兵庫津は源平合戦や湊川合戦,でも兵火にあっているが、特に、特に応仁の乱( 文明9年[1467年])では、東西両軍は、兵庫の港からあがる利益(兵庫関から上がる利益)を逃がすまいとして、この地で激しく戦ったため完全に灰燼に帰し、また、この戦乱で瀬戸内海の治安も完全に乱れてしまった。
そのため、堺に繁栄の座を譲った兵庫が再び台頭してくるのは、豊臣秀吉が堺の商人を大阪に移してからであるが、兵庫津は戦国時代にも歴史の舞台の一つとなった。
兵庫津は織田信長や豊臣秀吉らの保護を受け、桶狭間の戦いなどで活躍した池田恒興(諱は信輝) が信長に反旗をひるがえした荒木村重の花熊城を攻略、その用材を用いて兵庫城を築き、それを中心に城下町の整備をすすめたことから兵庫の町の発展がはじまった。
江戸時代になると鎖国政策のため外国貿易は途絶えた一方国内経済は安定していた。当時政治の中心は江戸、経済の中心は大坂であり、このため兵庫の津は全国と大坂、江戸を結ぶ海上輸送の要衝として栄えた。
元和5年(1619年)にはじまる菱垣廻船、寛永16年(1639年)にはじまる北前船による日本海側との航路(西廻り航路)開設、寛文元年(1661年)頃にはじまる樽廻船や内海船(※8参照)などの船舶が兵庫の津を行き交うようになった。また、鎖国はしていたが、通商関係のあった蘭国や朝鮮(朝鮮通信使。※9参照)は江戸渡航に際して兵庫の津を利用することが多々あったようだ。
又、兵庫の町を通る西国街道には宿駅も設けられ、また、灘五郷として酒造りも活発になっていた。
幕府は当初、大阪商人に特別の保護を与え、兵庫を圧迫する方針を採っていたが、自然の良港を持つ兵庫は瀬戸内海第一の集散市場となるなど、その発展を抑えることは出来なかった。
江戸時代中期に兵庫津に本店を置いて活躍した回船問屋高田屋嘉兵衛)や、江戸三百年間の兵庫の豪商北風家たちが兵庫津の隆盛に貢献している。
しかし、江戸末期、兵庫津も激動の渦中にあった。特に嘉永7年(1854)ロシア使節プチャーチンの大阪湾侵入により、周辺の海防が重視され、文久3年(1863)には江戸幕府の軍艦奉行であった勝海舟は海防のための幕臣の教育施設として「海軍操練所」の設立を、呉服商網屋吉兵衛が私財を投じて竣工させた船たで場(フナクイムシを駆除するための乾ドック。船据場ともいう)を利用することを考え、当時の将軍であった徳川家茂に建白した。
翌元治元年(1864年)、明治維新に多大な功績を残した坂本龍馬が塾長を勤めた諸藩の志士のための「海軍塾」と共に開設されたが、勝の更迭と同時に「神戸海軍操練所」と「神戸海軍塾」(※10参照)は閉鎖になった。同じ年に建てられた海防の要・和田岬砲台が、今も神戸市兵庫区に現存している。
一方、「兵庫開港」は、安政5年(1858)の日米修好通商条約で、1863年1月1日と定められたが、朝廷の反対にあい、文久2年のロンドン覚書で5年間延長され、慶応3年12月7日(1868年1月1日)、神戸開港として実現したことは先に書いた通りである。
安政五か国条約上の「開港」とは港だけを開くことではなく、町を外国に開くことであった。開港場、開市場には外国人居留地が開設された。
外国船舶は貿易のため開港場には入港できるが、開市場には入港できない。神戸開港・大坂開市式典は、条約で開港場と取り決められた兵庫から東へ約5キロ離れた神戸村の海沿いに建設中の、神戸外国人居留地南端に新装なった運上所で行われた。
しかし、神戸開港の勅令は慶応3年5月を以って下され柴田日向守剛中(大坂町奉行)が、7月9日には兵庫奉行を兼務して、もっぱら外国人居留地問題などの外交問題を担当し、神戸の外国人居留地の工事が始まったのは慶応3年(1967年)9月1日のことであり、「神戸港」の開港が12月7日なので、たった3ヶ月前の突貫工事であり、形だけの開港であった。 Image may be NSFW. Clik here to view.
上掲の画象は、開港当日の神戸港図。この日、停泊中の各国軍艦はそれぞれ日章旗を掲げ、正午には一斉に21発の祝砲を放って開港を祝った(市民のグラフこうべNo95)。
この画像は挿し絵入り週刊誌『イラステッド・ロンドンニュース』掲載の物らしい。
同画像を見ると海岸のところに四角くぽっかりと白くあいているところが見られるが、ここが神戸外国人居留地である。
開港当時、建っていた建物は運上所と倉庫が3つぐらいだけだったという。また、その運上所が完全に完成したのは2月5日のことだったというから、開港当時は一応できていたという程度のもので、他に建物はなく、ただ地ならししただけの状態での開港であったようだ。
神戸沖には18隻の外国艦隊(英12隻、米5隻、仏1隻)が停泊しているが、外国側が大艦隊を派遣した狙いは、日本側に条約どおり開港・開市を実現させること、式典に参加すること以外に,開港・開市を阻止しようとする過激な攘夷運動に列国が団結して対決する姿勢を日本側に見せつける狙いもあったようだ。
外国艦隊が発した21発の礼砲が裏山にこだまし、住民を震え上がらせたことだろう(※12のニュースレター第305号神戸開港秘話〜「神戸事件」当日の神戸沖外国艦隊〜参照)。 Image may be NSFW. Clik here to view.
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上掲の2枚の画像中、上の画像は、開港間もない頃の運上所前波止場。この波止場は先にも述べた納屋吉兵衛が生田川(旧生田川)尻西側に設けた船たで場跡で、開港に際し、幕府の手により波止場に改築され第1波止場(現在ある第1波止場等とは東西に並ぶ順序が逆になっており位置が違う)と呼ばれた。(市民のグラフこうべNo95)
下の画像も同じころのものと思われれるが、赤○印のところが納屋吉兵衛の船たで場跡のあったところにできた神戸海軍操練所。その後にできた運上所である。
運上所のある居留地の北側(上方)に生田神社の参道が見える。「生田(活田)(いくた)」の地名は日本書紀にも出てくる(※13参照)。この辺りは生田神社の社領であったことから神戸(かんべ)→神戸(こうべ)になった。「神戸」は当時、開港場一帯の村の名前でしかなく、幕末の神戸村は、建物といえば海軍操練所と農家が数件という未開地であった。
安政五か国条約上「兵庫」に港を開くことになっていたが、兵庫は歴史のある土地で町も発展し住民も多い。この様な地で外国人とのトラブルを避ける為に、5キロも離れた神戸村の海沿いの何もない「海軍操練所」があった辺りを事実上の「兵庫港」(現:神戸港)として開港をしたのである。 王政復古の2日前、慶応3年12月9日(1868年1月1日)の開港に際して、兵庫の津は湊川(旧湊川)以西を兵庫港、以東を神戸港と称し、外国船の停泊は神戸港を利用する経緯があった。しかし、兵庫港、神戸港の2港時代は、明治25年(1862年)両港を一括して「神戸港」の名称を用いた勅令の公布をもって終わりを告げ、今日言うところの神戸港となった。
諸外国から兵庫港の開港を求められた幕府が、あえて当時人口希薄な一漁村神戸を重点に開発を進めたことから、かって「兵庫津」であった「兵庫港」は次第に「神戸港」に繁栄を譲ることになる。しかし、「兵庫港」と「神戸港」が一つになって「神戸港」と呼ばれるようになってからも、「兵庫港」は「神戸港の兵庫港」として兵庫運河、同運河支線新川運河の建設が行われるなど、「神戸港」の補完的役割を担い、輸入青果物専用埠頭や三菱や川崎の造船所を中心とする工場の材料荷役などを受け持つ兵庫突堤としての存在価値を保ってきた。
慶応4年(1868年5月23日)、兵庫裁判所(元兵庫鎮台)を廃止し、兵庫県が設置され、同じ年の1月に起こった「神戸事件」(ここも参照)で活躍した伊藤俊輔(後の伊藤博文)が初代兵庫県知事に就任し、居留地の造成にも力を尽くした。
神戸税関の前身である「兵庫運上所」は、慶応3年(1868年)、兵庫港(現:神戸港)開港と同時に開設され、幕府の兵庫奉行所の直轄機関であったが、王政復古の大号令により、明治新政府が誕生し、幕府軍が、翌年の正月3日に鳥羽伏見の戦いで幕軍が敗れたため、御用始めどころか、兵庫運上所はわずか1カ月余で事実上の閉鎖となってしまった。
その後、新政府による「神戸運上所」が誕生し、明治5年(1872年)11月28日に、全国の運上所が税関として名称を統一されることとなったのを機に、翌・明治6年1月4日に「兵庫運上所」は「神戸税関」と改称された。
初代本関庁舎は明治5年(1872年)2月に着工され、明治6年12月に完成した。石造の2階建で海に面する正面には菊の紋章がさん然と輝く立派な建物であった。 Image may be NSFW. Clik here to view.
上記画像 が初代税関庁舎である。和洋折衷の建物に取り付けられた窓ガラスが光るところから、当時の人々は「ビードロの家」とよんだ。写真は明治7年頃のもの、明治6年(1873年)神戸港の輸出・輸入ともに全国の12%であったという。(市民のグラフ神戸No57)。
開港後の明治3年ごろには、神戸には約200人の欧米人がいて256の商社が構えていた。当時、全国には約2600人の外国人が居留し、主として横浜を本拠としていたので、神戸の地位もおのずと察せられる。
しかし、神戸の外国人は、その後急速に増加し、明治11年(1878年)には1000人の大台を超え、貿易額でも明治30年代には横浜とその勢力を2分するほどになったという。非常な躍進ぶりである。
しかし、その頃の神戸港は海岸地先のところどころにまだ白い砂浜が残り、松の疎林があちこちに点在していたという。
神戸港が国際港として、近代的な設備を整え始めたのは明治の末の40年以降のことであるらしい、官民挙げての熱意により、神戸港築港予算が国会を通過、着工をされたのは明治40年(1907年)だというから、初代神戸港長J・マーシャルの神戸港築港計画案(※14参照)が世に出てから24年、神戸市会の決議から8年の歳月が経過してからのことだ。
因みに大阪港の築港計画案は明治30年(1897年)に国会を通過、同年にすでに横浜桟橋が竣工しているので、これら両市に比べると、神戸はまだ経済基盤も弱く資力も乏しかったことが遅れをとった原因だが、しかし、この遅れが逆に、港を生命線として神戸と港とは切り離すことができないという強い感情を市民の間に根付かせたことは否定できないという(『市民のグラフこうべ』No111) 。
大正6年(1917年)には神戸港は開港50年を迎えたが、 神戸港の貿易額は、全国の約4割を占め、特に輸入額は日本一であった。港の造成も進み大正10年(1921年)には「櫛(くし)型」の新港第1突堤から第3突堤が完成し、近代的な港としての第一歩を踏み出した。
そして、大正元年(1922年1月20日) 初代税関本関庁舎を火災で焼失し(※15参照)、2代目本関庁舎(花崗岩・煉瓦張り、地上4階建)が竣工したのは昭和2年(1927年)3月になってからのことであった。
港湾の近代化が進み、開港100年を迎えた昭和42年(1967年)には、わが国初のコンテナターミナルを有する摩耶埠頭が完成した。また、本格的なコンテナ時代に対応するため、ポートアイランドの埋立が昭和41年(1966年)から始まり, 昭和56年(1981年)に完成している。、その後第二期工事として昭和62年(1987年)から神戸空港が新たに作られ完成したのは平成17年(2005年)のことである。
この間、平成7年(1995年)1月の阪神・淡路大震災で壊滅的な被害を受けた神戸港は、急ピッチで復旧工事が行われ、新生神戸港として平成9年(1997年)3月末には全面復旧した。
また、昭和2年(1927年)に竣工していた神戸税関二代目庁舎は、「帝国の大玄関番たる税関として決して恥ずかしからぬ近代式大庁舎」と称された日本最大の税関庁舎で、神戸港新港地区のランドマークにもなっていた。なかでも時計塔はまさに“みなと神戸”のシンボルとして、平屋建の倉庫群の並ぶ港頭にあって、ひときわ目立った存在であったが、阪神・淡路大震災で被災しその建物は半壊した。
現在の神戸税関三代目庁舎は平成8年(1996年)4月に着工され、平成11年(1999年)3月に落成した最新鋭のインテリジェントビルである。保全された旧館とで構成され、旧館を船体に見立てるとその棟の上に現れた新館(3代目庁舎)の高層部が船のブリッジにもみえる。
改築工事では旧本関庁舎に連結する旧別館を取り壊し中心に新館を建設したあと、旧別館の外壁を再構築。それにより旧本関庁舎の花崗岩張りの時計塔を含めた外観と内部ホール等は、ほぼ完全な形で保全された。神戸税関のシンボルの大時計は神戸港に姿を現わし、時を刻み始めてから今年で86年間神戸の港を見守り続けてきたことになる。この景観を残した点が高く評価され、公共建築賞やJIA環境建築賞最優秀賞(第2回 2001年度ここ参照)などの賞を受けている。 Image may be NSFW. Clik here to view.
上掲の画像が神戸税関三代目庁舎である。画像はWikipediaより。庁舎建築概要写真はここで見られる。
江戸で初めての常設の芝居小屋となった猿若座/中村座(江戸三座のひとつ)の創始者猿若勘三郎(初代中村勘三郎)は、山城(今の京都)の武士中村勘兵衛の次男として生まれ、狂言師の兄らと大蔵流狂言を学び、その経験を生かして創作した生涯の傑作が舞踊『猿若舞』である。
『偲草鶴競猿若舞』は中村屋に代々伝わる演目で祝の際に必ず踊られる『猿若舞』を今回の一周忌イベントのため特別にアレンジしたものらしい。
勘九郎の孫七緒八くんの稽古は勘三郎の妻好江さんがつけていたそうだ。孫の物怖じしない演技を見て、亡き勘三郎もほっとしていることだろう。
中村座の定式幕は、左から「黒」「白」「柿色」の引き幕だった。「白」の使用は中村座に限って幕府から特別に許された色であったそうだ。現在は十八代目中村勘三郎の襲名興行や平成中村座の公演などで使用されている。 Image may be NSFW. Clik here to view.
●因みに上掲の画像は、マイコレクションより、1992年(平成4)年12月3日、神戸文化ホールで公演された中村勘九郎親子共演のチラシである。
当時、五代目中村勘九郎(十八代中村勘三郎)は、第一部で祝儀ものの歌舞伎舞踏『七福神』を、第二部では、長男の当時二代目中村勘太郎(六代中村勘九郎)11歳と、次男の二代目中村七之助9歳が、『宝船』を演じ、五代目中村勘九郎は『まかしょ』を演じている。いずれも藤間勘十郎(七世、現:三世藤間勘祖)振り付けによるもの。
江戸の世話狂言から上方狂言(上方歌舞伎)、時代物(江戸時代から見た時代劇)、新歌舞伎から新作と、どんな役でも圧倒的な芸の力で見る人を引きつけて放さなかった稀代の歌舞伎役者十八代目中村 勘三郎。 (演目については、※3の歌舞伎の演目>演目の分類参照)
性格が明るく、天性の輝きをもっていて登場すれば、その場がぱあっと明るくなる、太陽な様な存在の人であった。
名子役として1955(昭和330)年3歳で五代目勘九郎として『昔噺桃太郎』で初舞台に立った。
尊敬する祖父・六代目菊五郎の芸を継ぐ正統派として、舞踊では『鏡獅子』(★)や『京鹿子娘道成寺』(★)など、世話物では『髪結新三』、『隅田川続俤−法界坊』(★)など、時代物では『義経千本桜』『仮名手本忠臣蔵』と並ぶ歌舞伎の3大名作『菅原伝授手習鑑』の梅王丸や松王丸など、歌舞伎を代表する役々で見事な芸を見せている。 Image may be NSFW. Clik here to view.
●上掲の画象は、マイコレクションより、京都・南座の新装開場記念と銘打った「十月大歌舞伎」(1992[平成4]年10月2日初日〜26日千穐楽)のチラシである。
昼の部は、一、『平家女護島- 俊寛』と、三の『ら く だ』(★)に出演。二、『京鹿子娘道成寺』は中村富十郎が演じている。夜の部の通し狂言『青砥稿花紅彩画-白浪五人男』に出演している。
画像は、夜の部の江戸市村座で初演された世話物・通し狂言『青砥稿花紅彩画-白浪五人男』の弁天小僧菊之助を演じる勘九郎。
「白浪物」は盗賊が活躍する歌舞伎狂言を総称する名前である。二幕目第一場(雪の下浜松屋の場)での女装の美男子・弁天小僧菊之助の名乗り(男であることを明かして彫り物を見せつける)の名場面である。
伝統的な歌舞伎を演じる一方で、梨園の壁を越え、演出家の串田和美と組みコクーン歌舞伎を立ち上げて、俳優の笹野高史を抜擢(第1回演目:『東海道四谷怪談』)。『夏祭浪花鑑』(第2弾1996年)など斬新な舞台で若者を歌舞伎に引き込んだ。
新作にも意欲的で、劇作家野田秀樹と組んだ『野田版 研辰の討たれ』(★第1作。木村錦花原作の歌舞伎狂言『研辰の討たれ』を野田秀樹が新しい視点で書き直し演出した舞台)など一連の作品(『野田版 鼠小僧』(★)や『野田版 愛陀姫』[オペラ「アイーダ」を野田秀樹氏が歌舞伎に書き換えた作品]が知られている)にも出演。これら一連の新作歌舞伎は古典に現代の息吹きを吹き込む新ジャンルへと発展した。
これら作品は、宮藤官九郎(「大江戸りびんぐでっど」★)や三谷幸喜(『決闘! 高田馬場』)等人気劇作家にも古典の筆を執らせる力強い呼び水ともなり、映画監督の山田洋次に『人情噺文七元結』(★三遊亭円朝の落語『文七元結』が原作の歌舞伎の台本)の補綴・演出を手がけてもらうなど、数々の野心的な試みにも意欲的に取り組んできた。
なお今まで書いてきた中で『野田版 研辰の討たれ』等作品の備考()に★印のあるものは、松竹株式会社が制作するシネマ歌舞伎でも公開されている。
シネマ歌舞伎は、歌舞伎の舞台公演を高性能カメラで撮影しスクリーンで上映する手法であり、2005(平成17)年1月、最初の作品である『野田版 鼠小僧』(2003年8月歌舞伎座にて上演)が東京・東劇で公開され、それに続く勘三郎の第2弾(映画全体では第4弾)として公開されたもの。この作品も『野田版 鼠小僧』同様、勘三郎襲名披露の時に演じたもので、勘三郎にとっては記念すべき特別な作品と言えるだろう。
以下参考の※4:「シネマ歌舞伎| 松竹」で作品の粗筋説明と映画予告編を見ることができる。『野田版 研辰の討たれ』等こんな歌舞伎があるのかと驚くほど面白い。以降の物でも★印のあるものは見ることが出来るので、ちょっと覗いてみるとよいだろう。
シネマ歌舞伎公開時のインタビュー記事もある参考の※5も見てみるとよい。 Image may be NSFW. Clik here to view.
●因みに、上掲の画象は、マイコレクションのチラシより、シネマ歌舞伎第一弾・中村官九郎、十八代目中村勘三郎襲名記念『野田版 鼠小僧』(平成17年9月3日〜16日、梅田ブルク7で上映のもの)である。
2月3日の今日は節分である。節分は立春の前日をさし、古くは立春を1年の始まりとしたため、大晦日と同じように考えられていた。
最近は、節分になりと豆まきのほかに、恵方巻きを食べたりする。恵方(えほう)とは十干(じっかん)により、その年の幸運を招く方角のこと。歳徳神(としとくしん)のつかさどる方角とされている。恵方は毎年変わり、2014年の今年は東北東の方角になる。
この節分に関しては、今までにこのブログで、節分(行)・「節分」の鬼(行)として、2回書いた。だから、書く気はなかったのだが、今日は、節分関連で、私の趣味、酒器のコレクションの中から鬼面杯を紹介しておこう。
日本酒用の盃には、酒宴に興を添えるためにさまざまな工夫がなされたものがあるがその中に、盃の外側に鬼面を造形したものがありこのような杯は、江戸末期頃から造られはじめ、明治時代〜大正時代には、九谷焼、備前焼、無名異焼などの窯元では、盛んに作られ、全国に販売されたようだ。それを見習って全国の窯元でも、それぞれに特徴をもった鬼面の盃が造られてている。
これら鬼面盃の多くは、見込(杯の内側)にお多福の絵や字などが描かれている。お多福はお福とも呼ばれている縁起のいい図柄だ。
杯の外側に「鬼」内側に「福」が描かれていることから「手の内に福を収めて、鬼は外」「鬼は外、福は内」というわけで、縁起の良い盃として使われ、節分盃ともよばれている。 Image may be NSFW. Clik here to view. Image may be NSFW. Clik here to view.
上掲の画像は、私のコレクションの鬼面杯の中の「益子焼の色絵鬼面大杯」である。上段が外側、下段は内側。
直径は約15センチもある大杯であり、主席の座興で回し飲みなどしていたものだろか。我が家では小振りの杯は座興に使うが、このような大きいものは、節分などに飾ったりして使用している。
この杯、骨董屋さんで買った時には、作家の経歴書もついていたのだが、どこかえ行ってしまって、今は誰の作かわからないのが残念。
益子焼(ましこやき)とは、栃木県芳賀郡益子町周辺を産地とする陶器である。
私達年より夫婦は今夜、豆まきはしないが、恵方巻きの代用に細巻の手巻き寿司を食べ、小ぶりの鬼面杯でお酒をいただいき、來福を願おうと思ています。
皆さんは節分をどうして過ごすのでしょうね。
私のコレクションの各種鬼面盃に興味のある人は、本館、「よーさんのガラクタ部屋」CllectionRoom3の各種鬼面盃のページを見てください。
「Wha’s the use of trying?」 = 「いくら がんばっても 無駄なのよ」・・・と少女。
「Back up - never say die We'll get along!」 = 「諦めちゃいけない さあ また 一緒に頑張ろうよ」と少女を励ますチャーリー。
励まされ生きる勇気を得て立ち上がり、手をつないで道路中央に来た少女の顔がまだ堅いのを見て “Smil”(笑ってごらん)… と、パントマイム(口の端を持ち上げて)で笑顔を促すチャーリー。
それに応えて笑顔になった少女と手を取り合った二人が道路の真ん中を歩いていく。二人の後ろに歩んできた道があり。二人の前途の道にはいくつもの山がある。
有名なこのシーン以下で見れる。 Smile, Charlie Chaplin, Modern Times (1936) 720p - YouTube
1936(昭和11)年米国で、「モダンタイムズ」の撮影を終えたチャップリンは、共演した少女役のポーレット・ゴダードとシンガポールで結婚し、アメリカへ帰る途中の1936(昭和11)年3月6日、客船クーリッジ号で又、神戸に立ち寄っている。
「お忍び」の旅行だったため、新聞報道はなかったが、映画解説で有名だった神戸出身の故・淀川長治(当時、ユナイテッド・アーチスツ社大阪支社の社員)が、船上デッキで面談したという(※006参照)。そして、同年5月にも南アジア旅行の帰途に再度来日している。歌舞伎、文楽、相撲、鵜飼などが好きで、食べ物ではエビのてんぷらが好きであったらしい。
1940年代〜1950年代にかけてアメリカに吹き荒れた赤狩りの嵐をもろにかぶったのはチャップリンであった。「モダンタイムズ」以降の作品で、ヒトラーを皮肉った「独裁者」(1940年。完全なトーキーに踏みきった作品)や「一人を殺せば絞首刑だが大勢殺せば勲章がもらえる」というセリフがあまり有名な「殺人狂時代」(1947年)などを作ったことが重なって、右翼の保守派ににらまれ、1952年にはロンドンで「ライムライト」のプレミアのために向かう船の途中アメリカからの追放処分を受け、そのまま、スイスに移り住んだチャップリンは、1961(昭和36)年にも、飛行機で4度目の来日をしているが、敗戦後のすっかり変わってしまった日本には昔日の面影はなく落胆しこの時以降2度と訪れることはなくなった。
チャップリンが初来日し、神戸を訪れた際メリケン波止場に上陸したことから、映画発祥の地を示す記念碑「メリケンシアター」がメリケンパークに創られている。 Image may be NSFW. Clik here to view.
上掲の画像は、メリケン シアター石の“スクリーン”である。
さて、ウォルト・ディズニーの看板キャラクターである「ミッキーマウス」。その生みの親がウォルト・ディズニーだということはよく知られている話だが、実際にミッキーを作画したのは、ウォルトの親友の天才アニメーターのアブ・アイワークスだった。
そこで、今回は「ミニーマウスの日」のことについては、もうあまり書くこともないので、ミニーマウス関連で、ディズニーアニメ「ミッキーマウス」とその恋人「ミニーマウス」の誕生の変遷についてWikipediaや※2:「カートゥーン:アニメーション100年史」等を参考に簡単に書いてみよう。
1901年12月5日生まれのウォルト・ディズニーは、少年時代から絵を描くことやアートそのものに大変興味があり、7歳の時には自分の描いた小さなスケッチを近所の人たちに売っていたこともあったという。
1914年第一次世界大戦が勃発、1917年12月アメリカが未曾有の大戦争に参戦すると、愛国心に駆られたウォルトは高校と美術学校を退学し陸軍に志願した。
しかし16歳という若年であったことから軍に説得され、兵士としての勤務の代わりに赤十字社の衛生兵としてフランスに渡ったが、大戦終結後、一年振りに故郷のアメリカに帰国し、カンザスシティで画家としての活躍を目指していたものの、仕事も少なく、見かねた兄が頼んだ知人より、ペスマン=ルービン・コマーシャル・アート・スタジオでの広告デザインの仕事を紹介してもらうが、彼はここで生涯の友人となるアブ・アイワークスと知り合い、コマーシャル・アーティストとして生計を立てていこうとしていたが、翌年にアート・スタジオから二人はともに契約更新を打ち切られて失業する。
そこで、1920年1月、ウォルトとアイワークスは、デザイン会社「ウォルト・アイワークス・カンパニー」を創立して共同経営者となった。
しかし、設立早々に、ウォルトはアイワークスを置いてカンザス・シティ・フィルム・アド社(Kansas City Film Ad Company。後のユナイテッド・フィルム・アド社)にアニメーターとして雇用されてしまったので、会社は長続きしなかった。
初めは生活の為に雇われたウォルトだったが、短編アニメの作画を担当する中で、アニメーターとしての資質に目覚めていき、漫画からアニメへと興味が移っていった。社員としての仕事の傍らで映像制作の為の機材を借り入れてアニメーション制作に没頭し、それまでの切り抜き手法からセルアニメに高い可能性がある事を確信した。
1920年、独立して個人事務所を設立したウォルトは、フリーランスの製作者として仕事を募集、カンザスシティーの事業家フランク・L・ニューマンからの出資で初のオリジナルアニメ作品としてカンザスシティの映画館チェーン「ニューマン劇場」向けに、『ニューマン劇場のお笑い漫画』を制作した。以下でその貴重な映像を見ることが出来る。
ウォルトとアイワークスが映画プロデューサーで配給業者でもあるチャールズ・ミンツの下で製作した実写を織り交ぜたアニメ『漫画の国のアリス』は「オズワルド」シリーズに取って代わられるまで57本が制作された人気シリーズであったが、このアニメに使われているキャラクター、「ジュリアス・ザ・キャット」は黒猫をモチーフにしたフィリックス(フィリックス・ザ・キャット=英:Felix the Cat)の漫画(漫画のクリエーターは、オットー・メスマー。英:Otto Messmer)の模倣であると、プロデューサーであるパット・サリヴァン(Pat Sullivan)による抗議があったため、新しいアニメーションシリーズを計画しなければならなくなった。
そこで2人は実写なしでのオールアニメーションを作り出すと同時に体に丸みを帯びさせて親しみやすくなるようなキャラクターを創造するにあたってウサギの案が浮上した。これがオズワルドの始まりだそうだ。
フィリックスが誕生したのは、なんと1919年(大正8年) のこと、アメリカでは、ミッキーマウス誕生以前から大人気であり今でもミッキーマウスと並ぶ人気を誇っている。 Image may be NSFW. Clik here to view.
上掲の画像は、笑うフィリックス(オットー・メスマー原画による初期のもの)Wikipediaより。
1928年12月18日に、ニューヨークのコロニー・シアター(現ブロードウェイ・シアター)でプレミア上映されたディズニー初のトーキー・アニメ『蒸気船ウィリー』(英:Steamboat Willie)が大成功を収め、主人公のネズミ、ミッキー・マウスはまたたく間に世界中で愛される人気キャラクターとなった。
一般的には、この作品がミッキーマウスとミニーマウスのデビュー作とされているため、公開日の11月18日はミッキーとミニーの誕生日、もしくはスクリーンデビューの日となっている。当時ウォルトが声優を務め、劇中のミッキーやミニー、ピートなど全ての声をウォルト自身が演じている。タイトルと内容は喜劇俳優バスター・キートンの『キートンの蒸気船』(Steamboat Bill Jr.)のパロディである。
この三つ葉のクローバー「シャムロック」の文様は、古くは、紀元前2500年から紀元前1800年にかけ繁栄し、最大で4万人近くが居住していたと推測されるインダス文明最大級の都市遺跡モヘンジョ=ダロ(パキスタン南部)から発掘された神官王と呼ばれる彫像の衣服(以下の画像参照)にも見る事ができる。この像は、東京都美術館他で開催されていた「世界四大文明 インダス文明展」でも展示されていた(※3参照)。 Image may be NSFW. Clik here to view.
●画像は「神官王」と呼ばれる胸像、ソープストーン(en)製の複製と思われる。Wikipediaより。
又、シャムロック(Shamrock)という名前は、イスラム教以前の古代アラブの三日月の女神の象徴という意味のアラビア語「Shamrakh」に由来しているとも云われているそうだ(※4参照)。
そういえば、三日月と星はイスラム教の象徴であり、多くのイスラム教国の国旗に使われている。 Image may be NSFW. Clik here to view.
上掲の画像は、アラブ世界の一員でもあるチュニジアの国旗であるが、中央の三日月と星は古くからのイスラム教の象徴であり、幸運のシンボルでもあった。赤い色はオスマン帝国時代の反抗勢力の名残であり、三日月は古代都市国家カルタゴを建設した、フェニキア人の美の女神タニスを象徴したものとも言われている。
同国の国名は観光地としても有名な首都チュニスに由来し、この名は紀元前4世紀にこの地に存在した古代都市トゥネス(Thunes。チェニェス) から転化した名前であり、この名はビーナスと同格のフェニキア人の美の女神(トゥネス)を語源としているとも言われ、女神(トゥネス)はかつて国家の守護神であったという(国旗については※5参照)。
先に紹介した神の一族トゥアハ・ディ・ダナーンはケルト神話ではアイルランドに上陸した4番目の種族で、女神ダヌ(ダーナ)を母神とする神族とされている。
アイルランドには旧約聖書の『創世記』(6章-9章)に登場する、大洪水(ノアの方舟参照)以後に太古からフォモール族と呼ばれる先住民族がいた。
その後紀元前(BC)2700年ころ、アイルランド島にわたってきた最初の侵略者はパーソラン族であったが、彼らはフォモール族によって放たれた疫病の前に全滅したが、アイルランドに農業と手工業をもたらした。
パーソラン族に続いて2番目にやってきたのは、紀元前(BC)2300年ころ、スペインかあるいはスキタイからアイルランド島にやってきたネミドをリーダーとするネミディア族であった。ネミディア族もパーソラン族と同じく疫病によってほろび、生き残ったわずかのネミディア族は2つのグループに別れ、一つは北の地方へ、もう一つは西の地方へ逃れて行った。
第3番目には、西の地方へ逃れたネミディア族がフィル・ボルグ族として紀元前1930年ころ再びアイルランド島へもどってきた。彼らは、フォモール族とは争わずに共存する道を選んだ。
そして、第4番目にやってきたのが、ダーナ神族であった。
フォモール族に追い出され北の地方に逃れたネミディア族は、女神ダヌを母神とする神々の一族トゥアハ・ディ・ダナーンとなり、巨人で魔法を身につけ、紀元前1900年ころ霧の中に姿を隠しアイルランド島にやってきた。彼等は高い文化、文明、すぐれた技能や芸術をもち、フィル・ボルグ族は彼らを巨人の魔術師と呼んたという。彼等はフィル・ボルグ族の土地をつぎつぎ侵略し、人々を支配下に治めていった。
その後も2種の激しい戦いがあったが、戦いの最後にはタラのドルイドの王フィゴル・マクマモスは巧妙な魔法を使い、ついにフォモール族を倒した。
敗北したフォモール族は「喜びの島」と呼ばれる海底の死者の国マグ・メル(Mag Mell)に移住し、こうしてアイルランドは完全にダーナ神族のものとなった。
ダーナ神族はアイルランド上陸時、北方四島の四都市、ファリアス(Falias)、フィンジアス(Findias)、ゴリアス(Gorias)、ムリアス(Murias)より四種の神器、またはThe Hallows of Irelandを持ち込んだ。 これは、リア・ファル(運命の石)、ブリューナク(「貫くもの」の意味で灼熱の槍とも呼ばれる)、クラウ・ソラス(光の剣)、ダグザの大釜の事であるとされるそうだ。
トゥアハ・ディ・ダナーンは紀元前1700年ころ、5番目の侵略者であるミルが率いるマイリージャ族(ミレー族ともいう)との戦いで三女神が活躍、エリウの強力な魔力で敵の前進を食い止めたのだが、最後は、マイリージャ族の大軍を前にティルタウンの戦いにおいてついに敗れアイルランド島はマイリージャ族の手にわたることとなった。
そしてミルの息子エリモンはアイルランドで最初の人間の王となリ、現在のアイルランド人の祖先となった。この時、その土地を三女神との約束で彼女らの一人にちなんで名付けると約束していたこたことからエリウと名付けたという。
トゥアハ・ディ・ダナーンはマイリージャ族にアイルランド島を奪われるが、約200年の間アイルランド島を支配し、島に数多くの痕跡、今日も謎とされる巨石群や古墳を各地に建てた。
その代表的なものは、ミーズ州にあるパッセージグレーブ(羨道墳)と呼ばれるニューグレンジである。その入り口にある巨大な石の平板に描かれている渦巻き模様(以下画像参照)はニューグレンジ特有のもので、通路や石室内にもある。 Image may be NSFW. Clik here to view.
上掲の画像はニューグレンジ入り口前にあった彫刻を施された巨石である。入り口の上には日の出の際の太陽光がすぐ上の開口部から射し込むようにしたルーフボックスがある。ニューグレンジは墓だとする説が優勢であるが、太陽が信仰の中で重要な一部となっていたとも言われている。
このニューグレンジ入口に見られる巨大な石の平板に描かれている渦巻き模様はマン島、シチリア、北ウェールズのアングルシー島の羨道墳などに見られる三脚巴にも似ている。ニューグレンジには他の縁石にも同様の彫刻が見られる(特に52番と67番)という。
この3つの渦巻や、三脚巴の裏に横たわる観念は、三つの渦巻きを結合させたケルトシンボルと似通った「三つの意味」という意味を持つっているのだろう。 Image may be NSFW. Clik here to view.
上掲の画像はケルトの渦巻き型三脚巴。Wikipediaより。
また先のトゥアハ・ディ・ダナーンがアイルランド島を支配していた頃、タラの丘(Hill of Tara)にリア・ファイル(運命の石)と呼ばれる石柱をたて、アイルランドの上王たちはその上に立ち王位を授けられたと言われている。 Image may be NSFW. Clik here to view.
上掲の画像はアイルランドのミース州ナヴァンの12km南方にある丘陵「タラの丘」。Wikipediaより。