工鉱業と軍事工業の展開、第二に内務省→農商務省中心の在来産業(農業と農産加工)部門における再編、という二つの経路をもって、相互に関連しつつ進行した。
このような「上から」の資本主義の育成策は、1880年代を中心に、官営事業(官営工場と官営軍事工場、鉱山・鉄道の経営など)を生み出したが、工部省所管の官営工場を中心に赤字損失が重なった。
その結果、1880年(明治13)布告の工場払下概則をきっかけに、官業払下げを実施するが、「工場払下概則」布告の払下げ条件には、政府資金の回収をおもなねらいとして、営業資本の即時納入その他、厳しい規定が含まれていたため、払受け希望者がきわめて少なかった。そこで4年後に同法令は廃止され、以後、払下げは個別に承認される形で実現することになった。
その結果、官業払下げは炭坑、鉱山などから始まり、工場や一部の鉄道などに及んだ。こうして1880年代以降、進行する払下げは、政府に必要な軍事、通信、また資金や技術を必要とする精錬冶金などの諸部門を除き、1896(明治29)年に生野銀山三菱合資会社に最後に払い下げられるまで、多くの官営鉱山や官営模範工場に及んだ。そのため、政府財政を節減する目的で実施された官業払下げは、官営軍事工業部門を強化する結果になった。
そして払受け人に有利となった払下げは、払下げを受けた三井三菱古河(ふるかわ)その他の政商に対して、払下げの施設を基礎に、後年、彼らが財閥に発展する条件を保証することになった(※5の財閥と払下げを受けた者との関係など参照)。
西南の役による紙幣の濫発はインフレをまき起こし、その影響は深刻であった。その整理にあたったのが、明治14年の政変で大蔵卿の座にすわることになった松方正義であるが、政府紙幣(不換紙幣)の全廃と兌換紙幣(※6参照)である日本銀行券の発行による紙幣整理、煙草税や酒造税や醤油税などの増税や政府予算の圧縮策などの財政政策、官営模範工場などの払い下げによって財政収支を大幅に改善させ、インフレも押さえ込んだ。
ただ、これらの政策は深刻なデフレを招き、このデフレでの価格や米の価格などの農産物価格の下落を招き、農村の窮乏を招いた。そして、このデフレ政策に耐えうる体力を持たない窮乏した農民は、農地を売却し、都市に流入し、資本家の下の労働者となったり、自作農から小作農へと転落したりしたために「松方デフレ」と呼ばれて世論の反感を買うことになった。
明治期の政府誘導による殖産興業政策はこのように全体として成功したとは言い難いのだが、民間払下げがこのような財閥から初期資本(政商資本)家が現れる契機となり、その結果、資本集中により、民間の大規模投資が可能になって日本の近代化を進めることになったこと、また、民間払下げからも除外された軍事工業(※7参照)は、松方財政下での軍備拡張政策を背景に、産業発展の基軸を構成するキー産業として展開し、以後の日本資本主義の軍事的性格を持つようになったという意味で重要である。

最後に、太政官制の元、明治政府の殖産興業政策の一翼を担った重要な行政機構である農商務省の初代の卿に就任した河野敏鎌について書こう。
彼は、文部卿として、今日まで続く日本の教育制度の根幹を築いた人でもある。

画像は河野敏鎌
河野敏鎌は、1844年(天保15年)10月、土佐藩郷士の長男として生まれる。幼名は万寿弥(ますや、旧字体:萬壽彌)。
1858年(安政5年)3月、江戸へ遊学して儒学者安井息軒の門下となり、1861年(文久元年)に帰国。余談だが、有名な言葉「一日の計は朝にあり。一年の計は春にあり。一生の計は少壮の時にあり。」は安井息軒の開いた私塾「三計塾」の設立主旨(三計の出自はここ参照)。
同年、武市瑞山(通称:武市半平太)らによって結成された土佐勤王党に加入して坂本龍馬とも交友関係を持つ。五十人組(※8参照)に参加し、尊攘派として活動したが、1863年9月30日(文久3年8月18日)の政変で前藩主・山内容堂佐幕派に鞍替えしたことから藩論が転換、武市らが失脚すると、捕縛・投獄され6年間の獄中生活を送ることになる。
1868年(慶応4年)に江戸幕府が崩壊して明治維新がはじまると、ようやく赦免され、同藩の後藤象二郎の手引きで大坂に上り、「維新の十傑」、「佐賀の七賢人」と称される江藤新平の知遇を得る。
1869年(明治2年)4月に侍詔局出仕、8月には弾正台に務め,のちに広島県大参事、司法大丞大検事となる(※9参照)。
その後、1875年(明治8年)に元老院議官、1878年(明治11年)には元老院副議長となる。1880年(明治13年)、文部卿として教育令改正(第2次)の推進をした。1881年(明治14年)、農商務省設立に伴って初代農商務卿に就任するが、明治十四年の政変で大隈重信らに同調して下野した。
1882年(明治15年)4月、大隈らとともに立憲改進党を結党して副総理(副党首)になる。1888年(明治21年)に枢密顧問官として憲法の審議にあたる。その後第1次松方内閣で内務大臣、司法大臣、農商務大臣を歴任、第2次伊藤内閣では文部大臣に就任して文部行政の基礎を確立した。1893年(明治26年)子爵を叙爵して華族に列すが、1895年(明治28年)4月20日に死去している(享年52歳)。
華やかな経歴ではあるが、彼にはあまりよくないエピソードもある。

河野敏鎌と同じ、佐賀藩出身の蘭方医相良知安は、佐倉順天堂(現:順天堂大学)で佐藤泰然、長崎精得館でオランダ人医師ボードインにより医学を学び、明治政府に、イギリス医学ではなくドイツ医学の採用を進言しその説が採用される。
明治初期の医療行政において文部省医務局長などの役職を経験したが、強引なドイツ医学の採用の進言の経緯でイギリス人医師ウィリス(お雇い外国人)を推していた西郷隆盛(薩摩藩出身)や山内容堂(土佐藩15代藩主)らの体面をつぶしたことで薩摩閥、土佐閥の恨みを受けた。
1870年(明治3年)9月に、知安は、大学(大学東校)の会計事務官森之介 ( 薩摩. 出身) が官費を消費したことに連座して嫌疑がかかり、突然弾正台に捕らわれ投獄された。この時の弾正台長が、旧土佐藩出身の河野敏鎌であった。
そして、この知安の危機を救ったのが、知安と同郷で親友の江藤新平らであった10参照)。
江藤新平らの支援が実り、その後の知安は裁判で冤罪が判明し、一年二ヶ月ぶりに出獄が適い復職したが、1873年(明治6年)には、第一大学区医学校校長と文部省医務局長兼築造局長を罷免されている。この理由は前述のドイツ医学採用の経緯や、明治6年政変(征韓論争)で下野した親友の江藤新平を支持したことなどの理由が考えられる(※11参照)。
河野敏鎌は、1874年(明治7年)の佐賀の乱(佐賀戦争)では、大久保利通に従い、鎮定のため九州に赴いた。
河野は、江藤新平の書生をしていた人物で、江藤の推薦で司法省の官吏となり、江藤に命じられて西欧視察に序列筆頭の団員として参加もした。
それが、乱後の裁判では、大久保の命により、佐賀の乱における法廷を主宰し、彼を抜擢した上司であり、恩人である元司法卿江藤新平を取り調べ、釈明の機会も十分に与えないまま死刑の宣告を下したという。
訊問に際し河野は江藤を恫喝したが、江藤から逆に「敏鎌、それが恩人に対する言葉か!」と一喝され恐れおののき、それ以後自らは審理に加わらなかったそうだ。巷では大久保が金千円で河野を買収して江藤を葬ったという風評が立ったらしいが、河野自身は晩年になって友人であり、立憲改進党掌事の牟田口元学に、自身の行動に関する弁明を試みているというのだが・・・。
同年4月8日,河野により除族(華族・士族の身分をとり上げ,平民とすること)の上、梟首の刑を申し渡され、その日の夕方に嘉瀬刑場(佐賀)において処刑された。 
ここには、大久保利通が撮影させたという獄門に処せられた江藤新平の画像がある。ここをクリックで画像が見られる。
河野の江藤に対する最初から死刑ありきの暗黒裁判ともいうべき不当な裁判も、大久保らの差し金によるものだろうが、そこに、相良知安の医療行政問題での恨みがからんでいるものだとしたら、恐ろしいことだ。また、がそれを実行した河野敏鎌が、その後、周りから引き立てられて、とんとん拍子で出世をし、第2次伊藤内閣では文部大臣に就任して文部行政の基礎を確立して行くのである。今の時代、このような人が文部大臣になったらマスコミはどのように騒ぐのだろうか・・・。

参考:
★11:明治前期殖産興業政策と政商資本(Adobe PDF)
★2:2:明治前期殖産興業政策の修正と政商資本(Adobe PDF)
★3:3明治期殖産興業政策の終局と日本資本主義の確立(Adobe PDF)

※1 : 内閣制度と歴代内閣 - 首相官邸
http://www.kantei.go.jp/jp/rekidai/
※2:ドイツ帝国憲法 - 世界史の窓
http://www.y-history.net/appendix/wh1202-121.html
※3:国内行政運営の基礎軍需省中心に確立す - 神戸大学 電子図書館
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?METAID=10034003&TYPE=IMAGE_FILE&POS=1
※4:法政大学大原社研_崩壊期の戦時経済と経済統制〔日本労働年鑑 特集版〕
http://oohara.mt.tama.hosei.ac.jp/rn/senji1/rnsenji1-013b.html
※5:日本工業の黎明-遣隋使から工部大学校まで-
http://ktymtskz.my.coocan.jp/ueda/u0.htm
※6:兌換紙幣 - 金融大学
http://www.findai.com/yogo/0013.htm
※7:戦前期日本軍事工業史研究の再検討(Adobe PDF)
http://human.cc.hirosaki-u.ac.jp/economics/pdf/treatise/19/treatise_19_03.pdf#search='%E6%88%A6%E5%89%8D+%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E8%BB%8D%E4%BA%8B%E5%B7%A5%E6%A5%AD'
※8:五十人組-幕末期の土佐藩 - 龍馬堂
http://ryomado.in.coocan.jp/Bakuto/BTprofile/tosa_profile03-04.html
※9:詳細 - アジア歴史資料センター 収蔵データ一覧
http://www.jacar.go.jp/siryo/ichiran/K_S01/m23250.html
※10:本文ファイル - NAOSITE(Adobe PDF)
http://naosite.lb.nagasaki-u.ac.jp/dspace/bitstream/10069/6595/1/100_03_16.pdf#search='%E5%BC%BE%E6%AD%A3%E5%8F%B0+%E6%B2%B3%E9%87%8E%E6%95%8F%E9%8E%8C'
※11:相良知安と東京大学医学部
http://sagarachian.jp/main/90.html




柔道整復の日

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日本記念日協会に登録されている4月14日の記念日に「柔道整復の日」がある。
柔道整復」が東洋医学に基づく医療として広く認識してもらうことを目的に、NPO法人・全国柔整鍼灸協会(※1)が制定したもの。日付は1970(昭和45)年4月14日に「柔道整復師法」(通称「柔整法」)が公布されたことからだそうだ。
この「柔道整復師法」(昭和45年4月14日法律第19号。条文はここ参照)は、柔道整復師全般の職務・資格などに関して規定した法律であり、1970(昭和45)年7月10日に施行された。1964(昭和39)年には「あん摩マツサージ指圧師、はり師、きゆう師、柔道整復師等に関する法律」という名称で交付されていたものが、1970(昭和45)年に単独法として成立したものである。
ところで、皆さんはこの「柔道整復師」という名称を知っていましたか?



“私の家の近所に整骨院があって、そこの主人は柔道五段か何かで、小さい道場も設備せられてある。夕方、職場から帰った産業戦士たちが、その道場に立寄って、どたんばたんと稽古をしている。私は散歩の途中、その道場の窓の下に立ちどまり、背伸びしてそっと道場の内部を覗いてみる。実に壮烈なものである。私は、若い頑強の肉体を、生れてはじめて、胸の焼け焦げる程うらやましく思った。うなだれて、そのすぐ近くの禅林寺に行ってみる。この寺の裏には、森鴎外の墓がある。・・・”

上掲の文は太宰治の小説『花吹雪』(※2:青空文庫参照)からの引用である。この作品にはさらに、
“男子の一生は戦場です。諸君が、どのような仕事をなさるにしても、腕に覚えがなくては かなわぬ。何がおかしい。私は、真面目に言っているのです。腕力の弱い男子は、永遠 に世の敗北者です。”
“男はやっぱり最後は、腕力にたよるより他は無いもののようにも思われる。”
“明治大正を通じて第一の文豪は誰か。おそらくは鴎外、森林太郎博士であろうと思う。あのひとなどは、さすがに武術のたしなみがあったので、その文章にも<ahref= http://dictionary.goo.ne.jp/jn/233205/meaning/m0u/ >凜乎(りんこ)たる気韻(きいん)がありましたね。あの人は五十ちかくなって軍医総監という重職にあった頃でも、宴会などに於いて無礼者に対しては敢然と腕力をふるったものだ。(まさか、という声あり。)いや、記録にちゃんと残っています。くんづほぐれつの大格闘を演じたものだ。鴎外なおかくの如し。いわんや、古来の大人物は、すべて腕力が強かった。”・・・とある。

男の腕力の重要性、そして体を鍛えることの必要性等が語られているが、太宰は、生涯疎外意識に悩まされ、多くの作品の中で疎外者、弱者を描き出している。
この文中の「産業戦士」とは、戦時下、労働者を戦争を支える存在として使った言葉だが、太宰は、ここで「産業戦士」を戦時下の時代が求めていた“健康で力持ちの象徴”として描写している。戦時下は強制的に国民の同質化が行われ、戦時体制に適合するにふさわしい人的資源だけが優遇されるが、その反面、多くの疎外者を生み出した時期でもあった。
因みに、戦時下に、うたわれていた「産業戦士の歌」(作詞:大日本産業報告会、作曲:林伊佐緒)の歌詞は→ここで、また、少々雑音が入っているがレコードは以下で聞ける。
産業戦士の歌 小野巡 服部富子 鬼俊英 中村柾子 – YouTube

少々、回り道をしてしまったが,太宰の『花吹雪』じゃないが、私の家の近所にも接骨院があって、私も子供のころはやんちゃ坊主だったもので、足の捻挫や骨折などで整骨院にはよく通ったものだが、そこの先生も柔道をやっていた人だったが、当時整骨院の先生といえば柔道をやっていた人が多かったような気がする。
講道館柔道の創始者であり、柔道・スポーツ・教育分野の発展や日本のオリンピック初参加に尽力するなど、明治から昭和にかけて日本に於けるスポーツの道を開き、「柔道の父」と呼ばれ、また「日本の体育の父」とも呼ばれている嘉納治五郎)も、まさに、太宰の『花吹雪』にある“いわんや、古来の大人物は、すべて腕力が強かった。”・・・に該当する人物だと思うのだが、この嘉納が柔道を始めたきっかけが柔道整復師(接骨院)にあったというから面白い。
治五郎は1860年12月10日(万延元年10月28日)、摂津国莵原郡御影村(わが地元、現:兵庫県神戸市東灘区御影町)で、父・嘉納治朗作(希芝)と母・定子の三男として生まれた。

その前年には安政の大獄がおこり、続いて桜田門外の変が勃発。300年続いた武家政治が倒幕運動により終焉を迎え新しい時代(明治)が始まろうとする激動の時代であった。

治五郎が生まれた摂津御影は日本有数の清酒業地(現在でいう「灘五郷」の一つ)で、実家の嘉納家 も代々酒造業を営んでいた(「菊正宗」も「白鶴」も嘉納本家や分家白嘉納家から誕生したもの)。
祖父の次作は当時酒造・廻船にて各方面に名声を博した人物で、その長女定子の婿として後を託されていた(婿入りした)のが父次郎作であった。
初め祖父の治作は治朗作に家を継がせようとしていたが、治朗作はこれを治作の実子である義弟に譲り、自らは廻船業を行い、大阪に出て幕府の廻船方御用達を勤め, 同時に, 1862年(文久2年)勝海舟のもとで和田岬砲台西宮の砲台などの築造工事を請け負っており、また ,1867年(慶応3年)10月には,出願によって幕府所有の汽船長鯨丸,奇捷丸,太平丸などを託され、江戸―神戸―大坂間の定期航路を開き、これがわが国の洋式船による定期航路の端緒となるなど、大いに活躍をしている。
幼少の頃から英才教育を受けていた治五郎は、1870年(明治3年)、明治政府に招聘(しょうへい)された父に付いて上京し14歳の時の烏森町(現:新橋2丁目)にあったという育英義塾(のちの育英高校)に入塾後オランダ人やドイツ人の教師から英語、ドイツ語などを学んだ後、1875年(明治8年)16歳の時官立東京開成学校)に進学。開成学校は1877年(明治10年)に東京大学となり、同大学文学部1年に編入された嘉納は政治学、理財学および哲学を専攻。1881年(明治14年)、政治学、理財学は卒業して残り、1年を道義学と審美学を学ぶ為に哲学選科に入り、1882年(明治15年)7月東大文学部を卒業したという(※3)。
この嘉納治五郎が、柔術をやろうと思い立ったのは、育英義塾・開成学校時代のことだそうで、その動機について、後年彼は次のように書いているそうだ。

「(自分は)学科の上では他人におくれをとるようなことはなかったけれども、当時少年の間では、とかく強いものが跋扈(ばっこ)して、弱いものはつねにその下風に立たなければならない勢いであったので、これには残念ながらつねにおくれをとった。自分は今でこそ普通以上の強健な身体を持ってはいるが、その当時は、病身というのではなかったがきわめて虚弱なからだであって、肉体的にはたいていの人に劣っていた」。
そのため、他の塾生から軽んじられたことを悔しく思っていた治五郎は、
「日本に柔術というものがあり、それはたとえ非力なものでも大力に勝てる方法であるときいていたので、ぜひこの柔術を学ぼうと考えた」(『嘉納治五郎 私の生涯と柔道』)。・・・といっているそうだ。
したがって、治五郎が、柔術を始めたのは、決して日本の伝統的な武道が廃れていくのを嘆き、その復興を図ってなどという高邁な理想から出発したわけではなく、あくまで、「強くなりたい」という、当時の男子なら誰もが一度は抱く素朴な願望が、柔術を習おうという動機であったようだ(※4、※5:「柔道チャンネル」の柔道お役立ち情報>柔道整復師情報を参照)。
しかし、親の反対により許されなかった。当時は文明開化の時であり, 在来の剣術や柔術は衰退し、全く省みられなくなっており、師匠を探すのにも苦労したが, 当時柳生心眼流の大島一学に短期間入門したりした後、あるとき、日本橋人形町通りの整骨師で、昔天神真楊流の柔術を修めた八木貞之助(磯 正足の弟子)を介して、同門の幕府講武所師範をもしていた福田八之助道場を紹介してもらい念願の柔術入門を果たしたという。
熱心に道場に通って稽古をしていた治五郎は、福田が52歳で死んだ後は、天神真楊流の家元(三代目)磯正智(本名:松永清左衛門)道場に学ぶ。
上達に伴い関心も広がり幕府講武所教授起倒流飯久保恒年師に師事した。柔術を通して強さを身に付けた治五郎は、やがて、柔術二流派の技術を取捨選択し、「崩し」の理論などを確立して独自の「柔道」へとさらに発展させていったのである。柔道の基本「崩し」、興味のある人は以下参照。

崩し解説 日本視覚障害者柔道連盟 選手強化合宿

そして、治五郎が、下谷北稲荷町16(現・台東区東上野5丁目)に、「柔道を講ずる館」として講道館を設立したのは、翌・1882年(明治15年)のことであった。福田八之助のもとで天神真楊流柔術を習い始めたのが、18歳のころ(1877年明治10年)だというから、柔術を始めてたった5年で、柔術を改良した柔道場「講道館」を設立したのだから、治五郎は文武両道の天才少年だったのだろう。そして、「柔道」という武術を高い精神性をもったスポーツにまで高めたのだから立派である。

私もあまり耳にしなかった言葉「柔道整復師」は、その名の通り「柔道」から派生したものである。
“戦国時代の武道の書物には「殺法」、「活法」に関する記述があるが…として、”殺法は武技そのもので、柔術でいうところの、当身技、投技、絞技、関節技、固技はすべて殺法に属する。活法は、傷ついた者の治療法、手当てであり、骨折、脱臼、打撲、捻挫などの外傷を治すもので、出血、仮死者に対する蘇生法なども含まれている“・・などと書かれている(例:※6の柔道整復師の今昔のところ参照)が、古い武道の書物には「殺法」、「活法」などは出てこず、このような記述が書物に出てくるのは明治以降のことでありこれは誤記であるという説がある(※7参照)。
詳しいことは参考の※7を見てもらうとして、1894年(明治27年)東京神田区の弘文堂から守永兵治が出版した『日本柔術活法詳解』では、
日本の伝統武術である柔術に伝わる仮死者に対する蘇生法として「活法」を詳解しておるつもりであるが、第九章「結論」に至りて「生理解剖の学理実際に通熟したる者に非ずんば之を悟了(すっかり悟ること)する難しとす」とある。またこの活法を習得するにあたっては比較解剖学(コンペラティブアナトミー)を勉強しなければならないと説く。最早柔術ではない。また、第八章「殺法」に於いては「殺法又曰く當身之法」とある。・・・そうだ。
活法とは水難での溺者や、高所からの落下者が仮死状態に陥った際に施される蘇生法で、傷ついた者に対する治療や手当は医法が施され、活法は仮死者に対してのみ施された。すなわち、活法を治療法とすることには医学の範囲的に無理がある。仮死者を復活させた方法だから、復活法という意味で活法と称したとも考えられるという。また、武道書の中で「殺法」が出てくるのは、この当身術だけである。
1893年(明治26年)出版『天神眞楊流柔術極意教授図解』(吉田千春, 磯又右衛門 著※8)を見ると、
「背活法 死者の後に図の如くかまえ、両手にて肩を持ち我が膝節にて死者の背中を二三度うち、水を与えて大声にて呼ぶと同時に中をたたくと蘇生す不思議なり。」・・・とあり、これを読むと「活を入れる」というのは「を入れる」という言葉の方が本来である。
同時に「殺法」に対しての「活法」なのではなく、仮死者を復活させるための法である意味で「活法」と命名されたのがわかるという。
そもそも「活法」「殺法」という言葉は、古来日本には見受けられない言葉であり、武に対しての医という相関図ではなく、これを伝承した者の誤解であったと推察される。
明治以降の柔術書籍には、ほぼ「活法」に対して、当て身技の急所図解としての「殺法」 が記載され、二極的発想から生み出された現代語である事もわかった。「殺」という語は我が国民性が敬遠する語であり、古典では、殺す法をあえて「兵法」と呼んでいた。・・と結論付けている。

1882年(明治15年)、嘉納治五郎が講道館を設立すると、多くの柔術道場は講道館を目の敵にし、自分の道場の有効性や有能性を宣伝しなければならなくなった。ここに、柔術界の医学的伝承論における講道館設立以前と以降に違いが出ている。設立以前には「殺法」「活法」など無かったはずなのに、設立以降には出現するようになる。・・といっているが、それまでの、武芸者が柔術、柔道の道場を構えるようになって以降、道場生の怪我を治せる技術があることが道場主に必要な要素となっていたのだろう。
明治維新後の西洋万能の風潮の中、1881年(明治14年)の漢方医学廃止によってそれまでの接骨術が顧みられなくなった。これに対して1912年(明治45年)、柔道家・柔術家の職業として認められるよう柔術家(嘉納 治五郎と繋がりの深い天神真楊流の門人が中心)を中心に運動が起こり、1920年(大正9年)の内務省令によって「あんま術営業取締規則」を準用するという形ではあるが「柔道整復術」として公認された(※9参照)。その際の資格では、「柔道の教授をなす者」が打撲、捻挫、脱臼、骨折に対して柔道整復術を行えるとなっていた。つまり、この技術をもつ者は柔道整復師として認定され柔道家、柔術家の収入源となったのである。
1970年(昭和45年)「あんま、はり灸柔道整復師法」(法217号)から「柔道整復師法」として単独法となった。しかし、内容的には、一部罰則等に変更はあったものの、法217号から単純に柔道整復師を分離したのみであった。業務内容の法的規制は、1920年(大正9年)当時のものがそのままとなっているが、柔道家のための柔道整復術という面はだいぶ後退し、従来、学校に入学しようとする者に求められていた「柔道の相当の実力」は、「柔道の素養」となったようだ。
以降法改正により、現在「柔道整復」は、厚生労働省の業務独占資格となる国家資格のひとつとなっており、厚生労働省ではこれを、医業類似行為として扱っており、医療法に基づく医療行為ではないことには留意を要する。
今、「柔道整復術」は、骨・関節・筋・腱・靭帯などの原因によって発生する骨折・脱臼・捻挫・挫傷・打撲などの損傷に対し手術をしない「非観血的療法」という独特の手技によって整復や固定を行い人間の持つ自然治癒能力を最大限に発揮させる治療術。日本独自の治療技術とされているが、WHO(世界保健機構)の『伝統医療と相補・代替医療に関する報告』では、日本の伝統医療民間療法として柔道セラピーという名称のみ紹介されているが具体的な内容の記述はないようだ。
「柔道セラピー」を行う施設といえば今どんなところがあるのだろうか。
犬も歩けば棒に当たる」ではないが、今、町を歩けば、接骨院、整骨院、整体、整形外科などの施術所や診療所医院,などにぶち当たると言っていいほで乱立している。
昔からある あん摩マッサージ指圧師はり師灸(きゅう)師などの鍼灸院なども含めて、いったい正式には、どのような違いがあるのかよくわからない人も多いのではないだろうか。
少子・高齢化時代の今の日本の社会では、私の住んでいる町にも高齢者が溢れかえっているが、高齢者は、いろんな病を持っている。中でも、足腰の悪い人が非常に多く、家人なども週に何日かはリハビリに通っているが、どこも大盛況のようだ。

結論から言えば、接骨院も整骨院も同じで「柔道整復師」に基づく国家資格で按摩、マッサージ、指圧などの施術を行っているそうだ。
いわゆる骨を接ぐと書いて 「ほねつぎ」 の接骨院。柔道整復師の 「整」の字をとって整骨院を名乗っているようだ。厚生労働大臣認可の専門学校や大学で専門知識を身につけ、卒業時に財団法人 柔道整復研修試験財団(※10)が行う国家試験の受験資格が与えられ合格することによって、厚生省から「柔道整復師」の資格が与えられている。
では、整体院というのはどうなのだろう?
整体とは日本語では主に手技を用いた民間療法、代替医療を指し、日本語としては、大正時代に用いられるようになった用語で、アメリカで誕生したカイロプラクティックオステオパシー・スポンディロセラピー(スポンディロ、英:Spondylo=「脊髄」と、 セラピー英:therapy=「療術=療法=治療」※11 、※12 ;日本武道医学会のここ参照)などを日本古来の武術柔術>の「活法」(広義には、殺法に対して存在する法すべてを指す。狭義においては、柔術[古武術]の裏技として継承されてきた医術のことを指す(※13参照)や骨法などの流派に伝わる手技療法と組み合わせ、「整体」や「指圧」と名付けたのが始まりのようであり、現在の日本で俗に用いられる整体という用語は、手や足の力を用いてカイロプラクティック(脊椎指圧療法)に似た骨格の矯正(主に脊椎)を目的とした手技療法をさしているようだが、骨格を矯正し、筋肉や内臓など各部のバランスを整えて、本来の状態に戻すことを目的とした手技療法をさして使われることも多いようだ。これを、「整体術」・「整体法」・「整体療法」 とも呼ばれている。
ただ、各団体の独自の理論や思想などを加えた整体などが存在するともいわれており、整体に定まったやり方はなく、人によって理解・解釈は異なるようだ。
「柔道整復師法」や、「あん摩マツサージ指圧師、はり師、きゆう師等に関する法律」に定められるものではないため、国家資格も不要であり、そのため、医療制度から見れば補完代替医療の一種であっても、保険適用外であるため、通常医療(一般的な病院で受けられる、いわゆる西洋医学を用いた医療)と共に病院で補助療法として用いられることはなく、法制度からは医業類似行為の一種とされているようだ。その代り、治療内容に制限はないようだ。それが、整体の他との違い(特徴)でもあり、短所でもあるようだ(詳しくは整体を参照)。
整体が、このように「整骨院」と同じように、日本古来の武術である柔術などを基本に発展してきたにもかかわらず、法的資格制度のある「柔道整復師」の柔道整復(接骨・整骨)とは区別されているのは統一基準のなさや組織力の弱さというべきか・・・。
それに対して、昔からある、あん摩マッサージ指圧師、はり師、きゅう師などは、彼らの資質を向上し、もって医療及び公衆衛生の普及向上を図ることを目的とする法律「あん摩マツサージ指圧師、はり師、きゆう師等に関する法律」(昭和22年12月20日法律第217号、通称:あはき法)に基づく国家資格をもって行っている。
また整形外科」は肢体の機能障害をおもな対象として,その病理診断,予防,治療法を研究する外科学の一分科、つまり、正式な「医師」である。
臨床医学としては,骨,関節,筋肉,靭帯粘液包筋膜,神経,血管,皮膚などの組織の疾患,たとえば,骨や関節の炎症,腫瘍先天性奇形後天性の変形などの予防や治療,リハビリテーションなどを行っている。
医師と柔道整復師は全く違う。整形外科はレントゲン検査、手術、投薬を行うことができるが、柔道整復師にはこれらは出来ない。には使用の仕方によっては副作用があるし、レントゲンは放射線なので、生物にとって有害であり、浴びた放射線の線量に応じて何らかの放射線障害内科もあるので、患者を総合的に管理してくれているので、町では一番人気があり、家人もずっと、ここで診てもらっている。
その代り、ここは、毎日のように来ているお年寄りのサロン的存在になっており、朝早くから出かけても家に帰ってくるのは昼すぎてからである。15分ほどのリハビリは後期高齢者なら100円なので、年中休日の高齢者には気持ちもいいし暇つぶしにもなる良いサロンには違いないだろう。私もパソコンのやりすぎなどで首が吊ってしようがないのでしてもらったことがあるが、ウオーターベッドや首の牽引器など本当に気持ちが良い。100円でしてくれるのだから今でも毎日でも行きたいのだが、私はりサロン的雰囲気が嫌いなので行っていない。もし、空いているところがあれば行きたいものだ。しかし、こんな気持ちがいいというだけで行かれると健康保険料はパンクしてしまうだろうね~。腰が痛いとか、首がこるとか背中が痛いとかいうことは、本人がそう申告すれば、そうじゃない、痛いはずがない・・などという人はほとんどいないだろうから、だれでも、やってもらえることになる。
戦後、わが国の平均寿命は著しく伸長し、2001年には世界第1位の水準にる(台湾を独立国とすれば台湾に次いで2位となるが・・・※14、※15参照)。それに伴い超高齢化社会の到来により、今後増え続ける高齢者の中で介護が必要な人を社会全体で支えるため、2000年4月より介護保険制度が実施されている。その中で高齢者が日常生活を営むのに必要な機能の低下を防止するための訓練を指導する機能訓練指導員や介護サービス計画の作成や介護支援サービスを担当する介護支援専門員(ケアマネージャー)の資格を取得し、地域医療の中核を担う柔道整復師も増えていると聞く。
柔道整復を業とする職業は、、最も今の時代のニーズに合った職業と言えるかもしれないが・・・。私の知人の息子も最近、独立して、このような診療院を開業したと聞いている。
それでは、今、どれくらい、これらの業種があるのだろうか・・・?
厚生労働省の「平成22年衛生行政報告例(就業医療関係者)結果の概況」(平成 23 年7月12 日)(ここ参照)を見ると、
(1)就業あん摩マッサージ指圧師等数[()内は平成12年の人員]は、
就業あん摩マッサージ指圧師(以下「あん摩マッサージ指圧師」という。)は104,663 人(96 788)となっている(108,14%増)。
就業はり師(以下「はり師」という。)は92,421人(71 551)となっている(129,17%増)。
就業きゅう師(以下「きゅう師」という。)は90,664 人(70 146)となっている(129,25%増)。
就業柔道整復師(以下「柔道整復師」という。)は50,428 人(30 830)となっている(163,57%増)。
(2) あん摩、マッサージ及び指圧等を行う施術所数は、
「あん摩、マッサージ及び指圧を行う施術所」は19,983 か所となっている。
「はり及びきゅうを行う施術所」は21,065 か所となっている。
「あん摩、マッサージ及び指圧、はり並びにきゅうを行う施術所」は36,251 か所となっている。
「その他の施術所」は2,693 か所となっている。
「柔道整復の施術所」は37,997 か所となっている。

上記のように、いずれも120%以上の像であるが、中でも、「柔道整復師」は163,57%増と激増している。「柔整法」は昭和45 年、「あはき法」に至っては昭和22 年の制定だから、これだけ治療院が乱立してしまうことを予測していただろうか。今でも、「柔整法」受験希望者は非常に多いようだが、過当競争から、いろいろな問題も起こってきそうな感じがするのだが・・・(※16、17など参照)。

冒頭画像は、こどもや赤ちゃんのイラストわんパグより借用。
参考:
※1:NPO法人 全国柔整鍼灸協会
http://www.jusei.gr.jp/znpo/
※2:青空文庫:作家別作品リスト:No.35(作家名: 太宰 治)
http://www.aozora.gr.jp/index_pages/person35.html
※3:名著・快言紹介:嘉納治五郎 私の障害と柔道
http://www.ishiryoku.co.jp/user/takuwa/takuwa01/ser09_p01.html
※4:嘉納治五郎の柔術修行(1) ─ 強さへの抑え難き願望
http://blog.goo.ne.jp/rekisisakka/e/14b8704ec7c15e047941e95399d1c33b
※5:柔道チャンネル
http://www.judo-ch.jp/
※6:解説!柔道整復師―柔道整復師クラブ(JPC)
http://www.kojimachi-shiraishi.com/jpc/jusei/jusei.html
※7:活法殺法(柔道整復術の源)の歴史と医術武術の歴史
http://www.teikyo-jc.ac.jp/jyoho/periodical_pdf/journal2014/journal2014_141-147.pdf#search='%E6%88%A6%E5%9B%BD%E6%99%82%E4%BB%A3+%E6%AD%A6%E9%81%93%E3%81%AE%E6%9B%B8%E7%89%A9+%E3%80%8C%E6%AE%BA%E6%B3%95%E3%80%8D%E3%80%81%E3%80%8C%E6%B4%BB%E6%B3%95'
※8:近代デジタルライブラリー - 天神真楊流柔術極意教授図解
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/860406/1
※9:柔道整復年 表
http://kaigo-net.com/htm/sinkyu/nenpyo.htm
※10:財団法人 柔道整復研修試験財団
http://www.zaijusei.com/
※11:現代語訳『脊髄反射的療法』(スポンディロセラピー)について
http://www.nihaku.com/contents/2016/11/post-30.php
※12 ;日本武道医学会
http://www.budoigaku.org/index.html
※13 :活法とは?活法とその歴史 - 活法研究会
http://kappolabo.jp/modules/content02/index.php?content_id=2
※14:世界の平均寿命ランキング(過去: 2001年) - 世界経済のネタ帳
http://ecodb.net/ranking/old/wb_le00in_2001.html
※15:拡がる「平均寿命」と「健康寿命」の差を考える - GE Reports Japan
http://gereports.jp/post/129273309414/healthy-life
※16:無資格者によるあん摩マッサージ指圧業等の防止についてー厚生労働省
http://www.mhlw.go.jp/topics/bukyoku/isei/i-anzen/hourei/061115-1.html
※17:悪質な不正請求 詐欺事件 柔道整復師
http://blogs.yahoo.co.jp/motorboy39/32390863.html
公益社団法人日本柔道整復師会
http://www.shadan-nissei.or.jp/

ブラジリアの首都がリオデジャネイロからブラジリアへ遷都した日

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上掲の画像はブラジリアの衛星写真(Wikipediaより)
ブラジル(正式には、ブラジル連邦共和国)の首都はどこ?」と聞かれて、すぐにおもいだせましたか。正解は、ブラジリア(ポルトガル語: Brasília)。
現在の首都ブラジリアは、連邦直轄地区(ブラジリアのためにブラジル中部のゴイアス州から分割された地区)で,州には属さない。ブラジル高原の中心部の標高約1,100mの位置に建設された人工都市(計画都市参照)である。
1956年1月、ジュセリーノ・クビチェック大統領によって遷都計画が実行に移され、わずか3年10ヶ月の歳月で。新首都ブラジリアが建設され。1960年の今日・4月21日に、ブラジル政府はリオデジャネイロからブラジリアへと遷都した。
しかし、最近のどこかのテレビのクイズ番組の回答者もそうだったのだが、「ブラジルの首都は?」と聞かれると、旧首都のリオデジャネイロサンパウロを思いだす人が多いのではないだろうか。
ブラジルを代表するクラブとして知られているCRフラメンゴをはじめとしてCRヴァスコ・ダ・ガマフルミネンセボタフォゴなどのサッカークラブの本拠地として知られ、世界最大のサッカースタジアムで1950年、2014年のFIFAワールドカップの主会場となったエスタジオ・ド・マラカナンがあるリオデジャネイロは、今年・2016年夏季オリンピックの開催地にもなっているし、世界最大の見世物のひとつにもなっているリオのカーニバル謝肉祭)はあまりにも有名だ。
そして、都市周辺の美しい文化的景観は「リオデジャネイロ:山と海との間のカリオカの景観群」として、2012年に世界遺産リストに登録されている。
また、ブラジル南東部に位置するサンパウロ州の首府サンパウロは、都市別人口を見ても、人口約1190万で、第2位のリオデジャネイロ(約646万人)に比べて約1,84倍、連邦直轄区ブラジリア(人口約 285万)に対しては、4,18倍(2014年7月1日時点、※1参照)と、ブラジル最大かつ南半球でも最大のメガシティである。
そして、プライスウォーターハウスクーパース(略称:PwC)が公表した調査によると、サンパウロの2008年の都市GDPは3880億ドルであり、世界第10位(※2参照)、南米では第1位の新興経済都市であり、日本やアメリカ、スペインやドイツなどの世界中の大企業や金融機関などが古くから多数進出しており、パウリスタ通り近辺や新ビジネスエリアにはこれらの企業のオフィスが集中している。また ,サンパウロには、多くの観光名所もあるが、2015年、アメリカのシンクタンクが公表したビジネス・人材・文化・政治などを対象とした総合的な世界都市ランキングにおいて、世界38位の都市と評価されている。特にビジネス部門で高評価を得ており、同国では前主都であったリオデジャネイロを上回り第1位である。このようなことからブラジルの首都といえばこれらの都市が思い浮かぶのだろう。

「日本から見て地球の裏側に位置するブラジルは、南アメリカ大陸最大の面積を擁する国家であると同時にラテンアメリカ最大の領土、人口を擁する国家で、面積は世界第5位である(※3:世界の経済のネタ帳の面積ランキング参照)。
南北アメリカ大陸で唯一のポルトガル語圏の国であり、同時に世界最大のポルトガル語使用人口を擁する国でもある。ポルトガルによる植民地支配が厳格化する17世紀半頃までは、殆どの原住民は男女とも全裸に首飾り等の装飾品を付けた状態で生活していたという。

国号のブラジルは、樹木のパウ・ブラジル(伯剌西爾木、学名Caesalpinia echinata)に由来する。元々この土地は、大航海時代に,コロンブスが1492年にヨーロッパ人として初めてアメリカ大陸に到達した後、1498年ポルトガルの第1回インド遠征隊を率いたバスコ・ダ・ガマによってインド航路が開かれた。
続いて、インド航路を目指していたポルトガル王マヌエル1世に顧問官として仕えたキリスト騎士団の一員であるペードロ・アルヴァレス・カブラルが率いる第2回インド遠征隊が、1500年4月22日,未知の陸地(現在のブラジル)に漂着した(漂着ではなく意図した航海の結果との見解もあるるようだが・・・)。
漂着した当初は、南米大陸の一部ではなく島だと思われたために当初、漂着(上陸)した周辺一帯をサンタクルス(十字架の意)島(Ilha de Santa Cruz)と名付けられたが、この名は後に大ベラクルス大陸(Terra de Vera Cruz)と改められる。このサンタクルスは現在のバイーア州(Bahia)バイーア州南の ポルト・セグロ (Porto Seguro、「安全な港」の意)といわれる。
当時まだ「サルとオウム」しかいなかったといわれるこの地は、1494年6月7日にスペインとポルトガルの間で結ばれたトルデシリャス条約に基づいてポルトガルに帰属することとされたものの、その後暫くは開発が進むことはなかった。
カブラルの艦隊に同行していた貿易商たちは、1503年にヨーロッパで需要のあった色染料「ブラジリン(en)」(英語版を日本語翻訳のものここ参照)を抽出できる「ブラジル木」(パウ・ブラジル(=ブラジル)語、: Pau-Brasil)を見つけて、この地を“ブラジルの地”と呼び、これが、今日の呼び名「ブラジル」の語源にもなったという。

1500年にカブラルがブラジルを「発見」してから、ブラジルの首都は三回変わっている。最初の首都が、サルバドール(Salvador)、二番目の首都が、リオデジャネイロであり、三番目の首都が、現在のブラジリアである。
サルヴァドール(Salvador)は、ブラジル北東部の大西洋に面した「諸聖人の湾」を取り囲む半島に位置している港湾都市である。
サルヴァドールの正式名称は「サン・サウヴァドール(サルヴァドール)・ダ・バイーア・ジ(デ)・トードス・オス・サントス」で、「諸聖人の湾(バイーア)の、聖なる(San)救世主」という意味そうで、「諸聖人の日」(11月1日。古くは「万聖節(ばんせいせつ)」)に発見されたことから、そう名付けられたそうだ。サルヴァドール自体は,ポルトガル語で救世主(「神」)を意味している。
「諸聖人の湾」が,ブラジル探索を進めていたフィレンツェ人アメリゴ・ヴェスプッチによって、初めて発見されたのは、1502年だそうだ(※4:「ラテンアメリカの政治」ラテンアメリカ各国年表>ブラジル年表その1参照)が、その後、砂糖キビ栽培が始まって以降、先住民との抗争等も発生し、サルヴァドールが建設されるのは、ポルトガル王室が1549年に国王直属の総督が、直接ブラジルの植民地経営を担う総督制を導入し、初代ブラジル総督トメ・ヂ・ソウサ率いるポルトガル人入植者の到着を待たねばならなかった(※4の中の、ブラジル先住民の抵抗史を参照)。
ソウザは、先住民の反乱を鎮圧し、バイーアに総督府を設立。これが現在のサルヴァドール市である。
その後急速にブラジルの主要貿易港として発展し、砂糖産業と奴隷貿易の中心地であったポルトガル領ブラジルの最初の首都となった。
このサルヴァドールが首都となった理由は、当時ブラジルにおける植民都市の建設は,ブラジルの領土を分割(14ないし17とされている)し、砂糖生産を基礎とするカピタニア制(民間の力で開発する方式。)によりそれぞれを有力貴族へ依託し、防衛と開発に当たらせていたが、カピタニア制崩壊のあと、ポルトガル王室はカピタン(総督)制度を創設し、カピタン領ペルナンブーコやサンビセンチ(現在サンパウロの沿岸部にある市)のカピタニアの経営はそのまま尊重し、ほかのカピタニアの底上げをするため、両者の中間にあるサルヴァドールに第三の拠点を作ろうとしたのだろうという。
1763年、その当時新たな経済の中心地となったリオデジャネイロへと首都を移転して後も、大いに発展し、北米でアメリカ独立戦争が起こった1776年の段階では、新世界で最大の都市のひとつになっている。

リオデジャネイロ(葡: Rio de Janeiro)には1763年から1960年までの約200年間、ブラジルの首都が置かれていた。また、1808年にナポレオンに本国領土を奪われたポルトガル王室が遷都してからブラジルが独立するまではポルトガルの首都であった。また、中南米有数の貿易港でもあるためにブラジルの経済的な中心地でもあった。
リオデジャネイロのポルトガル語は「rio(川)」「de(の)」「janeiro(一月)」と三つの単語で構成されている。日本語に訳すと、「一月の川」という意味になる。
カブラルが、ブラジル本土に上陸し、ポルトガル領を宣言した後、インドに向け出発.その船団のうち一隻を本国報告のためリスボンに戻し.バウ・ブラジルから作られた染料が、ポルトガルに持ち帰られた。
そして翌年、ポルトガルがベラクルスに調査船を派遣。そして、ポルトガル人探検家が、グアナバラ湾(葡: Baía de Guanabara)に、到達したのが1502年1月1日のことである。グアナバラ湾は湾口が狭まっているため大きな川であると誤認し、発見した月に因みポルトガル語で「一月の川」と命名された。

上掲の画像は、1565年のリオデジャネイロの創設を描いた画(Wikipediaより)
それでは、サルバドールからリオに遷都した理由は何か?
ポルトガルによるブラジルの探索が進められている間、他のヨーロッパ諸国(フランス、オランダなど)もブラジルに興味を示し、沿岸部のいたるところで、領土の争奪戦が繰り広げられた。
リオでは、1555年、フランスが、先住民のタモイオ族たちと手を結び、ポルトガルの領土を侵略し始めた。フランスの副提督ニコラス・デュラン・デ・ ビルガニョン(Villegagnon)率いる船団がグアナバラ湾内のセルヒペ島(Ilha de Sergipe.現ビルガニョン島)に上陸し、フランス領「南極フランス」(Frank Antartida)を宣言。.島の切り立った断崖の上に砦を建設した。
ポルトガルは自陣の体勢を整えて、フランスを追放するには、拠点となる都市を設立し、整備する必要があった。
ポルトガル総督メン・デ・サー(Mem de Sa)らは1567年ついにこれを追い出し、18世紀までここ(海岸部)に小さなコミュニティをつくっていた。町の名は川(rio、実は湾)の名の転用である(リオデジャネイロ再建)。
17世紀までのリオは、砂糖の栽培と製糖工場がある小さな港町にすぎなかったが、これらの主な生産地はブラジル北東部であった。しかし18世紀前半に内陸のミナスジェライス周辺で金鉱が発見された。
この金の集散地は、当初は金鉱発見者であるバンデイランテスたちの基地であるサンパウロであったが、1725年にリオとを結ぶ新道が開通すると、距離的に近いリオがサンパウロに代わってミナスの金やダイアモンドの積出港となり、ブラジル植民地の交通と富の中心となった。
このためそれまで栄えていた北東部から南東部への重心の移動が生じ、1763年にはブラジル総督がサルヴァドール・ダ・バイーアからブラジル植民地の首府がリオに移されることとなった。また、1808年にナポレオンに本国領土を奪われたポルトガル王室が遷都してからブラジルが独立するまで、リオはポルトガルの首都でもあったのは余り知られていないのじゃないのだろうか。

そんな首都リオがなぜブラジリアに遷都したのだろうか?
現在のブラジルの首都、ブラジリアは1960年4月に当時の大統領クビシェッキにより建設された計画都市であるが、これより100年以上前、つまり、ブラジル独立の直前の1821年に、ブラジル独立の父と呼ばれるジョゼ・ボニファシオ(José Bonifácio)だという。
1808年にナポレオン軍がポルトガルに侵略したことで、ポルトガル王と王室はリオ・デ・ジャネイロに移り、そこに1821年まで留まっていた。王室が14年間にわたりブラジルに中央政府を置いたことは、結果的にブラジルの独立を早めることになった。1815年ナポレオン支配は終結したが国王ジョアン6世はリオ・デ・ジャネイロに残り続けていたが、国王は6年後の1821年にリスボンに帰還するが、ドン・ペドロ王子を総督摂政としてリオに残していた。
ジョゼ・ボニファシオはこの時、本国のリスボン議会に、首都移転の構想を書き送っており、さらに、ブラジル独立後、自らが宰相になってからも首都移転の構想を議会に諮った(この時新首都の名として「ブラジリア」をすでに提案していたともいう。ブラジリアというのは、「ブラジル」をラテン語読みした名前である。)が、残念ながら移転に至らなかったという(※5:「ブラジル余話」>ブラジル関連>ブラジル歴史>たった三年で作られた首都、ブラジリアの歴史参照)。
それは、彼がブラジルに存在した制憲議会での「奴隷制度廃止計画」の起草者となったが、民主主義の考え方を理由に彼のペドロとの関係は、相いれないものとなり、ついに彼は1823年官職を追われ、同年11月の議会の解散にさいし逮捕され、フランスへ追放されてしまったからだろう。
その後、1889年に、ブラジルでデオドロ・ダ・フォンセカ(Deodoro da Fonseca) 元帥により、ブラジルの軍部が蜂起し、皇帝ペドロ2世を退位させ、共和制を宣言し1891年の大統領選挙で初代大統領に当選すると、貴族制度の廃止などを盛り込んだ憲法が公布され、この憲法の中でそれまでの県(provincia)は新たに州(Estado)となり、正・副大統領の直接選挙、三権分立が定められ、国名はブラジル合衆国(ブラジルの国旗参照)と定められ、各州は独自の州憲法と州軍を保有し、ブラジルは中央集権的な帝制国家から、地方分権的な連邦共和制国家に移行した。そして、1946年までに、首都移転を実現しようという目標が据えられたが、軍が政治介入し、フォンセカは1891年に失脚したため、目標年から十数年遅れること1960年、ジュセリーノ・クビシェッキ政権の下、ついにブラジリアへの移転が実現することになった。
ミナスジェライス州知事として同州の工業化に成功し、その実績を背景に1956年、大統領に当選したクビシェッキは、「五年間の任期中に五十年分の発展を実現する」という「メッタス計画」(プラノ・デ・メッタス)を打ち出したが、31のメッタス(目標)からなるこの計画の最大の目玉が首都ブラジリアの建設であった。そして、ブラジリアは、ブラジル中西部の内陸の何もない場所に建設された。
しかし、そんなに急いで中西部の何もない場所に首都移転をした目的は何なのだろうか?
駐日ブラジル連邦共和国大使館経済部長へのインタビュー(平成22年6月14日※6参照)で、エドウアルド・ティシェイラ・ソウザ氏は以下のように答えている。
首都移転の最大の目的は、「ブラジルのアイデンティティを構築すること」でした。ブラジルは多民族から構成されており、旧首都のリオデジャネイロはポルトガルの影響を非常に強く受けていたのです。そこでブラジルの多民族統一のため、国民国家を象徴するような一つの都市を造る必要があったのです。
2番目の目的は、それまでは沿岸部に人口が集中していて内陸部には人口がまばらでしたので、地理学的な戦略から、内陸部へも人口を分散させる必要性があったということです。
3番目の目的は内陸部の開発です。労働者を移住させ、土木工事を行ったり、あるいはセラード(低木草原地帯)の農業を振興する。セラードというのは「ブラジルのサバンナ」とも言われますけれども、非常に肥沃な土地ですが、農業を行うためには土地改良の必要がありました。この面では日本人移住者が多大な貢献をしています。・・・と。

そして、ブラジリアは、ブラジル中部・標高約1100mの未開の大地に、計画的に建設された。
計画都市地域は、1955年からのパイロットプラン(Pilot Plan。ブラジル人建築家ルシオ・コスタの設計による)というユートピア構想にもとづいて構築されたエリアで、キリスト教の多いブラジルの環境から、十字架にまず線がひかれ、空から見ると、パラノア人造湖のほとりに飛行機が羽根を広げた形をしており、飛行機の機首の部分・三権広場周辺には国会議事堂や行政庁舎、最高裁判所が並び、羽根の部分には高層住宅や各国の大使館が配置されている。三権広場を中心につくられた放射線状の街並みは今もいきる平安京の碁盤の目のようで日本の古代の都市計画の素晴しさを再認識させるものだった。

上掲の画像は、飛行機の主翼の形状を模したブラジリアの都市計画であるパイロットプラン(Wikipediaより)
国会議事堂やメトロポリタン大聖堂などの主要建造物は、いずれもモダニズムの流れを受けた未来的なデザインで作られている。これらの公共建築の主任建築家は、ニューヨーク市の国際連合本部ビルの設計も担当したブラジル人建築家オスカー・ニーマイヤーやルシオ・コスタの両建築家により 1958年から4 年足らずで建設され、1987年には世界遺産にも登録され人口は、285万2.372人(2014年7月現在)にもなっている。まずは以下でその街の景観を見られるとよい。
ブラジリア・都市の景観
モニュメンタル・アクシス通りのパノラマ写真(画像クリックで拡大)
また、以下参考の※7:「ブラジリア旅行|エクスペディア」では、ブラジルの名所が説明付きで見られるが、以下で、ブラジリア連邦直轄区の建造物をご覧ください。
ブラジリア連邦直轄区旅行ガイド

しかし、このブラジリアへの首都移転は成功したといえるだろうか?
どうもメリットよりデメリットの方が大きかったようだ。
この新首都の建設によって内陸部の開発が進んだが、その一方で、莫大な建設費はブラジルの国家財政に大きな負担となって残り、1970年代から1980年代にかけてブラジルを襲った経済不振と高インフレの大きな原因の一つともなり、通貨=クルゼイロ(現在はレアル)の対外的信用は極めて低かった。
特に、1986年から1994年までの8年間に合計4度のデノミによって、通貨価値は2兆7500億分の1に切り下がっており、かってのジンバブエのように毎日のように物価が倍々ゲームで上昇していく「ハイパーインフレーション」が起こっていた(ジンバブエ・ドルは2009年4月12日をもって発行停止)(※3:「世界の経済のネタ帳」のブラジルのインフレ率の推移参照)。
ブラジル政府は、フランコ大統領のもとでカルドーゾ蔵相が1993年12月に実施した「レアルプラン」を発表し、ドルペッグ制の通貨レアルの導入を1994年7月に行いインフレを終息させたが・・・。
新首都を国土の中央に建設した結果、内陸部の経済振興はかなり進み、ブラジリア国際空港建設、物流拠点の整備、長距離バス路線の再整備などで内陸部経済発展と国内アクセス面でメリットが出ている反面、ブラジリアには水運手段がなく、国際線定期便の就航も少ない。サンパウロやリオデジャネイロ、マナウスなどの大都市とは距離がかなり離れており、大企業の本社機能の移転などはほとんどないようだ。
ブラジルの狙いは政治、行政という首都機能を移すことで企業もブラジリアに進出し産業の振興が進み、海岸部と内陸部の経済格差を縮小することだったのだが、河川が無い内陸部に建設されたため水運手段がなく、企業は物流経費がかかる内陸部を敬遠したのだろう、行政も実質的には大西洋沿岸部の大都市中心になっているという。さらに、ブラジリアは整然とした計画都市だが、市内の移動は自動車による移動を前提にしているために、実際の市民生活を送るには不便であるという。
しかも、国家プロジェクトとして緻密な計画が練られて開発されたブラジリア市とは対照的に、周囲の衛星都市は無秩序に発展し、ブラジリアが位置する連邦直轄区内は州境の幹線脇を中心に土地の不法占拠など半ばスラム化(ファヴェーラ参照)しているところもある(中でもリオデジャネイロ市のファヴェーラがもっとも有名だそうだ)ようであり、そうした衛星都市を都市圏とすることで成り立つブラジリアもその影響を免れておらず、一口に成功したとは言い難い状況だそうである。
ブラジルが、国を挙げてリオデジャネイロへの“2016年オリンピック”招致を図ったのは、今でも、リオデジャネイロはブラジルの顔で、ブラジルというと多くの人はリオデジャネイロをイメージする。そのため、リオを再活性化するという大きな計画がありその一環だと、カルドーゾ蔵相は、いっているが、現在、同国第36代大統領ジルマ・ルセフが2014年の再選を目指す大統領選で選挙に勝つために財政赤字を隠したなどとの批判が出ており、また、政府予算の不正執行の疑いが持たれて、ルセフ大統領に対する弾劾手続きが4月18日、同国議会下院で可決されたが、経済は停滞し、ジカ熱流行が終息の兆しを見せないなかで、リオ五輪の開催が迫っているが、まともに、開催できるのであろうか?暴動でも起こりそうで心配である。
ブラジル中央銀行が今年2月29日発表した2015年の財政収支赤字は6130億レアル(1509億9000万ドル)と過去最悪に達したとのこと。財政再建の取り組みの失敗や金利上昇が響き、2014年の水準から2倍近くになったそうだ。
財政赤字の対国内総生産(GDP)比率は10,3 4 %だった。2011 年半ばまでの12 カ月間の財政赤字の対GDP比に比べると約5 倍に膨らんでおり、ルセフ大統領が就任した11 年以降で赤字額がいかに増大したかを物語っているという(※8参照)。ジルマ・ルセフ政権になってからの財政状況などは、※9を、ブラジルの
財政収支の推移は参考※3:「世界の経済のネタ帳」のここを参照)。
ファヴェーラの人たちにとっては、オリンピックどころではないだろうな~。人によっては、ブラジルの財政危機が世界経済に大不況をもたらすだろうというが・・・。

参考:
※1:ブラジル、2014年の人口は2億276万8.562人に
http://megabrasil.jp/20140829_13358/
※2:新興市場都市経済 世界GDPランキングで急速に上昇 PwC報告書
http://www.pwc.com/jp/ja/tax/news/library/report/largest-city-economies-2009.html
※3:世界の経済のネタ帳
http://ecodb.net/
※4:ラテンアメリカの政治
http://www10.plala.or.jp/shosuzki/
※5:ブラジル余話
http://tabatashingo.com/top/
※6:首都ブラジリアの過去、現在、未来~首都移転50周年を迎えて - 国会等の移転ホームページ
http://www.mlit.go.jp/kokudokeikaku/iten/service/newsletter/i_02_70_2.html
※7:ブラジル旅行|エクスペディア
https://www.expedia.co.jp/Brazil.d23.Travel
※8:ブラジルの15年財政赤字は過去最悪、前年比ほぼ2倍| ロイター
http://jp.reuters.com/article/brazil-economy-fiscal-idJPKCN0VA15V
※9:「第二期ジルマ・ルセフ政権(ブラジル)への考察」(PDF) - 世界平和研究所
http://www.iips.org/research/data/note-toyoda20150413.pdf#search='%E3%83%AC%E3%82%A2%E3%83%AB%E8%A8%88%E7%94%BB'
ブラジル レアル・プラン3年後の課題と今後の展望
http://www.bizpoint.com.br/jp/reports/sakurai/sk05_98.htm
ブラジルのスラム
http://blog.livedoor.jp/wakanalivedoor/archives/50465259.html
ブラジルの歴史 
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%96%E3%83%A9%E3%82%B8%E3%83%AB%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2#.E6.B0.91.E6.94.BF.E7.A7.BB.E7.AE.A1.E4.BB.A5.E9.99.8D.EF.BC.881985.E5.B9.B4-.EF.BC.89

「昭和の日」その2完

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昭和の前半においては、このように、世界恐慌などの厳しい国際環境の中で、困難な状況に直面した日本は,結局、軍部が独走し、第二次世界大戦に突入。日本だけでも300万人を超える死者(第二次世界大戦の犠牲者参照)を出し、大都市を焼け野原にし、何もかもなくすなど大きな犠牲を払って戦争に終わりを告げた。
第二次世界大戦後においては,経済的には、国際環境にも恵まれ,国民の叡知と努力を生かして,戦後の復興から高度成長を達成し、昭和43年(1968年)には国民総生産(GNP。※7参照)が、当時の西ドイツを抜き第2位となり、石油危機,円高不況をも克服して,自由世界第二位の経済力を実現(名目GDP、名目GNI共に1位米国、2位中国、日本は3位・※7のここ及び※8参照)。
今や,豊かな所得・消費水準を享受するとともに,質量両面において,世界最高水準の工業国として世界経済の運営に重要な役割を担うまでに発展をとげいる。
その意味では、「昭和の時代」には明暗両極があり、この日を祝日とするには無理があるとの説があるのもわからぬではない気もする。。
戦時中家を守るためまた仕事もあり、一人神戸に残っていた父から、神戸に帰ってくるように言われ、徳島から帰ってきたときには、住んでいた家は、焼失し、苦労して駅近くに半焼した家を買い取り修理してそこを仕事場としていた。その家は、年寄りの大工の棟梁が女房と二人だけでが住んでいた家だけに、木造住宅だが大黒柱や、とても太い丸太を利用した丸太を多数使っており、非常に丈夫にできており、一部火災で焦げていたが大工が、もう田舎へ帰るというのでそれを買い取ったものである。もう駅近辺は、焼夷弾攻撃で焼け野原となっており、何とか焼け残った家が数十件残っていただけである。
戦後経済が成長したといっても、復興期に至るまでの戦後混乱期、つまり、戦争終結の昭和20年(1945年)~昭和25年(1950年)6月25日に勃発した朝鮮戦争の特需景気(※6の朝鮮特需参照)で経済復興の糸口を掴む頃、また言い換えれば、GHQに占領されていた時期(占領時代)までは、700万人にも及ぶ在外日本人の引揚者もあり、庶民は合法的に配給された食糧だけでは生活財に事欠き、生活が困難であり、焼け跡には闇市が立ち並んだ。
町には、物乞いする人や傷痍軍人GI(在日米軍人)を相手の「パンパン」と呼ばれる街娼が登場。悲しいことに、親を失った戦災孤児などは、喰うために、ガード下で靴磨きをしたり、かっぱらい(掻っ払い)を、してその日をしのいだ。
戦後、食糧難で飢えて餓死した人の数は戦死者よりも多かったといわれるが、何とかその日の食事は出来ても、おやつどころでない時代、「ギブ・ミー・チョコレート」(※9:「昭和毎日」のここ参照)が流行語になったのもこの時代である。当時の小さな子供が最初に覚えた英語がこの言葉であったのではないだろうか。
野坂昭如自身の戦争原体験を題材した短編小説『火垂るの墓』は、わが地元神戸市と西宮市近郊を舞台に、戦火の下、親を亡くした14歳の兄と4歳の妹が終戦前後の混乱の中を必死で生き抜こうとするが、その思いも叶わずに栄養失調で悲劇的な死を迎えていく姿を描いた物語である。
愛情と無情が交錯する中、蛍のように儚く消えた二つの命の悲しみと鎮魂を、独特の文体と世界観で表現したこの物語は、漫画や映画、ドラマにも取り上げられた。以下は、ドラマ版「火垂の墓」の映像をX JAPANの「Tears」にのせて編集している。結構良いものだよ。
YouTube火垂の墓
http://www.youtube.com/watch?v=HjfjSXmibtI&feature=related
この戦後の復興期、新憲法制定下で,大戦による経済困難からの脱却を図るため,政府は、「経済安定本部」設置(21年)による傾斜生産方式の実施、財閥解体農地改革といった民主化政策の推進、インフレ抑制のための緊縮財政(「ドッジ・ライン」)、360円レートの設定(昭和23年。※9:「昭和毎日」のここ参照)等相次ぐ政策を打ち出した。
こうした中で我が国経済は「朝鮮特需」もあり,戦前水準に向かって回復を続け、昭和31年(1956年)7月に発表された日本初の『経済白書』(※10)では「もはや戦後ではない」と明言するまでに復興した。
復興をとげた日本経済は,「国際収支の天井」(※11も参照)による引締め,景気後退をはさみながら,神武景気(昭和30年代前半),岩戸景気(昭和30年代半ば)、いざなぎ景気(昭和40年代前半)と平均10%以上の高度成長をとげた。
第1次池田勇人内閣の策定(昭和35年)した「所得倍増計画」の下で,「投資が投資を呼ぶ」設備投資ブームと三種の神器(洗濯機,テレビ,冷蔵庫)から3C(乗用車,カラーテレビ,クーラー)へという消費ブームがこれを支えた。
この間,「IMF8条国」(ここ参照)への移行(39年)など,開放経済体制の整備が行われるとともに,昭和40年代に入ると次第に国際収支の黒字が定着していった。
よく「昭和はよかった」・・と回顧されることがある。その場合思い起こされているのは、この昭和30年代のことではないだろうか。
戦後の復興が進み、街は活気を取り戻し、日本の人々の暮らしも戦前、戦後に比べれば大分豊かになった。まだ残業も多く、有給どころか休日の休みさえもなかなか取得出来なかった働き蜂サラリーマンもインフレと所得倍増計画の中で、給料も上がり、気分もよくなり、クレージーキャッツ植木等が歌い大ヒットした「スーダラ節」やそれに続く歌を「サラリーマンは気楽な稼業ときたもんだ・・」(「ドント節」以下参照)と居酒屋などで、陽気に歌いだしたのも昭和36・7年ごろのことである。
ハナ肇とクレイジーキャッツ ドント節 歌詞

平成17年(2005年)に上映され大ヒットした昭和30年代を舞台にした映画『ALWAYS 三丁目の夕日』や、大好評のため2年後の平成19 年(2007年)にも公開された『ALWAYS 続・三丁目の夕日』などを見ていると、あの頃は今のように便利な世の中ではなかったが、そこに暮らす人々が生活を共有するようなところがあって非常に心豊かに暮らしている。それが若い人にも感動できたからこそ、昭和が見直され、それ以後、全国各地で昭和の町づくりななども盛んになっていったように思う。豊後高田市の「昭和の町」や「昭和」の雰囲気が漂う東京都青梅市などが評判を呼ぶようになったのだろう。

当時集団就職で地方の多くの若者が、東京へ出てきてたが、私自身も、この時代、大好きな歌手フランク永井の「有楽町で逢いましょう」の歌に誘われてという訳でもないが、大阪の商社を辞めて、当時あこがれであった東京で急成長していた会社へと転職し、花の銀座や、ちょっと渋い街渋谷、その当時何か大阪の下町通天閣周辺や新世界と同じような雰囲気のあった新宿で大いに青春を堪能していた。
いわば、生活が豊かになることが幸せになることだと信じられた時代。すべてが幸せだったわけではないにしても、人々は未来に希望が持てた。頑張ることで報われた最後の時代と言えるかもしれない。
今振り返って見ると、まだまだ貧しく、街も清潔とは言えず、暮らしは依然として不便なままだったが、それでも、昭和30年代を生きた私を含め多くの人達が「あの時代は良い時代だ」と懐かしく振り返るのは、あの暗くてひもじくて辛い戦中・戦後の長い時期を必死に耐え、何とか生き抜いてきた人間が、やっと、その苦しいことや辛かったことも忘れかけ、明日への希望を見出せるようになってきてからこその感慨に違いないような気がする。
戦中、戦後の辛い時代を知らない、戦後生まれの豊かな世の中に生まれてきた世代の人たちにとっては、つまらぬ時代であったかもしれない。私たちの年代のものとは違って、ただ、当時のものや街並みにレトロノスタルジーを感じさせているだけではないだろうか。
今の時代とは違って、まだまだ、男らしい男が男であり、女らしい女が女であった時代、私たちが感じる昭和の男や女は、もう、古臭い男や女になってしまっている。
昭和30年代が過ぎ40年代に入ると、必ずしも夢や希望だけで生きていける時代ではなくなったようだ。自由主義の進化は、当然に強いものが弱いものを駆逐し2極分化してゆく。
私が会社へ入った時代などは、年功序列終身雇用の時代でもあり、私たちは先輩や年配者のいうことをよく聞き、それに従って行動してきものだが、何時の間にか、新入社員など若い人からは、そんな考えは古い、これからは「能力主義」だと言って笑われたのを思い出す。
昨日があって今日があり、そして明日が来る。原因がなくて結果はない。すべての今は過去のなせる業である。よくなったこともあれば悪くなったこともある。昭和の時代の何が良くて何が悪かったのか・・・,振り返ってみるのもよいだろう。
もし、昭和30年代のことにだけ興味があるのなら、YouTubeに沢山動画がある。以下参照。
昭和30年の動画ーYAHOO!

「昭和の日」その1へ戻る

参考
※7:世界ランキングー経済と産業についてのランキング
http://top10.sakura.ne.jp/listp14.html#rank1
※8:今なぜ「GDP」ではなく「GNI」が日本経済にとって重要なのか?
http://diamond.jp/articles/-/38153
※9:昭和毎日
http://showa.mainichi.jp/
※10:経済白書 昭和31年度-経済企画庁編
https://www.komazawa-u.ac.jp/~kobamasa/lecture/japaneco/innovat/ecwhpp_inv.htm
※11:国際収支の天井とは? | 証券取引用語集 - 投資用語集
http://www.glossary.jp/sec/economy/balance-of-payments-constraint.php
宮内庁:主要祭儀一覧
http://www.kunaicho.go.jp/about/gokomu/kyuchu/saishi/saishi01.html
Global Note(グローバルノート )
http://www.globalnote.jp/
日本の歴史 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2#.E6.98.AD.E5.92.8C.E6.99.82.E4.BB.A3



「昭和の日」その1

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熊本・大分地震(※1)で被災された皆さまに対して、心からお見舞い申し上げます。
私の地元神戸を中心に発生した20年前の阪神・淡路大震災と同じクラスの大規模地震、日が経つにつれてその被害状況が明らかになっていますが、今回の地震は、何時までも大きな揺れが継続して発生しており、住民の方は本当に不安な毎日をお過ごしのことでしょう。ただただ、一日も早い復興をお祈りするばかりです。

いつもこのブログを書く時、参考にしているのが日本記念日協会(※2)登録の記念日であるが、同協会に登録されている今日・4月29日の認定記念日には、「豊後高田昭和の町の日」(大分県豊後高田市が制定)や 「歯肉ケアの日」(花王株式会社が制定)、 「歯肉炎予防デー」(花王株式会社が制定) 、「Piknikの日」(森永乳業株式会社が制定)、 「クレープの日 」(株式会社モンテールが制定)、 「キン肉マンの日」(集英社が制定)、「畳の日」(全国畳産業振興会が制定)、 「羊肉の日」(ジンギスカン食普及拡大促進協議会が制定)が登録されており、その他の記念日として、「昭和の日」が登録されていた。
この認定記念日の「Piknikの日」(ここ参照)や,「クレープの日 」(ここ参照)、「畳の日」(ここ参照), 「羊肉の日」(ここ参照)は、すでにこのブログ「今日のことあれこれと・・・」で、取り上げたし、 「歯肉ケアの日」や「歯肉炎予防デー」に代わりに、似たような記念日としては「歯の日」「歯ブラシの交換日」(毎月8日. サンスターが制定。ここ参照)や、虫歯予防デー (6月4日、日本歯科医師会や厚生労働省が設定していたものを日本記念日協会が再設定。ここ参照)で取り上げたことがある[()内のこことあるのは当ブログで取り上げたページ]。あとは、「キン肉マンの日」と「豊後高田昭和の町の日」だけがまだ取り上げていない。
「豊後高田昭和の町の日」は、大分県豊後高田市が制定したもの。
同市が2001年から商業と観光の振興のために、商工会議所、商店街とともに進めてきた昭和30 年代をテーマとした「豊後高田昭和の町」をさらに多くの人に知ってもらうのが目的だそうで、日付は国民の祝日の「昭和の日」からだそうだ。
「豊後高田昭和の町」は、その懐かしい街並みや商品、人々の温かい対応などで全国から多くの観光客を集めているそうだ。
豊後高田 昭和の町 - 公式サイト
The豊後高田-昭和の町

ただ、今回の地震の風評被害などで大分地方の大した被害のない観光地も旅館予約な取り消しなどが相次いでいるところがあるとも聞く。困ったものですね~。
そのようなことからというわけではないが、今日は、日本の国民の祝日の一つである「昭和の日」をテーマーに書くことにしよう。
国民の祝日である「昭和の日」は、もともと昭和の時代には、帝国憲法時代の戦前・戦中では「天長節」、戦後の日本国憲法(新憲法)下の国民の祝日に関する法律(略称「祝日法」、昭和23年7月20日法律第178号)では「天皇誕生日」という祝日であった。
「祝日法」第2条によれば、天皇誕生日は、「天皇の誕生日を祝う」ことを趣旨としており、日付は昭和天皇の誕生日である4月29日があてられている。
それが、昭和64年(1989年)1月7日に昭和天皇が崩御され、今上天皇即位により、同年以降の4月29日はそれまでの天皇誕生日としては存続できなくなり、「祝日法」の天皇誕生日に係る項を改正する必要が生じた。
孝明天皇明治天皇大正天皇の場合は崩御日が先帝祭として 戦前は太政官布告年中祭日祝日ノ休暇日ヲ定ム」や勅令「休日ニ関スル件」により、法定の休日とされていたが、昭和天皇の場合は現行の「休日法」により崩御日が休日とならない(「休日法」施行と同時に前述の法は廃止)ため、当初から誕生日を活かして「昭和記念日」など昭和に因んだ新祝日として存続させる案が出ていたようだが、その案は見送られ、天皇誕生日は、今上天皇の誕生日である12月23日に改められることとなったが、同時に、同年(平成元年=1989年)以降の4月29日は「みどりの日」という名称の祝日に改めた上で祝日として存続させることとなった。
「みどりの日」の名前の由来は、各界識者をメンバーとする小渕恵三官房長官(当時)の私的諮問機関(皇位継承に伴う国民の祝日に関する法律改正に関する懇談会)において、「昭和天皇は植物に造詣が深く、自然をこよなく愛したことから『緑』にちなんだ名がふさわしい」という主旨の意見が多数を占めたからであるとされている(Wikipedia)。参議院での審議などは以下参考の※3:「参議院会議録情報 第162回国会 内閣委員会 第9号」参照。
「祝日法」第2条には、「自然にしたしむとともにその恩恵に感謝し、豊かな心をはぐくむ」ことを趣旨としている(「祝日法」条文※4参照)。
その後、平成12年(2000年)3月、自由民主党自由党公明党の連立与党が改正法案を参議院に提出。参議院は通過したものの、同年5月に内閣総理大臣森喜朗の「神の国発言」の影響で衆議院での採決が見送られた後、衆議院解散(神の国解散)により廃案となった。
平成14年(2002年)に自由民主党と保守新党が再提出。公明党・自由党が賛成、平成12年(2000年)の法案に反対した民主党も賛成に転じて、平成15年(2003年)7月に衆議院を通過した。参議院で継続審議に入ったが、衆議院の解散により審議未了のまま廃案となった。
平成16年(2004年)、自由民主党・公明党が3度目となる改正法案を提出、翌平成17年(2005年)4月の衆議院内閣委員会で自由民主党・公明党・民主党の賛成多数により可決。参議院での継続審議を経て、5月13日の参議院本会議で成立した。同改正法は平成19年(2007年)から施行され、同年以降の4月29日は「昭和の日」、従前の「みどりの日」はそれまで「国民の休日」であった5月4日に上書き的に移動した。なお、同改正法にはこの二つの祝日設置のほかにも付随する改正(振替休日や国民の休日の重複を避けるための条文の変更等)が盛り込まれている。
これらの経緯を見ていても、4月29日という日はゴールデンウィークの一角を構成する祝日を廃止することによる国民生活への影響も配慮されたようであるが、昭和天皇の誕生日をとりあえず「みどりの日」という名の祝日で存続させておいて、後に改めて「昭和の日」と名称を変え、何が何でも存続させたかったという執念のようなものが感じられる。
祝日法」第3条第3項に「その前日及び翌日が「国民の祝日」である日(「国民の祝日」でない日に限る。)は、休日とする。」とあり、これらの祝日に日曜日が当たる場合は休日が増えることになるのだが、残念ながら、今年は、4月29日の後の4月30日、5月1日(日曜)の後の5月2日も平日と、飛び石連休になっており、有給などで休める人は良いが、ちょっと残念な人も多いだろうね。

日本国憲法(新憲法)の時代になり、宗教政治は切り離さないといけないと決められれている(政教分離の原則参照)。
戦前は「天皇」はとして崇められており、その誕生日は「祝日」として扱われていた。しかし戦後、天皇は神ではなく「日本国民統合の象徴」(象徴天皇制)という新しい意味を持つようになった。その事を受け、天皇を神格化した行事では無く天皇の誕生日を純粋にお祝いし、国民と天皇との距離を縮めることを目的とした日として「天皇誕生日」が設けられた。
戦前までの天長節は、「天皇誕生日」と名をかえ「天皇の誕生日を祝う日」として今上天皇の誕生日12月23日に設定され、明治天皇の誕生日、旧暦(嘉永5年)の9月22日は新暦(1852年)の11月3日に、「自由と平和を愛し、文化をすすめる」日として、現在の「文化の日」として残されている。
この日は新憲法公布の日(1946年11月3日。因みに施行は翌1947年5月3日)にもあたり、前半はそのスローガンである「自由平和」をとり、後半の「文化をすすめる」は明治時代の近代化政策により、飛躍的に社会の生活・文化が発展したことをふまえている。新憲法の公布日をこの日に設定することには色々とGHQにも気を使わねばならなかったようだ(※5参照)。この日は、まさに明治と新生日本を記念する日ではある。そして、昭和天皇の誕生日は、亡くなられた後に現在の名称に改名され残されている。
ただ、なぜか、昭和天皇の父君である大正天皇の天長節由来の休日(8月31日か8月は酷暑のため10月31日にずらして実施されたことあり)が現在祝日として残っていない。
大正天皇は、明治45年/大正元年(1912年)践祚後1915年(大正4年)に即位の礼を行っているが、明治天皇と異なり政治的な判断が不得手でこの面の力が無かったたようであり、また、生まれて以降病弱であったため大正6年(1917年)頃から、公務や心労が病の悪化に輪をかけ、公務を休むことが多くなり、大正10年(1921年)末には、当時二十歳であった皇太子裕仁親王(昭和天皇)が摂政となり、それ以降公務は、ほとんど皇太子が行なっていたという事実がある。
この頃、第一次世界大戦(1914年~1918年)末期の1917年(大正6年)ロシア革命(二月革命や十月革命)や1918年(大正7年)のドイツ革命(11月革命とも言う)などによって次々と帝政(帝国)は崩壊し、その影響はヨーロッパや日本にも及んでいた。そして、国内でも「大正デモクラシー」による労働運動・小作争議の高まりで「革命」の危機感があった時代でもある。天皇が病弱であることで、国内の統治秩序に問題が生じれば、天皇の権威を失墜させることにもなるので、元気で聡明な皇太子裕仁親王(昭和天皇)に公務をゆだねざるを得なかった・・・。この辺のことが原因になっているのかも知れないが、本当のところはよくわからない。
「祝日法」第一条には、「自由と平和を求めてやまない日本国民は、美しい風習を育てつつ、よりよき社会、より豊かな生活を築きあげるために、ここに国民こぞつて祝い、感謝し、又は記念する日を定め、これを「国民の祝日」と名づける。」としている。
「憲法」や「天皇」の話になると、戦後いろいろな意見も出てくるのだが、ここは、あまり難しく考えずに、「祝日法」の趣旨や意義を考える日にしてもよいのではないだろうか。
祝日法における「昭和の日」は「激動の日々を経て、復興を遂げた昭和の時代を顧み、国の将来に思いをいたす。」ことをその意義としている・・・。
それでは、1年に一度は廻ってくるこの日に、昭和天皇とともにあった昭和の時代を改めて見つめ直してみよう。
昭和の時代は、「昭和」の元号を冠した時代(1926年~1989年)を指すが、「昭和」は、日本の歴代元号の中で最も長く続いた元号であり、元年と64年は使用期間が共に7日間であるため実際の時間としては62年と14日にもなり、外国の元号を含めても最も長く続いた元号であり、歴史上60年以上続いた元号は日本の昭和(64年)と、康熙(61年)と乾隆(60年)しかない。
その特徴は,明治時代,大正時代のように,ある特定のイメージで語られる時代とはいえないだろう。それは、第2次世界大戦の敗北とその後の改革による変動があまりにも大きく,戦前と戦後(1945年=昭和20年以降)とは,まったく違った時代といってもよいほどの大きな変化を遂げているからである。
急速な技術進歩を続ける20世紀は、2度の世界大戦(第一次、第二次世界大戦)に象徴されるように、それまでの時代と異なり、国土そのものを破壊する大規模近代戦争を伴う動乱の時代でもあった。
日本は国内的には立憲君主制の体裁をとり、当初の藩閥政治を脱して、1920年代には政党内閣を構成するようになった。
しかし、政党政治がその一面で見せた腐敗は、相次ぐ不況(第一次世界大戦後の戦後恐慌昭和恐慌も参照)下で困窮する国民の不信と怒りを買い、大陸(満州)への進出(侵略と呼ばれている)による事態の打開と国家改造を志向する勢力の台頭を招く。
1920年代末から独立性を強めた軍部は、昭和5年(1930年)以降は政府の意思に反した軍事活動や戦闘を多数引き起こし(1931年の 柳条湖事件をきっかけに[ =満州事変が起こる])、相次ぐ軍事クーデター(1932年五・一五事件から1936年二・二六事件)により、ついには政党政治を葬り去った。
この事件の後、社会主義者だけでなく、自由主義者に 対する取り締まりも行われ、国家主義に反するとみられた思想や言論は、強く制限を受けるようになった(言論統制)。
昭和55年(1980年)に、高倉健吉永小百合の初共演により話題を呼んだ森谷司郎監督作品映画『動乱 』の背景は、昭和7年から昭和11年。経済恐慌と凶作が重なり苦しみを強いられる庶民たち、皇道派統制派に分裂する陸軍内部、昭和維新の声が高まる皇道派の青年将校たち、そして決起される二つのクーデター(昭和史の起点となった五・一五事件[犬養毅首相暗殺]から二・二六事件[クーデター未遂])までの風雲急を告げる動乱の中、時代の波に翻弄されながらも信念を貫き生きる寡黙な青年将校(高倉健演じる宮城啓介大尉{ モデルは実在の安藤輝三})と、その妻との愛と生きざまを、一大叙事詩として二部構成の雄大なスケールで綴った感動のドラマとして描かれている。


二・二六事件収束の後、昭和12年(1937年)3月末内閣総辞職した岡田内閣の後の林銑十郎内閣は、成立2か月後の5月31日には総辞職となり、6月4日に第一次近衛文麿内閣が成立する。
中国では西安事件で拉致された蒋介石周恩来の間で国共合作が成立して、抗日闘争が進めら(第二次国共合作)、同年盧溝橋で日中両軍が衝突し(盧溝橋事件)、停戦協定後も通州事件第二次上海事変などが続き、日中戦争支那事変)が始まった。
戦線の拡大に従って, 思想統制が導入され、国家総動員法も成立。
その後、昭和14年(1939年)1月に平沼騏一郎内閣が誕生後、2月に軍部は南支那海海南島を占領し、3月にはフィリピン西方海上の無人諸島の領有を宣言して新南群島(南沙諸島参照)と名付け領土として、台湾高雄市に編入される。
この軍事行動は英米を大きく刺激した。また6月には天津の英仏租界を封鎖した 。天津事件という(※6;「クリック 20世紀」のここ参照)。
その間満洲では5月には、ノモンハン事件などで衝突している。そして、7月になるとアメリカが日米通商航海条約を破棄したのでイギリスの対応も変わり日英会談も決裂した(日英関係)。
ここから日本による米英敵視が顕在化した。そして、 昭和16年(1941年)イギリスからも日英通商航海条約を破棄され、日本国内では「ABCD包囲網による経済封鎖」への対抗として開戦論が高まり、12月8日、太平洋戦争が勃発すると、東條内閣で参戦が閣議で決定され今でいう第二次世界大戦へ突入した。
結果的に、昭和20年(1945年)硫黄島の戦いに敗れ、硫黄島が陥落。 その前年から、アメリカ陸軍航空隊のボーイング B-29爆撃機による日本本土空襲が本格化し,、低高度による夜間無差別爆撃焼夷弾攻撃が行われるようになり、東京、大阪、名古屋、横浜、そしてわが地元神戸神戸大空襲参照)の百万都市の他、仙台、福岡、岡山、富山、徳島、熊本、佐世保など、全国の中小各都市も空襲にさらされる事になった。
それでも一億総玉砕を掲げた東條内閣は戦争をやめようとはせず、8月6日に広島市への原子爆弾投下、8月9日には長崎市への原子爆弾投下により、何十万人もの死傷者を出して、やっと、8月14日の昭和天皇臨席の御前会議で、ポツダム宣言受諾を承認。
この決定は8月15日正午に、昭和天皇自らの日本放送協会のラジオ放送(いわゆる玉音放送)により内地・外地の国民に伝えられ,やっと終戦にこぎつけたのである。,
私は、当時神戸に住んでいられなくなったので、父型の親戚のある高砂市疎開し、そこで幼稚園に入ったが、その高砂も軍事工場のある工業都市だったので攻撃が激しくなり危険になった為、今度は母方の実家徳島へ疎開し、そこで小学校に入り、終戦を迎え、誰もが、玉音放送を聞きながら泣いていたのを覚えているが、まだ、小学校の私などには 、酷い戦争が終わってやっと、暗い毎日から解放され嬉しいはずなのに、皆が泣いているのを、その時は、奇妙にさえ感じていたのを覚えている。


昭和の日」その2へ続く


冒頭の画像は旭日旗を持つ、迪宮裕仁親王
参考
※1:平成28年(2016年)熊本地震の関連情報 - 気象庁
http://www.jma.go.jp/jma/menu/h28_kumamoto_jishin_menu.html
※2:日本記念日協会
http://www.kinenbi.gr.jp/
※3:参議院会議録情報 第162回国会 内閣委員会 第9号
http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/sangiin/162/0058/16205120058009c.html
※4:国民の祝日に関する法律(昭和23年法律第178号)
http://www.geocities.jp/nakanolib/hou/hs23-178.htm
※5:新憲法の公布日をめぐる議論 | 日本国憲法の誕生 - 国立国会図書館
http://www.ndl.go.jp/constitution/shiryo/04/002_44shoshi.html
※6;クリック 20世紀
http://www.c20.jp/index.html

国際ノーダイエットデー

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今日・5月6日の記念日に「国際ノーダイエットデー」があった。
イギリスのフェミニストのメリー・エヴァンス・ヤングが提唱。世間のダイエットへのプレッシャー(pressure=圧力や精神的重圧)に対抗し、ダイエットによる健康への影響を訴える日だそうである( Wikipedia-5月6日参照)。

フェミニスト(英: Feminist)とは、社会における伝統的な女性概念による束縛からの解放を唱え、女権獲得・女権拡張・男女同権を目指すフェミニズムを主張する人の事であるが、メリー・エヴァンス・ヤングって人って、一体どんな人なのだろう?
良く知らないのでネットで検索してみると、ウィキペディア英語版の「International No Diet Day」があり、その「和訳」を見ると、直訳のためよく理解できないところも多く、正確でないかもしれないが、
「国際ノーダイエットデー」は英国のフェミニスト、メリー・エヴァンス・ヤング(Mary Evans Young)によって、1992年に作られ英国で祝われたのが最初のようだ。
彼女は『ダイエットブレイキング』(Diet Breaking)という本を書いており、それがイギリスでベストセラーになっているそうだ。肥えていたために学校でいじめられた経験を持つ彼女は、ダイエットのやり方を間違って自身も拒食症を経験したようだ。そんな彼女がダイエットのし過ぎで拒食症になる危険についてのことを書いているようだ。

上掲の画像はメリー・エヴァンス・ヤングとその著書『ダイエットブレイキング』(amazonより)
当時は特に記念日の日付までは決まっていなかったようだが、どうせなら国際的に、特に大きな記念日と重複しない方が良いということになり、5月6日としたが、この日は、偶然にもメリーの誕生日と一緒ということで決まったそうだ。

ダイエットとは、英語の diet の音訳であり、本来、「規定食」(一定の計画に従って調製する食事という意味)のことであり、美容健康保持のために、食事の質や量を制限することである。
先進国の人々は統計的に見ると栄養過多の傾向があり、肥満に陥ってしまう人が非常に多くなり、結果として diet を行う人の比率を見ると痩せるために行っている人が多いので、「diet」が "痩せるための規定食、という意味で使われている比率が多いようだ。そのことからか、日本では、「ダイエット=運動や食事制限によって痩せること」と解釈している人が多くいるようだが、これは誤解であって「運動や食事量を管理して、適正な体重にしていくこと」が「ダイエット」の本来の意味であり、ダイエットには、肥満対策以外に、健康のためにも行われることがある。
また、拒食症とは、正しくは「神経性無食欲症」(英: Anorexia nervosa ; AN)という病気のことであり、神経性やせ症とも呼ばれる、病的な痩せを呈する摂食障害(中枢性摂食異常症とも呼ばれる※1参照)であり、厚生労働省の難治性疾患(難病)の一つに指定されている精神疾患の一種である。無理な食事制限や絶食(食物摂取の不良または拒否)をくり返した結果、自分の意思とは関係なくカラダが食べ物を受けつけなくなり、極端な体重減少を特徴とするが、一般には拒食症ともよばれている(※2のこころの病気を知る>病名から知る >摂食障害 ,専門的な情報>摂食障害や※3参照)。
本来、摂食障害は大きく拒食症と、過食症に分類される。拒食と過食は相反するもののように捉えがちだが、拒食症から過食症に移行するケースが約60 - 70%みられたり、「極端なやせ願望」あるいは「肥満恐怖」などが共通し、病気のステージが異なるだけの同一疾患と考えられている。よって拒食症、過食症を区別する指標は、基本的には正常最低限体重を維持しているかどうかのみである。アメリカでは平均体重の85%以下が拒食症に分類されているが、日本では80%以下とされている((※3 の診断基準、)。
摂食障害患者は、特に10代~20代の女性が圧倒的に多い(全体の90%が女性)のが特徴だそうだが、これら若い女性のもつ重大な症状のひとつに、自分の身体像の捉え方に歪みがある場合が多いと考えられている。自分の身体像とは、自分がどういう体型をしているか、など自分自身の見た目に対する客観的なイメージのことであるが、自分の身体像を正確に認識できないことを「ボディーイメージの障害」というらしい。
特に若い女性などの場合、自分の体型がやせ細っているにもかかわらず、それを正確に認識できない。つまり、 細い体を見ても細いとは思えず、太く見え、「自分は太っている」と考えてしまうようである。「やせたい」という強い思いがあるため、本人はなかなか治療もしたがらないそうだ。
テレビなどに登場する最近の美人女優やモデルなど見ていても昔などから比べると、本当に細い人が多く、現代社会では痩身イコール女性美と考える社会風潮があるような気がする。
女性が綺麗になりたいと感じた時、まず最初に取り掛かることの多いのがダイエットではないか。そんな女性の永遠のテーマである「ダイエット」。
一口にダイエットと言っても、人にはそれぞれの体質があり、その人に応じたダイエットが必要なはずなのだが、何かそれを誤って、美しくなりいたい一心から「ボディーイメージの障害」に陥り、拒食症になる女性を増やす要因になっているという見方があるようだ。
では、そもそも日本のそんなダイエットの始まりいつごろからだろうか?
1920年代(大正末期から昭和初期頃)、世界経済の好調を背景に、海外では食生活、ダイエットにも影響を与え、スリムで若々しいことが理想とされはじめた。
日本でもこのころから、女性の社会進出は進み、仕事、娯楽などで外出する機会の増えた一般の女性に化粧の習慣が普及した。そして、フラッパーモダンガールなどと呼ばれる、新しい価値観を体現した女性が出現。同時に、これら日本女性の性的魅力も重要となり、スリムで若々しいことが理想となった。
1930年代、海外の女性の理想像は、グラマーといわれ、成熟した大人の魅力が理想とされていた。よりいっそうのダイエットと体型をつくるコルセットなどの下着が必要となり、ダイエットが、身体だけでなく、心・魂の問題であることが強調されるようにもなる。
この当時の日本女性は柳腰が美しいスタイルといわれてはいたが、大根足に短足、腰にクビレはなく、お尻は扁平という
安産型(※4参照)であり、コルセットなどまだまだ苦しくて多くの人は身につけられなかったであろう。
その後大戦で、女性も、おしゃれどころではなくなった。戦後もやっと落ち着き始めると、
1950年代、アメリカ人のような顔立ちに憧れる女性が増え、目を二重にする手術や鼻を高くする手術などの美容整形の需要、ダイエット・エステなどの需要も高まっていき、身体は「つくられるもの」となり、それが自己表現とされるようにもなった。
当時、男性はギリシア彫刻にみられるような肉体や筋肉を、女性はマリリン・モンローが時代のシンボルとなり、女らしいシルエットが理想とされた。
1960年代にはいると高度経済成長とともに物流が発展し、モノが溢れ、日本の暮らしは豊かになるが、一番の変化は町が明るくなったことである。
そして、服飾の華やかさも目立ってきた。街を歩く女性の健康一杯の足がミニスカートからのぞくようになったと思うといつのまにか、男子もオシャレになり、街から大学生の角帽が姿を消し黒い詰襟もなくなった。と、同時に肥満が問題となり始めた。
以前このブログ「ミニスカートの日」でも書いたことがあるが、ミニスカートは、1959年にイギリスのファッション・デザイナーナーマリー・クワントがロンドンの若者向けに売り出し、1965年にはパリコレで発表。その後、イギリス出身のモデルツイッギー(TWIGGY)が着用してブームを呼び起こし、60年代に入ってミニスカートは世界中に広がった。そして、ツイッギーはミニの女王と呼ばれるようになる。
日本でもクレージュのコレクションに触発されたアパレルメーカーがミニスカートを採り入れたが、一大ブームのきっかけとなったのは、同じくイギリスのスーパースタービートルズ(1966年)の来日に続く、翌・1967(昭和42)年10月18日の「ミニの女王」“ツィギー”、の来日であった。空港にはキュロット姿で現れたが、来日記者会見では最先端のひざ上30センチの超ミニ姿で現われ注目を集めた。

上掲の画像は、ミニスカートのツィッギー。10月19日東京永田町のホテルで。『朝日クロニクル週刊20世紀』1967年号より。
ファッションモデルとしては、168cmと背が低く、体重41キロ、バストはたったの79センチしかないかぼそい妖精のような女の子(デビューは15歳)で、しかもファニー・フェイス(funny「おかしな」+face。)で美貌というわけではないが,個性的で魅力ある顔立ちで、その名“ツィギー(TWIGGY、「小枝」という意味)”の通り小柄で華奢な体型に、ミニスカートやAラインの服は本当によく似合った。そして、ショートカットの彼女には中性的な魅力もあり「アンドロギュナス(両性体)」とも呼ばれていた。
ツイッギーの来日の影響を受け、ミニスカートが、中高年の女性も巻き込んで日本で爆発的に流行するのは翌1978(昭和53)年からだが、1967(昭和42)年には、すでに町の風俗として定着している。町を歩く女性はミニスカートばかり。ヒップボーンやAラインのミニスカートなど様々なデザインのミニスカートが、町を華やかにしていた。
このツィッギーの出現はそれまでの女性の身体意識をも大きく変えた。その1つは、BWH(スリーサイズ)のめりはりのあるカラダが女らしいというそれまでの「常識」を打ち破り、やせていることがおしゃれでかっこいいといった価値観を高めたこと。そして、もう1つは、従来の「成熟」した美しさよりも、「若さ=未成熟」こそがすばらしいことを認知させたことである。
そのスカート丈は年々短くなり、1966年には膝上10cm、1968年にはマイクロミニと呼ばれる膝上30cmのスカートが登場する。と、同時に肥満が問題となり始めた。こんなミニスカートに、大根足、短足、安産型の体系が気になるのは仕方がないだろう。
そのスカート丈は年々短くなり、1966年には膝上10cm、1968年にはマイクロミニと呼ばれる膝上30cmのスカートが登場する。と、同時に肥満が問題となり始めた。こんなミニスカートに、大根足,短足、安産型の体系が気になるのは仕方がないだろう、
神経性無食欲症(拒食症)が爆発的に増加したのは、1960年代から1970年代にかけてと言われている。つまり、ツイッギーが登場した頃からである。
「妖精」と謳われた華奢な体型の彼女は、ロンドンで行われた人気アンケートで年々順位を上げ、1976年には首位になっていたという。
社会の価値観がそれまでのグラマラスな女性像から、スリムな女性が理想像として迎えられるようになり、「やせることが女性にとって価値があること」になってしまった。摂食障害の人にとっては、この「価値があること」がキーワードなのだそうだ。
自分には何の取り柄も無いという自己不信を根底に抱える人は、その抑うつを防衛するために、人とは際立って違う、優れた、特別な自分であり続けなければならないそうだ。彼女らは幼い頃から常に「自分が自分以上でなければならない」という強迫観念に支配されているのだそうである。
やせを実現するには、食欲を抑え、自分に打ち克つ必要がある。やせる事に成功した時には、自分をコントロールすることが出来たという万能感(※5も参照)が得られる。幼い頃から課題に挑戦し、自分に打ち克って結果を得てきた彼女らは、結果を出す事で得られる賞賛と万能感により、中核にある自己不信(ここを参照)を救済するのだという(市橋秀夫「肥満恐怖の社会文化的影響」、『精神科治療学』第12巻第12号、1997年、 1405-1412頁)。
私などに病状の詳しいことはよくわからない。詳細は※1,2,3また「摂食障害#病理学」を参照されるとよい。
昨・2015(平成27年)年10月日、 NHKのクローズアップ現代で、「ニッポンの女性の“やせすぎ”!?」問題が取り上げられていた(※6の ここ参照)。
その中で、「今、日本人女性の8人に1人は “やせすぎ”ており、その割合は戦後最多を記録。中でも20代女性の平均摂取カロリーは食糧難だった終戦直後を下回る1628kcalで、世界的にも異例の低水準にあることが国の調査で判明した。なぜ飽食の時代に日本女性はやせるのか。やせ女性の全国実態調査に乗り出した民間団体によると、その背景には、生活スタイル変化の中での「長時間労働」や「孤食」があるという。さらに本来は男性市場をターゲットにしたメタボ予防商品が忙しい女性に売り上げを伸ばし、結果的に「やせ」を促進していることなどが見えてきた。・・・という(※7ではもっと詳しく書かれている)。
やせすぎの女性は若い時に蓄えておくべき「骨の貯金」がないため、年をとると骨が弱くなり、骨粗鬆症(こつそしょうしょう)になりやすい。そして、問題は女性本人の健康だけには終わらず、危険は次世代にも及び、やせて栄養状態の悪い母親から生まれた赤ちゃんは低出生体重児になる可能性も高くなるともいう。
今やダイエットに関する情報などはありすぎるほどある。テレビなどの報道だけでなく、インターネットでダイエットとを検索をすると様々なダイエット方法がヒットし、本屋に行けばダイエットに関するレシピ本もたくさん並んでいる。しかし、ダイエットと一口に言っても、人にはそれぞれの体質があり、医者などにも相談しながらどのようなダイエットの仕方をするかを間違えてはいけないだろう。
まずは「国際ノーダイエットデー」のこの日に、無理なダイエットをしていないかを考えてみるのもいいかもしれない。
肥満度を表す指標として国際的に用いられている体格指数にボディマス指数(Body Mass Index)、一般に「BMI 」と呼ばれているものがある。この指数は、[体重(kg)]÷[身長(m)の2乗]で求められている(身長はcmではなくmで計算)。
計算方法は世界共通だが、肥満の判定基準は国によって異なり、WHO(世界保健機構)の基準ではBMI:25以上を「過体重 (overweight)」、30以上を「肥満 (obese)」としており、欧米諸国は大体がこの基準と同様だそうであるが、日本肥満学会の定めた基準では、BMI:
18.5未満が「低体重(やせ)」、18.5以上25未満が「普通体重」、25以上が「肥満」としているようだ。
因みに、1967(昭和42)年10月に、来日した時のツイッギー(18歳)の当時のサイズは身長168cm、体重41kgだと言われている。
それでは彼女の痩せ度はどのくらいだったのだろうか。
計算結果は、BMI:14.5 kg/m2。肥満度-34.1 %。肥満の判定:低体重。
身長168cmの人の理想体重は、62.1 kgなければならなかったのだから、彼女は単に痩せ型というよりも、超痩せ型である。
一日摂取カロリーの目安は、超痩せ型の彼女は、生活活動度が軽労作でも、1863 kcalは必要、生活活動度が中等度なら、2174kcalは必要ということになるようだ。
それでは、皆さんも、以下で自分のBMIを計算してみてください。※2厚生労働省の摂食障害のサイン・症状のところでも計算できるがこちらの方が細かくできる。
肥満度の計算
そして、判定結果を「BMIと肥満の判定基準」と照らし合わせてみよう。普通の人(18~49歳)なら、18.5未満なら低体重(痩せ型)です。あなたは、どうでしたか?
「1日に必要なカロリー」については、あまり違いはないが、慎重に以下の日本医師会のものでやっって見た方が良いかも・・・。
「1日に必要なカロリー」 -日本医師会

ファッションの中心地フランスでは、2015年4月に、痩せすぎたモデルの雇用を禁止する法案が可決されており、この法案の可決に先立って、「過度の細さ」を扇動した者に対し、1年以下の禁錮刑と1万ユーロ(約130万円)以下の罰金を科す修正法案も可決されていたというのだが・・・(※8参照)。

日本では、1990年代には、ともさかりえ宮沢りえが拒食症による極端なやせ方をしていたことがあったし、鈴木明子(フィギュアスケート)、女優の釈由美子なども拒食・過食嘔吐体験をマスコミにカミングアウトしていた。
私はあまり、最近の若いタレントのことはよく知らないが、テレビなどでは、今でもやせ過ぎの人を見かけるのだが・・・。日本の対応は遅いなきがするが・・・。
いろいろ検索していると、面白いユーチューブが見つかった。『Perceptions of Perfections』と名付けられたプロジェクトが、女性の完璧なボディの認識を確認する実験を行ったそうだ。この実験では、世界18カ国のデザイナーが、ある女性の写真をフォトショップで「完璧な女性」に加工するというシンプルなものだが、さて、実験に使われたオリジナルの写真を、18カ国のデザイナーが加工した完璧な女性のボディとはどんなものだったと思いますか?以下をご覧あれ。


これを見て、日本女性は「ウソ!」と思う人が多いかもしれない。今でも、男性は痩せ型より、グラマラスな女性を好んでいるのではないかな?。
今の日本では女性だけでなく男性でも痩せ型が流行っているようだ。昔と比べてひょろひょろと細くて背は高くなったが、顔は小さい。
私など一世代前のものは、背が低くて顔も大きかった。そんな時代八頭身か理想とされた。八頭身というのは、頭(顔)が身長の1/8ということ。 身長160cmなら顔の長さが20cm。 それぐらいが1番バランスが、良いと言われた。 しかし、現代風の小顔なら9頭身かそれ以上になっている人も多いのでは?
もうそうなれば、 バランスが悪くて、かえって貧弱に見える。背が高くなったのなら、もう少し顔も大きければよいのだが・・。それにお尻(骨盤)が小さくなった。男性でも女性でも外人などはお尻が大きいので、バランスが取れているのだが、日本人の場合は尻すぼみで、足も細すぎ、股の間から向こうの景色が見える感じで、本当に貧弱に思える人が多いのは、7頭身の私だけのひがみだろうか?
男性は意外に、ぽっちゃり形が好きだと思って、あまり、細身にこだわらず、美味しいものを食べた方が得だと思うのだがね~。

参考:
※1:難病情報センター | 中枢性摂食異常症に関する調査研究
http://www.nanbyou.or.jp/entry/1552
※2摂食障害|病名から知る|こころの病気を知る|メンタルヘルス - 厚生労働省
http://www.mhlw.go.jp/kokoro/know/disease_eat.html
※3 :摂食障害ガイド
http://sesshoku.org/
※4:安産型ってどんな体型?おしりや骨盤が広いだけではなかった
http://ikejo.net/anzangata-taikei-4007
※5:万能感とは何か~「自由な自分」取りもどす心理学
http://www.kanshin.com/keyword/327571
※6:クローズアップ現代-NHK
http://www.nhk.or.jp/gendai/archives/201602/index.html
※7:日本女性「やせすぎ」で限界寸前 摂取カロリーは戦後の食糧難より低い
http://www.j-cast.com/healthcare/2015/10/31249249.html
※8:フランス、「痩せ過ぎ」モデルを禁止する法案可決-AFP
http://www.afpbb.com/articles/-/3044509
国民健康・栄養調査
http://www.mhlw.go.jp/bunya/kenkou/kenkou_eiyou_chousa.html
摂食障害の死亡率 - 井出草平の研究ノート
http://d.hatena.ne.jp/iDES/20060628/1151491169

ココモ(Kokomo)=カクテルの日

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ココモ(Kokomo)」という曲知っていますか。
アメリカのロックバンドザ・ビーチ・ボーイズが1988年に発表したシングル。厳密にはビーチ・ボーイズのシングルでなく、リトル・リチャードとのスプリット盤という形でリリースされたもの。
ロジャー・ドナルドソン監督、トム・クルーズ主演の映画『カクテル - KINENOTE参照)の主題歌で、バンドは「グッド・ヴァイブレーション」(1966年)以来22年ぶりにBillboard Hot 100での1位獲得を果たした。

今日(5月13日)は、「カクテルの日」で、アメリカの雑誌『バランス』の1806年5月13日号に、「カクテル」という名称が初めて登場したことによるそうだが、この記念日「カクテルの日」のことは依然このブログで書いたことがある。
ここ → 「カクテルの日

それなのに、また今日書いたのは、「ココモ(Kokomo)」という曲が非常にいい曲なのだが、前回はこのブログにまだ、YouTubeの貼り付け方を知らなかったから、すごく良い曲なのでここに、貼り付けて聞いてみたくてまた書いただけ。




「Kokomo」の歌詞はこちら→Kokomo

タイトルの「ココモ」(Kokomo)は、以前はココモ島と呼ばれていた現在のSandals Cayに当たるジャマイカのリゾート地のことらしい。
映画『カクテル』は題名の通り、バーテンダーである登場人物の手によって様々なカクテルが登場する。
田舎の青年、兵役あがりのブライアン(トム・クルーズ)が一攫千金を夢見てニューヨークにやってくるところから始まるこの物語の内容は、主人公の青年ブライアンが、就職活動が難航し、ふとしたきっかけから、一時しのぎのつもりでバーテンダーのアルバイトを始める。オーナーのダグラス(ブライアン・ブラウン)とコンビを組み、派手なバーテティングで評判を呼んで快調な滑り出しをみせるが、やがて二人は仲違いし、別々の人生を歩んでいく。…といったもの。
映画のカテゴリーとしては、青春群像劇といえるもので、野望、出世、金、挫折と成功、師弟関係、友情、恋愛、幸福感などのテーマが入り混じった物語構成で、主人公が人生のアップダウンを繰り返しながら、大切な愛を掴むまでが描かれているが、作品自体の興行成績は各国で良好であったそうだが、この作品、毎年アカデミー賞授賞式の前夜にその年の「最低」の映画を選んで表彰するゴールデンラズベリー賞の作品賞と脚本賞に選ばれており、単なるアイドル映画として扱われることが多いようだ。主演のトム・クルーズも自身の出演映画ワースト4に入れているそうで、この映画に関して多くを語りたがらないという。

しかし、映画の内容評価はどうでもよい。私も大好きな運動神経抜群のトム・クルーズ(当時まだ20代)とブライアン・ブラウのふたりがカクテルを作る時の、あのフレアバーテンディングをする場面は最高。このシーンを見て、ウットリさせられた女性も多かったのではないかな・・・。
このシーンがもう一度見たい。先に揚げた動画は「ココモ」(Kokomo)の演奏シーンだが、以下は、映画『カクテル』での恰好良いフレアバーテンディングシーンが堪能できる。これが見たくて、今日もこのブログを書いた次第。みなさんも一緒に楽しんでください。
!-- Cocktail - Tom Cruise (カクテル) -->

疑わしきは罰せず

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上掲の画像は「白鳥事件」犯行声明ともみられるアジビラ
画像クリックで拡大。刑事裁判は、犯罪を起こした疑いのある人が本当に犯罪を行ったのか(有罪か無罪か)。もし行ったとしたのならどの程度の刑罰を与えるのか(懲役や罰金など)などを決める裁判のことである。
「疑わしきは罰せず」(ラテン語:in dubio pro reo)は、ラテン語の直訳から「疑わしきは被告人の利益に」ともいう。
刑事訴訟(刑事訴訟法参照)において、被告人が有罪だということに「合理的な疑い」(※1)が残らないほどまでに、検察官証明しなければ、裁判所は被告人を有罪にしてはならないという原則を示す法諺(ほうげん)なのである。
その萌芽)は、すでにローマ法にみいだすことができるが、刑事訴訟においてこの原則が確立するのは、近代になって人権の尊重が強調されるようになってからであるらしい。被告人は「無罪の推定」(推定無罪参照)を受けるという原則と同じ意味をもつ。
つまり、「疑わしきは罰せず」の言葉は事実認定の過程を裁判官の側から表現したものであり、これを、当事者側から表現した言葉が「推定無罪」であり、ふたつの言葉は表裏一体をなしている。
フランス革命の際に発せられた人権宣言(人間と市民の権利の宣言)は、「すべての者は、犯罪者と宣告されるまでは、無罪と推定されるものである・・・」(9条。ここ参照)と規定し、世界人権宣言(1948年)も、「犯罪の訴追を受けた者は、・・・・法律に従って有罪の立証があるまでは、無罪と推定される権利を有する。」(第十一条の1。※2参照)として、この原則を明言している。
したがって、すべての者は、犯罪者と宣告されるまでは、無罪と推定されるものであるから、その逮捕が不可欠と判定されても、その身柄を確実にするため必要でないようなすべての強制処置は、法律により非常にきびしくに抑圧されなければならない(日本大百科全書(ニッポニカ)の解説)。
このように、刑事訴訟法では、訴える側に立証責任(証明責任)が有り、その証拠がなければ、裁判官は判決を下す事が出来ない。
その証明の程度としては、「合理的な疑いを差し挟まない程度まで」検察官が証明することが要求される。つまり、その証拠証明が、「合理的である」と裁判官が認められない場合、「疑わしきは罰せず」となるのである。
日本の場合、この「疑わしきは罰せず」は、戦後の「白鳥事件」の頃から、目立って来たのではないだろうか。この概念自体は以前から有っただろうが、「合理的である」証拠が重要とされたのは、近代になってから、1975(昭和50)年5月の「白鳥事件」の再審請求で、最高裁が「白鳥決定」で、「疑わしきは被告人の利益に」という原則を再審にも適用するとの判断を示して以降、冤罪の差し戻しが増えたのではないかと言われている。
しかし、皆さんはこの「白鳥事件」についてどのくらいのことをご存じですか?
「白鳥事件」とは、1952(昭和27)年1月21日に札幌市警本部警備課長白鳥一雄警部が射殺された事件である。・・・が、その詳細は、正直、私もよくわからない。
このような近代の歴史的なことについては、私はいつも参考にしている蔵書・朝日新聞出版の分冊百科『朝日クロニクル週刊20世紀』(ここ参照)や毎日新聞社版の『戦後50年史』などを手掛かりにし、これをもとに、ネットなどで調べながら書いているのだが、残念ながらこのどちらにも、詳しいことは何も書かれていない。
「白鳥事件」が発生した1952(昭和27)年の重大ニュー(国内)としては、以下のようなものがある(※4,※5参照)。
(1)4月28日、「サンフランシスコ講和条約」(日本国との平和条約)が発効し、GHQが廃止され、外国軍隊の占領から解放され主権が回復されたこと(ただし、沖縄皇居外苑で「血のメーデー事件」が発生したこと。デモ隊警察部隊とが衝突した騒乱事件であり、事件は一部の左翼団体暴力革命準備の実践の一環として行われたものと見られている(第13回国会本会議において木村篤太郎法務総裁より事件の概況、被害状況、その後の取締り及び背後関係に関する陳述。※3参照)。戦後の学生運動で初の死者を出した事件である。
(3 )4月9日の伊豆大島に旅客機(愛称「もく星号」)が墜落した航空事故「もく星号墜落事故」がある。戦後最初の旅客機として前年10がに就航した日本航空機が乗客乗員37名を載せて伊豆大島に衝突。一時は「全員救助」の情報も流れたが、24時間後原型をとどめない機体の残骸が発見された(乗客乗員全員が死亡)。当時の日本は敗戦による被占領下(日本国との平和条約が締結され占領が解かれたのは月末)[にあり、日本の空を日本人による自主的航空運営が認められていなかったが、アメリカ軍の協力も得られず事故の原因は不明のままである。
上掲の(1)~(3)については、『朝日クロニクル週刊20世紀』の1952年号にも詳しく書かれているが、「白鳥事件」のことについては、(2)5月1日の「血のメーデー事件」を取り上げた“地おメーデー、日本革命の夢はるか”と題して書かれている、2Pから5Pまでの記事の中に、「白鳥事件」としての記事といえるものはなく、冒頭の画像を掲載し、その添え書きとして、以下のように書かれているだけである。
白鳥事件
1月21日に札幌市警本部警備課長白鳥一雄(かずお)警部(36)が射殺されたる。白鳥警部が、労働運動や共産党対策にあたっていたことから、警察は共産党関係者の犯行と判断いた。一方、事件の3日後、犯行声明とも思える日共札幌委員会名義のアジビラ(冒頭の写真。画像クリックで拡大)が札幌市内でばらまかれた。共産党員が逮捕され、75年最高裁で有罪が確定したが、はっきりした証拠はなく、後味の悪い結末となった。97年、当時の容疑者の1人が中国で生存していることが分かった。
・・・と。そして、このページの記事の下の欄外に、白鳥事件の影響として、「最高裁判決では、最審請求について、新証拠などによって確定判決事実認定に合理的な疑いが生じた場合、「疑わしくは被告人の利益に」という刑事裁判の鉄則が適用される、との判断を示した。これが、死刑が確定していた免田財田川松山事件の再審につながった。」・・・・と。
そして、ほかにも詳しく書いたところがないかを他の年度でも調べたが、年表のところに、以下の3件が記載されていただけである。
1952(昭和27)年号、1月21日:札幌市で白鳥一雄警部が射殺される(白鳥事件)。55年8月、容疑者として共産党員村上国治ほか2人を起訴。
1963(昭和38)年号に、10月17日:最高裁が白鳥事件上告審で2審判決(村上国治に懲役20年)を支持して、

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サイト名お友達のホームページmidnight coffeeHN:MAKIKO。詩とフラッシュが素晴らしい。愛知県。Bd:5、10mizunomaiHN:ゆかり。東京の女性。趣味は映画。音楽綺麗なもの・花とか。
ai-love's Roomも同じゆかりさんのHPレモン記念日HN:きっちん。朗読劇をされている。埼玉市。主婦。港町神戸の魅力 HN:ひきた。男性。神戸市。趣味:アマチュア無線、ハイキングHideko'sWebsiteHN:hideko。北海道。趣味:社交ダンス、温泉。夢・・・!!HN:まみ。茨城県在住。夢多いおとめ。趣味:音楽。Bd:1,15白百合の小部屋HN:ゆりあ。浜松市。【趣味】演劇鑑賞、骨董など多趣味。リリピーの小部屋HN:リリピー。趣味:映画鑑賞。二人三脚HN:ゆう。富山市。男性。趣味:パソコン:デジカメ:旅行 。TOMIKOKOのHP神戸宝塚の人らしい。写真を撮るのが趣味のよう。故郷の便りHN:ようちゃん 大分の人。タイトル通り、故郷”大分”の 案内をしてます。新規サイト備考


    

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日本記念日協会(※1)の5月27日の記念日として登録されているものに「小松菜の日」があった。
由緒を見ると、大阪府堺市の小松菜を専作している有限会社しものファーム(※2)が制定したものだそうだ。
小松菜の消費拡大が目的で、日付は5と27で「小松菜」と読む語呂合わせから。
小松菜はカルシウムがほうれん草の5倍も含まれ、ビタミンも豊富など栄養面の評価の高い野菜として知られている。…とあり、いわば、今はやりのPR用の記念日ではある。
小松菜(コマツナ、学名Brassica rapa var. perviridis。※3のここも参照)はアブラナ科アブラナ属に属するツケナ(漬菜)類(野沢菜チンゲンサイなど非結球葉菜の総称)の一種ある。
ツケナ(漬菜)は、字のごとく、広義には漬物に用いるアブラナ科の葉菜類をさすが、農学上ではアブラナ(油菜)(Brassica campestris L.(n=10)のうち、結球種のハクサイ(※3のここ参照)、根を利用するカブ(※3のここ参照)、種子を油料とする在来ナタネ(※4参照)を除いた葉菜類の総称だそうである(ここ参照)。
最も歴史の古い非結球性菜類の一種といわれる小松菜の歴史は諸説あるようだが、中国から渡来したカブの一種「茎立菜(クク〔キ〕タチナ)」がその祖先であり、ソノカブの子孫が各地に広がり、一部は葉を食べる漬け菜となった。
万葉集東歌には、茎立(ククタチ)を詠んだ歌がみられる(※5:「たのしい万葉集」巻第十四参照)。
3406:「上つ毛野(上野)佐野の茎立ち(くくたち)折りはやし我(あ)れは待たむゑ来とし(今年)来ずとも」(作者: 不明)
上野国は、現在の群馬県。東山道の一国で、もと下野国(現在の栃木県)とともに毛野国と称したが,のち上下に分かれ,上毛野 (かみつけぬ。上毛とも略する) となった。
「茎立」とは(とう)(花をつける台のような茎)のたったアブラナ・カブなどのことで、両毛地区で古くから栽培されていた伝統野菜で、現在は栃木県佐野市付近で盛んなようだ。
秋に播種(はんしゅ)し、冬から春にかけて伸びてくる植物の若芽を掻き取って食用とする事から「かき菜」の名がついたと言われている。
この歌の意味は、※5:「たのしい万葉集」巻第十四のここにも書かれているが、古代の歌のこと、「茎立ち(ククタチ)」の「クク」には『古事記』・『日本書紀』の神産み神話に登場する木の神(木霊)「ククノチノカミ」とのかかわりもあるようだが、そのことは、以下参考※6を参照。
とにかく、アブラナ属の植物が延ばす花芽(茎葉の茎)は、古くから春先の野菜として重用されてきたようだ。
「茎立(ククタチ)」は、やがて各地の風土に合わせて改良され、それぞれの地に適した野菜となって定着してゆくが, そのひとつ江戸の小松村のあたりを流れる小松川(この川が江戸へつなるとして 「 江戸川 」とよばれるようになった。現:東京都江戸川区)付近で、それを品種改良して栽培されていた。
そのことは、江戸時代後期文化・文政期(1804年から1829年、化政文化の時期)に編まれた武蔵国の地誌『新編武蔵風土記稿』」には、「菜は東葛西領小松川辺の産を佳作とす。世に小松菜と称せり」とあり、小松菜が広く江戸っ子に賞味されていたことがわかるという。
また、享保4年(1719年)に、鷹狩りに来た将軍が鷹狩りの昼食時に何も料理するものがなくて、東・西小松川村あたりでとれた冬菜の入った餅のすまし汁をさしあげたところたいそう喜ばれ、そのときに地名から小松菜の名がつけられた、・・という話があるようだが、八代将軍吉宗が命名したといわれているが五代将軍綱吉という説もあるようだ(参考※7のこまつなくん豆知や地域情報を参照)。
江戸川区西小松川町にある浄土宗寺院「仲台院」(ここ参照)は鷹狩りに来た将軍が昼食をとったりする御膳所(休息所)という。江戸川区にある香取神社境内には、小松菜ゆかりの里という石碑もある(ここ参照)。
現在の江戸川区のほぼ全域は、江戸時代には<ahref= https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%9F%E6%88%B8%E5%B9%95%E5%BA%9C>幕府の御料所(※7のここ「葛西御厨」も参照)であり、江戸に暮らす人々、さらには徳川将軍家に対して、たいへん重要な役割を担っていた。その役割のひとつが“野菜の供給地”として、そして、もうひとつは“御鷹場”つまり、鷹狩を行うために設けられた“狩猟場”としてであった。「小松菜の命名伝説」には、そんな江戸川区の歴史が背景にあるようだ。

「さしこもる葎(むぐら)の友か冬菜売り」松尾芭蕉
この歌は、深川芭蕉庵近くの小松川辺りでとれた小松菜をうたったもので。「さし籠る葎(むぐら)」とは、の宿の意で、隠遁している者のすみかをいっており、ここでは芭蕉庵のことを言っているそうだ。
深川の草庵で冬籠りをしている。そんなところへ冬菜売りが菜を売りに来てくれると、旧友に会ったような気分になる。といった意味だそうだ(句の解釈などは参考※8:芭蕉dbのここ参照)。
この冬菜が小松菜だった。「冬菜」は小松菜の冬の季語にもなっている。
「摘みそへよ膳のむかひの鴬菜」 加舎白雄(かやしらお。江戸時代の俳人)
「小松菜」は古くから収穫期によって冬には「冬菜」・「雪菜」、初春に出回るまだ若くて小さい菜は「鴬(うぐいす)菜」とも呼ばれており、春の季語となっている。
今、江戸川区の小松菜収穫量は、都内では一位を誇っているようで、同地域の特産野菜ともなっている。
「小松菜」は、最近は愛知県や大阪府などでの生産も行われているようだが、国内生産量のうち関東の生産量が大半を占め、東京都も生産量トップ2 に入っている。ちなみに、※9:「野菜ナビ」の、2013年 野菜の作付面積ランキングを見ると、
1位、いも 7万9,700ヘクタールに対して小松菜作付面積6,450ヘクタールと21位にあり、じゃがいもの作付面積を100%として、8%を占めているようだ。
そして、※9:「野菜ナビ」の小松菜の収穫ランキングを見ると上位ベスト10に入っている埼玉県/東京都/茨城県/神奈川県/群馬県/千葉県の6県で51,8%のシェアを占めている。その詳細は以下のようになっている。
(出荷量ベース、単位トンの後ろの数字は全国シェア率)
1 位  埼玉県 14,600トン 16.03 %
2 位  東京都 7,810トン  8.57 %
3 位  茨城県 7,520トン  8.25 %
4 位  福岡県 7,460トン  8.19 %
5 位  神奈川県 6,120トン 6.72 %
6 位  群馬県 6,000トン  6.59 %
7 位  千葉県 5,120トン  5.62 %
8 位  大阪府 3,840トン  4.22 %
9 位  京都府 3,350トン  3.68 %
10 位 兵庫県 2,490トン  2.73 %
これは、農林水産省の2013年(2014年12月15日公表)の作物統計の都道府県別のこまつな出荷量(※10参照)から作られたものである。
大阪が上位8 位に食い込んでいるし、兵庫がギリギリベスト10に入っているのは~結構頑張っているな~。
小松菜の栽培は関東一円から全国へ広がり各地でいくつかの系統が誕生している。そして、地域や収穫時期で呼び名が異なり、新潟の「女池菜(めいけな)」や「大崎菜」(※11参照)、福島の「信夫菜(のぶな)」(※12参照)なども小松菜の仲間である。
大阪府内には伝統的に優れた栽培技術で生産された、泉州の「水なす」や「大阪ふき」のように全国にも誇れる農産物がたくさんあり「なにわ特産品」として選定されているが、平成18年(2006年)からは「大阪こまつな」が加えられ、大阪府内全域で栽培されるようになり、それがあったからかどうかは知らないが、上記のような小松菜のランキング入りを果たす結果となったようだ。
栄養面では、カロテンカルシウムを豊富に含んでおり、葉にやや丸みがあり、表は濃い緑色で裏はやや薄い緑色が特長だそうだ (冒頭の画像が「大阪こまつな」)。詳しくは※13:「阪府/なにわ特産品」参照。
ちなみに、「ツケナ」(漬菜)はアブラナ科の非結球葉菜の総称で、交雑が容易なため、いまでは国内で100近い品種が作られているようで、よく知られるところではノザワナ(野沢菜)、ミズナ(水菜)、ミブナ(壬生菜)などもその仲間である。
野菜には体によい栄養がたっぷり詰まっているというので、近年、生活習慣病予防に効果があると人気上昇中のようだが、それぞれの野菜に実際にどんな栄養素が含まれているかを知っていることは健康管理には役立つことだろう。ただ、栄養成分といっても色々種類が多いのでどんな野菜を取ればよいかなどは、人によって違ってくるだろうから難しい。

冒頭、日本記念日協会の今日の「小松菜の日」の設定理由に、「小松菜はカルシウムがほうれん草の5倍も含まれ、ビタミンも豊富など栄養面の評価の高い野菜として知られている」…のでとあったので、先ずは、「小松菜」が、「栄養成分トップ30」の野菜に入っっているかを※9:「野菜ナビ」でみるとその中には入っていない。
では個別にみるとどうなるか ?
ではカルシウムについてみてみよう。可食部100g中カルシウム含有量を同じく、※9:「野菜ナビ」でみると、主要野菜の栄養成分の1位は、「こまつな/ゆで」で、含量は 150 mg で、「ほうれんそう/ゆで」が8位で含量69 mgとなっており、1位:「こまつな/ゆで」の含量を100%とした割合は「ほうれんそう/ゆで」の含量は46%。となっている。確かに、小松菜の含量はホウレンソウより多いが、5倍はちょっとおオーバーすぎるのではないか。
そこで、※9:「野菜ナビ」の野菜図鑑で、コマツナの栄養と効能を見ると、
「ゆで:βカロテン当量(3100mcg)、ビタミンC(21mg)、ビタミンK(320mcg)、カルシウム(150mg)、鉄(2.1mg)、食物繊維総量(2.4g).とあった。
「期待される効能」としては、
「小松菜はβカロテンやビタミンCを豊富に含んでいます。βカロテンは体内で必要な分だけビタミンAに変換され、皮膚や粘膜を保護する作用があるといわれます。また抗酸化作用(生体内で、酸素が関与する有害な作用を抑制するはたらき。このはたらきをもつ物質を抗酸化物質という抗酸化物質参照)により老化やがん(悪性腫瘍参照)、風邪,などの予防効果もあるとされ、ビタミンCとの相乗効果で免疫力アップや美容効果も期待できます。
カルシウムも多く含まれているので、歯や骨の健康維持にもよいでしょう。さらには貧血予防に効果がある鉄分や、血圧の上昇を抑制する作用のあるカリウムも含まれています。中でもカルシウムや鉄分の含有量は、ほうれん草の約2倍です。・・とある。ここでは、ちゃんとホウレンソウの5倍ではなく2倍と正しく書かれている。
この内容を見ていると、確かに、女性や、我々のような年寄りには効果がありそうだね~。
そういえば、下のようなブログもあった。 
がん予防にはこれ! 3つの野菜が効果的 - アタナハクリニック意識して食べることにしようか。クックパッドにいろいろおいしそうな「小松菜レシピ」があったので、家人に見てもらっておこう。
【クックパッド】美味しすぎる!《小松菜レシピ》〈23選〉
冒頭の画像は、「大阪こまつな」※13:「大阪府/なにわ特産品」より借用。
参考:
※1:日本記念日協会
http://www.kinenbi.gr.jp/
※2:有限会社しものファームHP
http://www.sakai.zaq.ne.jp/shimonofarm/
※3:野菜図鑑-農畜産業振興機構
https://vegetable.alic.go.jp/panfu/zukanmokuji.html
※4:ナタネはどんな植物か 食農教育 2004年9月号 - 農文協
http://www.ruralnet.or.jp/syokunou/200409/09_natane.html
※5:たのしい万葉集
http://www6.airnet.ne.jp/manyo/main/home.html
※6:「茎立折りはやし」 菜の花供え「あなた」待つ : 地域 : 読売新聞
http://www.yomiuri.co.jp/local/gunma/feature/CO004071/20140209-OYT8T00010.html
※7:花と野菜の豆知識・カレンダー:江戸川区公式ホームページ
https://www.city.edogawa.tokyo.jp/san_jigyosya/nogyo_suisan/hana_calendar/index.html
※8:芭蕉db-芭蕉俳句全集:季題別順
http://www2.yamanashi-ken.ac.jp/~itoyo/basho/haikusyu/index_kidai.htm
※9:※野菜ナビ
http://www.yasainavi.com/
※10:農林水産省:作物統計 > 作況調査(野菜)
http://www.maff.go.jp/j/tokei/kouhyou/sakumotu/sakkyou_yasai/index.html
※11:とう菜 | 新潟・食品名産図鑑
http://nigata.japanfoods.net/specialty/touna/
※12:信夫菜 (しのぶな)|地方特産食材図鑑
http://g-foods.info/zukan/product/product_203.html
※13:大阪府/なにわ特産品
http://www.pref.osaka.lg.jp/nosei/naniwanonousanbutu/tokusanhin.html
食品成分データーベース-文部科学省
http://fooddb.mext.go.jp/search.html
旬の食材百科
http://foodslink.jp/syokuzaihyakka/index.htm

備中高松城の水攻

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天正10年6 月3日(西暦1582年6月22日)中国地方の雄毛利氏配下の清水宗治の守備する備中高松城を水攻め中の羽柴秀吉軍が、この日、毛利方に「本能寺の変」を知らせる使者を捕え、その一報を知る。織田信長の死を秘匿しつつ、翌4日毛利家と和睦し、城主清水宗治の切腹を見届けた秀吉は、明智光秀を討つため、中国大返し畿内に戻り、6月13日からの山崎の戦いで光秀を破り織田 信長の実質的な後継者の道を歩むことになる。
冒頭の図は、「赤松之城水責之図」(東京都立中央図書館所蔵)。ここクリックで拡大図が見れる。
これとは別に、和歌山市立博物館には、歌川国芳の門人一猛齋芳虎(歌川 芳虎の画号)の描いた「水攻防戦之図」もある。以下参照。
水攻防戦之図・赤松水攻之図 文化遺産オンライン
上図は、秀吉が本陣をはった石井山から水攻めの様子を眺めた構図をとっている。
芳虎は、錦絵「道外武者御代の若餅」では、徳川家康の天下取りを揶揄した落首「織田がつき 羽柴がこねし 天下餅 座して喰らふは 徳の川」(この狂歌は、天保~嘉永期に出回ったといわれている)に着想を得て、織田信長と明智光秀が搗き、豊臣秀吉がこねた餅を徳川家康が食うという絵を描き家康の天下取りを諷刺したとされ、手鎖50日の処罰を受けたという。画像はここ参照。芳虎の諷刺精神も国芳に倣うものであったようだ。
高松に到着した秀吉の陣は、当初、高松城の北東2.1㎞にある龍王山(現在の最上稲荷山妙教寺付近)に置かれたが、築堤を築く頃には高松城から南東800mのところにある石井山(岡山市北区立田)に移した。理由は、石井山の方が高松城が手に取るように見えるのと、足守川の増水で毛利勢がうかつに近づけないことで安全がある程度確保できたからと考えられている。参考※1:「岡山県古代吉備文化財センター」の以下参照。ここには、当時の「高松城水攻め陣営配置図」が詳しく描かれている。
備中高松城跡
自刃した清水宗治の首級は、この本陣に於いて、秀吉の首実検の後、手厚く葬られ、一基の五輪塔を建立されたといわれているが、その後、備中高松城本丸跡へ首塚の移築がなされたようだ。本丸跡には首塚と辞世の歌碑が建っている。
辞世の句
「浮世をば 今こそ渡れ 武士(もののふ)の 名を高松の 苔に残して」

戦国時代備中国高松(現・岡山県岡山市北区高松)に存在した高松城は、讃岐高松城と区別して備中高松城とも呼ばれる(※1のここまた※2のここ参照)。
築城時期はっきりしないが、備中松山城城主・三村氏の命により、備中守護代で三村氏の有力家臣でもあった石川氏が築いた城である。
戦国時代の備中は守護細川氏が衰退した後、国人領主が割拠する状態にあったが、なかでも台頭していたのは三村氏であった。
三村家親は、出雲尼子氏に代わって中国地方の覇者となった安芸の毛利氏に接近し勢力を備前美作に広げたものの、備前浦上氏傘下の宇喜多直家により家親が暗殺され、つづく明善寺合戦において三村氏は敗退、その勢力は衰えた。のち直家と結んだ毛利氏により三村氏は滅ぼされ(備中兵乱)、その傘下であった城主の多くは毛利氏を頼ったが、その一人が清水宗治であった。
清水宗治は。天正3年(1575年)の備中兵乱の際、三村氏譜代・石川氏の娘婿・重臣の立場にありながら主家を離れて毛利氏に加担したが、宗治が備中兵乱後に高松城の城主となった経緯は不詳であり、石川氏滅亡以前より宗治が城主であったともいわれているそうだ。

上掲は歌川国芳の高弟落合芳幾の錦絵『太平記英勇傳 清水長左衛門宗治』。以下でこの錦絵の全画像が見れる。 
浮世絵で見る戦国武将 ~太平記英勇伝~ (前半) - YouTube
浮世絵で見る戦国武将 ~太平記英勇伝~ (後半)- YouTube

15世紀末当時、備前国は赤松氏守護代として浦上氏が支配していた。清水宗治(長左衛門)は、父清水宗則の3人の子の一人(次男)で、天文6年( 1537年)に、備中国賀陽郡清水村(現在の岡山県総社市井手)で生まれたとされているようだ。
戦国時代初期の清水宗則(備後守)は備中国の国人・石川久式(左衛門尉)に従属していたという。
天正2年(1574年)備中の戦国大名三村家の重臣だった主家の石川家が毛利家により滅ぼされた際、清水家は石川家から離反して毛利家の小早川隆景に味方し、その功績により石川久式の出城だった備中高松城を預けられたという。
備中国国人清水氏は、赤松氏家臣団難波氏族(※4参照)の一族である。
当時、備前国は赤松氏の守護代として浦上氏が支配していたが、室町初期備前守護に任じられたこともある有力国人の松田氏が、文明15年 から16 年(1483-4年)に備前国で勃発した騒乱(守護赤松、浦上の福岡城〔※2のここ、また※3のここ参照〕を山名、松田の軍が攻めた)に一役をかい、赤松・浦上氏の備前支配を排除しようとした。この合戦は福岡合戦(※5参照)と呼ばれ、備前国における戦国時代への突入の契機と考えられている。こうして、浦上氏と松田氏は備前国内で互いに勢力を争うようになった。
戦国期の難波十郎兵衛行豊は、嘉吉の 乱で没落した赤松氏を再興した赤松政則の娘を娶り、赤松家中で重くもちいられていたようだ 。また浦上氏にも属したようで、鳥取荘内・居都荘内に所領を与えられており、行豊の孫宗綱は、備中国賀陽郡八田部領の清水城主となり、その子宗則は清水氏を称したという(※5参照)。この宗則の子が豊臣秀吉の水攻めで知られる高松城主清水長左衛門尉宗治その人なのである。
「高松城の水攻め」の図を一勇斎国芳(歌川 国芳)は「赤松之城水責之図」としている。「高松の城」をなぜ国芳は「赤松之城」としているのか?
色々調べたがよくわからないが、前述のように、「高松城」は、当時備前国を支配していた、赤松氏家臣団難波氏族の清水宗則が備後守として、管理していた城であったからであろうと推測している。

一方畿内においては、「天下布武」を掲げた尾張国の信長が他国侵攻の大義名分として足利将軍家嫡流の足利義昭を奉じて上洛を果たし、将軍、次いでは天皇(正親町天皇)の権威を利用して天下に号令。
反対勢力(信長包囲網)の一部を滅ぼすと、将軍義昭を京より追放して室町幕府を事実上滅ぼし、畿内を中心に強力な中央集権的政権(織田政権)を確立して天下人となり、本格的に天下統一事業を推し進めようとしていた。
このころ、武田信玄西上作戦の途上三河で病を発し死亡)を失った信長包囲網(反織田信長連合)は同年末には実質的に瓦解していた。
上杉家は養子の景勝景虎の間で家督争い、世に言う御館の乱が勃発。武田家北条家もまた、その跡目争いの後ろ盾となり、東国三国の矛先は、信長の方から逸(そ)れていった。
ここで信長の「天下布武」における最重要課題は、政治的・軍事的・経済的にも、目下の敵、西国石山本願寺中国(山陰・山陽)の雄・毛利の攻略にあった。
そこで、信長は、北陸柴田勝家に、東国は、織田信忠滝川一益に一任し、西国の石山本願寺は佐久間信盛に、丹波などの近畿地方明智光秀に一任。
そして、畿内をほぼ制圧した後、最大の敵となっていた西国の雄・毛利氏討伐のため、中国方面軍司令官に任命されたのが羽柴秀吉であった。
しかし、中国攻めの際、毛利氏攻めの先鋒を務めると信長に約していたはずの別所長治が、突如、秀吉に叛旗を翻し、播磨国三木城(兵庫県三木市)に籠城し徹底抗戦した。
これを2年近くに及ぶ兵糧攻めで「干し殺し」(三木合戦参照)にしたあと、秀吉は毛利の領土へ本格的に攻撃を開始する。
毛利と結んでいた因幡山名豊国の居城であった久松山鳥取城(久松山城ともいわれる)攻略に取り掛かるが、難攻不落の要塞であったため、三木城と同様の兵糧攻めを採用した。
このとき守備を指揮していたのは、支援要請を受けた毛利元就の次男吉川元春(毛利 元春)の一門で文武両道に優れた吉川経家であった。
経家は場内に米の備蓄がわずかしかないことに驚き、急いで周辺の農家から米を集めようとしたが、鳥取城を包囲する前に、秀吉は若狭から商船を因幡へと送り込み,米を高値で買い占めさせる一方で、河川や海からの毛利勢の兵糧搬入を阻止した。さらに、秀吉は城内にある兵糧を枯渇させるため、鳥取城を包囲する際、城下周辺の農村を襲い、村人たちを鳥取城内に追い立てた。鳥取城では逃げ込んできた農民たちへの食糧を支給せねばならず、米蔵はあっという間に底をつき、餓死者が続出した。この作戦により瞬く間に兵糧は尽き飢餓に陥った。 何週間か経つと城内の家畜、植物などは食い尽くされ、4か月も経つと餓死者が続出し人肉を食らう者まで現れたという。
これは、,三木城の「干し殺し」と言われる兵糧攻めでは2年近い歳月を要したため、もっと効率的に兵糧攻めを行うため、秀吉の参謀黒田官兵衛が考えた作戦だと言われている。
このときの兵糧攻めについて、信長公記には「餓鬼のごとく痩せ衰えたる男女、柵際へより、もだえこがれ、引き出し助け給へと叫び、叫喚の悲しみ、哀れなるありさま、目もあてられず」と記されており、この凄惨たる状況に、吉川経家は自決と引き換えに降伏し開城した。
このときの兵糧攻めは「三木の干殺し」をはるかに上回る凄惨な状況を生み出した事から、後世「鳥取の飢殺し(渇殺し)」と呼ばれ、兵糧攻めの恐ろしさ、過酷さを後世に伝えることになった。

そして、天正10年(1582年)いよいよ、秀吉は、毛利氏との対決の為備中国(岡山)に侵攻した。
毛利隆元の嫡男輝元は備中高松城で秀吉を食い止めるため足守川に沿って支城6城(北から順に宮地山城、冠山城、鴨城、日幡山城、庭妹城、松島城)を築いて防備を固めていた。備中高松城にこの支城6条を加えた7城を「境目7城」と言い、これが輝元の防衛線であった。冠山城と鴨城の中間に備中高松城がある。
備中高松城は平野にある平城だが、周囲を池や沼などの低湿地に囲まれており、備中高松城へは容易に近づけさせない自然の要害となており難攻不落を誇っていた。
そのため、秀吉は周囲の小城を次々と攻め落とし、4月15日、秀吉方は宇喜多勢(宇喜多直家の次男秀家勢)を先鋒に3万近い大軍で城を包囲し、2度にわたって攻撃を加えたが、城兵の逆襲を受けて敗退、攻城戦は持久戦となった。
毛利輝元率いる4万の援軍が接近しつつあるが、援軍もなく、1日も早く落城させなければならないる状況において、5月8日(5月29日)に入り軍師・黒田孝高の献策により城を堰堤(えんてい)で囲むという、攻城というよりむしろ土木工事といえるものが開始された。
この城は東と北が山、東に鳴谷川、西に足守川が流れる平城で、秀吉はその西と南を高さ4間(約6m)延長約30丁(約3㎞)の堤防で仕切って二つの川の上流から水を導き、約1,900アール( 1aは100 m2)の湖水の中に城を孤立させた。工事には士卒や農民らを動員し、1俵に付き銭100文、米1升という当時としては非常に高額な報酬を与え、堤防は5月8日の工事着手からわずか12日で完成させ、折しも梅雨時であったことから、降り続いた雨によって足守川が増水し、堰堤内には水が溢れ、城は湖に囲まれた状態になったのである。これが、世に言う「高松城水攻め」であるただ、鳴谷川からの導水工事が城攻略に間に合わず,未完に終わり,この工事を担当した奉行が切腹したと伝えられているそうである。
「高松城の水攻め」は、「三木の干殺し」「鳥取の飢殺し(渇殺し)」と併せて秀吉三大城攻めとして有名である。

「兵糧攻め」は相手を直接傷つけることはないが、敵兵に深刻な痛手を与える残忍な戦術だが特に、秀吉がよく使ったことで知られているが、このような兵糧攻めや水攻めでの城攻めは、すでに信長により使用されていた。
永禄元年(1558年)の「浮野の戦い」(「浮野合戦」)で,大敗した織田 信賢の本拠尾張・岩倉城への攻撃(1559年)では、信賢の籠城戦に対し、周囲にしし垣を張り巡らして完全に取り囲み、数ヶ月の後に降伏させている。
また、信長はこの方式を、今川方となった城鳴海城大高城攻めに適用し、両城の周囲それぞれに砦をいくつか築き、この二城を包囲の上分断、孤立させた兵糧攻めを行っている。落城寸前になった大高城を救援するために、今川義元が出陣してきて「桶狭間の戦い」が起こり、この戦いで今川義元を討ち取って今川軍を退却させたことで歴史上有名である。
その後,近江浅井長政と対立した時には、小谷城の目と鼻の先に在る虎御前山に本陣を布いて砦を修築し、虎御前山から付城宮部城(宮部 継潤の城)まで五十町もの土塁で取り囲み長大な要害を築かせ兵糧封鎖をかけるとともに、敵側には、川の水を堰入れさせる(水攻め)など、後に秀吉が三木城や鳥取城で行った城攻め方法は、この時にすでに見本が完成されていた。この小谷城の包囲を担当していたのが他ならぬ秀吉だったため、信長発案の城攻めの方法を一番習得していたのが彼だったのだろう。
この他、秀吉の小田原征伐の際に、豊臣方の総大将石田光成が、武蔵忍城の攻撃(忍城の戦い参照)において、秀吉を真似た元荒川の水を城周囲に引き込む水攻めが行われたが成功したとは言い難く、光成の資質が問われている。
では、何故秀吉の水攻めが成功したのか?
備中高松城主清水宗治の戦略』の著者多田土喜夫(タダ トキオ)氏が分かり易く「高松城の水攻め」を解説しているものがある。短く要旨のみの解説だが見てみるとよい。













参考:
※1:岡山県古代吉備文化財センター 
http://www.pref.okayama.jp/kyoiku/kodai/kodaik.htm
※2:城郭放浪記
http://www.hb.pei.jp/shiro/
※3:岡山県の訪問城
http://www.geocities.jp/qbpbd900/okayamanosiro.html
※4:国人領主と家紋
http://www2.harimaya.com/sengoku/sengokusi/bimu_03.html
※5:藤陽伝 伊賀氏一族と虎倉城記 文明期の備前国 ―― 福岡合戦 ――
http://kibi2011.blog81.fc2.com/blog-entry-22.html
※6:虎御前山城の歴史と構造|戦国時代の合戦と城
http://www.city.nagahama.shiga.jp/section/kyouken/junior/category_01/02_chusei/battle/toragozeyama.html



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