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日本で初めて先進国首脳会議(東京サミット)が開催された日

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1979(昭和54年)年6月28日から29日まで日本で第5回先進国首脳会議(通称:東京サミット)が開催された。これは、日本で開催された初めての主要国首脳会議(サミット)である。
冷戦下の1970年代に入り、ニクソン・ショック(ドルの切り下げ)や第1次石油危機(オイルショック参照)などの諸問題に直面した先進国の間では、世界経済問題(マクロ経済、通貨、貿易、エネルギーなど)に対する政策協調について首脳レベルで総合的に議論する場が必要であるとの認識が生まれた。
このような背景の下、ジスカール・デスタン仏大統領(当時)の提案により、1975年11月、パリ郊外のランブイエ城において、日、米、英、仏、独、伊の6か国による第1回首脳会議が開催された。
第2回目の1976年のプエルトリコ会議からはカナダが参加し、1977年の第3回ロンドン会議からは欧州共同体(EC)(現在は欧州連合【EU】)の欧州委員会委員長が参加するようになった。
そして、1978年ボン会議(サミット)(西ドイツ)に続いて、1979年、東京都港区赤坂の迎賓館第5回東京会議(サミット)が開催された。
第2次石油危機のさなかに開催されたこのサミットでは主要な議題は石油・エネルギーの問題であった。エネルギーの節約、輸入抑制や方法が論議されたが、最終的に各国の輸入制限目標が決められ、日本の場合は、輸入総量を630万バレルから690万バレルの間に抑える(国内からの要求量は700万バレル)、という案で合意した。
インドシナ難民(※3参照)に関する特別声明もだされた。(過去から現代までのサミットでの会議の概要、参加国、関連文書等は以下参考の※1:「外務省HPG7 / G8」の過去のサミット一覧表および※2:「主要国首脳会議関連文書 - 東京大学東洋文化研究所」を参照れるとよい)
ところで、この会議で討議されたたことの背景を知るために、前年の第4回・ボン・サミット(7月16日から17日) 以降、東京サミットが開催された1979年の6月まで1年間に起こった世界的に大きな出来事(国際的問題)等を少し振り返ええりながら、現代の状況がどうなっているを見てみたい。

出来事(1)
1978年(昭和53年)8月12日、日本の園田直外相と、中国?(とう) 小平副首相との会談で「尖閣列島(尖閣諸島)」「中ソ関係」に合意が得られ北京で日中平和友好条約の調印式が行われた。(1972年の日中共同声明を踏まえてのもの.。国会承認:10月16日、効力発生:10月23日)。

日本政府は尖閣諸島は日本固有の領土であるとして実効支配をしている。これに対して、1968年に地下資源が発見された頃から、中国と台湾などが領有権を主張しはじめた(南シナ海の領有権問題 参照)。
しかし、尖閣諸島問題は日中共同声明及びその6年後の日中平和友好条約締結(園田外相、?(とう)小平)の際にも、「その解決は将来の世代の知恵に待つ」(?小平)として「先送り」されて来た。
この時、園田外相が尖閣問題を切出すと、?小平は「ああいう事件を再び起こさない」と確約したという。それを信じてこの問題には双方が触れないということで条約を締結したのだが・・・(※3参照)。
今でも日米安保の下、米国に従属している日本。軍事大国化し、ますます覇権主義となりつつある中国。そこに起こっている尖閣諸島問題。
領土問題は今日では、資源問題でもある。かって、は、このような問題は往々にして戦争 (局地的な戦争も含め) によって解決されたものだが・・・。これからどう解決してゆくのだろうか。
日中平和友好条約締結直後の10月25日に来日した折にも、当時の中国の最高実力者?小平は記者会見に応じ、その中で、中日友好条約が覇権反対の原則を明確に規定したことの意義を述べており、「中国が将来四つの現代化を実現した強大な国になったときも、決して覇を唱えない。これは毛沢東首席が生前私たちのために定めた国策であり、既に明確に憲法に記入されている」・・・と述べているのだが・・・(※4:「特記すべき記者会見 | 日本記者クラブ」の“?小平中国副首相記者会見 1978年10月25日”を参照)。
日中国交回復から35年、経済関係の目覚しい発展にもかかわらず、政治面では摩擦が絶えず、最近は、両国間に相互不信はかつてなく深刻な状況になっている。

出来事(2)
1978年 11月1日、当時、貿易収支の大幅な赤字によって経常収支が赤字に転落し、インフレが加速していた中、米国のカーター大統領はドル下落に歯止めをかけるため、独・日 ・スイスの3カ国と個別に外国為替市場に協調介入することと、公定歩合の1%引き上げと預金準備率引き上げのドル防衛策を発表。
これを受けて翌日ドルは大幅に(1日で10円以上)上昇(逆に円安)。その後も円安・ドル高傾向は続いた(※5参照)‘77年から’78年にかけては第一次の円高時期であった。

日本は、今アベノミクスで、物価下落と不況のデフレ・スパイラルを断ち切るためにインフレ目標(インフレターゲット)を設定し、大胆な金融緩和措置を講じることを掲げ、昨年末より、これを好感し円安、株高に転じていたが、5月23日場中につけた日経平均株価の最高値を境に、急激な円高株安に転じた。
理由は、アベノミクスの「第3の矢」とされる「成長戦略」が事前に報道された内容に留まった上、実現への具体策も乏しいと市場に受け止められ、失望売りが膨らんだとみられた他、アメリカの金融緩和が縮小されるとの観測が広がったこともこの流れを後押ししていた(※6参照)。
市場の予想通り、6月19日、FOMC(米国連邦公開市場委員会)後の記者会見でFRB(米国連邦準備制度理事会)のバーナンキ議長は「QE3(月850億ドルの証券購入策)の縮小を年内に開始し、来年半ばには停止するであろう」と発表した(※7参照)。
今回のバーナンキ議長の発表によって、米国の金融政策の変更がほぼ間違いないことが明確になり、長期金利の上昇傾向が鮮明化した。それをきかっけに、新興国の株式市場が不安定化すると共に、当該国の通貨が軒並み弱含みの状況になっている。
日本にとって重要なことは、安倍首相が明確な成長戦略を打ち出せるか否かであり、それができなければ、期待が失望に変わり、アベノミクスで加速した相場は終焉することになる。しかし、余り具体的な、戦略は見えてこないのだが・・・。
もともと、英国やオーストラリアなどでもインフレ目標を導入しているが、いずれもインフレ抑制のためであり、デフレ対応として導入している国はないという。
インフレ目標を導入し、人為的にインフレを起こした場合に、物価だけが上昇し景気が回復しない(失業率が下がらない)、というスタグフレーション(stagflation)を心配する見方もある。これから先どうなるか楽観はできない。インフレターゲット論への疑問の声も知っておいたほうがよい(※8参照)。
アメリカの金融緩和縮小政策発表により、世界の投資資金が新興国から逃げ出しているとも聞く。世界経済に及ぼす影響も心配である・・・。

出来事(3)
1978年11月2日、東京電力福島第一原子力発電所3号機で制御棒の脱落による日本最初の臨界事故が発生していたことが後ほどわかったようだ。(【2007年3月まで隠蔽】※9参照)

2011年3月11日の東北地方太平洋沖地震による地震動津波の影響による福島第一原子力発電所で発生した炉心溶融など一連の放射性物質の放出を伴った原子力事故(福島第一原子力発電所事故)は、日本にとって戦後最大の危機であった。
それは日本という国家が成り立つかどうかの瀬戸際の危機だったわけであるが、この東京電力福島第一原発の事故は、孤立した事象ではなく、過去の原発事故の多くが隠蔽されていたのだという。
先に挙げた1978年の臨界事故のような事故ですら、長期間隠蔽されてきた。そして、その結果、事故情報が共有されず、防げたはずの事故が起きている。多くの事故は、取るべき安全対策が取られなかった結果、起きてしまった。まさに人災ともいうべき事故が並んでいる。それでも、原発は安全だという「安全神話」を、原子力村は強引に押し通してきた。これまでのいい加減な対応を見ていると、東京電力福島第一原発のような事故は、遅かれ早かれどこかで起こらざるを得なかったのではないでしょうか。・・・と、自民党の河野太郎氏は自身の公式サイト(※10)で述べている。
そして、これを繰り返さないためには、経営体質の抜本改革が必要です。再稼働するならば経営陣の総退陣と社外取締役のきちんとした選任が必要です。経産大臣に、それができるでしょうか。総理に、それを指示する勇気があるでしょうか。・・・として、過去の事故例等(※9も参照)を挙げ、最後に「総理、あなたは国民を守るのですか、それとも電力会社を守るのですか。」と結んでいるが・・・(※11も参照)。
阿部自民党政権では基本的に原子力発電所は再稼働の方針のようであり、首相自らが率先して経済外交を行い、アラブ首長国連邦やトルコなどへ原発の売り込みなどをしているのだが・・・。

出来事(4)
1979年1月1日 、アメリカ合衆国と中華人民共和国(通称中国)が国交を樹立。このことは最後に述べる。

出来事(5) 
1979年2月11日、カリスマ的宗教指導者ホメイニーによるイスラム革命評議会がパーレヴィー(パフラヴィー)皇帝時代の政府(パフラビー王朝)から政権を奪取し、イランが共和国として再生した。(イランにおけるイスラム革命=イラン革命)。
それによる混乱からイランの石油輸出が停滞し、国際需給が逼迫、石油消費国はエネルギー危機(第2次オイルショック)に見舞われることになる。(※5参照)。
この緊迫の度を増した石油情勢についての議論が第5回の東京サミットの最重要課題として行われ、各国が原油輸入の抑制を行うことで一致し, 日本においても、原油輸入抑制を行うとともに、イラン減産分をサウジアラビアを始めとする他の石油輸出国からの輸入で代替するなどの措置をとることで、原油価格は上昇したものの、第一次石油危機時のような消費者による買い占めパニックといった大きな混乱は免れた。
ただこの東京サミットでの経済宣言の中で、以下のように石油の代替えエネルギーとして核燃料の推進が宣言、確認されている。
「われわれは,代替エネルギー源,とりわけ,一層の汚染,特に大気中の二酸化炭素及び硫黄酸化物の増大を防止することに役立つ代替エネルギー源を拡大する必要がある。
今後数十年において原子力発電能力が拡大しなければ,経済成長及び高水準の雇用の達成は困難となろう。これは国民の安全を保障する条件の下に行われなければならない。われわれはこの目的のために協力する。この点に関して、国際原子力機関(IAEA) は中心的役割を果しうる。
われわれは,核燃料の安定供給と核拡散の危険性の極小化に関するボン・サミットにおいて達せられた了解を再確認する。」・・・と。(※2の第5回主要国首脳会議における宣言【経済宣言】を参照)。
この件に関して、私も以前より関心のあったことが、以下参考の※13:「知らないのは日本人だけ? 世界の原発保有国の語られざる本音」に書かれていたので、その要約を以下まとめてみよう。
「2011年5月時点で31カ国が原発を所有していたという。
原発による発電量が最も多い国は米国、フランス、日本、ロシア、韓国、ドイツ、カナダの順であり、この時点で日本は世界で3位となっている。その他を見ると、意外にも旧共産圏に多い。
旧共産圏以外では、トップが中国で1780万トン、これは日本の6730万トンの26,4%である。環境問題に関心が深いとされるスウェーデンが意外にも1670万トンと原発大国になっている反面イギリスが1370万トンと少ない。以外にもG7の一員であるイタリアには原発がない。イタリアはチェルノブイリ原発事故の後に国民投票を行い、原発を廃止したからである。
また、ドイツも緑の党などが強く反対するために、福島原発の事故を受けて、原発の保有が大きな岐路に立たされている。
ある国が原発を所有する理由を明確に知ることは難しいが、原発を持っている国名を列記してみると、その理由がおぼろげながら見えてくるが、原発は国家の安全保障政策に関係しているようだという。
つまり、原子力による発電は原子力の平和利用であるが、ウランを燃焼させることにより生じるプルトニウム原子爆弾の原料になる。
また、原発を製造しそれを維持する技術は、原爆を製造する技術につながる。原発を持っている国は、何かの際に短時間で原爆を作ることができる。
北朝鮮が原爆の所有にこだわり、それを手にした結果、米国に対して強い立場で交渉できる。この事実は広く知られている。そのために、イランも原爆を欲しがっている。
日本における原発に関する議論にはこの点が取り上げられないことに疑問を感じられる。福島の事故を受けて、今後のエネルギー政策を考える際には、ぜひ、タブーを取り除いて議論すべきであろう。」・・・と。
確かにその面はあるだろう。しかし、ここで述べている環境問題に関心が深いとされるイギリスなどもその後、市場原理重視から原子力推進に転換し、推進の立場を変えてはいないようだが、各国同様の傾向にあるようだ(※14参照)。
日本は、東日本大震災に伴う原発事故によって、電力不足の問題が起こっている。そのため、原発に代わる太陽光や風力などの再生可能な代替エネルギーへの関心が高まっているが、今、アメリカは、次世代エネルギーとして頁岩(シェール)層から採取される天然ガスシェールガスの生産が進み、雇用も生んでいることから、「シェールガス革命」という言葉も飛び交っている(※15参照)。
中東・中南米・中国のほか、これまでロシア(ガスプロム)にLNGを依存してきた欧州でも、大量の埋蔵が確認されており、シェールガスは世界の資源地図を塗り替えるという声もある。
日本でもメタンハイドレートからガスを取り出すことに成功しており、2008年現在、日本近海は世界有数のメタンハイドレート埋蔵量を持つとされており、シェールガス革命がアメリカを再生させたように、メタンハイドレートが衰え気味の日本を再び繁栄させるかもしれない(※16参照)。 
一昨日・6月26日の株主総会では原発を持つ9電力会社が原発再稼働を急ぐ姿勢を鮮明にしている。安倍政権が成長戦略で「原発の活用」を打ち出したのを背景に、原発を再び経営の柱に据えようとしているのである。原発への不安を抱えながら「原発依存」をしようとする経営体質の危うさ・・・。
新エネルギーの実用化までには相当な年数を要するだろうが、何時になったら方向転換できるのだろう・・・。

出来事(6)
1979年2月、ベトナム戦争(1965年 - 1975年)が終わり、平和が訪れたかに見えたインドシナに再び戦火が上がった。大量虐殺で知られるカンボジアポル・ポト政権は1979年の正月早々に、ベトナムの侵攻で打倒され、ポル・ポト体制はベトナム軍の手で解体された。
だが、国連は1979年2月、米中両国の主導でベトナムに侵略者の烙印を押し、全面的な対越制裁を決議、カンボジアを支援していた中国は、2月17日 、ベトナム北部へ軍事侵攻し、国境の都市をあらかた破壊した(中越戦争の勃発)。 
折しも、前年ぐらいから華人を中心に急増していたインドシナ難民(海上難民は、ボートピープルと呼ばれる。)がこの戦争を機にピークに達し国際的な問題となっていた(※3も参照)。

社会主義化に伴う資産制限・国有化、また中越戦争による民族的緊張により、1978年前後をピークに大量の華人が移民もしくはボートピープルとしてベトナムから国外に流出した。
こうした大量のベトナム系中国人が国外に脱出した背景には、中越関係悪化の中、ベトナムの経済や流通の中枢を華僑がおさえていたことに対して新政府が危機感をつのらせ、組織的にこれを追放したことがあるからだという。
インドシナ難民問題に関しては、東京サミットで特別声明が出され、 ドイモイ以後、ベトナムに帰還する華人も増え、華人人口は復調傾向にあるようだ。
しかし、万一、核兵器を持ち独裁体制を敷いている北朝鮮が崩壊し、大勢の難民が溢れたとき、日本はじめ周辺国の難民受け入れ体制は十分に、出来ているのであろうか?余り、現実的ではない話であるとは思うが、その危険性をはらんでいる国であることには違いない。

出来事(7)
1979年3月28日、アメリカペンシルベニア州のスリーマイル島(TMI)原子力発電所事故で想定された事故の規模を上回る原子力事故が発生。

●上掲の画像は、スリーマイル島原子力発電所。中央手前の二つのドームが原子炉建屋で、その左隣の白い建物が制御室を含むタービン建屋である。奥に見える二基の塔状構造物は放熱塔(Wikipediaより)
原子炉から1次冷却水が失われ、水面上に露出した炉心が過熱して溶融(炉心溶融)したきわめて深刻な放射能漏れ事故であった(事故の種類としては原子炉冷却材喪失事故 (Loss Of Coolant Accident, LOCA) に分類)。
これは、想定された事故の規模を上回る過酷事故 (Severe Accident) であり、国際原子力事象評価尺度 (INES) におけるレベル5の事例である。
以下参考に記載の※17:「チェルノブイリ・スリーマイル・福島の比較」をみると、
スリーマイル (TMI)は、作業員が非常用冷却系統を誤操作により停止してしまったのが原因(計画自体に不備・実験等の違反)。チェルノブイリの場合は違反した動作試験が行われていた為予期しない運転出力の急上昇により蒸気爆発を起こしたのが原因(人為的な操作ミス【機器の欠陥が事故の発端】)と言われているのに対し、福島原発は想像を超す自然災害(東日本大震災)が原因であったとしている。
しかし、実際には、出来事(3)で書いたように、過去数多くの事故の隠蔽が行われていたようであり中には人為的な操作ミスも含まれている。
つまり、この事故は、原発に対するそれまでの「安全神話」を覆し、アメリカ国内に反原発の機運が高まるきっかけになったばかりでなく、多重安全(日本の場合は多重防護と呼ぶ)設計を施した巨大システムが、ちょっとしたヒューマン・エラーから呆気なく崩壊していくことを示す格好の事例であった(※18参照)。
TMI原発の1つの特徴は、原子炉から4kmの地点にハリスバーグ国際空港があり、飛行機が原子炉に墜落する確率が1年に 10-6を越える点であり、アメリカの基準では、10-6/年以上の確率(「原子炉一基,一年あたり百万分の一回程度の確率」※18参照)を持つ危険性に対しては安全対策を講じることが必要だとされているので、TMI原発は、大型旅客機が墜落しても大丈夫なように、きわめて強固なコンクリート製の原子炉格納容器を有しており、この格納容器が、事故の規模を小さくする上で多少の効果があったとされている。
それに対して、地震大国日本の格納容器はどうなっている・・・?いずれにしても怖い話だ。 

さて最後に、出来事(4)の1979年1月の、アメリカと中国の国交を樹立の件である。
第二次世界大戦後の世界を二分した、アメリカ合衆国を盟主とする資本主義・自由主義陣営と、ソビエト連邦を盟主とする共産主義・社会主義陣営との対立構造である冷戦は、周辺のアジアにも強い影響を与えたが1950年代初頭には、アメリカは共産主義の封じ込みを図っていた。
この1950年代のアメリカの総生産は世界の約4割、金と外貨の保有は約5割に上り、名実共に世界の盟主となっていた。このようなアメリカを中心とするアジア・太平洋の同盟は、戦禍を蒙らずに一人勝ちできたアメリカ経済によって支えられていたといえる。
1953年、スターリンが死去し、冷戦状態が緩和する兆しが見え始めた。同年に朝鮮戦争の休戦が合意され、1955年にはNATOに対抗するワルシャワ条約機構が結成、オーストリアは永世中立が宣言されて東西の緩衝帯となり、連合国軍が撤退した。
またジュネーヴで米ソ英仏の首脳が会談し、ソ連と西ドイツが国交樹立、ソ連は翌1956年に日本とも国交を回復(日ソ共同宣言参照)し、1959年にはフルシチョフがアメリカを訪問するなど、冷戦の「雪どけ」ムードを演出した。
この時期、東側陣営ではソ連の覇権が揺らぎつつあった。フルシチョフは、1956年の第20回ソ連共産党大会でスターリン批判を行ったが、この演説の反響は大きく、ソ連の衛星諸国に大きな衝撃をもたらし、東欧各地で反ソ暴動が起きた。一方、中華人民共和国はスターリン批判に反発した。
1960年代にはキューバ危機部分的核実験禁止条約でしばしば対立、ダマンスキー島事件などの国境紛争を起こすに至った。
1958年から1962年は、危機の時代であり、米ソは互いを常に「仮想敵国」と想定し、仮想敵国と戦争になった場合の勝利を保障しようと、両国共に勢力の拡大を競い合い、軍備拡張が続いた。
この象徴的な存在が、核兵器開発と宇宙開発競争であった。しかし、ソ連とアメリカの直接衝突は、皮肉にも核の脅威による牽制で発生しなかった。
その一方、第三世界の諸国では、各陣営の支援の元で実際の戦火が上がった。これは、二つの大国の熱い戦争を肩代わりする「、代理戦争」と呼ばれた。
キューバ危機によって核戦争寸前の状況を経験した米ソ両国は、核戦争を回避するという点において共通利益を見出した。この結果、米英ソ3国間で部分的核実験禁止条約ホットライン協定などが締結された。
しかし、部分的核実験禁止条約には核開発で後れを取っていた中国・フランスが反対し、十数カ国は調印しなかった。
東西共に一枚岩でないことが明白となった。また、地下での核実験は除外されていたため、大国の核開発を抑止する効果は限定的だった。
フランスは1960年2月にサハラ砂漠で最初の核実験を行い、この条約の後の1966年にNATO(北大西洋条約機構)の軍事機構を脱退し、アメリカ・イギリスなどと一定の距離を置く独自の路線を歩むことになった。
また、共産圏の中国も当時、中ソ対立でソ連との対立が深まりつつあり、独自の核開発路線へと向かい、1964年10月に中国初の原爆実験を行った。
この時期、米ソ両国の軍拡競争が進行し、ベトナム戦争を契機とする反戦運動、黒人の公民権運動とそれに対抗する人種差別主義者の対立などによってアメリカ国内は混乱、マーティン・ルーサー・キング牧師やロバート・ケネディなどの要人の暗殺が横行して社会不安に陥った。
第二次世界大戦終結時はアメリカ以外の主要な交戦国は戦災で著しく疲弊していたので、世界の経済規模に対するアメリカの経済規模の比率は突出して大きかったが、戦災から復興した日本や西ドイツが未曾有の経済成長を遂げ、西欧が経済的に復活する中で、世界の経済規模に対するアメリカ合衆国の経済規模の比率は相対的に減少した。
チェコスロバキアはプラハの春と呼ばれる民主化、改革路線を取ったが、ソ連は制限主権論に基づきワルシャワ条約機構軍による軍事介入を行い武力でこれを弾圧した。
アルバニアはスターリン批判以来、中華人民共和国寄りの姿勢を貫いてワルシャワ条約機構を離れ、中華人民共和国はアメリカに近づいてソ連と決別、北朝鮮は主体思想を掲げてソ連から離反するなど、1963年〜1968年には冷戦の変容が見られた。
1960年代末からは緊張緩和、いわゆるデタントの時代に突入した。米ソ間で戦略兵器制限交渉 (SALT) を開始、1972年の協定で核兵器の量的削減が行われ、緊張緩和を世界が感じることができた。
このころ、日本では、佐藤栄作内閣が「沖縄返還」を錦の御旗に自衛隊を増強し、非核三原則の拡大解釈や日本国内へのアメリカ軍の各種核兵器の一時的な国内への持ち込みに関する秘密協定など、冷戦下で東側諸国との対峙を続けるアメリカの要求を尊重した政策を遂行し、アジアにおけるアメリカの肩代わりと中国敵視政策でせっせとアメリカの点数稼ぎに懸命であった。
一方、アメリカは、ソ連を牽制すると同時に、密かに水面下で中国との接近を進めていたのである。
1968年アメリカ大統領に当選したニクソン大統領は、大統領補佐官に任命したキッシンジャーと図って、新たな世界戦略をうち建ててベトナム戦争の泥沼から抜け出す道を求めていた。
そして、1972年2月にニクソン大統領が北京を訪問し毛沢東主席と会談した。これは1949年に共産政府が成立して以降、アメリカ大統領の中華人民共和国訪問はこれが最初であった。
アメリカはそれまで蒋介石率いる中華民国を中国大陸を統治する正統な政府として、中国共産党政府を承認していなかったが、この訪問で米中共同宣言を発表し、中国共産党政府を事実上承認し、東アジアにおける冷戦の対立軸であった米中関係が改善するが、国際社会の反応は様々だった。
ソ連は米中和解に深い懸念を示し、新しい世界秩序は米ソデタントに大きく貢献した。また、1973年に北ベトナムとアメリカは和平協定に調印し、アメリカ軍はベトナムから撤退したが、アメリカは建国以来初の敗北を味わうことになった。
その後、ジミー・カーター政権時代の1979年1月にアメリカと中華人民共和国の間で国交が樹立された。
しかし、この米中共同宣言に先立つ1971年7月にニクソン大統領が中華人民共和国訪問を表明した際には、余りにも電撃的な発表であったため世界中があっと驚かされた。
欧州の同盟国の多くとカナダは既に中国を承認していたため歓迎の意向を示した。しかし、アジアの反応はもっと複雑だった。特に日本は発表の内容を直前まで知らされておらず、米国が日本よりも中国を重視することを怖れて非常に強い不快感を示し、日本の政界は対中政策を巡って大混乱に陥る第一次ニクソン・ショックに見舞われた。
ただ日中国交樹立の客観的条件が熟してきたその時に、日中友好を主張する田中角栄内閣が佐藤内閣の総辞職後登場したことは幸いであった。
キッシンジャーが東アジア新秩序構想において日本抜きで事を運ぼうとしていることを察知した日本政府及び田中角栄は、でき得る限り早く日中国交正常化を果たすことを決断。そしてニクソン訪中宣言からわずか1年2ヶ月という異例の早さで田中首相は大平正芳外相とともに北京を訪れ周恩来首相ら中国側と会談し1972年9月29日、日中共同声明(「日本国政府と中華人民共和国政府の共同声明」)に持ち込んだ。そして、日中共同声明に基づき、日本はそれまで国交のあった中華民国には断交を通告したのだが・・・。。
ただ、スムーズにいくかと思われたこの会談での交渉は難航したようだ。それは、中国側が共同声明第7項の「反覇権条項」を条約草案に盛り込むことを主張したが、日本側はこれに異議を唱え、以後、「反覇権条項」の取扱いが双方の交渉の対立点となったという(以下参考の※19:「中国と日本」を参照)。
日本は共同声明の第7項では覇権主義反対を書くことに同意しておきながら、なぜ平和友好条約では反覇権条項を入れることに躊躇するのか。それはソ連が日本に圧力をかけ、牽制していることと関係していた。中ソ対立が激しい当時、ソ連は日本が中国と友好関係になるのを恐れた。ソ連は日中両国が反覇権を明記した条約を締結するならば、これに対応する措置として、ソ連は「対日政策を見直すことになろう」と述べたり、海軍を日本近海に出動させて武力威嚇を行ったりしてきた。日本は「日本が中ソ対立に巻き込まれれば、アジアの不安定化と緊張をもたらす」と考え、条約交渉を中断させた。・・・のだという。
福田赳夫政権の下で正式に「日中平和友好条約」が調印されたのは6 年後の1978年8月のことであった。これは、1979年1月にアメリカと中国の間で国交が樹立されるより1年以上も前のことであった。
しかし、今日ある尖閣諸島にかかわる領有権問題は、「日中共同声明」、「平和友好条約」ではっきりさせてこなかったことのつけであり、 また、当時より力を付け世界第2の経済大国であり、また軍事大国となった中国の漁船などが領海侵犯を繰り返してくるのは、「反覇権条項」を「平和友好条約」の中へ入れてこなかったことも大きな要因であるようだ。
そして、今ではアメリカにとって経済力の落ちてきた日本よりも中国の重要性の方が増してきており、尖閣諸島についてアメリカは関知しない、「日中両国の二国間で解決すべき問題」との態度を取り始めた。これから日本はどうするつもりであろう。
この様に、第4回〜第5回サミットの期間に発生していた問題などは、その当時から34年経過した現在の日本にとっても、未解決の重要課題が多く関連している事と思いませんか・・・。

(冒頭の画像は1979年6月28日、東京サミットで赤坂の迎賓館の庭を散歩する各国首脳。向かって左から4人目大平首相その隣ジミー・カーター米国大統領。向かって右から2人目マーガレット・サッチャーイギリス首相。Gazouha ,『朝日クロニクル週刊20世紀』1980年号より借用。)


日本で初めて先進国首脳会議(東京サミット)が開催された日:参考へ

7月文月(ふみづき) 

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今日・7月1日は「山開き」、「海開き」の日でもある。
「山開き」は、毎年日程を決めて一般人に登山を許すことであるが、昔、日本の山は山岳信仰の盛んな所が多く、僧侶たち以外何時でも誰でもが山に登ることは禁止されていたが、江戸中期以降、各地に山岳信仰の講(富士講参照)が結成され、山頂に祀(まつ)られている神を拝むための講中登山が行われるようになった。その様子は冒頭の画像葛飾北斎の浮世絵『冨嶽三十六景 諸人登山』(Wikipediaより)でも見られるし、以下の歌川国芳(一勇斎国芳)の三枚続き錦絵でも見ることができる。

国立国会図書館デジタル化資料 - 富士登山諸講中之図
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1304354

このために日数を決めて山を俗人に開放した。これが「山開き」で、初日をとくに「お山開」きとよび、信徒たちは山に登れることを祝った。
最終日は山仕舞いとよび、山はまた僧侶たちのみの世界となった。富士山は7月1日がお山開きであったが、現在はほとんどの山がこの日に合わせて登山が行われている。
2013年の今年は6月に富士山が「信仰の対象と芸術の源泉」としてユネスコにより文化遺産(世界遺産)に登録された。そして、世界文化遺産に登録された富士山が今年になって今日・7月1日に初めて山開きした。
世界文化遺産に登録されたことで観光ブームが期待される一方、登山者の大幅増に伴う事故や環境破壊が懸念されている。
山梨、静岡両県は、徹夜で山頂を目指す「弾丸登山」の自粛やマナー順守などを呼び掛けているという。
富士山の7月と8月の夏山シーズン中の登山者は、去年はおよそ32万人であったが、世界文化遺産に登録された今年は当然これより大幅に増えるとみられ、山梨県などは登山道の誘導員を去年の2倍に増やして、安全の確保を図る計画だというのだが・・。

富士山山開きへ 次々登山者訪れる
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20130630/k10015696801000.html

本来、富士山の世界遺産登録は、自然遺産であるべきなのだが、世界遺産委員会が定める「自然遺産」としての評価基準に適合出来なかったことから「自然遺産」としての国内の候補地としても入ることが出来ず、やっと文化遺産として認められたということをしっかりと認識してもらいたいものだ。以下参照。

富士山を世界文化遺産に - 富士宮市
http://www.city.fujinomiya.shizuoka.jp/isan/sekai-hujisan.htm

浮世絵などの見られるごとく、富士山を遠方から見れば確かに美しいが、大写しの写真などを見てもわかるが、自動車道、登山道、ブルドーザー道が山腹に無数に切り刻まれており、これだけで「自然遺産」には無理だと思われる上に、マナーの悪い登山者等のゴミ問題もある。ユネスコの担当者が富士山を見て、そのゴミのひどさに驚いたという話を聞く。
日本人は、何かあると我も我もと集中する。節度ある行動と、品格を失わないでもらいたいものだ。
今まで、富士山の自然を守るため必死にごみ収集などをしていたボランティの人たちは、これまでも手に負えなかったので、もし世界遺産に登録されて後、大勢の人達がどっと山に登るようになるとごみの収集なども全く手に負えなくなる・・・。だから、富士山の自然を守るためにも「世界遺産への登録をして欲しくない」・・と言っているのをテレビ報道で見た。
私も、富士周辺の観光業の人達や、観光業者が金儲けに、どんどんと観光客を集めれば、ますます自然景観は失われ、下手をすれば、「文化遺産」としての登録さえ抹消されかねなくなるのではと心配している。

海開き」は、山開きのようにとくに日附は決まっていないが、夏の海水浴シーズンを前に神主などによる海での安全を祈願する神事を執り行うことが多い。
因みに、神戸の場合、今年は、須磨海水浴場は7月5日に海開きを行い,8月31日まで58日間開設する。海開きの行事としては、幼稚園児の記念水遊びと海開き神事を5日に須磨海水浴場東端(須磨海浜水族園南東砂浜)で行われるよていである。
海水浴場の場合 水質検査、漂着物やゴミの除去、海水温、を考慮して期間を決めて海開き宣言している。期間以外での「遊泳禁止」は、気象状況などで発令されたときだけだが、まだ、この時期は、天候等によって、水温の低い日もあるので、注意しなくてはいけないのは当然だろう。

さて、日本では、旧暦7月を文月(ふみづき、ふづき)と呼ぶ。
天保暦よりも前の定義では、処暑を含む月を7月(旧暦)とする。
新暦では7月下旬から9月上旬ごろに当たる。現在では、「文月」を新暦7月の別名としても用いている。
文月の由来は、7月7日の七夕に詩歌を献じたり、書物を夜風に曝す風習があるからというのが定説となっている。
これは、平安時代の 藤原清輔(きよすけ)の『奥義抄』に「此(こ)の月7日、七夕にかすとて、文どもをひらく故に、文ひろげ月といふを略せり」とあり、「文披月(ふみひらきづき、ふみひろげづき)」が転じたとするもの。以下参照。

文月 和歌歳時記
http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/saijiki/humituki.html

しかし七夕の行事は奈良時代に中国から伝わったもので、元々日本にはないものである。そこで、稲が穂を含む「穂含月(ほふみづき)」や稲穂の「含月(ふくみづき)」から転じた という説(山岡浚明著『類聚名物考』)もあるようだ。
また、この月は諸人が親の墓に参詣するからふづき(親月)というとする説((貝原好古著『和爾雅(わじが)』)などがある他、「秋初月(あきはづき)」、「七夜月(ななよづき)」の別名などもあるようだ。

いずれが本当か私などにわかるはずもないが、「(ふみ)」(字源はここ)は、もともと、文字で書き記したものをさす言葉。昔は、手紙に限らず、書物や記録などのことも、「文」といった。また、特に、漢詩や漢文のことを、「文」と呼ぶこともある。
文を書くには言葉を知っていなければならない。私のように学生時代から、国語を大の苦手としてきたものには辞書は手放せない。困ったときに「広辞苑を調べるが、普段は今でも学生時代から使っていた旺文社の『新総合国語辞典』を使っている。もう、真っ黒になっている。
朝日新聞の今朝7月1日朝刊の天声人語におもしろいことが書かれていた。そのまま以下に引用する。
「何もする気が起きない時、辞書を読む。調べる必要があっての「引く」とか「当たる」とかでなく、ただ興味の赴くままに読み進む。言葉の海は広く、深い。その都度なにかしら新しいことを知る。
▼お笑い芸人で日本語学の学者でもあるサンキュータツオさんの本が面白い。『学校では教えてくれない! 国語辞典の遊び方』。200冊のコレクションを誇る「辞書オタク」が読み比べを熱く勧める。「大人なら国語辞典は二冊持て!」と、
▼たとえば「恋愛」という言葉を、〈男女間の〉愛情とするものあれば、〈特定の異性に対して〉と表現するものあり。〈まれに同性同士〉という記述を定義に加えるものもある。どれも似たり寄ったりと思ったら間違いで、それぞれ特徴がある。
▼確かに新明解国語辞典のような「ひとこと多い」個性派を読み出すとやめられなくなる。辞書ならぬ字書も誘惑に満ちている。漢字の字源を明らかにする白川静 (しずか) 字統』を開くのは危険である。一つの文字から関心が広がってきりがなくなる。
箴言(しんげん)集も学びの宝庫だ。〈憎悪、敵意、粗暴は、弱さの所産である……弱者が自分以上の弱者を餌食にするときの、あの酷薄さ!〉(エリック・ホッファー魂の錬金術』)。今の日本の世相に照らして考え込む.。
▼7月は文月(ふみづき)。だからというわけではないが、たまには言葉の海を遊泳して心の肥やしにしたい。時を忘れがちになるのが玉に瑕(きず)だが。この原稿も、そういう成り行きで大あわてで書く羽目となった。」・・と。
天声人語ではないけれど、実は私も今日はこのブログを書く予定ではなかった 。今別の日の別の0テーマーで準備中だが、少し、前回のブログから日数があくこととなること、富士山の山開きのニュースを耳にしたことなどで急に書く気になった。
それと、朝の散歩時に、ラジオの毎日放送「子守康範 朝からてんコモリ!」の中で、聞いた話が面白かったことがある。
放送の途中からだったので、よくわからないが、どうもお笑いタレントハイヒールモモコとリンゴの会話からのことらしい。
女性が「今日の天気はどうなんかな〜」と聞いたとき、「そんなこと知らんがな〜」と答えたら、女性の気持ちは分かっていないのだという。それは、何もお天気のことを聞いた女性は天気が良いか悪いかを聞いているのではない。その女性は、お天気のことなどどうでもよくて、聞いた人から「どうしたの、お天気が悪いと何か都合の悪いことがあるの?」と聞き返してくれることを望んでいるのだという。
要するに何か別に話したいことがあってそれを聞いてもらいたいためにお天気のことを聞いただけなのだという。・・・モモコは女性らしい女性で、リンゴは「そんなことわからんわ」と答える男性的な女性だと言えるのだと・・・。
何か面倒くさい話なのだが、そんな質問をする女性の気持ちをわかる人が、女性というものを理解している人であり、そんあ質問の意味がわからない人は女性を理解していない人…と言うことになるらしい。あなたたちはどうですか・・・?
私など、しょっちゅう女房からこのような質問をされているのだが、そのような質問の意味がわからずにいい加減な返事ばかりしているので…女房殿のご機嫌を損ねているのだが・・・・。
急に思い立って書いたのでなにか摂りとめのない話になってしまった.。
気象庁の予想では、本州の梅雨明けは、まだまだ先のこととなっているのだが・・・。皆さん、食べ物や紫外線、水不足による熱中症などに気を付けてくださいよ。
参考
近代デジタルライブラリー - 類聚名物考. 第2冊 地理部
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/898154
貝原 恥軒 - 古典籍総合データベース
http://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/search.php?cndbn=%8AL%8C%B4+%92p%8C%AC
『国語辞典の遊び方』 (サンキュータツオ 著) | 著者は語る - 文藝春秋WEB
http://gekkan.bunshun.jp/articles/-/639
840夜『波止場日記』エリック・ホッファー|松岡正剛の千夜千冊
http://1000ya.isis.ne.jp/0840.html
藤原清輔 千人万首
http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/kiyosuke.html
気象庁 | 平成25年の梅雨入りと梅雨明け(速報値)
http://www.data.jma.go.jp/fcd/yoho/baiu/sokuhou_baiu.html

七夕はカルピスの誕生日

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07月07日七夕はカルピスの誕生日
最近あまり飲まなくなったが子供のころにはよく飲んだ「カルピス」が誕生して2013(平成25)年の今日で94回目の誕生日を迎えた。
日本初の乳酸菌飲料である「カルピス」が発売されたのは1919年年7月7日のことであった。パッケージデザインでおなじみの「カルピス」の水玉模様は七夕生れにちなみ、天の河の「銀河の群生」をイメージしているそうだ。「カルピス」さわやかさを伝える水玉模様・・。
カルピス株式会社では誕生以来のパッケージの変遷をホームページ(※1参照)で紹介しているので参照すると以下の様である。
1919(大正8)年の発売当時は化粧箱入りだったそうだ。当時としては貴重な飲み物だったのだろう。称号はカルピスの前身であるラクトー株式会社。
1922(大正11)年、「カルピス」が七夕の日に発売されたことにちなんで、天の河の「銀河の群生」をイメージした青字に白の水玉模様の包装紙がデザインされた。これが今の水玉模様の始まりである。
因みに、「カルピス」という名前に決定したのは作曲家の山田耕筰だそうで,音の響きが良かったのだとか。これに決定するまでは、複数案あるなかで三島海雲自身は特に「カルピル」が気に入っていたという。その理由等は以下参考の※2を参照されるとよい。
1953(昭和28)年、製品のリフレッシュをはかり、戦前からの青字に白の水玉の代わりに白地に青の水玉の包装紙のデザインになる。この当時の流行語に・・「もはや戦後ではない」(1956年)がある。
1964(昭和39)年白地に青の水玉模様はそのままで、英文「CALPIS」のロゴを中心としたラベルに変わった。
1989(平成元)年、ラベルは英語のロゴはそのままに、地球とさわやかさを表現した水玉が入った。また、このころから包装紙の水玉が小さくなった。・・・とあった。
しかし、上記のHPではカルピスの水玉模様の歴史は詳しく書かれているが、私などの記憶に一番残っている、”パナマ帽を被った黒人男性がストローでグラス入りのカルピスを飲んでいる様子を図案化したイラスト”の商標のことについては触れられていなかった。

上掲のものがそのイラストを描いた包装紙である(画像は私のコレクションより)。これを見て、懐かしく思い出す人は随分と多くいることだろう。
このデザインは1923(大正12)年 、カルピスの創業者である三島海雲が、会社の宣伝と第一次世界大戦終戦後のヨーロッパの貧困な画家の援助を目的に、会社の宣伝ポスターのコンテスト「国際懸賞ポスター典」を主催。ドイツの画家オットー・デュンケルスビューラー(Otto Dunkel)が第3位に入賞したが、1,2位の作品は会社のマークとしては複雑すぎて使用しにくかったため、彼のシンプルなデザインが採用されたのだという。以下参考の※3では1等2等のポスターもあるので興味のある人は覗かれるとよい。

カルピスの包装紙には長い間黒人のキャラクターが、使用されていたのだが・・・。
かって、黒人に対する蔑視は、長く続き、日本でも、戦後、黒人の米兵などを見ると怖がったりした時代もあった。その後、次第に、そのような偏見はなくなるのだが、1980年代になると黒人マークは国際化時代の背景から人種差別的な問題を提起されたり、黒人差別をかかえる国々から反対意見を展開されるようになる。
日本でも、多くの子供たちに愛され人気のあった『ちび黒サンボ』の絵本が、その絵本の題名や人物名が「黒人差別をあおる」と批判されるようになり、1988年に絶版されたのを思い出す。
このとき、当時の我が国では、黒人を引き合いに「不用意」な発言をする政治家などが出てきたことでアメリカから激しい抗議を受けるなどもあり「だっこちゃん」人形が1989(平成元年)に姿を消すと、カルピスの黒人をモチーフにしたこのマークも同年に使用を中止している。
私個人は、カルピスなどのキャラクターが黒人を差別して生み出されたものとは到底思えないが、当時の過剰なまでの黒人差別批判のある時に馬鹿かと思える政治家の不用意な発言などがあると、企業も泣く泣く中止せざるを得なかったのであろう。このことは前に私のブログ「国際人種差別撤廃デー」や「エドガー・ライス・バローズ (米:小説家『類猿人ターザン』)」の忌日」の中でも書いてきたが、どんな政治家がそんな不用意な発言をしたのかまた、廃止となった経緯など詳しくは以下参考の※4:年表(日本)を参照されるとよい。

カルピスは、パッケージの水玉模様が天の川の銀河の群生を表しているところから、そんな由緒にちなんで同社では、七夕に関する意識調査を続けている。
今年第6回となるが、その結果が発表されている。
ここ参照→ 「七夕に関する意識と実態」

「七夕に関する意識と実態」を調査した結果、
1、「短冊に書きたい願いごと」で
1位は、「自分や家族の健康について」であり、「100歳まで生きられますように」(18歳/女性)と言った願いなど、昨年同様、自分自身や家族が、健康で長生きするよう願うものが多かったという。
2位は、「自分や家族の仕事について」であり「働きやすい会社に就職できますように」(21歳/男性)といった、内容としては、就職や仕事が順調にいくように願うもの、また、収入アップや出世を願うものが多く見受けられたという。
3位は、「生活/くらしについて」で、「60歳までに1億円溜まりますように」(51歳/男性)と言ったような楽しい暮らしや豊かな暮らし、そして、安定した生活を願うものが多かったという。
以下は省略するが、やはり厳しい現実を反映しているようだが、私など、100歳まで生きようとは思わないし、会社では、余り出世などは考えたこともなく、自分のやりたいことを好き勝手にやってきたが、そんな自分を会社はそれなりに評価してくれたのであろう・・・、会社はそれなりの待遇をしてくれたので、何とか老後もやっていけそうだ。、
だから「生活/くらしについて」もそんなに欲はない。なんとか、平凡な暮らしを今のまま続けばよいと思っている。私は、死に様を大切にしたいので、いつまでも長生きよりも、平均寿命を超えたくらいで、楽に死ねるとよいと思っている。だから、家人には、「不必要な医療手当をして命を長らえさせてくれるな。ただ痛いのは嫌なので、楽に死ねるように医者に頼んでくれ」と言っている。
しかし、「これまでに七夕の短冊に願いごとやかなえたい夢を書いたことがあるか」の質問には、約7割が「ある」と答えているようだ。そして、「七夕に書いた願い事ごとがかなったことがあるか」と質問したところ、「ある」と答えた人が2割強(23,3%)いた。・・という。
これまでにと言われると私なども子供の頃には何を書いたかは忘れているが短冊に願いごとを書いたこともあるが、大人になってからはない。大体占いごとやこのような神頼みごとはしない。
ただ、毎日仏壇に向かって、ご先祖様に、一家の者の健康と、阪神・淡路大震災のような大災害だけは起こらないようにはお願いしている。、
だけど、「七夕に書いた願い事ごと」のかなった人が23,3%もあるのなら、ご先祖様へのお願いごとだけではなく、神様や仏様にもう少し欲な願い事もしてみたくなるな〜。

あゝ!今日このブログを突然書く気になったのは、今朝の朝日新聞の『天声人語』に、「七夕伝説は多くの大人が知っていた。ただ、織姫と彦星(ひこぼし)が夫婦だと正しく理解していた人は1割もなく、9割超が恋人と誤解していた▼2人は働き者だったが、結婚してからは機織りと牛飼いの仕事を怠けるようになり、天帝の怒りを買って引き離された。年に一度しか許されない星合(ほしあい)の物語が、恋の成就を阻まれ、一緒になれない2人というイメージを定着させてしまったか・・」・・・とあったので、前に私も、このブログで「七夕 」のことは書いたことがある(ここ参照)。ひょっとしたら、私も勘違いして間違ったことを書いているかもしれないと思い、急いで見直してみたが、幸いなことに誤りはなかった。それで、「カルピス」のことには少々興味を持っていたことから、ついでにちょっと書いてみた次第。
なお私のブログ「七夕では七夕伝説のことは余り詳しく書いていないので、そのことはWikipediaの七夕の織女星と牽牛星の伝説 を読まれるとよいだろう。
そういえば、『カルピス』は、“初恋の味”というキャッチフレーズで売り出したんだよね〜。
今のカルピスは飲んでいないのでよくわからないが、かってのカルピスの味は確かに甘酸っぱい、“初恋の味”・・というキャンペーンがよく合っていた。
織姫と彦星の話は別にして、彼氏と彼女、仲よくカルピスでも飲みながら短冊に願い事でも書いておくと23,3%の確率で願いが通うというのだから、やってみなければ損だね〜。

(冒頭の画像は夏の天の河。Wikipediaより)
参考:
※1:7月7日はカルピスの誕生日|「カルピス」七夕特集
http://www.calpis.co.jp/tanabata/
※2:カルピス | 会社名のネーミング
http://www.mothernaturesllp.com/companynaming/calpis.html
※3:NAKACO'S CRAFT'S WEBLOG: カルピス特集
http://nakaco.sblo.jp/article/46059528.html
※4:年表(日本)
http://www.genpaku.org/sambo/nenpyo.txt
※5:朝日新聞デジタル:天声人語
http://www.asahi.com/paper/column.html
「七夕 」・・・今日のことあれこれと
http://blog.goo.ne.jp/yousan02/e/898f0aae266b94c0c26840f46de4e0f2
初恋の日
http://blog.goo.ne.jp/yousan02/e/47dfa3a29e043da818a57623446b5aa2
七夕 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%83%E5%A4%95
カルピスウォーター
http://softdrinks.org/asd0204a/cw200204.htm

戦前戦後を通じて日本代表する女優・山田五十鈴の忌日:参考

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戦前戦後を通じて日本代表する女優・山田五十鈴の忌日2−1へ戻る

戦前戦後を通じて日本代表する女優・山田五十鈴の忌日2−2へ戻る

参考:
※1:今日の一枚、その39、大河内傳次郎、剣を越えて - 酒と映画と歌と、酒と
http://plaza.rakuten.co.jp/roberobe1963/diary/200708260000/comment/write/
※2:溝口健二作品紹介 (浪華悲歌、 祇園の姉妹)
http://www.fsinet.or.jp/~fight/mizoguchi/02.htm
※3:鶴八鶴次郎 - Ne
http://www.ne.jp/asahi/gensou/kan/eigahyou23/tsuruhachitsurujiro.html
※4:ニュース和歌山-わがスクリーン遍歴69「蛇姫様」
http://www.nwn.jp/screen/waga1/text1/69.html
※5:『こつまなんきん』 嵯峨三智子さんを観た!!
http://ameblo.jp/jahyon2002/entry-11180316524.html
※6:川口松太郎と岩田専太郎がはじめてコラボレーションする「蛇姫様」http://d.hatena.ne.jp/shinju-oonuki/20100804
※7:新刊紹介:『李香蘭の恋人 キネマと戦争』
http://www.taiwanembassy.org/fp.asp?xItem=46599&ctNode=3591&mp=202
※8:中国占領地域の放送とラジオ - 日本ラジオ博物館
http://www.japanradiomuseum.jp/chinanorth.html
※9: 映画「上海の月」 映画旬報より
http://uetoayarikoran.cocolog-nifty.com/blog/2010/01/post-2037.html
※10:新東亜建設の意義と目標
http://binder.gozaru.jp/radio/19390106-sintoua.htm
※11:テンピンルーの勤務した日本のラジオ局
http://uetoayarikoran.cocolog-nifty.com/blog/2009/03/post-8bda.html
※:12 :映画「上海の月」の主題歌: 1930年代上海-李香蘭をきっかけとして
http://uetoayarikoran.cocolog-nifty.com/blog/2010/01/post-73fd.html
※13:1942年(昭和17年)1−6月: 江古田のヨッシー
http://app.f.m-cocolog.jp/t/typecast/410444/399868/15791550?page=2
※14 :菊池寛 藤十郎の恋 - 青空文庫
http://www.aozora.gr.jp/cards/000083/files/47857_32607.html
※15:林芙美子 下町 - 青空文庫
http://www.aozora.gr.jp/cards/000291/files/42159_23807.html
※16:山田五十鈴 (ヤマダイスズ,Isuzu Yamada) | Movie Walker
http://movie.walkerplus.com/person/84158/
※17:大阪・新歌舞伎座 1963年12月 (明智光秀)
http://www.kabuki.ne.jp/kouendb/perform/detail.html?kp=11902&TB_iframe=true&width=610&height=480
※18:テアトロン賞」とは?
http://www.geocities.jp/chiemi_eri/chiemi_sub6-02.htm
※19:沢口靖子、初舞台で共演「器大きな方」…山田五十鈴さん通夜:スポーツ報知
http://hochi.yomiuri.co.jp/feature/entertainment/obit/news/20120711-OHT1T00281.htm
※20:山田五十鈴さん告別式に450人「女優の神様」「五十鈴先生、日本一」スポーツ報知
http://hochi.yomiuri.co.jp/entertainment/news/20120712-OHT1T00341.htm
※21:演出家北村文典プロフィール - バーディ企画
http://www.birdy.co.jp/talentcenter/workshop/bunten.html
北條秀司脚本
http://homepage3.nifty.com/genji_db/hojyo.htm
映画「上海の月」 主題曲
http://uetoayarikoran.cocolog-nifty.com/blog/2010/01/post-73fd.html
山田五十鈴 - 知誕Wiki
http://tisen.jp/pukiwiki/index.php?%BB%B3%C5%C4%B8%DE%BD%BD%CE%EB
最後の大女優 山田五十                               
http://www.geocities.jp/noa6171/recentwork/yamada/yamadaisuzu1.htm            山田五十鈴 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E7%94%B0%E4%BA%94%E5%8D%81%E9%88%B4


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戦前戦後を通じて日本代表する女優・山田五十鈴の忌日2−2

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戦後、1946(昭和21)年に活動を再開、同年9月9日 - 10月2日、東京・有楽座で、菊池寛作、衣笠貞之助演出の『藤十郎の恋』(※14)を公演する。
しかし、戦後の混乱と社会主義運動の高揚によって、東宝に東宝従業員組合(従組)が結成されたのは1946(昭和21)年2月のことである(東宝争議参照)。
同年3月から4月に第1次争議、同年12月に第2争議。組合は、この2つの争議で組合結成の承認、経済要求、映画の企画と経営に参加する権利を得た。
そんな中、大河内伝次郎(当時48歳)、長谷川和夫(38歳)、山田五十鈴(29歳)、原節子(24歳)らが、11月、スト反対声明を出し、組合を脱退、約450人が新東宝をつくる(東宝の経営は悪化し、1948年、4月8日1200人を解雇。第3次争議へと発展した。)
この間、新東宝の設立第1作で市川崑監督(当作品で中村福の名で構成、監督デビュー作となる)の映画「東宝千一夜」(1947年2月公開)に長谷川、山田は主演の藤田進らと共にそろって出演。長谷川とのコンビではこnの後も多くの映画に出演している。
また、松崎啓次製作、衣笠貞之助にとって3作目の映画作品、現代劇で、しかも新劇の誕生のころに存在した生々しい恋の物語「女優」(東宝)で松井須磨子役を演じ、映画女優として飛躍を遂げる。この映画では、新劇の演出家土方与志が映画俳優(島村抱月役)として はじめてカメラの前に立ち山田と共演している。
当時、山田は、妻子ある衣笠と同棲中であったが別れ、その後、1950(昭和25)年民芸の俳優、加藤嘉と結婚(3年後に離婚)。この頃から、映画出演の合間に舞台に立つようになる。
1952(昭和27)年、加藤と現代俳優協会を設立、独立プロ作品にも多数出演している。東宝争議以降の山田はこのころ、左翼的な思想に染まっていたようだ。
同年に中央官僚組織を舞台に戦後日本社会の暗部を描いた渋谷実監督の「現代人」、タカクラ・テルの歴史小説『ハコネ用水』(箱根用水=深良(ふから)用水ともいう)を原作に、戦前から映画製作会社と提携して時代劇映画を製作してきた劇団前進座の戦後第1作目の時代劇作品「箱根風雲録」(独立プロの松本酉三と宮川雅青が製作、監督には山本薩夫、楠田清、小坂哲人共同であたり、弱小資本の独立プロ作品を専門に扱う配給会社「北星映画配給」が配給)の演技が評価され、ブルーリボン賞主演女優賞、毎日映画コンクール女優主演賞を受賞。
1955(昭和30)年には樋口一葉の同名の短編小説を五所平之助監督が映画化した「たけくらべ」でブルーリボン賞助演女優賞を受賞。
翌1956(昭和31)年には第二回世界短篇コンクールで一等を獲得した久生十蘭の同名小説を映画化した文芸品で、戦争という運命に流されながらも滅びぬ母と子の美しい愛を描くヒューマンな物語「母子像」(佐伯清監督)などで2度目となるブルーリボン賞主演女優賞、毎日映画コンクール女優主演賞、自身の体験を踏まえ、華やかな花柳界と零落する置屋の内実を描ききった幸田文の同名小説を成瀬巳喜男監督によって映画化された「流れる」、谷崎潤一郎の兵庫芦屋附近の商家を舞台に猫好きの男庄造と愛猫リリーをめぐる二人の女(品子=山田と福子=香川京子)たちの葛藤を描いた同名長編小説をもとにした豊田四郎監督「猫と庄造と二人のをんな」、等でキネマ旬報女優賞を受賞している。

1957(昭和32)年には、自ら熱望して黒澤明監督がシェイクスピアの戯曲『マクベス』を日本の戦国時代に置き換えた作品「蜘蛛巣城」に出演、マクベス夫人にあたる浅茅役を鬼気迫る姿で演じた。
同じく黒澤明監督がマクシム・ゴーリキー同名戯曲を日本の江戸時代に置き換えた時代劇映画「どん底」では、長屋の大家(中村鴈次郎)の女房役で、物凄い悪女ぶりでまるで人間というよりも獣の如く、鬼のような表情で常に狂ってる女を演じている。
そして、林芙美子の同名小説(※15参照)を、笠原良三と吉田精弥が共同で脚色し、千葉泰樹が監督して、戦後の混乱した世相を背景に下層階級の男女(山田五十鈴と三船敏郎)のささやかな愛情を描いた作品「下町(ダウンタウン)」で2度目のキネマ旬報女優賞を受賞。これらの活躍から、名実ともに映画界を代表する大女優となった(山田五十鈴出演映画の詳細は、※16参照)。
このほか、同年には、小津安二郎監督による「東京暮色」(松竹配給)に出演し、娘を捨て、愛人に走った母親を好演している。この作品は、小津にとっては最後の白黒作品であり、戦後期の名女優、山田五十鈴が出演した唯一の小津作品でもある。

1959(昭和34)年には新劇合同公演「関漢卿」へ出演、滝沢修と共演したのをはじめ、同年6月歌舞伎座での中村歌右衛門(六代目)主宰の莟会による「落葉の宮」(※17 )で、雲居の雁役で、中村歌右衛門(落葉の宮)と共演。
また、1960年10月、同じく歌舞伎座での菊五郎劇団による「シラノ・ド・ベルジュラック」で尾上松緑(二代目)と共演するなど話題作に出演したことを機に、サイレント時代から日本映画の黄金期まで最前線を走り続けた彼女は、1963(昭和38)年東宝演劇部との専属契約を結び、これ以降、活動の中心を映画から舞台に移し、以降は東宝演劇部の中心女優として精力的に活躍。
同年、1月芸術座「香華」(原作:有吉佐和子)他「丼池」(原作:菊田一夫)、「明智光秀」(※17)における年間の舞台成果、でテアトロン賞(別名:東京演劇記者会)を受賞(※18)し、水谷八重子(初代)杉村春子と並んで“三大女優”と呼ばれるようになる。

1974(昭和49)年の藝術座での初演「たぬき」(榎本滋民作)では、明治から昭和初期にかけて活躍した女芸人で浮世節の名手・立花家橘之助を三味線や落語などを織り交ぜて演じ、芸術祭大賞や毎日芸術賞を受けた。
以下では、立花家橘之助の役を演じ、「たぬき」の三味線の音に首動かしている様子が窺える。この時、まだ57歳。まだまだ艶っぽくてきれいだね〜。

噺の話 山田五十鈴の代表的な舞台、『たぬき』について。

また、有吉佐和子の同名小説をもとに有吉自らが、脚色・演出した「花岡青洲の妻」が1967(昭和42)年に芸術座で舞台化され、舞台でも大評判を呼んだ。

●上掲の画像は、舞台稽古の合間に出演者たちに囲まれた有吉佐和子と右、たばこを悠然とくゆらせているのが花岡青洲の母・於継役の山田五十鈴(画像は朝日クロニクル週刊20世紀1972年号より借用)。
この作品により、医学関係者の中で知られるだけであった華岡青洲の名前が一般に認知されることとなった。そして、その後何度もテレビドラマ化、舞台化画された。この時、華岡青洲役は田村高廣が、妻・加恵役は司葉子が演じている。

1977(昭和52)年に「愛染め高尾」で、芸術祭大賞を受賞。1983年には「太夫(こったい)さん」(北條 秀司作)で、三度目の芸術祭大賞を受賞。1984年、芸術選奨にも選ばれている。
1987(昭和62)年には、ファンのアンケートで「タヌキ」に、「香華」、「淀殿日記」、「女坂」「しぐれ茶屋おりく」などを加えた代表作が五十鈴十種とされている。


●上掲の画像はマイコレクションのチラシより。日本美女絵巻「愛染め高尾」。年代は違うが、1991年11月京都・南座公演のもの。
吉原随一の高尾太夫を演じ、権力や金力に反抗する堂々たる貫禄、いちずな紺屋職人にこころ打たれる恋の若々しい純情ぶりを、見事に造型化した。病気などの不幸を乗り越え、長い芸歴に裏打ちされた、円熟の芸境を示している。
病気などの不幸とは、大阪・近鉄劇場での1991(平成3)年5月公演の「流れる」で4月25日舞台で倒れ病院に運ばれその後休演していた。その時の舞台のチラシが、マイコレクションにある。
●それが以下だ。

大阪・近鉄劇場での1991(平成3)年5月公演の「流れる」。
1956(昭和31)年に幸田文の同名小説を成瀬巳喜男監督によって映画化し評判をとったものを平岩弓枝が脚本を書き成井一郎が演出したもの。映画のキャストが凄かったが、この舞台も下町の芸者屋「蔦の屋」を舞台に蔦の屋の女主人つた吉(山田)、彼女と共に蔦の屋を盛り立ててきた染香姐さん(杉村春子)、家政婦の(音羽信子)の豪華キャストで火花を散らした。しかし、主演の山田が4月25日、舞台で倒れ病院に運ばれた。5月4日に始まって29日が千秋楽だったのだが午後4時からの2回目の公演が終わりかけたときに舞台上で突然気分が悪くなりセリフが言えなくなるというアクシデントが起こったのだ。翌日は休演となったがその後はどうなったかしTらない。この時山田74歳。無理をしていたのだろう。
●また、以下は、同じく大阪・近鉄劇場での1989(平成元)年10月公演の「女坂」(円地文子原作、菊田一夫脚本)によるものである。五十鈴十種の一、夫のために妾を探す哀しいまでに気丈な愛を描いた円地文子の傑作である。

そして、この下が、新版「香華」1996(平成8)年5月大阪・劇場飛天(現:梅田芸術劇場)での公演のもの。

この下にあるのが、「しぐれ茶屋おりく」1993(平成5)年3月大阪・新歌舞伎座公演のものである。


一方では1963(昭和38)年東宝演劇部との専属契約を結んで以降、NHK大河ドラマ「赤穂浪士」(1964年)や、朝日放送「必殺からくり人」(1976年)といったテレビ時代劇にも出演した。
特に必殺シリーズには以後1985(昭和60)年の必殺仕事人Vまで約10年間断続的に出演、代表作となった。

必殺からくり人「許せぬ悪にとどめさす」 - YouTube

因みに、2013(平成25)年・今年の7月から、J:COMケーブルテレビの502時代劇専門チャンネルで必殺アワーとして、「必殺からくり人」も放映されている。時代劇ファンの私などは毎日欠かさずに見ている。

1980(昭和55)年ころ京都の自宅を引き払い、安全が保障されている上にお手伝いさんもいらないという理由で、東京・帝国ホテルの一室で生活を送っていたようだ。そして、80歳を越えても舞台を中心に盛んに活躍していた。

1993(平成5)年に文化功労者表彰、さらに2000(平成12)年に女優としては初めての文化勲章を受章した。
2001(平成13)年夏に84歳で主演した芸術座「夏しぐれ」(原案・演出:石井ふく子)まで、年齢を感じさせない姿で観客を魅了した。
最後の舞台は、朗読劇「桜の園」の上演で、ラネーフスカヤ夫人の扮装をしている山田五十鈴さん。役の気質を考え、髪が少し崩れたかつらを希望したという(冒頭の画像は、2001年11月撮影・2012年9月8日付朝日新聞より借用のもの)。
翌2002(平成14)年4月に体調不良で入院し、同年秋に出演を予定していた舞台を降板して療養に専念していたが、以降は表舞台に復帰することはなく、2012年7月9日、多臓器不全により95歳で死去した、死後従三位に任じられている(官報第5864号。平成24年8月15日)。
同年7月11日東京・青山葬儀所で通夜が行われた。祭壇には文化勲章が飾られ、天皇陛下からは、皇室からの供物料にあたる祭粢(さいし)料が贈られた。佐久間良子や沢口靖子ら600人が参列したという。
1990(平成2)年4月、初めて舞台に立った「女ぶり」(平岩弓枝原作・脚本・演出)で、いきなり大女優の山田さんと共演した沢口靖子は、当時を振り返り、
「大勢でお食事をするのが好きな方でした。その場では、私のような全くの新人にも声をかけてくださり、器の大きな方でしたね」としみじみ語ったという(※19)。
また、弔辞で俳優の西郷輝彦は帝国劇場で共演した舞台「徳川の夫人たち」(1997年)を振り返り、涙を誘ったという。
“山田さん演じる春日局の臨終場面で、徳川家光役だった西郷。「私は山田先生を抱き上げ「そなたは乳母ではない、そなたは母じゃ、わしの母じゃ」と号泣してどんちょうは下りました。その後、先生はおっしゃいました。「私の(亡くなった)ときも、そんなふうに優しくしてくださいね」と。いま、先生の美しい立ち姿を思い浮かべています”・・・と。

●丁度私のコレクションのチラシの中に、この舞台のものがある。上掲の画象が、中日劇場にて1992(平成4)年4月公演の「女ぶり」(原作・脚本・演出:平岩弓枝)のチラシである。
女ぶりとは「女としての容姿。女の器量」を言うが、若い時の沢口靖子はめちゃかわいかったよね。それに、山田の女ぶりどうですか。この時、もう73歳ですよ。まだまだ美しさと妖艶さが失われていない。最上段の女性は淡島千景

●上掲の画像が、1997(平成9)年9月帝国劇場で公演の「徳川の夫人たち」である。春日局役の山田の左隣は藤尾役の池内順子である。「女ぶり」の淡島は山田と同じ年・2012(平成24)年の2月に、池内はその2年前2010(平成22)年9月に亡くなってしまった。もう、本当の芝居ができる役者はいなくなってしまったね〜。

私の記憶に残っている山田五十鈴の出演作品のチラシをもう少しここへおいてゆこう。

●上掲ものは、東京宝塚劇場での1996(平成 8)年10月公演の「花岡青洲の妻」(有吉佐和子作)である。
外科医花岡青洲(五代目坂東八十助)の偉業を陰で支えた女二人(青洲の母於継:山田と青洲の嫁加恵:小手川裕子)の対立を描いた有吉佐和子の最高傑作である。
また、池波正太郎原作の『鬼平犯科帳』でも中村吉衛門主役によるシリーズもので鬼平(長谷川 宣以)の相手役として良い味で出演しているものがある。
●「むかしの女」では、平蔵の昔の女、おろくを好演している。おろくは、平蔵が「本所の銕」の異名で放蕩放埓の限りを尽くしていた頃の相手で、七つ年上の玄人女である。平蔵が今は落ちぶれた昔の女おろくと再会する代表作。以下は、京都南座での1994(平成6)年6月公演「むかしの女」のチラシである。

●「血統」では、女盗賊鯉肝のお里を演じている。お里は艶っぽい大年増の女賊。鯉の肝は苦味が強く煮ても焼いても食えない代物。昼間から若い男を茶屋に連れ込み、夜は丁半に血道をあげる、飲む打つ買うが大好きな性悪女。なのに、腹をすかして行き倒れていた若い男に飯をおごってやる。下心からではなく、死んだ弟を思い出して、つい情けをかけたのだ。これがアダになり、火盗改めに目を付けられてしまう。そんな女を演じている。以下は、京都南座の1995(平成7)年6月公演の「血統」のチラシである。

●「炎の色」、この作品には盗賊の首領荒神のお夏として出演。先代の身内もすでに外道におちており先代と同じく三か条をまもり昔気質を通そうと考えるお夏は身内を再び集結させるために担がれているだけなのだと鬼平の密偵おまさは知る。貫録十分の山田。以下は、新橋演舞場での 1994(平成 6 )年 2月公演「炎の色」のチラシ。

山田五十鈴は特に時代劇には欠かせない人であった。今流の現代女性の美人とは系統は異なるが、昭和以前のどの時代にとっても似合う「日本的な」美しさを持つている代表的な人だったと思う。
恋多き女性としても知られ、月田一郎、加藤嘉、下元勉ら、四度の結婚・離婚歴があり、花柳章太郎、衣笠貞之助とも不倫関係にあったという。
山田五十鈴に魅了された数知れぬ男たちは、私らが、「鶴八鶴次郎」の山田五十鈴に惚れ込むように、「流れる」の山田五十鈴の立ち居振る舞いに魅了されるように、実生活の山田五十鈴に魅了されていったのだろう。
役者にとって、恋は「芸の肥やし」ともいうそうだが、「通り過ぎる男たちを芸の肥やしに」の常套句を当然のものとして、それも真剣に、恋も出会いもすべて吸収して芸の肥やしにしてきた女優だったと言えるかもしれない。
昨・2012(平成24)年9月8日付朝日新聞には以下のように書かれていた。
“三味線7丁、小鼓と(こと)二つずつ、胡弓が1丁、清本の見台(けんだい)、姿見、楽屋で使う鏡台、着物をしまった和箪笥3棹・・・、東京都内の貸倉庫に残されたのは、芸に結びつく物ばかりだったという。
家や家財を処分して、帝国ホテルに住み、病院に移った後も、「いつでも使えるように」と手放さなかった品々だ。
13歳でデビュー以来、大スターであり続けた。「だから他人と競う気持ちがない。でも自分には厳しかった」と演出家北村文典さんは振り返る。
晩年の病室でテレビから流れる古い出演映画に見入り、「これはまずい。よくOKが出た」とつぶやくのを聞いたという。
大名の奥方、裏長屋のおかみさん、芸人、吉原の太夫、労働者どんな役にも取り組んだ。台本の命ずるままに、が信条で、役に会うと思えば大道具係の汚れたズック靴をもらい受けて履いた。
「自分を飾ることに興味がなく、芝居に何が大事かだけを、まっすぐに考えていた」と北村さんは言う。
生活も同じ姿勢だった。かってインタビューに「ホテル住まいは劇場に近く、交通渋滞の心配がないから、廊下で安全にウオーキングができるし、自宅を構えるより、むしろ経済的」と語っていた。
時には、部屋で食事作りも。「私、ごはんを炊くのがうまいのよ。あらとんだ正岡ね」と「飯炊き」をする歌舞伎の登場人物の名(伊達騒動を題材とした人形浄瑠璃および歌舞伎の演目『伽羅先代萩』の「竹の間の場」に有名な乳母の正岡の“飯炊き(ままたき)”の場面が出てくる。)を挙げ、ころころ笑った。
「じゃぶじゃぶ洗えて、便利」と稽古や旅行には化学繊維の着物も愛用した。
一人娘の佐賀美智子さんがタイで死去した時、駆けつけなかったのも、目の前の観客が第一と判断したから。普段の二人を知る北村さんには決して冷たい母には見えなかった。”・・・と。
気さくで、大女優ぶらない人だったらしい。文化功労章といい、文化勲章といい、「過去の自分には興味がない」と辞退しようとして周囲を困らせたという。
すべての関心は、今の舞台とお客様。自分のあたり役「五十鈴十種」を選んだ時も観客の投票を参考にして選んだという。
そんな芸一筋が両親と娘の死を看取ることをできなくしたようだ。今ではそんな芸人いるのだろうか。
コレクションのチラシの整理をしていると、舞台で共演した俳優の多くがもういなくなっている。これでは、もうまともな時代劇は作れないな〜。そう思うと、時代劇ファンの私は実に寂しくなってきた。

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戦前戦後を通じて日本代表する女優・山田五十鈴の忌日:参考へ

戦前戦後を通じて日本代表する女優・山田五十鈴の忌日2−1

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粋で、奔放、妖艶・・・映画や舞台でさまざまな女を演じ、女優として初めて文化勲章を受けた(ただし、受章辞退者を含めれば杉村春子が初)山田五十鈴が多臓器不全のため東京都内の病院で死去(95歳)したのが1年前の今日・2012年7月9日であった。
山田五十鈴(やまだ・いすず、本名美津=みつ)は、大阪府大阪市中央区(旧大阪市南区千年町)出身。戦前戦後を通して活躍した日本を代表する女優である。
1917(大正6)年2月5日、大阪市南区で新派劇俳優の山田九州男(くすお)の娘として誕生。幼少時から常磐津清元舞踊などを習っていた。
品のあるうりざねの美貌を見込まれ、1930年(昭和5年)、13歳の時に日活に入社し、山田五十鈴の芸名で「剣を越えて」(※1)で大河内傳次郎の相手役としてデビューし、アイドル的人気を得た。

●上掲の画象:日活の人気女優達が夏の日の照りつける海岸で水着姿を披露。後年の大女優もまだピチピチのギャルだった。向かって左から夏川静江、佐久間妙子、山田五十鈴、滝花久子。1932年。(『朝日クロニクル週刊20世紀』1931-1932年号より)。
以降伊藤大輔監督の[素浪人忠弥]「興亡新撰組」、伊丹万作監督の諧謔(かいぎゃく)と風刺の精神をもつ明朗な「ナンセンス時代劇」で、その先駆的映画表現が評価され1932(昭和7)年度キネマ旬報ベストテン6位を獲得した「國士無双」(1932年1月公開)など多くの日活時代劇作品に出演し人気を高める。

●上掲の画象は映画「国士無双」の片岡千恵蔵、と山田五十鈴。Wikipediaより。
1934(昭和9)年、永田雅一が日活から独立して作った第一映画社へ移籍。1935年頃、二枚目俳優の月田一郎と親しくなり結婚。1936年3月に後に女優となる娘・瑳峨三智子を出産している。
1936(昭和11)年に溝口健二監督の「浪華悲歌」(1936年0月公開)、「祇園の姉妹」(1936年10月公開)への出演(主演)により、演技を開眼、第一線女優としての地位を確立する。

●上掲の画象は(1936年第一映画「祇園の姉妹」から。山田五十鈴(向かって右)と梅村 蓉子。 『朝日クロニクル週刊20世紀』 1936年号より。
この1936年1公開された溝口健二監督の「祇園の姉妹」は京都の色町に生きる人情肌の姉(梅吉=梅村蓉子)と打算的な妹(芸妓おもちゃ=山田五十鈴)の姉妹芸者を主人公に徹底したリアリズム描写によって現代風俗を痛烈に風刺して好評を得、キネマ旬報ベストワンに輝いた。
それまで浪漫の色濃い明治物を発表してきた溝口監督は、この年の5月に公開された『浪華悲歌(エレジー)』で現代女性の転落を突き放した批判的リアリズムで描いて新しい境地を切り開いた。
その作品もベストテン3位に入り、溝口監督は自他ともに認める巨匠としての地位を築いた。この2つの作品ともに脚本は依田義賢、主演は山田五十鈴、製作は永田雅一だった。
私はこの作品を見ていないが、溝口監督はもともと山田五十鈴の起用を前提として原作を書いたとされ、山田も監督の厳しい演出に耐え「自立する女性」村井アヤ子を見事に演じきり、これまでの邦画に無かった女性像を演じた山田五十鈴には、高貴なまでの美しさがあったという(この2作品の内容とについては※2を参照。
永田が2年前に興した第一映画社は、この年(1936年)に解散。短命だった第一映画社が唯一残したのが日本映画史上に輝くこの2つの傑作だった。                    
この後新興キネマへ入社し、1938(昭和13)年に東宝へ移籍してからは、川口松太郎の出世作『鶴八鶴次郎』(『オール読物』1934年10月号に発表した短編。翌年発表の小説『風流深川唄』などとあわせて第1回直木賞を受賞している)を、成瀬巳喜男が映画化した同名映画の「鶴八鶴次郎」(1938年公開)で長谷川一夫とコンビを組み好演。
この映画は新内芸人の悲恋物語である。
鶴八(山田)の亡き母親が新内の師匠だった関係から、鶴次郎(長谷川)は鶴八とは幼馴染だったが、芸の上では衝突を繰り返してきた。
結婚すると思われた二人が、小さな行き違いから、鶴八は人の良いパトロンに嫁いだ。芸を忘れられぬ彼女は鶴次郎との舞台に復帰し大ヒットする。しかし鶴次郎がコンビの継続を断る。それは鶴次郎の愛情表現であった。成瀬巳喜男の抑制の利いた演出、二人の好演、脇を固めた助演者、藤原鎌足(鶴次郎の番頭、佐平)など。それがこの人情劇を「崇高な愛情劇」に変えた(※3参照)。以下その1シーン、鶴次郎(長谷川)と鶴八(山田)。


この当時映画では、時代劇が非常に人気があったのだが、東宝の俳優人には、時代劇こそ、その本領を発揮できるという長谷川一夫や大河内傳次郎が控えているにもかかわらず、時代劇としては熊谷久虎監督の「阿部一族」(1938年)が唯一高い評価を得たくらいで、本格的な時代劇がうまく作れておらず、「鶴八鶴次郎」や渡辺はま子の歌支那の夜 (曲)(作詞:西條八十)のヒットを受けて作られた、日本・満州国合作の国策映画で長谷川一夫・李香蘭の主演による「大陸三部作」(白蘭の歌」(1939年)、支那の夜」(1940年)、「熱砂の誓ひ」(1940年)などであった。

そんな時、松竹から時代劇の名匠・衣笠貞之助が東宝入りしてきた。その第1回作品として企画されたのが、川口松太郎が1939(昭和14)年10月から毎日新聞に連載し、私の大好きな岩田専太郎の流麗な挿絵(※6参照)と共に大好評を博した波瀾と怪奇に富んだ時代絵巻『蛇姫様』の同名映画化(※4参照)であった。
この作品には長谷川一夫、山田五十鈴、入江たか子、大河内伝次郎など、かつての日活、松竹の時代劇大スターが総出演している。
悪家老の息子を斬って旅一座に逃げ込んだ千太郎(長谷川一夫)が、三味線弾きのお島(山田五十鈴)と恋に落ちる。前後編ものの超大作で、興行面でも記録的なヒットをしたそうだ。
この映画も私自身は見ていないが、今の人が見た場合映画の内容としては余り評判は良くないようだが、ただ、花の盛りの山田五十鈴の美しさを称賛する声は多い。以下参考※4に掲載されているスチール写真をみても確かに美しいことがわかる。
この写真を見ていると、山田が第一映画に移籍したばかりの18歳の時に月田との間に生んだ娘の女優瑳峨三智子 (1992年に死亡)を思い出す。彼女自身の出演した映画(1960年酒井辰雄監督)の題名から「こつまなんきん」とも愛称された彼女も、母親に負けない妖艶なそして、絶世の美女であった(※5参照)。
「蛇姫様」の映画はその後、大映や東映で、市川雷蔵(1959年大映「蛇姫様」)、東千代之助(1954年東映「蛇姫様」第1部〜第3部)、美空ひばり(1965年東映「新蛇姫様 お島千太郎」などの主演で再映画化されているので、内容そのものはご記憶の方も多いだろう。
市川雷蔵主演(千太郎)による映画化(1959年「蛇姫様」)では、入江たか子(第1部では原節子が演じていたらしいが・・?)が演じていた琴姫を瑳峨三智子が演じていたのを思い出す。

その後山田五十鈴は、松崎啓次台湾人映画監督・劉吶鴎(りゅう・とつおう.、※7参照)らを中心として設立した日中合作の中華電影公司と、東宝が共同で制作した映画「上海の月」(1940年製作翌年公開)に、出演している。
この映画は、松崎の刊行した『上海人文記』を原作に成瀬巳喜男が監督し、1937年12月に上海に出来た日本のラジオ局、大上海放送局(※9参照)を舞台にした映画らしい。以下参考の※9:「映画「上海の月」 映画旬報より」には、この映画について、以下のように書いている。
“反軍閥、反共産党をコンセプトとした映画で、南京市の営業収入記録を立てた人気映画だったようだ。監督の成瀬によれば、「内容が宣伝の関係上、会合、演説、スローガンが多すぎる。演出、技術、演技に特に見るべきところは無い・・・」という感想だ。”・・と。
また、“山田五十鈴の「上海から帰って」というタイトルのついたキャプション(写真や挿絵に添えた説明文)を読むと、1941年2月14日から4月30日まで上海に滞在。2月18日には南京の主席に挨拶に行ったとある。また、自分の役を、「袁露糸という中国人のアナウンサーで、始め抗日派の間諜(スパイのこと)となり、後に新東亜建設(※10参照)の重大使命を自覚してついに昔の仲間の手に倒される役」と書いている。
ここに出てくる袁露糸(エン・ロシ)はテンピンルー(鄭蘋如)というラジオ局のアナウンサーとして活動した人がモデルらしい(※11参照)。
東アジアにおける電波戦争の中、日本人居留民向けのラジオ局ではあったが、上海語や英語、ロシア語のニュース放送もあり、日本政府の宣撫工作の目的も持っていたようだ。
いずれにしても、この時代には山田五十鈴など映画俳優もお国のために、このような国策映画への出演協力をしなければいけない状況にあったというわけだ。
ただ、この映画「上海の月」には西条八十作詞、服部良一作曲、という「蘇州夜曲」コンビで作った主題歌があり、その一つ「牡丹の曲」を
主演女優である山田五十鈴が歌っている。

あかい牡丹の  はなびら染めた  踊り衣裳が  なみだに濡れる
ないちゃいけない  しな人形  春は優しく  またかえる

ISUZU YAMADA 山田五十鈴 sings MUDAN SONG 牡丹の曲

晩年の嗄れ声の山田しか記憶にない人は驚くくらいきれいな声で歌っている。もう一曲も「明日の運命(あすのさだめ)」と言って、やはり、同コンビによるもので、歌は霧島登渡辺はま子のデュエットである(※12参照)。

1942年、長谷川一夫と共演した泉鏡花の同名小説を映画化した「婦系図」(監督:マキノ正博)が大ヒット、男と女のドラマを情感こめて描かせたらの右の出るものはないと言われるマキノの作品。
この「婦系図」は、スリ上がりのドイツ語学者、早瀬主税(長谷川一夫)と芸者、お蔦(山田五十鈴)との悲恋の物語で新派の代表的な当り狂言である、流行歌にもなり、戦後にも3度映画化されている。
ただ、戦争中のことなので主税がドイツ語学者でなく、火薬研究の学者に、恋仇の坂田(進藤英太郎)がその秘密を外国に売ろうとするスパイになってアクション映画としての要素もある変な「婦系図」だが、それでも二人の愛のドラマの魅力をそこなっていないのが名匠の冴えである。山田が実に美しい。

太平洋戦争へと突入後、社会は戦時一色に変貌。映画も国策映画に限られるようになり、コケティッシュな魅力が身上の山田の出番は少なくなり。山田は、1942(昭和17)年から長谷川と実演の演劇を行うために新演伎座を結成。同年3月1日 - 3月25日、東京宝塚劇場で、旗揚げ(第一回)公演を打った。
演目は、菊田一夫作・演出の『ハワイの晩鐘』、六世藤間勘十郎作・演出の『鷺娘』、川口松太郎作、金子洋文演出の『お嶋千太郎』であった(※13参照)。しかし、戦局が深まった1944(昭和19)年、最終公演を行い、戦後解散する。

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虹の日

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日本記念日協会に登録されている今日・7月16日の記念日に「虹の日」がある。
由緒を見ると、“7と16で「ナナイロ=七色」と読む語呂合わせと、梅雨明けのこの時期には空に大きな虹が出ることが多いことから、この日を人と人、人と自然などが、七色の虹のように結びつく日にしようとデザイナーの山内康弘氏が制定。先輩世代が後輩世代をサポートする日にとの意味合いもあり、音楽を中心としたイベントなども展開する。”・・とある。
虹の日公式サイト(※1参照)を覗いてはみたのだが、何か音楽中心のイベントをしているようだが、私には一体何をしようとしているのかはよくわからなかった。カッコ良さが売り物のデザイナーとダサいわたしなどとの考え方や表現方法の違いからなのだろうが・・・。
私としては今日の記念日の趣旨はともかくとして、「虹の日」をテーマーにこのブログを書くことにする。

とは、赤から紫までのスペクトルが並んだ、円弧状の光であり、気象現象の中でも、大気光学現象に含まれる。
虹は太陽光が空気中の水滴がプリズムの役割をして、屈折(折れ曲がる)・反射(はね返る)して起きる現象であり、太陽光が反射して起こる現象であるから、虹は必ず太陽を背にした方向に現れる。
虹は鮮やかに見える場合とぼんやりしか見えない場合がある。それは、空気中の水滴の大きさに関係しており、水滴が大きいほど、色がくっきりみえる。
普通の虹は、光が分解されて、複数色の帯に見え、外側が赤、内側が紫と決まっている。虹の外から内側にかけて、赤、橙、黄、緑、青、紫となる。
日本では、虹の色の数は一般的に七色(赤、橙、黄、緑、青、藍、紫)と言われており、学校で、この色の順を覚えるのに、「あ〜かに だいだい きいろにみどり あ〜おに あ〜いに む〜らさき」なんて歌いながら覚えたのを思い出すが、現代の西洋人に虹を構成する色の数を問うと、たいてい六色以下で答えるそうで、アメリカやイギリスでは一般的に、赤、橙、黄、緑、青、紫の六色、ドイツでは赤、黄、緑、青、紫の五色と認識されているという。
また、日本でも『吾妻鏡』には健保6年6月11日「西方見二五色虹一、上一重黄、次五尺餘隔赤色、次青、次紅梅也、其中間又赤色」とあり、中世では虹は五色と見る観念があったようだ(※3の吾妻鏡のところを参照)が、日本で、虹を七色と認識するようになったのは、ニュートン(Isaac Newton 1643-1727)による太陽光線の分光実験に由来した学校教育によるものだそうである(※2参照)。

「にじ」(虹)の語源には諸説あるようだが、『万葉集』(巻14東歌相聞、3414。※3の万葉集のところ参照)には、伊香保の高い堰(せき)の上にくっきりと立つ虹は「努自」=「ノジ」と読み(「ヌジ」と読む説もあるようだが・・)、平安時代初期の『日本霊異記』(日本最古の仏教説話集)では「ニジ」とあり(※4参照)、極楽に行った大部屋栖野古が「五色の雲が虹のように北に伸びており」と極楽に延びる五色の雲が虹に喩えられている(※5)。
この「ノジ」「ニジ」の言葉には、蛇類を表す古語ナギ(ナジ)に通じるという説あもるようだ(天叢雲剣の「蛇の剣」のところを参照)。

漢字の「」は、「」+音符「」の会意形声文字である。「虫=毒蛇の象形文字)」は空に上ったを意味し(双頭の蛇の伝説による象形文字甲骨文字には見られるそうだ。下図参照)。

●上掲の文字は、双頭の蛇を象った甲骨文字である。
つまり、(みずち、雨を降らせる水 神とされている蛇、または龍)が空を貫いている(「工」はあるものに穴を開け貫くを意味する会意文字。)で、古代の中国 人が虹を「天を貫く蛇(または龍)」に見立てたことに由来しているそうだ。
字の意義としては、1:はっきりと見えるにじの他、2::橋、3:乱す。4:潰れるなどがある。

この「にじ」と云ふ読みで漢和大辞典を引くと【虹】【霓】【蜺】【蝃】【蝀】の漢字が挙がっている。【虹】とは雄、【霓】【蜺】とは雌の「にじ」であるという。
「にじ」に雄も雌もあるのかと思はれるかもしれないが、これは古代中國人が「にじ」を龍と捉えた事に拠るという。
「虹」を意味する漢語表現に、「虹霓」(コウゲイ)がある。「虹霓」のように雄雌を表す漢字を組合わせた言葉は他にも「麒麟(キリン)」 「鳳凰(ホウオウ)」など中国ではよく見られる表現だ。虹が雄で、霓が雌。雨によって天地が結ばれ、竜が水を飲みにくるときに虹ができるのだそうだ。
虹の多色性の例外として「白虹」と呼ばれる現象があり、これは、現在の気象学では「暈(かさ)」等と見られる現象であるが、中国では古代、このような白虹が太陽を貫くことは、戦乱が起こるなどの凶兆ともされた(白虹貫日参照)。
日本にも古代より白虹思想は流入しており、中世の『吾妻鏡』では度々白虹の発生が記録されている(※3:「故事類苑」参照)。
一方で、普通の虹については、以下参考の※6:南方熊楠の「十二支考 田原藤太竜宮入りの話」に、以下のようにある。
“史書に、〈太昊(たいこう.=伏羲)景竜の瑞あり、故に竜を以て官に紀す〉、また〈女カ(じょか)黒竜を殺し以て冀州、また〈黄帝は土徳(陰陽家の一つ)にして黄竜見(あらわ)る〉、また〈は木徳(土徳と同じ陰陽家の徳の一つ)にして、青竜郊に生ず〉など、吉凶とも竜の動静を国務上の大事件として特筆しており、天子の面を竜顔に比し、非凡の人を臥竜と称えたり。
漢高祖(劉邦)や文帝北魏宣武など、母が竜に感じて帝王を生んだ話も少なからず。”・・と。
この様に、、竜(虹)に感じて聖王(徳があり立派な政治を行う王・君主)を孕(はら)むといった吉兆(よいことが起こる前ぶれ。瑞祥。吉相)を示すこともあり、吉凶両方の言い伝えが残っている。

虹を英語では「レインボー(Rainbow)」と言う。“Rainbow”は、雨(rain)+弓(bow)。雨によってできる弓、つまり、「雨の弓」を意味しているが、虹の多くは雨がやんだ後に天空に現れるものを指す。しかし、雨上がりに限らず滝や噴水で見られる虹もあり、英語では、そんな虹は“sunbow”と言う。
また、フランス語では “arc-en-ciel”(アルカンシエル)といい、「空に掛かるアーチ」を意味するそうだ。語源を辿れば、みな同じようなことを意味している。

いずれにしても、空高く、あたかも天空にかかった美しいのように見える虹は、多くの子供たちにとってロマンティックな夢を誘う代表的なものだろう。
子供の頃、虹の立つところに黄金などの財宝が埋まっているという話を聞かされ、こころをときめかした経験を持つ人も少なくないのではないか。
アイルランドの民間伝承に出てくるレプラコーン(leprechaun)という小さな小さな妖精は、虹の麓(虹と地面が接している場所)に黄金を隠しているのだと言われている。
このレプラコーンは、靴職人とされ、グリム童話『小人の靴屋』(※7 )に登場する妖精とはこのレプラコーンのことと言われる。
レプラコーンは妖精の中でもとびきりの働き者で、長年かかって貯め込んだ財宝は厖大な量になると言われており、うまく捕まえることができると黄金のありかを教えてくれるが、彼らは隠れ上手なので大抵の場合、黄金を手に入れることはできないという。
そのようなことから決して見つからないレプラコーンの黄金入りの壷。「実現不可能な叶わぬ夢」のことをこの壷に喩えて、英語では、「a pot of gold at the end of the rainbow」と言うらしい(※8)。
ドイツの伝承によると、虹の根元には金のカップがあるとされているそうだ。
虹は水を飲みに天から現れるのだが、虹が水を飲んでいる間に虹の根元に辿り着ければ、そのカップを手に入れることができる。そして、一生、持ち主に幸運をもたらし、手放すとたちまち不幸に見舞われるというカップ。
中国の『異苑』では虹が釜の中の酒を飲みに来て、あとに金塊を吐いていくという(※9:「雑学考」の虹のカップの話参照)。
この虹の立つところに黄金・財宝・幸運ありとする信仰は、世界各地に広く存在したが、我が国でも、前に述べた平安初期の仏教説話集『日本霊異記』に、その類和が乗せられているのをはじめ、このような話は、近代にいたるまで全国各地に伝承され続けてきた。
そして、同じく、興味深いことに、中世の史書や貴族の日記には、虹の立つところにをたてなければならないという慣行が存在したことが記されている。
中世の貴族たちは、虹を奇瑞と考え、虹が現れると、公的に天文博士などにそれが、吉祥か災異かを卜定(ぼくじょう。吉凶を占い定めること)させたと『故事類苑』に記されている(※3「故事類苑」の冒頭p−310のところを参照)が、一方民間信仰のもとで、「世間の習、虹見ゆるところ市を立つ」(※3「故事類苑」のp316“虹見處立市”のところ参照)とあるように、そこがいかなる場であれ、数日間市をたて、売買を行うべきであるという観念に縛られており、朝廷の池などに虹が現れたときには、大いに困惑したようだ。

このように民間の俗信にもとづいて、平安時代から戦国時代にいたるまで、現実に各地に市が立てられたことが資料的に確認されるが、おそらくその源はもっと古く、また、民間の慣行としては、もっと後まで継承されたと思われる。
私の蔵書「週刊朝日百科日本の歴史」(51)を見ると、“マリノフスキーが紹介した、トロブリアンド諸島パプアニューギニア東部)のクラと呼ばれる部族間の原始的交換儀式の際、呪術師によって虹を呼び出す呪詩が唱えられるという事例からいって、虹はおそらく我が国の原初的な市、さらには、原初的な交換の観念と密接な関係をもっていたといえよう。”・・・とある。

そして、民俗学者の安間清は、我が国だけでなく、世界各地の虹についての俗信のひとつの大きな流れとして虹は天地をつなぐ橋、つまり、「虹の橋」という共通した観念の存在を紹介しており、「精霊は虹を通って往来する」「神は虹によって旅をする」「死者の霊魂の他界への通路」「虹は天女が入浴するとき、天降(あまくだ)ってくる橋」などの俗信が、世界各地に存在し、また多くの民族の神話のなかでも虹は天と地との間の橋であることを明らかにしているという。
また、我が国でも、「虹は天国から地上に向かって出る」「虹は天の橋」などの伝承が残り、それらから、『日本書紀』『古事記』の創世神話(国産み)にみられる「天の浮橋」を虹と解することも可能であり、我が国にも天神が虹を通って、下界へ降ってくるという信仰があったことを想定している。
このように虹は天界(他界)と俗界とを結ぶと考えられていたのであり、虹が立てばその橋を渡って神や精霊が降りてくると信じられ、地上の虹の立つところは、天界と俗界の境にある出入り口で、神々の示現する場であった。
そのため、虹の立つところでは、神迎えの行事をする必要があり、その祭りの行事そのものが、市を立て、交換を行うことであったのである。
我が国の市の起源は、主としてその語源を探ることによって、身を清めて神に奉仕する「斉(いつき)」という話と結びつけられている。
すなわち「斉(いつ)く地」が「イチ」と縮んだとされているが、以上みてきたような虹と市の関係を媒介とするならば、この語源説は妥当性をもつといえる。
中世の市が三斉市、六斉市、という斉日に立てられ、三斉市・六斉市といわれたのもこの日が天界から四天王が下界に降りてくる日されていたからである。
枕草子』には「おぶさの市」という市の名があげられている(※10「枕草子」の14:市は参照)。
おぶさは虹を指す語であるから、当時「虹の市」という名称が現実に存在していたことになる。
このように原始的な市は神々の示現する聖なる空間、神々が支配する場であることがその本質であったのであり、交換する場としての機能は、その非日常的で特殊な空間という特質と深く結びついていたようだ。
この市のことについては以前にこのブログ「六斎日(?)(?)」で詳しく書いたのでこれ以上は書かないのでそこで見てください。
「虹の橋」は天と地、現世と他界と言った異なるカテゴリーを結ぶという面を持っている。
人間の世界と神々の世界、あるいは生者の世界と死者の世界など、異なったカテゴリーに属する2つの世界の間には、その境界を明示するものとして何らかの自然の障壁がもうけられている場合が多い。
たとえば日本神話なら、葦原中国(地上界)と常世国(不老不死の理想郷)との間は広大な「海」によって、また黄泉国(死者の国)との間は巨岩でふさがれた「黄泉比良坂」(よもつひらさか)によって隔てられているとされている。また、仏教の世界においては、この世とあの世は「三途の川」によって分かたれている。

●上記の画像は、島根県松江市東出雲町の黄泉比良坂。Wikipediaより。
この三途の川のギリシア版がステュクス河だそうだ(※10:「Styx」参照)。
ギリシア神話に登場する虹の女神「Iris(イーリス)」は、輝く翼を持った女神が天空を翔ける姿だと言われるが、このイーリスも「黄金の水差しで冥界の河ステュクスの水を汲んだ」とされているそうだ(※10:「Styx」のイリスまた、※11参照)。この他神話における虹については神話の虹を参照。

ところで、このような虹の橋などの話から生まれたものと思うのだが、原作者不詳ながら、ペットを失った世界の動物愛好家の間で広く知られているという、有名な散文詩虹の橋』がある。
Wikipediaによれば、作品は1980年代に作られたものと考えらているそうだが、正確な時期は不明らしい。英語で書かれた原文はアメリカで流布していたが、やがて世界中に広がり、日本でもこの詩の原文やいくつかの翻訳が広く知られているという。
亡くなったペットがその主人を待つこのような場所について語っている宗教は存在していないが、北欧神話に語られる「ビフレスト橋」が、神の国と人間の世界を繋ぐ「虹の橋」について伝えている。
ペットが生前の主人を待っている場所という訳ではなが、この世を越えた世界へと魂を導く場所としては類似性があるという。
●上掲に画はイギリスの挿絵画家アーサー・ラッカムが描いたビフレスト。Wikipediaより。
詩は次のような内容となっている。
この世を去ったペットたちは、天国の手前の緑の草原に行く。食べ物も水も用意された暖かい場所で、老いや病気から回復した元気な体で仲間と楽しく遊び回る。しかしたった一つ気がかりなのが、残してきた大好きな飼い主のことである。 一匹のペットの目に、草原に向かってくる人影が映る。懐かしいその姿を認めるなり、そのペットは喜びにうち震え、仲間から離れて全力で駆けていきその人に飛びついて顔中にキスをする。 死んでしまった飼い主=あなたは、こうしてペットと再会し、一緒に虹の橋を渡っていく。

●上掲の画は、虹の橋 緑の野原と動物たち。Wikipediaより。
ペット付きの人達にはたまらない詩だよね。詩の内容などはWikipedia虹の橋(詩)の外部リンクを参照されるとよい。
ここでは、以下のYouTubeのものを紹介しよう。感動ものですよ。これを見ながら、人と人、人と愛する動物との絆のこと、そして、虹の日のことを考えてみるのもよいのでは・・・・。
虹の橋 - YouTube

(冒頭の虹の画像は、Wikipediaより借用)

参考:
※1:虹の日公式サイト
http://www.716nijinohi.com/
※2:虹は本当に七色か - 一橋大学附属図書館
http://www.lib.hit-u.ac.jp/service/tenji/owen/rainbow-color.html
※3:故事類苑-天部/虹〈氣 陽炎併入〉
http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/index.php?%E5%A4%A9%E9%83%A8%2F%E8%99%B9%E3%80%88%E6%B0%A3%E3%80%80%E9%99%BD%E7%82%8E%E4%BD%B5%E5%85%A5%E3%80%89
※4:虹と日本j文芸(十)続
http://ir.lib.sugiyama-u.ac.jp/dspace/bitstream/123456789/205/1/H18OGINO.PDF
※5:日本人の思想とこころ(2)極楽往生の実践 ―その組織とケース・スタディ
http://www.araki-labo.jp/shiso53.htm
※6:南方熊楠 「十二支考 田原藤太竜宮入りの話」- 青空文庫
http://www.aozora.gr.jp/cards/000093/files/1916_29070.html
※7:小人とクツ屋 グリム童話 <福娘童話集 きょうの世界昔話>
http://hukumusume.com/douwa/pc/world/03/13.htm
※8:英英辞典で英単語あてQ 37 rainbow(虹) - 英語クイズストリート
http://park1.wakwak.com/~english/quiz/eequize_37.html
※9:雑学考
http://suwa3.web.fc2.com/enkan/zatu/index.html
※10:原文『枕草子』全巻
http://www.geocities.jp/rikwhi/nyumon/az/makuranosousi_zen.html
※10:Styx
http://www.h6.dion.ne.jp/~em-em/page150.html
※11:イーリス(#IriV)
http://web.kyoto-inet.or.jp/people/tiakio/antiGM/iris.html
イシュタルの首飾り(1 )〜(5)
http://blog.goo.ne.jp/zi-nn-u-ru/c/0dec4949056248ec5765c30c11b7c81d
虹の立つ市(1)〜(4)
http://ot-blog.at.webry.info/theme/4a80dd0746.html
Title 虹と市 : 境界と交換のシンボリズム Author(s) 小野地, 健
http://klibredb.lib.kanagawa-u.ac.jp/dspace/bitstream/10487/3609/1/kana-10-21-0003.pdf#search='%E5%AE%89%E9%96%93%E6%B8%85++%E8%99%B9%E3%81%AE%E6%A9%8B'
虹の色は、現代の日本では通常「七色」とされていますが、この起源はニュートンです
http://q.hatena.ne.jp/1240238161
清明号 - 日本伝統文化振興機構(JTCO)
http://jtco.or.jp/magazine-list/?act=detail&id=123
日本記念日協会
http://www.kinenbi.gr.jp/
虹 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%99%B9

土用の丑の日”蒲焼きの日?”

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7月22日の今日は土用の丑の日である。
土用の丑の日は、土用の間のうち十二支の日であるが、特に夏の土用の丑の日のことを言うことが多い。夏の土用には丑の日が年に1日か2日(平均1.57日)あり、2日ある場合はそれぞれ一の丑・二の丑という。
2013年の今年は、7月22日の今日が一の丑、8月3日が二の丑にあたる。

「丑の日に うなぎのぼりの 鰻食い」 よーさん

お粗末でした。江戸時代の川柳の句集『誹風柳多留』(※1参照)に、「うなぎ屋の隣茶漬けの鼻で喰ひ」が見られるが、鰻の蒲焼は江戸時代の庶民には高嶺(たかね)の花だったが、日本鰻の稚魚シラスウナギは、2010(平成22)年から不漁が続き、水産庁は今年も鰻の高騰は避けられないだろうといっていたが、そんな価格が鰻のぼりした鰻は、現代人の私たちでさえ高嶺の花になってしまった。それで、つい、お遊びでくだらぬ句を書いてしまった次第。
日本では土用の丑の日に、暑い時期を乗り切る栄養をつけるために古くから鰻を食べる習慣がある。しかし、今年のように価格が高騰しても、なお、土曜には食べなくてはいけないと無理して食べている人が多くいることだろう。
土曜のことは、以前にこのブログで「 土用 の入り。夏本番」として簡単に書いたので、今日はパート2的なものになり、一部ダブルところもあるが、今回、テーマーは鰻の蒲焼きのことを中心に書く。それでサブタイトルを”蒲焼きの日?”とした。

江戸時代の風俗を記した随筆『明和誌』(青山白峰著。文政5年)によれば、安永・天明の頃(1772年 - 1788年)から土用の丑の日にウナギを食べる風習になったということが書かれているそうだ。
鰻を食べる習慣についての由来には諸説あり、その中に、江戸時代の本草学者、戯作者平賀源内が、夏に暑くて売り上げ不振のうなぎ屋から相談を受け、丑の日に「う」のつく食べ物を食べると体によいという伝承を利用して「本日土用の丑の日」と書いて店先に貼紙をしたところ、大繁盛したことから、一般に定着したという説があるが、このことは『明和誌』には書かれていない(※2参照)ようなので、この通説の信ぴょう性については怪しいようだ。

「土用丑のろのろされぬ蒲焼屋」

江戸時代の川柳(※1参照)にも見られるように、普段は客の注文を受けてからおもむろに裂きにかかる鰻屋も.この日ばかりは殺到する客にウシのようにのろのろなどはしていられない。
だいたい、どんな魚もそうなのだが、鰻のも秋から冬にかけてであり、旬の味を貴ぶ江戸っ子は、当時、夏の鰻なんて見向きもしなかっただろうと思うのだが、新しい物好きでもある江戸っ子が平賀源内のキャッチコピーに飛びついたからかどうかは知らないが、このころから土用の丑の日にウナギを食べる習慣が広がったようだ。
ただ、なぜ丑の日にかぎって鰻なのかよくわからないが、丑の“う”と鰻の“う”とをかけた駄洒落コピーの先駆けとも言われるものが受けたのかもしれないが、これなど駄洒落好きの多い今の若者の気質とよく似ている感じだな〜。
それをマスコミがあおって、我も我もと同じ方向に突っ走る・・・・。日露戦争への突入の時もそうであったが、今年6月に富士山世界文化遺産に登録されると、また、我も我もと押しかけて、これからの富士山の自然環境の保護問題が心配されている。このような日本人の習性。
それが怖くって、第二次世界大戦終了後、GHQは、憲法によって、日本には軍備を持たせず、また、当時世界でも有数であった農業国日本の農業力を衰えさすために、農地改革(農地解放)をし、これにより、戦前の封建制度が改善された面はあるものの、今のような力のない個人の小農の集団に変えられてしまったことが、日本の農業の国際競争力を低下させていくこととなったともいえる。もっとも品質面ですぐれているので、高いコメを食べれる人には良い面もあるのだが・・・。
日本人が鰻を食べるようになったのは古く、約5000年前の縄文遺跡(遺跡一覧)の貝塚からうなぎの骨が出土しており、文献としては奈良時代の『万葉集』の、大伴家持の歌に「武奈伎」(むなぎ)として見えるのが初出のようだ。
「石麻呂(いはまろ)に、我(わ)れもの申す、夏痩(や)せによしといふものぞ、武奈伎(むなぎ)を漁(と)り食(め)せ」(巻十六-3853)
通称、吉田老((よしだのおゆ=吉田石麻呂)という痩せた老有力者が夏バテしてなお痩せていたのをみた家持が、「夏痩せにはウナギがいいらしいから、漁ってきて食べ、栄養をつけなさいよ」と、からかい半分に詠んだものであるが、この歌に対しては、吉田老が次のように返している。
「痩す痩すも生けらばあらむをはたやはた鰻を漁ると川に流るな」(巻十六-3854)
つまり、「私は痩せていても生きているから、まだいいよ。あなたこそ、ウナギを漁(と)ろうとして、川で流されてしまわないようにしなさいよ」と・・・・。(以下参考の※3 :「萬葉集の部屋 」の巻十六-3853、3854等参照)
この歌を見ても、今から1200年も前の万葉集が詠まれた奈良時代から、ウナギが夏やせに効くとして、日本人が食べていたこと、またウナギ漁が「川に立ち込む」漁であることが知られていたことなどが興味深い。しかし、これ以降、ウナギの史料は江戸時代までほとんどない。
しかし、鰻の栄養価の高さは物知りの源内のみならず江戸の庶民だって生活の知恵として承知していただろうが、とくに暑い盛りの土用の丑の日を選んで鰻を食べるという習慣は江戸川柳に見られる頃まではなかったのである。
「武奈伎(ムナギ)」は万葉仮名で「ウナギ」を表わす古語であり、その後「ムナギ」から「ウナギ」へと転呼併称されたが、平安後期頃までは「ウナギ」のことを「ムナギ」と呼んでいたようだ。
貝原益軒の『日本釈名』(元禄12年刊行)には、「ム」と「ウ」とは音通ずるが故に「ウナギ」といい、その意味棟木(むなぎ)なり。その形丸くして 長く、家の棟木に似てるなり」とある。(※4 参照)
一方、このよび方は胸が黄色い「胸黄(むなぎ)」から とか諸説あるようだが、正確なことはわからないらしい。
明治時代に作成された百科事典、『古事類苑』の「動物部」の「鰻」(※4)の項目には前に挙げたの『万葉集』の歌のほかに『新撰字鏡』『和名抄』などの平安時代初頭の辞書類が挙げられているが、その後は江戸期の料理書などにとんでしまう。
江戸時代以前、鰻は料理方法も確立しておらず、油が強くしつこい下等魚で決して美味な魚ではなかったことから、薬か、栄養食として食べられていた。
室町期の『大草家料理書』に「宇治丸、かばやきの事、丸にあぶりて後に切也、醬油と酒と交て付る也、又、山椒味噌付て出しても吉也」という一条がある。
これがウナギの蒲焼の初見で、宇治丸というのは、はじめは宇治川産のウナギを指したが、やがてウナギの異名となり、ウナギ鮨をもこの名で呼んだ.。
この蒲焼は、「丸にあぶりて後に切也」とあるように、ウナギを裂かずに長いまま竹ぐしを通して焼いたもので、かまぼこ(蒲鉾)同様ガマ(蒲)の穂に形が似ていたための名であった(※4参照)。
越谷吾山(こしがや ござん)の江戸時代の方言辞書『物類称呼』 動物に「鰻(うなぎ):山城の国宇治にて”うじまろ”と云、この魚の小なるものを京にて”めゝぞうなぎ”と云、是は”みゝずうなぎ”の誤り也。江戸に”めそ”と云。上総にて”かよう”と云、また、”くわんよッこ”とも云、常陸にて”がよこ”と云、信濃にて”すべら”と云、土佐にて”はりうなぎ”と云、今按(あん=調べる)に京都にてうなぎを鮓となすは宇治川のうなぎをすぐれたりとす、よって、宇治麻呂と人の名を以てす、江戸にては、浅草川深川辺りの産を江戸前とよびて賞す、他所より出すを旅うなぎと云、また世俗に丑寅の年の生まれの人は、一代の守本尊虚空蔵菩薩にて生涯うなぎを食うことを禁ずと云。」・・とある(※4参照)。
ここでうじまろの名前の由来は、近江の宇治川のうなぎが美味で優れているところから宇治の麻呂と人の名をつけ尊称したとある。「宇治丸」と呼ばれた鰻ずしやごぼうを巻いた「八幡巻き」はこの地方の特産品であった。
なお、ここでいっている「この魚の小なるもの」とは、ウナギの子(稚魚= シラスウナギ)の少し成長したものをいうようだ。
また今では「すし」のことを江戸前と呼ばれるがもともと江戸の浅草川や、深川辺りで獲れたウナギをこうよんでいたこと、そして、江戸前以外の他の利根川水域等他から持ち込まれたウナギは旅ウナギと呼ばれ区別されていた。それだけ江戸前のウナギの質が良かったのだろう。
江戸川柳に、「丑の日に籠でのり込む旅うなぎ」(※1参照)と詠まれているが、夏の土用の丑の日には、江戸前だけでは、量が足らず、他の地域からの質の落ちるウナギも大量に焼かれていたということだろう。
しかし、面白いのは、丑寅年生まれ人は、生涯ウナギを食べられないと言われていたこと。今でも、お年寄りには鰻を食べないという人がいるようだが、お気の毒な話だ。その理由は、※5:「神使の館」の虚空蔵菩薩と牛・虎-2を見られるとよい。
正徳2年(1712年)発刊の『和漢三才図会』には次のように記してある。
「馥焼(かばやき):中ぐらいの鰻をさいて腸を取り去り、四切れか五切れにし、串に貫いて正油あるいは味噌をつけて、あぶり食べる。味は甘香(かんばし)くて美(よろ)し、あるいはナデ醋(す)にひたして食べることもあり。多く食べると、頬悶して死ぬることあり。之は酸を得て鰻肉が腹中で膨張する故なり」と。(※6参照。尚、原文は、※7の「和漢三才図会巻第五十・五十一」の鰻鱺の最後、鱧の前のここ参照。)☆「馥」は「よいにおい」という意味。
これを見ても元禄の1700年頃には現在の割いた形の「蒲焼」を売る露店や鰻売りが関西で売られ始めていたことがわかる。
江戸の文化は、ほとんどそうだが、蒲焼きも、もともと上方(関西)で発達し、これから十数年遅れて正徳年間(1711-1715年)に江戸に伝わったといわれており、本格的な「鰻料理屋」が登場するのは、明和から天明年間(1764年-1781年)の頃であり、蒲焼と飯を別々に出す「江戸前大かばやき、附めし」という形で売られていた。

●上掲の画は、享保年間(1716年-1735年)に出版されたといわれる『江戸名所百人一首』(近藤清春筆)近代デジタルライブラリー より借用(※8のコマ番号26番参照)。
深川八幡社の画で「めいぶつ大かばやき」と書かれた行灯のある、露店のような粗末な店が境内にあり、そこで蒲焼を焼いている人が描かれている。

●上掲の画は鍬形?斎(北尾 政美)の『近世職人尽絵巻』・蒲焼屋.。東京国立博物館所蔵.。以下参考の※9:文化遺産オンラインより借用(五段目左から2枚目の左部分カット)。
文化3年(1806年)刊行のこの絵巻物は様々な職人の様子を描いたもの。まだまだ、うなぎの頭を落とすのも割くのも店先である。
関西では鰻を腹から開き、江戸では武家の町として腹切りを忌み、背割りにしたと言われている。焼き方とたれが蒲焼の味を大きく左右することから、その技術が競われた。
文化年間(1804年-1818年)頃になると、現在の「うな丼」の前身となる、どんぶりに熱い飯を盛って、飯の間に蒲焼を挟んだ「鰻めし」が、当時芝居で賑わった堺町(現在の東京人形町)の隣町、葺屋町にある鰻屋・大野屋が「元祖鰻めし」という看板で売り出したのが最初だと言う。
しかし、明治18年(1885年)の宮川政運『俗事百工起源』には、うなぎ好きな堺町の芝居金主、大久保今助がこの鰻丼を考え出したと書かれているそうだ(ここ参照)がどちらが、先かはよくわからない。
ただ、大野屋では、六十四文から売り始めたが、後には百文、二百文の高級品となったという(※10)。非常に9人気が良かったということだろう。この鰻飯が幕末の安政の頃から、熱い飯を丼に盛って蒲焼を上に載せる庶民向けの「うな丼」となり登場した。
兎に角、文化・文政から嘉永年間(1804〜1854年)には江戸で蒲焼きが全盛期を向かえた。これには、天明年間(1781〜1789年)に銚子で開発された濃口醤油(現ヒゲタ醤油など)が関係しているようだ。
嘉永5年(1852)に刊行された江戸の鰻屋の見立番付「江戸前大蒲焼番附」がある(※11参照)。この番付には約200軒の鰻屋が掲載されているが、「此外東西数多ニ御座候得共猶校合の上再板仕候」(この他にも数多くあるので調査の上、再版する)とあり、この他にも数多くの鰻屋があったことが推測されるという。
また、嘉永元年(1848年)に刊行された江戸の飲食店の紹介本である『江戸名物酒飯手引草』にも90軒の鰻屋が載っており、この番付に載っている店も複数、掲載されているという。

ところでうなぎの調理法は、東西によって異なる。
関東では、背開き。白焼きにした後蒸し、その後にタレをつけて焼 く。
関西では、腹開き。白焼きにし、蒸さないでタレをつけて蒲焼きにする。(別名地焼き)・・・と言う工程となる。
この調理方法の違い。特に大きな点は、白焼きにしたものを蒸してから焼くか蒸さずに焼くかについてだが、このことについて、野村信之氏(1991年.関西鰻蒲焼論)は以下のように言っているそうだ。
「関東では白焼きのあと蒸すが、これは=流れの少ない所に育つ鰻の泥臭さを蒸しによって抜いたもので、関西の鰻は=清流でとれるので臭いが少ない。 調理法のちがいは生息場所によるものである。」・・ と。そして、「これは天然鰻だけを食べていた時代のことと思われるが、養殖鰻が大半を占めるようになった今日でも関東と関西での調理法はもとのまま行われているのだ」・・・・と(※12のNo.7 鰻と日本人参照)。

近年、稚魚のシラスウナギが減り、供給量が激減し、鰻は激減、価格が高騰している。そこへ持ってきて、消費が増える夏を迎え価格が急騰している。
以下参考の※13:「日本養鰻漁業協同組合連合会:統 計 資 料」によると2012(平成)年 の鰻輸入量及び国内養殖生産量の総計37,207のうち, 輸入量19,661t(52,84%。うち、活鰻4,678t、加工鰻14,983t)、国内養殖生産量17,377t(46,70%)、国内天然漁獲量169t(0,45%)であり、国内天然漁獲量は、養殖を含めた国内生産量の0、95%と1%にも満たない漁獲量なのである(注:加工鰻は生鰻に換算した量、加工製品数量としては8,990t)。
国内養殖生産量と国内天然漁獲量の推移をみると以下のようになっている。
国内養殖生産量:2,003年、21,526t→2012年17,377t、2,003年対比80,72%に減少
国内天然漁獲量:2,003年、  589t→2012年  169t、2,003年対比28,69%と激減。(ここ参照)。
したがって、鰻養殖生産価格も、2,002年の926から2011年は2281(円/kg)と2,46倍に上がっている。これが原因で、鰻業経営体数は、1997(平成9)年、全国で651あったものが、2008(平成20)年には、444と68,2%に減少している。
だから、国内天然もののうなぎなど、地元の料理屋などで消費されてしまうため、通常の流通ルートに乗ることはほとんどなく、我々にとっては、高値の花どころか、口に入ることのない幻の食材となりかけており、養殖物の鰻でさえ、高値の花になりかけている。
後は、輸入物の主力である、台湾産、中国産の鰻で我慢しなければ仕方がないのだが、中国産など、その品質面が非常に気にかかる。
アベノミクスで、円安・株高。恩恵を受けている高所得者は、結構なのだが、その恩恵にあずかっていない中小企業者や、サラリーマン、そして、年金生活者の私達などは、円安による諸物価が高騰している中、給料やボーナスも上がる見込みがなく、年金額も減らされている状況の中で、夏土用の鰻の値上がりはつらい。
もともと、日常食ではなかった鰻が、江戸時代に、夏に鰻を食べるとよいとの土用の丑のキャッチコピーに乗せられて食べるようになり、それが、戦後の高度経済成長と共に大量消費社会になって、あたかも日常食として、スーパーなどで安売りをされるようになった。
それが、このような状況になったのは、日本鰻の稚魚シラスウナギの激変が根本的な問題である。
今や、輸入物なくしては、ウナギを国内の養殖(養鰻)では需要を賄いきれない。
養鰻の安定供給を目指して、養鰻の生産技術に関する開発研究が東京深川で試みられたのが1879(明治12)年のことだが、後に養鰻の中心地は浜名湖周辺へ移った。1891(明治24)年に、原田仙右エ門という人物が7ヘクタールの池を造り、日本で初めて人工池での養鰻を試みたのが、浜名湖の養殖ウナギのルーツである。
その後各地で養鰻を始める。しかし、太平洋戦争によって養鰻業が急速に衰退する。以下。※14:「鰻 養 殖 の 歴 史」に基づいて簡単に』その概略を記す。
ウナギの養殖はまず、天然のシラスウナギを捕ることから始まる。黒潮に乗って日本沿岸にたどり着いたウナギの稚魚、シラスウナギを大量に漁獲してこれを育てるのである。つまり、この段階では、他所で採ってきた稚魚(シラスウナギ)を池で大人のウナギに育てるだけのことである。
ウナギの稚魚不漁のため、台湾・韓国・中国よりシラスウナギを試験的に輸入したのが、1964(昭和39)年のことである。1969(昭和44)年、シラスウナギ不漁のため、日鰻連(日本養鰻漁業協同組合連合会)がフランスよりシラスウナギを大量に輸入し、わが国で初めて日本産ウナギ以外のものが養殖種苗とするために導入される。
ウナギの人工孵化は、1973(昭和48)年に世界で初めて、北海道大学において初めて成功した。
1976(昭和54)年、輸出貿易管理令(※15)が発令され 1匹13g以下のシラスウナギが輸出禁止となる。
2000(平成12)年、中国、台湾から13万t以上のウナギが輸入され、日本の生産量も合わせ16万tと過去最高の供給量となる。養鰻振興議員懇談会が国に対してセーフガード発動を国に申し入れたという。
2002(平成14)年には、 国内養鰻経営体500軒(農林統計481)を割っている。しかしながら、ウナギは極めて特殊な生活史を持つ魚類であることから、人為的に成熟させ、採卵、授精、孵(ふ)化、仔魚の飼育を経てシラスウナギ(養殖用種苗)とすることは容易ではなかったが、翌2003(平成15)年には、三重県の独立行政法人水産総合センター(現「増養殖研究所」)が世界で初めて人口孵化仔魚をシラスウナギに変態させる、シラスウナギの人工.生産に成功した。
現在ウナギ種苗の人工生産の実用化に向け、安定生産に不可欠な基盤研究がすすめられているという(※16参照)。しかし2005(平成17)年、国内生産量2万トン(農林統計19,495t)を割っている 。
そうした中での2010(平成22)年、水産総合研究センターが人工孵化したウナギを親ウナギに成長させ、さらに次の世代の稚魚を誕生させるという完全養殖に世界で初めて成功したと発表。
しかし人工孵化と孵化直後養殖技術はいまだ莫大な費用が掛かり、成功率も低いため研究中で、養殖種苗となるシラスウナギを海岸で捕獲し、成魚になるまで養殖する方法しか商業的には実現していない。
自然界における個体数の減少、稚魚の減少にも直接繋がっており、養殖産業自身も打撃を受けつつある。
この技術が完成すれば、養鰻業に寄与するだけでなく、天然シラスウナギに対する乱獲を緩和させ、天然資源の保全に繋がる。また健全な自然河川環境が取り戻せれば、天然ウナギは増えるに違いない。
減少した資源の回復と保全のために、人工シラスウナギの開発研究を急がねばならない。それまで、はとにかく、乱獲を防止しなくてはいけないだろう。
鰻の美味いのは秋、冬であり、それでなくとも高くなった鰻。土用丑のために高騰しているものを無理に食べなくてもいいのだが・・・。理屈は分かっていても、今まで、続けてきた行事のようなものを止めるのもさびしいが・・・。
三日前の・2013(平成25)年7月19日付、朝日新聞朝刊に、高値で食べたいけれど手の出ないという消費者のために、安い別品種のうなぎ、インドネシアなどでとれる「ピカーラウナギ」などが出回る他、ウナギに見立てたナスや鶏肉の蒲焼にも人気が集まっているという。
なにか、少々情けない気もするが、そこは、じっとこらえて、いつか安く自由に食べれる日を楽しみに待つことも大事なのでは・・・。
古く万葉の時代から滋養強壮の食べ物であると知られていたウナギ。浮世絵の題材にも多く取り上げられている。

●上掲の画象は、江戸時代後期の浮世絵師葛飾 北斎の代表作『北斎漫画』(スケッチ画集)の「鰻登り」。以下参考の※17:「近代デジタルライブラリー - 北斎漫画. 12編」コマ番号30より借用。
「鰻(うなぎ)登り」は、3尾の巨大な鰻が鰻屋のまな板から職人の手をすり抜けて、天に昇っていく様子を描いている。幕府の経済政策の失敗による物価の高騰を暗に批判している、との説もあるようだが、当時の蒲(かば)焼きはもともと高価なごちそうだった。
客の顔を見てから鰻を吟味し、割いて焼くから手間暇かかる。 客の方は酒を飲んだり、男性なら女性を口説いたりして、待ち時間を楽しんだという。
これは名の通った店なら今でも同じだ。「鰻屋のたくあん」ともいう。良いウナギ屋は、注文をしてから焼きあがるまで時間がかかるので、良い漬物が出てくる。客の方は、たくあんのお茶でも飲みながら、おしゃべりを楽しむ。
私が現役の頃、大阪・野田にいい鰻屋があったが、仕事の昼休みなどに食べに行くと、何時も食事の後に喫茶店などでくつろぐのだが、喫茶店に行く時間がない。だから、もうあきらめて、鰻屋へ行くときには、気の合うものとそこの店でゆっくりと時間を過ごすことにしていた。
この様に、今でもたまにはよい店で、江戸の人々のように、オツな時間を過ごしてみたいものだが、うなぎのぼりの蒲焼きはますます庶民の口に入りにくいものになっている。
また、落語や川柳にも数多く取り上げられ、古典落語の「鰻の幇間」は、八代目桂文楽の十八番であった。書けばきりがないが、最後に、私もファンだった故3代目古今亭志ん朝鰻の幇間を聞いて終ることにしよう。
鰻を題材にした噺は多いが、その代表格がこれ。いわゆる幇間(ほうかん)ものに分類されるもの。文楽の何か切羽詰ったような悲壮感に比べ、ここに登場する志ん生の一八は、どこかニヒルさが感じられ、ヨイショが嫌いだったという、いわば幇間に向かない印象にもかかわらず、別の意味で野幇間の無頼さをよく出している。
一八は、客を釣ろうとして、「鰻」をつかんでしまいぬらりぬらりと逃げられたわけだが、ウナギの勘定だけでなく履いてきたゲタまで履いて行かれる。
落語のあらましと解説は参考の※18を読めばよいが、落語は以下のYouTubeで聞ける。実際の寄席の実写版とレコードの再生のもの2つ用意しているのでお好きな方を聞かれるとよい。

志ん朝 鰻の幇間 - YouTube  実写版

鰻の幇間:古今亭志ん朝.wmv - YouTube レコード盤

蒲焼きという革命的な料理法を生み出したウナギは、今では、日本の代表的な食文化ともなっているのだが、その一方で、ウナギの生態はいまだに多くの謎に包まれているようだが、長くなるので、これで終えよう。気が向けば以下のリンクしているところなど覗かれるとよい。。
猛暑続きの夏、これからが夏本番。どうか、熱中症には気を付けて、元気にこの夏を乗り越えてください。
私も、今日から、8月末まで、夏休みに入り、その間このブログの投稿も休止します。9月に入ったら再開しますので、その際は、またよろしくお願いします。

参考:

※1:鰻・登亭:うなぎの世界
http://www.noboritei.co.jp/unagi/06.html
※2:そのことば江戸っ子だってね!?
http://www.web-nihongo.com/wn/edo/00.html/
※3:萬葉集の部屋
http://www.geocities.jp/yassakasyota/manyo/manyo.html
※4:国際日本文化研究センター:故事類苑検索システム>部門目録一覧>28.動物部>目録表示863鰻 
http://shinku.nichibun.ac.jp/kojiruien/html/dobu_1/dobu_1_1355.html
※5:神使の館
http://www9.plala.or.jp/sinsi/07sinsi/01sinsi.html#usi
※6:第41回 長崎料理ここに始まる。(十三) | 長崎の食文化
http://www.mirokuya.co.jp/syokubunka/bunka41.html
※7:和漢三才図会 巻第五十・五十一
http://record.museum.kyushu-u.ac.jp/wakan/wakan-jin/page.html?style=a&part=27&no=1
※8:近代デジタルライブラリー - 『神社仏閣江戸名所百人一首』
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/932168
※9:文化遺産オンライン:近世職人尽絵詞
http://bunka.nii.ac.jp/ResultImage.do?heritageId=13984&linkType=index&imageNum=7
※10:落語「鰻屋」の舞台を歩く
http://ginjo.fc2web.com/111unagiya/unagiya.htm
※11:6. 江戸前大蒲焼番附 - 東京都立図書館
http://www.library.metro.tokyo.jp/digital_library/collection/042/no6/tabid/3129/Default.aspx
※12:おさかな普及センター資料館
http://shimura.moo.jp/osakana.htm
※13:日本養鰻漁業協同組合連合会:統 計 資 料
http://www.wbs.ne.jp/bt/nichimanren/toukei.html
※14:鰻 養 殖 の 歴 史
http://www.wbs.ne.jp/bt/nichimanren/rekishi.htm
※15:輸出貿易管理令 - 法令データ提供システム
http://law.e-gov.go.jp/htmldata/S24/S24SE378.html
※16:ウナギ人工種苗の実用化を目指して - 農林水産技術会議 -農林水産省
http://www.s.affrc.go.jp/docs/report/report26/no26_p3.htm
※17:近代デジタルライブラリー - 北斎漫画. 12編
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/851657?contentNo=9
※18:鰻の幇間(うなぎのたいこ) 落語: 落語あらすじ事典 千字寄席
http://app.m-cocolog.jp/t/typecast/62757/6/6065596
うなぎ雑学(うな繁)
http://www.unasige.com/indexzatugaku.html
環境省 報道発表資料
http://www.env.go.jp/press/index.php
日本釈名
http://base1.nijl.ac.jp/iview/Frame.jsp?DB_ID=G0003917KTM&C_CODE=XYA8-04801
水産庁/ウナギをめぐる最近の状況と対策について - 水産庁 - 農林水産省
http://www.jfa.maff.go.jp/j/press/saibai/pdf/130530-01.pdf
ニホンウナギの資源状態について - 水産総合研究センター(Adobe PDF)
http://www.fra.affrc.go.jp/unagi/unagi_shigen.pdf#search='%E9%B0%BB%E3%81%AE%E6%BC%81%E7%8D%B2%E9%87%8F'
真名真魚字典
http://www.manabook.jp/manamana-uohenkanji.htm
近代デジタルライブラリー - 皇都午睡 : 三編
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/763829/9
土用の丑の日 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%9F%E7%94%A8%E3%81%AE%E4%B8%91%E3%81%AE%E6%97%A5

暑中お見舞い申し上げます

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今年の夏は本当に暑いですね。
学校なども、夏休みに入っているようですが、
私も、今から8月一杯は夏休みに入ります。
このブログもその間休止します。
9月からまた始めますので、また、その時はよろしくお願いします。
みなさんも熱中症など気を付けて、暑い夏を乗り越えてください。

引っ越しの日

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いつもブログを書くのに参考にさせてもらっている「今日は何の日〜毎日が記念日」(※1)に、今日・10月13日の記念日として、「引っ越しの日」があった。
記念日は、引越専門協同組合連合会(※2)関東ブロック会が1989(平成元)年に制定したものだそうで、記念日の由来は、”1868(明治元)年のこの日、明治天皇が京都御所から江戸城 (現在の皇居)に入城された。”・・・ことによるそうだ。

「引っ越し」の語源は、動詞「引っ越す」から転じた名詞形だから、もとは「引っ越し」だが、いまは広辞苑他一般の辞書でも「引越し」と書くのが一般的。
「越す」は山や、河を超えて向こう側へ行くといった意味があり、「越す」だけでも「引越しする」の意味で使われる。
「引く」については、よくわからないが、昔は、荷車などを引いて家財道具を運搬したからだろうから、「引き移る」…と言った意味になる。

「番頭にここに佐野という人が下宿しているはずだがと聞くと番頭はおじぎを二つばかりして、佐野さんは先だってまでおいでになりましたが、ついこのあいだお引き移りになりましたと言う。けしからんことだと思いながらも、なお引っ越し先の模様を尋ねてみると、とうてい自分などの行って、一晩でも二晩でもやっかいになれそうな所ではないらしい。・・・・」

上掲の文は明治から大正の小説家夏目漱石 の随筆『手紙』 より引用したもの。ここでは、引っ越すことを「お引き移りになりました」と表現している(※3 「青空文庫」参照)。
「引っ越し」は、このほか、古くは家移り(やうつり)、宿替(やどがえ)、転宅などともいった。

ところで、今日の記念日の由来は、”1868(明治元)年のこの日、明治天皇京都御所から江戸城(現在の皇居)に入城された。”・・・ことによるということだが、関西人、特に京都の人たちには、天皇は、京都から、東京へ引っ越したわけではないと・・、ちょっと不満もあるだろうね。

明治天皇は江戸開城から半年を経た慶応4年(明治元年)8月27日(1868年10月12日)、政情の激しい移り変わりにより遅れていた即位の礼を執り行ない、明治元年9月20日(1868年11月4日)に京都を出発して、東京(7月に江戸から改称)に行幸(ぎょうこう、みゆき)した(東幸参照)。
東幸には岩倉具視議定(ぎじょう)中山忠能、外国官知事・伊達宗城らをともない、警護の長州藩、土佐藩、備前藩、大洲藩の4藩の兵隊を含め、その総数は3,300人にも及んだ。
天皇は同年10月13日(1868年11月26日)江戸城西の丸(現在は宮殿のみが建っている。現在の吹上御所とは別の場所)に入った際、江戸城も東京城と改称され、天皇の東幸中の仮皇居と定められた。そして、天皇は一旦京都に戻った。
翌明治2年3月28日(1869年5月9日)、再び東京に行幸した。1877年(明治10年)、東京の皇居に移っていた明治天皇が京都を訪れた際、東幸後10年も経ずして施設及び周辺の環境の荒廃が進んでいた京都御所の様子を嘆き、『京都御所を保存し旧観を維持すべし』と宮内省(当時)に命じて、保存され今に至っているという。
この明治天皇の東幸では、明確な遷都の詔は出されておらず、慶応4年7月17日(西暦1868年9月3日)の『江戸ヲ称シテ東京ト為スノ詔書』が発せられての行幸であったが、この詔勅は、本文と副書から成り、本文は、端的に天皇が江戸で政務を執ることと、江戸を東京に改称する旨を述べており、副書は、天皇が東京で政務を執ることの意義を述べている。
本文の内容を現代語訳すると、以下のようになる。
「私は、今政治に自ら裁決を下すこととなり、全ての民をいたわっている。江戸は東国で第一の大都市であり、四方から人や物が集まる場所である。当然、私自らその政治をみるべきである。よって、以後江戸を東京と称することとする。これは、私が国の東西を同一視するためである。国民はこの私の意向を心に留めて行動しなさい。」
このように、天皇が日本をひとつの家族として東西を同視するとし、江戸が東国で第一の大都市・要所であるため天皇がここで政治をみることと、そのために江戸を東京と称することが発表されただけのものであり、現在でも正式には日本の首都は実は京都であり、天皇が東京に「滞在」している間だけ東京に「臨時移動」していることになっているのである。
行幸とは天皇が外出することをいう。天皇が東京へ行幸後に 京都の皇居は留守状態になり、その後、首都機能が東京に移った際も明確な遷都の詔は出されておらず、東京での政務を続けているだけなのである。(東京奠都の項目を参照)。

ここのところ大地震や大津波など自然災害が多く発生している日本では、今、また、災害時の首都機能バックアップに関する検討委員会より皇室や文化庁 などを京へ移転させようという案が正式に出ている(※4参照)。
今のように何でもかんでも、東京に集中しているリスク分散のためには早急に実施した方が良いと思うのだが・・・。さて、この話はここまでとし、本題に戻ろう。

引越しは、人が生活する場所つまり、居所(住んでいる所)あるいは事業場を構えた所などを他の場所へ移すこと、またその作業のことであり、引越しをするということは何らかの事情があることが多い。その理由を大きく二つに分けると、自らの意思で引っ越したいという自発的理由と、自らの意思でないものの引っ越さなければならないという非自発的理由に分かれるだろう。

個人の場合、自発的な引っ越し理由としては○環境の改善(居住環境の刷新、居住面積の拡大、立地条件の改善)、○家庭環境、構成員の変化、(結婚、離婚、出産、子供の自立[進学、就職]、死亡、不和)、○経済的事情(失業、転職、貧困)などがあげられるだろう。
又、非自発的理由としては、○生活環境の悪化(食料・水不足、公害、騒音)、○ 職業上の必要性(転勤、転職)、○立ち退き(公共工事の実施、施設の老朽化、陳腐化)、○治安の悪化(暴力、破壊、戦争)、自然災害(地震 津波 土砂災害、洪水)などがあげられるだろう。
これは、会社・団体等についても同様で、○事業等の規模の変化(拡大、縮小、リストラ)○事業等の消滅(倒産、解散)といったものの他、個人の場合と似たり寄ったりの事情に寄るものがあるだろうが、先の明治天皇の京都の御所から、東京の御所への政務地変更などは、政治の中心地が東京へ移ったためのやむを得ぬ理由による居住地の移転であり、それは決して、明治天皇の望んだ自発的理由による転居ではなかっただろう。
明治天皇は遷都をしていないが、飛鳥奈良時代つまり、7世紀半ばから8世紀にかけての150年の間には、皇極天皇が営んだ皇居飛鳥板蓋宮造りから、桓武天皇による平安京建設まで、実に13回もの遷都が行われている。
つまり、単純平均すると、10年少々で遷都を繰り返したことになるが、これは、「大王(おおきみ)のくに」から律令国家へと大きく変わる過程で国家の規模が大きくなる転換期にあり、宮城を移した理由は、旧政治勢力から離れて新政を行う、政情不安を切り抜けようとする、人心を一新する、などの意図をもち、さまざまの政治的背景によるものであったが、それだけで、これだけ頻繁な首都の引っ越しを説明できるだろうか。
古代、自然崇拝の世界観は、清らかなものと穢れたものに二分された。
この穢れたものは一時も早く清めなければならない。「穢れ」は、(みそぎ)や(はらい)によってしかぬぐうことはできない。それでもまだ「 穢れ」を感じれば、居場所を変えるしかなかったのだろう。
日本人は、最大の穢れを死んだ姿に見出した。この死穢からの遁走、つまり、そのため先代天皇の死に当って、次ぎの天皇をしてその穢れから逃れるために、狭い飛鳥という盆地の中で、あちこち宮処を移させたのではないかという説がある。そこには、奈良時代の度重なる伝染病の発生も関連しているのではないかと思われる(※6、※7なども参照)。

庶民の話に戻るが、かっての引っ越しは地域共同体で助け合うものであった。現在の私が住んでいる家に越してきたのは、越してくる前に住んでいた家が市の都市計画道路上あったためである。
神戸の街は山と海に囲まれた狭い街であり、都市部の土地が少ない。それで、道路の拡幅をする計画が出て、実現するまでには、20年くらいかかったのではないか。
都市計画による道路を拡幅するために、市民には土地区画整理法 による宅地の減歩が義務づけられた。いくら減歩するかはそれぞれ宅地の広さによって異なるが、土地を持っているものは土地で、無い者は金銭で相応の負担をしなければならないのだから、もめて、年数がかかったのは致し方ないだろう。
それに神戸市の私のいる地域などでは数人の大地主が多くの土地を持っており、自前の土地に家を建てている人は少なく、大地主からの借地に家を建てている人、また、借地にアパートを建てていたり、貸家にしている人などが多く、権利問題が複雑であったことも起因している。
この土地・建物に関する複雑な権利問題は、後に発生した阪神・淡路大震災からの復興の際にも大きなネック(支障や障害)となっている。
私の家の場合は、土地は自分の所有なので、市と市民の間で個別交渉が始まった、ごく最初に交渉をして貰い、私の家の土地と私の家より15分ほど離れたところにあった市有地とを等価交換し、そこに家を新築して移った。どうせ移転するなら、いつまでもごねているよりは、早く交渉をして、少しでも良い場所に移った方が得だから自分の方から申し出て優先的に交渉してもらったのだ。
市の土地は現在の私の家の裏山への登り口の造成地であったが、その時しっかりと、市の造成図面を見せてもらい、埋立地ではなく切り崩した地盤の固いところを手に入れた。
家屋などを建てるための土地は、地盤の固いところを取得すべきことは、土地取得のためのいろはのいであり、このことは若いころから親父などに教えてもらって知っていた。これが後の阪神・淡路大震災の際、同じ町内の家が大被害を受けているのに、幸い私の家が外壁のひび割れていどの軽度の被害で助かった大きな理由でもある。
越してくる前の家は、戦後30年ほど住んでいたので、ご近所の人たちが、今の家に引っ越すときには、総動員で、駆けつけてくれ早く片付き、引っ越し先も近いことから午前中に引っ越しは完了した。
市に明け渡した家は、私たちが家財を引き上げた後すぐに、市の依頼した解体業者によって解体されていた。手際良いものである。
近所の人が大勢手伝ってくれたお蔭で、引っ越しは早く片付いて助かったのだが、ただ一つ、大事にしていたお好み焼き用の鉄板が、積忘れでなくしてしまった。
薄い鉄板なので、気が付かなかったのだろう。ただ、薄いとはいえ、同鉄板は、市販されているものではなく、お好み屋さんが使っていた業務用のものをカットして譲って貰った分厚い鉄板だったので非常に残念であった。
兎に角、引っ越しをすると、こんな鉄板を無くしただけではなく、それまで貯めていたごちゃごちゃしているものを思い切って処分してしまったが、このような時、大事なものまで処分してしまい後悔するなんてことは多いのではないか。
私の場合も、その一つに、趣味で数多く貯めていた漫画の単行本があり、白土三平の『カムイ伝』や『カムイ外伝』、さいとう・たかをの『ゴルゴ13』、神田たけ志の『御用牙』、小池一夫原作・小島剛夕画の『子連れ狼』など段ボールに入れて保管していたが、手伝いに来てくれた若い男の子がマンが大好きだというので、すべてやってしまった。
それに、何とも悔しいのは、その段ボールの中に、仕事の関係であることから手に入れて大事に保管していた手塚治虫の『ジャングル大帝』のアニメのセル画約20枚ほども一緒にやってしまったことだ。
やってすぐに気が付けば返してもらうのだが、何年もたってからではそうもゆかず、本当に情けない思いをした。今は、いろんなものに興味を持ち、コレクションなどしている私だが、当時、そのようなものにあまり価値観は持っていなかったせいもあるが・・・。
引っ越し、特に古い家から新築の家などへ引っ越しをすると、古い家具類やカーテンなど、色やサイズが合わなかったり、新しいところに古いものを置きたくないので、買い替えたりするので、直接の引っ越し費用とは別に、随分といろいろお金がかかるものだ。
ことわざに「引越し三両」というのがある。引越しをすれば何やかやで出費が馬鹿にならないことを言った言葉だが、本当にその通りだ。だから、どこの国でも、経済成長をさせるのに住宅建設に力を入れる。
新築の住宅に住むといろいろ部屋に合わせて買わなくてはならなくなるからである。今、安倍政権も一生懸命になっている。
贅沢に慣れた今の若い人達は、所得の割には高価なマンションを頭金もあまり入れずに手に入れているようだが、そのうち、日本にも、アメリカが経験したと同じようなサブプライムローン問題が起こりそうな気がしてしようがないのだが・・・。
出来ることなら、余り引っ越しなどしたくないものだが、サラリマンの場合など、就職をするときから、居住地より遠いところの企業へ入社したり、その後の転勤などで、繰り返し引っ越しをしなければならないことはよくあることだ。
神戸に住んでいた私など、社会人として大阪の商社へ入社した後、仕事で上司と対立し、やりたい仕事のあった東京の会社へ、再就職し、東京での生活もした。
幸い東京では成功していたのだが、親父が早く亡くなり母親の手一つで苦労して育ててもらった私(長男)は、結婚を機に神戸に帰り母親の面倒を見なければならないので、大阪の支店へ転属させてもらい実家に帰ってきたが、大阪の支店長とも対立して、別の大阪に本社のある会社へ三度目の就職をした。
その後、その会社で定着していたのだが、その会社は、ものすごい急成長をしていた会社なので、社員で能力もあり出世をしようと思うものは転勤が常習化していた。
私など、その会社では、営業から管理部門といろいろな職種を経験しのち、本社で少し、特殊な仕事をしていたので、日本国中いろんなところへの出張が多かったものの転勤することはなかった。
それでも、仕事柄、やむを得ず、愛知県、福岡、また、福岡の別関係会社へと3度職場を変わり、当然引っ越しもした。
福岡へ転勤した時には、女房が目を患い神戸の脳神経外科で手術をすることになったので、病気が治るまで神戸へ帰らせていたので、この期間は一人暮らしとなり、その間会社の飲んだくれ連中と独身を謳歌したお蔭で、いっぺんにメタポになってしまった。
それでも、私は、余り、神経質なタイプでではないので、どんな環境にあっても、仕事自体はマイペースでやってきたので、異郷の地に行っても、何も気にせず、地元の人とも親しくお付き合いをし、地元の観光をし郷土料理を味わい楽しく暮らしてきた。
「郷に入れば郷に従え」ということわざがあり、このことわざは、“その 土地やその環境に入ったならば、そこでの習慣ややり方に従うのが賢い生き方である、 といった意味であり、これが出来ずに悩む人も多いようだが、こと私に関しては、どこの土地でもすぐに慣れてしまうし、逆に異郷の地を楽しんでしまえるのが私の特徴だろう。
しかし、この会社は急成長会社であったので、若い将来性のある人ほど、キャリアを積ませる必要もあり、私も買っていた優秀な若者など、ひどい時には年に三回も転勤・引っ越しを繰り返したため、とうとう小学生の女の子がノイローゼになり、それを期に退職してしまうといった残念な結果も生じている。
今でも、サラリーマンにとっては、転勤は避けて通れないものであり、私の甥の中の二人も、転勤を繰り返し今は、東京、新潟の方に単身で引っ越している。
私は生まれてから親父の商売の都合で、5歳位までに神戸市内を2度引越しをしているが、戦時中であり、空爆が激しくなると3度目の家も焼夷弾が玄関先に落ちるなど危険が迫ったので、神戸から高砂市の父方の親戚へ疎開し、そこで幼稚園に入り、高砂市も重工業都市なので空爆の危険性が出たため、今度は徳島県の母方の親戚へ疎開し、そこで小学校に入学した。
終戦後神戸の父親から帰ってこいと連絡があり、帰った家は、疎開中に空爆で焼かれたらしく、焼け野原に残っていた家の一軒を買い取ったところに引っ越していた。それが、今住んでいる家へ越してくる前の家であるから、考えてみると、生まれてから、小学校に入学くらいまで5回家を引越し、それから、転職や転勤で、6回ほど引っ越しているから、11回ばかり知らない土地へ引っ越していることになる。
これが、他の人と比較して多いか少ないか知らないが、最近の若い人など、転勤を拒否して、動かない人も多いようだが、色々なところに住み、異文化を吸収することは、楽しいことだと私は思うのだがね〜。
「住めば都」とはよく云ったもので、どんなに辺鄙な場所であっても、住み慣れれば都と同じようにその土地、その土地の良さがあり、慣れれば住み心地がよいものなのだが・・・。ただ、年取ってからは、辺鄙なところに住むのは生活に支障があるので、最近は、都市部の高層住宅へ郊外から引っ越している人が多いようだ。

皆さんもよく知っている推理小説作家として有名な故・江戸川 乱歩(本名:平井 太郎)は、三重県名賀郡名張町(現・名張市)に名賀郡役所書記の平井氏長男として生まれて後、2歳の頃父の転勤に伴い鈴鹿郡亀山町(現・亀山市)、翌年名古屋市に移り、以降、大人になっても点々と引越しを繰り返し、生涯引っ越した数は46回にも及ぶという引越し魔だったらしい(Wikipedia)。
乱歩はもともと偏執狂的・整理癖の持ち主で、46回にもおよぶ転居では、それぞれの家の植木の名前まで書込んだ見取図や、家にまつわる思い出なども『貼雑」(はりまぜ)年譜』というものに書き込んでいたらしいよ(※8、※9参照)。

これはすごいと思っていたら、まだ上がいた。それが、江戸時代後期の浮世絵師葛飾北斎である。
北斎は、90歳の生涯のうちに幾度となく名や号を変えているが、93回もの転居を繰り返したことは、あまりにも有名な話である。
Wikipediaによれば当時の人名録『広益諸家人名録』(※10参照)の付録では天保7・13年版ともに「居所不定」と記されているらしいが、これは、あまりに頻繁に引っ越しをしたためだろうといわれているが、なんと一日に3回も引っ越したことがあるという(飯島虚心『葛飾北斎伝』)。そして、75歳の時には既に56回に達していたらしいという。
北斎が転居を繰り返したのは、彼自身と、離縁して父・北斎のもとにあった出戻り娘のお栄(葛飾応為)とが、絵を描くことのみに集中し、部屋が荒れたり汚れたりするたびに引っ越していたからであるという。どうも、大の掃除嫌いであったのだろう。
また、北斎は生涯百回引っ越すことを目標とした百庵という人物(幕府表坊主・歌人。寺町三知。※11参照)に倣い、自分も百回引っ越してから死にたいと言ったという説もあるようだ。
ただし、北斎の93回は極端にしても“江戸の庶民は頻繁に引越ししたらしく”、鏑木清方は『紫陽花舎随筆』において、自分の母を例に出し自分も30回以上引越したと、東京人の引越し好きを回想しているという。
なお、明治の浮世絵師豊原国周は、北斎に対抗して生涯117回引越しをしたそうだ。国周は自らも認めているほどの変わった性格をしていたというが、同じく転居の多かった葛飾北斎と比べ「絵は北斎には及ばないが、転居数では勝っている」と誇っていたという。

先に、“江戸の庶民は頻繁に引越ししたらしく”・・と書いたが、江戸に、城ができると人口が急増し、都市集中による地方からの引っ越しに始まり、江戸庶民は頻繁に市中で引っ越しをするようになる。
まず生まれたのが口入屋である。口入屋は江戸への転入者に対して、身元保証、雇入先の斡旋、就職先がきまるまでの宿泊案内、短期労働者への住居の斡旋を生業とした。
転入者の流入が進んだ17世紀後半(寛文・元禄)頃には地主が長屋を建て、借家経営をするのが一般的になる。現存する大家と店子の始まりである。
江戸では地主と家守(いえもり。屋守[やもり】とも。=大家のこと)は別で、多くの場合家守が屋敷地内に住居を構え、地代や店賃・家賃の徴収を代行した。家守はこれ以外に、住人の人別改め(戸籍調べ)や町触(法令)通達などを行い、事実上の行政管理者となっていった。
その制度的背景のなかで、家具をもたない身軽な江戸人たちは、頻繁に引っ越しをしたようである。
江戸時代は私たちの想像以上に経済社会化が進んだ時代であり今日のライフスタイルの原型が江戸の生活文化の中に見出せる。その一つに、貸物屋(損料屋)、現代でいうところのレンタル業がある。
狭い長屋暮らしに大量の所有物を収納するスペースは無く、様々な生活物品を貸し出す貸物屋(損料屋)が発達した。これは、長屋以外の小商売人にも一時的に必要な諸物品を賃貸して彼らの商売や生活を維持し円滑化する機能を果たしていた。
大阪の長屋では「裸貸(はだかがし)」と呼ばれる畳や建具を付けずに貸す方法が発達し、借家人が自分で建具を入れて暮らしていたという。
だからといって、引越しが大変になることはなかった。道具屋や損料屋というビジネスがあったから、引越す前に近所の道具屋に道具を売り、引越し先の道具屋から必要な道具を買えば、荷物は少なくて済む。また、何でも貸すというレンタル業の損料屋に、必要なものを必要な期間だけ借りるというスタイルが定着していたので、自分の持ち物は本当に少なく、収納場所もあまり必要ではなかったのだ。
しかも、1月分の長屋の店賃(たなちん=家賃)は、当時真面目に働けば2〜3日で稼げる程度の安い金額だったそうだから、そこに住むのが嫌になればいつでも簡単に引越せたわけだ(※13、※14参照)。

引越しの多い人物として海外でも有名なのが、音楽史上極めて偉大な作曲家で、「楽聖」とも呼ばれるベートーヴェンで、生涯で少なくとも70回以上引越しを繰り返したことでも知られている。
以下参考の※12:「町家コラム:第拾記」によると、ベートーヴェンも葛飾北斎同様に、引っ越しの回数が正確にわからないのは、住所不明の時期が多々あった為と思われるが、1年に1回以上行っていたことは確実のようで、また、それだけの引越しを行うこととなった原因も諸説あって面白い。
例えば、作曲用に行うピアノ演奏の音や歌声を家主や隣人に嫌われたことや、部屋を水浸しにする粗野な行水を嫌われたこと、そして整理整頓が出来なかった為、散らかれば転居していた等々である。そもそも、気難しい性格故、家主や隣人との衝突が絶えず、些細な部屋の欠陥も我慢出来なかったことも大きく影響しているようである。・・・という。
Wikipediaでも、ベートーベンの弟子のツェルニーは初めてベートーヴェンに会った時、「ロビンソン・クルーソーのよう」、「黒い髪の毛は頭の周りでもじゃもじゃと逆立っている」という感想を抱いたと言われる。また作曲に夢中になって無帽で歩いていたため、浮浪者と誤認逮捕されてウィーン市長が謝罪する珍事も起こったそうだ。
部屋の中は乱雑であった一方、風呂と洗濯を好むなど清潔好きであったと言われる。・・と書かれているので、作曲に夢中で、部屋の掃除などには無頓着、気難しく変わり者のベートーベンは、いろいろトラブルメーカーとしてご近所ともめることが多く引っ越しばかりせざるを得なかったのだろう。もし、このような人物が、自分の住んでいる住まいの隣へ引越してくると相手が引越すか、自分の方から引越しでもしなければ、今の世の中では裁判沙汰になるだろう。

私が若いころ、引っ越しをした中に、公団住宅一棟すべてを会社が借り上げ社宅としていたところへ引っ越したことがある。そこには、若い女子から部課長職クラスの人までが住んでいるので、若い人は随分と気を使ったようである。
中でも、部長は良い人で人気があるのだが、その夫人が少々意地悪で、トラブルメーカーになっていたが、会社の上司の夫人ではそれを表ざたにもできず困っている人がいた。社宅などに引っ越すとこんなことはよくあることのようだ。
兎に角、引っ越しで一番気になるのは、周囲の人との人間関係だろう。それに、引っ越しで何かと費用も大変だが、それ以上に引っ越し準備や家財の搬出入、その他、引越し前後の諸手続きも煩わしいしものだ。出来る限り、慣れた土地に住み、引越しをしたくない気持ちは引っ越し馴れしている者でも同じだろう。
しかし昔と比べれば、引越し作業そのものは、自分でしなくても、引越しを専門とする大手運送業者が引っ越しのサポートをしてくれるので楽になった。その上、こうした手続きも、本人に代わって行ってくれる代行サービスがあるようなので、今の時代金さえ出せば、便利な世の中にはなったものだ(※15、※16参照)。

立つ鳥跡を濁さずというように、 引っ越しの後片づけは入念にしておくことがエチケットである。それから、引越し先での人間関係を良くするためにも、日本独特の習慣の1つ、「引越し蕎麦」というものがあるので活用すべきだろう。
しかし、どうして引っ越した時に蕎麦を配るのか?
引っ越しの挨拶にそばを配るようになったのは江戸時代中期また後期の町人文化からはじまったという。  
近くの意のそばにひっかけ「おそばに末長く」、またそばの形態から「細く長いお付き合いをお願いします」といった意味合いは後からつけられたようで、本音は安くてうまくて喜ばれるといったことが第一だったようだ。
それまでは小豆を使った粥やお餅を配っていたようだが、それではちょっとした挨拶なのに丁寧すぎないか?という思いからだというが、この時代、小豆を使ったお餅やお粥は少し高価なものだった為、もう少し安上がりな挨拶はないか?・・・との思惑から、安値のそばに白羽の矢がたったというのが本音だったようだ。江戸期には乾蕎麦は一般的ではなかったし、生の蕎麦や茹でた蕎麦では時間による劣化が起こる。そのため江戸では「蕎麦切手」という一種の商品券のようなものを配ることが多かったようだ(※18のここ参照)。
昭和の初め頃までは、ごく一般に行われていた風習だったようだが、大阪ではこのような蕎麦を配る風習はなかったように思うのだが・・・・。
ただ、現代でも、引越し先での新しく住む所の隣人や家主にはタオルや洗剤のような実用品、お菓子、蕎麦などを配ることが多い。
昔は人とのつながりを大事にしていたことがわかるが、その気持ちは今も大事にしたいものだよね。

引越しは煩わしくて嫌だが、中国には、「孟母三遷の教え」(もうぼさんせんのおしえ)というのがある。
子供の教育には、環境が大切であるという教えであり「孟母の三居」ともいう。孟子の母は、はじめ墓地の近くに住んでいたが、孟子が葬式の真似をして遊ぶので、市場の近くへ引っ越した。ところが今度は孟子が商売の真似をするので、学校のそばへ引っ越した。すると礼儀作法を真似るようになったので、そこに安住したという故事から。出 典:は『古列女伝』からという(※17)。
この教えは史実ではないとされているらしいが、子供の育成に対する環境の影響に関して良く引き合いに出される。今日本では、貧富の格差だけではなくあらゆる面で格差が開いているが、学校間格差もできてきているという( 教育格差参照)。
教育熱心な親、またより高度な学問を追及しようと思う子供は、良いと言われる学校へ入るため居住地をかえることもある。日本では親までが一緒に引っ越しはできないので、大概は子供だけが、学校の寮に入ったり、寮がなければワンルームマンションなどを借りて住んでいることが多いだろう。
しかし、このようなことができるのは、親にそれ相当の甲斐性がないとできないので、結局それのできる親から生まれた子とできない親から生まれた子との間には、ますます、格差が出来てゆくということになるのだろう。

ところで、引っ越しで検索していると、壮大な引っ越し計画が見つかった。
国営の採掘会社LKABによる地下での鉱石採掘が進んでいるスウェーデン北部鉱山のキルナ(Kiruna)では、1万8000人が住む街の地盤が陥没によって住宅や庁舎などへの被害が予想されるため、町ごと引っ越すことが決められたという。
移動しようとしている先は、東に4マイル。つまり6.4キロ先で、新しい町のデザイン・コンペティションを勝ち取ったのは「Kiruna 4-ever」というプラン。100年以上の歴史ある建物や教会、市長舎、一般住宅などは解体され、移動先で復活する。他の住宅は壊され、新たに作られた建物にそれぞれが引越しするそうだ。
そこには3000戸の集合住宅、200戸の戸建住宅、キルナのランドマークとなるKiruna駅、教会、市長舎などが建設される。新規の交通システムは、気候の特性に配慮したものとなり、さらにはKiruna駅から鉱山へアクセスできるロープウェイも作られる予定だという。計画は2033年に完了する予定だそうだ(※19、※20参照)
世界に類を見ない町全体の壮大な引っ越し計画だ。
日本では2011年の東日本大震災 で、津波により市街地あるいは集落単位で建物やインフラが破壊され都市機能が失われた岩手・宮城・福島3県沿岸などの地域では、復興の方向性を巡る議論が行われ、一部は事業が開始されている。具体的なアイデアには以下のようなものがある(※21、※22参照)。
・高台への移転 - 消失した市街地や集落を、従来の津波浸水地域ではなく、高台に移転して再建するもの。被災地の土地を国・自治体が買い上げる形で公費負担により集団移転を行うことが計画されている(※21参照)。
・地盤かさ上げを伴う現地での再建 - 従来の津波浸水地域内で、地盤のかさ上げを行って津波のリスクを低減した上で再建するもの。区画整理方式や、拠点となる市街地を国・自治体が買い上げて一括整備する事業などが計画されている(※21参照)。
・職住分離 - 住宅、行政庁舎、高台、病院などは高台・地盤かさ上げ地に移転する一方、産業に関連する施設は従来の津波浸水地域内に残すもの。水産や観光が主産業で全面的な移転が難しい地域で検討されている(※22参照)。…等々。
いずれにしても、住み慣れたところに戻りたい人、新しい地域へ移転(引越し)して、一から出直したい人、年齢や所得、職業等、人によって いろいろ考えがあり意見調整は難しいことだろうが、一日も早く復興をして、スウェーデンなどに負けない良い街づくりをしてほしいものだと祈っている。
(頭の画象は、明治天皇の東京行幸("Le Monde Illustre"、1869年2月20日。Wikipediaより)

参考:
※1:今日は何の日〜毎日が記念日〜10月13日
http://www.nnh.to/10/13.html
※2:全国引越専門協同組合連合会
http://www.hato.or.jp/
※3青空文庫-夏目漱石 手紙
http://www.aozora.gr.jp/cards/000148/files/798_43613.html
※4:資料1 東京圏の中枢機能のバックアップに関する検討会 ... - 国土交通省
http://www.mlit.go.jp/common/000185224.pdf#search='%E7%81%BD%E5%AE%B3%E6%99%82%E3%81%AE%E9%A6%96%E9%83%BD%E6%A9%9F%E8%83%BD%E3%83%90%E3%83%83%E3%82%AF%E3%82%A2%E3%83%83%E3%83%97%E3%81%AB%E9%96%A2%E3%81%99%E3%82%8B%E6%A4%9C%E8%A8%8E%E5%A7%94%E5%93%A1%E4%BC%9A'
※5:奈良時代前後における疫病流行の研究 - 関西大学(Adobe PDF)
http://kuir.jm.kansai-u.ac.jp/dspace/bitstream/10112/3051/1/26-touka.pdf#search='%E5%A5%88%E8%89%AF%E6%99%82%E4%BB%A3+%E4%BC%9D%E6%9F%93%E7%97%85'
※6:飛鳥・奈良・平安時代の遷都
http://homepage2.nifty.com/kaidowalker/sento.htm
※7:奈良時代の遷都が穢れ思想を発展させた。 - るいネット
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=209793
※8:mm(ミリメートル) 江戸川乱歩『貼雑年譜』
http://mmaehara.blog56.fc2.com/blog-entry-1440.html
※9:江戸川乱歩年譜集成
http://www.e-net.or.jp/user/stako/ED1/E04set.html
※10:国立国会図書館デジタル化資料 - 広益諸家人名録
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2543329
※11:寺町三知|美術人名辞典-思文閣
http://www.shibunkaku.co.jp/biography/search_biography_number.php?number=18032
※12:町家コラム:第拾記
http://www.roommarket.jp/column/?p=30
※13:江戸時代の借家|土地活用の東建コーポレーション
http://www.token.co.jp/estate/history/edo/
※14:物品賃貸業の歴史的研究 - 立教大学(Adobe PDF)
http://www.rikkyo.ac.jp/eco/research/pdf/papar/58_2_2.pdf#search='%E3%83%AC%E3%83%B3%E3%82%BF%E3%83%AB%E6%A5%AD%E3%81%AE%E5%A7%8B%E3%81%BE%E3%82%8A'
※15:引越しの手続きを代行してくれる便利なサービス - 引越し虎の巻
http://www.leadingdesign.org/tetsuduki/benri.html
※16:引越しに伴う主な公的手続 - 行政書士法人 日本行政手続代理システム
http://www.tetuzuki-dairi.com/words.html
※17:孟母三遷の教え - 故事ことわざ辞典
http://kotowaza-allguide.com/mo/moubosansen.html
※18:そばの豆辞典:
http://jiten.kurumaya-soba.com/toppage.htm
※19:街ごと移転?鉱山の街、スウェーデン・キルナ市 - ニュースマガジン PUNTA
http://punta.jp/archives/11263
※20:スウェーデン、街全体が引っ越し。 - maash マーシュ
http://maash.jp/archives/23377
※21:復興の現状と取組−PDF
http://www.reconstruction.go.jp/topics/20130110_sanko03.pdf
※22:宮城県震災復興計画−PDF
http://www.pref.miyagi.jp/uploaded/attachment/36636.pdf
江戸時代の「1両」の価値って?(1)−お金の歴史 雑学コラム
http://manabow.com/zatsugaku/column15/
引越し - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BC%95%E8%B6%8A%E3%81%97



















全国・自然歩道を歩こう月間

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お彼岸や、体育の日も過ぎて季節は秋本番。
「天高く馬肥ゆる秋」とはよく言ったもの。は空気も澄んでいて、空も高く感じられ、馬も肥えるような収穫の季節でもある。秋の季節の素晴らしさをいう句で、多く手紙などで時節の挨拶としても用いられる。
実りの秋には新米や、さつま芋、それに果物類の梨、ぶどう、柿、栗、りんご、みかんなど分たっぷり、小松菜、大根、きゃべつ、魚類ではサンマ、イワシ、サケ、サバなど秋の味覚が食欲を誘う。秋になり馬や牛、鶏などが太るのは結構なことだが、せっかく夏痩せしていた人間も太る傾向がある。事実、私も結構食べるものには気を付けているのだが、せっかく夏痩せしていたものが、今は夏場より、2キロほど超えてしまった。来月早々のメタポ検診(特定健診制度)に、引っかからないよう調整しなければいけないのだが・・・・。太るのは簡単だが、なかなか痩せるのは難しい。
この「天高く馬肥ゆる秋」本来は違った意味であった。
出典は、中国盛唐の有名な詩人杜甫の祖父である杜審言(としんげん)が蘇味道に贈った詩『贈蘇味道』(蘇味道に贈る)に「雲浄妖星落、秋高塞馬肥」(「雲浄くして妖星落ち、秋高くして塞馬肥ゆ」とあるのに基づくもの(詩は※1参照)。この”塞馬(さいば)”は、北方の辺境を警備する軍側のの馬を指している。
昔、中国(中原)では、しばしば北方の騎馬民族の匈奴が収穫の秋になると大挙して略奪にやってきたので、前漢趙充国はそれを見抜き、「馬が肥ゆる秋には必ず事変が起きる、今年もその季節がやってきた」と、警戒の言葉として使ったもの。
しかし匈奴が滅びた後は、現在の意味で使われるようになったようだ。「天高く馬肥ゆ」ともいう(※2参照)。

秋は、社会通念・気象学では、9月・10月・11月 。日本の旧暦では文月から長月の間で今の8-10月ごろ。
二十四節気に基づく節切りでは立秋から立冬の前日までをいう。

秋の元の字は「」。
会意文字「龝」は、「」(穀物、稲)+ 「」(たばねる)で 作物を集めて束ねる事に由来。又は、元の字を「」+「灬」につくり、穀物につく「」(カメではなくイナゴ)を焼き殺す季節の意(白川 静)ともいう。
秋になるとイナゴが大発生して穀物を食べてしまうので、イナゴを「火」で焼いて豊作を祈る儀式をした。それが「秋」の元の文字であり、「説文解字」には「禾(か)穀の熟するなり」とある。
秋の語源には、この時期になると「禾穀(稲のこと)が飽(あ)き満ちる」季節となることから来たとする説がある(※3、※4参照)。他に、「空の色清明(あきらか)なる時節」から、また、紅葉などが赤くなるが、その「あか」が転じて「秋」になったという説などがあるようだ。

この季節は涼しくさわやかで五穀や果物が実り、「秋たけなわ」「食欲の秋」などといわれるが、一方では台風や前線の影響で雨が降りやすく、「秋の空」など変わりやすいことのたとえにされる。
やがて木々は紅葉し、草花は枯れて、冬へ向かう。盛りを過ぎること。終わりに近づいていることを「天下の秋」「人生の秋」と言ったりする。私などももう「人生の秋」なのだろう。
又、和歌などで、男女の仲の冷める意味で「飽き」に掛けて用いられている。「かりそめにおく露とこそ思ひしか秋にあひぬる我が袂(たもと)かな」〈『山家集』下。※5参照〉
「秋」の常用音訓は、「シュウ」、「あき」があるが、訓読みには、「危急存亡のとき」という言葉があるように、「秋」とかいて「とき」とも読む。「危急存亡の時」と書いても絶対間違いではないようだが、正しくは「危急存亡の秋」と書く。
中国・三国時代の国の名軍師・諸葛亮(孔明)が主君・劉禅に奏上した「出師《すいし》の表」にある言葉で、(国が)存続するか、はたまた滅亡するかというほどの危難が迫っている状況を表わし、「秋」は、五穀の実る最も重要な“時”を象徴していることからきているようだ(※2参照)。

このほか、秋を表す言葉に「読書の秋」もあるが、何故読書は秋なのか?
これも由来は古代の中国からきたもので、唐代の詩人韓愈(かんゆ)の漢詩「符読書城南」(『全唐詩』341巻)の以下の一文からきているらしい。
原文:「時秋積雨霽、新涼入郊墟。橙火稍可親、簡編可卷舒。」
直訳:「時秋(ときあき)にして積雨(せきう)霽(はれ)、新涼(しんりょう)郊墟(こうきょ)に入(いる)。灯火(とうか)稍(ようやく)親(した)しむ可)べ)く、簡編(かんぺん)巻舒(けんじょ)す可(べ)し。」
涼風が立ち、夜も長くなる秋は、灯火のもとで読書をするのにふさわしい・・・・「灯火親しむべし」ということ。
日本でも秋に読書が定着したのは大正時代(大正13年= 1924年)に日本図書館協会がこの韓愈の文を用いて11月に読書週間(当時呼び名は図書館週間)を開催したのが始まりだという。

気候がよく過ごしやすいことから、秋祭り運動会などの行事も多く開かれ、たいへん賑やかな季節でもある秋。
「食欲の秋」「スポーツの秋」「読書の秋」「芸術の秋」など、さまざまな言葉が冠され、秋の行事が目白押しである。家には新聞広告など、観光旅行の案内がワンサカときている。
旅行に行けば、旅行先にかかわる歴史書など車中で読書も出来るし、旅行先の名所旧跡、それに美術館などを見て回り、産地の名物など季節の物も味わうことができる。また、名所旧跡を見て歩くと、結構足の運動にもなる。何もかも楽しむにはもってこいだ。
しかし、私など、現役時代に仕事柄全国を出張し、その都度、休暇を取ってはその地を観光し、また、夫婦でもさんざん旅行をしてきたので、今は余り、観光旅行そのものには興味がなくなってしまった。
ただ、齢を取り家にこもって動かなくなったので、適度の運動をしないとメタポになってしまう。暑い夏が過ぎ、涼しい季節にもなったので、夫婦で近場の静かな自然道などを自分のペースでゆったりと散策するのが良いな〜などと考えていたら、この10月は、「全国・自然歩道を歩こう月間」(Month for National Nature Trails Walking)となっている(※7参照)。
多くの人が自然や文化に恵まれた自然歩道を歩くことにより、自然への理解を深めることを目的として設けられた環境省のプロモーション月間である。
環境省では、1992年度から、10月1日から31日までの1カ月間を同月間と定めて、全国各地で自然歩道を歩く行事の実施を提唱している。
車に依存し過ぎることなく、歩くことを豊かな生活の一部としてとらえて自然とのふれあいを楽しむ機会を増やして、多くの人に自然を守ることの大切さを実感してもらおうというのがねらい。
実施主体は同省のほか、都道府県、市町村、日本ウオーキング協会をはじめとする各種団体などがあり、平成24年度も、長距離自然歩道を始めとする全国各地の自然歩道を歩きながら、自然に親しみ、自然への理解を深めるための各種行事を全国的に展開している。
長距離自然歩道とは四季を通じて手軽に、楽しく、安全に自らの足で歩くことを通じて、豊かな自然や歴史・文化とふれあい、心身ともにリフレッシュし、自然保護に対する理解を深めることを目的として、環境省が計画し、各都道府県が整備を進めているものである。
昭和45年(1970年)の東海自然歩道の整備に始まり、九州・中国・四国・首都圏・東北・中部北陸・近畿と8つの自然歩道が整備され、9つ目となる北海道自然歩道は、平成15年に計画が策定され、整備をしている。計画路線の延長距離は4,585kmで、整備が完了すれば全国の総延長は約26,000kmとなるそうだ。
家族向けのコースから本格的な健脚コースまで、各地の見どころを楽しく歩けるようになっている。
行事一覧など詳細は、以下の環境省HP(自然大好きクラブ)をご覧になるとよい。
環境省HP(自然大好きクラブ)
http://www.env.go.jp/nature/nats/index.html

私の住んでいるところから近いところは近畿自然歩道の中にあるが、近畿自然歩道は、近畿を中心とした2府7県(福井、滋賀、三重、京都、大阪、兵庫、奈良、和歌山、鳥取)をとおり、太平洋及び瀬戸内海と日本海とを結ぶ路線延長3,258kmにわたる、全国で8つ目の長距離自然歩道だ。
この近畿自然歩道は、四季を通じて手軽に楽しく快適に歩くことが出来るように、テーマを決めて1日コースを設定し、この歩道を歩くことにより、多様な自然にふれあい、自然の中で培われた地域の歴史・文化などを認識することができるようになっている。
そこで、私の居住地兵庫県の中から今まで行ったことのないところを探し2つほど候補地に挙げてみた。
近畿自然歩道 山陽路ルート34、猪名川渓谷、屏風岩を訪ねるみち(猪名川町松尾台〜猪名川町万善)と38、六甲連山を望むみち(神戸市北区大沢町神大沢〜神戸市北区阿淡河町野瀬)である。どんなところかは以下参考の※8:近畿自然歩道 山陽路ルート参照(冒頭の画像は「38、六甲連山を望むみち」、のものを借用)。
家人は最近足の調子があまり良くないので、無理させられない為、まだ決めたわけではなく、これから、いろいろ資料を集め、十分調べたうえで、二人で相談して行ってみようと思っている。この2コースなら距離は8?〜10?ほどだから大丈夫だろう。
他にも色々と良いところがあるようなので、健康のためにも、家族、また友人と空気の良い自然歩道を歩くのは秋のレジャーとしてはおすすめではないだろうか。紅葉の名勝地もあるし、皆さんも考えてみては・・・。

参考:
※1:よくわかる中国 » 天高く馬肥ゆる秋
http://11524blog.digbook.jp/archives/20
※2:故事ことわざ辞典
http://kotowaza-allguide.com/
※3:灬部とは (カブとは) [単語記事] - ニコニコ大百科
http://dic.nicovideo.jp/a/%E7%81%AC%E9%83%A8
※4:秋とは (アキとは) [単語記事] - ニコニコ大百科
http://dic.nicovideo.jp/a/%E7%A7%8B
※5:さんかしゅう(山家集) - Agora Sofia日本語辞典
http://jiten.eu/article/15909
※6:灯火親しむべし:原文・書き下し文・意味 - Web漢文大系
http://kanbun.info/koji/tokashita.html
※7:全国・自然歩道を歩こう月間 - 環境省
http://www.env.go.jp/press/press.php?serial=15753
※8:近畿自然歩道 山陽路ルート
http://www.pref.hyogo.jp/JPN/apr/hyogoshizen/shizenhodou/sanyoroute.html
秋 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A7%8B
長距離自然歩道 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E8%B7%9D%E9%9B%A2%E8%87%AA%E7%84%B6%E6%AD%A9%E9%81%93

踏切の日

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何時もこのブログを書くのに参考にさせてもらっている「今日は何の日〜毎日が記念日〜」(※1)に毎月23日は、「踏切の日」があった。しかし、この記念日の由緒や何時何処が何のために記念日を設置したのか等何も書かれていないし、また、日本記念日協会にも記念日登録が見られない。
ただ、毎月23日が記念日に登録されているのは、「ふ(2)み(3)きり」の語呂合わせからであろうことだけは察しが付く。
記念日の趣旨が何かは知らないが、今日は、記念日にあやかって踏切に関することを書くことにしよう。

踏切は、鉄道と道路法(昭和二十七年法律第百八十号)による道路平面交差する場所をいい、「踏切道改良促進法」(昭和三十六年十一月七日法律第百九十五号。※2参照)など法律上は踏切道という言葉を使っている。

日本の現行法令(※3:「鉄道に関する技術上の基準を定める省令」参照)40条では、踏切道は踏切道を通行する人及び自動車等(以下『踏切道通行人等』という。)の安全かつ円滑な通行に配慮したものであり、かつ、第62条の踏切保安設備(踏切警報機遮断機、または踏切警報機のみ)を設けたものでなければならないとされている。ただし、以前から存在するものについてまでその義務を新たに課したものではない(※4参照)。
踏切には保安設備により第1種から第4種があるが、現在一般的なのは“自動踏切警報機と自動遮断機を設置するか、踏切保安係を配置して、列車が通る際に道路の交通を遮断機によって、通過する全ての列車または車両に対して、道路を遮断するものとなっており、第3種(遮断機はないが踏切警報機が設置されているもの。)は第1種甲に転換され数が減ってきている(種類についてはここ参照)。
それでも最近の鉄道関連の死亡事故は、そのほとんどが踏みきりで起きている。

日本におけるSFの始祖といわれる小説家海野十三はエッセイ(随筆)『恐怖について』で以下のように書いている。(※青空文庫参照)
“私は踏切を通ることが恐しい。うちの近所には、番人の居ない踏切があつて、よく子供が轢き殺され、「魔の踏切」などと新聞に書きたてられたものである。あすこへ行き掛ると、列車が風を切つて飛んできて、目と鼻との間を轟々と行き過ぎることがある。列車が通過してから、その光つてゐるレールを跨ぐときに、何とも名状し難い戰慄を覺える。もしも自分の眼が狂つてゐて、列車が見えないのだつたらどうだらう。かう跨いだ拍子に、自分は轢き殺されてゐるのだ。人間といふものは、死んでも、死んだとは氣がつかないものだといふ話を聞いてゐるので、レールを跨ぎ終へたと思つても安心ならない。こんな風に恐怖をもつて踏切を渡るのは、私一人なのだらうか。”・・・と(※5:青空文庫参照)。

海野だけではないだろう、私が神戸市都市計画のために今の家に引っ越してくる前の家は、今の家から10分ほど離れたところにある私鉄の駅の前にあった。
その家には終戦後、徳島の疎開先から戻ってきて、私が小学校に入ったころから住んでいたが、同駅から少し離れたところに無人の踏切があり、当時は他にも同じような無人の踏切が沢山あったのになぜかそこだけはしょっちゅう事故が起こるので、近所の人の間では「魔の踏切」と呼ばれていた。そんな場所で、夜の暗闇で青白く光るレールなど見ていると確かに不気味な感じを覚えたものだ。
当駅は、1995(平成7)1月17日(火)に発生した阪神・淡路大震災で倒壊し、戦後栄えていたこの駅周辺は、戦後と同じような焼け野原と化した。だから私の家も、もし今の家へ引越しをしていなければ当然、他の家と同様に震災により倒壊した上火災に会いひどいことになっていただろう。
震災からの復興により、この駅は、今では地下に潜り、地下駅となり市営地下鉄と地下で交差する形になっている。
こうなる前のこの私鉄の駅は、南側はかっての神戸市電の終点で市電がなくなってからは、バスのターミナルとなり大通りには銀行や商店が多く並び私の家もその一角にあった。
駅の反対側(北側)は 戦後市場を中心に発展した繁華な商店街があった。乗降客の多いこの駅は南側、北側それぞれに改札口のある独立した駅舎があり、乗客は、踏切を渡ってそれぞれの改札口から駅に入り電車に乗るようになっていたが、この駅前の繁華な商店街の一部区間には郊外へ行く路線バスが走り、このバスも踏切を渡るし、朝のラッシュ時はいつも多くの踏切を渡る人で混雑をしていた。
また、電車の本数も多いことから、この駅前の踏切には踏切番も常駐していたが、やがて、開かずの踏切となり、乗降客を悩ませた。急ぐものは、無理やり遮断機を押し上げて通ろうとする者もいたりして、トラブルことも多かった。
私も、通勤で毎日、このいったん閉まると何本も電車が通り過ぎるまで開いてくれない開かずの踏切待ちでイライラさせられたものだが、このような踏切問題は、長年の社会問題の一つでもある。

日本では踏み切りというと常に列車優先で、列車が来れば遮断機が道路の通行を遮るもの(遮断機はレールと平行)が殆どだが、日本国外では鉄路が遮断される構造(遮断機は道路と平行)の踏切も多く存在するそうだ。
鉄道発祥の地イギリス(イギリスの鉄道参照)より遅れること40年、明治政府は文明開化の象徴としていち早く鉄道建設に着手、維新の5年後の1872(明治5)年10月14日には新橋〜横浜間に、我が国初の鉄道が開通したが、踏切はその頃より存在していた。
当時の土木工事の水準や経済力の成約からやむを得ず道路と鉄道は平面交差で敷設せざるを得ず、結果として多くの踏切が誕生した。以降選挙の度に「我田引鉄」(強引な誘致運動。「我田引水」をもじった言い方。鉄道と政治参照)によって、日本の昭和初期には、今日の鉄道網の原型ができあがり、このことが、今なお踏切問題の遠因となっている。
ただ、鉄道創業当時つまり、明治時代初期の踏み切りは、日本も国外のものと同じ構造で、いつも線路の方に遮断機が降りていたのだそうである。踏み切りのところでは、線路の両側に、汽車に対する危険合図が掲げられ、汽車がやってくると、踏切番が線路上の遮断装置を開いて、現代の踏み切りと同じように、道路の通行を遮断した。この方法が、1887(明治20)年ごろまで続いていたという。
その後、今度は、普段は道路の方に遮断機を下ろしておく、という方法に変わった。通行人が踏み切りにやってくると、踏切番は、道路の遮断機を開き、線路の方を遮断して、線路の遮断装置が閉ざされていることを列車に示す危険合図を掲げた。そして、通行人が渡り終えると、また元の状態に戻して列車を通した。 (※6:「『鉄道なるほど雑学事典』の“草創期の踏切は何と記者の通行を遮断していた!を参照)という。
明治初期の歩行者優先だった踏切はまるで横断歩道のようでうらやましい限りである。
因みに、現在、鉄路が遮断される形態の踏切は、阪神電気鉄道武庫川信号場武庫川駅至近)から本線へ出る連絡線上にあるものや、東京地下鉄銀座線上野検車区入り口付近に設置されているものなどが挙げられる(※7参照。東京地下鉄銀座線上野検車区のものは動画も見ることができる)。ただし、いずれも通過は列車優先である。

鉄道建設や産業の発展に合わせ交通手段の主役が徒歩から急速に鉄道に切り替わってきたことに伴い、鉄道の利便性を求め鉄道路線に沿って市街地が拡大。鉄道が市街地に飲み込まれ、道路も整備され道路と鉄道の平面交差の踏切も増加した。
明治初期の歩行者優先だった踏切が現在の列車優先の踏切に変わったのもこのような経済成長と共にものの考え方そのものが効率重視に変わってきたせいだろう。
戦後の急激な大都市への人口流入に伴い昭和20〜30年の間に踏切事故が激増した。
相次ぐ踏切事故を契機として、1952(昭和27)年に新設道路は鉄道と立体交差を原則とする旨道路法(※8)が規定化された。
1961(昭和36)年には、新設道路のみでなく、 既存の平面交差の都市計画道路等についても、 立体交差化の見直しが促進されることとなり、道路と鉄道の立体交差の促進のため、「踏切道改良促進法」(※2)が制定され、道路管理者も鉄道管理者も積極的に踏切除去、保安対策に手を付け、踏切数、踏切事故が急速に減少へ転じた。
しかし、昭和30年代以降高度経済成長を中心に大都市などの都市部に大規模な人口社会移動が発生し、鉄道沿線を中心に都市郊外住宅公団、沿線住宅開発が急速に進み、都市化社会の中で、市街地は急速に外延化(都市が郊外へ移る、拡大すること)した。
そして、市街化の進展や自動車利用の伸びに対応した道路整備も並行して行われたが、結果として、踏切数の増大をもたらし、市街地の外延化やモータりーゼーションの進展に伴い、道路交通量が増大するとともに、鉄道利用者の増大に対応した列車運行本数が増加し、踏切における交通遮断状況がますます深刻化することになった。

1961(昭和36)年の踏切道改良促進法の施行にともない、その結果、国土交通省の調べでは踏切数は、1961(昭和36)年をピークに減少しつづけ、現在(平成21年現在)では、JR(旧国鉄)、民鉄ともピーク時の約半分、合計約 3万4千箇所となり、また、モータリゼーションの進展に伴い、道路と鉄道の立体交差は1975(昭和50)年以降年々増加し、現在では立体交差化率(道路と鉄道の交差箇所数に対する立体交差数の比)は45%を越えているという(※9:の“踏切道の現状”を参照)。
踏切道における事故は、踏切道改良促進法導入後、著しく減少し、1979(昭和54)年以降、踏切事故件数の減少と踏切道の減少が同じような傾向になっている。
しかし、現在でも踏切全体の94%で歩道が未整備(歩道が無いか又は前後区間に比べ狭いもの)となっており、そのうち前後区間に比べ歩道が狭小な踏切だけでも約1,500箇所あるといい、歩行者の滞留や横断時における自動車と歩行者との錯綜がみられ、安全性の向上が課題となっている。
そんな中で、平成21年度の踏切事故は356件発生し、踏切事故による死傷者数は276人にもなっている(※9の“踏切の抱える問題”参照)。
国土交通省では、全国の道路管理者および鉄道事業者の協力のもと、全国の踏切交通実態総点検を実施したところ、緊急に対策の検討が必要な踏切は1,960箇所(平成19年4月あり)、その内訳は以下のようだたそうだ(※10参照)。
?開かずの踏切 : 589箇所、
?自動車と歩行者のボトルネック踏切 : 839箇所 (中・開かずの踏切:538箇所  ・歩行者ボトルネック踏切:301箇所 )
?歩道が狭隘な踏切(開かずの踏切との重複を除く) : 645箇所
ボトルネック踏切とは、通称「開かずの踏切」と呼ばれる踏切などの国土交通省による呼称であり、踏切交通遮断量(自動車1日あたりの交通量×1日あたりの踏切遮断時間)が5万台時/日以上の踏切のことを言い、開かずの踏切とは、ボトルネック踏切のうち、ピーク1時間あたりの遮断時間が40分以上の踏切のことを言うようだ。
用語の○速効対策とは、踏切の歩道拡幅、立体横断施設の整備、遮断時間の短縮を図る賢い踏切の導入など、効果が早期に発現する踏切交通の円滑化、安全性の向上を図る対策のことを、 ○ 抜本対策は、連続立体交差化など、踏切自体を除却することにより、踏切問題を抜本的に解消しなければならない対策を言うようだ(※9の“踏切交通実態総点検”参照)。
こうした調査を踏まえて国土交通省も特に問題が深刻な踏切などへの対応を打ち出してはいるのだが・・・。
2013年の今年、今月(10月)1日にも、午前11時半ごろ横浜市緑区中山町のJR横浜線鴨居中山駅間の川和踏切で線路内にいた男性(74)を助けようとして同区台村町会社員の女性(40)が下り列車にはねられ死亡するといった事故が発生している。

●上掲の画象は、その時の現場の様子である。(2013・10・02朝日新聞朝刊より)
男性は左鎖骨を折るなどの重傷を負ったが命に別条はないという。神奈川県緑警察署によると、男性が下り線の線路上に横たわったまま踏切の遮断機が降下。
先頭で父親の運転する車の助手席に乗って踏切待ちしていた女性は、それを見て、車を降り、踏切に入ってはねられた。
現場を歩いて、踏切待ちをしていた男性(33)は、「『ひかれちゃう』と言いながら、女性は踏切に入った。自分が非常ボタンを押したが、間に合わなかった」と話していた。
父親の話によると、彼女は、踏切内の男性を見て「助けなきゃ」と話し、「ダメだよ、止めろ」と制する父親を振り切って車を降り、踏切に入り、線路上で横ばいになっていた男性のもとにしゃがみ込んで動かそうとしたという。
父親は彼女は「困っている人を放っておけない子だった。助けられた男性には長生きして欲しい」と語り目頭を拭っていたが、人のことなど知らんふりしている人が多くなった今の時代に、こんな優し良い人が、人を助けようとして亡くなってしまったこと非常に残念なことである。彼女のご冥福を心よりお祈りするしかない。
電車待ちしていた男性が助けに入った女性を見てすぐに非常ボタンを押したにもかかわらず電車は急停車が間に合わなかった。テレビ報道などによると電車の運転者側からは見通しの悪い場所の様である。そうなると、踏切がある以上は、このような大事故はなくならないことになる。
助けられた男性は入院中で緑警察では回復を待って踏切内にいた経緯を聞く方針というが、事故があったのは警報器も遮断機もある踏切というから第1種踏切出の意事故ということになる。
男性がどのような事情で踏切内に倒れていたかの詳細は分からないが、亡くなった女性の父親が言っているように助かった命、どうしても長生きしてあげなければ、女性は浮かばれないだろう・・・。
このような踏切内に倒れている人を助けようとして亡くなる事故は、昨年JR高崎線でもあったのを思い出した。詳細は覚えていないので、以下参考の※11:「埼玉県本庄市JR高崎線上町踏切~二人が亡くなった踏切」を参考に書かせてもらう。
それは、昨・2012年11月埼玉県本庄市JR高崎線の上町踏切で、男性(70)と、女性(60)が列車に撥ねられて亡くなった事故であり、列車は高崎発小田原行きの上り特別快速列車(10両編成)だった。
ここの踏切も、警報機、遮断機が設置されている第1種踏切で、また、車両を検知するための障害物検知装置(略して「障検」)と、踏切の異常を運転士に知らせるため、特殊発光器を発光させる非常ボタン(列車非常停止警報装置)が踏切の2か所に設置されていたという。
本庄署では列車の運転士の目撃情報から、女性が男性を助けようとして、下りていた遮断機をくぐって踏切内に入り、事故に巻き込まれたと見ている。同署の調べによると、列車の運転士は走行中、前方で踏切内にしゃがんでいる男性を発見し、ブレーキをかけた。その直後に、女性が遮断機をくぐって男性にかけより、背後から男性の両脇をかかえて線路の外に運び出そうとしていたという。しかし、電車はブレーキが間に合わず、二人を撥ね、二人は亡くなったとしている。ただ、通行人が非常ボタンを押した形跡はないという。
彼女も今回の横浜線で事故にあった女性同様、「困っている人を放っておけない性格」の人であったのだろう。自分が死ぬかもわからなくても困っている人を見たら助け出そうとする行動は、普通の人にはなかなか真似のできないことであるが、河でおぼれかけている人を助けようとして助けようとした人までもが一緒におぼれることが多いのと同様、このような危険な状況を目にしたら誰にでも助けてあげなさいとはなかなか言えないなかなか難しい問題でもある。
ただ、自転車に乗って横断していると、路面が悪く自転車がはずんで荷物を落とすこともある状況らしく、通行者が、そんな荷物などをとりに引き返したりしないよう路面の整備等はきちんとしてもらわなくては困るよね〜。
それから、ここの踏切のことではないが、特殊信号発光機は、ボタンを押す以外にも、人(物)にも反応するそうで、心無い沿線住民が、踏切が降りてるのに平気で渡る(しかも複数が)ことから、信号が赤になったり青になったりして、列車乗務員にとって大変なようだ。そして、これにより、列車遅延の原因にもなり、設置を減らそうとしているとも言われている。通行人も交通ルールを守る必要はあるようだ(※12参照)。
それにこのような、警報機や遮断機のある踏切はまだいいが、これらがなにもない踏切(第4種踏切)のあるところはもっと事故が多い。以下参考の※13:【「必要悪?】死亡事故続出の「第4種踏切」、悲しい事情」によると、秩父鉄道には、70キロメートルを超える路線に第4種踏切が99カ所もあり、1999年以降の踏切事故死亡者は14人もいるという(ブログ更新日2013年07月02日)。
人が近付くと音声装置が、踏切であることを注意喚起するが、その時はまだ目の前に列車が近付いているわけではないので、この音声装置に慣れてくると、列車が来ないだろうと渡ってしまいかねない人が多いのだという。このような、第4種踏切は是非改善しないといけないよね〜。

国土交通省が問題となる「緊急に対策が検討の必要な踏切」としているものの多くは大都市圏に存在し、東京23区の踏切数だけを見ても、海外の主要都市に比較して圧倒的に多く、パリの約60倍にも達している。
【東京23区と海外の主要都市との踏切数の比較】(※13参照)
東京23区672箇所(平成21年現在) 
ニューヨーク 122箇所(平成17年現在)
ロンドン   10か所(平成17年現在)
ベルリン   46か所(平成17年現在)
パリ     11か所(平成21年現在)     

急激な都市化や道路交通量の増大に対応した社会資本に追われてきた20世紀、踏切問題は20世紀の負の遺産ともいえる問題であり、早期に解消すべき事項であるが、なかなか、費用を要する問題でもあり、鉄道事業者、道路管理団体(地方公共団体)とも取り組みが消極的な様である。
しかし、踏切問題は、踏切の存する地域住民の生活に大きな影響を及ぼす問題でもあり、問題発生の原因者である鉄道関係者、道路管理者等はもっと積極的に解決に取り組んでもらいたいものだ。こんな不幸な事故を起こさないためにも・・・ね。

参考:
※1:今日は何の日〜毎日が記念日〜
http://www.nnh.to/
※2:昭和36年法律第195号【改正履歴等】(踏切道改良促進法について)
http://hourei.hounavi.jp/seitei/enkaku/S36/S36HO195.php
※3:鉄道に関する技術上の基準を定める省令
http://www.lawdata.org/law/htmldata/H13/H13F16001000151.html
※4:下級裁判例 平成20(ワ)8 損害賠償請求事件 (PDF) - 裁判所
http://www.courts.go.jp/hanrei/pdf/20090417195030.pdf
※5:青空文庫:作家別作品リスト:No.160作家名: 海野 十三
http://www.aozora.gr.jp/index_pages/person160.html
※6:『鉄道なるほど雑学事典』
http://books.google.co.jp/books?id=dMNPpKB6ct8C&pg=PT136&lpg=PT136&dq=%E9%89%84%E9%81%93%E3%81%AA%E3%82%8B%E3%81%BB%E3%81%A9%E9%9B%91%E5%AD%A6%E4%BA%8B%E5%85%B8&source=bl&ots=rQhqhVtrNL&sig=zam0WtzZkd_N-i_3zZnxfLyYSXY#v=onepage&q=%E9%89%84%E9%81%93%E3%81%AA%E3%82%8B%E3%81%BB%E3%81%A9%E9%9B%91%E5%AD%A6%E4%BA%8B%E5%85%B8&f=false
※7:レイルエンヂニアリング 阪神本線 - 武庫川信号場
http://oomatipalk2.blog91.fc2.com/blog-entry-14.html
※8:道路法
http://law.e-gov.go.jp/htmldata/S27/S27HO180.html
※9:国土交通省道路局| 踏切の現状と対策
http://www.mlit.go.jp/road/sisaku/fumikiri/fu_index.html
※10:緊急に対策の検討が必要な踏切箇所一覧(都道府県別)(Adobe PDF)
http://www.mlit.go.jp/common/000233453.pdf#search='%E7%B7%8A%E6%80%A5%E3%81%AB%E5%AF%BE%E7%AD%96%E3%81%8C%E6%A4%9C%E8%A8%8E%E3%81%AE%E5%BF%85%E8%A6%81%E3%81%AA%E8%B8%8F%E5%88%87'
※11:埼玉県本庄市JR高崎線上町踏切~二人が亡くなった踏切
http://tomosibi.blogspot.jp/2013/01/jr.html
※12:踏切非常ボタン(特殊信号発光機)|列車運転士のつぶやき
http://ameblo.jp/918101/entry-11463771882.html
※13:【必要悪?】死亡事故続出の「第4種踏切」、悲しい事情
http://matome.naver.jp/odai/2137272352111380201
※13;社会資本整備関係 参考資料(国際比較) 平成22年11月24日- 国土交通省
http://www.mlit.go.jp/common/000129516.pdf#search='%E8%B8%8F%E5%88%87%E6%95%B0+%E8%AB%B8%E5%A4%96%E5%9B%BD%E3%81%A8%E3%81%AE%E6%AF%94%E8%BC%83'
川和踏切のリアルタイム検索結果
http://realtime.search.yahoo.co.jp/search?rkf=2&ei=UTF-8&p=%E5%B7%9D%E5%92%8C%E8%B8%8F%E5%88%87
踏切 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B8%8F%E5%88%87


マナーの日:参考

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参考:
※1:NPO法人・日本サービスマナー協会
http://www.japan-service.org/
※2:「お客様は神様です」について - 三波春夫
http://www.minamiharuo.jp/profile/index2.html
※3:戦略的人材マネジメントの考え方
http://granaile.jp/column/shrm01.html
※4:社内諸規定類作成サポート - FMS
http://www.fms9.com/G020.htm
※5:就業規則作成11.賞罰に関する規定(報奨・懲戒処分)
http://kawamura-sr.blogdehp.ne.jp/article/13108838.html
※6:夏目漱石 模倣と独立 - 青空文庫
http://www.aozora.gr.jp/cards/000148/files/1747_14970.html
※7:カント(2)−実践理性
http://www.geocities.co.jp/HiTeens/8761/germanphilosophy02.htm
※8:カントの道徳観
http://www.geocities.jp/sa_e1983/reports/kant.html
※9:発達の規定要因 - DTI
http://www.oak.dti.ne.jp/~xkana/psycho/clinical/clinical_10/
※10:憂楽帳 アーカイブ:毎日jp
http://mainichi.jp/opinion/column/yurakucho/archive/
※11:【アメリカ】政府のシャットダウンで観光地も閉鎖。閉鎖と ... - NAVER まとめ
http://matome.naver.jp/odai/2138120750301467001/2138121063604091703
※12:MSN産経ニュース-【主張】ヘイトスピーチ 正当な批判と侮蔑は別だ - MSN産経ニュース
http://sankei.jp.msn.com/affairs/news/131009/trl13100903330000-n1.htm
※13:「餃子の王将」で裸、客2人逮捕 店の業務妨害容疑 画像はネット公開-msn産経ニュース
http://sankei.jp.msn.com/affairs/news/131007/crm13100716420009-n1.htm
※14:土下座強要女”を逮捕に追い込んだ「鬼女」の正体-東スポWeb
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20131009-00000002-tospoweb-ent
※15:ストレス社会
http://www.geocities.jp/kurusiminobara/rose1/sutoresu.html
※16:神戸淡路大震災下での治安状況は? | その他(社会問題)のQ&A
http://okwave.jp/qa/q3116176.html
※17:子育て・しつけのポイント(1)(幼児期)
http://www1.odn.ne.jp/k2/counsering/yasogawa/00y/kougiroku0004y.htm
※18:つれづれ 江戸の父親たち
http://higanzakura.blog107.fc2.com/blog-entry-111.html
※19:図録高校・大学進学率の推移
http://www2.ttcn.ne.jp/honkawa/3927.html
※20:孟子を読む:梁惠王章句 雑感(その2)
http://suzumoto.s217.xrea.com/website/mencius/mencius02-last_b.html
※21:NPO法人江戸しぐさ
http://www.edoshigusa.org/
※22:作法 マナーとルール 礼と法
http://web.sugiyama-u.ac.jp/~yamane/sahou/rule.html
※23:どんな時に救急車を呼ぶべき?「救急車利用マニュアル」登場
http://woman.excite.co.jp/lifeplanning/news/rid_29346/
※24:「接客マナーは心の礎」 おもてなしの「礎」語源
http://projectishizue.blog60.fc2.com/blog-entry-154.html
しつけはどうしたらいいの - トコトン ハテナ
http://www.tv-tokyo.co.jp/tokoton/backnum/backnumber_06.html
ストレス社会を乗り越えるためには
http://ryosay.web.fc2.com/
日本の心和の精神
http://homepage2.nifty.com/khosokawa/j-mind01.htm
心臓ペースメーカーと携帯電話の問題
http://homepage2.nifty.com/seri/heart/topic-1.htm
共同体性の解体と「小さな文脈」の併存: IT そして人間、社会
http://multiport.cocolog-nifty.com/blog/2009/11/post-d50b.html
外務省: グローカル外交ネット:海外のお客様を迎えるために:プロトコールでよくあるご質問(国際儀礼の基本講座)
http://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/local/inspection/protocol_faq.html
労働基準法の基礎知識 - 懲戒事由の規定例|
https://www.rosei.jp/jinjour/article.php?entry_no=55099
189 「家庭のしつけは衰えている」は本当か?
http://www.mammo.tv/interview/archives/no189.html
マナー辞典|NPO法人日本サービスマナー協会
http://www.j-manner.com/
日本記念日協会
http://www.kinenbi.gr.jp/
ファヨールの管理過程論(マネジメント・サイクル) | 経営用語
http://yamauchi283.com/glossary/administration/functions-of-management/

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そもそも人格などの前提ともなる、マナーなどは、生まれてから日常生活をしていく中で自然と身につけるものであるが、特定のコミュニティ、文化の中で作られていったマナーについては、自然と身につける機会は非常に少ない。また、場合によっては一般的なマナーとは全く違う考え方によって「行儀が良い」とされることもある。
漱石の 『模倣と独立』の中にも「約束、法則というものは政治上にも教育上にもソシャル・マナーの上にもある。」と出てくるが、「ソーシャ・ルマナー」という言葉最近よく聞くようになったと思いませんか?
英語では「Social manners 」、ソーシャルは「社会」のことだから、「社会で活用できるマナー」、「社会で役立つスキル」と言える。対人関係の多い商人などには必須となる。
食事のマナーや、冠婚葬祭のマナー、人との付き合いのマナー、ビジネスマナー等々、色々なマナーが想像されるだろうが、結局は、マナーとは、思いやりの心を、形に表すことで、日本語で言うなら、「礼儀作法」と言う言葉になる。
江戸時代のことわざに、「三つ心(みっつこころ)、六つ躾(むっつしつけ)、九つ言葉(ここのつことば)で、十二文(じゅうにふみ)、十五理(じゅうごことわり)で末(すえ)決まる」・・・・というものがある。
江戸の町人のは、意外に厳しく、しかも道理に適っていた。昨今問題になっている社会の教育力が江戸期には息づいていた。
諺の意味は、3歳までは愛情深く、子供に接し、子どもの人に対する信頼感を植え付け、6歳までには作法の基本を身につけさせる。
9歳までには他人への口の利き方を教える。12歳になると文字が自在にあやつれるように仕込み、そして15歳になると森羅万象に対してその真実を見抜く力を養っておく、というのが江戸時代の段階的子育て(躾)の基本であった。

●上掲の画像は、『女中風俗艶鏡』 (じょちゅうふうぞくつやかがみ。西川祐信画)より、子供をあやしている図である。(NHKデーター情報部編『ヴィジュアル百科江戸事情』第二巻生活編より借用).
子供を育て、躾(しつけ)るのは母親の役目である。子供のしつけの基本的なものは、遊び、食事、排泄、睡眠。母親や祖母たちから叱られたり、あるいは、仲間の子と一緒に遊びながらそれを習得してゆく。
昔から「三つ子の魂百まで」ということわざもある。三歳までは愛情いっぱいに子供のを育てる。4 歳から7歳は、理性、知性、社会性が育つ時期といわれているので、6歳までには大人の立ち居振る舞いを見習わせ躾を終わる・・というのもこの時期にしなければならないこととぴったり・・・。
9歳までには、どんな人にも失礼でない挨拶(あいさつ)ができるようにさせる。12歳のころには一家の主(あるじ)の代わりに手紙を書けるようにしておくことである。注文書や請求書、苦情処理の弁解書(弁明書)などもまがりなりにも書けるよう鍛育していたようだ。さらに15歳までには、経済や、物理、科学などのを暗記でなく実感として理解できるようにさせ、真実を見抜く力を養った。当時。15歳はもう一人前の大人であった。
いわば、知識より理解、つまり、「知る」ことよりも「わかる」ことの重要性を昔の人はわかっていたのかもしれない。「わかる」ことが人への共感や、思いやりの心につながる。
現代の感覚をもってしても、この格言には合理性があり、実に説得力がある。・・・というより、もはや現代では失われてしまった教育の原点、あるいは到達点といっても過言ではないだろう。今はどうなっているのだろう。
江戸時代は職業別に身分制度が編成され、それぞれの職業は家職(家業)として相伝されるところとなる。家の存続を願うとき、子どもを家職の継承者としていかにして一人前に育て上げるかが、それぞれの家にとって大きな課題でもあった。だから、育児と教育の責任は父親にあると考えられていた。
江戸時代には「良妻」という考えはあっても、「賢母」という考えはなかった。「賢母」の考えが自覚されるのは明治になってからのこと。父親の指導で育児の実労働に主として携わったのは、母親であったが、小家族の下級武家も庶民の父親も実際の育児を担っていた。父親も出産に立ち会い手伝っていたことがいくつかの史料から確認されているという。家族ぐるみで育児にあたり、親類や共同体もそれを支えていたようだ(※※18参照)。
ただ商いの取引や訪問客が頻繁な豪農や豪商を除くと、普通の人は「自然に放っておけば一人前になる」という考えが当たり前であった。変化が起きたのはサラリーマンの原型が出てきた明治の終わりくらいからだという。幼い頃からいろんなことを覚え、学校教育で成功することで「よりよい仕事に就き、よりよい人生を送るチャンスを得られる」というライフコースができたからだ。
昔だと、男の子の場合、高等小学校を出た14歳くらいで家を出て、住み込みで働いた。女の子だと、7・8歳ぐらいで子守り奉公に出されたりしたケースもあったし、14歳ぐらいで女中奉公や女工として稼ぎに出た。奉公先では、男の子の場合でいうと、最初は風呂焚きや掃除をし、いつの間にか仕事を覚えていく。何年間か見習いをやって、いずれ独立した。
今では学校に在学する期間が長くなっているから、「ここで切れ目」というのがはっきりしない。1974(昭和49)年くらいに高校進学率が90%を超え(※019参照)、90年代になると大学や専門学校への進学率が上昇し、昔だったら社会に出て自立せざるをえなかった年齢の青少年が、今では家庭の中でずっと親子関係を続けている。
現代社会の少子高齢化と人口減少の背景には晩婚化・非婚化の進展、ひいては「皆婚社会」であった戦後日本の常識的な家族像が大きく変わってきていることが挙げられる。
しかし歴史的に見れば、国民の大半が結婚し、直系家族等、親子を中心とする世帯を形成するのが常態化するのは近世(江戸時代)に入ってからであり、それ以前は大家族の中で未婚のまま過ごす者が少なくなかった。また都市における未婚率は高かった。
中世には名主名子被官を動員した大規模な農業経営が一般的であったが、戦国時代から江戸時代へと平和な時代になり、開拓が進むにつれて名子層は平野部に進出して自立し、17世紀中ごろには一夫婦とその直系家族による小規模な家族経営が大半を占めるようになっていった。これを、小農自立という。
この小農自立の流れを決計的にした背景には太閤検地がある。太閤検地は一地一作人制を原則とし、農地一筆ごとに耕作する農民を確定した。このことが家族を単位として耕作を行う近世農村への道を開いたのだ。
昔は、豪農や豪商など以外の一般の家庭では、子供を産んだ母親は、嫁として農作業や夜なべ仕事で休みなく働き、仕事の合間に子供に乳を与える時ぐらいが唯一ほっとできる時間であり、そのため、普段は、働けなくなった年寄りや年長の子供が子守りや世話をしていた。つまり、生活に追われていた母親は余り子育てに手間ひまかけられなかった。
しかし、少し子供が大きくなれば、奉公先や村のネットワークに参加してそこでしつけられた。だから、ムラ共同体の影響力が強かった。礼儀作法をはじめとして世の中を生きていくうえで必要なマナーやスキルはムラのルールの中で暮らしていけば、自然にいろんなことが身に付く、・・・と考えられており、親があまり教育的な配慮をすることの必要がなかったともいえる。いまは全く逆になっている。

幼い頃から子供を熱心に教育するというのは、社会の一部でずっと続いていて、それが「男が外で働き、女が家で子育てし、家庭教育する」というふうに分業したのは明治の後半からのことである。
明治時代に学校制度が誕生し、学校が始まったことで子どもは徒弟のために他家に行かずに、家で家族と共に生活するようになったからだ。このことから、家庭において子どもと見なされるようになった。親子の距離がそれまでよりも接近したゆえに親は子どもに対して愛着という感情を抱くようになり、親と子の関係が密になっていく中でそれまでにはみられなかった「情の結びつき」が発生した。つまり、それまでとは違って、子どもが「小さな大人」=「労働者」としてみなされなくなった。
そして、地域社会の共同体性も失われ、教育期間が伸びるにつれて親子関係が長期化していく中で、今では親が子供の面倒を見続ける時代になった。
つまり、前近代社会のように徒弟として家族以外のところで子どもを教育したり、地域全体で子どもを育てるという意識のあったころと比較し、子どもに対するいわゆる「しつけ」は家庭の母親がその責任を負うような形が出来上がってきたのである。
しかし、親は長期間、親としての責任を果たさないといけない。一方、子供はすぐに自立しなくてよくなった反面、いつまでも親の保護と干渉を受け続ける。親離れや自立が、いつどういう形で達成されるのかが見えにくい時代になった。
一方、地域の共同体(英語:community)というものは同質性を本質としている。村落などに見られるように、何代もに渡って互いに熟知した間柄を保ち、同じ生活価値を共有し、同じ掟を守る。しかし、都市化や郊外化に伴って、異質性が人間関係の基本となっていく。
故郷を後にして都会に出てきた人々は互いに見知らぬ者同士である。生活価値観も異なり、習慣や風習も異なる。この異質な者同士が社会を形成して公共的生活を営んでいくところに近代の特質がある。
同質性の関係から異質性の関係へ。このプロセスのなかで、それまでの地域社会や血縁の深い絆も解体していった。こうして、1960年代にはまだかろうじて残っていた共同体性が消えていった。
高度経済成長の頃から、核家族化が始まり、女性の社会進出、夫婦共稼ぎが普通となった昨今、家庭でのしつけも難しくなっている。

しかも、現代のコミュニティにおいては、様々なマナーが主張されるケースも多くなってきている。また、マナー自体が絶対的な定義によって決められる物ではないため、絶対に正しいマナーが存在しないことも珍しくない。
そのため、人によってマナーと思われる作法、礼儀、行儀が異なるケースがあり、複数のマナーが衝突することもある。

マナーとは個々人の主体的自覚に訴えたものである。人間は本来動物や機械のように外からの圧力(要因)によって動かされるものではない。外から律せられて動かされるのではなく、自ら律して意思で行動することができる。従って、自らの行動によって発生した問題に対して、その行動の「責任」は自分自身に帰するものだ。

だが、会社組織での働きとは、唯我独尊で自分一人が行うものではない。意見の異なる者であったとしても共通の目的に向かって協働して進むものだ。
マナーを守れないだけでなく、各人が、様々なマナーを主張されてはそれが無理だ。そのため、罰則付きの「決まり」の強制に変えたものがルール(rule=規則 )というものだ。
マナーは善悪の判断が主体的にできる人間を前提としたものであるが、ルールは放っておくと何をするかわからない人を前提としている。人間観でいえば、マナーは性善説、ルールは性悪説だ。
実はマナーとルールの対立は、漢字になおせば「」と「」の対立であり、二千年前の中国での儒家(孟子)と法家(韓非子)の対立にまでさかのぼる。
孔子自身は礼は士のもので庶人には無理とあきらめていた。つまり礼を基準として生きる者には法(罰)は不要で、そうでない庶人には法しかない、と思っていた。なぜなら礼とは「衣食足りて礼節を知る」というわけで、衣食を足らせるのに精いっぱいの人々に礼を要求することが所詮無理で、それらの人たちはせめて法に違反しないで他人に迷惑をかけなければよしとされていたが、現実には庶民といえども衣食が足りてくると、礼を求めるようになり、江戸時代初期、江戸庶民の間で小笠原流礼法が大流行した。そして、江戸の町では後に「江戸しぐさ」(※21参照)といわれる公共のマナーまで出来たのだ。
ところが、道徳の基準である武士階級がなくなり、さらに和魂洋才で生きようとした明治の精神も滅び、衣食を足らせることから再出発した戦後の日本人は、すでに礼とは無縁の人種となっていた。
「違法でなければ個人の自由=法に触れなければ何をやってもいい」という倫理の最低水準付近をうろつく発想には、「ベストな振舞いとは何か」という理想水準を問題にする礼の入る余地がない。そうなると、法(罰則)でしばるしかない。
礼は善悪を自律的に判断できる自己の尊厳を守る。「決まりだから守れ」という無思考な発想をとらない。守るべきだから守るのだ。礼で自己制御できる人には権力による強制によって法で縛る必要はない。だから、法など作らなくて済むように礼を守ることが大切なのだが・・・(※22参照)。しかし、現代の日本では、ルールを徹底しなければいけない状況があまりにも多くできてきているように思う。
昨今、緊急性の低い症状でも安易に救急車を利用しようとするため肝心の時に電話が通じないなど、救急車利用のマナー悪化が問題となっており、、今年4月には、総務省消防庁より「救急車利用マニュアル」が公表(※23参照)されたりしているが、最近問題となっているネットでの炎上や自転車の乗車マナー、なども、ただマナーに頼っているだけではなく、徹底的に取り締まらないといけないでしょう。

最後に、今はやりの「おもてなし」。この「おもてなし」とはどういうことかよく理解しておいた方が良い。参考※24:「「接客マナーは心の礎」 おもてなしの「礎」語源」に詳しく解説されている。
「思い遣る心」を【形】として表わすことが「マナー」。
「おもてなし」は、「もてなし」に丁寧語「お」を付けた言葉で、「もてなし」語源は「モノを持って成し遂げる」という意味であり、別に、お客様に応対する扱い、待遇とも言われている。
「おもてなし」のもう一つの語源は「表裏なし」、つまり、表裏のない「心」でお客様をお迎えすることで、 接客業、サービス業に限らず、人の生活する場、すべての家、人にひつようなもの。
この「おもてなし」には目に見える「もの」と、目に見えない「こと」があるという。
この「もの」「こと」を、お茶の世界(茶道)で例えると主客一体の心の元、お見え頂いた「お客人」をもてなす際に、季節感のある生花、お迎えするお客様に合わせた掛け軸、絵、茶器、匂い(御香)など具体的に身体に感じ、目に見えるリアルな「もの」である。
もてなす人の瞬時に消えてしまう言葉、表情、仕草など、目に見えないバーチャルな心を「こと」と言いあらわしている。
東京オリンピックでは、世界からのお客様を「おもてなし」すると約束した。
みなさんも「おもてなし」どのようにおもてなしをするか・・・考えておいてください。・・・でも、その前に、当然守られなければならないマナーをあなた自身は守れているか・・・セルフチェックしておいた方がいいですね。


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マナーの日:参考












マナーの日(2−1)

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日本記念日協会の今日・10月30日の記念日に「マナーの日」がある。
ビジネスマナー、一般マナーなど、あらゆる場面において必要不可欠な「マナー」について見直し、生活に役立ててもらうことを目的にNPO法人・日本サービスマナー協会が制定(※1参照)したもの。日付は協会が設立された2008年10月30日からだそうだ。
同協会のHPでは、同協会について以下のように紹介している。
“企業が成り立つ重要な要素として、「ヒト」「モノ」「カネ」「情報」があると言われる中で、この不況を乗り切るために一番重要とされているのが人材教育だと言われている。 特に最近は「人は財産」という考え方から「人財」とする企業も多くなってきた。
現代の社会では今まで以上に顧客に対する現場の対応力が問われるようになり、相手先の企業やお客様とどのように接することが出来るかということが顧客満足度(CS)を高める重要な要素となってきている。
当協会はエアライン・ホテル・旅行・ブライダルなどの接客サービスが求められる業界の接客サービス研修から、一般企業の社員研修、大学生のための就職活動に向けたビジネスマナー教育などを通じて、相手先の企業担当者やお客様に喜んでいただけるサービスがきちんと提供できるような技能を多くの人たちに身につけていただくための研修教育を提供できる事を大きな目的としている。”・・・・と。

「お客様は神様です」は三波春夫の有名なフレーズである(※2参照)が、確かに、サービス業(サービスを取り扱う産業)のビジネスマンにとって、相手先の企業担当者やお客様に満足度を高めなければ、成果は得られないし、そのために必要なビジネスマナーは当然身に着けておく必要があるだろう。
企業における経営管理(経営管理論参照)とは、企業活動を円滑に行うとともに、企業の目的を達成するために、「ヒト・モノ・カネ・情報」の4つの経営資源を調達し、効率的に配分し、適切に組み合わせる、といった諸活動のことである。
中でも特に、主体的に行動する「ヒト」(人的資源)が重要であり、これに上手く働きかけて、組織化し協働させたり、活性化させ(もしくは能力を発揮させ)たりするようなシステムを如何に構築するかということが主要な課題となっている。

企業は人間を扱い、その人間を使う企業人も人間である。つまり、人間が人間を使う組織であるが、これが、企業経営の本質的問題でもあるともいえる。
そのようなことから、近頃では「人材」に「人財」という言葉が充てられることが多くなった。
人材」の「材」は「材料の「材」であり、「人財」の「財」は「財産」の「財(たから)」である。
「人材」に「人財」という言葉が充てられるようなったのは、企業が、「あなたは企業にとって『材料』ではなく貴重な『財産』ですよ。」というメッセージを、「人財」という一言に載せて発信することで、従業員を大切にする姿勢を伝えようとしているわけである。
つまり、人が企業の中の単なる歯車の一つではなく、感情を持つ一人の人間として、「会社のために頑張りたい!」との意欲を高めるために・・・、
モチベーション(動機づけ)のために使っていると言っていいだろう。
ただ、企業が何の施策もなく、「人財」という流行の言葉を意味もなく使っているだけでは従業員は誰も会社を信用しなくなるだろう。「人財」という言葉を使用するためには、何故「人材」を「人財」と使い分けているかの理由や、「人財」として人を大切にする制度が、会社の中にしっかりと存在していなくてはいけない。
「人材」の「」という字は「木」+音符「」の会意形声文字(字源参照)であり、決して悪い意味だけではなく、「材料」という意味とともに「才能。また、才能のある人」という意味もある。要するに人材は単なる「労働力」や「人的資源」ではなく、今の企業経営にとって大きな役割を担い、多様な資源を提供してくれる企業経営におけるパートナーだということを実感させなければ、「人財」などという言葉を使ってもそれは単なる言葉遊びにしか過ぎないといえるだろう(※3参照)。
私が現役時代関係していたある大手流通業社では、就業規則その他諸規定(※4参照)がよく整備されており、中でも、就業規則の中での賞罰に関する規定(報奨・懲戒処分※5参照)では、守らなければならないことを「こんなこと社会人としての常識じゃ〜ないか」と思われることまで、非常に細かく定めていた。
恐らく他社の人達が見れば驚くほど詳しく書かれており、その是非については賛否両論があるだろうが、急成長をし、若い社員や、パート・アルバイトを多数採用していた同社では企業の組織力を発揮するためのツールとして非常に重視をしていた。
それは、「会社の最低限守らなければならない規則を守りさえすれば、あとは何をしようとも自由ですよ」ということの表明でもあり、その趣旨や理由、企業人として会社で働く上で必要な最低限守らなければならないルールやマナー・・・、この基本的なことだけは入社後の教育時に徹底的に教え込まれる。
一方、会社は人を大切にし、特に、個々人の個性は非常に尊重にする。そして、10年20年先を見通した将来の会社に必要な人材の養成にも非常に力をそそぎ、教育投資を惜しまない。学歴や男女間の格差などは一切せず、完全な実力・能力主義を基本とし、こと評価に関しては、同じ仕事をしている以上年齢による差別もしない。
そして、頭は良くても口先だけで行動しない人ではなく、失敗を恐れず積極的に行動する人が評価された。結果的に、たとえ、失敗しても再挑戦のチャンスが与えられた。
そんな会社の人事制度をよく知る人からは「教育の○○」と高く評価されていたが、そのことが、結果的に非常に優秀な人材を多く育て、今では、その人たちが中心となって会社を支えており、業界では日本のナンバーワン企業といわれるまでに急成長を遂げている。

「世の中には、法律とか、法則とかいうものがあって、これは外圧的に人間というものを一束(ひとたば)にしようとする。貴方がたも一束にされて教育を受けている。十把一(じっぱひと)からげにして教育されている。そうしないと始末に終(お)えないから、やむをえず外圧的に皆さんを圧迫しているのである。これも一種の約束で、そうしないと教育上に困難であるからである。その約束、法則というものは政治上にも教育上にもソシャル・マナーの上にもある。
飯を食べるのにサラサラグチャグチャは不可(いけ)ないという。そういうのはこれは法則でしょう。それから道徳の法則、これは当り前の話で、金を借りればどうしても返さねばならぬようになっている。それから芸術上の法則というのがある。これがまた在来の日本画だとか、御(おのう)だとか、芝居の踊りだとかいうものには、非常に究屈(きゅうくつ)な面倒な固(かた)まった法則があって、動かすことが出来ないようになっております。・・・」(夏目漱石 『模倣と独立』 より、引用。※6の「青空文庫」参照)
『模倣と独立』は、第一高等学校校友会雑誌所載の筆記によるものである。
漱石は、1913(大正2)年、第一高等学校における講演で、道徳、芸術、社会などにおいて人は常に「模倣」(英語:イミテーション【imitation】)をする。一方で人間は「独立」(英語:インデペンデント【independent】)していてスペシアル(【special】。特別、特殊)なものである。人はこの両面を持つが、日本に必要なのは他国の模倣ではなくインデペンデントだと説いている。
この中で、「人格から出た品位を保っている本統(ほんとう)の紳士もありましょうが人格というものを度外(どがい)に置いて、ただマナーだけを以て紳士だとして立派に通用している人の方が多いでしょう。まあ八割位はそうだろうと思います。気高(けだか)いというものがない。」・・とも言っている。

ここには、ドイツの哲学者カントの思想が入っているように思われる。
カントは行為の結果よりもそれをなす動機となる《善意志》こそ重要だと考えており、この《善意志》にもとづき、道徳法則(※7参照)の命じる道徳的行為を、実践理性(実践理性批判も参照)で捉え自律的に行う主体である人間を、「人格」と呼んでいる。
カントは道徳律(Sittengesetz)を「仮言命法」としてではなく、「定言命法」(kategorischer Imperativ)として受取ることである。 仮言命法とは、「もし…なら…べきだ」というものである。道徳律においても、このようなものは多く見られる。たとえば,「もし人から信用されたいのならば、嘘をついてはいけない」とか、「早起きは三文の得」などがそれにあたる。それに対して、条件なしに「…すべきだ」とだけ命ずることを定言命法(無上命法)という。(詳しくは、※7、※8参照)
個人の心理面での特性。人柄。または人間の人としての主体である人格形成には、事故や病気等による外的要因を除いて、幼少期における経験や体験が大きく影響を与えているとされている。
人格は、英語でパーソナリティ【personality】とも表現されるが、その場合、日本語の「人格者」のような肯定的な価値は含まれないが、パーソナリティの形成に影響を及ぼすのは主に遺伝要因と環境要因(※9参照)であり、両者は密接に結びついている。
前者は気質と深く関連する生理的・身体的特性に影響を与える。後者は家庭環境と自然的・文化的環境とに分かれ、そこでの成長・適応の過程で個人のパーソナリティに影響を与える。

品位とは、判り易く言えば気品や品格、人品などともいわれるが、個人ないし特定の団体が、礼儀 (人間関係や社会生活の秩序を維持するために人が守るべき行動様式。特に、敬意を表す作法。)や節度(行き過ぎのない適当な程度。ほどあい)や人徳(その人の身についている)、気高さに富む様をいい、そうした、品位の保持は人々より尊敬、或いは信用を受けるとされる。
この品位は特定の作法やマナーなど、立ち居振る舞いを厳格に定める価値基準も存在するが、基本的にはきわめて観念的な国際的価値観であり、国際的な権威であるマナー・プロトコル(国際儀礼)など一位の行動基準を共有する外交や通商の場の他は、それぞれの国や習俗により差異もあり、その価値観も一定ではない。
いずれにせよ、身だしなみや言葉遣いはもとよりルール(【rule】規則)やマナー(作法を含む)、立ち居振る舞い、他者や周囲への気遣い・気配りなど日常的な自律的行動が品位の醸成につながるとされることは確かである。
こうしたことから、幼児期から(しつけ)や行儀作法 (立ち居振る舞いのしかた)やテーブルマナー(食事の際のマナー)などの教育に力を入れる学校や家庭も多く存在する。
このような品位は家庭教育や学校教育の他、社会的な鍛錬などにより洗練されることも多いが、最終的には個人の心がけによるものである。また、身だしなみやマナーや行儀作法の修得といった外面的な修練も品位には欠かせないが、基本にあるのはむしろ内面にあるといえる。
例えば、落ち着いた態度や節度、言葉遣い、他者や周囲への気配り、遠慮、謙虚さなどが重要な要素である。 外面的に品位の保持に努めたとしても、それに相応しい行動や気配りが伴わなければ評価を受けず、人徳が豊かであっても自己流で他者から評価されなければ品位あるともみられない場合もある。
社会的には、就職活動に際しての、身だしなみや言葉遣い、態度が評価される他、営業や交渉、催しの開催に際しての対応、公的な場での言動などにおいて品位が問われる場も少なくなく、公務員や公的な資格に基づく職業については法律にて品位の保持が規定されているものもある(法律で品位の維持を義務付けられている地位・職業参照)。
このような、品位の保持とは自ずから心がけとして行うものであり、他者に見せ付けたり、強要することは本来の様ではない。さり気なく自然に備わる様であるといえる。

さて、本題のマナーについて書く前に、今月初めの毎日新聞の夕刊社会面の「憂楽帳」という記者が書く短めのコラムに面白いことが書かれていたのを思い出す。詳細は忘れたので、以下参考の※10:「憂楽帳 アーカイブ:毎日jp」の2013年10月05日付記事から以下に抜粋する。
アルゼンチンブエノスアイレス2020年夏のオリンピック開催地を決めるIOC(国際オリンピック委員会)の総会が行われ、東京がプレゼンテーションを行いました。その­なかで滝川クリステルさんが「おもてなし」の心をアピールし、IOC委員に東京招致を­訴えました。
ワシントンでタクシーに乗った時、目的地の30メートルほど前で「降りろ」と言われた。戸惑いながら従うと、 運転手は新しい客を乗せて走り去った。米国人の助手に尋ねたら「次の客を見つけたら手前でも降ろす。時々あります」。
政治のあおりとはいえ、今月から観光施設まで閉鎖された(※11参照)のも「サービスは二の次」という体質の表れだろう。
だが、米国には別の顔もある。ワシントンに赴任して間もなく、現地校に通う娘が8歳の誕生日を迎えた。
パーティーに10人以上の同級生を招待したが、「急に転校してきた外国人のためにどれだけ集まってくれるだろうか」と 直前まで気をもんだ。ところが、ほぼ全員が大きなプレゼントを抱えて次々と駆けつけ、盛大に祝ってくれた。
東京五輪の招致演説では「日本のタクシー運転手は世界で最も感じが良い」と「おもてなし」の精神がアピールされた。
確かに日本人のきめ細かな配慮は世界に誇れる。しかし、ヘイトスピーチが公然と繰り広げられる国に外国人を 分け隔てなく迎え入れる文化は根付いているだろうか。」・・・と。

2020 TOKYO Olympic Games滝川クリステル『おもてなし』字幕付フルスピーチ

以下参考※12:MSN産経ニュース-【主張】では「ヘイトスピーチについては今年5月の国会審議で、安倍晋三首相は「結果として自分たちを辱めている」と指摘し、「日本人は和(和の文化を参照)を重んじ、反日デモでは、多くの日の丸が焼かれた。侮蔑的な言動もあったが、その多くは放置された。日本と日本人は国内で、あらゆる国や民族へのそうした行為を許さない。そういう存在でありたい。」・・と述べられているがその通りである。

しかし、最近、ネット上では誹謗・中傷が氾濫し社会問題化している中、金沢市の「餃子の王将金沢片町店」で客の男が裸になってすらりと並び、その画像がインターネット上に 公開された事件でこのうちの客の2人(風俗店経営者・店長)が威力業務妨害と公然わいせつ容疑で逮捕されたり(※13参)、札幌市の衣料品店「ファッションセンターしまむら」で購入した商品が不良品だと訴え、店員に土下座させ、その様子を写真に撮ってTwitterに投稿した女性が強要罪の疑いで逮捕されるといった事件が相次いでいる。
また、危険な携帯電話などを見ながらの自動車や自転車の運転をしたり、公共の場(特に病院内や混雑した電車内など)で携帯電話などの使用を控えるように注意されていても、ほとんどの人は守っていない。若い人だけでなく中年以上のいい大人まででが・・・。
今のIT社会(IT【Internet Technology】。今ではICT【Information and Communication Technology】ともいう。日本語では一般に「情報通信技術」と訳される)、でのマナーや常識がなかなか守られていないなど、近年はIT社会だけでなく、一般の社会でも日本人のマナーはかなり、乱れてきているようには思われる。

マナー (英語【manners】)と は、一般的に礼儀、行儀・作法を指すが、このマナーは、日常生活をしていく中で自然と身につけていく作法であり、○人に会ったら挨拶をする、○目上の方には敬語を使う、○何かしていただいたら「ありがとう」と言う、等々、誰か人と会うとき、誰かと会話をするとき、誰かとものを食べるとき、自分がやりやすいように、そしてほかの人が不快にならないように気をつけることなどありとあらゆる場面にある。
マナーの様式は、多くの場合、堅苦しく感じられるが、その形はその社会のなかで人間が気持ちよく生活していくための文化や知恵であり、こうした方が美しいであるとか、素晴らしいであるとか、気持ちが伝わるであるとか、そのような行儀や作法である。
このようなマナーは国や民族、文化、時代、宗教のさまざまな習慣によって、形式が異なる。また、くわえタバコやものを食べながらでの歩行、など、個人間でも価値観や捉え方による差異もあるし、ある国では美徳とされている事が、他の国では不快に思われることもある。
例えば、日本では食事の際に飯椀を持ち上げて食べることが一般的であるが、諸外国では逆に皿を食卓に置いたまま箸や匙、フォークを用いるのが一般的であり、食器を持って食べることはマナー違反とされる等々・・・。
マナー自体が絶対的な定義によって決められる物ではないため、絶対に正しいマナーが存在しないことも珍しくない。
そのため、人によってマナーと思われる作法、礼儀、行儀が異なるケースがあり、複数のマナーが衝突することもある。
最近は、注意をすれば逆切れする人(特に若者)が多くなったようで,
うっかり、注意も出来ない。それに、戦後教育(教育改革参照)のせいか、法に触れなければ何しても構わない(自由だ)と言う思想がはびこっているように思われる。
そのようなことから、個々人が自分の世界にあり、持っている文化がまちまちになるということは、個々人の文化がバラバラの状況になってくるわけで、そうなると、異文化の衝突が非常なストレス社会(※15参照)を生む一因にもなり、世の中の人の心が荒んでくるのではないかと思われる。


●上掲の画像は、2013年10月8日付朝日新聞朝刊に掲載されていた画象である。インドネシア・バリ島を訪問している安倍晋三首相の昭恵夫人が、7日、アジア太平洋経済協力会議(APEC)参加国首脳らとの記念撮影の際、韓国の朴槿恵大統領(右端)と笑顔で言葉を交わし、握手している場面である。一方、既に別の会議で朴氏と握手した首相(後列左端)は昭恵夫人の様子を見守っている。
この写真を見た翌日の朝日新聞朝刊(10月8日付)の天声人語には、良いことが書かれていた。それを以下に抜粋する。
「いい笑顔は、相手の心に素直に飛び込むらしい。昨日の本紙面に載った安倍昭恵さんの写真は良かった。あの表情で向き合われたら韓国の朴槿恵大統領も白い歯で応じざるをえない。『往く言葉が美しければ、来る言葉も美しい』。かの国の言葉をふと思い出した。
一部地域は紙面の都合で載らなかったが、首相夫人と大統領は笑顔で握手を交わした。朴氏も作り笑いには見えない。冷え切り、すさびきった日韓の関係(Category:日韓関係参照)にかすかな明かりを見た人もいたのではないか。
先月昭恵さんが、日韓交流の行事に参加したとネットに投稿したら、批判が相次いだ。昭恵さんは「色々なご意見がおありだと思いますが、お隣の国ですので、仲よくしてゆきたい」と書き足した。ファーストレディーとしてなんら間違ってはいまい。
歴史や領土でにらみ合う現実は、むろん甘くはない。反日に嫌韓が応酬して「売り言葉に買い言葉」の観をなす。しかし、そうでない人も多い。
ノーベル文学賞候補にあがる韓国の詩人高銀氏が3・11直後に韓国紙に寄せた「日本への礼儀」と題する詩は忘れがたい。一部を紹介すると、
<あんなにもだいじにしていたあなた方の家/みな流れていた。・・・>
<しかしながら、日本は今更にうつくしい/決してこの不幸の極限に沈没せず/犯罪も/買占めも/混乱もなく/相手のことを自分のことと/自分のことを相手のことと思い・・・>(青柳優子訳)。
海峡を越えてこうした言葉が行き来しないか。}・・・・と。

[東日本大地震 ] 日本への礼儀 (韓国詩人 ) -

現在日韓関係は不幸にして領土問題等のために冷え込んでいるが、いかなる国同士であろうが、一国の首脳が、国際舞台で顔を合わせば、笑顔で挨拶ぐらいは、社会人としてのマナーというよりも人としての常識(人格)によるものだろう。国際間のいがみ合いは、いくら時間がかかっても両国間での話し合いで解決するか、それがだめなら国際司法裁判所で解決するしかないだろう。それを、話し合いの機会をも拒否していると、戦争でもしなければならなくなる。
いがみ合っている国の首脳が笑顔で挨拶している姿を報道できない国なんて、文化程度の低い未成熟の国であることを表明しているようなものだろう。
3・11東日本大震災、では高銀氏の詩で歌われるように、悲惨な状況の中で、涙なしには語れない美しい秘話も多く聞いているし多くの人が同情と感動を得たことだろう。それを一番わかってくれた台湾などは国を挙げて支援をしてくれた。本当の意味での友好国と言えるだろう。この様な災害に対する支援の方法を見てもその国の品格が窺える(東日本大震災に対するアジア諸国の対応参照)。
ただ、3・11東日本大震災での高銀氏の歌「日本への礼儀」では、「日本は今更にうつくしい」として、色々褒めそやしてくれてはいるが、実際には、このような美しい話ばかりで悪い話はなかったのだろうか。
わが地元で起こった1995年(平成7年)1月17日(火)の阪神・淡路大震災では、耳にしたくないことも多くあった。
多くの家屋が倒半壊し、その修復にどの家庭も苦労をしている中、これ幸いと非常に多くの業者が、全国各地から神戸に押し寄せてきた。そして、契約をしてお金だけを騙し取り、工事をしないまま帰ってしまったり、工事はしても不当な工事費を請求する。質の悪いいい加減な工事をする等々、よくもまあ、途方に暮れている人間を相手にこれだけあくどいことができるものと感心するほどのひどい話を多く聞いた。それも、いま日本で大流行りのおれおれ詐欺(振り込め詐欺)同様に、お気の毒な年寄を食い物のにしてのものが多い。
こんなことは、建設業界だけでない。電気は意外に早く復旧したがガスが使えないので、ガスボンベなどを買いたいと思っても、それを1本1000円もの高値で販売するといった具合である。私などそれを目にしている。中には、がれきの山で公共交通機関どころか自動車さえ市内に入れない中で、善意のボランティアの人たちが、遠くからバイクなど使って応援に駆け付けてくれ、被災者の家の中に入っている一瞬のうちに、そのバイクが盗まれる。三宮などの市街地では宝飾店等多くの店がどさくさの中でシャッターを破られ盗難に遭う。
また、家屋が倒壊した避難民が宿泊している避難所の中でも現金など貴重品が盗難に遭っているなど、情けないことがあちこちで起こっていた。そして、家屋等倒壊の被害は免れ、避難所に避難することはなかったものの、食べるものがなく、避難所には全国各地からの支援物資が来ているので、それを分けてもらおうと非難所に行くと、家屋が倒壊もせず、非難する必要もないのに食べ物だけを貰いに来たと避難所の人から白い目で見られるなど、数え上げたらきりがないほど嫌なことは多く聞いている。
マスコミではそんな車も入れない街中に入ってまで現実の状況を取材はしていないので、そのような不幸な出来事はごく一部しか報道されず、善意のボランティアの活躍ばかりが報じられていたように思われる(※16参照)。
東北地方の場合には地震での家屋の倒・半壊ではなく津波ですべてを流されてしまったため、神戸のように中途半端な半壊の家屋などが少なかったことから、あくどい建設業者による詐欺や、また盗難なども少なかったのかもしれない。また、素朴な東北の農・漁村地と、世知辛い大都市神戸との地域差によるものなのかは知らないが・・・。
理想主義者の詩人などには、日本が悪いことなど何もない理想郷ように見えたのだろう。
いずれにしても、今の日本が、詩で詠われるような「美しい国」と褒めそやされるといささか恐縮の至りである。もし日本以外の国の人々が、日本がそれほど美しい国に見えるのなら、その国の内情はもっともっとひどい状況なのだろう。そうであれば、やはり、まだまだ、他国から見るとよい国なのだろう。日本に住んでいることを幸せに思う。


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参考:
※1:たかの友梨ビューティクリニックHP
http://www.takanoyuri.com/index.html
※2:インターネットの電子図書館、青空文庫インデックス
http://www.aozora.gr.jp/
※3:小顔になるのは食べ物のせい「固い物を食べない→『あご』が弱体化
http://woman.mynavi.jp/article/130818-042/
※4:源氏物語の世界 再編集版
http://www.genji-monogatari.net/
※5:【帚木272-2】平安時代の理想の女性像について|源氏物語イラスト訳で ...
http://ameblo.jp/aiaia18/entry-11472288121.html
※6:岡崎 智子「平安時代の理想の女性像について」
http://www.wako.ac.jp/bungaku/proseminar1/proseminar1-okazaki.html
※7:源氏物語〜現代語訳
http://www.h3.dion.ne.jp/~urutora/genjipage.htm
※8 :日本古典文学テキスト
http://www2s.biglobe.ne.jp/~Taiju/classic.htm
※9:貝原益軒アーカイブ:和俗童子訓|図書館|中村学園 - 中村学園大学
http://www.nakamura-u.ac.jp/~library/lib_data/c01.html
※10:誰が守るか女大学ー三下半と江戸時代の女性像ー
http://www.geocities.jp/michio_nozawa/03episode/episode22.html
※11:僕的「日めくり万葉集」 2012年3月20日 巻12/3102
http://blogs.yahoo.co.jp/iwakuratei8823/4128317.html
※12:大衆メディアの中の女性像 - 桃山学院大学(Adobe PDF)
http://www.andrew.ac.jp/gakuron/pdf/gakuron24-9.pdf#search='%E5%A4%A7%E6%AD%A3%E6%99%82%E4%BB%A3+%E7%94%B7%E6%80%A7%E3%81%8B%E3%82%89%E8%A6%8B%E3%81%9F+%E7%90%86%E6%83%B3%E3%81%AE%E5%A5%B3%E6%80%A7'
※13:結婚できない女たち、結婚しない男たち - 発言小町 - 読売新聞
http://komachi.yomiuri.co.jp/t/2008/0512/182963.htm
※14:第14回出生動向基本調査/国立社会保障・人口問題研究所
http://www.ipss.go.jp/ps-doukou/j/doukou14_s/doukou14_s.asp
※15:今や“三平女子”の希望年収さえ満たせる男はなし!?婚活女性の平均感覚が現実とズレまくる本当の理由( DIAMOND)
http://diamond.jp/articles/-/23417
※16:未婚男性の理想的な女性像は「三等」 -PRTIMES
http://prtimes.jp/main/html/rd/p/000000001.000006313.html
※17:『恋人にしたい有名人』ランキング表 - ORICON STYLE 
http://www.oricon.co.jp/entertainment/special/page/424/#rk
※18:イイ男に愛されるイイ女になる方法 - NAVER まとめ
http://matome.naver.jp/odai/2134774462339814701
HOSI 19:外見・内面・女らしさ!いい女の条件10選(nanapiのWeb)
http://nanapi.jp/71376/
※20:女性の本質:女性 その魅力と生き方
http://女性.biz/index.html
※21:男らしく女らしく、日本最低43.4%
http://sakura4987.exblog.jp/3685605
大衆メディアの中の女性像 - 桃山学院大学(Adobe PDF)
http://www.andrew.ac.jp/gakuron/pdf/gakuron24-9.pdf#search='%E5%A4%A7%E6%AD%A3%E6%99%82%E4%BB%A3+%E7%94%B7%E6%80%A7%E3%81%8B%E3%82%89%E8%A6%8B%E3%81%9F+%E7%90%86%E6%83%B3%E3%81%AE%E5%A5%B3%E6%80%A7'
女らしさ - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A5%B3%E3%82%89%E3%81%97%E3%81%95

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いい女の日(2−2)

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大正時代、断髪洋服の女性は「モガ」(「モダンガール」)と呼ばれた。当然、女性の雑誌にとって流行はいつも大事である。学生である女の子の髪型は、通学服と大いに関係があった。通学服が着物と袴だった大正期には長い髪を結い上げた髪型であった(『ごちそうさん』の女学生め以子も同じである)が、セーラー服やブレザーが定着した昭和期には、断髪(おかっぱ)が主流となった。
昭和時代を代表する抒情画家と言えば、多くの人は中原淳一のことを思い浮かべるのではないだろうか。竹久夢二などの影響を受けながら、若くして才能を認められ、戦前・戦後の40余年にわたって、抒情画家、人形作家、ファッションイラストレーター、デザイナー、手工芸家、装丁家、スタイリスト、演出家、編集者、シャンソン作詞家、エッセイストとして八面六臂の活躍をし、戦後日本の繁栄期までを駆け抜けた中原淳一(1913年[大正2年]2月16日生まれ)は、2013(平成25)年の今年、生誕100年および没後30年を迎えた。
中原は、昭和10年から15年まで、少女雑誌『少女の友』の表紙絵を担当をしたことによりその黄金期を築いた。この『少女の友』で、1937年(昭和12年)]5月号 〜 1940年(昭和15年)5月号まで、「女学生服装帖」というファッション・ページを担当していた(ここ参照)が、この「女学生服装帖」は、中原が大戦前夜の1937(昭和12)年、街をゆく女学生の洋装のちぐはぐさに心を痛めて筆をとったイラストエッセイで、1940年(昭和15)年、戦争が始まると、優美でハイカラ、かつ目が大きく西洋的な淳一のイラストが軍部から睨まれ、その軍部の圧力によって突然雑誌への執筆を禁じられ終了するまで、セーラー服の着こなしから、髪型、しぐさなど、すこぶる親身でちょっぴり辛口なアドバイスで、読者に大きな影響を与えたという。
どうも、淳一は少女たちに、外見の服装だけではなく立ち振る舞いや身だしなみ、心掛けなど内面も美しい存在であることを願っていたのだろう。つまり、中原は、当時の男が求めている「いい女」はこんな人なのだよと言いたかったのではないだろうか。
戦前に活躍したほとんどの抒情画家が、まつげをあまり重視していないのに対し、淳一 の描く少女にはぱっちりと見開いた大きな目に非常に長いまつげが生えている。 特に、他の抒情画では皆無に 等しい下まつげが、淳一の作品ではデビュー当時から重視されている。現代の少女劇画の先達ともされる、モダンで、しなやかで、その中にもクラシックな美を伴った、彼固有の画は非常に魅力的で、この時代に生きる女性が大正時代よりはそれだけ明るく開放的にそして活動的になっていたことを表してもいるのだろう。

画像クリックで拡大
上掲の画象は、私のコレクションの絵葉書「中原淳一抒情画の世界」の中の2枚である。
私の本館のホームページ「よーさんの我楽多部屋」のCorection RoomのRoom2:絵葉書の部屋には「中原淳一の抒情画の世界(36枚)」の他、「中原淳一の慰問絵葉書(16枚)」、「中原淳一の少女雑誌付録(2枚)」を展示しているので興味のある人は見てください。
特にこの中の「中原淳一の慰問絵葉書(16枚)」は戦時中に戦場の兵隊さんたちを慰問する目的で描かれたもので、画は、「詩」や「服装」を題材にしているが、その詩は「白百合」「愛国の花」と言った内容で服の題も「モンペ」や「ツギハギ」と言ったものであり、当時の状況が偲ばれるが、そのような時代に書かれた絵としては非常にモダンで、今の時代にも通用しそうなセンスの良さで、中原がファッションデザイナーとしても優秀だったことがわかる。この絵はがきは是非一度見ていただきたい絵葉書である。
中原淳一の慰問絵葉書(16枚)

昭和に入って、働く女性は増加していったものの、戦後の高度経済成長期までは、多くの女性の会社勤めは嫁入り前までの腰掛程度で、結婚すれば退職し、家庭に入って家事や子育てに専念していた。その点ではそれまでの良妻賢母と基本的に大きな変化はなかった。
戦後、1947(昭和22)年の教育基本法では男女の教育機会均等が定められ、男女共学が認められた。これ以前は、女性の教育は男性のものとは独立して行われ、その教育の中心は家政科目を中心としたものであったが、これ以降、女性も男性同様の知識を身に着けることが出来るようになった。
女性の社会での地位については、1880(明治13)年9月に、初めて女性参政権が認められていたが、この女性は戸主に限定されていた。その後、政府の不平等な政策に対して、政治的な要求を叫んだ平塚らいてう女性解放運動家が誕生し、女性の地位に少しの変化はあったものの、女性の基本的な権利、たとえば、女性参政権選挙権被選挙権)の獲得と言った大目標は、1931(昭和6)年には条件付で認める法案が衆議院を通過したものの、貴族院の反対で廃案に追い込まれ、達成出来なかった。
第二次世界大戦後の1945(昭和20)年10月10日、幣原内閣婦人参政権に関する閣議決定がなされ、また、その翌10月11日には、幣原内閣に対してなされた、マッカーサーによる五大改革の指令には、「参政権賦与による日本婦人の解放」が盛られていた(日本の戦後改革参照)。
その後は、1986(昭和61)年の男女雇用機会均等法( Yahoo!百科事典も参照)施行を待つまでもなく、女性の職場進出、社会進出はめざましいものがあった。
戦後、民主主義の導入で、女性にもさまざまな権利が認められ、封建時代のように女性が大人しく家の奥に収まっている事もなくなってきたことから、「戦後強くなったのは靴下と女性」などと言った言葉までが流行ったことがあるが、これは、当時敗戦により、自信喪失で気弱になっていた男性のそんな、元気のよい女性に対するやっかみとも言えなくもないが・・・。ただ、この現象は、現代でも、ますます、エスカレートしているように思われるのだが・・・。
戦後の女性は身長も伸び、化粧品や美容整形の発達などにより、戦前に比して、非常にスタイルも容姿もよくなり、これらの面でも男性を圧倒している。最近の女性の眉や眦を釣り上げた化粧などは、そんな女性の自己主張の表れでもあるのだろう。
1999(平成11)年には男女雇用機会均等法の大幅な改正(ここ参照)によって、雇用上の女性の権利、育児休暇の権利が獲得され、今では、日本女性は、家を出て社会へ進出し続けている。
彼女たちは、今までの「賢妻良母」のようになるための教育ではなく、自分自身の個性的な能力をアップするのに必要な新しい教育を自由に受けることもできるようになった。そして、社会へ出て、自分の力で金を稼いで経済の独立性を追求している。それは当然、女性の自信にもつながり、逞しい女性へと変化していった。
女性が結婚相手に求める条件も、時代によって変化するが、バブル期には、「高収入・高学歴・高身長」の三高が結婚の決め手といわれていた。そんな条件を求められても、それに応じられる男性ばかりではなく「、結婚しない女と結婚できない男」などという言葉も流行ったが、逆に「三高」を兼ね備えた男性は、多くの女性の中から選りすぐればよいので、わざわざ低収入や器量の悪い女性などとは結婚したがらない(※13参照)から、結局は、多くの男も、そして女の方も結婚できないということになってしまう。
私たちのように戦前生まれの年代の者の多くは昔から慣例となっていた見合い結婚であったが、戦後「結婚は愛し合う人同士で恋愛結婚するものよ」と見合い結婚をする人は持てない人がすることのように馬鹿にもされ、敬遠されてきた為、最近では仲人をしてくれるようなおせっかいな世話好きもいなくなってしまったが、そのくせ、自分では結婚相手も探せないかわいそうな人達は、合コン(合同コンパ=コンパニー【company】の略)などと言って、集合見合いを斡旋する業者のお世話になったりする人が多くなったようだ。
私は現役時代に、関係のあった流通業が子会社を設立して、有料の会員制結婚相談所をつくるという話を聞いたときには、そんなもの本当に事業として成り立つのかと驚いたものだが、今や、その子会社が東証の二部上場会社にまでなっているのだからなお驚きである。それだけ需要が多いということだ。

国立社会保障・人口問題研究所が全国の18〜49歳の独身男女約1万4000人を対象に2010(平成22)年6月に調査し、2011(平成23)年11月に発表した出生動向基本調査(独身者調査※14参照)によると、異性の交際相手がいない18〜34歳の未婚者が男性で61.4%、女性では49.5%に上り、いずれも過去最高になったそうだ。前回の2005年調査と比べると、「交際相手がいない」割合は、男性では9.2%、女性で4.8%増加しているという。
このうち、25〜34歳の男女について、結婚しない理由として「結婚資金が足りない」と答えた人の割合は前回の調査と比較すると、男性が8ポイント増の30.3%、女性は3.5ポイント増の16.5%であったそうだ。
経済が不安定となり、いつリストラされるか分からない近年は、女性が男性を結婚相手に求める条件も、バブル期の「三高」から少し変化して、「低姿勢、低リスク、低依存」という「三低」また、「平均的な年収」「平凡な外見」「平穏な性格」の「三平」(※15参照)が選ぶ条件になっているという。
そのような状況の中、婚活支援サービスを展開する株式会社パートナーエージェント(本社:東京)が2012(平成24 )年11月に、20〜50代の未・既婚男性1,000名に向け、理想のパートナー像と、パートナーとの理想の関係に関するアンケートを行い、調査した結果を発表しているが、結果は、未婚男性の理想的な女性像は「三等」、仕事・家事の機会は【平等】 、年収は【対等】、 身長・年齢は【同等】 を望んでいるらしい(※16参照)。
つまり、未婚男性は「共働きで家事分担」を指向。昔は「一家の大黒柱は男」という意識が強かったが、最近では男女で平等に働いて、平等に家事を分担しておこうという意識が、若年層ほど広まっているようだ。
一方で、既婚男性の中には「パートナーには家事や育児などを担当してほしい」と考える人が目立っている。未婚男性で役割分担を求めるのは10.4%しかいなかったが、既婚男性では約3倍の29.6%。また年収700万円台では32.7%、年収800万円以上では35.9%が“男は仕事、女は家庭”を理想としているようだ。
この様なデータは、結局のところ、女性にしても、男性にしても、自分が思っている、本当のいい男、いい女というより、現実の状況を見定めたうえで、妥協の産物としての願望であろう。アベノミクスで浮ついていても、それがいつ崩壊するかもしれない昨今、就職氷河期世代を含む男性には、このくらい堅実なスタンスが必要なのかもしれない。

このような現代社会で、結婚するしないは、別として、今の男性目線から見たいい女とはいったいどんな女だろうか?
ネットで検索していると、オリコン(Oricon Inc.)が運営するポータルサイト・ORICON STYLE調べによる、「男性が選ぶ恋人にしたい有名人」(20013年2月調べ)ランキングがあった、それを見ると以下のようになっている。()内は2011年調べのものである。
1位新垣結衣(2位)、
2位綾瀬はるか(1位)、
3位上戸 彩(5位)、
4位、堀北真希(16位)、
5位、宮崎あおい(4位)以下略。
常に上位にランキングしていた新垣結衣は、2009年より出演しさまざまなパターンの笑顔を提供している「十六茶」(アサヒ飲料)のCMの存在が大きいようだ。
CMギャラリー|十六茶|アサヒ飲料
新垣結衣同様上位ランキングの常連綾瀬はるかも明るくて、天然で可愛いと評判が良い。昨年電撃結婚をした上戸 彩も同様だ。映画「天地名察」など話題作への出演が絶えない宮崎あおいなど常連が強い。
常蓮たちが強さを見せつけている中で、急上昇を果たした新進気鋭の存在も見られる。昨年16位→今年4位へ躍進の堀北真希は昨年のNHK朝ドラ「梅ちゃん先生」での好演がよかった。同じく10位圏外から6位へ初登場の女優 剛力彩芽は、元気が溢れる感じのあの笑顔が好きと評判。もう1人「顔が小さくてかわいい、オシャレでスタイルが良いと評判の現役モデルでスタイル抜群の本田翼も人気で8位に入っている。(詳細は、参考の※17照)。
容姿はもちろんだが、絶対的な透明感、守ってあげたくなるような天然タイプなど多様な”美しさ”を放つランキング上位の女優達。共通するのはやはり、外見だけではなく、内側から女性らしさを放つ面々が支持されたようだ。ここ数年男性から女性に求めるものが”自立した女性”から”癒し”へと変化してきていたが、引き続きその傾向は続きそうだと分析されている。なんといっても、笑顔が魅力的。「美人じゃなくても笑顔が可愛い子」が一番の様だ。
先にも書いたが、「いい女」の条件は“外見”だけではなく、“内面”的なものや、“女らしさ”も合わせた総合的なものだ。男の私が、「いい女」はああだこうだと書くと怒られそうなので、今、どんな女が良いとされているのかは、参考※18、※19、※20などを見られるとよいだろう。
しかし、私たちの時代には「いい男」「いい女」の条件は、まず、「男なら男らしい」、「女なら女らしい」ことが前提にあったのだが、文部科学省の外郭団体である財団法人「一ツ橋文芸教育振興会」と「日本青少年研究所」は、2003(平成15)年秋に日本・米国・韓国・中華人民共和国の高校生各千人を対象にアンケート調査を行い、翌2004(平成15)年2月にその結果を発表した。この結果にもとづき、読売新聞は、日本では「女は女らしくすべきだ」を肯定した生徒が28.4%であり、他国(米58.0%、中71.6%、韓47.7%)よりも「突出して低い」と報じた。また、「男は男らしく」を肯定した人も43.4%と、4カ国で唯一半数以下であると指摘していた(現代の若者の意識調査また、参考の※21参照)。
今、ジェンダー・フリーが政治問題になっている。ジェンダー・フリーは女らしさや男らしさを否定するものだという批判がある一方、そのように批判する人は、何が男らしさで、何が女らしさなのかを、はっきりさせてもらいたい・・との反論もある。また、同じジェンダー・フリー批判論者でも、考え方は人によって様々のようだ。
私はこのような難しい問題を論じるだけの知識もないし、その気もない。
劇作家で、小説家・評論家・演出家でもある岸田國士(1890年 - 1954年)の随筆に『「女らしさ」について』と題して書いたものがある、以下参考※2青空文庫より一部を抜粋する(詳細はここ参照)。
「私はかういふ問題について特に興味をもつてゐるわけではないが、今時かういふ問題が婦人公論のやうな雑誌でとりあげられるといふ事実に多少時代的な意義を見出すのである。
大体「女」といふ言葉は、古来、複雑微妙な語感をもち、時と場合で、その響き方がいろいろに変るのであるが、この「女らしさ」にしても、なにかさういふ捕捉しがたい模糊とした感覚のなかにその正体をつきとめなければならぬ厄介さがある。
、すべての女は、何等かの意味で女らしいといふよりほか、私には理窟のつけやうがない。たゞ、普通の標準に従へば、常に、時代と民族、階級或は職業などに通ずる女の典型なるものが考へられる。ある特定の生活と文化とが、特定の理想的「女らしさ」を作りだすのである。
時によると、男の眼が「女らしさ」を発見し、それに価値を与へることもあるが、女も亦、同性のうちの「女らしさ」を鋭く感じ取るものである。従つて、好悪の別はあつても、それが「女らしい」といふ一点で、それを見るものの眼に、さう著しい違ひはないと思はれる。(中簡略)」そして最後に、
「賢明な本誌の読者諸嬢は、もうとつくにご承知の筈だが、美しい恋愛も幸福な結婚も、男性の側から云へば、常に対手の女性の「清純なコケツトリイ」によつて導かれるものである。」(「婦人公論」昭和十四年二月)。・・とある。
女性を見る側が、男性か女性かといった性別によっても、どんな女性がいい女かは相当違ってくるだろう。それに、「いい女」の条件は、顔やスタイルなど外見の容姿だけに限られたことではなく、社会的常識や自分自身の信念、喜怒哀楽等「内面」的なものなど諸々の要素が加わっているので、それがどんなものかは一概には決められないだろう。しかし、地球上に男と女の2つの性別しかないとすれば、それが良いとか悪いとかは別にしても、恋愛や、結婚を望む男が好む「いい女」と女が望む「いい男」は双方が互いに歩み寄り、納得し、認め合わない限り、結局は、恋愛も幸福な結婚もなかなか成立はしない・・ということではないかと思うのだが・・・。。

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いい女の日(2-1)

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日本記念日協会の今日11月7日の記念日に「いい女の日」があった。記念日登録をしているのは女性の心と体を癒すトータルエステティックサロンを全国に120店舗以上展開する「たかの友梨ビューティクリニック」(※1)だそうだ。
同社では創業当時から「1107」を「いいおんな」と読む語呂合わせから、サロンの電話番号などに多数使用しており、この日を美しくなりたい女性を応援する特別な日としているという。
私は男性なので、エスティックサロンのことなど余り興味もないし、よくわからないので、単に一般的な「いい女」のことについて書くことにしよう。
ところで、「いい女」ってどういう女を言うのだろう。

「武子さんの、あの上品な気品の高い姿や顔形は、日本的な女らしさとでもいうような美の極致だと思います。
あんな綺麗な方はめったにないと思います。綺麗な人は得なもので、どんなに結っても、どのような衣裳をつけられても、皆が皆よう似合うのです。
いつでしたか、一度丸髷に結うていられたことがありました。たいていはハイカラで、髷を結うていなさることは滅多にないので、私は記念に、手早く写生させて貰いましたが、まことに水もしたたるような美しさでした。「月蝕の宵」はその時の写生を参考にしたのです。もちろん全部武子夫人の写生を用いたという訳ではありませんが……」

上掲の文は女性の目を通して明治期から戦争(太平洋戦争)が終る時代にかけて「美人画」を描き、女性として初めて文化勲章を受賞した京都の日本画家・上村 松園の随筆『無題抄』(※2の「青空文庫」参照)からの抜粋である。

「月蝕の宵」の絵がどんなものかはここ参照→天絲繡典 -- 《上村松園作品》

「水(みず)も滴(したた)る」とは、『広辞苑』第5版では「美男、美女の形容」としてこの語を説明し、『日本語大辞典』(講談社)も「生気ある男や女の、また美男美女の、つやつや(艶々)とした、また、みずみず(瑞々)しい美しさの形容」と説明している。この語の後に、いい男、いい女などと続けて「水も滴るいい男」「水も滴るいい女」などと使うが、もともとは、「水も滴る若衆姿」などと、いい役者(いい男)などに使っていたものが、後に、女性にも使われるようになったと聞く。
「いい女」の顔についても、上村 松園は『女の顔』(※2参照)の中で、以下のように言っている

美人絵の顔も時代に依って変遷しますようで、昔の美人は何だか顔の道具が総体伸びやかで少し間の抜けたところもあるようです。先ず歌麿以前はお多福豆(※ソラマメの1品種で、豆がとくに大きく、おかめ[=お多福]の面のようにふっくらしている)のような顔でしたが、それからは細面のマスクになって居ります。然しいずれの世を通じましても、この瓜実(うりざね)いうのが一番美人だろうと思います。」・・・と。

日本人の顔は弥生時代に日本に持ち込まれた稲作が、噛む力を弱めて顔を小顔化しているようだ(※3参照)が、現代では、男女とも身長に対して、非常に小さな丸顔で、釣り目の「猫顔」が人気になってきているようだ。
では、どんな女が「いい女」か?というのは、時代の変遷によっても変わるが、それがどんなものであったかを少し遡って見てみよう。
先ず、平安の時代に貴族の男性が好みとした女性像はどんなものであったか。
平安中期に書かれた紫式部の『源氏物語』は、主人公の光源氏を通じて周辺の女性たちとの華やかな生涯を描いている前半と、その子供のと光の孫になる匂宮宇治八の宮の姫君たちとの複雑な人間関係を写している後半に分けられるが、二帖「帚木(ははきぎ)」の中で、五月雨の夜、宮中の宿直所で、まだ17歳になったばかりの若き光源氏のもとを訪ねてきた、源氏の年長の親友であり、義兄であり、政敵であり、また恋の競争相手でもある頭中将(位階が四位の殿上人)と女性論の話になり、さらに途中から加わる左馬頭(さまのかみ。左馬寮の長官。従五位上相当)、藤式部丞(とうしきぶのじょう。式部省の役人で左馬頭よりは下位。)を交えて4人で女性談義が盛り上がる。この場面は慣例的に『雨夜の品定め』と呼ばれる。本文、現代語訳、詳しい注釈等は、※4:「源氏物語の世界 再編集版」の第二帖 帚木を参考にされるとよい。
ここではどのような女が素晴らしいか、欠点に思うところなど女性論を展開しているがその結果「よき限り(=女性の長所)」「難ずべきくさはひ(=女性の短所)」は概ね以下のようなことが挙げられいる。
「よき限り(=女性の長所)」
・手紙や和歌など、文筆にすぐれていること。・当意即妙に返答ができること。・年若く、容貌も良いこと。・言葉や性格がおっとりしていること。・嫉妬を表に出さないこと。・夫の世話や家事をそつなくこなすこと。・素直でまじめであること。・頼もしくて信頼のおけること。
「難ずべきくさはひ(=女性の短所)」
・他人をばかにし、自分の得意なことを自慢すること。・行儀が悪く、みっともないこと。・好色で浮気なこと。・嫉妬心がはげしいこと。・一人で何もできず、頼りないこと。・ふいっといなくなったりして、信頼がおけないこと。  
そして、頭中将は、女性と付き合うなら「中の品(ぼん)」(中流)の女性がいろいろ特徴があり、魅力的で一番よいとしている(※5、6、7など参照)。
結局、必要だと思う色々な理想を言っても、理想的な女性というのは「ただひとへに、ものまめやかに、静かなる心の趣」の人だという。つまり、心がねじけておらずに自然で、ひたすらに実意があり、心の穏やかな、やさしい人がよいという結論らしい。
そして、面白いことに、好色で浮気なことなどは、ほどほどならばよしとし、後世の人たちから見て、最も重要な女性の徳と思われる貞操は余り問題にされていない。
当時は平安朝の宮廷においてのみならず、武家の家庭でも、源氏の例をみても、範頼の母は池田宿の遊女、義仲の母は江口の遊女(小枝御前)、そのほか悪源太義平 の母も橋本の遊女といわれており、義経の母の常盤御前などは、短い間に三度も夫を換えている。
平安時代の貴族にあっては、女子の教養は音楽・和歌・書道の三分野を中心として、みやびやかな朗らかな女性に育つように仕組まれていた。その才能によって、女性は上品、中品 、下品格付けられた。女性と男性が直接会えなかった時代なので、和歌は「話す」方法の一つでもあった。
手紙の内容、様子、香りによって、知識や性格まで理解されていた。そして、服装の合わせが上手で、琴が弾け、綺麗に文字を書き、短歌も作れる女性が、良い女であったという。
以上から、一夫多妻という婚姻形態を持つ時代の理想的な女性のイメージは、才能が豊かで、心が優しく、外見が美しいというものであったことが、『源氏物語』などから窺える。

鎌倉・室町の時代になっても公家の女子は、古代と同じく、音楽・和歌・書道をもって重要な教養分野としたが、有職故実を尊ぶ時勢の影響もあって、歴史にかかわる学習の風もおこった。それは、『庭の訓(おしえ)』(鎌倉初期撰。「庭訓(ていきん)」を訓読みにした語。家庭教育。庭訓=庭訓往来)や『乳母の草紙』などにみられるという。
これらは、『源氏物語』と比べると、仏教や儒教的な考えが取り込まれでおり、「妹君の乳母の教えでは、美しい外見や芸能の多才さより心の方が大事、他人に対して、悪口を言わず、仏を信仰しなければならない、両親や年上の人を尊敬し、世話をしなければならない」ことなどが述べられているといった特徴を持つている(女訓書。参考※8:「日本古典文学テキスト」の乳母のふみ 一名「庭のをしへ」参照)。つまり、仏教や儒教の影響を受けながら、平安時代の女性イメージが継承され、「しとやかで貞淑」な女性の理想像が強化されていったと言えるようだ。
そして、武家の正妻となる者は、まず貞操を全うすることを以て婦人の第一の美徳と考えられるようになり、家庭生活が厳粛になってきたが、この転換には、鎌倉幕府を開いた源頼朝の正室となった北条政子の影響があるようだ。
平安時代の男女関係は意外とおおらかであり、男女ともに貞操観念は低かった。 しかし、政子の頼朝に対する貞操はしっかりしたものであり、夫や家を大切にする点では、その後の日本女性の典型になっていた。
政子は自らを厳しく律し、夫に仕えながらも、夫に間違っている点があれば堂々と指摘する。自分の身を厳しく 律し、貞操観念を守ることで「妻の権威」を得、そして家を大事にして、夫や息子たちが男として立派に生きるように指導する。「日本の賢母」の典型は、政子から始まったといえる。その伝統は、つい最近までの日本婦人の生き方を決定してきたのである。
江戸時代の女性はどうだったか・・・?
江戸時代になると、幕府による統治が安定し、260 年間平和な状態が続いた。
江戸時代の女性も基本的に、鎌倉・室町の時代と変わらない。ただ、この時代には儒学などの教学が盛んになり、社会一般に及んだ。
中国代の儒者戴徳が、儒家のに関する古い記録を整理し、その理論と解説を記した『大戴礼記』(大戴礼ともよぶ)にある七去(しちきょ)(妻を離婚できる七つの事由)、というものが、日本では宝永7年(1710年)、貝原益軒が81歳のときに記した『和俗童子訓』(※9参照)巻の五の「女子を教える法」の中に記載がされている(ここ参照)。
この「女子を教える法」は後に女性の教育に用いられるようになった教訓書『女大学』などの書物によって一般化し、江戸時代中期から太平洋戦争戦前まで、女子教育のバイブルとして君臨した。
「教女子法」において、最初に「男性は外に出でて、(中略)女子はつねに内に居て」「いにしえ、天子より以下、男は外をおさめ、女は内をおさむ」と述べて、女は男と違い奥向きのことをすべきこと。そして、「婦人は、人につかうるもの也」であるとし、身分に関わらず早朝から深夜まで怠けずに、舅姑(きゅうこ。舅と姑)や夫に仕えなければならないし、「みずから衣をたたみ、席を掃き、食をととのえ、うみ、つむぎ、ぬい物し、子をそだてて、けがれをあらい、(中略)是れ婦人の職分」だと述べている。
その上で、「婦人に七去(しちきょ)とて、あしき事七あり。一にしてもあれば、夫より遂去(おいさ)らるる理(ことわり)なり。故に是(これ)を七去と云(いう)。是古(いにしえ)の法なり。女子にをしえきかすべし。一には父母にしたがはざるは去(さる)。二に子なければさる。三に淫なればさる(淫=淫乱のこと。浮気、姦通など)。四に嫉(ねた)めばさる(嫉み=嫉妬のこと。家族を恨み、怒る場合)。五に悪疾(あしきやまい)あればさる。六に多言なればさる(.男のようによく喋り、家の方針についてあれこれ口を挟むこと)。七に竊盗(ぬすみ)すればさる」と七去の一つでも守れないと、離婚されることのもあるとしている。
又、「七去三従」という言葉も使われた。「三従」とは、「生家では父に従い、嫁しては夫に従い、夫の死後は子供に従え」という教えであり、やはり儒教の教えと関係が深い言葉であり、一個人より「家」の方が大切なものと考えられていた。
こうして、江戸時代には鎌倉室町時代以上に、女性には「貞女」としての貞操が求められ、「女の道」という倫理が武家社会に強く意識されるようになり、これらの傾向は、武士だけでなく、社会一般にもおよんだとされている。
しかし、参考※10:「誰が守るか女大学ー三下半と江戸時代の女性像ー」に、式亭三馬の滑稽本『浮世風呂』の序文には「蓋(けだし)世に女教の書許多(あまた)あれど、女大学今川のたぐひ、丸薬の口に苦ければ婦女子も心に味ふこと少なし」とある。つまり『女大学』は苦い薬のようなもので、自分のものとしてる女はいないという認識であった。・・・とあるように、江戸時代の女性は、言われているほどにひ弱ではなかった。…というより、結構たのもしく、したたかに生きていたようである。
古来日本は性には開放的な民族で、徳川後半の日本の全国のムラでは、夜這いなどは、ありきたりの風習で、どこでも行われていたことであったようだから・・・。

男女の婚姻形態に大きな影響を及ぼしたのは、明治時代に制定された家制度である。1898(明治31)年に制定されたこの民法戸主制が決められ、江戸時代から続く庶民の夜這い婚集団婚妻問婚の名残とみる説また、近世郷村の農村社会に固有の様式であり、村落共同体という自治集団を維持していくための実質的な婚姻制度、もしくは性的規範であるとする説がある)に代表されるおおらかな性の有り様も、貞操観や良妻賢母を理想とする女性像に変質していく。
この 明治と昭和という大きな時代に挟まれたわずか14年半という短い期間の大正時代は、国内外共に激動の時代であった。テクノロジーの発達は目覚ましく、デパートの大量消費,電車に乗り通勤するサラリーマンとその主婦の登場、文化住宅など現在の我々の生活の基盤ができあがったのもこの頃である。
ラジオや活動写真で流行歌や演劇を楽しみ、街にはネオンが輝き、ダンスホールやカフェーに集まるモダンガールやモダンボーイ(モボ・モガ)たちがダンスを楽しんだ。モダン都市・東京の中心銀座文化」には女性が大きな役割を果たした。こうした華やかな雰囲気はしばしば大正ロマンと表現をされる。和と洋のミックスされた異国情緒の甘い香り漂うこの文化は、現在でも様々な面で注目されている。
中でも一大ブームを巻き起こした竹久夢二高畠華宵中原淳一や、松本かつぢ加藤まさを蕗谷虹児などの抒情画に代表される。彼らの絵の根底にはロマン主義が共通して見て取れるが、大きく分けると竹久夢二と高畠華宵のこの二人の画家は,健康的な美ではなく、女性の色気が強く表現されているように思わる。
夢二が日本の伝統的な女性の美を描いたのに対して、華宵の描く女性は都会的で西洋の影響を強く受けているように思われる。しかし両者の絵もどことなく退廃的で,甘美な感傷の世界が漂っている。

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上掲の画象、向かって、左:竹久夢二画「寧楽椿市(ならつばいち)」、大正期の作。右:高畠華宵画「師走の風」昭和初期作。画像は、朝日クロニクル『週刊20世紀』1926年号掲載分より借用。  
上掲の画像向かって、左:夢二の画には「たらちねの母がよぶなを申さめど道行く人を誰としりてか」と夢二の文字が見える。椿市(海石榴市)は奈良県桜井市三輪町。古代、物品交易の市として栄えた。
歌(万葉集)の意は「私の名を申し上げてよろしいのですが、あなたどなたかわからないので申しあげないでおきましょう」。(万葉集のこの歌、なかなか奥深い意味がある。この歌の詳しい意は※11を参照されるとよい。)
『モダニズム』『デモクラシー』大正の枕詞は新鮮で明るい。しかし、花は咲くもののあわただしかったが、散るのも早かった。
二人のそれぞれの画家は美に対する独自の信念をもち、急激な都市の変化に伴うこの時代の風潮や流行を敏感にとらえたうえで、当時の人々の心情のあり方を繊細に描き出しているように見受けられる。また、当時の女性たちも、多少の違和感を覚えながらも親の絶対的権限は心得ており、良い娘・妻であろうとした。
当時は、まだ、これまでの時代と同様に、姑の言うことを良く聞き、家事全般を行い、子を産み、夫を支え、家庭を守るのが女性の役割であり、求められた姿であった。
国は富国強兵のもと兵力を必要とし,女性に子を産むことを推奨するため良妻賢母の教育を行った。良妻賢母といっても,その内容はただたただ家族に従順であり、家以外のことは何も知らぬ女であれという奴隷教育のようなものであった。
女性の教育の場であるはずの女学校も、裕福層が増えたことで娘を女学校に通わせることが親たちのステータスになり、本気で自立する力をつけさせようとする親はほとんどいない。実際授業の大半は家庭科で占められ、花嫁修業の場と言っても過言ではない状況であった。
新しい時代の自由を身に感じ始めていた彼女たちも、現実は「生活に無力なために、生きるがために結婚することを余儀なくされていたのである。
自分ではどうすることもできない無念さを感じる彼女たちはまさに、抒情画に描かれる、はかなく悲しみを帯びた女性の姿に強く共感することができたのであろう。そこに自分を投影し、竹久夢二によって創られた詩歌のタイトル「宵待草」のように恋に生き、恋人をずっと待ち続ける女性に夢を託し、ある時は虚しく遠くを見つめる女性に自分を見て慰めたりしたのではないかという(※12参照)。
「待てど暮らせど 来ぬひとを 宵待草の やるせなさ 今宵は月も 出ぬそうな.」(宵待草)以下で、歌が出来た経緯と曲がわかる。良い曲ですよ。
宵待草: 二木紘三のうた物語

しかし夢二の描く女性も、華宵の都会的なモダンガールも、描かれるのはあくまで男性から見た女性の姿であり、そこには画家たちの理想像が強く投影されている。彼らは力の弱い、何かにもたれかかる受け身の女性の姿に「もののあわれ」の美を見いだしたのである。それは新しいとはいえない、明治の女性の姿そのままであった。それにも関わらず大正の女性の支持を得たのは絵に対する共感だけでなく、女性が男性に養って貰う他に生きる術を持たないため、男性の求める「女性」の姿を見て取り、より「女性」らしくある必要を受け止めていたからではないかという。したがって、この絵を支持するのは女性に限って言えば女学生や一般家庭婦人、芸者や喫茶店の女給、芸能人などであって職業婦人は少なかったという。
明治までの街並みも趣味も服装も西洋的に変化を遂げ、何から何まで新しく生まれ変わったモダンな大正文化の中で、一大ブームとなった抒情画のその根底を支えていたのは、新しい思想に目覚めた自活した女性ではなく、明治から変わらぬ古い因習にがんじがらめに苦しむ人々であった。彼らの理想と現実に対する絶望感や無力感が原動力となり、大正ロマンのあの独特の負の雰囲気が醸し出されていたのである(※12参照)。
もちろん女学生の生活は学校での授業だけでなく、楽しみや悩みからも成っていた。昔の女学生も現代と同じく雑誌が好きであった。二十世紀の始めに、最も人気があった『少女倶楽部』(1923年創刊)、『少女画報』(1912年創刊)、『少女の友』(1908 年創刊)、『令女界』(1922 年創刊)などの雑誌は、その時代を反映したものであって、そこに表れた豊富な情報をもとに、服装やヘアスタイルその他色々な情報を得た。
大正も中頃になると女性の職業も増え、自活をする女性も現れる。これら本当の意味で新しい女性たちは、周りからの非難・嘲笑にも耐え、自らの力で男女の自由を獲得できない苦しみや「社会的弊害を突破して、恋愛の自由や結婚の自由を実現するようになった。
今年のNHK朝ドラ・連続テレビ小説『ごちそうさん』。主演の卯野 め以子を演ずるはオーディションなしでの直接オファーでヒロインを演じることが決まったらしいが、オーディションなしでヒロインが決定したのは、2012年度上半期『梅ちゃん先生』の堀北真希以来だそうである。
時代設定は大正・昭和期。東京のレストラン「開明軒」の食いしん坊の娘・め以子は大正ロマンを生きる女学生に成長後は、お洒落や恋愛に興味を持ち、高い身長に悩み始めるが、食いしん坊ぶりは相変わらずな上、料理をすることや学問には関心がなく、将来についても結婚したいという漠然とした考えしか持っていなかった。落第が危ぶまれても関係ないと開き直るが、下宿している偏屈な大阪男・西門悠太郎から食べ物になぞらえて勉強を教えてもらい成績が向上した事をきっかけに、自分の人生や、悠太郎に対する気持ちに変化が現れ始め、ついには、太郎と恋に落ち、悠太郎の下に嫁ぐ。そして、苦労しながら食い倒れの街・大阪を舞台に、関東・関西の食文化の違いを克服しつつ、料理と夫に愛情を注ぐことで、め以子が力強い母へと成長していく物語だそうである(ここ参照)。

冒頭の画像は、Wikipedia-コケットリーより、ヘンリ・ジェルボー(ここ参照)のスケッチ。
「よろしければ、この美しい肩に野蛮な男のキスはいかかがですか?」
「もっとよくみた後なら好きなだけ」
これは、ヘンリ・ジェルボーのスケッチにつけられたキャプション、1901年。


いい女の日(2-2)へ続く
いい女の日(参考)

宮崎県木城町に武者小路実篤が推進する「新しき村」が開村した日

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「新しき村」とは、白樺派の文学者武者小路実篤(むしゃのこうじさねあつ)が提唱した生活共同体(村=理想主義的な集団)である。

畑の中の道の両側に高々と幟(のぼり)が翻る。「自然から与えられた人間の食べ物、人間の喜び 私はそれを尊敬する」「皆で皆で 皆の為に働くことができるのだ 自分達は皆で」「「大きな城を築くことを知らないものは 小さい石材を 小さい石材のまますてておく」。
武者小路実篤の言葉を記した幟(のぼり)の立つ道をゆくと「新しき村」への入り口がある。門柱には、「この門に入るものは、自己と他人の生命を尊重しなければならない」と書かれている。その奥に「新しき村」が広がる。埼玉県入間郡毛呂山町の村(「東の村」)である。
●冒頭の画像、「新しき村」入口(『朝日クロニクル週刊20世紀』1918−1919年号より)。

白樺派の作者・武者小路実篤が「自他共生」(自他共に生きる)の理想郷を目指して、家族や同士と共に宮崎県児湯(こゆ)郡木城(きじょう)村(現、木城町)に、「新しき村」を創設したのは、今から95年前の1918(大正7)年の今日・11月14日のことであった。(※1:「宮崎県HP」所蔵資料>新しき村開墾助成願を参照)
その20年後の1938(昭和13)年にダム(小丸川発電所)の建設により農地が水没することになったため、その補償額を元に、翌・1939年(昭和14年)、現在の地・埼玉県入間郡毛呂山町に第二の村(「東の村」)を作り移転した。
但し、実篤は1924(大正13)年に離村し、村に居住せずに会費のみを納める村外会員となったため、実際に村民だったのはわずか6年である。
現在、新しき村の本部はこの移転後の埼玉県入間郡毛呂山町にあるが、宮崎県が創設の地であり、現在も存続し、そこに住む同士によって建設が進められている。
この「東の村」は、第二次世界大戦終了時には、1世帯のみとなっていたらしいが、入村者が増え、1948(昭和23)年には、埼玉県から財団法人の認可を受け、1958(昭和33)年にはついに自活できるようになったという。
新しき村は、創立時から、村内生活者の日々の仕事は農業が中心である。その理由は、新しき村公式サイト(※2参照)によれば、実篤の言葉「それは百姓の労働が一番もとだからだ。 衣食住をただにするには百姓の労働が一番近か道だ。それ以上の生活はそれからだ。」によっているという。
2011(平成23)年現在、村内には10所帯13名が住み、約10ヘクタール、借地約3ヘクタールの土地に、卵・椎茸・米・野菜・茶・竹炭などを生産・販売している。ほかに、筍・梅・ゆず・ぎんなんなどを収穫・販売しているという。土壌改良剤としての鶏糞も販売しているそうだ。
村内に、建物は、公会堂兼食堂(580?)、新しき村美術館(250?)、生活文化館(200?)、小集会場、アトリエ、茶室、住宅、作業場、畜舎等88棟に、理容室(村内中心)もあり、生活文化館(新しき村ギャラリー)は年中無休で無料公開しているそうだ。
そのほか、文化事業として、武者小路実篤記念新しき村美術館を公開し所蔵品の貸し出しを行なったり、機関誌『新しき村』を毎月発行しているようだ。
生活状況については、村内生活者ひとりの一年間の生活費は、平均すると、税金等を含めて120万円強だという。共同で働き、食事は食堂で、義務農業を果たしさえすれば、余暇を絵や音楽、焼き物など好きなことに費やすことができるそうだ。
人間が人間らしく、互いの個性と自我を尊重する集団生活。だが不安材料がないわけではない。かっては、村内生活者が50人を超え、村には幼稚園もあったというが、今では、村内の高齢化が進み、子供の姿はなく、年を取ったものがわずかに住んでいるだけ。農業収入の低迷もあり、村の運営には困難も増しているのが実情の様である。
この村はただ生活するためのものではなく、精神に基いた世界を築く目的で開村されており、入村は40歳まで、村に住むには、「村の精神に共感する」が絶対条件となっている(新しき村の精神は※2:新しき村公式サイト参照)
若い人は仮入村しても長続きできないらしい。しかし、住んでいる人は「実篤先生と一緒に暮らしているようなもの」と屈託がないようだ。
今は、村内生活者以外に、自分は村に入れないが、村の活動には協力したいとする村外会員(第二種会員とも呼ぶ)が約170名いるという。

なお、創設の地である宮崎県の新しき村は現在、財団法人「日向新しき村」として存続しており、現状は、5.5ヘクタールの土地に、建物は住宅三棟、食堂があり、村内生活者2世帯4名が生活し、水稲1ヘクタール、畑20アールの農業を営んでいるという。また、武者小路実篤が住んでいたとされる旧居は復元され、武者小路実篤記念館として資料、写真などが展示され見学ができるようになっているそうだ。
現在の日向新しき村の状況は、以下で窺える。
日向新しき村(2ページある)

武者小路実篤の名は小説を書くときのペンネームではなく、実名である。彼は、江戸時代から公卿の家系である武者小路家に、父子爵武者小路実世と母秋子(なるこ。勘解由小路家出身)の8番目の末子として生まれた。2歳の時に、父が死去している。
しかし、名家の出身らしく、学習院初等科、同中等学科、高等学科を経て、1906(明治39)年9月に東京帝国大学哲学科社会学専修に入学。
この間、1903(明治36)年3月、実篤は中等科6年、18歳の時に、3年前より恋していた姉とともに伯母を頼って上京していた「お貞さん」こと志茂テイ(当時12才)が帰郷し失恋している。この失恋は実篤のその後の人生観に大きな影響を与え、文学へ傾斜させる要因ともなったようだ。
又、この夏三浦半島の叔父・勘解由小路資承の家で読んだトルストイの『我宗教』(※3)『我懺悔』(※4)により、トルストイに強くひかれるようになり、聖書、仏典などをしきりに読むようになったという。
小説家の武者小路実篤からは想像できないが、小さい頃は作文が苦手だったという。その彼が、翌1907(明治40)年4月、学習院時代からの同級生だった志賀直哉や備中国賀陽郡足守村(現・岡山市北区)足守)の足守藩最後の藩主・木下利恭の弟・利永の二男で子爵の木下利玄、伯爵正親町実正の長男正親町公和らと志賀宅に各自の創作を持って参集し「十四日会」と命名する。この時彼22才であった。
そして、同年8月に、作家活動専念のために大学を中退し、翌1908(明治41)年4月23才の時には、創作感想集『荒野』を自費出版。また、「十四日会」で回覧雑誌「暴矢」を創刊、のちにこれは「望野」と改題している。
その2年後、1910(明治43)年4月、25歳の時、志賀直哉、有島武郎、有島武郎の弟有島 生馬らと共に『白樺』という文学雑誌を創刊。創刊号に「『それから』に就て」を発表している。彼らはこの雑誌に因んで『白樺派』と呼ばれるようになる。
それから』は、『「それから」に就て』が発表される前の年・1909(明治42)年に夏目漱石の書いた新聞連載小説であり、この小説は『三四郎』に次ぐ作品であり、次作『』(1910年)とで前期三部作をなすもの。漱石はこの小説で「色々な意味に於てそれからである」と紹介した。
「それから」というタイトルは、作者の漱石が先に発表した「三四郎」の主人公である三四郎のようなタイプの人間の”それから”を描くという意味でつけられたものであることが、漱石自身が書いた連載予告で明かになってる。
また、『それから』の代助は最後に、社会的・経済的立場や家族を捨てて、好きになった女性と一緒になることを決心するが、『門』の主人公の宗助は、妻と一緒になったために社会的に日陰の身になったものとして暮らしている。つまり、代助が好きな女性と結婚したあとの姿が、宗助と重なっている。
漱石は実篤ら白樺派の作家たちが最も尊敬する作家であった。
世の中の暗い面ばかりに目を向ける、重苦しい雰囲気の自然主義の文学に対して反発を感じていた彼らは、知的で倫理的な作風の漱石を文壇における先輩として尊敬していた。
しかし、ここで実篤は漱石の「それから」に託して、実は、彼なりの生き方(「思想」)と書き方(「技巧」・「顕はし方」)を主張しているのだという。
例えば、「思想」について語る三章の中で、「(略)自分は漱石氏は何時までも今のまゝに、社会に対して絶望的な考を持つてゐられるか、或は社会と人間の自然性の間にある調和を見出されるかを見たいと思ふ」・・・と、「自然」という言葉が、繰り返し取り上げられており、自然のままに行動すれば人間の心は喜ぶけれど、社会からはみ出してしまう。社会の決めごとにしたがって行動すれば世の中ではやっていけるけれど、心は空虚感を抱えるようになる。漱石はこの板挟みの中で破滅するまでをリアルに書いたが、これからは自然の方を重視して、調和の道を進んでいって欲しい、というのが実篤の主張であるという。
漱石から評価されたこともあって文壇に認められていったにも関わらず、自分たちの個性を信じて漱石の文学とは異なる方向に進んでいった彼らの道すじを、この文章は予告している。
このように、白樺派の出発点ともなる雑誌『白樺』の創刊号に書いた「『それから』に就て」は、白樺派が文壇に登場する高らかな宣言の役割をこの文章がになっている点、また、実篤たちと夏目漱石との接点と立場の違いの両面がここにはっきりと書かれており、実篤が書いた作品の中で「文学史上最も重要な作品」といえるかもしれない文だという(※5:「調布市武者小路実篤記念館」の武者小路実篤 > 作品鑑賞>館報『美愛眞』12号:評論「それからに就て」参照)。
このころ、白樺派の実篤らはその支柱でもあったトルストイに傾倒していたが、その、トルストイはこの年11月に82才で没している。
又、フランスの彫刻家で『近代彫刻の父』とも称されるオーギュスト・ロダンは、わが国にもいち早く紹介されており、激しい動きと秘められた深い思索を想起させるその躍動的な彫刻に、白樺派の青年たちが熱い称賛の念を抱いていた。
そして、この『白樺』創刊年である1910(明治43)年は、ロダンの70歳の誕生日であることから、11月に『白樺』に「ロダン特集号」を組み、『いずれ浮世絵を送る』という主旨の手紙を有島生馬がこの巨匠ロダンに誰の紹介もなしに書き送っていたらしい。このあと半年ばかり待っていたものの返事も来ないが、それでも、約束だからと、金を工面して浮世絵を20枚購入し、同人の愛蔵しているものを加えて30枚にして8月頃ロダンに送った。
その時の不安な心境を実篤は、『白樺』第三巻第二号(1912年3月26日)に以下のようにつづっているという。
「自分たちはロダンが見てどんなに思うだろう、喜んでくれるかしらん。つまらぬものを送ってきたと思いはしないか、などと思った。なお密(ひそ)かに素画を一枚ぐらいくれればいいと思っていた。しかしそれは難しいことと思っていた。・・・」・・・と。
しかし、これに対し、ロダンからの突然の手紙に、浮世絵の返礼に、まさかとおもっていた本物のロダンの彫刻が送られてくるとあり、大喜びしていると翌・1911(明治44)年12月、本物のブロンズ像小作品が3点も贈られてきた(「マダム・ロダン像」「巴里ゴロツキの首」「ある小さき影」)。
ロダンの彫刻は日本ではじめてのものであった。(※6:「白樺文学館」白樺便り11.最新入手作品ご紹介/ロダンと白樺派参照)。 
この年から岸田劉生(当時20歳の画学生)との交友も始まり、12月岸田が実篤のもとへ訪問した際、実篤の勧めで届いたばかりのロダンの本物の彫刻を見て岸田も感動したことが、岸田の画学生宛手紙であきらかとなっている(※5:調布市武者小路実篤記念館の資料室>所蔵資料から>館報『美愛眞』23号より、岸田劉生より木村荘八あての手紙 ─実篤と劉生の出会い─参照)。
1913(大正2)年、実篤28歳の時に竹尾房子と結婚。実篤はこの前年、『白樺創刊から2年目の1912(明治45 )年、27才の時に『世間知らず』を刊行している。
この『世間知らず』の中で語られる「C子」が実篤の初婚の相手、竹尾房子であるという。作者(実篤)は晩年の回想の中で本作に触れ、「この小説に価値があるとすれば、大半は房子の手紙の書き方が面白いからという事になるかも知れない」と語っているそうだ。
参考※7:「第12号−武者小路実篤『世間知らず』『友情』に見るジェンダー観」では、実篤が初めて房子に出会ったときの印象、そして好きになっていく過程などが書かれているが、大正デモクラシーという時代背景を考えたとしても、C子の行動から、有名な作者に手紙を送りつけ、対面を果たすという大胆さを持ち合わせた女性であることが窺える。・・という。しかしどうやら、実篤好みの美人ではなかったらしい。
房子と結婚後は実篤の生家で同居。翌年入籍し、生家を出て、麹町区下に家を借りるがその後、神奈川や東京で度々転居していたらしいが、肺病の誤診宣告を機に東京から志賀直哉・柳宗悦が移り住んでいた我孫子(我孫子市船戸2丁目21番)に移住したのは1916(大正5)年の暮、実篤31歳の時であった。
ロダンからの彫刻が到着したのを機に実篤らの美術館建設の構想が芽をふき、1917(大正6)年には、『白樺』10月号で「美術館をつくる計画」を発表、日本最初の西洋近代美術の美術館設立運動を提唱するに至る。そして、同年11月17日ロダンが逝去すると12月に、、白樺』は「ロダン追悼号」(1月号)を刊行し、その後も巻を追うごとに主だった代表作を写真図版によって紹介していたようだ。
そして、1918(大正7)年33歳の時、5月〜7月に後に「新しき村に就ての対話」と改題された三つの対話(「第一の対話」「第二の対話」「第三の対話」)を『白樺』と『大阪毎日新聞』に発表し、新しき村の創設を提唱。7月には機関雑誌『新しき村』を創刊する。この翌月の8月号にはこの時の同士43名の名前が報じられているという(※8参照)。
また、これに「新しき村に就ての対話」をふくむ単行本『新しき村の生活』を8月に出版している。
この「新しき村に就ての対話」は、実篤が「新しき村」をはじめる第一歩となった作品であるが、10年前、実篤23歳の時(1908年)の日記には既に「自分は此頃になつて何か大きな仕事が出来る様に思へて来た。(略)それは新しき社会をつくる事だ。理想国の小さいモデルを作る事だ」と書いていたという
そして、「第三の対話」の末尾近くに次の一節がある。
「自分達は良心にたいして自分達を無能力者だからと云ふ云ひわけをつかふことはやめにしよう。協力さへすれば、そして本気になれば無能力ではない。」・・・と。実篤が「新しき村」をつくることで切り開いたのは、世界の人々が理想的に生活できる可能性だけではなく、新しい行動を起こす前に現実主義に逃げ込む精神に対する批判だったのだといえるようだ(※5の武者小路実篤>作品鑑賞>館報『美愛眞』15号より「新しき村に就いての対話を参照)。
ただ、実篤が23歳の時の日記にも書いてあるとはいえ、「新しき村に就ての対話」で新しき村の創設を提唱してから、4か月後の9月には、新しき村建設のために我孫子を出発し、11月には宮崎県児湯郡木城村(現・木城町)の土地を買う契約を済ませ、そのまま妻の房子や同志の仲間と暮らしはじめた。
1920(大正9)年2月に書き上げられ、その4月に雑誌『解放』に掲載された小説「土地」には新しき村の土地が決まり、開墾の日々に至るまでが描かれ、ようやく桃源郷を探し当てて驚喜する場面がある(※9参照)。
地主のいない共同農場が誕生したのである。この新しい村への最初の入村者は妻の房子など同士18名(男性13名、女性5名)であるらしい。
最初の土地は田畑・山林併せて7600余坪から始まったという。最初は石河内町の借家から通い、次々と家を建て、2年目に母屋(合宿所)が完成したと記録されているようだ(※2:「新しき村公式サイト」参照)。

●上掲の画象は宮崎県の「新しき村」のメンバーと、武者小路実篤(後列中央麦わら帽の男性)である。画像は『朝日クロニクル週刊20世紀』より借用)
武者小路実篤は当初「東京から日帰りに行ける土地」を探していたが、決定地が、木城村の地に決まるまでには多少の曲折があった。日向に土地の目当てを付けた理由については、実篤がしばし書いているように、新聞紙上でも「第一日向という名が気に入り、冬に働けるのが気に入り、日本の最初に起こった土地だというのが気に入った」と語っている。しかし、正直に言えば、その条件に「その上土地が安かった」というのを付け加える必要があったようだ。
新しき村の土地は何処がいいか、それは最初から問題となっていたようだ。
「新しき村」は当時の社会的文化的大事件であり、先の両著には新聞雑誌をはじめ、各界著名人たちの反響が詳しく述べられているが、同人の志賀直哉や、柳宗悦も雑誌「新しき村」の第一号での餞(はなむけ)の言葉ではエールを送っているものの実篤の杜撰な計画には危惧を示していたようだ。
白樺派の中で正面切って批判したのは有島武郎だけで、「新しき村」の企ての発足を知ったとき、有島武郎は『中央公論』に発表された「武者小路兄へ」(大正7年7月)で、有島らしい難解な言い回しの文章だが、実篤との断交を招いた「私はあなたの企てが如何に綿密に思慮され実行されても失敗に終わると思うものです」という有名な一節があり、ここには「如何に綿密に思慮されても失敗の確率が高いというのに、あなたの企ての杜撰さは何なんだ」という慨嘆が窺えるという(※1また※11の弐の続き参照)。

「新しき村」という生活共同体の村の精神は、自他を犠牲にすることなく”自己を生かす”ことにあり、村民はみずからの生活を支えたうえで、自由を楽しみ、個性を生かす生活を全うする・・・理想的な調和社会、階級闘争の無い世界という理想郷の実現を目指してきた。
当初の入村者は男性13名、女性5名の総勢18名で、土地や田畑の開墾から宿舎の建築まですべてを自分たちの手で行なった。しかし、提唱者の実篤自身が子爵という出自であることからもわかるように、村民となった人々の中には農業を生業とする者はほとんどいなかったようだ。
自給自足のための開墾をしたうえ作物を収穫するなどということがどれほど大変なことか、素人でも分かるはずなのに、敢えてその無謀ともいえる実践に飛び込んだのだから、若さゆえの冒険心だけではなく「新しい時代」や「新しい生活」への大きな希望と理想があったのだろうということは理解できる。しかし、開墾当時の労働の困難は、実篤らの当初の想像をはるかに超えた過酷さが余儀なくされただろう。
希望と理想に燃えて建設した村ではあったものの、次第に人間関係の軋轢が目立ち開村2年目の1919(大正8 )年春には村に内紛も起こったようだ。しかし、実篤が重視した余暇時間の文化活動はかなり実現していろいろ活動していたようで精神的には充実していたようだ。なおこの年、農作業、建築の手伝い、資材の運搬などの仕事を村の青年たちとともに分担した。
実篤は皆とともに仕事をし、文筆に講演にと、内外に活動し、村の仕事も農業ばかりでなく、出版に演劇にと幅広いものであった。
ロシア革命の成功による社会主義思想の普及,国内の政治的経済的混乱、大正デモクラシーの運動(大正デモクラシーと相次ぐ恐慌参照)など多様な社会的要因に、実篤のトルストイズム(トルストイが文学作品や人生を通して訴えた社会思想。)が結合した白樺派人格主義の実践は、とくに青年層に大きな反響を呼び起こした。
入村希望者も数多く、反面、離村する者も毎月のようにあったというが数年後には村内の人数も40人を超えたようだ。
そして、自分は村に入れないが、村の活動に協力したいとする村外会員(第二種会員とも呼ぶ)も次第に増加し、東京・京都・奈良・神戸などで支部活動が盛んになったという。
1921(大正10)年3月36歳の時、「白樺美術館第一回展覧会」を開催。セザンヌの「風景」、ゴッホの「向日葵」等が公開されたという。
因みに、このセザンヌの「風景」は、白樺同人が「白樺美術館」の建設を目的に皆で金を出しあって購入したものだが、その後、この美術館の設立は実現せず、長く柳宗悦の家にて保管していたが、セザンヌ好きだった大原總一郎が柳宗悦に懇望して、寄託というかたちで大原美術館にて展示をしていたが、いよいよ実現不可能として、現在は、この作品をロダンのブロンズの小作品3点と一緒に大原美術館に永久寄託し、同美術館で展示されているようだ(※8参照)。
1922(大正11)年、37歳の時、実篤は房子と離婚し、前年新しき村に入村した飯河(いごう)安子と結婚。村内で『人間万歳』を発表。
雑誌『白樺』創刊時よりの同士・有島 武郎がこの年、軽井沢の別荘(浄月荘)で波多野秋子と心中。7月7日に遺体が発見され、当時の新聞紙上でセンセーションを巻き起こした。
雑誌『白樺』は、1923(大正12)年8月まで続き、全160号が発刊され、161号も刊行予定だったが、関東大震災の影響により廃刊となっている。
また、この時の震災で実篤の母は無事だったが生家が焼失している。
1925 (大正14)年、実篤40才の時、新しき村を開村してからわずか7年で新しき村を離村し、志賀直哉が住む奈良に移り、以後、村外会員として村の活動を支えた。
「新しい村」はその後、新しき村の会員杉山正雄らの力で継続され、杉山は、1932(昭和7)年に実篤の養子となり、房子と結婚。その後、村の常務理事を務めたという。
どうもこの辺の実篤、房子、安子、杉山の4名の関係がよくわからないのだが、参考※1:「宮崎県ホームページ」のみやざきの101人-武者小路 房子 によれば、以下のように書いてある。
新しい村で、「実篤と飯河安子の恋愛問題が起こり、彼は去り村外会員になった。房子もまた杉山正雄との恋愛事件が起こり、実篤とは別れて生活することになった。4年後の1932(昭和7)年に房子は杉山と正式に結婚。実篤は2人を養子にして武者小路姓を名乗らせ、2人は「日向新しき村」に生涯をかけることとなった。」・・・と。
また、武者小路房子を訪ね、思い出話を聞いた中から許しを得て回想という形で、黒木清次がまとめた『武者小路房子−古くて新しき村とともに50年−』(日向おんな)には、
 「本当の愛情というものをわたしが知ったのは、村に入ってからでした。(中略)病気と幻滅感、いっぽうにはそのときまでに不自由なく豊かな生活の中に気ままに育ってきたわたしには、無意識のうちにそなわっていた高慢さ−そうした交錯したわたしの精神と肉体の苦難の時期を温かくいちずに支えてくれたのが杉山でした」。・・・と。
そして、この続きの文が、参考の※12:「歴史の里:新しき村」の関連サイト「杉山夫妻」に綴られている。
「そんな状態のとき武者小路にも新しい愛が始まっていました。わたしと杉山は一時的に新しき村を離れて鎌倉に住みました。四人がそれぞれに愛情というものの試練のなかにおかれたのでした。「愛はどんな障害も通り抜けて生きなければならない」「運命から与えられるものは甘受してそれを生かせるだけ生かす……」あの時期、これ程の愛への自覚があったかどうかは自らにも問えませんが、いま静かに思えばわたしたち四人は、それぞれの立場でこの言葉のように自らを処置していったことになるのでしょうか。」・・・と。
そして、杉山正雄・房子の主治医であった吉田隆氏は「村は終わったー最後の人となった房子」「史友会報」などに、杉山正雄・房子について、次のように記しているという。
「実篤は村を去った。村を支援しつつ、自分の道を生き抜いた。安子との愛を全うした。 杉山正雄は村にとどまった。師である実篤の教え「愛はどこまでも貫き通さねばならない」のとおり、房子との愛を誠実に奉仕的に全うした。(杉山は房子より11歳年下である) そしてトルストイの思想に傾倒した実篤は「自己を徹底して生かす」という独自の生き方をした。杉山も、独自の生き方・思想を模索し、独自の境地を掴みえたのではなかろうか。 昭和58年4月28日、杉山正雄は逝去した。(80歳) 平成元年10月25日、房子は新しき村のこの家にて逝去した(97歳)。・・と。
そして、50年の歳月を経過したとき、一人が加わります。さらに七年後の1976(昭和51)年には松田省吾・ヤイ子夫妻が移ってきて、杉山夫妻と四人で新しき村発祥の地を守ってきました。・・と注記されている。
男女の恋愛問題・・・、最初に誰が火種を作ったのか、事の真相は、書き手側によっても違ってくるだろうからよくわからないが、新しい村での内紛は、村の運営に関するものだけではなく、実篤の最初の妻、房子と再婚した飯河安子、それに、杉山正雄をめぐる四角関係の内紛もあったようだ。
兎に角、1925 (大正14)年に武者小路が離村、そして1939(昭和14)年ダム建設のための土地収用を機に埼玉県に移され、日向の地における試みは終焉するが、実篤が去った後も、結婚した杉山正雄と房子の二人が杉山は50余年、房子は60余年、必死に助け合いながら、二人きりになった村を、特に戦中から戦後にかけて誰からの助けも受けず、ずっと守り続けてきたようだ。
実篤は、新しき村を開村してから、わずか7年で新しき村を離村し、志賀直哉が住む奈良に移ったが、参考※11:「武者小路実篤の章」の章の参には、武者小路実篤の年譜に見当たらない真杉静枝という人物との醜聞記事が見られるという。
巌谷大四の『物語女流文壇史』という著作の中で、真杉静枝という人物の生涯について書かれている中に実篤関連の以下のような記載があるようだ。
「その頃21歳で、大阪の小さな夕刊新聞の記者をしていた真杉(ますぎ)静枝は、大正15年9月のある日、奈良へ行って志賀直哉と武者小路実篤の訪問記事をとってくるように部長から命じられた。彼女は志賀よりも武者のほうが近づきやすいような気がして武者を訪ねた。武者は気軽に彼女の質問に答えてくれ、感激した真杉が『先生、私みたいな者でも作家になれるでしょうか?』という質問に、『もちろんなれるでしょう。あなたは実に純粋な魂をもった人だから、その純粋な魂をそのまま文章に書いたら、立派な文学じゃないかね』と励ました。彼女はすっかり武者に魅せられてしまい、その幸福感を失いたくなくて志賀を訪問するのはやめて・・・・」(中簡略)「わたし、決心したの。どんな事があっても武者小路先生をつかまえるわ。・・・」と「社の男性記者たち(婦人記者は彼女一人だった)に放言した。」そして、「1週間以内ではなかったが、やがてそのとおりになった。」という。
又、巌谷は別の『物語女流文壇史』という著作の中で真杉静枝の生涯について記しており、「いつか二人はずるずると深間に入り、静枝は武者小路に囲われる身となり、東京に移った。二人の関係は数年続いたが、結局、妻子のある公卿あがりの作家である相手は、はじめから静枝を、ただ温情から囲ったのであって、本心ではなかった。次第に武者小路の方から遠ざかって行った。しかし…彼女も初めから相手の文名を利用するつもりだったので、悔いはなかった」・・・と。
そして、林真理子の『女文士』にも「 武者(実篤のこと)はこのころ、男をつくった最初の妻房子を新しき村へ置き去りにして、自分は新村民となった飯河安子と世帯を構え、新聞に四角関係などとはやされています。真杉は奈良の家を訪ねた折に、二人目の子供を生んだばかりの安子に会っています。そんな状況の中で、武者は真杉に熱をあげ、昭和2年、妻子を連れて東京に転居したのちに真杉を呼び寄せ、麹町に一軒家を与えて住まわせます。武者は毎日この家に出勤し、アトリエにした二階で絵を描き、真杉のつくった昼食をとり、夕方にわが家へ帰る生活を続けます。」「しかし、体が弱い安子にはもう何年も触れていないと言っていた武者に第三女が生まれたことを知った真杉は、男の不実さを感じて日向堂の常連客となった帝大生の中村地平に接近します。ある日、二人の関係をかぎつけた新聞記者が隠れ家を襲います。武者はあわてて家の裏から着物の裾を大きく広げて垣根を越えて逃げ出そうとしますが、記者に捕まり、『君、まさか家に行って妻に何か言ったりはしてないだろうね』と叫びます。それを聞いたとき、真杉は妻に未練のある男の正体を実感し、別れを決意するのです。」・・・と。他にもいろいろ書かれている様だ。
これに対して、実篤が触れているものがあるようだ。80歳近くになって『或る男』の続編として著した自伝『一人の男』(※5の資料室>所蔵資料から>館報『美愛眞』9号 より「一人の男」原稿参照)の中に、次の一文が見つかったという。
「ドイツの諺に《終りよければすべてよし》と言う言葉があるが、真杉と僕の関係はその反対で、プラスマイナス零、清算がたちすぎて、死なれた今でも、悪い思い出も別にないがいい思い出もなくなった。二人とも自分の夢に酔って、一番不適当な相手を選んだと言うべきだったかと思う。」
「僕は真杉は新しき村にとって有用な人間になれる素質があると思い、真杉は自分の文学の仕事に僕は役に立つと思っていたらしい。
 しかしそれは間違っていた。少なくも真杉のものの考え方や神経が僕の文学に対する評価の埒外にあった。僕は自分の愛憎で文学の評価をきめる人間ではなかった。これは死んだ者に対して言うべき言葉でないかも知れない。」・・・と、情を交わしたこともあるという女性に対するこの表現はちょっと冷淡ではないでしょうかね〜。

参考※12:「歴史の里:新しき村」の関連サイト“新しき村雑感”にも書かれているように、実篤の「新しき村」からたった7年での離村には、母の病気のこと、村の経済を安定させるために文学活動に専念すること。村の生活が肌に合わないこと。安子と夫婦でありながら妻であった房子と同じ村にいるという人間関係のことなど、いろいろな理由が想像できるが、結局は、武者小路家という子爵の出である彼のある種のわがままからのものであるのだろう。
だから、その後を継いだ世間的には二人の関係でいろいろと悪評も残っているらしい杉山正雄・房子夫婦の地道な努力を私も評価したいと思う。
生前の実篤の書物は5百冊ないしは7百冊を越えるといわれているにもかかわらず、実篤には日本文学史上に残るような名作が残っていない。そんな彼の名作がないのは、「新しき村」の経費を稼ぐために売文家になってしまったたからではないかという声もある。
ただ、そんな実篤がえらかったのは、「新しき村」に対する経済的支援だけは終生続け通したことであり、世間からは桃源郷的な発想に対する批判や揶揄をされても、有島武郎など白樺同人たちからの忠告を受けても、どんなに苦境に立とうとも、実篤は天与の向日的姿勢(陽気な」「明るい」といった性質。実篤の場合、楽天的なという意味にも捉えられる)を堅持した。結局、実篤は作家というより新しき村の求道者として名を残したというべきかもしれない。
実篤の楽天主義、理想主義もまた大正デモクラシーの生み落としたものだった。内心(表に出さない気持ち。心のうち)の要求に忠実に、互いに自己を生かすべく実篤の呼びかけに全国より多くの青年が新しく村に参加した。そして、京都、東京、大阪、神戸、信州、浜松、函館、青森、福岡、横浜、帯広、呉、盛岡などに「新しき村」支部が生まれた。
「新しき村」は、『赤い鳥』とともに大正期(1912〜1926)の思想、文化の有力な反映といえる。
大正期には 「新しき村」 「新しい女」 「新思想」 など、 「新」 という言葉が流行していた。

この「新しき村」 は日本に存在しただけではない。1924(大正13 )年にブラジルサンパウロ州奥地に、「アリアンサ村」という日本人民間移住地が生まれたという。
計画作成の中心となったのは永田稠北原地価造輪湖俊午郎らだったそうだ。
「アリアンサ」とは共同を意味するポルトガル語で、「自治と協同の理想」 を掲げ、組合方式による運営をおこない、選挙によって選出された役員が運営に当たっていたという。当時の日本は大量の移民送り出し国だった。
輪湖は日本に戻ることを前提とした出稼ぎ移民ではなく、民間主導による新しい共同移住地をつくろうと理想に燃えていた。日本からブラジルに移住してきたのは、渡米支援団体の「力行会」(※14参照)というキリスト教団体の人たちが多かったという(※15:「南山城の光芒:第30回南山城の光芒(新聞『山城』の25年)」の第31回〜32回 (13)城南八幡の「新しき村」実篤の思想とアリアンサ移住地(中)参照)。
日本人のブラジルへの移民が始まったのは1908年だが、当時の日本は、明治維新以後の人口の増加、農村の疲弊、失業者の増大という問題を抱えており、その対処策として政府は海外への出稼ぎ移民を奨励していた。当初ブラジルにやってきた日本人移民(日経ブラジル人参照)達は、ブラジルでよりよい人格を形成し、ブラジルに永住して豊かな生活をおくることを目的としていたわけではなく、短期的にお金を稼いで日本に帰国するために行った。
アリアンサ移住地には素晴らしい理念があった一方で、その建設と発展の背景には多くの困難があったようだ。残念なことに、アリアンサ移住地の発展の過程で多くの住民がアリアンサ移住地を離れ、それと同時に、アリアンサ移住地の理念も忘れ去られようとしているという。その中でも、経済活動のみに力点を置くのではなく、文化活動にこそ自らの存在意義を見いだしている弓場農場(※16の中にある”弓場農場に入植して”を参照)には、当初からのアリアンサ移住地の理念が色濃く残っているようだ。
アリアンサ移住地の日系人人口の減少という問題があり、1925年から2005年までの第一アリアンサ移住地の日系人人口の推移をみると、第一アリアンサ移住地では1945年ころまでは人口は増加しているが、それ以降は減少する一方で、2005年では約350人にまで減少している。
アリアンサ移住地では、第二次世界大戦が終わる1945年を境にサンパウロ市などの都市に人口が流出しはじめ、さらに近年では日本への出稼ぎも増加し、アリアンサ移住地のこれまでの歴史を将来に伝える役割を担う若者はますます減少しているようだ。ブラジルのアリアンサ移住地のこともっと詳しく知りたい人は、※16:「ありあんさ通信:移住史ライブラリIndex」を見られるとよい。

今は日本の農村も過疎化しているし、「新しき村」はなお苦戦している。近年、定年で現役をリタイアしたサラリーマンなどが、田舎で農業をしながら、現役時代になかなか出来なかった趣味を愉しみながら余生を過ごしている姿をテレビなどの報道でよく見かける。
現役時代にしっかりと働き、それなりの貯蓄をして、老後にその資金を元に、好きなことをして過ごせる人は本当に恵まれた人達だろう。農業をすると言っても、年金は入るのだし、収入は少なくとも生活に支障をきたすわけでもないからあくせくする必要もない。趣味でやるのだか楽しいことだろう。
しかし、若い人が辺鄙な郷で農業をし、好きな趣味を楽しみに生きるのは、理想としては望ましいが、それを実際にやるとなるとなかなか大変なことだろう。特に結婚をして子供ができると、教育問題や結婚問題など子供の将来を考えなければならなくなるし、自分たちにしても年を取り体が不自由になってくると、病院通いや買い物をするにしても車に乗っていかないとだめな場所で、車に乗れないようになるとそれもできなくなる。
今、不便な郊外に住んでいた高齢者が続々と生活の便利な都市部に移住してきている状況である。
それに、グローバル化した現代において、農業にしても、従来のようなかたちでの保護政策はとられなくなるだろうし、外国からの安い輸入品に対抗できる良い品を安く生産するには、今までのような方法での農業ではなく新しい農業のあり方が求められるようになるだろう。
理想郷(ユートピア)の実現には、ただ一生懸命働くだけではなく、時代にあった新しい村のあり方を築かなければ存続はなかなか難しいのだろうね〜。しかし、どこまでやれるか、頑張っては欲しいものだ。

参考:
※1:宮崎県HP
http://www.pref.miyazaki.lg.jp/contents/org/somu/somu/bunsho/index.html
※2:新しき村公式サイト
http://www.atarashiki-mura.or.jp/
※3:近代デジタルライブラリー - 我宗教
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/825352/89
※4:近代デジタルライブラリー - 我懺悔
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/899793/24
※5::調布市武者小路実篤記念館
http://www.mushakoji.org/index.html
※6:白樺文学館
http://www.shirakaba.ne.jp/index.htm
※7:第12号−武者小路実篤『世間知らず』『友情』に見るジェンダー観
http://gender.jp/journal/no12/05-02-sasaki.html
※8:新しき村余録(上)(Adobe PDF)
http://www.seijo.ac.jp/pdf/falit/050/050-02.pdf#search='%E7%99%BD%E6%A8%BA+%E6%96%B0%E3%81%97%E3%81%8D%E6%9D%91%E3%81%AB%E5%B0%B1%E3%81%A6%E3%81%AE%E5%AF%BE%E8%A9%B1+%E9%9B%91%E8%AA%8C%E6%96%B0%E3%81%97%E3%81%8D%E6%9D%91'
※9:武者小路実篤::日向新しき村を訪ねて
http://www.geocities.jp/kenyalink365/atarasiki_mura/atarasiki_mura.html
※10:第15回 吉田璋也の流儀(2)
http://homepage2.nifty.com/teiyu/leaflet/nakayama_0505.html
※11:武者小路実篤の章(壱〜参迄)
http://blogs.yahoo.co.jp/yuzan9224/33691023.html
※12:歴史の里:新しき村
http://nanjaroka.jp/siseki/atarasikimura/index.html
※13:真の友情とは?
http://blogs.yahoo.co.jp/bgytw146/31599626.html
※14:財団法人日本力行会について
http://www.rikkokai.or.jp/main/index.html
※15:南山城の光芒:第30回南山城の光芒(新聞『山城』の25年)
http://www.rakutai.co.jp/etc/yamashiro/file/030.html
※16:ありあんさ通信:移住史ライブラリIndex
http://www.gendaiza.org/aliansa/lib/index.html
「武者小路実篤」作家略歴
http://www.gm2000.co.jp/profile/mushaname.html
セザンヌ - 大原美術館
http://www.ohara.or.jp/201001/jp/C/C3a14.html
武者小路実篤 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E8%80%85%E5%B0%8F%E8%B7%AF%E5%AE%9F%E7%AF%A4

かきフライの日

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日本記念日協会の今日・11月21日の記念日に「かきフライの日 」があった。
香川県三豊市に本社を置き、各種の冷凍食品の製造販売を手がけ、全国の量販店、コンビニ、外食産業などに流通させている株式会社「味のちぬや」(※1)が制定したもの。「海のミルク」と呼ばれ、栄養価の高いかきを多くの人に食べてもらうのが目的。日付はかきのシーズンとなる11月。そして21を「フ(2)ライ(1)」と読む語呂合わせから。・・・だとか。
同社のHP を見ると、今日の記念日の他、3月7日メンチカツの日、5月6日コロッケの日、9月4日串の日、10月1日とんかつの日、11月4日かき揚げの日なども記念日登録している。私はこのうち、3月7日の「メンチカツの日」もこのブログで取り上げた(ここ参照)ので、これで同社関連のブログを書くのは2回目ということになる。
「メンチカツの日」でも書いたが、冷凍食品は水分や油脂が凍結・凝固する程の低温にすることで微生物の活動を抑え、長期間にわたって保存できるのが特徴である。
近年は少子高齢化や個食化等の社会環境の変化に伴い、冷凍食品の売り上げは順調に伸びているようだ。
冷凍食品の消費量は1969(昭和44)年7,8217トンであったものが、2012(平成24)年には280,313トンへと増加しており、その前年の2011(平成)23年度280313トンに比較しても約14%も増加ている(※2参照)。
最近は、スーパーの冷凍食品の売り場に行けば、電子レンジで調理してそのまま食べられるなんて製品は山ほど売っている。
それに最近は電子レンジの スチームで食品の乾燥を防ぎながら温めるスチーム温め機能を利用すればラップを使わずにしっとり温められるので総菜売り場などで買ってきた一度上げたフライ物でも美味しく食べられるので便利になったものだ。
ただ、余談だが、このような食品のことを書いていると嫌なことを思い出す。
ヨーロッパで「牛肉100%」のはずの冷凍バーガーから馬のDNAが見つかったことを契機にこの春ごろから欧州が「食品偽装スキャンダル」に大揺れだった(※3参照)が、日本でも数年前にミートホープという会社が冷凍食品偽装(牛肉ミンチの品質表示偽装事件参照)で問題になっていたが社長が記者会見して,「安いものを求める消費者も悪い!」と消費者批判をして顰蹙を買っていたが、その後も食品偽装が絶えない(※4参照)。
今度は、阪急阪神ホテルズで運営する4都府県のホテルやレストランで、メニューに「鮮魚のムニエル」と書かれているものに、実際は冷凍した魚を使うなど表示と異なる食材を使用してお客に料理を提供していたことが判明。その後の調査で、「ザ・リッツ・カールトン大阪」(大阪市北区)でも記載と異なる食材が使用されていたことが分かるなど、食材表示をめぐる問題は、日本を代表する名門ホテルにも波及している。
2020年に開催が予定されている東京オリンピックでの日本の『お・も・て・な・し』は、こんなことで良いのだろうか?
このような、偽装ビジネスは中国製だけではなく、あらゆるところで行われているようだ。コスト削減のみを追求する、グローバル経済の深刻な問題点だ。
ただ、一流ホテルで、冷凍した魚を使って「鮮魚のムニエル」だと言われて、さすがは、一流ホテルのものは美味しいと満足していた人が多かったということだろうから、人の口など当てにならないものだと思うし、また、裏を返せば、それだけ今時の冷凍技術が向上し、冷凍物の品質も良くなっているのだと言えなくもない(※5参照)。
事実我が家のような年寄り夫婦二人だけの生活では食事の量も少ないので、フライ物でもなんでも余分に作ったものはきっちりと冷凍保存しておけば、後にそれを食べても最初に作ったとさほど味は変わらないものも多い。だから、既成の冷凍食品も大いに利用したいが、加工し、衣をかぶせたフライ物など、その中身は見えないの気になるところであり、表示だけは正直に正確に書いて欲しいものだ。
今まで信用の高かったホテルなどのレストランで、明らかに食品の表示偽装と思われるものでも、白々と誤表示だと答弁していた社長連中が許せない。
先日の朝日新聞・天声人語にも、”どうせ味はわかるまいと客を見くびっていたのだろう。「偽る」とは真実を隠し人をだますことであるが、「欺く」という言葉もある。嘲(あざ)笑にも通じるらしいが、相手を馬鹿にして操るという意味が加わるらしい。今回いやな感じがするのはこの点だ。”とあったがまさにその通りである。あまり、客を見くびったことはしない方が良いだろう。
少し腹が立っているので、ちょっと、横道にそれてしまったが、本題の牡蛎の話に戻ろう。

言わずと知れたことだが、カキフライとはカキを材料とする揚げ物料理(フライ)の一種である。
「カキ」(牡蛎、牡蠣、英名:oyster)は、軟体動物門二枚貝綱(斧足類ともいう)イタボガキ科に属する二枚貝の総称(※6参照)である。
「カキ」の名は、海の岩から「掻(か)き落してとることからと言う説が有力な様である。
又、「カキ」の字は漢字で「牡蠣」また、「牡蛎」と書くが、正式には、「牡蠣」であり、「牡蛎」の「蛎」は「蠣」の簡体字である。「蠣」また「蛎」この1字で「カキ」」を意味しているにもかかわらず、そこに「牡(オス)」の字がついたのは、古く中国においては、カキ(牡蠣)には牡(オス)しかいないと思われていたからだそうだ。
「牡蠣」は、ヨーロッパヒラガキ(※2のここ参照)のように1つの体に卵と精子を持つもの(卵胎生雌雄同体)か、マガキ(※6のここ参照)のように卵と精子を別々に持っているもの(雌雄異体)があるが、マガキのように、今年は雄で精子を持っていても、翌年は雌にかわり卵を持つようになったり、その逆の場合もあり、このように雄と雌が年によって性転換する(同一固体に雌雄性が交替に現れる卵生)かであり、外見上の生殖腺が同じであるために、全て「オス」に見えたからだといわれている。

牡蛎は波の静かな内湾や、内海の河口に近い干潮線(干潮時の海面と陸地との境界線。潮汐参照)付近に生息しており、このカキを人類が食べるようになったのは有史以前といわれている。
日本では、縄文時代の貝塚から、牡蛎の貝殻がたくさん発見されており、古事記にも軽皇子に献った衣通王の歌にその名が出てくる。
「夏草の あひねの浜の 蠣貝(かきがひ)に 足踏ますな 明かして通れ」(古事記:衣通王の歌。※7 参照)
【通釈】逢って寝るという名の「あひね」の浜は、牡蠣の貝殻がたくさん落ちていますよ。踏んでお怪我をしないように、夜が明けてから通りなさい。
このことことからみても、わたしたちの祖先が、牡蛎をかなり好んで食べてきた歴史がうかがわれる。
牡蛎の種類は多く、世界中で約100種類、日本近海でも、20種類以上あり、日本では最も一般的な種であるマガキ(真牡蠣。広島県、宮城県、三重県産など)の他、シカメガキ(八代海や有明海、福井県久々子湖産など)、スミノエガキ(住之江牡蠣。有明海沿岸)、イワガキ(岩牡蠣。マガキと対照的に夏が旬)、イタボガキ(板甫牡蠣。能登半島や淡路島周辺産)、ヨーロッパヒラガキ(別名:ヨーロッパガキ。市場ではフランス牡蠣、ブロン、フラットなどとも呼ばれる。気仙沼市産)などがよく知られている。

牡蛎は日本全土の近海に生息しているが、現在、国内で食用として一般に出回るものの殆どは「マガキ」であり、また、その殆どは養殖のカキである。
牡蠣にはグリコーゲンのほか、必須アミノ酸をすべて含むタンパク質カルシウム亜鉛などのミネラル類をはじめ、さまざまな栄養素が多量に含まれるため、ヨーロッパでは、牡蛎を「海のミルク」といい、哺乳類動物の乳に匹敵するほど、栄養価の高い食品として、昔から珍重され、歴史上の様々な人物をとりこにしてきたようだ。
たとえば、ジュリアス・シーザーが、イギリス遠征を行ったのは、テムズ河口の牡蛎を手に入れるのが最大の目的だったという話があるほどだという。また、ルイ14世も牡蠣が大好きで、ヴェルサイユ宮殿カンカル(Cancale)産カキを取り寄せていたという。そして、古代ローマ時代には、既に簡単な養殖も行われていたという。

現在日本は、中国、大韓民国に次ぐ世界第3位の生産量となっており、日本の中で牡蛎の生産量が一番多いのは広島県であり、日本のカキの約66%(23年)が生産されている(※8参照)。
日本でも長い間、岩や石についている天然の牡蛎をとって食べていたが、室町時代の終わり頃(天文年間=1532〜1555年)に初めて広島湾で牡蛎の養殖が始まったようだ。
このことは、1924(大正13)年に広島県の草津村役場が発行した草津案内に「天文年間、安芸国において養殖の法を発明せり」と書かれているそうだ。
その当時は原始的な方法で、干潟に小石を並べて、牡蛎を付着させて生育を待って収穫する方法だったようだ。その後、竹や雑木を干潟に建て、牡蠣を付着させて成育するやり方などを経て、現在の干潟の棚ではなく、筏(いかだ)に連をぶら下げ、成育を待って収穫する養殖法(筏式垂下養殖法」へと大きく進歩し、それにつれて生産量も飛躍的に伸びてきた(※9参照)。
かって、大阪の名物の一つに川筋に船をつなぎ牡蛎料理を出す「牡蠣船」が賑わった。
『摂津名所図会大成』(暁鐘成著、1855年)によると、「芸州草津浦から20余艘、同仁保島から15艘が10月中旬に入津し、年来の馴染の浜に船をつなぎ、川岸に小屋をしつらえ、此所で蠣を割って商う」とあるそうだが、江戸中期(延宝元年=1673年)ころ大坂に、安芸佐伯(あきさえき)郡草津村(現在の広島市)の小西屋五郎八が、養殖牡蛎の販売を求めて進出したのが最初といわれている(※10、※11参照)。
晩秋になると、広島方面で大量に養殖された牡蠣を積んだ「かき船」が土佐堀堂島道頓堀をはじめとする十数か所以上の堀川に停泊し、牡蠣の販売や、船上で牡蠣尽くしの料理をふるまったという。
明治時代には客が桟橋を渡って船に入るようになっていたが、その入口で紺絣(こんがすり)に赤(あかだすき)をかけた娘たちが牡蛎の殻を割る風景がみられたという。
従って、俳句の季語も「冬」。高浜虚子の以下のような句もある(※12 参照)。
「牡蠣船の薄暗くなり船過ぐる」
当時は牡蠣船もこの10月から大阪にやってきて、3月末になると船とともに広島に帰っていたが、のちには年中営業するものが多くなったようだ。しかし、川の汚濁や臭気のため、年々その姿を消していった。
今では、大阪市中央区北浜3-1-25、 淀屋橋南詰に「かき広」という牡蠣船が1軒のみ。

●上掲の画像が牡蠣船「かき広」である。当時の名残が偲ばれる(※13参照)

牡蛎を日本では主としてカキフライのような揚げものや、鍋物の具にして食べるほか、新鮮なものは網焼きにしたり生食したりするが、魚介類の生食文化のなかった欧米でさえ、カキは好んで生で食べられているようだ。
フランス有数の牡蠣の産地、カンカル(Cancale)では生牡蠣の屋台は冬の風物詩ともなっており、欧米には多くのオイスターバーがあり、豊富な種類の生牡蠣を、数種類の味付けで食べさせてくれる。
このフランス人が愛する牡蠣が実は日本の牡蠣の子孫であることはあまり知られていない。
1960年代にフランスの牡蠣が病気で絶滅しそうになり、日本の宮城県からマガキを輸入した。日本の牡蠣は病気に強く良く育ち、現在フランスで食べられている牡蠣のほとんどが日本の牡蠣の子孫なのだという(※14参照)。

欧米では、英語でRのつかない月(September、October、November、December以外)には牡蛎を食べるなと言われているが、日本でも同じように「桜が散ったら牡蛎を食べるな」と言われている。
これはちょうど、5月から8月にかけてが産卵期に当たり、精巣卵巣が非常に増大し、味が悪くなる上に中毒を起こしやすいためである。
日本で、一般に牡蛎として認識されているマカキの旬は、10月から3月で、この時季には体に栄養を蓄えるため、グリコーゲンの量がもっとも多く、風味もよくて、栄養価も高くて一番の食べ頃であるが、春から夏に旬を迎える「ナツカキ」とも呼ばれるイワガキの種もあり、それぞれ養殖も盛んであることからマガキに限らないならば通年食べることができる。また、産地によっては、水温などの条件により旬が変わることもある。

牡蠣には豊富な栄養素が含まれ、肝機能を強化する働きや貧血症に悩む人には強い味方となる食材でもあるが、この牡蠣が冬場に発生する食中毒の中で最もウイルス性食中毒を発症する可能性が高い食材なのだとか・・・。.
実際に生牡蠣による食中毒が発生するのは毎年生牡蠣が市場に多く出まわる冬場が多くのケースを占めている。食中毒を起こす可能性を持つ食材は牡蠣に限らず貝類、特に二枚貝に多いが、この中で牡蠣の場合は生で食する習慣のあることが食中毒の発症率を高めているひとつの要因のようだ。

牡蠣などが生息しいる水がノロウイルスに汚染さると、その汚染された海水に貝類は常にさらされていることになる。
カキなどの二枚貝は大量の海水を取り込み、プランクトンなどのエサを体内に残し、出水管から排水しているが、海水中のウイルスも同様のメカニズムで取り込まれ体内で濃縮される。
いろいろな二枚貝でこのようなウイルスの濃縮が起こっていると思われるが、二枚貝を生で食べるのは、主に冬場の牡蛎に限られており、そのため、冬季にこのウイルスによる牡蛎の食中毒の発生が多くなっていると考えられている。
牡蛎には「加熱用」と「生食用」があるから、「生食用」なら大丈夫かというとそうではないようだ。 「生食用」とは細菌の量によって決めているので、このウイルスが含まれていないという保証ではないようだ。
又、新鮮なうちに食べれば大丈夫なのでは・・? と思う人がいるようだが、保存方法が悪いから貝の中で増えるというものではなく、新鮮なものでも食中毒になる恐れがあるのだという(詳しくは※15参照)。
創業140余年、広島牡蛎の草分でもあり、現在牡蠣船も営んでいる「かなわ」(※16参照)では、広島の沖合約30kmの瀬戸内海でも屈指の透明度を誇る清浄海域、大黒神島沖の筏で育成採取された牡蠣を生色で提供しているという。
大黒神島は無人島で、生活廃水に汚染されていない安全な海域でありその沖の海域は、広島県指定の生の食用牡蛎採取指定海域の中でも特に水のきれいな所と云われており、それだから、ここで獲れた牡蠣は安心して生で食べられるのだという。
だから、生の牡蠣を食べるためには、どこでとれた牡蠣かが一番大切なことなのだろう。食べさせてくれるところの云うことを信じて食べるより仕方ないのだが、ここの所の一流ホテルのようにな偽装問題があると、ちょっとどうしてよいかわからないし困ったものだよね〜。
兎に角、買ってきた牡蠣を家で食べる際の調理のポイントは加熱と加熱時間だという。
生牡蠣の内部に蓄積したノロウイルスは熱に強い耐性を持っており、ウイルスを駆除するには不活化(ウイルスなどの感染力や毒性を失わせることについていう)する温度までしっかりと加熱(中心温度が85度以上の状態で1分間以上加熱)を続けることが大切だ。子どもや年配者などの抵抗力の弱い人は特に注意が必要だろうね。
豊かな海はおいしい牡蛎を育てるが、牡蛎は自然環境に影響を受けやすい。食中毒の心配から加熱した料理「カキフライ」が誕生した。
カキフライが初めて作られた時期・発祥は諸説あるようだが、lフランス料理店を営んでいた木田元次郎(煉瓦亭)は庶民が食べられる洋食を次々と考案した。
トンカツのルーツともなったカツレツを作り、その後カキフライに辿り着いたとも言われている。こうして誕生したカキフライは当初、フランス料理風にタルタルソースで食べられていたが、後にウスターソース、そして口をサッパリさせるためにレモンが添えられるようになったという(※17参照)。
そういえば、銀座・煉瓦亭はオムライス発祥の店としても知られているが、現在NHK朝ドラ「ごちそうさん」の主演め以子()の父親卯野 大五(原田 泰造)が経営している開明軒は、本格派フランス料理店を自負していたが、大衆に親しみやすい「洋食屋」に業務を切り替え、オムライスの発祥の店となったとしているが、ひょっとしたら、銀座・煉瓦亭がモデルか・・・なんて考えながら見ているのだが・・・。
カキフライは、洋食店のメニューだけでなく、カキフライ定食などの形で、和食店や喫茶店で供されることも一般的である。
牡蛎の生食が普及している欧米ではフライで供する料理方法は一般的ではなく、「カキフライ」は日本が元祖であることに関しては間違いないようである。
中国では広東料理などでイワガキなどはフライにせず、天ぷらにして食べるようだ。
これからの季節、牡蛎はカキフライの他牡蠣の土手鍋や、グラタン、ソティー、チュー、酢牡蛎、生色等いろいろ食べ方はあるが、やはり、カキフライが一番合っていると思う。
私も牡蛎は大好きであり、若いころから今まではカキフライを一番好んでいたが、最近は、メタポのこともあり、油ものは極力食べないようにしているので、今の食べ方としてはソテーが多い。鉄板で目の前で焼きながらレモン醤油で食べるのが一番好きだ。
参考:
※1:味のちぬや
http://www.chinuya.com/
※2:日本冷凍食品協会
http://www.reishokukyo.or.jp/statistic
※3:欧州が震撼中!食品偽装スキャンダル:日経ビジネスオンライン
http://business.nikkeibp.co.jp/article/topics/20130304/244448/
※4:食品会社 偽装の歴史
http://www.news88.net/giso/
※5:水産新聞 : 冷凍品価値向上へ、進化する凍結技術
http://www.suisan.jp/features/002218.html
※6:貝類図鑑・二枚貝 市場魚貝類図鑑
http://www.zukan-bouz.com/zkanmein/2mai.html
※7:軽大郎女 千人万首
http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/karuira.html
※8:「平成25年度広島かき生産出荷指針」について - 広島県ホームページ
https://www.pref.hiroshima.lg.jp/soshiki/88/syukkasisin.html
※9:広島牡蠣養殖の歴史 -中野水産
http://www.nakanosuisan.net/muscat2b/
※10:かき船の歴史 - 広島で牡蠣・焼き牡蠣小屋|島田水産 -
http://simadasuisan.hiciao.com/c_TdsSMNdL.html
※11:出雲の鰻が大坂へ - 海洋政策研究財団
http://www.sof.or.jp/jp/news/101-150/142_3.php
※12:十八 - 高浜虚子の俳句冬の句
http://www5c.biglobe.ne.jp/~n32e131/haiku/kyoshihuyu17.html
※13:かき広
http://nttbj.itp.ne.jp/0662311891/index.html
※14:フランスの牡蠣が大量死滅 日本産稚貝の緊急輸入: うるわしのブルターニュ
http://bretagne.air-nifty.com/anne_de_bretagne/2011/01/post-54fe.html
※15:ノロウイルスに関するQ&A|厚生労働省
http://www.mhlw.go.jp/topics/syokuchu/kanren/yobou/040204-1.html
※16:かなわ
http://www.kanawa.co.jp/
※17:食彩の王国#16 『牡蠣』
http://www.tv-asahi.co.jp/syokusai/contents/contents/0017/
広島かき_生態_広島市水産振興センター
http://www.suisansc.or.jp/kaki_seitai.html
水産海洋技術センター:広島かき話
http://www2.ocn.ne.jp/~hfes/kakitop.html
牡蠣:漢方・中医学用語説明(生薬)
http://www.hal.msn.to/kankaisetu/chuyaku112.html
大阪府/ノロウイルス食中毒のQ&A
http://www.pref.osaka.jp/shokuhin/shokutyuudoku/noro.html
牡蛎のレシピ 3845品 [クックパッド] 簡単おいしいみんなのレシピが157万品
http://cookpad.com/search/%E7%89%A1%E8%9B%8E
カキフライ - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%82%AD%E3%83%95%E3%83%A9%E3%82%A4
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