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税関記念日:参考

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参考:
★1:最恵国条款8さいけいこくじょうかん)
通商・航海などに関する条約を締結する際、相手国に対し、より有利な待遇を他の第三国ににも与えた場合には、同様の待遇を相手国にも与えることを取り決めた条項。たの国に比べて不利な待遇を受けることを防ぐためのもので、重商主義が盛んな17世紀中ごろから、ヨーロッパ諸国を中心に広く採用され、19世紀には自由貿易を促進するための重要な役割を果たした。一般には相互主義にのっとって、締結国の双方が与え合うものだが、日米和親条約では、日本がアメリカに一方的に与えていた。(週刊朝日百科日本の歴史93号より)
※1:税関公式ホームページ
http://www.customs.go.jp/
※2:輸入における消費税の課税 -JETRO
http://www.jetro.go.jp/world/japan/qa/import_10/04A-000915
※3:輸入品に対する内国消費税の徴収等に関する法律
http://law.e-gov.go.jp/htmldata/S30/S30HO037.html
※4:外務省:特別展示「日英交流事始―幕末から明治へ―」開港開市延
http://www.mofa.go.jp/mofaj/annai/honsho/shiryo/j_uk/02.html
※5:なるほど幕末
http://www4.plala.or.jp/bakumatsu/index.htm
※6:国土交通省近畿地方整備局港湾空港部:神戸みなとびっくす
http://www.pa.kkr.mlit.go.jp/kobeport/
※7:兵庫津(神戸市兵庫区) - 三日月の館
http://blogs.yahoo.co.jp/kanezane/60790015.html
※8:内海船と北前船
http://www.abura-ya.com/naruhodo/rekishi/rekish20.html
※9:兵庫津の名前変遷
http://www.geocities.jp/hasirankai/hyougotu.htm
※10:神戸海軍塾
http://www.geocities.co.jp/SilkRoad/1863/ryoma-kobe.htm
※11:は じ め に - 神戸市(Adobe PDF)
https://www.port.city.kobe.jp/info/tokei/taikan/2010/taikan.pdf#search='%E6%97%A7%E6%B9%8A%E5%B7%9D%E4%BB%A5%E8%A5%BF+%E5%85%B5%E5%BA%AB%E6%B8%AF%E3%80%81%E4%BB%A5%E6%9D%B1+%E7%A5%9E%E6%88%B8%E6%B8%AF+%E6%98%8E%E6%B2%BB%EF%BC%92%EF%BC%95%E5%B9%B4%E3%80%81%E5%8B%85%E4%BB%A4'
※12:海洋製作研究財団ニュースレターバックナンバー
http://www.sof.or.jp/jp/news/index.php
※13:生田神社の由緒 生田神社 - 神戸市中央区
http://www.ikutajinja.or.jp/about/
※14:展示会「近代神戸の足跡」3.神戸港の発展と海運 - 神戸大学附属図書館
http://lib.kobe-u.ac.jp/www/html/tenjikai/2005tenjikai/catalog/minato.html
※15:「今曉烈風中に神戸税関全焼」1922年1月21日付大阪朝日新聞(神戸大学附属図書館新聞記事文庫)http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?METAID=10069296&TYPE=IMAGE_FILE&POS=1
神戸みなととぴっくす
http://www.pa.kkr.mlit.go.jp/kobeport/index.html
よみがえる兵庫津 - 神戸市立博物館
http://www.city.kobe.lg.jp/culture/culture/institution/museum/tokuten/2004_04_hyogotsu.html
税関 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A8%8E%E9%96%A2

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税関記念日

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今日11月28日は「税関記念日」である。大蔵省(現在の財務省)が1952(昭和27)年に制定。
記念日の日付は、1872(明治5)年のこの日、運上所の呼称を「税関」と改め、ここに税関が正式に発足したことによる。
税関では、この11月28日を「税関記念日」として、全国各地の税関では、この日を中心に、広く税関の役割や業務について理解を得るとともに、税関業務への協力を求めるため、様々なイベントを開催している(※1参照)。

税関(英::Customs)は、日本国においては財務省地方支分部局として置かれる国の機関であり、函館、東京、横浜、名古屋、大阪、神戸、門司及び長崎の8税関のほか、沖縄地区税関が設置されている。(税関の管轄区域参照)
そして、関税及び内国消費税(※2、※3参照)等の徴収、輸出入貨物の通関密輸の取締り、保税地域の管理などを主たる目的・業務としている。
ときおり、出入国管理国境の警備をする機関と思われる事もあるようだが、そのような業務は日本の場合は法務省入国管理局が行う。税関は、国際的な物流の管理に関与する必須的な機関なのである。
冒頭掲載の画像は、税関のロゴ。画像は※1:税関ホームページより借用。このデザインは、中央に航空機、船、ゲート(門)を組み合わせ、従前のロゴマークにあった"関"の字を引き継いでいるそうだ。また、ゲート(門)の中の秤は公平を、鍵は保全を意味し、税関の役割を図で表現するとともに、3つの桜が税関の使命(安全・安心な社会の確保、関税等の適正・公平な課税、貿易の円滑化)を示しているのだという。
尚、このロゴマークは、神戸税関職員がデザインしたもので、平成19年(2007年)11月1日から全国の税関で使われているそうだ。

実は、「税関記念日」のことは、このブログで以前に簡単に書いたことがある(ここ参照)。だから今回は2度目であるが、今回、税関は日本の開港と同時に設置されたものであり、設置された当時の日本の歴史を振り返りながら、税関設立の経緯を書いていくことにする。
日本において、徳川幕府は世界史的にみて脅威的な安定社会を生み出していた。良きにせよ悪しきにせよ、近世に至ってこれほどの長期政権は例が無い。
200年以上に渡って鎖国政策(近年の研究参照)を続けていた江戸時代には、長崎の出島が日本と外国を結ぶ唯一の港であった。
しかし、18世紀後半になると、異国船が次々訪れ、武力を背景に日本に正式な通商を求めてきたが、江戸幕府はこれを拒絶し続けていた。
又、文化8年(1811年)のゴローニン事件、文化5年(1808年)のフェートン号事件のような摩擦・紛争をきっかけに異国船打払令が出され、逆に非武装商船に対する発砲事件(モリソン号事件)への反省から薪水給与令が出されるなど、幕府の対外政策は揺れ動いていた。
しかし、嘉永6年6月(1853年7月)、蒸気船を配備した東インド艦隊を引きいたペリーが、浦賀沖に来航(黒船来航)し、開国を求めるアメリカ大統領国書を提出した後、日本を離れ、翌嘉永7年1月(1854年2月)、ペリーは国書の返答を求めるため、再び浦賀へ来航した。
国中が、開国か攘夷(攘夷論参照)かの対応をめぐり議論が大いに沸騰しているなか、嘉永6年(1853年)、第12代将軍・徳川家慶が病死したことを受けて、第13代将軍となったばかりの徳川家定(いえさだ)は心身共に虚弱な人物で、到底この国難にリーダーシップを発揮して、立ち向かえる人物ではなく、幕府は、諸外国の圧迫に対し確固とした方策を持って望む事ができなかった。
しかも、既に大英帝国清帝国が争った結果(アヘン戦争)、天保13年(1842年)には、南京条約が結ばれていた。そういう国際情勢に通じている幕府は驚異を感じ条約締結に向うこととなった。
そして、3月幕府は遂に、日米和親条約を締結した。
この条約はアメリカ艦船への物資の補給と漂流民・来航船員の優遇を約束し、その為に下田と箱館(後函館)の2港を開き、かつ日本が他国に対してアメリカに与えていない権益を将来許した時には直ちにアメリカにも同一権益を許すという最恵国条款(参考の★1参照)を与えていた。この最恵国条款は、後の修好通商条約にも引き継がれ不平等条約の内容のひとつとなった。
ここに遂に200年余りにわたって続いた鎖国体制が打ち破られた。ペリー来航によって撃ち込まれた外圧のくさびは、鎖国を基本とした幕藩体制に決定的な影響を与えた。
ペリー来航1か月後に来航したロシア海軍中将プチャーチンによる日露和親条約をはじめ、日英・日蘭条約も結ばれた。
そして、安政3年(1856年)、日米和親条約により、日本初の総領事として下田に赴任したタウンゼント・ハリスによって、翌安政4年(1857年)日米協約(下田条約)が締結された。
ハリスは当初から通商条約の締結を計画していたが、日本側は消極的態度に終始した。しかしハリスの強硬な主張により,交渉担当者の間でアメリカとの自由通商はやむを得ないという雰囲気が醸成されると、江戸幕府は、条約の交渉を開始させた。その内容に関して合意を得た後、孝明天皇の勅許(天皇の許可)を得て世論を納得させた上での通商条約締結を企図する。
しかし、攘夷(鎖国)派の少壮(若くて意気盛んなこと)公家らが抵抗。また、孝明天皇自身、和親条約に基づく恩恵的な薪水給与(薪水給与令参照)であればやむ得ずとの考えもあったようだが、対等な立場で異国との通商条約締結は、従来の秩序に大きな変化をもたらすものであると考え、頑に勅許を拒否していた。
安政4年(1857年)6月攘夷(鎖国)派であった老中阿部正弘が死去後、廃人同様だったともいえる第13代将軍家定の継嗣問題を契機に開国派と攘夷派の対立が一段と激化してくる中、開国派の実力者彦根藩主井伊直弼大老に就任し、独断専行で、徳川慶福(徳川家茂)を将軍継嗣に決定するとともに、威嚇と督促を重ねて迫るハリスに対しては、安政5年(1858年)6月19日、勅許をえないままに日米通商条約を調印(14代将軍徳川家茂の署名)してしまった。
継嗣問題で一敗地にまみれた一橋派(継嗣問題で一橋徳川家の当主・徳川慶喜[のちの15代将軍]を推した一派)は、井伊の違勅調印を理由に一斉に井伊攻撃に立ち上がった。「違勅」に対しては、「尊王」を、「開国」に対しては「攘夷」をとなえ、ここに尊王攘夷つまり、尊攘は反井伊・半幕府のスローガンとなったのである。
公明天皇も、激怒して、攘夷の意向を示し、同年8月には条約調印に不満を示す勅諚(戊午の密約)を水戸藩へ下した。
この将軍の臣下であるはずの水戸藩へ朝廷から直接勅書が渡され、幕府がないがしろにされ威信を失墜させられたことに対し、幕府の危機を見た井伊が徹底的な弾圧策をとったのが安政の大獄であり、このことが桜田門外の変の引き金になった。
安政5年(1858年))6月19日に調印された日米通商条約に続いて蘭(オランダ)、露(ロシア)、英(イギリス)、仏(フランス)などと相次いで通商条約を締結した(安政の仮条約ともいう。安政五か国条約参照)。
条約は神奈川(横浜。下田を閉鎖)・長崎・箱館(函館)の3港が開かれることが決められた。そして、安政6年(1859年)、長崎、横浜及び箱館(函館)の港に「運上所」が設けられ、今日の税関業務と同様の輸出入貨物の監督や税金の徴収といった運上業務や、外交事務を取り扱うことになった。これが税関の前身である。こうして本格的な貿易が開始された。当時貿易相手国は主にイギリスであった。日本からは生糸や茶などが輸出され、毛織物、綿織物や艦船や武器などが輸入された。
この安政五か国条約では、神奈川(横浜)・長崎・箱館(函館)の3港以外にも期限付きで新潟・兵庫(両港)を開港場(条約港)とし、江戸・大阪両都の開市も定められていた。これらの時期は、新潟を1860年1月、江戸を1862年1月、大坂・兵庫を18663年1月と決められていた。
しかし、安政五カ国条約による開港・開市問題はその後の交渉の争点となった。列国の意図するところは自由貿易であった。
後進国にとっては、自由貿易それ自体が不平等を意味したが、そのほかに領事裁判権(外国人犯罪に日本の法律や裁判が適用されないこと。いわゆる治外法権)や関税自主権の欠如(輸入品にかかる関税を自由にきめる権限がなく、外国との協定税率にしばられていること。)、さらには和親条約から引き継がれた無条件かつ片務的な最恵国条款(通商航海条約や通商協定において、最恵国待遇を規定する条項)などが日本を規制した。日本にとって不利な内容を含む不平等条約であった。
金銀交換比率の内外差による金の流出(幕末の通貨問題参照)、外国商人が日本商品(特に絹)を高く購入したことにより生じた物価上昇などが、尊王攘夷運動の激化や一揆、打ちこわし等を招いた。
幕府は物価高騰と流通の混乱を防ぐため、開港から10ヶ月後の万延1年(1860)閏3月、五品江戸廻送令を公布して貿易の統制を図ろうとするが失敗する(※5:「なるほど幕末」の考察・エッセイ>幕末覚え書>4 開国と幕府瓦解(1)開国による経済混乱 参照)など、国内問題が山積していた。さらに、井伊が暗殺された後も朝廷は大坂開市と兵庫開港に猛反発したため、幕府は期日通りの開市開港は無理と見て、諸外国に開市開港延期を申し出る。
アメリカ公使タウンゼント・ハリスは、幕閣とも親しく実情を理解していたこともあり、延期やむを得ずとしたが、英国公使ラザフォード・オールコックは断固反対であった。このため、幕府は欧州本国政府との直接交渉のため、文久遣欧使節を欧州に派遣することとした。

上掲の画象は、文久遣欧使節団の主要メンバー。左から、副使の松平康英(石見守)、正使の竹内保徳(下野守)、目付(監察使)の京極高郎(能登守)、柴田貞太郎(組頭)。
努力の甲斐あって最終的には、文久2年5月9日(1862年6月6日)、開市開港を1863年1月1日より5年遅らせ1868年1月1日とすることを定めたロンドン覚書を英国と交換し、同年8月9日(10月2日)には仏とパリ覚書も締結した(※4参照)。
日本は開市開港の延期を認められたものの、代償として関税の低減化を始めとする貿易の自由化を認めさせられた(ロンドン覚書主な内容参照)。
また、その間の1863年から1864年にかけて長州藩と、英・仏・蘭・米国の四カ国との間に下関戦争が勃発し、敗れた同藩は賠償金300万ドルを支払うこととなった。
しかし、長州藩は外国船に対する砲撃は幕府の攘夷実行命令に従っただけであり、賠償金は幕府が負担すべきとの理論を展開し、四カ国もこれを受け入れた。幕府は300万ドルを支払うか、あるいは幕府が四カ国が納得する新たな提案を実施することとなった。
英国は、この機に乗じて兵庫の早期開港と天皇からの勅許を得ることを計画し、他の3国の合意を得、慶応元年9月16日(1865年11月4日)連合艦隊合計8隻を兵庫に派遣、幕府に圧力をかけた。
これに対し、幕府は孝明天皇が条約の批准に同意したと、四カ国国に対して回答。開港日は当初の通り慶応3年12月7日(1868年1月1日)であり、前倒しされることはなかったが、天皇の同意を得たことは四カ国の外交上の勝利と思われた。また、関税率の改定も行われ、同時に幕府が下関戦争の賠償金300万ドルを支払うことも確認された。
ところが、朝廷は安政五カ国条約を勅許したものの、京都に近い兵庫開港についてはなお勅許を与えない状況が続いた。この兵庫開港の勅許が得られたのは、延期された開港予定日を約半年後に控えた慶応3年5月24日(1867年6月26日)のことである。
第15代将軍に就任した徳川慶喜は2度にわたって兵庫開港の勅許を要請したがいずれも却下され、慶喜自身が参内して開催を要求した朝議を経てようやく5月24日勅許を得ることができたという。
慶応3年12月7日(1868年1月1日)、各国の艦隊が停泊する中、神戸港は無事開港した。
その直後の 慶応4年1月3日(1868年1月27日)、鳥羽・伏見の戦いが勃発した。1月11日(1868年2月4日)、神戸事件が発生し、兵庫港に停泊中の諸艦の水兵が神戸を占領すると言った事件が起こっている。
なお、鳥羽・伏見の戦いに敗れた徳川慶喜はで江戸に脱出。同年4月11日江戸城無血開城に至っている。同年9月8日明治と改元。
江戸幕府を倒した薩摩藩・長州藩を中心とした明治政府も、明治2年(1869年)に政府として改めて開国を決定して、以後は不平等条約の撤廃(条約改正)が外交課題となっていくことになる。
開港場に設けられた居留地制度は、事実上日本の法律の及ばない租界的な様相を帯びていた。
この領事裁判権が問題になったのは明治になってからである(幕末には外国人が被害者になるケースが多かった)。領事裁判権は明治32年(1899年)になってやっと撤廃された(内地雑居の開始)。
この居留地を中心に貿易は開始されたが(居留地貿易)、国内産業の発達に伴って、国内商品と外国商品との競合が始まると、国内産業保護の観点からも関税自主権の獲得は重要課題となったが、その獲得も明治44年(1911年)になってからのことであった。
税関の歴史を辿れば、このように幕末の日本の開国・開港問題から派性たものであることがわかったと思うが、私の生まれ育った、神戸の街は神戸港の開港を期に発展してきたのであり、この機会に、神戸港の歴史とこの港と関係の深い神戸税関のルーツについても少し述べておこう。

六甲山(六甲山系)の連なる山々から大阪湾に至る急峻な地形によって水深が急激に深くなる特徴から「天然の良港」として知られる日本を代表する国際貿易港である神戸港。
その歴史は天平年間、聖武天皇による東大寺大仏殿造営の勧進を行った大僧正行基が築いた大輪田泊(神戸市兵庫区。今の三菱造船所の北側にあった。摂播五泊のひとつ)に始まるが、古代には「務古水門(むこのみなと)」、「敏馬(みぬめ)の浦」と呼ばれ、朝鮮半島の港と交流をしていたことで知られている(※7の兵庫津の歴史参照)。
平安初期に造大輪田船瀬使が置かれ、石椋(いわくら)の築造など修固が加えられた。そして、遣唐使船の 寄港地に利用されたり、平安時代末(12世紀)には近辺の福原に別宮(福原京)を営んだ平清盛がここを重視し、人工島経が島(兵庫島)を築き整備拡張して、日宋貿易の拠点とした。
平氏滅亡後は、源平の争乱で焼失した東大寺大勧進の重源がその事業を引き継いで、修築。
承久の乱後、荘園の発達で年貢輸送船が盛んに往来するようになり、1308(延慶1)年、経ヶ島に兵庫関が置かれるようになった。
その後、元寇の役により大陸との貿易が途絶えるとともに活動が衰えるが、室町時代に入ると国内の海上輸送の拠点であるばかりでなく、1404(応永11)年より、足利義満により開始された日明貿易の拠点として再び国際貿易港としての地位を得、以降ここは国内第一の港として「兵庫津」「兵庫島」と呼ばれるようになる。
当時の 兵庫津の様子は絵巻物『一遍上人絵伝』にも描かれている。以下でその絵が見られる。
絵巻物『一遍上人絵伝 巻第12(模本)』に描かれた「兵庫津沖を行く年貢輸送船」

兵庫津は源平合戦や湊川合戦,でも兵火にあっているが、特に、特に応仁の乱( 文明9年[1467年])では、東西両軍は、兵庫の港からあがる利益(兵庫関から上がる利益)を逃がすまいとして、この地で激しく戦ったため完全に灰燼に帰し、また、この戦乱で瀬戸内海の治安も完全に乱れてしまった。
そのため、堺に繁栄の座を譲った兵庫が再び台頭してくるのは、豊臣秀吉が堺の商人を大阪に移してからであるが、兵庫津は戦国時代にも歴史の舞台の一つとなった。
兵庫津は織田信長や豊臣秀吉らの保護を受け、桶狭間の戦いなどで活躍した池田恒興(諱は信輝) が信長に反旗をひるがえした荒木村重花熊城を攻略、その用材を用いて兵庫城を築き、それを中心に城下町の整備をすすめたことから兵庫の町の発展がはじまった。
江戸時代になると鎖国政策のため外国貿易は途絶えた一方国内経済は安定していた。当時政治の中心は江戸、経済の中心は大坂であり、このため兵庫の津は全国と大坂、江戸を結ぶ海上輸送の要衝として栄えた。
元和5年(1619年)にはじまる菱垣廻船、寛永16年(1639年)にはじまる北前船による日本海側との航路(西廻り航路)開設、寛文元年(1661年)頃にはじまる樽廻船や内海船(※8参照)などの船舶が兵庫の津を行き交うようになった。また、鎖国はしていたが、通商関係のあった蘭国や朝鮮(朝鮮通信使。※9参照)は江戸渡航に際して兵庫の津を利用することが多々あったようだ。
又、兵庫の町を通る西国街道には宿駅も設けられ、また、灘五郷として酒造りも活発になっていた。
幕府は当初、大阪商人に特別の保護を与え、兵庫を圧迫する方針を採っていたが、自然の良港を持つ兵庫は瀬戸内海第一の集散市場となるなど、その発展を抑えることは出来なかった。
江戸時代中期に兵庫津に本店を置いて活躍した回船問屋高田屋嘉兵衛)や、江戸三百年間の兵庫の豪商北風家たちが兵庫津の隆盛に貢献している。
しかし、江戸末期、兵庫津も激動の渦中にあった。特に嘉永7年(1854)ロシア使節プチャーチンの大阪湾侵入により、周辺の海防が重視され、文久3年(1863)には江戸幕府の軍艦奉行であった勝海舟は海防のための幕臣の教育施設として「海軍操練所」の設立を、呉服商網屋吉兵衛が私財を投じて竣工させた船たで場(フナクイムシを駆除するための乾ドック。船据場ともいう)を利用することを考え、当時の将軍であった徳川家茂に建白した。
翌元治元年(1864年)、明治維新に多大な功績を残した坂本龍馬が塾長を勤めた諸藩の志士のための「海軍塾」と共に開設されたが、勝の更迭と同時に「神戸海軍操練所」と「神戸海軍塾」(※10参照)は閉鎖になった。同じ年に建てられた海防の要・和田岬砲台が、今も神戸市兵庫区に現存している。
一方、「兵庫開港」は、安政5年(1858)の日米修好通商条約で、1863年1月1日と定められたが、朝廷の反対にあい、文久2年のロンドン覚書で5年間延長され、慶応3年12月7日(1868年1月1日)、神戸開港として実現したことは先に書いた通りである。
安政五か国条約上の「開港」とは港だけを開くことではなく、町を外国に開くことであった。開港場、開市場には外国人居留地が開設された。
外国船舶は貿易のため開港場には入港できるが、開市場には入港できない。神戸開港・大坂開市式典は、条約で開港場と取り決められた兵庫から東へ約5キロ離れた神戸村の海沿いに建設中の、神戸外国人居留地南端に新装なった運上所で行われた。
しかし、神戸開港の勅令は慶応3年5月を以って下され柴田日向守剛中(大坂町奉行)が、7月9日には兵庫奉行を兼務して、もっぱら外国人居留地問題などの外交問題を担当し、神戸の外国人居留地の工事が始まったのは慶応3年(1967年)9月1日のことであり、「神戸港」の開港が12月7日なので、たった3ヶ月前の突貫工事であり、形だけの開港であった。

上掲の画象は、開港当日の神戸港図。この日、停泊中の各国軍艦はそれぞれ日章旗を掲げ、正午には一斉に21発の祝砲を放って開港を祝った(市民のグラフこうべNo95)。
この画像は挿し絵入り週刊誌『イラステッド・ロンドンニュース』掲載の物らしい。
同画像を見ると海岸のところに四角くぽっかりと白くあいているところが見られるが、ここが神戸外国人居留地である。
開港当時、建っていた建物は運上所と倉庫が3つぐらいだけだったという。また、その運上所が完全に完成したのは2月5日のことだったというから、開港当時は一応できていたという程度のもので、他に建物はなく、ただ地ならししただけの状態での開港であったようだ。
神戸沖には18隻の外国艦隊(英12隻、米5隻、仏1隻)が停泊しているが、外国側が大艦隊を派遣した狙いは、日本側に条約どおり開港・開市を実現させること、式典に参加すること以外に,開港・開市を阻止しようとする過激な攘夷運動に列国が団結して対決する姿勢を日本側に見せつける狙いもあったようだ。
外国艦隊が発した21発の礼砲が裏山にこだまし、住民を震え上がらせたことだろう(※12のニュースレター第305号神戸開港秘話〜「神戸事件」当日の神戸沖外国艦隊〜参照)。



上掲の2枚の画像中、上の画像は、開港間もない頃の運上所前波止場。この波止場は先にも述べた納屋吉兵衛が生田川(旧生田川)尻西側に設けた船たで場跡で、開港に際し、幕府の手により波止場に改築され第1波止場(現在ある第1波止場等とは東西に並ぶ順序が逆になっており位置が違う)と呼ばれた。(市民のグラフこうべNo95)
下の画像も同じころのものと思われれるが、赤○印のところが納屋吉兵衛の船たで場跡のあったところにできた神戸海軍操練所。その後にできた運上所である。 
運上所のある居留地の北側(上方)に生田神社の参道が見える。「生田(活田)(いくた)」の地名は日本書紀にも出てくる(※13参照)。この辺りは生田神社の社領であったことから神戸(かんべ)→神戸(こうべ)になった。「神戸」は当時、開港場一帯の村の名前でしかなく、幕末の神戸村は、建物といえば海軍操練所と農家が数件という未開地であった。
安政五か国条約上「兵庫」に港を開くことになっていたが、兵庫は歴史のある土地で町も発展し住民も多い。この様な地で外国人とのトラブルを避ける為に、5キロも離れた神戸村の海沿いの何もない「海軍操練所」があった辺りを事実上の「兵庫港」(現:神戸港)として開港をしたのである。
王政復古の2日前、慶応3年12月9日(1868年1月1日)の開港に際して、兵庫の津は湊川(旧湊川)以西を兵庫港、以東を神戸港と称し、外国船の停泊は神戸港を利用する経緯があった。しかし、兵庫港、神戸港の2港時代は、明治25年(1862年)両港を一括して「神戸港」の名称を用いた勅令の公布をもって終わりを告げ、今日言うところの神戸港となった。
諸外国から兵庫港の開港を求められた幕府が、あえて当時人口希薄な一漁村神戸を重点に開発を進めたことから、かって「兵庫津」であった「兵庫港」は次第に「神戸港」に繁栄を譲ることになる。しかし、「兵庫港」と「神戸港」が一つになって「神戸港」と呼ばれるようになってからも、「兵庫港」は「神戸港の兵庫港」として兵庫運河、同運河支線新川運河の建設が行われるなど、「神戸港」の補完的役割を担い、輸入青果物専用埠頭や三菱川崎の造船所を中心とする工場の材料荷役などを受け持つ兵庫突堤としての存在価値を保ってきた。
慶応4年(1868年5月23日)、兵庫裁判所(元兵庫鎮台)を廃止し、兵庫県が設置され、同じ年の1月に起こった「神戸事件」(ここも参照)で活躍した伊藤俊輔(後の伊藤博文)が初代兵庫県知事に就任し、居留地の造成にも力を尽くした。
神戸税関の前身である「兵庫運上所」は、慶応3年(1868年)、兵庫港(現:神戸港)開港と同時に開設され、幕府の兵庫奉行所の直轄機関であったが、王政復古の大号令により、明治新政府が誕生し、幕府軍が、翌年の正月3日に鳥羽伏見の戦いで幕軍が敗れたため、御用始めどころか、兵庫運上所はわずか1カ月余で事実上の閉鎖となってしまった。
その後、新政府による「神戸運上所」が誕生し、明治5年(1872年)11月28日に、全国の運上所が税関として名称を統一されることとなったのを機に、翌・明治6年1月4日に「兵庫運上所」は「神戸税関」と改称された。
初代本関庁舎は明治5年(1872年)2月に着工され、明治6年12月に完成した。石造の2階建で海に面する正面には菊の紋章がさん然と輝く立派な建物であった。

上記画像 が初代税関庁舎である。和洋折衷の建物に取り付けられた窓ガラスが光るところから、当時の人々は「ビードロの家」とよんだ。写真は明治7年頃のもの、明治6年(1873年)神戸港の輸出・輸入ともに全国の12%であったという。(市民のグラフ神戸No57)。
開港後の明治3年ごろには、神戸には約200人の欧米人がいて256の商社が構えていた。当時、全国には約2600人の外国人が居留し、主として横浜を本拠としていたので、神戸の地位もおのずと察せられる。
しかし、神戸の外国人は、その後急速に増加し、明治11年(1878年)には1000人の大台を超え、貿易額でも明治30年代には横浜とその勢力を2分するほどになったという。非常な躍進ぶりである。
しかし、その頃の神戸港は海岸地先のところどころにまだ白い砂浜が残り、松の疎林があちこちに点在していたという。
神戸港が国際港として、近代的な設備を整え始めたのは明治の末の40年以降のことであるらしい、官民挙げての熱意により、神戸港築港予算が国会を通過、着工をされたのは明治40年(1907年)だというから、初代神戸港長J・マーシャルの神戸港築港計画案(※14参照)が世に出てから24年、神戸市会の決議から8年の歳月が経過してからのことだ。
因みに大阪港の築港計画案は明治30年(1897年)に国会を通過、同年にすでに横浜桟橋が竣工しているので、これら両市に比べると、神戸はまだ経済基盤も弱く資力も乏しかったことが遅れをとった原因だが、しかし、この遅れが逆に、港を生命線として神戸と港とは切り離すことができないという強い感情を市民の間に根付かせたことは否定できないという(『市民のグラフこうべ』No111) 。
大正6年(1917年)には神戸港は開港50年を迎えたが、 神戸港の貿易額は、全国の約4割を占め、特に輸入額は日本一であった。港の造成も進み大正10年(1921年)には「櫛(くし)型」の新港第1突堤から第3突堤が完成し、近代的な港としての第一歩を踏み出した。
そして、大正元年(1922年1月20日) 初代税関本関庁舎を火災で焼失し(※15参照)、2代目本関庁舎(花崗岩・煉瓦張り、地上4階建)が竣工したのは昭和2年(1927年)3月になってからのことであった。
港湾の近代化が進み、開港100年を迎えた昭和42年(1967年)には、わが国初のコンテナターミナルを有する摩耶埠頭が完成した。また、本格的なコンテナ時代に対応するため、ポートアイランドの埋立が昭和41年(1966年)から始まり, 昭和56年(1981年)に完成している。、その後第二期工事として昭和62年(1987年)から神戸空港が新たに作られ完成したのは平成17年(2005年)のことである。
この間、平成7年(1995年)1月の阪神・淡路大震災で壊滅的な被害を受けた神戸港は、急ピッチで復旧工事が行われ、新生神戸港として平成9年(1997年)3月末には全面復旧した。
また、昭和2年(1927年)に竣工していた神戸税関二代目庁舎は、「帝国の大玄関番たる税関として決して恥ずかしからぬ近代式大庁舎」と称された日本最大の税関庁舎で、神戸港新港地区のランドマークにもなっていた。なかでも時計塔はまさに“みなと神戸”のシンボルとして、平屋建の倉庫群の並ぶ港頭にあって、ひときわ目立った存在であったが、阪神・淡路大震災で被災しその建物は半壊した。
現在の神戸税関三代目庁舎は平成8年(1996年)4月に着工され、平成11年(1999年)3月に落成した最新鋭のインテリジェントビルである。保全された旧館とで構成され、旧館を船体に見立てるとその棟の上に現れた新館(3代目庁舎)の高層部が船のブリッジにもみえる。
改築工事では旧本関庁舎に連結する旧別館を取り壊し中心に新館を建設したあと、旧別館の外壁を再構築。それにより旧本関庁舎の花崗岩張りの時計塔を含めた外観と内部ホール等は、ほぼ完全な形で保全された。神戸税関のシンボルの大時計は神戸港に姿を現わし、時を刻み始めてから今年で86年間神戸の港を見守り続けてきたことになる。この景観を残した点が高く評価され、公共建築賞やJIA環境建築賞最優秀賞(第2回 2001年度ここ参照)などの賞を受けている。

上掲の画像が神戸税関三代目庁舎である。画像はWikipediaより。庁舎建築概要写真はここで見られる。

今、神戸税関の管轄区域は、兵庫県、中国地方(山口県を除く)、四国地方の広範囲に及び、全国の税関の中でも長い海岸線(約7,100km)を有している。
 管内には平成23年(2011年)7月現在で28の外国貿易港(開港)と5つの国際空港(税関空港)があり、全国120の開港及び29の税関空港のおよそ4分の1を占め、本関のほかに15支署、17出張所、及び2監視署が置かれ、約1,100名の職員が輸出入貨物の通関や密輸の取締りに当たっているそうだ。
神戸税関の貿易統計, 密輸摘発実績等、詳しくは※1:税関公式ホームページを見られるとよい。

税関記念日参考へ


歌舞伎俳優十八代目中村勘三郎忌日

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今日・2013(平成25)年12月5日は十八代目 中村 勘三郎の一周忌にあたる(享年57)。
10月27日夜には、東京・築地本願寺で十八世中村勘三郎(享年57)の一周忌を前に、故人を偲ぶイベント『一周忌メモリアルイベント』が敷地内の屋外に設けられた特設ステージで約2時間にわたって開催された。
その最後には、長男の中村勘九郎(6代目と次男の中村七之助(2代目)、孫の七緒八くん(2歳)による歌舞伎舞踊『偲草鶴競猿若舞(しのびぐさつるくらべさるわかまい)』の振りの踊りを初披露。3300人の大観衆を前にたじろぐことなく、見得を切ってみせた孫の七緒八くんの姿が印象的(※1)。さすが「蛙の子は蛙」である。また、勘三郎と妻好江さんの結婚記念日でもある11月17日には一周忌法要と納骨式も行われた。

十八代目中村勘三郎、本名は波野 哲明(なみの のりあき)。
屋号中村屋定紋角切銀杏、替紋(定紋に替えて用いる、略式または装飾の紋。裏紋。副紋のこと)は丸に舞鶴。舞踊名に藤間勘暢(ふじま かんちょう)がある。子役時代から46年間名乗った前名、五代目 中村 勘九郎としても知られた。
父 は、人間国宝・十七代中村勘三郎、 母 波野 久枝は、六代尾上菊五郎の娘。兄弟には、長姉・波乃久里子(新派女優)、次姉・千代枝(夫は二代目澤村藤十郎で義兄にあたる)。
日本舞踊中村流二代目中村梅彌は義姉、九代目中村福助三代目中村橋之助は義弟にあたる。
1980(昭和55)年に結婚し、以来勘三郎を影で支えてきた妻の波野好江は、七代目中村 芝翫の次女であり、梨園の名門の家系の2人の結婚は「梨園の役者はほとんどが親戚関係になった」と言われるほどの名門同士の結婚だった(※2参照)。
2人の間には、長男・六代目中村勘九郎、次男二代目中村七之助がおり、孫の波野七緒八くんは、勘九郎の長男である。

江戸で初めての常設の芝居小屋となった猿若座/中村座(江戸三座のひとつ)の創始者猿若勘三郎(初代中村勘三郎)は、山城(今の京都)の武士中村勘兵衛の次男として生まれ、狂言師の兄らと大蔵流狂言を学び、その経験を生かして創作した生涯の傑作が舞踊『猿若舞』である。
『偲草鶴競猿若舞』は中村屋に代々伝わる演目で祝の際に必ず踊られる『猿若舞』を今回の一周忌イベントのため特別にアレンジしたものらしい。
勘九郎の孫七緒八くんの稽古は勘三郎の妻好江さんがつけていたそうだ。孫の物怖じしない演技を見て、亡き勘三郎もほっとしていることだろう。
中村座の定式幕は、左から「黒」「白」「柿色」の引き幕だった。「白」の使用は中村座に限って幕府から特別に許された色であったそうだ。現在は十八代目中村勘三郎の襲名興行や平成中村座の公演などで使用されている。

●因みに上掲の画像は、マイコレクションより、1992年(平成4)年12月3日、神戸文化ホールで公演された中村勘九郎親子共演のチラシである。
当時、五代目中村勘九郎(十八代中村勘三郎)は、第一部で祝儀ものの歌舞伎舞踏『七福神』を、第二部では、長男の当時二代目中村勘太郎(六代中村勘九郎)11歳と、次男の二代目中村七之助9歳が、『宝船』を演じ、五代目中村勘九郎は『まかしょ』を演じている。いずれも藤間勘十郎(七世、現:三世藤間勘祖)振り付けによるもの。

江戸の世話狂言から上方狂言(上方歌舞伎)、時代物(江戸時代から見た時代劇)、新歌舞伎から新作と、どんな役でも圧倒的な芸の力で見る人を引きつけて放さなかった稀代の歌舞伎役者十八代目中村 勘三郎。 (演目については、※3の歌舞伎の演目>演目の分類参照)
性格が明るく、天性の輝きをもっていて登場すれば、その場がぱあっと明るくなる、太陽な様な存在の人であった。
名子役として1955(昭和330)年3歳で五代目勘九郎として『昔噺桃太郎』で初舞台に立った。
尊敬する祖父・六代目菊五郎の芸を継ぐ正統派として、舞踊では『鏡獅子』(★)や『京鹿子娘道成寺』(★)など、世話物では『髪結新三』、『隅田川続俤−法界坊』(★)など、時代物では『義経千本桜』『仮名手本忠臣蔵』と並ぶ歌舞伎の3大名作『菅原伝授手習鑑』の梅王丸や松王丸など、歌舞伎を代表する役々で見事な芸を見せている。

●上掲の画象は、マイコレクションより、京都・南座の新装開場記念と銘打った「十月大歌舞伎」(1992[平成4]年10月2日初日〜26日千穐楽)のチラシである。
昼の部は、一、『平家女護島- 俊寛』と、三の『ら く だ』(★)に出演。二、『京鹿子娘道成寺』は中村富十郎が演じている。夜の部の通し狂言『青砥稿花紅彩画-白浪五人男』に出演している。
画像は、夜の部の江戸市村座で初演された世話物・通し狂言『青砥稿花紅彩画-白浪五人男』の弁天小僧菊之助を演じる勘九郎。
白浪物」は盗賊が活躍する歌舞伎狂言を総称する名前である。二幕目第一場(雪の下浜松屋の場)での女装の美男子・弁天小僧菊之助の名乗り(男であることを明かして彫り物を見せつける)の名場面である。

伝統的な歌舞伎を演じる一方で、梨園の壁を越え、演出家の串田和美と組みコクーン歌舞伎を立ち上げて、俳優の笹野高史を抜擢(第1回演目:『東海道四谷怪談』)。『夏祭浪花鑑』(第2弾1996年)など斬新な舞台で若者を歌舞伎に引き込んだ。
新作にも意欲的で、劇作家野田秀樹と組んだ『野田版 研辰の討たれ』(★第1作。木村錦花原作の歌舞伎狂言『研辰の討たれ』を野田秀樹が新しい視点で書き直し演出した舞台)など一連の作品(『野田版 鼠小僧』(★)や『野田版 愛陀姫』[オペラ「アイーダ」を野田秀樹氏が歌舞伎に書き換えた作品]が知られている)にも出演。これら一連の新作歌舞伎は古典に現代の息吹きを吹き込む新ジャンルへと発展した。
これら作品は、宮藤官九郎(「大江戸りびんぐでっど」★)や三谷幸喜(『決闘! 高田馬場』)等人気劇作家にも古典の筆を執らせる力強い呼び水ともなり、映画監督の山田洋次に『人情噺文七元結』(★三遊亭円朝の落語『文七元結』が原作の歌舞伎の台本)の補綴・演出を手がけてもらうなど、数々の野心的な試みにも意欲的に取り組んできた。
なお今まで書いてきた中で『野田版 研辰の討たれ』等作品の備考()に★印のあるものは、松竹株式会社が制作するシネマ歌舞伎でも公開されている。
シネマ歌舞伎は、歌舞伎の舞台公演を高性能カメラで撮影しスクリーンで上映する手法であり、2005(平成17)年1月、最初の作品である『野田版 鼠小僧』(2003年8月歌舞伎座にて上演)が東京・東劇で公開され、それに続く勘三郎の第2弾(映画全体では第4弾)として公開されたもの。この作品も『野田版 鼠小僧』同様、勘三郎襲名披露の時に演じたもので、勘三郎にとっては記念すべき特別な作品と言えるだろう。
以下参考の※4:「シネマ歌舞伎| 松竹」で作品の粗筋説明と映画予告編を見ることができる。『野田版 研辰の討たれ』等こんな歌舞伎があるのかと驚くほど面白い。以降の物でも★印のあるものは見ることが出来るので、ちょっと覗いてみるとよいだろう。
シネマ歌舞伎公開時のインタビュー記事もある参考の※5も見てみるとよい。

●因みに、上掲の画象は、マイコレクションのチラシより、シネマ歌舞伎第一弾・中村官九郎、十八代目中村勘三郎襲名記念『野田版 鼠小僧』(平成17年9月3日〜16日、梅田ブルク7で上映のもの)である。

勘三郎は江戸の中村座が栄えた浅草に歌舞伎小屋を作るのが夢であった。実現しなかったが、2000(平成12)年11月に江戸時代の芝居小屋を模した仮設劇場を設営して「平成中村座」と名付け歌舞伎『隅田川続俤 法界坊』を上演したのを皮切りに、会場はその時によって異なるものの、ほぼ毎年「平成中村座」を冠した公演を国内外をめぐり行い、大阪で初公演は2002(平成14)年11月、扇町公園内に特設した芝居小屋で、『隅田川続俤 法界坊』 『夏祭浪花鑑』が上演された。
また、2004(平成14)年ニューヨークでは『夏祭浪花鑑』を上演、喝采を浴びた。
平成中村座は、2006(平成18)年の名古屋平成中村座公演以降は、既存の施設を利用しての公演も行われている。
平成中村座公演の特色の一つは、江戸時代の芝居小屋である中村座の雰囲気を模した劇場空間である。
その特徴として、先にも述べた江戸時代に中村座で使用されていた「(左から)白・柿色・黒」の定式幕が使われることや、劇場の内外に中村屋の紋である「角切銀杏」が描かれることなどが挙げられる。
一昨年(2011年)秋からの平成中村座浅草公演は2012(平成24)年5月まで7か月も続いた。初参加の若い俳優が舞台をにぎわせ、長男勘九郎の襲名披露もした昨年3月の中村座(※6のここ参照)の日々はある意味夢の結実だったのかもしれない。
1999年のNHK大河ドラマ『元禄繚乱』で主役の大石内蔵助役を演じ、同年紅白歌合戦で白組司会を務めるなどお茶の間や映画などでも親しまれた。
2004(平成16) 年12月、歌舞伎座上演の渡辺えり子脚本・演出による『苦労納御礼・今昔桃太郎』(くろうの かいあり かんしゃ かんしゃ・いまはむかし ももたろう)の桃太郎で五代目勘九郎としての舞台納めwをした。勘九郎4歳での初舞台作品(『昔噺桃太郎』)を洒落のめした舞踊劇(※7参照)。勘九郎が初舞台から手掛けてきた舞踊の数々をダイジェスト版で踊り抜く。「藤娘」から始まり、「連獅子」の仔獅子に終わる。
2005年(平成17年)3月3日、同じく歌舞伎座『鬼一法眼三略巻』4段目「一條大蔵譚」(※8参照)の一條大蔵卿、『近江源氏先陣館』「盛綱陣屋」(※9参照)の佐々木盛綱ほかで十八代目中村勘三郎を襲名。以後5月まで3ヵ月間にわたる襲名興行は十二代目市川團十郎以来の事。
前年の記者会見では、「大好きな父に恥ずかしくない勘三郎になりたい。勘九郎の45年間の方が恐らく役者人生としては長い。年数でなく、中身の濃い勘三郎時代にしたい」と語っていたという(2012年12月6日朝日新聞より)。
2010(平成22)年暮れから体調を崩し2011(平成23)年過労の蓄積を理由に2月に出演予定だった舞台を休演。特発性難聴であったことを明らかにした。
同病から復帰して、同年11月から2012(平成24)年5月までロングランで浅草の平成中村座公演に出演。3月の、長男・中村勘太郎の「6代目中村勘九郎襲名披露大歌舞伎」の出番が終わった後、隅田川の屋形船で臨んだ取材では「俺には芝居しかないからね、戻れて本当にうれしいよ、還暦にはこの浅草で中村座で助六をやりてえなあ」と語っていたというが、最後の5月公演出演直後の6月に食道がんを公表、摘出手術を受けた。手術には成功したものの新たに肺炎を発症闘病を続けていたが、12月5日に死去。
この日、京都・南座で長男、勘九郎の襲名披露の真っ最中でであった。また、2013(平成25)4月、東京に新装開場した新しい歌舞伎座の舞台に立つことなく逝ってしまった。
伝統的な歌舞伎を演じる一方で、梨園の壁を越え新しい試みに挑戦し、革新的な舞台を創造しつづけてきた勘三郎が、「伝統」という言葉にこだわり、それを重んじていた理由は、本来の歌舞伎の原点ともいえる破天荒さ、そして懐の深い江戸歌舞伎を現代に生きる歌舞伎としてよみがえらせることであったようだ。
志半ばで突然降りた人生の幕。どれほど心残りであり、残念に思っていただったろうか。その早すぎる死は、あまりにも惜しいとしか言いようがないが、その理想の芝居を生涯夢見た勘三郎魂は、二人の息子又、その他の梨園の人達に受け継がれてゆくことだろう。
今日は、そんな勘三郎の演技を見ながら在りし日の彼を偲ぶことにしよう。以下、1〜4まである。ゆっくり楽しまれるとよい。

追悼十八代目中村勘三郎「連獅子」1-YouTube
公開日: 2012/12/05

冒頭の画象は、コレクションの映画チラシ平山秀幸監督『やじきた道中 てれすこ』(2007[平成1999]年公開)。喜多さん役の柄本明とコンビを組んで弥次さん役で出演する。中央が弥次さん役の勘三郎。

参考:
※1:中村勘三郎さん一周忌で勘九郎親子が演舞披露 七緒八くんも本番強さ見せた
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20131025-00000352-oric-ent
※2:梨園家系図- 近現代・系図ワールド
http://kingendaikeizu.net/geinou/rien.htm#keizu1
※3:歌舞伎への誘い
http://www2.ntj.jac.go.jp/unesco/kabuki/jp/index.html
※4:シネマ歌舞伎| 松竹 | 作品ラインアップ
http://www.shochiku.co.jp/cinemakabuki/index.html#lineup
※5:シネマ歌舞伎『野田版 研辰の討たれ』中村勘三郎インタビュー
http://doraku.asahi.com/entertainment/movie/special/080109.html
※6:歌舞伎公演データーベース
http://www.kabuki.ne.jp/kouendb/
※7:歌舞伎美人 | 勘九郎から勘三郎へ
http://www.kabuki-bito.jp/news/2005/01/_photo_21.html
※8:「鬼一法眼三略巻」四段目『一条大蔵譚』- 歌舞伎見物のお供
http://blog.goo.ne.jp/yokikotokiku/e/c54b91c078cbf05c1e86e993179a1c33
※9:「盛綱陣屋」(近江源氏先陣館)-歌舞伎見物のお供
http://blog.goo.ne.jp/yokikotokiku/e/0e358e29ed3312dd532a19eb0b497bf6
歌舞伎公式総合サイト:歌舞伎美人
http://www.kabuki-bito.jp/
 歌舞伎俳優名鑑
http://www.kabuki.ne.jp/meikandb/omoide/
歌舞伎事典|文化デジタルライブラリー
http://www2.ntj.jac.go.jp/dglib/contents/learn/edc_dic/dictionary/dictionary.html
歌舞伎文庫:歌舞伎用語解説
http://www.eonet.ne.jp/~jawa/kabuki/yougokaisetu.html
サンスポ:勘三郎さん“親子三代共演”スクリーン越し夢叶った! (1/3ページ)
http://www.sanspo.com/geino/news/20131028/oth13102805050012-n2.html
msn産経ニュース中村勘三郎:「破天荒こそ伝統、生涯かけて貫く」1〜4
http://sankei.jp.msn.com/entertainments/photos/121205/ent12120520540023-p1.htm
歌舞伎俳優名鑑:中村 勘三郎 (十八代目)
http://www.kabuki.ne.jp/meikandb/omoide/actor/55
歌舞伎座−歌舞伎・演劇|松竹株式会社
http://www.shochiku.co.jp/play/kabukiza/
歌舞伎文庫
http://www.eonet.ne.jp/~jawa/kabuki/kabukibunko.html
中村勘三郎 (18代目) - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E6%9D%91%E5%8B%98%E4%B8%89%E9%83%8E_(18%E4%BB%A3%E7%9B%AE)

芸術団体「パンの会」が結成された日

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空に真赤(まっか)な雲のいろ。
 玻璃(はり)に真赤な酒のいろ。
 なんでこの身が悲しかろ。
 空に真赤な雲のいろ。
 「パンの会」の会歌となった北原白秋の詩「空に真赤な」である。北原白秋の処女詩集『邪宗門』より(※1:「青空文庫」北原白秋-邪宗門 参照)。

1906(明治39)年、北原白秋は、21歳の時、新詩社に参加。与謝野鉄幹与謝野晶子木下杢太郎石川啄木らと知り合う。
新詩社の機関紙『明星』で発表した詩は、上田敏蒲原有明薄田泣菫らの賞賛するところとなり、文壇の交友をさらに広がる。また、この頃より象徴派に興味を持つようになる。
1907(明治40)年、鉄幹らと九州・平戸などに遊び(『五足の靴』参照)、南蛮趣味(ここ参照)に目覚める。また森鴎外によって観潮楼歌会(※2参照)に招かれ、斎藤茂吉アララギ派歌人とも面識を得るようになった。
1908(明治41)年、『謀叛』(※1:「青空文庫」北原白秋-邪宗門 参照)を発表し世評高くなる。

”汝等臣民は思想の中庸を誤らず、華を去り実につけ”という趣旨の「戊申勅書」が1908(明治41)年10月に発布された。
それに挑むかのように、この年(明治41年)、12月12日耽美派(耽美主義を奉じる一派)の詩人や画家が芸術団体「パンの会」を結成した。
メンバーは、年初に新詩社を脱退した木下杢太郎(筆頭発起人)、北原白秋らの若い詩人と、美術雑誌『方寸』同人の石井柏亭(主宰)らの青年画家たち。そこに集まって飲み、歌い、語り合い若さを爆発させた。
この会には吉井勇高村光太郎らも加わり、象徴主義、耽美主義的詩風を志向する文学運動の拠点になった。
1910(明治43)年11月、雑誌「新思潮」に谷崎潤一郎の短編『刺青』が掲載された。これが谷崎の実質的な処女作である。
小説『刺青』は、「其れはまだ人々が「愚(おろか)」と云う貴い徳を持って居て、世の中が今のように激しく軋(きし)み合わない時分であった」という文から始まる。
世界史の中では戦争が繰り返されるているのに、日本では300年もの泰平の世が続いている町人文化の物語。日本の文化はジャポニズムとして世界に知られている。この江戸文化の円熟期、腕利きの彫り物師(刺青師)の紹介から物語りはスタートする。
“肌をさされてもだえる人の姿にいいしれぬ愉悦を感じる刺青師清吉が年来の宿願であった光輝ある美女の背に蜘蛛を彫りおえた時、今度は……。”
性的倒錯の世界を描き、美しいものに征服される喜び、すべて「美しい者は強者であり、醜い者は弱者であった。」・・・とするこの作品には、谷崎の以後の作品に共通するモチーフ、皮膚や足に対するフェティシズムと、それに溺れる男など、谷崎独自の美の世界が見られる(谷崎はフットフェティシズムであったとも言われている)。
刺青とは入墨のこと。明治政府は刺青をアイヌの刺青すら野蛮だと禁止(1872=明治5年)していた(違式詿違条例)。
欧米の文化や化学力に追いつけ!・・・と、文明開化に必死な時代。谷崎には“政府の発表した『刺青』には禁止した”刺青は芸術だ!”・・といった反骨精神が窺えるのだが・・・。
又、このころ、“武者小路実篤志賀直哉等によって『白樺』が創刊(1910年4月)され、芸苑(文学者・芸術家の社会。芸術界)のあらゆる方面に鬱勃(うつぼつ)たる新興精神が瀰(ひろが)っていた。”・・・と、やや遅れて参加した高村光太郎は「ヒウザン会とパンの会」(※1「青空文庫」参照)の中で書いている(「ヒウザン会」についてはコトバンクヒュウザン会 とはまたフュウザン会 とはを参照)。
そして、高村は次のように続けている。
“「パンの会」はそうしたエスプリ(esprit)の現われであって、石井柏亭等同人の美術雑誌「方寸」の連中を中心とし北原白秋、木下杢太郎、長田秀雄、吉井勇、それから私など集ってはよく飲んだものである。
別に会の綱領などと言うものがあるわけではなく、集ると飲んで虹のような気焔(きえん)を挙げたのであるが、その中に自然と新しい空気を醸成し、上田敏氏など有力な同情者の一人であった。
パンの会の会場で最も頻繁に使用されたのは、当時、小伝馬町の裏にあった三州屋と言う西洋料理屋で、その他、永代橋の「都川」、鎧橋傍(よろいばしわき)の「鴻の巣」(※4参照)、雷門の「よか楼」などにもよく集ったものである。
三州屋の集りの時は芳町の芸妓が酒間(しゅかん。酒を飲んでいる間。酒宴の間。)を斡旋した。
パンの会は、当時、素晴らしい反響を各方面に与え、一種の憧憬を以て各方面の人士が集ったもので、少い時で十五六人、多い時は四五十人にも達した。異様の風体の人間が猛烈な気焔をあげるので、ついには会場に刑事が見張りをするようになった。
詩人では当時の名家が殆んど顔を出したし、俳優では猿之助段四郎、それに「方寸」の連中、阿部次郎はじめ夏目漱石門下、潤一郎、永井荷風の一党など、兎も角盛なものであった。
松山省三が「カフエ プランタン」をはじめたのもその頃(1911年)であり、尾張町(東京・銀座五丁目と六丁目付近の旧地名)角には、ビヤホール「ライオン」(築地精養軒経営。※5参照)があって人気を独占していた。ライオンではカウンター台の上に土で作ったライオンの首が飾ってあって、何ガロンかビールの樽(たる)が空くと、その度毎にライオンが「ウオ ウオ」と凄じい呻(うな)り声を発する仕掛であった。
「カフエにて」と題する当時の短い詩に
泥でこさへたライオンが
お礼申すとほえてゐる
肉でこさへたたましひが
人こひしいと飲んでゐる



無理は天下の醜悪だ
人間仲間の悪癖だ
酔つぱらつた課長殿よ
さめてもその自由を失ふな

というのがある。
永代橋の「都川」で例会があった時、倉田白羊が酔っぱらって大虎になり、橋の鉄骨の一番高いところへ攀(よ)じ登ったが川風で酔いが醒(さ)めて、さてこんどは降りられない。野次馬がたかって大騒ぎになったことがあった。白羊の眼が悪くなったのは、たぶんこんな深酒が祟(たた)っているのだろう。“・・・と。また、木下杢太郎も『パンの会の回想』(※1参照)を書いている。

「パンの会」の「パーン」(日本語表記では「パン」とも)とは、ギリシア神話に登場する神の一柱で、アイギパーン(古代ギリシャ語: Αἰγίπαν, Aigipān, 「山羊のパーン」の意)とも呼ばれる半獣で、ローマ神話におけるファウヌス(Faunus)と同一視される。

●冒頭の画像は、笛の演奏をエローメノスの羊飼いダフニスに教えるパーンの彫像(Wikipediaより)。

パーンは、牧神で、享楽(思いのままに快楽を味わうこと)の神でもある。このことから、パニック(Panic)の語源にもなったそうだ。
1894年にベルリンで結成された芸術運動「パンの会」に因むものだという。
20代の若い芸術家たちが中心となり、浪漫派の新芸術を語り合う目的で出発し、東京をパリに、隅田川をパリのセーヌ川に見立て、月に数回、隅田河畔の西洋料理店(大川近くの小伝馬町や小網町、あるいは深川などの料理店)に集まり、青春放埓(ほうらつ)の宴を続けていたようだ。白秋の『東京景物詩』(※1:「青空文庫」の北原白秋『東京景物詩及其他』や、※6参照)、杢太郎の詩集『食後の唄』(※7参照)はこの会の記念的作品である。
しかし、次第に放逸な酒宴の場となり、酒好きの会員が多く、どんちゃん騒ぎになることもあり、また、社会主義者の集まりと誤解され、刑事が様子を見に来たこともあったようだ。
石井柏亭の外遊と長田秀雄・柳啓介の入営(兵役に編入される者が兵営にはいること)の送別会を兼ねて盛大に行うことになった。
1910(明治43)年11月の会合では、会場に掲げられた「祝長田君・柳君入営」の貼り紙に高村光太郎が黒枠を描き込んでいたため、「萬朝報」に取上げられ、徴兵制度を非難する非国民の会と批判されてしまうという「黒枠事件」を起こしている。
大逆事件の裁判を控えた時期でもあり、当事件以後は次第に盛上りを欠くものになっていったらしい。
このパンの会は、1908(明治41)年末から1913(大正2)年頃まで続いたという。明治の終焉とほぼ同時期であり、ちょうど小山内薫自由劇場(1909年)や雑誌『三田文学』・『新思潮』(第2次)・『白樺』の創刊(1910年)など、文芸上の新しい動きが起こっていた時期であった。
会そのものは短い期間だったが、自然主義に対する耽美主義を特徴づける印象主義の手法や、都会趣味・江戸趣味の諸傾向はすべてこの会から生まれたものだそうである。

●上記に掲載の画像は、木村荘八が描いたパンの会の集い(画像は、朝日クロニクル『週刊20世紀』1908−9年、050号より借用)。木村荘八は、故郷「東京」の移ろいゆく姿を 情感豊かに描き続け、永井荷風の代表作『ボク東綺譚』や大佛次郎の『霧笛』(明治時代の横浜を舞台とした「開化物」)などの挿絵の分野でも知られる画家である。
又、冒頭に掲載の詩「空に真赤な」(作詞明治41年5月)は、「謀叛」(作詞明治40年12月)同様、新詩社を脱退して、木下杢太郎を介して、石井柏亭らの主宰するパンの会に参加した翌年の1909(明治42)年3月、白秋24歳のときに発表した処女詩集『邪宗門』に掲載されている。
本集に収めた6章約121篇の詩は1906(明治39)年の4月より1908(明治41)年の臘月(ろうげつ。陰暦12月の異称)に至る3年間の所作であり、大半は殆ど明治41年作詞のものが多い。
「今後の新しい詩の、基礎となるべきものだ」・・、白秋と親交のあった歌人・石川啄木は、この詩集を読んで、日記にこう綴っているという(※6参照)。

白秋の処女詩集『邪宗門』。タイトルとなった邪宗門とは、邪悪な宗教のこと。一般的にはキリスト教のことと解されている。ただし、これは豊臣政権及び徳川幕府(江戸幕府)による政治用語と呼ぶべき性格の言葉であり、宗教用語とは言い難い。
明治維新直後の1868(慶応4)年に明治政府から出された五榜の掲示太政官が立てた五つの高札)の第三札には、「切支丹邪宗門」が掲げられた。
この文言があることを知った欧米諸国は明治政府に猛抗議を行い、政府はあわてて「切支丹・邪宗門」のそれぞれについての禁止と訂正をさせた。しかし、1873(明治6)年のキリスト教解禁までには紆余曲折があり、特に300年近くにわたってキリスト教=邪宗門の観念を植え付けられてきた一般民衆の間に、解禁に対する恐怖を訴える者もあったとされている。
詩集『邪宗門』の中の「邪宗門秘曲」(※1参照)は、同詩集の主題となる作品であり、官能的・耽美的な世界を描き出している。信仰のためなら磔(はりつけ)になっても構わないキリスト教徒、それくらいの意気込みで、我々も詩作に打ち込むのだという強い意志が感じられる。
この処女詩集『邪宗門』が刊行された1909(明治42)年伊藤博文が、ハルピンで暗殺されている。
この様な時期、つまり、先にも書いたように1908(明治41)年10月に発布された”汝等臣民は思想の中庸を誤らず、華を去り実につけ”という趣旨の「戊申勅書」に挑むかのようにパンの会が結成された訳であるが、「戊申詔書」が発布された政治背景を、もう少し、詳しく見てみることにしよう。

「戊申詔書」は、その年(1908年)の干支(えと)である戊申(ぼしん)に名付けられた詔書であることから、こう呼ばれている。
明治維新(1867年)によって日本は幕藩体制を廃し、<ahref= http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AB%8B%E6%86%B2%E5%90%9B%E4%B8%BB%E5%88%B6 >立憲君主国家としてその国力を高め、欧米先進国に追いつくことを目指した。西洋文化を移入し、近代重工業を興し、国民総生産は急速に伸びたが、同時に軍事力も飛躍的に強化された。
そして、日清戦争(明治27年7月〜明治28年3月)、日露戦争(明治37年.2月〜明治38年9月)において勝利し、世界の強国の一角に名を連ねるまでになった。
日清戦争後、日本が獲得した戦時賠償による消費の拡大から日本経済は大きく前進し、殖産興業がますます推進されることになり大戦景気、自由主義や個人主義、さらには社会主義の思想的の風潮が生まれていた。
しかし、日露戦争は勝利に終わったものの、賠償金(戦争賠償参照)を得ることができなかったため、外国債(ユダヤ系投資銀行クーン・ローブ商会からの借り入れ[※8も参照])の返済などが財政を圧迫、重税がやがて物価の高騰を招いた。
こうした国民の負担の増加は民衆の不満を増大させ、1905(明治38)年9月の日比谷焼討事件を頂点とする全国主要都市における日露講和反対運動を最初として都市民衆の暴動がしばしば発生していた。
また、各地の商業会議所、実業組合に結集した中・小資本家も営業税など悪税反対運動を展開し、政府の軍備偏重の政策を批判した。
以下参考の※9:「百年前の財政危機」の図2の実線はわが国の政府債務の対名目<GDP(国民総生産)比率が過去120年間どのように推移してきたかを示しているが、この120年間で政府債務が増加する局面は3つあり、その第1の局面が1905(明治38)年の前後の時期である。これは日露戦争に伴って戦費が膨らみ、政府債務が増加した局面であり、図ではよくわからないが、日露戦争直前の<a href= http://kotobank.jp/word/%E6%94%BF%E5%BA%9C%E5%82%B5%E5%8B%99 >政府債務は名目GDP比で20%程度であったが日露戦争直後の1906(明治39)年には70%と3倍以上にも達している。
又当時の世相を見ると、明治30年代から40年代にかけて「ハイカラ」という言葉が流行っていた。男のシャツの”high collat”から生まれた流行語で、西洋かぶれを揶揄する意味も含まれていた。
ハイカラはいつか洋風のものをあれこれさす言葉となり、「ハイカラソング」「ハイカラ節」も生まれてゆく。以下はハイカラ節の一節。

「ゴールド眼鏡のハイカラは 都の西の目白台 女子大学の女学生
 片手にバイロン、ゲーテの詩 口には唱える自然主義
 早稲田の稲穂がサーラサラ 魔風恋風そよそよと♪」
以下でその歌が聞ける。
添田唖蝉坊・ああわからない / 土取利行(弾き唄い)

また、「マガイゝ節」なんていう歌も流行した。以下はその一節。
「いやだいやだよハイカラさんはいやだ
頭の真ン中に栄螺の壷焼
ナンテマガイインデショー♪」

栄螺(さざえ)の壷焼というのは、このころはやった女性の髪形のことで、髪を高く、ぐんと前に突き出したさまを人は二百三高地(髷)」とからかった。203高地は日露戦争時の激戦の地だ。
「二百三高地に海老茶の袴
そして麻裏はく人は
それでもお前はハイカラカ
ちと解らない♪」

余段ではあるが、日本で初めての美人コンクールが時事新報社の募集で行われ1908(明治41)年3月5日に発表された。1等となったのは、学習院女学部3年生(16歳)の末弘 ヒロ子であった。
コンクールはシカゴ・トリビューン社が企画し、日本では「良家の淑女」を対象として写真選考が行われた(芸妓・女優・職業モデルなどは参加不可)。
末広は知らない間に写真を送られて1等になったのだが、コンクール参加を理由に、学習院を退学処分になった。しかし、学習院院長の乃木希典は自ら彼女の仲人になり、翌年には、彼女は野津鎮之助(陸軍大将・野津道貫の長男)侯爵婦人となったたという(朝日クロニク『週刊20世紀』050号)。

●上掲の画象左が朝日クロニク『週刊20世紀』050号にコンクールの説明文と共に掲載された末弘 ヒロ子の写真である。彼女の結っている髷が「二百三高地(髷)」と言われるもの。左写真では下向き加減でよくわからないが、右のWikipedia掲載の前を向いた写真を見るとよくわかるが、ぐんと上に高く盛り上がっているのが特徴である。
この時の審査は写真選考のみで、ヒロ子の義兄が勝手に写真を応募したものらしい。洋画家の岡田三郎助、彫刻家の高村光雲(高村 光太郎の実父)、歌舞伎俳優の中村芝翫など芸術界、芸能界を代表する各界著名人13名が審査員となった。
これが日本初の全国ミスコンであり、事実上のミス日本を決める最初の大会でもあったそうだ。彼女はアメリカの選考会で堂々6位に入賞しているらしい。
当時の203高地での乃木の闘いぶり、末弘 ヒロ子の結婚のことなど、以下参考の※10を見られるとよい。
当時の女学生は教養ある女性を代表する存在で、時代風俗の象徴として注目されていたが、そのスタイルは椅子に座り授業を受ける際、裾が乱れるとの理由で、男袴の着用が強要され、時代によって違うがこの頃はみんな海老茶色の袴を穿いていたから、紫式部の名になぞらへて海老茶式部と呼ばれていた(※11参照)。
洋髪にしながら和風の袴をはき、和風の麻裏草履(草履の裏に、麻糸を平たく編んだひもをとじつけたもの)を履く人のちぐはぐさがからかいの対象になっていた。
演歌師 添田唖蝉坊は1908(明治41)年 『ああわからない』をつくった。唖蝉坊は、「ハイカラ文化」の背景にある文明開化のありようそのものを皮肉っている。

「ああわからないわからない 今の浮世はわからない
文明開化といふけれど 表面(うはべ)ばかりぢやわからない
瓦斯や電氣は立派でも 蒸汽の力は便利でも
メツキ細工か天ぷらか 見かけ倒しの夏玉子
人は不景氣不景氣と なき言ばかりを繰り返し
年がら年中火の車 廻してゐるのがわからない♪(以下略)」

上記は、『ああわからない』の一節。面白い歌だ。いろいろ今の世の中にアレンジして忘年会などでも歌ってみると受けるるかも・・・よ。どんな歌か以下で聞ける。

添田唖蝉坊・ああわからない / 土取利行(弾き唄い)

夏目漱石は『現代日本の開化』の中で、西洋の開花は内発的だが日本は外発的であると言っている(漱石の『現代日本の開化』は※1「青空文庫」で読める)。そんな漱石のいう「外発性」の文明開化はうめき声をよそに進行した。当時の人々はハイカラの波にもまれる己の姿を笑いつつ演歌で憂さをはらしていたようだ。

日露戦争後、にわかに台頭してきた自由主義・個人主義、さらには社会主義の思想的潮流に危機感を抱きながら政権を担った桂太郎内閣(1908 =明治41年、第2次、)は、天皇制に立脚する国民道徳(国民として守らなければならない道徳。※12参照)を強化する思想対策の一環として天皇の名において制定したものが「戊申詔書」であり、華美を戒め、上下一致、勤倹力行して国富増強にあたることが強調されている。
「戊申詔書」の内容とそれを口語訳したものは以下参考の※13:「『戊申詔書』の読み方- Yahoo!知恵袋」を見ればよくわかる。
「華を去り実に就く(かをさりじつにつく)」は四字熟語「去華就実(きょかしゅうじつ)」を読み下したもので、「華やかなこと、華美なことに走らず、実質あるものに力を注ごう」、「外見だけの華やかな装いを捨て去って、中身の充実を図れ」・・・ということ。普通四字熟語は中国の故事を転居とするが、この言葉は日本でこの時から使われたものと聞く。
文中に出てくる「華ヲ去リ實ニ就キ荒怠相誡メ自彊息マサルヘシ」の部分、ここでは、「軽薄を退けて質実を重んじ、荒んだ生活や怠けた暮らしに落ち込まないように、互いに戒め合って、弛みなく努力を続けてゆくべきである」・・・と訳している。この様な西洋かぶれを厳しく批判されていることに反発して、「パンの会」が設立されたのだろう。
第2次桂内閣は、「戊申詔書」による風紀引き締めと同時に、社会主義運動を弾圧、大逆事件(幸徳事件)の摘発や南北朝正閏問題への介入、出版物の取締強化を行った。また、徹底した緊縮財政とともに地方改良運動を起こして地方の立て直しを図った。
外交面では韓国併合(1910=明治43年)を実現したが、ここには朝鮮統監であった伊藤博文暗殺があったことで親日派と早期併合に向かったという。また、関税自主権の回復による条約改正の終了などが日本の国際的地位向上に尽くした。

このような時代背景のもとに結成された「パンの会」は耽美派のメッカの観を呈していたというが、文芸評論家野田宇太郎は、以下参考の※14:「異国情調の文藝運動」で敬愛した木下杢太郎らが興した、異国趣味溢れたパンの会という特異な近代文藝運動の論考をしている。その中で、以下のように書いている。
「パンの会は一面放肆(放恣/ほうし)なところもあったが,畢竟(ひっきょう)するに一の文芸運動で、因循な封建時代の遺風に反対する欧化主義運動であった。例の印象派の理論、パルナシャン、また、サンボリストの詩、一体に欧羅巴(ヨーロッパ)のその頃の文芸評論などが之に気勢を添へ、明星、又スバル方寸屋上庭園、あるいは、自由劇場というようなものの起こった時代に適応するものであった。
当時は皆概して、芸術至上主義で、好芸術を作ろうという欲望に燃えて居り、その為の(かまど)としてパンの会などが作られたのである」と木下杢太郎は書いている(石井柏亭談話より)。
木下杢太郎はこのパンの会の発起者であり、北原白秋と共にこの会を絶えず動かし、又爆発させた主導者であつた。
パンの会は一面、杢太郎が書いてゐるやうに放肆(放恣/ほうし)なところもあった。それはやがて、頽唐(たいとう)と言われ、デカタン(退廃的な生活をする人)と片付けられる理由となった。
何故、放肆でありデカタンの傾向をおびたのであろうか。
パンの会の人々は、当時二十四五歳を中心とした青年たちであった。彼らが放肆と云われる理由はその青年性にあった。つまり、彼らは青春の権利を主張したのであった。パンの会を文芸運動として成功せしめた力であったのである。
デカタンの傾向を帯びたのは、その精神の激しさを示すものであった。デカタンとは謂わば反逆精神である。当時にあっては、杢太郎が書いているように因循な封建思想に対する自由思想の反逆であり、封建固陋(ころう)の文学に対する欧羅巴精神の移入による世界文学への突進であった。世界性に向かって目を開かんとした当時の文学にあっては、異国情調 an exotic mood 又、は、 exoticism(異国かぶれ)が当然起きた。
パンの会は一面エキゾチシズム(異国の文物に憧れを抱く心境)の運動でもあった。エキゾチシズムを停滞した形で見るとき、それは頽唐という言葉にもなるのであろうが、パンの会のエキゾチシズムは不断の流動をみせたエキゾチシズムであった。
また、そのエキゾチシズムを当時の都会情調の文学としてエコオル(学派、流派)を造ったのはパンの会であった。・・・と、以降詳しい考察が書かれているので興味ある方を、そこを詠まれるとよい。

参考:
※1:青空文庫
http://www.aozora.gr.jp/index.html
※2:鴎外と観潮楼歌会
http://homepage3.nifty.com/nousann/ougai.htm
※3:刺青/谷崎潤一郎のあらすじと読書感想文
http://www5b.biglobe.ne.jp/~michimar/book/194.html
※4:写真で見る鎧橋の歴史
http://www.dumbonet.co.jp/yoroibashi_history.html
※5:銀座ライオン 会社概要 歴史・沿革 - サッポロライオン
http://www.ginzalion.jp/company/history/
※6:北原白秋記念館
http://www.hakushu.or.jp/index02.php
※7:食後の唄, 木下杢太郎著, 大正8
http://school.nijl.ac.jp/kindai/CKMR/CKMR-00023.html
※8 :クーン・ローブ商会のジェイコブ・シフ (3) HEATの日記
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/350.html
※9:百年前の財政危機(PDF)
http://jp.fujitsu.com/group/fri/downloads/report/economic-review/200804/02.pdf
※10:明治41年、ミスユニバース代表は学習院を退学処分になった。
http://blogs.yahoo.co.jp/padapadatalent/33717911.html
※11:海老茶式部
http://www.geocities.jp/wakame_01/memo_data/203kouchi.htm
※12:国民道徳
http://m-space.jp/a/novel.php?ID=R0319&serial=34610&page=0&view=1
※13:『戊申詔書』の読み方-- Yahoo!知恵袋
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1167345006
※14:異国情調の文藝運動 (野田宇太郎)
http://www.japanpen.or.jp/e-bungeikan/study/nodautaro.html
パンの会 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%91%E3%83%B3%E3%81%AE%E4%BC%9A

あなたの楽しいクリスマスと幸せな正月をお祈りしています

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今日はクリスマスイブ。そして、クリスマスが終わるとあっという間に正月。みなさん、素敵なクリスマス、そして、お正月をお迎えください。
私のこのブログも来年幕の内までお休みさせていただきますが、今年1年ご訪問ありがとうございました。
来年再開時には、また、また、よろしくお願いします。

以下クリックしてみてください。

Wish you a Mary Christmas & a Happy New Year!



 
参考:
blog-予知ダス
http://blogs.yahoo.co.jp/yochidas/63347192.html

ことしもよろしく!

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明けましておめでとうございます。
昨年は記録的な猛暑や寒さ、それに風水害等異常気象による自然災害が多く見られましたね。
温暖化の進行によるものでしょう。
これからはこのような異常気象が普通になるかもしれません。
でも、今年は、何事もないことを祈っています。
私のこのブログ松の内(15日まで)はお休みさせていただきます。
みなさんもお正月楽しくお過ごしくださいね。
松の内が明けましたら、またよろしくお願いします。

歌会始の儀

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皇室に伝わる文化(※1参照)は数々あるが、そのうちに、皇居において毎年1月に行われる、講書始に次いで行われるものに歌会始がある。
日本では『万葉集』の時代から和歌を詠み、歌い継がれ、この誇るべき文化を共有してきたが、この文化の中心におられたのが天皇であった。
元々は、皇族・貴族等が集い共通の題で歌(和歌)を詠んで披露しあう会を「歌会」といい、宮中では奈良・平安の時代から様々な機会に催され、年中行事としての歌会などのほかに、毎月の月次歌会が催されるようにもなった。これらの中で天皇が年の始めの歌会として催されるものが歌御会が(うたごかいはじめ)と呼ばれていた。
この「歌会始」のもととなる「歌御会始」の起源は必ずしも明らかではないが、鎌倉時代中期、太政官の外記が朝儀、公事を記録した公日記『外記日記』には亀山天皇期の文永4年(1267年)1月15日に宮中で「内裏御会始」という歌会が行われたと記録されているそうだ。
ただし、宮内庁のホームページ(※1)には記されていないがWikipedia-歌会始(※2)によると、以下のように記されている。
“当時は作文始・御遊始(管弦)と合わせた一連の行事として捉えられて御会始と呼ばれており、1日のうちに3つを行うのが通例と考えられていた。また年始に限らず、天皇や治天の君の執政開始後に開催される場合もあった。ただし、御会始そのものは室町時代に中絶しており、『晴和歌御会作法故実』(著者不明であるが、霊元上皇書写の国立歴史民俗博物館所蔵本がある)という書物によれば、後円融天皇永和年間の和歌御会始を模範として後柏原天皇が明応10年(文亀元年/1501年)正月の月次歌会を独立した儀式として執り行ったことが記されており、これが歌会始の直接的起源であると考えられている(参考の★参照)。」・・・と。
だから、歌御会始の起源は、遅くとも鎌倉時代中期の時代まで遡ることができるようだが、以後中断することもあったようだが、江戸時代からはほぼ毎年開催されるようになり、明治維新後も、1869(明治2)年1月に明治天皇により即位後最初の会が京都御所で開かれた。ただ、このとき詠進は、宮内省に置かれた御歌所が行なった。
1926(大正15)年には,皇室儀制令(大正15年皇室令第7号.※3参照)が制定され、その附式に歌会始の式次第が定められた。これにより,古くから歌御会始といわれていたものが、以後は「歌会始」といわれることになった。
先の大戦後は宮内省に置かれていた御歌所が廃止され、昭和22年(1947年)より在野の歌人に選歌が委嘱された。また、広く一般の詠進を求めるため、勅題は平易なものとされた。
毎年1月の歌会始の儀では、預選者(入選者)は、式場への参入が認められ、天皇皇后両陛下とともに会場(宮殿「松の間」)に出席。
入選者、選者、特に天皇から指命された召人、皇族、最後に天皇の順に披講される。まず講師(こうじ。全句を節をつけずに読む役)が読み上げ、発声(はっせい。第1句から節をつけて歌う役)が初句を節をつけて歌い、二句以下を講頌(こうしょう。第2句以下を発声に合わせて歌う役)数名が加わって歌い上げるそうだ((現在の概要参照)。
2014(平成26年)年1月1日、天皇ご一家は、新年を迎えられた。天皇陛下は年頭にあたっての所感を宮内庁を通じて文書で公表された。
2011(平成23)年3月11日の東日本大震災から3回目の冬を迎えても原発事故(福島第一原子力発電所事故参照)の影響で地元に戻れない人々や、仮設住宅で暮らす人々に触れ「被災者のことが改めて深く案じられます」とつづられた。そして、又、 陛下は昨年を「多くの人々が様々な困難に直面し、苦労も多かったことと察しています」と振り返られた。新年には、国民皆が苦しい人々の荷を分かち持つとともに「世界の人々とも相携え、平和を求め、良き未来を築くために力を尽くしていくよう願っています」と記された。
又宮内庁は新年にあたり、天皇陛下が昨年詠まれた歌5首と皇后さまの歌3首を発表された。陛下の詠まれた5首には、10月の熊本県訪問で面会した水俣病患者への思いを詠んだ歌があった。また、皇居にて詠まれた2首の歌の中には、原発事故被災者を思いやる歌があった。以下がその歌である。
〈水俣を訪れて〉
「患ひの元知れずして病みをりし人らの苦しみいかばかりなりし」
〈皇居にて二首〉の中の1種
「被災地の冬の暮らしはいかならむ陽(ひ)の暖かき東京にゐて」

例年、新年の「歌会始の儀」の後に翌年のお題が発表されるが、2012(平成24)年歌会始のお題は「岸」であったが、やはり前年の東日本大地震を詠まれた歌が多かった。その中の、天皇陛下、皇后陛下の御歌を以下に記す。
天皇陛下御製
「津波来(こ)し時の岸辺は如何なりしと見下ろす海は青く静まる」
皇后陛下御歌
「帰り来るを立ちて待てるに季(とき)のなく岸とふ文字を歳時記に見ずとき」

上掲の御製は、前年の5月6日に、東日本大震災被災地お見舞いのため岩手県に行幸啓(ぎょうこうけい)になった際、釜石市宮古市の間をヘリコプターにお乗りになり、津波により大きな被害を受けた被災地を上空からご覧になったときの印象を詠まれたものだそうである。
又皇后陛下御歌は、俳句の季語を集めた歳時記に「岸」という項目はなく、そのことから、春夏秋冬季節を問わず、あちこちの岸辺で誰かの帰りを待って佇む人の姿に思いを馳せてお詠みになられた御歌であり、この度の津波で行方不明となった人々の家族へのお気持ちと共に、戦後の外地からの引揚げ者シベリアの抑留者等、様々な場合の待つ人待たれる人の姿を、「岸」という御題に重ねてお詠みになっているようだ。

又、昨・2013(平成25)年歌会始のお題は「立(りつ)」で、その時の天皇陛下の御製・皇后陛下の御歌はは以下のものであった。
天皇陛下御製
万座毛(まんざもう)に昔をしのび巡り行けば彼方(あがた)恩納岳(おんなだけ.。恩納村キャンプ・ハンセン内の実弾演習地内にある山)さやに立ちたり」
この歌は、天皇・皇后両陛下が前年、沖縄県で開催された全国豊かな海づくり大会の機会に沖縄県の景勝地として有名な恩納村の万座毛を訪問した際に、この地と恩納岳が琉歌に詠まれた18世紀の琉球王朝の時代に思いをはせながら詠まれたものとのこと。
難解な歌だが、この歌で注目するのは「彼方」に振られたルビ「あがた」だろう。辞書には「あがた」の読みは出ていないが古歌に用例があるのだろうか。琉球王朝時代の代表的女流歌人と言われる恩納ナビーの歌に「あがた」の読みが出てくる(※4参照)。
皇后陛下御歌
「天地(あめつち)にきざし来たれるものありて君が春野に立たす日近し」
陛下が、前年冠動脈バイパス手術後しばらくの間、胸水貯留の状態が続いたが、春になると体調が良くなると医師から聞いていた皇后さまは、ひたすら春の到来をお待ちでしたが、ある日、あたりの空気にかすかに春の気配を感じられた時に、陛下が春の野にお立ちになるのもきっと近いと、心がはずんだことを詠まれたものだという。皇后さまのお優しいお気持ちが表れている。

さて、昨・2013(平成25)年1月16日に発表され、2014(平成26)年1月15日の今日の歌会始のお題は「静(せい)」だったが、両陛下は、どのようなお歌を詠まれるのであろう。
今朝10時30分よりNHK総合テレビで皇居・正殿松の間より生中継される。
辞書などを調べてみると、「」とは「安定した状態であり、確固として地に足をつけた状態で、妄(みだ)りに心動かされることなく、自分自身をしっかりとみつめることのできる静寂なる境地をいう」、とのこと(※5も参照)。
株式市場関係者の間では、この歌会始で発表される「お題」が、不思議と相場に密着するものとして以前から関心を集めていると聞く。
2013(平成25)年のお題は「立」だった。文字通り、相場は政権交代と「アベノミクス」の効果で2012(平成24 )年の土壇場で相場は「立」を演じた。そして、昨年発表された2014年のお題は「静」。躍動感あふれるお題を期待した向きにはやや肩透かしだったかも知れないが、今年も静かに上昇気流に乗っていってくれると有難いのだが・・・・。
兎にも角にもアベノミクスの「三本の矢」により、15年続いたデフレからの脱却に向けて着実に歩みを進め、マイナス成長からプラス成長へ大きく反転し、実態経済が動き始めた。2020年のオリンピックパラリンピック東京大会の招致にも成功した。
日本中を覆っていた暗い空気は一掃され、日本人にも夢や希望の持てる明るい新年を迎えることができたことは確かだ。しかし、円安による諸物価高騰の中、4月からの[消費税増税に伴う国内消費の縮小」の他 「東アジアの外交情勢の不安定化」、「中国経済の想定以上の減速など、新興国における需要減」、「米国の財政問題、欧州債務危機の再燃や中国経済の停滞などによる国内企業への影響拡大」などを挙げ、国内経済の動向を懸念している人たちも多いようだ(※6参照)。
今年の干支は。午は、株式市場関係者の間では「辰巳天井、午尻さがり」といわれ、十二支の中ではこれまで下落率が高いという。
前回の午年の2002 (平成14)年はITバブル崩壊直後で日経平均株価は年間で約19 %下落、その前の1990(平成2)年末は前年末の大納会についた過去最高値3万8915円から約39%の大幅下落となり、バブル崩壊を象徴する年だった(※7参照)。戦後5回の午年の平均はマイナス7・5%で、十二支別の騰落率では最下位だという。
「辰巳天井」の「巳」にあたる昨年は、株価が大幅に上昇。市場では、「消費税増税があり、経済が衰退する局面に陥る可能性も否定できない」と、今年も格言通りの年になってしまうことを警戒する声もあった。
ただ、12月30日の大納会に出席した安倍晋三首相は「午の尻さがりという人がいますが皆さん忘れてください。来年も『うま』くいきます」と強調していたそうだが・・・(※8)。
東京金融市場がスタートした今年1月6日、ご祝儀相場ともいわれる年初の取引は例年上がることが多いのだが、今年の様子は違った。
「円安・株高」に沸いた昨年末とは一転株価急落、荒れる円高で進む荒れ模様となった。
昨年末までの株価上昇の反動で「利益確保の為に投資家が一斉に売り注文を出したようで、2日後には買い戻しが出たが、やはり、春の消費税増税、米国の金融緩和縮小等、景気を支えるのには不安な要素が一杯。今年は、どうなるのか、油断はできない年ではある。
今年の歌会始のお題の通り「静」の年であることを祈るばかりですね。


(冒頭の画像は1950年頃の宮中歌会始。Wikipediaより)
参考
小川剛生「南北朝期の和歌御会始について」『和歌文学研究』78号(1999年6月)(所収:「北朝和歌御会について -「御会始」から「歌会始」へ-」(『二条良基研究』(笠間書院、2005年)第三篇第一章)
※1:宮内庁:皇室に伝わる文化
http://www.kunaicho.go.jp/culture/kosyo/kosho.html
※2:歌会始 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%8C%E4%BC%9A%E5%A7%8B
※3:中野文庫 - 皇室儀制令
http://www.geocities.jp/nakanolib/kou/kt15-7.htm
※4:琉 歌
http://www.edu.city.kyoto.jp/hp/saikyo/okinawa/ryuhka.html
※5:静とは - 語彙 - 古今名言集〜座右の銘にすべき言葉
http://www.kokin.rr-livelife.net/goi/goi_se/goi_se_15.html
※6:2014年の視点:企業のリスク要因は新興国減速や消費増税
http://jp.reuters.com/article/jp_fed/idJPTYE9BQ01R20131227
※7:バブル崩壊後[平成2年〜現在]
http://tax.dreamlog.jp/archives/50464010.html
※8:【大納会】「辰巳天井」で終わったが…来年「午尻 ... - MSN産経ニュース
http://sankei.jp.msn.com/economy/news/131230/fnc13123021100012-n1.htm?utm_source=dlvr.it&utm_medium=twitter

インターネット歳時記 - 日本伝統俳句協会
http://www.haiku.jp/saijiki/
米財政問題、今後も波乱含み 14年2月に債務上限問題 :日本経済新聞
http://www.nikkei.com/article/DGXNASDC11010_R11C13A2EA2000/
米財政問題に関する与野党合意が成立。政府機関閉鎖は完全に回避へ
http://blogos.com/article/76124/
中国経済の現状2014年1月 政府借金の増加で中国崩壊危機
http://funshoku.blogspot.jp/2014/01/chugoku-keizai-no-genjou-2014-1-seifu-shakkin-zouka-chugoku-houkai-kiki.html
2014年世界経済大予測!vol.2〜米中・アジア・新興国の経済見通しのまとめ〜
http://zuuonline.com/archives/5690

しあわせ運べるように

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昨日、NHKのあさイチで阪神淡路大震災以降神戸で歌い継がれている歌の紹介があった。
神戸市内の小学校で音楽教諭臼井 真さん作詞・作曲による「しあわせ運べるように」である。
同震災から今年は19年目にあたる。私の母は震災の前年に亡くなり、我が家で49日の法要を執り行い、兄弟並びに親戚一同が帰ったその翌朝の大地震であった。幸い我が家は、地盤の確りしている山の登り口にあるので、倒壊は免れたが、2階のベランダから浜側のJR新長田から高取の間の大火災の光景はいまだに忘れられない。火災のあった後の町の光景は、まさに、第2次世界大戦後の焼け野原と同じであった。
同震災では多くの人が亡くなられたが、震災では無事に命を取り止めたものの、その心労で、震災直後に多くのお年寄りが亡くなられた。
変な話だが、後に震災の話が出るとよく、「あなたのお母さんはいい時に亡くなられてよかったね」といわれた。地震で怖い目をしなくて良かったからである。いわれる通り、非常に臆病で怖がりのおふくろなど、震災の時生きていても、震災後亡くなられた多くのお年寄り同様、1〜2か月のうちに心労でなくなっていただろう。
そんなこと考えていたら、学生時代の友人のことを思い出した。震災で家が倒壊し、その時、私より相当早く結婚をしていたので、同居の息子夫婦には子供が生まれていた。その子は1歳になったばかりの女の子であった。
その孫が生きていれば今年は成人式を迎えていたはずだ。親として子供に先立たれたこと、いつまでたっても心の傷は消えず本当につらいことだろう。
早いものだ。心残りであった私の一人息子も震災の翌年に結婚をしてくれた。この正月、我が家に遊びに来てくれた孫も中学2年になっている。震災を知らない世代だ。
神戸の街も、外見は復興したが未だに、震災の傷の癒えない人たちが多い。
6434人が亡くなり、3人が行方不明になった阪神・淡路大震災は今日、発生から19年となる。神戸市内では各地で追悼行事が催され、被災地は祈りに包まれる。
私の住んでいる同じ町内にある私の信仰しているお寺も、毎年、1月17日には阪神淡路大震災犠牲者追悼の供養が行われる。私も今から、お寺へお参りをします。

「しあわせ運べるように」の歌いい歌ですよ。
阪神淡路大震災被災者の、そして、2011年3月の東日本大震災被災者の方々の幸せを願って「しあわせ運べるように」歌ってあげてください。
歌詞の神戸のところは、被災地名に変えて歌ってもいいですね。

「しあわせ運べるように」作詞・作曲 臼井 真
神戸市立港島小学校生徒による合唱は下で聞ける。
>「しあわせ運べるように」神戸市立港島小学校生徒-YouTube


「人口政策確立要綱」が閣議決定された日

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1941(昭和16)年の今日・1月22日は1夫婦の出産数を平均5児とすることを目標に「人口政策確立要綱」が閣議決定された日である。その内容がどんなものか、当時の新聞記事(大阪朝日新聞 1941.1.23=昭和16年。※1参照)を見てみると、以下のように書かれている。
昭和三十五年総人口一億を目指す
人口政策確立要綱【閣議決定】
大共栄圏の確立を目標として歴史的巨歩を踏み出したわが国はその東亜における先導者たる使命達成のため今や急激かつ永続的な人口の量的ならびに質的の飛躍的発展増殖が要請せられるにいたり右人口政策の確立につき企画院厚生省(現厚生労働省の前身)が中心となり研究中であったが成案を得るにいたり政府は昭和三十五年内地人人口一億を目標とする人口政策確立要請案を二十二日の臨時閣議に付議星野企画院総裁より要案の説明をなし金光厚相、石黒農相、橋田文相および東条陸相より人口政策確立の適切急務なる百発言あり正式閣議決定をなした、しかして政府は右確立要綱に本づき急速施策を実施し日本民族の悠久なる発展を期するとともにその人口配置の適正化をはかり東亜における指導力確保の不動国策の達成に邁進することとなった、要綱中特に注目すべきは人口増加の方策として出生増加のため今後十年間に婚姻年齢を現在よりおよそ三年早め一夫婦の出生数平均五児(現在平均四児)を基本目標としこれが方策として婚資貸付制度、独身税、家族負担調整金庫制度(仮構)などを取上げている点および国土計画の一環として人口の産業的、地域的分布の再編成のため農村人口の一定保有、大都市の地方分散を企図している点である。
 しかして政策は同日人口政策確立要綱および右に関する金光厚相および伊藤情報局総裁談を発表した。
・・・と、して、以下「人口政策確立要綱」の、趣旨(第一)、目標(第二)、目的を達成するために摂るべき方策はどのような精神を確立することを旨として計画するか(第三)、具体的な人口増加の方策、が詳しく書かれている(詳細は※1参照)。

「帝国の荒廃はこの一戦にあり」
1941(昭和16)年12月8日、日本は、アメリカ、イギリス、オランダと戦争に突入した。日本軍はまず英領マレー半島に奇襲上陸(マレー作戦)、その後にハワイの真珠湾を猛攻した(真珠湾攻撃)。太平洋戦争第二次世界大戦の局面の一つ)が始まった。
太平洋戦争とは、1941(昭和16)年〜45(昭和20)年の間、日本がアメリカ海軍が多数駐留するハワイの真珠湾を攻撃し始まった戦争である。
本来、第二次世界大戦は、主にヨーロッパでの戦争のはずだが、なぜ、日本とアメリカまでが争うことになったのだろうか?
それについては、Wikipedia -太平洋戦争開戦前史又、その簡潔な概略などは以下参考の※2:「太平洋戦争の原因と結末」を参考にされるとよい。
ハワイ作戦は奇跡的な成功だった。だが、奇襲はアメリカ国民を総決起させる結果となった。初戦の大戦果に日本人は熱狂したが、早期和平は一気に遠のく結果となった。
時代が時代だけに、当時の日本にとっては、欧米諸国(特に大英帝国・アメリカ合衆国)の植民地支配から東アジア・東南アジアを解放し、東アジア・東南アジアに大日本帝国を盟主とする共存共栄の新たな国際秩序を建設しようという構想のもと東亞共榮圏を確立し,これを存続させるためには、人口を増加し優秀な人材を育てるための人口政策の確立が必要と考えたのであろう。そのためには、昭和35年に内地の総人口を1億人にするため、10年間で平均婚姻年齢を3年早め、夫婦の出生数を平均5人にするという壮大な計画であった。
ただし、今日から見て、その達成手段等については批判も多々あるところだろう。昨年の朝日新聞の有名なコラム「天声人語」(2013年5月21日付)では、「閣議決定されたその文書にはすごいことが書いてある。」・・・との書き出しで、この時の「人口政策確立要綱」について批判的に取り上げていたのを思い出した。
以下詳しい記事は覚えていないので、ネットで検索した、※3のものを転載すると以下のようになる。

「閣議決定されたその文書にはすごいことが書いてある。結婚年齢を今より3年早くする。子どもは平均5人とする。女性の就業は抑制する。独身者は税金を重くする。避妊、堕胎は禁止する――
▼1941年1月の「人口政策確立要綱」である。太平洋戦争の前夜、東亜共栄圏を建設するため、人口を急激に「発展増殖」させる方策だ。もちろん今日、こんな決定は通るまい。とはいえ底を流れている発想はけっこう根強いのかもしれない
▼6年前、1度目の安倍政権の閣僚が女性を「産む機械」に例え、「頑張ってもらうしかない」と言って、大騒ぎになった。そのとき各党は「人口政策」という言葉で批判した。国のために産んでくれという発想はまさに同じだったからだ
▼いまの安倍政権もそうだとは思わないが、脇は締めた方がいい。内閣府が「生命(いのち)と女性の手帳」(仮称)の配布を検討し、随分批判されている。妊娠や出産に関する正しい知識を「啓発」するのだという。要は若いうちに産んだ方がいいよ、と
▼知識はあるにこしたことはないが、少子化対策の文脈で出てきた話である。子どもが減ったのは女性だけの責任なのか、という議論になるのは当然だろう。森雅子少子化相は男性に配らないとは言っていないというが、どうなるやら
▼結婚や出産は一人一人の選択であり、多様な人生が等しく尊重されなければならない。特定の生き方や家族のあり方を国が促したり、押しつけたりする。それを余計なお世話という。 」・・・・と。

「天声人語」の辛口のコラムは大学や就職の入試問題などにもよく引用されたりすることが多かったことから、私も学生時代から愛読しており、今でもよく、ブログなどで引用させてもらってもいる。
ただ、このコラムでは安倍内閣の少子化対策を批判しているようだが、「もちろん今日、こんな決定は通るまい」と断りながらも、「とはいえ底を流れている発想は同じだ」「国のために産んでくれという発想はまさに同じだ」と、わざわざ太平洋戦争前の大東亜共栄圏建設のための人口政策を引き合いに出しているところが如何にも朝日新聞流であり、少々嫌味を感じるところである。
最初の「独身者は税金を重くする」・・というのは、「人口政策確立要綱」の報道の時にも、基本目標達成の方策として婚資貸付制度、家族負担調整金庫制度(仮構)などと共に「独身税」を取り上げている・・としているが、同要綱の第四 人口増加の方策では、「ト、扶養家族大きものの負担を軽減するとともに独身者の負担を加重するなど租税政策につき人口政策との関係を考慮すること」としているのであり、独身者よりも、子供を育てる家族の税負担を軽減する方策が悪いとは言えないだろう。
次の「安倍政権の閣僚が女性を「産む機械」に例え、「頑張ってもらうしかない」と言って、大騒ぎになった」・・というのは、2007年1月27日、島根県松江市で開かれた自民党県議の集会で当時の厚生労働大臣柳澤 伯夫が、少子化対策に触れて『なかなか女性は一生の間にたくさん子どもを生んでくれない。 人口統計学では、女性は15〜50歳が出産する年齢で、その数を勘定すると大体わかる。ほかからは生まれようがない。』(要約)、『産む機械っつちゃなんだけども、装置がですね、もう数が決まっちゃったと、機械の数、機械っつちゃ***けども、そういう時代が来たということになると、あとは一つの、まあ、機械って言ってごめんなさいね その産む、産む役目の人が、一人頭で頑張ってもらうしかないんですよ、そりゃ』(音声書き起こし)、『一人当たりどのぐらい産んでくれるかという合計特殊出生率が今、日本では1.26。2055年まで推計したらくしくも同じ1.26だった。 それを上げなければならない。』(要約)などの発言をした(Wikipedia-柳澤伯夫より引用)ことを言っているのだろう。
ここでは、「機械って言ってごめんなさいね」と断った上で、確かに例えは悪いかもしれないが、内容的には「高齢出産では出生率が落ちるので子供を産むならもう少し若いうちに子供を産んでもらいたい」との希望を言っているに過ぎないと思うのだが、それを、「機械」という言葉尻だけを捕まえて、女性を「産む機械」に例えたとマスコミが歪曲して報道し、大騒ぎになったのではないだろうか。この様なやらせ的な報道の仕方は、最近の、マスコミではよく目にするところだ。
又、コラムでは「子どもが減ったのは女性だけの責任なのか、という議論になるのは当然だろう。」・・・と書いているが、子供は女性一人だけでいくら頑張っても産めるものではないのはわかりきっていることであり、子供の出生の減少には男性にもその責任があるのは当然であろう。
政府は昨年5月7日、少子化対策を議論する作業部会「少子化危機突破タスクフォース」(※4、参照。主宰・森雅子少子化担当相)の会合を開き、若い女性向けに妊娠・出産に関する知識や情報を盛り込んだ「生命と女性の手帳」を作製し、10代から配布する方針を決めた。
晩婚化晩産化が進む中、若い世代に妊娠・出産について関心を持ってもらうのが狙いで、来年度からの配布を目指す予定の様である。
これに対し、女性団体などからは「妊娠・出産を女性だけの問題のように扱っている」など批判の声が上がっているようである(※5参照)。
日本産科婦人科学会(※6参照)の調査では2008(平成20)年に不妊治療を受けた患者は30代後半が中心だが、妊娠数は35歳を境に減少。出産率(出生率)は32歳から下がり始め、流産率は逆に上昇することが分かっているという。
したがって、会合では早い時期に妊娠・出産について正しい知識を身につけてもらうことが、将来的に希望する家族の形成に効果的との認識で一致しているという。
森少子化担当相は同日、会見で「中高生くらいから知識を広め、女性が自分のライフステージを選択、設計できるようにすべきだ」と説明した(※7、※8参照)
これに対して、ある女性団体が「なんでもかんでも女性に押しつけすぎ」などとする声明を発表しているようだがコラムではこのことを言っているのだろう。
最後に、「結婚や出産は一人一人の選択であり、多様な人生が等しく尊重されなければならない。」と言っているが、出産や、結婚、生き方なども男女ともに、自由であることは憲法でも保障されていることには違いない。だか、「特定の生き方や家族のあり方を国が促したり、押しつけたりする。それを余計なお世話という」・・・とは、ちょっと言い過ぎではないだろうか。
現実に今、日本では、少子・高齢化のもと、年金や医療、その他、社会保障制度が破綻しかけているのである。このような問題を解決するのは簡単なことではない。
出産・子育てに必要な社会的インフラの整備が不十分であるという問題が以前から指摘されている。現在、都市部での保育所の不足がいわれており、また、出産できる産婦人科のある病院不足、小児科のある病院不足といった問題も深刻である。これはこれで、放置されているわけではないが、一挙に片の付く話ではない。
他にもしなければならない少子化対策は多くある。ただ、先立つものは金である。何をするにも金がなければできないことが多い。歳入を考えず,批判するだけなら無責任な野党と同じである。
晩産化や高齢出産の増加(晩婚化・晩産化の状況参照)に伴って卵子の老化や不妊症(※9参照)などの問題があることは事実なのであり、これはこれで何とかしてゆかなければいけない問題であろう。
子供の出来ないのがすべて女性の責任ではないし、不妊の原因は男子にもある。子供を産まないというよりも子供を産めない最大の原因は生活難にあるとも言われている。この様な問題が、すぐに解決できる方法があるのならそれを提案すべきだ。
もし、実際に子供を産む女性の高齢出産にも問題があるとすれば、それはそれで真剣に対応してゆかなければいけないのではないだろうか。何でも批判さえすればよいというものではないだろう。

かって、農村社会を中心とする日本では、人は労働力として貴重な存在であり、子供を産めない女性は「石女(うまずめ)」と呼ばれ、白い目で見られさえしてきた。そして、子供は「子宝」といわれ、女性には家庭で子供を産み、育てる良妻賢母が求められてきた。
そのような中、明治から昭和初期にかけて、13人もの子どもを出産しながら歌人、作家、思想家として大活躍した与謝野晶子は働く女性と子育てについて大正の昔に繰り広げられた母性保護論争(※10:「いくじれん」の少子化危機突破タスクフォースの開催について 参照)の前に、評論『母性偏重を排す』(1916年、※11参照)の中で、「誤解を惹かないために予め断って置く。私は母たることを拒みもしなければ悔いもしない、むしろ私が母としての私をも実現し得たことにそれ相応の満足を実感している。誇示していうのでなく、私の上に現存している真実をありのままに語る態度で私はこれを述べる。私は一人または二人の子供を生み、育て、かつ教えている婦人たちに比べてそれ以上の母たる労苦を経験している。この事実は、ここに書こうとする私の感想が母の権利を棄て、もしくは母の義務から逃れようとする手前勝手から出発していないことを証明するであろう。」・・・と、断った上で、「エレン・ケイトルストイの主張する「母性中心説」を否定し、最後に「我国の婦人の大多数は盛に子供を生んで毎年六、七十万ずつの人口を増している。あるいは国力に比べて増し過ぎるという議論さえある。私たちはむしろこの多産の事実について厳粛に反省せねばならない時に臨んでいる。旧式な賢母良妻主義に人間の活動を束縛する不自然な母性中心説を加味してこの上人口の増殖を奨励するような軽佻(けいちょう)な流行を見ないようにしたいものである。」と結んでいる。

しかし、1930年代の日本は、毎年100万人ずつ人口が増加していたが、日中戦争の影響もあり1938 (昭和13) 年には30万人ほどの増加(本当は30万の減少らしい。このことは後に記す)と、大幅な後退となってしまった。そこには、大正からの“晩婚少子”傾向に出征兵(軍隊に加わって戦地に行く兵のこと)「の増加が追い打ちをかけたためであった。
この人口減少に危機感を強めた厚生省は、その対策に迫られ、翌1939(昭和14)年8月8日、「優良多子家庭表彰要綱」を発表、又、同年9月30日には、同省付属予防局民族衛生研究会がドイツの「配偶者選択10箇条」を手本に、子供を増やそうと「結婚十訓」を発表するところとなったという(「結婚十訓」など※5 :「女性手帳」参照)。
人口政策(※1:「国立社会保障・人口問題研究所」の刊行物>人口問題研究の第2巻 第2号 06 人口政策確立要綱の決定第1巻 第1号17 人口問題研究所設置に関する若干の新聞論説抜萃 参照)は満州事変から日中戦争に突入していく 口実となってきたが、太平洋戦争に至る過程で, 人口政策は戦争のための人的資源と して「産めよ殖せよ」政策に転換していったようだ。
そして、「結婚十訓」の最後の「産めよ殖やせよ」が、その後1人歩きしていき、1940(昭和15)年に、初めて優良多子家庭の表彰を実施し、1941(昭和16)年に閣議決定された「人口政策確立要綱」では、当時の24歳の結婚平均年齢21歳にして出生数増を促し、「早く結婚して5人の子供を産むことが日本人に課せられた義務である」とされた。
ただ、厚生省の発表した「産めよ、殖やせよ」のスローガンはこの「結婚十訓」から来ているが、本来の言葉は「産めよ育てよ国のため」だったのだという。
人口問題について、1926(大正15)年「産めよ殖えよ」(『経済往来』=日本評論社が発行した月刊総合雑誌)を書いた高田 保馬は、日本の人口が増えても問題はないといっているのであって、「産めよ殖やせよ」のような政策を実施せよといっているわけではないことはその論文を読めばわかるという(※13:「お産を待ちながら:私にとっての大きな発見3」 のタグ / 産めよ殖やせよの高田保馬「産めよ殖えよ」参照)。
1938(昭和13)年1月、国民の体力向上を目指して厚生省が設置され、11月に、厚生省予防局に民族衛生研究会が設置される(参考の★印参照)。
そして、12月には、国立人口問題研究所(現:国立社会保障・人口問題研究所)設置に向けて上田貞次郎が1939(昭和14)年2月、「我国現下の人口問題」を発表。
ここで、初めて出生率低下の傾向についての言及、又、この中で「産めよ殖えよ」というかけ声が出始めていることにも触れた部分があるそうだ(※13参照)。
1938(昭和13)年の人口動態が、翌年に発表されたとき、自然増加が約30万の減少を示したことから(このあたり、100万から30万に下がったのではなく、30万減少したということだったようだ)、「産めよ殖やせよ」という多産奨励策が声高に叫ばれるようになるが、これに対置させるために、上田が持ち出したのが、「育てよ病ますな」という標語だったという。
「我国現下の人口問題」(講演)で、上田は、戦争が人口に及ぼす影響を、ドイツの例を取り、説明しており、人口ピラミッドが、ある年齢のところが欠けているために、日本のようにピラミッド型にならず、紡錘型になっていること。国内の食糧物資が不足すると犠牲になるのは小さな子供で、乳幼児の死亡率が増加して、引いては後年、大人の人口を減らす原因になること。また、多くの戦死者が出て、後年まで大きな影響を及ぼすこと(「子供のない国民」)。
一方、さらに重要な問題として、死亡率の問題があること。日本の総人口に対する死亡率を見ると段々に下がってきており、これは喜ばしいことであるが、欧米の死亡率に比べるとまだ非常な高率を示していること(5歳になるまでに4分の1が死亡)。
「産めよ、殖えよ」には確かに根拠はあるが(と譲歩しつつ)、「育てよ、病ますな」ということを同時に考えてもらいたいと、上田はくり返し訴えている(※14参照)そうで、上田が亡くなった翌1941(昭和16)年、人口政策要綱とともに発表された正式な「結婚十訓」の10番目の標語は、「産めよ殖やせよ国の為」ではなく、「産めよ育てよ国の為」となっていたという。
これは上田の闘いの名残りであり、人的資源ということばを始めて用いたのも、この時期のことであるという。上田は、こうした事態に危機感を募らせ、このとき以降、このかけ声に対抗すべく、自分自身の標語「育てよ、病ますな」を並置させるようになったようだ。
上田の遺稿となった、「支那事変と我国人口問題」でも、「事変の結果として第一に現わるるは出生の減少であるが、それに対する政策は産児奨励のみではない。むしろ産まれたものの健康を維持し、その死亡を少なくすることに重点をおいてしかるべきである」として、「育てよ病ますな」の標語を提言。
そして、「もし我国の乳幼児及び少年層の死亡率が一躍して欧州と同じくなるならば、たとい現在の産児は少なくなっても、二十年後の生存者は却って多くなる計算である」と、その本質において、軍部のキャンペーンに真っ向から対立する論理を展開していたそうだ(※13「お産を待ちながら:私にとっての大きな発見3」 のタグ / 産めよ殖やせよの上田貞次郎とともに13 参照)。
1939年8月8日、厚生省より多子家庭表彰要綱が発表されたとき、これを伝える新聞報道には、「産めよ殖やせよ」ということばがすでに使われていたという。
同年8月25日、上田らの尽力によって、厚生省内に国立人口問題研究所が設置される。同年10月4日に厚生省予防局民族衛生研究会より「結婚十則」の草案が出される。その10番目の標語は「産めよ殖やせよ国の為」となっていた。
しかし、上田が亡くなった翌年、人口政策要綱とともに発表された正式な「結婚十訓」の10番目の標語は、「産めよ殖やせよ国の為」ではなく、「産めよ育てよ国の為」となっていたという。
いずれにしても、「人口政策要綱」が「単に産めよ増やせよ」だけを言っているのではなく、人口増加の方策について、「人口の増加は永遠の発展を確保するため出生の増加を基調とするものとし併せて死亡の減少を諮るものとしており、その上で、精神的および肉体的な資質の増強も計画しているなど、幅広いものであった。
日本が太平洋戦争に突入したことなどその良し悪しは別として、そのような戦時体制の中で出された「人口政策要綱」を当時の時代背景を考慮することなく、ただ、現在のような平和な時代を前提に、「産めよ増やせよ」といったところにだけ注目して批判をするのは好きじゃないね〜。

現代の日本では凄まじい勢いで少子・高齢化が進んでいる。
日本では2005年から2055年の間に日本人の労働力が半減し、高齢者の割合は50年間で20%から40%に倍増すると予測されている。そして、2050年には日本人は5人に2人が65歳以上の高齢者になる。つまり、今後日本では労働力が半減し、高齢者が倍増すると予測されている。このような急速な少子高齢化の進展は、社会保障制度に変革を迫るだけでなく、経済構造、政治制度、家族形態など日本のあらゆる制度を根底から覆すインパクトがある。
一般に資本主義経済の発展に伴い、国民生活の近代化の過程において、出生率と死亡率はともに逐次低落し、多産多死型の人口から少産少死型の人口に変貌するものとされている(人口転換参照)が、我が国においても、ほぼ1920 (大正9)年を境にして、出生率と死亡率が着実に低下し始めた。
日本は、平均寿命、高齢者数、高齢化のスピードという三点において、世界一の高齢化社会といえる。
日本の少子高齢化の原因は、出生数が減り、一方で、平均寿命が延びて高齢者が増えているためであるが、日本の人口構成を人口ピラミッドで見ると、第1次ベビー・ブームの1947年 - 1949年(昭和22 - 24年)生まれと第2次ベビーブームの1971年 - 1974年(昭和46年 - 49年)生まれの2つの世代に膨らみがあり、出生数の減少で若い世代の裾が狭まっている。また、第1次ベビーブームの人達が、高齢者の仲間入りを始めているため今後の高齢化は一気に進展する。
近年ではこのような少子高齢化の進行に伴い、次の段階として到来するのは従来の段階に当てはまらない、少産多死型の形態と考えられており、日本ではすでにその兆候が表れ始めているのである(※16参照)。
高齢化のもととなる平均寿命の延びは、社会保障制度、特に疾病保険と医療扶助の急速な普及と、医療学および公衆衛生の驚異的な進歩による死亡率の低下であり、これをとやかく言うことはないであろう。問題は少子化である。
少子化とは、普通に言えば、出生率の低下あるいは生まれてくる子ども数の減少を意味しているが、一般的には、出生率の水準が特に人口置換水準(Replacement-level fertility)以下にまで低下すること(故に、単なる出生率の低下とは異なるとされる)をいう。
人口置換水準とは、長期的に人口が安定的に維持される合計特殊出生率(1人の女性が一生の間に産む子の数)をいい、少子化の指標としては一般的にはこの指標が用いられるが、合計特殊出生率の推移は参考※17:「少子化の要因と対策−晩婚化、未婚化」の図1-1を見られるとよい。

人口学によれば、合計特殊出生率は、有配偶出生率(一夫婦当たりの出生率)と有配偶率(結婚率)の影響を受ける。図5-1(※3参照)は、合計特殊出生率の低下が「有配偶出生率」と「有配偶率」のどちらの要因がどれだけ影響して生じたものなのかを示しているが、このグラフを観察すると、なぜ少子化の原因が女性の「晩婚化」「未婚化(非婚化)」であると指摘されるのかが分かる。
1970年代までの合計特殊出生率の低下は、有配偶出生率と有配偶率の両方の低下が要因であるが、特に有配偶出生率、つまり一夫婦当たりの子供の数の減少の影響が大きいといわれている。一方、1980年代以降は、有配偶者出生率は上昇したにもかかわらず、それを相殺して余りある程に有配偶率が大きく減少し、結果として合計特殊出生率が低下しているのだそうだ。したがって、合計特殊出生率という指標を用いて少子化の原因は何かを考えるなら、1980年以降の少子化の要因は「有配偶率」の低下、つまり結婚率の低下であるという結論になるという。
合計特殊出生率の変化の要因分析からは、有配偶出生率の低下よりも有配偶率の低下が少子化の要因であるという結果になるから、結婚した女性が子供を産まなくなったのではなく、女性の初婚年齢が上がっている(晩婚化)、女性がなかなか結婚しなくなった(未婚化さらには非婚化)という現象が少子化の原因だと指摘されるのは、合計特殊出生率を少子化の指標として使う以上は仕方のないことだが、現在、間違いなく「少子化の原因は晩婚化及び未婚化である」と結論づけるのは難しいものの、晩婚化や未婚化が進行しているのは事実である。
したがって、なぜ晩婚化や未婚化(非婚化)という現象が生じているのかを考え、その対応が考えられるべきであるが、晩婚化や未婚化の要因としてあげられるものとしては、
(1) 女性の経済力上昇による結婚による利点の減少、結婚のリスク化
(2) フリーターやニートの増加などによる経済的不安
(3) 育児支援制度の不備
などがあるという。いずれにしても、今程に晩婚化や未婚化が進んだ一つの要因としては、女性の社会進出と、その女性の「将来に対する不安」が挙げられるようであり、この「女性の社会進出と少子化対策」については、女性の権利と少子化対策は果たして両立するのか…といった従来からの複雑な問題があるが、これらを解決するためには、結局は、子供をどのように産み育てるかといった婚姻制度まで含めた社会の仕組みや、将来不安をなくすための経済上の問題(雇用制度や、働き方)など、一朝一夕には解決し難い問題に正面から取り組まなくてはいけないだろう。
これは、エネルギー問題で原子力発電所をどうするか…などといった問題の何倍もの難しい問題だろう。「女性手帳」の配布ぐらいのことで、協力を得られず突き上げられていてるような大臣には重荷だろうね〜。

冒頭の画像は、参考※18:「平成24年版 子ども・子育て白書」第2章 出生率等の現状より「出生数及び合計特殊出生率の年次推移」
参考
★厚生省には優生学の関する諸問題を所管するため、予防課内に優生科が設けられた。また、1934年から断種法案が繰り返し議会に提出されていたことを受け、厚生省よ某局では、特に精神患者の増加防止を目指すという趣旨に基づき民族優勢協議会を設置した。厚生省には優生学の関する諸問題を所管するため、予防課内に優生科が設けられた。また、1934年から断種法案が繰り返し議会に提出されていたことを受け、厚生省よ某局では、特に精神患者の増加防止を目指すという趣旨に基づき民族優勢協議会を設置した。(人口問題に対する国民意識 - 政策科学部の?郵政結婚の法制化をめぐる論議参照)

※1:新聞記事文庫 人口(6-070)-神戸大学附属図書館
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/ContentViewServlet?METAID=10000848&TYPE=HTML_FILE&POS=1&LANG=JA
※2:太平洋戦争の原因と結末
http://www12.plala.or.jp/rekisi/dainiji.html
※3:タイトルを参考にさせてください
http://questionbox.jp.msn.com/qa8119888.html
※4:資料4 妊娠・出産検討サブチーム報告(PDF形式:162KB) - 内閣府
http://www8.cao.go.jp/shoushi/taskforce/k_3/pdf/s4.pdf#search='%E5%86%85%E9%96%A3%E5%BA%9C+%E7%94%9F%E5%91%BD%E3%81%A8%E5%A5%B3%E6%80%A7%E3%81%AE%E6%89%8B%E5%B8%B3'
※5 :女性手帳
http://tamutamu2011.kuronowish.com/jyoseitetyou.htm
※6:日本産科婦人科学会
http://www.jsog.or.jp/
※7:ニュースコーナー - ジョナス・アソシエイツ・ジャパン
http://www.jonas.co.jp/news.html
※8:不妊治療初診者は30代後半が圧倒的多数 - 日経ウーマンオンライン
http://wol.nikkeibp.co.jp/article/column/20111004/114288/?P=4
※9:NHKスペシャル|産みたいのに 産めない〜卵子老化の衝撃〜
http://www.nhk.or.jp/special/detail/2012/0623/
※10 :いくじれん
http://www.eqg.org/index.html
※11:与謝野晶子 母性偏重を排す - 青空文庫
http://www.aozora.gr.jp/cards/000885/files/3321_6547.html
※12:国立社会保障・人口問題研究所
http://www.ipss.go.jp/index.asp
※13 :お産を待ちながら:私にとっての大きな発見3
http://midwifewada.seesaa.net/archives/20111221-1.html
※14:上田貞次郎「国立人口問題研究所生まる」
http://www.lit.nagoya-u.ac.jp/~kamimura/demography.htm
※15:昭和31年度版厚生白書「序章 わが国の人口問題と社会保障 厚生行政の背景」
 http://www.mhlw.go.jp/toukei_hakusho/hakusho/kousei/1956/dl/02.pdf#search='%E6%88%91%E5%9B%BD%E7%8F%BE%E4%B8%8B%E3%81%AE%E4%BA%BA%E5%8F%A3%E5%95%8F%E9%A1%8C'
※16:「人口変形・縮小社会」の到来(少産・多死型)(Adobe PDF)
https://www.kantei.go.jp/jp/singi/syakaihosyoukokuminkaigi/kaisai/syotoku/dai03/03siryou1.pdf#search='%E5%B0%91%E7%94%A3%E5%A4%9A%E6%AD%BB%E5%9E%8B'
※17:少子化の要因と対策−晩婚化、未婚化
http://www.sanfujinka-debut.com/topics/birthrate/main05.htm
※18:平成24年版子ども・子育て白書 全文(PDF形式) - 内閣府
http://www8.cao.go.jp/shoushi/whitepaper/w-2012/24pdfhonpen/24honpen.html
少子化対策:厚生労働省
http://www.mhlw.go.jp/topics/bukyoku/seisaku/syousika/
生活困難を抱える男女に関する検討会報告書 - 内閣府男女共同参画局Adobe PDF)
http://www.gender.go.jp/research/kenkyu/konnan/pdf/seikatsukonnan.pdf#search='%E7%94%A3%E3%82%81%E3%82%88%E6%AE%96%E3%81%88%E3%82%88+%E7%B5%8C%E6%B8%88%E5%BE%80%E6%9D%A5'
古典を読む・母性保護論争─晶子とらいてう
http://www.eqg.org/lecture/hogo1.html

城忌,東鶴忌,銀忌

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今日は俳人・日野草城(ひのそうじょう)の1956(昭和31)年の忌日である。

春の灯や女は持たぬのどぼとけ(句集『花氷』1927年)  

昭和初期に、新興俳句運動の驍将(ぎょうしょう)として官能俳句・フィクション俳句・無季俳句などを率先して取り入れたモダンな作風で現代俳句への道を切り開いたとされる俳人日野草城 (ひのそうじょう)。
正直なところ、私も詳しくは知らないのだが、それまでの既成の侘び的俳句概念から脱却して、上記の句に見られるような、エロティシズムをテーマーにした官能的な俳句を連作し、昭和俳句の先駆的役割を果たした俳人だということは知っている。
以下参考のWikipedia他、ネットで検索したもの等によれば、日野草城、本名:克修(よしのぶ)は、1901(明治34)年7月18日東京生れで、幼いころは、朝鮮に移住し、京城(現在のソウル特別市)の小学校、中学校で学ぶが、その後帰国し、旧制第三高等学校(三高)第一部乙類(英文科)を経て、1921(大正12)年、京都帝国大学(京大)法学部に入学。1924(大正13)年同大学卒業後、大阪海上火災保険株式会社(現:三井住友海上火災保険前身会社のひとつ。最も歴史が古い)に入社。
入社後も俳句を続け、サラリーマン俳人として以下のような「重役会風景」(句集『昨日の花』1935年)と題する連作を作ったりもしているようだ(※1参照)。

パッカード来て日盛の玄関に
壮年の巨躯の社長の白チョッキ
扇風機厳秘の文書飛ばんとす
支配人猪首の汗を且拭う
うすものの老監査役うとうとと
夏痩の瞳の大なる女秘書
三伏や決議書に判べたべたと

最初の句に出てくるパッカードは第二次世界大戦以前、世界中に知られた米国製の高級車である。そんな高級車が夏の午後の太陽が盛んに照りつける暑い盛りに会社の玄関に来て会社の役員が乗り込んでいるのであろうか。最後の句の三伏も夏の最も暑い時期、夏の季語であり、これらの歌は、無季俳句ではなく一応有季定型俳句である。「重役会風景」をテーマーに句を作るという発想自体は当時珍しかったことたろう。
句集『昨日の花』は、草城のそれまでの俳句路線を自らが「昨日」の「花」であったとする自覚の分岐点となった句集ということのようだ。
なんといっても草城の句で有名なのは、上記で紹介したようなエロティシズムをテーマとした句であろう。

日野草城は中学時代より俳句雑誌『ホトトギス』に投句。
旧制第三高等学校(三高)中、京大三高俳句会を結成。同句会には山口誓子などが参加した。また1920 (大正9 )年、鈴鹿野風呂(すずかのぶろ。※2参照)らと『京鹿子』を創刊。
1922(大正11)年には「京大三高俳句会」を解散し「京鹿子俳句会」を創立し、学外に公開。この間『ホトトギス』で正岡子規の弟子である高濱虚子に学び、1921(大正10)年二十歳の時には『ホトトギス』の巻頭を飾り注目を集めたという。

藤の根に猫蛇(べうだ)相搏(う)つ妖々と  (高濱虚子。大正9年作※3より)

上掲の句には、「五月十日、京大三高俳句会。京都円山公園、あけぼの楼」の留め書きがあり、1919(大正8)年のホトトギス「百年史」の年譜で、「草城・野風呂、京都で「神陵俳句会」発足(大正9年京大三高俳句会となる)」とあり、この日野草城・鈴鹿野風呂らの「京大三高俳句会」での作ということらしい。

春愁にたへぬ夜はする化粧かな (草城・大正9年「ホトトギス」)

上掲の句は、草城の二十歳にも満たない学生時代の作だそうで、この句が作られた大正9年について、ホトトギス「百年史」には、「新傾向俳句の理論的な支柱でもあった大須賀乙字が四十歳の若さで夭逝した。また、碧梧桐が携わっていた『海紅』(※4)も碧梧桐の手を離れ、自由律俳句中塚一碧楼に代わる。虚子も体調を崩し、一時、ホトトギスの「雑詠」選も蛇笏に代わるが揺るぎもしない。そして、それらを背景として、日野草城らは「京鹿子」を創刊し、華々しくデビューしていくことになる。」・・・と記されている。・・という。
そして、上掲の虚子大正9年の句の「猫」・「蛇」とは、その『京鹿子』を創刊した、草城と野風呂の両者のようにも思えてくる。これらの草城や野風呂を俳壇にデビューさせた虚子の眼力は並大抵のものではない。・・・と※3のブログ作成者が補記している。

虚子の期待通り、草城は、大学卒業直前には『ホトトギス』の課題句選者も勤め、1929(昭和4)年29歳の時には同誌同人ともなっている。
また『破魔弓』(はまゆみ)が1928(昭和3)年7月号から『馬酔木』(あしび)となった際には水原秋桜子らとともに同人のひとりであった(※5)。
1933(昭和8)年には水原秋桜子、山口誓子、鈴鹿野風呂、五十嵐播水らとともに新興俳句誌「京大俳句」創刊顧問ともなっている。
この間1924(大正13)年京大法学部卒業後、1927(昭和2)年には第1句集『花氷(はなごおり)』(※6)を出版。
その句風は従来の〈わび〉的俳句概念を払拭した清新瀟洒(しょうしゃ。すっきりとあか抜けしているさま)なモダニズムで、昭和俳句の先駆的役割を果たしたといわれている。
ところが、彼に対する俳壇の評価は、秋桜子や山口誓子にくらべ格段に低く、時代が下るほど、その傾向が強くなっていたようである。
『花氷』には以下のような句がある。

春の灯や女は持たぬのどぼとけ
春暁や人こそ知らね樹々の雨
春の夜や檸檬(レモン)に触るゝ鼻の先
物種を握れば生命(いのち)ひしめける
ところてん煙の如く沈み居(を)り

最初の句の初出は大正11年7月号の『ホトトギス』雑詠で、の形で発表されたものらしい。その時には、同時に〈人妻となりて暮春の欅(けやき)かな〉があったそうだ(※7参照)。
先の句は、いまでは句集『花氷』の形で知られている。以下参考の※8:「きごさい」ネット歳時記によると、季語「春の灯(春燈)」は、春の華やかさとともに艶めいた感じがあるとされているようだ。その灯のなかにある女性の美しさ。武骨な「のどぼとけ」のない「のど」一点の滑らかさ、まろやかさをすっと言い止めて、読者に姿全身の美しさを想像させている。
草城は1931 (昭和6)年に甲川政江(後の晏子)と結婚しているが、大正10年頃には、佐藤愛子という女性と相思相愛になり婚約までしていたそうだが、翌年、愛子の病気を理由に婚約は解消されたそうだ。
上掲の句はそれより以前の作のようだが、草城と女の接触はなかったようだと言う。それは、草城が極端に潔癖症であったことから、女性の美に憧れ、女性からも好かれる性格の持ち主だが、反面異性との接触は慎重だったようで、花柳病や伝染病には異常なほどの反応を示していたという。しかし女性との関係を直接句にしないで、想像の世界を織り込込むことを得意としたようだ(※7参照)。

春暁やくもりて白き寝起肌
春の夜や足のぞかせて横坐り
しみ/″\と汗にぬれたるほくろかな
菖蒲湯や黒髪濡れて湯気の中
黒髪の蛇ともならで夜長かな
秋風や子無き乳房に緊《かた》く着る
白々と女沈める柚子湯かな
のぼせたる頬美しや置炬燵
酔へる眼も年増盛りや玉子酒

探してみると『花氷』の中には、以外にも、上記のように女が柚子湯に浸かったり、お風呂上がりに炬燵に入って玉子酒を飲んだりしているかのような臨場感あふれる光景の詠まれているものがあり、何か他所の人の家の女を覗き見しているようなエロスを感じさせる。
ただ、「これら(『花氷』)の句は、全体的にはいずれも日常、目にし得る素材、あるいは対象である。それが、草城によって限りなく美的世界へと変身を遂げているのである。繊細な感受性をも含めて、草城が、いかに詩的な資質に恵まれていたか、ということである。」・・・と、『日野草城 俳句を変えた男』(角川学芸出版 2005年)を書いている復本一郎氏は、草城の処女句集『花氷』の作品群を、晩年の草城の作品群よりも高く評価している(※3:「ブログ俳諧鑑賞」の草城 参照)。
又、これら『花氷』の句が、「どれもソツのないつくりで、つまり技術的な難は見あたらず、うまいと思う。特に比喩や取合せはさえていて、旧弊な俳句がもつ重くれがない。つまり軽いのである。この小器用さからくる軽さを山本健吉などが非難したあたりから、今日にいたる草城観がかたちづくられることになった。
草城が全俳壇的に注目される存在になったのは、1934(昭和9)年、創刊されてまだ2号目の『俳句研究』(改造社)に、「ミヤコ ホテル」と題する連作を発表。これが毀誉褒貶(きよ-ほうへん)の的になったからだったともいわれている(※9参照 )。

「ミヤコホテル」10句
けふよりの妻(め)と来て泊(は)つる宵の春
夜半の春なほ処女(おとめ)なる妻と居りぬ
枕辺の春の灯(ともし)は妻が消しぬ
をみなとはかかるものかも春の闇
薔薇(バラ)匂ふはじめての夜のしらみつつ
妻の額(ぬか)に春の曙はやかりき
うららかな朝の焼麺麭(トースト)はづかしく
湯あがりの素顔したしく春の昼
永き日や相触れし手は触れしまま
失ひしものを憶(おも)へり花ぐもり

これらの句は、吉井勇の(※10参照)などから想を得て、新婚初夜をモチーフに連作10句にまとめたもので、草城自身は新婚旅行はしておらず、京都東山に実在するミヤコホテル(現ウェスティン都ホテル京都の前身)を舞台にしているもののあくまでフィクションであり、新婚初夜を過ごす男女のフィクションが物語的な構成で作られているのであった。つまり〈うしなひしものをおもへり花ぐもり〉などドラマ仕掛けになっている。というのも草城が俳句の魅力を知り本格的に句を始める切っ掛けになったのは、与謝蕪村の〈お手討ちの夫婦なりしが更衣〉の句に接し突然眼が覚めたような驚きを持ったからだったという(※9参照)。
当時としては画期的な内容であったが、フィクションの句やエロティシズムの句への理解が乏しかった当時は俳壇の内外に騒動を起こした。
俳壇では西東三鬼などは一定の評価をしたものの中村草田男久保田万太郎が非難、また文壇でも中野重治が批判を行っている。しかし文壇にいた室生犀星は「俳句は老人文学ではない」(『俳句研究』1935年2月号)という文章を発表し「ミヤコホテル」が俳句の新しい局面を開いたとして積極的に評価している。
この犀星の賛辞をきっかけにして中村草田男が『新潮』誌上で「ミヤコホテル」を批判する文章を発表、これに草城自身が反駁し、『新潮』『俳句研究』で「ミヤコホテル論争」と言われる論戦に発展した(※11、※12参照)。
そして、1936(昭和11)年、客観写生、花鳥諷詠を題目とする虚子の逆鱗に触れ『ホトトギス』同人を除名されるまで発展したとされている。
草城の俳句はあまりにセンセーショナルであったため、賛成も得たが、多くの反感も買った。
当時の評論などを見渡すと、草城のやることなすこと、ことごとく批判されているように見える。中にはヒステリックな、人格さえも批判するような容赦ないものまで見受けられる。
しかし、よく見ると、これらの論争は表面的にはモチーフをめぐるものであったが、根には作品自体のもつ軽さへの不満であり、いくらセンセーショナルにセックスを扱ったといっても、フィクションであり、掘り下げはきわめて浅く、内容は常識の域を出ていないではないかといったようなことである。それをなぜそんなに批判しなくてはならないのか。言い換えれば、それだけ影響力のあった人物だったからなのであろう。
したがって、草城の「ミヤコ・ホテル」の連作と『ホトトギス』同人除名とは直接的には関係ないとされているが、やはり遠因にはなっているようだ。
ここで少し、俳句の歴史を遡ってみよう。

近世に発展した文芸である俳諧連歌(俳諧)は松尾芭蕉、与謝蕪村によって、現代言われるところの近代俳句が確立された。
蕪村に影響された俳人は多いが特に明治時代に正岡子規は近世以来の月並俳諧を排して「ホトトギス」による一大変革を行った。俳諧の近代化である。
子規が俳句に持ち込んだのは写生という考え方で、要は西洋的な写実主義(リアリズム)で俳句も作ろうということであった。子規のもとに集まった人々は「日本派」と呼ばれ、俳壇の主流となった。
子規の考え方は俳句の世界に新風を吹き込み、多くの人々が俳句に親しむようになったが、その反面、その後後十数年で権威主義化形骸化陳腐化し、よみぶりも単調となり、本来俳句が持っていた遊戯性・技巧性は失われてしまっていた。その停滞しつつあった近代俳句という表現ジャンルが、突如戦国時代を迎えた。
子規の死後、日本派は高浜虚子と河東碧梧桐の二派に分かれた。虚子一派は「ホトトギス」を主宰し、ホトトギスの理念となる「客観写生」を提唱、伝統的な季題や定型を守る立場をとったが、一方の碧梧桐の門には、大須賀乙字荻原井泉水中塚一碧楼らがあった。
乙字は写実を象徴に深めよと説き、「新傾向俳句」の呼び名を生んだ。碧梧桐は、無中心論を唱え、主観的な心理描写を重んじた。この傾向をさらに進めた井泉水は、季語無用論を唱え、さらに非定型の自由律俳句を主張した。
放浪の俳人尾崎放哉や、種田山頭火プロレタリア文学理論を句作に導入し、弾圧されながらプロレタリア俳句をすすめた栗林一石路は、井泉水の門下であった。彼らは新傾向派と呼ばれ、機関誌『層雲』を創刊したが(1911年)、その後あわただしく離合集散を繰り返している。
虚子の俳風は、このような碧梧桐の勢力に圧倒され気味で、虚子自身も『ホトトギス』も一時は俳句を退き、写生文や小説に力を注いだ。
1915(大正4)年には虚子は『ホトトギス』 で 俊英作家の作品をとりあげた「進むべき俳句の道」の連載を開始。後進の指導にも力を注ぎ、「ホトトギス派の4S」といわれる高野素十・水原秋桜子・山口誓子・阿波野青畝らを育てている。
しかし、ホトトギス派の保守的な作風に対して、同派の水原秋桜子は、主観的叙情を重んじる立場から、新たに「馬酔木」を創刊した(1928年)。同じく山口誓子も新時代感覚による主知的構成を唱えてこれに同調した。
こういう新興俳句運動に呼応して、吉岡禅寺洞の無季俳句や、日野草城のモダニズム俳句などの俳句革新の動きが起こったのであった。
草城は「ミヤコ・ホテル」の連作を発表(1934[昭和9]年、当時34歳)した翌1935(昭和10)年に、東京の「走馬燈」、大阪の「青嶺」、神戸の「ひよどり」の三誌を統合し主宰誌『旗艦』を創刊して、リベラリズム(自由主義)の新興俳句に取組むこととなる。これは反ホトトギスの表明であり虚子への挑戦でもあった。
その翌1936(昭和11)年、『ホトトギス』10月号の同人変更の告知が掲載された中で、草城は、吉岡禅寺洞、杉田久女とともに同誌同人を削除されたことを知る。予期していたとしてもこの記事を見たときにはやはりショックは隠せなかったことだろう。
草城の「ホトトギス」同人除名の理由は直接的には、このリベラリズムの無季俳句などを容認している「旗艦」の創刊などであり、草城の「ミヤコ・ホテル」の連作と「ホトトギス」同人除名には直接関係はないとされているものの、やはり遠因にはなっていると思われる。
保守的な虚子は、草城のエロティシズム俳句が「花鳥諷詠」俳句の概念を一変してしまう危険性を察知し、それを恐れたのであろう。
草城は「ホトトギス」除名後、無季俳句を積極的に唱導、自らもエロティシズムや無季の句をつくり新興俳句の主導的役割を担う。そこには、その後の4S(水原秋櫻子・山口誓子・阿波野青畝・高野素十)の台頭などによる「ホトトギス」内での冷遇などへの反発があったかもしれない。

草城が「ホトトギス」の同人を削除された翌1937(昭和12)年の蘆溝橋事件に端を発した日中戦争支那事変)が勃発したころから、国家権力による言論・思想の統制が、日増しに激しくなり、リベラル(自由主義)を標榜する者への国家権力による不当な弾圧がはじまったが、俳句にたいする弾圧は、主として反伝統派の総称たる「新興俳句」派の弾圧であったが、そのトップを切ったのが「京大俳句会」事件で、西東三鬼らが逮捕されている(※13参照)。
「無季俳句も亦俳句である」として、無季、自由律を目指した多くの新興俳句系の俳誌が弾圧される中で、『旗艦』が弾圧された様子がない(新興俳句弾圧事件参照)のは、当時の国家権力にとって、それが弾圧するに値しなかったからか。言い換えれば、草城の仕事の性質は、何も合法非合法すれすれの線などといふ無理をした仕事はしていなかったということだろう。そういう点では、作品自体に軽さがあったとはいえるのだろう。それでも、草城なども新興俳句系の俳人としてマークはされ、不自由はしていただろうことは察せられる。

草城は戦後の1946(昭和21)年、45歳の時には肺結核を発症。以後の10数年は病床にあり、病と闘いながらこれまでの新興俳句とは別種の静謐(せいひつ。)な句をつくった。
草城晩年の1953(昭和28)年、青玄俳句会から出版の第七句集『人生の午後』(※14参照)の冒頭には妻への献辞が書かれている。以下がそれである。

晏子さん
もしもあなたが私を支へてゐてくれなかつたなら
私のいのちは今日まで保たれなかつたでせう
この貧しい著書をあなたに贈ります
これが今の私に出来る精一杯の御礼なのです
一九五三年七月 草 城

なんと素直な感謝の辞であろうか。40代後半にして、その句集に「人生の午後」(※15「ユング心理学の世界」参照)としている心境はいかなるものであったか。句を見ればわかる。病の身を支えてくれるのはただただ妻のみ。そんな切実な叫びがこの献辞となっているのだ。
続いて、以下のようことも書かれている。

昭和二十三年から二十七年に至る五年間の作品三一五句を収めました。
鈴鹿野風呂さんに序を、五十嵐播水さんにを、書いていただきました。昔の「京鹿子の三人」が二十数年ぶりに顔を合したわけです。
自分の句集を編むといふことはとても辛い仕事です。見れば見る程自分のみずぼらしさが現れてきます。この上多くの人々の厳しい眼で吟味されることを思ふと、げつそり痩るやうな気がします。
昭和二十八年初夏

これを見ると、「ミヤコ・ホテル」の連作以来、多くの人から批判されたことを、どれだけ、気に病んでいたかが分かる。そして以下のようにも書かれている。

昭和二十四年(一九四九)
二月に風邪を引き、高熱と激しい咳嗽が続いた。相当応へ、以後ずつと臥たきりとなつた。四月二五日休職期間満了、大阪住友海上火災保険株式会社を退いた。大正十三年四月二十六年入社したのであるから、きつちり二十五年在社したことになる。四分の一世紀、短い歳月とはいへない。一本に貫いた私の会社員生活も茲に終り、天下無職となつた。四月二十八日、一年間の間借生活を打切り現住所池田市中之島町十九番地の日光草舎へ移つた。一二回家の周辺を散策したことがあるのみで、爾来門外へ出たことがない。九月大阪星雲社より第六句集「旦暮」上梓。十月門田竜政、門田誠一、田中嘉秋三氏の手により「青玄」が創刊された。この年しばしば発熱し病状不安定であつた。・・・と。

「日光草舎」とは西から日光が存分に射し込むことから命名された新しい小さな家の書斎のことらしい。昭和21年から胸を病み、同24年風邪を引き、高熱を出してから臥たきりとなり、休職期間(※16参照)が満了したことから4月に大阪住友海上火災保険を退職し、池田市に居を移したころにはほとんど病床をはなれることができない位悪くなっていたようだ。
このような中、同年『青玄』が池田の地で創刊された。

句集『人生の午後』には、以下のような句が掲載されている。

冬薔薇の咲くほかはなく咲きにけり
あたりのものが次第に枯れ色を強めていく中で、凛と咲いている冬薔薇。寒さに凍えるような時でも、薔薇は薔薇として、咲かなければならない。それが与えられた生をまっとうできる、唯一のことであるかのように。冬薔薇に投影された草城の志が句に貫かれている。

生き得たる四十九年や胡瓜咲く
胡瓜(きゅうり)咲くは夏の季語。胡瓜の花は観賞するような立派な花じゃない。節ごとに雌花をつけるが黄色くて、たいていは炎天下でしおたれている。そんな地味な花に目をとめて、生きている喜びを分かち合えたのは、草城が病弱だったからだ。

ちちろ虫女体の記憶よみがへる
ちちろ虫とはこおろぎで秋の季語。 病に伏しても「女体」への 関心は衰えていなかった。妻との新婚旅行で「ミヤコ・ホテル」に泊まった時のことでも思い出したのだろうか。

切干やいのちの限り妻の恩
切干(きりぼし)が冬の季語.。草城は晩年、病床にあって、夫人の看病の中で秀句をたくさん作った。いまは全く病床仰臥の身となった草城は、何につけて妻の世話なくしてはやってゆけない。これからも命の限りその妻の恩を受けるだろうし、命の限りその妻の恩は忘れられないという。 冒頭の妻への献辞にもあるように、まさに「いのちのかぎり妻の恩」に感謝していると、妻政江が仏に見えるほどの感謝の日々であったのであろう。そんな愛妻を残して何時逝くかもわからない悲壮感がみなぎっている。

この句集を作った2年後の1955(昭和30)年、彼を破門した高浜虚子はふたたぴ草城を『ホトトギス』の同人に迎え、日光草舎に彼を見舞ったという。
虚子のその心情はわからないが、やはりこの師弟は、反発しながらも、尊敬と愛情で長年深く結ばれていたのだろう。
残念なことに彼に残された時間はすでにいくばくもなく、ホトトギスへの搭載も出来ないままに、翌1956(昭和31)年の元旦、と詠んだ草城は、1月29 日に息を引き取ったという(※17)。草城の墓は慶伝寺(大阪市天王寺区餌差町)にあるそうだ。
若き日エロスを詠った草城もこのころには、平明で深く、透明で切実な境地を切り開き、それまでの新興俳句とは別種の静謐(せいひつ。静かで落ち着いていること)な句を綴っている。一度句集(※0014)に目を通されるとよい。


(冒頭の画像は草城句集 花氷 覆刻本出版社: (株)沖積舎)

参考:

※1:パッカード|ショウちゃんのブログ 俳句のある風景
http://ameblo.jp/cornerstone1289/entry-11451257918.html
※2:鈴鹿野風呂 | 四時随順
http://minorugh.tumblr.com/post/42417527761
※3:ブログ俳諧鑑賞:虚子の実像と虚像
http://yahantei.blogspot.jp/search/label/%E8%99%9A%E5%AD%90%E3%81%AE%E5%AE%9F%E5%83%8F%E3%81%A8%E8%99%9A%E5%83%8F
※4:自由律俳句結社「海紅」
http://kaikoh-web.sakura.ne.jp/WordPress/
※5:秋尾敏「水原秋桜子と『馬酔木』」、『俳壇』平成12年11月号掲載
http://www.asahi-net.or.jp/~cf9b-ako/kindai/asibi.htm
※6:草城句集(花氷)
http://ww41.tiki.ne.jp/~haruyasumi/works/hanagoori.txt
※7:透水の俳句ワールド
http://blog.goo.ne.jp/new-haiku-jin/c/9459a2c538d4a4e0bb8a5132d95949c1
※8:「きごさい」ネット歳時記
http://kigosai.sub.jp/kigoken3.html
※9:日国.NET:モダニスト草城 - 俳人目安帖
http://www.nikkoku.net/ezine/haijn/meyasu_09/index.html
※10:Page 1 一、はじめに 吉井勇が「スバル」に「京都より」と題した短歌二十一
http://archives.bukkyo-u.ac.jp/rp-contents/SK/2008/SK20081R037.pdf#search='%E5%90%9B%E3%81%A8%E3%82%86%E3%81%8F%E6%B2%B3%E5%8E%9F%E3%81%A5%E3%81%9F%E3%81%B2%E3%81%9E%E3%81%8A%E3%82%82%E3%81%97%E3%82%8D%E3%81%8D%E9%83%BD%E3%81%BB%E3%81%A6%E3%82%8B%E3%81%AE%E7%81%AF%E3%81%A8%E3%82%82%E3%81%97%E9%A0%83%E3%82%92'
※11:俳句論争史
http://www5e.biglobe.ne.jp/~haijiten/haiku2-1.htm
※12:論争―ミヤコ・ホテル - 齋藤百鬼の俳句閑日
http://blog.goo.ne.jp/kojirou0814/e/97a6b0c8a5b6821faf66ee3a2f585c3d
※13:戦時中の俳句・短歌運動 - 法政大学大原社会問題研究所
http://oohara.mt.tama.hosei.ac.jp/rn/senji2/rnsenji2-220.html
※14:『人生の午後』日野草城
http://www.nnn.co.jp/dainichi/rensai/naniwa/naniwa070310.html
※15:ユング心理学の世界-「人生の正午」という考え方http://www.j-phyco.com/category1/entry71.html
※0016:休職期間」とは - 東京ウィング社労士事務所
http://sr-yamada.jp/column/article/8
※17:なにわ人物伝 −光彩を放つ−
http://www.nnn.co.jp/dainichi/rensai/naniwa/naniwa070310.html
お得区案内図
http://www5c.biglobe.ne.jp/~n32e131/
日野草城の俳句
http://www5c.biglobe.ne.jp/~n32e131/haiku/soujou.html
日野草城 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E9%87%8E%E8%8D%89%E5%9F%8E

手の内に福を収めて、鬼は外

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2月3日の今日は節分である。節分は立春の前日をさし、古くは立春を1年の始まりとしたため、大晦日と同じように考えられていた。
最近は、節分になりと豆まきのほかに、恵方巻きを食べたりする。恵方(えほう)とは十干(じっかん)により、その年の幸運を招く方角のこと。歳徳神(としとくしん)のつかさどる方角とされている。恵方は毎年変わり、2014年の今年は東北東の方角になる。
この節分に関しては、今までにこのブログで、節分(行)・「節分」の鬼(行)として、2回書いた。だから、書く気はなかったのだが、今日は、節分関連で、私の趣味、酒器のコレクションの中から鬼面杯を紹介しておこう。
日本酒用の盃には、酒宴に興を添えるためにさまざまな工夫がなされたものがあるがその中に、盃の外側に鬼面を造形したものがありこのような杯は、江戸末期頃から造られはじめ、明治時代〜大正時代には、九谷焼、備前焼、無名異焼などの窯元では、盛んに作られ、全国に販売されたようだ。それを見習って全国の窯元でも、それぞれに特徴をもった鬼面の盃が造られてている。
これら鬼面盃の多くは、見込(杯の内側)にお多福の絵や字などが描かれている。お多福はお福とも呼ばれている縁起のいい図柄だ。
杯の外側に「鬼」内側に「福」が描かれていることから「手の内に福を収めて、鬼は外」「鬼は外、福は内」というわけで、縁起の良い盃として使われ、節分盃ともよばれている。


上掲の画像は、私のコレクションの鬼面杯の中の「益子焼の色絵鬼面大杯」である。上段が外側、下段は内側。
直径は約15センチもある大杯であり、主席の座興で回し飲みなどしていたものだろか。我が家では小振りの杯は座興に使うが、このような大きいものは、節分などに飾ったりして使用している。
この杯、骨董屋さんで買った時には、作家の経歴書もついていたのだが、どこかえ行ってしまって、今は誰の作かわからないのが残念。
益子焼(ましこやき)とは、栃木県芳賀郡益子町周辺を産地とする陶器である。
私達年より夫婦は今夜、豆まきはしないが、恵方巻きの代用に細巻の手巻き寿司を食べ、小ぶりの鬼面杯でお酒をいただいき、來福を願おうと思ています。
皆さんは節分をどうして過ごすのでしょうね。
私のコレクションの各種鬼面盃に興味のある人は、本館、「よーさんのガラクタ部屋」CllectionRoom3の各種鬼面盃のページを見てください。


参考:
本館、「よーさんのガラクタ部屋」
http://www.hi-net.zaq.ne.jp/yousan/
節分に幸運の巻ずし丸かぶり 2014年の恵方は東北東 -
http://www.nori-japan.com/marukaburi/howto.html
益子焼 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9B%8A%E5%AD%90%E7%84%BC
節分 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AF%80%E5%88%86

チャップリンの映画「モダン・タイムス」がアメリカで公開された日

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1936(昭和11)年の今日(2月5日)は、チャップリンの映画「モダン・タイムス」(Modern Times)がアメリカで公開された日である。
山高帽にだぶだぶズボン、どた靴にちょび髭―チャップリンは、スクリーンに登場するや、たちまち世界中の人気者に。
権威や秩序をひっくり返し、世の不正に怒り、虐げられた人々に生きる勇気と喜びを与える。まさに弱者の英雄であった。貧乏のどん底で養った鋭い観察眼が花開き、笑いと人間愛の傑作を次々と生み出した。
映画は見れば分かるものだから音は不要とずっとパントマイムとサイレントにこだわって来たチャップリンが1931(昭和6)年製作の「街の灯」(1931年)で初めてテーマ曲だけをサウンドで流した。 

Charlie Chaplin - City Lights - YouTube(「街の灯」テーマ曲)

当時は「西部戦線異常なし」(1930年)など次々にトーキーで公開され、サイレント映画は終焉の時期を迎えていたが、そんな中で「街の灯」(1931年)は世界中で大ヒットとなった。
この映画完成後、チャップリンは1年4ヶ月間にわたる世界一周の旅に出、各国で歓迎を受ける中、政界をはじめ各界の要人に会い世界の抱える問題について意見交換を重ねている。
この世界一周旅行も終わりに近い1932(昭和7)年に、チャップリンは日本を訪れている。憧れの日本への第一歩を記した。同年5月14日7時45分、神戸港に到着したチャップリンは神戸港で数千人の歓迎を受けた後、車で神戸市のビジネスセンター、居留地などを抜けて料亭「菊水」で一服する。ここで、仲居10人が余興に「酋長の娘」などを三味線伴奏で和風ジャズ舞踏として踊ったところ、チャップリンはいたく喜んでアンコールを所望したという。

酋長の娘 勝丸 - YouTube

この後、昼の12時25分神戸発の燕号に乗り、東京駅に入り、帝国ホテルに宿泊。翌15日、相撲見物の帰りに、2日後に会う予定だった犬養毅首相が暗殺されたことを知る。5.15事件の勃発だった。
この事件では、首謀者の古賀清志海軍中尉が、後日の軍法会議でアメリカの「有名人であり資本家どものお気に入りである」チャップリンを殺すことで「アメリカとの戦争を惹き起こせると信じた」と陳述し、チャップリンも犬養首相とともに暗殺する計画があったことを暴露しているという(※001参照)。6月帰国するが、この旅の中で次作「モダン・タイムス」(1936年公開)、「チャップリンの独裁者」(1940年公開)、「ライムライト」(1952年公開)などのヒントを得たという。

ところで少し余談になるが、世界中で大ヒットした映画「街の灯」は、日本でも前評判が高く、翌年の1931(昭和7)年、早くも和製主題歌がポリドール(矢追婦美子歌唱「花売娘の唄」6月)やコロムビア(淡谷のり子歌唱「街の灯」7月)より発売された。しかし、日本での映画の公開が2年も遅れて1934(昭和9)年1月となってしまったため、映画公開より歌の方を早く出してしまったコロムビアは、淡谷のり子に同じ歌詞(浜田広介作詩)だが作曲だけを変えて(古賀政男→杉田良造に変更)、1934(昭和9)年2月に「街の灯」を改めて出すことになったという(※2参照)。
私も大好きだった若き日の淡谷のり子の懐かしい曲が以下で聞ける。両作品とも別な良い雰囲気があるが、和製主題歌にするとこんな歌になってしまうのだね〜。背景の画像(映画「街の灯」)をイメージして楽しまれるとよい。

街の灯 淡谷のり子 1934年盤 - YouTube(杉田良造作曲、奥山貞吉編曲によるもの)

街の灯 淡谷のり子.wmv - YouTube(古賀政男作曲によるもの)

さて、チャップリンの映画「モダン・タイムス」がアメリカで公開された1936(昭和11)年といえば、日本では5.15事件(1932年)に次ぐ2・26事件が発生(2月26日から)した年であり、世界では世界恐慌(1929年)の影響によって超インフレ、街には失業者があふれ、世 界は第二次世界大戦への道へ歩み始めていた頃である。
当時のドイツはヒットラーによるナチス政権、イタリアはムッソリ ーニによる一党独裁政権、日本は軍部が実権を持ち、「モダン・タイムス」が米国公開された翌・1937(昭和12)年の蘆溝橋事件に端を発した日中戦争の拡大につれ、映画界にも戦争の影響が出始めた(※003。尚、太平洋戦争への突入は1941(昭和16)年12月8日のことである)。
映画「モダン・タイムス」が米国公開された翌1937(昭和12)年、外国映画禁止輸入処分によって、最も影響を受けたのがアメリカ映画であった。公開本数で前年までの222本から一気に94本と半数以下に激減。外国映画興行界2本併映体制を維持できなくなり、協力作品一本体制に移行。そうした中、チャップリンの映画「モダン・タイムス」が1938(昭和13)年日本公開された(『朝日クロニクル週刊20世紀』1938年号)。

「産業と個人企業と、幸福を追い求めて戦う人間性の物語」という字幕から始まるチャップリンの名作「モダン・タイムス」。
18世紀半ばからイギリスで起こった産業革命。それを契機に19世紀には機械及び動力の発明により、新しい技術が次々に生み出され、人類は「機械化」のおかげで物質面における空前の大発展を遂げ豊かになったのだが、果たしてそれで人間はより幸福になったのだろうか?
文明という名の機械化の波があれよあれよという間に押し寄せてきた1930年代。不況の中、街には失業者があふれ、人の心も荒んだ暗い世の中を生き抜く人々。巨大な機械工場では、社長がモニターで厳しく監視する中、オートメーション化された機械の部品の如く働かされる工員たちいた。
工場で働くチャーリーは、スパナを両手に次々とベルトコンベアーで送られてくるの部品のネジを回して締めていた。ところが絶え間なく運ばれてくる部品のネジをただひたすら回し続ける単純作業の繰り返しに頭がおかしくなり、ベルトコンベアの上に乗り、巨大な歯車の中に巻き込まれてしまう。歯車の中から戻った彼は完全に頭がおかしくなり、ちょっとでも突起したものがあればそれを締め上げたりするなど、工場内を大混乱に陥れ、病院送りとなった。そのシーンは以下で見られる。

『モダン・タイムス』 工場で大暴れのシーン

そんな彼は、退院した矢先にふとしたことがきっかけでデモ団体のリーダーと間違われ、捕まってしまうが、脱獄囚を撃退した功績で模範囚として放免される。仕事も紹介されたが上手くいかず辞めてしまい、街をうろつく生活に・・・。

この映画は最初の字幕にもあるように、「人間の機械化に反対して、個人の幸福を求める物語」であり、「機械化」に象徴される「Modern Times(近代)」、を皮肉たっぷりに批判しているコメディーである。
驚異的に進む機械化された産業社会の中、歯車に組み込まれた人々は「人間の尊厳」と言う本質を見失って「機械の一部」のようになって工場で単純労働を繰り返す。それを私設テレビで監視する資本家との構図によって、この後訪れる人間喪失の時代を予見している点、彼の社会に対する観察眼の鋭さに驚かされる。
チャップリンがこの様な映画を作ろうと思った背景には1929(昭和4)年に始まった大恐慌があったのだろう。
この映画のベルトコンベアの流れ作業、監視カメラストライキ・・・・と続くシーンなどを見ていると、フランスの映画監督ルネ・クレールの「自由を我等に」(1931年製作)がダブってくる。
管理社会により、人間らしさが失われた異常な状態が正常とされている社会の恐怖をこのシークエンス(Sequence。連続性)は表わしている。
クレールの映画「自由を我等に」は、大量生産の時代に生きる窮屈さを皮肉っている作品であり、チャップリンの信奉者を自認するクレールが、遂に喜劇王の「モダン・タイムス」に影響を与えた作品だとされている(映画の解説は※004参照)。
その諷刺と男同士の友情話、サイレント的ギャグ、そしてG・オーリックの楽しい音楽が渾然一体となった、オペレッタ的コメディのこの作品を観ているとチャップリンがこの映画を参考にした・・と言われているのも納得できる。以下では同映画のシーンと共に映画の主題歌が聞ける。
また、G・オーリックの歌の解説は※005:「作曲家ジョルジュ・オーリック」を参照されるとよい。

フランス映画「自由を我等に "A Nous la Liberte"」主題歌 - YouTube

映画「モダン・タイムス」は当時の世界情勢を反映して、ドイツや、イタリアでは上映が禁止された。ソ連でも流れ作業のシーンなどが問題となり、批判の的にもなったという(『朝日クロニクル週刊20世紀」1938年号』)。しかし、我が国では映画評論家たちに高く評価され、キネマ旬報ベストテンの4位にランクされた(1938年の日本公開映画参照)。そして、戦後の1972(昭和47)年11月には、リバイバル上映もされている。

「モダン・タイムス」の映画で、機械にたよった流れ作業の工場で働く放浪紳士チャーリーは、働いているうちに、心身ともにボロボロになっていくが、今までの他の映画に登場するチャップリン演じる放浪の紳士は、貧乏のどん底であったが、この映画では工場の悪条件や低賃金や失業と戦う、普通の人間として登場している。このため、一部の新聞で「モダンタイムス」は共産主義の宣伝映画であると非難されもしたようだ。
このように「Modern Times」(近代)・・は、機械化時代への警告と風刺を込めて描いた作品だが、ただそれだけはない。冒頭字幕にあるように、人間性の回復を高らかにうたった映画でもある。
チャーリーは貧乏な娘(ポーレット・ゴダード)と出会い、食べるために働き、クビになり、投獄され、また食べるために働き・・・・を繰り返す。まるでこの映画は労働と解雇と投獄の連続で構成されている映画と言ってもいいほどであるが、そんな場面場面でのチャーリーの奮闘ぶりは抱腹絶倒もので、何をやっても社会に適合できない小男と、彼に翻弄される“常識社会”の人々とのコントラストが笑いを誘う。
そんなシーンの中で、最もチャップリンの哲学が読み取れるシーン・・・・。それが、デパートでのシーンである。
ストライキにより職を失い、住むところも食べるものも手に入れることが困難になったチャップリンが、同じく貧しい少女(ポーレット・ゴダード)と出会い2人は草むらで休憩する。幸せそうな若い夫婦がこぎれいな家から出てきて抱擁するのを見て、楽しげに笑う二人。「僕たちにもあんな家があるといいね」少女との幸せな家庭生活を夢想するチャーリー。「よしやってやる。そのために働いて家を作る」と意気投合したチャーリーは、二人のために家を建てるという夢を胸に一念発起とばかり働き出す。
そして、チャーリーはデパートの夜警に雇われると、閉店後のデパートに少女を招いた後、初めに、食料品売り場で食事をし、腹ごしらえをすると、次に、4階のおもちゃ売り場へ、大の大人が少女とローラースケートで楽しく遊ぶ。
因みに、この4階のおもちゃ売り場で目隠しをしてローラースケートを滑り冷や冷やさせるシーンなど存分にチャップリンの至芸を堪能出来る・・のだが、チャップリンは最後の最後まで、トーキー映画にこだわってはいるものの、その実、映像面では最先端のVFXを使いこなしていることがわかる。以下ブログでそのローラースケートの名場面が見られるので鑑賞されるとよい。

チャーリー・チャップリン 『モダン・タイムス』 Modern Times-ローラースケートの名場面

遊んだあと、少女は5階の家具売り場のベッドで就寝する。一方、チャーリーはスケートに乗りながら各階を見回ていて、三人組の強盗に襲われる。そのうちの一人は、エレクトロ鉄鋼会社の工場でチャーリーと一緒に働いていたビッグ・ビルだった。懐かしいな、とチャーリーに握手するビッグ・ビル。「俺たちは泥棒じゃない。空腹なだけなんだ」と店の酒を飲んで乾杯するチャーリーとビッグ・ビル。そしてチャーリーは婦人服売り場の中で寝込んでしまい、結局、働いた最初の日に警察送りとなる。
釈放され出て来ると、少女が迎え、海のそばにある家とはいえないボロ家を見つけたことを告げる。その時字幕に“It's Paradise !”と出る。“天国”だ・・・と喜ぶチャーリー。何が人間の幸せか、考えさせられるシーンである。
つまり、「食べ−遊び−寝る場所」がある。これらは人間にとっての必要最低限の条件であるともいえるが、逆に言えばこれさえあれば十分。人間が人間としてあるべき姿なのである。つまり、人間の幸福に「機械化」も「多くのお金」もいらない。むしろ、それらを否定することにより、人間の幸せを見出そうとする。・・ここにチャップリンの哲学が見えてくるような気がする。
チャップリンには多くの名言があるが、チャップリンが初めて素顔を出した長編映画であり、同時にアメリカでの最後の作品ともなった1952(昭和27)年公開の「ライムライト」の中で、「人生に必要なものは勇気(courage)と想像力(imagination)と少しのお金(a little dollar)だ」という名言を残している。
「ほんの少しばかりのお金」は「お金に左右されない清貧の心」「自立の心」ともいえるだろう。
世の中には、お金で買えない大事なことがたくさんある。それは、信頼、友情、愛、自由、時間などである。ただ、現代社会の中ではやはり最低限のお金は必要だが、大金はいらない。これをいかに有効活用して、自分の夢の実現のために勇気をもって行動できるか…それこそが大切なことだ。…と彼は言いたいのだろうと私は思う。

海のそばの家とも言えないボロ家に天国だと喜んで住み、朝食を食べながら新聞を読むチャーリーは「工場再開される。労働者仕事に就く」という記事を見て喜ぶ。仕事にありつけるぞ。やっと本当の家をもてる・・。チャーリーは巨大機械の機械工の助手となるが、すぐに工場はストライキとなり、チャーリーは職を失い、そして、又、ストライキの首謀者と間違われて、警察送りとなってしまう。
チャーリーが釈放されると、少女は路上で踊っていた踊りが認められてキャバレー(今日見られる男性向けのものとは違い、ダンスステージつき居酒屋のような所)の踊り子になって働いていた。彼女の推薦で彼もそこの店で給仕をして歌うことになり、彼女がカフスに歌詞を書いておいてくれたのだが、ホールに飛び出して腕を振ったとたんに外れてしまい、歌詞が分からず何語ともつかぬ即興のアドリブで「ティティーナ」を歌うシーンがある。
今までの映画の中で初めてチャップリン自身の歌声が流れる貴重なワンシーンであるが、この「ティティーナ」という曲。原曲は、1917(大正6)年のフランス歌曲「Je cherche apres Titine(ティティーヌを探して)」だという。「ティティーヌ(ティティン)」とは、一般的な女性名の愛称だそうだ。
この曲、2004(平成16)年には、ロサンゼルス出身の歌手Jfive(ジェイ・ファイブ)が、チャップリンの歌う「ティティーナ」をヒップホップ風にアレンジした「Modern Times」をリリースしている。以下のブログでは、そんな、チャップリンの歌う「ティティナ(ティティーナ)」と共に、J-FIVEの「Modern Times」も動画で聞くことが出来るので聞き比べてみるとよいだろう。

ティティナ(ティティーナ)チャップリン映画「モダン・タイムス」

キャバレーでの見世物も大成功するなど上々だったが、少女は今までの微罪により少年鑑別所に連れ戻されそうになったため、チャーリーは少女を連れてキャバレーを逃げ出す。そして、ラストには感動的な「スマイル」の曲とシーンが待っている。

「Dawn」  = 「夜が明けて」

仕事も、ささやかな家(あばら家)も失い、少女は途方にくれて泣き出してしまう。

「Wha’s the use of trying?」 = 「いくら がんばっても 無駄なのよ」・・・と少女。

「Back up - never say die We'll get along!」 = 「諦めちゃいけない さあ また 一緒に頑張ろうよ」と少女を励ますチャーリー。

励まされ生きる勇気を得て立ち上がり、手をつないで道路中央に来た少女の顔がまだ堅いのを見て  “Smil”(笑ってごらん)… と、パントマイム(口の端を持ち上げて)で笑顔を促すチャーリー。
それに応えて笑顔になった少女と手を取り合った二人が道路の真ん中を歩いていく。二人の後ろに歩んできた道があり。二人の前途の道にはいくつもの山がある。
有名なこのシーン以下で見れる。
Smile, Charlie Chaplin, Modern Times (1936) 720p - YouTube

映画は、どうも現実世界に適合できないチャーリー(チャップリン)と少女(ポーレット)が道路の真ん中を手をつないで歩いていくこのシーンで、「スマイル」の盛大なフィナーレと共に幕切れする。、このシーンこそが、現代社会を生きる私たちへ最後に伝えたかったチャップリンからのメッセージだったのだろう。
つまりこの映画は、『モダンタイムス(Modern Times)』(現代社会)を爆笑のうちに皮肉り、批判しながら、そんな中で、人間らしさを失うまいと厳しい社会と格闘し、人生を正面から歩んでいる人々への賛歌だと言える。二人の前に続く長い道は、同時に スクリーンに向き合う私たちの前にも続く厳しい道なのである。
本作のラストシーンで印象的な曲「スマイル」は、チャップリンが作曲した音楽の中では特に有名であるが、喜劇映画にあっては暗いニ短調の曲であるが、1954(昭和29)年、その暗い曲調とは裏腹に「スマイル」という曲名が付けられ、ナット・キング・コールによって歌詞付きの歌が歌われている。以下で聞ける。

smile - nat king cole-YouTube

1936(昭和11)年米国で、「モダンタイムズ」の撮影を終えたチャップリンは、共演した少女役のポーレット・ゴダードとシンガポールで結婚し、アメリカへ帰る途中の1936(昭和11)年3月6日、客船クーリッジ号で又、神戸に立ち寄っている。
「お忍び」の旅行だったため、新聞報道はなかったが、映画解説で有名だった神戸出身の故・淀川長治(当時、ユナイテッド・アーチスツ社大阪支社の社員)が、船上デッキで面談したという(※006参照)。そして、同年5月にも南アジア旅行の帰途に再度来日している。歌舞伎、文楽、相撲、鵜飼などが好きで、食べ物ではエビのてんぷらが好きであったらしい。
1940年代〜1950年代にかけてアメリカに吹き荒れた赤狩りの嵐をもろにかぶったのはチャップリンであった。「モダンタイムズ」以降の作品で、ヒトラーを皮肉った「独裁者」(1940年。完全なトーキーに踏みきった作品)や「一人を殺せば絞首刑だが大勢殺せば勲章がもらえる」というセリフがあまり有名な「殺人狂時代」(1947年)などを作ったことが重なって、右翼の保守派ににらまれ、1952年にはロンドンで「ライムライト」のプレミアのために向かう船の途中アメリカからの追放処分を受け、そのまま、スイスに移り住んだチャップリンは、1961(昭和36)年にも、飛行機で4度目の来日をしているが、敗戦後のすっかり変わってしまった日本には昔日の面影はなく落胆しこの時以降2度と訪れることはなくなった。
チャップリンが初来日し、神戸を訪れた際メリケン波止場に上陸したことから、映画発祥の地を示す記念碑「メリケンシアター」がメリケンパークに創られている。

上掲の画像は、メリケン シアター石の“スクリーン”である。

チャップリンが再びアメリカの土を踏んだのは20年後の1973(昭和48)年、第44回アカデミー特別賞(名誉賞)を受けたときであり、授賞式のフィナーレで、彼がオスカー像を受け取る際、会場のゲスト全員で歌詞の付いた「スマイル」の曲が歌われた。


参考:
※001:戦 時 下 に 喪 わ れ た日 本 の 商 船::照 国 丸
http://homepage2.nifty.com/i-museum/19391121terukuni/terukuni.htm
※002:昭和初期の映画主題歌あれこれ:昭和9年(その3)
http://blog.livedoor.jp/oke1609/archives/50385754.html
※003:「表現規制とのたたかい」について - 日本映画監督協会
http://www.dgj.or.jp/freedom_expression_g/index_4.html
※004:映画 自由を我等に - allcinema
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※005:作曲家ジョルジュ・オーリック(1899-1983)(Adobe PDF)
http://9264f1be048181e8.lolipop.jp/Georges_Auric.pdf#search='%E6%98%A0%E7%94%BB%E3%80%8C%E8%87%AA%E7%94%B1%E3%82%92%E6%88%91%E7%AD%89%E3%81%AB%E3%80%8D%E4%B8%BB%E9%A1%8C%E6%AD%8C+%E6%AD%8C%E8%A9%9E'
※006:チャップリンと会う! その1
http://homepage1.nifty.com/Kinemount-P/yodogawa-meetschaplin.htm
モダン・タイムス - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A2%E3%83%80%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%BF%E3%82%A4%E3%83%A0%E3%82%B9

仁丹の日

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日本記念日協会(※1)の2月11日の記念日に「仁丹の日」がある。
制定したのは口中清涼剤「仁丹」の製造販売元として知られる、森下仁丹(株)である。
現在大阪市中央区玉造に本社を置く医薬品製造会社森下仁丹(株)は、創業者の森下博が1893(明治26)年2月11日に、大阪市旧:東区(現・中央区)淡路町にて、薬種商「森下南陽堂」を創業したのが発祥である。
記念日の日付はこの同社の創業日である2月11日と、「仁丹」(※2:森下仁丹HP歴史博物館:仁丹誕生によると、現在発売されている「銀粒仁丹」の前身にあたる懐中薬「赤大粒 仁丹」)の発売日である1905(明治38)年2月11日からだそうだ。以来、同社は今日まで発売され続けている銀粒の「仁丹」の製造元としてその名を知られている。
今年2014(平成26)年で創業121年を迎える同社は、銀粒仁丹の製造から着想を得た液体も包むことの出来るビーズ状のシームレスカプセル(継ぎ目のないカプセル))技術の様々な用途への展開や、長年の 生薬研究から生まれた健康食品や素材、さらには医薬品や医療機器の製造販売に至るまで、幅広い分野を手がける医薬品メーカーのひとつとなっている。
冒頭に掲載の画像は、1912(大正元)年頃の同社の店頭看板。下は右が1905(明治38)年、左が、1916(大正5)年のトレードマークの「大礼服」(登録商標である大礼服姿の通称「将軍マーク」)であるが、時代による微妙な変化が面白い。(画像は『朝日クロニクル週刊20世紀』1912年号の、“広告と生きた世紀”シリーズに掲載されていたものを借用)。
森下仁丹は広告に非常に力を入れていたが、その一つの柱が新聞広告であり、もう一つの柱が屋外広告であった。
同『朝日クロニクル週刊20世紀』にによると、森下仁丹の宣伝部長(当時)だった谷本弘の回顧録によれば、大正時代の広告事情などについて次のように語っていたという。

口腔清涼剤「仁丹」の宣伝が開始されたのは1905(明治38)年2月11日だった。宣伝ターゲットは常備薬とする家庭と海外だった。
ブランド名の「仁丹」は中国・台湾へ売り込むには仁義礼智信(儒教で説く5つの徳目「五徳」)のトップに位置するをとるのが良かろうという漢学者の藤沢南岳や朝日新聞社の西村天囚(大阪朝日新聞主筆で、コラム「天声人語」の名付け親)のアドバイスと中国語で丸薬を意味する「丹」を組み合わせたネーミングである。
有名な大礼服のトレードマークは前社長の回想から「(軍人ではなく)仁丹の外交官」とされている。この外交官も当初案に何十回も手が加えられたうえ、その後も度々モデルチェンジされている(※2:森下仁丹HP歴史博物館:大礼服マークは薬の外交官のシンボル参照)。
「仁丹」が新聞に1ページ広告を出して売薬業界に躍り出たのは明治も末の1907(明治40)年以降で、広告を出すたびに全社員に赤飯と尾頭付の魚を配って祝ったという。同社の広告・宣伝費は、新聞6、その他4の割合で振り向けられていた。
その他には、大礼服の立て看板やホーロー製( ホーロー看板)の町名看板までが含まれる。
創業者森下博は、かねがね広告による、「薫化益世」を主張しており、社内ではこれを、「広告益世」と言い換えて踏襲していた。この仁丹の広告量がピークに達したのは1923(大正12)年、関東大震災の年であった(※2:森下仁丹HP歴史博物館:広告ギャラリー)。・・・・・と。

西洋事情』、『学問のススメ』ほか多数の著作を残した福沢諭吉は、西洋文明をわが国に積極的に紹介し、日本の近代化を推し進めた知識人として知られている。
1882(明治15)年には、日刊紙『時事新報』を発刊し、政党に左右されない「不羈独立」の新聞という理念を実現可能にするために、当初から広告を重視する姿勢を打ち出した。そして、1883(明治16)年発行の『時事新報』に、「商人に告るの文」という一文を掲載し、新聞広告について、「今の時代に在りては其及ぶ所の甚だ広く其費用の甚だ廉なるものは、新聞紙を借りて広告するに匹敵すべきものなし。・・・若し人ありて新聞の手を借らず、他の引札(チラシ)張札(張り紙)等の方法を以て新聞同様の広さに広告を行届かしめんと試むることあらんには、其費用と手数の莫大なる、尋常人の資力には及ぶべからざるものならむ」とも述べて、新聞広告の有用性を訴えている(参考※3の第18回経営の重視 〜紙面改良の工夫とその批判〜、や※4参照)。
創業者森下は、この福沢諭吉の説いた新聞広告の重要性を受けて以降、広告を重要視した販売戦略を掲げた。
開業当時森下自身が開発した香袋『金鵄麝香』(1896年発売)や内服美容剤『肉体美白丸』(1898年)を発売した時までは、大きな成果は生まれなかったが、1900(明治33)年、笹川三男三医学博士の開発した梅毒薬「毒滅」の販売では家財の一切を広告費につぎ込み大々的な宣伝を仕掛けた。
商標にはドイツ宰相ビスマルクを使用、「梅毒薬の新発見、ビ公は知略絶世の名相、毒滅は駆黴唯一の神薬」というコピーを作り、日本で初めて日刊紙(新聞)各紙に全面広告を出した。また全国の街角の掲示板にポスターを出すなど、先駆的な宣伝戦略を打ち出した。
当時、梅毒は花柳病文明病としてその猛威を振るっており、「毒滅」は画期的な新薬として注目され、ビスマルクの「毒滅」、ビスマルクの「森下南陽堂」の名は瞬く間に広まったという(※2:森下仁丹HP歴史博物館:森下仁丹百年物語第1章黎明期、※5:薬屋本舗レトロの館:日本の名薬>毒滅参照)。
これで社を軌道に乗せた森下は、続いて以前から着目していた家庭保健薬の研究を進め 軍隊に召集された時、任地の台湾で現住民が清涼剤を口に含み伝染病に感染しないようにしていたのを見て発想を得たといわれる総合保健薬の開発研究に取り組み、丸薬の携帯性を高めるため、表面を赤いベンガラでコーティング(1929年=昭和4年からは銀箔)し、こうして大衆薬「仁丹」を1905(明治38)年発売することになった。この時、トレードマークにも修正を重ね、最終的に「毒滅」で使ったビスマルクをデフォルメし、大衆に人気のあった大礼服を着せたという。
そして売り上げの三分の一を宣伝費に投資したといわれ、新聞や街の琺瑯(ホーロー)看板だけでなく薬店に突き出し看板やのぼり、自動販売機などを設置。大礼服マークは当時の薬局の目印になったほどだったという。
そして、「広告益世」の真骨頂ともいえるのが、1914(大正3)年からスタートした、「金言広告」で、「天は人の上に人をつくらず、人の下に人をつくらず」(福沢諭吉)、「堪忍は無事長久の基」(徳川家康)、「勝利は最後の五分にあり」(ナポレオン)など、古今東西の5,000種類の金言を、電柱広告や看板、紙容器などに取り入れたという。
また電柱広告にも目を付け町名表示と広告を併せたものを作ったり、鉄道沿線の野立看板を設置。更に東京浅草や大阪駅前に大イルミネーション・仁丹塔を建てこれらは名所となった。こうして、全国津々浦々に名前が浸透した仁丹は発売わずか2年で売薬中、売上高第1位を達成したという。
つまり、創業者森下博の「広告による薫化益世を使命とする」・・・を信条として大々的な広告でのし上がってきのが森下仁丹であったと言っていいだろう。町には広告が溢れ、いやがうえにも目に就いただろう。
以下参考に記載の※5:「薬屋本舗レトロの館」、※6:「京都仁丹樂會」※7:「仁丹の館」などでは懐かしい、仁丹の広告や古写真に写り込んでいる仁丹の広告看板等が数多くを見ることが出来る。興味のある人は見られるとよい。

ところで、ひとつ、気になったことがある。明治初期、新聞の三大広告主と呼ばれていたのは化粧品と書籍と並んで薬であった。
『時事新報』に、「商人に告るの文」という一文を掲載し、新聞広告の有用性を訴えていたのは福沢諭吉であるが、又、同時に、彼は、当時批判が高まっていた売薬広告について「売薬論」を掲載し、誇大広告を行う売薬広告主とそれを掲載する新聞への批判なども行い、この「売薬論」はその後、東京府下の売薬商組合から営業毀損回復の訴訟を起こされる、「売薬営業毀損事件」にまで発展している(※3の第17回 売薬営業毀損事件や、※4参照)。
日本で梅毒が初めて記録されたのは、1512(永正9)年のことで、歌人・三条西実隆の『再昌草』に以下のように記されているという。
4月24日「道堅法師、唐瘡(からがさ)をわづらふよし申たりしに、 戯に、もにすむや我からかさをかくてだに口のわろさよ世をばうらみじ」
上の「唐瘡」が梅毒のことで、この年、京都では梅毒が大流行したようだ(※8参照)。
梅毒はコロンブスがアメリカからヨーロッパに持ち込んだ後、ヨーロッパ全域に広がり、大航海時代の波に乗って日本には16世紀に伝来し、関西で大流行を起こしたあと、江戸にもやってきて吉原遊郭などで一気に広まったようだ。
梅毒は江戸時代には「瘡毒」(そうどく)と呼ばれていたようだが、日本人にとって梅毒は有効な治療法もなく脅威であった。
公娼に対して、梅毒その他の花柳病感染の有無その他の健康状態を医師により強制的に検診を行う梅毒検査(検梅)を日本で、初めて行ったのは長崎の稲佐遊郭において、ロシア海軍の要請で行ったのは万延元年(1860)のこと(※8参照)。一方、イギリス海軍の軍医だったニュートンが1868(慶応4)年、横浜に日本最初の横浜駆黴院(梅毒病院)を開設している。
しかし、明治になると、状況が変化した。1872(明治5)年に政府は御一新による四民平等の立場から人身売買を禁止し、奴隷的境遇に置かれていた芸娼妓の解放を宣言。「遊女解放令」が出ると、遊女屋は貸座敷と名称を変えるなどし、売春行為が地下に潜り、梅毒が世の中に蔓延してしまった。
この流れを受けて、明治政府は1874(明治7)年、検梅を柱とする「医制」を発布。1876(明治9)年全国の遊郭所在地に駆黴院(梅毒病院)を設置し、ここに日本で初めて検黴(検黴[=検梅]および駆黴[=梅毒を治療すること])制度が出来た。
ちなみに日清戦争(1894年=明治27年〜)直前には、
「兵隊さんの間に梅毒が盛に蔓るとて種々八釜(やまか)しく」(『都新聞』明治26年)
などと書かれるようになり、軍隊でも梅毒が大きな問題となっていたようだ。
当時、治療法は水銀以外にヨウ素が使われたが、ともに危険で、1910(明治43 )年、秦佐八郎らによってサルバルサン(有機ヒ素剤)が開発されたものの、効果は不十分(毒性を持つヒ素を含む化合物であり副作用が強いため、今日では医療用としては使用されない。)であった。…そのようなことから、結局、怪しい民間治療薬が幅をきかせることになっていた(※8参照)。
抗生物質のない時代は確実な治療法はなく、多くの死者を出した。慢性化して障害をかかえたまま苦しむ者も多かったが、現在ではペニシリン(1928年=昭和3年にイギリスのアレクサンダー・フレミングによって発見)などの抗生物質が発見され、早期に治療すれば全快するようになった。
ドイツの宰相ビスマルクの絵が強い印象を与えた「毒滅」の新聞広告。森下仁丹の前身森下南陽堂が、家財を売り払ってまで「毒滅」という梅毒治療薬の全面広告を出し、大ヒットさせたのは1900(明治33)年のことである。「毒滅」とは書いて字の如く「毒を滅ぼす」、つまり梅毒や淋疾(淋病)といった性病を粉砕する為のクスリという意味をこめている。
しかし、「毒滅」が発売されたのは、抗生物質のペニシリンの発見される18年も前のことであり、又、当時では画期的な駆黴薬と言われたサルバルサンが開発される10年も前のことである。実際に「毒滅」が、サルバルサンと同等の効能があったのかどうか?・・・については大いに疑問のあるところだが、新聞広告を見ると「 公立駆黴院長五大家御証明」などと、この分野の泰斗たちのお墨付きまで付いているものがある(※5の新聞広告>明治38年3月8日のもの参照)。
当時の庶民は病気になっても医者に診てもらうことは現代ほど日常的ではなかった。そのような時代梅毒・淋疾に苦しめられていた人々にとって、広告による売薬の「毒滅」は最後の希望の光であったのだろう。
だが、明治・大正における薬の広告は、薬事法が現在のように整備されていなかったこともあって、誇大広告に類するものが多々見うけられるが、当時は日露戦争(1904年=明治37年)に勝利したこともあり、強い軍人や政治家が大変人気のあった時代。「毒滅」の新聞広告に使われたビスマルクの商標は如何にも梅毒淋疾に効いてしまいそうな感じを与えており、そういう意味では、精神的な効能はあったかもしれない。
福沢諭吉による売薬広告に対する非難もあったが、昔から「薬九層倍」と言って原材料費と製造費に対して9倍の値段で売れるため、不特定多数の民衆が目にする新聞を広告メディアとして利用することによって、多額の利益を上げることが可能になった。また、新聞社にとってもそんな薬の広告主は有難いスポンサーでもある。売薬広告は、知のメディアである新聞を利用することによってある種のいかがわしさを携えて明治の人々のココロに偲び込んでいったと言えるだろう。
毒滅発売から僅か8年後(1929年)…森下南洋堂にとってのシンボルとなる大衆売薬銀粒の「仁丹」が登場する(このころ社名「森下博薬房」に変更)。
この「仁丹」も、明治の発売当初は「完全なる懐中薬・消化と毒消し。(また最良なる毒消し)」を、謳い文句としているが、ここでいう「毒」とはコレラや梅毒のことを指しており、特にコレラは明治・大正期においては致死率の非常に高い病気であった。
当時はコレラに対する治療法が徹底されていなかったこともあり、全国紙に一頁広告を幾度も掲載して「消化を良くし、胃腸を健やかにすべし」との考えを広く知らしめたことで、仁丹の売り上げはさらに飛躍することになる。ここでも、新聞広告には、「陸・海軍隊の御用命を蒙る」などと書かれている(※5の新聞広告>明治38年6月7日参照)。少なくとも、ここらあたりの広告では、素晴らしい医薬品的効果を売り物にしている。
同社では、現代もオーラルケア製品として「仁丹」を発売している。

「一服の清涼剤」という言葉がある。この言葉はささやかだが、束の間さわやかな気分にさせるような行為や事柄をいう。
清涼剤には、「口中清涼剤」 「のど清涼剤」 「健胃清涼剤」などがある。
「清涼剤」は、日焼け止めクリームと同じような、「医薬部外品」である。
医薬部外品は、日本の薬事法に定められた、医薬品と化粧品の中間的な分類に属するもの。疾病の診断、治療又は予防に使用することが目的とされているものは、原則として薬事法でいう医薬品に該当する。現代では医薬品としての承認 ・許可を得ていない限り、医薬品と紛らわしいことを表示・広告することは認められていない。
現在販売されている口中清涼剤「仁丹」は、薬事法(昭和35年8月10日 法律第145号)上の「医薬部外品」として販売されている。つまり、口の中がさっぱりした気持ちになるために飲む薬…ということになるだろう。
このような口中清涼剤としては、「仁丹」と共によく知られているものに口中香剤「カオール」(KAOL)があった。
仁丹が発売(1905年)される6年ほど前の1899(明治32)年、現在のオリヂナル(株)(※9参照)の前身である安藤井筒堂が発売していたもので、「カオール」も新聞広告を利用した巧みな宣伝力で、高い売れ行きを上げると共に、「仁丹」と並ぶ口中清涼剤の二大ブランドとして知名度を確立させ、戦前までその知名度を維持していたようだ。こちらの商品も現在継続発売されている。
ちなみに「カオール」は川端康成の初期の代表的作品『伊豆の踊子』に登場している。
この作品は、19歳の川端が伊豆に旅した時の実体験を元にしているといわれるが、小説では最後に、踊り子の兄である栄吉と主人公の私=一高生(現在の東大教養学部)との会話の中に以下のような一節がある(※10の第七章参照)。、
 「・・・町は秋の朝風が冷たかった。栄吉は途中で敷島(明治末に発売された煙草の銘柄)四箱と柿とカオールという口中清涼剤とを買ってくれた。」 「妹の名が薫ですから。」 と、かすかに笑いながら言った。
「カオール」は、踊り子の名前「薫(かおる)にかけたオチだろう。この後、「船の中で蜜柑はよくありませんが、柿は船酔いにいいくらいですから食べられます。」・・・・と出てくるように、昔から、柿は船酔いに良いといわれており、徳島出身の私の母など神戸から徳島に里帰りするときなど柿を持って船に乗ったという話を聞いたことがある。

このカオール確か小さなガラス瓶に入れて売られていたと記憶している。今の時代、どれくらいの人が「仁丹」や「カオール」を愛用しているかは知らないが、私は若いころは携帯用のケースに入っていた「仁丹」を愛用していた。昭和30年代、私が大阪の商社に勤めていた時など、女性は知らないが、会社のほとんどの男性が携帯用のケース入り仁丹を持っていたと記憶している。私のような営業マンは日常的に人と接することが多かったので、主とした目的としてはエチケットとして口臭予防のためであったが、仁丹をかんだ後のすっとした清涼感が良かったことも人気の要因だった。
口臭予防としては、手軽に使用でき便利ではあるが、効果は数十分程度であり、虫歯や歯周病などの病的な原因があった場合は一時的に臭いを誤魔化すことしかできないと言う欠点がある。だから、しょっちゅう噛んでいたが、そのうちに、それが習慣になっていたように思われる。
口中清涼剤は、古くは仁丹に代表される口臭の予防と清涼感を与えるもののことだが、現代では、丸剤タイプ、板状の固形のもの、フィルム状のもの、液状の洗口用のもの、液状で噴霧するタイプなどさまざまな形態のものが販売されている。しかし、薬用効果はほとんどなく、主に芳香性香料によるマスキング(覆い隠すこと)効果によって、口臭を抑える効果がある。扱いとしては食品類のものが多く、おしゃれ商品あるいはエチケット商品として販売されている。
口臭の原因は複数に分かれるが、大きく生理的口臭(一時的なものを含む)と病的口臭(慢性的なもの)に分けられる(口臭参照)。口臭は虫歯や胃腸の不調など体の異常を伝えている場合が多いので、口臭を放置せず原因を追求してきちんと対策をたてておかないといけないが、具体的な対策としては、やはり、正しい歯磨きの習慣や食事の後の簡単なケア、生活習慣の改善やタバコを吸っている人は禁煙するなどが代表的で効果的な口臭対策と言えるようだ。以下参考の※11:口臭を予防して生活を守ろう!や、※12:口臭まど参考にされるとよい。

参考:
※1:日本記念日協会
http://www.kinenbi.gr.jp/
※2:森下仁丹
http://www.jintan.co.jp/
※3:慶應義塾大学出版会|慶應義塾・福澤諭吉|ウェブでしか読めない|時事 .新報史
http://www.keio-up.co.jp/kup/webonly/ko/jijisinpou/32.html
※4:Vol.8 明治期の新聞広告 近代広告の幕開けを告げるニューメディア
http://www.yhmf.jp/pdf/activity/adstudies/vol_08_03.pdf#search='%E6%99%82%E4%BA%8B%E6%96%B0%E5%A0%B1+%E5%95%86%E4%BA%BA%E3%81%AB%E5%91%8A%E3%82%8B%E3%81%AE%E6%96%87'
※5:薬屋本舗レトロの館:総目次のページ
http://kusuriya.sakuraweb.com/index-3.htm
※6:京都仁丹樂會:サイトマップ
http://jintan.kyo2.jp/sitemap.html
※7:仁丹の館
http://blogs.yahoo.co.jp/kuzui0215
※8:梅毒の症状と歴史 - 探検コム
http://www.tanken.com/baidoku.html
※9:オリヂナル
http://www.original-co.jp/
※10:『伊豆の踊子』 原文
http://wenku.baidu.com/view/5fafa64f2e3f5727a5e96298.html
※11:口臭清涼剤とは? - 口臭を予防して生活を守ろう!
http://www.bav-savunma.org/koushuu_seiryouzai/what_seiryouzai.html
※12:口臭
http://health.jolly39.com/bad-breath/
稲佐お栄 - 長崎県商工会議所連合会
http://www.nagasaki-cci.or.jp/nagasaki/josei/ijinden_inasaoei.html
新聞 − 広告に利用される知のメディア
http://www.ne.jp/asahi/miyachi/sep/media-contents/newspaper.htm
医薬品産業における広告の役割―研究ノート - J-Stage
<aq href= https://www.jstage.jst.go.jp/article/iken1991/8/4/8_115/_pdf> https://www.jstage.jst.go.jp/article/iken1991/8/4/8_115/_pdf
第22回 「大衆の健康に奉仕する」大胆な広告で一世風靡
http://www.jmam.co.jp/column/column12/1188297_1513.html
明治大正時代の新聞 - Astrohouse
http://astrohouse.opal.ne.jp/ads/service.html
仁丹 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%81%E4%B8%B9

レーガン米大統領が「レーガノミックス」を発表した日

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レーガノミクス(英: Reaganomics)とは、アメリカ大統領ロナルド・レーガン共和党任期:1981–1989)がとった一連の自由主義経済政策の中で、一期目の1981(昭和56)年の今日2月18日に発表した“「強いアメリカ」再生の為の経済再建計画”のことであり、「レーガノミクス(Reaganomics)」は、「レーガン(Reagan)」の名と、経済を意味する英語「エコノミクス(economics)」を組み合わせた造語である。
この「レーガノミックス」の名を聞くと、2012(平成24)年12月に誕生した第2次安倍晋三内閣の経済政策「アベノミクス」を連想する人も多いだろう。
この「アベノミクス」という言葉も、安倍とエコノミックスを合わせた造語であるが、この造語、自民党の安倍総裁が2012(平成24)年の総選挙で「大胆な金融緩和」路線を鮮明にして攻勢に出たことを受けて、同年から朝日新聞(※1参照)が少々皮肉を込めて使用したことをきっかけに多用され始めた言葉であり、その元は米レーガン政権の自由主義経済政策「レーガノミクス」に因むものである。
「アベノミクス」では、「財政出動」「金融緩和」「成長戦略」という「三本の矢」で、長期のデフレ経済を脱却するために、政府と日銀が協定を結びインフレターゲット(物価目標2%)を設定し、名目経済成長率3%を達成しようというものである。
しかし、大胆な金融緩和は悪政インフレを招くという慎重論も根強いし、いずれ金利の急騰などにも繋がると懸念されている。
さて、デフレ脱却を目指し大胆な金融緩和を進める「アベノミクス」は良薬といえるか、副作用の強い劇薬か?…。今のところ、円安や株高などによるメリットが経済面に良い面として出てはいるように見えるのだが、1年3か月を経過した今、株価、円安とも頭打ち状態になっており、消費税アップ以後のことが心配される状況になっているところである。
「アベノミクス」と「レーガノミクス」。同じ「エコノミックス」であっても、同政策を導入するに至った両国の経済的な背景は違うはず。以下参考の※2:「バブル/デフレ期の日本経済と経済政策」(歴史編)を参考に、先ずレーガンが大統領に就任するまでのアメリカの時代背景から見てみよう。
第2次世界大戦(1939年〜1945年)後の米国は、政治・経済・軍事・の諸側面で圧倒的な力を基に超大国としての地位を維持し続けてきたが、1960年代後半からその経済力にかげりが見え始めた。
1960年代の米国経済は、その圧倒的強さを背景に世界の経済成長を牽引していた。当時、米国のGDP(Gross Domestic Product。国民総生産)が世界に占めるシェアは4割を超え、農業部門・工業部門ともに生産量・生産性は世界の頂点にあった。
ドルを基軸通貨とする国際金融システム(国際金融市場参照)の頂点に立つ米国は、世界にドルを散布し、世界経済の成長を牽引した。一方、米国では通貨価値(※3、※4参照)の安定と旺盛な設備投資による生産力の拡大を通じて、物価の安定と順調な経済成長が実現された。
しかし、1960年代後半から、1970年代にかけて世界経済ではインフレ傾向が強まった。米国では、生産性の向上を上回る賃金上昇が発生した結果、労働コスト(※5参照)の上昇が見られ、国際競争力(※6参照)が低下した。一方、日本や西独等の競争力は強化され、対米輸出も増加した。
この結果、1971(昭和46)年の米国の貿易収支は戦後初めての赤字を記録した。これ以降、米国の貿易赤字は改善の気配を見せず、そのままずるずると悪化の方向を辿るようになった。
1960年代以降の米国の活発な海外投資及び援助によって世界的な過剰ドル流動性の蓄積が進行していたころ、1971(昭和46)年の巨額の資本流失および大規模な通貨投機の発生により、固定相場制の維持が困難になり、1971(昭和46)年8月にニクソン大統領の「新経済政策」の発表によって、米国はドルの切り下げを行い(ニクソン・ショック参照)、1973(昭和48)年には世界の主要国は変動相場制に移行した。
二度に渉る石油危機によって、主要国はスタグフレーションに陥ることになったが、日独経済の早期回復やNICs(アジアを中心としたNewly Industrializing Countries=新興工業国)の台頭等によって、米国の地位はもはや絶対的なものではなくなった(※2のここ表3−1[米国の失業率の推移S図表]、3−2[米国の物化の動向]、3−3[米国の国際収支Bと対日収支]参照)。
米国の民間部門の労働生産性は第1次石油危機までは年平均2.9%の上昇率を保ってきたが、1973(昭和48)年から1978(昭和53)年の間はその伸びが1/3に低下し、さらに1979(昭和54)年以降は伸びがマイナスになっている。
これは、第1に農業部門から非農業部門への労働移動が完了したこと、エネルギー集約的生産方式から資本・労働集約的生産方式へと生産方式の転換がすすんだこと(ヘクシャー=オリーンの定理参照)、環境・安全規制の強化への対応に資源が投入されたこと、未熟練労働力の比重が高まったこと等の原因が指摘されているという。
まず第1に、生産性の伸びの低下をもたらした要因として、設備投資の伸び悩みと資本装備率の低下がある。石油危機後の不況の中で稼働率が低迷し、設備投資に抑制的効果をもたらしたといわれるが、インフレによる企業課税の重課が設備投資にマイナスの影響をもたらしたことも大きな原因であると指摘されている。この結果、製造業を中心として国際競争力が低下した。
例えば、米国を代表する産業である自動車の輸出は、1962(昭和37)年には全世界輸出に対して22,6%を占めていたが、1979(昭和54)年には13.9%まで低下しており、逆に国内市場における輸入車のシェアは1966(昭和41)年の7.7%から1979(昭和54)年には21.5%まで高まっているという。また、米国の粗鋼生産の世界シェアは1962(昭和37 )年には24.5%であったが、1979(昭和54)年には16.5%へと低下する一方で輸入鋼材の国内シェアは同時期に5.6%から15.2%へと高まっている。
石油についても1970(昭和45)年の海外依存度は23.4%であったものが1977(昭和52)年には50.8%まで上昇し、アラスカ原油の生産開始後の1979(昭和54)年でも47.4%と高止まっていた。

ここでちょっと一休みして、米国の戦後の経済学とくに、マクロ経済学の移り変わりを見てみよう。
1960年代後半にいたるまでの米国のマクロ経済学と政策は、 ケイ ンズ理論に基礎をおき、財政政策を重視し, 金融政策を補助的に併用する、積極的「総需要管理政策」として展開されていた。
しかし1960年代後半以降、 そう したケイ ンジアンの積極的総需要管理主義は急速に崩壊し, それにかわって, 貨幣供給量(マネーサプライ)を重視する、 いわゆる 「マネタ リスト」 たちが米国のマク ロ経済学の主流を占めるようになった。
こう した流れの背景には,先にも上げた、1960年代後半から急激な上昇を始めたイ ンフ レの問題、 さ らにはインフレと失業の同時進行、つまり 「スタグフレーショ ン(stagflation)」 といった現実的な問題が大きくかかわっていた。
さ らに1973年以降、OPEC(石油輸出国機構)のカルテルによる原油価格の値上げなどの「サプライ ・ ショ ック(Supply shock)」、さ らには労働生産性上昇率の鈍化や国際競争カの低下などの供給側の問題が顕著化するにおよび、米国のマク ロ経済学と政策は、従来の需要側重視の立場の経済学「デマンド(需要)サイ ド経済学」から供給側重視の経済学, すなわち 「サプライ(供給)サイド経済学」 へと急速にその流れを変えてゆき、1 970年代後半以降の, 米国のマク ロ経済学と政策のなかで主流を占めるようになっていた。

こうした流れと現実を目前にして、伝統的にケイ ンジアンの積極的総需要管理主義を踏襲してきた民主党カーター政権でも、1970年代後半にはその政策の一環として米国経済の供給側の問題に眼を向けた供給管理政策を政策を打ち出していた。
すなわち、政策発足時には失業率引き下げを経済政策の最優先課題としつつも、一方でインフレ抑制のために連邦政府支出の対GNP比を21%まで引き下げること、1981年度には連邦財政の均衡化を実現すること、さらに政府規制改革、生産能力・生産性の向上等を政策目標として掲げていた(詳しくは、※7の昭和55年=1980年の第4章 供給管理政策の登場とその課題も参照)。
だが、この政策に関して、民主党政権のアプローチ(考え方)は、エネルギー政策面での政府の介入や賃金、物価に対するガイドライン政策等、それなりの政府介入に基礎を置いたものであり、基本的には、1960年代のケネディー政権以来の哲学が継承されていたものであったこと。・・・これが前述した生産性の伸びの低下をもたらした・・・第2にの要因であったともいえる。
これに対して,共和党政権は徹底して政府の介入を排除する「小さな政府」主義をその基本的政策理念としていた。この政策理念は、民主党政権と好対照を成したものであり、これはアメリカ経済のパフォーマンスの悪化は政府介入の増大が民間部門が本来備え持つ自由な活力を阻害したためであるとの基本認識に基づいている。
1980(昭和55)年の大統領選で民主党の現職大統領カーターに勝利した、レーガン大統領就任当時(1981年1月20日)の経済指標をみると、インフレ率12%、失業率7.5%、名目金利20.2%(TB3カ月もの)など、米国経済のパフォーマンスは戦後最悪の状態にあった。また、パリ協定 (ベトナム和平)に基づくベトナムからの撤退、日欧経済の台頭、スタグフレーションなどの中で米国民の誇りに傷がつき、カーター政権下でのイラン大使館人質事件(1979年)で国民の間に一層の焦燥感が高まっていた。
そうした中レーガンは「強いアメリカ」「個人の自主性・努力」「小さな政府」をスローガンとしてかかげて選挙戦に挑み、国民の支持を得て大統領に就任した。
レーガン大統領の一期目は前政権から受け継いだスタグフレーション状態の経済の回復が課題であった。政権はインフレと失業に注目した。レーガンの経済政策は減税による供給面からの経済刺激を主張するサプライサイド経済学に基づいている。またスタグフレーションの物価上昇という弊害を抑えるために「通貨高政策」を前提条件にしていた。
アメリカ経済再生の課題を担って登場したレーガン政権は,発足後間もない1981(昭和56)年2月18日、経済政策の大幅な転換を内容とした「経済再生計画(「レーガノミックス」)」を発表した(※7の昭和56年:年次世界経済報告:第3章・第3節 アメリカの経済政策参照)。そのレーガノミクスの主軸は以下のとおりである。
1. 社会保障支出と軍事支出の拡大により、経済を発展させ、強いアメリカを復活させる。
2.減税により、労働意欲の向上と貯蓄の増加を促し投資を促進する。
3.規制を緩和し投資を促進する。
4.金融政策によりマネーサプライの伸びを抑制して「通貨高」を誘導してインフレ率を低下させる。

この政策群の理想的展開は、市場原理と民間活力を重視し「富裕層の減税による貯蓄の増加と労働意欲の向上、企業減税と規制緩和により投資が促され供給力が向上する。経済成長の回復で歳入が増加し税率低下による歳入低下を補い歳入を増加させると共に、福祉予算を抑制して歳出を削減する。インフレーションは金融政策により抑制されるので歳出への制約は低下する。結果、歳出配分を軍事支出に転換し強いアメリカが復活する。」というものである。しかし、実際の展開は想定通りにはいかなかった。
このレーガン政権の一連の減税政策では所得税の減税も行われたが、それ以上に企業に対して、(1)加速償却の導入、(2)投資税額控除の拡大(設備投資額の10%)など、法人税の減税が主眼となった。企業に対する税制改革は、典型的な「利益誘導型」政策であったため、政治力が強い従来型産業(製造業、石油などの資本集約産業)が税制優遇措置の恩恵を受けたといわれる。
財政支出の削減は文教・福祉部門だけであり、逆に軍事支出は増大させた。それに対して所得税と法人税を減税しているために、減税によって税収増を図れず、米国全体としての支出は減らず、むしろ急激な財政赤字の拡大に直面した。
財政赤字が拡大する一方の米国は、米国債を大量に発行するようになり、これを日本を中心とする海外資本が引き受ける構図となって、世界中にドルがばらまかれたことから、ドル高・円安が引き起こされ(※8:アメリカのUSドル/円の為替レートの推移参照)、時を置かずにドル高による貿易収支の悪化(※8のここ参照)を招いた。
さらに軍事費の拡大の影響も大きく、技術が軍事部門に集中したために米国の産業界に競争力の低下が顕著になり、これも貿易に不利に働いて、貿易赤字を拡大させる原因となった。
しかし、レーガノミクスによって米国経済そのものは急速に浮上した。1970年代を通じたインフレと金利上昇は収まり、「株式の死」(※9参照)と形容された米国株式市場は1982(昭和57)年10月に、足かけ17年間にわたる500−1000ドル(NYダウ平均株価)の大ボックス相場からついに上放(うわばな)れした(※8のダウ平均株価の推移参照)。
米国の景気循環日付では、この時期の「景気の谷」は1982(昭和57)年11月、「景気の山」は1990(平成2)年9月である(※10:平成21年度:年次経済財政報告: コラム1−1表参照)。1980年代を通じた米国の長期景気拡大は1982(昭和57)年末に形作られた。
しかしその反動も大きかった。
高額所得者への減税と軍備の拡大は、いずれは設備投資の拡大につながり、それを通じた米国産業の競争力強化をもたらすものと期待されていたのだが、実際には、米国が陥っていたそれ以前のストック調整と、メキシコ債務危機によって顕在化した、中南米債務問題(ラテンアメリカの債務危機※11参照)に至る国際金融危機に見舞われた1980(昭和55)年〜1982(昭和57)年の不況を、単なる浪費で乗り切る手段に過ぎなかった。
そして、減税と軍事費の拡大は巨額の財政赤字を招き、これに巨額の貿易赤字が加わった「双子の赤字」を抱えることになり、 第2次レーガン政権での大規模な政策転換、すなわち1985(昭和60)年の為替調整=「プラザ合意」につながっていき、為替相場は一気にドル安となった。
1980年代のアメリカ経済の名目GDPは1980(昭和55)年の2,862.48億ドルから1988(昭和63)年には5,252.63億ドルへ1.83倍に増大した。
その後、企業の投資資金は、高金利による株安から他の企業の買収合併へ向かい、株式ブームを生み出した。なお、この株式ブームは1987(昭和62)年のブラックマンデーにより終了したが、この株式ブームはFRB(連邦準備制度)の裁量により深刻な恐慌をもたらさなかったが、このことがアメリカ経済のFRB・金融政策依存と資産経済化をもたらすことになった。
レーガンは基本的には“小さな政府”の支持者であったようだが現実には彼の主張は、全くと言っていい程実現しなかった。1980(昭和55)年のアメリカ大統領選挙に立候補したジョージ・H・W・ブッシュはレーガンが政策に盛り込んだ一連の経済政策に対し「ブードゥー(魔術的)経済学」(英:Voodoo Economics)と揶揄していた。当時からサプライサイド派は経済学界においてほとんど支持を得ていない異端であったことによるものである。
レーガンの後を受けたブッシュ大統領は増税に踏み切ることでレーガン時代の後始末を図ったが不況は克服できず、1992(平成4)年には、財政赤字はピークに達するとともに、経常収支は均衡に近づいた。そして、その次のビル・クリントン政権時代には次第に財政収支が均衡に向かい、1998(平成10)年から2001(平成13)年にかけては財政黒字であったものの経常収支の赤字は拡大の一途をたどった。

●上掲の画像は、アメリカ合衆国の財政収支 (黒線)経常収支(赤線)の推移。Wikipediaより。

さて、現在日本で安倍内閣が進めている「アベノミクス」は「レーガノミクス」を真似たような政策に見られるのだが、レーガン時代の米国の政治が、日本のお手本になり得るものだろうか?
先ず社会的な背景が正反対である。当時の米国は、先にも書いたようにインフレーションの間只中にあった。それに対して、日本はデフレであり、インフレ率は2012(平成24)年-0.04%(米国は2,08%)、2013(平成25)年IMFによる推計値 0.05%(米国1,39%)(※8参照)であり、失業率は国によって計算根拠が異なるようなので、※12:「総務省統計局統計データー」を参考にすると、2012度11月:完全失業率4、1%(1913年11月4.0%)となっている。しかし、実質経済成長率を見ると日本は、2012(平成24)年1.96%(米国2.78%)、2013(平成25)年IMFによる推計値1.95%(米国1.56%)((※8参照)となっている。
確かに大きなインフレも問題だが大きなデフレも困る。
経済協力開発機構(OECD)によればデフレは「一般物価水準の継続的下落」と定義されている。IMF(国際通貨基金)や内閣府は2年以上の継続的物価下落をデフレと便宜的に定義してデフレ認定を行なっている。
デフレの弊害は現金の価値が上がりすぎて、モノやサービスや、それに関わる人の価値が下がり過ぎていることにある。個々人では、デフレによって好影響が悪影響を上回る者、あるいはその逆の者が存在する。一方で、社会全体では一般に悪影響が大きいと言われている。
デフレは名目的には低い金利に見えても、お金の借り手にとっての負担はデフレの分だけ重くなる。この場合の借り手には、日本政府も含まれる。デフレの状況は税収が上がらないので財政再建にとっては大きなマイナス要因ではある。
しかし、以下参考の※8:「世界経済のネタ帳」の日本のインフレ率(年平均値)の推移(1980〜2013年)>を見ていると、日本のデフレ(マイナスインフレ)は1995(平成7)に1度-0.13%が発生し、その後は、1999(平成11)年の0.33%から現在まで、2009(平成21)年の-1.34%を最高に2003(平成15)年位からは0,02%程度の軽微なもので心配したものではないとする学者もいるようだ。
因みに、日本とアメリカなどでは、少々計算の仕方が違っているようだ。それについては、以下参考の※13:「日本のデフレ率の再計測」参照)。
私には難しいことは判らないが、いずれにしても、デフレでは困るので、「アベノミクス」インフレターゲット(2%)を設定し、経済を成長させようとの考えには賛成だ。
日本では土地バブル(※14参照)が崩壊し、その後の政権が行った「レーガノミクス」もどきの引き締めによって、長いデフレが続いた。このデフレでお金の価値は上がり続け、信用縮小を続け来た。
この信用縮小を解消するために、金融緩和を行い、その金で、震災の復興や、国土強靭化や未来志向のための投資などに振り分けられるのならそれはいいことだ。ただ、安倍政権の弱者に配慮しない、金持ち優遇・企業優遇の進め方の中で、大量に発行されだぶついたお金は、値上がりを想定した投機へと連鎖してゆき、お金(円)、国債の価格を下げ、金利のアップにつながってゆく。これは、庶民のなけなしの預・貯金価値を引き下げ、年金者の生活を圧迫する。
こうして生まれたバブルがはじけると、また大不況になる。その時、これだけ多くの財政赤字を抱えた日本はどうなるのだろう。

リアルタイム財政赤字カウンター 13

何か「レイガノミクス」と同じような結果を引き起こすようになりそうな気がするのだが・・・。年金以外収入のない老人のいらぬ心配であってほしいものだ。
今、経済活性化の為に庶民の預貯金を吐き出させ、株式や投資信託の投資に向けさせようと、かってのマル優制度(少額貯蓄非課税制度)ならぬイギリスでは広く国民の資産形成・貯蓄の手段として定着 しているISA(Individual Savings Account)を参考に日本版のNをつけたNISA(ニーサ。少額投資非課税制度)が導入されたが、日本では、個人の株式や投資信託の売買から生じる所得への課税を、一定の条件の下で非課税にするものであるが貯蓄には使えず、いろいろ利用上の制約も多くあり、なかなか庶民には利用しにくいものとなっている(※15参照)。これも、ある程度豊かな資産ある人のための制度であり、金のない庶民に恩恵のあるものではない。
サラリーマン年金や投信などリアルマネーとしてのものならいいと思うが・・・。
いま世界に流通している基軸通貨ドルには、リーマンショックの前後から、「価値の裏づけのあるドル」と「価値の裏づけのないドル」の二種類が出来ているそうだ。そして、その「価値の裏づけのないドル」はフェイクマネー(偽金)と呼ばれているそうだが、世界で膨らんだ フェイクマネーの源泉である「真水のマネー」の出し手は日本だという。
アメリカのITバブル崩壊以降の世界経済は、それまでの定石通りドル崩壊の長期的なステップを踏んでいたにすぎないのだという。国際金融資本・金貸しが日本に目をつける理由もここにあり、日本が巨大な真水の金融力をどう使うかで世界市場の舵取りは決まるのだというが・・・・。日本の政府は、私たちのなけなしの金を守ってくれるのだろうか。
こんな怖い話、以下参考の※16、※17など読んでみられるとよい。

冒頭の画像は自らの減税プランをテレビで説明するレーガン大統領, 1981年7月。Wikipediaより。
参考:
※1:超金融緩和「新・アベノミクス」は良薬か、劇薬か - 朝日新聞社
http://webronza.asahi.com/business/2012112500001.html
※2:バブル/デフレ期の日本経済と経済政策」(歴史編)1 - 経済社会総合研究所
http://www.esri.go.jp/jp/prj/sbubble/history/history_01/history_01.html
※3:どんな場面で通貨の価値が変わるのか? - FX初心者の外為入門
http://mituwasou.com/fx-begin/price-change-reason.html
※4:通貨の価値は政治力で決まる - Japan Real Time - WSJ
http://realtime.wsj.com/japan/2013/05/10/%E9%80%9A%E8%B2%A8%E3%81%AE%E4%BE%A1%E5%80%A4%E3%81%AF%E6%94%BF%E6%B2%BB%E5%8A%9B%E3%81%A7%E6%B1%BA%E3%81%BE%E3%82%8B/
※5:単位労働コストの推移 : 疑似科学ニュース
http://www.asks.jp/community/nebula3/171862.html
※6:国際競争力ランキングから見た我が国と主要国の強みと弱み(Adobe PDF)
http://dl.ndl.go.jp/view/download/digidepo_6019129_po_074406.pdf?contentNo=1
※7:内閣府年次リスト(平成10年度以前)
http://www5.cao.go.jp/keizai3/sekaikeizaiwp/index.html
※8:世界経済のネタ帳-世界の国・地域
http://ecodb.net/area/
※9株式の死 :きょうのキーワード :やさしい投資 :マネー :日本経済新聞
http://www.nikkei.com/money/investment/toushiyougo.aspx?g=DGXIMMVEW4005002112009000001
※10:内閣府年次リスト(平成11年度以)
http://www5.cao.go.jp/j-j/wp/index.html
※11:債務危機と通貨危機(Adobe PDF)
http://www.econ.kyoto-u.ac.jp/~iwamoto/lecture2008/sekaikeizai07.pdf#search='%E3%83%A9%E3%83%86%E3%83%B3%E3%82%A2%E3%83%A1%E3%83%AA%E3%82%AB%E3%81%AE%E5%82%B5%E5%8B%99%E5%8D%B1%E6%A9%9F'
※12:総務省統計局統計データー:労働力調査
http://www.stat.go.jp/data/roudou/rireki/gaiyou.htm
※13日本のデフレ率の再計測 - RIETI - 独立行政法人経済産業研究所 RIETI
http://www.rieti.go.jp/jp/publications/rd/082.html
※14:日本の土地バブルとは何か
http://www.clubpac.net/01/001.html
※15:NISAの致命的な欠点について - 高橋 忠寛
http://blogos.com/article/77469/
※16:フェイクマネー崩壊で厳しい欧米投資銀行、業界縮小は不可避
http://jp.reuters.com/article/topNews/idJPJAPAN-32561720080703
※17:世界バブルの構造:フェイクマネーと化した米ドル、最後の貸し手は日本しか残らない。 ...
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=187127
安倍政権の経済政策と2013 年・2014 年の日本経済 - 三菱UFJリサーチ (2013年12月26日)
http://www.murc.jp/thinktank/rc/column/kataoka_column/kataoka131226.pdf#search='%E6%97%A5%E6%9C%AC+2012%E5%B9%B4+2013%E5%B9%B4+%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%95%E3%83%AC%E7%8E%87'
物価上昇率2%の日銀シナリオを検証する | トレンド | 東洋経済オンライン(2013年05月23日)
.http://toyokeizai.net/articles/-/14025
Wikipedia - レーガノミックス
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AC%E3%83%BC%E3%82%AC%E3%83%8E%E3%83%9F%E3%83%83%E3%82%AF%E3%82%B9

富士山の日(new)

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日本記念日協会(※1)登録の今日(2月23日)の記念日に「富士山の日」がある。
登録をしているのは、オンラインを通じて、全国一斉に富士山の見え具合をネット上で報告し合うなど、富士山をテーマとした活動を活発に行っているパソコン通信上の「山の展望と地図のフォーラム」(※2)で、1996(平成8)年1月1日に制定したものらしい。日付は2と23で「富士山(ふじさん)」と読む語呂合わせと、この時期は富士山がよく望めることから。・・・。とか。
実は、2005(平成17)年の今日2月23日に「富士山の日」という記念日があるということだけはこのブログで紹介していたが、それ以外特に何も書いていなかったので、今回改めて、書きなおしてみたものである。
1996(平成8)年「富士山の日」が登録されて、その後、2001(平成13)年12月17日に、日本のシンボル「富士山」の恵みを受けている観光立町である山梨県富士河口湖町(当時は河口湖町)が「富士山の恩恵に対する感謝を表すとともに、富士山の環境保全(※3のここ参照)並びに観光資源としての重要性を認識する機会として」、この日(2月23日)を富士山の日に制定し、2003(平成15)年11月15日からは条例として施行(※4)。その後、静岡県が、2009(平成21)年に「富士山の世界文化遺産登録に向け県民運動を盛り上げるため」に、同趣旨でこの日を富士山の日として県条例で制定(※5)したことを受けて、山梨県も同趣旨で「山梨県富士山の日条例」(梨県条例第55号)に、設定したようだ(※6)。

富士山(ふじさん、英語表記:Mount Fuji)は、山梨県(富士吉田市、南都留郡鳴沢村)と静岡県(富士宮市裾野市富士市御殿場市、駿東郡小山町)に跨る活火山であり、標高3,776 m、日本最高峰(剣ヶ峰の独立峰である。
懸垂曲線の山容を有した玄武岩質成層火山で構成され、その山体は駿河湾の海岸まで及ぶ。
古来霊峰とされ、特に山頂部は浅間大神(浅間神)が鎮座するとされたため、神聖視された。
噴火を沈静化するため立律令国家により浅間神社が祭祀され、浅間信仰(富士浅間信仰)が確立された。また、富士山修験道の開祖とされる富士上人により修験道の霊場としても認識されるようになり、登拝が行われるようになった。これら富士信仰は時代により多様化し、村山修験富士講といった一派を形成するに至る。
現在、富士山麓周辺には観光名所が多くある他、夏季には富士登山が盛んである。
日本三名山(三霊山)、日本百名山日本の地質百選に選定されている。また、1936(昭和11)年には富士箱根伊豆国立公園(※3のここ参照)に指定され、その後、1952(昭和27)年に特別名勝に、2011(平成23)年には史跡に登録されている。
現在日本最高峰の富士山。その優美な風貌は日本国外でも日本の象徴として広く知られている。古来富士信仰が育まれた霊峰であるとともに、日本の代表的な画家葛飾北斎(1760年1849年)の『富嶽三十六景』など(※7参照)に代表される芸術上の主要な題材として、日本国内のみならず国際的にも大きな影響を及ぼした文化的景観を形成していることから、昨・2013(平成25)年6月22日には、関連する文化財群とともに「富士山-信仰の対象と芸術の源泉」の名でユネスコ世界文化遺産に登録された(※8:「世界遺産富士山」参照)。尚同※8:「世界遺産富士山」にリンクの「富士山ライブカメラ」では、富士吉田市、山中湖村、富士河口湖町(4ヵ所)、富士川町に設置したライブカメラ(Webカメラ)からの富士山の映像を見ることが出来る。

富士山ライブカメラ

『富嶽三十六景』は、稀代の天才絵師・葛飾北斎の代表作であり、巨大な波と舟の中に富士を描いた「神奈川沖浪裏」、赤富士を描いた「凱風快晴」などが代表的な作品として知られる。
 
画像クリックで拡大します。
●上掲の画像向かって左:「神奈川沖浪裏」、右:「凱風快晴」。画はWikipediaより。尚『富嶽三十六景』の画すべてを、以下参考にリンクの※7:「山梨県立博物館:かいじあむ」で見ることが出来る。

「富嶽」(ふがく)とは富士山のことであり、富嶽三十六景』は各地から望む富士山の景観を描いている。このシリーズは天保初年ごろより、西村永寿堂から出版された。
初め、題名の通り36図出版されたが、非常に好評であったため、後から10図が追加され、最終的に46図のシリーズ(連作)となった(当初の36図を「表富士」、追加の10図は「裏富士」と呼ばれている)。
発表当時の北斎は72歳と、晩年期に入ったときの作品である。全図に富士山が描かれているが、「凱風快晴」や「山下白雨」(画像)のように、富士山を画面いっぱいに描いた作品から、「神奈川沖浪裏」や「甲州伊沢暁」 (画像)のように遠景に配したものまであり、四季や地域ごとに多彩な富士山のみならず、画の多くは、各地での人々の営みを生き生きと描写している。
当時、人々の間には、富士山に対する篤い信仰があった。富士山に集団で参拝する「富士講」が盛んに行われ、富士山に見立てた築山富士塚」が江戸の各地に作られている。こうした社会的風潮の中で『富嶽三十六景』は生まれ、爆発的なヒットをとばした。いつの時代も日本人の心の中にある富士山の姿。『富嶽三十六景』は、単なる風景画の域を超え、日本人の心の風景を描き出している。
中でも、巨大な波が人々を乗せた小舟を翻弄(ほんろう)し、大きく盛り上がって崩れんとする波の下に、遠く小さく富士山の望まれる「神奈川沖浪裏」の絵は、画家ゴッホによって賞賛され、さらにドビュッシーの売り出した交響詩「海」スコアの表紙に使用されるなど、世界の芸術家にも大きな影響を与えたことでよく知られている。
浮世絵の風景画は当時「名所絵」と呼ばれており、このシリーズの商業的成功により、名所絵が役者絵美人画と並ぶジャンルとして確立したと言える。
名所絵とは、日本各地の名所とされる場所を描いた絵のことであり、街道の風景を描いた名所絵としては、ほかに歌川広重(1797年 - 1858年)の保永堂版『東海道五十三次続絵』(55枚 。53の宿場と江戸と京都)があげられる。
この作品は広重の出世作であり、広重が1832(天保3)年、東海道を初めて旅した後に作製したといわれているが、この絵の中でも、江戸から、16番目の宿場「由比宿」までに富士山が描かれている。
江戸から2番目の宿場「川崎宿:六郷渡船」()は、品川宿を出て六郷川を渡ると川崎に入る。その左後方に富士山が描かれている。江戸中期から弘法大師信仰が盛んになると、川崎にある真言宗の寺「川崎大師」は流行佛(はやりぼとけ)として、江戸をはじめ近郊から参詣者が訪れた。
7番目の宿場「平塚宿:縄手道 」()では、中央のまん丸とした山「高麗山」(こまやま)の後ろに小さく富士が描かれている。高麗山へ続く縄手道すなわちあぜ道は「く」の字に大きく曲がって描かれ、そのことによって画面に奥行きをもたせようとしている。
10番目の宿場「箱根宿:湖水図」()。小田原を過ぎると箱根八里の天下の嶮へ。芦ノ湖畔の箱根町まで海道一の難所であり、旅人は馬の背や駕篭で、また草鞋の足も重く登っていく。そして芦ノ湖畔へ達する。画の中央には駒ヶ岳がそそり立つ。向かって左一望にひらける芦ノ湖、その遠山の上に富士の白雪が聳え立っている。
13番目の宿場「原宿:朝の富士」()。
原宿は北側に浮島沼が広がって おり、南側は駿河湾に挟まれた細長い州にあった。絵は宿場でなく浮島ヶ原のあたりが描かれているようだ。この絵では富士山の偉容が中心である。朝日に白雪は紅に染まり、遠い西の空は藍色に晴れている。沼津を出るとが右手に外れ、富士山が大きく中空にそびえて目近く見え、その絶景が海道をいく人々をなぐさめてくれる。
14番目の宿場「吉原宿:左富士」。原から吉原にかけ、富士の姿が最もよく眺められる。吉原宿から駿河湾田子の浦は程近い。平坦な街道には松並木がつづき、道は曲がりくねって今まで右手に見えていた富士山が左手に見えるところから、「左り富士」と呼ばれる景勝地となった。曲折する松並木の街道を描き、富士の姿を左手に見せている。
吉原宿、蒲原宿の次は、16番目の宿場「由井宿:薩多嶺」



●●上掲の画像は、広重の東海道五十三次「由比:薩多嶺」の画である(画像はWikipediaより)。
蒲原宿を過ぎると山は海に近くせまる。この海が清見潟である。古くは海の干潮の時に海岸ずたいに通った危険なところであったが、1655(明暦元)年に朝鮮から使節がきた時、山を切り開いて街道を通した。これが薩多峠であり、東海一の難所であった。
しかし、『東海道名所図会 巻之四』「駿河 興津」には、「田子の浦」の記述は特にないが、「由井まで二里十二町。この道は山水の風景真妙にして 東海道第一の勝地なり。」とあり、その前の「江尻」には、「田子浦」と題する漢詩が掲載されていることから、広重は、まさに田子の浦の海岸線から、(三保もしくは清見の)松原、船の帆、愛鷹山そして富士へと続く眺望を絵にしているのだろうという(※9:浮世絵に聞く!の「興津」 歌川広重 遠州屋又兵衛参照)。
広々と開けた駿河湾、沼津から続く曲汀の眼を見晴らす素晴らしい景色。その左手の峠道の断崖には、こわごわと絶景を眺める旅人が描かれている。

富士山は千年の昔から、万葉集などでも様々な形で歌われてきたが、ここの眺めは、『小倉百人一首』に掲載されている山部赤人の歌にもある。


●●上掲の画像は、山部赤人(歌川国芳画)

田子の浦にうち出でて見れば白妙の富士の高嶺に雪は降りつつ

この赤人の歌は、『新古今和歌集』巻第六冬歌に「題しらず」として収められているのが、その出所である。『新古今集』は、『万葉集』に載っている、長歌と反歌から成る一組の富士山の歌のうち、反歌だけを切り離し、雪が詠まれているということで、冬の歌という扱いで、巻六に入れたもののようだ。
『万葉集』巻第三「雑歌」には以下のように詠われている。

山部宿禰赤人、不尽(ふじ)の山を望(み)る歌一首 并せて短歌
あめつち)の 分かれし時ゆ 神さびて 高く貴(たふと)き 駿河なる 富士の高嶺(たかね)を 天(あま)の原 振り放(さ)け見れば 渡る日の 影も隠ろひ 照る月の 光も見えず 白雲も い行(ゆ)きはばかり 時じくぞ 雪は降りける 語り継ぎ 言ひ継ぎゆかむ 富士の高嶺(たかね)は (3-317)
[反歌]
田子(たこ)の浦ゆ打ち出(いで)て見れば真白にぞ富士の高嶺に雪は降りける(3-318)

【通釈】
[長歌]天と地が別れて出来た時からずっと、神々しく、高く壮大な、駿河の富士の高嶺――その高嶺を、天空はるか振り仰いでみれば、空を渡る太陽もその背後に隠れる程で、夜空に輝く月の光も見えない。雲もその前を通り過ぎることを憚る程で、季節にかかわらず雪が降り積もっている。いつの代までも語り継ぎ、言い継いでゆこう。霊妙な富士の高嶺のことは。
[反歌]田子の浦を通って、視界の開けた場所に出ると、真っ白に、富士の高嶺に雪が降り積もっていた。(歌の解説詳しくは※10:「千人万首」山部赤人 参照)
◇「富士の高嶺」=富士山について、万葉集では「不尽(不盡)」の表記が最も多く、「布士」「布時」「布仕」「不自」などの万葉仮名表記も見える。「富士」の表記が一般的になるのは中世以降と言われているようだ。

この歌では、「時じくそ雪は降りける」というのは、時の区別なく、つまり「季節にかかわらず、雪は降っている」ということだから、その反歌を冬の歌とすることは、作者の意図とは違うことになる。◇「ま白にそ富士の高嶺に雪は降りける 」という下句も『新古今集』での形とはひどく異なる。万葉集の「白妙の」は「富士」に掛かる枕詞であるが、「ま白にそ」は文字通り、真白にの意で、雪が降り積もっている形容を具体的、視覚的に表現していることになる。真白に雪を戴く富士山の姿を捉えているのは、やはり『万葉集』のこの反歌であり、その意味では、この歌を参考に書いたのが、広重の保永堂版『東海道五十三次続絵』の「由井宿」(薩多嶺)ではないだろうか。
ただ、◇田子の浦 は、『続日本紀』に「廬原郡多胡浦」とあるのと同一地と思われ、現在の庵原(いはら)郡蒲原町あたりに比定されている(尚、蒲原町は2006年に、静岡市に編入合併し、清水区の一部となっている)。したがって、赤人の歌の場面は、一般的にいわれている富士市南部の田子の浦とは別だとする学説があるようだ。◇「うち出てみれば」の 「うちいで」は広いところへ出る意。奈良時代は古代・中世でも、一番、海上交通が発達していたことを失念してはいけないだろう。

同じく万葉の歌人高橋虫麻呂 并せて短歌(反歌)2首がある。(長歌原文をここに書くのは省略するが詳しくは※10:「千人万首」高橋虫麻呂参照)。

[長歌]【通釈】
甲斐の国と、駿河の国と、あちらとこちら、二つの国の真ん中に、聳える富士の高嶺は、天高く行き交う雲もその前をおずおずと通り過ぎる程大きく、空を飛ぶ鳥もその頂までは飛び上がれぬ程高く、燃える火を雪で消し、降り積もる雪を火で消し続けている。言いようもなく、形容のしようもなく、霊妙にまします神であるよ。石花海と名付けてあるのも、その山が塞き止めた湖である。富士川と呼んで人が渡るのも、その山の地下水が溢れ出た川である。日本の国の、重鎮としてまします神であるよ。国の宝ともなっている山であるよ。駿河にある富士の高嶺は、いくら見ても見飽きないことよ。

..反歌
富士の嶺(ね)に降り置く雪は六月(みなつき)の十五日(もち)に消(け)ぬればその夜(よ)降りけり(3-320)
【通釈】富士の嶺に積もっている雪は、六月十五日に融けて消えると、その夜すぐまた降ったのだった。
富士の嶺(ね)を高み畏(かしこ)み天雲(あまくも)もい行きはばかり棚引くものを(3-321)
【通釈】 富士の嶺があまり高くて畏れ多いので、天雲さえも通り過ぎるのをためらって、たなびいているのだよ。
【補記】課題の左注に「右一首高橋連虫麻呂之歌中出焉以類載此」とあり、「以類載此」とあるのは、山部赤人の富士を詠んだ歌の後に、同じ山を詠んだ歌として載せたことを示す注記である。長歌の中で、◇「なまよみの 甲斐の国」とある 「なまよみの」は枕詞。掛かり方未詳(「黄泉(よみ)」と関係あるとする説などがあるようだ)。甲斐の国は今の山梨県に相当する。◇長文「うち寄する 駿河の国」 の「うち寄する」は「駿河」の枕詞。南方の常世の国から波が打ち寄せる、の意であろうという。また「する」が同音から「駿河」を起こすことにもなるようだ。
◇「<ahref= http://kotobank.jp/word/%E7%9F%B3%E8%8A%B1%E6%B5%B7 >石花海」は 富士五湖の一つ西湖精進湖。一つの湖であったのが、864 (貞観6)年の富士山噴火により二つに別れたという(詳細は富士山の噴火史の中の「貞観大噴火」を参照)。
先にも書いたように、万葉の時代富士はもっぱら、「不尽山」と歌われているが、これは、当時、富士山は盛んに噴火を繰り返しており、「神代の時代から活動を続ける永遠に命の尽きない山」=不尽山だったからだろう。
それが、時代が下り、平安後期になると、「人知れぬ思いをつねに駿河なる 富士の山こそ我が身なりけれ」(古今集=905年, 読人しらず )というように「富士」の表記が出てくる。この頃になると、富士山の活動もおさまっており、その秀麗さに関心が集まるようになったようだ。富士山は今でも活火山であることは忘れてはいけないだろうね。

これらの歌を見ると、高橋連虫麿は富士山を陸上の箱根足柄方面から見たようだが、山部赤人は駿河から相模に向かう途中の海上から富士山を眺めたようだ。それは、ちょうど、葛飾北斎が描く『冨嶽三十六景』の内の36.「東海道江尻田子の浦略圖」()に相当するような風景である。逆に、葛飾北斎は集歌318の歌の真意を知っていて、それで当時の東海道では渡海をしない江尻宿だが、田子の浦の海上からの富士山を描いたのかも知れない。

広重は保永堂版『東海道五十三次続絵』によって、浮世絵界に不動の地位を築き、その後広重がはじめて手がけた富士の連作『不二三十六景』(1852年刊。版元:佐野屋嘉兵衛)、やはり富士の連作『冨士三十六景』(1858年刊。版元:蔦谷吉)で、『名所江戸百景』(1856年-1858年)と同様に風景を竪に切り取り、近景、中景、遠景を重ねた構図のものをはじめとした風景版画の数々を世に送り出すようになる。
広重が日本全国の名所を描いた浮世絵木版画の連作『六十余州名所図会』(1854年-1856年)の、12駿河( 三保のまつ原)では、羽衣伝説の舞台でもあり、日本三大松原のひとつとされ、国の名勝に指定されており、ユネスコの世界文化遺産「富士山-信仰の対象と芸術の源泉」の構成資産にも登録された「三保松原」を通しての富士山が描かれている。
ただ、広重の保永堂版『東海道五十三次続絵』を書くにあたっては、伝手(つて)を頼って幕府の行列に加えてもらったとの伝承が伝わるが、実際には旅行をしていないのではないかなどという説もあるようだ(※9や※11参照)が・・・、その真偽はよくわからない。
ただ広重の前には、既に多数の東海道五十三次ものがあったので、版元の要請などもあって、現地を観ずに先輩たちの東海道物を見て、その集大成をした…と言ったことはあるのかもしれないね・・・・。北斎の絵の中に、広重がヒントにしたと思われるようなものもある感じがする。
因みに、広重より先に東海道五十三次を書いた北斎の絵があるが、北斎の五十三次は人物が主体で風景はあまり描いていない。一方、広重の五十三次は風景が中心である。以下参考の※12:「四日市の館:広重&北斎の東海道五十三次」を見られるとよい。絵の美味さに関しては、広重の大先輩北斎がずっと上だね。

ところで、小説家太宰治(1909年6月19日 - 1948年6月13日)の短編小説に『富嶽百景』がある。1933(昭和8)年に作家デビューするが、1935(昭和10)年には東京帝国大落第・都新聞入社試験の失敗から鎌倉で自殺未遂を起こし、パビナール(アヘンアルカロイドを成分とする鎮痛剤で、薬物依存の危険性があるという※13参照)中毒にも陥り、東京の武蔵野病院に入院していた。1937(昭和12)年には愛人の女性と再び自殺未遂を起こしている。
1938(昭和13)年30歳の時、9月から11月かけて太宰は、井伏鱒二の勧めで山梨県南都留郡河口村(富士河口湖町河口)の御坂峠にある富士山が間近に見える土産物屋兼旅館である天下茶屋(※14)に原稿執筆のために逗留し、この間に同じ茶店に先に間借りしていた井伏鱒二の紹介で知り合った一女性と婚約した。
彼は翌1939(昭和14)年発表の「富嶽百景」で、この天下茶屋滞在時に日々眺めていた富士山へアンビヴァレントな気持ちを、例の曲折に富む文章で語りつくしている。
また折りしも日中戦争開始の翌年で、ナショナリズムの渦が国民を巻き込み、富士山も又、その巻き添えをくっていた時代なのであろう。そのような時代を背景にして、冒頭からいきなり?聖化?され?俗化?された富士山像に以下のようにいちゃもんをつける。
「富士の頂角、広重ひろしげの富士は八十五度、文晁(ぶんてう。江戸時代後期の画家)の富士も八十四度くらゐ、けれども、陸軍の実測図によつて東西及南北に断面図を作つてみると、東西縦断は頂角、百二十四度となり、南北は百十七度である。広重、文晁に限らず、たいていの絵の富士は、鋭角である。いただきが、細く、高く、華奢である。北斎にいたつては、その頂角、ほとんど三十度くらゐ、エッフェル鉄塔のやうな富士をさへ描いてゐる。けれども、実際の富士は、鈍角も鈍角、のろくさと拡がり、東西、百二十四度、南北は百十七度、決して、秀抜の、すらと高い山ではない。
たとへば私が、印度インドかどこかの国から、突然、鷲にさらはれ、すとんと日本の沼津あたりの海岸に落されて、ふと、この山を見つけても、そんなに驚嘆しないだらう。ニツポンのフジヤマを、あらかじめ憧れてゐるからこそ、ワンダフルなのであつて、さうでなくて、そのやうな俗な宣伝を、一さい知らず、素朴な、純粋の、うつろな心に、果して、どれだけ訴へ得るか、そのことになると、多少、心細い山である。低い。裾のひろがつてゐる割に、低い。あれくらゐの裾を持つてゐる山ならば、少くとも、もう一・五倍、高くなければいけない。・・・・と(※15:「太宰治 富嶽百景 - 青空文庫」より)。

「頂角」は、三角形の底辺に対する角。二等辺三角形では、等辺でない辺に対する角のこと。太宰は、「陸軍の実測図によつて東西及南北に断面図を作つてみると、東西縦断は頂角、百二十四度となり、南北は百十七度である。」と書いているが、以下参考の※16:「富士が聳えて見える方角の調査結果」では、どの地点から見る富士が最も聳えて見えるか、あらゆる角度から写真を撮り、分度器で計測したところ。大体113度〜130度の範囲にあるという。確かに、太宰が云うように、「たいていの絵の富士は、鋭角である」。太宰に言わせると「北斎にいたつては、その頂角、ほとんど三十度くらゐ」と云うから、恐らく、『富嶽三十六景』の「凱風快晴」の富士を言っているのだろう。もし、同じ方角から撮った写真の富士山を、パソコンなどで、北斎の「凱風快晴」の富士の鋭角に合わせて作り直してみたら随分とおかしなものになるだろう。
浮世絵は、やはり浮世のことなので、富士山の「頂角」を過小に描き、スラリと、美しく描いたということだろう。それが写真との違いだろう。
御坂峠の天下茶屋は富士の名所として知られており、茶屋からも河口湖に抱かれた見事な富士を見ることができる。しかし太宰は、いかにも典型的な富士の姿を見て、「風呂屋のペンキ画だ」と馬鹿にする。なかなか執筆がはかどらない中、太宰は茶屋の人々や、あるいは峠の下の町から太宰を訪ねてきた若者などと交流して行くうちに、彼は、その時々に、新たな富士の表情を発見し、やがて彼は、いつも変わらずそこに佇む素朴な姿の富士に頼もしさを感じるようになる。
そういえば、銭湯と聞くと富士山の壁絵を思い浮かべる人は少なくはないと思われるが、Wikipediaによれば、その歴史はそんなに古いものではなく、1912(大正元)年に東京神田猿楽町にあった「キカイ湯」の主人が、画家の川越広四郎に壁画を依頼したのが始まりで、これが評判となり、これに倣う銭湯が続出し、銭湯といえばペンキ絵という観念を生じるに至ったという。なお、正確には東日本、特に関東地方の銭湯に特有のものであり、西日本の銭湯では浴槽が浴室の中央に設計されることが多いこともあり、壁面にペンキ絵はほとんど無いという。

富士山は万葉の昔から 「不二山」 「不尽山」 と書かれ、日本人の憧れと崇高を集める「信仰の山」 であった。秀麗な山容の富士山は文化的・歴史的・宗教的にみても,、日本人にとっては欠く ことのできない, まさに, 「心のふるさと」 「誇りの山」 であった。しかし、 東京オリ ンピックが開催された1964(昭和39) 年に、山梨県側の富士山5合目まで車で容易に行く ことができる 「富士スパルライ ン」(富士山有料道路)が建設されて以降、現在の富士山は, 「観光の山」 に変容している。
又、建設にあたり道路の造りやすさが優先されたことから、貴重な原生林が伐採され、道路周辺の山肌に大きな傷も残り、辺の木々 の立枯れが進み, 土砂災害の頻繁な発生や、生態系への悪影響な ど、富士山の環境に与えるダメージも甚大なものとなっているという。その後, 環境悪化の再生に30年以上の歳月 と多くの税金が投入され、富士山を愛するボランティア達の努力により、5合目以上のゴミ・し尿問題などはほとんどなくなり、何とか、2013(平成25)年6月22日、ユネスコ世界遺産委員会が開かれ、富士山の世界遺産登録が決定した。
しかし悲しいことに、山麓部へのごみの不法投棄等は今も続いており、夏のピーク時の登山者受け入れ態勢も決して十分とは言えない状況であり、また、ごみ問題のほかにも、登山者の安全対策、景観整備、開発の抑止など課題はまだまだ多く残っていると聞く。
ユネスコから世界遺産登録を受けた富士山。本来あるべきは自然遺産としての登録であったが、このような環境問題等もあり、文化遺産として登録された。
その文化を育んできたのが美しい自然であることは間違いないが、富士山を「日本の象徴」、「日本人の心の原風景」として、何時まで守り続けられるであろうか。世界遺産にとうろくされたところには、どっと観光客が押し寄せている。維持管理費がかかるとの理由で、多額の入山料や、入場料を徴収しようとしているところが増えている。今まで、自然や、文化をを愛し、ルールを守り、環境を守ってきた人達にとっては本当にいい迷惑だろう。「世界遺産登録の取り消し」・・・なんて、ことにだけはなってほしくないよあ〜。
それと、1707(宝永四)年10 月 28 日、宝永東海地震が発生した時に起きた宝永大噴火以降現在まで、富士山の噴火(※17参照)は起こっていないが、近い将来、起こる可能性が高いという。この様な大自然の災害に対して、人の力で予防できることは限られているだろうから、これは、怖いな〜。(冒頭に掲載の画像は、宝永山と宝永第一火口.。Wikipediaより。)

※1:日本記念日協会
http://www.kinenbi.gr.jp/
※2:山の展望と地図のフォーラム - FYAMAP
http://fyamap.jizoh.jp/
※3:国立公園-環境省
https://www.env.go.jp/park/index.html
※4:富士山の日(毎年2月23日) [富士河口湖町] - 富士河口湖町役場
http://www.town.fujikawaguchiko.lg.jp/info/info.php?if_id=442
※5:02月23日静岡県/富士山の日
http://www.pref.shizuoka.jp/bunka/bk-223/fujisannohi/top.html
※6:山梨県/富士山の日
https://www.pref.yamanashi.jp/kankou-sgn/fujisannohi.html
※7:山梨県立博物館かいじあむ:富士山
http://www.museum.pref.yamanashi.jp/2nd_fujisan.html
※8:世界遺産富士山
http://www.fujisan-3776.jp/index.html
※9:浮世絵に聞く!
http://ukiyoe.cocolog-nifty.com/
※10:千人万首 目次
http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin_f.html
※11:広重東海道五十三次の 成立
http://koktok.web.fc2.com/hom_page/53Travel/yobi/53hiro2.htm
※12:四日市の館:広重&北斎の東海道五十三次
http://asake.sakura.ne.jp/02asake/ukiyoe/8.html
※13:【雑学】太宰治、パビナール中毒、精神病院: ぽん太のみちくさ精神科
http://ponta.moe-nifty.com/blog/2007/12/post_4835.html
※14:御坂峠|天下茶屋
http://www.tenkachaya.jp/
※15:太宰治 富嶽百景 - 青空文庫
http://www.aozora.gr.jp/cards/000035/files/270_14914.html
※16:富士が聳えて見える方角の調査結果
http://mohsho.image.coocan.jp/fugakuhyakukei3.html
※17:富士火山噴火:災害の教訓- 内閣府防災担当(Adobe PDF)
http://www.bousai.go.jp/kyoiku/kyokun/kyoukunnokeishou/14/pdf/shiryou4.pdf#search='%E6%9D%B1%E6%B5%B7%E9%81%93%E4%BA%94%E5%8D%81%E4%B8%89%E6%AC%A1+%E9%8E%8C%E5%8E%9F+%E5%AF%8C%E5%A3%AB'
東海道五拾三次-国立国会図書館デジタル化資料
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1302479?tocOpened=1
浮世絵のアダチ版画
https://www.adachi-hanga.com/ukiyo-e/category/8
富士登山オフィシャルサイト
http://www.fujisan-climb.jp/
富士山 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%8C%E5%A3%AB%E5%B1%B1


ミニーマウスの日

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日本記念日協会(※1)の今日・3月2日の記念日に「ミニーマウスの日」がある。
オシャレで女の子らしく、楽しいことが大好きなミニーマウスの魅力を伝え、ミニーマウスとデイジーダックのように仲良しの女ともだち同士が素敵な時間を過ごすことを応援する目的で、ウォルト・ディズニー・ジャパン株式会社が制定したものだそうだ。
日付は3と2で「ミニー」と読む語呂合わせと、女の子がオシャレを楽しみ輝く早春であり、女の子の節句「ひな祭り」と同じ時期などから・・・。
ミニーマウス (Minnie Mouse) ディズニーアニメのキャラクターミッキーマウスの恋人として登場する。女の子であるが、多くの作品にミッキーマウスと共に出演している。
冒頭の画像はマイコレクションより、旧三菱銀行のミッキーとミニーの貯金箱である。
今日が「ミニーマウスの日」であることは、以前このブログで「ミニーマウスのひな祭り」と題して取り上げた。そこでは、冒頭のような私のコレクションの中から三菱銀行(現:三菱東京UFJ銀行)の貯金(CorectionRoom1)の紹介をさせてもらった。
また、11月18日が、「ミッキーマウスの誕生日」であること。6月9日が、「ドナルドダックの誕生日」であることなどもこのブログで簡単に紹介させてもらった。
ここ参照→ http://blog.goo.ne.jp/yousan02/s/%A5%DF%A5%CB%A1%BC

さて、ウォルト・ディズニーの看板キャラクターである「ミッキーマウス」。その生みの親がウォルト・ディズニーだということはよく知られている話だが、実際にミッキーを作画したのは、ウォルトの親友の天才アニメーターアブ・アイワークスだった。
そこで、今回は「ミニーマウスの日」のことについては、もうあまり書くこともないので、ミニーマウス関連で、ディズニーアニメ「ミッキーマウス」とその恋人「ミニーマウス」の誕生の変遷についてWikipediaや※2:「カートゥーン:アニメーション100年史」等を参考に簡単に書いてみよう。
1901年12月5日生まれのウォルト・ディズニーは、少年時代から絵を描くことやアートそのものに大変興味があり、7歳の時には自分の描いた小さなスケッチを近所の人たちに売っていたこともあったという。
1914年第一次世界大戦が勃発、1917年12月アメリカが未曾有の大戦争に参戦すると、愛国心に駆られたウォルトは高校と美術学校を退学し陸軍に志願した。
しかし16歳という若年であったことから軍に説得され、兵士としての勤務の代わりに赤十字社の衛生兵としてフランスに渡ったが、大戦終結後、一年振りに故郷のアメリカに帰国し、カンザスシティで画家としての活躍を目指していたものの、仕事も少なく、見かねた兄が頼んだ知人より、ペスマン=ルービン・コマーシャル・アート・スタジオでの広告デザインの仕事を紹介してもらうが、彼はここで生涯の友人となるアブ・アイワークスと知り合い、コマーシャル・アーティストとして生計を立てていこうとしていたが、翌年にアート・スタジオから二人はともに契約更新を打ち切られて失業する。
そこで、1920年1月、ウォルトとアイワークスは、デザイン会社「ウォルト・アイワークス・カンパニー」を創立して共同経営者となった。
しかし、設立早々に、ウォルトはアイワークスを置いてカンザス・シティ・フィルム・アド社(Kansas City Film Ad Company。後のユナイテッド・フィルム・アド社)にアニメーターとして雇用されてしまったので、会社は長続きしなかった。
初めは生活の為に雇われたウォルトだったが、短編アニメの作画を担当する中で、アニメーターとしての資質に目覚めていき、漫画からアニメへと興味が移っていった。社員としての仕事の傍らで映像制作の為の機材を借り入れてアニメーション制作に没頭し、それまでの切り抜き手法からセルアニメに高い可能性がある事を確信した。
1920年、独立して個人事務所を設立したウォルトは、フリーランスの製作者として仕事を募集、カンザスシティーの事業家フランク・L・ニューマンからの出資で初のオリジナルアニメ作品としてカンザスシティの映画館チェーン「ニューマン劇場」向けに、『ニューマン劇場のお笑い漫画』を制作した。以下でその貴重な映像を見ることが出来る。


LOG1 ニューマン劇場のお笑い漫画 Newman Laugh O Grams19210320 ディズニー – YouTube

質の高い娯楽作品は良い評価を得て、ウォルトの元にはアニメ制作の仕事が順調に舞い込む様になった。個人製作では事業の拡大に追いつかないと判断したウォルトは、個人事務所からアニメ制作会社へと会社を拡張すべく、親友のアブ・アイワークスを初めとする数人の若いアニメーター仲間(その中にはヒュー・ハーマンルドルフ・アイジングもいた)を呼び寄せ、弱冠20歳の若さで、ラーフ・オ・グラムズ社(Laugh O'Gram Studio)を設立。ウォルトにとって、最初の成功となり、仕事が多く舞い込んでくるようになった。
この頃の作品では、オリジナルショートアニメ『Laffets』のほか、『赤ずきんちゃん』(1922年7月。童話はここ参照)や『長靴をはいた猫』(1922年11月。童話はここ参照)、『シンデレラ』(1922年12月。童話はここ参照)などの童話を原作としたコミカルな作品を多く制作しているが、これら作品は、普通に童話を漫画にしたものをイメージしているとちょっと違うよ。興味があれば以下を見られるとよい。

LOG2赤ずきんちゃん(Little Red Riding Hood)
LOG6 長靴をはいた猫 (Puss in Boots )– YouTube
LOG7 シンデレラ(Cinderella )– YouTube

当初こそ前途有望かと思われたが、制作に没頭する余りに資金のやり繰りが乱雑になり、最終的にスタジオは倒産してしまった。これはウォルトに経営面のサポート役を立てる事の必要性を痛感させた。倒産後の整理を終えたウォルトは再起を図って映画産業の本場ハリウッドへと移住した。
ハリウッドでは兄のロイ・ディズニーと共にカンザス時代に一本だけ新シリーズのパイロットフィルムとして制作していた 『アリスの不思議の国』(Alice's Wonderland。「漫画の国のアリス(The Alice Comedy)」の名でも知られる)のシリーズ続編商品を販売する会社「ディズニー・ブラザーズ社」を興した。
事業の過程で「アリスシリーズ」のアニメを再度制作する機会を得たウォルトは以前の様にアニメーター仲間を集め、ディズニー・ブラザーズ社はアニメ製作会社へと転進した。
実写の子役の少女が、アニメの絵の中に入るというのが基本アイディアのこのシリーズ=「アリスコメディシリーズ」は、1923年から1927年にかけて制作され大好評を博し、ディズニー社の経営は軌道に乗っていった。
これが実質的な「ディズニー社」の設立であると考えられ、ロサンゼルス市ダウンタウンの北側:シルバーレーク地区ハイペリオン通りに開設された制作スタジオは1939年のバーバンクへの移転による閉鎖までディズニーアニメを世に送り出し続けた。
この『漫画の国のアリス』も、ルイス・キャロルの『不思議の国のアリス』をもとにしたパロディーであり、皆さんが知っているキャロルの作品イメージとは大分違うだろうが、この時代に、実写とアニメを織り交ぜたこれだけの技法は素晴らしい。また、少女子役のヴァージニア・デイヴィス(Virginia Davis)がめちゃ可愛い。先ずは以下で、そのシーンを見てみると良い。

AC1 アリスコメディー Alice's Wonderland (1923) ディズニー - YouTube
AC4 アリスコメディー Alice's Wild West Show (1924) ディズニー - YouTube

ウォルトとアイワークスが映画プロデューサーで配給業者でもあるチャールズ・ミンツの下で製作した実写を織り交ぜたアニメ『漫画の国のアリス』は「オズワルド」シリーズに取って代わられるまで57本が制作された人気シリーズであったが、このアニメに使われているキャラクター、「ジュリアス・ザ・キャット」は黒猫をモチーフにしたフィリックス(フィリックス・ザ・キャット=英:Felix the Cat)の漫画(漫画のクリエーターは、オットー・メスマー。英:Otto Messmer)の模倣であると、プロデューサーであるパット・サリヴァン(Pat Sullivan)による抗議があったため、新しいアニメーションシリーズを計画しなければならなくなった。
そこで2人は実写なしでのオールアニメーションを作り出すと同時に体に丸みを帯びさせて親しみやすくなるようなキャラクターを創造するにあたってウサギの案が浮上した。これがオズワルドの始まりだそうだ。
フィリックスが誕生したのは、なんと1919年(大正8年) のこと、アメリカでは、ミッキーマウス誕生以前から大人気であり今でもミッキーマウスと並ぶ人気を誇っている。

上掲の画像は、笑うフィリックス(オットー・メスマー原画による初期のもの)Wikipediaより。

【カートゥーン・アニメ】フィリックス・ザ・キャット - YouTube

ウォルトの実写合成の短編「アリスコメディー」にでてくる黒猫のキャラクター「ジュリアス・ザ・キャット」は『フィリックス・ザ・キャット』を模造したものと言われるが、両作品を比較して見るのも面白い。
1927年、興行師チャールズ・B・ミンツの紹介でユニバーサル・ピクチャーズと繋がりを得たウォルトは、自社キャラクターとして「しあわせウサギのオズワルド」を考案し、オズワルドを主人公にしたアニメをユニバーサル配給で制作するようになる。
「オズワルド」はシリーズスタートと同時に子供の間で人気を得て、第2作目『トロリー・トラブルズ』(Trolley troubles)から大ヒット。ウォルトはその後もカンザスフィルム時代の旧友達を次々に会社へと誘って、ディズニー社はアメリカでも屈指のアニメ製作会社に急成長した。以下で、オズワルドの漫画を見ることが出来る。

「しあわせウサギのオズワルド」(Trolley Troubles.。1927)- YouTube

「オズワルド」シリーズは全26作品が制作されたが1928年2月配給先のユニバーサル・ピクチャーズと所有権をめぐり交渉が決裂し、ウォルトとアイワークスはオズワルドの作品を放棄させられた。さらにウォルトを二重に落胆させたのは、チャールズ・ミンツによる従業員引き抜き工作によってオズワルドに関する全ての権利に加えて、この引き抜き工作で、アイワークスを除く殆どの有能なアニメーターを手離すことになってしまったことであった。
契約書上、オズワルドが配給会社の管理下に置かれていた事も不利に働き、ディズニー社は配給元と自社キャラクター、そしてスタッフの大半を失って倒産寸前に追い込まれた訳だが、スタジオを手中に守った事でウォルトは諦めずに、若い時と同じくアイワークスとの二人三脚で、ディズニー再建に取り組み、その後、世界で最も有名なネズミのキャラクター「ミッキーマウス」を作り上げることになった。

1928年12月18日に、ニューヨークのコロニー・シアター(現ブロードウェイ・シアター)でプレミア上映されたディズニー初のトーキー・アニメ『蒸気船ウィリー』(英:Steamboat Willie)が大成功を収め、主人公のネズミ、ミッキー・マウスはまたたく間に世界中で愛される人気キャラクターとなった。
一般的には、この作品がミッキーマウスとミニーマウスのデビュー作とされているため、公開日の11月18日はミッキーとミニーの誕生日、もしくはスクリーンデビューの日となっている。当時ウォルトが声優を務め、劇中のミッキーやミニー、ピートなど全ての声をウォルト自身が演じている。タイトルと内容は喜劇俳優バスター・キートンの『キートンの蒸気船』(Steamboat Bill Jr.)のパロディである。

Buster Keaton - Steamboat Bill, Jr./キートンの蒸気船(1928)

厳密には本作の前に作られたチャールズ・リンドバーグ(Lindbergh)の大西洋横断飛行人気に便乗した映画のひとつでフィリックスのヒット作『ノンストップ飛行』のパロディ版『プレーン・クレイジー(飛行機狂)』(Plane Crazy。)がこの新シリーズの最初の作品である。
この作品は、配給会社も未決定のまま製作されていたものであり、当初サイレント映画として作られた本作品は当時の他のサイレントアニメーション映画と特に代わり映えするものではなく、配給会社には相手にされなかったが、『蒸気船ウィリー』がヒットしたのち、本作もそちらに合わせトーキー映画として作り直され、シリーズ3作目として初めて一般に公開されたものである。
尚、2作目は『ギャロッピン・ガウチョ』(The Gallopin' Gaucho)である。このアニメは、ダグラス・フェアバンクス(Douglas Fairbanks)の『ガウチョ』 The Gaucho (1927のパロディー版だそうだ。ダグラス・フェアバンクスの映画『ガウチョ』の解説は※3を、ミッキーのアニメ映画の解説は※4を参照されるとよい。

『プレーン・クレイジー』のミッキーは、リンドバーグ(Lindbergh)の大西洋横断飛行に興奮してパイロットになることを決心する。彼は農場の動物たちをそのプロセスに巻き込み、挙げ句の果てにはフィアンセのミニーを飛行に連れて行ってしまう。二人は事故を起こすが、ラストは五体満足で終わる。.
公開順としては第2作目であるはずの『プレーン・クレージー』のミッキー方が、『蒸気船ウィリー』のミッキーよりある意味、古く、より個性の強い顔をしている。
額に見えている顔の上の部分全体が目・・・つまり白目であり、上を見る時は、頭のてっぺんに近いところまで、黒目が移動する。眼球のラインが入っていてこの目の構造がよくわかる。
一方『蒸気船ウィリー』の顔は、よく言われるところの“オールド・ミッキー”の顔にきわめて近い顔をしている。あの黒目のミッキーにである。
衣装も、『プレーン・クレージー』のときは、裸足で素手だったものが『蒸気船ウィリー』では靴を履いている。
面白いのは、『蒸気船ウィリー』の時のミニーはブラジャーをしている。『プレーン・クレージー』のときも又、『蒸気船ウィリー』以後もブラジャーをしていないが、このころは、ミニーなど女の子らしさをどう表現するかまだ試行錯誤していたのだろう。
なお『プレーン・クレージー』でミニーがミッキーにプレゼントした蹄鉄は、西洋では幸運のお守りと信じられているラッキーグッズである。ここにも、ミニーの女の子らしさが表現されているが、個性としては、まだミッキーもミニーもやんちゃで、ミニーは、活発なヤンキー娘といった印象が強い。
『蒸気船ウィリー』には、山猫をモデルにして描かれたピートも初登場しており、今も活躍している3人?のキャラクターの原型が既にできあがった状態である。以下でこれらのこと意識しながら見られると面白いのでは・・・・。

蒸気船ウィリー Steamboat Willie 1928年11月18日 ) -YouTube
ギャロッピン・ガウチョThe Gallopin' Gaucho1928年12月30日-YouTube
プレーンクレイジー(飛行機狂) Plane Crazy1929年3月17日-YouTube白黒

1915年頃から漫画映画を量産していたポール・テリー(Paul Terry) が設立したイソップ・フェーブルズ(Aesop's Fables)・スタジオが、イソップ物語(イソップ寓話)に似た動物寓話を題材とする『イソップ・フェーブルズ』(イソップ物語)シリーズで成功を収めていた。
そこにテリーの『アルファルファじいさん』(Farmer Alfalfa)がこの新しいグループとして加わったが、そこには、色々な動物やネズミ(その中には1927年版のミッキー・マウスそっくりのものもある)が大量に出るという点で、当時デビューしたばかりのウォルト・ディズニーのアニメにも影響を与えていたといわれている。ポール・テリーの『アルファルファじいさん』の動画は以下参考の※5:「ポール・テリー【古典アニメ上映館】」で見ることが出来る。
もともと、フィリックス・ザ・キャット』の作成者パット・サリバンによる抗議を受けたとき『オズワルド』はポール・テリーの『クレージー・キャット』を元に、アブ・アイワークスがデザインしたものだった。
多くのスタッフが作画にかかわるアニメーション作品において円滑にかつ素早く作画する目的で、円定規と楕円定規で簡単に描けるようアブ・アイワークスがデザインしたものだといわれている。
「ミンツの件で落胆し、ハリウッドに戻る列車の中で、ウォルトは、カンザスフィルム時代に飼いならしていたネズミをよく研究し、彼が醜いと思っていた耳・口・足などを大きくしポイントを付け1927年にミッキーマウスを考案した。」・・・といった一般に知られるエピソードは、権利処理の問題をクリアするために後年後付け設定されたものだそうである。
実際には、ミッキー・マウスに対する功績はそのキャラクターのパーソナリティを作ったウォルトと、ネズミのキャラクターをデザインしたアイワークス双方に等しく帰せられるべきでものであった。つまり、ミッキーに関して、ウォルトは主としてプロデューサーであって、アニメーターではない。
アイワークスはミッキーを奪ったとしだいに共同経営者のウォルトを憎むようになり、ウォルトと決別し自身のスタジオを持つに至ったという。
ウォルトは元々ミッキーをモーティマー(Mortimer)と名付けるつもりだったが、彼の妻がより親しみやす「ミッキー」と命名したと言われる。その代わりにミッキーの恋のライバルであり、ミニーマウスの幼なじみとして、モーティマー・マウスが登場する。
冒頭の画像に見られるように現在は大きなリボンのスタイルが定着しているミニーであるが、『蒸気船ウィリー』で見られるように、デビュー当初は帽子に花を一輪つけるスタイルで登場していた。

ミッキーのアニメは大成功し世界中で愛されるようになったが、その成功はそれだけ世間からの反響も呼ぶこととなり、デビュー当時のミッキーの性格は今に比べ子供っぽく随分と、短気な面の見らるわんぱく小ネズミであったが、子供の親からのクレームなどを受けるようになり今の温厚な性格に変化し、元の性格はドナルド・ダック(Donald Duck)へ受け継がれることとなる。
2作目の『ギャロッピン・ガウチョ』では、タバコを吸い、ミニーにダンスに誘われたミッキーは、ビールを一杯ひっかけてから、タンゴを踊りだしたものだが、今やわれわれの知るミッキーはアルコールも飲まず、煙草も吸わず、家畜をいじめることもない。そんな、ミッキーが世間からお仕置きを食らったってことになるのだろう。
そして、1939年、『ミッキーの猟は楽し』以降キャラクターデザインが変更され、それまでの黒目がちであったものが、この変更により白い眼の黒い瞳に変わった。

105 ミッキーの猟は楽し The Pointer 19390721 - YouTube

これほど成功したアニメキャラとしては、ミッキーは驚くほど短命であった。彼は1928年に誕生し、121本の短編に出演した後(最後の登場である『ミッキーの魚釣り(The Simple Things)』ではプルートと一緒に魚釣りに行く)、1953年にはそのキャリアを終えた(1983年の『ミッキーのクリスマスキャロル (Mickey's Christmas Carol)』などを除く)。
それに注目すべきは、ミッキーが主役として行動しない現象は1930年代初頭から始まっている。つまり、世界中の人から愛されるようになったミッキーは「清潔かつ幸福で、礼儀正しく、十分に賢い」キャラクターとなったものの、このような「善人」には滑稽さが似合わない。
従って彼の周囲にはもっとお上品ではなく、笑いを誘うことの出来る共演者が必要となり、。ドナルド・ダック(かんしゃく持ち)やとグーフィ(Goofy。愚鈍な友人)、そしてプルート(Pluto、トラブル好きの犬)といった仲間たちが自分たちの勢力を拡大していったのであった(詳しくは、ディズニーの短編映画参照)。

ミッキーマウス”は当初、粗野なネズミという設定であったことから、アメリカでは「Mickey Mouse」という単語を「大したことない、ちゃちな, ささいな、安っぽい、とるにたらない」などの意味の形容詞として使うこともあるようだ(goo辞書参照)。
これはディズニー映画が、最初、単純でワンパターンの内容でしかなかったのが由来だそうで、他に、“take the mickey” で「人をからかう、ばかにする」という意味があるらしいが、英語圏内の人にとっても「ミッキーマウス」は愛らしいネズミキャラの意味になるのがほとんどであり、所詮は、ただのスラングのようだ。
ウォルト・ディズニー成功はたった「一匹のねずみから、始まった」.。もともと、ウォルト・ディズニーは、子供向きの映画を作っていたのではない。家族すべての人が楽しむ映画を作っていたのだが・・・。その夢は、今のディズニーランド建設等で生かされる。
最後に、今の大変な時代に、夢を失いかけている若者にウォルト・ディズニーの名言を・・・。
ウォルト・ディズニーの名言は夢の言葉 - YouTube
今日は、記念日の「ミニーマウスの日」に因んで、ミニーとは直接関係のないことを書いてしまったが、今は、ネット上でいろいろ貴重な動画も見れる時代。今日は、ミニー誕生までのディズニー漫画を理屈抜きで楽しまれてみてはいかがですか・・・。

※1:日本記念日協会
http://www.kinenbi.gr.jp/
※2:カートゥーン:アニメーション100年史
http://homepage1.nifty.com/gon2/cartoon/index.html#chap6
※3:ガウチョウとは - 映画情報 Weblio辞書
http://www.weblio.jp/content/%E3%82%AC%E3%82%A6%E3%83%81%E3%83%A7%E3%82%A6
※4:A Walk in Disney's Footsteps短編アニメ紹介
http://blogs.yahoo.co.jp/pinkoloveswdw/folder/1188351.html
※5:ポール・テリー【古典アニメ上映館】アルファルファじいさん「The Dancing Bear」
http://oldanimation.seesaa.net/article/361013967.html
大いなるメディア・アニメーション
http://animation.oka-hero.co.uk/site/histry_01.html
日本と戦時中のディズニーアニメ
http://www.youtube.com/watch?v=oy6aOYjieTc
ミニーマウス - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9F%E3%83%8B%E3%83%BC%E3%83%9E%E3%82%A6%E3%82%B9

「3.9デイ」(ありがとうを届ける日)

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日本記念日協会(※1)の今日3月9日の記念日に「3.9デイ(ありがとうを届ける日)」 があった。
NPO法人のHAPPY&THANKS(※2)が社会教育の推進や子どもの健全育成などの活動で、よりよい人材育成と社会の発展などを目的に制定したもの。
「ありがとう」という言葉に託して感謝を伝えあう日で、日付は「ありがとう」のサンキュー(Thank you)」(3と9)からだそうだ。

今年1月3日に肺がんで死去した私も大好きであった大阪を代表する歌手であり、タレントのやしきたかじん(本名・家鋪隆仁)(享年64)のお別れの会が、先日(3月3日)、大阪市北区のリーガロイヤルホテル大阪で開かれた。
昼は一般参列者3700人が献花。夜は発起人に名を連ねたAKB48総合プロデューサーの秋元康氏や橋下徹前大阪市長をはじめ、各界の著名人約500人が参列した。
たかじんの歌が随所に盛り込まれたコンサートのようなお別れ会で、昨年10月、米ハワイのコンドミニアム(別荘)で録音されたたかじん最後の歌声や映像も流れた。

不思議だね 今こうして君をだきしめるなんて
いくつもの偶然が 二人引き合わせた
初めから感じてたよ遊びですむ恋じゃないと
言葉さえもどかしいほどにわかり合えた

遠く離れていても心堅く結ばれていたよね
逢えない夜も夢の中を訪れてひとつになれる

もう順子離さないよずっと
一緒ならどんな道でもきっと歩いてゆける
だから順子いつもそばにいて
海のような瞳で 僕を見つめておくれ
以下略・・・・・♪

やしきたかじんの歌『順子』(※3)より抜粋。
曲を聞きたければここで聞ける→ やしきたかじん 「順子」 - YouTube

この曲は、『やっぱ好きやねん』などやしきたかじんの曲を多く手がけている東京出身の鹿紋太郎(作詞・作曲。編曲は川村栄二)の楽曲である。
この曲1988(昭和63)年11月1日に発売された シングル『愛することを学ぶのに』(作詩・作曲:来生えつこ、編曲:川村栄二。歌詞※4参照。曲は※5で聞ける)のB面に収録されたラブ・ソングである。
たかじんは自身の曲「順子」を、最愛の妻・さくらさん(32)への思いを込めて「順子」を「さくら」に替えてアカペラで熱唱。さらに、たかじんがさくらさんに宛てた手紙も披露された。
たかじんの闘病中、「食道がんで飲み込みがつらかったので、少量でカロリーをたくさん取れるものや、軟らかいものを作っていた」と献身的な看護をしたさくらさんに、「何万語、何億語、言葉を探しても出てくる言葉は『さくら、ありがとう』。
こんな苦難な1年をぼく以上に乗り越えてくれて戦ってくれて、ぼくにとって心の支えになってくれて、本当にありがとう」。・・・・・と、愛情があふれる内容は、来場者の涙を誘った。

たかじんは2012(平成24)年1月食道がんが発見され、2月には東京の病院へ入院、「9月までは無理」と宣告されていた退院も6月に退院するまでに回復していたらしいが、結局、9月には抗がん剤の副作用の影響で再び入院する羽目となったものの、これも通常2週間の入院を1泊2日で切り上げ、その後、11月にはハワイの別荘に移動し、カラオケ20曲を熱唱したり、仲間3人とワイン10本を空けるなどしており、ここでも病気休業前の豪快さを誇示していたようだ。
結構、休養中も無茶をしていたようであるが、芸能活動休止から1年2ヶ月後の2013(平成25)年3月21日「たかじん胸いっぱい」の収録より仕事復帰(2日後の23日に放送)しているが、同年5月、「疲労による食欲不振や睡眠不足などによる体力低下」を理由に再び休養。以後、死去するまでにメディアに出演することはなかった。
たかじんは、無名だった20代前半に一般人女性と結婚。一女をもうけたが、その後離婚。1993(平成5)年には15歳年下の元モデルと再婚したが2006(平成18)年に離婚。この2度の離婚で再々婚には消極的だと伝えられていたたかじんだが、この休養期間中の2013(平成25)年12月、3人目の妻Aを迎えていたことがマスコミ報道などで明らかにされていた。
それが、最愛の妻・さくらさんだったようで、長い療養生活を支えてくれる彼女と名実ともに、二人三脚で芸能活動復帰を目指すことを選んだようだ。
彼女は30歳以上年下の長身美女で、関係者によると2人の交際は3年近くにも及ぶものだったらしく、あるテレビ局関係者は「1度目の復帰の前に紹介を受けた」としており、親しい友人やテレビ局関係者には早くから彼女を紹介していたようだ(※6)。
たかじんは、粗野な言動で、物議を醸したり、酒の上での騒動を起こすなど結構荒っぽいところあるが、根はやさしく面倒見の良いタイプで、女性には優しく好かれたようだ。
歌に関しては、歌詞へのこだわりが強いたかじんは、作家泣かせとして業界では有名だった様である。売れない時期、歌詞を添削してもらったという作詞家、秋元康は「生涯を通して彼が歌い、伝えたかったものはぶれていない」と言っている。
彼は大阪色を前面に出したバラードシンガーとして関西では知らぬ人はいないだろうし、異常な人気があるが、東京への対抗意識が強く東京の番組には出ないので余り良く知らない人も多いかもしれない。
普段テレビなどで話している彼の声はだみ声だが、歌を歌っている時の声は素晴らしくきれい。ほれぼれしますよ。是非この機会に歌を聞いてほしい。

ところで、このブログも長く続けているので、最近は、過去に一度書いたことを再度書いてしまったりすることも時々あるのだが、今日の「ありがとう(39デイ)」については、2006年の今日、「ありがとうの日」として書いたことは知っている。
ここ参照→今日のことあれこれと・・・ありがとうの日
だから、今日、この記念日について書くつもりはなかったのだが、たかじんのこの話を聞いて、又、今日、「3.9デイ」(ありがとうを届ける日)の紹介をしたくなった次第である。

”ありがとう”って伝えたくてあなたを見つめるけど
繋がれた右手は誰よりも優しく ほらこの声を受け止めている ♪

2010(平成22)年NHK「連続テレビ小説」で放送された「ゲゲゲの女房」の主題歌は、水野良樹山下穂尊、それにボーカルの吉岡聖恵の3人組音楽グループ 「いきものがかり」の「ありがとう」であった。
この主題歌の決定についてNHK制作統括のスタッフは「愛する人とともにゆっくりと一歩ずつ明日へと歩いていく女性を描くこのドラマには、いきものがかりの音楽の優しさと力強さがなによりふさわしい」と言い、又、いきものがかりのメンバーは次のようにコメントしていた(※7参照)。
「お互いを“思い合うこと”のちょっとずつの積み重ねが、人生をともにするという、若い僕らからすると途方もない、とても大きなことにつながるのかなと、そう思ってこの歌詞を書きました」(作詞作曲したリーダーの水野良樹)
「ともに歩んでくれる大切な人へ“ありがとう”を贈れる曲ができました。『誰かを思うってすてきなことなんだ……』と感じられるような、穏やかで優しい曲になったと思います」(吉岡聖恵)・・と。
このドラマは、漫画『ゲゲゲの鬼太郎』の作者・水木しげるの妻・武良布枝の書いた同名の自伝を原案にしたもので、貧しい生活の中で明るくたくましく生きていく夫婦の物語であった。松下奈緒向井理が夫婦役を好演し大ヒットしたが、『ありがとう』の曲はドラマ主題歌として書き下ろされた楽曲であるだけに、「愛する人とともにゆっくりと一歩ずつ明日へと歩いていく女性を描いたこのドラマにふさわしい良い曲だった。歌詞や曲は以下を見るとよい。

J-Lyric.net:いきものがかり -ありがとう - 歌詞ト

「ありがとう」いきものがかり - YouTube

人から助けてもらった時、褒めてもらった時、プレゼントをもらった時など、みなさんは感謝の気持ち「ありがとう」の一言をちゃんと相手に伝えられていますか?・・・私などもそうだが、日本人、特に男性は、心では感謝の気持ちを持っていてもなかなか言葉に出して言えない人が多いようだ。誰もが心で思っている気持ちを素直に口に出して「ありがとう」と言えたら、随分と周りの雰囲気も明るくなり和むことだろう。
「ありがとう」に関するの言葉の意味などは以前に書いたので、今回は省略する。
ここを見てください。
時間があれば、以下参考の※8〜※10なども参照されると良い。
最後に一言、「たかじんさん良い歌たくさん残してくれてありがとう!」
冒頭掲載の画像は、マイコレクションより、たかじんの1990年Spring Concertのチラシである。
※1:日本記念日協会
http://www.kinenbi.gr.jp/
※2:NPO法人のHAPPY&THANKS
http://www.happyandthanks.org/
※3:J-Lyric.net:やしきたかじん 『順子』 歌詞
http://j-lyric.net/artist/a0017cf/l000758.html
※4:J-Lyric.net:やしきたかじん 『愛することを学ぶのに』 歌詞
http://j-lyric.net/artist/a0017cf/l0062ee.html
※5:やしきたかじん 愛することを学ぶのに - YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=h8VOuyMLYa0
※6:たかじん 32歳差再々婚! 長期療養中「男のけじめ」 スポーツニッポン
http://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2013/12/06/kiji/K20131206007145370.html
※7:いきものがかり、NHK朝ドラ『ゲゲゲの女房』主題歌に抜擢
http://musicshelf.jp/blog/staff/2010/02/nhk-1.html
※8:3月9日は「ありがとうの日」 相手に響くありがとうの伝え方
http://hatenanews.com/articles/201103/2881
※9:カウンセリングサービス心理学講座「愛することを学ぶために(1)
http://www.counselingservice.jp/lecture/lec355-1.html
※10:世界の言葉でありがとう
http://suemari.com/hello/thank.html
たかじんさん:お別れ会にファン3700人、招待500人ー毎日新聞2014年3月4日(火)
http://mainichi.jp/select/news/20140304k0000m040130000c.html


治安維持法

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第2次安倍内閣は、昨2013(平成25)年10月25日、防衛・外交など日本の安全保障に関する情報のうち「特に秘匿することが必要であるもの」を「特定秘密」に指定し、取扱者の適正評価の実施や漏洩した場合の罰則などを定めた法律「特定秘密保護法」の法案を安全保障会議で了承を経たうえで閣議決定して第185回国会に提出し、同年12月6日に成立させ、12月13日に公布した。公布から1年以内に施行されることになっている(同法附則第1条)。
これに対して、マスメディアなどが「特定秘密保護法反対」の大合唱を唱えている。
その反対理由として一番よく耳にするのが「戦前の治安維持法(法律第54号)のように言論統制を行なう法律だ」というものである。

治安維持法は、全33条より成る(うち2条削除)治安警察法(明治33年3月10日法律第36号)とともに、戦前の有名な治安立法として知られている。
先ず、最初に、予備知識として、上記2つの治安立法成立の目的を書いておこう。
日清戦争後の資本主義の発展とともに労働運動黎明期を迎え、労働組合期成会の結成(1897)を起点に労働組合運動の発足と争議の多発化に悩まされていた。また、海外からは社会主義運動の普及が始まった。
明治政府は自由民権運動抑圧に用いた刑法270条や集会及政社法(集会条例また※1参照)、治罪法(※2も参照)などの諸法律では対応できないと考え労働運動の取締りなどを目的に新たな治安立法として制定(1900年)されたものが治安警察法(明治33年3月10日法律第36号)である。
旧憲法下で,政治集会,結社,デモなどを取り締まり、政治結社・集会の届出,女子・教員・軍人などの政治結社加入禁止を定め,集会などの解散権を警察官に与えた。
一方の治安維持法(1941年=昭和16年3月10日法律第54号)は、国体皇室)や私有財産制を否定する運動を取り締まることを目的として制定された法律であり、当初は、1925(大正14)年4月22日に法律第46号として制定され、1941(昭和16)年に全面改正されたものである。
余談だが「治安警察法」(明治33年)の制定日と1925(大正14)年制定の「治安維持法」(昭和16年)の全面改正日が奇しくも今日と同じ3月10日である。

治安維持法は1925(大正14)年4月22日に公布され、同年5月12日に施行。普通選挙法とほぼ同時に制定されたことからよく「飴と鞭」の関係にもなぞらえられるが、なぜ両法は1925年(大正14)年3月の護憲三派による第1次加藤高明内閣による第50回帝国議会でほとんど同時に成立したのであろうか。
普通選挙法も治安法も第一次世界大戦における民衆の政治化の所産である。
普選運動は日清戦争に始まるが、全国的な要求運動は1919(大正8)年に盛り上がる。運動は1920(大正9)年春の第14回衆議院議員総選挙で普選反対を唱える党首原敬政友会の圧勝に水を差されはしたものの、1922 (大正11)年春の第45帝国議会で、野党の憲政会国民党(のちの革新倶楽部)との統一普選案が出来たことで復活する。
一方労働者・農民の普選運動の高揚を背景に、1920(大正9)年には、日本社会主義同盟が結成され、1921(大正10)年春には当時は非合法な秘密結社日本共産党(第一次共産党)が生まれる。
この動きを察知した司法省や内務省は原敬首相の意向のもとに「危険思想」取り締まりのための新しい治安立法に着手して、「過激社会運動取締法案」を第45回議会に提出するが野党や言論界の強い反対で審議未了となリ、普選法案と新治安立法案は相打ちする型となった。
治安立法優先の政友会・官僚勢力路線と普選優先の野党路線の結合の道は関東大震災(1923年=大正12年9月1日)の直後に成立した第2次山本権兵衛内閣によって開かれた。
普選主張の先頭に立つ逓信大臣犬飼毅と治安立法の推進者で司法大臣の平沼騏一郎との間に、両社抱き合わせの相互承認が行われた。
山本首相は、普選実現を声明し、議会は大震災下の緊急勅令治安維持ノ為ニスル罰則ニ関スル件(大正12年勅令第403号)を承認した。
同年12月に起きた虎ノ門事件の政治的責任から、山本内閣が総辞職した後、総選挙施行のため中立的な内閣の出現を望む西園寺公望の推薦によって登場した清浦奎吾内閣に対して、第2次護憲運動が起こり、選挙戦となった。
衆議院の政友会、憲政会、革新倶楽部の三会派(いわゆる護憲三派)は普選を公約し、他方政府の与党・政友本党は「独立の生計」の条件付き普選を主張した。
「独立の生計を有する者」(※3:新聞記事文庫 「独立の生計」参照)とは、事実上所帯主を意味し、有権者は30%以上減る。
選挙戦に圧勝した護憲3派の連立内閣は公約通り、普選法案を代50議会に提出した。天皇の諮問機関で、重要法案の事前審査権を持つ枢密院は官僚勢力の牙城であったが、普選法を承認するに際し、「思想ノ取締」を「必要条件」(平沼)とした。
一方枢密院は、同時に進行していた日ソ基本条約の審査にあたっても「過激思想」の流入を取り締まるため「最も有効凱切(非常に大切な。ぴたりと当てはまる)なる措置ヲ実施」せよと求めた。
政府は2月20日の枢密院本会議の普選法案採決の前日に治安維持法案を衆議院に緊急上程した。
明治政府は、枢密院の強要に屈して治安維持法案を提出したのではない。普選と治安維持を抱き合わせる・・・つまり、労働者・農民にも選挙権を与えるが、その政治的進出は極力抑制する・・・という山本内閣の方針は受け継がれ、治安維持法立案の作業は清浦内閣下ですでに始まっていた。
政府原案は「国体もしくは政体ヲ変革シ、マタハ私有財産制度を否認スルコトヲ目的トスル」結社その他の行動を最高刑罰10年の重刑で取り締まるというものであったが、衆議院では「政体」の2字は専制的官僚機構への批判の自由まで束縛する恐れがあるとしたうえ、3月7日ほとんど全院一致で可決した(反対議員は18議員)。3月19日貴族院も可決した。
普選法は貴族院の抵抗でもめたが、ここで流産すれば「過激思想」が盛んになるという認識で一致した元老院西園寺公望や政府首脳の努力で、会期延長の末3月29日に成立した。普選法と治安維持法はどちらか一方が先に成立することは当時の政治力学上不可能であった。

●上掲の画像は普選法が成立してホット一息の大臣。前列右から若槻内相、幣原外相、犬飼逓信相、高橋農商務相、加藤首相、岡田文相、(3月29日)。加藤首相は「多年の懸案であった普通選挙・・・等』国民の権利に関する問題を解決し得たから此議会は永く日本の憲政史上に特筆されるべきものであろう」(3月30日付朝日新聞)と談話を発表したという(『朝日クロニクル週刊20世紀』1925年号)。

第2次世界大戦前の治安維持法も後に改悪を重ねて悪法に成長していったが、当初はおとなしいものであった。
先にも書いたように、治安維持法は同じ月に成立した普通選挙法と抱き合わせの「飴と鞭」の立法と云う説もあるが、むしろ、第1次世界大戦後のいわゆる大正テモクラシー運動が起こる中、1925(大正14)年1月のソビエト連邦との国交樹立(日ソ基本条約)を境に、共産主義・無政府主義(アナーキズム、中でも社会的無政府主義)による革命運動の激化が懸念されていた。そんな中、普通選挙法の施行により、このような考え方が日本で主流になり、国家体制に危機を及ぼさないようその対策という性格が強かったとの説もある。
成立した主な条文の内容は,国体の変革または私有財産制度の否認を目的とした結社を取り締まることを中心とするものであった。
従って、当時、法律が取り締まりの対象とした国内の第1次共産党は1924(大正13)年3月頃に解散していたのでさしあたり適用する対象もなくなっていたのだが・・・。
この条文にある「国体」という言葉は、教育勅語に出てくる道徳的用語(国民の忠孝心が「国体の精華」であり「教育の淵源」である)で、法律用語としては内容がはっきりせず使い方でどうにでも解釈できる危険な言葉でもあった。

そして、1926大正15)年1月に京都帝国大学などが主体の左翼学生運動日本学生社会科学研究会(学連)に対して日本で最初の治安維持法が適用され学生38人が検挙される事件が起こった(京都学連事件参照)。
前年12月に警察が出版法違反事件として検挙し立件出来ずに釈放したものを検事局が治安維持法違反事件に仕立て直したものだと言われる。
この事件は当時の為政者層の思想・教育への危機感の大きさを象徴しているともいえる。この事件では司法省の張り切りぶりが目に付く。この事件を期に司法省は思想問題への取り組みを本格化させる。
「学術研究の範囲を超越し苛も国体を変革し又は社会組織の根底を破壊せんとする言論をなし、若くはその実行に関する協議をなすに至りては毫も仮籍する所なく之を糾弾せざるべからず」(1926年5月警察部長会議における小山松吉検事総長の訓示『日本労働年間』1927年版)という徹底した抑圧姿勢に特徴がある。
警察の視察取締もこの京都学連事件以後、変化が見られ、警察当局が公然と学内に侵入し、学内取締も「他の一般社会運動に対すると何等異ならない状態に至った。ビラ撒布による検束(東大)、不法検束による警察の暴行事件(京大、九州歯科専門学校)などが頻繁に起こりはじめたという(※4参)。
こうした中、1926 (大正15)年には 東京の共同印刷でのストライキが60日の大争議(いわゆる「共同印刷争議」)に発展する(徳永直による小説『太陽のない街』の大争議)、新潟県の小作争議が警官隊との衝突事件に発展する事件(木崎村小作争議)が起こるなど、この年の同盟罷業(ストライキ)は469件、小作争議は2751件で、前年に比べ飛躍的に増加していたという(『朝日クロニクル週刊20世紀』1926年号)。
こうした情勢の中で秘密裏に共産党再建大会が開かれていた。そして、2年後の1928(昭和3)年2月に国政最初の普通選挙が行われ、共産党は政治的に活躍するが、学連事件の公訴審中に全国一斉の共産党員大検挙が行われる(三・一五事件)。
時の田中義一内閣は、第55回帝国議会に治安維持法改正案を上程し、治安維持法の改正を行って最高刑を死刑とし、共産党を中心する反体制勢力の壊滅を図ろうとしたが、死刑を含む刑罰の強化は、あまりにも弾圧的として野党や言論界の強い反対で改正案は審議未了となった。普通選挙法と新治安立法は相打ちする形となった。
しかし、田中は、議会の審議を経ずに、改正を強行し、緊急勅令「治安維持法中改正ノ件」(昭和3年6月29日勅令第129号)により改正法の公布をした(以下参考の※05のレファレンスコード:A03033700800に、罰則の強化の理由を「罰則が此の極悪なる犯罪に対し不適当不充分なるに由り」とする説明。この改正が、「議会の協賛を得るに至ら」ず、「緊急勅令の形式に依って実施された」ことが記されている。※5のレファレンスコード:A03021692600では、三・一五事件を契機として実施された第1次法改正の御署名原本。改正点が記載されており、主な改正点は、罰則を強化、最高刑を懲役10年から死刑もしくは無期懲役に、したこと、「結社の目的遂行の為にする行為」も処罰の対象に含めるようになったことなどが記されている。)。
同法改悪の第1点は、旧法1条の構成要件を国体変革と私有財産制度の否認とに分離し、国体変革の指導者に対しては死刑、無期、若しくは5年以上の有期懲役と刑罰を加重したことであり、その第2点は、新たに国体変革を目的とする「結社ノ目的遂行ノ為ニスル行為ヲ為シタル者」に2年以上の有期懲役を科したことである。これにより、権力が危険と判断するすべての人を合法的に逮捕、処罰することができる根拠ができたわけである。
さらに政府は、全国主要府県の警察部にも特高警察を設置すると共に、特高警察と両輪的役割りを果たす思想検事(一般検察実務から独立した思想問題専従の特別部として設けられた)を新たに設け、出版法等諸法も治安維持法と結合させて治安立法の役割を担わせ、弾圧体制を一層強化させるなどして、日本共産党を壊滅に追い込んだ。
これは、田中・鈴木・原と政党内閣でありながら大正デモクラシーに批判的な人々が治安関係を占めた(田中は元陸軍大将、鈴木は社会運動弾圧で活躍した検事総長、原は鈴木とともに国本社会員)という矛盾に由来する政策であった。
その後、治安維持法は政府批判をする者すべて弾圧の対象となっていき、国民の言論の自由を弾圧する悪法として猛威を振るい始めた。
あたかも、日本は恐慌のさなか同盟罷業(ストライキ)や、小作争議の件数がますます増加の一途をたどった。治安維持法は、こうした労働者・農民の抵抗を弾圧し、後には宗教団体や、右翼活動、自由主義等まで弾圧をおこなう法的手段として機能していったのである。
同法は、太平洋戦争を目前にした1941(昭和16)年3月10日にはこれまでの全7条のものを全65条とする全面改正(昭和16年3月10日法律第54号)が行われた。
1941(昭和16)年法は同年5月15日に施行されたが、その特徴は以下のようなものであった。
全般的な重罰化
禁錮刑はなくなり、有期懲役刑に一本化したが、刑期下限が全般的に引き上げられたこと。
取締範囲の拡大
「国体ノ変革」結社を支援する結社、「組織ヲ準備スルコトヲ目的」とする結社(準備結社)などを禁ずる規定を創設したこと。官憲により「準備行為」を行ったと判断されれば検挙されるため、事実上誰でも犯罪者にできるようになった。
また、昭和3年6月29日勅令第129号では、過激社会運動取締法案にあった「宣伝」への罰則は削除されていたがその「宣伝」への罰則が復活した。
刑事手続面
従来法においては刑事訴訟法によるとされた刑事手続について、特別な(=官憲側にすれば簡便な)手続を導入したこと、例えば、本来判事の行うべき召喚拘引等を検事の権限としたこと、二審制としたこと、弁護人は「司法大臣ノ予メ定メタル弁護士ノ中ヨリ選任スベシ」として私選弁護人を禁じたこと等。 予防拘禁制度 刑の執行を終えて釈放すべきときに「更ニ同章ニ掲グル罪ヲ犯スノ虞アルコト顕著」と判断された場合、新たに開設された予防拘禁所にその者を拘禁できる(期間2年、ただし更新可能)としたこと。
治安維持法のことなど詳しくは、以下参考の※6又※7:「治安維持法と小林多喜二虐殺」とその中にある治安維持法を参照されるとよい。

マスメディアは言論の統制を非常に恐れる。20世紀の日本における言論表現に自由とそれに対する規制は、1945(昭和45)年までの戦前・戦中時代、第2次世界大戦後の米軍占領時代、その後現在の3つの時期に分けられるであろう。その中の第2次世界大戦後米軍占領時代、やその後現在のことは省略し、その第1期、先に述べた戦前の明治憲法体制下でのことを少し書こう。
大日本帝国憲法では、「日本臣民は法律の範囲内において言論著作印行集会及結社の自由を有す」と定められたが、その自由はあくまで天皇から臣民に与えられたもので、近代民主主義社会の基本的人権としては保障されなかった。
大日本帝国憲法下では、1909(明治42)年の新聞紙法、1925(大正14)年の治安維持法、1938(昭和13)年国家総動員法を柱に、1945(昭和20)年の敗戦まで、言論表現の自由は窒息させられた。同時に富国強兵の国策に共鳴した新聞が率先して、軍国主義世論を誘導、戦争の旗振り役を果たしてきた。
しかし、そんな暗い谷間の時代でも、果敢な言論活動を繰り広げていた人たちはいたのである。
1904(明治37)年の日露戦争当時歌人与謝野晶子は雑誌『明星』に「君死に給うこと勿れ」を発表、「旅順の城はほろぶとも ほろびずとても何事か」(旅順の城が陥落するか陥落しないかなんてどうでもいいのです)「すめらみことは戦ひに おほみずからは出まさね」(天皇陛下は戦争にご自分は出撃なさらずに)と言い切っている(※8参照)。
今これだけの反戦・天皇批判をどれだけの人、メディアが発表できるだろうか。
東洋経済新報時代の石橋湛山は当時の国策の主流であった「大日本主義」を批判し小日本主義を主張、1921(大正10)年に『大日本主義の幻想』(※9参照)を書き朝鮮・台湾・南樺太の放棄を主張し植民地政策からの絶縁を求めた。
また、桐生悠々は明治末から昭和初期にかけて反権力・反軍的な言論(広い意味でのファシズム批判)をくりひろげ、特に1933(昭和8)年信濃毎日新聞時代に関東一帯で行われた防空演習を批判した社説『関東防空大演習を嗤(わら)ふ』で、敵機の空襲があったならば木造家屋の多い東京は焦土化すること、被害規模は関東大震災に及ぶであろうこと、空襲は何度も繰り返されるであろうこと・・・等12年後の日本各都市の惨状をかなり正確に予言した上で、「だから、敵機を関東の空に、帝都の空に迎へ撃つといふことは、我軍の敗北そのものである」「要するに、航空戦は...空撃したものの勝であり空撃されたものの負である」と喝破。この言説は陸軍の怒りを買い軍部に追われ、ミニコミ誌『他山の石』を出して、日米戦争の危険を警告している(※10参照)。
これらはいずれもジャーナリズム・世論の潮流に逆らう孤立した言論であった。
満州事変から日中戦争、そして太平洋戦争期、記事掲載禁止が乱発され、真珠湾攻撃の1941(昭和16)年12月8日から軍事上の秘密だとして、気象に関する情報(天気予報)は一切、 新聞やラジオから姿を消したという。そして、嘘で固めた大本営発表は典型的なディスインフォメーション(虚報による世論操作)だった。
報道管制は「示達」(当該記事が掲載された時は多くの場合禁止処分に付するもの。記事差止命令参照。)「警告」(当該記事が掲載された時の社会状勢と記事の態様如何により、禁止処分に付することがあるかも知れないもの)「懇談」(当該記事が掲載されても禁止処分に付さないが、新聞社の徳義に訴えて掲載しないように希望するもの。)の3形式で進められ、一方的な示達、警告が圧倒的に多く、懇談はわずかであった。そして、法的根拠のない「懇談」は世論誘導のための内面指導としてマスメディアの積極的協力を得た。現代の記者クラブにも「懇談」は引き継がれ日常化しているという(『クロニカル週刊20世紀』メディアの100年)。例えば現代の記者クラブの状況など※11参照。尚、戦前の言論弾圧の実態などは※12参照)

現在、われわれが住む日本の国には、戦後改正された『日本国憲法』があり、国民主権の原則に基づいて象徴天皇制のもと、個人の尊厳を基礎に基本的人権の尊重を掲げて各種の憲法上の権利を保障し、戦争の放棄と戦力の不保持という平和主義を定め、また国会・内閣・裁判所の三権分立の国家の統治機構と基本的秩序を定めている。
又、基本的人権は、単に「人権」「基本権」とも呼ばれ、特に第3章で具体的に列挙されている(人権カタログ)。かかる列挙されている権利が憲法上保障されている人権であるが、明文で規定されている権利を超えて判例上認められている人権も存在する(「表現の自由」や「知る権利」、プライバシーの権利など)。
そんな日本で、冒頭にも触れた「特定秘密保護法」が戦前の治安維持法に似ているという指摘がある。
今の日本は戦前の明治憲法制下絶対的な天皇制と軍国主義の日本とは基本的に違う。したがって、言論に関しても、露骨な言論統制はないし、公序良俗に反しないかぎり、言論の自由が許されている。ただ、逆に、先にも述べたような少々の圧力をかけられてもはっきりと真実を述べるだけの勇気あるマスメディアや人が昔のようにいるかに疑問があるくらいである。
治安維持法はすべての国民を対象にする法律だったが、特定秘密保護法は「我が国の安全保障に関する情報のうち特に秘匿することが必要であるものについて、特定秘密の指定及び取扱者の制限その他の必要な事項を定める」(第1条)ものであり、その対象は一般国民ではない。
規制対象になる「特定秘密の取扱者」は主として国家公務員だが、政治家も含まれる。ここから、万が一漏れてはいけない国家秘密が漏れる危険性があると、同盟国であるアメリカが軍事機密を教えてくれないのだという。
尖閣諸島をめぐって中国が盛んに挑発を繰り返している昨今、これではいざというとき日米共同作戦も取れないだろう。秘密保護の法律はアメリカにもあるというが、どこの国にも国外へ洩れてはいけない国家秘密はあるだろうから、その漏えいは守らざるを得ないだろう。
「報道の自由が侵害される」という誤解もある。「国民の知る権利の保障に資する報道又は取材の自由に十分に配慮しなければならない。」ことは第22条に記されており、報道機関は規制対象とはなっていない(※13、※14参照)。
特定秘密保護法は「防衛」「外交」「スパイ」「テロ」と定めれれているが、対象について「その他」という但し書きが出てくるので、政府が無限に拡大解釈できる。秘密保護法は、何を「秘密」にするのか、政府が恣意的に決められる。第三者のチェックも無い。しかも、何が秘密なのかも秘密な為、「特定秘密」に触れたという理由で逮捕された被告人も、何故自分が捕まったのか被疑事実さえ分からない。・・・等々いろいろ心配されるのだが、結局のところ、今の政府・政治家や官僚のするところが、国民やマスコミから十分に信頼されていないところに、このような疑問の声が多く出てくる原因があるのではないだろうか・・・。
東日本大震災福島第一原発事故以降、原子力発電稼働問題等を含め政府や官僚の言ったりしたりしていることを見ていても全く信用できない状況である。
治安維持法も最初は、共産主義・無政府主義などが対象であったのだが、いつのまにか一般市民が弾圧のターゲットとなり、自由にものが言えない社会を作っていった。
現行の政府は信頼できても、いつまた前民主党政権のような訳のわからない人達が政治を動かすことになるかもしれない・・・などと考えいると…さすがの私も不安にはなる。
政府が情報を秘密にすることと、国民の知る権利とのバランスを維持することは難しい問題だ。私には、余り難しいことはわからないが、兎に角しっかりと国民が監視をしてゆかないといけないだろうね。

冒頭の画像は、警視庁検閲課による検閲の様子.
1938(昭和13)年。Wikipediaより。
参考:

※1:中野文庫 - 集会及政社法
http://www.geocities.jp/nakanolib/hou/hm23-53.htm
※2:明治十三年太政官布告第三十七号(治罪法)
http://www.geocities.jp/lucius_aquarius_magister/M13HO037.html
※3:神戸大学附属図書館 デジタルアーカイブ 【 新聞記事文庫 】
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/sinbun/
※4:Title 文部省の治安機能 : 思想統制から「教学錬成」へ
http://barrel.ih.otaru-uc.ac.jp/bitstream/10252/917/1/Ogino_300123.pdf#search='%E4%BA%AC%E9%83%BD%E5%AD%A6%E9%80%A3%E4%BA%8B%E4%BB%B6+%E7%9C%9F%E7%9B%B8+%E7%9C%9F%E5%AE%9F'
※5 :治安維持法 - アジア歴史資料センター
http://www.jacar.go.jp/topicsfromjacar/03_terms/index03_006.html
※6:治安維持法――なぜ政党政治は「悪法」を生んだか(その1)
http://d.hatena.ne.jp/kosuke64/comment?date=20131204§ion=1386151834
※7: 治安維持法と小林多喜二虐殺
http://tamutamu2011.kuronowish.com/TIANIJIHO.html
※8:小さな資料室資料62与謝野晶子「君死にたまふことなかれ」http://www.geocities.jp/sybrma/62yosanoakiko.shi.html
※9:大日本主義の幻想”. 電子文藝館. 日本日本ペンクラブ.
http://www.japanpen.or.jp/e-bungeikan/guest/publication/ishibashitanzan.html
※10:桐生悠々『他山の石』の言論抵抗 - 前坂俊之アーカイブス
http://maechan.sakura.ne.jp/war/data/hhkn/17.pdf#search='%E6%A1%90%E7%94%9F%E6%82%A0%E3%80%85+%E4%BB%96%E5%B1%B1%E3%81%AE%E7%9F%B3'
※11:【特集】記者クラブ問題
http://iwj.co.jp/wj/open/%E8%A8%98%E8%80%85%E3%82%AF%E3%83%A9%E3%83%96
※12:15年戦争資料 @wiki - 明治から昭和戦前期までの言論弾圧法の実態とは
http://www16.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/1955.html
※13:特定秘密保護法の全文:朝日新聞デジタル
http://www.asahi.com/articles/TKY201312070353.html
※14:特定秘密保護法について | 首相官邸ホームページ
http://www.kantei.go.jp/jp/pages/tokuteihimitu.html
「特定秘密保護法」の問題性 - 読売新聞
http://www.yomiuri.co.jp/adv/wol/opinion/gover-eco_131111.htm
秘密保護法は戦前の治安維持法と似ているのですか? - 弁護士ドットコム
http://www.bengo4.com/other/1146/1288/b_214313/
歴史評論「治安維持法と弾圧の実態」
http://blog.livedoor.jp/seizi10/archives/1857941.html
治安維持法(法律のみ)
http://hc6.seikyou.ne.jp/home/okisennokioku-bunkan/okinawasendetakan/tianijiho.htm
Life-歴史は繰り返す
http://life-ayu.blog.so-net.ne.jp/2013-12-05
思想と言論
http://cgi.members.interq.or.jp/kanto/just/
Wikipedia -治安維持法
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B2%BB%E5%AE%89%E7%B6%AD%E6%8C%81%E6%B3%95

セント・パトリック・デーと三つ葉のクローバー

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日本ではあまりよく知られてはいないが、今日、3月17日はアイルランドの伝説の守護聖人聖パトリックの祝日』(英: St Patrick's Day、セントパトリックス・デー)である。
このアイルランドキリスト教を広めた司教主教パトリキウス(ラテン語: Patricius。387年? - 461年3月17日))の命日は西方教会で記念日とされている。現在のカトリック教会では任意の記念日であるが、アイルランド(アイルランド共和国)やアイルランド移民の多いアメリカ、オーストラリアでは、聖パトリックの日(St. Patrick's Day)として盛大に祝われている(教派についてはキリスト教参照)。
この日にはシャムロックを身(帽子や服)につけたり、ミサに行ったりする。
アイルランドでは何世紀も前からこの日を祝う伝統が受け継がれてきたが、正式に1903年より祝日となり、イギリスから独立後徐々に祭礼日として成長したようだ。1996年には政府が主体となって首都ダブリンで5日間の盛大なフェスティバルとなりパレードやその他の行事が行われるようになったという。
現在見られるようなパトリックスデイの巨大パレードが始められたのは実はアイルランドではなく、アイルランド系移民の多いアメリカ合衆国の ニューヨーク、ボストンやシカゴなどだそうで、アメリカでは世俗化し、カトリック信徒でないものでも緑の服を着るなどしてこの行事に参加する人も多く、ニューヨークのマンハッタンは世界で一番大きな聖パトリックの日のパレードが行われる場所となっている(※1参照)ようで、緑色の物を身につけて祝う日なので、「緑の日」とも呼ばれているそうだ。
日本でも「アイルランドを一般の人にもっと知ってもらおう!」を主旨に、アイリッシュ・ネットワーク・ジャパン(※2参照)により1992年からセント・パトリックス・デイ・パレードが、シンボルカラーのグリーンやシンボルの三つ葉のクローバーデザインの衣装、小物を身につけたりして各地でパレードなどが開催されているようだ。
アイルランドで「聖パトリックの日」に、胸などに飾るシャムロック(Shamrock)は、アイルランド政府により世界知的所有権機関(World Intellectual Property Organisation)にアイルランドの国花として登録され、アイルランドのスポーツチーム、政府機関や会社のロゴとして頻繁に用いられることが多く、アイルランドのフラッグ・キャリアであるエアリンガスも、尾翼章にシャムロックを図案化している。以下がその画像である。

これは、聖パトリックがアイルランドでキリスト教を広める際に、キリスト教の三位一体(Trinity=tri[3つ] + unity[単一性])の教義(アタナシオス信条参照)をシャムロックを用いて説いたという言い伝えがあり、シャムロックそのものが聖パトリックやキリスト教の象徴ともなっていることからだという。

シャムロック(Shamrock)は、アイルランド語でクローバーの意味の“seamair”または、若い牧草を意味する“seamróg”を、似た発音で読めるように英語で綴った語であり、マメ科のクローバー(シロツメクサ、コメツブツメクサなど)、ウマゴヤシ、カタバミ科のミヤマカタバミなど、葉が3枚に分かれている草の総称であり、アイルランド国花としてのシャムロックは、その形状からの指定で特に種を定めていないようだが、形状から見て、シロツメクサのようだ。

この三つ葉のクローバー「シャムロック」の文様は、古くは、紀元前2500年から紀元前1800年にかけ繁栄し、最大で4万人近くが居住していたと推測されるインダス文明最大級の都市遺跡モヘンジョ=ダロ(パキスタン南部)から発掘された神官王と呼ばれる彫像の衣服(以下の画像参照)にも見る事ができる。この像は、東京都美術館他で開催されていた「世界四大文明 インダス文明展」でも展示されていた(※3参照)。

●画像は「神官王」と呼ばれる胸像、ソープストーン(en)製の複製と思われる。Wikipediaより。

又、シャムロック(Shamrock)という名前は、イスラム教以前の古代アラブ三日月の女神の象徴という意味のアラビア語「Shamrakh」に由来しているとも云われているそうだ(※4参照)。
そういえば、三日月と星はイスラム教の象徴であり、多くのイスラム教国の国旗に使われている。

上掲の画像は、アラブ世界の一員でもあるチュニジアの国旗であるが、中央の三日月と星は古くからのイスラム教の象徴であり、幸運のシンボルでもあった。赤い色はオスマン帝国時代の反抗勢力の名残であり、三日月は古代都市国家カルタゴを建設した、フェニキア人の美の女神タニスを象徴したものとも言われている。
同国の国名は観光地としても有名な首都チュニスに由来し、この名は紀元前4世紀にこの地に存在した古代都市トゥネス(Thunes。チェニェス) から転化した名前であり、この名はビーナスと同格のフェニキア人の美の女神(トゥネス)を語源としているとも言われ、女神(トゥネス)はかつて国家の守護神であったという(国旗については※5参照)。

現在地理的なアイルランド島は、26の県から成る独立主権国家であるアイルランド(共和国)と、島の東北部に位置する北アイルランドの6つの県から構成されている。
アイルランド共和国は1998年の聖金曜日協定( ベルファスト合意>以前は全島(32県)の領有権を主張していたが、現在は、北アイルランドは、同聖金曜日協定の取り決めに従って設立された連立型の行政府と議会によってイギリス統治下にとどまっており、北アイルランド問題は今なお未解決となっている(アイルランドの歴史は複雑であり詳しくはアイルランドの歴史及び※6、※7など参照)。
アイルランド島の大半を占める島国アイルランドは、牧草が茂り「緑の島」とも呼ばれている。2005年の英「エコノミスト」誌の調査では最も住みやすい国に選出されているそうだ。
独立主権国家としての現在のアイルランド(共和国)の国旗は緑、白、橙の三色から成る。1922年にアイルランド自由国の国旗として採用され、1937年に新憲法を施行してエール共和国(自国ではアイルランド語でエール「Eire」と称する。)と改称した際に、憲法で国旗として定められた。尚憲法で英語読みではアイルランド「Ireland」と定められており、この「Ireland」はアイルランド語の「Eire」とゲルマン語の「Land」をあわせたものだという。
「国」を表わす三色旗は1848年に最初に使用された。フランス革命の影響から考案されたという。1916年のイースター蜂起の際に中央郵便局に掲げられ、三色旗が国旗として認識されるようになった。
緑はカソリック教徒や先住民族ケルトなどの伝統要素を、オレンジはオレンジ(オラニエ)公ウィリアム(ウィリアム3世)の支持者、プロテスタントアングロサクソン系などの新興要素を、白はその両者の融和・平和と友愛を表すという。
アイルランドの国の名前「Eire」(エール)の「Eire」の語源については諸説さまざまで、あまりよくわかっていないようだが、アイルランド(語)文学には「Eire」の古い形である「Eriu」が頻繁に用いられており、「Eriu(エリウ)」はケルト神話(アイルランド神話)に登場するトゥアハ・ディ・ダナーン(ダーナ神族)の戦いと豊穣の女神。古代のアイルランドを統治していた、土地の主権者たる三人の女神の長姉である。
バンバ(Banba)と、フォドラ(Fodla)三相一体の女神(三相女神)のひとりで、三人の女神はマイリージャ族がアイルランド島に侵略してきたとき、それを阻止するために勇敢に戦った。その戦いに敬意を表わし、エリウの名がアイルランドの古い名前エールEireとなったともいわれている。
エリウは、フォモール族の王・マクグレーネ(ダクダの孫。太陽の子の意味がある)の妻。トゥアハ・ディ・ダナーンの王ブレスの母である。バンバとフォドラも詩や物語の中でアイルランドの古称として登場するようだ。

人間を寄せ付けない極限的な風景と、人々の心を癒す牧歌的な風景が共存する不思議な国アイルランド。ヨーロッパの最果てにあるこの島国には、今も神秘的なケルト文明の遺跡が残り、独自の美の世界がみられる。
アイルランド島に初めて人類が居住したのは、紀元前7500年ごろ旧石器時代であるとされる。紀元後600年ごろにキリスト教布教がおこなわれ、それまで信仰されていた多神教が駆逐された。
キリスト教布教以前のアイルランド人に関する記述はわずかしか残されておらず、古代ローマの記述家によるアイルランドの詩、神話などが残されているだけだという。
ケルト人はゲルマン民族ラテン民族よりはるか以前、ほぼヨーロッパ全域に居住していた古代民族であり、その起源は非常に古く、紀元前(BC)2千年には、いわゆる“ケルト世界”が形成されつつあったといわれる。
紀元前(B.C.)8世紀頃、大いに栄え、その勢力を各地に広げていったが拡大する古代ローマ帝国や中央ヨーロッパのゲルマン民族に追われるように大陸の西へ西へと移動し、BC3世紀ごろから数回に渡ってアイルランド島へやってきた。
入植したケルト人は紀元前3世紀頃に鉄器文化をアイルランドにもたらし、400年ごろまでに先住民を支配統合してケルト社会を形成。ローマ帝国の侵略を免れたアイルランド島は、このケルト民族がもたらした言語や文化が島全体に受け継がれ、ヨーロッパでもルーツを異とするケルト文化の国となり、今日でもアイルランドのアイデンティティーとして息づいている。
しかし、アイルランド島におけるケルト系民族をアイルランド人と呼ぶが、紀元前に大陸から渡来したケルト系民族だけでなく、ケルト渡来前の有史以前から居住して石器時代青銅器時代・鉄器時代を歩んだ民族もいた。ただ、その後、衰退したケルト文明は神秘と謎に包まれたまま、多くの伝説や神話をこの国に残しているが、他の鉄器時代のヨーロッパの民族と同じく、初期のケルト人は多神教の神話・宗教構造を持っていた。
ただ、アイルランドのケルト人にまつわる神話『ケルト神話』は他の神話と比べて創生神話がないのが特徴で、登場する神族も実在した民族とその歴史を元にしているため人間臭さが前面に出ているという。そして、ケルト神話はダヌ(ダーナ)とその敵フォモール族(Formorians/Fomors)とを描いたものが中心となっているが、ダーナ神族が妖精ディーナ・シー(※8:「ファンタジィ事典」ディーナ・シー参照)となった以降の人間の世の話であり、アルスター伝説、フィアナ伝説(フィアナ騎士団)、マビノギ(物語集)なども含めてケルト神話と称されることもあるという(※9参照)。

先に紹介した神の一族トゥアハ・ディ・ダナーンはケルト神話ではアイルランドに上陸した4番目の種族で、女神ダヌ(ダーナ)を母神とする神族とされている。
アイルランドには旧約聖書の『創世記』(6章-9章)に登場する、大洪水(ノアの方舟参照)以後に太古からフォモール族と呼ばれる先住民族がいた。
その後紀元前(BC)2700年ころ、アイルランド島にわたってきた最初の侵略者はパーソラン族であったが、彼らはフォモール族によって放たれた疫病の前に全滅したが、アイルランドに農業と手工業をもたらした。
パーソラン族に続いて2番目にやってきたのは、紀元前(BC)2300年ころ、スペインかあるいはスキタイからアイルランド島にやってきたネミドをリーダーとするネミディア族であった。ネミディア族もパーソラン族と同じく疫病によってほろび、生き残ったわずかのネミディア族は2つのグループに別れ、一つは北の地方へ、もう一つは西の地方へ逃れて行った。
第3番目には、西の地方へ逃れたネミディア族がフィル・ボルグ族として紀元前1930年ころ再びアイルランド島へもどってきた。彼らは、フォモール族とは争わずに共存する道を選んだ。
そして、第4番目にやってきたのが、ダーナ神族であった。
フォモール族に追い出され北の地方に逃れたネミディア族は、女神ダヌを母神とする神々の一族トゥアハ・ディ・ダナーンとなり、巨人で魔法を身につけ、紀元前1900年ころ霧の中に姿を隠しアイルランド島にやってきた。彼等は高い文化、文明、すぐれた技能や芸術をもち、フィル・ボルグ族は彼らを巨人の魔術師と呼んたという。彼等はフィル・ボルグ族の土地をつぎつぎ侵略し、人々を支配下に治めていった。
その後も2種の激しい戦いがあったが、戦いの最後にはタラのドルイドの王フィゴル・マクマモスは巧妙な魔法を使い、ついにフォモール族を倒した。
敗北したフォモール族は「喜びの島」と呼ばれる海底の死者の国マグ・メル(Mag Mell)に移住し、こうしてアイルランドは完全にダーナ神族のものとなった。
ダーナ神族はアイルランド上陸時、北方四島の四都市、ファリアス(Falias)、フィンジアス(Findias)、ゴリアス(Gorias)、ムリアス(Murias)より四種の神器、またはThe Hallows of Irelandを持ち込んだ。 これは、リア・ファル(運命の石)、ブリューナク(「貫くもの」の意味で灼熱の槍とも呼ばれる)、クラウ・ソラス(光の剣)、ダグザの大釜の事であるとされるそうだ。
トゥアハ・ディ・ダナーンは紀元前1700年ころ、5番目の侵略者であるミルが率いるマイリージャ族(ミレー族ともいう)との戦いで三女神が活躍、エリウの強力な魔力で敵の前進を食い止めたのだが、最後は、マイリージャ族の大軍を前にティルタウンの戦いにおいてついに敗れアイルランド島はマイリージャ族の手にわたることとなった。
そしてミルの息子エリモンはアイルランドで最初の人間の王となリ、現在のアイルランド人の祖先となった。この時、その土地を三女神との約束で彼女らの一人にちなんで名付けると約束していたこたことからエリウと名付けたという。
トゥアハ・ディ・ダナーンはマイリージャ族にアイルランド島を奪われるが、約200年の間アイルランド島を支配し、島に数多くの痕跡、今日も謎とされる巨石群や古墳を各地に建てた。
その代表的なものは、ミーズ州にあるパッセージグレーブ(羨道墳)と呼ばれるニューグレンジである。その入り口にある巨大な石の平板に描かれている渦巻き模様(以下画像参照)はニューグレンジ特有のもので、通路や石室内にもある。

上掲の画像はニューグレンジ入り口前にあった彫刻を施された巨石である。入り口の上には日の出の際の太陽光がすぐ上の開口部から射し込むようにしたルーフボックスがある。ニューグレンジは墓だとする説が優勢であるが、太陽が信仰の中で重要な一部となっていたとも言われている。

このニューグレンジ入口に見られる巨大な石の平板に描かれている渦巻き模様はマン島シチリア、北ウェールズのアングルシー島羨道墳などに見られる三脚巴にも似ている。ニューグレンジには他の縁石にも同様の彫刻が見られる(特に52番と67番)という。
この3つの渦巻や、三脚巴の裏に横たわる観念は、三つの渦巻きを結合させたケルトシンボルと似通った「三つの意味」という意味を持つっているのだろう。

上掲の画像はケルトの渦巻き型三脚巴。Wikipediaより。

この様な三脚巴は多くの国で使用されているがどんなものがあるかはここ→各地の三脚巴を見られるとよい。
以下参考に記載の※10、「ケルトデザインの持つ意味」には、ニューグレンジなど巨石時代、新石器時代のアイルランド遺跡にも多く見られるケルトの渦巻き型三脚巴(トリプル・スパイラル=トリスケル)は、非常に古くから存在するシンボルで、古代ケルトのドルイド教的世界観では、3つの女神(女神の3要素)であるところの、『少女(処女)』『母』『老婆』を意味している。
紀元前の古代ケルトの時代にも頻繁に使われていたが、復活を暗示させるスパイラル模様と三位一体の概念が融合した神聖な形として、その後ケルト系キリスト教の写本の中にも同じデザインが描かれるようになったという。聖なる数字3と、回転・復活するエネルギーの融合したこの形は、神聖ながら野性的躍動感を秘めている。又、それぞれのスパイラルが、満ちて行く月、欠けて行く月、そして満月の3つを象徴し、月の力と繋がる形としても捉えられており、非常に神秘性の強い形である。・・・と書かれている。
この概念は、先に掲示したモヘンジョ=ダロから発掘された神官王と呼ばれる彫像の衣服描かれた三つ葉のクローバーの模様にも共通しているものと考える。

また先のトゥアハ・ディ・ダナーンがアイルランド島を支配していた頃、タラの丘(Hill of Tara)にリア・ファイル(運命の石)と呼ばれる石柱をたて、アイルランドの上王たちはその上に立ち王位を授けられたと言われている。

上掲の画像はアイルランドのミース州ナヴァンの12km南方にある丘陵「タラの丘」。Wikipediaより。

タラの丘は、カウンティ・ミース(Co.Meath=ミース州)のナヴァン(Navan)の12km南方にある丘。ケルト族がアイルランドに渡来後、ケルトの王が君臨していた古代アイルランドの首都で、聖パトリックがシャムロックを用いて三位一体を説いたのも、この地とされている。
アイルランド島の4分の3が、この丘から見渡せると言われている。現在はアイルランドの経済成長を反映して首都ダブリンのベッドタウンとして発展しているようだ。
参考※7:「エールスクエア」によれば、ケルト人は家父長制大家族を単位とした大氏族からなるトゥーハ(小王国)を各地に作り、6世紀ごろにはおよそ150のトゥーハが存在した。小国の王はトゥーハを統治し、やがて一群のトゥーハを統治するさらに力のある王に支配されていった。さらに有力な小王国に支配、統合されて次第に部族国家へと変貌していった。
ケルト人のアイルランドは単純な農業経済で、金銭を用いずに牛を交換の単位としていた。人々は個々の農地に住み、町は存在しなかった。政治的単位としての小王国(トウーハ)のほかに社会の基本単位としての家族共同体(フィネ)があった。
ケルト人が信仰していたドルイド教の僧侶ドルイドは国全体を律する唯一の法典ブレホン法を制定し、人々はそのブレホン法の親族や法的権利についての詳細なおきてによって統制されていた。ケルト人のアイルランドは政治的には統一されていなかったが、ドルイド教は文化的統一をもたらし、同一民族意識をはぐくんだ。・・・という。
【Druid】(ドルイド)は神官や、僧侶のことで、ケルト社会の知的エリート層(主導的な階級)というべき存在で、ケルト人に多大な影響力と絶対的な権力を持ち、ケルト民族全体の支配者として、神々の祭祀を司るだけでなく、数学、天文、詩文に通じ、部族間の調停や裁判を行なった。また特権身分で、ケルト人の文化的伝統の体現者として政治、社会を指導していた。・・・という。ドルイドを要請する教育期間のようなものがあり、ドルイドになるための修行とは教義の暗唱が必要。宗教儀式や予言、占いでは生け贄などもあった。・・・そうだ。

このケルト社会のキリスト教化につとめたのが、432年に渡来したと伝えられる聖パトリックであった。聖パトリック以前に、すでにローマから派遣された宣教師がアイルランド島で布教を行なっていたが、教会制度を確立し、司教を叙任したのは聖パトリックが最初であったようだ。
アイルランドの首長はドルイドに基づく独自の宗教を行っていたために聖パトリックの布教に嫌悪感を示していたが、聖パトリックはアイルランド人の伝統と宗教を理解しつつ、キリスト教との融合をはかりながら布教を行い、このときパトリックは、三つ葉のシャムロックを使い、「シャムロックが三つ葉になっているのは、父なる神・子なるキリスト・聖霊が1つとなっている"三位一体"を表している」と教えたのである。
また、ケルト教会のシンボルとなっているケルティック・クロス(ケルト十字架)は、アイルランドでは、聖パトリックが異教のアイルランド人を改宗させる際にこのケルト十字を創った、という伝説が広く信じられているそうだ。※10、「ケルトデザインの持つ意味」によると、このクロスはキリスト教的な十字の意味に加え、十字の横線は地上世界への導線、縦線は霊性的世界への導線、円形は ”永遠” の神の愛や、尽きる事ない力を示していると言われている。
それ以前から、アイルランド、スコットランド及びその他のケルト系の島に、この形の石碑が多く建てられ、信仰のシンボルとなっていた。ケルトは元々、自然・精霊信仰に基づいた、ドルイド教と呼ばれるアニミズムの様な独自の世界観を持っていたので、それと見事に融合したようだ。・・・とある。
これらは、渦巻きや円で構成された異教時代の古いシンボルが、新しい意味を付与されて現れたものであり、このようなケルト的なキリスト教で、ケルトの宗教や民族性と融合する形で広まったことから、アイルランドでは一人の殉教者も出さずに改宗がすすめられたのが特徴のひとつだという。

参考:
※1:緑一色に包まれた一日 セントパトリックスデーパレード
http://koedasmile.exblog.jp/12340386/
※2:アイリッシュ・ネットワーク・ジャパン(INJ)
http://www.inj.or.jp/
※3:世界四大文明 インダス文明展
http://www.juqcho.jp/appreciation/2000/20001015-1.html
※4:四葉のクローバーの歴史
http://fhp.from.jp/sweet-clovers/?p=0102&n=
※5:国旗の由来・歴史の資料室
http://tospa-flags.com/index.html
※6駐日アイルランド大使館
http://www.irishembassy.jp/home/index.aspx?id=33616
※7:エールスクエア
http://www.globe.co.jp/homepage.html
※8:ファンタジィ事典
http://fantasy.kakurezato.com/info/index.html
※9:ケルト神話
http://tinyangel.jog.client.jp/Faith/CelticMythology.html
※10、ケルトデザインの持つ意味
http://high-land.org/celticdesign.html
世界史の目::翠玉(すいぎょく)の聖島・その1〜ある伝道師の布教〜
http://www.kobemantoman.jp/sub/177.html
シャムロックと四つ葉のクローバー
http://www.avis.ne.jp/~zuzu/culture/art/craft/amulet/4shamrock.html
駐日アイルランド大使館
http://www.irishembassy.jp/home/index.aspx?id=33616
統合版(口語訳+文語訳) 聖書
http://bible.salterrae.net/
Botanical Garden(植物園)
http://aoki2.si.gunma-u.ac.jp/BotanicalGarden/HTMLs/Katabami.html
聖パトリックの祝日 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%81%96%E3%83%91%E3%83%88%E3%83%AA%E3%83%83%E3%82%AF%E3%81%AE%E7%A5%9D%E6%97%A5
南アジアへの招待
http://southasia.world.coocan.jp/

人力車発祥の日(日本橋人力車の日):参考

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参考:
1頁
※1:日本記念日協会
http://www.kinenbi.gr.jp/
※2:くるま屋日本橋
http://www.kurumayanihonbashi.com/
※3:東京中央大通会 日本橋・京橋まつり実行委員会
http://www.tokyochuo-blvd.net/
※4:古事類苑データベース国文学研究資料館 - 電子資料館
http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/
※5:江戸の原型と神田川の流路
http://hisappi.com/kanndagawa/kandagawa-mukasi/kanndagawamukasi.htm
※6:国立歴史民俗博物館-江戸図屏風 〔高精細画像順次拡大版〕
http://www.rekihaku.ac.jp/gallery/edozu/
※7:江戸名所図屏風・・・八曲一双 左側部分
http://www.geocities.jp/mnomura38/photo414.html
※8:「国立国会図書館のデジタル化資料」より見本橋・駿河町の錦絵
http://kazuhisa.eco.coocan.jp/nihonbashi.htm
※9 :日本初の民間銀行を設立:明治期|三井の歴史|三井広報委員会
http://www.mitsuipr.com/history/meiji/minkanginko.html
※10:「為替バンク三井組」(下) - 清水建設 
http://www.shimz.co.jp/theme/archives/0904.html
※11:織田作之助原作・映画『わが町』絶賛
http://ueshin.blog60.fc2.com/blog-entry-1954.html
※12 :青空文庫-織田作之助 わが町
http://www.aozora.gr.jp/cards/000040/files/53808_50752.html
※13:大阪市立科学館−プレスリリース
http://www.sci-museum.jp/server_sci/promot/press_n.html
※14:有風亭 鎌倉人力車&茶房 -Offical Webページ
http://yuufuutei.main.jp/kamakura/
江戸の日本橋・東京の日本橋(東建月報1月号掲載)
http://www.token.or.jp/magazine/g200001.html
東京探訪
http://www.geocities.jp/tokyo_ashy/index.html
日本橋あらかると
http://www.nihombashi.co.jp/category/trivia
東京府(現在の東京都)が人力車の営業を許可(?から?の?)
http://blog.goo.ne.jp/yousan02/e/d07fa4036c25882add617e98ea7a920c
第74号 - 横浜開港資料館 - 横浜市(Adobe PDF)
http://www.kaikou.city.yokohama.jp/journal/images/kaikouno-hiroba_74.pdf#search='%E6%9D%B1%E6%B5%B7%E9%81%93%E3%80%81%E4%BA%BA%E5%8A%9B%E8%BB%8A%E7%BE%A4%E9%9B%86'
人力車 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%BA%E5%8A%9B%E8%BB%8A


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